信仰による救い

主日礼拝説教

齋藤 正 牧師

《賛美歌》

讃美歌8番
讃美歌142番
讃美歌365番

《聖書箇所》

旧約聖書:エレミヤ書 30章15節 (旧約聖書1,233ページ)

30:15 なぜ傷口を見て叫ぶのか。お前の痛みはいやされない。お前の悪が甚だしく/罪がおびただしいので/わたしがお前にこうしたのだ。

新約聖書:マルコによる福音書 5章25-34節 (新約聖書70ページ)

5:25 さて、ここに十二年間も出血の止まらない女がいた。
5:26 多くの医者にかかって、ひどく苦しめられ、全財産を使い果たしても何の役にも立たず、ますます悪くなるだけであった。
5:27 イエスのことを聞いて、群衆の中に紛れ込み、後ろからイエスの服に触れた。
5:28 「この方の服にでも触れればいやしていただける」と思ったからである。
5:29 すると、すぐ出血が全く止まって病気がいやされたことを体に感じた。
5:30 イエスは、自分の内から力が出て行ったことに気づいて、群衆の中で振り返り、「わたしの服に触れたのはだれか」と言われた。
5:31 そこで、弟子たちは言った。「群衆があなたに押し迫っているのがお分かりでしょう。それなのに、『だれがわたしに触れたのか』とおっしゃるのですか。」
5:32 しかし、イエスは、触れた者を見つけようと、辺りを見回しておられた。
5:33 女は自分の身に起こったことを知って恐ろしくなり、震えながら進み出てひれ伏し、すべてをありのまま話した。
5:34 イエスは言われた。「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。もうその病気にかからず、元気に暮らしなさい。」

《説教》『信仰による救い』

先々週4月18日には、会堂長ヤイロの娘が危篤になり、命を助けて欲しいと主イエスの前に、ヤイロがひれ伏したお話しをしました。

今日は、この少女の話しと前後して、もう一人の女性の癒しがここに語られています。十二年間出血の止まらない病気で苦しんでいた女性の癒しです。彼女も、主イエス・キリストの恵みによって病を癒され、新しく生き始めることができたのです。先々週申しましたように、この二つの出来事は密接に結び合っており、両方合わせて一つのことを語っているのです。その一つのこととは、主イエス・キリストによって「新しく生かされる恵み」です。

さてこの女性は25節に初めて登場するのですが、彼女に関する話は24節の後半から始まっています。24節で主イエスは、娘が死にそうだから、来て、癒して下さいというヤイロの願いを聞いて出かけました。そこに「大勢の群衆も、イエスに従い、押し迫って来た」とあります。その大勢の群衆の中に一人の女性がいました。彼女は、十二年間出血の止まらない病気に苦しんでいました。26節に「多くの医者にかかって、ひどく苦しめられ、全財産を使い果たしても何の役にも立たず、ますます悪くなるだけであった」とあります。ここには、彼女がこれまで体験してきた様々な苦しみが凝縮されています。病気で全財産を使い果たし、それでも病気はますます悪くなるばかりだったのです。主イエスが34節で彼女に「娘よ」と呼びかけておられることから彼女はまだそれほど年をとってはいなかったと思われます。十二年間というのは、彼女が大人の女性の体になり、生理が始まってから十二年間ということだと考えられます。その出血が止まらないのです。そのために彼女は結婚もできずに家庭を持つというささやかな幸せも得ることができず、しかも全財産を使い果たして貧しさの中にいるのです。さらに彼女のこの病気は、当時のユダヤ人社会においては、宗教的な「汚れ」として忌み嫌われるものでした。旧約聖書レビ記15章19節以下には、生理期間中の女性は汚れているとされています。その間は、彼女に触れた人も、また使った寝床や腰掛けもすべて汚れてしまうとされていました。ですから出血のある間、女性は殆ど人との交わりを持つことができませんでした。そういう状態が十二年間ずっと続いてきたのです。そしてそれは人との交わりが持てないというだけでなく、汚れた者として神様のみ前に出ることができない、礼拝を守ることができない、ということでした。ユダヤ人にとって、主なる神を礼拝する群れに連なることが、神の民の一員である印であり、喜びでした。彼女はその喜びをも奪われ、神の民の群れから疎外されてしまっていたのです。自分は神様から愛されていない、神様は自分のことなど顧みては下さらないのだ、という絶望が彼女を捕えていました。

更に加えて、ユダヤ人特有の深刻な問題もありました。律法によれば、病気は神の怒りの表れと受け止められ、十二年という異常な長さは、神の裁きの厳しさと受け取られ、「あの人は何か神に呪われるようなことをしたに違いない」と見做されたでしょう。同情どころではなく、病気を理由に周囲の人々から忌み嫌われていたでしょう。また、レビ記15章によれば、「長い間の出血」は「穢れ」と規定され、「神の御前に出ることは許されない」とされ、祭司によって「浄め」を受けなければなりませんでした。この女性は、肉体的、経済的、精神的苦痛を味わったのみならず、信仰的にも「見捨てられた者」として、この時までを過ごして来たのです。

この十二年間は、一日一日が、新たな絶望との出会いでした。「明日は今日より、少しは良くなるであろう」。これが普通の人間の期待です。どんなに苦しくとも、なお「良くなる明日」を信じて行くのが普通ですが、その「明日」が期待できないならば、どう生きて行けばよいのでしょう。

生きる希望を日一日と失って行く人々は数多くいます。周囲の人々の冷たい眼差しに脅え、唯一助けを求めることの出来る筈の神さえも答えてくれない寂しさを味わう人々。多くの苦しみの中で、神に救いを求める者の代表として、この女性を見ることが出来ます。彼女は、果てしない苦しみの連続で、完全な絶望に陥っていました。長く続いた苦しみの後に、何を期待出来るのでしょうか。絶望とは、「望みを絶つ」と書くのです。その「断たれた望み」のなかに主がやって来られ、新しい変化は、そこから起こるのです。

27節と28節には、「イエスのことを聞いて、群衆の中に紛れ込み、後ろからイエスの服に触れた。『この方の服にでも触れればいやしていただける』と思ったからである」とあります。

これは当時の女性としては、大変思い切った行動です。何故なら、先程もお話ししたように、律法によれば、神に呪われ穢れた者は、人々と接触する場所に加わることは許されなかったからです。穢れが移るからです。接触することによって穢れることを恐れ、人々は忌み嫌いました。

穢れた者は人前に出られないといった肩身の狭い思いをして長い間生きて来たのがこの女性でした。その女性が、今、群衆の中に出て来たのです。

ここに、この女性の大きな決断を見ることが出来ます。彼女は、全てをこの行動にかけたのです。人々に何と言われようと、どのような眼で見られようと、恥ずかしさと惨めさとあらゆる劣等感と戦い、主イエスが居られる場に出て来たのです。このことによって、彼女は数々の苦しみの中から、既に「ひとつの苦しみを乗り越えた」とも言えるでしょう。その「一つの苦しみ」とは「絶望」です。

「もう駄目だ」「どうにもならない」という諦めから、「どうにかなるかもしれない」という、最後の勇気を振り絞る姿に変わったのです。そしてこの変化が起きたのは、「イエスが町にやって来られた」という知らせを聞いたからです。絶望からの脱出は、自分の心の持ちようによってではなく、「イエスが来られた」という知らせを聞くことから始まるのです。

しかしながら、未だこの段階では、主イエスと正しく向き合っているとは言えません。何故なら、彼女は正面からキリストに近づくことをせず、病気の癒しという肉体的な苦しみからの解放しか望んでいないからです。

様々な問題に苦しむ者が、今、自分の出会っている問題の解決を望むことは当然のことと言えます。貧しさに苦しむ者は豊かさを求め、受験勉強で苦しむ者は合格することを願い、病気で苦しむ者は健康の回復を祈ります。それは確かに切実な求めです。しかし、ひとつの苦しみからの解放は、その次に控える苦しみに直面することに他なりません。。

この女性のあらゆる苦しみは病気が原因と考えられていました。ですから、「病気さえ治れば・・・」と考えることは自然なことでしょう。しかし、その病気を理由に、苦しみを更に増し加えて来た「社会」は変わりません。苦しみを理解することさえせず、苦しむ人を更に差別によって苦しめる人間社会。傷ついた心を慰め支え合うことをせず、むしろ冷たい裁きの眼によって苦しみを増し加える人間の世界。その世界がなくなることはないのです。

続く29節から32節には、「すると、すぐ出血が全く止まって病気がいやされたことを体に感じた。イエスは、自分の内から力が出て行ったことに気づいて、群衆の中で振り返り、「わたしの服に触れたのはだれか」と言われた。そこで、弟子たちは言った。「群衆があなたに押し迫っているのがお分かりでしょう。それなのに、『だれがわたしに触れたのか』とおっしゃるのですか。」しかし、イエスは、触れた者を見つけようと、辺りを見回しておられた。」とあります。

奇跡が起こりました。十二年間苦しんだ病気が主イエスの服の裾に触った瞬間に治りました。しかし私たちは、「この物語の中心はここにはない」ということに気付いているでしょう。

信仰がない人は、何故、病気が治ったのかと驚きます。少し信仰がある人は、34節の「あなたの信仰があなたを救った。」というところを読み、「一生懸命に祈るなら適えられるのか」と思い、「私はやっぱり信仰が足りないのか」と諦めたりするでしょう。この女性に何が起こったのかを聖書を通して考えることが必要です。確かに病気は治りました。誰にも知られないようにしてそっと後ろから近づいたにも拘らず、病気は治り、彼女の苦痛は解決されたかのように見えます。しかし、聖書が本当に語ろうとしていることは、これから後のことなのです。

主イエスは、服に触れた者を見つけようとして、振り返られました。「私の服に触れた者は誰か」と問われました。主イエスは何も分からなかったのでしょうか。何も分からず、キョロキョロと見回しておられたのでしょうか。

そんなことはありません。主イエスには全てを見通す能力があることは、聖書が常に語ることです。十字架につくためにオリーブ山を越える時、これから行く村に「ロバの子がいる」と弟子たちに告げられました。最後の晩餐の場所を準備する男が、「水瓶を背負って町にいる」と指示されたのも主イエスであり、イスカリオテのユダの裏切りも、主イエスは御存知でした。その主イエスが、ご自分の後ろにいる女性に気付かない筈はありません。

何故、主イエスは全てを御存知でありながら、このようなことを尋ね、このような振る舞いをなさったのでしょうか。

32節に「触れた者を見つけようと」と、ありますが、正確に訳すと「触れた者を見つけるために」という意味です。「分からないから見つけようとした」ということでではなく、「御心に背を向けて生きている者を招くために」ということです。あえて表現を変えるならば、「後ろから触れる」という「非人格的な触れ合う」者と、また「癒しの奇跡」だけを自分勝手に求める者との人格的な交わりを持つことを主イエスは求められたのです。主イエス・キリストは全てを御存知でした。分からなかったのは弟子たちだけです。

主イエスはこの女性の苦しみを知り、彼女を憐れみ、病気を癒されました。しかしながら、その女性にとって、このままでは、その癒しは、後ろからそっと触れた「ナザレのイエスの服による奇跡」でしかありません。「御子キリストの御心に触れた喜び」ではなく、「イエスの不思議な服に触れた結果の奇跡」でしかなかったでしょう。

30節にある「力が出て行った」と訳されている箇所は、詳細に訳すと「奇跡が(ご自身から)伝わったことを知って」となります。これは女性に向けられた「御子キリストの愛」として理解しなければなりません。

主イエスが人々に望んでおられる交わりとは、顔と顔とを合わせ、心と心とを響き合わせる人格的な交わりなのです。

主イエス・キリストの御心を思わず、「病気さえ治れば」という自分勝手な願いのみを抱いて来た女性を、主は、今ここで、改めて、御自分の前に召し出されたのです。主イエスの病気の癒しは、彼女が安心して御前に出て来ることが出来るようにするための、「ひとつの方法に過ぎなかった」と言うべきでしょう。本当の救いとは、キリストの招きに応えることなのです。

34節で、主イエスは、「娘よ、あなたの信仰があなたを救った」と言われました。

この女性の何処に「信仰」があったのでしょうか。この女性の何が「信仰」という名にふさわしいのでしょう。主イエスを求め、恥を忍んで出て来たことでしょうか。それもあるでしょう。主イエスに触れれば病気が治ると信じたことでしょうか。そうかもしれません。しかしそれらは、「信仰」と表現するにはあまりにも貧しいと言わざるを得ません。

水曜日の聖書研究祈祷会でご一緒に連続して読んできた創世記3章8節から11節に、「その日、風の吹く頃、主なる神が園の中を歩く音が聞こえてきた。アダムと女が、主なる神の顔を避けて、園の木の間に隠れると、主なる神はアダムを呼ばれた。『どこにいるのか。』彼は答えた。『あなたの足音が園の中に聞こえたので、恐ろしくなり、隠れております。わたしは裸ですから』。神は言われた。『お前が裸であることを誰が告げたのか。取って食べるなと命じた木から食べたのか。』」とあります。

今日の話と実によく似ています。「お前は何処にいるのか」「お前は何をしたのか」。主なる神は全てを御存知の上で呼びかけておられるのです。その御心は「赦し」でした。

主なる神は、告白を求めておられるのです。そして、罪の告白に対し、「赦し」をもつて応えるべく待っておられるのです。

それにも拘らず、あの時のアダムとエバは、神の呼びかけに応えようとはしませんでした。御言葉の意味することを考えようともせず、犯した過ちを告白せず、言い訳しかしなかったアダムとエバは、禁断の木の実を食べたから追放されたのではなく、主なる神の呼びかけに応えず、用意された赦しを拒み、その招きを拒否したために、楽園から追放されたのです。

この女性は、「震えながら進み出てひれ伏した」と記されています。そして、全てをありのままに話しました。自分の苦しさ、惨めさ、悲しさ、その全てを語りました。そこからの救いを求めて主イエスの服に触れたこと、それ以外の方法を知らなかったことを話しました。隠れることによってではなく、キリスト・イエスの御前に出て、御顔の前で真実を告白しました。「信仰とはこうなのだ」と、聖書はそこを語っているのです。

34節の「安心して行きなさい」は、正確に訳すと「平安の中を歩みなさい」ということです。もはや不安から解放され、真実の平安、キリストの愛の中を新しく生きる人生が、ここに始まるのです。

主イエス・キリストは私たちの苦しみをご存知です。私たちの苦しみを見過ごしになさる方ではありません。その苦しみを解消し、断たれた望みを回復するために、「あなたは何処にいるのか」と私たちを呼び出されるのです。

「震えながら進み出てひれ伏し、全てをありのままに話した」、この女性の姿こそ、キリストに呼び出された者の姿なのです。この震えは、恐怖から生じる震えではなく、大いなる喜びに直面した「聖なる畏れ」と言うべきでしょう。

主イエス・キリストに呼びかけられたその時、もう苦しみはなくなっているのです。「平安の中を歩みなさい」との主の御言葉が、今、私たちのこの身に実現しているのです。

お祈りを致します。