神の栄光に包まれて

主日礼拝説教

齋藤 正 牧師

《賛美歌》

讃美歌10番
讃美歌352番
讃美歌461番

《聖書箇所》

旧約聖書:列王記 上 19篇8-18節 (旧約聖書566ページ)

19:8 エリヤは起きて食べ、飲んだ。その食べ物に力づけられた彼は、四十日四十夜歩き続け、ついに神の山ホレブに着いた。
19:9 エリヤはそこにあった洞穴に入り、夜を過ごした。見よ、そのとき、主の言葉があった。「エリヤよ、ここで何をしているのか。」
19:10 エリヤは答えた。「わたしは万軍の神、主に情熱を傾けて仕えてきました。ところが、イスラエルの人々はあなたとの契約を捨て、祭壇を破壊し、預言者たちを剣にかけて殺したのです。わたし一人だけが残り、彼らはこのわたしの命をも奪おうとねらっています。」
19:11 主は、「そこを出て、山の中で主の前に立ちなさい」と言われた。見よ、そのとき主が通り過ぎて行かれた。主の御前には非常に激しい風が起こり、山を裂き、岩を砕いた。しかし、風の中に主はおられなかった。風の後に地震が起こった。しかし、地震の中にも主はおられなかった。
19:12 地震の後に火が起こった。しかし、火の中にも主はおられなかった。火の後に、静かにささやく声が聞こえた。
19:13 それを聞くと、エリヤは外套で顔を覆い、出て来て、洞穴の入り口に立った。そのとき、声はエリヤにこう告げた。「エリヤよ、ここで何をしているのか。」
19:14 エリヤは答えた。「わたしは万軍の神、主に情熱を傾けて仕えてきました。ところが、イスラエルの人々はあなたとの契約を捨て、祭壇を破壊し、預言者たちを剣にかけて殺したのです。わたし一人だけが残り、彼らはこのわたしの命をも奪おうとねらっています。」
19:15 主はエリヤに言われた。「行け、あなたの来た道を引き返し、ダマスコの荒れ野に向かえ。そこに着いたなら、ハザエルに油を注いで彼をアラムの王とせよ。
19:16 ニムシの子イエフにも油を注いでイスラエルの王とせよ。またアベル・メホラのシャファトの子エリシャにも油を注ぎ、あなたに代わる預言者とせよ。
19:17 ハザエルの剣を逃れた者をイエフが殺し、イエフの剣を逃れた者をエリシャが殺すであろう。
19:18 しかし、わたしはイスラエルに七千人を残す。これは皆、バアルにひざまずかず、これに口づけしなかった者である。」

新約聖書:マルコによる福音書 9章2-8節 (新約聖書78ページ)

9:2 六日の後、イエスは、ただペトロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。イエスの姿が彼らの目の前で変わり、
9:3 服は真っ白に輝き、この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほど白くなった。
9:4 エリヤがモーセと共に現れて、イエスと語り合っていた。
9:5 ペトロが口をはさんでイエスに言った。「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」
9:6 ペトロは、どう言えばよいのか、分からなかった。弟子たちは非常に恐れていたのである。
9:7 すると、雲が現れて彼らを覆い、雲の中から声がした。「これはわたしの愛する子。これに聞け。」
9:8 弟子たちは急いで辺りを見回したが、もはやだれも見えず、ただイエスだけが彼らと一緒におられた。

《説教》『神の栄光に包まれて』

ご一緒に読んで参りましたマルコによる福音書では8章のペトロの信仰告白に続いて主イエスご自身による受難予告と続きました。本日の9章2節には、「イエスは、ただペトロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。」と、あります。この「山」とは、これまで続けて来られた旅の経過から考えて、ヘルモン山と見るのが妥当でしょう。ヘルモン山は、フィリポ・カイサリア地方の北にあり、海抜2,850m、一年中雪を残す高山です。
主イエスは、三人の弟子たちだけを連れて、何のために山へ登られたのでしょうか。本日の物語は、極めて象徴的かつ神学的であり、信仰の知恵を巡らせて読まなければならない特殊なものと言えましょう。
私たちは、毎週、聖日の礼拝に導かれ、御言葉を聞く時を与えられています。それは、この世の生活の中にある私と、神の御業の中にある私、この両者の正しいあり方を、神は、礼拝という出会いの場に於いて教えられるからです。主イエスが「山に登られた」ということも、当時のこの世での生活に厳しく生きる弟子たちのために、特別に用意された恩寵の時と理解すべきでしょう。「山」とは、旧約聖書以来、神が用いられた恵みの場、教えの場でした。
改めて振り返って見るならば、旧約聖書で、モーセが十戒を授けられたのは「シナイの山の上」でした。バアルの預言者と闘ったエリヤがアハブとイゼベルに追われた時、彼は「神の山ホレブに逃れた」と記されています(列王記上 19章8節)。新約聖書でも、十二使徒を選出したのは「山の上」(マルコ福音書3章13節以下)であり、祈る時、「イエスは山に登られた」とさまざまな箇所で記されています。さらに、甦られた主イエスは、ガリラヤの山の上で弟子たちに出会い(マタイ福音書28章16節)、再臨を約束して天に帰られたのもオリーブ山からでした(使徒言行録1章9節以下)。「山に登る」とは、信仰的に特別な場面を示しているのであり、聖書に於いては、「神との出会いの場」「神とのふれあいの場」「聖なる御業の行われる場」を象徴的に示唆するところです。聖書に記される「山」は「天上の出来事と地上の出来事との接点である」とも言えるでしょう。それ故に、私たちは、「その山」が「何処の山か」ということを考えることが大切なのではなく、「そこで行われていることが何であるか」ということを、改めて聖書から聴き取らなければならないのです。
この時、主イエスが、弟子たちを連れてヘルモン山に登ったことは確かでしよう。しかし、そこで起こったことは、「ヘルモンという山の上で起こった出来事」ということではなく、「神の国の秘密を垣間見せて頂く、特別な出来事であった」ということなのです。それは、2節以下の、「イエスの姿が彼らの前で変わり、服は真っ白に輝き、この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほど白くなった。」とあることからも分かります。
物語はここから純粋に信仰的表現の世界に入ります。私たちの世界にない出来事を語っているのです。
そもそも、私たちが用いる言葉は、この世界に存在しないものを表現することにはまったく向いていないのです。何故なら、言葉というものは、私たちが現実の世界の中で体験し、考えた事柄を「説明するために」造られたからです。
神を正しく表現する言葉は、私たちの世界には存在しません。聖書には「いまだかつて、神を見た者はいない」(ヨハネ福音書 1章18節)と記されています。見たこともないものを語る言葉は、当然、「ない」のです。
それ故に、聖書は「本来表現することの出来ない神の出来事」を「私たちが知っている言葉」を用いて語らざるを得ません。聖書を読む時、常に心得なければならないことは、信仰の出来事、神の出来事は、「私たちの日常的な世界を超えるものである」ということです。そしてそれ故に、言葉で示される出来事を、言葉を超える知恵をもって理解しなければならないのです。ここで、「イエスの姿が変わり、服は真っ白に輝いた」と記されていますが、ルカ福音書はここを「顔の様子が変わり」(ルカ福音書8章29節)と記し、マタイ福音書は「顔は太陽のように輝き」(マタイ福音書17章2節)と述べています。さらに、十戒を受けた時のモーセの姿は、「モーセは、山から下ったとき、自分が神と語っている間に、自分の顔の肌が光を放っているのを知らなかった。アロンとイスラエルの人々がすべてモーセを見ると、なんと、彼の顔の肌は光を放っていた。」(出34:29-30)と記されています。
この「顔が輝いた」という表現は、「神との出会い」「神の栄光」を表す信仰的な表現なのです。「白い服」も同じです。「神の義・正しさ」「神の聖・聖さ」を表すための表現です。「これ以外表現しようがない限界」とも言えるでしょう。ペトロ、ヤコブ、ヨハネの三人は、今、ここで、主イエスの御姿の中に、紛れもない「神の栄光」を見たのであり、神御自身と出会う驚くべき体験は、「このように表現せざるを得なかった」ということなのです。4節には、「エリヤがモーセと共に現れて、イエスと語り合っていた。」とあります。
モーセは旧約聖書の「律法の象徴」、エリヤは旧約聖書の「預言者の象徴」です。これまでも主イエスを妨害していた律法学者・ファリサイ派、また神殿で権威を誇示している大祭司や祭司たちは、この律法の象徴モーセと預言者の象徴エリヤに自分たちの権力の根拠を置いていました。イスラエル固有の信仰は律法と預言者によって与えられており、律法と預言者に従うことを「何よりも大切なこと」と考えていたために、新しい福音を告げる主イエスを排撃し、抹殺しようとしたのです。
しかし、ルカ福音書9章31節は、この時の語り合いの内容が「イエスがエルサレムで遂げようとしている最期について」であったと記しています。律法と預言者が告げて来たことの結論が「イエスの十字架と復活である」ということを、この場面は示しており、見方を変えるならば、全聖書が語ること、父なる神の御計画の全てが、この「山の上の一場面で明らかにされた」と言うことが出来るのです。この幻の場面こそ、神の御業の奥義の開示でした。
すると、5節から6節で、「ペトロが口をはさんでイエスに言った。『先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。』ペトロは、どう言えばよいのか、分からなかった。弟子たちは非常に恐れていたのである。」とあります。
大いなる神の秘密に初めて直面した弟子たちが声も出なかった時、ペトロだけが、ようやくこれだけのことを口にすることが出来ました。驚くべき出来事に直面した混乱の中ではあっても、ペトロには口を挟む余裕があったことは確かでしょう。移住生活を基本とする荒野の民にとって、「小屋を建てましょう」とは、「何時までもここに留まって欲しい」という強い願望を表現しているのです。
神に出会った者。神の御姿を仰いだ者。神の栄光を身近に接した者、その人たちの眼は、一体、何を見るのでしょうか。それは、これまで生きて来た世界と余りにもかけ離れた潔さであり、純粋さです。そして私たちの誰一人として、その潔さに憧れない者は居ません。
悲しみも苦しみもない世界。面倒臭い人間関係も、もはやなくなっている世界。傷つける者もなく、傷つけられることもなく、憎しみや陰口もなく、ただ、永遠なる神と共にある純粋な世界。それこそ、私たち誰もが憧れる世界であり、「神の国こそ、そのような世界である」のです。
パウロは、その素晴しさをフィリピ書1章23節で告白し、「この世を去って、キリストと共にいたいと熱望しており、このほうがはるかに望ましい」とさえ記しています。
ペトロもそうだったのです。彼は、ここに「自分の幸福」を見ました。「此処こそ、私が留まるべき世界だ」と思ったのでしよう。「再び、あの面倒臭い『山の下』へ戻って行きたくない」と考えたのも無理はありません。
主イエスの時代、町や村を離れ、荒れ野の中に清潔さを求めて住んだエッセネ派と呼ばれる人々。社会から完全にかけ離れて純粋な信仰に生きようとした後世の修道士たち。皆、考えたことは同じでした。その気持ちは分かりますが、しかしながらそれが「現実から遊離したもの」と言わざるを得ないのは、いったい何故でしょうか。それは、大切なことを忘れているからであり、ペトロもまた、最も大切なことを見落としているからです。それは、幻で示されていた内容です。
この語り合いが「イエスの受難に関してであった」とは、先に述べたようにルカが記している通りです。父なる神は、全ての御業の結末を「御子キリストの十字架と復活」とされているということであり、この幻は、その御心を明らかに告げるものでした。
ペトロが願ったように、もし、主イエスがこの場に永遠に留まるならば、十字架と復活はどうなったでしょうか。全ての人々の救いとなる贖いの御業はいったいどうなったでしょうか。
7節には、「すると、雲が現れて彼らを覆い、雲の中から声がした。『これはわたしの愛する子。これに聞け。』」とあります。これは、ペトロの願いに対する神の拒否です。突如わき起こった雲は、「神の臨在」を表す信仰的表現です。そこに居られた父なる神は、ペトロの願いを退け、「すべてはキリストに聞け」と言われたのです。
信仰に於いて最も大切なことがここにあります。キリスト者の姿勢は、「自分がどのような気持ちになったか」「自分が何を望むか」ということではなく、「主なる神が、今、何をされようとしておられるのか」を聞き取ることであり、「御子キリストは、何を実現しようとしておられるのか」を聴くことでなければならないからです。
ペトロは、そのことを考えていませんでした。この直前、フィリポ・カイサリアに於いて、主イエス御自身がお教えになった受難の予告を、彼は心に留めていなかったのです。(マルコ福音書8章1節以下参照)。
主イエスの十字架を抜きにしてエデンの園を回復しようとする試みとは、荒野に於いて、サタンが主イエスに働きかけた誘惑です。そして、主イエスは、四十日四十夜の祈りの後、「それを拒否し、退けられた」と聖書は記しています(マタイ福音書4章1節以下参照)。キリストの御心、御業の中にこそ、父なる神が喜ばれるすべてのことが備えられており、キリストに従うことこそが、信仰者の行くべき唯一の道なのです。
それ故にパウロは、「この世を去ってキリストと共にいたい」と言いながら、同時に、「生きるとはキリストである」即ち「十字架を背負って生きることこそ、キリストの御旨である」と告白しているのです。
8節には、「弟子たちは急いで辺りを見回したが、もはやだれも見えず、ただイエスだけが彼らと一緒におられた。」とあります。まさに象徴的光景と言うべきでしょう。幻は消えるのです。その後に残るものは何でしょうか。「ただ、イエスだけが彼らと一緒におられた」と聖書は記しています。「ただイエスだけが」です。そして、主イエス・キリストがおられるところこそ、私たちが生きるべき場なのです。
この「山の上」の出来事を、主イエスのお姿が変わったということから「山上の変貌」とも呼びます。しかし、「変わった」と言うならば、どちらが本当の姿なのかということを先ず確かめるべきではないでしょうか。ペトロはここに「神の栄光」を見ました。真実の御姿がここで教えられました。
そしてこの瞬間、示された「栄光の神」こそ、御子キリストの本当のお姿だということに気付くべきです。弟子たちと共に旅をして来たナザレのイエスは、神の御子が人間の姿をとったものであり、普段弟子たちの見慣れたお姿は、逆に人となった「変貌の姿であった」と言わなければならないのです。
たとえ、一瞬ではあっても、「山の上」でペトロが味わった真実を見た感激と喜び。パウロが苦難の中で生涯憧れ続けた「神の国の平安」。その喜びと平安を現実にするために、神の御子は敢えて御姿を変え、この世に来られたという信仰の奥義を、本日の聖書は語っているのです。
栄光に満たされた方が、何故、人の姿をお取りになったのでしょうか。それまでして、実現しようとされたことは一体何であったのでしょうか。
山の上の栄光を見た者は、このことにこそ眼を向けなければなりません。「栄光を自ら捨てて世に降られた方の御心」を、今、私たちは、正面から受け止めなければならないのです。
「御心に従って生きる」とは、自分の希望を最優先して、「山の上に留まること」を願うのではなく、それほどまでにして私たちを愛して下さった方のそばを離れず、「何処までもついて行く」こと、これこそがキリスト者の生き甲斐と言うべきです。
8節の、「イエスだけが彼らと一緒におられた」。これこそが「山」を下りた者に対する神の恵みであり、私たち、この世を生きる者に対する「力と勇気の源」の恵みの知らせなのです。

お祈りを致します。

バベルの塔

主日CS合同礼拝説教

齋藤 正 牧師

《賛美歌》

讃美歌68番
讃美歌187番
讃美歌495番

《聖書箇所》

旧約聖書:創世記 11章1-9節 (旧約聖書13ページ)

11:1 世界中は同じ言葉を使って、同じように話していた。
11:2 東の方から移動してきた人々は、シンアルの地に平野を見つけ、そこに住み着いた。
11:3 彼らは、「れんがを作り、それをよく焼こう」と話し合った。石の代わりにれんがを、しっくいの代わりにアスファルトを用いた。
11:4 彼らは、「さあ、天まで届く塔のある町を建て、有名になろう。そして、全地に散らされることのないようにしよう」と言った。
11:5 主は降って来て、人の子らが建てた、塔のあるこの町を見て、
11:6 言われた。「彼らは一つの民で、皆一つの言葉を話しているから、このようなことをし始めたのだ。これでは、彼らが何を企てても、妨げることはできない。
11:7 我々は降って行って、直ちに彼らの言葉を混乱させ、互いの言葉が聞き分けられぬようにしてしまおう。」
11:8 主は彼らをそこから全地に散らされたので、彼らはこの町の建設をやめた。
11:9 こういうわけで、この町の名はバベルと呼ばれた。主がそこで全地の言葉を混乱(バラル)させ、また、主がそこから彼らを全地に散らされたからである。

《説教》『バベルの塔』

今日の創世記11章1節は、「世界中は同じ言葉を使って、同じように話していた。」と始まりました。そして今日最後の9節には、「こういうわけで、この町の名はバべルと呼ばれた。主がそこで全地の言葉を混乱(バラル)させ、また、主がそこから彼らを全地に散らされたからである。」と終わっています。

この物語は「世界になぜ多くの言語があるのか」という“理由を語る物語”の様に思われます。そのため、聖書が9節で親切にも解説をつけてくれているように、「バベル」という言葉を「混乱させる」という意味のヘブル語ハーラルと結び付けて、「神が審きとして人間を混乱させたのだ」と解釈した時代もありましたが、今は不適切であると言われています。言語の多様性を語ったとしても、それがなぜ起こったのかという本当の理由が説明できないからです。

この不思議な物語の正しい意味を知るためには、物語そのものを、古代人の心で改めて読み直すことが必要なのです。改めて読んでみると、1節は世界の歴史を語るものでないことに気付きます。何故なら「ノアの洪水の後」の時代について創世記10章5節は「海沿いの国々は、彼らから出て、それぞれの地に、その言語、氏族、民族に従って住むようになった。」とあります。ここにはノアの洪水以降、人間が増えて民族となって分かれ、次第にそれぞれの言語を持つようになったと記されています。これから考えると、「世界中は同じ言葉を使って、同じように話していた」という本日の11章1節は、創世記10章の記述とは明らかに矛盾していると言えます。

バベルの塔の物語から、この物語は人間の言語の多様性を説明する物語であるという「伝統的な解釈」を取り去ってみると何が見えてくるでしょうか。そこには、人間の惨めさに関する聖書の指摘という新しい枠組みが見えて来るのではないでしょうか。

私たちの世界では、一つの国家が一つの言語ということは、必ずしも当然のことではなく、幾つもの異なる言語を持つ国は決して珍しくありません。まして巨大な国家では、同じ国民同志でも全く言葉が通じないという例は沢山あります。かつてのソ連では、プラウダという国営新聞が、国内用に毎日130の言語で印刷されていました。

確かに、ひとつの言語ですべてが間に合うということはありがたいものです。しかしながら、本日改めて注意すべきことは、言葉が通じたからと言って、それで「互いの心と心とが通じ合うとは限らない」ということです。

自分の語る言葉がいかに誤解されてしまったかといった経験を、誰でも持っているのではないでしょうか。「私のあの言葉がそんな意味で受け取られるとは、思ってもいなかった」という嘆きは、私たちが常に味うものです。

このことから明らかにされるこの物語の重要な点は、「同じ言葉を使って、同じように話していた」という聖書の記述は、「言葉が同じであった」という、単なる状態を示しているのではないということです。

もう少し深く考えてみると、ここは「言葉」と「言語」の違いであるとも言えるでしょう。「言語」とは人の意思伝達の一種の共通の記号と言えます。しかし「言葉」とは、人が自分の心の中にあるものを表現し、自分の意志を相手に伝えるものです。言語が通じたからと言って、互いの意志が明らかになるとは限りませんし、まして「心が通じ合う」ということにはなりません。

このように、「言葉と心」という関係を考えると、「バベルの塔」の問題は明らかになってきます。「同じ言葉を使って、同じように話していた」とは、用いる言語が一つであったという単純なことではなく、「心と心とが響き合う状態であった」ということを示しているのです。とするならば、それこそ「楽園の姿」であり、かつて、本来の人間、アダムとエバの間に成り立っていた「本来の人間の姿」であったとも言えるのではないでしょうか。

その姿が崩壊し「言葉が乱され、全地に散らされた」ということは、心と心の間に大きな壁が出来、その結果、互いの理解が不十分となり、世界に憎しみ・争いが発生し、人は生きる苦しみの中に追いやられた、ということになるでしょう。即ち、楽園追放後の世界・罪の世界に生きる人間の惨めさを聖書は示しており、バベルの塔の物語において、「人は何故苦しんで生きるようになったのか」という根本的問題が改めて語られているのです。

2節以下にありますように、東のメソポタミア地方から移動してきたイスラエルの人々は、シンアルの地に平野を見つけ、そこに住み着きました。彼らは、「れんがを作り、それをよく焼こう」と話し合いました。石の代わりにれんがを、しっくいの代わりにアスファルトを用いた、とあります。この「シンアルの地」とは、チグリス・ユーフラテス流域の平原地帯を指す言葉であり、現在のイラクの辺りと考えてよいでしょう。

遠い昔、石が少ないメソポタミア地方に移って来たイスラエルの人々は、強烈な日差しの下で粘土を乾かし、焼き、立派な日干しレンガを作り上げ、またアスファルトを用いることを発見しました。その昔の泥を塗った家に住んでいたことから比べると、これだけでも画期的な進歩でした。更に、この建築技術によって堅固な城壁を造り、敵の侵略から守り、全員が生命の危険に襲われることのないようにしたことから、強い団結が生じました。当時は、ひとつの町がひとつの国でもあったのですから、これは国造りを始めたと言ってもよいでしょう。そして彼らは、自分たちの社会の中心として「塔」の建設を目指したのです。ここで語られている「塔」とは、現在メソポタミア地方に多くの遺跡として残っているジクラットのことでしょう。ジクラットとは神を祀る礼拝所のことです。

当時の人々は、神は高きに居ますと考え、それを空間的に理解しました。それ故に、礼拝の場所を出来るだけ高い所に造り、平野部では、それが「塔」となったのです。「塔」と言っても、形はピラミッドのようなもので、表面には石段が造られています。高きに居ます神はこの塔の石段を降りて来るのであり、また祭司は、「塔」の頂上に上がって祈ることにより、神に近く立つことが出来ると考えました。言わば「塔」は、天と地の連絡場所であったとも言えるでしょう。

バベルの人々は、この礼拝所を中心にして、優れた文化と団結心により、理想的な国家の建設を目指しました。これは当時の人間が、自分たちの持つ能力のすべてを出し切った結果であり、信仰を中心にして一生懸命に生きようとする社会的行為でした。しかしここで、残念ながら、最も大切なところでバベルの人々は間違った、ということを指摘しなければなりません。5節に、主は「塔のあるこの町を見て、言われた。」とあります。原文では、ここは「見た。そして言った」となっており、「見た」ということが先ず強調されています。即ち、最も重要なことは、「主が見ておられる」ということです。世界の造り主であり、支配者であられる主なる神が、すべてをご覧になっているのです。

バベルの人々は、「天まで届く塔のある町を建てよう」と言いました。これは「立派な大きな塔を建てよう」というだけのことではありません。「天に届く塔」、ここが問題なのです。

高きに居ます神は塔を伝って降りて来られると人々は考えていましたが、しかしなお、「塔の頂き」と「天」との間には、広大な空間があります。その広大な空間を、神のみが、人間に考えられない力をもって自由に行き来されるのです。塔の頂上と神の住まいである天と、その空間こそが神と人間の格差を表し、人間にとって、越えることの出来ない絶対的な隔たりでした。神は自由に降りて来られるが、人間は「塔の頂上」以上に登ることは出来ない。それが神と人間との大きな違いでした。

しかしバベルの人々は、「天に届く塔を建てる」ということによって、その格差を、自分たちの努力によって解消しようとしたのです。神が住まわれる場所である「天」にまで自由に登るために、神と人間とを隔てる空間を、自分たちの技術と知恵と努力によって埋めてしまおうと企てたのです。まさにこれこそ、人間自らが神と等しくなろうとする志に他なりません。エデンの園で蛇はエバを「神のようになる」と言葉巧みに誘惑しました。「神のようになる」。これこそ、世界で初めてなされたサタンの誘惑の言葉であり、神に対する人間の決定的な罪の姿であったことを思い返すべきでしょう。バベルの人々は、自分たちの社会の中心に礼拝所を建てましたが、それこそが、神を否定する最大の拠点になったのです。

5節には、「それによって有名になろう」と記されていますが、これは人々の間で名を知られるという意味での「有名」ではなく、「名をなす」「自分の名を高める」という意味です。即ち、神の御名が崇められるのではなく、高められるのは「人間自身」であり、人間が神の上になることなのです。ですから、そこでの神は、人間が自由に利用出来る神であり、自分たちの行いを正当化するための「単なる道具」に過ぎません。これがサタンが唆す人間中心の罪の世界なのです。神を恐れることを忘れた人間が、優れた知恵を持ち、進んだ文化を作り上げ、絶えざる努力を重ねれば重ねる程、そこに実現されるのは、恐るべき悪魔の世界と言うべきでしょう。そしてその悪魔の世界の建設に、町の人々が「心を一つにして」一致団結して向かったというところに、この物語の悲劇性があるのです。

6節から、「これでは、彼らが何を企てても、妨げることはできない。我々は降って行って、直ちに彼らの言葉を混乱させ、互いの言葉が聞き分けられぬようにしてしまおう。」とあります。

これが神の審きでした。既に述べたように、「言葉」とは、単なる「言語」ではなく、人の幸福に直結するもの、即ち、「心」の問題です。「心」が通じ合わなければ、「心」を表す道具としての「言語」は、もはや言葉としての役を果たしていないと言わなければならないでしょう。バベルの人々の姿は、神を無視して生きようとした人間の罪を暴露するものでした。そしてその結果として「全地に散らされた」とは、世界各地にという意味ではなく、「本来の故郷・帰るべき楽園から限りなく隔てられた」という意味で理解するべきでしょう。

つまり、誤解と無理解、悪意と中傷で満ち満ちている私たちの世界の現在の混乱は、「自ら神に等しくなろうとした罪に対する、神の審きの結果である」と聖書は告げているのです。そして、罪がもたらす惨めさを痛感するならば、その惨めさの中にある私たちこそ、神の怒りによって散らされた、あのバベルの人々の末裔であることを認めざるを得ないでしょう。

地上の諸民族がそれぞれ違う言葉を語り、言葉が通じない、それゆえに共に生きることができない、一つとなることができない、それこそが私たち人間の、救いを必要としている状態です。一つとなって共に生きることこそ、神様が本来人間を造って下さった御心であり、それのかなうところが楽園なのです。そのような人間の一体性を、人間の側からバベルの塔を建てることによって一つにすることは人間の傲慢以外の何者でもありません。

神様は、それとは全く違う御業で、散り散りになっている人間を一つにして下さいます。言葉が通じない状態から救い出し、人と人とが本当に共に生きることができるようにして下さるのです。

主イエスが十字架にかかって死なれ、三日目に復活され弟子たち始め沢山の人々に40日間に亘ってお姿を現され天に昇られました。その昇られた天から「助け主」であり「弁護者」である精霊を遣わすと約束していてくださいました。そして「ペンテコステ」「五旬節」の日の精霊降臨については使徒言行録2章に詳しく記され、皆様も良くご存じでしょう。この使徒言行録2章を思い出していただくと5節に「エルサレムには天下のあらゆる国から帰って来た、信心深いユダヤ人が住んでいたが、この物音に大勢の人が集まって来た。そして、だれもかれも、自分の故郷の言葉が話されているのを聞いて、あっけにとられてしまった。」と不思議な記事がありました。言葉の通じないと思っていた人たち同士に意思が通じ合ったのでした。このペンテコステは「初めて教会が出来た日」です。ここでバベルで乱された言葉がお互い理解できる言葉として戻って来たのです。何処へ戻ったかと言えば、「初めて造られた教会」であったのは言うまでもありません。バベルの人々の傲慢で退けられた神の愛が、主イエス・キリストの十字架の赦しを通した精霊降臨をもって人々の間に再び愛が復活したのです。

来るべきまことの救い主イエス・キリストと、キリストのもとに集められる新しいイスラエルである教会がそれであると指し示されているのです。主イエス・キリストが、私たち全ての者の罪を背負って十字架にかかって死んで下さったことによって、神様の救いが実現したのです。そしてその主イエスを信じ、その救いにあずかる者たちの群れである教会において、すべての人が一つとされていくのです。神様はバベルの塔を建てる人間の罪に対して言葉が通じない、といった審きではなく、主イエス・キリストの十字架の救いをもって新しい救いの道に導かれようとしているのです。

お祈りを致します。

キリストに従う

主日礼拝説教

齋藤 正 牧師

《賛美歌》

讃美歌9番
讃美歌310番
讃美歌512番

《聖書箇所》

旧約聖書:創世記 25章24-33節 (旧約聖書39ページ)

25:24 月が満ちて出産の時が来ると、胎内にはまさしく双子がいた。
25:25 先に出てきた子は赤くて、全身が毛皮の衣のようであったので、エサウと名付けた。
25:26 その後で弟が出てきたが、その手がエサウのかかと(アケブ)をつかんでいたので、ヤコブと名付けた。リベカが二人を産んだとき、イサクは六十歳であった。
25:27 二人の子供は成長して、エサウは巧みな狩人で野の人となったが、ヤコブは穏やかな人で天幕の周りで働くのを常とした。
25:28 イサクはエサウを愛した。狩りの獲物が好物だったからである。しかし、リベカはヤコブを愛した。
25:29 ある日のこと、ヤコブが煮物をしていると、エサウが疲れきって野原から帰って来た。
25:30 エサウはヤコブに言った。「お願いだ、その赤いもの(アドム)、そこの赤いものを食べさせてほしい。わたしは疲れきっているんだ。」彼が名をエドムとも呼ばれたのはこのためである。
25:31 ヤコブは言った。「まず、お兄さんの長子の権利を譲ってください。」
25:32 「ああ、もう死にそうだ。長子の権利などどうでもよい」とエサウが答えると、
25:33 ヤコブは言った。「では、今すぐ誓ってください。」エサウは誓い、長子の権利をヤコブに譲ってしまった。

新約聖書:マルコによる福音書 8章34節~9章1節 (新約聖書77ページ)

8:34 それから、群衆を弟子たちと共に呼び寄せて言われた。「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。
8:35 自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。
8:36 人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。
8:37 自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。
8:38 神に背いたこの罪深い時代に、わたしとわたしの言葉を恥じる者は、人の子もまた、父の栄光に輝いて聖なる天使たちと共に来るときに、その者を恥じる。」
9:1 また、イエスは言われた。「はっきり言っておく。ここに一緒にいる人々の中には、神の国が力にあふれて現れるのを見るまでは、決して死なない者がいる。」

《説教》『キリストに従う』

先週は夏休みを頂き、感謝のうちにゆったりとした時間を与えられました。皆様も久し振りに私以外の牧師から御言葉を聞く機会が与えられ、如何でしたか、本日から「緊急事態宣言」も解除され徐々にいつもの生活に戻りますが、まだまだ油断はできません。引き続き、当面の間、このライブ配信を続けますので、感染に不安のある方は、どうぞ続けてYoutubeによるライブ配信をご視聴ください。

聖書には、思いがけないところに思いがけない言葉が使われていて、しばしば読む者を困惑させることがあります。本日のマルコによる福音書8章34節に突如現れる「群衆」という言葉もその一つです。

「それから、群衆を弟子たちと共に呼び寄せて言われた。」とあります。

本日の、この物語は、8月29日にお話しした8章27節からのペトロの信仰告白に始まる受難物語の一部分であることは明らかです。この時主イエスは、ユダヤ人たちの憎しみをしばらく避けるために、遙か北のフィリポ・カイサリアの地方へ弟子たちを連れて行かれました。27節以下を辿れば、そこにいたのは弟子たちだけであり、他には誰もいなかった筈です。

ところが、34節では、突如「群衆を呼び寄せた」と記されているのです。表面的に読むと、「弟子たちに教えておられる間に、群衆が集まったのであろう」と思われますが、ここ迄のところを改めて読み返してみると、もっと深い意味があるように思われます。

27節から振り返ってみますと、聖書は、「主イエスへの信仰」について、三段階で発展的に語っていることが分ります。

第一段階は、27節から30節に記されていた「ペトロの信仰告白」です。「あなたはメシアです」というペトロの決断の表明、ペトロの個人的な信仰告白がなされました。

第二段階は、31節から33節で語られていた「第一回目の受難の予告」で、「ペトロの個人的な信仰告白」に主イエス御自身が、その信仰内容を明確にされたのがこの箇所でした。信仰告白は、個人の主観によるものではなく、主イエス・キリスト御自身がその内容を決定されるのです。信仰告白の内容に関するこの部分では、もはやペトロ個人だけでなく、弟子たち全員が主の御言葉の対象になっています。

そして最後の第三段階が、本日の34節から38節です。この部分の主題は「信仰の実践」と言えるでしよう。キリストの甦りを告白する人間は「どのように生きるべきか」が教えられ、あらゆる時代の全てのキリスト者の「生き様」がここに告げられているのです。ここに突然、「群衆」という言葉が出て来るのです。

このように見て来ると、以上の三つの段階は、極めて意味深い内容を備えていると言えるでしよう。正しい信仰とはこの全てを備えていなければならず、第一段階の信仰告白を欠いては信仰の意味を成さず、第二段階の主イエスの宣告を聞かなければ第三段階の信仰の実践は不可能です。

ですから、ここで突如現れる「群衆」が、もし「この時やっと集まって来た人々」であったならば、34節以下の御言葉を正しく理解することは不可能です。そこで私たちは、この「群衆」という言葉を、「その場にやって来た人々」という以上の「象徴的意味」で考えることが必要になって来ます。

信仰とは、何よりも先ず、一人の人間の決断が根底になければなりません。歴史の中で、ナザレのイエスを「神の子キリストである」と告白した一人の人間ペトロがいたのです。そして主イエスは、その「一人の人間の告白」を用いて幾人かの人々に福音の何たるかを教え、信仰を「一般的」で「普遍的」なものにされました。これを公に同じと書いて「公同信仰」と呼びます。この「公同性」が教会を形作り、キリスト信仰を世界共通の「普遍的」なものとしたのです。

27節以下の一連の物語は、主イエスがお話になっている間に「だんだん人が増えていった」というような自然発生的なことではありません。ペトロの信仰告白を、その傍らで単なる聴衆として聞いていた人が、主イエスの言葉によって明らかにされた教会の信仰へ導かれ、そして「あなたもその道を行くべきではないのか」という問い掛けを、自分に向けられた課題として受取ったということです。

ですから、ここで「呼び寄せた」と言われている「群衆」とは、このとき自然に集まって来たフィリポ・カイサリアの人々だけではなく、実は、同じように「主に呼び寄せられて」、この礼拝に集ってきた私たちでもあるのです。

信仰とは、他人の告白を聴いたり、教理の内容を学ぶことではありません。主イエスに促されて「私もその道を行く」と告白し人生の旅路を歩む人のことです。それが、34節にある、「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」との御言葉です。

それでは、私たちはどのように生きるべきなのでしょうか。キリスト者の生き方の根本が三つの条件で記されています。

先ず第一に何よりも大切なことは、自分を「捨てる」ということです。「捨てる」と訳されている「アパルネオマイ」という言葉は、ギリシャ語で、強く「否定する」という意味です。主イエスは十字架につけられる前夜、最後の晩餐の際、ペトロが主イエスを「否定:アパルネオマイ」することを予告されました。主イエスが捕らえられた大祭司の家の庭で、ペトロは三度にわたって「私はあの人を知らない」「私はあの人と関係はない」と強く否定しました。この一連の場面で用いられている「知らない」(マルコ福音書14章30節、72節)という言葉も34節の「自分を捨てる」の「捨てる」(アパルネオマイ)「否定する」という同じ言葉です。

大祭司の庭でのペトロは、死の恐怖の前で自分の命を惜みました。自分を否定出来ませんでした。惨めな姿をさらしている主イエスに従って行くことが出来ませんでした。それ故にペトロは、自分を守るために主イエスとの絆を自分から切り離そうとしたのです。

キリストの復活を信じ、キリストの御言葉に自分の将来を見るならば、先ず「自分自身を捨てよ」と主イエスは教えておられるのです。誇りに満ちた自分の生き様、これまで辿って来た人生の目標、何よりも大切にして来た価値観、その全てを意味なきものとして投げ捨てる決断が必要なのです。

罪に塗れた自分自身を捨てることが、「信仰の第一歩なのだ」と主イエスは教えておられるのです。

そして、信仰にとっての第二歩は、「自分の十字架を負う」ということです。キリストの十字架は罪の贖いでした。ですから、私たちはキリストと同じ十字架を背負うのでは有りません。ただキリストが、どのようなお姿で十字架への道を歩まれたかを思い起こすべきなのです。それは、この後のマルコ福音書14章36節に、「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」とあります。

この「わたしが願うことではなく」とは、当然「自己否定」を意味します。そして「御心に適うことが行われますように」という祈りこそが、「自分の十字架を負う」ということで、「父なる神が示された道を歩む」ということです。生涯の目的を自分の考えによって選び取るのではなく、「神が、私に何を期待し、何を望んでおられるのか」を祈り求めて行くことなのです。

このような生き方は簡単なものではありません。絶えず襲って来るサタンの誘惑との闘いが生涯続くのです。しかし、神の御子イエス・キリストが、この生き方の見本となってくださいました。荒野に於いては40日40夜の全てを費やして祈り、ゲッセマネに於いては血の汗を流して祈り。十字架は、その生き方の頂点にあったのです。

ひたすら祈ることだけがサタンへの勝利であることを、主イエスは、地上に於ける全生涯を通してお示しになりました。私たちの祈りもまた、「神の御心に従うこと」へと向けられなければならないのです。

信仰にとっての第三歩とは、「わたしに従え」ということです。「従う」という言葉は、しばしば「服従」という意味でとらえられます。それは決して間違いではありませんが、それでは「言うことをきく」という低い次元で終わってしまいます。「従う」(アコルーセオー」とは、「ついて行く」という意味なのです。主イエス・キリストは「私について来なさい」と言っておられるのであり、34節ではこの言葉が二度も繰り返されています。

主イエス・キリストは、私たちに対し「あれをしろ」「これをしろ」と言われるのではなく、「私と一緒に歩きなさい」と言って下さるのです。

雪国の生活や冬山登山を経験したことのある人なら分かるでしょうが、雪の積もったところでは、人は必ず「誰かが歩いた跡」を行くものです。誰かが歩けばそこは固められて自然に道が出来ます。誰も踏み入れていない深い雪の中にわざわざ入る人はいません。前を歩いた人のおかげで、後を行く人は楽に歩けるのです。

主イエス・キリストが「私について来なさい」と言われた時、私たちは、「主イエス・キリストが開いて下さった道を行く恵み」を知ることか出来るのです。キリストによって間違いなく神の国へ到達する道が用意されているのであり、私たちが歩きやすいように、主イエスが踏み固めて下さったのです。

主イエス・キリストが御自分の生命を犠牲にして与えて下さった永遠の生命は、キリストに従う者全てに与えられるのです。そして用意された永遠の生命は、この世の如何なるものにも勝って素晴しいものなのです。

36節では「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。」とあります。「永遠の生命」を「全世界」と比較して「なお余りある」と語られています。神の独り子の生命と引き換えに与えられる賜物なのです。

私たちは多くのものに心を奪われています。数知れない誘惑が私たちの欲望を刺激します。あたかも「人生の全てを費やしても悔いがない」と思わせるようなものが、次々に私たちの前に姿を現します。その時こそ、しっかりと信仰の眼を開いて、その価値の違いを見定めなければなりません。先程ご一緒に読んだ旧約聖書で、エサウは、たった一杯の豆の煮物と神の祝福とを交換したのです。あのエサウの過ちを、私たちは如何に多く繰り返しているでしょうか。

しかし、神の独り子主イエスがが、御自身の生命をも惜しまないで与えて下さった恵みが、私たちに何ものにも代え難い豊かな喜びの人生を用意しているのです。

パウロは新約聖書273ページ、ローマの信徒への手紙 1章16節で「わたしは福音を恥としない。福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです。」と記しています。

このパウロと共に、同じ告白をする者は、神の裁きから赦されることが、38節で保証されているのです。38節には、「神に背いたこの罪深い時代に、わたしとわたしの言葉を恥じる者は、人の子もまた、父の栄光に輝いて聖なる天使と共に来るときに、その者を恥じる。」とあります。

これは、いったい誰が神から受け入れられるかという問題提起ではありません。神は、主イエスの言葉を恥じない私たちを必ず受け入れて下さると告げられているのです。これが決定的な赦し、主なる神の救いの保証です。

栄光に満たされた神の国は、主イエスに呼び集められ、御言葉に従う群衆のために用意されています。

永遠なる神の国での栄光を求め、主イエス・キリストが用意して下さった道を真直ぐ辿る群衆でありましょう。

お祈りを致します。

主が教えて下さったとおり

主日礼拝説教

齋藤 正 牧師

《賛美歌》

讃美歌7番
讃美歌301番
讃美歌502番

《聖書箇所》

旧約聖書:ダニエル書 7章13-14節 (旧約聖書1,393ページ)

7:13 夜の幻をなお見ていると、/見よ、「人の子」のような者が天の雲に乗り/「日の老いたる者」の前に来て、そのもとに進み
7:14 権威、威光、王権を受けた。諸国、諸族、諸言語の民は皆、彼に仕え/彼の支配はとこしえに続き/その統治は滅びることがない。

新約聖書:マルコによる福音書 8章31-33節 (新約聖書77ページ)

8:31 それからイエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている、と弟子たちに教え始められた。
8:32 しかも、そのことをはっきりとお話しになった。すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。
8:33 イエスは振り返って、弟子たちを見ながら、ペトロを叱って言われた。「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。」

《説教》『主が教えて下さったとおり』

私たちキリスト者の信仰の中心は、「主イエス・キリストの十字架による贖いと復活」を信じることです。

本日の聖書箇所は、「受難の予告」と呼ばれ、ここで初めて「十字架と復活」という主イエスのこの世での最終目的を弟子たちに明かされるのです。主イエスが自ら教えて下さった「福音」を受け入れるために何が必要であるのか、聖書はそれをここに語るのです。

キリスト信仰とは、「キリストと私」という「神と人の一対一の関係」でなければならないということです。「キリストと私」という関係は、他のあらゆるこの世的なものの介入を否定するものです。たとえ、親子、兄弟、夫婦だけでなく牧師でさえ、「キリストと私」という関係の中に入って来ることは出来ないのです。一人ひとりが主イエス・キリストの御前に立ち、自分の生きる姿を明らかにしなければなりません。

このような意味から考えれば、一人ひとりの心の中にある主イエス・キリストの御姿は千差万別です。全ての者は、キリストとそれぞれ独自な関係を形作るからです。先週の29節に記されていた「ペトロの告白」は、「イエスとペトロ」の関係を、ペトロ自身の言葉によって明らかにした「信仰告白」でした。

このように、信仰とは極めて個人的なものでありながら、その反面、最も重要なことは、信仰とは「教会によって伝えられたものである」ということなのです。これを、「信仰の公同性」と言います。

主イエス・キリストとの関係は、確かに、個人によって様々な「あり方」が可能です。しかし、「ナザレのイエスとは、どのような御方であるのか」ということに関しては、全てのキリスト者が「ひとつの告白」の下に立たなければなりません。

先程も触れた29節では、ペトロは主イエスの問いかけに対し、「あなたはメシアです」という初めての信仰告白をしました。この告白は、キリストの御前にただ一人で立つときの中心となる軸というべきものです。

しかし、ここでペトロが語った「あなたはメシアです」という言葉は、未だペトロ個人の心の中だけの問題であり、ペトロ個人の判断に過ぎませんでした。つまり、主イエスとペトロの私的関係に過ぎなかったということです。「あなたこそメシア・キリストです」という個人の告白と、そのキリストが「どのようなお方であるのか」という普遍的な内容とは、比較してみれば、「信仰の個人性と信仰の共同性・普遍性」ということです。それが、今、ここにおいて、主イエス御自身によって明らかにされて行くのです。

31節以下には、「それからイエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている、と弟子たちに教え始められた。しかも、そのことをはっきりとお話になった。」とあります。これこそが、2000年に亘って世界の教会が伝えて来たことの根本であり、全てのキリスト者の告白が一致すべきものです。

この教えが、ペトロの告白に引き続いて、「イエス御自身によってなされた」ということが大切なのです。「あなたこそメシア・キリストです」という信仰告白は、あたかも一人の信仰者の判断によるものと考えられがちですが、その告白の内容は、「主イエスから与えられたものである」ということなのです。教会が伝えて来たものとは、主イエス御自身が教えられたことであり、教会の務めは、その告白を、絶えることなく、正しく伝えることです。31節の、「人の子は必ず多くの苦しみを受け」とありますが、主イエスは御自分のことを語られる時、「わたし」とは言わず「人の子」という表現をとることが普通でした。「人の子」とは、旧約以来、特別な意味を持っている言葉でした。先程お読みした旧約聖書、ダニエル書7章13節には「見よ、『人の子』のような者が天の雲に乗り…」とありました。このダニエル書によれば、「人の子」とは、神の権力をもってこの世を支配する「栄光のメシア」と考えられて来ました。主イエスの時代、紀元一世紀のイスラエルの人々は、殆ど例外なく、この「栄光のメシア」が来られることを期待していたと言えます。何故かと言えば、

① ローマ帝国の占領下にある惨めさという政治的な苦しみ。

② ローマ帝国とヘロデ王家の二重支配によって搾取される経済的な苦痛。

③ 救いを失い、形式ばかりに拘る神殿宗教になったユダヤ教への信仰的な虚しさ。

これらの時代的危機の中で、神の偉大な力によって一気に世界を覆すメシアを求める気持ちになるのは、無理もないことでした。それが、ダニエル書に語られている「政治的・栄光のメシア」でした。

しかしながら、主イエスは、このような期待を抱いている人々の考えも及ばない、根本的な解決・徹底的な救いを用意して来られたのです。何故なら、たとえローマ軍を追い払い、ヘロデ・アンティパスを打ち倒し、世界がどのように変わったとしても、そこに生きる人間が神に背を向けた姿勢をとり続ける限り、楽園の回復は決してあり得ないからです。人間が背負う「神に対する反逆の罪」は、如何なる人間の努力によっても解消されることは有り得ません。日常生活の苦しみ、現実的な社会生活の苦しみにあえぐ人々は自分自身の罪を見つめることがありませんでした。このような、誰一人として考えもしなかった「救いの実現」のために、誰一人として考えもしなかった方法で、ただ一人、その道を行かれる主イエス・キリストの姿を、ここに見なければならないのです。

また、主イエスは、31節で、「必ず多くの苦しみを受け」と、ここで「必ず」と言われました。「必ず」と訳されているギリシャ語は「デイ」という言葉です。この言葉は、「神の絶対的な定め」「避けることの出来ない神の必然性」を表す言葉で、「決定的に定められて変わらない神の御計画」であることを示しています。これを「信仰のデイである」と強調される先輩牧師がいます。十字架と復活、それが父なる神の絶対的な決意であるということなのです。もはや、人間が関与すべき余地のないところで神の御子の御業が進められて行くのであり、人間の犯した罪が、神の独り子の死に於いて徹底的な裁きへと向かうのです。

「あなたは、メシアです」という告白は、このような罪の中に生きて来た「自分自身への完全な否定」を意味するものであるということが、ここで告げられているのです。

そして、その最終的な結論が主イエスの「復活」です。「復活を欠落させた信仰告白」が如何に無意味なものであるのかは、もはや明らかでしょう。

何故なら、キリストの十字架は、罪の裁き・神の怒りの表れであり、もし十字架がその後に復活を伴わなかったならば、父なる神の御心は「怒りによる裁き」で終わることになってしまうからです。それ故に、復活は、怒りから赦しへの偉大な大逆転なのです。もはや明らかなように、先程から注目して来た「必ず」という神の決意を表す言葉「デイ」は、この「復活する」というところにまでかかっているのです。神の正義による裁きとは、人間の罪を余すところなく暴き出し、それを御子の十字架という究極的なかたちで遂行されました。まさに徹底的な仕方で「裁き」が為されたのです。

しかし同時に、悪に対して怒られる神の正義は、御子の死に続く「復活」に於いて、愛と結ばれるのです。

「死んだ者が甦る」という、まさにあり得ない奇跡によって、今や、愛が、赦しの愛が、罪を糾弾する正義に代わって、私たちの前に示されたのです。主イエス・キリストは、「あなたこそメシアです」というペトロの言葉に対して、父なる神の変わることのない永遠の御計画である信仰の本質を、ペトロに初めてお与えになったのです。

ところが、32節後半に「すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。イエスは振り返って、弟子たちを見ながら、ペトロを叱って言われた。「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。」とあります。これは一体なんでしょうか。ペトロの「いさめる」とは、元来、ギリシャ語で「叱る」という意味であり、強い否定・反対を表す言葉です。このペトロの言葉は、キリスト者として生きる私たちに重大な警告を与えていると言えましょう。何故なら、彼は、今、主イエスが明らかにされた「信ずべきことがら」を、自分の考えによって変えようとしているからです。ガリラヤ湖の漁師であったペトロも、当時の人々の常として、「栄光のメシア」を期待していたのでした。民族の誇りを回復し、現実の生活を良くしてくれるメシア・救い主、それが忘れられなかったのです。栄光のメシアを期待している者の心は、「罪の身代わりとして苦しむメシア」を受け入れることが出来ません。自分の思いによって神の御計画を歪めようとする人間の新たな罪がここにある、と言えるでしょう。何故ペトロは、この神の御業に気付くことが出来なかったのでしょうか。それは、ペトロが、主イエスが語られた神の御計画から「復活」を聞き漏らしていたからに他なりません。「苦難のメシア」から「栄光のメシア」への転換こそ、「復活」です。神の愛と力があらゆるものに勝り、御心が余すところなく示されるのが「キリストの復活」です。ペトロは、最後の勝利である復活の力に気付きませんでした。それ故に、「惨めな死を遂げられる栄光のメシア」など考えたくなかったのでしょう。

おおよそ、キリストの復活を信じない人は、全てこのペトロと同じであり、主イエス・キリストから「サタン」と呼ばれ、退けられるのです。何故なら、「復活」は、キリスト御自身が私たちに与えて下さった福音の根本です。キリスト御自身が教えて下さった信仰を、人間が勝手に変えてしまうことは許されないからです。「あなたはメシアです」という信仰告白は、キリストの復活の上に立たなければなりません。

私たちは、キリストが教えて下さったとおり、主イエスが御自身の身体で「復活」の確かさを示して下さったとおり、この喜びのメッセージを受け取るものでありましょう。この主イエスの受難予告は、受難だけの予告ではなく、私たちの救われるべき完成の時が近づいたという「喜びの予告」であるからです。

お祈りを致します。

あなたこそキリストです

主日礼拝説教

齋藤 正 牧師

《賛美歌》

讃美歌56番
讃美歌162番
讃美歌525番

《聖書箇所》

旧約聖書:マラキ書 3章23節 (旧約聖書1,501ページ)

3:23 見よ、わたしは/大いなる恐るべき主の日が来る前に/預言者エリヤをあなたたちに遣わす。

新約聖書:マルコによる福音書 8章27-30節 (新約聖書77ページ)

8:27 イエスは、弟子たちとフィリポ・カイサリア地方の方々の村にお出かけになった。その途中、弟子たちに、「人々は、わたしのことを何者だと言っているか」と言われた。
8:28 弟子たちは言った。「『洗礼者ヨハネだ』と言っています。ほかに、『エリヤだ』と言う人も、『預言者の一人だ』と言う人もいます。」
8:29 そこでイエスがお尋ねになった。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」ペトロが答えた。「あなたは、メシアです。」
8:30 するとイエスは、御自分のことをだれにも話さないようにと弟子たちを戒められた。

《説教》『あなたこそキリストです』

ご一緒に読んできたマルコによる福音書は、大きな分岐点にさしかかって来ました。主イエスは多くの人々に囲まれ教えられた「ガリラヤの春」と呼ばれる華やかな日々を終えられ、十字架が待つエルサレムへと向かう苦難の時期を迎えられることになります。

27節のフィリポ・カイサリア地方とは、パレスティナの最も北部であるヘルモン山の麓の辺りの湖面より520メートルの高台です。エルサレムから北北東に直線距離で200キロも離れていて、ガリラヤ湖から北に60キロ、の辺りを指します。ヘルモン山とは、パレスティナの北方のレバノンから32キロにわたって連なるアンティ・レバノン山脈の南端にある海抜2800メートルを越える最高峰を指します。このヘルモン山の雪解け水が地中に入り、豊かな泉となって湧き出てヨルダン川の水源の一つとなっています。この地方は水が豊富で洞窟が沢山あり、有史以来、人類が住み着き、ギリシア神話のパンの神が祀られたことから「パニアス」とも呼ばれました。ヘロデ時代には、ローマ皇帝カイザルを神とする神殿が建設され、町の名を「カイサリア」と変え、地中海岸のカイサリアと区別するために「フィリポ・カイサリア」としました。ガリラヤ地方におけるユダヤ人居住地の北限であり、主イエスが足を踏み入れたパレスティナの最北部でした。

主イエスの歩まれた道筋を辿ってみると、実に長い距離を歩き続けられていることが分かります。ガリラヤから西の地中海側を北へ150キロ、ユダヤ人の居住地を離れ、遠くレバノンのティルス・シドンに行き、次は、全く逆方向に150キロ南下し、ガリラヤ湖の東デカポリス地方、そして再びガリラヤ湖西の故郷ガリラヤに戻り、さらにガリラヤ湖の北方50キロにあった本日のフィリポ・カイサリアへと歩かれました。直線距離を繋いだだけでも400キロにもなる大変な旅と言えるでしょう。

このような主イエスの異常とも思える道筋の旅は、神の御子を受け入れようとしないユダヤ人たちの憎しみを避けるためであったと、聖書は何度か記して来ました。特に、ガリラヤ地方を東西南北と旅をしながら、故郷のナザレを避けておられることからも、如何に激しい憎しみが主イエスの上に注がれていたかが想像できます。

そして、ユダヤ人の「憎しみ」を主イエスと共に担い、追われる神の御子と旅を共にしたのが、弟子たちでした。主イエスの行くところ、何処までも従って行く弟子たちの姿に、キリスト者の生きる姿を見ることが出来るでしょう。マタイによる福音書(8:20)には、「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない。」とあります。これが御子キリストのお姿です。そして、その「枕する所もない」旅を、敢えて「共にする」のが弟子たちであるキリスト者なのです。

主イエスは弟子たちに「人々は、わたしのことを何者だと言っているのか」と尋ねられました。

主イエスに従う者は、常に、このような問いかけを受け続けなければならないのです。そしてその問いかけは、何時も、「思いがけない時」になされ、私たちの心の眼を覚まさせるのです。

主イエスの問いの中心は、「人は、私のことを何者だと言っているか」ということです。これは重要なことです。ここには「主イエスが、どのようなことを教えられたのか?」、あるいは「主イエスが、どのような御業をなさったのか?」といったことが問題にされているのではありません。大切なことは、御言葉を語り、驚くべき御業をなさるナザレのイエスとは、「一体、何者か」ということです。これこそ、主イエスに従う者にとって、まさに本質的・根本的な問題です。ナザレのイエスとは「私にとって、一体、何であるのか」。私たちは、ナザレのイエスを「どのような方」として見ているのでしょうか。

当時の人々は自分自身の眼や耳で主イエスを知ることができました。現代の私たちは聖書を通して主イエスの姿を知らされていますが、問われていることは同じです。主に従う者は全て、「私たちにとって、主イエスとは何者か」と問いかけられているのです。

主イエスは、その語られた「御言葉」でも、行われた「御業」でもなく、「私を誰だと思うのか」と、主イエス・キリスト御自身が重要なことを問われているのです。私たちもまた、聖書を読む時、ただひたすらに主イエス・キリストの御姿のみを追い求めて行くべきです。28節で弟子たちでさえ主イエスを。「『洗礼者ヨハネだ』と言っています。ほかに『エリヤだ』と言う人も、『預言者の一人だ』と言う人もいます。」と言っています。弟子たちは、口々に答えました。彼らは、問われたことに容易に答えることが出来ました。何故なら、主イエスは、「あなたたちは」ではなく、先ず「人々は」と尋ねられたからです。私たちもまた、人々の意見を取り次ぐ時には、ごく気軽に答えることが出来ます。世間の噂話や人々の評判を語ることは気楽です。「あのひとはこう言っている」「こんなことを言っている人がいる」「こんな話を聞いたことがある」など、自分の責任が問われない時、私たちは語り易くなります。弟子たちもまた、主イエスについての「人々の評判」「噂話」などを答えたのでした。

洗礼者ヨハネは、ローマの威光を背にしたヘロデ・アンティパスを大胆に批判し、殺害されました。ヘロデ王家の圧政に苦しんだ庶民は、政治的権力者に対抗する第二・第三のヨハネの出現を期待していたのでした。一方の、エリヤは、遥か昔、紀元前九世紀の預言者です。マラキ書には、終末の先触れとしてエリヤが再来すると預言されていました。この主イエスの時代では、希望を失ったユダヤ民衆は、神の裁きが行われる世の終わり「終末」を待ち望み、エリヤの出現を期待していました。罪を指摘する主イエスの厳しい言葉に、神の裁きの前触れ、再来のエリヤを見たのでしょう。また、漠然と言われている「預言者」とは、ここで「誰」とは特定できませんが、かつてイスラエルの危機の時代に、誤った道を行く人々に神の御言葉を語るべく選び出された人々のことでした。主イエスのこの時代、人々は、腐敗し、堕落した宗教的指導者たちへの絶望からナザレのイエスに新しい預言者としての希望を託したと言えるでしょう。

これらの言葉は、当時の人々の、主イエスについての代表的な見方でした。民衆は民衆なりに、苦しみの中から主イエスを見て、それぞれ自分たちの期待を主イエスにかけていたのです。しかしながら、主イエスが、それらの弟子たちの答えに対して何も答えずに、29節で、「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」と弟子たちに再び尋ねられます。主イエスに従う者に問われているのは、このことです。他の人々が何と言っているかが問題なのではなく、「あなたはどうなのか」ということを強く迫っているのです。

私たちもまた今、主イエス御自身からの問いかけを受けているのです。主イエスに従う者として、「あなたは」と問われ「私は」と応える信仰がここにあります。主イエスの弟子たる者は、従っていることの意味を、明確に答えなければなりません。もし、主イエスのこの問いに対して、応えることが出来なかったとすると、信仰のない「悲惨な姿」を晒してしまうことになります。主イエスに従うこととは、既に「他の人々の群れから分けられている」ということです。弟子たちは決して安易にすべてを捨てて主イエスに従ったのではありません。ユダヤ民衆の憎しみを既に背に受けて、主イエスと共に遠くフィリポ・カイサリアまで来ています。このような旅に未だ出発して間もない時であったなら、引き返すことも容易であったでしよう。しかし、弟子たちは生涯をかけて主イエスに従ってきました。ペトロが主イエスから問われたのは、まさにそのようなときでした。そしてペトロの答えは、「あなたは、メシアです。」でした。このペトロの言葉は強調文です。口語訳は「あなたこそキリストです」と訳し、英訳は大文字で記されています。ペトロが言った「メシア」とは、ギリシア語で「クリストス:油注がれた者」という意味であり、伝統的に、「神によって立てられた者」を指します。言うまでもなく「救い主」という意味です。ペトロは、「もはや後戻り出来ない」という追い詰められた場で、ナザレのイエスを「メシア」即ち「救い主」と告白したのです。この告白は、「ペトロの告白」として長く教会の中で語り伝えられ、初代教会の「信仰告白の原型」となったものですが、その内容は、決して完全なものではありませんでした。何故なら、この告白をした直後の31節以下に於いて、ペトロは、主イエスを正しく理解していなかったことが、あの有名な、「サタン、引き下がれ。」と激しく叱責されたことからも分かります。この時の、ペトロの告白は、彼の心の中でしっかりと固まっていた「確信」ではなく、むしろ「そう言わざるを得ないような」或いは「そう言う以外に言葉が見つからなかった」とも言えましょう。

信仰とは、このペトロの告白のようなものと言えます。私たちの信仰も、「深い思索の結果、自分自身の中に確立した明白な信仰認識」と言った確固たる信念に基づいたものではなく、キリストに囚われ、生涯の全てを費やし、生涯の全てを委ねることの日々の積み重ねと言った方が良いかもしれません。あらゆる困惑と迷いの中で、過ちと錯誤を繰り返し続けても、主イエスに従い続けたペトロのように、全てを投げ出して従い続けるのが信仰です。私たちも自分自身に確認しなければならないことは、「あなたこそ、救い主・キリストです」という告白を、「もはや他に行くところはない」という思いを込めてしているか、ということなのです。

主イエス・キリストは、完全な信仰を求めておられるのではありません。ペトロのように、必ず、幾つもの過ちを犯すであろう私たち人間の愚かさを承知の上で、告白に導いて下さっているのです。新約聖書199ページ、ヨハネによる福音書15章16節で主イエスは、「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。」と言われました。主イエス・キリスト御自身による選びによって、私たちがこの告白に招かれていることを、ここに改めて確認いたしましょう。私たちが「あなたこそ救い主です」と告白すること自体、既に、主の恵みの中に生かされていることの証しなのです。

お一人でも多くの方々、とりわけ大切な愛する家族と共に主イエスに選ばれ「救われた者」として、手を取り合って「天の御国」を目指していきましょう。

お祈りを致しましょう。