聖書:列王記上17章8–16節, マタイによる福音書14章13–21節
成宗教会が東日本連合長老会に加盟する以前には、礼拝で旧約聖書のみ言葉を中心的に取り上げることはなく、新約聖書が中心に説教をしておりましたが、東日本の一員となってからは、毎週旧約聖書と新約聖書の両方から聖句を取り上げるようになりました。これは、聖書の一体性を表すためであります。すなわち、旧約聖書も新約聖書も救い主イエス・キリストを証言する神の言葉であるからです。
そういう訳で今日の旧約聖書は、列王記上17章を読んでおります。教会ではクリスマスの時期になると、洗礼者ヨハネの物語も伝えられます。ヨハネは、救い主の到来に備えて道を整えるために遣わされました。そしてイエスさまは、洗礼者ヨハネについて、預言者エリヤが再来したのだとほめられたことがあります。そのエリヤが今日読んでいただいた聖書に登場するエリヤであります。
神さまはエリヤの時代に地上に飢饉を送りました。イスラエルの王アハブが神さまに甚だしく背いたからです。神さまの怒りは燃え上がりました。そこで神さまはエリヤをアハブ王に遣わして飢饉を預言させました。それから、エリヤはイスラエルの地を去り、外国の地シドンに行きました。神さまがそこに行きなさいと命じられたからです。行ってみると一人の女の人が薪を拾っていました。エリヤは水とパンをくださいと頼みましたが、その人は貧しいやもめだったのです。彼女は答えました。
「あなたの神、主は生きておられます。わたしには焼いたパンなどありません。ただ壺の中に一握りの小麦粉と、瓶の中にわずかな油があるだけです。わたしは二本の薪を拾って帰り、わたしとわたしの息子の食べ物を作る所です。わたしたちは、それを食べてしまえば、後は死ぬのを待つばかりです。」今の時代に生きるわたしたちはこのような窮乏を想像することができません。しかし、日本でも戦争の最中に、また直後に、餓死した人々は少なくなかったのです。戦争で攻める者も、攻められる者も、多くの犠牲者が出ますが、その死者の多くが飢え死にであったのではないでしょうか。ここに一人のやもめがいます。夫は死んで、息子と自分が後に遺された。しかし、雨は降らない。作物はできない。死がまじかに迫っていました。
そんな人に向かって、「わたしに水とパンをください」などとはとても言えないのが普通でしょう。ところがエリヤは言いました。「ください」と。「まず、わたしのためにください」と。なぜなら、イスラエルの神さまである主はこう言われるからです、と。「主が地の面に雨を降らせる日まで壺の粉は尽きることなく、瓶の油はなくならない」と。エリヤは自分の仕える神さまのお名前を明らかにして、神さまの言葉を伝えたのです。すると驚いたことに、外国人の女の人はその通りにしました。彼女はエリヤを預言者であると信じたからです。そしてエリヤを遣わされた神さまの言葉を信じたからです。するとそのお言葉どおりのことが起こりました。そこで、この名もない女の人のことがエリヤと共に聖書に書かれ、伝えられるようになったのです。こうして聖書は証ししています。神さまの御言葉が信じられるとき、そして神さまのお言葉に人が従うとき、正にその時、神さまのお言葉が本当になると。
イエスさま御自身も、このエリヤの物語を人々に語られたことがあります。それはルカ福音書4章25節、26節です。「エリヤの時代に三年六カ月の間、雨が降らず、その地方一帯に大飢饉が起こった時、イスラエルには多くのやもめがいたが、エリヤはそのだれのもとにも遣わされないで、シドン地方のサレプタのやもめのもとにだけ遣わされた。」当時のイスラエルの人々の信仰は大変民族主義的でした。神さまはイスラエルを救ってくださると信じていました。イスラエル第一主義でした。それで、イエスさまのご指摘に腹を立てたのです。イエスさまは神さまがシドン地方のサレプタという、外国の地で外国人だけを助けたと言われたからです。それはイスラエルの中の、何とイエスさまのお育ちになられた町での出来事でした。人々は怒りのあまり、イエスさまを崖から突き落とそうとしたと言われます。
イエスさまは神の民であるイスラエルの中に生れ、人となられました。しかし、神さまの御心はアブラハム、イサク、ヤコブの子孫によって、アブラハムの子孫が救われることだけにあったのではありません。神さまの御心はアブラハム、イサク、ヤコブの子孫によって、全世界が救われることだったのであります。自分を中心に考える人々は、神さまの広いお心が全く理解できなかったのでしょう。しかし、「自分を中心に考える人々」と、わたしたちはまるで他人事のように言う時に、では私たちはそうではないと言うことができるのでしょうか。人は皆、他の人のことを考える余裕がなくなっています。自分のことで精いっぱい。まして、遠い国の人のことを考えるゆとりなど無く、日々の暮らしに追われているのではないでしょうか。そして、ついには近隣の人々でも、隣人のことでも、「人のことは知ったことではない」と言わないばかりに生きているとしたら、真にそれこそが貧しい生き方であり、それを通り越して、醜い生き方をさらしているのです。
しかし、このような人の世の貧しさ、更に醜さをご覧になっている方がおられます。それは天の父なる神さまです。そしてこの方を「天のお父さん」と呼びなさいと教えてくださったイエスさまなのです。今日はマタイ14章を読んでいただきました。13節。「イエスはこれを聞くと、舟に乗ってそこを去り、ひとり人里離れた所に退かれた。しかし、群集はそのことを聞き、方々の町から歩いて後を追った。」この物語の直前に語られているのは、洗礼者ヨハネが殺された、という記事でした。多くの人々が尊敬していた預言者を惨殺したヘロデ王の悪行は人々をどんなに悲しませ、失望させたことでしょう。
それを聞かれたイエスさまは静かな所に退いて一人になりたかったことと思います。イエスさまは人としてたくさんの働きもなさった結果、大変お疲れになり、休息が必要でした。またヨハネが捕えられたからには、ご自分も不用意に捕えられないように用心しなければなりませんでした。そして何よりも主は十字架への道を進んで行くにつれ、人に会う前に、神さまと共に過して祈る時が必要なことを感じられたことでしょう。
ところがイエスが舟から上がってみると、そこには大勢の群衆が待っていました。彼らはイエスさまの後を追って方々から歩いて来たのでした。その人々の有様を見てイエスさまはどうお感じになったでしょうか。疲れていらしたに違いなかったのですが、イエスさまは彼らの姿に深い憐れみを覚えられたのです。同じ場面がマルコの福音書に記されていますが、そこでは、群衆が飼い主のいない羊のような有様を深く憐れまれたと言われています。その憐れみ、深い同情こそは、イエスさまをお遣わしになった天の父の御心そのものであったのです。
イエスさまはお疲れも忘れて、人々に教えを与えられ、またその中の病気の人々を癒されました。ここには同じイスラエルの地に生きている人々の中で、全く別の人々が描かれています。すなわち、一方では自分たちこそ救われるべき神の民と思い、外国人を軽蔑しているので、エリヤが外国の女性を救った話に怒り、イエスさまを殺そうとする人々がいるかと思えば、他方ではここに描かれているように、イエスさまには神さまの御力がある、救いがあると信じて、ただ一心に後をついて来る人々がいるのです。どちらに祈りがあるでしょうか、救いが与えられるでしょうか。答は誰にでも明らかではないでしょうか。
イエスさまはしばらくの間、群衆から離れたいと思われたのですが、ご自分の願いを放棄されました。そして人々が家を離れ、御自分について来ようとする様子を、飼い主のない羊のように御覧になり、憐れんで、彼らが長い道のりを歩いて家に帰る前に食べる物を与えられたのです。こうして、イエス・キリストは魂を養うために働いて来られたのですが、今や御自分の羊飼いとしての務めを、羊の魂の養いばかりでなく、身体の養いにまで拡大してくださいました。このことによってわたしたちは確信することができるのです。それは、もしわたしたちが、イエスさまの教えに従って、神の国とその義を求めるならば、天の神さまはその他のものをも加えて与えてくださるという確信です。
今もイエスさまは、飼い主のいない哀れな羊を天から御覧になっておられるのではないでしょうか。そして、もしわたしたちが自分の欠乏を知り、日々私たちに必要なもの、自分たちに無くてならないものがあることを知っているならば、そしてもし、わたしたちに必要なものが満たされるようにと、願い求めるならば。そして、何よりも、わたしたちに必要なもの、なくてならないものを持っておられる天のお父さまを知っているならば、わたしたちにはイエスさまの執り成しによって、主の祈りが与えられているのです。
しかしわたしたちは、天の父がわたしたちの必要を知っておられると本当に信じているでしょうか。わたしたちは、天の父がわたしたちに一番良いものをくださろうとしておられることを知っているでしょうか。わたしたちは自分の弱さのために、神さまの広い心、深い慈しみを思い見ることができません。与えられている現実に満足せず、もっと良いことがあるはずだと思うあまり、与えられているものを感謝して受けることが疎かになってはいないでしょうか。また、わたしたちは自分の弱さのために、わたしたちの必要を満たしてくださる神さまを待ち望む忍耐が足りない者です。すぐに不安になる。すぐにあきらめてしまう。自分が思うような結果が見えて来ないと、簡単に絶望してしまうのです。
しかし、このようなわたしたちの現実の中にも、いや、このようなわたしたちだからこそ、神さまの深い慈しみは現れました。成宗教会の小さな群れにも、いのちの糧は与え続けられて来たことを思います。イエスさまは今は天におられ、教会に牧師を立てて、長老を立てて、御言葉の糧を与え、教会の群れを養い続けておられます。一人一人の働きは拙く、イエスさまのお弟子たちもそうであったように、疲れ果て、不安でいっぱいになった時も度々あったのです。しかし、イエスさまの弟子たちはイエスさまがパンを取って讃美の祈りを捧げて、渡してくださったそのパンを人々に分け与えた時のように、私たちもこの小さな群れの中で礼拝を捧げ、日々、いのちの糧を分け与えるささやかな務めを果たして参りました。これからもそうでありますように。
今、教会に新しい教師が与えられ、牧師として立てられようとしています。わたしたちの祈りが聞かれているのです。その祈りは、いのちの糧を求める祈りです。わたしたちの日毎の糧を今日も与えてください、という祈りです。これは、パンを求める祈りですが、パンそのものだけを求めているのではない、ということを私たちは知っています。わたしたちに必要なものすべてを求めているのです。しかし人間は自分に本当に何が必要なのかが、分からないということがしばしばあります。
幸いなことに、わたしたちは私たちに必要なものを知っておられる方を知りました。それはイエス・キリストです。この方を信じていのちの糧を求める時、文字通り、身体を養う日毎の糧も、生きるために必要なすべても、そしてわたしたち自身が知らない大切なものも、神さまは備えてくださり、お与えくださることを信じましょう。今週水曜日から受難節に入ります。右も左もわきまえないような弱い者、いつの間にか神さまの許から離れ去り、背き去ったことにも気がつかないようなわたしたちをご覧になって深く憐れんでくださる主を思い起こしましょう。主はこのような罪人の救いのために十字架に掛かり、わたしたちを贖って、ご自分のものとしてくださいました。教会は主イエス・キリストの体です。主に結ばれて、主の祈りを祈りましょう。
今日のカテキズムは問60です。「主の祈りは第四に何を求めていますか。」そして答は、 「わたしたちの日毎の糧を今日もお与えください」です。神さまは私たちに必要なものをすべてご存知であり、わたしたちを生かし、養ってくださるお方です。だから神さまにすべてを求め、委ねます。」祈ります。
恵み深き天の父なる神さま
尊き御名を讃美します。あなたは御子イエス・キリストにより贖いの業を成し遂げて、不滅の命を表してくださいました。わたしたちは、その計り知れない御業の偉大さを十分理解することができない、真に罪深い者ですが、主は今もわたしたちのために執り成してくださり、主の教会の肢として救いに至る道を日々整えてくださることを感謝します。今日のみ言葉によってあなたの教えを深く心に思い、ただあなたに対する信頼を持って心からいのちの糧を求める者とならせてください。
三月に入り、受難節を迎えようとしている今、成宗教会は新しい先生方をお迎えする準備を進めています。いたりません所をあなたが整えてくださり、弱いわたしたちを励まして新しい年度に感謝をもって向かわせてください。赴任なさる藤野雄大先生、美樹先生を励まし、皆が心を一つにして支え会うことができますように。成宗教会の新しい時代に向けて扉を開いてください。
どうか心身共に弱い者を助け、高齢の教会員を慰めてください。今、礼拝に来ようとして来られない方々、大きな悩みにある方々を顧みて恵みをお与えください。
本日行われる長老会議の上にも聖霊の主の恵みのご支配があり、御心を行ってくださいますように。また、今日は聖餐に与ります。どうぞ、あなたの聖霊のご支配によって与らせてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。