2019年1月号

「知恵と知識の宝はすべて、キリストの内に隠れています。」

新約聖書、コロサイ2章3節

このお便りは、なりむね教会からのメッセージです。キリスト教会は神様の愛について学び、伝えます。子供さんも大人の方も、読んでいただければ幸いです。


並木邦夫先生のお話

(これは昨年10月7日の礼拝で話されたものです。)

聖書:コリントの信徒への手紙(一)15章1~11節

「もっとも大切なことは」

並木邦夫

皆さんはいつもこの教会学校の礼拝で主の祈りを一緒にお祈りします。大人の礼拝では、この主の祈りに引き続いて「使徒信条」を一緒に告白します。8月の子供と大人の合同礼拝の時に皆さんも一緒に唱えましたね。この使徒信条は昔から世界中のキリスト教徒がずっと一緒に唱えてきたものです。難しいことばが一杯並んでいますが、教会の信仰を信じる人々が最も大切にすることが書いてあります。

皆さんは地図を知っていますね。地図はどういう時に使いますか?行先が判らない時に地図を見ながらたどって行くと、目的の場所に着くことができます。昔は山に登ったりする時には五万分の一の地図を使いました。地図とコンパス(磁石)があれば、安全な道を探して目的の頂上まで行くことが出来ます。また、昔は星の位置と、やはりコンパスを使って航海していました。

今では人工衛星を活用して、自分の位置をスマホが確認してくれますから、Google地図を呼び出せば、簡単にどこにでも行けるようになってしまいましたね。それでは、私たちが毎日生活したり、生きて行く上での地図やコンパスは何でしょうか。特に、神様に従って生きて行く私たちにとって、一番大切なことは何でしょうか。

私たちはこうして聖書を読んでいます。とても厚いし、難しい言葉も沢山あるので難しいな、と思うかもしれません。今日の聖書の箇所ではパウロは「最も大切なこと」として、「キリストが聖書に書いてある通り私たちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また聖書に書いてある通り三日目に復活したこと、ケファに現れ、その後12人に現れたことです。」とあります。イエス様が十字架で死なれたこと、そして三日目によみがえられたこと、これが一番大切なことと言っています。ですから、私たちにとっての地図やコンパス、生活のよりどころと言っても良いと思いますが、大切なことはこのことです。

それでは、どうしてイエス様が十字架で死なれて、三日目によみがえられたのが最も大切なのでしょうか。イエス様が十字架にお掛かりになったのは、私たちのためです。神様の教えから離れて、自分勝手に生きてしまっている私たちに替わって、私たちの罪を全部背負ってイエス様は死んでくださいました。そして三日目に復活して罪に打ち勝って下さいました。

私たちは、このことを信じて、洗礼を受けてまた神様の子供として神様の元に帰ることがで最初にお話しした使徒信条の中に「十字架につけられ、死にてほうむられ、陰府に下り、三日目に死人のうちよりよみがえり」とありますが、これを一緒に告白します。この使徒信条は二千年の歴史の中でずっと告白されてきましたが、最も大切なことが表されています。ですからこれがわたしたちの地図であり、コンパスです。この地図やコンパスをいつも一番大切なものとして生きて行きたいと思います。

1月の御言葉

「わたしたちはキリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きることにもなると信じます。」

ローマの信徒への手紙6章8節

1月の教会学校礼拝

(毎週日曜日、朝9時15分~9時45分)

  • 神様に感謝して祈り、歌います。イエスさまのお話、聖書について学びます。
  • お話の聖書箇所と担当の先生は次のとおりです。
    1月6日(日) イザヤ53:4~12 お話の担当…並木せつ子
    13日(日) マタイ27:32~44 並木せつ子
    20日(日) ヨハネ19:38~42 勝田令子
    27日(日) ローマ6:3~11 興津晴枝

教会・教会学校からお知らせ・お祈り・報告

  • 新しい年2019年が始まりました!この年が皆さんにとって恵みの年となりますように。全地の造り主なる神様、わたしたちを世に生まれさせてくださった神様がご自身の目的を示してくださり、平和な世界を実現するためにわたしたちを用いてくださいますように祈ります。中高生の皆さんは、大人の礼拝にもどうぞ。大人の礼拝の時間は10時半~11時半です。親子連れの方も、どうぞいらしてください。
  • 12月23日(日)教会学校のクリスマス礼拝・・・精勤賞の表彰を受けたのは、川畑舞佳さん、明日佳ちゃん、中村里桜さん、羽場天人君、羽場天音さんです。おめでとうございます!教会学校から賞状と記念のバッジと副賞が贈られました。
  • 12月24日(月)クリスマスイヴ礼拝・・・キャンドル点火の天使役を矢田部聡音さん(小6)と川畑舞佳さん(小4)が務めました。また聖書朗読は中3の関真奈香さん、渡部奈那美さん、中2の金井一史君、小6の矢田部聡音さん、小5の伊藤航太さんが務めました。皆さん立派に大役を果たしました。
  • 教会学校のクリスマス献金・・・クリスマス礼拝で捧げられた皆さんの献金6,270円は日本キリスト教団教育委員会を通して国内と海外の学校、病院、施設に(2018年度はアフガニスタンジャクリー県のヌール学校、パレスチナガザ地区のアハリー・アラブ病院、また東北教区放射能問題支援対策室いずみに)送られます。

主において常に喜べ

聖書:ネヘミヤ記15-11節, フィリピの信徒への手紙447

 主の年2019年、新しい年の歩みが始まっております。この年はどのような年になるのか、人々の関心は経済の動向、また政治や社会の動向に向けられていることでしょう。そうすると、明るい見通しが立つという話、楽観的な見方は出て来ないようです。むしろ、不思議なほど長く続いた世界的な好景気が一転するとか、貿易戦争が激化するとか、難民、移民政策が内向きになり、世界中で自国の利益第一主義が支配的になる結果、利害の対立は経済戦争にとどまらなくなるのではないか、等々、心配の種が尽きない年のようです。

しかし、私たち成宗教会は、1940年の創立以来、どのような時代にも主の日に集まり、礼拝を守って参りました。この国がどの外国を敵に回して戦っていた日々も、昨日の敵が今日の友となった日々にも、変ることなく頼る者を救ってくださる主イエス・キリストによって、全地の主なる父なる神様を礼拝して来ました。ある時は互いに敵となった民族もあり、またある時は味方となった民族もいます。私たちの信頼する神さまは全世界どこに行っても一人の神さまとして崇められます。ですからこの神さまを信頼する人々は全世界に在って、同じ主キリストを頭と仰ぐ唯一の主の体の教会に結ばれているのであり、このことは真に大きな恵みであります。

この恵みのために、私たちは年の初めの主の日に、まず礼拝から一年を始めることができたのです。そして先週から成宗教会は祈りについて学びを始めました。私たちが信仰問答カテキズムによって学びました2018年12月30日の問は、「なぜわたしたちは祈るのですか」でした。そしてその答は、極めて単純明快なものです。なぜなら、「神さまがわたしたちに祈ることを求めておられるから」だから私たちは祈るのです。そして、続いて今日はカテキズム問の53です。その問は、「わたしたちが祈るとき、どのような恵みが与えられますか」というものです。つまり、祈ったら神さまから恵みが与えられるということです。だから「祈りなさい」と勧められているのですね。

今日は祈りの恵みについて教えられたいと思います。教会の幼稚園や保育園では、小さい子どもたちにお祈りを教えます。すると子どもたちは喜んでお祈りしている。そんな様子を目の当たりにしたものです。しかし、大人になるとなかなか祈りができない、という話は前回もしました。どうしてでしょうか。今日読みました旧約聖書はネヘミヤ記1章です。ネヘミヤは紀元前5世紀にペルシャのアルタクセルクセス王に仕えていたユダヤ人の指導者です。彼は戦争によって滅ぼされたユダヤ人の国から奴隷として遠くバビロンへ捕え移された人々の子孫でありました。よく言われる日系何世とか、在日何世と言う表現を使えば、ネヘミヤは在ペルシャ3世あるいは4世ぐらいのユダヤ人だったでしょう。

その彼が祖父か曽祖父の故郷エルサレムについて最近の様子を聞いた時、彼は大変なショックを受けました。あの忌まわしい敗戦と破壊から百何十年も経っているのに、今だに都エルサレムは荒れ果てて悲惨な状態にあるというのです。ネヘミヤは『座り込んで泣き、幾日も嘆き、食を断ち、天にいます神に祈りをささげました。今日の聖書箇所は彼の祈りの内容です。とは言え、私たちは少し不思議に思うのではないでしょうか。ネヘミヤの先祖はバビロンに連れて来られてから、既に長い年月が経ち、もうネヘミヤはエルサレムを全く知らなかったでしょう。そして彼の家はペルシャの王侯に用いられ、高い身分にまで取り立てられて繁栄していました。なぜ彼はエルサレムの惨状にこれほどまで心を痛めたのでしょうか。断食をしてまで祈りをささげたのでしょうか。

それは彼に呼びかけがあったからなのです。秘かな呼びかけがネヘミヤの魂を揺さぶりました。普通なら、自分の先祖にかかわる遠い昔のこと、今は知っている人もいないような遠い世界と思うはずなのに、彼はそう思わなかった。大変心を痛め、悲しんだ。その痛み、その悲しみは、実に神さまからの呼びかけであったのです。神さまの秘かなご計画によってネヘミヤは呼ばれました。エルサレムのために何かの働きをするように召し出されていたのです。だから、彼は嘆き悲しんだ末に祈り始めたのでした。このように、祈りは私たちの目から見れば、自発的なものですが、神さまからの見えない秘かな呼びかけがあるのです。そして、わたしたちの祈りは、神さまからの呼びかけに応えるものなのです。

わたしたちはそれぞれ自分の計画があるでしょう。今年はあれをしたい、これをしたいと。ああなるように、こうなるようにという願いであります。しかし、神さまには神さま御自身のご計画があります。そしてそれは私たちの思いを遠くはるかに超えたご計画なのであります。イザヤ55章8節、9節。「わたしの思いは、あなたたちの思いと異なり、わたしの道はあなたたちの道と異なると、主は言われる。天が地を高く超えているように、わたしの道は、あなたたちの道を、わたしの思いはあなたたちの思いを高く超えている。」(1153頁)

ネヘミヤは神さまの霊に導かれて、願い求めます。神さまから秘かに与えられた務めを果たすために、今まで思いもよらなかった志を願い求めたのです。このようにしてネヘミヤは廃墟の復興の先頭に立ちました。しかし、彼はそれを実際行動から始めたのではありません。彼の行動に先だったのは祈りでした。しかもその祈りは、願いではなく、懺悔から始まりました。彼は祈りました。「わたしたちはあなたに罪を犯しました。私も、わたしの父の家も罪を犯しました」と。人が祈るためには、神さまに近づかなければなりません。しかし神さまから遠く離れているわたしたちは、どのようにして神さまに近づくことができるでしょうか。先立つ祈りは懺悔の祈りです。神さまに背を向け、好き勝手な生き方をして来たことを神さまはご存じなのですから。すべてをご存じの方に悔い改めの告白を捧げることなしに、わたしたちはどうして親しく語りかけることなどできるでしょうか。

申命記30章をご覧ください。(328頁)神さまはモーセによって、次のように語られました。1-4節。「わたしがあなたの前に置いた祝福と呪い、これらのことがすべてあなたに望み、あなたが、あなたの神、主によって追いやられたすべての国々で、それを思い起こし、あなたの神、主のもとに立ち帰り、わたしが今日命じるとおり、あなたの子らと共に、心を尽くし、魂を尽くして御声に聞き従うならば、あなたの神、主はあなたの運命を回復し、あなたを憐れみ、あなたの神、主が追い散らされたすべての民の中から再び集めてくださる。たとえ天の果てに追いやられたとしても、あなたの神、主はあなたを集め、そこから連れ戻される。」

このように真剣な懺悔の祈りはみ言葉から与えられます。祈りから生まれる最初の恵みは、すなわち神への信頼であります。心から悔い改め、神さまに立ち帰るならば、神さまは豊かに赦してくださる、という信仰、これが神さまへの信頼です。

新約聖書フィリピの信徒への手紙は、獄中にいる使徒パウロによって与えられた言葉です。パウロは教会の人々に勧めます。「主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい」と。福音を伝え、教会を建設したパウロが迫害され、獄に繋がれている最中、信者たちは非常に不安でありました。悲観的になっている、これからどうなるのか、明るい見通しは何もない。心配なことばかりでくじけそうになっている。彼らの心と思いはそういう危険な状態でした。しかし、だからこそ、パウロは目の前に押し寄せて来る不安にも拘わらず、主にあって喜ぶように勧めているのです。

なぜなら、神さまが与え給う慰め、わたしたちを喜ばせ、元気づけるような霊的な慰めは、この時にこそ、特に全世界がわたしたちを絶望に陥れようとする時にこそ、力を発揮しなければならないからなのです。この時、たとえ彼らが迫害、投獄、追放、死にさえも脅かされているとしても(パウロは正にその中にいました)、その真っ只中にも、自ら喜ぶばかりでなく、他の人々をも喜ばすようふるまっているパウロ、彼がここにいます。「主において」と訳されている言葉は、「主が自分たちの側に立っておられるのだから」、すなわち「主が自分たちの味方なのだから」という意味です。主が味方なのだから、それだけで喜ぶ理由は十分なのです。

主イエス・キリストを信じて告白して、洗礼を受けて主と結ばれた者。神の子の喜びがここにあります。その喜びは、この世の喜びと比べてみれば分かります。この世の喜びはあてにならず、長持ちがせず、空しいもの。イエスさまが呪われたものとさえ仰ったものです。ルカ6章24-25節です。113上。「今満腹している人々、あなたがたは、不幸である、あなたがたは飢えるようになる。今笑っている人々は不幸である、あなたがたは悲しみ泣くようになる。」それに対して神の子の喜びは、だれも奪い去ることのできない喜びです。神が共にいてくださるから、それはいつも変らない。この喜びを、わたしたちはイエス・キリストに在って持つことになるでしょう。

「あなたがたの広い心がすべての人に知られるようになさい。主はすぐ近くにおられます。」パウロはすべてのことを「広い心」、すなわち優しさと忍耐(寛大、思いやりのあること)をもって耐えるように勧めています。この世の格言に、「狼の中では吼えなければならない」というものがあります。すなわち悪人の傲慢と鉄面皮に対しては同様な態度によって抑え込まなければならない、と。しかしパウロはこれに対して、神さまの摂理(神さまの秘かなご計画)に対する確信を主張するのです。主の御力は悪人の横柄、横暴に優り、主の慈愛は彼らの悪意に打ち勝つものではないか、と。だから、わたしたちが主の掟に従うならば、主はわたしたちを助けてくださるに違いありません。

ですから何よりも大切なことは、信仰者が神さまの深いご配慮と隠されたご計画によって守られていることを悟り、神さまの摂理に全く信頼することなのです。「主は近い」と信じる者は、神がご自分の子らに正に救いの手を差し伸べようとしておられることを知っているのです。だから、一切の思い煩いを捨てて、何事につけ、感謝を込めて祈りと願いを献げ、求めているものを神に撃ち明けることが勧められています。

しかしながら、同時に、神さまへの信頼は何よりも日々わたしたちが祈りを捧げることによって訓練されること無しには生まれるものではありません。まして、わたしたちが何かの誘惑や、不安に襲われる時にはいつでも、直ちに時を移さず祈りに訴えることを実行しましょう。祈りの時と所こそが、わたしたちにとって逃げ込むべき避難所となりますように。そして、神さまへの信頼は感謝を込めた祈りに現れます。過去を振り返り、必ず助けてくださった恵みの主を思い起こし、感謝するとき、未だ行き先の見えない明日を委ねる祈りが、そこに生れます。

そして、7節の「あらゆる人知を超える神の平和」とは何でしょうか。大きな失望の中にあっても、なお望みを抱く。また、非常な貧困の中にあっても、なお豊かさを思い描く。極端な無力の状態でも、なお圧倒されることなく、すべてのものを欠いていても、なお自分たちには何も欠けているものはないと確信する。このような思いほど、この世にあり得ない思いがあるでしょうか。しかし、ただみ言葉によって、ただ聖霊の助けによって、このようなすべての思いがわたしたちに与えられるとしたら、これこそが祈りによって与えられる恵みなのです。わたしたちが祈る時、わたしたちは神さまに近づき、親しく語り合う恵みが与えられます。主が近くにおられることの喜びは計りしれません。祈ります。

 

教会の主、イエス・キリストの父なる神さま

新年最初の聖餐礼拝を感謝し、御名をほめたたえます。本日は祈りの恵みについて、み言葉を学びました。新しい年、身も心も新たにして祈りを献げます。御子の贖いによって罪を赦されたわたしたち、日毎夜毎に罪を告白して、あなたの御前に祈る時と所を与えてください。そして、み言葉に聴くことができますように。すべてのことをあなたと語り合い、この世界が与える喜びをはるかに超えた平安を、祈るわたしたちにお与えください。沢山の悩みある時代、世界のただ中に在っても、あなたの喜びがわたしの喜びとなり、あなたの力がわたしたちの力となりますように。そして罪人のために命を捨ててくださるために世に遣わされた御子イエス・キリストの愛がわたしたちの愛となりますように。

新しい年、教会の歩みが始まりました。主よ、あなたは小さな歩みを喜ばれ、小さな働きを祝して、わたしたちの群れをこれまでお導きくださいました。真に感謝です。新しい年度に、新しい教師の先生方をお迎えするために導いてくださっている連合長老会の働き、あなたの尊きご配慮を感謝します。どうか招聘されようとしておられる先生方を聖霊によって守り導いてください。ご健康とご準備が祝されますように。また、成宗教会がどうか御心に適う準備をしてお迎えすることができますように。長老会を励まし、導いてください。今日から始まりました教会学校の働き、集う方々をも祝してください。

また、教会の信徒一人一人が教会の全てを整えるために、何か奉仕に加わることを考えることができますように。それぞれが限りある体力、時間の中で、喜んで捧げる知恵と力とをあなたからいただくことができますように。本日行われます長老会議をどうか御手の内にお導きください。特に先生方をお迎えするための物理的な準備をも進めて行くことができますように。また、教会記念誌の編集の道筋が守られていることを感謝します。御心であれば3月中に印刷発行を果たすことができますように。今、試練の中にある者、病床にある者を助け、また家族、社会を支える人々の働きを祝してください。

すべてのことを感謝し、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

祈りの中にある人生

聖書:詩編116篇12-19節, ルカによる福音書18章1-8節

 わたしたちが礼拝説教の中で、信仰問答(カテキズムと申します)によって、教会が受け継いで来た信仰を学び始めたのは、2017年の9月でありました。その内容は、使徒信条と十戒と主の祈りでありまして、三要文と呼ばれます。今年の待降節の前に使徒信条と十戒について学びを終えましたので、本日、2018年最後の礼拝から主の祈りを学びます。そして、ちょうど年度末までには学び終えるでしょう。

本日の問52は、「なぜわたしたちは祈るのですか」です。大変、率直な、素朴な問いです。そしてそれに対する答もまた、大変単純明快なものです。なぜなら、「神さまがわたしたちに祈ることを求めておられるからです。」これが答です。私たちはよく、お祈りは苦手だなどと言うことがあります。どう祈っていいか分からないと思うこともありますが、人前で祈るということを考えれば、なおさらです。私は40代の頃、ある教会の長老を務めたことがありましたが、長老の務めが重荷だったのは、「どう祈ったらよいか分からない」という単純な悩みのためでした。

一方、洗礼も受けていないのに、また教会を離れて久しいのに、滔々と人前で祈る人がいることにも驚きました。牧師の娘だったという、ある年取った信者の方が「わたしはお祈りができないので、オルガンを弾いて讃美します」と言うのを聞いて、わたしも気持ち分かるなあと思ったことです。こんな私が献身して牧師になったのですから、私は成宗教会の皆さんに祈りについて具体的な勧めをしたことはほとんどありませんでした。ただ、わたしたちは祈りが必要であることだけは、身をもって感じているのではないでしょうか。

私に洗礼を授けてくださった仙台東一番町教会の田中従夫牧師は多くを語らない人でしたが、一つだけはっきりと勧めておられたことがありました。それは祈りを止めてはならないということだったことを思い出します。「悪魔は、わたしたちの計画することに何でも賛成します。わたしたちが、「あれがしたい」と思っても、大賛成。「これがしたい」と言っても、大賛成です。ただし、一つだけ賛成しないことがあります。それは神さまに祈ることです」と田中牧師は言い、だから悪魔に支配されないために、祈りを止めてはいけないと勧められました。長い人生を振り返ったとき、この言葉を思い出します。何かの理由で教会を離れざるを得なかったときも、戻って来ることができたのは、祈りによって神さまの助けを求めて来たからでしょう。

このような体験は、おそらく皆様にもおありのことでしょう。神さまがわたしたちに祈ることを求めておられるから、わたしたちは祈るのだと教えられました。聖書は、人間が神さまのかたちに造られたと教えています。それは神さまの呼びかけに応える相手として造られたということなのです。ですから、人は神さまとお話ができる、祈ることができるように造られたということです。人が見えない神さまに祈りをささげる姿こそは、神さまがお造りになった本来の人の姿だということができるでしょう。

本日の新約聖書のテキストはルカ18章です。イエスさまは弟子たちに気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教えるために、このたとえ話をなさいました。「ある町に、神を畏れず人を人とも思わない裁判官がいた。ところが、その町に一人のやもめがいて、裁判官のところに来ては、『相手を裁いて、わたしを守ってください』と言っていた。

裁判官は、しばらくの間は取り合おうとしなかった。しかし、その後に考えた。『自分は神など畏れないし、人を人とも思わない。しかし、あのやもめは、うるさくてかなわないから、彼女のために裁判をしてやろう。さもないと、ひっきりなしにやって来て、わたしをさんざんな目に遭わすに違いない。』」

ここには神を畏れず、人を人とも思わない傲慢不遜な裁判官が登場します。彼が貧しい寡婦の弱い立場を守ってくれそうな期待は到底持てないのです。しかし、やもめはどうしたでしょうか。見込みがないのであきらめたでしょうか。絶望したでしょうか。彼女に最善の方法は何でしょうか。たとえ傲慢で情け容赦のない相手であっても、彼女は訴えを諦めるより、訴え続ける方を選びました。そしてとうとう不正な裁判官を根負けさせたという話です。

イエスさまはこの傲慢不遜な裁判官を神さまに例えておられるのでしょうか。そんなことは決してないでしょう。ただこんなにひどい相手であっても、この人に訴える他に方法はない、となったとき、この女の人はもう絶対にあきらめないで訴え続けた、ということを強調しておられるのです。まして、あなたたちが祈り求めている相手は神さまではないか。神さまはどのようなお方か、あなたたちは知らないのか、とイエスさまは問われているのではないでしょうか。神さまは憐れみ深い方です。神さまは御自分を次のように言い表された方です。出エジプト記34章6節。「主、主、憐れみ深く恵みに富む神、忍耐強く、慈しみとまことに満ち、幾千代にも及ぶ慈しみを守り、罪と背きと過ちを赦す。しかし、罰すべき者を罰せずにはおかず、父祖の罪を、子、孫に三代、四代までも問う者。」151上。

このような神さまの慈しみを知っているならば、どうして祈り求め、祈り続けないでいられるのだろうか、とイエスさまは問われているのです。あきらめるなどということは論外ではないかと。本当にその通りなのです。ところが、私も冒頭で正直に述べました様に、「お祈りは苦手だ」とか、「何をどう祈って良いか分からない」という理由で「人前で祈るのは・・・」とためらう人がいるかと思えば、まるで神さまに向かって大演説をするような人も出て来る。また、それを見て、大いに驚いて躓く者まで出て来るという現実があります。そんなことなら、自分の言葉で祈らないで決められた祈祷文にすれば簡単だ、等々、あれこれと百でも理由を作っては、祈りから遠ざかろうとするのではないでしょうか。わたしたちはそれこそ、サタンの思う壺にはまりかけているのです。

ところが、イエスさまは何と言われたでしょうか。それは「あなたがたは、あきらめずに祈りなさい!」とのご命令です。「あきらめないで、」です。「自分の拙い言葉や自分の情けない祈りにがっかりしないで、」です。神さまは立派な日本語でないと、立派な英語でないと聞き取れないとはおっしゃらず、忍耐強く聞いてくださる方なのです。また、神さまはわたしたちのひそかな不平不満もご存じです。あれをお願いしたのに、聞いていただけない、わたしの祈りは聞かれないと思い、がっかりしたり、悲しんだりするわたしたちがいます。

わたしたちからすると無理もないことです。重い障害や難病に苦しんでいる人々を思うとき、いつもイエスさまが手を取って起こしてくださった奇跡、目に泥を塗って見えるようにしてくださった奇跡、耳に指を入れ、つばを舌に付けて、開けと言って聞こえ話せるようにしてくださった奇跡が、起こったらどんなにうれしいことかと思うのです。そしてこれ以上良い願いはない、祈りはない、とまで思い、叶わないことを悲しむのです。

しかし、「がっかりしない。あきらめないで祈りなさい」と、今もイエスさまはわたしたちに呼びかけておられます。わたしたちは、幸いなことにあきらめない者として教会にいます。私はこの教会で祈りについてほとんど指導することはありませんでしたが、ほとんどいつの間にか、祈りに満ちた教会になっていました。兄弟姉妹が集まり、礼拝を守り、共に主に祈って来たからです。そして礼拝が終わると皆、教会の外に出て行きました。また会えるだろう、また集まれるだろうと思って別れるのですが、二度と会うことはなかった人もいます。いつまでも元気でいるのが当たり前のように思ってお別れするのですが、思いがけない困難に直面することもあります。その折々に、わたしたちは祈り合って来ました。

もちろん、お互いのことが十分分かっている訳ではないので、「あの人はこうすれば良いのに」「ああしない方が良いのに」と心配しても、わたしたちの考えが正しいかどうかも分かりません。そういう限りある知識の者たちが、限りある力の者たちが集まって祈る祈りなのですが、この拙い、貧しい祈りを神さまは喜んで聞いておられる。だからイエスさまは「祈りなさい」と言われます。ちょうど何も分かっていない幼子のようであっても、その祈りを喜んでくださる神さまがおられるのです。

成宗教会が祈りに満ちていると思うのは、わたしたちに沢山の困難や課題があるからです。この教会に限ったことではなく、教会はこの社会の、また全世界の悩みを映し出しています。悩む人々、悩む社会、悩む世界の中に建つ教会は、祈りの務めを与えられているからです。今日のイエスさまの例え話には悩みある人の訴え、という祈りが取り上げられましたが、わたしたちは礼拝で感謝の祈りを捧げています。御心を尋ねる祈りもあります。そして、これから主の祈りで学ぶことですが、神さまの御心が行われるようにと祈る祈りに導かれます。自分の願いだけを一方的に願うばかりの時は気がつかないことですが、祈りは毎週の礼拝の中だけでなく、個々人で、毎日、時間を決め、一人で、あるいは家族と共に祈ることによって、思いがけない導きが与えられます。それは、自分がこれまで本当に神さまに守られ、恵まれて来たのだ、という発見です。

詩編116篇の詩人は言います。「主はわたしに報いてくださった。わたしはどのように答えようか。」神さまがわたしの祈りを聞いてくださったことに気がつく、ということは非常な恵みなのです。なぜなら困ったときに神さま助けてくださいと祈る人は多くいたとしても、災いが過ぎ去ると、神さまが助けてくださったとは思わず、祈ったこともすっかり忘れてしまう人も非常に多いからです。そのような中で、「わたしはこんなに神さまの恵みを受けた」と気がつく人は幸いです。そして人から助けられたとき、何か御礼の贈り物をしようと思うのですが、相手は神さまなのですから、どのように御礼をしようとしてもできないことが分かります。

また、神さまは助けられた人が無理をして献げ物をしてほしいと思ってはおられません。神さまは本当に豊かで恵み深い方なので、ただ人が祈り求めることを喜ばれ、その人を救うことを喜びとしてくださいます。それを信じる人にできることはただ一つ。それは感謝の祈りを捧げることです。喜びの集いを開いて、集まった人々の見守る前で、捧げる献げ物は何でしょうか。それこそが感謝の祈りなのです。

主の慈しみに生きる人、すなわち信仰者の命を神さまは貴いものとして思われるからこそ、これを御心に留められ、必要な助けを与えてくださいます。わたしたちが弱り果てる時、わたしたちは自分で自分を低く見積もり、「わたしは何の値打ちもない」と自分を決めつけて、神さまのせっかくのご好意を蔑ろにするのではないでしょうか。そんなことにならないように常に注意しなければなりません。

こうしてわたしたち主イエスさまに結ばれた者たちは、初めは祈ることが分からず、人前を気にかけたり、自分中心な願い事だけを祈っていたとしても、主はわたしたちをお見捨てにならないのです。なぜなら、主はわたしたちのために命を捨ててくださった方ですから。この方が聖霊によってわたしたちを守り導いてくださったことによって、わたしたちはどんなに前進させられたことでしょうか。わたしたちは時が良くても、悪くても祈り、自分の願いをはるかに超えて善きことを成し遂げることがお出来になる方にすべてを委ね、御名をほめたたえて生きる信仰生活を整えて頂きましょう。2018年が終わろうとする今、わたしたちの歩みを振り返ると、真に人生の一部が祈りの時だったのではなく、わたしたちの人生そのものが祈りの中にあるように、導かれて来たことが思われます。感謝して新しい年を迎えたいと願います。祈ります。

 

主イエス・キリストの父なる神さま

本日の礼拝に集めて頂きましたことを感謝申し上げます。2018年を振り返り、成宗教会を通して主と結ばれたわたしたちを守り導いてくださいましたことを、思います。世は移り変わり、人々は変わって行きますが、変ることのない主イエスによっていただいた救いの御業、あなたに対する信仰を感謝し、慈しみとご忍耐の神であられるあなたの御名をほめたたえます。

この年、成宗教会は連合長老会より新たな教師を推薦され。臨時教会総会においてお二人の先生を招聘することを決議しました。真に小さな群れが招聘するにふさわしい教会として整えてください。あなたの御名を汚すことなく、御心に適った道筋が備えられますように切に祈ります。どうかお二人の先生のお働きがあなたのご栄光を現わすものとして貴く用いられますように。先生方のご健康をお支えくださいますようお願い申し上げます。

また成宗教会の長老会の働きを強めてください。長老、信徒の方々のご健康を支えてください。多くの方々が高齢になっておりますが、なお健やかにあなたに支えられ、用いられますように切に祈ります。

どうかこの教会を用いてあなたが招いてくださった方々の上にあなたの御心があり、慈しみ深い主の下に集められますように。来るべき年にも、世の災いを避けることが出来ますように。そして、み言葉を力強く宣べ伝えられる教会としてくださいますように。今、お病気の方、お怪我をしておられる方を思います。どうぞ、その場に共にいらして励まし必要な助けをお与えください。

言い尽くせない感謝、願いを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

主はあなたと共におられる

クリスマス聖餐礼拝

聖書:イザヤ111-10節, ルカによる福音書12638a

 今日、クリスマスをお祝いする主の日の礼拝に、今年も皆様と共に集められましたことを感謝します。クリスマスに教会に私たちが集ったのは、主がお招きくださったのではないでしょうか。私たちに良い知らせを聞くために、私たちはここにいます。その良い知らせはおよそ二千年前、天使がマリアに遣わされたことに始まりました。神さまは人間を救いたいと思われました。人間を本当の幸せに招きたい、これが神さまの願いでありました。

しかし、思い上がった人々は神さまを離れているので、本当の幸せを理解しません。だから良い知らせを無視したり、軽蔑したりするでしょう。自分こそが値打ちがあると思っている人々は、他の人が語ることに耳を傾けないのです。「何だ、そんなことか」と右から左に捨ててしまうのです。預言者たちはどんなに呼びかけたでしょうか。悔い改めて、神さまに立ち帰りなさいと勧めても、聞く耳を持たなかったのです。

そこで神さまは救い主を世に遣わすために、愚かな方法を選ばれました。「愚かな」というのは、神さまから離れて生きる人々には「そんなバカなことがあるだろうか」と思える方法なのです。神さまは、そのように他の人を愚かだと思い、軽蔑して人々をご覧になって、そうではない人々を救いに招こうとされたのです。ナザレの町にマリアという人がいました。ダビデの子孫の家系に所属するヨセフと婚約をしていました。まだ二人は一緒になっていませんでしたが、当時のしきたりでは婚約しているということは、既に妻であるも同然でした。神さまはこの名もないおとめマリアに天使を遣わして良い知らせをもたらしたのです。それは神さまが、小さき者、へりくだった者、心優しい者たちに、ご自分を顕わすためでありました。

その一方で、神さまは御自分の秘密の隠し事を、高慢な者、軽蔑する者には知ることができなくなるようになさる方であることに、私たちは注意しなければなりません。わたしたちが名もない小さな者、へりくだった者、心優しい者であるならば、天使の伝えた良い知らせ、福音を聞こうではありませんか。

天使は言いました。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」おめでとう、と天使は言いました。これは「喜びなさい」という意味でもあります。喜びなさい。これは神さまの私たちへの命令ではないでしょうか。しかし、なぜ喜ぶのでしょうか。私たちはしばしば分からないのです。喜んで良いのかどうかさえも、分からない者なのです。天使は呼びかけます。なぜなら、あなたは恵まれているから。またはあなたは幸せな人だから、と。私たちは今目に見えることしか分かりません。あるいはせいぜい過去に起こったことから物事を判断する位しかできません。前代未聞の事件や災害が起こると、全く戸惑うばかりです。このように私たちの能力は限られているので、実際、自分個人についても、また家族、社会についても分からないことばかりです。

しかし、天使は言うのです、「あなたは神さまに恵まれているのだから、喜びなさい」と。ここで私たちは自分の理解をはるかに超えたところに神さまを見上げることができるでしょうか。喜びなさい。あなたは恵まれているから、という福音は、ここで早くも二つの道を示しているのです。その一つは、「わたしは恵まれている」と信じて喜ぶ道です。そしてもう一つは、「わたしは恵まれているかどうか分からないから、喜べない」という道です。そして、たとえ積極的に「信じない」という決断をしなくても「信じられない」ということでは喜べない。それは不信仰への道なのです。

さらに天使は言いました。「主はあなたと共におられる」と。この言葉こそ、喜べと勧める根拠です。あなたは幸せだ、と断言する根拠なのです。神さまが人々と共におられるということは、人々にとってどういうことなのでしょうか。考えてみましょう。創世記の3章に人間の堕落の物語が記されています。禁断の木の実を食べたアダムとエヴァの物語です。私たち自身も十分に理解していない訳ですが、神さまはなぜか食べてはならない木の実を置かれました。神さまはたくさんの食べて良いものをお与えになったのに、人は神さまの約束を破って食べてはならないものを食べたのです。その結果、二人に何が起こったかと申しますと、人は神さまを避けて隠れました。すなわち、主が共におられることを喜ばない者となったのです。神さまに隠れて、神さまから離れて生きる者になったということです。

それがどのような不幸をもたらしたかということです。人が神さまから離れているということは神さまの助けを求めることができないという不幸です。しかも思い上がっている時には、自分の力を信じて助けなどいらないと公言してはばからないのです。一人の人間の一生を考えれば、生まれてから死ぬまで思い上がっていられる人はいないと思いますから、必ず、悔い改めて神さまに助けを求めるチャンスはあるのですが、不幸なことに世界中どこでも思い上がった人々が次々と現れるので、まるで人類はいつでも思い上がって神から離れていても大丈夫だという錯覚が人々を支配している有様ではないでしょうか。

しかし、幸いなことに、誰も彼もが鬼の首を獲ったかのように得意満面に高ぶっている時代は、日本の社会では過ぎ去って、多くの高齢者が(高齢者はいつの時代でもいましたが、今平和が続いたために、長生きが出来た結果であります)労苦して生きているのが誰の目にも分かるようになりました。また子供の虐待、家庭内暴力も(昔からあったものが少子化のためにより顕在化しているのではないかと思います)社会で取り上げられるようになりました。幸いなことです。なぜなら、だれもが、少なくともその一生のどこかで、救いの手を求めて激しく叫びたいようなところを生きていることが分かるからです。その時、叫び求める魂の祈りを聞いてくださる真の神さまへの信仰が、その人にあるのか、ないのか、そのことは真に大きな分かれ道、正に生死を分ける違いなのです。

エフェソの手紙1章1~2節に、使徒パウロはエフェソ教会の信者たちに次のように挨拶しました。352頁「神の御心によってキリスト・イエスの使徒とされたパウロから、エフェソにいる聖なる者たち、キリスト・イエスを信ずる人たちへ。わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように。」パウロの挨拶も天使のマリアへの挨拶と良く似ていることが分かります。神が共におられるということは、神の恵みと平和がここにある。なぜなら、神の助けが私たちにあるから、ということなのです。本当に神を信頼するところにこそ、本当の喜びがあります。

さて、マリアと天使の話に戻りましょう。マリアは天使の挨拶の意味を思いめぐらしていました。それは人間の知恵では知ることのできない、神さまの秘密のご配慮、ご計画であったからです。神さまは御自分の愛する御子を世に遣わして下さり、御子によってわたしたちを心にかなうものとしてくださるご計画を実現してくださいました。つまり、神さまは御自分に背いて離れ去っていた私たちをただ恵みによって受け入れてくださるのです。そして、かつては神さまの敵対していたわたしたちに、救いの恵みを差し出してくださるのです。

天使は言いました。「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。」それはマリアばかりでなく、すべての人の理解をはるかに超えることでありました。しかし、これをなしてくださるのは神さまの聖霊なのだと天使は答えます。「聖霊があなたに下り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六カ月になっている。神にできないことは何一つない。」

主の聖霊がマリアに来てくださり彼女を覆ってくださるとき、マリアは自分の理解を超えた天使の言葉を福音として受け入れました。真に神にできないことは何一つないことをマリアは信じました。そして、すべてをご存じであり、ご支配なさる神さまだけが本当に良いことを成し遂げてくださることを信じて従う者として、自分を言い表したのでした。

マリアに与えられた恵みを、私たちも思いめぐらしましょう。私たちも主イエス・キリストを救い主と告白する教会の群れに連なって参りました。このことが聖霊の働きであることを信じるならば真に私たちは幸いな者です。マリアはイエスさまが救い主として受ける苦難を知りませんでしたが、聖霊の助けによって受け入れました。そして私たちも、イエスさまが罪の贖いのために執り成しをして下さったことを信じることができたのは、主の聖霊の助けがあったからです。主を信頼し、主に結ばれて共にいると信じることの幸いがここにあります。私たちが幸いであるのは、自分が救われて安泰な人生が保証されているからではないでしょう。主に結ばれている者の幸いは、むしろ、主に結ばれて多くの人々の救いのために働く聖霊の働きに参加させていただけることの幸いなのです。

成宗教会の墓所にはマタイ福音書1章23節のみ言葉が書かれています。「神は我々と共におられる」と。成宗教会の誇り。それはただただ神さまがここに、信者と共にいらしてくださったということに尽きると思います。どんな良い業も、どんな名声も、どんな働きも過去に去って行きます。自分を誇っている人々は、主が共におられることを誇ることは難しいでしょう。ただ、主を誇り、主を喜びとする人だけが、主に喜ばれて主の体に連なる者であり続けるでしょう。

そしてその人は弱いときにも、強い時にも主に用いられるでしょう。丈夫な時と同様に、また病む時にも不思議に用いられるでしょう。若い時に私は学校の教員でした。中年以後に献身して教会に仕えしました。生きている限り、主の恵みを宣べ伝えることは伝道者の喜びです。しかし、だれも年老いて行くこと、例外なくやがて世を去ることは主の御旨です。牧師を辞めても、主に仕える者として死に至るまで忠実であることは、私の目標であり、またどなたにも強くお勧めする目標であります。そうすれば、主はいつの日にも皆さんと共にいらして祈りを聞いてくださり、助けてくださると思います。そのために、私はまだ信仰を言い表していない方々にも強くお勧めします。謙って小さくなられ、世に降られた神の御子イエス・キリストによって明らかにされた神の恵み、罪の赦しを信じて自らを低くし、悔い改めて、キリストに結ばれる者となりますように。そして次世代の伝道牧会者を迎え、この群れに連なり、共に喜んで主に仕える者となってください。祈ります。

 

御在天の父なる神さま

クリスマスを祝う主の日の礼拝を感謝し、御名を褒め称えます。どうか集められた私たちの讃美を受け入れ、祝福をお与えください。この教会にいつの日も希望を与え、恵みの導きをお与えくださいました。私たちは多くの働きをして、良い時も苦しい時もあなたの教会を建てるために労苦された教師や信徒の方々を既に天に送りました。そして共に労苦した思い出と感謝が残されています。あなたの御子の執り成しによって罪赦され、天から聖霊の助けをいただいて来ましたことの結果であります。

私たちは東日本連合長老会に加盟して共に学び、共に歩んで参りましたことを感謝します。皆、日本の教会、日本の社会の困難を反映して、様々な苦労をしております。しかし、共に悩み、共に労苦して共に教会を建てて行くところに、主が共におられ、どうか喜びが与えられますように。来年度いらしていただく先生方のために、あなたの特別な顧みがございますように。そのお働き、ご健康が祝されますように祈ります。また成宗教会にあなたの御心を示し、私共が善き準備をなすことができますようにお助け下さい。特に長老会の働き、ご健康をお支えください。信徒のお一人お一人があなたの助けによって祈りを篤くし、あなたの広く深い御心と愛とを知って絶えず励まされますように。

本日は聖餐に与ります。どうぞ主イエス・キリストの恵みに恐れと感謝を以て与るものとならせてください。

そして、礼拝後の愛餐の時を感謝します。奉仕するすべての者を祝してください。また明日予定されていますイヴ礼拝の行事を祝福し、助け導いてください。このクリスマスも病気その他の事情で礼拝に参加できないすべての方々の上にあなたの慰めと慈しみがありますように。

主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

この喜ばしい知らせを

聖書:ゼファニヤ書314-18節, ルカによる福音書1525

 待降節も本日は第三の主の日となりました。今年もいつもと変らない恵みに満ちたクリスマスが迎えられるように、私たちは身も心も魂も整え、備えたいと思います。今日読みました新約聖書はキリストの誕生に先立つ物語です。それは一人の預言者の誕生です。後に洗礼者ヨハネと呼ばれたヨハネは、イエスさまが世に表れ、福音を宣べ伝える前に表れて、救い主に先立って道を備える務めを果たした人であります。

ヨハネの父となったザカリアは祭司でありました。また母エリザベトも祭司の一族であり、6節にありますように、二人とも神の御前に正しい人で、主の掟と定めをすべて守り、非のうちどころがなかったと言われます。わたしたちの神さまは外観の整った行いを喜ばれるのではなく、特に心を見られる方ですから、この二人も心から神さまに従うことを喜び、律法の教えに従って隣人を愛することに努めていたので、「非のうちどころがなかった」と言われたのでしょう。そのように忠実な二人はそれだけで幸せでありましたが、一つだけ叶わない願いがありました。それは子供が与えられることでした。長い間待っているうちに、二人とも年を取って既に子を持つ望みもなくなっていました。

ある時、ザカリアは主の聖所に入って香をたくことになりました。祭司が神殿の聖所に入る時はいつでも、神と人々の仲保者として神の前に立つために入るのです。律法によれば、人々の祈りは祭司が神さまに執り成しをして初めて天に昇るのでした。そこで人々が祈っている時、祭司は聖所で香をたきました。この日、ザカリアが聖所に入ったとき、彼は主の天使が香壇の右に立つのを見ました。彼は非常に恐れました。神さまは私たちに御自分の言葉を聞かせたいと願っておられます。しかし、私たちはなかなか神さまの言葉が分からない。御心が分からないのではないでしょうか。私たちはどうしたら神さまの言葉を聞くことができるでしょうか。聞いて理解することができるでしょうか。そのために、神さまはまず、わたしたちの傲慢を打ち砕いてくださいます。それは、祭司であっても例外ではありません。たとえ、民の中でも優れた者、主の掟と定めをすべて守り、人々から尊敬され、非のうちどころのない祭司さえも、本当に謙って心低くされなければ、神さまの恵みの言葉を聞くことはできないのです。

ザカリアは天使を見て、恐怖の念に襲われました。一瞬のうちに思うのは、自分の罪、咎、過ちを裁かれる方の前に、自分が塵に等しいことでありました。しかし、天使はすぐに彼を立ち上がらせました。「恐れることはない。ザカリア」と。そして神の言葉を告げます。「あなたの願いは聞き入れられた。あなたの妻エリサベトは男の子を産む。その子をヨハネと名付けなさい。その子はあなたにとって喜びとなり、楽しみとなる。多くの人もその誕生を喜ぶ。」ザカリアが既に望むことさえできなくなっていた優れた息子が生まれるというのです。そして、その子供の誕生は単に両親とか、家庭内だけの喜びではないのです。

「彼は主の御前に偉大な人になり、ぶどう酒や強い酒を飲まず、既に母の胎にいるときから聖霊にみたされていて、イスラエルの多くの子らをその神である主のもとに立ち帰らせる」と、天使は預言し、ザカリアとエリサベトに生まれる子、やがて洗礼者と呼ばれるヨハネがすべての信仰者にもたらす絶大な喜びを語ろうとしました。

今、神さまはご自分の民に、大きな救いの御業を携えて現れようとしておられます。この約束に向かって民を用意させ、人々を神さまのもとに導くこと。そして神さまが恵み深く人々のところに来てくださることができるようにすること。これこそが、生まれて来る幼子に与えられた使命なのです。神さまが人々の中に恵みを現わしてくださるために、必要なことは何でしょうか。それは人々が共に生きる共同体で、分裂を引き起こしている争いが止むことではないでしょうか。ところが現実は、遠い国との平和どころか、同じ社会に生きる人々、もっと身近な家族でさえ分裂している有様です。

傲慢な者は、すべての人すべての物を永久に支配しようと、神さまのご意志に逆らって立ち、地上に平和を求める願いと志を圧殺しようとしている。このことは、昔も今も変りありません。天使が語る言葉によっても当時の礼拝共同体は、今の世界に建つ教会以上に、社会の堕落と混乱の中にあったことを想像することができるでしょう。ヨハネの使命、それは神さまから離れ去った罪人たちを主のもとに立ち帰らせることでした。預言者ヨハネはすべての人を悔い改めに導いて、それによって共同体を一致させ、子供たちを親たちと共に神様に立ち帰らせるのです。これまで神さまに不従順であった者たちが、従順であった人たちと共に、神さまのご意志に服従するのです。そして皆共に、新しい神さまの恵みが現れるのを、ひたすら待ち望む者になる。ヨハネはそのために働くでありましょう。

そうです。ヨハネは神の教会を建設するために、その地馴らし、道備えをするでしょう。17節で天使は神の言葉をこう締めくくりました。「彼はエリヤの霊と力で主に先立って行き、(複数)の心を子(複数)に向けさせ、逆らう者に正しい人の分別をもたせて、準備のできた民を主のために用意する。」ヨハネの偉大な使命のために彼は生れる前から「偉大な人」と呼ばれました。ヨハネが偉大なのは、母の胎にいるときから聖霊に満たされていたからです。彼がこの世に生まれ出る前から、見ることも聞くこともできないうちに、聖霊が彼を満たしていたと天使は語りました。ヨハネにこの使命を果たさせるのはヨハネ自身ではなくエリヤの霊、すなわち神さまの聖霊が共にいたからであります。

私たちは聖霊の助けがなければ、神の言葉を聞くことができませんし、聞いてもそれが神さまの言葉であると理解できないのです。だから、この知らせを聞いたザカリアは信じられませんでした。長年の願いは既に不可能になっていたのに、神さまが可能にして下さったということも。また、生まれて来るわが子が偉大な使命をいただいて、神さまに仕えるということも。それは気の遠くなるような良い知らせであったのに。『何によって、わたしはそれを知ることができるのでしょうか。わたしは老人ですし、妻も年をとっています。』

人間のこの肉体の耳は、この良い知らせに対して閉じられていることが分かります。自分の目に見えるものに圧倒され、自然の現実が彼を支配しているからです。だから、まさか、そんなことはあり得ないと思うばかりです。しかし、神さまの思いは、私たちの判断、知恵、思いとは別のところにあるのではないでしょうか。神さまは隠れておられ、私たちに思い図るところを超えておられます。すると、私たちには神さまが遠く離れておられ、無力な方であるように見えるのです。これもまた人間の浅はかさと思い上がりの為す結果ではないでしょうか。

これに対して、天使は答えました。「わたしはガブリエル、神の前に立つ者。あなたに話しかけて、この喜ばしい知らせを伝えるために遣わされたのである。あなたは口が利けなくなり、この事の起こる日まで話すことができなくなる。時が来れば実現するわたしの言葉を信じなかったからである。」この天使ガブリエルというの名は、ミカエルの名と並んで、神の王座のまじかにいる最高の天使を指し示す呼び名でありました。つまり単に天使の一人が語っているのではない。聖なる大天使が、神さまから遣わされた者として神さまの言葉を伝えることによって、委ねられた職務を忠実に果たしているのでありました。

それに対して、ザカリアは疑いの心を抱いて、自分が受け取った良い知らせを他の人々に知らせるためには、真にふさわしくない言葉を口にしたわけです。そこで、ガブリエルは彼の不信仰を明らかに咎めるために、一つのしるしを行いました。それは口がきけなくなるという罰でした。天使の言葉がやがて事実となって初めて、ザカリアの不信仰の罪は赦されることになったのです。それまでは彼にとってどんな日々であったことでしょうか。それは苦しい日々であったとしても、決して悲しい日々ではなかったと思います。エリサベトが子を宿したことが分かった日から、ザカリアは悔い改めの祈りを続けて行ったことでしょう。約束通りヨハネが誕生し、神の言葉の真実が明らかになる日の実現をどんなにか待ち望み、喜んで耐え忍んだことでしょうか。

全世界が御子の誕生を祝うクリスマスに向かっているこの時、わたしたちは、成宗教会臨時総会を開いて新しい教師を招聘しようとしています。全く計画的ではないのですが、この日の説教はバプテスマのヨハネについてみ言葉に聴くことになりました。ヨハネは自分がメシアではないかと思う人々に対してきっぱりと否定し、後からお出でになる方こそ救い主であると証ししたのであります。2千年後の私たちから見れば、これは当然のことですが、当時の人々には全く分からなかったでしょう。ヨハネのメシアを待ち望む姿勢こそ、私たちの手本であり、教会に仕え、教会を建てるものであります。

洗礼者ヨハネの次の言葉をお聞きください。ヨハネ福音書3章27節-30節。168頁です。「天から与えられなければ、人は何も受けることができない。わたしは、『自分はメシアではない』と言い、『自分はあの方の前に遣わされた者だ』と言ったが、そのことについては、あなたたち自身が証ししてくれる。花嫁を迎えるのは花婿だ。花婿の介添え人はそばに立って耳を傾け、花婿の声が聞こえると大いに喜ぶ。だから、わたしは喜びで満たされている。あの方は栄え、わたしは衰えねばならない。」

ヨハネが指し示した救い主によって教会は建てられました。イエスさまの教会に仕える者はすべて、救い主の到来を待ち望む者たちであります。この喜ばしい知らせを信じることができるのは、ヨハネに働いてくださった聖霊によるのですから、私たちはいつの時代も忍耐強く教会を建てて、主を待ち望む者となりましょう。「生きているのは、もはやわたしではない」とパウロは言いました。私たちは地上にある限り、主の聖霊によって活かされ、教会の主に結ばれて、生きて働くのです。

成宗教会もこの喜ばしい知らせを伝えるために、全国全世界の諸教会と共に、この地に建てられて来ました。自己中心的で不信仰な世の力が教会の中にも入り込み、兄弟姉妹に大きな躓きを与え、諸教会は苦難の中にありますが、私たちはただ神の御言葉によって活かされていることを、証しして参りました。これからもそうでありますように。そのために成宗教会に新しい時代に向かって教師を招く希望が与えられました。これからも、成宗教会から力強く主の御言葉が語り続けられますように。そして主の聖霊のお働きによってみ言葉が聞き続けられ、み言葉に生かされ、成長する群れとなりますように。祈ります。

教会の頭なる主イエス・キリストの父よ

尊き御名を褒め称えます。あなたは私たちの罪を贖うために御子を世に遣わして、壮大な救いのご計画を実現してくださいました。今日の礼拝を感謝いたします。あなたの御前に非のうちどころのないと言われた祭司ザカリアでさえも、あなたの喜ばしい知らせを信じることができませんでした。私たちは増して罪深く、あなたの善良さ、慈愛に満ちた御心を信じることができず、不信仰のあまり、多くの悩みに陥る者であります。どうぞ、私たちを憐れみ、この罪にも拘わらず、耐え忍んで恵みを現わしてくださるあなたの忍耐と愛を褒め称える者と造り変えてください。

成宗教会を今日まで守り導いて下さったことを思い、真に感謝申し上げます。沢山の苦難、困難がありましたが、私たちの不信仰を打ち砕いて、困難な中に力強くお支えくださっているあなたの聖霊のお働きを見上げることが許されました。大きな恵みでございました。私たちは大きく力に溢れている時以上に、弱り果て困難を抱えている信徒の方々の背後に働くあなたの愛を強く感じ、励まされて参りました。

本日私たちの教会では、長老会が新しいお二人の教師をお招きして共に教会を建てる働きをお願いするために、臨時総会を開きます。先生方には成宗教会の牧師となっていただくばかりでなく、主の体の教会形成のために、東日本連合長老会を通して、また改革長老教会協議会、また、日本基督教団の神学校である東京神学大学を通して、広く、深く教会と手を携えて働いていただく教師としてあなたが任務をお与えになることを願います。成宗教会にとってこれ以上の大きな望みはございません。どうか、あなたの御心ならば、小さな群れに、この大きな志をお与えくださり、この群れをあなたの御用のためにお用いくださいますようお願いいたします。

来週のクリスマス主日聖餐礼拝の上に、教会学校の礼拝の上に、またイヴ礼拝の上に、あなたの恵みをお与え下さい。多くの人々が集められ、み言葉なるキリストの祝福に与ることができますように。主よ、どうか奉仕する者の健康を支えてください。今、心身に不安のある多くの方々を覚えます。どうぞあなたの豊かな顧みが、皆様の上にございますように。

この感謝と願いとを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。