時が来た

主日礼拝

齋藤 正 牧師

《賛美歌》

讃美歌75番
讃美歌150番
讃美歌532番

《聖書箇所》

旧約聖書:出エジプト記 12章編40-42節 (旧約聖書1,079ページ)

12:40 イスラエルの人々が、エジプトに住んでいた期間は四百三十年であった。
12:41 四百三十年を経たちょうどその日に、主の部隊は全軍、エジプトの国を出発した。
12:42 その夜、主は、彼らをエジプトの国から導き出すために寝ずの番をされた。

新約聖書:マルコによる福音書 14章32-42節 (新約聖書92ページ)

◆ゲツセマネで祈る

14:32 一同がゲツセマネという所に来ると、イエスは弟子たちに、「わたしが祈っている間、ここに座っていなさい」と言われた。
14:33 そして、ペトロ、ヤコブ、ヨハネを伴われたが、イエスはひどく恐れてもだえ始め、
14:34 彼らに言われた。「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、目を覚ましていなさい。」
14:35 少し進んで行って地面にひれ伏し、できることなら、この苦しみの時が自分から過ぎ去るようにと祈り、
14:36 こう言われた。「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」
14:37 それから、戻って御覧になると、弟子たちは眠っていたので、ペトロに言われた。「シモン、眠っているのか。わずか一時も目を覚ましていられなかったのか。
14:38 誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えても、肉体は弱い。」
14:39 更に、向こうへ行って、同じ言葉で祈られた。
14:40 再び戻って御覧になると、弟子たちは眠っていた。ひどく眠かったのである。彼らは、イエスにどう言えばよいのか、分からなかった。
14:41 イエスは三度目に戻って来て言われた。「あなたがたはまだ眠っている。休んでいる。もうこれでいい。時が来た。人の子は罪人たちの手に引き渡される。
14:42 立て、行こう。見よ、わたしを裏切る者が来た。」

《説教》『時が来た』

主イエスと弟子たちが最後の晩餐を終え、エルサレム市街を出てオリーブ山へと向かったのはもう夜更けでした。本日の聖書箇所の最後42節に、「立て、行こう。見よ、わたしを裏切る者が来た」とあり、主イエスを裏切ったユダに手引きされた人々がこの後やって来て主イエスは逮捕されます。夜が明けてから裁判が行われ、その日の内に主イエスは十字架につけられて殺されるのです。この苦しみと死を目前にして主イエスはここで祈られました。ゲツセマネとはヘブライ語で「油絞り」と訳される言葉で、エルサレム市街を囲む城壁の門を出てキドロンの谷をこえてオリーブ山への道を300m程上ったところに今もあります。

今日の聖書箇所のテーマは、先週の説教と同じ、先週のコイノニア会とも同じ「祈り」です。最後の食事を終えた主イエスは、弟子たちを連れてこの場所に「祈り」に来られました。そして、八人の弟子たちを入口に留め、ペトロ、ヤコブ、ヨハネの三人だけを連れてゲッセマネの園の中に入り、次に、ペトロたちを残して、お一人でさらに奥へ入って行かれ祈り続けられたと記されています。

ゲツセマネの園の物語は、主イエス御自身が選ばれた弟子たちの物語でもあり、主イエスが「ここで待て」と言われたとき、待つことの大切さも語られているのです。

今、神の御業の頂点とも言うべき十字架の前の時に、主イエスに選ばれ、主イエスに後を託される者が、どのように御心に応えたのか。今日のゲッセマネの出来事は、「痛恨の物語」でもあります。

33節に主イエスが「ひどく恐れてもだえ始め」とありますが、口語訳では「恐れおののき、また悩み始めて」と訳されており、また文語訳では「いたく驚き、かつ悲しみ出でて」と訳されています。また、34節には「わたしは死ぬばかりに悲しい」と語られており、ルカ福音書では、ここのところに「汗が血の滴るように地面に落ちた」という言葉を加えています(ルカ22:44)。これは、主イエスが、決して落ち着いて平静ではなかったことを示していると言えましょう。

多くの殉教物語やギリシャの哲学者ソクラテスなど偉人の物語は、落ち着いて死に直面、粛々と死を受け入れる人物を多く描いています。しかし主イエスは、偉人の死の固定観念をもっていません。主イエスの死は、父なる神のご意志に従うことを苦しむ、一人の人間の苦悩として私たちに伝わってきます。主イエスは、この死の時が過ぎ去ること、杯が取り除かれることを願っているのです。主イエスは、十字架の苦難を望んでいません。父なる神の目的が実現することを望んではおられますが(10:45)、しかしできるならば何か別の方法でこれが実現することを望まれています。しかし、主イエスの崇高なご意志により、父なる神の御計画が成し遂げられるようにと、「わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように」(36)と祈られているのです。死に直面し苦悩する主イエスの姿は聖人・偉人の死に向かう姿と比較され多くの人々から疑問を投げ掛けられていると言えましょう。

私たちは、このゲツセマネの主イエスの姿に読み取る時に「死を恐れる主イエス」を見てはいないでしょうか。しかし、よくよく読んでみましょう。十字架へ向かう主イエスの御姿を仰ぐ時、何処に「死を恐れる主イエス」が描かれているのでしょうか。

33節に記されている「恐れてもだえ始め」を、主イエス御自身の死に対する恐れと見るところに、根本的な誤ちがあります。ご自身の十字架を過越の祭りの時に実現しようと決心されたのは、主イエス御自身でした。大祭司を初めとする人間たちの計画では、「祭りの間はやめておこう」(14:2)ということでしたが、主イエスご自身がイスカリオテのユダの密告を許したため、急遽この時になったものです。十字架への道は、主イエス御自身の意志によって選び取られた道であったのです。

つまり、主イエスの十字架を目前にしての苦しみを、「この私たち、自分自身の問題である」ということに気付かない人には、所詮、ゲツセマネの主イエスの祈りは理解できないでしょう。

聖書に記されている「死」とは、神の信頼を裏切り、神の愛に背を向けた人間の罪に対する「神の裁き」です。その「神の裁き」をご自身が受け止め、人が赦されるために世に来られたのが、御子イエス・キリストでした。

主イエスの十字架の苦しみは、神の御子イエス御自身の死の問題ではなく、神の独り子が十字架に架けられなければならない程の人間の罪の深さに向けられた、神の怒りの激しさに直面する「恐れ」なのです。

それは、36節で主イエスが、「御心に適うことが行われますように」と祈られていることからも分かります。「御心のままに」という神への服従こそ、人間にとってもっとも正しい道だからです。

ソクラテスは自分の信念のために死にました。誰のためでもなく、自分の主張を覆すことをせず、自分の意志を貫きとおすために毒杯をあおったのです。言わば、「自分が播いた種であった」とも言えるでしょう。

しかし、主イエス・キリストは、一体、誰のために、何のために十字架につけられたのでしょうか。

神の裁き・怒りは、罪なき神の御子主イエスには、向けられる筈がありません。私たちの罪に対する神の裁きを、ご自身の身に受けようとされる主イエスの愛が、御自身を苦しめているのです。主イエスは、すべての人の罪を一身に引き受け、私たちが受けなければならない「罪がもたらす苦しみ」を、神の御前に祈り続けてくださっているのです。

弟子たちも含めた人々の救いのために「もだえ苦しみ」ながら祈り続けられる主イエス、そんな時に「弟子たちは眠っていた。」(37)のです。実に情けない姿と言わざるを得ません。これが、十字架と復活の出来事を全世界に宣べ伝えさせるべく主イエスご自身が選ばれた人々だったのです。

主イエスが選び、親しく教え、宣教の務めのすべてを託そうとしている人物です。主イエスの召しに応え、家を棄て、仕事も棄て、文字通り寝食を共にし、各地を巡り歩いて来た弟子たちです。

その弟子たちが、石を投げれば届くほどの近いところで、主イエスが血の汗を流して祈っている時に、居眠りをしていたというのです。主イエスの御苦しみを、誰も共に受けようとはしなかったのです。彼らは、何故、眠ってしまったのでしょうか。

38節で主イエスは「心は燃えても、肉体は弱い」と、人間の意志と行いのアンバランスを指摘されています。

「キリストに奉仕したい」「永遠の生命を得たい」と私たちは願います。勿論このように志すことは結構なことであり、その意欲が強いことは素晴らしいことでしょう。

しかし、そう願いながらも、現実にはパウロがローマの信徒への手紙7章19節で語るように、「善をなそうとする意思はありますが、それを実行できない」のが弟子たちであり、私たちなのです。神に選ばれた者のもっとも大切な場面で、その自覚がないまま、「眠り」という情けない誘惑に身を委ねてしまうのが、私たちの現実の姿ではないでしょうか。

かくして、十字架の御業に加わるべき機会すら、選ばれた弟子たちは失ってしまいました。初めに述べた「痛恨の物語」とはこのことなのです。ここにある主イエスの孤独な悲しみ・苦しみは、まさに、十字架が必要な人間の「罪の現実の姿」そのものであったのです。

苦しい祈りを続けられて三度目に戻って来て情けない弟子たちの姿を見て、主イエスは、更に強く決心されました。41節で「時が来た」と主イエスは言われました。「何度言っても頼りにはならない」と見切りを付けられたのではありません。「何たることか」と叱られたのでもありません。そうではなく、この御言葉は父なる神の御計画のとおり進んでいるという宣言なのです。神が定められた「時」とは、弟子たちも含めた人間を暗黒の「罪の時」から、「救いの時」に変えることでした。

40節に弟子たちが、「イエスにどう言えばよいのか、分からなかった」と記されています。寝ぼけ眼で、何がなんだか分からずにいる人間の前に、「神の時」は訪れるのです。

その「神の時」のために、主イエスが、ただ御一人、この夜、祈り続けて下さったのです。

遠い昔、イスラエルの民がエジプトでの奴隷の苦しみから解放された日のことを、先程司式者にお読み頂いた旧約聖書出エジプト記に、明確に記されています。「主は、寝ずの番をされた」。主イエス・キリストの御業をかつてのイスラエルの民の出エジプトになぞらえ、「第二の出エジプト」と表現されているのです。エジプト脱出の「あの夜の寝ずの番」は、ゲツセマネの主イエスの寝ずの祈りなのです。

眠ってしまうすべての人々の救いのために、主イエスは、ただ御一人、「寝ずの番」「寝ずの祈り」をしてくださったのです。神が定められた「十字架の救い」の前に、弟子たち、私たちがなすべきことは「祈り」以外には何もありません。

主イエスは「祈りなさい」と言われ続けているのです。このゲツセマネの夜、主イエス・キリストが弟子たち、私たちに命じられたのは、「祈れ」「祈り続けよ」ということだけでした。

「祈り」は生きて働いておられる神様・イエス様との対話です。神様は必ず私たちの祈りを聞いてくださいます。神様からの答えが必ずあります。私たちは、神様のため、教会のため、愛する家族や隣人のため、祈り続ける者でなければなりません。

お祈りを致しましょう。

神は速やかに裁かれる

主日CS合同礼拝

齋藤 正 牧師

《賛美歌》

讃美歌15番
讃美歌54番
讃美歌494番

《聖書箇所》

旧約聖書:詩編 22編1-3節 (旧約聖書852ページ)

22:1 【指揮者によって。「暁の雌鹿」に合わせて。賛歌。ダビデの詩。】
22:2 わたしの神よ、わたしの神よ/なぜわたしをお見捨てになるのか。なぜわたしを遠く離れ、救おうとせず/呻きも言葉も聞いてくださらないのか。
22:3 わたしの神よ/昼は、呼び求めても答えてくださらない。夜も、黙ることをお許しにならない。

新約聖書:ルカによる福音書 18章1-8節 (新約聖書143ページ)

◆「やもめと裁判官」のたとえ

18:1 イエスは、気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教えるために、弟子たちにたとえを話された。
18:2 「ある町に、神を畏れず人を人とも思わない裁判官がいた。
18:3 ところが、その町に一人のやもめがいて、裁判官のところに来ては、『相手を裁いて、わたしを守ってください』と言っていた。
18:4 裁判官は、しばらくの間は取り合おうとしなかった。しかし、その後に考えた。『自分は神など畏れないし、人を人とも思わない。
18:5 しかし、あのやもめは、うるさくてかなわないから、彼女のために裁判をしてやろう。さもないと、ひっきりなしにやって来て、わたしをさんざんな目に遭わすにちがいない。』」
18:6 それから、主は言われた。「この不正な裁判官の言いぐさを聞きなさい。
18:7 まして神は、昼も夜も叫び求めている選ばれた人たちのために裁きを行わずに、彼らをいつまでもほうっておかれることがあろうか。
18:8 言っておくが、神は速やかに裁いてくださる。しかし、人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見いだすだろうか。」

《説教》『神は速やかに裁かれる』

今日は教会学校との合同礼拝で、ルカによる福音書からご一緒にお読みします。今日のテーマは、私たちキリスト者にとって大切な「祈り」です。本日礼拝後に開かれる「コイノニア会」のテーマも「祈り」です。この「祈り」について本日はしっかりと御言葉を聞きましょう。

祈りとは、神様を信じる者のしるしです。信仰がなくても聖書の学びはでき、信仰のない聖書学者も現実に数多く居ます。献金や奉仕も信仰がなくてもやる気さえあれば誰でもできます。しかし人に聞かせる形だけの祈りではなく、信じて心から神様に祈ることは、信仰がなければ決してできません。祈りは信仰者の証です。

祈りは生きて働いておられる神様との対話です。神様が祈りを求めてくださり、きちんと耳を傾けてくださるから祈るのです。私たちの祈りは、空中で空しく消えてしまうような独り言ではないのです。

先ず今日の聖書物語はイエス様が直接された譬え話です。ここに登場する「やもめ」とは夫に先立たれた妻のことです。昔は女性がひとりで生きて行くのがとても大変でした。誰も守ってくれなかったからです。この話、自分本にの悪い裁判官に弱い立場のやもめが必死に願い求める話です。

ある町に、神様の言うことはもちろん、誰の言うことも聞かない、悪い裁判官がいました。裁判官とは、裁判を開いて誰が悪い、誰は悪くないと大事なことを決める人のことです。しかもこの裁判官は誰の言うことも聞かないで、自分にお金をくれる人のためになる裁判をしていたのです。

その悪い裁判官のところに、ひとりのやもめが訴えをもってやってきました。彼女は、この裁判官に正しい裁判をして、自分を守ってもらおうとしたのです。でも、この裁判官は、お金を持っていないやもめでは自分が得をしないので、相手にしませんでした。

しかし、やもめはあきらめませんでした。何回も何回も裁判官のところに来て、正しい裁判をしてくださいとお願いをしたのです。とうとう裁判官は言いました。「あのやもめはうるさくて仕方がない。このままだともっとひどいことになるかも知れないから彼女のためになる裁判をしてやろう」といって正しい裁判をしました。こうしてやもめは悪い人から守られたのです。

イエス様は、裁判官とやもめの譬えを用いることによって、神様に従って来た者たちのためには「速やかに裁かれる」(8)ことを示されたのです。ルカによる福音書では、時には、この悪い裁判官ように褒められべきではない人物が譬えとして登場します。聖書の譬え話ですから、私たちは不正な裁判官イコール神様という単純な譬えと考えがちです。この譬えはルカ11章5節以下の真夜中に訪ねて来た旅行中の友達のために隣の友人にパンを借りに諦めずに熱心に願う譬えによく似ています。どちらの物語も、イエス様ご自身が祈りは粘り強く続けなさいと言われているのです。神様の沈黙に対して祈りとはどうあるべきかを語られているのです。

 

イエス様がこの話をなさったのは、1節の最初に語られているように、「気を落とさずに絶えず祈らなければならない」と、私たちが諦めないで祈りを続けるように励ますためです。悪い裁判官でさえ、何度も何度もお願いをすれば聞いてくれる。まして神様は私たちの願いを速やかに聞いてくださり、必ず正しい裁きをしてくださると、イエス様は言われたのです。でも、私たちは、どうしても神様に聞いていただきたいお願いがあってお祈りをしても、聞いていただけないと思うことがあります。いくらお祈りしても何も変わらないように思えるときです。そういう時には、まるで自分が弱いやもめになったような気持ちになります。やもめが、誰の言うことも聞かない悪い裁判官にお願いをしているように感じて、いくら祈っても無駄だという思いになるのではないでしょうか。そう考えると、この譬え話をなさったイエス様は、私たちが祈りを聞かれないでがっかりすることを、よくご存じなのです。

今日のやもめが求め続けたことは「正しい裁き」が行われることです。地位や権力、お金がある者たちだけが守られ幸福になるのではなく、弱い者、貧しい者たちの正当な権利が守られ、支えられる、正しい裁きが行われることです。それは言い換えれば、そのような正義によってこの社会が支配されることです。私たち信仰者も、同じことを願い、祈り求めています。神様のご支配とその正しい裁きが行われることを、祈り願いつつ私たちは生きているのです。神を恐れず人を人とも思わない力が支配しているこの世において、私たちが気を落とさずに絶えず祈り続けていくことができるのは、目に見える現実の背後で、神様こそがこの世を支配しておられることを信じているからです。

8節の後半に「しかし、人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見いだすだろうか」と不思議な御言葉があります。「人の子が来るとき」という言葉から、ここが17章20節から続く「神の国が来る」という一連の話であることが分かります。「神の国が来る」とは、「人の子が現れる」ことで、「人の子」とはイエス様のことです。「人の子」イエス様が、再び、この世に来られる、しかもそれは、稲妻が大空の端から端へと輝くように起こる、そしてその時に、救われる者と滅びる者、命を保つ者とそれを失う者とがはっきりと分けられる、裁きが行われるということが語られています。それが、最後の8節に語られている「神が裁いて下さる時」です。神の国の完成の時です。その時、人の子は「果たして地上に信仰を見いだすだろうか」と言っておられるのです。その「信仰」とは、18章9節からの「ファリサイ派の人と徴税人のたとえ」でイエス様の御言葉で、「二人の人が祈るために神殿に上った。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人だった。ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。『神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。』 ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』 言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」と二人の信仰者の「祈り」について教えられているのです。主イエスがもう一度来て下さることによる神の国を信じて、この世の目に見える現実によって気を落とさずに絶えず神の国を目指して祈るのです。そのような祈りに生きることこそ、主イエスによって既に到来している神の国を信じて、未だ実現していないその完成を待ち望む私たちの信仰のあるべき姿なのです。

私たちがこのやもめのように、神の国の完成、神による正しい裁きの実現を信じて、神を恐れず人を人とも思わない力が支配しているこの世の現実の中で、気を落とさずに絶えず祈り続けていく信仰のあるべき姿にこそ、神の国の完成を指し示すしるしがある、と語られているのです。

本日の聖書箇所の譬え話は、単にあきらめずに祈り続けよという教えであるだけでなく、イエス様によって到来した神の国を信じ、この世の終わり終末にイエス様が再び来て下さり「神の国が完成」することを待ち望みつつ祈り続ける信仰を教えられていることが分かります。そして、私たちがこの世の現実の中で、神の国を、つまり神様のご支配を垣間見ることができるのは、気を落とさずに絶えず祈るときなのだ、ということをも示されているのです。

ルカはイエス様が一晩中祈られていた(6:21他)ことを何度も述べています。ルカ22章には「イエスは苦しみもだえ、いよいよ切に祈られた。汗が血の滴るように地面に落ちた」(22:44)とあります。

私たちの祈りは一方的な独り言ではありません。祈りは神様との対話です。神様は必ず私たちの祈りを聞いてくださいます。神様からの答えが必ずあります。答えを示されたら、私たちはそれに従うのです。

私たちも、神様のため、教会のため、愛する家族を中心とした隣人のため、祈り続ける者でありますよう、お祈りを致します。

つまずきを越えて

主日礼拝説教

齋藤 正 牧師

《賛美歌》

讃美歌19番
讃美歌142番
讃美歌352番

《聖書箇所》

旧約聖書:ゼカリヤ書 13章7-9節 (旧約聖書1,493ページ)

13:7 剣よ、起きよ、わたしの羊飼いに立ち向かえ/わたしの同僚であった男に立ち向かえと/万軍の主は言われる。羊飼いを撃て、羊の群れは散らされるがよい。わたしは、また手を返して小さいものを撃つ。
13:8 この地のどこでもこうなる、と主は言われる。三分の二は死に絶え、三分の一が残る。
13:9 この三分の一をわたしは火に入れ/銀を精錬するように精錬し/金を試すように試す。彼がわが名を呼べば、わたしは彼に答え/「彼こそわたしの民」と言い/彼は、「主こそわたしの神」と答えるであろう。

新約聖書:マルコによる福音書 14章26-31節 (新約聖書92ページ)

◆ペトロの離反を予告する

14:26 一同は賛美の歌をうたってから、オリーブ山へ出かけた。
14:27 イエスは弟子たちに言われた。「あなたがたは皆わたしにつまずく。『わたしは羊飼いを打つ。すると、羊は散ってしまう』/と書いてあるからだ。
14:28 しかし、わたしは復活した後、あなたがたより先にガリラヤへ行く。」
14:29 するとペトロが、「たとえ、みんながつまずいても、わたしはつまずきません」と言った。
14:30 イエスは言われた。「はっきり言っておくが、あなたは、今日、今夜、鶏が二度鳴く前に、三度わたしのことを知らないと言うだろう。」
14:31 ペトロは力を込めて言い張った。「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません。」皆の者も同じように言った。

《説教》『つまずきを越えて』

マルコによる福音書は、いよいよ主イエスが捕えられる場面を迎えようとしています。主イエスが弟子たちと共に取られた「最後の晩餐」が終わり、26節に「一同は賛美の歌をうたってから、オリーブ山へ出かけた」とあります。この「賛美の歌」とは、過越の食事の終わりに歌われる詩編のことです。その賛美の歌を歌ったことで過越の食事「最後の晩餐」は終わり、一同はエルサレムの市街を出て、キドロンの谷を越えた向こう側にあるオリーブ山へと向かったのです。そこには、彼らがいつも夜を過ごしていた、ゲツセマネと呼ばれる場所がありました。

本日の27~31節は、そこへと向かう途中での話です。既に夜も更けて、オリーブ山へ向かう山道を歩きながら主イエスは弟子たちに、「あなたがたは皆わたしにつまずく」とおっしゃったのです。

この「つまずく」という言葉が聖書にはよく出てきます。教会においてもよく使われる言葉です。その意味は、主イエスに従っていくことができなくなること、信仰を失ってしまうことです。信仰の歩みにおける挫折のことを、躓いて転んでしまうことになぞらえているのです。

弟子たちはなぜ躓いてしまうのでしょうか。彼らの信仰が弱いから、主イエスにどこまでも従って行こうとする勇気と力が足りないからでしょうか。主イエスは「つまずかないように注意しなさい」と言っておられるのではなくて、弟子たちが皆必ず躓く、と予告しておられるのです。

そして躓きの根拠とされたのが、27節後半に引用されている旧約聖書、先程司式者にお読み頂いたゼカリヤ書13章の言葉です。それは「わたしは羊飼いを打つ。すると、羊は散ってしまう」、これは、羊の群れである弟子たちが躓き、散らされてしまうのは、羊飼いである主イエスが打たれ、殺されてしまうからだ、というのです。羊飼いを失った羊の群れは、ばらばらに散らされてしまいます。弟子たちが、主イエスの逮捕と十字架の死に直面して躓き、従い通すことができないのだと言われているのです。さらに、羊飼いを打つのは「わたし」つまり主なる神ご自身だと語っているのです。神が羊飼いである主イエスを打ち、そのために弟子たちが躓き、散らされていくのです。弟子たちが躓くことは、父なる神が主イエスを打つ、という神の御業があり、弟子たちの躓きは神のご計画、御業であると言われているのです。

その神のご計画、神の御業とはどのようなものであるかが、先程お読み頂いた旧約聖書ゼカリヤ書から分かります。預言者ゼカリヤは、イスラエルの民を羊の群れにたとえて語っています。その民の羊飼いが打たれ、羊の群れは散らされてしまう、それは民の罪に対する神の怒りによるのです。その神の怒りによって、民の三分の二が死に絶え、三分の一が残る。そして神様はその三分の一を火で精錬し、清めて、「彼がわが名を呼べば、わたしは彼に答え『彼こそわたしの民』と言い、彼は『主こそわたしの神』と答える」というように、彼らが「主なる神」と、呼べば主なる神も応えるという「まことの神の民」にしようとされるのです。主が羊飼いを打ち、羊が散らされるのは、民の罪に対する主の怒りによるが、怒って民を滅ぼし尽くしてしまうのではなく、その試練を通して、まことの神の民を興されようとされているのです。

羊飼いである主イエスが打たれ、弟子たちは躓き、散らされてしまうけれども、それを通して、まことの神の民が集められていく、主イエスはそのことを28節の「しかし、わたしは復活した後、あなたがたより先にガリラヤへ行く」と語っておられるのです。ガリラヤは弟子たちの故郷です。ガリラヤで、彼らは主イエスと出会い、召されて弟子となり、今日まで従って来ました。ガリラヤは彼らが弟子としての、信仰の第一歩を踏み出した所なのです。そしてまた、信仰の歩みに躓き、主イエスに従い通すことができなかった弟子たちが、足取り重く帰って行く先もガリラヤです。そのガリラヤに、復活なさった主イエスが先に行って、彼らを迎え、もう一度主の弟子として新しく歩み出させて下さるのです。

ところが、この主イエスの言葉を聞いたペトロは「たとえ、みんながつまずいても、わたしはつまずきません」と言い張りました。ペトロは最初に主イエスの弟子になり、弟子の筆頭としての自覚とプライドをもっていました。筆頭弟子のペトロは確かに、自分は主イエスに躓き、信仰を捨ててしまうことなど決してあり得ないと思っていたのです。そのペトロに対して主イエスはさらに、「はっきり言っておくが、あなたは、今日、今夜、鶏が二度鳴く前に、三度わたしのことを知らないと言うだろう」。「今日、今夜、鶏が二度鳴く前に」という言い方は、次第に範囲を狭めていくことで、ペトロの裏切りの時刻を示していると言えましょう。この日は夜も大分更けています。夜が明ける前に、ということは僅か数時間の内に、ペトロは三度主イエスを「知らない」と言うのです。「三度知らないと言う」とは、主イエスと自分との関係を徹底的に否定してしまうということです。ペトロはそういう「つまずき」に陥ると主イエスは言われているのです。しかもペトロはさらに、「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」と力を込めて言い張りました。「皆の者も同じように言った」とあります。他の弟子たちも皆、自分は主イエスに躓くようなことはない、と断言したのです。しかし、弟子たちは、主イエスが捕えられる時には皆逃げてしまいました。ペトロは、捕えられた主イエスのことを案じて、大祭司の屋敷の中庭に入り、様子を伺っていましたが、「あなたもあのイエスの仲間だろう」と問われて、思わず「そんな人は知らない」と言ってしまうのです。そこに、心では決意していても、実際に命の危険に直面する中でそれを実行することはなかなか出来ない人間の弱さが表れているのです。

ペトロの弱さ、躓きの原因は、自分の決意を実行する勇気や力が足りなかったことにあるのではなくて、むしろあの勇ましい言葉そのものにあったのではないでしょうか。信仰における自分の勇気や力を、人と見比べています。29節に「たとえ、みんながつまずいても、わたしはつまずきません」。ペトロは、「私だけは他の連中とは違う」という思いでこの言葉を語っているのです。しかしそのように自分の力や勇気、自分が出来ることにこだわっていたことこそが、ペトロの弱さ、躓きの原因だったと言えるでしょう。私たちは、自分の力や勇気に依り頼み、それによって生きていこうとすることによって、確かに大きな力を発揮することがあります。この時のペトロのように勇ましい思いを、口先だけでなく心から抱くこともあります。しかし残念ながら私たちの力や勇気には限界があって、それを圧倒的に越えるような事態に直面したら、持ちこたえることができないのです。自分の勇気や力に依り頼み、自分にはこれが出来る、ということにこだわっているところにこそ、躓きが生じるのです。

私たちは、自分の力でこの躓きを乗り越えることは出来ないのです。なぜなら私たちは自分に対するこだわりを捨てることができないからです。そんな私たちに、躓きを乗り越えさせるものがあるとしたらそれは、28節の主イエスの「しかし、わたしは復活した後、あなたがたより先にガリラヤへ行く」という御言葉以外にはありません。ガリラヤは、弟子たちの信仰の原点です。失意の弟子たちを、復活した主イエスが、先回りして迎えて下さるのです。それは、主イエスが彼らの躓き、信仰の挫折を、全て背負って十字架にかかって死んで下さり、その弟子たちの罪を赦して下さり、復活して永遠の命を生きておられことをはっきりと示し、再び弟子たちをご自分のもとに集め、弟子として、信仰者として新しく立てて下さるのです。躓き倒れた弟子たちは、この主イエスにより赦し呼び集められることで、再び、弟子として歩み出すことができたのです。自分たちの勇気や力ではなくて、主イエス・キリストの十字架の死と復活による救いの恵みなのです。キリストの教会とは、この主イエスの十字架と復活による神様の救いの恵みによって結集されている群れです。教会における私たちの信仰の歩みは、私たちの勇気や力によって支えられているのではなくて、主イエス・キリストによる罪の赦しの恵みによって支えられているのです。私たちは、自分の足で立って歩いているのではなくて、主イエスによって支えられ、背負われて進んでいるのです。そのことをはっきりと知ることによって、私たちは躓きを乗り越えていくことができるのです。

自分の足で立ち、自分の力で人生を歩んでいると思っている私たちは、共にいて下さる主イエスをしばしば見失い、躓きに陥ります。しかし、苦しみ悲しみ試練の中にあるとき、私たちを主イエスが背負って歩んで下さいます。

ペトロも、自分はどこまでも主イエスに従っていくことができる、死に至るまで信仰を貫くことができる、と思っていた時には、躓きを免れることが出来ませんでした。しかし、徹底的に三度も、主イエスとの関係を否定してしまうという躓きを通して、その自分を、ガリラヤで待ち受け、深い罪を赦し、新しく弟子として、信仰者として立てて下さる主イエスの恵みに触れた時に、彼は、もはや自分の足で立ち、自分の勇気や力によって歩む者であることをやめたのです。主イエス・キリストによって背負われて生きる者となったのです。私たちが、躓きを越えて信仰をもって歩んでいく道も、そのようにして開かれて行くのです。

私たちは、なお過ちを繰り返しながらも、主イエス・キリストの御手に支えられ、一歩一歩、永遠の神の御国へ向かって進んでいるのです。それが私たちに許された「キリストに従う人間の生涯」なのです。

お祈りを致します。

新しい契約の血

主日礼拝説教

齋藤 正 牧師

《賛美歌》

讃美歌67番
讃美歌140番
讃美歌4480番

《聖書箇所》

旧約聖書:出エジプト記 24章3-8節 (旧約聖書134ページ)

24:3 モーセは戻って、主のすべての言葉とすべての法を民に読み聞かせると、民は皆、声を一つにして答え、「わたしたちは、主が語られた言葉をすべて行います」と言った。
24:4 モーセは主の言葉をすべて書き記し、朝早く起きて、山のふもとに祭壇を築き、十二の石の柱をイスラエルの十二部族のために建てた。
24:5 彼はイスラエルの人々の若者を遣わし、焼き尽くす献げ物をささげさせ、更に和解の献げ物として主に雄牛をささげさせた。
24:6 モーセは血の半分を取って鉢に入れて、残りの半分を祭壇に振りかけると、
24:7 契約の書を取り、民に読んで聞かせた。彼らが、「わたしたちは主が語られたことをすべて行い、守ります」と言うと、
24:8 モーセは血を取り、民に振りかけて言った。「見よ、これは主がこれらの言葉に基づいてあなたたちと結ばれた契約の血である。」

新約聖書:マルコによる福音書 14章22-25節 (新約聖書91ページ)

◆主の晩餐

14:22 一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えて言われた。「取りなさい。これはわたしの体である。」
14:23 また、杯を取り、感謝の祈りを唱えて、彼らにお渡しになった。彼らは皆その杯から飲んだ。
14:24 そして、イエスは言われた。「これは、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。
14:25 はっきり言っておく。神の国で新たに飲むその日まで、ぶどうの実から作ったものを飲むことはもう決してあるまい。」

《説教》『新しい契約の血』

いよいよ、マルコによる福音書14章は、「最後の晩餐」と呼ばれる紀元30年の過越の食事の場面です。この食事の際、いろいろなことがありました。その中で、共観福音書が一致して語っている本日の物語は、最後の晩餐のクライマックスであり、現在のキリスト教会の聖餐式の原型となっている聖書箇所です。

聖餐式は、私たちが信仰者として、この世を生きて行くに当たって、欠くことができない聖なる礼典であり、ともすれば崩れがちな弱い私たちの心を支え、聖霊なる神の臨在によって神の国への道程を守る恵みの聖礼典です。

そして、この恵みの御業である聖餐式を、主イエスが地上における最後の夜に教えて下さったというところに、主イエスの深い配慮を受け取らねばなりません。聖餐式とは、主イエスが別れに当たって残された「愛の形見」でした。

それは22節の「一同が食事をしているとき」に始まりました。ここで「食事をする」とは、「空腹になった」とか「食事の時間になった」ということではありません。聖書にある食事とは「信仰の交わり」を意味し、「もっとも親しい交わり」を表すものでした。聖書では「神の国」を、食事の場によって象徴しているのです。

信仰において、「交わり」「共に集まる」ということは、重要な意味を持っています。ヨハネによる福音書によれば、甦りのキリストが御姿を示されたのは「一同が集まっている時」でした(ヨハ20:19-27)。

また、主イエスの昇天の後、聖霊なる神が降ったのも「一同が集まっている時」であり、教会そのものの特徴が「集まること」の中にあらわされています(使2:1以下)。

主イエス・キリストの恵みは、キリストが選び、召し集められた者の集まる場所において顕されるのです。

主イエスによる最初の聖餐式は「過越の食事」でした。これは偶然その日行われたのではありません。すべては神の御計画の通りであり、何より主イエス御自身が、この夜の「過越の食事」の準備をなさったのです。

過越の祭とは、モーセに率いられたイスラエルの民のエジプト脱出記念日です。そしてこのエジプト脱出は、ユダヤ人たちの信仰の原点であるというだけではなく、現在の私たちキリスト教信仰にとっても重要な日なのです。

これは、単なる歴史上の出来事ではなく、私たちの時代に神の御業を予め形作ると書く「予型」と言えるのです。

何故、予め形作る「予型」かと言うと、エジプトでの奴隷という「束縛からの解放」が、サタンに捕らえられた「罪の束縛からの解放」を同じ解放として重ね合わせられているということです。そして、40年にわたる「シナイの荒野の彷徨」が、試練の連続とも言える人生の荒野を行く、私たちの生涯に重ね合わせられます。脱出したイスラエルの民が導かれる乳と蜜の流れる「約束の地カナン」は、私たちが目指す「永遠の御国」と重ね合わせられているのです。

この「予型」としての重ね合わせにより、かつての「救い恵み」が、現在の恵みとして理解され、過去の約束の確かさが、今の私たちを支えているのです。

エジプト脱出の夜、人々は何の準備も出来ず、大急ぎで焼いた種なしパンを持って出て行く以外、方法がありませんでした。そして、荒野において準備のない人々は、神が与えて下さった「マナ」というものを食べて旅をしたと記されています。そして「マナ」は人々が約束の地カナンの食べ物を手にするときまで続きました(出エジプト記16章参照)。

毎年、過越祭の夜、人々が固いパンを食べる毎に、あのとき「何の準備も出来なかったこと」、それにも拘らず「神が養って下さったこと」を繰り返して感謝したのです。それが「過越の食事」でした。

主イエスは、この過越記念の食事で、パンを示し、「これはわたしの体である」と言われました。この「(体)からだ」とは「身体」「肉体」という意味ではなく、ヘブル語では「全人格」を意味する言葉です。主イエスは御自身を私たちの前に差し出されたと言うことです。シナイの荒野では、旅路を全うするために「天からのマナ」が必要であったように、人生を生き抜いて行くためには、私たちが「永遠の御国に入るまで養って下さる」主イエス・キリストが必要なのです。

主イエスは、パンを差し出し「取りなさい」と言われました。この御言葉は「御自分のすべてをささげ尽くす」という決断の表明です。私たちが受け取る「永遠の生命」「神の国」とは、御子キリストが、御自身のすべてをささげ尽くす、愛の犠牲によるものなのです。

また、主イエスは杯を取り、感謝の祈りを唱えて、彼らにお渡しになった。彼らは皆その杯から飲んだ。そして、イエスは「これは、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。」(24)と言われました。

「赤い色をした葡萄酒」を飲むことで、キリストが流された「血の犠牲」を受けることを、思い起こさなければなりません。旧約において、「血」は、神と人間との関係に重要な意味を持っていました。

それは「身代わりの血」を意味しています。アブラハムがモリヤの山でイサクを犠牲にしようとした時、神は、アブラハムを止め、「身代わりの雄羊」を用意して下さったと記されています(創世記23章参照)。それは、「犠牲の血」を想い起こさなければなりません。祭儀の際、犠牲の血を祭壇に振り掛けるのは、動物の血がなだめの供え物の役を果たすと信じられていたからです。さらにその「血」は、「契約の血」でもあります。祭司が祈りと共に祭壇と民に「血」を注ぐことによって、神聖な共同体が誕生しました。契約は、献げられた「血」によって、初めて有効となるからです(出24:3-8)。また、かつてのエジプト脱出の夜、イスラエルを守ったのも戸口の柱と鴨居に塗られた「小羊の血」であったことも、忘れられないことです。これらの旧約の出来事を、主イエスが再現しておられることは明らかです。

主イエス・キリストが、十字架の上で流す御自身の血によって、私たちを罪の束縛から解放する「身代わりの小羊」となり、「贖罪の小羊」として、罪の赦しを獲得して下さり、神を「父」と呼ぶことの出来る「新しい契約」を、ご自分の血によって成立させて下さったことを思い起こさなければなりません。

そして、主イエスは、その「血」を「多くの人のために流す」と言っておられますが、これはすべての人々、全人類のためにという意味であり、あらゆる人々を対象とするということです。

ここで思い起こさなければならないのは、「わたしはあなたを愛している」という言葉です。救いの御業は、不特定多数の人々のために行われるのではなく、常に「わたしとあなた」という、一対一の関係の中でなされているのです。

ここにある「多くの人」とは、主イエスから向けられた、「あなた」と呼ばれる私たち一人ひとりと理解すべきです。そして、キリストが言われている「あなた」とは、他の誰かではなく、常に「このわたし」なのです。

最後の晩餐で、杯を取られた主イエスが「これはあなたのために流すわたしの血である」と言われたのです。私たちは、「主はわたしのために死なれた」ということを、心から告白するべきです。

そしてさらに私だけでなく、私の隣人に向かっても、「わたしはあなたのために血を流す」と主イエスが言われていることを思うと、主にある交わりとは何であるかを理解することが出来るでしょう。教会とは、このような場所なのです。

25節には主イエスが「はっきり言っておく。神の国で新たに飲むその日まで、ぶどうの実から作ったものを飲むことはもう決してあるまい。」と不思議なことを言われました。この「新たに」とは「質的に新しい」という意味で、異なる状態を表すものです。さらに、「その時まで決して飲まない」ということは、「その日には飲むのだ」という御言葉と理解できるでしょう。これは、主イエスからの訣別の言葉であると共に、やがて到来する「神の国の食卓での再会」を約束する御言葉でもあるのです。

私たちは、その日を目指して生きています。キリストと共に永遠の安らぎを楽しむ日を待ち望みつつ、かつてイスラエルの民が彷徨った荒野になぞらえられる「この世の旅路」を生きているのです。

新しい記念すべき日が主イエスによって誕生しました。過越の食事に代わる「新しい記念すべき食事」がここに制定されたのです。それこそが、私たちに与えられた「聖餐式」の恵みです。

毎月第一週の聖餐式で読まれるコリント人への手紙 第一 11章23節~26節の「聖餐式制定の御言葉」をお読みします。「わたしがあなたがたに伝えたことは、わたし自身、主から受けたものです。すなわち、主イエスは、引き渡される夜、パンを取り、感謝の祈りをささげてそれを裂き、「これは、あなたがたのためのわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい」と言われました。また、食事の後で、杯も同じようにして、「この杯は、わたしの血によって立てられる新しい契約である。飲む度に、わたしの記念としてこのように行いなさい」と言われました。だから、あなたがたは、このパンを食べこの杯を飲むごとに、主が来られるときまで、主の死を告げ知らせるのです。」

この恵みの食卓、聖餐式に一人でも多くの隣人であるご家族や友人が共に与れますよう、共に救われ「神の御国」を約束された新しい契約の民となれますようお祈りいたします。

お祈りを致します。

まさか私が

主日CS合同礼拝

齋藤 正 牧師

《賛美歌》

讃美歌137番
讃美歌291番
讃美歌453番

《聖書箇所》

旧約聖書:詩編 41編10節 (旧約聖書857ページ)

41:10 わたしの信頼していた仲間/わたしのパンを食べる者が/威張ってわたしを足げにします。

新約聖書:マルコによる福音書 14章17-21節 (新約聖書91ページ)

◆過越の食事をする

14:17 夕方になると、イエスは十二人と一緒にそこへ行かれた。
14:18 一同が席に着いて食事をしているとき、イエスは言われた。「はっきり言っておくが、あなたがたのうちの一人で、わたしと一緒に食事をしている者が、わたしを裏切ろうとしている。」
14:19 弟子たちは心を痛めて、「まさかわたしのことでは」と代わる代わる言い始めた。
14:20 イエスは言われた。「十二人のうちの一人で、わたしと一緒に鉢に食べ物を浸している者がそれだ。
14:21 人の子は、聖書に書いてあるとおりに、去って行く。だが、人の子を裏切るその者は不幸だ。生まれなかった方が、その者のためによかった。」

《説教》『まさか私が』

マルコによる福音書の14章に入り、いよいよ、主イエス・キリストの受難、十字架の死への歩みとなってきました。

主イエスの受難・十字架において大きな役割を果たしたのが、イスカリオテのユダです。先々週もお話しましたが、主イエスを殺そうとする祭司長たちの計画は彼らの思いよりも神の御意思によって早く実現したのでした。ユダは自分から祭司長たちのところへわざわざ出かけて行って、主イエスを引き渡すことを申し出たのでした。祭司長たちが、ユダに持ちかけたのではありません。ユダの申し出を聞いて祭司長たちは喜び、金を与える約束をしたのです。ユダの裏切りは、積極的に、はっきりとした意志によってなされたのです。

17節で、さりげなく「夕方になった」と語り始められていますが、マルコによる福音書は「時」について繰り返しピントを合わせているのです。14章1節には「二日前になった」とあり、12節では「小羊を屠る日になった」、そしてここでは、「夕方になった」と記され、マルコ福音書が強調する「時」に焦点を当てて私たちに重ねて注意を促しているのです。

大切なことなので改めて申し上げますが、ユダヤの一日は日没から始まります。日没から日没までを「一日」と数える社会では、「夕方になった」という表現は、「新しい一日が始まった」ということを意味しています。

ここから始まる「新しい一日」が、御子イエス・キリストのこの世における「最後の一日」になるのです。

マルコ福音書では、この一日が、あまりにも多くの記事で満たされており、他の箇所と比べて、不釣合いなほどの長さが割り当てられています。神の御子イエス・キリストの御生涯は、まさにこの一日のために向けられていたことを強調しているのです。

17節に、「そこへ行かれた」とあります。「そこ」が何処であるかを聖書は記していませんが、「そこ」とは、あらかじめ遣わされた二人の弟子、ペトロとヨハネ(ルカ22:8)が準備した過越の食事をするための場所であり、古くからの伝承によれば、マルコの家の二階であると言われています。しかし、マルコが言いたいのは、「そこ」とは、「イエス御自身が定められた場所である」ということなのです。

主イエスの最後の日の冒頭の言葉は18節の「はっきり言っておくが、あなたがたのうちの一人で、わたしと一緒に食事をしている者が、わたしを裏切ろうとしている。」です。主イエスは何のためにこのようにおっしゃったのでしょうか。裏切ろうとしているユダに「お前の計画は全てお見通しだぞ」と言って思い止まらせるためでしょうか。不思議なことに、ユダがこれを聞いて自分のことと気付いたとは書かれていません。それどころか、19節には、弟子たち全員が心を痛めて「まさかわたしのことでは…」と代わる代わる言い始めたのでした。原文では、ここは強調文になっており、「まさか、このわたしでは」と訳せるのです。彼らは、「まさか、このわたしのことではないでしょうね」と言っているのです。弟子たちの中の一人が主イエスを裏切ろうとしている、それはもしかしたらこの自分のことかもしれない、と弟子たちは思った、つまり、弟子たち全員が自分の中に、裏切りの可能性を見たのです。主イエスを裏切る思いが自分の中にもあることをみんなが感じたのです。

弟子たちにとって主イエスを裏切る。主イエスに声をかけられ召され、側近として仕え、ガリラヤ以来、共に生活を続けて来た弟子たちの誰一人として考えたことすらなかったでしょう。それこそ「絶対にあってはならないこと」でした。

ですから、「主よ、私たちの仲間にそんな者がいる筈はありません」と答えるのが当然でした。しかし、弟子たちの言葉は、「まさかわたしのことでは」という極めて不安に満ちたもので、誰一人として、確信を表明できる者はいませんでした。結局、罪の可能性を完全に否定出来ない人間の弱さが、ここに表されているのです。

しかも、「まさかわたしのことでは」という言葉が、「お前ではないよ」という主イエスの否定を期待して語られたとするならば、それは同時に、他の仲間への不信をも言外に意味しているでしょう。自分以外の誰かの名前が明確になることを期待しているからです。

この弟子たちの言葉は、自分が過ちを犯す不安の中にありながら、同時に、他の弟子の罪を疑う、互いに信頼を失った人間関係を如実に示しているのです。イスカリオテのユダの裏切りに限定されるものではなく、神の愛と信頼を裏切る人間の姿そのものが浮き彫りにされ、その人間の罪が「キリスト・イエスを十字架へ追いやった」ということなのです。

「あなたがたのうちの一人で、わたしと一緒に食事をしている者」というのは、弟子たちの誰にでもあてはまることです。全ての弟子たちが、これは自分のことではないか、と思わせるために、主イエスはこのように語られたのです。そしてそれは、「まさかわたしのことでは」と言い始めた弟子たちに主イエスが更にお語りになった20節の「十二人のうちの一人で、わたしと一緒に鉢に食べ物を浸している者がそれだ」との言葉にも見て取れます。主イエスは、ご自身を裏切り抹殺しようとする思いが誰の心にもあることを示されているのです。

人々は、「何故、イエスはユダの裏切りを知っていたのか」ということを問題にします。多くの書物でもっともらしい理由が繰り拡げられていますが、聖書は、何時ものように、その理由を何も説明していません。それは、マルコ福音書が、ユダの裏切りを「すべてが神の御計画の中で行われている」という信仰的証言として語っているからです。

「はっきり言っておく」とイエスは言われていますが、これは原文では「アーメン聖句」と呼ばれるものであり、特別な注意を促す場合に用いられる表現です。言い換えれば、「注意して聴きなさい」ということです。主イエスは、「一人の裏切り者がいる」ということを他の弟子たちに教えているのではなく、神の御子を売り渡す罪を避けられない人間の惨めさを指摘しておられるのです。その罪の惨めさは、「一緒に食事をしている者」「もっとも身近な者」によって行われることによって、さらに明らかにされるのです。

「わたしと一緒に食事をしている者」と主イエスは言われていますが、これは「たまたま食事を共にしている者」という意味ではありません。

先程司式者にお読み頂いた詩編41編10節の一行目は「わたしの信頼をしていた仲間」であり、二行目は「わたしのパンを食べる者」です。この「信頼する」とは言うまでもなく「愛する」ということです。

即ち、憎らしい人間、裏切るのが当然のような人が、食事の席に一緒にいるということではなく、信頼して食卓を共にしている「愛して止まない人間」が、今や、「私の愛と信頼を裏切ろうとしている」という悲しみを、ここに読み取らなければなりません。そして、この場を支配しているのは、この痛みに満ちた主イエスの御心なのです。

この夜の食事は過越の食事でした。単なるお別れの晩餐会ではなく、かつての出エジプトを思い起こすための象徴的な儀式を伴う一年に一度の特別な食事です。

食べられるパンは、エジプト脱出の慌ただしさを思い起こすための「膨らし粉・イースト菌を入れない固いパン」マーツァーです。そしてテーブルの上に置かれた鉢は、かつての苦しみを忘れないための苦菜などを入れたスープであり、固いパンを浸して柔らかくして食べました。

この鉢は、過越の儀式用として「テーブルに一つ置かれていた」という見方に従うならば、この時、パンを鉢に浸していたのは「ユダ一人ではなかった」とみるべきです。パンを浸す鉢はテーブルの中央に一つであり、儀式としての食事は「家長の言葉と共に全員揃って行う」のであれば、主イエスの言われた「裏切る者」とは、「一緒に食事をしていた全員」を指していると考えられます。もちろん、主イエスご自身はこの時、イスカリオテのユダが御自分を祭司長たちに引き渡そうとしていたということは御存知でした。

ここでマルコ福音書は、愛を裏切る者はユダ一人ではなく、すべての弟子たちであり、「すべての人間である」ということを語ろうとしているのです。

ゲッセマネの園で、主イエスがお一人で、血の汗を流して祈っておられた時、弟子たちは何をしていたでしょうか。彼らは、イエスと共に祈っていたのではなく、「眠り込んでいた」のです(ルカ22:44-45)。主イエスが捕らえられた時、彼らはどうしていたでしょうか。「弟子たちは皆、逃げ去った」と記されています(マルコ14:50)。主イエスが十字架を背負ってゴルゴタへ向けて歩かれた時、誰がその重荷を代わろうとしたでしょうか。まったく関係のない男が、兵士の命令によって嫌々担がされて歩いたあります(マルコ15:21)。主イエスが十字架に付けられた時、弟子たちは何処にいたでしょうか。最後までつき従っていたのは、もっとも若いヨハネ一人と婦人たちだけであったと、ヨハネ自身が記録しています(ヨハネ19:26)。

これらのことを思い起こせば、「誰が、ユダ一人を責められるのか」と聖書は告発しているのが分かります。

主イエスの地上における最後の一日は、このような、人間すべての罪を告知することから始まりました。そしてそれは、ちようど、聖書が、初めに神の愛と人間の裏切りを語るエデンの園の物語を記したのと同じであるのです。

ここに、今、私たちは、長い人間の罪の歴史のすべてがこの一日に凝縮されていることに気づかなければなりません。

この日は、そして主イエスの十字架は、何のために用意されなければならなかったのか。それこそが、アダムとエバによって示された神の信頼への裏切りであり、今日のこの最後の晩餐における弟子たちは、アダムの末裔として「原初の罪」を再現しているのです。

この人間が本来持っている自分自身の罪を自覚するとき、キリストの十字架を担いきれない負い目として受け止めるとき、今日最後の21節の「人の子は、聖書に書いてあるとおりに、去って行く」という御言葉が、罪の中に生きる私たちを見放すのではなく、神の御心を受けて贖いを達成する御子の宣言として聴こえて来るのです。

「まさかわたしのことでは」という、かつての罪への目覚めは、今、ここで、「まさか、このわたしのために」という喜びへと変わって行くのです。

この喜びをお一人でも多くのご家族・友人にお伝えしたいと願うものでありましょう。

お祈りを致します。