恩寵に包まれて生きる

主日礼拝

齋藤 正 牧師

《賛美歌》

讃美歌191番
讃美歌234番A
讃美歌444番

《聖書箇所》

旧約聖書:イザヤ書 40章6-8節 (旧約聖書1,124ページ)

40:6 呼びかけよ、と声は言う。わたしは言う、何と呼びかけたらよいのか、と。肉なる者は皆、草に等しい。永らえても、すべては野の花のようなもの。
40:7 草は枯れ、花はしぼむ。主の風が吹きつけたのだ。この民は草に等しい。
40:8 草は枯れ、花はしぼむが/わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ。

新約聖書:マルコによる福音書 13章28-37節 (新約聖書88ページ)

◆いちじくの木の教え

13:28 「いちじくの木から教えを学びなさい。枝が柔らかくなり、葉が伸びると、夏の近づいたことが分かる。
13:29 それと同じように、あなたがたは、これらのことが起こるのを見たら、人の子が戸口に近づいていると悟りなさい。
13:30 はっきり言っておく。これらのことがみな起こるまでは、この時代は決して滅びない。
13:31 天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。」

◆目を覚ましていなさい

13:32 「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。父だけがご存じである。
13:33 気をつけて、目を覚ましていなさい。その時がいつなのか、あなたがたには分からないからである。
13:34 それは、ちょうど、家を後に旅に出る人が、僕たちに仕事を割り当てて責任を持たせ、門番には目を覚ましているようにと、言いつけておくようなものだ。
13:35 だから、目を覚ましていなさい。いつ家の主人が帰って来るのか、夕方か、夜中か、鶏の鳴くころか、明け方か、あなたがたには分からないからである。
13:36 主人が突然帰って来て、あなたがたが眠っているのを見つけるかもしれない。
13:37 あなたがたに言うことは、すべての人に言うのだ。目を覚ましていなさい。」

《説教》『恩寵に包まれて生きる』

主イエスは、十字架を目前にして、残される弟子たちが強く生きるために、この13章で、初めて終末のことをお教えになりました。御自身が世を去られた後、弟子たちを間違いなく襲うであろう数々の苦難への備えとして、主イエスは終末についてお話しになったのです。

聖書が教える「終末」とは、1999年7の月に人類が滅亡すると言う「ノストラダムスの大予言」や、巨大隕石が衝突して恐るべき天変地異が起きるといった人類絶滅や自然現象のことではありません。それは、「今という時」を力強く生きる信仰についてなのです。

先々週の聖書箇所マルコ福音書13章24節~27節で主イエスは語られました。「それらの日には、このような苦難の後、太陽は暗くなり、月は光を放たず、星は空から落ち、天体は揺り動かされる。そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る。」 ここに記されているのは、世界の終わりの日の出来事であり、神の御計画完成の日の光景なのです。これは、確かに神秘的表現であり、科学的な表現ではありません。しかし、確かに歴史の終わりが告げられているのです。私たちは、これを信仰の知恵によって受け止めるべきなのです。

私たちは既に、終末の前兆の中を生きています。世界の何処を見回しても、神の裁きを招くのが当然である状況が満ち満ちています。現代を生きる私たちは、常に終末に直面して生きる者となって信仰を強くしなければなりません。本日の聖書箇所は、そのことを教えているのです。28節から「いちじくの木から教えを学びなさい。枝が柔らかくなり、葉が伸びると、夏の近づいたことが分かる。それと同じように、あなたがたは、これらのことが起こるのを見たら、人の子が戸口に近づいていると悟りなさい。」とあります。パレスティナは、6月中旬から9月中旬までの、雨がまったく降らない乾季・即ち「夏」と、10月中旬から翌年の4月中旬にかけての雨季・即ち「冬」に大別されます。この間に、短い「春」と「秋」があります。

「いちじくの葉」は、春の終わりを告げるものであり、青々とした葉が未熟の実を隠すようになる頃、雨がまったく降らない強烈な夏が始まるのです。「それと同じように」と主イエスは言われたのです。「それと同じように」。この言葉は二つの意味で理解出来るでしょう。ひとつは「終末の前兆」です。罪の下にある世界の混乱と悲惨。それは、主なる神が創られた、「良しとされた世界の終焉」を告げるものです。これは誰でも読み取ることが出来ます。言わば、時間的必然性です。もうひとつは、「いちじくの葉が出そろう」ということは誰でも眼にすることであり、皆が知っている変化だということです。気付かない人はいません。同様に、終末の前兆も、「気付かない人がないほどに明瞭である」ということです。「それと同じように、これらのことが起こるのを見たならば」。誰が「見なかった」と言えるのか。主イエスの指摘はここにあるのです。

信仰の正しい眼でこの世界を見ているならば、如何にサタンの誘惑・罪に毒されているかは、誰でも気づく筈です。この世界の姿、この社会に生きる人間の姿の何処に、主なる神が造られた本来の素晴しい姿を見ることができるでしようか。「すべてを良しとされた」という神の御心を、この世界の何処に見出せるでしょうか。主なる神が定められた創造の秩序が、まったく乱されてしまった世界の姿に気づかぬ者はないでしょう。私たちの世界の歴史は罪を生み、苦しみに苦しみを重ねて来たものに他ならないのです。私たちは、そういう世界に生きているのです。歴史の必然とは、積み上げられて来た罪の堆積が、必然的に、「十字架刑という最終的極刑に至る」ということなのです。キリスト者がこのことに気づくのは、パレスティナの人々がいちじくの葉によって夏の到来を知るのと同じように、誰一人気づかない者がないほどに明白なことであり、ハッキリと分かる筈である、と主イエスは言われているのです。

つまり、終末を単なる滅亡として理解してはならないのです。「人の子が戸口に近づいていると悟りなさい」と主イエスは言われました。それは、「終末の接近」という以上のこと、単なる自然のリズムではなく、主なる神の御意志に基づいて決定された御業の開始の時を示しているのです。「人の子」とは、言うまでもなく主イエス御自身であり、「キリストが戸口に近づく」のです。それは何のためでしょうか。ヨハネの黙示録3章20節には「見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をするであろう。」と、「食事をするため」と記されています。また、ルカ福音書22章16節では、主イエスは、「神の国で過ぎ越しが成し遂げられるまで、わたしは決してこの過ぎ越しの食事をとることはない。」と言われました。

「人の子が戸口に近づいた」とは、かつて「食事をとることはない」と言われた方が、「食事をする時が来た」と宣言しておられるのです。「神の国での食事の時」とは「御業の成就の時」のことであり、私たちに約束された「救いの完成の時が近づいた」ということを告げています。

確かに、終末は罪の中に生きる者にとっては滅びの時ですが、その終末の日を、神によって選ばれたキリスト者は、喜びの日として迎えることが出来るのです。ここに驚くべき大きな転換が示されています。主イエスは32節以下で終末の日には「目を覚ましていなさい」ということを、何度も繰り返して警告されています。聖書が警告する「眠り」とは、私たちが夜眠る肉体的な眠りではありません。それは「信仰的に眠る」ことであり、正常な知覚と判断が出来なくなる状態を意味します。信仰的に、神の御言葉・主の十字架と復活が、心に緊張を与えなくなってしまった時、その人は、「霊的に眠った者」となるということです。

「目を覚ましていなさい」とはこのことです。「目を覚ます」と訳されている言葉は、正しくは「警戒するために起きている」ということです。「目を覚ましていれば良い」ということではありません。

目覚めさせている自分の心を、キリストの出来事に絶えず結びつけることであり、結び続けさせることなのです。キリストの御苦しみの姿が心にしっかりと刻み込まれているならば、復活の日の驚くべき知らせが心にはっきりと記憶されているならば、どうして、滅ぶべき世界に心を奪われて、神の御言葉を忘れる筈があるでしょうか。神の御業の実現を待ち望むことなく、不安の中に留まる筈があるでしょうか。そして、信仰に目覚めている心の眼は、ただ神の御計画の完成のみを待ち望むのです。

よく、終末について「それはいつなのですか」ということが語られます。

主イエスは、32節で、「その日、その時は、だれも知らない」と言われました。それは、神の御子でも分からないという意味ではなく、「尋ねる必要はない」という意味で、父なる神への完全な信頼を教えられたのです。

3回に分けてお話してきたマルコ福音書13章ではギリシャ語の「デイ」という言葉、神の必然性を表す「信仰のデイ」と言われる特徴的な言葉が何と3回も出てきますが、主イエスが十字架の迫る中で弟子たちに、話の中心である「終末」とは神が必ずなされることで、必然の御業であるとの強い思いを込めているのです。

私たちが注意し、警戒しなければならないのは、「神の時」を人間の思いで予測しようとする「試み」です。「時の予測」とは、一見、神の御業に忠実であるように思われます。しかし、「時の予測」は、同時に「まだ時がある」という考えに繫がるのです。その「時」そのものも、神が創造されたものなのです。

聖書の御言葉を都合の良いように利用する時、それは「神を道具として利用するサタンの業」となっていると言わざるを得ません。終末は「人間の時」ではなく、「神の時」です。この自覚をもって生きることが大切であり、私たちの日々の生活を支える力の源となるでしょう。

私たちは、「その日」を数えて待つのではなく、御計画の時が来る迄、与えられた生命を力一杯生きることが大切なのです。父なる神が、神としての権威をもって支配し給う歴史の中を生きていくのです。

「目を覚ましていなさい」とは、ただ目を開けてボンヤリと過ごすのではなく、この偉大な「神の時の中を生きる自分の姿」を、しっかりと見詰めることなのです。

この後の14章でゲツセマネで祈り続ける主イエスは、「シモン、眠っているのか。わずか一時も目を覚ましていられなかったのか。誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えても、肉体は弱い。」と言われました。

目を覚まして祈り続けるのです。絶えず祈り、全世界の運命を変える驚くべき出来事が起こる「その時」を待ち望み「祈りつつ生きる」。これが終末的に生きるキリスト者の姿です。30節以下で主イエスは、「はっきり言っておく。これらのことがみな起こるまでは、この時代は決して滅びない。天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。」とハッキリと言われました。

万物は滅んで行きますが、その滅ぶべき世界でただ一つ、永遠に消えることのない神の約束が「祝福という言葉である」のです。信仰に生きる者にとって、この世界で一番確実なものは、「私はあなたを祝福する」という神の御言葉なのです。

私たちの教会が、終末を目指して生きる神の民として相応しい姿をとることが出来るよう、祈り求めて行こうではありませんか。

お祈りを致しましょう。

安息日(日曜日)は何のため

主日CS合同礼拝

齋藤 正 牧師

《賛美歌》

讃美歌11番
讃美歌205番
讃美歌361番

《聖書箇所》

旧約聖書:申命記 5章12-15節 (旧約聖書289ページ)

5:12 安息日を守ってこれを聖別せよ。あなたの神、主が命じられたとおりに。
5:13 六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、
5:14 七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、牛、ろばなどすべての家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である。そうすれば、あなたの男女の奴隷もあなたと同じように休むことができる。
5:15 あなたはかつてエジプトの国で奴隷であったが、あなたの神、主が力ある御手と御腕を伸ばしてあなたを導き出されたことを思い起こさねばならない。そのために、あなたの神、主は安息日を守るよう命じられたのである。

新約聖書:マルコによる福音書 2章27-28節 (新約聖書65ページ)

2:27 そして更に言われた。「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。
2:28 だから、人の子は安息日の主でもある。」

《説教》『安息日(日曜日)は何のため』

今日は、月に一度の教会学校との合同礼拝です。そこでマルコによる福音書の連続講解説教から離れて、旧約聖書申命記の「十戒」から安息日についてお話しましょう。安息日とは、私たちの日曜日のことです。

1週間が七日の周期で繰り返されることは古代バビロニアから始まったといわれていますが、七曜日は古代ローマによって作られました。古代ローマでは5つの惑星と太陽と月を距離の遠い順に土星、木星、火星、太陽、金星、水星、月としました。最初の日は土星で土曜、2日目は太陽で日曜、3日目は月で月曜となり、以降火星、水星、木星、金星となって、土曜日から始まり7日間で繰り返される曜日が出来ました。そして、ローマの宗教上の理由で週の初めは日曜となりました。後程、もう少し詳しくお話しますが、ローマがキリスト教を国教にしてからはキリストが復活したことを記念する日曜日を安息日の休日と決められました。

話を今日の聖書箇所に戻しますが、司式長老にお読み頂いた申命記5章は神様がイスラエルの民にモーセを通して与えられた十の戒め「十戒」の4番目にあたるところです。

エジプトで奴隷とされ苦しめられていたイスラエルの民を、神様が解放して下さり、約束の地への旅を導いて下さり、その途上で、イスラエルの民をご自分の民として下さったのです。その約束・契約と共に与えられたのが十戒でした。十戒とは、神様に救われ、神の民とされたイスラエルの人々がどのように生きるべきかを語られているみ言葉です。それは、神の独り子イエス・キリストによる救いにあずかり、新しい神の民とされて生きている私たちにも与えられているみ言葉です。新しいイスラエルであるキリスト教会も、十戒を、救われた者としてどう生きるかを教える道標として大切にしているのです。

旧約時代の人々が守っていた安息日は、先程お話したように週の初めの土曜日でした。旧約聖書のみを聖書としているユダヤ教の人々は今も土曜日を安息日として守っています。しかしキリスト教会では、安息日は日曜日になり、日曜日を週の初めの日としました。それは、この日に主イエス・キリストが復活なさったからです。主イエスが復活なさった日を、教会は「主の日」と呼び、その日に礼拝を守りました。それが、使徒言行録にも記されている最初の教会の姿でした。そのようにして、安息日は初代キリスト教会によって、土曜日から日曜日へと移されたのです。そして古代のキリスト教会が守っていた安息日が後に、ローマ帝国がキリスト教を国教に定めたことに伴って国家の暦に取り入れられ、ヨーロッパの社会全体に日曜日が休日ということが定着したのです。その暦が明治以降日本に取り入れられ、私たちも現在、日曜日は休日という社会を生きているのです。私たちはこの歴史を正しく知っておかなければなりません。教会が日曜日に礼拝をしているのは日曜日が休日だからではないのです。教会が日曜日に礼拝を守っていたから、日曜日が後から休日になったのです。礼拝は時間に余裕のあるお休みの日だからするものではないのです。教会が主イエス・キリストの復活を記念する日曜日の礼拝を、様々な妨げの中で戦い取り、守り抜いてきた結果、社会全体がそういうリズムで動くようになっていったのです。そうなるまでにはおよそ三百年の時がかかり、その間多くの殉教者の血が流されました。私たちが今、休日である日曜日にこうして礼拝を守ることができているのは、信仰の先輩たちによって戦い取られたことなのだということを忘れてはなりません。

私たちにとって安息日とは日曜日、主の日ですが、14節にある、その日を「守ってこれを聖別する」とはどのようなことなのでしょうか。「聖別する」という言葉は、馴染みのない日本語です。口語訳聖書ではここは、「安息日を覚えてこれを聖とせよ」となっていました。「聖とする」、聖なるものとするというのがここの意味です。聖なるものとは、一般のものから区別されたものです。それは、神様が、これは私のものだとおっしゃって他のものから区別なさることです。聖書において「聖なるもの」とは、神様がご自分のものとされるもの、神のものです。神様がこの日をご自分のものとして他の日とは区別しておられるのであり、その神様に従って人間も、この日が神様のものとしてこの日を用いていく、ということなのです。14節に、この日には「いかなる仕事もしてはならない」と命じられていることはその為だからです。「仕事をしてはならない」というのは、人間が自分のための営みをやめて、神様のために、この日を用いなさいということです。

私たちは、働くことはいいことだ、と考えています。働くことこそ大切、働くのは当然、と考えが染み付いてます。もっと言えば、休むことはいけないことだ、とも考えてしまいます。そのような私たちに、聖書のみ言葉は、「安息日をおぼえて、これを聖とせよ」と語りかけています。何故神様は、休む時を大切にしなさい、と言われるのでしょうか。

天地創造の始め、神様は、6日間かけてこの世界をお創りになられ、また最後に人間をお創りになられました。そして、7日目にお休みになられました。神様も働きます。そして神様も休まれるのです。ですから私たちも働きますが、その働きをやめて、休むことも大切にするように、教えられているのです。

その休む時に、私たちには、するべきことがあるのです。昔、イスラエルの民は、神様がエジプトでの奴隷生活から救い出してくださったことを、忘れないようにするため安息日に、そのことを思い起こして、神様を礼拝したのです。神様に「わたしたちを解放してくださって、ありがとうございます」と感謝したのです。

その礼拝が、今日の私たちに続いているのです。日曜日に、働くことや学校に行くことをやめて教会で礼拝を献げる、それは、神様がこの私を罪から解放してくださり、いつも共にいてくださることを思い起こし、感謝することです。

私たちには、いろいろな苦しいことや、解決の難しい問題が沢山あります。それは、私たちが神様に背いた罪に縛られていて、それが原因となっているのです。そこから私たちを解放するために、神様は、ご自分の独り子、イエス様をお遣わしくださいました。そのイエス様を罪の罰である十字架にかけてくださって、私たちが、その罪の罰を受けることがないように、解放してくださいました。

しかし、申命記の第四の戒めが教えているのはそれだけではありません。私たちは、神様が与えて下さっている解放、自由、安息を、私たちの周囲の人々にも分け与えていく者となることへと招かれているのです。14節に、「七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、牛、ろばなどすべての家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である。そうすれば、あなたの男女の奴隷もあなたと同じように休むことができる」とあります。

安息日に仕事を休むのは、共に生きている私たちと関わりのある人々、家族や会社の仲間、あるいは、何らかの形でお世話をしている今この国に暮らしている外国人など私たちの周囲にいる様々な人々に思いを向け、それらの人々が休むことができるように、安息にあずかることができるように配慮することを、この戒めは求めているのです。私たちはこの社会において、様々な人々と関わりを持って生きています。その中で私たちが、主イエス・キリストによって与えられた解放、自由、まことの安息にあずかって生きる者となるならば、その安息は私たちの周囲の人々にも必ず及んでいくし、またそうでなくてはならないのです。

私たちはしばしば、自由とは自分の好きなことができることで、人の気持ちなど考えずに歩むことができることだと勘違いしてしまいます。しかしそれは本当の自由ではなくて、罪の奴隷、自分の思いや欲望の奴隷になっている姿です。本当に自由な者、解放され、安息を得ている者とは、周囲の人々にも解放と自由を与えることができ、その自由を人々と共に喜び祝うことができる者です。その本当の解放、自由とは、主イエス・キリストの十字架と復活によって与えられた罪の赦しと、神の子としての新しい命にあずかって生きる所にこそ与えられます。主イエスの復活の日であるこの主の日が、礼拝の日として日曜日に与えられています。私たちはこの日に神様を礼拝し、主イエスによる救いのみ言葉を聞くことで、まことの安息日となり、その主にある安息は周囲の人々にも伝わっていくでしょう。私たちの安息日である主の日は、人々と共に解放と自由を祝う喜びの日となるのです。お祈りを致しましょう。

救われる者

主日礼拝

齋藤 正 牧師

《賛美歌》

讃美歌130番
讃美歌354番
讃美歌537番

《聖書箇所》

旧約聖書:ダニエル書 4章1-14節 (旧約聖書1,385ページ)

4:1 わたしネブカドネツァルは、健康に恵まれ、王宮で心安らかに過ごしていた。
4:2 一夜、わたしは夢を見た。眠りの中に恐ろしい光景が現れ、わたしは頭に浮かんだ幻に悩まされた。
4:3 わたしは命令を下してバビロンの知者を全員召集し、夢の解釈をさせようとした。
4:4 占い師、祈祷師、賢者、星占い師らが来たので、わたしは夢の話をしたが、だれひとり解釈ができなかった。
4:5 最後にダニエルが来た。これはわたしの神にちなんでベルテシャツァルという名を与えた者で、彼には聖なる神の霊が宿っていた。わたしは彼に夢の話をして、こう言った。
4:6 「占い師の長ベルテシャツァルよ、お前には聖なる神の霊が宿っていて、どんな秘密でも解き明かせると聞いている。わたしの見た夢はこうだ。解釈をしてほしい。
4:7 眠っていると、このような幻が頭に浮かんだのだ。大地の真ん中に、一本の木が生えていた。大きな木であった。
4:8 その木は成長してたくましくなり/天に届くほどの高さになり/地の果てからも見えるまでになった。
4:9 葉は美しく茂り、実は豊かに実って/すべてを養うに足るほどであった。その木陰に野の獣は宿り/その枝に空の鳥は巣を作り/生き物はみな、この木によって食べ物を得た。
4:10 更に、眠っていると、頭に浮かんだ幻の中で、聖なる見張りの天使が天から降って来るのが見えた。
4:11 天使は大声に呼ばわって、こう言った。『この木を切り倒し、枝を払い/葉を散らし、実を落とせ。その木陰から獣を、その枝から鳥を追い払え。
4:12 ただし、切り株と根は地中に残し/鉄と青銅の鎖をかけて、野の草の中に置け。天の露にぬれるにまかせ/獣と共に野の草を食らわせよ。
4:13 その心は変わって、人の心を失い/獣の心が与えられる。こうして、七つの時が過ぎるであろう。
4:14 この宣告は見張りの天使らの決定により/この命令は聖なる者らの決議によるものである。すなわち、人間の王国を支配するのは、いと高き神であり、この神は御旨のままにそれをだれにでも与え、また、最も卑しい人をその上に立てることもできるということを、人間に知らせるためである。』

新約聖書:マルコによる福音書 10章38-42節 (新約聖書127ページ)

◆大きな苦難を予告する

13:14 「憎むべき破壊者が立ってはならない所に立つのを見たら――読者は悟れ――、そのとき、ユダヤにいる人々は山に逃げなさい。
13:15 屋上にいる者は下に降りてはならない。家にある物を何か取り出そうとして中に入ってはならない。
13:16 畑にいる者は、上着を取りに帰ってはならない。
13:17 それらの日には、身重の女と乳飲み子を持つ女は不幸だ。
13:18 このことが冬に起こらないように、祈りなさい。
13:19 それらの日には、神が天地を造られた創造の初めから今までなく、今後も決してないほどの苦難が来るからである。
13:20 主がその期間を縮めてくださらなければ、だれ一人救われない。しかし、主は御自分のものとして選んだ人たちのために、その期間を縮めてくださったのである。
13:21 そのとき、『見よ、ここにメシアがいる』『見よ、あそこだ』と言う者がいても、信じてはならない。
13:22 偽メシアや偽預言者が現れて、しるしや不思議な業を行い、できれば、選ばれた人たちを惑わそうとするからである。
13:23 だから、あなたがたは気をつけていなさい。一切の事を前もって言っておく。」

◆人の子が来る

13:24 「それらの日には、このような苦難の後、/太陽は暗くなり、/月は光を放たず、
13:25 星は空から落ち、/天体は揺り動かされる。
13:26 そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る。
13:27 そのとき、人の子は天使たちを遣わし、地の果てから天の果てまで、彼によって選ばれた人たちを四方から呼び集める。」

《説教》『救われる者』

今日のマルコによる福音書は、主イエスの受難の時に差し掛かっています。十字架と復活を目前にした、主イエスが語られているのはキリスト者の苦難です。十字架へ向かって歩まれた主イエス・キリストの後姿を見詰めるキリスト者にとって、「終末」とはどのように訪れるものでしょうか。終末の前兆、神の裁きをもたらす人間の罪は、この世界に充満していると言わなければなりません。この世が裁かれることは、もはや避けることが出来ない必然であり、それ故に、私たちキリスト者は、主の裁きの日に備える生活を送るべきなのです。

今日の聖書箇所は、「終末の前兆と主の再臨の日」について主イエスご自身が語られ、ここは「小黙示録」とも呼ばれ、福音書の中で最も難解なところです。御言葉を伝える聖書が、わざわざ14節に「読者よ悟れ」と注意を促しているほど、私たちは、浮ついた怪しげな終末思想に惑わされることなく、信仰の眼と耳をもって、主イエス・キリストが語られた「終末」を読み取らなければなりません。

終末の時を迎える決定的な前兆は、「憎むべき破壊者が立ってはならない所に立つ」ことであると言われています。これが何を意味するのかということに関するさまざまな解釈がありますが、マタイ福音書24章15節によれば、ダニエルの預言の一部であることが分かります。ダニエル書9章27節には「彼は一週の間、多くの者と同盟を固め、半週でいけにえと献げ物を廃止する。憎むべきものの翼の上に荒廃をもたらすものが座す。そしてついに、定められた破滅が荒廃の上に注がれる。」とあり、11章31節には「彼は軍隊を派遣して、砦すなわち聖所を汚し、日ごとの供え物を廃止し、憎むべき荒廃をもたらすものを立てる。」とあり、12章11節には「日ごとの供え物が廃止され、憎むべき荒廃をもたらすものが立てられてから、千二百九十日が定められている。」と終末に関する記述が沢山あります。

これを歴史上の史実と照らしてみると、紀元前168年、ヘレニズム世界の覇権を目指したシリア王アンティイオコス四世エピファネスは、エジプト遠征に失敗し、その代わりにユダヤ支配を目指し、エルサレムを制圧、神殿に保管されていた莫大な宝物を略奪しました。更に、ユダヤ全土のヘレニズム化を目指し、徹底的なユダヤ宗教の弾圧を断行、神殿の至聖所にゼウスの像を立て、祭壇には律法が堅く禁じた豚の肉を献げました。もはやこれは単なる政治的権力争いではなく、神への反抗、人間の限界を超えた神への挑戦と見做され、預言者たちは神の裁きと滅びを宣言し、これに応えて、ハスモン家のマタテヤという祭司が一族を率いて反乱を開始、全ユダヤ人が団結したマカベア戦争と呼ばれる戦乱が勃発しました。各地での激戦の結果、マタテヤの三男、ユダ・マカバイオスが指揮をとり、シリア軍を撃退、紀元前164年12月14日、エルサレムを回復、異教の祭壇を除去し神殿の潔めを成し遂げたのは、ユダヤ人にとって、忘れられない栄光の時であり、神の支配の確かな保証となつたのです。

これが現在に至るまで守られている「ハヌカー祭」と呼ばれる宮潔めの起源であり、主イエスが神殿を見詰めてダニエルの預言を引用したのは、明らかに、解放者ユダ・マカベウスと御自身を重ね合わせていると言えるでしょう。主イエスがこの預言を語られたとき、弟子たちは直ちに自分たちの祖先の栄光を思い出したかもしれません。しかしそれは、古い昔の出来事であり、過去の完結した歴史です。遠い時代に終わった出来事が、何故、終末の前兆になるのでしょうか。この疑問を持つことは当然であると思われたので、聖書は、わざわざ「読者よ悟れ」と付け加えたのです。

主イエスは、シリヤ王アンティオコス四世エピファネスが犯した罪を、すべての人間が辿る最終的な神への背きとして語っているのです。

すべての人間は、神を神と思わず、神の領域を侵し続けているのです。神を神として礼拝することこそ、私たち、神に造られた者の最大の義務であり、造られた者としての限度を守り、神の御前に跪くことが正しい創造の秩序なのです。

「そのとき、ユダヤにいる人々は山に逃げなさい。」とあります。創世記19章にあるソドムとゴモラが滅ぼされる時も「山に逃げなさい」と言われました。「山」とは、主なる神が備えられた「逃れの場」のことであり、信仰者が生き延びる唯一の場を意味していると考えられます。

人間が滅び去る危機にあっても、主なる神は、私たちキリスト者に逃れる場を用意して下さっているのです。

ここにキリスト者の平安があります。信じる者は滅びに巻き込まれることはありません。そして「山」が、キリスト者が生きるために主が備えてくださった場所であるならば、そこへ行くことは「逃げること」ではなく、むしろ「前へ進むこと」です。私たちは、危機の中で逃げ惑うのではなく、その時こそ、永遠の生命へ向かってまっしぐらに進むのです。

主なる神が備えてくださった道を行く者には神への全面的信頼がなければなりません。神が養い、守ってくださることへの信頼が、救われる者の条件です。創世記19章16節で、ロトは「ためらいました」。そのため、親しい人々を決断させることが出来ませんでした。ロトの妻は「後ろを振り向きました」(創19:26)。そして「塩の柱」になったと記されています。「塩の柱」とは「生命のないもの」という意味です。

16節以下には、救われるため、逃れるために「屋上にいる者は下に降りてはならない。家にある物を何か取り出そうとして中に入ってはならない。畑にいる者は、上着を取りに帰ってはならない。」と具体的に言われています。「屋上」とは、厚く造られた家の外壁の上のことであり、そこは物干し場などに使用されていました。階段は外壁に沿って造られた簡単なものです。ですから、「下」とは「普段生活している部屋」のことであり、「外階段を降りて家に入るな」という意味です。「上着」とは、寒さを凌ぐ唯一のものであり、貧乏人にとっては代わりがない貴重な財産です。この警告は、「どれほど大切なものでも物質的なものに心を奪われてはならない」という意味です。「先ず、命を守ることだけを考えて直ちに逃げよ」。これが終末を迎える者の心得です。そして続く「それらの日には、身重の女と乳飲み子を持つ女は不幸だ。このことが冬に起こらないように、祈りなさい。」とあるのも、比喩的表現です。親は、どんなときでも子供を捨てて逃げることはありません。危険と分かっていても、子供のところへ戻るものです。また、冬は、パレスティナでは雨季で各地のワディが氾濫し洪水の怖れのある時期です。とても寒く、畑に作物はありません。誰もが体ひとつで出ることがためらわれる時です。これらの表現すべては、主なる神が導くところへ直ちに逃れない人間の不幸を告げています。

19節ではその日には、「神が天地を造られた創造の初めから今までなく、今後も決してないほどの苦難が来るからである。」とあります。これは天変地異というようなことではなく、私たちにとって、本当の試練・苦難の時には、この世に対する未練を捨てなさいと言っているのです。ロトの妻にとっては「救いの時」が「滅びの時」になってしまったことを考えると、私たちにとって、ただ神のみを選び取るということは本当に難しいと言わなければなりません。神が、その場を用意して下さっているからと言って、安心していてはいけません。最後の試練とは、神が用意して下さった救いの場所に向かって、「この私が飛び出して行けるか、否か」ということなのです。

そして、19節に「期間を縮めてくださる。」とは、主なる神が人間の迷いの時を縮めるべく働かれるのです。主なる神が選び、招いて下さった者が一人も滅びないように救い出されるのです。私たちの最も苦しい苦難の時こそ、主なる神が最も御心を傾けておられる時であるのです。

21節~23節は、私たちが如何に大きな惑いの中に置かれているかを告げています。真実を見失うこと、主イエス・キリストとこの世の指導者を見誤ること。さまざまな迷いの中で、最も危険なものは、聖書に記されたこと以外にも幸福の道があるのではないかと思い込むことです。

このような、私たちの迷いと主なる神の救いの御業が繰り返されるのが終末の前兆であり、そしてその後に、いよいよキリストの再臨の時を迎えるのです。

24節以下には、「それらの日には、このような苦難の後、太陽は暗くなり、月は光を放たず、星は空から落ち、天体は揺り動かされる。そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る。そのとき、人の子は天使たちを遣わし、地の果てから天の果てまで、彼によって選ばれた人たちを四方から呼び集める。」とあります。

この文章は、旧約、特に預言書に親しんでいる人々にはお馴染みのものであり、「最後の時」を語る伝統的な黙示的表現です。本来、私たちの知っている言葉では表現できないものを何とか表現しようとした努力の結果であり、特別な文章として信仰の目をもって読んでください。

終末とは、この世界の「終わり」ではなく、「罪の世界の終わり」です。そして、「新しい世界の創造」、「新しい世界の始まり」をここに見ることが大切です。その新しい世界がどのようなものかを、こと細かに推察する必要はありません。その新しい世界とは、主なる神への信頼に生きる世界であり、すべてを主なる神に委ねて生きる世界です。

私たちの人生は、この道を行くことです。私たちは、今日までこの道を歩いて来ました。そして、明日からの生活もまた、この道を行くのです。主イエス・キリストの十字架への道が復活の栄光の中へ続いているのです。主イエス・キリストは、私たちに与えられた最後の時まで、選ばれた者を救うために働かれるのです。

主イエス・キリストの救いに入れられてないお一人でも多くの方々、取り分け大切な愛するご家族や友人が共に救われますようお祈りいたしましょう。

お祈りを致します。

終わりの日のために

主日礼拝説教

齋藤 正 牧師

《賛美歌》

讃美歌77番
讃美歌352番
讃美歌546番

《聖書箇所》

旧約聖書:エレミヤ書 7章1-15節 (旧約聖書1,188ページ)

◆神殿での預言

7:1 主からエレミヤに臨んだ言葉。
7:2 主の神殿の門に立ち、この言葉をもって呼びかけよ。そして、言え。「主を礼拝するために、神殿の門を入って行くユダの人々よ、皆、主の言葉を聞け。
7:3 イスラエルの神、万軍の主はこう言われる。お前たちの道と行いを正せ。そうすれば、わたしはお前たちをこの所に住まわせる。
7:4 主の神殿、主の神殿、主の神殿という、むなしい言葉に依り頼んではならない。
7:5 -6この所で、お前たちの道と行いを正し、お互いの間に正義を行い、寄留の外国人、孤児、寡婦を虐げず、無実の人の血を流さず、異教の神々に従うことなく、自ら災いを招いてはならない。
7:7 そうすれば、わたしはお前たちを先祖に与えたこの地、この所に、とこしえからとこしえまで住まわせる。
7:8 しかし見よ、お前たちはこのむなしい言葉に依り頼んでいるが、それは救う力を持たない。
7:9 盗み、殺し、姦淫し、偽って誓い、バアルに香をたき、知ることのなかった異教の神々に従いながら、
7:10 わたしの名によって呼ばれるこの神殿に来てわたしの前に立ち、『救われた』と言うのか。お前たちはあらゆる忌むべきことをしているではないか。
7:11 わたしの名によって呼ばれるこの神殿は、お前たちの目に強盗の巣窟と見えるのか。そのとおり。わたしにもそう見える、と主は言われる。
7:12 シロのわたしの聖所に行ってみよ。かつてわたしはそこにわたしの名を置いたが、わが民イスラエルの悪のゆえに、わたしがそれをどのようにしたかを見るがよい。
7:13 今や、お前たちがこれらのことをしたから――と主は言われる――そしてわたしが先に繰り返し語ったのに、その言葉に従わず、呼びかけたのに答えなかったから、
7:14 わたしの名によって呼ばれ、お前たちが依り頼んでいるこの神殿に、そしてお前たちと先祖に与えたこの所に対して、わたしはシロにしたようにする。
7:15 わたしは、お前たちの兄弟である、エフライムの子孫をすべて投げ捨てたように、お前たちをわたしの前から投げ捨てる。」

新約聖書:マルコによる福音書 13章1-13節 (新約聖書88ページ)

◆神殿の崩壊を予告する

13:1 イエスが神殿の境内を出て行かれるとき、弟子の一人が言った。「先生、御覧ください。なんとすばらしい石、なんとすばらしい建物でしょう。」
13:2 イエスは言われた。「これらの大きな建物を見ているのか。一つの石もここで崩されずに他の石の上に残ることはない。」

◆終末の徴

13:3 イエスがオリーブ山で神殿の方を向いて座っておられると、ペトロ、ヤコブ、ヨハネ、アンデレが、ひそかに尋ねた。
13:4 「おっしゃってください。そのことはいつ起こるのですか。また、そのことがすべて実現するときには、どんな徴があるのですか。」
13:5 イエスは話し始められた。「人に惑わされないように気をつけなさい。
13:6 わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『わたしがそれだ』と言って、多くの人を惑わすだろう。
13:7 戦争の騒ぎや戦争のうわさを聞いても、慌ててはいけない。そういうことは起こるに決まっているが、まだ世の終わりではない。
13:8 民は民に、国は国に敵対して立ち上がり、方々に地震があり、飢饉が起こる。これらは産みの苦しみの始まりである。
13:9 あなたがたは自分のことに気をつけていなさい。あなたがたは地方法院に引き渡され、会堂で打ちたたかれる。また、わたしのために総督や王の前に立たされて、証しをすることになる。
13:10 しかし、まず、福音があらゆる民に宣べ伝えられねばならない。
13:11 引き渡され、連れて行かれるとき、何を言おうかと取り越し苦労をしてはならない。そのときには、教えられることを話せばよい。実は、話すのはあなたがたではなく、聖霊なのだ。
13:12 兄弟は兄弟を、父は子を死に追いやり、子は親に反抗して殺すだろう。
13:13 また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。」

《説教》『終わりの日のために』

主イエスがエルサレム神殿でファリサイ派やサドカイ派との論争を終え、神殿を出て行くとき、弟子の一人が主イエスに向かって感嘆の叫びを上げました。「先生、御覧ください。なんとすばらしい石、なんとすばらしい建物でしょう。」

エルサレム神殿は、紀元前10世紀にソロモン王が初めて築き、これを第一神殿と呼びますが、神殿は、戦争のため幾度も破壊され、建て替えられました。本日読まれた当時のものは、ヘロデ大王が紀元前20年に建て始めたもので、建築開始から50年経っても未だ未完成な巨大な神殿であり、先週の説教の際に想像図をお配りしましたが、南北500メートル、東西300メートル。高台に造られ外壁に囲まれた内部は14万平方メートル、エルサレム市街の6分の1を占める広大な神殿でした。外壁の上は柱が連なるソロモン回廊と呼ばれる回廊になっており、その柱は高さ4メートルの大理石であり、全部で数百本の円柱が神殿を取り巻いていました。また、聖所の木の部分には金箔が張ってあり、「日の出の時には、実に眩しくきらめき太陽光線そのものを見詰める時のように、見物人は眼を背けた」と当時の歴史家ヨセフスは記しています。

エルサレム神殿を見た弟子たちの驚きは想像出来ます。彼らは、都から遠く離れたガリラヤ湖の漁師や農夫たちでした。弟子たちの驚きの言葉は、この時代の人々の見る眼を代表していると言えます。弟子たち民衆は、如何にこの世の権力・富に心を奪われやすいかということを物語っています。彼らの心の中に、依然として「眼に見えるものの大きさ」への怖れと憧れが存在し続けたということが、この叫びになったのです。巨大で、堅固なエルサレム神殿は、永久にそこに立っているかのように弟子たちには見えました。主イエスは言われました。「これらの大きな建物を見ているのか。一つの石もここで崩されずに他の石の上に残ることはない。」

弟子たちの感嘆の声が「人間の見る眼」であるのに対し、これが「主イエスの見る眼」であり、まったく違うのです。弟子たちが見ていることが本質ではないことを主イエスは指摘しているのです。「あなたは今、何を見ているのか」。この主イエスの問い掛けから新しい認識が始まるのです。

すると、ペトロたちが、ひそかに尋ねたとあります。「おっしゃってください。そのことはいつ起こるのですか。また、そのことがすべて実現するときには、どんな徴があるのですか。」

弟子たちにとって、主イエスの御言葉が意外なものであったのです。「ひそかに尋ねた」ということが弟子たちの不安を表しています。彼らは、目の前に聳える壮大な神殿の崩壊を現実のこととして考えることが出来ませんでした。ですから、自分たちの思いを遥かに超える主イエスの御言葉を聞いて、動揺せざるを得なかったのです。

通俗的な表現に、「形あるものは必ず滅びる」という言葉があります。弟子たちは「この世が滅びる」どころか、「神殿が崩壊する」ということさえ、この時、信じられなかったのです。しかも、ここで大切なことは、主イエスは「形あるものは必ず滅びる」と言われたのではありません、「罪あるものは、必ず滅びる」と言われているのです。この違いこそ、決定的に重要なことです。

主イエスの予告された神殿崩壊とは、まさに「神による裁きの時」を告げているのです。

そして弟子たちは終末の前兆はあるのでしょうかと尋ねています。弟子たちの求めに応えて主イエスがお語りになった終末の前兆は大きく二点にまとめられます。

第一の前兆は「社会の混乱」であり、「偽キリストの出現」です。偽キリストとは、自分を世界の救世主のように語る者のことです。現実の生活の苦しさを訴える者は、当然、その苦しみからの脱出を望んでいます。「私こそ民衆を幸福へ導く者である」と自ら宣言する偽キリストは、多くの人々を巻き込む混乱を引き起こし、人為的災害を導きます。何故なら、人間が人間である限り、対立と争いは絶えないからです。ある者が語る幸いは、対立する者にとっては悲惨への導きであり、栄光への幻が壊滅の悲劇に終わることは珍しくありません。かつて、ドイツの民衆が何故ヒトラーを支持したのか、そして何故、悲惨の中に落ち込んで行ったのかを考えれば明らかでしょう。現代のプーチンがウクライナを侵略しているにも拘わらずロシヤ国内で高い支持率を得ていることも例外ではありません。社会的混乱は、人間が持つ本質的不安を暴露します。そして、その不安に耐え切れない人間は、さらに新しい神を求めるのであり、新興宗教が常に動乱の時代を背景にして生じるのは、この人間性によると言えるでしよう。

第二の前兆として9節から13節に「迫害」があげられていますが、この場合、紀元一世紀という「限定された時代の姿を写している」ということが出来るでしょう。現在のわが国において、生命を奪われるような迫害はありません。信仰の自由は憲法によって保証され、自由で平和な生活をしています。しかし、迫害とは剣や槍によることだけではなく、ここでは、この世の秩序と神の秩序との対立のことです。キリスト者として生きて行く限り、私たちは幾つもの困難に出会わざるを得ないでしょう。例えば、キリスト者としての良心を隠し切れないために、周囲の人々のようにうまく立ち回ることが出来ないこともあるでしょう。私たちの周囲には、「キリスト者である」ということによって幾つもの問題が生じる余地があります。そして、このような小さな問題が何時か心の重荷となり、それが煩わしくなり、やがて礼拝生活から遠ざかって行く原因にもなるのです。その時、キリスト者に与えられる力は、「苦しみにおいて神の代理者となる」という信仰による力です。それらは「終りの日」の到来ではなく、陣痛にたとえられる前兆にすぎない(8)と、主イエスは言われたのです。

主イエスは11節で、「引き渡され、連れて行かれるとき、何を言おうかと取り越し苦労をしてはならない。そのときには、教えられることを話せばよい。実は、話すのはあなたがたではなく、聖霊なのだ」と言われました。戦うのは神御自身なのです。ごく身近な問題を含め、あらゆる憎しみは、神が引き受けて下さるのです。「わたし一人で戦っている」と思うのは誤りです。

主イエスは、終末の前兆として、「社会の混乱」と「迫害」という二つを示されました。これらは、何故、終末の前兆なのでしょうか。これなら、「現在も同じである」と言えます。「幸福に導く」と自称する新興宗教は世にあふれています。自然災害の前に、現代の科学が如何に無力であるかが教えられています。大地震への恐れや地球温暖化への危機は、繰り返し語られています。人間は、自然災害の前にまったく無力なまま右往左往しています。そして世界は核戦争の不安に怯えています。主イエスが言われていることは、「社会的混乱が起これば終末になる」「迫害があれば神の裁きの時が来る」ということではないのです。

社会的混乱とは何でしょうか。それは、人間の罪の現れです。そして、混乱の中で生じる迫害とは、神への挑戦に他ならないのです。現代でもそれは変わらないのであり、それは人間の罪が少しも変わらず、神への挑戦がますます強まっているということです。それ故に、混乱の継続は、決して神の無力の証明や、神の裁きの予告ではありません。神の御心は罪の裁きではなく、信じる者の救いへと向けられているのです。従って裁きの日とは、「福音を信じる者の勝利が実現する栄光の日である」と聖書は教えているのです。

8節に「これは産みの苦しみの始まりである」と主イエスは言われました。それは、「断末魔の苦しみ」ではなく、「産みの苦しみ」であり、「新しい生命の誕生をそこに見るべきである」と主イエスは仰っているのです。むしろ「キリスト者の勇気の根源を教えている」と言うべきなのです。そして13節で「しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる」とあり、これこそが主イエス・キリストの約束です。この「耐え忍ぶ」とは「じっと我慢の子になれ」ということではありません。「希望を見失うな」、「そこに喜びがある」ということを確信することです。

主イエスの告げられた神殿崩壊は紀元70年のローマ軍による神殿破壊を予告しているのです。これに関しては次回の説教で触れますが、これは歴史に残る大惨事でした。

真実の勇者とは、この世で出会う苦難を、神の代理者として受け止め、その苦しみの中でも信仰の喜びを明らかにする者です。どのようなときでも、13節の「最後まで耐え忍ぶ者は救われる」との主イエスの御言葉が無効になることは決して有り得ないからです。

勿論、この生き方は簡単なものではありません。困難を覚悟しなければなりません。しかし、十字架の彼方に甦りが待っていることを思い返すとき、私たちもその道を辿ることに希望を持つことができるのです。

何故なら、「最後まで耐え忍べ」というだけで、信仰の道を行くことは不可能ですが、そこに「救い」という神様からの確かな約束が、現実の苦しみに打ち勝つ力となるのです。この世を生きるキリスト者の熱き思いは、終末に救いを見ることから生じるのです。

私たちは、主の血潮によって贖われた「この世を生きる神の民」であり、滅びることを知らぬ永遠の世界に、既に生きているのです。

お一人でも多くの方々が滅びることのない「救い」に入れられますよう願い求める者でありましょう。

お祈りを致しましょう。

献身

主日礼拝

齋藤 正 牧師

《聖書箇所》

旧約聖書:イザヤ書 1章11-20節 (旧約聖書1,061ページ)

1:11 お前たちのささげる多くのいけにえが/わたしにとって何になろうか、と主は言われる。雄羊や肥えた獣の脂肪の献げ物に/わたしは飽いた。雄牛、小羊、雄山羊の血をわたしは喜ばない。
1:12 こうしてわたしの顔を仰ぎ見に来るが/誰がお前たちにこれらのものを求めたか/わたしの庭を踏み荒らす者よ。
1:13 むなしい献げ物を再び持って来るな。香の煙はわたしの忌み嫌うもの。新月祭、安息日、祝祭など/災いを伴う集いにわたしは耐ええない。
1:14 お前たちの新月祭や、定められた日の祭りを/わたしは憎んでやまない。それはわたしにとって、重荷でしかない。それを担うのに疲れ果てた。
1:15 お前たちが手を広げて祈っても、わたしは目を覆う。どれほど祈りを繰り返しても、決して聞かない。お前たちの血にまみれた手を
1:16 洗って、清くせよ。悪い行いをわたしの目の前から取り除け。悪を行うことをやめ
1:17 善を行うことを学び/裁きをどこまでも実行して/搾取する者を懲らし、孤児の権利を守り/やもめの訴えを弁護せよ。
1:18 論じ合おうではないか、と主は言われる。たとえ、お前たちの罪が緋のようでも/雪のように白くなることができる。たとえ、紅のようであっても/羊の毛のようになることができる。
1:19 お前たちが進んで従うなら/大地の実りを食べることができる。
1:20 かたくなに背くなら、剣の餌食になる。主の口がこう宣言される。

新約聖書:マルコによる福音書 12章41-44節 (新約聖書88ページ)

◆やもめの献金

12:41 イエスは賽銭箱の向かいに座って、群衆がそれに金を入れる様子を見ておられた。大勢の金持ちがたくさん入れていた。
12:42 ところが、一人の貧しいやもめが来て、レプトン銅貨二枚、すなわち一クァドランスを入れた。
12:43 イエスは、弟子たちを呼び寄せて言われた。「はっきり言っておく。この貧しいやもめは、賽銭箱に入れている人の中で、だれよりもたくさん入れた。
12:44 皆は有り余る中から入れたが、この人は、乏しい中から自分の持っている物をすべて、生活費を全部入れたからである。」

《説教》『献身』

本日の聖書箇所を含む、マルコによる福音書11章から12章にかけては、主イエスと、エルサレム神殿の祭司長、ユダヤ人の宗教指導者である律法学者たちとの間でなされたいくつかの論争、議論が語られています。12章の終りである本日の聖書箇所の前半には、主イエスが律法学者たちを鋭く批判して語られたことが記されています。「律法学者に気をつけなさい。彼らは、長い衣をまとって歩き回ることや、広場で挨拶されること、会堂では上席、宴会では上座に座ることを望み、また、やもめの家を食い物にし、見せかけの長い祈りをする。このような者たちは、人一倍厳しい裁きを受けることになる」とありました。

律法学者たちとは、自分たちが人よりも尊ばれ、重んじられ、名誉ある者とされることをいつも求めていました。神様のみ言葉である律法も、祈りも、信仰自体が、そのための道具になってしまっていたのです。それは私たちが考えても、まことにいやらしい、偽善的な姿です。主イエスはそのような彼らを批判して、「このような者たちは、人一倍厳しい裁きを受けることになる」とおっしゃいました。

それに続いた本日の舞台は、ヘロデ大王の築いた広大なエルサレム神殿の中の「婦人の庭」と呼ばれる場所です。広い神殿の外側は「ソロモンの回廊」と呼ばれる回廊で囲まれ、内側は「異邦人の庭」と呼ばれる境内です。更に神殿内側に続く「美しの門」を入ったところ、そこは「婦人の庭」と呼ばれ、イスラエルの女性はそこまでは入ることが許され、その先へ入ることは禁じられていました。その「婦人の庭」の回廊に13個の献金箱が置かれていました。6個は所謂私たちの任意献金にあたる自由献金のための箱、7個は特定の目的のための所謂私たちの特定献金にあたる、焼き尽くす献げものや、それを燃やして灰にするための薪のためや、乳香のためなど献金目的などを決めたものでした。これらの献金箱には、盗難防止のためとも言われていますが、牡羊の角から作ったラッパ状の投げ入れ口が付いていたため「ラッパ」とも呼ばれていたようです。一説によれば、この献金箱の傍らには祭司がいて、人々がそこに入れる献金を記録に留め、そして周囲の人々に聞こえるように、「誰々さんがいくら献金なさいました」と大声で告げていたのではないかと言われています。祭司がその人たちの名前と献金額を読み上げる、すると人々の間から「おお!」と感嘆の声があがる、そのようにして金持ちたちは大いに面目を施していたのです。主イエスは、その「ラッパ」のひとつの傍らに居られたのです。41節では主イエスはその「賽銭箱」の向かいに座って、人々がそれに金を入れる様子を見ておられました。「大勢の金持ちがたくさん入れていた」とあります。今日のマルコ福音書では「人々が賽銭箱に金を入れる」と表現されていますが、この場面を語る他の聖書翻訳の多くは「献金箱」と訳しています。ですから、マルコ福音書でも「献金箱」と訳すべきでしよう。ここで「賽銭」と訳されているギリシャ語の「ガソフュラキオン」という言葉は、「財宝」「宝物」の意味であり、軽く考えるべきものではありません。ルカ福音書21章では「“賽銭箱”に“献金”を入れる」とあって「賽銭箱:ガゾフュラキオン」が用いられていますが、ここの「献金」には、「献金:ドーロン」が用いられています。この言葉は、「賜物」「贈り物」「献げもの」の意味です。通常、上位の人への贈り物を「献げもの」と言います。そして、「捧げ物」や「贈り物」は贈る人の気持ちや立場を明らかにするものとも言えます。

主イエスが人々の神殿での献金の様子を見ておられるとそこに、一人の貧しいやもめがやって来ました。この人は、4月10日の説教箇所に出て来た、律法学者たちに食い物にされるような金持ちのやもめではなくて、「貧しいやもめ」です。その日その日を、爪に火を灯すようにして生きている人です。そのやもめが献金箱に、「レプトン銅貨二枚、すなわち一クァドランス」を入れたのです。それはどれくらいの金額なのでしょうか。新共同訳聖書の後ろの付録には、聖書に出て来るいろいろな単位の換算表があります。そこで「レプトン」を調べると、「ローマの銅貨で、1デナリオンの1/128」と書かれています。つまりレプトン二つ、一クァドランスは、1デナリオンの64分の一ということになります。一デナリオンは、一人の労働者が一日働いてもらう賃金でしたから、その64分の1ということで、この献金が当時としてもかなり小額だったことが分かります。このやもめはそういう献金をしたのです。記録する祭司はおそらく、「こんなはした金を献げるなんて、何を考えているんだ」という軽蔑の目で彼女を見たでしょう。そして金持ちたちの献金を報告するのとは全く違う、馬鹿にした冷たい声で彼女の名と献金額を告げる、すると周囲の人々からは「あきれた」「よく恥ずかしくないね」「あんな金額なら献金しない方がましだね」などという冷たい反応が起る、そんな光景を思い浮かべることができるでしょう。

この物語は、エルサレム神殿の「婦人の庭」の献金箱の前で、主イエス・キリストの御前で献金するというだけのことではなく、自分の生き方が問われる事柄として見なければならないのです。

ここで、主イエスは弟子たちを呼び寄せて、「はっきり言っておく。この貧しいやもめは、賽銭箱に入れている人の中で、だれよりもたくさん入れた。皆は有り余る中から入れたが、この人は、乏しい中から自分の持っている物をすべて、生活費を全部入れたからである」。主イエスの答えがここに示されているのです。

貧しいやもめが献金を捧げる様子を見つめておられた主イエスが、やもめが献げたレプトン二枚の方が、金持ちたちの多額の献金よりも、神様の前ではたくさんの献げものなのだ、と仰ったのです。それは、金持ちたちは「有り余る中から入れたが、この人は、乏しい中から自分の持っている物をすべて、生活費を全部入れたから」です。私たちはこの主イエスの言葉を間違って受けとめてはなりません。献金の価値は金額の大小によって決まるのではなくて、その金額がその人の財産、収入の中で占める割合によって決まる、例えば一千万円の収入がある人が十万円を献げてもそれは1%だが、十万円の収入の中から一万円を献げるならそれは10%になるので、この場合には十万円よりも一万円の方が十倍の価値がある…、ということではありません。収入に対する献金のパーセンテージの計算を始めるなら、人よりも高いパーセンテージの献金をすることによって称賛、名声を得ようとするということになり、結局あの律法学者たちの姿が繰り返されていくことになるのです。

ここで明らかなように、「レプトン二枚」がこの物語の中心ではなく、「それがすべてであった」ということが大切であり、「すべてであることを認定されるのがイエス・キリストである」ということが決定的なことなのです。主イエスは「すべてを献げる人間の真実」を、心から喜んで下さるのです。

主イエスがやもめの献金を見て弟子たちに教えられたのは、このやもめが、自分の全てを神様に献げ、委ねたことです。彼女は、乏しい生活費を全部神様に献げてしまったのです。それは、自分の生活を全て神様の恵み、導きにお委ねしたということです。そこには、人と自分を見比べて、自分は生活費をも含めて百%を神様に献げている、この自分に敵う人はいないだろう、と誇るような思いはこれっぽっちもありません。そのような思いが少しでもあったら、このような献げ物はできない筈です。なぜなら、そのように自分を誇ろうとする思いは、基本的に自分で自分を守ろうとする思いであり、自分の安心安全を自分で確保しようとする思いだからです。

私たちが自分で自分を守り、自分の安心を自分の手の内に確保しておこうとしている限り、全てを神様に献げることはできません。自分のもとに確保しておくものが全く無くなってしまうことには耐えられないからです。だから自分のものを確保した上で、余ったものを献げる、ということになるのです。彼女が生活費も含めたすべてを献げたということは、彼女が、自分で自分の安心を確保しようという思いから完全に自由になり、神様にすべてをお委ねしているということなのです。

私たちは、一人で生きているのではなくて、この社会の中で、人々と共に生きています。人と共に生きている以上、人の目が気になり、人が自分をどう評価しているかを気にすることも、また人に褒められることを求めることも自然なことです。自然のまま、ありのままの私たち人間の生き方というのは、人の目を気にして生きている、優越感と劣等感、誇りと妬みが表と裏のように分ち難く存在している、偽善に満ちた、決して本当に幸せとは言えない生き方なのです。そのような生まれつきの私たち人間を、人の目を気にすることから解放し、優越感と劣等感、誇りと妬みの狭間で苦しむことから解き放って下さるのが、神様の恵みである主イエス・キリストの十字架です。

私たちのために十字架へ向かって歩まれる主イエス・キリストの御心が何処にあるのか、今日のエルサレム神殿における「やもめの献金」というささやかなエピソードが、私たちにそれをはっきりと教えているのです。

主イエス・キリストは、私たちの信仰や奉仕や献金を採点し、誰と比べて何点高いとか低いとか、平均点より上だとか下だとか、評価するようなことはなさらないのです。主イエス・キリストは私たちの罪を、欠けを、弱さを、ご自分の十字架の苦しみと死とによって償って下さり、罪人である私たちを喜んで受け入れ、用いて下さり、信じる者すべてを天の御国へ導いてくださるのです。その主イエス・キリストの慈しみに満ちたまなざしが、人の目、人の評価、人からの誉れを越えて、私たちを支え、生かし、力づけるのです。

これからあずかる聖餐は、主イエスの慈しみに満ちたまなざしがこの自分に注がれていることを、私たちが思い起こし感じ取るために与えられるしるしです。主イエス・キリストのこのまなざしの中で生かされることによって私たちは、今日のやもめのように、人の目、人の評価から自由になって、自分の持っているもの、自分自身のすべてを、心をこめて神様にお献げすることができるのです。

お祈りを致しましょう。