天の父よ、と呼びかける

聖書:イザヤ6316節、ヨハネによる福音書171-5

 主イエスさまの教えてくださった祈りは、神さまへの呼びかけから始まります。話し始める前に、聞いてもらいたい相手の名前を呼ぶということは大切です。私たちは誰に向かって話しているのか、はっきり意識することが必要ですが。そのことは、祈りにおいてはなおさらのことです。よく子どもが遊びながら、一人でぶつぶつ言っているのを見ます。時には大人も歩きながらぶつぶつ言っているのを見かけます。しかし、自分は一体だれに向かって話しているのか、考えを述べているのか、このことに気がつく人は幸いです。

なぜなら、私たちは心の中で話をしているうちに次第に後ろ向きな考えに陥ることがあるからです。「お前は駄目だ」という声や、人々の批判、陰口、悪口、そしりなどが、まるで耳元に語られるようにリアルに聞こえるならば、わたしたちは決して善い者との対話をしているのではないのです。ですからわたしたちが心の中で話す時、誰に向かって話しているのか、私たちの話を聞いている相手を知ることは非常に大切です。もし、私たちが悪魔に向かって話しているとしたら、いつの間にか邪な考えや、自分を破壊するような考えに陥ってしまうのは当然なのではないでしょうか。

わたしたちの考え、願い、不安などを、もし実際に人に聞いてもらうなら、相手は誠実な人でなければなければならないのです。わたしたちの弱さに付け込んで来るような者、また悪い道に唆すような人には、決してわたしたちの思いを聞いてもらいたくないものです。こう考えますと、人にも語ることを用心しているわたしたちの思いを、神さまに聞いていただくという時には、何よりも大切なことは神さまに対する信頼です。わたしたちはお祈りする時には、まず第一番に神さまが誠実な方であることを信じなければなりません。

イエスさまの弟子たちは、イエスさまが祈るのを見ていていました。人々に無くてはならない神さまの言葉を語り、救いの御業を行うことは、この世の勢力との戦いでした。そのために、イエスさまは夜を徹して祈り、ご自分の全てを神さまにゆだねておられた。弟子たちはそのことを知っていました。それで主の祈りを教えてくださいとお願いのでした。

そこでイエスさまは、祈りは何よりもまず、神さまに呼びかけなさいと教えられました。そして「天におられる父なる神さまと呼びかけなさい」と言われたのです。天とは何でしょうか。どこにあるのでしょうか。創世記第1章1節に「初めに、神は天地を創造された」とあります。しかしイエスさまの教えられた天とは、天地を造られた、その「天」ではありません。「天におられる神さま」と呼びかける天とは、神さまのおられるところを意味します。イエスさまは復活後、天に昇られたと、教会が告白する使徒信条。その告白の中で言われる天のことです。

天におられる神さまは、イエス・キリストの父なる神さまであります。そして、イエスさまは言われました。御自身の父である神さまのことを、「あなたがたも、わたしと同じように『わたしたちのお父さん』と呼びなさい」と。考えてみれば、これは何と驚くべきことではないでしょうか。何と恐れ多いことではないでしょうか。わたしたちは神さまのことを全く知らなかったのに、「天におられるわたしたちの父よ」と呼びかけることが許されたのです。

今日読みました旧約聖書、イザヤ63章16節を読みます。「あなたはわたしたちの父です。アブラハムがわたしたちを見知らず、イスラエルがわたしたちを認めなくても、主よ、あなたはわたしたちの父です。『わたしたちの贖い主』これは永遠の昔からあなたの御名です。」神さまはその昔アブラハムを呼び出され、祝福を約束されました。(創世記12章2節)「わたしはあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める。祝福の源となるように。」しかしイザヤ書の預言者の時代、アブラハムの子孫の国は荒れ果て、やせ衰え、人々は国を追われ、イスラエルの民はほんのわずかとなりました。

それは、神さまが約束をたがえたからではありません。逆に、イスラエルの人々が神さまに逆らい、その愛に背き、真心を踏みにじった結果なのであります。こうしてイスラエルの人々は諸国の中でも惨めなもの、見捨てられたもののようになりました。その時、預言者は立ち上がって人々のために神さまに訴えているのです。わたしたちは落ちぶれ、みすぼらしい民となってしまっているけれども、あなたはわたしたちの父ですと、神さまに告白しているのです。もしも、わたしたちの先祖であり、信仰の父であるアブラハムがわたしたちの現在の姿を見たら、驚きのあまり、「ああ、こんな惨めな、わずかばかりの人々がわたしの子孫なのか。そんなはずはない。」と叫ぶかもしれません。わたしたちのことを「そんな人々は全く知らない。私と関係ない」と言うかもしれません。

本当に信仰の父アブラハムのことを思えば、そういわれても仕方がない。アブラハムは主なる神さまに従って旅に出、人生の苦難を耐え忍びました。しかも自分のために耐え忍んだのではない。あらゆる人々のわがまま、身勝手に悩みながら、耐え忍びました。神さまの約束を信じて、約束されたものを自分の時代に受けなかったけれども、信仰を抱いて死にました。更にまさった故郷を、天の故郷を熱望していたからです。そのアブラハムと比べて自分たちの惨めさはどうだろう。神さまからいただいた豊かさに、繁栄に飽きたりて、得意になって、豊かに恵んでくださった神さまを忘れてしまった。わたしたちは真に恩知らずの民なのだ、とイザヤ書の預言者は知っているのです。

しかし、その上で、彼は神さまに訴えます。「主よ、あなたはわたしたちの父です。『わたしたちの贖い主』これは永遠の昔からあなたの御名です」と。このような罪深い者をお見捨てにならず、永遠の昔から、贖ってくださる神さま、わたしたちはあなたがそういうお名前を持っていらっしゃることを告白します」と。私たちはどうでしょうか。さんざん不信仰な人生を歩んで来た。でも、「私もそうだけれども、あの人はもっとひどいではないか」と言って、非難し合うのでしょうか。それとも、「今頃になって神さまに救ってくださいと言うほど、私は恥知らずではない」と言って、神さまに助けを求めないのが正しいのでしょうか。

しかし、預言者は訴えました。「あなたはわたしたちの父です」と。「あなたこそ、わたしたちの贖い主です」と。「あなたのお名前は、永遠の昔から変わることがありません」と。そしてこの訴えこそ、神さまの真のお姿、お名前を人々に指し示すこととなったのです。

イエスさまは地上で弟子たちと共に歩まれる間、み言葉の説教と驚くべき御業によって永遠の命がここにあることを証ししてくださいました。そして地上を去るときが近づいた時、弟子たちの前で声に出して祈られました。それが今日の聖書ヨハネ17章1節です。「イエスはこれらのことを話してから、天を仰いで言われた。「父よ、時が来ました。あなたの子があなたの栄光を現すようになるために、子に栄光を与えてください。」このように声に出して祈られたのは、聞いている人々が主の祈りによって教えられるためでしたでしょう。父よ、と祈る祈りによって、神さまがどんなに恵み深い方であるかを言い表されたのです。「あなたの子があなたの栄光を現わすようになるために」とは、神の子イエスさま御自身が、天の父なる神さまの栄光を現わすようになる」ということです。

神さまの栄光を現わすために、イエスさまは十字架に死なれました。イエスさまはすべての人の罪を贖うために、神さまの御心に従われたのです。このイエスさまを神さまは復活させ、罪の贖いを成し遂げられました。このことによって神さまの栄光が明らかになったのです。なぜなら、イエスさまによってどのように罪深い者にも悔い改めによって救いの道が拓かれたからです。イエスさまは天に昇られ、そこから、私たちを見守り、聖霊を注いで、私たちと私たちの教会を導いてくださっています。

このイエスさまが地上で弟子たちに教えられた祈りを、私たちも祈ることができるとは、本当にありがたい恵みであります。父なる神さまは、人間の父のように、子を愛し助けてくださる方です。また私たちの悪い行いをご覧になった時、それを裁き、罰してくださるのは、私たちを滅ぼさないためです。ただ天の父の恵み深さ、忍耐強さは人間の父とは比べものになりません。そのことを私たちはイエスさまによって知らされています。

今に至るまで、そしてこれからも地上に目に見える形で教会があることを私たちは知っています。そして地上の教会が正しく建設されるならば、それらは目に見えない一つの教会を指し示していることを私たちは信じています。教会は、主が私たちのために試練と苦難を通して、救いの道を開いてくださったことを証ししています。そこで私たちはイエスさまの父なる神を、あたかも本当の父であるかのように、「父なる神よ」と呼びかけることができるのです。

この呼びかけの言葉は、イエスさまの苦難と死を通して恵みによって救われたことを思うときに、改めて心の底から発することができるでしょう。心からの信頼と感謝をもって。そしてまた、私たちは天のお父さまと呼びかけるとき、神さまの前に本当に小さな子供のように立ちましょう。年齢も、職業も、何も関係なく、神さまの前にたちは幼子のようなものではないでしょうか。分別がある、知識がある、と思う人も、明日のことさえ分からない。また自分の正しささえ、本当には分からない。そんな小さな者に過ぎないのです。

これまでの私たちの歩みを振り返ると、私たちの教会の将来も、自分の将来も、だれも正しく予測もすることも予定することもできませんでした。ただ私たちは教会に集められ、共に礼拝し、共に祈ることができたからこそ、今日があることを思います。先々の事まで見通そうとすると、楽観的になれることはなかなか見い出せないことが多いのではないでしょうか。すると、自分だけ取りあえず助かろうとするのか、どこかもっと有利な立場を求めて動き回る人々は多いのです。そうして離合集散を繰り返すのですが、私たちはここに神さまが集めてくださったことを大切にして来ました。この群れはただの人の集まりではなかったからです。イエス・キリストさまが御自分の血によって贖い取って神の子とされた人々、すなわち教会だと信じたからです。

教会は建て物ではありません。人々がいるから教会なのでもありません。教会は信じるからこそ教会とされるものです。イエスさまの建てられた教会が、今もイエスさまが天から送ってくださる聖霊によって、教会とされているのです。聖霊は、私たちに来てくださって、私たちが主の祈りを祈ることができるようにしてくださいます。「天におられるわたしたちの父なる神さま、」と親しく祈ることができるのも、イエスさまの送ってくださる聖霊がわたしたちと共にいてくださるからに他なりません。

ローマ8章15-16節を読みます。284頁。「あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊こそは、私たちが神の子どもであることを、私たちの霊と一緒になって証ししてくださいます。」今日のカテキズム問56 「主の祈りは、どのような言葉で始まっていますか。そして答は、「『天におられるわたしたちの父よ』です。私たちは、イエスさまによって神さまの子どもとされたので、天におられる神さまを『父よ』と呼びかけることから始めます」です。主の祈りを与えられていること自体が限りない恵みでありますから、共に主の体の教会に連なり、父なる神さまを呼び求めて参りましょう。祈ります。

 

御在天の主なる父なる神さま

尊き御名をほめたたえます。一年で一番寒さの厳しい季節、インフルエンザも猛威を奮っている中、私たちを今日の礼拝に集めてくださり、み言葉によって罪の赦しをお知らせくださいました。集まることのできたわたしたちは真に小さな群れですが、背後に教会員は祈りを合わせております。集められた者も、集まることのできなかった者も、どうかあなたの恵みによって、私たちに豊かな慰め、励ましをお与えください。聖霊の神さまの助けによって病が癒され、弱り果てている者も、疲れている者も、あなたの平安で満たされ立ち上がって行くことができますように。

主よ、私たちは2019年度新しい先生方を招聘するべく道が開かれましたことを思い、真にあなたのお導きを感謝申し上げます。どうか私たちの小さな力を励まし奮い立たせて善き準備をなすことができますようお助け下さい。来週の長老会議には藤野先生ご夫妻にご臨席いただき、準備を始める予定ですが、御心に適って進めることができますように。長老会の働き、また教会学校の働きを祝し、御力をお与えください。

また、記念誌の発行までの道筋をも整えていただき、真に感謝致します。この教会が東日本連合長老会の中で共に学び、共に教会を形成する働きに加わって行くことができますように。私たちの教会を慈しんで励ましてくださる主が、共に歩む東日本の諸教会とその長老信徒の皆様を豊かに慈しみ励ましてください。

皆様のご健康を祝し、整えてください。この厳しい季節の困難の中にある全国の教会を励まして助け導いてください。

この感謝、願い、尊き主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 

主はあなたと共におられる

クリスマス聖餐礼拝

聖書:イザヤ111-10節, ルカによる福音書12638a

 今日、クリスマスをお祝いする主の日の礼拝に、今年も皆様と共に集められましたことを感謝します。クリスマスに教会に私たちが集ったのは、主がお招きくださったのではないでしょうか。私たちに良い知らせを聞くために、私たちはここにいます。その良い知らせはおよそ二千年前、天使がマリアに遣わされたことに始まりました。神さまは人間を救いたいと思われました。人間を本当の幸せに招きたい、これが神さまの願いでありました。

しかし、思い上がった人々は神さまを離れているので、本当の幸せを理解しません。だから良い知らせを無視したり、軽蔑したりするでしょう。自分こそが値打ちがあると思っている人々は、他の人が語ることに耳を傾けないのです。「何だ、そんなことか」と右から左に捨ててしまうのです。預言者たちはどんなに呼びかけたでしょうか。悔い改めて、神さまに立ち帰りなさいと勧めても、聞く耳を持たなかったのです。

そこで神さまは救い主を世に遣わすために、愚かな方法を選ばれました。「愚かな」というのは、神さまから離れて生きる人々には「そんなバカなことがあるだろうか」と思える方法なのです。神さまは、そのように他の人を愚かだと思い、軽蔑して人々をご覧になって、そうではない人々を救いに招こうとされたのです。ナザレの町にマリアという人がいました。ダビデの子孫の家系に所属するヨセフと婚約をしていました。まだ二人は一緒になっていませんでしたが、当時のしきたりでは婚約しているということは、既に妻であるも同然でした。神さまはこの名もないおとめマリアに天使を遣わして良い知らせをもたらしたのです。それは神さまが、小さき者、へりくだった者、心優しい者たちに、ご自分を顕わすためでありました。

その一方で、神さまは御自分の秘密の隠し事を、高慢な者、軽蔑する者には知ることができなくなるようになさる方であることに、私たちは注意しなければなりません。わたしたちが名もない小さな者、へりくだった者、心優しい者であるならば、天使の伝えた良い知らせ、福音を聞こうではありませんか。

天使は言いました。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」おめでとう、と天使は言いました。これは「喜びなさい」という意味でもあります。喜びなさい。これは神さまの私たちへの命令ではないでしょうか。しかし、なぜ喜ぶのでしょうか。私たちはしばしば分からないのです。喜んで良いのかどうかさえも、分からない者なのです。天使は呼びかけます。なぜなら、あなたは恵まれているから。またはあなたは幸せな人だから、と。私たちは今目に見えることしか分かりません。あるいはせいぜい過去に起こったことから物事を判断する位しかできません。前代未聞の事件や災害が起こると、全く戸惑うばかりです。このように私たちの能力は限られているので、実際、自分個人についても、また家族、社会についても分からないことばかりです。

しかし、天使は言うのです、「あなたは神さまに恵まれているのだから、喜びなさい」と。ここで私たちは自分の理解をはるかに超えたところに神さまを見上げることができるでしょうか。喜びなさい。あなたは恵まれているから、という福音は、ここで早くも二つの道を示しているのです。その一つは、「わたしは恵まれている」と信じて喜ぶ道です。そしてもう一つは、「わたしは恵まれているかどうか分からないから、喜べない」という道です。そして、たとえ積極的に「信じない」という決断をしなくても「信じられない」ということでは喜べない。それは不信仰への道なのです。

さらに天使は言いました。「主はあなたと共におられる」と。この言葉こそ、喜べと勧める根拠です。あなたは幸せだ、と断言する根拠なのです。神さまが人々と共におられるということは、人々にとってどういうことなのでしょうか。考えてみましょう。創世記の3章に人間の堕落の物語が記されています。禁断の木の実を食べたアダムとエヴァの物語です。私たち自身も十分に理解していない訳ですが、神さまはなぜか食べてはならない木の実を置かれました。神さまはたくさんの食べて良いものをお与えになったのに、人は神さまの約束を破って食べてはならないものを食べたのです。その結果、二人に何が起こったかと申しますと、人は神さまを避けて隠れました。すなわち、主が共におられることを喜ばない者となったのです。神さまに隠れて、神さまから離れて生きる者になったということです。

それがどのような不幸をもたらしたかということです。人が神さまから離れているということは神さまの助けを求めることができないという不幸です。しかも思い上がっている時には、自分の力を信じて助けなどいらないと公言してはばからないのです。一人の人間の一生を考えれば、生まれてから死ぬまで思い上がっていられる人はいないと思いますから、必ず、悔い改めて神さまに助けを求めるチャンスはあるのですが、不幸なことに世界中どこでも思い上がった人々が次々と現れるので、まるで人類はいつでも思い上がって神から離れていても大丈夫だという錯覚が人々を支配している有様ではないでしょうか。

しかし、幸いなことに、誰も彼もが鬼の首を獲ったかのように得意満面に高ぶっている時代は、日本の社会では過ぎ去って、多くの高齢者が(高齢者はいつの時代でもいましたが、今平和が続いたために、長生きが出来た結果であります)労苦して生きているのが誰の目にも分かるようになりました。また子供の虐待、家庭内暴力も(昔からあったものが少子化のためにより顕在化しているのではないかと思います)社会で取り上げられるようになりました。幸いなことです。なぜなら、だれもが、少なくともその一生のどこかで、救いの手を求めて激しく叫びたいようなところを生きていることが分かるからです。その時、叫び求める魂の祈りを聞いてくださる真の神さまへの信仰が、その人にあるのか、ないのか、そのことは真に大きな分かれ道、正に生死を分ける違いなのです。

エフェソの手紙1章1~2節に、使徒パウロはエフェソ教会の信者たちに次のように挨拶しました。352頁「神の御心によってキリスト・イエスの使徒とされたパウロから、エフェソにいる聖なる者たち、キリスト・イエスを信ずる人たちへ。わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように。」パウロの挨拶も天使のマリアへの挨拶と良く似ていることが分かります。神が共におられるということは、神の恵みと平和がここにある。なぜなら、神の助けが私たちにあるから、ということなのです。本当に神を信頼するところにこそ、本当の喜びがあります。

さて、マリアと天使の話に戻りましょう。マリアは天使の挨拶の意味を思いめぐらしていました。それは人間の知恵では知ることのできない、神さまの秘密のご配慮、ご計画であったからです。神さまは御自分の愛する御子を世に遣わして下さり、御子によってわたしたちを心にかなうものとしてくださるご計画を実現してくださいました。つまり、神さまは御自分に背いて離れ去っていた私たちをただ恵みによって受け入れてくださるのです。そして、かつては神さまの敵対していたわたしたちに、救いの恵みを差し出してくださるのです。

天使は言いました。「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。」それはマリアばかりでなく、すべての人の理解をはるかに超えることでありました。しかし、これをなしてくださるのは神さまの聖霊なのだと天使は答えます。「聖霊があなたに下り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六カ月になっている。神にできないことは何一つない。」

主の聖霊がマリアに来てくださり彼女を覆ってくださるとき、マリアは自分の理解を超えた天使の言葉を福音として受け入れました。真に神にできないことは何一つないことをマリアは信じました。そして、すべてをご存じであり、ご支配なさる神さまだけが本当に良いことを成し遂げてくださることを信じて従う者として、自分を言い表したのでした。

マリアに与えられた恵みを、私たちも思いめぐらしましょう。私たちも主イエス・キリストを救い主と告白する教会の群れに連なって参りました。このことが聖霊の働きであることを信じるならば真に私たちは幸いな者です。マリアはイエスさまが救い主として受ける苦難を知りませんでしたが、聖霊の助けによって受け入れました。そして私たちも、イエスさまが罪の贖いのために執り成しをして下さったことを信じることができたのは、主の聖霊の助けがあったからです。主を信頼し、主に結ばれて共にいると信じることの幸いがここにあります。私たちが幸いであるのは、自分が救われて安泰な人生が保証されているからではないでしょう。主に結ばれている者の幸いは、むしろ、主に結ばれて多くの人々の救いのために働く聖霊の働きに参加させていただけることの幸いなのです。

成宗教会の墓所にはマタイ福音書1章23節のみ言葉が書かれています。「神は我々と共におられる」と。成宗教会の誇り。それはただただ神さまがここに、信者と共にいらしてくださったということに尽きると思います。どんな良い業も、どんな名声も、どんな働きも過去に去って行きます。自分を誇っている人々は、主が共におられることを誇ることは難しいでしょう。ただ、主を誇り、主を喜びとする人だけが、主に喜ばれて主の体に連なる者であり続けるでしょう。

そしてその人は弱いときにも、強い時にも主に用いられるでしょう。丈夫な時と同様に、また病む時にも不思議に用いられるでしょう。若い時に私は学校の教員でした。中年以後に献身して教会に仕えしました。生きている限り、主の恵みを宣べ伝えることは伝道者の喜びです。しかし、だれも年老いて行くこと、例外なくやがて世を去ることは主の御旨です。牧師を辞めても、主に仕える者として死に至るまで忠実であることは、私の目標であり、またどなたにも強くお勧めする目標であります。そうすれば、主はいつの日にも皆さんと共にいらして祈りを聞いてくださり、助けてくださると思います。そのために、私はまだ信仰を言い表していない方々にも強くお勧めします。謙って小さくなられ、世に降られた神の御子イエス・キリストによって明らかにされた神の恵み、罪の赦しを信じて自らを低くし、悔い改めて、キリストに結ばれる者となりますように。そして次世代の伝道牧会者を迎え、この群れに連なり、共に喜んで主に仕える者となってください。祈ります。

 

御在天の父なる神さま

クリスマスを祝う主の日の礼拝を感謝し、御名を褒め称えます。どうか集められた私たちの讃美を受け入れ、祝福をお与えください。この教会にいつの日も希望を与え、恵みの導きをお与えくださいました。私たちは多くの働きをして、良い時も苦しい時もあなたの教会を建てるために労苦された教師や信徒の方々を既に天に送りました。そして共に労苦した思い出と感謝が残されています。あなたの御子の執り成しによって罪赦され、天から聖霊の助けをいただいて来ましたことの結果であります。

私たちは東日本連合長老会に加盟して共に学び、共に歩んで参りましたことを感謝します。皆、日本の教会、日本の社会の困難を反映して、様々な苦労をしております。しかし、共に悩み、共に労苦して共に教会を建てて行くところに、主が共におられ、どうか喜びが与えられますように。来年度いらしていただく先生方のために、あなたの特別な顧みがございますように。そのお働き、ご健康が祝されますように祈ります。また成宗教会にあなたの御心を示し、私共が善き準備をなすことができますようにお助け下さい。特に長老会の働き、ご健康をお支えください。信徒のお一人お一人があなたの助けによって祈りを篤くし、あなたの広く深い御心と愛とを知って絶えず励まされますように。

本日は聖餐に与ります。どうぞ主イエス・キリストの恵みに恐れと感謝を以て与るものとならせてください。

そして、礼拝後の愛餐の時を感謝します。奉仕するすべての者を祝してください。また明日予定されていますイヴ礼拝の行事を祝福し、助け導いてください。このクリスマスも病気その他の事情で礼拝に参加できないすべての方々の上にあなたの慰めと慈しみがありますように。

主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

貧しい人に福音を

成宗教会待降節第二主日礼拝説教

聖書:イザヤ55章1-11節, ルカによる福音書4章14-21節

 クリスマスを待つこの時期、今年も沢山の、驚きというより愕然とするような事件がありました。しかしそれでもこの社会にあって、いつも変らない主の御言葉を聞くことができることは本当に幸いなことです。そして成宗教会にいるわたしたちは、変らない教会を、これからの時代にも建てようとしております。このために、牧師も長老会と共に教会員の方々と共に祈り、労苦している訳ですが、この労苦もまた本当に幸いなものです。なぜなら、わたしたち一人一人は、本当にゆとりのない時代に生きており、経済的にも余力がなくなっていますし、また時間的にも日曜日にもゆっくりできない方々、体力的にも教会に足を運べない方々が多くなっているからです。

しかし、それでも、何とか次世代にも教会を残したいと願うならば、主はわたしたちの願いをお聞きくださるでしょう。この願いは考えてみれば、貧困な願いではない。ゆとりある願い、むしろ豊かな贅沢な願いなのではないでしょうか。わたしたち、お金に乏しくとも、時間に乏しくとも、体力に乏しくとも、豊かな贅沢な願いを持つことができる。それはどんな願いでしょうか。それは、教会を建てたいという願いです。わたしたちはたとえ先日まで青々として木々の葉のようであっても、いつの間にか紅葉して、人の目を楽しませ、きれいと言われる葉のようであっても、やがて風に吹かれて散って行く花のようであっても、天の父、そして教会の主には覚えられ、喜ばれる名前を持っているのですから。

教会は、外の世界から見ると、何の目的で立っているように見えるでしょうか。教会では讃美歌が歌われる。コーラスの愛好家が集まっている。昔は書道や華道に優れた方々も沢山いらしたことを思い出します。また、12月になると、社会奉仕を実践している救世軍の社会鍋が懐かしく思い出されます。また教会は貧窮者を助けるために、また少数者の立場に立って権利を擁護するためにあると思われるかもしれません。そのどれも、教会の中で、全く否定されたり、除外されたりすることはないと思います。しかし、外の世界から見えるこのような活動のために、教会が建っているのではありません。

教会の目的は、神の言葉に従い、神の言葉を宣べ伝えることにあり、教会は神の言葉のために建てられるのです。それでは、神の言葉は教会に大切にされて来たのでしょうか。わたしたちが手にしている聖書。当たり前のように読むことができる聖書ですが、実は500年前、宗教改革が起こる、その前の数百年以上、人々は神の言葉をほとんど失っていた時代が続きました。聖書はラテン語で、一般の人には目に触れることはおろか、聞いて理解することもできませんでした。讃美歌でさえラテン語で、一般会衆が歌うことはできなかったのです。

そこで、主は宗教改革者たちを起こし、彼らを励まして、聖書をそれぞれの自国の言葉に翻訳させるように導かれました。そのおかげで世界の人々は聖書がラテン語ではなく、自分の分かる言葉で読まれるのを聞きことができるようになりました。今から500年前のことです。ルカ福音書は、ガリラヤの町、ナザレで安息日に会堂に集まった人々に、イエスさまが皆に分かる言葉で聖書を読み、解き明かされたと伝えましたが、それと同じように、わたしたちも聞くことができるようになったのです。わたしたち現代人は、宗教改革の時代の神学者たちの労苦と献身の働きを経て、初めて聖書を開き、イエスさまの時代と同じ御言葉を聞くことができるようになったわけです。この恵みに感謝して、福音に耳を傾けたいと願います。

今日読んでいただいたイザヤ書55章1節。「渇きを覚えている者は皆、水の所に来るがよい。銀を持たない者も来るがよい。穀物を求めて、食べよ。来て、銀を払うことなく穀物を求め、値を払うことなく、ぶどう酒と乳を得よ。」神さまは貧しい人々に呼びかけておられます。飢え渇いている人々。神さまは彼らにパンを与えようとしておられるのです。ぶどう酒と乳も。神の言葉によって神さまは貧しい人々を御自分に招いてくださっています。神さまのくださるパンは神さまの恵みとして無償で与えられます。神さまのくださるパンこそ、あらゆる良いものの源でありますから。

イザヤは、神さまがダビデに約束した慈しみをお忘れにならず、永遠の契約を結んでくださると預言しました。この契約によって約束された慈しみは、神さまの民イスラエルばかりでなく、神さまを知らなかった世界中の諸国民が神さまの備え給う食卓に招かれることです。それでは、どのようにして世界中の人々は招かれたのでしょうか。わたしたちはどのようにして神さまの穀物、神さまのぶどう酒、乳など、あらゆる良いものの食卓に行くことができるのでしょうか。

それはみ言葉によってです。今日の新約聖書はイエスさまがガリラヤで伝道を開始されたときの様子を語ります。4章14節。「イエスは‟霊”の力に満ちてガリラヤに帰られた。その評判が周りの地方一体に広まった。」霊の力は、すなわち聖霊の力です。神さまの霊によらなければ、神さまの思いを人々に伝えることは決してできません。イエスさまは神さまの霊に満ちあふれて伝道を開始されたのでした。それは人々を悔い改めさせ、御国に招く力でした。ところで、ユダヤ人の家族の住むところには、必ず会堂がありました。人々はこの会堂に集まって礼拝を献げ、教えを受けるところでもありました。イエスさまは諸会堂で教え、皆から尊敬を受けられたのです。

イエスさまは御自分の故郷ナザレの会堂で、聖書を朗読しようとしてお立ちになりました。(昔は身分の高い人は座り、身分の低い人は立っていました。)イエスさまが立ち上がられたのは、聖書に対する敬意を表すためでした。聖書を解きあかそうとする人々が、畏れ敬う態度で聖書を扱うことは、聖書の尊厳にとってふさわしいことだからであす。神の言葉に対して姿勢を示されたのです。

それは預言者イザヤの言葉でした。「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである。」イザヤが語りかけていた人々は紀元前6世紀、バビロンの捕囚後の人々です。彼らは、破壊し尽くされ、暗闇しか見えない荒廃の中にいました。預言者はその闇の中にいる人々を集め、このような長い不幸と災いの連続に打ちのめされている人々を教会として、すなわち神さまを礼拝する共同体として再建する神の恵みを語りました。破壊され尽くしたところに再建の希望を語る。それは人の業ではない。ただ神の恵みの力、聖霊の力による他は考えられません。イザヤはただ聖霊の力によって教会を再建する神の恵みの証人が現れると、預言したのです。

この救いはキリストの到来によって実現されると預言され、人々に信じられて来ました。キリストとはギリシャ語ですが、ヘブライ語でメシア。その意味は油注がれた者、王、祭司、預言者を表します。そして主の霊、すなわち聖霊については、わたしたちもまた、その導き、ご支配を受けたからこそ、その力によって、不信仰な者が信仰を言い表して、イエスさまを救い主と告白、洗礼を受けることができたのです。それは神さまの霊であり、イエスさまが弟子たちに約束してくださった霊ですから、イエスさまに結ばれた教会は昔も今も聖霊の力によって救われる者を生み出しているのです。

ですから主の霊はイエスさまにこそ、限りなく注がれているのです。なぜなら、救い主、キリストであるイエスさまは、わたしたちを神さまと和解させるために、神さまからの使者としての務めを持って世に来てくださったのですから。ヨハネの福音書にこう書かれているとおりです。ヨハネ3章34節。「神がお遣わしになった方は、神の言葉を話される。神が‟霊”を限りなくお与えになるからである。」168下。イエスさまに注がれた霊は、イエスさまによって神の教会が回復されることを目指しておられるのです。主なる神さまがキリスト・イエスさまに油を注がれたことは、この方がご自分の考えではなく、ただただ神さまのお命じになるところだけを行われることを意味しているのです。

そしてこの目的のために、神さまはキリストをお立てになり、貧しい人に福音を告げ知らせてくださいます。預言者イザヤは紀元前6世紀の頃、打ちひしがれた人々にこの言葉を語りました。それは時代を超えて、地域を超えて今も全世界に告げ知らせられています。福音の知らされる前には、神の民、教会がどんなに悲惨な状態にあったかを、またキリストがおられないとき、わたしたちすべてがどのような状態であるかを示しています。

昔も今も、人々は非常に多くの悲惨によって虐げられているので、世界中に、このような傷ついた人々の呼び方がふさわしくない、当てはまらないような所は全くないくらい、人々は傷ついているのではないでしょうか。ところがヨハネの黙示録3章17節に、主は次のように言われます。456頁下。「あなたは、「わたしは金持ちだ。満ち足りている。何一つ必要な物はない』と言っているが、自分が惨めな者、哀れな者、貧しい者、目の見えない者、裸の者であることが分かっていない。」

このように、実は多くの人々が自分の貧しさに気づかず、盲目であることにも気づかない。知らないうちに人に支配され、人にばかりではなく、物にも、支配される。例えば、便利なものに頼り切って、結果的に支配されていることに気がついていないのです。更に、死と滅びにさえも魅力を感じ、死にたいと公言して犯罪者の餌食になったりします。わたしたちは実に、自分のみじめな状態を感じないほど愚かであることさえあります。真に悲しむべき深刻な悲劇が遠くにも近くにも見過ごしにされているのを、わたしたちは感じないではいられません。

福音には二つの目的があります。その一つは、神さまは福音を通して慈しみ深い御顔をわたしたちに示し、深い死の淵からわたしたちを救い出して下さり、そして、完全な幸福をわたしたちに回復するために、命を与える希望を示してくださるところにあります。それが、19節の主の恵みの年という言葉に示されています。旧約の律法の書には、50年目の解放の年が定められていました。その年が来ると、奴隷は解放され、負債はすべて免除されるという規定でしたが(レビ25:10)、このことは、罪人の罪を免除する神の憐れみのしるしとして宣言されているのです。神の恵みによって罪の奴隷から解放されるのですから、その人は解放された後は、罪に支配されず、神に従う者とならなければなりません。せっかく神の恵みの年に解放されても、神の畑で働くのでなければ、また罪の負債を負ってしまうことになるからです。

福音のもう一つの目的は、わたしたちも自分の中にある貧しさを真に感じて謙り、キリストをわたしたちの解放者として求めることにあります。そうでないならば、キリストがわたしたちにもたらそうとしておられる恵みの救いを受けることができない。高慢でふくれあがり、自分の惨めな者であることを思わず、そこからの解放を願わない者は、このイエスさまの預言に耳を閉ざす者であり、侮る者となっているのです。

だとすれば、本当に幸いなのは、人間の貧しさを知ることではないでしょうか。草は枯れ、花は散ると思う時、だれ一人そのような存在でないと言うことはできません。わたしたちはあらゆる社会にあって、どのような時にも貧しい人に、すなわち神の言葉に耳を開くすべての人々に福音を告げ知らせてくださる聖霊の働きを求めて行きたいのです。祈ります。

 

恵み深き天の父なる神さま

尊き御名を讃美します。待降節第二の主の日の礼拝にわたしたちは集められ、恵みの御言葉を聞き、讃美を捧げます。小さな群れは、御子キリストの執り成しによって罪を赦され、あなたの慈しみと恵みによって今日まで守り導かれて参りました。今、少子高齢化の進む社会にあって、東日本連合長老会の一員として共に一つの教会を建てる歩みの中に入れられていることを感謝します。

わたしたちの想像を超える時代が始まって行くのではないか、と思う今、どんな時にも、所にも、貧しい者に福音を告げるために世に来てくださった御子イエス・キリストを信じ、あなたの御名を褒め称えさせてください。どうか、私たちをこの主に従い、主の命に連なり、命を得る者としてください。あなたの御心は天が地よりも高いように、私たちの思いを高く超えてあることを感謝します。どうかわたしたちの教会を建てる志、御言葉を世に残す願いが御心に適うものでありますように。来週は成宗教会に新たな主任担任教師を招聘するために臨時教会総会を開きます。どうぞ、御心ならば、多くの教会員が集められ、心を一つに祈りを合わせて招聘を決議することができますように。すべてのことの上に主の恵みのお導き、ご支配を祈ります。

今、ご病気の方々を顧みてくださり、ご健康を回復させて下さいますようお願いいたします。クリスマスの準備が整えられ、喜びと感謝のうちに多くの兄弟姉妹が集められ、お祝いされるクリスマスとなりますように。今、悩みの中にある方々、特にお独り暮らしの方々のご生活の上に平安をお与えください。どうか聖霊の主の助けによって、無くてならないもので養ってください。

この感謝と願いとを、尊き主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

死は勝利にのみ込まれた

聖書:イザヤ2579節, コリントの信徒への手紙一155058

 私たちの国にはお盆という習慣があって、これは仏教の慣わしと思っていましたが、外国から伝来した元々の仏教の教えや習慣ではなく、実は先祖を崇拝する日本古来の伝統なのだそうです。この季節はそういうわけで、死んだ家族のことを思うことと、日本が太平洋戦争に敗れた終戦の年を思うこととを両方思い起こす時になっております。罪もない多くの人々が戦争によって命を失ったのですが、人間は、「どうしてあの人々は死んだのか」ということを考えます。この戦争を起こしたのは誰だと問うのです。すると、自分たちばかりが責められることを避けたいものですから、他に理由を探したくなるのです。たとえば、部下だった人は上司が悪いと言うのです。上司は更に上に立つ人が悪いと言います。例えば原爆投下の話で言えば、原爆を落としたのは、そうしないと日本が戦争をやめなかったからだと主張も出て来ます。このように、人はどうしても「自分は悪くない」と考えたいようです。しかし聖書の教えは一貫しています。

ローマの信徒への手紙に、このように言われているのです。3章23節。277頁下。「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、(24節)ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。」私は成宗教会に務めを与えられまして17年目になります。振り返ってみる時に、もし自分のして来た働きということを判断の基準にして考えるならば、本当に良い結果は、良い働きをしたからだということになり、良くない結果は、良い働きをしなかったからだということになります。

すると、振り返って満足するどころか、考えれば考えるほど、自分の働きの乏しさが思わされるばかりになるでしょう。17年もここにいたのだから、もっとああすればよかった。こうするべきではなかったということが沢山あります。どんどん反省して行ったら、退任を控えた教師である私としては、落ち込むばかりではないでしょうか。いやいや、ここで落ち込んではいけない。そこで、自分は悪くなかったと思いたいために、働きの乏しさをこの時代のせいにするのでしょうか。それとも、他人のせいにするのでしょうか。

しかし、結論を言うならば、全くそうはならないのです。なぜなら成宗教会にいる私たちは、ここで礼拝をし、ここでいただく福音によって主の教会に結ばれているからです。主に結ばれているわたしたちは、罪の赦しに結ばれているということなのですから。過去を振り返ってみると、心痛むことがありました。悔やまれることがありました。その度にだれが悪いのか、と教会の中で問いたくなることもあったと思います。しかし、わたしたちには教会の告白があります。これをもって代々の教会が建てられて来た信仰告白です。前回私たちは、使徒信条で告白している「罪の赦しを信じる」ということはどういうことかを学びました。

わたしたちはどう生きるべきかを神さまから教えられています。律法によって教えられているのです。律法とは、一つには神に対する戒めであり、もう一つは隣人に対する戒めであります。私たちは「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」と教えられています。また私たちは、「隣人を自分のように愛しなさい」と教えられています。しかし、律法を知っていながら、律法を守ることができない者であります。このような律法を神さまからいただいているからこそ、私たちは、それを守っているとは決して言えない自分を知っているのです。

キリストは律法を守ろうとして守ることのできない罪人のために死んでくださいました。それは罪人の代わりにその罪の罰を受けてくださって、私たちを罪から解放してくださるためだったのです。そして、キリストは復活されました。このことは、キリストの身代わりの死を神さまが受け入れてくださったことを証ししています。教会は、わたしたちのために死んで復活してくださったキリストを信じ、キリストに結ばれて終わりの日に復活する約束を受けた者の群れです。

さて本日は、使徒信条が告白する「からだの甦りを信じる」ことについて学びます。体と言いますと、当然のことながら私たちは、この自分の肉体を思います。今は写真やビデオやいろいろな記録手段によって自分の姿形がいつまでも残る時代です。幼子だった時のあどけない姿や若い頃の写真。その一方で同じ人とは思われない年取った自分等々。この同じ体が、人の姿がどんどん変わって行くことを考えれば、このままで、この姿かたちのままで、天国に入れられるということはあり得ないだろうと思うのです。

「肉と血は神の国を受け継ぐことはできず、朽ちるものが朽ちないものを受け継ぐことはできません」と聖書に言われます。肉と血とは、この地上の生活を生きる体です。それは年老いてやがては朽ちて行くより他はありません。聖書の時代の人々はすべての人々は死んで葬られるが、終わりの日に復活させられる。そして裁きを受けなければならないと信じていました。イエスさまもヨハネ福音書でこう教えておられます。ヨハネ5章28-29節です。172-3頁。「驚いてはならない。時が来ると、墓の中にいる者は皆、人の子の声を聞き、善を行った者は復活して命を受けるために、悪を行った者は復活して裁きを受けるために出て来るのだ。」

だからこそ、主イエスさまは別のところで、こう命じられました。マタイ10:28です。18下「人々を恐れてはならない。(中略)体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい。」

イエスさまが「魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい」と言われた、本当に恐れるべきお方とはどなたでしょう。その方こそ、真の造り主であり、イエス・キリストの父である神さまです。人間を愛して止まない方、しかし、同時に罪を憎んで止まないその方です。その方の御心、その愛こそが、イエスさまを世の罪を贖う救い主として世にお遣わしになりました。

聖書はこのことを伝えているのです。つまり、イエス・キリストの罪の赦しに結ばれている者は、罪の赦しを約束されている。これが福音です。今日の聖書15章51節でパウロが告げている神秘とはこのことではないでしょうか。終わりの日に、「わたしたちは皆、今とは異なる状態に変えられる」というのです。52節です。「最後のラッパが鳴るとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は復活して朽ちないものとされ、わたしたちは変えられます。」終わりの日に一瞬のうちに起こることを、ラッパという表現でパウロは伝えました。すなわち、軍隊の隊長がラッパの音とともに兵隊を集めるように、主はわたしたち生きて地上にいる者と共に、眠りについている者(すなわち死んだ者たち)を復活させ、世界の隅々から集められるのです。

この言葉が語られた当時は福音が伝えられた世界は限られた地域でした。そして使徒パウロたちも、イエス・キリストが来られる終わりの日は近いと緊張していたようです。しかし、今や福音は、一つの民族だけでなく、全世界の人々に宣べ伝えられています。ですから、終わりの日にはすべての人が呼び集められ、神の裁きの御座に出頭しなけばならないでしょう。生きている者も集められるばかりでなく、死者も墓から出て来るよう呼びかけられるでしょう。更に、乾いた骨とほこりにも命じて、再び初めの形と霊とを取らせ、人皆が生き返らせられて、キリストの面前に直ちに出頭しなければならない時が来るというのですから。それは、正に天地を揺るがす大音響となるでありましょう。

しかし51節で「わたしたちは皆、今とは異なる状態に変えられる」というのは、呼び集められるすべての人のことではありません。それでは、「わたしたち」とは誰のことでしょうか。それはキリスト・イエスに結ばれている人のことです。その他の人々について語られているのではありません。52節。なぜなら、「ラッパが鳴ると、復活して朽ちない者とされ、変えられる」というわたしたちは、朽ちるからだのままでは、神さまの前に出ることができない者ですが、キリストに結ばれているので、神さまの御前に立つことができる者に変えていただけるということなのです。

53節。「この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを必ず着ることになります」と言われているのは、朽ちるからだのままでは、神さまの前に出ることができない者が、朽ちないもの、死なないものを着て、神さまの御前に立つことができるということです。朽ちないもの、死なないものとは何でしょうか。それは、イエス・キリストの義、すなわちキリストの義しさであります。このお方は真に神の子であり、同時に人の子としてわたしたちと同じ肉体を持って生きてくださいましたが、神さまに忠実にその使命を果たされた方です。パウロはこのようにキリストの義しさを朽ちない衣という言葉によって表しました。わたしたちはキリストの義しさを衣のように自分の上に着て、罪赦され、義しい者とされるでしょう。

イエスさまは人間の罪を負って十字架に死なれました。私たちの死を苦しまれ、わたしたちの下るべき陰府に下ってくださいました。そして死に勝利されました。神さまがキリストの贖いを義と認められたからです。死は勝利にのみ込まれた、という表現は、今日読まれた旧約イザヤ25章8節からの引用だと言われています。そこには、のみ込むという言葉ではなく、「死を永久に滅ぼしてくださる」という表現がなされています。それは全滅させる、絶滅させるという意味なのです。

死よ、お前のとげはどこにあるのかと、歌われているのは、キリストの勝利をほめたたえるためです。死のとげは罪であり、罪の力は律法であります。しかし、人々は考えるかもしれません。「律法がなければ、罪もなかったのではないか。悪いのは律法があることではないか」と。しかし、それでは、「神を愛しなさい」と、言われなければよかったのでしょうか。また、「隣人を愛しなさいと、言われなければよかったのでしょうか。そんなことはあり得ません。それではまるで、何も知らずに泣きわめいている赤ん坊が、何も知らないまま大人になって、傍若無人にふるまい、人が傷つこうが気付けられようが、一切自分が悪いとは思わなくて一生が終わった方が良い、と言っているようなものです。愛そうとするからこそ、多くの失敗、過ちに気づき、悲しみも苦しみも経験することをわたしたちは知っているのです。

わたしたちは自分の罪を知る者だからこそ、キリストに出会うことができました。だからこそ、悔い改めへの招きに従う者となりました。だからこそ主イエス・キリストに結ばれて、終わりの日に復活にキリストの義しさに結ばれて、罪に勝利することができます。使徒信条で告白している「からだのよみがえりを信じる」とは、この希望をいただいて、今与えられている地上の命を大切に生きることです。どんなに悩み多い日々であり、どんなに心に責められることの多い人生であっても、わたしたちは死にのみ込まれることは決してないのです。主イエス・キリストが死の勝利してくださったのですから。この確信に生きましょう。祈ります。

 

主イエス・キリストの父なる神さま

尊き御名を賛美します。厳しい暑さの中、八月第二の主の日の礼拝に、わたしたちを呼び集めてくださり、わたしたちは恵みの御言葉をいただきました。足りない者、罪深い者を慈しみ、励まして、キリストの恵みに結んでくださいました。過ぎし日々の歩みを思い感謝に堪えません。

わたしたちの教会に与えられて来た恵みを思い感謝いたします。78年の歴史を歩み、この地域とこの時代に在って福音を宣べ伝える貴い務めをいただきました。私は8代目の教師として遣わされましたが、本当に至らないことが多かったにもかかわらず、教会に忍耐を与えて下さり、共に助け合う教会に育ててくださったことを感謝します。あなたが聖霊の助けによっていつも共にいらして、支え導いてくださったことを思います。

わたしたちの群れは、来年度新しい教師を迎えようとしています。福音を宣べ伝えるためにこれまで用いて下さった事を感謝し、これからもこの教会を生かし用いてくださいますように祈ります。成宗教会は太平洋戦争が起こる前に伝道を開始しました。戦争中の迫害と困窮の中、あなたは牧師とわずかな信徒を励まし忍耐させてくださったからこそ、教会は残されたことを思います。今はその時代を知る人々はほんのわずかになりましたが、困難を共に忍んでくださった主がここにおられたことを感謝します。どうか、これから迎えようとしている新たな試練の時代にこそ、これまでにいただいて来た恵みを振り返って勇気と知恵とを与えられますように。

小さな群れよ、恐れるな、御国をくださることは父の御心である、と御言葉によって励ましてくださる主に感謝します。どうか、高齢の会員を励まし、信仰を強くし、後の世代のために祈りの務めを果たすものとならせてください。どうか若い世代、勤労世代の会員を励まし、求道者の方々と共に、家族とともに、御言葉によって道が開かれることを信じる者とならせてください。

来週は教会学校の行事に合わせて合同の礼拝を捧げます。どうか、心を合わせて主を礼拝し、主を喜び、御言葉に養われますよう、お導きください。午後の教会学校の活動を祝してください。また、9月の音楽会、10月のバザーに向けての準備を導いてください。今日の長老会にあなたが共にいらして、御心をなしてください。すべてを御手に委ね、感謝して、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

2018年6月号

日本キリスト教団成宗教会

牧師・校長  並木せつ子

このお便りは、なりむね教会からのメッセージです。キリスト教会は神様の愛について学び、伝えます。子供さんも大人の方も、読んでいただければ幸いです。

興津晴枝先生のお話

(これは今年527日の礼拝で話されたものです。)

聖書:イザヤ書5章1~4節

「甘くておいしいブドウの実」

興津晴枝

みなさんの大好きな果物はなんですか? スイカの好きなひと、いちごの好きなひとなど皆さんのまわりにはおいしい沢山のくだものがありますね。今朝はブドウのお話です。

ブドウ狩りに行ったことのある人もいることでしょう。自分でそおっと枝からもいで食べたとき、思わず「甘い!おいしい!」って、とびきりの笑顔になった楽しい思い出もあるのではないでしょうか。でも、もし口に入れたとたん,甘くなくてすっぱすぎたりしたら「まずい!」って顔をしかめて吐き出してしまうかもしれませんね。

「ブドウ園」がありました。そのお世話をしている人のお話です。甘くておいしいブドウを育てるのはとても手間のかかる仕事です。まず最初に、ブドウの苗を植える畑の手入れをします。ブドウに適した栄養豊かな土地、大きな石コロなどは取り除かなくてはなりません。次はよく耕します。育ってきたら枝の剪定をしたり、ブドウの色をいい色にするために葉っぱでかくれないようお日様にあてます。肥料も大切です。みなさん、「お米」という字を思い浮かべて下さい。八十八、つまり88回も色々と手間をかけるという意味があるそうです。

ブドウのお世話をする人は「甘い実のおいしいブドウ」が出来ますようにと心から願いながら一生懸命働きました。それなのに甘い実の美味しいブドウではなく腐ったような酸っぱい実のブドウがなったとしたら、どうでしょうか?私たちならきっと「こんなまずいもの食べられない!」と捨ててしまうに違いありません。では、このブドウ園の世話人はどうしたでしょうか?やっぱり捨ててしまう?

みなさんはもうきっとわかりましたね。ブドウ園の世話人とは神様のことです。すっぱいブドウとは私たち人間のことです。神様がなさったことは何ひとつ足りない事はなかったのでとてもがっかりして悲しまれました。どうしてこんなことが起こったのでしょう?それは私たち人間に「罪」があるからです。神様に善いものとして造られた私たちなのに、そのことを忘れ、神様との約束を破り、神様なんかいらない!と離れて自分勝手な生き方をしてしまう、そのことです。「甘いブドウ」とは神様に喜ばれる生き方をすること。けれどそれは自分の力によっては出来ません。

だから神様はそのままではすっぱいブドウの私たちに、どうしても甘いブドウになって欲しいと願い、捨てるどころかイエスさまを送ってくださいました。イエスさまは私たちの罪の身代わりとなって私たちに新しい命をくださいました.イエス様のお言葉です。「わたしはブドウの木、わたしの父は農夫である、あなた方はその枝である」神様が愛して下さっているのに私たちは神様に喜ばれる生き方がなかなか出来ません。

けれどイエスさまという木から栄養を頂いている私たちが自分勝手に離れようとしても、イエスさまが木の幹として繋いでいてくださるのです。甘いおいしい実のなるブドウになれますよう、イエスさまから離れないように毎日をすごしましょう。

6月の御言葉

「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」マルコによる福音書2章17節。

6月の教会学校礼拝

(毎週日曜日、朝9時15分~9時45分)

  • 神様に感謝して祈り、歌います。イエスさまのお話、聖書について学びます。
  • お話の聖書箇所と担当の先生は次のとおりです。

6月3日(日)  ローマ3:20    お話の担当…     並木せつ子

10日(日) 詩編14:1-3           並木せつ子

17日(日) マルコ2:13-17         焦  凝

24日(日) マタイ14:22-33        興津晴枝


成宗教会学校からお知らせ

「知恵と知識の宝はすべて、キリストの内に隠れています。」

(新約聖書、コロサイ人への手紙2章3節)

  • 成宗教会学校は礼拝と聖書の学びが中心です・・・イエス様が全世界に知らせてくださった神様はどのようなお方でしょうか。このことを学ぶことは大きな利益となります。
  • 礼拝の後の活動もあります。全体で1時間程度。10時半にはキチンと終わります。
  • 6月10日(日)は花の日です・・・この日は、成田東三丁目の交番にお花を届ける活動をしています。お家にお花が咲いている方は、お持ち下されば一緒にお届けします。
  • 聖霊の神様の助けによって全世界に教会が建てられました。教会は神様の見えない恵みを、確かな宝物として皆さんにお分けしたいと思います。それはイエス様の福音(良い知らせ)という宝です。世界中の教会に与えられているこの宝を、皆さんも心に受けて、新しい一歩を元気に踏み出すことができますようにお祈りします。
  • 教会学校は、幼児(初めは保護者とご一緒に)から高校生、大人の方でも参加できます。親子でもご参加ください。また、中学生以上の方には、10時半~11時半のからの礼拝もお勧めしています。