神に背を向ける者

主日礼拝

齋藤 正 牧師

《賛美歌》

讃美歌68番
讃美歌285番
讃美歌298番

《聖書箇所》

旧約聖書:イザヤ書 53章6-8節 (旧約聖書1,150ページ)

53:6 わたしたちは羊の群れ/道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。そのわたしたちの罪をすべて/主は彼に負わせられた。
53:7 苦役を課せられて、かがみ込み/彼は口を開かなかった。屠り場に引かれる小羊のように/毛を切る者の前に物を言わない羊のように/彼は口を開かなかった。
53:8 捕らえられ、裁きを受けて、彼は命を取られた。彼の時代の誰が思い巡らしたであろうか/わたしの民の背きのゆえに、彼が神の手にかかり/命ある者の地から断たれたことを。

新約聖書:マルコによる福音書 15章1-15節 (新約聖書94ページ)

◆ピラトから尋問される

15:1 夜が明けるとすぐ、祭司長たちは、長老や律法学者たちと共に、つまり最高法院全体で相談した後、イエスを縛って引いて行き、ピラトに渡した。
15:2 ピラトがイエスに、「お前がユダヤ人の王なのか」と尋問すると、イエスは、「それは、あなたが言っていることです」と答えられた。
15:3 そこで祭司長たちが、いろいろとイエスを訴えた。
15:4 ピラトが再び尋問した。「何も答えないのか。彼らがあのようにお前を訴えているのに。」
15:5 しかし、イエスがもはや何もお答えにならなかったので、ピラトは不思議に思った。

◆死刑の判決を受ける

15:6 ところで、祭りの度ごとに、ピラトは人々が願い出る囚人を一人釈放していた。
15:7 さて、暴動のとき人殺しをして投獄されていた暴徒たちの中に、バラバという男がいた。
15:8 群衆が押しかけて来て、いつものようにしてほしいと要求し始めた。
15:9 そこで、ピラトは、「あのユダヤ人の王を釈放してほしいのか」と言った。
15:10 祭司長たちがイエスを引き渡したのは、ねたみのためだと分かっていたからである。
15:11 祭司長たちは、バラバの方を釈放してもらうように群衆を扇動した。
15:12 そこで、ピラトは改めて、「それでは、ユダヤ人の王とお前たちが言っているあの者は、どうしてほしいのか」と言った。
15:13 群衆はまた叫んだ。「十字架につけろ。」
15:14 ピラトは言った。「いったいどんな悪事を働いたというのか。」群衆はますます激しく、「十字架につけろ」と叫び立てた。
15:15 ピラトは群衆を満足させようと思って、バラバを釈放した。そして、イエスを鞭打ってから、十字架につけるために引き渡した。

《説教》『神に背を向ける者』

ユダヤ最高法院サンヘドリンでの大祭司カイアファの裁判は主イエスを死刑にしようと進めましたが、ローマ帝国の植民地ユダヤには、死刑の執行権がありませんでした。夜が明けると最高法院のユダヤ人指導者たちは主イエスの刑の執行を求めて、ローマ帝国から派遣された地方長官と言うべきポンティオ・ピラトに主イエスを引き渡しました。15章2節のピラトの質問「あなたがユダヤ人の王なのか」は、14章61節の大祭司の質問「お前はほむべき方の子、メシアなのか」を対比すると二人の狙いの違いがよく分かります。主イエスの裁判の舞台は、ポンティオ・ピラトのもとへ移りました。大祭司の屋敷で行われた最高法院サンヘドリンの裁判を「夜の法廷」と呼ぶのに対し、この場面を、通常、「朝の法廷」と呼びます。

地方長官ポンティオ・ピラトの人物像について映画や小説などでは、極悪非道の人物、邪悪で傲慢で狡猾で、また冷血な植民地支配者として描かれる場合が多いようです。

しかし、ここで、この従来のピラトの人物像の見直しが必要と思われます。

ポンティオ・ピラトは、聖書では「総督」と訳されていますが、それは正確ではありません。ピラトは、シリア総督の下でユダヤ地方に責任を持つ行政官であり、軍事収税官、あるいは地方長官、昔の日本であれば代官とでも言った方が適切です。古代ローマの資料から明らかになっているピラトは、比較的有能な植民地官吏であり、平凡な気の小さい男というのが古代史の資料から読み取れる彼の姿です。

そしてこの日の主イエスの裁判において、主イエスの無罪を明白に認めたのは、ポンティオ・ピラト一人だったのです。

聖書に記されたピラトの審問は、読めば読むほど、「彼が如何に主イエスの無罪の宣告をしたかったか」が明らかです。2節のピラトの「お前がユダヤ人の王なのか」という尋問は、大祭司たちの訴えを繰り返したものにすぎません。大祭司たちの告発を信じられないピラトの姿がここにあるのです。

そして、4節に「何も答えないのか。彼らがあのようにお前を訴えているのに」と主イエス自身からの弁明を求めており、それを自分の判決の決め手にしようとしています。ここを別の訳では「彼らは躍起になってお前を訴えているのだ」と記していますが、まさに名訳でしょう。

例えば、ルカによる福音書23章13~16節には「ピラトは、祭司長たちと議員たちと民衆とを呼び集めて、言った。『あなたたちは、この男を民衆を惑わす者としてわたしのところに連れて来た。わたしはあなたたちの前で取り調べたが、訴えているような犯罪はこの男には何も見つからなかった。ヘロデとても同じであった。それで、我々のもとに送り返してきたのだが、この男は死刑に当たるようなことは何にもしていない。だから、鞭で懲らしめて釈放しよう。』」とあります。

また、ヨハネによる福音書19章4~6節には「ピラトはまた出て来て、言った。『見よ、あの男をあなたたちのところへ引き出そう。そうすれば、わたしが彼に何の罪も見いだせないわけが分かるだろう。』 イエスは茨の冠をかぶり、紫の服を着けて出て来られた。ピラトは、『見よ、この男だ』と言った。祭司長たちや下役たちは、イエスを見ると、『十字架につけろ。十字架につけろ』と叫んだ。ピラトは言った。『あなたたちが引き取って、十字架につけるがよい。わたしはこの男に罪を見いだせない。』」とあります。

どの福音書を見ても主イエスを解放しようとするピラトの姿が記されているのです。

そしてピラトは、遂に最後の手段を取ったことが6節以下の「ところで、祭りの度ごとに、ピラトは人々が願い出る囚人を一人釈放していた。さて、暴動のとき人殺しをして投獄されていた暴徒たちの中に、バラバという男がいた。群衆が押しかけて来て、いつものようにしてほしいと要求し始めた。そこで、ピラトは『あのユダヤ人の王を釈放してほしいのか』と言った。祭司長たちがイエスを引き渡したのは、ねたみのためだと分かっていたからである。」とピラトは祭司長たちの動機までお見通しでした。

ここの7節の「暴動」と訳されている言葉は「反乱」「治安を乱す」という意味の言葉で、バラバは単なる盗賊ではなく、ローマ帝国に対する反乱、ユダヤ民族主義運動過激派の実行犯であったと思われます。

当時のユダヤでは、武力によってローマの支配に対抗しようとする活動が盛んになっていました。彼らは民衆の支持を背景にして、ローマと結んでいるユダヤ人指導者たちの暗殺などのテロ活動を行っていました。当然、大祭司たちもユダヤ民族の裏切り者として、暗殺者リストの第一にあがっていた筈です。「バラバとイエス、どちらを赦すか」とピラトが言えば、大祭司たちは、危険なテロリスト「バラバの処刑を選ぶに違いない」と考えるのが当然です。ポンティオ・ピラトが、何とか主イエス釈放しようとしていたのは間違いないでしょう。

ところが11節にあるように、祭司長たちは、驚くべきことに、バラバの釈放を要求しました。

ユダヤ人指導者たちは、バラバとイエス、どちらが自分たちにとって恐るべき相手なのか。その判断が出来なくなっています。神の御子を憎む者は、自分の命を狙う者の危険性をも忘れてしまったのです。

武闘派のバラバはテロリストとして、ある種の英雄であり、大祭司たちの思いと違って群衆がバラバの釈放を求めたというのはありえることだったのかも知れません。

12節以下には「そこで、ピラトは改めて、『それでは、ユダヤ人の王とお前たちが言っているあの者は、どうしてほしいのか』と言った。群衆はまた叫んだ。『十字架につけろ。』」とあります。ユダヤ伝統の処刑方法は「石打の刑」です。律法に背いて十字架刑に処せられた者は一人もいません。ユダヤにおける十字架刑は、ローマが植民地の政治犯を処刑する場合に、見せしめのためにより残酷に行ったものであり、ローマ市民権を持つ者には決して適用されませんでした。逆に言えば、ユダヤ人にとって、十字架刑は征服者ローマの圧政の象徴でもありました。

これは、ピラトにとって実に意外なことでした。かたくなに律法を守り続けて来た筈のユダヤ民衆が、大祭司を先頭に、今や、あれほど嫌っていたローマ法の実施を、公然と要求しているのです。

ついにピラトは折れました。15節に「ピラトは群衆を満足させようと思って、バラバを釈放した。そして、イエスを鞭打ってから、十字架につけるために引き渡した。」とあります。

ピラトは何故群衆を満足させようと思ったのでしょうか。マタイ福音書27章24節では「暴動が起こりそうであった」と記されています。また、ヨハネ福音書19章12節では、「もしこの男を釈放するならば、あなたは皇帝の友ではない」とあります。これは「反乱罪で密告するぞ」と、群衆から脅迫されていることを意味しています。

最果ての植民地ユダヤの地方長官ピラトにとって、ナザレのイエスの処刑は、ユダヤ人同士の内輪もめでしかなく「どうでもよいもの」でした。「理解できないユダヤ人同士の問題に深入りするな」、これがローマ支配者の鉄則でした。思いもかけない要求をするユダヤ民衆に対し、「それなら勝手にせよ。私には責任がない」、これがピラトの結論でした。

為政者は現実と妥協して行くものです。手の付けられない群衆を収めるためには、その要求を、自分の立場が危うくならない範囲で満足させてやるものです。

こうして、ポンティオ・ピラトは、ナザレのイエスを十字架につけることに決めました。

このように、主イエスの十字架をピラトが決定した経緯を聖書から見ると、いつの間にかすべてが狂ってしまい、「世をあげて御子を死に追いやった」ということになるのです。そして、この「すべてが狂っている」というところが、「神に背を向けて生きる世界の必然であった」のです。

「罪」とはそういうものです。後から考えても何故そんなことをしたのか理解できないことをしてしまうのが、私たちの罪の特徴であり、サタンの業そのものなのです。この人々を前にして、主イエスは沈黙を守られたと聖書は告げています。

先程、司式者にお読み頂いたイザヤ書 53章6節から8節には、

わたしたちは羊の群れ
道を誤り、それぞれの方角へ向かって行った。
そのわたしたちの罪をすべて
主は彼に負わせられた。
苦役を課せられて、かがみ込み
彼は口を開かなかった。
屠り場に引かれる小羊のように
毛を切る者の前に物を言わない羊のように
彼は口を開かなかった。
捕えられ、裁きを受けて、彼は命を取られた。
彼の時代の誰が思い巡らしたであろうか
わたしの民の背きのゆえに、彼が神の手にかかり
命ある者の地から断たれたことを。

主イエス・キリストは、このイザヤ書53章の道を行かれたのです。罪の中にある人々を救うために、父なる神の御心を成就するために、罪の醜さをさらけ出している人々の姿を見つめつつ「命ある者の地から断たれた」のです。

御自分を死へ追いやる人々の救いのために、さらにそれ以上の罪を重ねさせないために、沈黙を守られたのです。

この救いの恵みを受ける者こそ、「十字架につけろ」と叫び続けた群衆の中に自分自身の姿を認める者でなければならないのです。

十字架を背負われて歩まれる神の御子の眼差しに支えられて御国への道を目指す。それこそが十字架を見つめて生きるキリスト者の本当の姿なのです。

お祈りを致しましょう。

あなたは何者なのか

主日礼拝

齋藤 正 牧師

《賛美歌》

讃美歌228番
讃美歌294番
讃美歌532番

《聖書箇所》

旧約聖書:創世記 4章8-9節 (旧約聖書5ページ)

4:8 カインが弟アベルに言葉をかけ、二人が野原に着いたとき、カインは弟アベルを襲って殺した。
4:9 主はカインに言われた。「お前の弟アベルは、どこにいるのか。」カインは答えた。「知りません。わたしは弟の番人でしょうか。」

新約聖書:マルコによる福音書 14章66-72節 (新約聖書94ページ)

◆ペトロ、イエスを知らないと言う

14:66 ペトロが下の中庭にいたとき、大祭司に仕える女中の一人が来て、
14:67 ペトロが火にあたっているのを目にすると、じっと見つめて言った。「あなたも、あのナザレのイエスと一緒にいた。」
14:68 しかし、ペトロは打ち消して、「あなたが何のことを言っているのか、わたしには分からないし、見当もつかない」と言った。そして、出口の方へ出て行くと、鶏が鳴いた。
14:69 女中はペトロを見て、周りの人々に、「この人は、あの人たちの仲間です」とまた言いだした。
14:70 ペトロは、再び打ち消した。しばらくして、今度は、居合わせた人々がペトロに言った。「確かに、お前はあの連中の仲間だ。ガリラヤの者だから。」
14:71 すると、ペトロは呪いの言葉さえ口にしながら、「あなたがたの言っているそんな人は知らない」と誓い始めた。
14:72 するとすぐ、鶏が再び鳴いた。ペトロは、「鶏が二度鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」とイエスが言われた言葉を思い出して、いきなり泣きだした。

《説教》『あなたは何者なのか』

ゲッセマネの園で捕らえられ最高法院・サンヘドリンの大祭司の屋敷まで連行されてきた主イエスでした。

大祭司と最高法院サンヘドリンの議員たちが、主イエスに対する裁判を行っている広間から一段下がったところに中庭がありました。筆頭弟子のペトロは、この中庭に潜り込んでいました。前例のない異常な裁判に驚きながら、下役の祭司たちや下男や下働きの女たちが急遽起き出して主イエスを連行してきた群衆に焚火をして夜明けを待っていたところに、ペトロは紛れ込んだのでしょう。

54節に、ペトロは「下役たちと一緒に座って、火にあたっていた」と記されています。彼は、さりげなくそこにいたのです。奥の広間で行われている異常な裁判に何の関わりもないような顔をして、中の様子を伺っていたのです。

ペトロが、何故ここにやって来たのか。どうしてここに入り込めたのか。マルコ福音書は何も語っていません。わずかに、マタイ福音書が「事の成り行きを見ようと」(26:58)と説明しており、またヨハネ福音書は「門番の女が中に入れてくれた」(18:16)と記していますが、その動機については分かりません。

一度は逃げたものの、「イエスを見捨てることができなかった」と言う人もいます。また、イエスが「どう裁かれるのか、そして自分たちがこれからどうなるのか」不安であった、と考える人もいます。さらに、もしかすると、イエスは「最終的な奇跡を行うかもしれない」と想像を逞しくする人もいます。

ただひとつ明らかなことは、「ペトロがそこにいた」ということです。主イエスとの関わりを、ゲッセマネの園での失敗があったにもかかわらず、なお断ち切ることができなかったということです。

マルコ福音書は、ペトロが実際に話したことをマルコが書き取ったと言われています。福音書記者のマルコは、この夜のペトロ自身の姿に、ペトロの弱さ、だらしなさ、醜さを残しただけではなく、「それ以上の何か」、主イエスについて「証すべき何かを受け止めた」と考えるべきです。66節以下に「ペトロが下の中庭にいたとき、大祭司に仕える女中の一人が来て、ペトロが火にあたっているのを目にすると、じっと見つめて言った。『あなたも、あのナザレのイエスと一緒にいた。』」と、いきなり語りかけた女中の言葉は、ペトロの態度を根底から問い質すものでした。何故なら、それまでのペトロは、遠くからの見物人・傍観者でしかありませんでした。彼が「一段下の中庭にいた」ということは、彼には裁かれる主イエスと同じ立場ではなかったと言う象徴的な言葉と考えられます。

しかし今や、突然、それが変わるのです。主イエスを裁いているその場所が、自分が忍び込んで来た「一段下」の焚火のところまで続いているということに、突如、気付かされるのです。

その時からペトロは、もはや単なる見物人・傍観者ではいられなくなりました。「自分は何者であるか」を明確にしなければならない場に引き出されたのです。

私たちも同じことを問われているのです。大勢の人々の中に埋もれ、あたかも夜の闇の中に紛れているように、自分を明らかにすることなく過ごして来た生き方に終止符が打たれ、「あなたは何者なのか」を、主イエスとの関わりにおいてはっきりさせないといけません。

その問い掛けを受けた時、もはや私たちは、大衆の中の一人、群衆の一人として身を隠すことは出来ません。自分の立場を明確にしなければならないのです。

その「問い掛け」は、実に身近な、些細なことから始まることに注目しなければなりません。それをペトロに尋ねたのは「名も知らぬ女中」でした。ペトロが、最高法院の大広間で大祭司に問われたのであるのなら、答え方もまた変わっていたでしょう。人間としての尊厳を賭け、堂々と信仰の証しを立てたでしょう。ペトロにとって、まったく気にもかけなかった人間から、庭の暗闇の焚火の傍らという、ごく普通の目立たない場で始まったのでした。

私たちも、自分の何たるかが問われるのも、このようなありふれた場であるのです。予想もしなかったところで、生命を賭けた告白をするにはあまりにも普通な場で、そして、大切なことを何ひとつ分かっていない人間の言葉によって、その「問い掛け」がなされると言えましょう。

68節でペトロは、主イエスとの関係を否定しました。何故、否定したのでしょうか。

ペトロは、決して勇気のない臆病な人間ではありませんでした。主イエスが捕えられたゲッセマネで闘ったのはペトロ一人でした。主イエスを見捨てて逃げ去った弟子たちの中で、大祭司の屋敷の中庭まで入って来たのはペトロだけです。忍んで来た動機が何であれ、恐怖に包まれて逃げ去ったまま姿を見せない「他の弟子たちとは違う」とは言えるでしょう。

それに加え、この時の状況から言えば、翌日、十字架の下にマリアやヨハネがいても、何の咎めがなかったことからも分かるように、大祭司たちには、主イエスの弟子たちを捕えるつもりはまったくありませんでした。加えて、この後、周囲の人々に問い詰められて逃げ場を失ったペトロを、誰も捕えようとはしませんでした。ペトロはお尋ね者ではなく、恐れる必要はまったくなかったのです。

それでは、何故、剣を振るう蛮勇の持ち主であり、お尋ね者でもなかったペトロが、自分の姿を明らかにできなかったのでしよう。

それは、まことに不思議なことですが、ペトロにとって、「今は証しの場ではない」、大事なことを問題にするような場ではないし、そんな相手でもない、と思えたからではないでしょうか。

私たちもまた、キリスト者としての姿を問われたとき、それが自分にとって大切な場ではない思われたとき、「ここでゴタゴタ言ってもしょうがない」「こんな人を相手にしても仕方がない」。そう考えて、自分がキリスト者であることをハッキリさせずに適当にあしらってしまうのではないでしょうか。

この時、ペトロは、女中を軽くいなしたつもりでありました。しかし、その言葉が、彼を次第に追い詰めて行くのです。

69節から「女中はペトロを見て、周りの人々に、『この人は、あの人たちの仲間です』とまた言い出した。ペトロは、再び打ち消した。」と続きます。二度三度と繰り返されて行くうちに、ペトロの否定はだんだん激しさを増し、71節では、「呪いの言葉さえ口にしながら誓い始めた」とまで記されています。

初めは、「相手になるのを避けるために誤魔化そう」と軽く答えた言葉に、何時の間にか、自分自身が束縛されて行ったのです。繰り返される問い掛けに、まさか、「さっきのは嘘でした」とは言えません。そして、皮肉なことに、否定すれば否定するほど、彼の言葉のガリラヤ訛りがひどくなっていったというのです。

彼は、初めに些細なところでの証しを拒否したために、結果的には、多くの人々の前で、全力を挙げてキリストを否認しなければならない立場に追い込まれてしまいました。サタンは、ただ、「答える相手は、あなたに相応しくない」とささやく程度で充分なのです。さりげない問い掛けによって心の制御を乱し、混乱と自己破滅へと追いやって行くのです。

もし、この女中がサタンであったとするならば、なんと巧妙な罠であったことでしょう。まさに、ペトロのブレーキは壊れてしまいました。破滅への坂道を、もはや止める術もなく、走り出してしまいました。そしてこの時、鶏が鳴いたのです。ペトロは主イエスが「鶏が二度鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」と言われた言葉を思い出しました。

この日でなくとも、鶏は鳴いたでしょう。それは、この世界の日常的な出来事です。しかし、それ故にこそ、「鶏が鳴く」ということが、極くありふれたことであるからこそ、主イエスの御心がいっそう明らかになって来るのではないでしょうか。

先の14章30節で、イエスはこう言われていました。

「はっきり言っておくが、あなたは、今日、今夜、鶏が二度鳴く前に、三度わたしのことを知らないと言うだろう。」

この御言葉は、単なる裏切りの予言ではありません。この御言葉は、日毎にありふれて鳴く鶏の鳴き声を聞くたびに、ペトロが主イエスの御言葉を思い出すためであったのです。主イエスは、人の周りの何処にでもある極く身近な事柄を用いて、破滅への道へ向かわないようにされているのです。

ルカ福音書22章31節以下で「シモン、シモン、サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた。しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。」と言われています。主イエスの祈りが、ペトロを包んでいたのです。主イエスが裁きを受けていた広間から中庭の暗がりにいるペトロを見つめたのは、この憐みの眼差しでした。愛と憐みに富まれる主イエスの眼差しと、あの鶏の鳴き声が、ペトロを破滅から、栄光の御国へと引き上げたのです。

私たちも、人生の様々な場面で、ペトロと同じように信仰が試されます。遠くからそっと、人々に紛れて、自分の弱さと罪、主イエスに従い通すことができない挫折を味わいます。

しかし、そのような情けない私たちをも主イエスは、十字架と復活による救いの恵みの中に捉えて下さっているのです。その主イエスの恵みに気づかされる時、私たちは自分の罪にくずおれるしかありません。主イエスの恵みは、絶望を新しく生きる豊かな希望をもたらすのです。

お祈りを致します。

救い主を前にして

主日礼拝

齋藤 正 牧師

《賛美歌》

讃美歌000番
讃美歌000番
讃美歌000番

《聖書箇所》

旧約聖書:ダニエル書 7章13ー14節 (旧約聖書1,393ページ)

7:13 夜の幻をなお見ていると、/見よ、「人の子」のような者が天の雲に乗り/「日の老いたる者」の前に来て、そのもとに進み
7:14 権威、威光、王権を受けた。諸国、諸族、諸言語の民は皆、彼に仕え/彼の支配はとこしえに続き/その統治は滅びることがない。

新約聖書:マルコによる福音書 14章53-65節 (新約聖書93ページ)

◆最高法院で裁判を受ける

14:53 人々は、イエスを大祭司のところへ連れて行った。祭司長、長老、律法学者たちが皆、集まって来た。
14:54 ペトロは遠く離れてイエスに従い、大祭司の屋敷の中庭まで入って、下役たちと一緒に座って、火にあたっていた。
14:55 祭司長たちと最高法院の全員は、死刑にするためイエスにとって不利な証言を求めたが、得られなかった。
14:56 多くの者がイエスに不利な偽証をしたが、その証言は食い違っていたからである。
14:57 すると、数人の者が立ち上がって、イエスに不利な偽証をした。
14:58 「この男が、『わたしは人間の手で造ったこの神殿を打ち倒し、三日あれば、手で造らない別の神殿を建ててみせる』と言うのを、わたしたちは聞きました。」
14:59 しかし、この場合も、彼らの証言は食い違った。
14:60 そこで、大祭司は立ち上がり、真ん中に進み出て、イエスに尋ねた。「何も答えないのか、この者たちがお前に不利な証言をしているが、どうなのか。」
14:61 しかし、イエスは黙り続け何もお答えにならなかった。そこで、重ねて大祭司は尋ね、「お前はほむべき方の子、メシアなのか」と言った。
14:62 イエスは言われた。「そうです。あなたたちは、人の子が全能の神の右に座り、/天の雲に囲まれて来るのを見る。」
14:63 大祭司は、衣を引き裂きながら言った。「これでもまだ証人が必要だろうか。
14:64 諸君は冒涜の言葉を聞いた。どう考えるか。」一同は、死刑にすべきだと決議した。
14:65 それから、ある者はイエスに唾を吐きかけ、目隠しをしてこぶしで殴りつけ、「言い当ててみろ」と言い始めた。また、下役たちは、イエスを平手で打った。

《説教》『救い主を前にして』

ユダヤ暦は日没をもって翌日が始まります。マルコによる福音書14章は、日が変わっての「最後の晩餐」が終わり、「ゲッセマネの園」での主イエスの苦しみの祈りに続いて、いよいよ主イエスの十字架の場面になって来ました。

53節に主イエスを捕らえた「人々は、イエスを大祭司のところへ連れて行った。」とあります。ユダヤの最高法院サンヘドリンへ連れていかれたのです。この逮捕から裁判までは、歴史的にも、大きな問題提起がなされています。

ローマの支配下にあって大幅な自治権が認められていたユダヤでは、大祭司が議長を務める最高法院「サンヘドリン」は国会でもあり、最高裁判所でもありました。ここで、まことに不可解な主イエスの裁判が開かれるのです。

まず、裁判の開始時刻を考えてみましょう。夕方から始まった過越の食事を終え、キドロンの谷を越えてゲッセマネに来て祈る主イエスを逮捕し、エルサレムの城壁内の大祭司の屋敷まで連行して来たのですから、もはや真夜中の筈です。「鶏が鳴く頃」とは午前零時から三時までの間を指す表現ですから、こんな時刻に「祭司長たちと最高法院の全員」が果たして招集できたのでしょうか。歴史上、最高法院の開会時間は通常午前中であり、夜はおろか「午後開かれることもなかった」と言われています。

次には、55節に「祭司長たちと最高法院の全員は、死刑にするためイエスにとって不利な証言を求めたが、得られなかった。」とあり、その理由は「その証言は食い違っていたからである。」とあります。主イエスを死刑にすることが彼らの目的で、そのための証言を集めようとしたのです。しかしそれが「得られなかった」とあります。それは次の56節にあるように、「多くの者がイエスに不利な偽証をしたが、その証言は食い違っていたからである」ということです。ユダヤでは申命記19章15節によって、裁判は「二人以上の証人によって立証されなければならない」と定められています。特に、死刑の場合は、同じ申命記17章6節に「二人ないし三人の証言を必要とする。一人の証人の証言で死刑に処せられてはならない」と固く戒められていました。主イエスを陥れるために別々になされた二人または三人の証言が合わなければ、有罪の判決を下してはならないのです。主イエスを有罪にするためには、その手続きを踏まなければなりません。主イエスに不利な偽証をしたのですが、急なことで事前の打ち合わせがうまくいかなかったのでしょう。証言が食い違ってしまったのです。もともと事実とは違う偽証、つくり話ですから、口裏を合わせておかないと、証人によって違いがでます。

また、最高法院の七〇人の議員全員がエルサレムに住んでいるわけではなく、このような時間に全員集まれる筈はありません。また、イエスに心を惹かれていた議員のアリマタヤのヨセフやニコデモは、このときどうしていたのでしょうか。

おそらく、多くの人々が推測するように、集まったのは大祭司の腹心の者だけであり、場所も本来開かれるべき神殿の切り石の間ではなく、大祭司の家ということもあって、大祭司に協力する者だけの裁判であったと思われます。

主イエスの対する偽証の一つが58節の「この男が、『わたしは人間の手で造ったこの神殿を打ち倒し、三日あれば、手で造られない別の神殿を建ててみせる』と言うのを、わたしたちは聞きました」とあります。主イエスがエルサレム神殿を冒瀆した、というのです。この証言を大祭司たちが主イエスを有罪にするために準備していたのです。13章1節以下で主イエスはエルサレム神殿の崩壊を予告されました。またヨハネによる福音書の2章19節には、「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる」とあり、その後には「イエスの言われる神殿とは、御自分の体のことだったのである」という説明がつけられています。主イエスは、人の手で造られたエルサレム神殿はいつか破壊されてしまう日が来るが、主イエスが十字架にかかって死に、三日目に復活することで、主イエス・キリストの体である新しい神殿が築かれとお語りになったのです。

主イエスの体である新しい神殿、新しい礼拝に生きる群れ、それは教会です。キリストの体である教会で、主イエス・キリストご自身が大祭司となり、父なる神と私たちとの間を執り成して下さるのです。しかし大祭司たちに、それはエルサレム神殿への冒瀆としか聞こえませんでした。イエスは神殿の権威を認めず神殿を破壊し、別の神殿を建てようとしている、と受け取ったのです。エルサレム神殿の祭司、ユダヤ人の宗教的指導者は神殿があってこそ、彼らの地位は守られ、権威が保証されるのです。神殿の崩壊を語る主イエスへの彼らの怒りは激しいものでした。

大祭司は61節後半から決定的な「お前はほむべき方の子、メシアなのか」と問いかけます。「メシア」と訳されている言葉は原文のギリシャ語では「クリストス」つまりキリストです。それはヘブライ語のメシア、油を注がれた者、という言葉をギリシャ語にした言葉です。「キリスト」にしても「メシア」にしても、意味は、神から遣わされる救い主、ということです。「ほむべき方」とは神様のことです。ユダヤ人は神様のことを直接呼ぶことを避けて「ほむべき方」、ほめたたえられるべき方、という言葉を使ったのです。ですからこの大祭司の問いは、「おまえは神の子である救い主なのか」という意味です。これは主イエスの本質に迫る根本的、決定的な問いです。偽証者を立てるような小細工を弄するのではなくて、最初からこのことを問えばよかったのです。しかし大祭司は、主イエスがこの問いにはっきり答えるとは思っていなかったのでしょう。ところが、それまで完全な沈黙を貫いて来られた主イエスが、この決定的な、根本的な問いには、はっきりとお答えになったのです。主イエスは「そうです」とお答えになりました。ここは口語訳聖書では「わたしがそれである」と訳されていました。原文ギリシャ語で「エゴ― エイミ」と言い、英語で言えば「I am.」という言葉で、「私はある」とか「私は…である」と訳すことができます。大祭司の「お前はほむべき方の子、メシアなのか」という問いに対して主イエスは、「その通り、私は神の子、メシアである」とはっきりと宣言なさったのです。それに続いて主イエスは「あなたたちは、人の子が全能の神の右に座り、天の雲に囲まれて来るのを見る」とまで言われました。「人の子」とは主イエスがご自分を語る言葉です。神の右に座るというのは、詩編110編1節において神が救い主に対してお語りになったことであり、雲に囲まれて来るというのは、本日共に読まれた旧約聖書ダニエル書7章13節に語られている、来るべきメシアの姿です。主イエスはご自身がそのような権威と力を父なる神から授けられ、その権威をもってもう一度来られることを宣言されたのです。

すると、64節で大祭司が「『諸君は冒涜の言葉を聞いた。どう考えるか。』と言って、一同は、死刑にすべきだと決議した。」とあります。判決に反対者はいませんでした。ここが不可思議なところです。ユダヤ教の律法によれば、「死刑の判決が全員一致の場合は無効」とされているのです。何故なら、誰にも弁護すべきところは必ずあると考えるべきで、全員一致ということは、偏見か興奮によるものであり、やり直しのきかない死刑については、「無効とすべきである」と定められていたのです。しかしそれは、「無効」なのではなく、「翌日に繰り越しにする」という意味であるという反論もあります。

確かに、この裁判は「あり得ない」と言われる程に異常なものでした。誰が考えても「あり得ないようなこと」を、もしマルコがでっち上げたとするならば、果たして当時の誰がこの出来事を真面目に受け止めたでしょうか。マルコによる福音書の最初の読者は、ほかならぬユダヤ人であった筈です。マルコが語っていることは、誰もが信じられないような「あり得ないこと」が、まさに、そこで起こったということです。

この夜の裁判においては、実は、何一つ「まともなこと」はありませんでした。すべてが異常なのです。その「あり得ないこと」が起きたところに、神の支配から転落した人間の現実の姿があるのです。

私たちは、この主イエスの裁判を通して、まさに常軌を失っている人間の姿と、ただ一人真実であられる主イエス・キリストの御姿を見なければなりません。

 

ここに、主イエスが神の独り子、救い主であられることと、罪人として断罪され、十字架につけられることが分ち難く結びついているのです。死に値する罪人として断罪されることにおいてこそ、主イエスは神の子、私たちの救い主なのです。

それは、私たちが、死に値する罪人だからです。神によって造られ生かされているのに、その神に背き逆らい、神をないがしろにして自分が主人となって生きている私たちは、神を冒瀆する罪人として断罪されなければならない者です。その私たちの罪を主イエスは全て背負って、ご自分が死に値する罪人として断罪され、十字架につけられたのです。その贖いによって主イエスは私たちの救い主、メシアとなって下さったのです。この主イエスこそ神の子であり、私たちの救い主であられると信じることが私たちの信仰です。

主イエスのすばらしいみ言葉やみ業に感動して、この方こそ救い主だと信じて従って行くことが信仰なのではありません。主イエスに従って行くことによって私たちがより良い立派な人間になっていくこと、より優れた愛の働きが出来るようなることが信仰ではありません。主イエス・キリストを信じるとは、主イエスがこの私の罪を背負って身代わりとして十字架にかかって死んで下さったことを信じることです。

主イエス・キリストの十字架の死は、神を神として崇めることを見失った人間の罪の結果であり、「私には関係がない」と言うその言葉が、神の御子を十字架に追い詰めたのです。

主イエスはここでさらに、ご自分が、復活して天に昇り、全能の神の右に座ること、そしてそこから、天の雲に囲まれて栄光の内にもう一度来られることを宣言されました。これは大祭司の問いに対する答えではなく、主イエスを神の子、救い主と信じて生きる私たちのためです。

およそ二千年前の主イエスの十字架の死によって与えられた救いは、現在を生きる私たちを支え、力づけ、そして私たちの人生の終わり、肉体の死を越えて、この世の終わりにおける完成にまで及んでいくのです。私たちはそのことを信じる信仰を、毎週の礼拝の中で、使徒信条を告白することによって言い表しています。十字架につけられて死んだ主イエス・キリストが、「三日目に死人のうちよりよみがへり、天に昇り、全能の父なる神の右に坐したまへり、かしこより来りて、生ける者と死ねる者とを審きたまはん」。この告白は、大祭司の決定的な問いに対して主イエスが宣言なさった御言葉に基づいているのです。主イエスの十字架の死によって与えられた罪の赦しを信じて生きる私たちは、今全能の父なる神の右に座して私たちのために執り成して下さっている主イエスに支えられ、そして将来、世の終わりに主イエスがもう一度来て下さり、救いを完成して下さることを待ち望みつつ歩むことができるのです。

この豊かな救いの恵みをお一人でも多くのご家族友人と共にいたしましょう。

お祈りを致します。

暗黒の園

主日礼拝

齋藤 正 牧師

《賛美歌》

讃美歌8番
讃美歌285番
讃美歌528番

《聖書箇所》

旧約聖書:詩編 88編2-8節 (旧約聖書924ページ)

88:2 主よ、わたしを救ってくださる神よ/昼は、助けを求めて叫び/夜も、御前におります。
88:3 わたしの祈りが御もとに届きますように。わたしの声に耳を傾けてください。
88:4 わたしの魂は苦難を味わい尽くし/命は陰府にのぞんでいます。
88:5 穴に下る者のうちに数えられ/力を失った者とされ
88:6 汚れた者と見なされ/死人のうちに放たれて/墓に横たわる者となりました。あなたはこのような者に心を留められません。彼らは御手から切り離されています。
88:7 あなたは地の底の穴にわたしを置かれます/影に閉ざされた所、暗闇の地に。
88:8 あなたの憤りがわたしを押さえつけ/あなたの起こす波がわたしを苦しめます。〔セラ

新約聖書:マルコによる福音書 14章43-52節 (新約聖書93ページ)

◆裏切られ、逮捕される

14:43 さて、イエスがまだ話しておられると、十二人の一人であるユダが進み寄って来た。祭司長、律法学者、長老たちの遣わした群衆も、剣や棒を持って一緒に来た。
14:44 イエスを裏切ろうとしていたユダは、「わたしが接吻するのが、その人だ。捕まえて、逃がさないように連れて行け」と、前もって合図を決めていた。
14:45 ユダはやって来るとすぐに、イエスに近寄り、「先生」と言って接吻した。
14:46 人々は、イエスに手をかけて捕らえた。
14:47 居合わせた人々のうちのある者が、剣を抜いて大祭司の手下に打ってかかり、片方の耳を切り落とした。
14:48 そこで、イエスは彼らに言われた。「まるで強盗にでも向かうように、剣や棒を持って捕らえに来たのか。
14:49 わたしは毎日、神殿の境内で一緒にいて教えていたのに、あなたたちはわたしを捕らえなかった。しかし、これは聖書の言葉が実現するためである。」
14:50 弟子たちは皆、イエスを見捨てて逃げてしまった。

◆一人の若者、逃げる

14:51 一人の若者が、素肌に亜麻布をまとってイエスについて来ていた。人々が捕らえようとすると、
14:52 亜麻布を捨てて裸で逃げてしまった。

《説教》『暗黒の園』

本日のマルコによる福音書14章はいよいよ主イエスの十字架の日の物語です。43節「さて、イエスがまだ話しておられると、」と始まります。

前回の40節に記されていたように、主イエスが苦しみもだえて祈られていた時に居眠りしてしまった弟子たちは恐らく寝ぼけ眼だったことでしょう。今、何が起ころうとしているのか。そして、弟子たちは、自分たちがどのような場面に置かれているのか。それを理解するのも難しかったでしょう。主イエスの苦しみの祈りに共に祈ることが出来なかった弟子たちは、自分が、どのような場に置かれているかを知ることも出来なかったのです。

しかし、主イエスは、眠ってしまっていた弟子たちとは正反対に、すべての「時」をご存知でした。「今から何が起きるのか」ということだけではなく、父なる神の御心を「如何に実現すべきか」という御自分の使命を、迫り来る十字架の苦難の中で見つめておられたのです。

ユダが祭司長の遣わした群衆を引き連れて近づいて来たのは、このようなときでした。聖書は、彼のことを「十二人の一人であるユダ」と記しています。何故、わざわざこのように記すのでしょうか。

ユダという名前は、イスラエル民族にとって、十二部族の一つであるだけではなく、ダビデ王につながる名であり、「ユダヤ人を代表する名前」で、誇るべき名でした。ですから、ユダという名前は現代のイスラエルに至るまで代表的な名前であり、多くの人々がこの名前を持っています。

それ故に、数多いほかのユダと区別するために、「十二人の一人であるユダと記した」と言えるかもしれません。しかし、弟子たちの中には、タダイと呼ばれた「ヤコブの子ユダ」という人物もいました。これらのユダたちとの区別だけならば、「イスカリオテのユダ」と言えばよいのです。聖書が、あえて「十二人の弟子の一人」と表現しているのは、主イエスを引き渡す者は誰かということを特定しようとしているのではなく、他ならぬ、十二弟子と呼ばれ、もっとも主イエスの愛と信頼を受けて身近にいた者の中から「引き渡す者」が出たということを、特に強調しているのです。

十二弟子とは、主イエス御自身が選び、召し出した者です。主イエスの御言葉を繰り返し聞き、誰よりも主イエスの御業を近くで見続け、常に行動を共にし、ある時は代理として伝道と癒しの業までも任された人々でした。その十二弟子の一人が主イエスを裏切ったのです。

聖書が告げるのは、単にユダという一人の特定の個人が主イエスを引き渡したというだけではなく、「十二弟子の中にさえもサタンの誘惑に負ける者がいる」ということを示していると言えるでしょう。ここに、人間の罪の深さが明らかにされているのです。

私たちは、「自分はユダとは違う」などと簡単に考えてはなりません。私たちは、ユダほど主イエスの御側にいたこともありませんし、ユダほど主イエスの御言葉に親しんできた者でもありません。そのユダでさえも、「サタンに負けた」とするならば、私たちは、その戦いに勝利するためには何が必要かを、考えてみるべきでしょう。

ユダは、「接吻によってイエスを教える」と打ち合わせをして来ました。わざわざ接吻しなくとも指さしてでも「これがイエスだ」と教えることは出来た筈です。接吻するためには、誰よりも近づかなければなりません。神を裏切る者は、神にもっとも近づこうとするのです。いやむしろ、「近づくことが出来る」と考えたから、このような約束をして来たのでしょう。

サタンに囚われている者の惨めさとは、「神の御前での畏れを失う」ということです。自分が、「平気でイエスの御前に出ることが出来る」ということを、当たり前のこととして考えるのです。

主イエスは、ユダの欺瞞に満ちた接吻をお受けになりました。主イエスは、ユダの心の中にあるものを御存知でした。ユダが考えていること、ユダがしようとしていること、ユダのすべてを御存知で、そのすべてを見通しておられる主イエス・キリストが、何も言わずにユダの接吻をお受けになったのです。

それは、罪の中にある人間にとっては恐るべきことと言わねばなりません。ユダは、接吻するほど近く神の御子に近づいており、そして神の独り子で神なる主イエスは、ユダの本当の姿をご存知だからです。

偽ることの出来ない方を「偽れる」と思い込んでいるイスカリオテのユダ、それをすべてを知りつつユダを見詰めている主イエス・キリストの眼差しを、ここに見なければなりません。

この時、居眠りから目覚めたばかりの弟子たちはどうしたでしょうか。46節以下に「人々は、イエスに手をかけて捕らえた。居合わせた人々のうちのある者が、剣を抜いて大祭司の手下に打ってかかり、片方の耳を切り落とした。」とあります。この勇ましい人物は、ヨハネ福音書によればペトロでした。さらにルカ福音書によれば、この時弟子たちは、剣を二本持っていたとも記されており、ペトロは、最後の晩餐の席上で約束したとおり、剣まで持ち込んで勇ましくふるまったようです。そのペトロに、マタイ福音書では、「剣をさやに納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる」という主イエスのお言葉があり、ルカ福音書では、主イエスが、耳を切り落とされた人に触れてお癒しになったことが記されています。主イエスに戦う気がないと見ると、すべての弟子たちはすぐ恐怖に囚われ、主イエスを見棄てて逃げ出してしまいました。彼らは何故逃げ出したのでしようか。

ペトロたちの必死の反撃は主イエスに否定されました。私たちは自分の信念に基づいて「よい」と思う行動をとる時は勇敢であり得ます。しかし、その信念や決意が否定されると、たちまち弱者に変わるのです。

主イエスを守るべく剣さえ振り回した弟子たちは、自分の決意で闘おうとしました。ゲッセマネまで従って来た弟子たちの中には、最後の晩餐で死さえ覚悟すると語った者もいました。剣を振るう以上、生命を捨てる覚悟はあった筈です。「死んでも主イエスを守る」という忠誠心に殉じようとする弟子たちは確かにいました。

しかし、よく考えて見ましょう。それは神の御意志に従って、主イエスと共に死ぬという覚悟ではありませんでした。

本日共に読まれた旧約聖書は詩編の第88編ですが、これは詩編の中で最も暗い、絶望的な詩です。最後の19節には「愛する者も友も、あなたはわたしから遠ざけてしまわれました。今、わたしに親しいのは暗闇だけです」とあります。また、この詩の9節には、「あなたはわたしから、親しい者を遠ざけられました。彼らにとってわたしは忌むべき者となりました。わたしは閉じ込められて出られません」とあります。主イエスの逮捕の場面において主イエスが置かれている状況は、この詩編に語られている通りの絶望の状況だと言えるでしょう。しかし驚くべきことに、主イエスご自身は決して絶望の中には、おられないのです。

それは、49節の終わりの「しかしこれは聖書の言葉が実現するためである」という御言葉です。十二人の一人に裏切られ、一番の弟子も恐怖心から弟子としてのあり方を失い、全ての弟子が逃げ去ってしまい、主イエスはまるで強盗のように捕えられるのです。それら全てのことが、聖書の御言葉の実現、つまり父なる神の御心、御計画によるのだということを、主イエスははっきりと意識され、父なる神の御心に従おうとしておられるのです。

この時の弟子たちを聖書は、ただ「逃げ去った」とは言わず、「イエスを見捨てて」と記しています。しかも、51節以下には「一人の若者が、素肌に亜麻布をまとつてイエスについて来ていた。人々が捕えようとすると、亜麻布を捨てて裸で逃げてしまった。」とあります。この見苦しい若者については、マルコ福音書しか記されていませんが、この若者こそ、この福音書を書いたマルコ自身であったとも伝えられています。

マルコの母は熱心に主イエスに従ってきました。最後の晩餐はマルコの家の2階であったとも言われています。まだ若かったせいか最後の晩餐にも登場せず、弟子として名前のなかったマルコが、何故、わざわざ自分の醜態を福音書に記したのでしょうか。おそらく、主イエスを見捨てて逃げ去った弟子たちの中に自分を加えなければ気が済まなかったからでしょう。マルコによる福音書が語りたいのは、「裏切ったのは、イスカリオテのユダ一人だけではない」ということです。

祈ることのできない人間は、キリストと共に死ぬことはもちろん、生きることさえも共にすることはできないのです。

まさに、ゲッセマネは暗黒の園でした。人間の醜さ、だらしなさ、愚かさ、そのすべてが余すところなくさらけ出された場でもありました。これがここに示された人間、私たちの本当の姿ではないでしょうか。

しかし、その暗黒の中に一筋の光を見ることができます。それが49節の「これは聖書の言葉が実現するためである。」と言われた主イエスの御言葉です。この一言が私たちに希望を与えるのです。

ここにさらけ出された、醜く、だらしなく、愚かな人間を、むしろ、その愚かさの故に、罪の束縛から救い出そうとする神の御心がここに貫かれるのです。

主イエスが、人間たちの弱さ、罪を担い、ご自分の十字架の死によって根底から支えて下さっているのです。

主イエスが支えて下さったからこそ、逃げだしてしまったペトロが、後に主イエスに遣わされて使徒となることができたのです。逃げ去ってしまった弟子たちが、復活された主イエスのもとに立ち帰り、ペトロと共に使徒となることができたのも、主イエスが彼らの弱さ、罪を担い、支えて下さったからです。そして福音書記者のマルコがここに、裸で逃げ去った自分の恥ずかしい挫折、失敗の姿を書き入れたのも、この自分の挫折、失敗、弱さ、罪が、十字架につけられ、そして復活なさった主イエス・キリストによって担われ、支えられていた、その事実を描くためでした。主イエスの十字架の苦しみと死とによって、マルコ自身が、罪を赦され、信仰者として、福音を書き記す福音書記者として立てられました。マルコはその素晴しい恵み、それこそ福音と呼ばれる喜ばしい知らせを、余すところなく伝える者となったのです。

このゲッセマネの夜、人間は神を見捨てました。世界は神なき暗黒を選びました。しかし神は、人間を見捨てられることはありませんでした。罪の中に苦しみ、サタンの誘惑の前にうろたえる私たちのために、主イエス・キリストは、どこまでも救いの御業を達成しようと祈られ十字架に向かわれたのです。それがゲッセマネです。

今、私たちは、このキリスト・イエスを「主」と告白しています。その私たちの告白のために主イエスが「何をなされたのか」、それを私たちはしっかりと考えてみるべきでしょう。

暗黒のゲッセマネの園に別れを告げる私たちは、この夜の孤独に耐え祈られた御子キリストに応え、ひたすら祈りを献げる者となるのです。ゴルゴタの十字架に向かわれる御子キリストは、私たちに「祈りなさい」と求めておられるのです。今日はその主イエス・キリストの赦しを祈念する聖餐式にも与ります。

お祈りを致します。