神は愛

主日CS合同礼拝

齋藤 正 牧師

《賛美歌》

讃美歌67番
讃美歌240番
讃美歌515番

《聖書箇所》

新約聖書:ヨハネの手紙 一 4章19-21節 (新約聖書446ページ)

4:19 わたしたちが愛するのは、神がまずわたしたちを愛してくださったからです。
4:20 「神を愛している」と言いながら兄弟を憎む者がいれば、それは偽り者です。目に見える兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することができません。
4:21 神を愛する人は、兄弟をも愛すべきです。これが、神から受けた掟です。

《説教》『神は愛』

今朝は、久し振りに教会学校の生徒さんとの合同礼拝です。今日のテーマは「愛」です。私が2年前に成宗教会に赴任して以来教会標語は「愛」をテーマにして選んで来ました、新しい今年度の教会標語も、キリスト教の本質をなし、旧新約聖書の中心である「愛」から決めたいと思っています。

「愛」と一言で言っても、「愛」には美しいものや醜いもの、感覚的なものや精神的なもの、家族の愛、友情、男女の愛、そして神への愛、神から人への愛など様々あります。

本日のヨハネの手紙が書かれた背景には、ヨハネの教会内に起こった教会内部の人々の分裂という問題があったと考えられています。ヨハネの教会に異端の伝道者が訪れ、活発な活動を行いました。その結果、異端の教えに惑わされる人々が出てきたのです。この異端の教えの特徴は、主イエス・キリストの受肉と贖罪を認めず、人間には本質的な罪はなく、犯した罪に責任を感じる必要はない、と主張していたのです。彼らに向かって、教会を正しい福音理解に戻すことを勧めたのがこのヨハネの手紙です。ヨハネの教会論の中心には、ヨハネ福音書13章34節から35節の「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」という主イエスの教えがありました。正しい教会のあり方は、主イエスが教えられた「神への愛」と「人への愛」を大切にすることが土台なのです。

ヨハネの手紙は、その「愛」とは何かを語ります。この手紙の中では「愛がすべて」であり、「愛は完全」であると語っています。2章5節では「神の言葉を守る者」、つまり私たち信仰者の内に神の愛が実現していると言っているのです。そして、4章12節で「わたしたちが互いに愛し合うなら」目には見えない神が信仰者同士の愛の中に見えてくると説いているのです。そして「愛」とは神から裁きといった罰を受けるのではなく(17-18)、神に憐れまれ大切にされることだと説いているのです。そして、神に愛された人は、自分と同じく神に創られ、神に愛されている自分の周りの人々である隣人を愛するのだ、と説いているのです(19‐21)。今日の19節の「わたしたちが愛する」とある動詞の「愛する」は目的格がない不定過去形ですが、これは神に対しても兄弟に対しても、愛することのあらゆる可能性を含んだ「愛の根源」を表しているのです。その愛の根拠は19節で強調されている通り「神がまず私たちを愛してくださったから」なのです。

私たちは何の束縛もないまったく自由な世界に憧れます。しかし、何の秩序もない全くの自由な世界ほど恐ろしいものはないでしょう。神が造られたこの世界には神の秩序があり、その秩序を守ることがこの世界で安全に、幸せに生きるための基本的条件なのです。

大切なことは、すべての前提条件として、神が私たちを選び、愛してくださった。神の愛がはじめにあったということです。十戒の序文に「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である」(出エ20:2)とある通りです。神の愛はイスラエルの民には、具体的に出エジプトという歴史における神の御業において示されました。エジプトで奴隷として苦しめられていたイスラエルの民を、神がモーセを用いて救い出してくださり、乳と蜜の流れる約束の地に導き入れてくださったのです。それはさらに遡ると、アブラハム、イサク、ヤコブというイスラエルの先祖たちに神が結んでくださった契約に基づくものでした。

その神の選びである「愛」に対して応える。それが、神を愛するということです。神の愛に応える人のあり方、神を愛する道が十戒の前半に五つの戒めとして教えられているのです。十戒の前半五つの戒めは、人が神の愛に応えて神を愛する方法です。そして、後半五つの「隣人を愛する」ことは、神の愛を受けた者は隣人を愛するという方向に向かう、隣人を愛する者となる、ということを教えているのです。神の愛を受けた者として、隣人を愛することによって、神に応えるのです。その隣人を愛することで神を証しするのです。

「神を愛する」ことと「隣人を愛する」ことは、それぞれ無関係で独立したものではありません。深く結び合っているのです。神を愛することも、隣人を愛することも、いずれも私たちの愛に先立って神の愛があるのです。

その神の愛を受けて、神に愛された者として、私たちは神を愛し、隣人を愛していくことが出来るのです。その大前提を忘れる時、私たちの愛は空回りしてしまいます。それは、私たち自身の内には、そもそも神を愛する力も、人を愛する力もないからです。空っぽのコップで人に水を差し上げることはできません。空っぽのコップに水をたっぷり注がれて、はじめて人にその水を差し上げる、分けてあげることができるのです。

19節に「わたしたちが愛するのは、神がまずわたしたちを愛してくださったからです」とありますが、神の私たちに対する愛、それが明らかになったのは主イエス・キリストの十字架による罪の赦し「贖罪」です。神は御子イエス・キリストの血を十字架の上で流し、その血によって、罪から私たちを解放してくださった。そのような形で神の愛を注いでくださった。私たちの空っぽのコップに愛という水をたっぷりと注いでくださったのです。

それはこのヨハネの手紙4章9節の「神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました」とある通りです。

その神の愛が私たち人間同士の愛の原動力となるのです。私たちの愛は、神の愛を源泉としているのです。

20節から21節で、「『神を愛している』と言いながら兄弟を憎む者がいれば、それは偽り者です。目に見える兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することができません。神を愛する人は、兄弟をも愛すべきです。これが、神から受けた掟です。」と結んでいます。

ヨハネはこの手紙で、「神を愛する人は、兄弟をも愛すべきです」(21)と繰り返し、これが「神から受けた掟です。」と、権威をもって命じているのです。

人の神への愛と、兄弟姉妹や隣人への愛は密接に結び合っており、二つを分けることはできないのです。神の愛を源とする限り、どちらかだけの単独の愛はあり得ません。

人が自分の力だけで行おうとするのではなく、主イエス・キリストに愛された愛をもって、神を愛し、兄弟同士互いに愛し合うことが大切なこととして勧められています。

ヨハネの手紙の締めくくりである5章の1節で、「イエスがメシアであると信じる人は皆、神から生まれた者です。そして、生んでくださった方を愛する人は皆、その方から生まれた者をも愛します。このことから明らかなように、わたしたちが神を愛し、その掟を守るときはいつも、神の子供たちを愛します。神を愛するとは、神の掟を守ることです。神の掟は難しいものではありません。」と宣言されています。

自分勝手な生き方をしている人間のために、神は御子イエス・キリストを十字架に向かわせ、私たちに大きな愛を差し出してくださいました。私たちはその豊かな愛を主イエス・キリストから受けています。その神の愛の御業が、神に愛された人たちに愛に相応しい姿をとらせるのです。愛してくださった方を悲しませてはいけないという生き方を自ら選ばせるのです。その道こそが、神を愛し、隣人を愛するという神の律法です。そして、それこそが人間本来の姿であるべきなのです。

主イエス・キリストの愛は信仰者に神への信頼と確信を生み出させます。この神に対する人の信仰・確信・完全な信頼こそが、隣人に対する具体的な愛となって現れると言えましょう。

「愛」とは、信仰に基づくものであり、神への信仰こそが正しい愛を生み出すのです。「愛によって働く信仰」とは「愛を生み出し、愛という具体的な形を現す信仰」なのです。「信仰が生み出す愛」であって、「愛が生み出す信仰」ではありません。この順序は大切です。

もう一度繰り返します。「信仰が生み出す愛」であって、「愛が生み出す信仰」ではないのです。

この「信仰が生み出す愛」を持って、あなたの大切な隣人、家族の方々、友人・知人の方々を「キリストの愛」である「十字架の救い」へとお誘いましょう。その「救い」への誘いこそが私たちに神様が求められる「行い」なのです。

お祈りを致しましょう。

キリストの復活

イースター礼拝

齋藤 正 牧師

《賛美歌》

讃美歌338番
讃美歌420番
讃美歌512番

《聖書箇所》

旧約聖書:詩篇 118篇13-29節 (旧約聖書957ページ)

118:13 激しく攻められて倒れそうになったわたしを/主は助けてくださった。
118:14 主はわたしの砦、わたしの歌。主はわたしの救いとなってくださった。
118:15 御救いを喜び歌う声が主に従う人の天幕に響く。主の右の手は御力を示す。
118:16 主の右の手は高く上がり/主の右の手は御力を示す。
118:17 死ぬことなく、生き長らえて/主の御業を語り伝えよう。
118:18 主はわたしを厳しく懲らしめられたが/死に渡すことはなさらなかった。
118:19 正義の城門を開け/わたしは入って主に感謝しよう。
118:20 これは主の城門/主に従う人々はここを入る。
118:21 わたしはあなたに感謝をささげる/あなたは答え、救いを与えてくださった。
118:22 家を建てる者の退けた石が/隅の親石となった。
118:23 これは主の御業/わたしたちの目には驚くべきこと。
118:24 今日こそ主の御業の日。今日を喜び祝い、喜び躍ろう。
118:25 どうか主よ、わたしたちに救いを。どうか主よ、わたしたちに栄えを。
118:26 祝福あれ、主の御名によって来る人に。わたしたちは主の家からあなたたちを祝福する。
118:27 主こそ神、わたしたちに光をお与えになる方。祭壇の角のところまで/祭りのいけにえを綱でひいて行け。
118:28 あなたはわたしの神、あなたに感謝をささげる。わたしの神よ、あなたをあがめる。
118:29 恵み深い主に感謝せよ。慈しみはとこしえに。

新約聖書:マルコによる福音書 16章1-8節 (新約聖書97ページ)

16:1 安息日が終わると、マグダラのマリア、ヤコブの母マリア、サロメは、イエスに油を塗りに行くために香料を買った。
16:2 そして、週の初めの日の朝ごく早く、日が出るとすぐ墓に行った。
16:3 彼女たちは、「だれが墓の入り口からあの石を転がしてくれるでしょうか」と話し合っていた。
16:4 ところが、目を上げて見ると、石は既にわきへ転がしてあった。石は非常に大きかったのである。
16:5 墓の中に入ると、白い長い衣を着た若者が右手に座っているのが見えたので、婦人たちはひどく驚いた。
16:6 若者は言った。「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。御覧なさい。お納めした場所である。
16:7 さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる』と。」
16:8 婦人たちは墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである。

《説教》『キリストの復活』

今日は、私たちキリスト者が待望するイースター、「キリストの復活」を祈念する日です。私たちの信仰の中心は主イエス・キリストの十字架の救いと復活です。それ以外はないと言っても良いでしょう。

キリスト者の信仰の中心は、主イエス・キリストが十字架の上で殺され、三日目に死より復活されたという事実にあります。使徒パウロは、コリントの信徒への手紙15章14節から17節で、「キリストが復活しなかったのなら、わたしたちの宣教は無駄であるし、あなた方の信仰も無駄です。・・・そして、キリストが復活しなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお罪の中にあることになります。」と、ハッキリと記しています。私たちを救われる神の愛は、御子キリストを復活させることによって、救いの御計画を実現させました。

キリストの復活は、単なる生物的な肉体の死の否定ではなく、神の力の偉大さを示すことでもありません。復活という死からの甦りは、罪の赦しの宣言であり、永遠の生命を与えるとの神の約束の実現であり、神と共に生きる人間の最終的な希望そのものです。

聖書は、この驚くべき神のなされた出来事を、二千年の時を超えて告げており、それによって始まる新しい時代の希望を語り続けて来ました。だからこそ、私たちは日々、主イエス・キリスト復活の日の朝の驚きに心新たに立ち戻らなければなりません。

ユダヤの暦では、日没が一日の区切りです。現在の暦で言えば、金曜日の日没で安息日が始まり、土曜日の日没で安息日が終わります。その安息日では、仕事はすべて禁じられ、礼拝のために会堂・シナゴーグへ行く以外には、外出さえ禁じられていました。その安息日を避けるために主イエスは金曜日に十字架にかけられ、夕方近く、午後三時頃に十字架上で息を引き取られました。十字架から降ろされた主イエスの亡骸を日没と共に始まる安息日の前に大急ぎで日没前に墓へ納めました。そして、日没と共に、現代の暦で土曜日の安息日が始まりました。主イエスに最後の奉仕をしようとしていた女性たちにとって、この安息日ほど長い一日はなかったでしょう。

更に象徴的なこととして、安息日という戒めのために、シナゴーグでの礼拝に行く以外は外出さえ許されない日でした。安息日を守ることは、確かに重要な律法の定めであり、神と共に生きる者にとって、信仰の確かさを確認する日でした。安息日とは、本来、そういう日であり、決して休養の日ではなく、神に近づくことしか許されない日でした。神が与えて下さった「安息日の定め」のために、神が与えてくださった御子イエスから引き離され、「イエスに奉仕する志を持ちながら」近づくことが許されなかったこの安息日の土曜日、一日は、古い時代の信仰の姿そのものであり、福音を待つ人間を象徴する日であったとも言えるでしょう。

彼女たちには、主イエスへの献身的な愛があったとは言え、希望がありませんでした。彼女たちが周囲の目を忍んでまで行おうとしていたことは、あくまでも「遺体の処置」であり、「死者を葬る作業」に過ぎませんでした。生と死とは、越えることの出来ない大きな淵で遮られており、彼女たちには、ただ別れを告げるため、肉体を土に帰すためだけの作業でしかありませんでした。それは、「あきらめ」とも言える作業でした。

今日の16章1節から2節に「安息日が終わると、マグダラのマリア、ヤコブの母マリア、サロメは、イエスに油を塗りに行くために香料を買った。そして、週の初めの日の朝ごく早く、日が出るとすぐ墓に行った。」と記されています。

ペトロをはじめ、ずっと主イエスの従って来た弟子たちでさえ、逃げ去ったにもかかわらず、彼女たちは、最後まで十字架の下に留まっていました。そして、悲惨な最期を遂げられた主イエスのために、周囲の人々の冷たい眼差しにも拘わらず、「せめて最後の奉仕だけでも…」と考えていたのです。日没と共に安息日が終わり、ようやく開いた店で葬りのための香料を買い求めました。しかし、日没で夜となり、墓へ行くことも出来ず、日曜日の夜明けを待たなければなりませんでした。

彼女たちは、週の初めの日曜日の朝、夜の明けるのを待ちかねて空が白み始めるとすぐに、夜明けの墓場に急ぎました。このとき主イエスを埋葬した墓は、ユダヤ議会の議員でもあるアリマタヤのヨセフが、本来、自分のために用意した墓でした。現在でもイスラエルに残っている多くの墓のように、岩壁に掘られた横穴式のものであり、中は広く、何人もの人が入れる部屋が二つ以上あった筈です。そして入り口は、巨大な円盤状の石を、溝にそって転がして閉めるようになっていました。

二人のマリアとサロメは、夜が明けるか明けないかという時に家を飛び出して来ましたが墓の前まで来て、「だれが墓の入り口からあの石を転がしてくれるでしょうか」と、女性の力では墓を開けることが出来ないと相談をしているのです。これは実に象徴的な「呟き」と言うべきでしょう。

婦人たちは、他のことを一切考えず、ただ主イエスの葬りのことだけを思いつめて、この場に急いだのです。確かに周りの視線も意識せず、深い考えもない行動と言えるかも知れませんが、「福音の知らせに真っ先に与ったのは彼女たちであった」のです。一向に腰を上げない人より、その「ひたむきさ」において、はるかに勝っていたと言えるでしょう。

4節には、「ところが、目を上げて見ると、石は既にわきへ転がしてあった。石は非常に大きかったのである。」とあります。ここに、「目を上げて見る」とあります、これが大切です。「目を上げる」とは、「自分の心を見つめる」ことから「神を仰ぎ見る」ことへの変化を意味します。自分ではどうにもならないことにこだわり、その思いに留まり続けるのではなく、問題は問題として意識しながら、まず何よりも「神に目を向ける」ことが必要なのです。「石は既にわきへ転がしてあった」。これが、自分に何が出来るのかを深く考えることなく、ただ主イエスに仕えることしか考えなかった彼女たちに対する「神の答」でした。私たちの力に余ることは、神御自身が力を貸して下さるのです。主のもとへ急ぐ人間の前に、神御自身が道を開かれるのです。

しかも、主イエスの甦りは「更に早かった」と告げられています。5節には、「墓の中に入ると、白い長い衣を着た若者が右手に座っているのが見えたので、婦人たちはひどく驚いた」と記されています。墓の中には婦人たちを待っている神の御使いが既にそこに居られたのです。主なる神は、誰よりも早く来た人よりも、「もっと早く」から待っておられたのです。それ故に、この日の夜明けを誰よりも待ち望んでいたのは、実は、神御自身であったのです。

御子を世に送り、御子キリストの御業によって救いの御計画を実現される父なる神の御心は、この朝にすべてを用意されておられたのです。6節の「あの方は復活なさって、ここにはおられない。」これが、この時の女性たちを含めて「復活を信じられないすべての人間」に対する主なる神の回答です。

復活を信じない人は沢山います。コリントの信徒への手紙でパウロが述べているように、初代教会の時代から、「死人の甦り」を嘲笑う人々はすでに数多くいました。「復活など昔の人の幼稚な迷信だ」と言う人もいます。「現代の人間に復活など語っても無駄だ」と言う人もいます。しかし、遠い二千年の昔でも、死者の甦りは「あり得ないこと」でした。現代と同じように、復活は人間の常識の外にあり、弟子たちでさえ誰一人として信じていなかったのです。復活を否定することは、主イエスを墓の中に永遠に閉じ込めてしまうことです。主イエス・キリストの復活は、議論の対象ではなく、まして、私たちの熟慮の結果その是非を判断するというようなものではありません。

私たちは、神が御心のままに為されたキリストの御業の後に従うだけであり、キリストが復活して、死を征服されたという真実を信じることから、信仰は始まるのです。

さらに、復活の主イエスのメッセージが、「ガリラヤへ行け」という命令に結び付けられていることにも注目しなければなりません。ガリラヤとは、福音の出発に相応しいと、神御自身が選ばれたところであり、弟子たちが召されたところです。復活の福音もまた「ガリラヤから始めなければならない」という神の御計画は初めから少しも変わっていないのです。「ガリラヤに行け」という命令は、伝道しなさいという命令です。単に、主イエスに再会するためにガリラヤに行くのではなく、神の救いの御業のため「働く場」へと行くことです。復活の主イエスが、私たちの働きの場にも先立って行かれているのです。主イエスの復活は、私たちに、虚しく待つ時を求めるのではなく、付き従う者へ新しい希望と勇気を与えるのです。

これが「週の初めの日」に起こった出来事であり、人間の歴史を変える歩みがこの日に始まったのです。

「週の初めの日」とは、天地創造の初めの日であり、神が全世界に秩序をお与えになった日です。

主イエス・キリストの復活こそ、「新しい創造の日」です。主なる神の信頼を裏切り、創造の秩序を損なって来た人間の罪が、ここに赦され、再び、神を神とし、造られた者が神の眼差しの前で生きることを喜べる「本来の姿」が回復されたのです。

ユダヤ教から分かれたキリスト教会は、礼拝の日を、ユダヤ教の土曜日の安息日から「週の初めの日」「日曜日」に変えました。キリスト者とは、この新しい世界に生かされていることを告白する者であり、「週の初めの日」主日礼拝を固く守っているのです。

今朝のあの女性たちと同じように、私たちもまた深く考えずに行いをなしている者です。自分で解決できない色々な問題を抱えて集まって来ていると言えるかもしれません。今ここで、「目を上げて見よう」ではありませんか。主なる神が、主イエス・キリストの十字架と、復活の御業によって、「救い」を備えて下さっているのです。

既に墓の入口を塞ぐ石は取り除かれ、「救いの道」は開かれています。その開かれた「救いの道」は、死に勝利された、主イエス・キリストと共に歩む世界なのです。

私たちが愛するお一人でも多くの方々を、主イエス・キリストの「救い」の世界へとお誘いいたしましょう。

お祈りを致します。

主イエス・キリスト

主日礼拝

齋藤 正 牧師

《賛美歌》

讃美歌321番
讃美歌142番
讃美歌448番

《聖書箇所》

旧約聖書:詩篇 10篇1-7節 (旧約聖書841ページ)

10:1 主よ、なぜ遠く離れて立ち/苦難の時に隠れておられるのか。
10:2 貧しい人が神に逆らう傲慢な者に責め立てられて/その策略に陥ろうとしているのに。
10:3 神に逆らう者は自分の欲望を誇る。貪欲であり、主をたたえながら、侮っている。
10:4 神に逆らう者は高慢で神を求めず/何事も神を無視してたくらむ。
10:5 あなたの裁きは彼にとってはあまりにも高い。彼の道はどのようなときにも力をもち/自分に反対する者に自分を誇示し
10:6 「わたしは揺らぐことなく、代々に幸せで/災いに遭うことはない」と心に思う。
10:7 口に呪い、詐欺、搾取を満たし/舌に災いと悪を隠す。

新約聖書:マルコによる福音書 12章35-40節 (新約聖書87ページ)

◆ダビデの子についての問答

12:35 イエスは神殿の境内で教えていたとき、こう言われた。「どうして律法学者たちは、『メシアはダビデの子だ』と言うのか。
12:36 ダビデ自身が聖霊を受けて言っている。『主は、わたしの主にお告げになった。「わたしの右の座に着きなさい。わたしがあなたの敵を/あなたの足もとに屈服させるときまで」と。』
12:37 このようにダビデ自身がメシアを主と呼んでいるのに、どうしてメシアがダビデの子なのか。」大勢の群衆は、イエスの教えに喜んで耳を傾けた。

◆律法学者を非難する

12:38 イエスは教えの中でこう言われた。「律法学者に気をつけなさい。彼らは、長い衣をまとって歩き回ることや、広場で挨拶されること、
12:39 会堂では上席、宴会では上座に座ることを望み、
12:40 また、やもめの家を食い物にし、見せかけの長い祈りをする。このような者たちは、人一倍厳しい裁きを受けることになる。」

《説教》『主イエス・キリスト』

本日のマルコによる福音書第12章35節以下には、エルサレム神殿の境内で人々を教えておられた主イエスが、律法学者たちの「メシアはダビデの子だ」という発言に対して疑問を投げかけているところから始まっています。十字架に向かってエルサレムに来られた主イエスが、祭司長、律法学者、長老たちと論争された場面です。これまでの論争では、主イエスに反対するためや陥れるために相手が問いかけて来ることが多かったのですが、ここでは主イエスの方から問いかけておられるのです。主イエスが人々に、「どうして律法学者たちは、『メシアはダビデの子だ』と言うのか」と突然問うことはかなり唐突な感じがします。多分、これが語られる前に既に主イエスと律法学者たちの間にこのことをめぐる議論があったのでしょう。

ここで「メシア」と訳されている言葉は、ギリシャ語では「クリストス」つまり「キリスト」です。口語訳聖書では「律法学者たちは、どうしてキリストをダビデの子だと言うのか」となっています。「キリスト」という言葉は、旧約聖書のヘブライ語「メシア」という言葉がギリシャ語に訳されたものです。「メシア」とは、ヘブライ語のマーシャ(油を注ぐ)という動詞から派生した名詞で、「油注がれた者」という意味の言葉です。旧約聖書では、神によって王や祭司の務めに任命されることの印として油が注がれました。メシア、キリストは神によって立てられ、任命された者でしたが、時代を経て「メシア」は神が遣わして下さる「救い主」を意味する言葉に変化していきました。主イエスの時代、メシア、キリストと言えばそれは「救い主」という意味に変わっていたのです。

主イエスの問い掛けは、律法学者たちが「キリスト、救い主はダビデの子である」と言っていることについてでした。ダビデはイスラエル王国の土台を築いた最も偉大な王です。イスラエルの王位は、ダビデ王の子孫に代々受け継がれてきたのです。救い主キリストはこのダビデの子であるというのは、ダビデ王の子孫として生まれるということです。律法学者たちはそのように人々に教えていたのです。それは彼らが根拠なしに勝手に言っていたのではありません。旧約聖書の多くの箇所に、救い主メシアはダビデの子として生まれる、ということが預言されいるのです。その代表的な聖書箇所がイザヤ書第11章1-10節です。ここには、平和の王としての救い主の到来が予告されています。救い主がエッサイの株から生え出ると語られています。エッサイはダビデ王の父の名前です。ですからこれは、ダビデの家系から、ダビデ王に匹敵する平和の王、救い主が現れて、人々に全き平和を与えて下さるという預言なのです。こう言った箇所が他にも沢山あります。ダビデ王の子孫として救い主メシアが生まれることは、旧約聖書に親しんでいる人々にとっては常識だったのです。

主なる神は、一つの民族イスラエルを選ばれ、イスラエルを通して、御自分が「唯一の神でである」ことを明らかにされました。アブラハムを通しての神の選びと救いの啓示とイスラエル民族を通しての信仰の進展、これが旧約聖書が語ることです。

それ以来、イスラエルは、長い歴史の中で苦しみに耐えつつ、真実の神が約束して下さった祝福の成就を待ち続けました。「救い主・メシア」とは、神の祝福の約束を実現される方でした。ですから、「救い主・メシアを待つ」ということは、民族に委ねられた希望であり、正しい信仰として、預言者たちが語り続けて来たことでした。

しかし、その神の祝福の内容が、何時の間にか、人間の要求と入れ替わってしまったのてす。神は、確かにイスラエルに栄光を約束して下さいました。ところが、イスラエル民族は、それを現実の「悲惨からの解放」として考えてしまいました。小さな民族イスラエルが神によって示され住みついた場所は、東のメソポタミアと西のエジプトを結ぶ、地政学的に人類の歴史上極めて重要な地域でした。小さなイスラエル民族は周辺の大国に度々支配され、長い歴史の中を生き抜いてきたのですが、独立した民族・国家として誇りを持っていたのは、ダビデ王の時代だけであったと言えましょう。ダビデ王の時代以外は、まさに混乱と屈辱の歴史でした。エジプト、アッシリア、バビロニア、ペルシャ、ギリシア、そして新約の時代にはローマに支配されていました。

「他民族による支配」という苦しみの中で、神の祝福の約束を「隷属状態からの脱出」と考えるようになってしまったことは、人間の弱さから見れば、当然のことと言えるかもしれません。現実の苦しみの中で、その苦しみからの解放を求めるあまり、「自分たちの願い」を、何時の間にか、「神の約束」と置き換えてしまったのです。

しかし、本当の危険とは、苦難に出会ったことで、神の御言葉を聞かなくなってしまうことから生じるのです。目前の苦しみの解決が何よりも大切なことになり、その解決のためにのみ、目先の幸いを与える神を求めるようになってしまうのです。主イエスの時代、イスラエルの人々が、「救い主・メシア」を「ダビデの子」と言ったのは、かつてのダビデ王の時代を再現しようとする意味でした。

聖書に基づいてイスラエルの民を指導する律法学者たちが、「救い主」を「ダビデの再来」と教えるとき、それは、神が示してくださった救いの約束を、「昔のダビデ王国の再来」といった人間的な栄枯盛衰に矮小化してしまったのです。主イエスの怒りは、このような人間の勝手な姿に対してであり、永遠なる神から離れて、人間の世界に信仰を引き下げたことを鋭く指摘しているのです。

39節から主イエスは「律法学者に気をつけなさい。彼らは、長い衣をまとって歩き回ることや、広場で挨拶されること、会堂では上席、宴会では上座に座ることを望み、また、やもめの家を食い物にし、見せかけの長い祈りをする。このような者たちは、人一倍厳しい裁きを受けることになる。」と言われました。

この律法学者の姿は、世間の人々から尊敬され、重んじられることを求めているのです。「長い衣をまとって歩き回ること」とありますが、長い衣は彼らが律法学者であることを示す、いわゆる「ステイタス・シンボル」です。その衣をまとっていると、人々が尊敬して頭を下げるのです。「広場で挨拶されること」ともあります、町の広場は様々な市民生活が営まれる場で、集まる多くの人々の間で、特別な人として尊敬され、みんなに「先生」と呼ばれて挨拶されることをのぞんでおり、逆に自分のことを「先生」と呼ばない人には「失礼だ」と怒ったりするでしょう。「会堂の上席」というのは、ユダヤ人たちの礼拝の場であるシナゴーグと呼ばれる会堂にある聖書を納めた箱の前の席のことです。その席は一般の人々の席に向かい合っており、礼拝を司る人の席です。私たちのこの礼拝堂で言えば、講壇の上の、説教者と司式者の席と思えばよいでしょう。会堂だけでなく宴会の場でも、彼らは上座を求めています。これは、必ずしも彼らの個人的な名誉欲だけによるのではありませんでした。彼らは、自分たちが神様のみ言葉である律法を研究し、それに従う生活をし、人々にもその律法に従う生活を教えている立場にいることを常に意識しているのです。その彼らが尊敬され、尊重されるというのは、本来は、神様のみ言葉が尊ばれ、大事にされるということです。神様のみ言葉を大事にするなら、それを教えている人を大事にするのは自然であり当然のことです。しかしそのように基本的にはみ言葉への尊重のゆえに尊敬を受けていた律法学者たちでしたが、いつのまにか、自分たちを尊敬し、重んじることを求めるようになってしまったのです。自分個人に対する尊敬を要求するようになってしまったのは、彼らが名誉欲に捕われていることを示しているのです。律法学者は、自分たちが人よりも尊ばれ、重んじられ、名誉ある者とされることをいつも求めていました。神様のみ言葉である律法も、祈りも、つまり信仰も、そのための道具になってしまったのです。

主イエスはそのような彼らを批判して、「このような者たちは、人一倍厳しい裁きを受けることになる」とおっしゃいました。律法学者は自分たちが一般の人より高い尊敬を受けることを求めている、それなら、神の裁きにおいても、より高い、人一倍厳しい裁きを受けるのが当然だろう、と言っておられるのです。これは彼らが人よりも高い地位を求めていることへの皮肉なのです。

神との約束に生きることを忘れた律法学者には、人の眼を意識することしか残された道はないのです。この姿の何処に、神が律法学者たちに与えられた栄光の務めがあるでしょうか。そして、律法学者たちが示す惨めさは、民衆が何を見て生きているかという、すべての人間の惨めさをも象徴しているでしょう。

現代の私たちもまた、この過ちを繰り返しているのではないでしょうか。私たちもまた、生きる苦しみの中にあります。人として出会わなければらない、さまざまな悩みを担っています。そしてその重荷に、心のすべてを奪われていることはないでしょうか。日々の生活の中で、主なる神が、御子キリストを通して約束して下さる永遠の生命が、どれ程の魅力をもって見詰められているでしょうか。あらゆる重荷に耐え、そしてその苦しみに勝利する力こそが、真実の信仰である筈です。

主なる神を世界の主として告白し、神が遣わされた御子イエス・キリストを唯一の救い主と信じることこそ、人間の罪が造り出す、自分自身の惨めな姿から解放されることなのです。

それは、この世で消えることのない生きる喜びを知る時であり、生涯をかけて求めるものが何であるかを正しく見詰める時なのです。父なる神が、御子キリストを通して用意して下さったものが、どれほど素晴しいものであるかを、私たちは、その時、知ることが出来るのです。

お祈りを致しましょう。

愛するということ

主日礼拝

齋藤 正 牧師

《賛美歌》

讃美歌320番
讃美歌164番
讃美歌495番

《聖書箇所》

旧約聖書:申命記 7章6-8節 (旧約聖書292ページ)

7:6 あなたは、あなたの神、主の聖なる民である。あなたの神、主は地の面にいるすべての民の中からあなたを選び、御自分の宝の民とされた。
7:7 主が心引かれてあなたたちを選ばれたのは、あなたたちが他のどの民よりも数が多かったからではない。あなたたちは他のどの民よりも貧弱であった。
7:8 ただ、あなたに対する主の愛のゆえに、あなたたちの先祖に誓われた誓いを守られたゆえに、主は力ある御手をもってあなたたちを導き出し、エジプトの王、ファラオが支配する奴隷の家から救い出されたのである。

新約聖書:マルコによる福音書 12章28-34節 (新約聖書87ページ)

12:28 彼らの議論を聞いていた一人の律法学者が進み出、イエスが立派にお答えになったのを見て、尋ねた。「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか。」
12:29 イエスはお答えになった。「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。
12:30 心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』
12:31 第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる掟はほかにない。」
12:32 律法学者はイエスに言った。「先生、おっしゃるとおりです。『神は唯一である。ほかに神はない』とおっしゃったのは、本当です。
12:33 そして、『心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして神を愛し、また隣人を自分のように愛する』ということは、どんな焼き尽くす献げ物やいけにえよりも優れています。」
12:34 イエスは律法学者が適切な答えをしたのを見て、「あなたは、神の国から遠くない」と言われた。もはや、あえて質問する者はなかった。

《説教》『愛するということ』

本日与えられたマルコによる福音書第12章冒頭の28節に「彼らの議論を聞いていた一人の律法学者が進み出、イエスが立派にお答えになったのを見て、尋ねた」とあります。ここで「彼らの議論」と言われているのは、先々週の3月20日の礼拝でご一緒に読んだ、18節以下の、主イエスとサドカイ派の人々の復活をめぐる議論です。復活をめぐって当時、ファリサイ派とサドカイ派が対立していました。サドカイ派は復活はないと言っていたのに対して、ファリサイ派は復活を信じていました。本日の律法学者はファリサイ派です。ファリサイ派が目指しているのは、ローマ帝国に支配されているユダヤの民が、律法を守って生活し、神の民としての誇りと自負をもって生きることです。そのためにファリサイ派は民衆の中で律法を教え、生活の指導をする律法学者となりました。この律法学者は、復活などないとするサドカイ派の人々に対して、主イエスが聖書に基づいてはっきりと死者の復活を語られたのを聞いて、立派な答えだと思い、主イエスが自分たちと同じことを教えているという親近感を抱いたのです。それで彼は、一つの問いを主イエスに投げかけようとして進み出たのです。

この律法学者が主イエスに問い掛けた問題は、サドカイ派の質問のように作り上げられた罠ではなく、実際に彼が悩んでいた課題、「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか。」という質問でした。

古くから存在した旧約聖書には「~せよ」という積極的な戒めが248ヶ条、「~すべからず」という消極的な戒めが365ヶ条、合計613ヶ条あると言われて来ました。

律法学者たちは、聖書に記された数多くの律法を基本に、更に多くの戒めを造り上げて行きました。新しい問題が起こる度毎に、それに対する新しい戒めを付け加えたので、紀元5世紀の頃には、60巻、250万語の書物になっていたと言われています。まさに民衆にとって、律法学者は知恵の宝庫であり、律法学者なしには律法の下で生活し、律法を守ることが出来ませんでした。

その律法学者にも、どうしても解決出来ない問題があったというのです。あらゆる事柄を、聖書の御言葉によって解決してくれる律法学者に、「分からないことがある」とは、一般民衆にとって不思議なことでもありました。

その不思議な難問とは、何と、「沢山の戒めの中で、どれが一番大切か」ということでありました。次々に新しい戒めを造り加えて来た結果、あまりにも戒めが多くなり過ぎて、「最も根本的なものは何か」ということが分からなくなってしまったというのです。これは、真面目な律法学者にとって、笑い事ではない真剣な問題と言えます。

29節で主イエスは、「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』」と告げられました。申命記6章4節と5節に、「“聞け”、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」とあります。この箇所は「聞け」、へブル語でシェマーという言葉で始まるために、この戒めそのものも「シェマー」と呼ばれていました。

主イエスは、それを律法学者に指摘したのです。端的に言えば、「もつとも基本的なものに帰れ」ということです。イスラエルの民であるならば、この御言葉を知らない者は居ません。

主イエスは、「このような当たり前のことを、どうして分からないのか」と言われているのです。律法学者でさえ、何故分からなくなってしまったのか。それは、この御言葉全体を貫く根本的な精神を見失ったからに他なりません。

この「聞け」という言葉の重みです。「聞け」と命じられていることは、人間が本来「聞く者」として存在していることを示しています。「聞く」ことを怠ったとき、私たちは、「本来の自己」を見失って行くのです。

「聞け」と言われたとき、「語るべき者は誰か」ということがはっきりと意識されなければなりません。

神が語り、人は聞く。これがすべての根本であり、出発点でなければならないのです。私たちが「本来の道」を見失うのは、「神に聞くことを怠ったから」と言うべきです。人は、語ることに多く、聞くことに少ないのです。

「私が・・」「私の家族が・・」「私の会社が・・」「私の国が・・」。「私」が心を埋め尽くしているのであり、自分自身の立場のみを守ろうとするところから、「あらゆる問題が発生している」と言うべきです。

「神は、何と言われているのか」ということを、生活の中の何処で意識しているでしょうか。御言葉に耳を傾け、御言葉に立ち戻ることこそ、行くべき道を見出す第一歩なのです。

そして、「聞く」こととは、当然、「従うこと」を意味します。「参考にするために聞く」のではありません。「語られたとおり生きるために、聞く」のです。正しく聞く者は、正しく従う者です。それが信仰というものです。

「あなたの神である主を愛しなさい」と言われていますが、「愛する」という言葉が神に対して用いられる場合、「従う」という意味であることはもちろんのことです。「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし」、全人格を献げて従うのです。

ヨハネの手紙 第一 には、「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣しになりました。ここに愛があります。」と記されています。

主イエスが指摘されたシェマーが語る「唯一の主」とは、このことです。「他に神はない」というだけのことではなく、「これ程までに私たちを愛しておられる方が他にあるか」ということです。私たちが「他に神はいないと認める」のではなく、神御自身が、「わたしは、あなただけを愛した」と宣言されているのです。

「私は、あなたを愛している」。これが、常に聞かなければならない御言葉であり、神に愛されているということに気づいた者は、当然、その愛に相応しい生き方をするでしょう。それ故に、第二の戒めが語られるのです。31節で、主イエスは、「第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』」と言われ、その上、『この二つにまさる掟はほかにない。』」とまで言われました。

「自分を愛する」とは、「自分を大切にする」ことです。自分の身体、自分の魂、自分の価値を大切にすることです。何が、それほど自分を大切にさせるのでしょうか。それが「愛」なのです。「神に愛されている」という自覚が、自分の本当の価値を目覚めさせるのです。いささか通俗的な例ですが、皆さんは恋に破れた人がどれ程捨て鉢になるかをよく知っているでしょう。「愛されていない」と思ったとき、人は自分を大切にする気持を反動的に失います。愛の喪失は、あらゆるものの価値を消滅させるような錯覚を与えることがあるのです。「愛」は、それほどの大きな影響力を持つものなのです。

そして、隣人を愛することは、好きになるとか一緒にいて楽しいということではなくて、相手を赦すことです。赦すことこそ愛することだと言うことができます。「自分自身を愛するように」隣人を愛しなさいと教えられているのです。「自分を愛するように」とは「自分を赦しているように」と言い換えることもできます。私たちは、自分のことは基本的に赦しているのではないでしょうか。それなのに人に対しては「赦せない」という思いを持ってしまうのです。

また、「自分を愛する」とは、「神の愛を知ることに他ならない」とも言えるでしょう。「神が愛して下さった私自身の発見」です。「神が私をどれほど愛しておられるか」という自覚の程度に応じて、私たちは自分自身を見つめるのです。

そしてその神の愛が、「御子を十字架につけてもなお厭わぬ」という程の神の愛が、「今、目の前にいる人々にも向けられている」なら、その人々を軽んじることが出来るでしょうか。

神の愛に感謝する者は、「神が愛する者を愛する」ことに応答する。それが、神の愛への応答です。隣人への愛は、神の愛への感謝の表れに他なりません。

ここまで来ると、この二つの戒めは、結局、「一つである」ことが明らかでしょう。「私は神に愛されている」。これがあらゆる事柄の根本であり、私たちが聞くべき「根本的な御言葉」なのです。

律法学者は、主イエスが語られた「愛の交わり」に生きることと、神を愛することと隣人を愛することは分かち難く結び付いていることが、律法全体の中心であることをしっかり理解したのです。しかも彼はそれを直ちに、旧約聖書、ホセア書第6章6節の、「わたしが喜ぶのは愛であっていけにえではなく、神を知ることであって焼き尽くす献げ物ではない」と結びつけました。主イエスがお語りになったことを直ちにこの別の箇所と結びつけることができたということは、彼自身が聖書についての深い知識を持ち、また鋭い信仰的感性を持っていることを示していると言えるでしょう。主イエスはこの彼の言葉を聞いて「あなたは神の国から遠くない」と言われました。

主イエスは「そこまでよく分かっているあなたはもう神の国に到達している」とは言われませんでした。あなたは「遠くない」、神の国はあなたの近くにある、あなたはいい線まで来ている、しかしまだそこに到達してはいない、と言われたのです。主イエスの言葉をしっかり受け止め、逆らったり揚げ足を取ったりしないこの律法学者になお欠けていること、彼がなお神の国に入ることができないでいる原因は何なのでしょうか。

律法学者の目の前にはキリストがいる、キリストが彼に語りかけているのです。そのキリストを信じ、キリストに従って共に歩み、キリストにこそ依り頼むこと、それだけが律法学者に欠けているのです。後それだけが出来れば、神の国に到達することができる、と主イエスは言っておられるのです。

キリスト者にとってもっとも大切なことは、「御言葉を聞くこと」です。「何をしようか」と自分で考えるのではなく、神の御心を聞くのです。「私はお前を愛している」という神の御言葉を聞くのであり、「私は独りぼっちではない」ということを知らされるのです。すべてはそこから始まります。

神の愛によって愛された者同士が共に歩む神の国の交わりを、私たちは、今日も生きるのです。

お祈りを致します。