主日礼拝説教
齋藤 正 牧師
《賛美歌》
讃美歌15番
讃美歌142番
讃美歌000番
《聖書箇所》
旧約聖書:列王記 下 4章42-44節 (旧約聖書583ページ)
4:42 一人の男がバアル・シャリシャから初物のパン、大麦パン二十個と新しい穀物を袋に入れて神の人のもとに持って来た。神の人は、「人々に与えて食べさせなさい」と命じたが、
4:43 召し使いは、「どうしてこれを百人の人々に分け与えることができましょう」と答えた。エリシャは再び命じた。「人々に与えて食べさせなさい。主は言われる。『彼らは食べきれずに残す。』」
4:44 召し使いがそれを配ったところ、主の言葉のとおり彼らは食べきれずに残した。
新約聖書:マルコによる福音書 8章1-10節 (新約聖書76ページ)
◆四千人に食べ物を与える
8:1 そのころ、また群衆が大勢いて、何も食べる物がなかったので、イエスは弟子たちを呼び寄せて言われた。
8:2 「群衆がかわいそうだ。もう三日もわたしと一緒にいるのに、食べ物がない。
8:3 空腹のまま家に帰らせると、途中で疲れきってしまうだろう。中には遠くから来ている者もいる。」
8:4 弟子たちは答えた。「こんな人里離れた所で、いったいどこからパンを手に入れて、これだけの人に十分食べさせることができるでしょうか。」
8:5 イエスが「パンは幾つあるか」とお尋ねになると、弟子たちは、「七つあります」と言った。
8:6 そこで、イエスは地面に座るように群衆に命じ、七つのパンを取り、感謝の祈りを唱えてこれを裂き、人々に配るようにと弟子たちにお渡しになった。弟子たちは群衆に配った。
8:7 また、小さい魚が少しあったので、賛美の祈りを唱えて、それも配るようにと言われた。
8:8 人々は食べて満腹したが、残ったパンの屑を集めると、七籠になった。
8:9 およそ四千人の人がいた。イエスは彼らを解散させられた。
8:10 それからすぐに、弟子たちと共に舟に乗って、ダルマヌタの地方に行かれた。
《説教》『生命のパン』
皆さんと御一緒に読んできたマルコによる福音書は本日から、8章に入ります。
1節の初めに「そのころ、また」とあります。「そのころ」とは直訳では「その直後」という言葉で、「前の物語のすぐ後」といった意味です。続く、「また」とあるギリシャ語は「パリン」という言葉ですが、これは「再び」という意味です。何故「再び」と言われているのでしょうか。それは、ここに語られる「パンの奇跡」が、既に6章30節以下で行われた「五千人の給食」と同じような奇蹟であるからでしょうか。
確かに本日の、「四千人の給食」物語は、6章の「五千人の給食」と非常に良く似ています。違いと言えば、6章が「五つのパンと二匹の魚」であり、本日の箇所は「七つのパンと少しの魚」ということくらいで、その他は似たようなものです。
そこで多くの人々は、この二つの物語は実際には同じものであったが、伝えられている間にパンの数が変わり、マルコは別々の物語として記録したのであろう、と考えるのです。
確かに、よく似ていることは事実です。しかし、ただ「似ているだけ」では、すぐそばに二つの物語を置く必要はなさそうです。マルコは、ここに「キリストの恵みに接する人間の傲慢さ」があると言っているのです。
私たちは、奇跡物語に出会うと「こんな奇跡はある筈はない」と思い、二度続けて出てくると「二度も起こる筈はない」と思うでしょう。それは、神の恵みの御業を、なるべく小さなものに、人間が合理的に理解できるものにしようとするのではないでしょうか。神の御業を人間の理解できるものにしようとする滑稽な努力が、この8章1節以下の物語の独立性を否定しようとしているのです。この奇跡は、繰り返される必要のないものなのでしょうか。
もし、本当に「渇きに耐えかねた動物が、谷川の水を求めて険しい崖を下るような思い」で、神の恵みの御業を求めているのであるならば、再び示されたこの奇跡を「増し加えられた恩寵」として喜ぶべきです。むしろ、「まだこのほかにも沢山行われた筈だ」と考えたくなるのではないでしょうか。
主イエス・キリストと共におり、キリストが自ら祝福して下さったパンを受け取ることこそ、神の国に生きる者の願いなら、この奇跡は、「繰り返されるべき恩寵の御業であった」と言うべきではないでしょうか。そして、現在の私たちが聖餐式で受ける恵みこそ、このパンの奇跡の繰り返しに他なりません。再び行われたこの奇跡は、「キリストと共にある時、何時も与えられる恵みのしるし」として受け止めるべきです。
奇跡の行われた、この場所は、ユダヤ人が住むガリラヤではなく、既に述べたように異邦人の住む土地でした。ですから、これらの二つの奇跡を単純に区別するならば、6章30節以下はガリラヤで行われた「ユダヤ人に対する恵み」、今日の8章1節以下は、主イエスがユダヤ人に追われて行った先で行われた「異邦人に対する奇跡」と言うことも出来ます。そう考える時、この奇跡が単なる繰り返しというものではなく、神の国が、ユダヤ人の境を越えて、神の民とは見做されていなかった異邦人のところまで広がっていることを示している、と見ることが出来るでしょう。
2節で「群衆がかわいそうだ。」と主イエスは言われました。ここが6章30節以下と決定的に異なるところです。この時まで救いから外されてきた異邦人、私たち日本人を含め、神の国の食卓に着くことが出来るようになったのは、この主イエス・キリストの憐れみに基づくものであるということを忘れてはなりません。
私たちも異邦人でした。罪の中にありながら、罪とは何であるかを知らず、神の国を求めることさえも知らなかった私たちが、今、このように教会に招かれ、恵みのパンを受け、永遠の生命を約束される神の国の民となったのは、このキリストの憐れみによるものです。
「群衆がかわいそうだ」と言われたキリストの御言葉が全ての人々の運命を変えて行くのです。「かわいそうである」と訳されている「スプラグコニゾマイ」という言葉は本来、ユダヤ人が感情の宿ると考えていた「腸(はらわた)」という言葉から派生した意味の言葉であり、別の岩波訳聖書では「腸(はらわた)のちぎれる想いがする」と訳しています。まさに心の想いが充満した状態を表して、単なる「かわいそう」という日本語の訳では人間の惨めさを見詰める主イエスの御心を表現するにはまことに不十分と言えましょう。御前に集まる人間の惨めさに対する主イエスの心からの思いが、この御言葉によって示されているからです。
主イエスは、彼らの何を見てそれほど心を揺り動かされたのでしょうか。全ての者を神の御国へ導く救い主キリストの御言葉は、何に基づいて語られているのでしょうか。
2節で主イエスは、「食べ物がない」と言われています。空腹が直接のキッカケであったことは確かです。しかし、単なる飢えがそれ程の問題になり得たでしょうか。家に帰れば食料はあり、ただ「今、この場に食べ物がない」というだけのことです。その程度の空腹に対し、「神の御子が心からの思いをもって憐れんだ」というのは少々大袈裟で、変ではないでしょうか。飢えにも様々なものがあり、求めるものも様々です。そして共通することは「飢えとは我慢できないものである」ということです。一切れのパンのために牢獄に繋がれる人もあり、創世記25章のイサクの長男エサウが空腹のために煮豆で長子の権利を弟ヤコブに譲ってしまうのは旧約聖書の有名な物語です。これは決して絵空事ではなく、人は飢えを満たすために生きているとも言えるでしょう。古い話ですが、昭和二〇年代前半、敗戦後の日本ではアメリカからの援助を期待してクリスマスには各地の教会は満員になり、教会の前には貧しい人々で列ができたと聞きました。しかし、社会が豊かになった時、人々は教会から離れました。
主イエスが群衆を見て「腸(はらわた)を揺り動かされた」のは、単に空腹であったからではなく、「その飢えとは何であるのか」ということを見透されたからなのです。「もう三日もわたしと一緒にいる」。即ち、群衆の空腹は「キリストと共にいた」ということから起こったのです。「主を追い求めた結果」として気付かされた「飢え」とは空腹とは違う飢えだったのです。
キリストと共にいて初めて覚える「飢え」とは何でしょうか。そこで気付く飢えとは、肉体の飢えではなく、日頃は忘れていた「魂の貧しさ」だったのです。敢えて言えば、主の御言葉を追い求め続けたことが「魂の飢えを呼び覚ました」ということなのです。そして、「三日の日々、主の御許に留まった」ということは、そのために空腹になったということを説明するのではなく、魂の飢えの満たされることを願って「食べることを忘れた」と言うべきでしよう。
ユダヤ人にとって「穢れた者」であり「豚」とまで蔑まれた異邦人を、主イエスはその御言葉によって、神の国の民に変えて行ったのです。
主イエスの下に集まった多くの異邦人が「初めから特別に熱心であった」とは考えられません。彼らもほかの場合と同じように、「有名なナザレのイエスを見てみたい」という興味本位であったり、或いは「病気を治して欲しい」という自己中心的な理由であったかも知れません。しかし、集まった理由は様々であっても、そこで語られた主イエスの御言葉が、彼らに「時」を忘れさせたのです。
これは、私たち自身のことを考えれば明らかでしょう。多くの場合、教会へ足を踏み入れるきっかけは、極めて世俗的な理由によるものです。私たちは、決して信仰のエリートではありませんし、特別な熱心さを初めから持っていたわけでもありません。ただ、ふと足を踏み入れた教会で聞いた御言葉が、そこで初めて知った聖書に記された主イエス・キリストのお姿が、何故か、心を捉えて離さなかった、ということなのです。
「もう三日もわたしと一緒にいるのに」と主イエスは言われました。御言葉に捉えられて、初めて魂の飢えを知った者に、主イエス・キリストは生命のパンを与えて下さるのです。
4節には、「こんな人里離れた所で、いったいどこからパンを手に入れて、これだけの人に十分食べさせることができるでしょうか。」と弟子たちが言いました。場所は荒野です。パンを手に入れることが出来る場所ではありません。
自分自身で自分の飢えを満たすことは不可能だと気付かされる時、丁度、荒野の真ん中で途方にくれている弟子たちのように自分に絶望する時、キリストの手が差し伸べられていることを知るのです。神の御恵み「恩寵」とは、人間の努力の虚しさの彼方にあるものなのです。
5節から8節にあるように、主イエスはわずかに持ち合わせのあった7つのパンで四千人を満腹させる奇跡を行われました。この奇跡に何を見なければならないのかは、明らかです。「七つのパンで四千人の人が満腹した」ということは驚くことではないのです。この世に来られた独り子なる神が、「七つのパンで四千人を養った」からといって、不思議に思う必要はまったくないのです。
しかしながら、このことに躓く人が沢山います。「そんなことは不可能だ」と言い、「幼稚な作り話だ」と笑い捨てる人もいるでしょう。しかし、もしこの恵みを受けている群衆の中に自分がいることを考えるならば、どうでしょうか。「七つのパンで四千人を養うこと」と「私の罪を赦すこと」の、どちらが容易だと思いますか。
「本当の奇跡」とは、罪の中に苦しんで来た人間が「御言葉に捉えられる」ということです。神に背を向けて生きて来た人間が、「神の国に迎え入れられる」ということです。そしてなお、御言葉を十分に理解できない異邦人のためにも、主イエス・キリストの祝福が与えられたということです。
この時、神の国の食卓を示す奇跡に「七つのパン」が用いられました。この数は、たまたま弟子たちが持っていた数であったのかもしれません。しかし、聖書が教えることは、「七は聖なる数である」ということです。聖書はしばしば象徴によって恵みの真理を語ることを思い出してください。
ということは、この食事が、神の子キリストによって与えられる「聖なる食事である」ということを、「七つの」という言葉によって暗示しているのだということが出来るでしょう。キリストが与えて下さるパンは、単なる肉体の飢えをその場限りで満たすものではなく、永遠に連なる神の国の豊かさを、人間の魂に与えて下さっているのです。
さらに、「感謝の祈りを唱えてこれを裂き」と記されていますが、これは新約聖書314ページのコリントの信徒への手紙第一 11章24節でパウロが語る、「主の晩餐の制定」の言葉と全く同じです。そして、この6節の「感謝する」と訳されている言葉「ユーカリステオー」から「聖餐:ユーカリスティア」という言葉が生れました。主イエス・キリストの顧みによって与えられた聖なる食事、それこそ、驚くべき奇跡の始まりであり、今や、主の御許に集まった異邦人の群れの中に、「新しい神の民が誕生した」ということが、ここに宣言されているのです。
8節には、その四千人の人々を主イエスが解散させられたとあります。人々は主イエスから離れ、それぞれ自分の家に帰って行きました。神の御子と共に居り、御言葉を親しく聞いていた場から、再び現実の生活の場へと戻って行きました。そしてそれが、この時の主イエスの目的であったのです。
主イエス・キリストが与えて下さる生命のパンは、御言葉を聞いた人々が新しい力に満たされ、生活の場へ戻って行くためのものなのです。これこそが教会に許された聖餐の意味です。罪と戦い、永遠の御国へ向かう魂の旅路を支える生命のパンは、主の憐れみよって備えられているのです。
新約聖書176ページ、ヨハネによる福音書 6章35節の主イエスの言われた御言葉をお読みします。「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことはない。」
主イエス・キリストは、魂の飢えを満たし、この世の日々を喜びのうちに全うするために、御自身を「新しい生命のパン」として、私たちに差し出されているのです。御言葉に捉えられ、キリストと共に喜ぶ者に、主イエス・キリストは、今もなお繰り返し「生命のパン」を与えて下さっています。
私たちが弱りきってしまわないために、与えられた御言葉を確かなものとして生活の中に持ち帰ることが出来るために、永遠の生命に至る長い道のりを歩き通すことが出来るために、主イエス・キリストは、今日も恵みの御手を差し伸べ、私たちに「生命のパン」を与えて下さり、この世の生活を支えて下さっているのです。
未だその「生命のパン」の味を知らないお一人でも多くの方々、ご家族の上に「救いの素晴しさ」を知ってほしいと祈り願い続けます。
お祈りを致します。
