おそれ

主日礼拝説教

齋藤 正 牧師

《賛美歌》

讃美歌9番
讃美歌338番
讃美歌520番

《聖書箇所》

旧約聖書:レビ記 18章1-5節 (旧約聖書190ページ)

18:1 主はモーセにこう仰せになった。
18:2 イスラエルの人々に告げてこう言いなさい。わたしはあなたたちの神、主である。
18:3 あなたたちがかつて住んでいたエジプトの国の風習や、わたしがこれからあなたたちを連れて行くカナンの風習に従ってはならない。その掟に従って歩んではならない。
18:4 わたしの法を行い、わたしの掟を守り、それに従って歩みなさい。わたしはあなたたちの神、主である。
18:5 わたしの掟と法とを守りなさい。これらを行う人はそれによって命を得ることができる。わたしは主である。

新約聖書:マルコによる福音書 6章14-29節 (新約聖書71ページ)

6:14 イエスの名が知れ渡ったので、ヘロデ王の耳にも入った。人々は言っていた。「洗礼者ヨハネが死者の中から生き返ったのだ。だから、奇跡を行う力が彼に働いている。」
6:15 そのほかにも、「彼はエリヤだ」と言う人もいれば、「昔の預言者のような預言者だ」と言う人もいた。
6:16 ところが、ヘロデはこれを聞いて、「わたしが首をはねたあのヨハネが、生き返ったのだ」と言った。
6:17 実は、ヘロデは、自分の兄弟フィリポの妻ヘロディアと結婚しており、そのことで人をやってヨハネを捕らえさせ、牢につないでいた。
6:18 ヨハネが、「自分の兄弟の妻と結婚することは、律法で許されていない」とヘロデに言ったからである。
6:19 そこで、ヘロディアはヨハネを恨み、彼を殺そうと思っていたが、できないでいた。
6:20 なぜなら、ヘロデが、ヨハネは正しい聖なる人であることを知って、彼を恐れ、保護し、また、その教えを聞いて非常に当惑しながらも、なお喜んで耳を傾けていたからである。
6:21 ところが、良い機会が訪れた。ヘロデが、自分の誕生日の祝いに高官や将校、ガリラヤの有力者などを招いて宴会を催すと、
6:22 ヘロディアの娘が入って来て踊りをおどり、ヘロデとその客を喜ばせた。そこで、王は少女に、「欲しいものがあれば何でも言いなさい。お前にやろう」と言い、
6:23 更に、「お前が願うなら、この国の半分でもやろう」と固く誓ったのである。
6:24 少女が座を外して、母親に、「何を願いましょうか」と言うと、母親は、「洗礼者ヨハネの首を」と言った。
6:25 早速、少女は大急ぎで王のところに行き、「今すぐに洗礼者ヨハネの首を盆に載せて、いただきとうございます」と願った。
6:26 王は非常に心を痛めたが、誓ったことではあるし、また客の手前、少女の願いを退けたくなかった。
6:27 そこで、王は衛兵を遣わし、ヨハネの首を持って来るようにと命じた。衛兵は出て行き、牢の中でヨハネの首をはね、
6:28 盆に載せて持って来て少女に渡し、少女はそれを母親に渡した。
6:29 ヨハネの弟子たちはこのことを聞き、やって来て、遺体を引き取り、墓に納めた。

《説教》『おそれ』

本日のマルコによる福音書には、洗礼者ヨハネが殺された時のことが語られています。洗礼者ヨハネは、この福音書の1章の始めに登場した人物です。1章1節から8節をお読みします。「神の子イエス・キリストの福音の初め。預言者イザヤの書にこう書いてある。『見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、あなたの道を準備させよう。荒れ野で叫ぶ者の声がする。“主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。”』そのとおり、洗礼者ヨハネが荒れ野に現れて、罪の赦しを得させるために悔い改めのバプテスマを宣べ伝えた。ユダヤの全地方とエルサレムの住民は皆、ヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼からバプテスマを受けた。ヨハネはらくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べていた。彼はこう宣べ伝えた。『わたしよりも優れた方が、後から来られる。わたしは、かがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない。わたしは水であなたたちにバプテスマを授けたが、その方は聖霊でバプテスマをお授けになる』」。

このように洗礼者ヨハネは、「後から来られる方」、救い主イエス・キリストのために道を準備する働きをしました。1章14節に、主イエスがガリラヤにおいて神の御国の福音を宣べ伝え始めたとありますが、それはヨハネの逮捕の後でした。主イエスは、ご自分のために道を準備したヨハネが捕えられて舞台から退場した後に登場して来られたのです。そして本日の箇所には、捕えられたヨハネがその後どうなったかが語られているのです。ヨハネを捕えたのはヘロデ王でした。このヘロデ王は、クリスマスの話に出てくる、ベツレヘム近郊の二歳以下の男の子を皆殺しにした、あのヘロデ大王の息子で、ヘロデ・アンティパスと呼ばれた人です。父親のヘロデは「大王」と呼ばれるに相応しい権力を誇っていましたが、この息子のアンティパスは、正式には「王」とは呼べないような、ローマ帝国の権力の下で、ガリラヤとペレアの領主として認められていただけの人です。このヘロデがヨハネを捕えて監禁していましたが、ある年のヘロデの誕生日にヨハネの首を切って殺した、そのいきさつがここに語られているのです。

14節に、「イエスの名が知れ渡ったので、ヘロデ王の耳にも入った。」とあります。

主イエスの活動は、ガリラヤ各地で多くの人々に強い印象を与えました。そしてその評判は、ガリラヤ地方の領主ヘロデ・アンティパスの耳にも当然入っていました。

ガリラヤの人々は、主イエスを「バプテスマのヨハネの再来だ」と言い、「エリヤだ」と言い、「預言者だ」と言いました。その全てが的外れであったとは言え、少なくとも、彼らの期待がそこに表されていたとも言えるでしょう。

16節には、「ところが、ヘロデはこれを聞いて、『わたしが首をはねたあのヨハネが、生き返ったのだ』と言った。」とあります。ここに、ヘロデ・アンティパスの罪の自覚そのものがあるのです。彼が何を根拠にして「バプテスマのヨハネだ」と思い込んだのかは明らかではありませんが、人々の噂を聞いただけで、忘れようとしている自分の罪が甦ってくるのです。罪への恐れとはこのようなものだと言えるでしょう。

また、多くの場合、「おそれ」は「罪が発覚することに対するおそれ」と言えます。私たちは、「罪そのもの」を恐れることより、罪が発覚することを恐れるのではないでしょうか。何故なら、私たちは無数の過ちを隠しながら生活しているからであり、互いにその過ちを追求することをしないようにしています。それぞれが罪を隠しあっていることを互いに知っており、「それを追求しない」という一種の「暗黙の了解」によって、赦し合っているのではないでしょうか。

しかし、心の中まで見通す神の御前にあって、何を隠せるのでしょう。ヘロデ・アンティパスの姿は、神の御前に立つ人間の厳しさを示しているのです。

ヘロデ・アンティパスがこのように悩むいきさつは、17節以下に記されています。彼は父ヘロデ大王の死後、ガリラヤとペレアを受け継ぎましたが、ローマ帝国の支配の下、王という称号は許されず、植民地の領主という不安定な立場にありました。自分の地位を守るために生涯心を痛め続けたヘロデ・アンティパスは、強力な隣国ナバテヤの王女と政略結婚をし、安全を図りました。

しかしながら、こともあろうに、母違いの兄弟フィリポの妻ヘロディアを見染め、兄弟であるフィリポを毒殺してヘロディアと結婚、ナバテヤの王女とは離婚して国へ帰してしまいました。このことに怒ったナバテヤの王と戦争になり、ユダヤ人民衆からは不道徳の謗りを受け、さらに洗礼者ヨハネは、主の御名によってヘロデ・アンティパスの罪を非難し、神の裁きを警告しました。

「領地の民は殺すも生かすも自由」という古代世界で、ヨハネは死を恐れず、ヘロデの罪を公然と責めたため、民衆はヨハネの姿に自分たちの不満の代弁者を見たとも言えるでしょう。そのため、領主としての自分の権威を守るためにヨハネを放置することは出来ず、彼を捕らえ、死海東岸マケラスの城の地下牢に幽閉してしまいました。

しかし、ヘロデはヨハネを殺せませんでした。先ず、ヘロデはユダヤ民衆を恐れていました。不満が大きくなれば暴動になるかもしれませんし、もしそれがローマ帝国に知られたら失脚の危険もあります。さらに、ヘロデ自身に大きな負い目もありました。ヘロデ家は、純粋なユダヤ人ではなくイドマヤ人であり、そのためユダヤの支配者としてことさらに「ユダヤ的」であろうと務めていたのです。そのユダヤの伝統的な保護者・主なる神への畏れを捨て去ることは出来ません。

さらにまた、20節でヘロデが、「ヨハネの教えに喜んで耳を傾けていた」とは意外です。律法に背き、兄弟の妻を奪ったことを責めるヨハネの言葉を恐れ、それ故に、彼を捕らえ地下牢に閉じ込めたのです。そのヘロデがヨハネを正しい聖なる人として、その言葉を喜んで聞いていると記されていますが、ヨハネはヘロデの耳に快い言葉を語った筈はありません。

「非常に当惑しながら」と記されています。ヘロデは自分の罪に苦しみながら、なお一筋の光をそこに感じていたのではないでしょうか。自分にとって、遥かに隔たりのあることではあっても、「神に従う人生」という希望を、微かでも夢見ることが出来たのではないでしょうか。取り巻きに囲まれた宮殿では味わえない一人の人間としての自分を、そこでは見出すことが出来たのではないでしょうか。

ヘロデ・アンティパスは、マケラスの城の地下牢でヨハネの前に立つ時のみ、虚飾から解放され、「本当の自分を取り戻しかけていた」と言うことが出来るかもしれません。

それでは何故、牢の外ではそれが出来なかったのでしょうか。ヨハネが「聖なる正しい人であることを知っていた」と述べられているのに、何故、その「正しく聖なる人」を地下牢の外へ出すことが出来なかったのでしょうか。ここに、「密室の中でのみ神の御言葉に従う人間」の姿が明らかに示されていると言えるのです。

実際の生活から離れたところ、他の人々との関わりを断ったところ、誰にも見えないところ、「そのようなところでのみ神様に従う人」がいるのです。反面、神の御言葉への服従は、決して自分の親しい人々の中では表しません。何故なら、神の御言葉は必ず私たちの罪や醜さを明らかにするからです。自分の罪や醜さを公然と明らかにされることを人は嫌がります。ヘロデも、自分の弱さを、マケラスの地下牢ではさらけ出せたのではないでしようか。神様を求める自分の魂を素直に表せたのでしょう。しかしヘロデは、自分の妻や義理の娘、まして部下の前では表せなかったのです。

権力者は自分の弱さを決して民衆の前では示しません。権力の座にある者は、真実の自分の姿を隠し、偽りの姿をとらなければりません。より大きな力に脅かされ、不安定な地位にあるヘロデはなおさらです。たとえ見せかけのものであっても、あらゆる手段を用いて、自分の力と権勢を誇示して来たのがヘロデ・アンティパスでした。

それ故に、彼は民衆の前で自分の真実をさらけ出すことが出来なかったのです。そしてヘロデにとっては、支配する民衆だけではなく、律法を犯してまで結婚した妻を始めとする家族の中にさえ、彼の悲劇があったと言えるでしょう。自分の誕生日のパーティーにおいて、義理の娘サロメに約束した軽率な言葉が彼の生涯を決定してしまったのです。

「欲しいものがあれば何でも言いなさい」「お前が願うなら、この国の半分でもやろう」。その言葉は深い意味もない思い付きであったかもしれません。もともとローマの植民地の一領主に過ぎなかったアンティパスに、本国の許可もなく国の半分を与えることなど出来るはずはありません。

しかし、その、深い意味もなく虚勢を張っただけの軽率な一言が、主なる神の御前に残された最後の望みをも打ち砕く結果になったのです。見せかけの強がりをした者は、後戻りすることが出来ずに苦しむのです。その一言のために、自分で自分を苦しいところに追い詰めてしまうのです。

ヨハネを恨んでいたヘロディアは、娘のサロメに知恵を与え、サロメはヨハネの首を要求しました。そしてヨハネの死によって、ヘロデは密室におけるささやかな希望をも捨て去ることになりました。僅かに残された救いの望みを、自分の虚勢のために自ら打ち砕いたヘロデの姿は、神様の恩寵を、強がりを言いつつ台無しにする全ての人間の代表と言えるでしょう。ヘロデの罪は、真実を裏切り、見せかけの強さを誇ろうとするところに現されていたと言えるでしょう。まさに、滅び行く者の悲劇の典型です。

ヘロデは、伝え聞いた主イエスに、洗礼者ヨハネの姿を見たのです。ヨハネを通して彼に語りかけられていたあの神の御言葉が、今イエスを通して再び語られ、宣べ伝えられていることを感じたのです。彼はヨハネを殺しました。それによって、語りかけられていた神様のみ言葉を拒み、まさに抹殺したのです。み言葉によって開かれ、示されていた新しい世界への扉をぴしゃりと閉じて、元の自分の部屋の中に閉じ籠ったのです。それで事は終った、と彼は思っていたでしょう。ところがそこに、主イエスが、あのヨハネ以上の権威と力とをもって現れました。その主イエスによって、抹殺してしまった筈の神様のみ言葉が再び姿を現し、自分の心の扉を再びたたき始めたのです。「あなたは罪を犯している。悔い改めなさい」という愛のこもった語りかけが、再び自分に向けて語られ始めていることをヘロデは感じたのです。あのなつかしい当惑が彼の内に再びよみがえって来たのです。

このヨハネはあくまでも主イエス・キリストの道備えをする者でした。神様からの愛を込めた語りかけがその頂点に達したのは、主イエス・キリストにおいてこそなのです。主イエスによって与えられたのは、もはや単なる悔い改めの勧めではなくて、神様の独り子である主イエスが私たちの罪を全て背負って十字架にかかって死んで下さり、その犠牲によって私たちの罪が赦された、その救いの恵みへの招きです。ヨハネにおいては、バプテスマは悔い改めの印でしたが、主イエスにおいては、つまりキリスト教会においては、罪人である私たちが主イエスの十字架の死と復活にあずかって生まれ変わり、神の子として新しく生き始めることの印です。

洗礼者ヨハネは道備えであり、主イエスは来るべき救い主であるというのはそういうことです。

墓に納められるヨハネの姿で終わるこの物語は、人間の愚かさの時代が「ここに終わりを告げる」ことを暗示していると言えるでしょう。

私たちの罪を全て背負って十字架にかかって死んで下さり、復活して今も生きておられる主イエス・キリストが、今この礼拝において、み言葉において私たちに出会い、愛を込めて語りかけて下さっている「救いの時代」「救いの時」を私たちは生きて、新しい命へと、喜びをもって歩み出していくことができるのです。

お祈りを致します。