けがれ

主日礼拝説教

齋藤 正 牧師

《賛美歌》

讃美歌 2番
讃美歌520番
讃美歌98番

《聖書箇所》

旧約聖書:出エジプト記 29章33-34節 (旧約聖書143ページ)

29:33 彼らは、自分たちの任職と聖別の儀式に際して、罪の贖いとして用いられた献げ物を食べる。それは聖なるものであるから、一般の人は食べてはならない。
29:34 もし、この任職の献げ物の肉やパンが翌朝まで残ったならば、焼き捨てる。それは聖なるものであるから、だれも食べてはならない。

新約聖書:マルコによる福音書 7章14-23節 (新約聖書74ページ)

7:14 それから、イエスは再び群衆を呼び寄せて言われた。「皆、わたしの言うことを聞いて悟りなさい。
7:15 外から人の体に入るもので人を汚すことができるものは何もなく、人の中から出て来るものが、人を汚すのである。」
7:16 (†底本に節が欠落 異本訳) 聞く耳のある者は聞きなさい。
7:17 イエスが群衆と別れて家に入られると、弟子たちはこのたとえについて尋ねた。
7:18 イエスは言われた。「あなたがたも、そんなに物分かりが悪いのか。すべて外から人の体に入るものは、人を汚すことができないことが分からないのか。
7:19 それは人の心の中に入るのではなく、腹の中に入り、そして外に出される。こうして、すべての食べ物は清められる。」
7:20 更に、次のように言われた。「人から出て来るものこそ、人を汚す。
7:21 中から、つまり人間の心から、悪い思いが出て来るからである。みだらな行い、盗み、殺意、
7:22 姦淫、貪欲、悪意、詐欺、好色、ねたみ、悪口、傲慢、無分別など、
7:23 これらの悪はみな中から出て来て、人を汚すのである。」

《説教》『けがれ』

本日の説教題を「けがれ」とつけました。本日はマルコによる福音書第7章14節以下をご一緒に読むのですが、ここには、本当に人を汚(けが)すものは何なのか、ということについての主イエスの教えが語られています。何が人を汚(けが)すのか、ということが、当時のユダヤ人たちにとって大変大きな問題だったのです。旧約聖書には、清いものと汚(けが)れたものとを区別するための大変細かい掟が記されています。汚(けが)れたものに触れて汚(けが)れを身に負ってしまうと神様の前に出ることができなくなるからです。この汚(けが)れは衛生的な問題ではなくて宗教的な意味での汚(けが)れのことを言っています。旧約聖書には、そのように汚(けが)れてしまった人が身を清めて再び神様の前に出るためになすべき儀式や捧げものについても細かく書かれています。この旧約聖書に語られている、清いものと汚(けが)れたものについての教えは私たちキリスト者においてはもう乗り越えられているのです。しかしそれはどのようにして乗り越えられたのでしょうか。時代が新しくなって合理的な考え方が定着してくると、そのような感覚は自然に乗り越えることができたのでしょうか。そんなことではありません。私たちが、日常の生活の中で「これは清いものか、汚(けが)れているか」などと気にすることなく生きていけるのは、本日語られている主イエスの教えがあるからです。

先週の説教では、ファリサイ派の人々や律法学者たちが、「食事の前の手洗いという伝統的な宗教儀式を主イエスの弟子たちが守らない」ということを非難しました。それに対し、主イエスは、律法を与えて下さった神の御心に従うことを疎かにしている彼らの形式主義の誤りを指摘しました。

本日のこの14節以下では、律法学者たちが出した問題に対する答えを、律法学者たちに向かってではなく、主イエス御自身が呼び寄せた群衆に対して語られるのです。この主イエスのお姿は、ファリサイ派の人々や律法学者たちに対する神の裁きを示すと共に、古い時代との訣別と新しい歩みを明らかにしています。

14節にある、「皆、わたしの言うことを聞いて悟りなさい」、これは当時の人々にとって大胆な驚くべき発言でした。何故なら、当時の人々にとって、ここにある「聞く」という言葉は「聖書に聞くこと」「聞き従うこと」を意味したからです。勿論、この場合の聖書とは旧約聖書のことです。

イスラエル最古の信仰告白と言える申命記6章4節以下の御言葉は、「聞け、イスラエルよ」という言葉で始まります。「シェマー・イスラエール」という呼びかけで始まるこの聖句を、現代でもイスラエルの人々は家の全ての戸口に貼り付けており、祈りの時には身体に付けます。神は語り、人はそれを聞く。それが神の民の生き方の基本であったからです。神は聖書を通して語り、人は聖書を通して御言葉を聴く。そしてその御言葉を解釈して語る律法学者たちの言葉がイスラエルの人々の生活を支配していました。

御言葉を解釈する権威を持つ律法学者たちの前で、彼らを無視して、今、主イエスは群衆に向って「わたしに聞け」と言われたのです。神の御子としての隠されている主イエスの御業の一端を、主イエス御自身がお示しになったのです。

15節の、「外から人の体に入るもので人を汚すことができるものは何もなく、人の中から出て来るものが、人を汚すのである。」、これが御言葉の中心であり、ここに「新しいこと」が語られているのです。ペトロを初めとする弟子たちがこの御言葉を理解出来なかったということは、17節でこの御言葉を弟子たちが「たとえ」として聞いたことからも明らかです。15節の何が「たとえ」なのでしようか。

「汚(けが)れ」については、既に7章1節以下の先週の説教で詳しく述べましたが、重要なことなので、もう一度、簡単に繰り返しておきます。先ず、ここでは「ケガレ」と読み、「ヨゴレ」とは読みません。食事の前の手洗いは、ユダヤ人にとって「ヨゴレ」の問題ではなかったからです。重要なことは「ケガレ」です。「神の御前に出られない状態」を「穢(けが)れ」と言います。

イスラエル民族は小さく弱い民族でした。他の民族と一緒になったら必ず飲み込まれてしまいます。そして周辺の人々は全て偶像礼拝の民族でした。偶像礼拝によって神の御名を「汚(けが)す」ことこそ避けなければなりません。それ故に、主なる神は異民族に近づくことを禁じられました。これを「分離」と言いました。偶像礼拝から引き離された民、それを「聖なる民」と言うのであり(出エジプト記29章33節~34節)、旧約聖書ヘブライ語で「分離」「聖別」を意味した“コーディシュ”という言葉が「聖なる者」(ギリシア語ではハギオス)という意味になったと先週お話しました。

しかし今、主イエスは全く新しいことを示されました。主イエスはその考え方を根本から否定されたのです。18節の、「外から人の体に入るもので、人を汚(けが)すことの出来るものは何もない」という御言葉は、異邦人という、神から遠ざけられた者を危険ではない受け入れなさいと肯定するものでした。19節では、「外から入って来るもの」の代表として食物があげられています。しかし勿論、主イエスが単なる食物のことを語っているのではないことも明らかです。

ユダヤ人にとっての食物は、レビ記11章に詳しく記されているように、食べてよいものと悪いものとが現代においても厳密に区別され、これまた分離の大切な「しるし」でありました。それ故に、ユダヤ人は「他の民族と一緒に食事をしない」ということが固く守られるようになりました。ですから、「全ての食物は清い」と主イエスが言われたことは、実は、現代のユダヤ人にとっても驚くべき宣言であるのです。

神様は、万物を創造された時、「それを見て、よしとされた」と創世記は祝福を語っています。神様が造られたものは「全て、よいもの」でありました。この世界は「清いもの」として造られたのです。

ですから、ここに語られた主イエスの御言葉は、今や、神様に造られた全てのものが「本来の姿を取り戻す時が来た」ということを告げているのです。

それでは「汚(けが)れ」は全く消滅したのでしようか。そうではありません。20節以下には、「人から出て来るものこそ、人を汚す」とあります。それは、「つまり人間の心から、悪い思いが出て来るからである。みだらな行い、盗み、殺意、姦淫、貪欲、悪意、詐欺、好色、ねたみ、悪口、傲慢、無分別など、これらの悪はみな中から出て来て、人を汚すのである。」と主イエスは言われました。

「汚(けが)れ」とは、「神の御前に出ることが出来ない状態」のことであり、私たちをそのような状態に引き落とすものが、「自分の心の中にある」というのです。この21節以下の悪のリストと言うべきものは、心の中から出る悪の代表的な例に過ぎません。

私たちは、何故、人を欺くのでしょうか。ねたみを抱き、悪口を言います。傲慢であり、無分別です。これらの醜い姿は心の中にあるのです。口から出る言葉が、目に見えない隠された心の罪を顕わにするのです。心の卑しい人は、口から出る言葉によって醜さを現し、言葉に棘のある人は、そのことによって、心に思いやりの少ないことを示すのです。

神に背を向けた人間の生きざまがさまざまな悪となって表面に現れて来ます。それは、赦されざる罪の結果であり、私たち全てが背負っている罪が「聖なる民」となることを妨げているのです。

「外からの汚(けが)れ」。即ち、異邦民族からの分離や食物などによる差別は、キリスト・イエスの一言によって消滅しました。イスラエルが長く守って来た分離の思想は、神の御子主イエスによって、それまでの意味を失いました。しかしながら、人の中に存在し続ける「汚(けが)れ」即ち「罪」は、御子の死「十字架」を待たなければ解決しなかったのです。

弟子たちはそれを理解できずに17節で主イエスに尋ねました。主イエスは、罪について実に明確に語ったのですが、弟子たちには、それが分からなかったのです。このことは、罪を背負って生きる人間、弟子たちでさえ罪の中にあれば、「汚(けが)れ」の意味が如何に理解できなかったのかに具体的な姿と言えるでしよう。

主イエスはこのように、人の汚(けが)れは外から入って来るのではなくて、人の心の中から生まれるのだとおっしゃいました。汚(けが)れは洗って落とせるような外側にあるものではない、あなたがたの心そのものが汚れの源なのだ、とおっしゃったのです。それはファリサイ派の人々や律法学者たちに対する批判であるだけではありません。私たちが、自分は清く正しい者であり、ある人を悪人であると差別しようとする時、その前提には、自分がもともと清い者であり、汚れは外から入って来る、という思いがあるのです。主イエスはそういう私たちに対して厳しい否をつきつけて、あなたがた自身の中に汚れがある、そこから悪い思いや行いが次々に外に出て来るのだと言っておられるのです。だから、外側をいくら一生懸命に清めても、私たちは清い者となることができないのです。

それでは私たちはどうすればよいのでしょうか。汚れは外側からではなく内側から、心の中から生じるのだから、外側ではなくて心の中をこそ洗い清めなさい、と主イエスは教えておられるのでしょうか。そうではありません。私たちが洗い清めることができるのはせいぜい外側だけです。心の中を自分で洗い清めることはできません。悪い思いを捨て、心を入れ替えて清い思いで生きようと決心しても、それは出来ることではありません。そのように決心する私たちの心そのものが汚れの源なのだと主イエスは言っておられるのです。

主イエスは、伝道の最初の時以来、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と語って来られました。「神の国は近づいた」、つまり神様のご支配が今や実現し、あなたがたを捉えようとしている、それが主イエスの教えの根本です。この主イエスの宣言にこそ、私たちの心にある汚(けが)れ、罪からの解放、救いがあるのです。その解放、救いは、神様が私たちを支配して下さることによって実現し、与えられます。その神様のご支配が、今や主イエス・キリストによって実現しようとしている、それが「神の国は近づいた」ということです。私たちの、汚れからの、罪からの解放は、主イエス・キリストによって与えられるのです。それは、私たちを支配している罪、汚(けが)れをすべて、ご自分の身に背負って十字架にかかって死んで下さるためでした。キリストの十字架の死によって、神様が私たちの罪を赦し、汚れをぬぐい去り、清めて下さったのです。それが「福音」です。「悔い改めて福音を信じなさい」とは、自分の力で自分の心を洗い清めようとするのではなく、キリストの十字架による罪の赦しという福音、救いの知らせを信じ受け入れて、その神様の恵みのご支配の下に身を置くことです。お一人でも多くの方が、とりわけ身近なの人々が共々に罪から救われますよう、お祈りを致します。

<<< 祈  祷 >>>

みこころを思え

主日礼拝説教

齋藤 正 牧師

《賛美歌》

讃美歌 6番
讃美歌352番
讃美歌79番

《聖書箇所》

旧約聖書:創世記 28章20-22節 (旧約聖書46ページ)

28:20 ヤコブはまた、誓願を立てて言った。「神がわたしと共におられ、わたしが歩むこの旅路を守り、食べ物、着る物を与え、
28:21 無事に父の家に帰らせてくださり、主がわたしの神となられるなら、
28:22 わたしが記念碑として立てたこの石を神の家とし、すべて、あなたがわたしに与えられるものの十分の一をささげます。」

新約聖書:マルコによる福音書 7章1-13節 (新約聖書74ページ)

7:1 ファリサイ派の人々と数人の律法学者たちが、エルサレムから来て、イエスのもとに集まった。
7:2 そして、イエスの弟子たちの中に汚れた手、つまり洗わない手で食事をする者がいるのを見た。
7:3 ――ファリサイ派の人々をはじめユダヤ人は皆、昔の人の言い伝えを固く守って、念入りに手を洗ってからでないと食事をせず、
7:4 また、市場から帰ったときには、身を清めてからでないと食事をしない。そのほか、杯、鉢、銅の器や寝台を洗うことなど、昔から受け継いで固く守っていることがたくさんある。――
7:5 そこで、ファリサイ派の人々と律法学者たちが尋ねた。「なぜ、あなたの弟子たちは昔の人の言い伝えに従って歩まず、汚れた手で食事をするのですか。」
7:6 イエスは言われた。「イザヤは、あなたたちのような偽善者のことを見事に預言したものだ。彼はこう書いている。『この民は口先ではわたしを敬うが、/その心はわたしから遠く離れている。
7:7 人間の戒めを教えとしておしえ、/むなしくわたしをあがめている。』
7:8 あなたたちは神の掟を捨てて、人間の言い伝えを固く守っている。」
7:9 更に、イエスは言われた。「あなたたちは自分の言い伝えを大事にして、よくも神の掟をないがしろにしたものである。
7:10 モーセは、『父と母を敬え』と言い、『父または母をののしる者は死刑に処せられるべきである』とも言っている。
7:11 それなのに、あなたたちは言っている。『もし、だれかが父または母に対して、「あなたに差し上げるべきものは、何でもコルバン、つまり神への供え物です」と言えば、
7:12 その人はもはや父または母に対して何もしないで済むのだ』と。
7:13 こうして、あなたたちは、受け継いだ言い伝えで神の言葉を無にしている。また、これと同じようなことをたくさん行っている。」

《説教》『みこころを思え』

今日まで、マルコによる福音書を連続して、ご一緒にお読みして来ましたが、今日から7章に入ります。最初の1節に「ファリサイ派の人々と数人の律法学者たちが、エルサレムから来て、イエスのもとに集まった」とあります。ファリサイ派と律法学者とは基本的に同じと考えてよいでしょう。旧約聖書に記されている神様の掟である律法を研究し、それを人一倍厳格に守り実践するという生活を送っていた人々です。そして彼らは一般の人々に、日々の生活の中で律法を守って生きることを具体的に教えていたのです。イスラエルの人々が、主なる神の民として相応しく、律法を守って生活するように指導していくことが彼らの働きでした。そういう人々が何人か、エルサレムから主イエスのもとに来たのです。主イエスが今活動しておられるのはガリラヤ地方です。ユダヤの北の方、ガリラヤ湖の周辺のこの地は、エルサレムからは100Km以上の距離がある「田舎」です。その田舎であるガリラヤにイエスという男が現れ、神の国の福音を宣べ伝え、癒しの奇跡を行い、多くの人々が彼の周りに集まっていることを伝え聞いたエルサレムのファリサイ派の人々や律法学者たちが、イエスの語っていることと、行っていることを調べ、それが律法に適ったものかを確かめるためにやって来たのです。そのような時、主イエスの弟子たちが手を洗わないで食事をしているところを、たまたま見たのでした。食事の場にまで居合わせたということは、彼らは、これまでも主イエスと行動を共にしていたとみることが出来ます。主イエスと行動を共にし、御言葉を繰り返し聞きながら、何一つ自分の内に留めることなく、過ちを見出すことのみを考えていたのが、このファリサイ派の人々や律法学者たちでした。

この時の弟子たちの行動が、何故、ファリサイ派の人々にとって非難すべきことと思われたのかを、当時のユダヤの習慣を知らない人々のために、マルコはわざわざ3節と4節で説明をしています。そこには、「ファリサイ派の人々をはじめユダヤ人は皆、昔の人々の言い伝えを固く守って、念入りに手を洗ってからでないと食事をせず、また、市場から帰ったときには、身を清めてからでないと食事をしない。そのほか、杯、鉢、銅の器や寝台などを洗うことなど、昔から受け継いで固く守っていることがたくさんある」とあります。これは聖書に記されているユダヤ人が守っていた「律法」ではなく、いわゆる「昔からの習慣」でした。

ここで「汚(けが)れ」と訳されている言葉についてですが、日本語の「ヨゴレ」と「ケガレ」とを明確に区別しておかなければなりません。特に注意しなければならないことは、「手を洗う」ということが、衛生上のことではなく、大切な宗教儀式であったということです。ユダヤ人の「手洗い」は、「汚(よご)れたから洗う」のではなく、厳密に言えば、「穢(けが)れたから潔める」ということなのです。2節に用いられている「汚(けが)れ(コイノス)」というギリシャ語の言葉は、「聖なる(ハギオス)]という言葉に対称する言葉です。「ヨゴレ」の問題ではなく、「ケガレ」の問題なのです。一言で言えば、「ケガレ」とは「神に近づくことが出来ない状態」と定義することが出来るでしょう。旧約聖書はこの「ケガレ」について数多くの戒めを記しており、それぞれに大切なことが決められていますが、全ての律法に共通する精神、それは「イスラエル民族を守る」ということでした。

イスラエルは小さく弱い民族でした。周辺の民族の中に埋没してしまう危険性が常にありました。特に周辺の諸民族は全て偶像礼拝をしています。ですから、彼らとの同化は信仰を失う危険を招く恐れが強かったと言えるでしょう。それ故に、旧約聖書をもって、イスラエル民族と他の民族を明確に分け、異民族から分け隔てる「分離の思想」というものが確立されていったのです。小さく弱いイスラエル民族を周囲の偶像礼拝から守るにはどうしたらよいのか。神様が教えられた方法は、危険から引き離すこと、危険に近寄らないこと、即ち「分離すること」でした。砂漠の民、遊牧の民として、質素で厳しい生活に耐えて来たイスラエルの民にとっては、地中海文明の覇者であるローマ帝国の下での都市生活は大きな誘惑でした。このため、神様は異民族との「分離」を御命じになったのです。神の民の歴史の中で「分離」が重要な主題となり、そしてヘブライ語の「分離(コーデシュ)」という言葉が旧約聖書の「聖」「聖い」という意味に用いられるようになりました。逆に言えば、私たちが聖書から用いる「聖」という言葉は、本来「分離する」「引き離す」という意味の言葉なのです。

それ故に、イスラエルは自分たちを自ら「分離された民族」、同じ意味で「聖なる民族」と呼び、他の民族と交わることを、「聖」の反対語を用いて「ケガレ」と呼びました。不潔なものや不衛生なものに触れたので「ヨゴレタ」というのではありません。偶像礼拝などによって、自分たちの信仰が危険に晒されることを、そこに感じたからです。ですから、ここで議論となった「手を洗う」という行為は、自分たちの信仰の純粋性を偶像礼拝の危険から守るという具体的な行動を表す言葉でした。

5節でファリサイ派の人々や律法学者たちは「なぜ手を洗わないのか」と非難しました。しかし彼らは、「それでは、なぜ、手を洗うのか」という問いが、改めて主イエスから返されたことを見落としているのです。「今や、手を洗わなくても良い時代が来た」という主イエスの大切なメッセージを聞き漏らしているのです。

マルコによる福音書に記された主イエスの最初の御言葉は何であったでしょうか。それは1章15節の「時は満ちた」でした。準備の時は終わり、遂に御業の完成の時が来たのです。マルコ福音書はこのことを宣言しているのです。

他の民族との接触を避け、自分たちの立場を「分離」して固く守る時代は終わったのです。主イエス・キリストの到来は、これまで「分離すること」で守られて来たイスラエル民族が、今や遂に、全ての人々のために、神の御業の証し人として出て行く「時の始まり」でした。

主イエス・キリストの宣言はこのことでした。そして、調べに来たファリサイ派の人々や律法学者たちもこの御言葉を聴き、その「しるし」を見た筈でした。それにも拘らず、単なる習慣上の形式に囚われ、律法が目指して来たことを見落とし、弟子たちのあら捜しをして、主イエスを陥れることしか考えていませんでした。既に述べたとおり、「手を洗う」ということは、確かにユダヤ人にとって、分離され保護されている自分たちの姿を確認することでした。さらに主イエスは具体的な例を挙げ、ファリサイ派によって代表されている人間の罪を指摘するのです。9節以下で、「あなたたちは自分の言い伝えを大事にして、よくも神の掟をないがしろにしたものである。モーセは『父と母を敬え』と言い、『父または母をののしる者は死刑に処せられるべきである』とも言っている。それなのに、あなたたちは言っている。『もし、だれかが父または母に対して、「あなたに差し上げるべきものは、何でもコルバン、つまり神への供え物です」と言えば、その人はもはや父または母に対し何もしないで済むのだ』」と言われました。ここで「コルバン」とは、ここに説明されているように、「神様への献げもの」という意味です。この時代のイスラエルでは、神様への献げものは絶対視されていました。人間は神様より与えられたものを受けているのであり、「その最初のものは神様にお返しするべきである」とされ、十分の一を先ず神様に献げ、残りの十分の九で生活すべきことが聖書に記され、固く守られて来ました(創世記28章22節、レビ記27章30節、申命記14章22節、アモス書4章4節、ルカ福音書18章12節)。「コルバン」とはこの「神様への献げもの」のことであり、ひとたび「コルバン」と宣告すれば、それは、如何なることがあっても自分の生活のために用いることは許されません。そのため、「コルバン」という言葉は「聖別」という意味にもなり、「完全な献身」をも表しました。ですから、この「コルバン」という言葉も「手を洗う」ことと同じく、信仰を守るために「自分自身の決断を表明する宣言」でもあったと言うべきでしょう。

人は、お金など持っていれば使いたくなります。それは人間共通の心理であり、欲望に限界はありません。そのため、この時代の人々は「コルバン」と自ら宣言することによって、自分の欲望を抑えたのです。しかし、それが悪用され、親を養わない理由として「献げものをしなければならないから」と言う人間が続出したというのです。神様への誓いは絶対的であり、取り消し不可能です。そのため、親を養う義務を放棄するとき、人は「コルバン」を悪用しました。さらにまた、借金の催促が来た時も、「この金はコルバンです」と言えば、その場の督促を逃れることも出来ました。

このような人々は、何よりも神様への献げものを優先しているようであり、一見、神様中心の生活を送っているように見えますが、実は、それを利用して自分の義務を免れようとしているに過ぎません。神様が与えた律法の精神を悪用した形式主義の醜さがここにありました。

既に見て来ましたように、「手を洗う」ということは、「信仰の純粋性を守る」ということであり、「コルバン」とは「神への感謝を忘れるな」ということでした。何のために守るのか。何のためにそれを行うのか。手段は目的に従うものに過ぎません。ファリサイ派は、主イエスの欠点を探し出そうとする愚かな努力の結果、かえって自分たちの生きる姿の虚しさを露呈してしまったのです。主イエスは、彼らに対して、8節では「あなたたちは神の掟を捨てた」と言い、13節では、「神の言葉を無にしている」と非難しておられます。御心は私たちを冷たい戒めの中に閉じ込めることではなく、福音の光の中で真実の自由を喜ぶことにあります。

主イエス・キリストの到来によって「時は満ちた」のです。戒めによって守られる時代は終わったのです。主イエス・キリストの来臨は、新しい時代の始まりを告げています。律法によってではなく福音によって、裁きによってではなく赦しの宣言によって生きる、新しい『自由の時代』です。「コルバン」という信仰的な言葉を、自分の欲望の隠れ蓑としてしまうような「偽善」から解放されるためには、私たち自身がコルバンとなること、神様への供えものとなることが必要なのです。

主イエス・キリストは、この私たちの罪を全て背負って十字架にかかって死んで下さったのです。父なる神はこのようにして、私たちの罪を赦し、清くも正しくもない私たちをご自分のものとして下さっているのです。「自分は自分のものだ」と言い張っている私たちに、神様は、「私は独り子の命を与えてまであなたの罪を赦し、あなたを私のものとした。あなたはもう私のものだ。それゆえにあなたは神の民の一人として、私の愛の中で生きることができるのだ」と語りかけて下さっているのです。

私たちの信仰はもはや、自分が神様の前に正しく清い者であろうと努力することではありません。神様が、独り子主イエス・キリストによってこの私たちを愛して下さり、ご自分のものとして下さっている、それゆえに私は神様のもの、コルバンとされている、そのことを受け入れて生きることが私たちの信仰です。その信仰に生きることによって私たちは、昔の人の言い伝えから、人の評価を気にすることから解放され、自由になれるのです。

お祈りを致しましょう。

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しっかりせよ

主日礼拝説教

齋藤 正 牧師

《賛美歌》

讃美歌11番
讃美歌68番
讃美歌494番

《聖書箇所》

旧約聖書:詩篇 107篇28-31節 (旧約聖書949ページ)

107:28 苦難の中から主に助けを求めて叫ぶと/主は彼らを苦しみから導き出された。
107:29 主は嵐に働きかけて沈黙させられたので/波はおさまった。
107:30 彼らは波が静まったので喜び祝い/望みの港に導かれて行った。
107:31 主に感謝せよ。主は慈しみ深く/人の子らに驚くべき御業を成し遂げられる。

新約聖書:マルコによる福音書 6章45-52節 (新約聖書73ページ)

6:45 それからすぐ、イエスは弟子たちを強いて舟に乗せ、向こう岸のベトサイダへ先に行かせ、その間に御自分は群衆を解散させられた。
6:46 群衆と別れてから、祈るために山へ行かれた。
6:47 夕方になると、舟は湖の真ん中に出ていたが、イエスだけは陸地におられた。
6:48 ところが、逆風のために弟子たちが漕ぎ悩んでいるのを見て、夜が明けるころ、湖の上を歩いて弟子たちのところに行き、そばを通り過ぎようとされた。
6:49 弟子たちは、イエスが湖上を歩いておられるのを見て、幽霊だと思い、大声で叫んだ。
6:50 皆はイエスを見ておびえたのである。しかし、イエスはすぐ彼らと話し始めて、「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」と言われた。
6:51 イエスが舟に乗り込まれると、風は静まり、弟子たちは心の中で非常に驚いた。
6:52 パンの出来事を理解せず、心が鈍くなっていたからである。

《説教》『しっかりせよ』

本日のテーマは、弟子たちが、主イエスとは、いかなるお方であるのかを、更にどこまで知ることが出来たかです。

様々な奇蹟を行われた主イエスが、群衆の過剰な興奮を避けるために、弟子たちをガリラヤ湖の向こう岸にあるベトサイダに行かせるために舟に乗り込ませました。そして、ご自分は群衆を解散させて、祈るために山に退かれました。

マルコは、主イエスがお一人で祈る場面を3回描いています。1章35節のカペナウムでの宣教開始の日、次に本日のこの6章、そして十字架を前にしての14章32節以下ゲッセマネの三場面です。そのいずれの祈りも群衆を避けて、純粋に父なる神の御心を求める大切な時でした。主イエスは父なる神と祈りによっていつも強く結ばれていたのです。

最初の45節は、「それからすぐ」という言葉で始まります。これはマルコ福音書の特徴的な書き方で、44節までの出来事と本日の物語とを強く結びつけており、時間的に「その後」ということだけではなく、五千人の給食という物語と強く結びついていることを表しています。

五つのパンと二匹の魚による五千人の食事、それはまさに偉大な出来事であり、奇跡そのものでした。集まった人々はその奇跡に驚きの声を上げたことでしょう。しかし、そこには、6章34節にあった、「飼い主のいない羊のような魂の飢え」を訴えていた者が、肉体の糧であるパンを与えられた結果、魂の飢えを訴えることを止めてしまった姿がありました。かつて、四十日四十夜、荒野で悪魔の試みを受けた主イエスに、三つの誘惑がありました。その第一が「石をパンに変えよ」でした。それは、「飢えた者にパンを与える社会経済的メシアになること」を意味していました。悪魔は、何故、「パンを与えるメシアになれ」と言ったのでしょうか。それは、経済的豊かさを得る時、人間は魂の飢えを忘れるということを悪魔はよく知っていたからです。

その意味から、主イエスの御言葉を中断し、「パンを与えましよう」と言った弟子たちは、まさに、かつての荒野における悪魔の役割を果たしていたとも言えるでしょう。主イエスの目的は、魂の飢えを訴える人々に応えることでした。満たされぬ魂の苦しみを忘れた人間は、救い主イエスを必要としていないのです。ここに、「弟子たちを舟に乗せ、群衆を解散させた」主イエスは、「もはや、人々は魂の満たされることを求めてはいない」ということを感じとられたことを示しているのです。

私たちは、「私たちを呼び集められる主イエス・キリスト」を知っています。「待っておられる主イエス・キリスト」を知っています。「心の扉を叩かれる主イエス・キリスト」を知っています。そのような主イエスのみが心に焼き付いているかもしれません。しかし、この「解散させる、追い散らす主イエス・キリスト」の御姿を見落としてはなりません。御子のこの厳しさを忘れていることこそ、私たちの信仰の甘さの大きな原因と言えるでしょう。

教会に人々を集められるのは主イエス・キリストであり、人々を散らされるのも主イエス・キリストなのです。何処の教会でも聖日礼拝の出席者の数「教勢」の増減を大きく問題にします。特に、この新型コロナウィルス感染症の世界的な流行下で教会のこの教勢は、大きく変化していると言えましょう。この教会に人々が集まるか否かは、世俗的なこととは根本的に違うのは言うまでもありません。「集め、散らされる」のが主イエス・キリストご自身だからです。「礼拝出席者が減少した」という問題は、その背景に「キリストの怒りと悲しみがある」ということなのです。

教会内では、「交わりの場のあり方が悪い」とか、「牧師の配慮が足りない」とか、いろいろ言われることもありますが、礼拝とは霊的な聖なる御業で、神様のみが導かれるのです。

最近の傾向として、礼拝に様々な試みが見られます。プロジェクターで聖句や讃美歌を投影したり、オルガンは時代遅れだからとギターやドラムを用いたり、礼拝をライブ配信するなど、礼拝出席者の減少に悩む教会の様々な試みが報告されています。しかし、そうではなく、むしろ、信仰告白を固く守り、キリストの福音のみを礼拝堂で語る教会が発展しているのも事実です。主イエス・キリストの救いを伝えることこそが教会の大切な働きなのです。

魂の飢えをキリストに求めて教会に集まる時、主イエス・キリストはいつもその真ん中に立たれるのです。しかし、福音の代わりに「人間が要求する何か他のこと」を置き換えたところからは、主イエスは人々を追い散らされるのです。

主イエス・キリストが山に退かれた時、何が起こるか、その恐ろしさを弟子たちの姿の中に見出さなければなりません。全ての人々を遠ざけ、祈るために山へ行かれる主イエス・キリストの御姿を何と見るべきなのでしょうか。

47節にあるように、「夕方」になって、弟子たちの乗った舟は湖の真ん中に出ていましたが、主イエスだけは祈るために山におられました。

まさに「時は夜」でした。暗い水の上で、キリストから離れた弟子たちが、「自分たちだけで」進もうとしているのです。闇の中にいる彼らの眼には主イエス・キリストが見えていません。ただ眼に入るのは、自分たちを取り囲む強い風と波だけでした

そこには平安がなく、恐れのみで、前も後ろも暗闇の世界でした。生命を脅かすもので周囲は満ち満ちていました。行くべき場所を明示するものも見えず、力の限り漕いでも、舟は進みませんでした。前へ行こうとする人間の意志を無視する力が如何に強いかを思い知らされました。

この「逆風」とは何であったのでしようか。「暗闇」とは何でしょうか。キリストから離れた人間、キリストによって追い散らされた人間を取り囲むのは、常に、この「逆風」と「暗闇」で表現される「恐れと虚しさ」だけなのです。そして、この「恐れと虚しさ」をもたらすものの満ちているところが、神なき世界であると聖書は語ります。福音を必要としない人生の苦しさを、聖書は、弟子たちの姿を通して語っているのです。

48節に、「夜が明けるころ」とあります。正しくは「夜明け前」であり、水の上は未だ暗い時間でした。しかし、主イエスは「弟子たちが逆風のために漕ぎ悩んでいるのを見た」と記されています。弟子たちには何も見えない夜明け前の暗黒の中で主イエスは、ここに弟子たちの姿を見ているのです。一方では、主イエスから遠く離れた荒れる湖の上で、神と断絶する弟子たちの厳しさが依然として「ここにある」と言えるでしょう。

主イエスは、御自身を求めない者たちを追い散らしました。しかし、決して、見捨てられたということではないのです。散らされた者を、御心の外へ追いやってはいないのです。主イエス・キリストは、悩み苦しむ人間を見詰めておられるのです。

ここにこそ救い主としてのお姿が明確に告げられているのではないでしょうか。平安と希望を見失い、絶望の中を虚しく努力する人間を救うため、主は再び近づかれるのです。

さらに、このキリストの御業が如何に私たちの予想を超えているかということは、主イエスが「水の上を歩いて来られた」ということに尽きるでしょう。

「水の上を歩く」。それは人間にとって全く不可能なことであり、考えることも出来ないことです。それ故に、「キリストに救われる」ということは、このように「私たちには不可能と思われることが実現することである」と言えるのです。愚かさ故に遠く神から離れ、神なき世界に苦しむ者に対し、主イエス・キリストはあらゆる隔たりを除かれるのです。「私たちの苦しみを見過ごしに出来ないという愛」によって、不可能を可能にされるのです。

聖書は、この時の弟子たちの心を正直に伝えています。「そばを通り過ぎようとされた」。この物語は、ペトロの思い出に基づいて書かれたものであり、ペトロの立場から主イエスを見て書かれています。ですから、「イエスが通り過ぎようとした」のではなく、「イエスが通り過ぎてしまうように思えた」ということなのです。しかも、こともあろうに「幽霊だと思った」と記されています。何故なら、それはペトロにとっては、予想することも出来ない「有り得ないことであった」からです。

しかし51節の後半から52節には「弟子たちは心の中で非常に驚いた。パンの出来事を理解せず、心が鈍くなっていたからである」とあります。弟子たちは、主イエスが水の上を歩いて来て、舟に乗り込んで下さったら逆風が止んだことを、驚いたけれども、その本当の意味を捉えることはできなかったのです。彼らは「パンの出来事」も理解していませんでした。彼らが持っていた五つのパンと二匹の魚で主イエスが五千人を越える人々を養って下さったあの奇跡によって、弱く貧しく罪深い自分たちと、自分たちが持っているちっぽけなものを用いて、主イエスが人間の力をはるかに越える救いのみ業を行って下さったのに、彼らは心が鈍くなっていて、その恵みを受け止め、主イエスに信頼して生きることができていなかったのです。だからこそ、水の上を歩いて来て下さった主イエスのことを幽霊だと思って騒いだのです。弟子たちですら主イエスのことをこのように分かっていないのですから、他の人々が主イエスが何者であるかが分からないのは当然です。

ペトロは、主イエスが、嵐の湖を渡ってまで自分を救いに来て下さるとは、考えてもいませんでした。そしてまた、「主イエスが私のところにやって来られる筈はない」と思い込んでおり、期待もしていなかったのです。

自分を救うために近づいて来られるキリストの御姿を見ながら、なお、このように戸惑わざるを得ないのが、神なき世界に生きる人間の姿なのです。

50節の主イエスの語りかけ、「安心しなさい」と訳されたギリシャ語の“サルセオー”とは、「しっかりしなさい」と訳すべき言葉です。しかもすぐ後に続く「わたしだ」という言葉は、ギリシャ語では、“エゴー エイミー”「この私だ」という最も強く自分を指し示す言葉で、主イエスがご自身を表されるときに用いられる言葉です。ですから、あえて直訳すれば、「しっかりしなさい。この私が、あなたのところに来たのだ。恐れるな」という言葉です。そして自ら舟に乗り込み、それと同時に嵐は止みました。

神なき世界をさ迷う人間の中にも、御子キリストは入って来られるのであり、キリストの臨在と共に嵐は止むのです。そしてキリストの「私が共にいるではないか」という御言葉と共に、私たちは初めて平安を取り戻すのです。

キリストなき世界にあったペトロの不信仰の理由が、52節にある、「心が鈍くなっていた」という言葉です。この言葉は本来「石のように硬くなる」という意味であり、霊的な感受性を失うことを示しています。「鈍い・鋭い」という感覚の問題ではなく、「心が霊的なものを完全に受け付けなくなっている」という「魂のあり方」の問題なのです。

祈りを忘れた人間。御言葉を求めることを忘れた人間。魂の飢えより肉体の飢えが気になる人間。霊的豊かさよりこの世的経済性を問題にする人間。そのような人間の惨めさがここにあると言えるでしょう。

「しっかりしなさい。この私が、あなたのところに来たのだ。恐れるな」という御言葉の持つ真の意味が、弟子たちの心の中で、未だ本当の力になっていませんでした。キリストによって与えられた平安の中にありながら、キリストと共にいることの素晴しさに気がつかない弟子たちの姿は、私たちの姿でもあるのです。

主イエス・キリストは私たちを選び、召し出して、教会という舟に乗り込ませ、この世へと漕ぎ出させておられるのです。主イエス・キリストの促しによって教会という舟に乗り込み、漕ぎ出していく私たちの信仰の歩みも、逆風によって漕ぎ悩むことがしばしばです。主イエス・キリストは私たちの霊的鈍さ・頑なさにも拘わらず共に進まれるのです。この「キリストを中心にした舟」、即ち「教会」において、目には見えないけれども聖霊によって共にいて下さる主イエス・キリストが、「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない」と語りかけ、私たちを守り導いて下さっているのです。

お祈りを致します。

貧しさと飢え

主日礼拝説教

齋藤 正 牧師

《賛美歌》

讃美歌66番
讃美歌224番
讃美歌494番

《聖書箇所》

旧約聖書:民数記 27章16-17節 (旧約聖書262ページ)

27:16 「主よ、すべての肉なるものに霊を与えられる神よ、どうかこの共同体を指揮する人を任命し、
27:17 彼らを率いて出陣し、彼らを率いて凱旋し、進ませ、また連れ戻す者とし、主の共同体を飼う者のいない羊の群れのようにしないでください。」

新約聖書:マルコによる福音書 6章30-44節 (新約聖書72ページ)

6:30 さて、使徒たちはイエスのところに集まって来て、自分たちが行ったことや教えたことを残らず報告した。
6:31 イエスは、「さあ、あなたがただけで人里離れた所へ行って、しばらく休むがよい」と言われた。出入りする人が多くて、食事をする暇もなかったからである。
6:32 そこで、一同は舟に乗って、自分たちだけで人里離れた所へ行った。
6:33 ところが、多くの人々は彼らが出かけて行くのを見て、それと気づき、すべての町からそこへ一斉に駆けつけ、彼らより先に着いた。
6:34 イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ、いろいろと教え始められた。
6:35 そのうち、時もだいぶたったので、弟子たちがイエスのそばに来て言った。「ここは人里離れた所で、時間もだいぶたちました。
6:36 人々を解散させてください。そうすれば、自分で周りの里や村へ、何か食べる物を買いに行くでしょう。」
6:37 これに対してイエスは、「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」とお答えになった。弟子たちは、「わたしたちが二百デナリオンものパンを買って来て、みんなに食べさせるのですか」と言った。
6:38 イエスは言われた。「パンは幾つあるのか。見て来なさい。」弟子たちは確かめて来て、言った。「五つあります。それに魚が二匹です。」
6:39 そこで、イエスは弟子たちに、皆を組に分けて、青草の上に座らせるようにお命じになった。
6:40 人々は、百人、五十人ずつまとまって腰を下ろした。
6:41 イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて、弟子たちに渡しては配らせ、二匹の魚も皆に分配された。
6:42 すべての人が食べて満腹した。
6:43 そして、パンの屑と魚の残りを集めると、十二の籠にいっぱいになった。
6:44 パンを食べた人は男が五千人であった。

《説教》『貧しさと飢え』

本日は、マルコによる福音書第6章30節以下の「五千人の給食の奇跡」をご一緒にお読みします。最初の30節にこうあります。「さて、使徒たちはイエスのところに集まって来て、自分たちが行ったことや教えたことを残らず報告した」。これは先々週の6章7節以下の、主イエスが十二人の弟子たちを宣教のため、また悪霊を追い出し、病人を癒すために派遣されたという所を受けています。「使徒たち」とは主イエスの十二人の弟子たちのことで、「使徒」とは「遣わされた者」という意味です。主イエスによって遣わされた使徒たちが、主イエスのもとに帰って来て、「自分たちが行ったことや教えたことを残らず報告した」のです。彼らが行ったことや教えたことは、この6章12節と13節に語られています。「十二人は出かけて行って、悔い改めさせるために宣教した。そして、多くの悪霊を追い出し、油を塗って多くの病人をいやした」とあります。彼らが「行ったこと」は、「多くの悪霊を追い出し、油を塗って多くの病人をいやした」ことであり、「教えたこと」は「悔い改めさせるために宣教した」ということです。彼らは主イエスに遣わされてこのような働きをしてきたのです。そして帰って来て自分たちのしてきたことを主イエスに報告しました。「残らず報告した」という所に、彼らの喜び、あるいは驚き、そして興奮が感じられます。「私たちはこんなふうに語りました。その言葉を人々が聞いてくれました。そしてこんなふうに悪霊を追い出し、病を癒すことができました」と、堰を切ったように報告したのでしょう。「あれも言いたい、これも報告したい」というすばらしい体験を彼らは沢山与えられたのです。

そのように自分たちの体験を喜んで報告した弟子たちに主イエスは、「さあ、あなたがただけで人里離れた所へ行って、しばらく休むがよい」とおっしゃいました。それは、「ご苦労だった。さぞ疲れただろう。しばらくゆっくり休んで英気を養いなさい」ということだったのでしょうか。ここに「人里離れた所へ行って」と言われています。主イエスは弟子たちを「人里離れた所」へ行かせようとしておられるのです。それは一つには31節後半にあるように、「出入りする人が多くて、食事をする暇もなかったから」です。しかし主イエスがこのようにおっしゃった一番の目的は、このマルコ福音書の1章35節を読むと分かります。そこには「朝早くまだ暗いうちに、イエスは起きて、人里離れた所へ出て行き、そこで祈っておられた」とあります。主イエスご自身がしばしば「人里離れた所」に行って祈っておられたのです。それはただ休むためではなくて、祈るためでした。主イエスは人里離れた所で、父なる神様と向き合い、語り合う、神様との交わりの時を持っておられました。そのことを、今弟子たちにもさせようとしておられるのです。弟子たちには今こそ、そういう祈りの時が必要だと主イエスは判断なさったのです。

「あなたがただけで」人里離れた所へ行けとおっしゃった主イエスは、しかし結局ご自分も舟に乗って弟子たちと一緒に行かれました。このことは、弟子たちだけでは本当に休み、祈ることができない、ということを示しているのかもしれません。主イエスに「休んで祈りなさい」と言われても、ついつい動きたくなる、働きたくなる、祈るよりも活動していたくなる、それは弟子たちも私たちも同じではないでしょうか。じっと祈っているよりも、何かをして働きたくなる、「奉仕」をしたくなるのです。そうしていないと不安になるのです。

人里離れた所へ行くために、主イエスと弟子たちは舟に乗って出発しました。しかし人々は主イエスがしばしば祈りに行っておられた場所を知っていたのでしょう。一行の先回りをして待っていたのです。人里離れた所に上陸するはずが、すべての町から一斉に駆けつけて来た群衆でそこは大変な騒ぎになっていたのです。それほどまでに人々は、主イエスのみ言葉とみ業とを求めていました。主イエスはその大勢の群衆を見て「飼い主のいない羊のような有様を深く憐れ」まれました。人里離れたこんな所にまで主イエスを求めて押し寄せて来るということは、彼らには、自分たちを本当に養い、守ってくれる飼い主、主人がいないのです。それはある意味では誰にも支配されずに自由ですが、実際には寄る辺ない身である、ということです。彼らは、自分の本当の主人、保護者、信頼して自分を委ねることのできる主人を求めていたのです。主イエスはそのような人々を見て、「深く憐れまれ」ました。これはただ「可哀想に思った」というのではありません。この「憐れむ」という言葉は「内蔵が揺り動かされる」という意味であり、新約聖書では、主イエスご自身にのみ用いられています。主イエスが、苦しんでいる人を、内蔵が揺り動かされるように深く特別な思いを示されたという意味の言葉です。そういう深い憐れみによって主イエスは、人々にいろいろと教え始められ、み言葉を語っていかれたのです。

主イエスの説教が続いて行く間に、弟子たちは次第に心配になってきました。ここは街中ではなくて人里離れた場所です。そこに、男だけでも五千人の人々が集まっているのです。まもなく日が暮れる。そうしたら、こんなに大勢の人々が腹をすかせたまま一夜を過ごさなければならなくなる。そうならないためには、そろそろお開きにしないと、このままではみんな家に帰り着くことができなくなる…。それで彼らは主イエスに「人々を解散させてください。そうすれば、自分で周りの里や村へ、何か食べる物を買いに行くでしょう」と言ったのです。すると主イエスは驚くようなことをおっしゃいました。「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」。「そんな無理なことを…」と弟子たちは思いました。「私たちが二百デナリオンものパンを買って来て、みんなに食べさせるのですか」。一デナリオンは当時の労働者の一日分の賃金です。ごく簡単に例えれば時給千円で、一日8時間働いて、8千円です。200デナリオンは約160万円になります。ですから、それくらい多額の金がなければ、この多くの群衆に食べ物を与えることはできないのです。「二百デナリオンもの」と金額を出しているのは、「そんなお金が私たちにないことは、先生あなたもよくご存じでしょう」ということです。すると主イエスは、「パンは幾つあるのか。見て来なさい」とおっしゃいました。あなたがたは今どれだけのものを持っているのか、と主イエスは問われたのです。「五つのパンと魚が二匹」それが弟子たちの持っている全てでした。その五つのパンと魚二匹で、主イエスは、男だけで五千人もの人々を満腹させるという奇跡を行われたのです。

そもそも主イエスが弟子たちに「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」とおっしゃったのは何のためだったのでしょうか。そのことと、32節までに語られていたことには関係があります。彼らに、自分たちの力がどれほどのものかを自覚させるためだったと言えるでしょう。弟子たちは、我々は素晴しいことができた、良い働きができた、神様の救いを人々に分け与えることができた、と喜んでいます。自分たちにはこんな力があったのだ、とある意味で有頂天になっていたのです。その弟子たちに主イエスは「それではあなたがたがこの群衆に食べ物を分け与えてごらん」とおっしゃったのです。弟子たちは「そんなことはできません」と言うしかありません。素晴しい働きが出来た、自分たちにはこんなに力があったのだ、と思い上がっていた彼らは、このみ言葉によって、自分たちの力がどれほどのものだったのかを思い知らされたのです。

私たちの心には不思議なバランスがあります。それは霊的なものと肉的なものです。心が霊的なものに満たされて行くにつれて、自分の思いである肉的なものは減少します。しかし、霊的なものが失われて行くと、直ちに肉的なものが勢力を盛り返してしまうのです。伝道者にとって最も大きな危険がここにあります。与えることに熱心なあまり霊的なものを受けることを忘れた時、どんな惨めさが待っているかは言うまでもありません。

主イエスが、弟子たちの喜びを見詰めながら考えたのはこのことでした。それ故に、先ず何よりも「祈りの時」を持つことを命じられたのです。

主イエスはこのようにして、有頂天になっている弟子たちの目を覚まさせたのです。それに続いて主イエスは「パンは幾つあるのか。見て来なさい」とおっしゃっています。弟子たちが今持っているものを確認させておられるのです。パンが五つと魚が二匹、それが弟子たちの持っている全てでした。彼らが人々に分け与えることができるものはそれだけなのです。それは五千人もの人々の前では、何の役にも立たないちっぽけなものです。しかしそのことを確かめた上で主イエスは、弟子たちの持っていたパンと魚を手に取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて弟子たちに渡して配らせ、魚も皆に分配なさったのです。すると、すべての人が食べて満腹し、さらに十二の籠にいっぱいになるくらい余りが出たのです。

彼らが持っていたパンと魚が用いられただけではありません。39節で主イエスは弟子たちに、皆を組に分けて座らせるようにお命じになりました。そして41節には、主イエスが賛美の祈りを唱えて裂いたパンと魚を弟子たちに渡して配らせたとあります。主イエスの恵み、憐れみによって与えられたパンと魚を、実際に人々に配ったのは弟子たちだったのです。このように弟子たちは、主イエスの恵みが人々に与えられるために用いられました。飼い主のいない羊のような人々に対する主イエスの憐れみは、弟子たちを通して人々に伝えられ、こうして人々は主イエスという羊飼いの下に養われる羊の群れとなったのです。「すべての人が食べて満腹した」という42節の言葉はそういうことを表していると言えるでしょう。そして43節には「そして、パンの屑と魚の残りを集めると、十二の籠にいっぱいになった」とあります。十二の籠は十二人の弟子たちと対応しています。十二人の弟子たちが、パンと魚とを人々に配り、そしてその残りを集めたのです。ここに集められた全ての人々が、十二人の弟子たちの手を通して、主イエスの恵みによって養われ、有り余るほどに満腹したのです。

主イエスの権限を受けて悪霊を追い出し、病人を癒すことが出来た弟子たちでさえ、霊の賜物が与えられることを祈り求めなければ、自分自身を誇るだけの何者でもないのです。私たちは、ここに神様の豊かな恵みと同時に自分自身の本当の姿を見るべきではないでしょうか。常に祈り、常に御言葉に聞き従い、霊的に満たされていなければ、まともなことは何一つ出来ない自分の貧しさを知るべきです。

そして、この貧しさに気付き、霊の賜物が与えられることを必死に祈り求める時、マタイによる福音書5章3節以下にある、あの有名な「心の貧しい者は幸いである」という御言葉が実現するのです。

主イエス・キリストこそ真の羊飼いであり、飼う者のない羊のような魂の飢えに苦しむ者を、決して見捨てられることはないからです。主イエス・キリストは、祈り求める者に、有り余る程の愛をもって応じられます。

それが、今朝、私たちに与えられたメッセージです。

お祈りを致しましょう。

おそれ

主日礼拝説教

齋藤 正 牧師

《賛美歌》

讃美歌9番
讃美歌338番
讃美歌520番

《聖書箇所》

旧約聖書:レビ記 18章1-5節 (旧約聖書190ページ)

18:1 主はモーセにこう仰せになった。
18:2 イスラエルの人々に告げてこう言いなさい。わたしはあなたたちの神、主である。
18:3 あなたたちがかつて住んでいたエジプトの国の風習や、わたしがこれからあなたたちを連れて行くカナンの風習に従ってはならない。その掟に従って歩んではならない。
18:4 わたしの法を行い、わたしの掟を守り、それに従って歩みなさい。わたしはあなたたちの神、主である。
18:5 わたしの掟と法とを守りなさい。これらを行う人はそれによって命を得ることができる。わたしは主である。

新約聖書:マルコによる福音書 6章14-29節 (新約聖書71ページ)

6:14 イエスの名が知れ渡ったので、ヘロデ王の耳にも入った。人々は言っていた。「洗礼者ヨハネが死者の中から生き返ったのだ。だから、奇跡を行う力が彼に働いている。」
6:15 そのほかにも、「彼はエリヤだ」と言う人もいれば、「昔の預言者のような預言者だ」と言う人もいた。
6:16 ところが、ヘロデはこれを聞いて、「わたしが首をはねたあのヨハネが、生き返ったのだ」と言った。
6:17 実は、ヘロデは、自分の兄弟フィリポの妻ヘロディアと結婚しており、そのことで人をやってヨハネを捕らえさせ、牢につないでいた。
6:18 ヨハネが、「自分の兄弟の妻と結婚することは、律法で許されていない」とヘロデに言ったからである。
6:19 そこで、ヘロディアはヨハネを恨み、彼を殺そうと思っていたが、できないでいた。
6:20 なぜなら、ヘロデが、ヨハネは正しい聖なる人であることを知って、彼を恐れ、保護し、また、その教えを聞いて非常に当惑しながらも、なお喜んで耳を傾けていたからである。
6:21 ところが、良い機会が訪れた。ヘロデが、自分の誕生日の祝いに高官や将校、ガリラヤの有力者などを招いて宴会を催すと、
6:22 ヘロディアの娘が入って来て踊りをおどり、ヘロデとその客を喜ばせた。そこで、王は少女に、「欲しいものがあれば何でも言いなさい。お前にやろう」と言い、
6:23 更に、「お前が願うなら、この国の半分でもやろう」と固く誓ったのである。
6:24 少女が座を外して、母親に、「何を願いましょうか」と言うと、母親は、「洗礼者ヨハネの首を」と言った。
6:25 早速、少女は大急ぎで王のところに行き、「今すぐに洗礼者ヨハネの首を盆に載せて、いただきとうございます」と願った。
6:26 王は非常に心を痛めたが、誓ったことではあるし、また客の手前、少女の願いを退けたくなかった。
6:27 そこで、王は衛兵を遣わし、ヨハネの首を持って来るようにと命じた。衛兵は出て行き、牢の中でヨハネの首をはね、
6:28 盆に載せて持って来て少女に渡し、少女はそれを母親に渡した。
6:29 ヨハネの弟子たちはこのことを聞き、やって来て、遺体を引き取り、墓に納めた。

《説教》『おそれ』

本日のマルコによる福音書には、洗礼者ヨハネが殺された時のことが語られています。洗礼者ヨハネは、この福音書の1章の始めに登場した人物です。1章1節から8節をお読みします。「神の子イエス・キリストの福音の初め。預言者イザヤの書にこう書いてある。『見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、あなたの道を準備させよう。荒れ野で叫ぶ者の声がする。“主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。”』そのとおり、洗礼者ヨハネが荒れ野に現れて、罪の赦しを得させるために悔い改めのバプテスマを宣べ伝えた。ユダヤの全地方とエルサレムの住民は皆、ヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼からバプテスマを受けた。ヨハネはらくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べていた。彼はこう宣べ伝えた。『わたしよりも優れた方が、後から来られる。わたしは、かがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない。わたしは水であなたたちにバプテスマを授けたが、その方は聖霊でバプテスマをお授けになる』」。

このように洗礼者ヨハネは、「後から来られる方」、救い主イエス・キリストのために道を準備する働きをしました。1章14節に、主イエスがガリラヤにおいて神の御国の福音を宣べ伝え始めたとありますが、それはヨハネの逮捕の後でした。主イエスは、ご自分のために道を準備したヨハネが捕えられて舞台から退場した後に登場して来られたのです。そして本日の箇所には、捕えられたヨハネがその後どうなったかが語られているのです。ヨハネを捕えたのはヘロデ王でした。このヘロデ王は、クリスマスの話に出てくる、ベツレヘム近郊の二歳以下の男の子を皆殺しにした、あのヘロデ大王の息子で、ヘロデ・アンティパスと呼ばれた人です。父親のヘロデは「大王」と呼ばれるに相応しい権力を誇っていましたが、この息子のアンティパスは、正式には「王」とは呼べないような、ローマ帝国の権力の下で、ガリラヤとペレアの領主として認められていただけの人です。このヘロデがヨハネを捕えて監禁していましたが、ある年のヘロデの誕生日にヨハネの首を切って殺した、そのいきさつがここに語られているのです。

14節に、「イエスの名が知れ渡ったので、ヘロデ王の耳にも入った。」とあります。

主イエスの活動は、ガリラヤ各地で多くの人々に強い印象を与えました。そしてその評判は、ガリラヤ地方の領主ヘロデ・アンティパスの耳にも当然入っていました。

ガリラヤの人々は、主イエスを「バプテスマのヨハネの再来だ」と言い、「エリヤだ」と言い、「預言者だ」と言いました。その全てが的外れであったとは言え、少なくとも、彼らの期待がそこに表されていたとも言えるでしょう。

16節には、「ところが、ヘロデはこれを聞いて、『わたしが首をはねたあのヨハネが、生き返ったのだ』と言った。」とあります。ここに、ヘロデ・アンティパスの罪の自覚そのものがあるのです。彼が何を根拠にして「バプテスマのヨハネだ」と思い込んだのかは明らかではありませんが、人々の噂を聞いただけで、忘れようとしている自分の罪が甦ってくるのです。罪への恐れとはこのようなものだと言えるでしょう。

また、多くの場合、「おそれ」は「罪が発覚することに対するおそれ」と言えます。私たちは、「罪そのもの」を恐れることより、罪が発覚することを恐れるのではないでしょうか。何故なら、私たちは無数の過ちを隠しながら生活しているからであり、互いにその過ちを追求することをしないようにしています。それぞれが罪を隠しあっていることを互いに知っており、「それを追求しない」という一種の「暗黙の了解」によって、赦し合っているのではないでしょうか。

しかし、心の中まで見通す神の御前にあって、何を隠せるのでしょう。ヘロデ・アンティパスの姿は、神の御前に立つ人間の厳しさを示しているのです。

ヘロデ・アンティパスがこのように悩むいきさつは、17節以下に記されています。彼は父ヘロデ大王の死後、ガリラヤとペレアを受け継ぎましたが、ローマ帝国の支配の下、王という称号は許されず、植民地の領主という不安定な立場にありました。自分の地位を守るために生涯心を痛め続けたヘロデ・アンティパスは、強力な隣国ナバテヤの王女と政略結婚をし、安全を図りました。

しかしながら、こともあろうに、母違いの兄弟フィリポの妻ヘロディアを見染め、兄弟であるフィリポを毒殺してヘロディアと結婚、ナバテヤの王女とは離婚して国へ帰してしまいました。このことに怒ったナバテヤの王と戦争になり、ユダヤ人民衆からは不道徳の謗りを受け、さらに洗礼者ヨハネは、主の御名によってヘロデ・アンティパスの罪を非難し、神の裁きを警告しました。

「領地の民は殺すも生かすも自由」という古代世界で、ヨハネは死を恐れず、ヘロデの罪を公然と責めたため、民衆はヨハネの姿に自分たちの不満の代弁者を見たとも言えるでしょう。そのため、領主としての自分の権威を守るためにヨハネを放置することは出来ず、彼を捕らえ、死海東岸マケラスの城の地下牢に幽閉してしまいました。

しかし、ヘロデはヨハネを殺せませんでした。先ず、ヘロデはユダヤ民衆を恐れていました。不満が大きくなれば暴動になるかもしれませんし、もしそれがローマ帝国に知られたら失脚の危険もあります。さらに、ヘロデ自身に大きな負い目もありました。ヘロデ家は、純粋なユダヤ人ではなくイドマヤ人であり、そのためユダヤの支配者としてことさらに「ユダヤ的」であろうと務めていたのです。そのユダヤの伝統的な保護者・主なる神への畏れを捨て去ることは出来ません。

さらにまた、20節でヘロデが、「ヨハネの教えに喜んで耳を傾けていた」とは意外です。律法に背き、兄弟の妻を奪ったことを責めるヨハネの言葉を恐れ、それ故に、彼を捕らえ地下牢に閉じ込めたのです。そのヘロデがヨハネを正しい聖なる人として、その言葉を喜んで聞いていると記されていますが、ヨハネはヘロデの耳に快い言葉を語った筈はありません。

「非常に当惑しながら」と記されています。ヘロデは自分の罪に苦しみながら、なお一筋の光をそこに感じていたのではないでしょうか。自分にとって、遥かに隔たりのあることではあっても、「神に従う人生」という希望を、微かでも夢見ることが出来たのではないでしょうか。取り巻きに囲まれた宮殿では味わえない一人の人間としての自分を、そこでは見出すことが出来たのではないでしょうか。

ヘロデ・アンティパスは、マケラスの城の地下牢でヨハネの前に立つ時のみ、虚飾から解放され、「本当の自分を取り戻しかけていた」と言うことが出来るかもしれません。

それでは何故、牢の外ではそれが出来なかったのでしょうか。ヨハネが「聖なる正しい人であることを知っていた」と述べられているのに、何故、その「正しく聖なる人」を地下牢の外へ出すことが出来なかったのでしょうか。ここに、「密室の中でのみ神の御言葉に従う人間」の姿が明らかに示されていると言えるのです。

実際の生活から離れたところ、他の人々との関わりを断ったところ、誰にも見えないところ、「そのようなところでのみ神様に従う人」がいるのです。反面、神の御言葉への服従は、決して自分の親しい人々の中では表しません。何故なら、神の御言葉は必ず私たちの罪や醜さを明らかにするからです。自分の罪や醜さを公然と明らかにされることを人は嫌がります。ヘロデも、自分の弱さを、マケラスの地下牢ではさらけ出せたのではないでしようか。神様を求める自分の魂を素直に表せたのでしょう。しかしヘロデは、自分の妻や義理の娘、まして部下の前では表せなかったのです。

権力者は自分の弱さを決して民衆の前では示しません。権力の座にある者は、真実の自分の姿を隠し、偽りの姿をとらなければりません。より大きな力に脅かされ、不安定な地位にあるヘロデはなおさらです。たとえ見せかけのものであっても、あらゆる手段を用いて、自分の力と権勢を誇示して来たのがヘロデ・アンティパスでした。

それ故に、彼は民衆の前で自分の真実をさらけ出すことが出来なかったのです。そしてヘロデにとっては、支配する民衆だけではなく、律法を犯してまで結婚した妻を始めとする家族の中にさえ、彼の悲劇があったと言えるでしょう。自分の誕生日のパーティーにおいて、義理の娘サロメに約束した軽率な言葉が彼の生涯を決定してしまったのです。

「欲しいものがあれば何でも言いなさい」「お前が願うなら、この国の半分でもやろう」。その言葉は深い意味もない思い付きであったかもしれません。もともとローマの植民地の一領主に過ぎなかったアンティパスに、本国の許可もなく国の半分を与えることなど出来るはずはありません。

しかし、その、深い意味もなく虚勢を張っただけの軽率な一言が、主なる神の御前に残された最後の望みをも打ち砕く結果になったのです。見せかけの強がりをした者は、後戻りすることが出来ずに苦しむのです。その一言のために、自分で自分を苦しいところに追い詰めてしまうのです。

ヨハネを恨んでいたヘロディアは、娘のサロメに知恵を与え、サロメはヨハネの首を要求しました。そしてヨハネの死によって、ヘロデは密室におけるささやかな希望をも捨て去ることになりました。僅かに残された救いの望みを、自分の虚勢のために自ら打ち砕いたヘロデの姿は、神様の恩寵を、強がりを言いつつ台無しにする全ての人間の代表と言えるでしょう。ヘロデの罪は、真実を裏切り、見せかけの強さを誇ろうとするところに現されていたと言えるでしょう。まさに、滅び行く者の悲劇の典型です。

ヘロデは、伝え聞いた主イエスに、洗礼者ヨハネの姿を見たのです。ヨハネを通して彼に語りかけられていたあの神の御言葉が、今イエスを通して再び語られ、宣べ伝えられていることを感じたのです。彼はヨハネを殺しました。それによって、語りかけられていた神様のみ言葉を拒み、まさに抹殺したのです。み言葉によって開かれ、示されていた新しい世界への扉をぴしゃりと閉じて、元の自分の部屋の中に閉じ籠ったのです。それで事は終った、と彼は思っていたでしょう。ところがそこに、主イエスが、あのヨハネ以上の権威と力とをもって現れました。その主イエスによって、抹殺してしまった筈の神様のみ言葉が再び姿を現し、自分の心の扉を再びたたき始めたのです。「あなたは罪を犯している。悔い改めなさい」という愛のこもった語りかけが、再び自分に向けて語られ始めていることをヘロデは感じたのです。あのなつかしい当惑が彼の内に再びよみがえって来たのです。

このヨハネはあくまでも主イエス・キリストの道備えをする者でした。神様からの愛を込めた語りかけがその頂点に達したのは、主イエス・キリストにおいてこそなのです。主イエスによって与えられたのは、もはや単なる悔い改めの勧めではなくて、神様の独り子である主イエスが私たちの罪を全て背負って十字架にかかって死んで下さり、その犠牲によって私たちの罪が赦された、その救いの恵みへの招きです。ヨハネにおいては、バプテスマは悔い改めの印でしたが、主イエスにおいては、つまりキリスト教会においては、罪人である私たちが主イエスの十字架の死と復活にあずかって生まれ変わり、神の子として新しく生き始めることの印です。

洗礼者ヨハネは道備えであり、主イエスは来るべき救い主であるというのはそういうことです。

墓に納められるヨハネの姿で終わるこの物語は、人間の愚かさの時代が「ここに終わりを告げる」ことを暗示していると言えるでしょう。

私たちの罪を全て背負って十字架にかかって死んで下さり、復活して今も生きておられる主イエス・キリストが、今この礼拝において、み言葉において私たちに出会い、愛を込めて語りかけて下さっている「救いの時代」「救いの時」を私たちは生きて、新しい命へと、喜びをもって歩み出していくことができるのです。

お祈りを致します。