十字架

主日礼拝説教

齋藤 正 牧師

《賛美歌》

讃美歌181番
讃美歌301番
讃美歌495番

《聖書箇所》

旧約聖書:詩編 69編1-7節 (旧約聖書901ページ)

69:1 【指揮者によって。「ゆり」に合わせて。ダビデの詩。】
69:2 神よ、わたしを救ってください。大水が喉元に達しました。
69:3 わたしは深い沼にはまり込み/足がかりもありません。大水の深い底にまで沈み/奔流がわたしを押し流します。
69:4 叫び続けて疲れ、喉は涸れ/わたしの神を待ち望むあまり/目は衰えてしまいました。
69:5 理由もなくわたしを憎む者は/この頭の髪よりも数多く/いわれなくわたしに敵意を抱く者/滅ぼそうとする者は力を増して行きます。わたしは自分が奪わなかったものすら/償わねばなりません。
69:6 神よ、わたしの愚かさは、よくご存じです。罪過もあなたには隠れもないことです。
69:7 万軍の主、わたしの神よ/あなたに望みをおく人々が/わたしを恥としませんように。イスラエルの神よ/あなたを求める人々が/わたしを屈辱としませんように。

新約聖書:マルコによる福音書 15章33-41節 (新約聖書96ページ)

◆イエスの死

15:33 昼の十二時になると、全地は暗くなり、それが三時まで続いた。
15:34 三時にイエスは大声で叫ばれた。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。
15:35 そばに居合わせた人々のうちには、これを聞いて、「そら、エリヤを呼んでいる」と言う者がいた。
15:36 ある者が走り寄り、海綿に酸いぶどう酒を含ませて葦の棒に付け、「待て、エリヤが彼を降ろしに来るかどうか、見ていよう」と言いながら、イエスに飲ませようとした。
15:37 しかし、イエスは大声を出して息を引き取られた。
15:38 すると、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けた。
15:39 百人隊長がイエスの方を向いて、そばに立っていた。そして、イエスがこのように息を引き取られたのを見て、「本当に、この人は神の子だった」と言った。
15:40 また、婦人たちも遠くから見守っていた。その中には、マグダラのマリア、小ヤコブとヨセの母マリア、そしてサロメがいた。
15:41 この婦人たちは、イエスがガリラヤにおられたとき、イエスに従って来て世話をしていた人々である。なおそのほかにも、イエスと共にエルサレムへ上って来た婦人たちが大勢いた。

《説教》『十字架』

代読:齋藤千鶴子長老

主イエスは、鞭で打たれた後、朝の9時に十字架につけられました。そして、午後3時までの6時間、苦しみ抜かれました。聖書には昼の十二時から「全地が暗く」なったと記されています。

この時の暗黒は何であったのでしょうか。ある人は日食であろうと言います。またある人は、東のシリアの砂漠から吹いて来た砂嵐によって太陽が隠されたと説明します。聖書は、「全地は暗くなって、3時まで続いた」と記していますが、聖書が告げることを裏付ける記録はどこにもなく、このときの暗黒を書き残した資料はありません。

1951年度のノーベル文学賞に輝いたスウェーデンの作家ラーゲル・クヴィストは、受賞作品の小説「バラバ」の中で、主イエスの十字架の代わりに解放されたバラバのように、ナザレのイエスを、自分の罪の身代わりになって死んだ方として仰ぐ者だけが認める「暗黒」なのだと書いています。暗闇の十字架の下で「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」との声を聴いた者が、「あれはいったい何であったのか」と、生涯をかけて尋ね求めるべき「暗黒」なのです。

古代の記録の何処にも記されていない「暗黒」、それは神によって造られたこの世界のすべてが光を失い「暗黒」となったと、ここに宣言しているのです。光を失った世界、それこそが主イエスが十字架上で最後に叫ばれた言葉によって表されているのです。まさに、十字架の日は暗黒の日でした。すべての人間が絶望を見るべき日でした。しかし、歴史の記録が示していることは、「その暗黒に気付かなかったのがこの世界である」ということではないでしょうか。

聖書が、「全地は暗くなった」と告げているのに、それに気付いた人はいなかったと言えるでしょう。神の御子が、私たちの絶望を代わりに引き受けて下さっている時にも、自分たちは「明るさの中で生きている」と暗黒を思わなかったのです。

そして、その「暗黒」は、主イエスの十字架の死と共に終わったのであり、主イエスの死が「暗黒」を追い払ったと言うべきでしょう。

暗黒の中での主イエスの叫びは、詩編22編の冒頭の言葉です。詩編22編は、確かにこの嘆きの言葉をもって始まっていますが、全編を貫くものは神への信頼であり、神の栄光を讃美する喜びの歌です。主イエスは人としてこの世での最後の時を迎え、日ごろ親しんでいた詩編の中の一つの聖句が、思わず口から出たとみるべきでしょう。

確かに、主イエスの十字架は、この言葉の通りでした。御子イエスは、ゴルゴタにおいて、まさしく「神に捨てられた」のです。主イエスの十字架の死を、殉教者の死や、英雄の死のように美化してはなりません。主イエスの十字架には、惨めさと醜さ、そして神に見捨てられた絶望を見なければならないのです。神の怒りが表されたものに他なりません。十字架において、私たちの罪のすべてが、神の眼の前に顕わにされるのです。自分自身の罪を、神の裁きの前に曝すのが十字架なのです。

それは、本来の罪人としての人間の死の姿です。私たちは、生活の慌ただしさや、職場の厳しさによって、また、さまざまな趣味や娯楽によって、死を忘れ、罪の重荷を考えることなく過ごしています。

しかし、私たちは、死に直面した時、もはや、その恐怖を紛らわすものは何一つなく、裸の自分がただ一人、神の裁きの前に立たされるのです。 これが死の恐怖です。

そこで出会う神は正義の神であり、御心に逆らって生きて来た者の罪を、どこまでも追及する神です。

神の怒り、神の裁き、神からの完全な絶縁「もうお前のことは知らぬ」と告げられることが、罪の下における死です。

十字架における主イエスの叫びは、この絶望を表すものです。私たちすべてが味わわなければならない苦しみを、主イエスが受けられたことを現しているのです。肉体の苦しみは死と共に終わります。しかし、魂の苦しみは、そこから始まるのです。「イエスの叫びに真実の暗黒を見る」とは、こういうことなのです。

すべての人間が、例外なく、この怖ろしい神の裁きの下で絶望を味わわなければならない、と告げる聖書が、同時に、「この暗黒をイエス・キリストが引き受け」てくださったと記しているのです。

その絶望を、私たち自身では負えない怖ろしさであることを知っておられる神の御子が、私たちに代わって引き受けてくださったのです。御子イエス・キリストは、「私と共に生きてくださる」だけではなく、私たちに先立って、その恐ろしさを担ってくださったのです。

そして、「この十字架の時」から、新しい時代が始まりました。

37節に、「イエスは大声を出して息を引き取られた。」とありますが、ここをヨハネ福音書19章30節では、主イエスの最後の言葉を「成し遂げられた」と記しています。神の怒り、神の裁きは、イエスの死によって、成し遂げられたのです。また、口語訳は、ヨハネ福音書19章30節を「すべてが終った」と訳しています。

「すべてが終った」。これは驚くべき言葉です。「すべてが終った」即ち「神の裁きが終った」と御子イエスは最後に言われたのです。私たちの罪は、「もう追及されることはなくなった」と主イエスは、この世の生命の最後の言葉でおっしゃったのです。小説のバラバが、主イエスの死を見て「これで自分は本当に自由になった」と確信したように、主イエスの死によって、私たちに対する神の怒りは終わり、私たちの罪は赦されたのです。

その罪に気づかず、無知の中に日々を過ごして来た者の犯した罪のために、神の御子は、贖いの小羊となられたと聖書は語るのです。そして、38節に「すると、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けた。」とあります。「神殿の垂れ幕」とは、至聖所と聖所との間にある幕のことです。通常は祭司と言えども、人はその幕の内に入ることは許されず、年に一度、大祭司だけが「全イスラエルの罪の赦しを祈るために、入ることが出来る」と定められていました。

従って、この「幕」とは、神の神聖さの象徴であると共に、聖なる神の御前に出られない「罪の下にある人間」を隔てる象徴でもありました。

「その幕が裂けて隔てが無くなった」のです。主イエスの十字架の死によって、私たちと父なる神を隔てていたものを、主イエスは御自身の生命と引き換えに取り去って下さったのです。

そして、エデンの園以来の長い間の苦しみが今や終わり、神を「父」と呼び、神から「子よ」と呼ばれる神との交わりが回復したのです。

主イエス・キリストの十字架の御業は、私たちと神との関係を回復しただけではなく、同時に、人と人との交わりをも正しくされたのです。それはエフェソの信徒への手紙 2章14節以下に「実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。」とあるのです。

ここにあるように、私たちの幸福のすべてが、十字架に基づいていることは明らかです。

39節にローマ軍の百人隊長が息を引き取られる主イエスを見て、「本当に、この人は神の子だった」と言ったとあります。

神に選ばれたユダヤ人が主イエスを十字架に追いやり、異邦人であるローマの百人隊長が主イエスを「神の子」と告白したのです。

ここに、私たちは、「神は、すべての人を救いに招き、キリストへの信仰のみによって、新しい民を誕生させる」という、新しい時代の始まりを見ることができるのです。

主イエスを「神の子」と告白をする者が神の国の民、新しい民であり、神の家族なのです。十字架の下、一度は絶望の暗黒を味わった私たちは、「すべてが終った」というキリストの宣言に守られ、神の御国へ招かれているのです。

新しい神の家族。主イエスが流された「十字架の血」によって救われた新しい民にお一人でも多くのご家族やご友人が加えられます様、お祈りを致します。

悲しみの道

主日礼拝説教

齋藤 正 牧師

《賛美歌》

讃美歌183番
讃美歌280番
讃美歌512番

《聖書箇所》

旧約聖書:詩編 22編1-9節 (旧約聖書857ページ)

22:1 【指揮者によって。「暁の雌鹿」に合わせて。賛歌。ダビデの詩。】
22:2 わたしの神よ、わたしの神よ/なぜわたしをお見捨てになるのか。なぜわたしを遠く離れ、救おうとせず/呻きも言葉も聞いてくださらないのか。
22:3 わたしの神よ/昼は、呼び求めても答えてくださらない。夜も、黙ることをお許しにならない。
22:4 だがあなたは、聖所にいまし/イスラエルの賛美を受ける方。
22:5 わたしたちの先祖はあなたに依り頼み/依り頼んで、救われて来た。
22:6 助けを求めてあなたに叫び、救い出され/あなたに依り頼んで、裏切られたことはない。
22:7 わたしは虫けら、とても人とはいえない。人間の屑、民の恥。
22:8 わたしを見る人は皆、わたしを嘲笑い/唇を突き出し、頭を振る。
22:9 「主に頼んで救ってもらうがよい。主が愛しておられるなら/助けてくださるだろう。」

新約聖書:マルコによる福音書 15章16-32節 (新約聖書96ページ)

◆兵士から侮辱される

15:16 兵士たちは、官邸、すなわち総督官邸の中に、イエスを引いて行き、部隊の全員を呼び集めた。
15:17 そして、イエスに紫の服を着せ、茨の冠を編んでかぶらせ、
15:18 「ユダヤ人の王、万歳」と言って敬礼し始めた。
15:19 また何度も、葦の棒で頭をたたき、唾を吐きかけ、ひざまずいて拝んだりした。
15:20 このようにイエスを侮辱したあげく、紫の服を脱がせて元の服を着せた。そして、十字架につけるために外へ引き出した。

◆十字架につけられる

15:21 そこへ、アレクサンドロとルフォスとの父でシモンというキレネ人が、田舎から出て来て通りかかったので、兵士たちはイエスの十字架を無理に担がせた。
15:22 そして、イエスをゴルゴタという所――その意味は「されこうべの場所」――に連れて行った。
15:23 没薬を混ぜたぶどう酒を飲ませようとしたが、イエスはお受けにならなかった。
15:24 それから、兵士たちはイエスを十字架につけて、/その服を分け合った、/だれが何を取るかをくじ引きで決めてから。
15:25 イエスを十字架につけたのは、午前九時であった。
15:26 罪状書きには、「ユダヤ人の王」と書いてあった。
15:27 また、イエスと一緒に二人の強盗を、一人は右にもう一人は左に、十字架につけた。
15:28 (†底本に節が欠落 異本訳)こうして、「その人は犯罪人の一人に数えられた」という聖書の言葉が実現した。
15:29 そこを通りかかった人々は、頭を振りながらイエスをののしって言った。「おやおや、神殿を打ち倒し、三日で建てる者、
15:30 十字架から降りて自分を救ってみろ。」
15:31 同じように、祭司長たちも律法学者たちと一緒になって、代わる代わるイエスを侮辱して言った。「他人は救ったのに、自分は救えない。
15:32 メシア、イスラエルの王、今すぐ十字架から降りるがいい。それを見たら、信じてやろう。」一緒に十字架につけられた者たちも、イエスをののしった。

《説教》『悲しみの道』

主イエスが十字架につけられたのは、ユダヤで最も重要な「過越の祭」が始まる日でした。祭りのために世界中から帰って来たユダヤ人で、エルサレムの人口は普段の十倍以上になり、この日、町の中は大勢の群衆で満たされていました。

当時、ローマ帝国の地方長官ポンティオ・ピラトは、地中海に面した町カイサリアに駐在しており、特別な時のみエルサレムに来ました。エルサレム神殿北側に隣接するアントニア要塞に、ローマ軍の警護司令部があり、長官宿舎もここにありました。この日、主イエスが裁判を受け、鞭打たれたのはこのアントニア要塞で、そこから引き出されて、ゴルゴタの丘まで十字架を背負って歩かされたのでした。

かつてアントニア要塞があった場所は、現在、旧市街唯一の東側の門、かつては「羊の門」と呼ばれ、のちには「ライオン門・ステファノ門」と名前が変化した門を入った辺りです。そこから、市の中心部まで続いている昔ながらの狭い石畳の道が、「悲しみの道、ヴィア・ドロローサ」の名残りです。当時、この道は、町の北側を通り、マーケットを抜けて北の城門の外、ゴルゴタの丘へ続いていたと考えられます。もちろん、当時の地面は現在のはるか地下ですが、場所的には、おおむね同じと考えてよいでしょう。

主イエスは、その賑やかな通りを、兵士たちに追われて行かれました。ユダヤ人であることを最も強く意識する過越祭をエルサレムで過ごすために、世界各地から帰って来た人々で溢れている目抜き通りでした。多くの人々が、この日、思いもかけず、ゴルゴタヘ向かう主イエスに出会いました。

しかしその時、誰一人として、今、自分が立っている所が、後に「悲しみの道」と呼ばれ、何も知らずに見物している自分がその十字架に関わっているなど、考えもしませんでした。16節に「兵士たちは、官邸、すなわち総督官邸の中に、イエスを引いて行き、部隊の全員を呼び集めた。」とあります。部隊(スペイラ)とは、ローマ軍の軍団(レギオン)の十分の一、つまり「大隊」のことです。指揮官は千人隊長、編成上の定員は六百名です。この時、アントニア要塞にレギオン全員が集結していたか、或いはピラトの親衛隊なのか、また全員が集まることが出来る場所があったのかなど、議論はさまざまです。

しかしながら、聖書が言いたいのは、「全部隊」「全員」と見ることなのです。主イエスの十字架に関わったのは「どの部隊か」ということではなく、「全部隊」ということであり、その意図から言えば、「全ローマ軍」とでも言うべきなのです。

ここで見直してみると、マルコ福音書14章55節以下の「夜の法廷」であるサンヘドリンは「全員出席」ではあり得なかったにも拘わらず、死刑を求刑したのは「全員」であると記されており、議決したのは「一同」であったと記されています。また、マタイ福音書27章25節のピラトの判決に対し、「民はこぞって答えた」と訳されていますが、正しくは「民の全員が答えた」です。すべての人間が「十字架」に関わっているのであり、例外なく、『すべての人間』が、「イエスを見捨てた罪」を担わなければならないと、聖書はここに告げているのです。

17節以下、兵士たちは主イエスを辱めました。彼らは、主イエスを滑稽な王様に仕立て上げました。紫の服を着せ、茨の冠をかぶらせ、「ひざまずいて拝んだ」と記されていますが、貧しい兵士たちが「紫の服」など持っている筈はなく、おそらく「布きれ」でしょう。彼らがしたことは「単なる冗談」であり、深い意味などなかったことは確かです。何も分らない兵士たちの無意味な時間つぶしの行動に過ぎませんでした。そして、命じられたまま、囚人をゴルゴタへ向けて送り出したのです。

しかし、ここに重要な問題提起がなされているのです。兵士たちは、主イエスを「ユダヤ人の王」と呼び、王の服装をさせからかいました。まさに、これこそ、本来、すべての人間が神の御子に対し、心からの敬意をもって示さなければならなかったことなのです。

今、私たちは、世界の王である神の子イエス・キリストを、どのように仰いでいるでしょうか。

あの兵士たちのように、「ほんの一時の気まぐれ」で祭り上げ、自分の気持ちが変わると、直ちに「王の姿を奪い取ってしまう」というようなことは「あり得ない」と断言できるでしょうか。

主イエスの御前に「真心をもって平伏す」ことなく、形だけの礼拝を守っている者は、この兵士たちのように、状況次第で簡単に主イエスを自分自身の王座から引きずり下ろして信じることを止めてしまうのです。

神の御子を十字架につけた罪は、自覚なしに行った兵士たちも背負わなければなりません。無知な兵士たちの一時の気まぐれな礼拝が、「ゴルゴタへの道」の出発点でなされたということの意味を、良く考えてみるべきでしょう。

更に、29節以下にある様に、通りがかりの者も祭司長や律法学者たちも、言っていることは同じです。

主イエス・キリストの十字架を自分の問題として考えない人々の「言うことは同じ」なのです。「もし神なら十字架から降りてみよ」「全能の力があるならば、現してみよ」。この声は、以前、どこかで聞いたことがあるのではないでしょうか。ゴルゴタの丘で、十字架の下から上がる数々のこの声こそ、サタンの最後の誘惑なのです。「それを見たら信じよう」と祭司長たちは言いました。

本日共に読まれた旧約聖書の詩編第22編は、主イエスの十字架の場面とつながっています。特に、主イエスが十字架の上で最後に祈られた、「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ(わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか)」が、この詩編22編の冒頭の言葉です。それだけでなく、8~9節に「わたしを見る人は皆、わたしを嘲笑い、唇を突き出し、頭を振る。『主に頼んで救ってもらうがよい。主が愛しておられるなら、助けてくださるだろう』」は、29節以下の、通りかかった人々が頭を振りながら主イエスをののしり、「自分を救ってみろ」と言ったことと結びつきます。また19節「わたしの着物を分け、衣を取ろうとしてくじを引く」は、兵士たちが主イエスの服をくじ引きにして分けたことと結びつきます。主イエスの十字架は、この詩編22編に預言されていたことの成就、実現だったのです。主イエスがこのような苦しみを受けて死なれることを、父なる神は旧約の時代から計画しておられ、予告されていたのです。十字架にかけられて死ぬ、この主イエスをこそ、神はユダヤ人の王、神の民の王として、神の救いにあずかる者たちが従うべき王として立てられたのです。

もし、主イエスが十字架から降りて来て、ローマ軍を滅ぼしたとしても、群衆の「罪の重荷」はどうなるでしょう。

御子が世に来られた目的は、私たちの罪の贖いであり、主イエスがこの世に来られたのは、自ら「贖いの小羊」となり、十字架の上ですべての人々の「罪」を清算することです。

「もし神なら十字架から降りてみよ。そうしたら信じよう」という言葉は、十字架の御業を避けて通ることであり、身代わりの死を認めず、罪の中に留まり続けることです。

これが、世に来られた「神の御子の目的」「すべての人間の救い」を台無しにしてしまおうとする「サタンの最後の挑戦」でした。主イエスをからかったローマの兵士や通りがかりの人々、祭司長や律法学者たち、そして隣の十字架に架けられた男まで、ありとあらゆるところに、サタンは誘いの手を伸ばしていたのです。

十字架への道が「悲しみの道、ヴィア・ドロローサ」と呼ばれるのは、主イエスが十字架を背負って歩いたからではありません。あの時、道の傍らに立った人々が、十字架を背負った主イエスを見ながら、「誰一人として自分の罪の姿」を見ようとしなかった、その惨めさを言っているのです。

キリストの御苦しみが、「私の救いのためであった」ということを知らされた者には、ゴルゴタへの道は、もはや「悲しみの道」ではなく、罪と訣別する「喜びの道」であり、そこから、永遠の生命に至る道が始まるのです。

この神のみ心、ご計画を信じることが私たちの信仰です。主イエス・キリストの十字架の苦しみと死とが私たちの罪のための、私たちの身代わりとしての苦しみと死でありました。主イエスは私たちが期待しているような強い者としてではなく、私たちの罪を背負わされ、罪人である私たちが裁かれて絶望の内に死ななければならない筈の十字架の死を引き受けて、その苦しみを嘗め尽くして下さることで、私たちのまことの王、救い主となられたのです。

自分が思い描いている強い救い主を求めることをやめて、神が遣わして下さった主イエス・キリストを信じて、その十字架の苦しみと死とによって神が与えて下さった救いを信じる時に、私たちの生き方は変わっていきます。生まれつきの私たちは、自分が強い者、立派な者になろうとしています。それによって自分の人生を切り開き、願いを叶え、充実した人生としようとしています。そういう思いによって私たちは、自分を救い、人をも救うことのできる強い救い主を待ち望んでいるのです。しかし神が私たちに与えて下さる救いは、強い者、立派な者となる力を与えることではありません。むしろ、どうしようもなく弱い者であり、立派なになり得ない罪人である自分、これこそが、全てのメッキがはぎ取られた所に現れる本当の自分であるわけです。その弱い罪人である本当の自分が、主イエス・キリストの十字架の苦しみと死とによって担われ、赦され、支えられているのです。

主イエスはマルコ福音書の8章34節で「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」と言われました。

主イエスに従っていくことが信仰者の歩みですが、それは自分の願っている力や栄光を求めていく歩みではなく、十字架の死への道を歩まれた主イエスの後に続いて、自らも重い十字架を背負いつつ、復活の希望に向かって歩み続けることなのです。

お祈りを致しましょう。