足りることを知る

主日CS合同礼拝

齋藤 正 牧師

《賛美歌》

讃美歌2番
讃美歌11番
讃美歌528番

《聖書箇所》

旧約聖書:コヘレトの言葉 5章14節 (旧約聖書1,040ページ)

5:14 人は、裸で母の胎を出たように、裸で帰る。来た時の姿で、行くのだ。労苦の結果を何ひとつ持って行くわけではない。

新約聖書:テモテへの手紙 一 6章6-10節 (新約聖書389ページ)

6:6 もっとも、信心は、満ち足りることを知る者には、大きな利得の道です。
6:7 なぜならば、わたしたちは、何も持たずに世に生まれ、世を去るときは何も持って行くことができないからです。
6:8 食べる物と着る物があれば、わたしたちはそれで満足すべきです。
6:9 金持ちになろうとする者は、誘惑、罠、無分別で有害なさまざまの欲望に陥ります。その欲望が、人を滅亡と破滅に陥れます。
6:10 金銭の欲は、すべての悪の根です。金銭を追い求めるうちに信仰から迷い出て、さまざまのひどい苦しみで突き刺された者もいます。

《説教》『足りることを知る』

今日は教会学校との合同礼拝です。そこで、教会学校テキストの聖書箇所テモテへの手紙第一からお話をさせて頂きたいと思います。

新約聖書の中でも、テモテへの手紙第一と第二、そしてテトスへの手紙の三つのパウロの手紙は『牧会書簡』と呼ばれ、パウロ生涯の最も末期に書かれた手紙です。パウロは、囚われてローマに送られ牢に入れられていましたが、しばらく釈放され軟禁状態であった西暦64~65年頃に、マケドニヤ地方からエフェソ教会にいた弟弟子というべきテモテに書き送られた手紙です。現在はトルコ共和国のエフェソは当時ローマ帝国アジア州の首都で大変繫栄していました。そのエフェソ教会は使徒パウロが3年ほども滞在して熱心に伝道して立ち上げた教会でした。しかし、パウロが、伝道でコリント教会などに移動すると、以前からパウロがエフェソ教会の長老たちに警告していたように異端の教えが持ち込まれて来たのです。それは、使徒言行録20章29節以下にパウロが「わたしが去った後に、残忍な狼どもがあなたがたのところへ入り込んで来て群れを荒らすことが、わたしには分かっています。 また、あなたがた自身の中からも、邪説を唱えて弟子たちを従わせようとする者が現れます。 だから、わたしが三年間、あなたがた一人一人に夜も昼も涙を流して教えてきたことを思い起こして、目を覚ましていなさい。 そして今、神とその恵みの言葉とにあなたがたをゆだねます。この言葉は、あなたがたを造り上げ、聖なる者とされたすべての人々と共に恵みを受け継がせることができるのです。」とあります。エフェソ教会に間違った教えが入り込んで憂うべき困難な事態が訪れたのをパウロが知って、残った者たちを強めるために、そしてテモテが「神の家」である教会でどのように働くべきかを(Ⅰテモ3:15)教えるために、テモテへの手紙がパウロによって書かれたのでした。形式主義や愚かな議論、教会内でのお互いのむなしい詮索と律法主義、さらには信仰と良心の否定までが懸念されたのでした。

当時ローマ帝国各地に建てられ始めた様々な教会あてに多くの手紙を書いたパウロが、晩年のローマからテモテなど個人あてに手紙を書いていることは、教会指導者の世代の交替期が訪れたことを示しているだけでなく、立てられて間もない諸教会に既に、異端や誤った教えが侵入し始めたことを示しています。そのために信仰のしっかりした何人かの弟子たちを、確固とした信仰を持つ指導者としなければならなくなっていたのです。教会が大きくなり、教会員の構成も、単に老若男女だけでなく、ユダヤ人と異邦人、あるいは奴隷というように複雑多岐になってきました。その結果、長老や執事なども含めた組織の複雑化と、それに伴う諸課題も出てきたのでした。5章9節で「やもめ」の名簿も作られているように、当時の教会の奉仕活動も多面的になっており、それも、パウロがこの手紙を書いた動機でした。教会の「指導者のなすべき行い」や、「教会員のあるべき姿」と「なすべき奉仕」とは何かと言った問題に加え、さまざまの誤った教えや異端に対する対応など、この書を加えた牧会書簡が今日の私たち成宗教会に至るまで2千年間の諸教会に対してパウロが教え、果す役割は計り知れないのです。

今日の聖書箇所は6節から10節と短いので、少し詳しくご一緒に読み進めて見ましょう。

テモテへの手紙が、間違った教えを語る偽教師たちと対決したのは、これで三度目でした(1:3-11、4:1-11参照)。この直前の3節から5節の聖書箇所では、偽教師たちが教会から離れていった理由を挙げています。それは、彼らが、主イエス・キリストの御言葉から離れてしまい、正しい敬虔な教会の教えから身を引かざるを得なかったからです。偽教師たちが、高慢になり、彼らは、教会内部で兄弟を許せず、不和をまきちらし、たえず争いを引き起こしていたのです。パウロが偽教師と呼ぶ分派主義者たちは明らかに、教えることに極めて高い授業料を払わせ、聞く者を搾取して「信仰・信心を利得の道」としていたのでした。パウロはその罪を、きわめて鋭く指摘して、偽教師が「神を罪に仕えさせ者」にしてしまっていると断罪したのです。

その「信仰を利得とする罪」を逆手に取って、今日の6節からは、パウロは「満ち足りる心を伴う敬虔こそが、大きな利得を得る道」であると福音の確かさを強調するのです。信仰は敬虔な人々を、上なる世界の天的な富において豊かにするだけでなく、この世でも富んだ者にするとパウロは強調します。それは、その人が信仰によって金銭欲から解き放たれており、神が与えられたもので満足しているからです。その人の人生は、神の祝福にみちた御手の下に置かれているからである。

7節では、聖書の基本的な倫理(ヨブ1:2、ルカ12:16-21)である、「わたしたちは裸で何も持たずにこの世に来て、また同じように去って行かねばならない」という認識に立つならば、おのずと欲から解き放たれて、地上の富に対して正しい評価が出来るようになるのである。ルカ12章20節で神が金持ちに「愚か者よ、今夜あなたの命は取り去られるであろう。すると、あなたが得たものは誰のものになるのか」と言われる御言葉が自分のものとなるのである。生活に不可欠のものを所有している者は、それで満足し、感謝せよということであり、金銭欲は無意味なだけでなく、魂を殺してしまうのです。

しかし、大きくなった教会の中には、裕福な人々もいました。勿論、金持ちが忠実なキリスト者になれないのではありません。いけないのは、富む者になろうとする欲望、金への呪われた飢餓です。金を得るためにはどんな手段も辞さないという誘惑が頭をもたげると、足りることを知らない欲望が増長し、生涯の歩みは永遠の滅びの中に終わることになるのです。「すべての悪徳の根は金銭欲である」と10節は言う。金銭欲のほか罪の原因になるものがない、というわけではありませんが、金銭欲は人をかたくなにし、手段を選ばぬ人間にするので、特別危険なのです。金銭欲はキリスト者の敬虔とあい容れぬものであることを、教会は経験したのでした。

ここで間違ってはならないのは、お金そのものが悪、罪なのではないのです。金銭欲に溺れてしまうことが悪の根源であり、信仰から引き離す罪だ、とパウロが指摘しているのです。古い時代の教会の歴史の中には、修道士など、清貧に生きることこそキリスト者のあるべき姿である、と強調した人々がいた時代もありました。

反対に、金銭的な豊かさを求める余り「金銭欲の虜」になってしまい、神に与えられた賜物、時間、お金、体力を信仰のために、教会のために用いなくなることをパウロは厳しく視詰め、指摘しました。神から与えられた恵みを自分のため、自分の利得だけに用いてしまい、神のため、教会のため、隣人のために用いなくなってしまう罪をパウロは視詰めているのです。

今日の聖書箇所の少し後の17節で「この世で富んでいる人々に命じなさい。高慢にならず、不確かな富に望みを置くのではなく、わたしたちにすべてのものを豊かに与えて楽しませてくださる神に望みを置くように。」と、パウロは勧めているのです。

ここで、富とは、お金や財産だけではなく仕事、職歴、学歴、学力、能力、体力、健康など全てが神から与えられた富なのです。パウロが、その後の21節「その知識を鼻にかけ、信仰の道を踏み外してしまった者もいます。」、と語った「その知識」も富です。パウロが語っていることは経済的に豊かな人々だけでなく、神から賜物を戴いている全ての人々に対する言葉、私たちに対する言葉です。自分の智恵、知識、経験に重きを置き過ぎると、神の御言葉に聴き従い、頼ることを軽んじて、私たちを信仰から、神から引き離してしまうのです。

魂がすでに御恵みにより満たされ、空しさが愛で満たされるという霊的な満足こそが信仰の実なのです。信仰とは、それが満たされた霊の果実を実らせることです。これこそが、6節の「信心は、満ち足りることを知る者には、大きな利得の道です」。

「足りることを知る」とは、人が欲しいものを既に持っている時も、人が欲しいものを持っていなくとも、それ以上のものを欲求しない時も、「足りることを知る」ことが出来るのです。

私たちは何も持たずにこの世に生まれて来ましたが、ヨブ1章21節に「わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ。」の通りです。そして、マタイ6章26節で主イエスは「空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか。」と言われました。

主イエス・キリストが教えてくださった「主の祈り」の第四番目「わたしたちの日用の糧を今日も与えてください。」とは、衣食住だけではなく、教育、医療など、私たちが生きていく時に必要なすべてのものです。「私の日用の糧」を与えてください、と祈っているのではありません。「私たちの日用の糧」、「私たち」と複数です。それは「隣人」にも与えてください、との祈りです。自分だけが満たされればそれでよい、などというような小さな祈りでありません。自分の愛する家族を含めて「私たち与えてください」との祈りです。

お祈りを致しましょう。

神の備え

主日礼拝

齋藤 正 牧師

《賛美歌》

讃美歌138番
讃美歌294番
讃美歌461番

《聖書箇所》

旧約聖書:サムエル記 下 12章1-10節 (旧約聖書496ページ)

◆ナタンの叱責

12:1 主はナタンをダビデのもとに遣わされた。ナタンは来て、次のように語った。「二人の男がある町にいた。一人は豊かで、一人は貧しかった。
12:2 豊かな男は非常に多くの羊や牛を持っていた。
12:3 貧しい男は自分で買った一匹の雌の小羊のほかに/何一つ持っていなかった。彼はその小羊を養い/小羊は彼のもとで育ち、息子たちと一緒にいて/彼の皿から食べ、彼の椀から飲み/彼のふところで眠り、彼にとっては娘のようだった。
12:4 ある日、豊かな男に一人の客があった。彼は訪れて来た旅人をもてなすのに/自分の羊や牛を惜しみ/貧しい男の小羊を取り上げて/自分の客に振る舞った。」
12:5 ダビデはその男に激怒し、ナタンに言った。「主は生きておられる。そんなことをした男は死罪だ。
12:6 小羊の償いに四倍の価を払うべきだ。そんな無慈悲なことをしたのだから。」
12:7 ナタンはダビデに向かって言った。「その男はあなただ。イスラエルの神、主はこう言われる。『あなたに油を注いでイスラエルの王としたのはわたしである。わたしがあなたをサウルの手から救い出し、
12:8 あなたの主君であった者の家をあなたに与え、その妻たちをあなたのふところに置き、イスラエルとユダの家をあなたに与えたのだ。不足なら、何であれ加えたであろう。
12:9 なぜ主の言葉を侮り、わたしの意に背くことをしたのか。あなたはヘト人ウリヤを剣にかけ、その妻を奪って自分の妻とした。ウリヤをアンモン人の剣で殺したのはあなただ。
12:10 それゆえ、剣はとこしえにあなたの家から去らないであろう。あなたがわたしを侮り、ヘト人ウリヤの妻を奪って自分の妻としたからだ。』

新約聖書:マルコによる福音書 14章12-16節 (新約聖書91ページ)

◆過越の食事をする

14:12 除酵祭の第一日、すなわち過越の小羊を屠る日、弟子たちがイエスに、「過越の食事をなさるのに、どこへ行って用意いたしましょうか」と言った。
14:13 そこで、イエスは次のように言って、二人の弟子を使いに出された。「都へ行きなさい。すると、水がめを運んでいる男に出会う。その人について行きなさい。
14:14 その人が入って行く家の主人にはこう言いなさい。『先生が、「弟子たちと一緒に過越の食事をするわたしの部屋はどこか」と言っています。』
14:15 すると、席が整って用意のできた二階の広間を見せてくれるから、そこにわたしたちのために準備をしておきなさい。」
14:16 弟子たちは出かけて都に行ってみると、イエスが言われたとおりだったので、過越の食事を準備した。

《説教》『神の備え』

本日のマルコによる福音書14章12節に、「除酵祭の第一日、すなわち過越の小羊を屠る日」とあります。

除酵祭については、先週お話しさせていただきましたが、この「過越の小羊を屠る日」とは、過越の食事のための準備の日のことであり、「除酵祭の第1日」ではありません。何故なら、ユダヤ暦の一日は日没が区切りであり、「小羊を屠る日」はユダヤ暦のニサンの月の14日で、その日の日没から15日となり、そこから「15日」つまり「除酵祭」は始まります。ですから、「徐酵祭の第1日」と「過越の小羊を屠る日」とを同一視している12節には、「一日の食い違いがある」ことになります。

マルコによる福音書は、何故、このような間違いを書いてしまったのでしょうか。14章1節には「過越祭と除酵祭の二日前」という指摘がありました。そして今、「その日になった」と言うとき、恐らくマルコは、「時が満ちた」ということを語りたかったのでしょう。「神の時」が御業の完成に向けて徐々に満ちて行く緊張感を、日付を変えてでも強調したかったのでしょう。

しかし、本日の箇所には、なおそれ以上に強調しなければならないことがあります。この物語の冒頭に、あえて「小羊を屠る日」という言葉を記した特別な意味があるからです。「時が満ちる」その日は、「小羊の屠られる日」であるということを、マルコによる福音書は力を込めて語っているのです。

そこで、過越の祭の意味について、改めて振り返ってみる必要があります。この出来事は繰り返し思い起こすことが必要な、イスラエル民族にとって何よりも重要な神の恩寵の御業として語り伝えられて来たのです。

紀元前13世紀の初め、イスラエルの民はエジプトで奴隷として生活していました。主なる神はご自分の民の苦しみの叫びを聞き、祖先アブラハムへの約束を守り、カナンの地へ導き出されました。このエジプト脱出物語は、出エジプト記に詳しく描かれ、イスラエル民族形成の原点でもあり、忘れ得ぬ出来事として祭られているのです。

このエジプト脱出物語は、モーセが、主なる神に召され、イスラエルを救出する使命を与えられ、エジプトへ遣わされてフアラオ・ラメセス二世に解放を要求しましたが、当然受け容れられません。国家にとって奴隷は大切な財産です。エジプト王が、モーセが伝えるイスラエルの神の言葉を拒否するのは当然です。そこで主なる神は、数々の奇跡を行い、御力を明らかにされました。エジプトにとって最も大切なナイル川の水が血に変わったり、大切な作物を壊滅させる「いなご」を大発生させるなど、数々の異常な災害をエジプト全土に下し、神の力を示されました。ファラオは、その度に神の御前に屈服し、モーセの要求を聞くそぶりをしますが、その災害が終わると直ちに言葉を翻し、奴隷解放を認めようとはしませんでした。なんとこれが9回も繰り返されたのです。遂に、主なる神は、最終的な警告として、エジプト中のすべての最初の子供の命を奪うという災厄を下すに至りました。その時、災いがエジプト人だけに限定されるよう、イスラエルの人々の家の戸口の上に、目印として「子羊の血」を塗ることが命じられ、その血を塗った家の前を、命を奪う神の軍勢が「通り過ぎる」即ち「過ぎ越すであろう」と告げられたのです。ファラオの子を含むすべての最初の子供の命が奪われたその夜、イスラエルの子供は一人も死にませんでした。流石に、屈服したファラオの解放許可を得て、イスラエルの民は直ちにエジプトを旅立ちました。「小羊の血に守られた出発」と言うことも出来るでしょう。これを「出エジプト」と言います。

過ぎ越しの祭りとは、このエジプト脱出の「救いの御業」を覚える日であり、かつて祖先たちを救い出した神の御力を再び子孫たちに向けて示されることを祈る日です。「主は必ずイスラエルを救われる」という信仰が、もっとも具体的に語られる日、希望が確認される日であり、イスラエル民族誕生の日と言ってもよい日でした。

本日の14章12節の「除酵祭の第一日、すなわち過越の小羊を屠る日」というマルコ福音書の記述は、「待ち望まれた救いの時が到来した」という宣言なのです。そしてその際に注目すべきことは、エジプト脱出の日、決定的な解放を獲得した夜に、「小羊の血」がイスラエルを守ったことを思い出せということです。毎年、過越しの祭りの夜、人々は小羊を殺して肉を食べ、遠い昔の恵みを改めて新たに思い返して行く、それがユダヤ人のアイデンティティを形成していました。

そして再び、罪の束縛という奴隷状態から解放するために、犠牲として献げられる小羊が神によって備えられ、「子羊の血が流される時が来た」ということを、マルコ福音書は強く訴えているのです。

ヨハネによる福音書1章29節によれば、初めてナザレのイエスを見たバプテスマのヨハネは「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」と呼びかけています。また、使徒パウロは、コリントの信徒への手紙一5章7節で「キリストが、わたしたちの過越の小羊として屠られた」と言っています。

主イエス・キリストこそ、神によって供えられた人間を罪から贖いだす「犠牲の小羊」であり、「身代わりの小羊」なのです。マルコによる福音書14章12節冒頭の日付は、このことを語っているのであり、第二の出エジプト、「罪の奴隷から解放される日」が来たということの宣言なのです。

かつての出エジプトは、完全に神の御業でした。偉大な指導者モーセですら神が命じられるままに、それをなしたに過ぎません。新しい出エジプト「罪からの解放」も、同じように「御子イエス・キリストが定められた通りに」、すべては実現して行くのです。どのように準備しましょうかと聞く弟子たちに主イエスは、「都へ行きなさい。すると、水がめを運んでいる男に出会う。その人について行きなさい。その人が入って行く家の主人にこう言いなさい。『先生が、「弟子たちと一緒に過越の食事をするわたしの部屋はどこか」と言っています。』すると、席が整って用意ができた二階の広間を見せてくれるから、そこにわたしたちのために準備をしておきなさい」と、考えて見ると実に不思議な御言葉を語られます。

何故かと言えば、「水がめを運ぶ男」とは、通常は有り得ないことだからです。水は重いので運ぶ場合は水がめではなく革袋にいれますし、たとえ水がめに入れたとしても重いので頭の上に乗せて運びます。それも通常は女性の仕事であり、男性は行いません。ですから、「水がめを運ぶ男」とは、極めて異常な目立つ姿であり、そこで、イエスが既に手配をして予め打ち合わせていた「目印であった」と考えることが出来るとも言われています。

あるいは、11章2節以下に記されていたベタニアの村で「先の村に繋いである子ロバ」を予見されたように、主イエスには、将来起こることを見通す不思議な力「予知能力」が備えられていた、と解釈する人もいます。

それについては、聖書は何も記していません。大切なことはただ一つ。これは神の御業であり、すべては主イエスが言われたとおりになる。これが福音書が告げることであり、神の御業がすべてであることを聖書はここに語っているのです。

16節にある「イエスが言われたとおりだった」のです。これがマルコが語る中心をなすテーマです。聖書を読むとき、いつも、この「イエスが言われたとおりであった」という御言葉こそを聞かなければなりません。

聖書は、単なる歴史文書ではありません。「~が起こった」という客観的な記録ではありません。また、聖書は教訓の書でもなく、「~せよ」という抽象的な勧告でもありません。「すべては御言葉のとおりであった」「神の約束は本当に真実なものであった」という驚きの証言なのです。

本日のマルコ福音書の語るメッセージは、「過越の小羊を屠る日が来た」という「神の時の宣言」です。

この「神の恵みの時の始まり」に示された「眼に見えるしるし」が、過越しの食事の用意をすることであったことは、主イエス・キリストの福音をさらにいっそう明確にしているのです。

主イエスがなされた御業の中に、罪人と呼ばれている人々との食事がありました。ファリサイ派の人々や律法学者たちが主イエスを強く非難したのは、徴税人であったアルファイの子レビたちとの食事でした(マル2:15-16)。

さらに、神の国のありさまを語る多くの教えが、晩餐会や宴会にたとえられていることもよく知られている通りです。また、初代教会では、礼拝が夜であることが多かったこともあり、コリント教会などでは、礼拝は必ず食事を伴って行われていました。これが後に「愛餐」と呼ばれるようになりました。

食事が何故これほど大切に考えられていたのでしょうか。食事を共にするのは家族です。食事を共にするということが、「交わりそのもの」「新しい家族」の形成を意味したからです。

ユダヤ人には食事に関するさまざまな規定があり、他の民族の人とは決して同じテーブルで食事をしないとされていました。信仰という同じ恵みを与えられた者同志だけが食卓を共にするのです。何故なら、食事とは、本来、家族が共に摂るものであり、それは単に「空腹を満たす」ということだけでなく、家族同士のように「人と人」「人と神」の交わりの場でもあると考えられていたからです。

今、「食事の場をイエス御自身が用意された」と語られるとき、それは「主によって招かれた新しい交わりの場が用意されている」ということであり、すべての者を招く「神の食卓が備えられている」ということを示しているのです。それが過越の食事であるとするならば、主の御業の意味は明らかです。

私たちの救いの確かさとは、単なる、罪の奴隷からの解放ということにとどまらず、主イエス・キリストが用意された「神の家族の食卓」「神の国の交わりの場」への招きであるということなのです。

神の独り子、キリスト・イエス御自身が、身代わりの小羊となって血を流されることにより、「神の国の食卓への招待状」を私たちに与えて下さったのです。

この恵みを思うとき、「すべてはイエスが言われた通りであった」という聖書の告知は、まさに、私たちの希望と喜びです。主イエス・キリストが用意された「神の家族の食卓」「神の国の交わりの場」へ、お一人でも多くの家族や友人の方々と共に招かれ、共に与りましょう。

お祈りを致します。

御心の実現のために

主日礼拝

齋藤 正 牧師

《賛美歌》

讃美歌136番
讃美歌355番
讃美歌517番

《聖書箇所》

旧約聖書:出エジプト記 12章21-36節 (旧約聖書112ページ)

◆主の過越

12:21 モーセは、イスラエルの長老をすべて呼び寄せ、彼らに命じた。「さあ、家族ごとに羊を取り、過越の犠牲を屠りなさい。
12:22 そして、一束のヒソプを取り、鉢の中の血に浸し、鴨居と入り口の二本の柱に鉢の中の血を塗りなさい。翌朝までだれも家の入り口から出てはならない。
12:23 主がエジプト人を撃つために巡るとき、鴨居と二本の柱に塗られた血を御覧になって、その入り口を過ぎ越される。滅ぼす者が家に入って、あなたたちを撃つことがないためである。
12:24 あなたたちはこのことを、あなたと子孫のための定めとして、永遠に守らねばならない。
12:25 また、主が約束されたとおりあなたたちに与えられる土地に入ったとき、この儀式を守らねばならない。
12:26 また、あなたたちの子供が、『この儀式にはどういう意味があるのですか』と尋ねるときは、
12:27 こう答えなさい。『これが主の過越の犠牲である。主がエジプト人を撃たれたとき、エジプトにいたイスラエルの人々の家を過ぎ越し、我々の家を救われたのである』と。」民はひれ伏して礼拝した。
12:28 それから、イスラエルの人々は帰って行き、主がモーセとアロンに命じられたとおりに行った。

◆初子の死

12:29 真夜中になって、主はエジプトの国ですべての初子を撃たれた。王座に座しているファラオの初子から牢屋につながれている捕虜の初子まで、また家畜の初子もことごとく撃たれたので、
12:30 ファラオと家臣、またすべてのエジプト人は夜中に起き上がった。死人が出なかった家は一軒もなかったので、大いなる叫びがエジプト中に起こった。
12:31 ファラオは、モーセとアロンを夜のうちに呼び出して言った。「さあ、わたしの民の中から出て行くがよい、あなたたちもイスラエルの人々も。あなたたちが願っていたように、行って、主に仕えるがよい。
12:32 羊の群れも牛の群れも、あなたたちが願っていたように、連れて行くがよい。そして、わたしをも祝福してもらいたい。」
12:33 エジプト人は、民をせきたてて、急いで国から去らせようとした。そうしないと自分たちは皆、死んでしまうと思ったのである。
12:34 民は、まだ酵母の入っていないパンの練り粉をこね鉢ごと外套に包み、肩に担いだ。
12:35 イスラエルの人々は、モーセの言葉どおりに行い、エジプト人から金銀の装飾品や衣類を求めた。
12:36 主は、この民にエジプト人の好意を得させるようにされたので、エジプト人は彼らの求めに応じた。彼らはこうして、エジプト人の物を分捕り物とした。

新約聖書:マルコによる福音書 14章1-11節 (新約聖書90ページ)

◆イエスを殺す計略

14:1 さて、過越祭と除酵祭の二日前になった。祭司長たちや律法学者たちは、なんとか計略を用いてイエスを捕らえて殺そうと考えていた。
14:2 彼らは、「民衆が騒ぎだすといけないから、祭りの間はやめておこう」と言っていた。

◆ベタニアで香油を注がれる

14:3 イエスがベタニアで重い皮膚病の人シモンの家にいて、食事の席に着いておられたとき、一人の女が、純粋で非常に高価なナルドの香油の入った石膏の壺を持って来て、それを壊し、香油をイエスの頭に注ぎかけた。
14:4 そこにいた人の何人かが、憤慨して互いに言った。「なぜ、こんなに香油を無駄遣いしたのか。
14:5 この香油は三百デナリオン以上に売って、貧しい人々に施すことができたのに。」そして、彼女を厳しくとがめた。
14:6 イエスは言われた。「するままにさせておきなさい。なぜ、この人を困らせるのか。わたしに良いことをしてくれたのだ。
14:7 貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるから、したいときに良いことをしてやれる。しかし、わたしはいつも一緒にいるわけではない。
14:8 この人はできるかぎりのことをした。つまり、前もってわたしの体に香油を注ぎ、埋葬の準備をしてくれた。
14:9 はっきり言っておく。世界中どこでも、福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう。」

◆ユダ、裏切りを企てる

14:10 十二人の一人イスカリオテのユダは、イエスを引き渡そうとして、祭司長たちのところへ出かけて行った。
14:11 彼らはそれを聞いて喜び、金を与える約束をした。そこでユダは、どうすれば折よくイエスを引き渡せるかとねらっていた。

《説教》『御心の実現のために』

主日礼拝において連続してマルコによる福音書を読み進めてきました。いよいよ、この14章から受難物語となります。主イエスが、捕えられ、十字架につけられて殺される、その苦しみと死を語って行く箇所に入るのです。

14章1節に「さて、過越祭と除酵祭の二日前になった」とあります。これは、主イエスの十字架の死の二日前ということです。この祭りの真っ最中に主イエスは十字架にかけられたのです。ユダヤの指導者であった祭司長たちが「民衆が騒ぎだすといけないから、祭りの間はやめておこう」と言っていたのに、主イエスの十字架の死がこの祭りの最中に起こったということは重要です。様々な成り行きの中で、主イエスの十字架は彼らの計画よりも早くなったのです。それは、人間の様々な思いや事情を超えて働く父なる神様の御心によることでした。その主なる神の御心の意味を今日は考えたいと思います。

過越祭と除酵祭とは、どういう祭りだったのでしょうか? それは、本日共に読まれた旧約聖書の出エジプト記第12章に語られています。

「過越祭」とは、エジプトで奴隷とされていたイスラエルの民を主なる神が救い出して下さったことを記念する祭りです。イスラエルの民を去らせようとしなかったエジプト王ファラオが、ついに彼らの解放を認めたのは、神の使いがエジプト人の長男と、最初に生まれた雄の生き物を全て殺すという恐るべき災いを下されたからでした。その時、イスラエルの民の家では、小羊が犠牲として殺され、その血が戸口に塗られたのです。その血の印のある家を、神の使いは通り過ぎて、つまり過ぎ越して、何の災いも下しませんでした。イスラエルの人々は、この小羊の犠牲の血によって災いから守られ、エジプトから脱出することが出来たのです。そのことを記念して、「過越の小羊」と呼ばれる羊の血を戸口に塗り、その肉を食べるのが「過越祭」です。出エジプト記12章26節以下に、過越祭の食事の席で、「この儀式にはどういう意味があるのですか」と子供たちが問い、それに対して親は「これが主の過越の犠牲である。主がエジプト人を撃たれたとき、エジプトにいたイスラエルの人々の家を過ぎ越し、我々の家を救われたのである」と答えなさいとあります。親から子へと、主なる神の救いの恵みが語り継がれ、継承されていったのです。

また「除酵祭」とは、この過越祭に続いて七日間守られる祭りです。パン種つまり酵母を入れず膨らませないで焼いたパンを食べるので酵母を除く祭と書いて「除酵祭」と呼ばれています。その意味は出エジプト記12章33節以下にあるように、「エジプト人は、民をせきたてて、急いで国から去らせようとした。そうしないと自分たちは皆、死んでしまうと思ったのである。民は、まだ酵母の入っていないパンの練り粉をこね鉢ごと外套に包み、肩に担いだ」とありました。つまりイスラエルの民は、酵母を入れて発酵させている暇がないほど急いでエジプトを脱出したので、そのエジプト脱出を記念して除酵祭が行われるのです。

本日のマルコ福音書の聖書箇所は、お聞きになってすぐに明らかなように、二つの部分から成り立っています。第一の部分は1節と2節、それに10節から11節に分けて記されている「ユダの裏切り」の物語です。もう一つは、その間に挟まれた3節~9節の「ナルドの香油」の物語です。

この、一見関係のなささそうな二つの物語を通して、神の御前に立つ人間の姿、人間の前に立つキリストの御姿を合わせて考えることが今日の大切なテーマです。

主イエスは、エジプトでの奴隷生活からイスラエルを解放するために子羊の血が必要であったように、今、罪に囚われている人々を解放するために、御自分の血を流す決意をしておられるのです。そして、その「十字架の時」、歴史の中でもはや二度と繰り返されることのない「決定的な時」を、記念すべき過越祭の日に神が定められたのです。神の御計画による緊迫した「時の接近」であるとマルコ福音書は記しているのです。

しかし一方で、この「神の時」に対して、祭司長や律法学者たちユダヤ人の指導者たちは、この祭りの間は主イエスを手にかけることを延期しようと考えていました。彼らは、彼らなりに最善の手段を考えていたのでしょう。過越の祭には、世界中からユダヤ人が集まって来ます。世界各地に散っていた人々は、この日を待ちかねてエルサレムに帰り、普段は2万5千人程の町に「300万人が集まった」と、紀元60年当時を歴史家ヨセフスは記しています。この時に、「イエスに同調する者がいて騒いだら大変なことになる」と心配した祭司長たちは、もっとも混乱の少ない時を選ぶべきであるという政治的配慮をしたかったのでしょう。さらに、祭りをつかさどる者として、自分たちの責任が問われることがないために、「時」を延ばそうとしたのでしょう。人間の計画としては、「このときイエスを十字架につける計画はなかった」ということが、マルコ福音書14章2節の語るテーマであり、その人間の計画が崩れ、結局「神の御計画のとおりになった」ということが、最大のポイントなのです。そして、その重要な鍵となったのが「イスカリオテのユダ」でした。

「ユダが、何故イエスを引き渡したのか」ということについては、古くから、さまざまな説明がなされています。ある人は「金が欲しかったから」と言い、ある人は「サタンにとり憑かれた」と言います。いろいろな人がこの問題について語っており、その本音は聖書には何も書かれておらず、真実を、今となってはユダに聞くことも出来ません。

しかし明らかなことは、そして私たちにとってもっとも重要なことは、このユダの行為によって、「祭司長たちは自分たちの計画を変更せざるをえなかった」ということです。「その時が迫った」という主イエスの宣言に対して「時を延ばそう」という祭司長たち人間の計画が、ここにおいて一気に崩れてしまったのでした。

神が定められた「時」の前で、人間の計画や配慮など何の力を持たないことを、ここに認めなければなりません。祭司長たちの配慮が、ユダ一人のために簡単に崩れてしまったのです。神の御計画にあって人間の配慮などは、せいぜいこの程度のものなのです。

ユダの裏切りを 「祭司長たちは喜んだ」と記されています。彼らは「イエスを殺す」という自分たちの思いが達成されると喜んだのですが、しかしそれは「罪に仕える人間の敗北である」とマルコは語っているのです。「その時」を決定したのは主イエス御自身であり、主イエスは御自身を告発しようとしているユダのもくろみを知っておられながら、止めることもせず、弟子たちに妨害を命じることもなかったからです。

ルカによる福音書4章13節には、40日40夜にわたる荒野の誘惑の後に「悪魔はあらゆる誘惑を終えて、時が来るまでイエスを離れた。」と記していました。まさに、「時」が来たのです。このとき「ユダの中に、サタンが入った」のです。その意味では、「ユダの行為はサタンの働きの下にあり、イエスを十字架につけたのはサタンの導きによるものである」と言えるかもしれません。変えられたのは人間の計画であって、神の計画ではありません。むしろ、サタンの業が、「神の時を延ばそうとする人間の計画」を打ち砕いてしまった、神がサタンを用いて人間の計画を打ち砕いたのです。

「人間の思いと神の御計画」について、3節以下で更に「イエスがベタニアで重い皮膚病の人シモンの家にいて、食事の席に着いておられたとき、一人の女が、純粋で非常に高価なナルドの香油の入った石膏の壷を持って来て、それを壊し、香油をイエスの頭に注ぎかけた。そこにいた人の何人かが、憤慨して互いに言った。『なぜ、こんなに香油を無駄遣いしたのか。この香油は三百デナリオン以上に売って、貧しい人々に施すことができたのに。』そして彼女を厳しくとがめた。」と再び私たちに迫られるのです。

「ナルドの香油」とは、ヒマラヤ原産の植物の根から採るもので、非常に高価なものです。通常、石膏と訳されている「アラバスターの壷」に入れ、密封して保存します。大切な客があったときなど頭に数滴を注いだり、また金持ちは、埋葬の時などにも使用しました。5節によれば、壷一杯で300デナリオン以上と記されています。これは、当時の労働者300日分の給料ですから、現在の価値に換算して約200~300万円の高価なものです。

この女性の名前も、また何故このような思い切ったことをしたのかという理由も、マルコ福音書は語っていません。ここでこの女性の行動を見た人々が「憤慨した」とあります。ここで「憤慨した」と訳されている言葉は、「激しい怒り」という意味です。5節にその理由として、「貧しい人々への施し」がありますが、確かに三百デナリオンは当時の大金であり、それだけあれば大勢の人々に食料を与えることが出来たでしょう。ですから、それを一度に使い果たしてしまうということは「もつたいない」ということではあっても「激しい怒り」とは、どう言うことでしょう。それは、「貧しい人々への施し」という言葉の背景にあるもの、それが「無駄遣い」であり、「無意味」であるということです。ヨハネ福音書12章4節によれば、この怒った男はイスカリオテのユダであったと記されています。これが、ユダの言葉であったとするならば、「ユダにサタンが入った」とルカ福音書が語っている通りです。サタンの業とは、キリストに仕え・献げることを「無駄遣い」とすることだからです。

これがサタンにとり憑かれた者、罪の奴隷になっている者の姿です。「貧しい人々のため」とは耳に心地良い言葉ですが、その言葉でキリストに仕えることを妨げているのです。貧しい人々のことを考えているようで、実は、自分の主義主張・思想を守り、神に仕える者の足を引っ張るだけのものでしかないのです。

主イエスは、「するままにさせておきなさい。なぜ、この人を困らせるのか。わたしに良いことをしてくれたのだ。貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるから、したいときに良いことをしてやれる。しかし、わたしはいつも一緒にいるわけではない。この人はできるかぎりのことをした。つまり、前もってわたしの体に香油を注ぎ、埋葬の準備をしてくれた。はっきり言っておく。世界中どこでも、福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えられるであろう。」と言われました。しかし、この女性が「主イエスの葬りの準備」をしたのではないことは明らかです。この時、誰一人として、主イエスの死を考える者はいなかった筈です。彼女は、主イエスへの感謝を、「自分のすべて」を献げることで表したのでしたが、結果的には、主イエスにはこの後、埋葬に至るまで、誰も油を塗ることは出来ませんでした。主イエスに油を注いだ女性の行動は葬りへのはなむけになったのでした。主イエスは、迫り来る「最後の時」を目前にして、弟子たちの「人間の自己中心的な考え方」を、この女性の「すべてを献げ尽くす行為」を通して教えられたのです。

イスカリオテのユダが、何故、主イエスを引き渡したのか、また、この女性が、何故、あれ程までに主イエスに尽くしたのかを議論する必要もありません。聖書が語るのは、主イエス・キリストが、ただひたすらに、私たちの魂の救いの実現に向かわれたということです。主イエスを殺そうとする人間の意志も、主イエスの死を飾ることになった愛の行為も、すべては神の御心の通りに実現する救いの御業に用いられて行くだけなのです。神の御計画は、罪の中に生きる人間のあらゆる妨害にも拘らず、御心のままに実現して行くのです。

すべては神の御心でした。人はユダを裏切り者と呼びます。しかし、本当の裏切り者とは、この神の愛に背を向け、キリストの救いを邪魔だてする者のことです。言葉を持って表現しきれない程の神の愛を、今、私たちは受けているのです。この素晴らしい救いの恵みをお一人でも多くの方々に与って頂くために、私たちは「新しい生命」に行かされているのです。

私たちの愛する家族・友人がお一人でも救われますよう、お祈りを致しましょう。

聖霊の賜物

ペンテコステ礼拝

齋藤 正 牧師

《賛美歌》

讃美歌56番
讃美歌352番
讃美歌502番

《聖書箇所》

旧約聖書:詩篇 122篇1-9節 (旧約聖書969ページ)

122:1 主の家に行こう、と人々が言ったとき/わたしはうれしかった。
122:2 エルサレムよ、あなたの城門の中に/わたしたちの足は立っている。
122:3 エルサレム、都として建てられた町。そこに、すべては結び合い
122:4 そこに、すべての部族、主の部族は上って来る。主の御名に感謝をささげるのはイスラエルの定め。
122:5 そこにこそ、裁きの王座が/ダビデの家の王座が据えられている。
122:6 エルサレムの平和を求めよう。「あなたを愛する人々に平安があるように。
122:7 あなたの城壁のうちに平和があるように。あなたの城郭のうちに平安があるように。」
122:8 わたしは言おう、わたしの兄弟、友のために。「あなたのうちに平和があるように。」
122:9 わたしは願おう/わたしたちの神、主の家のために。「あなたに幸いがあるように。」

新約聖書:マルコによる福音書 3章20-30節 (新約聖書66ページ)

◆ベルゼブル論争

3:20 イエスが家に帰られると、群衆がまた集まって来て、一同は食事をする暇もないほどであった。
3:21 身内の人たちはイエスのことを聞いて取り押さえに来た。「あの男は気が変になっている」と言われていたからである。
3:22 エルサレムから下って来た律法学者たちも、「あの男はベルゼブルに取りつかれている」と言い、また、「悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」と言っていた。
3:23 そこで、イエスは彼らを呼び寄せて、たとえを用いて語られた。「どうして、サタンがサタンを追い出せよう。
3:24 国が内輪で争えば、その国は成り立たない。
3:25 家が内輪で争えば、その家は成り立たない。
3:26 同じように、サタンが内輪もめして争えば、立ち行かず、滅びてしまう。
3:27 また、まず強い人を縛り上げなければ、だれも、その人の家に押し入って、家財道具を奪い取ることはできない。まず縛ってから、その家を略奪するものだ。
3:28 はっきり言っておく。人の子らが犯す罪やどんな冒涜の言葉も、すべて赦される。
3:29 しかし、聖霊を冒涜する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う。」
3:30 イエスがこう言われたのは、「彼は汚れた霊に取りつかれている」と人々が言っていたからである。

《説教》『聖霊の賜物』

主イエスの周りには大勢の群衆が集まっていました。「一同は食事をする暇もない」と記されていますが、原文では「食事をすることも出来なかった」となっており、時間がないということではなく、押し寄せた群衆によって小さな家が一杯になり、「食事どころではなかった」ということだと思われます。主イエス・キリストの行くところ、主イエスに興味をもった人々で満ち溢れていたのが、初期のガリラヤ伝道でした。

また、ここに「一同」という言葉があります。原文は、そのまま「彼ら」です。この言葉を、日本の神学者で日本キリスト教会の指導的な牧師であり、カルヴァンの『キリスト教綱要』の翻訳者の渡辺信夫は「彼に属するものたち」と説明しています。聖書は弟子たちのことを「彼に属する者」即ち「キリストに属する者」と語り、人々の中心にいるのはキリストお一人であり、たとえ十二使徒であろうと、私たちの教会で言えば、牧師でも信徒でも、ただ等しくキリストに属している者に過ぎないと語っています。

この時、集まって来たユダヤ民衆は、主イエスに癒しの奇蹟などの超自然的な力を期待していただけに過ぎず、自分たちの眼に見える身近な幸福への願いを叶えて貰おうと集まって来ただけと言えましょう。

自分の要求を第一とする自己中心主義は、誰にでも有るものであり、現代の私たちも同じです。

21節から22節には、「身内の人たちはイエスのことを聞いて取り押さえに来た。『あの男は気が変になっている』と言われていたからである。エルサレムから下って来た律法学者たちも、『あの男はベルゼブルに取りつかれている』と言い、また『悪霊の頭の力で悪霊を追い出している』と言っていた。」と記されています。

主イエスが、病人を癒し、悪霊を追い出しているだけならば、家族の人々は「気が変になった」とは思わなかったでしょう。この時代、病気の治療と悪霊の追放を行う治療師や祈祷師は多くいました。ですから、自分たちの家族の一人が「神がかった力を身に付けた」と思ったとしても、「取り押さえに来る」ことはなかった筈です。ナザレからカファルナウムまで25Km余りで、石がごろごろしているガリラヤの山地です。歩けば丸一日かかります。31節を見れば、母マリアまで大変な思いで駆けつけて来たと思われます。何が、「狂った」と言われるほどに異常だったのでしょうか。

それは主イエスと弟子たち一行がそれまでの平凡な生活を捨てたことにあります。ペトロたちはガリラヤ湖での主イエスとの出会い以来、家も漁師の職業も捨て、主イエスに従いました。それは、これ迄の生活を守る堅実な生き方を否定する危険な思想のように受け取られても仕方ありません。

当時、主イエスは、多くの人々からバプテスマのヨハネの再来と見られました。それは、支配権力を認めず、新しい権威、新しい価値観を説いていたからです。ユダヤ民衆の指導者であった祭司や律法学者たちは民衆から尊敬され、大きな権限を持っていました。会堂・シナゴーグを中心としたユダヤ民衆の日常生活は、この伝統的な支配体制に依存していました。

しかし、主イエスの周りには、そんな伝統的社会で軽んじられていた人々が多く集まっていました。無学な漁師たち、イスラエル民衆から軽蔑されていた徴税人、危険思想を持つ熱心党員、更に、娼婦として蔑視されていた女性たちや難病に苦しむ人々、苦しい生活を強いられている未亡人たちなど、主イエスの周りに集まっていたのは伝統的な社会からはみ出した人々でした。そのため、主イエスと弟子たちは反社会的行動をしている革命家とも見做されたでしょう。

「神の国の到来」という福音を宣べ伝える主イエスの姿勢は、その時代の人々の生き方と全く異質に見えるものでした。それは、常識的な人生の価値観と共存出来るものではなく、現実の伝統的な社会体制の中を生きる者にとって「異質なもの」でした。

私たちの教会でも時折、「私がイエスの時代に生まれ、イエスの説教を直接聴いたら、もっと素晴しい信仰者になった」と言う人がいますが、それは、どうでしょうか。主イエスの御言葉を聴かされる者は、自分が過去に守って来た大切なものを否定する言葉を聴くのです。福音は、それまでの生活の流れを徹底的に変えることを要求します。主イエスの家族は、明らかに「過激だ、行き過ぎだ」と思ったのです。

「気が狂った」とは、「正常な人間の世界の中にあるものとは認められない」ということです。主イエスが過去の生活の全てを捨てて、神の御計画に従うということは「昨日までの生活と異なる毎日を生きるか」ということなのです。律法学者たちが主イエスがなされた数々の奇蹟の御業を見て、そこに偉大な力を認めながら、それでもなお、それが悪霊との結び付きとしか言えないのも、主イエスの家族と同じです。自分の考え、自分の生き方に合わないもの全てを、「まともではない」と決め付けているのです。

主イエスを愛する家族たちも、主イエスを憎む律法学者たちも、主イエスに対する対応が同じであるならば、それは、個人の感情的な問題ではなく、まさに人間の持つ罪の本質的な姿と言う以外ありません。

福音とは、神様に背を向けた人間の眼には、「狂っている」としか見えないようなことがあるのです。

更に23節から27節で主イエスは、「どうして、サタンがサタンを追い出せよう。国が内輪で争えば、その国は成り立たない。家が内輪で争えば、その家は成り立たない。同じように、サタンが内輪もめして争えば、立ち行かず、滅びてしまう。また、まず強い人を縛り上げなければ、だれも、その人の家に押し入って、家財道具を奪い取ることは出来ない。まず縛ってから、その家を略奪するものだ。」と言われました。

サタンがサタンに対して反抗しては、サタンではありません。国でも家でも、内輪の争いが起ったら、存続は不可能です。これは、「悪霊の頭ベルゼブルに取りつかれている」という主イエスへの批判に対するの論駁で、27節の「強い人」とは、その悪霊を指しています。悪霊は、その力で人々を「罪と死の奴隷」にし、まるで「家財道具」のようにその「家」自分自身の中に閉じ込めているのです。悪霊である「強い人」の家に押し入り、その支配下にある「家財道具を奪い取る」とは、「悪霊に縛られている人を解放する」ことです。そのためには、まず「強い人」を縛り上げる強い力が必要であると言われているのです。

主イエスは御自分の正しさを行いを持って現わされました。「正しさ」とは、私たちが、今、どのように生きているかという「存在の正しさ」です。「存在の正しさ」とは、世のため、人々のため、教会のために、どれだけ尽くして来たかということではありません。どれ程人を愛して来たかということでもありません。

その全ては、「何のためになされて来たのか」ということに尽きるのです。

28節から29節にかけて、主イエスは大変理解し難いことを言われました。「はっきり言っておく。人の子らが犯す罪やどんな冒涜の言葉も、すべて赦される。しかし、聖霊を冒涜する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う。」と「聖霊」に拘ったことを言われました。

この世で人間の犯す全ての罪は赦される、しかし、聖霊を汚す者だけは永遠の罰に定められるとあります。それは何故でしょうか。

聖霊なる神とは、キリストから遣わされて私たちのところに来られた「助け主」です。神様の赦しを伝達されるのは聖霊です。聖霊を拒否する者は、聖霊を通して与えられる神の赦しを拒否する者であり、神の赦しを拒否する者は最終的な裁き「滅び」を受けざるを得ないのです。言い方を替えれば、福音を信ずるならば全ての人間は救われるのであり、滅びる者は、自分から赦しを拒否して破滅への道を進んでいくのです。

私たちは、キリストに属する者、キリストの弟子として聖霊を通して教会に集められ召された者であり、聖霊の導きを受けキリストの救いの御心が、全ての人々に対して向けられている、ということを証しする者です。

私たちは、永遠の神の御国に向かう新しい生き方に変えられた者として、聖霊に導かれ、世の人々の前、とりわけ愛する家族・友人に、愛なる神の救いの御心を伝える者となるのです。

今日の、この聖霊降臨日、豊かな力ある聖霊に導かれていることを深く覚え、聖餐の恵みに与りましょう。

お祈りを致しましょう。