喜びの知らせ

主日礼拝

齋藤 正 牧師

《賛美歌》

讃美歌298番
讃美歌1420番
讃美歌380番

《聖書箇所》

旧約聖書:エレミア書 31章31-34節 (旧約聖書1,237ページ)

31:31 見よ、わたしがイスラエルの家、ユダの家と新しい契約を結ぶ日が来る、と主は言われる。
31:32 この契約は、かつてわたしが彼らの先祖の手を取ってエジプトの地から導き出したときに結んだものではない。わたしが彼らの主人であったにもかかわらず、彼らはこの契約を破った、と主は言われる。
31:33 しかし、来るべき日に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこれである、と主は言われる。すなわち、わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。

新約聖書:マルコによる福音書 16章9-20節 (新約聖書97ページ)

◆マグダラのマリアに現れる
16:9 〔イエスは週の初めの日の朝早く、復活して、まずマグダラのマリアに御自身を現された。このマリアは、以前イエスに七つの悪霊を追い出していただいた婦人である。
16:10 マリアは、イエスと一緒にいた人々が泣き悲しんでいるところへ行って、このことを知らせた。
16:11 しかし彼らは、イエスが生きておられること、そしてマリアがそのイエスを見たことを聞いても、信じなかった。
◆二人の弟子に現れる
16:12 その後、彼らのうちの二人が田舎の方へ歩いて行く途中、イエスが別の姿で御自身を現された。
16:13 この二人も行って残りの人たちに知らせたが、彼らは二人の言うことも信じなかった。
◆弟子たちを派遣する
16:14 その後、十一人が食事をしているとき、イエスが現れ、その不信仰とかたくなな心をおとがめになった。復活されたイエスを見た人々の言うことを、信じなかったからである。
16:15 それから、イエスは言われた。「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。
16:16 信じて洗礼を受ける者は救われるが、信じない者は滅びの宣告を受ける。
16:17 信じる者には次のようなしるしが伴う。彼らはわたしの名によって悪霊を追い出し、新しい言葉を語る。
16:18 手で蛇をつかみ、また、毒を飲んでも決して害を受けず、病人に手を置けば治る。」
◆天に上げられる
16:19 主イエスは、弟子たちに話した後、天に上げられ、神の右の座に着かれた。
16:20 一方、弟子たちは出かけて行って、至るところで宣教した。主は彼らと共に働き、彼らの語る言葉が真実であることを、それに伴うしるしによってはっきりとお示しになった。〕
◇結び
16:20 〔婦人たちは、命じられたことをすべてペトロとその仲間たちに手短に伝えた。その後、イエス御自身も、東から西まで、彼らを通して、永遠の救いに関する聖なる朽ちることのない福音を広められた。アーメン。〕

《説教》『喜びの知らせ』

主日礼拝においてマルコによる福音書を読み続けてきましたが、いよいよ本日をもって終えることになりました。本日の16章9節以下は、「大きな括弧〔 〕かっこ」の中に入って、「結び一」という小見出しがつけられています。「結び一」があるからには「結び二」があるわけで、それは98頁の下の段に、節の数字なしに、短い結びとして記されています。「結び」のどちらも、前後に括弧〔 〕で括られています。この括弧は、もともとはなかったと思われる、後から書き加えられた部分だろうとの印です。信頼すべき古い写本にこの部分がないものが多いからです。現在まで残っているマルコ福音書の初期のものには、すべて9節以下はなく、どれも8節で終わっているのです。そしてこの9-20節の「結び一」とは違う結びを持っている写本もある、それが「結び二」です。いずれの結びも、もともとはなかったもので、後からつけ加えられたと思われるのです。では何故「結び」がつけ加えられたのでしょうか。それは、先週読んだ8節をもってマルコ福音書が終わるのでは、何とも尻切れとんぼだからです。16章1-8節には、主イエスの十字架の死から三日目の日曜日の朝、三人の女性たちが墓に行ってみると、墓は空になっており、そこにいた天使が「あの方は復活なさって、ここにはおられない」と告げたことが語られています。さまざまな文献の研究から、この9節以下は、おそらく、2世紀に入ってから、教会によって加筆されたものであろうということです。何故、本来のマルコ福音書の結末部分が欠けてしまったのかということについては、今となっては知る由もありませんが、福音書の終わりが「恐ろしかった」(8)という言葉で終わっているのは相応しくないと考えた教会が、9節以下を加えたのではないかと考えられています。

そのため、マルコ福音書を読むときに、この9節以下を軽んじる人もいますが、それは大変な間違いです。何故なら、私たちは、福音書を「誰が書いたか」ということによって重んじるのではなく、ここにまとめられたすべてを、聖霊の働きのままに教会が受け容れ、「神の言」として告白したという信仰によって重んじるからです。

9節以下が後の時代の教会による加筆であるということを承知で、改めて読むときに、今、教会に生きる私たちが、キリストの復活をどのように受け止めるべきかということが、ここに記されているのです。そして、それがマタイ、ルカ、ヨハネの他の三つの福音書で詳しく語られていることの「まとめ」であるということに気がつきます。

他の三つの福音書では詳しく語られていることの大部分が省略され、極度に簡略された要約として記されています。それらの具体的内容は、ここでは詳しくお話する時間がありませんので、どうぞ皆さんで比較して頂きたいと思います

しかしここで、簡略化されたマルコ福音書のこの物語を他の三つの福音書と比較すると、繰り返される「ひとつの言葉」に気が付きます。それは「信じなかった」という言葉です。マルコ福音書は、他の福音書の物語を単に簡略化したのではなく、それぞれの出来事を、「信じなかった」という主題でまとめていると言えるのです。

11節には、「マリアがそのイエスを見たことも聞いても、信じなかった」

13節には、「彼らは二人の言うことも信じなかった」

14節には、「復活されたイエスを見た人々の言うことを、信じなかった」

マルコ福音書が強調しているのは「すべての人が信じられなかった」という事実を、教会自身が認めていることです。

「信じられなかった」と書き加えることに、どれだけの勇気が必要であったことでしょう。この部分が加筆されたのは、少なくとも2世紀に入ってからであり、教会が体制を作り上げ、ペトロ以下の弟子たちは、初代の伝説的な偉大な指導者として語り伝えられていた時代でした。その時代に、あえて「あの偉大な弟子たちが主の復活を信じられなかった」と記すことは、本当に思い切ったことであったと言えるでしょう。

この加筆部分のすべては、神の偉大な出来事に出会った人間の驚きを告げるものであり、言わば、教会は、「信じられない」という驚きの中から誕生したということなのです。

それでは、いったい何を「信じられなかった」のでしょう。「死者の甦り」でしょうか。誰でも、死とはこの世からの完全な別離であることを知っています。ひとたび死の世界に入った者は決して戻ることはない、ということを、誰でも知っています。これは、現代の人々も古代の人々も同じです。「昔の人は幼稚だから、死の世界を旅して来ることが出来ると想像したのであろう」などと考えるのは間違いです。古代ユダヤ人の考え方の中には、そのような死生観といったものはまったくありません。

ファリサイ派は、復活を何とか信じようとしていましたが、それでも、今生きている世界の延長程度で、決して、明確な復活や、新しく生きる「新生」などというものではありませんでした。ファリサイ派の復活論は、言わば「人生のやり直し」であり、それ故に、七人の兄弟と結婚した女性の復活後の立場を問うサドカイ派の詰問に彼らは答えられませんでした(マルコ12:18以下参照)。

また、エルサレム神殿を支配していた大祭司を筆頭とするサドカイ派は、復活を完全に否定していました。

現代の人々が死者の復活を信じることが出来ないのと同じように、当時の人々も、復活を信じることが出来なかったのです。重要なことは、「キリストの復活を信じる」ということは、ただ単に、「キリストが生き返った」というだけの問題ではないということです。

「死んだのに生き返った」という驚きだけならば、それは、神の子キリストが行った「ひとつの奇跡」に過ぎません。イエス・キリストは、五つのパンと二匹の魚で五千人を養い、荒れ狂う嵐のガリラヤ湖の上を歩かれた方です。一人息子を失ったナインのやもめを悲しみから救い、ヤイロの娘を甦らせ、ラザロを死から呼び戻された方です。

全能なる神の御力を思うならば、神の子キリストは、私たちの世界の自然法則を、あらゆる意味で超えておられたということが出来るでしょう。そしてそれ故に、「死から甦ることも可能である」ということになるかもしれません。

しかし、それだけでよいのでしょうか。「キリストは神の子だから甦った」。そのように、「キリストの甦り」を「ひとつの奇跡」に留めておいてよいのでしょうか。

ここで私たちが目を向けなければならないこととは、「復活を信じる」ということが、多くの人々が予想するような、「死者の甦りというひとつの奇跡的出来事」という認識で終わってはならない、ということなのです。

マルコ福音書16章16節に「信じてバブテスマを受ける者は救われるが、信じない者は、滅びの宣告を受ける。」とあります。ここで、「信じる」とは、「死者の甦り」という一つの「認識」に終わるのではなく、キリストの甦りが私の罪の贖いのためであったということを「信じる」ことです。これを「信じる」ことこそが「信仰」なのです。

しかし、また、これを「信じる」ことが極めて困難なのです。即ち、「信じられないこと」とは、「キリストの甦りそのもの」ではなく、キリストの復活が実は、「自分自身の救い」のことと認識できないからです。

教会とは、この「信じられなかった人々」を見捨てられない復活のキリストが、その「信じられない人々」を「信じる者」へと変えられる場として建てられたのです。神は、私たちを「信じる者」として御業の完成に仕える新しい生命、新しい生活を、私たちに与えてくださり、逞しく人生を生き抜く力が、そこに新しく誕生するのです。

初代教会には、このような力が満ち溢れていました。そしてこの充満したエネルギーが、15節にある「全世界に行って、すべての造られたものに福音を述べ伝えなさい。」とのキリスト・イエスの宣教命令によって、全世界に伝わって行ったのです。この宣教命令によって、昆虫が脱皮を経て大きく変身するように、全世界への伝道は、復活のキリストに出会い新しく造り替えられた人間の、必然的な行動でした。一人でも多くの人々に救われた喜びを伝えたいという気持ちを抑えることが出来ないからです。

不信仰とかたくなな心によって主イエスの十字架から逃げ去り復活を信じなかった弟子たちに、復活によって喜びを伴った大きな使命が与えられたのです。それは私たちにも与えられている使命です。主イエス・キリストによる救いにあずかり、キリストの体である教会に召し集められた私たちは、キリストによる救いの知らせ、福音を宣べ伝える使命を与えられて、この世へと遣わされているのです。この使命は弟子たちにとって、また私たちにとっても、重過ぎる、とても担うことができない重大な使命であると感じられます。自分が、どうして全世界に福音を宣べ伝えることなど出来るだろうか、と不安に思ってしまいます。主イエスが復活なさって今も生きて働いておられることを信じることこそが、不信仰でかたくなな私たちの心を、福音を宣べ伝えるという使命を果していくことの中でこそ打ち砕かれていくのです。

「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい」と言われています。全ての人に、ではなくて、全ての造られたものに、と主が言われています。それは、人間にだけでなく動物や植物、自然界の全てのものに向かって福音を語れということではなく、人間は勿論のこと、この世界の全てのものは主なる神によって造られ、支配されている被造物なのだということを私たちに弁えさせるためです。

私たちも、弟子たちと同じように、主イエスの救いの恵みにあずかり、福音を宣べ伝え、伝道する群れとしてこの世に遣わされています。私たちが伝道していくとき、主イエスが共に働いて下さり、生きておられることを私たちに顕して下さるのです。私たちのつたない伝道、まことに貧しい言葉や行いを通して、一人でも多くのご家族や友人など多くの方々が主イエス・キリストと出会い、主イエスを信じる信仰を与えられ、洗礼を受けてキリストの体である教会の枝とされていく、それこそが大きな奇跡なのです。

お祈りを致しましょう。

み言葉を待ち望みます

主日CS合同礼拝

齋藤 正 牧師

《賛美歌》

讃美歌11番
讃美歌183番
讃美歌494番

《聖書箇所》

旧約聖書:詩編 130編1-8節 (旧約聖書973ページ)

130:1 深い淵の底から、主よ、あなたを呼びます。
130:2 主よ、この声を聞き取ってください。嘆き祈るわたしの声に耳を傾けてください。
130:3 主よ、あなたが罪をすべて心に留められるなら/主よ、誰が耐ええましょう。
130:4 しかし、赦しはあなたのもとにあり/人はあなたを畏れ敬うのです。
130:5 わたしは主に望みをおき/わたしの魂は望みをおき/御言葉を待ち望みます。
130:6 わたしの魂は主を待ち望みます/見張りが朝を待つにもまして/見張りが朝を待つにもまして。
130:7 イスラエルよ、主を待ち望め。慈しみは主のもとに/豊かな贖いも主のもとに。
130:8 主は、イスラエルを/すべての罪から贖ってくださる。

新約聖書:ルカによる福音書 1章68-69節 (新約聖書102ページ)

1:68 「ほめたたえよ、イスラエルの神である主を。主はその民を訪れて解放し、
1:69 我らのために救いの角を、/僕ダビデの家から起こされた。

《説教》『み言葉を待ち望みます』

昔々、何千年も昔に神様は、動物や植物を創造され、最後に神様と対話することのできる人間アダムとエバを創られました。ところが神様につくられたアダムとエバは神様の言うことを聞きませんでした。神様の言うことを聞かないことを「罪」と言いますが、2人は罪を犯してせっかく神様が用意された「楽園」、「エデンの園」を出なければならなくなりました。アダムとエバは子供を産んで、その子孫の人間は地上に沢山増えていきました。増えた人々は相変わらず神様の言うことを聞こうとしない人々ばかりで、「ノアの洪水」のお話でお馴染みの様に神様は人間をいったん滅ぼして、この世界を創り直さなければならないと思われました。しかし、ノアの家族を選ばれた様に、先ずイスラエルの民を選ばれ神様を信じる人間として育て鍛えることにされました。

ところが、神様に選ばれたイスラエルの民も神様に従い通すことが出来ず、神様に対して大きな罪を犯しました。神様からいただいた恵みを忘れ、神様の言葉も聞かず、神様の悲しまれることばかりしていたのです。

すると神様はイスラエルの人々の信仰の目を開かせるために、バビロニアという強い大きな国を使って、イスラエルを攻めました。そんな強大なバビロニアに攻められ、イスラエルは戦いに負けてしまいました。町は壊され、大切な神殿も粉々にされてしまいました。そしてたくさんの人たちが敵の国に連れていかれてしまったのです。もうどうすることもできない、まるで深くて暗い穴の底に捨てられた様な絶望の中に置かれたのです。イスラエルの人々は、みんな、もう駄目だと思ってしまいました。イスラエルの人々に出来ることはただ一つ、神様に、「赦してください」と、祈ることだけしか残されていませんでした。

イスラエルの人々がバビロニアに連れていかれて何十年か経ってバビロンがペルシャに滅ばされましたが、神様が可哀そうに思われて、何と、囚われていたイスラエルの人々を敵の国から帰れる様になさいましたた。帰ることの出来たイスラエルの人々は、ボロボロになっていた町と神殿を立て直して、もう一度その神殿で礼拝することが出来るようになったのです。夢のようで本当に嬉しかったことでしょう。神殿に集い神様を礼拝すること。みんなで賛美の歌をうたうこと。自分の国で生きること。自分の家で過ごすこと。すべてが、私たちにとって当たり前のことです。

この時になってイスラエルの人々は、これらは、すべて神様に赦されて、神様からいただいて、はじめて出来ることなのだと知ったのでした。神様は赦してくださった。赦されて、国へ帰り祝福の中に置かれたのだと、心からそう思え、神様に感謝したのです。そして、この神様の救いを忘れないために、何度でも新しく神様の赦しをいただくために、人々は礼拝に出かけ繰り返しこの詩編の歌を歌い、祈りました。

「深い淵の底から、主よ、あなたを呼びます。主よ、この声を聞き取ってください。嘆き祈るわたしの声に耳を傾けてください。主よ、あなたが罪をすべて心に留められるなら/主よ、誰が耐ええましょう。しかし、赦しはあなたのもとにあり/人はあなたを畏れ敬うのです」と。

この詩編は120~134編の「都に上る歌」と名前の付けられたものの一つです。これらの詩編は霊的な教会の営みにおいて歴史的に大きな意味を持ったものなのです。初代教会の「七つの悔い改めの詩」の6番目として広く知られています。罪の重荷からの救いを求め、神の顧みを忍耐強く待ち望んでいる詩編なのです。そして、その苦難のどん底で、なお明らかにされる神様への信頼が、読む者の心を強く打ちます。苦しい時代を生きるキリスト者が常に愛唱した詩編として有名なのも当然でしょう。

この詩編は、紀元前5世紀の終わり頃、ネヘミヤの時代に作られたものと考えられています。バビロン捕囚から釈放されて約百年ほど経過していますが、ユダヤ全土は未だひどい混乱の中にありました。バビロンから解放されイスラエルに帰国後、直ちにハガイ・ゼカリヤによる神殿復興が行われましたが(紀元前516年)、彼らが預言したようなメシア到来の日とはならず、人々は深い失望を味わっていた時代です。

さらに、バビロニアから解放されて帰ってきたユダヤ民族に対して、サマリヤ、エドム、モアブ、アンモンなど周辺諸族の敵意は強く、平穏な日々は遠いものでした。彼らは、ユダヤ人がバビロンへ連れ去られている間に勢力を伸ばして、ますます反ユダヤ的な色彩を強めていました。神殿を中心とする新しいエルサレム王国が起こることを恐れ、弾圧を加えたのでした。

この詩編が作られた時代、エルサレム神殿は荒れ、律法は行われず、預言の声も絶え、ユダヤ人たちは絶望と虚無のなかにありました。それも確かに「深い淵」のような魂のどん底と言うことが出来るでしょう。

この詩編の詩人はその苦しみを背負いながら神様を仰ぎ見ました。そして、その苦しみは、自分たちが神様から離れ、神様に背を向けて生きようとした罪の結果であるということを認めざるを得ませんでした。周辺の諸民族から加えられた圧力は確かに苦しいものであり、政治的・経済的破綻は堪え難いものでした。

しかしそれは、あくまで外面的・社会的苦難であり、果たして真実の苦しみなのか、それを問いかけているのです。ここに示される信仰は、もし神様が共にいてくださるならば、民が神様が共にいてくださることを喜ぶ人間であるならば、この時代の苦難にも容易に耐えられるであろう、ということなのです。ここで訴えている苦しみとは、外からのものではなく、他ならぬこの自分自身が神様から遠く離れており、もはや神様の御前に立つことが許されない罪を背負っているという事実でした。こうして詩人は、自分を、この世の苦しみより遥かに深い絶望のどん底に見出ださざるを得なかったのです。1節の「深い淵」とは、このような完全な絶望を意味する言葉です。「深き淵」とは、古代ヘブル人の考えでは、神様から最も遠い場所であり、神様の御光の射さないところ、神様との交わりが断たれたるところです。それにもかかわらず、なお詩人は、そこから神様を呼び求めているのです。神様を呼べないところから神様を呼んでいるのです。

ここに信仰の奥義があります。信仰とは、神様の恵みに満ち溢れたところで神様を呼び求めるだけでなく、神様に捨てられたところから、神様に叫び続けることなのです。絶望的な場にありながら、望みを断ち得ない必死の思いで神様を呼ぶとき、その声は、「深い絶望の淵」を越えて、神様に聞き入れられるのです。

なぜなら、神様は、人間の罪を厳しく糾弾され、死の苦しみを課されましたが、「主よ」と祈る余地を残しておかれたからです。絶望の底からあげた叫びは、4節の「しかし」という言葉によって、希望の歌に変わって行きます。なぜなら、神様は預言者たちが言うように、決してイスラエルを見捨てない神であるからです。

自分の罪を見つめ、自分が置かれた状況を認めることは大切なことです。しかし、人は自分の罪に眼を注ぐだけではいけません。罪の赦しと恵みの座にこそ眼を注がなければなりません。

人を罰するのが神様ならば、その罪を赦すのも神様なのです。罪の中で諦めて終わるのではなく、それでもなお神様の愛を求めるのが信仰です。エデンの園におけるアダムとエバのように、神様の赦しを諦めることこそ、罪と言うべきでしょう。

神様は正義の神様であると共に愛の神様です。神様の正義があらゆる悪の存在を許さないように、神様の愛は、人間のあらゆる思いを超える赦しとなるのです。そして神様の赦しが、あまりにも大きいので、私たちは、そこで喜ぶより、「畏れ、畏(かしこ)まらざるを得ない」のです。

神様に赦されて、今がある。何度も何度もこのことを思い出し、心に刻みながら生きていくとき、その人は必ず、自分の周りの人を「赦す」人になっていきます。

イエス様が教えて下さった「主の祈り」の言葉を思い出します。「我らに罪を犯すものを我らが赦すごとく、我らの罪をも赦したまえ。」 イエス様と一緒にこう祈りながら生きていくとき、私が神様に赦されていることの確かさが日ごとに満ち溢れていきます。

このイエス様の愛と赦しの素晴しさをもっともっと知って、お父さん、お母さんをはじめ、家族の人たち、お友だちに伝えて、イエス様の後に従って生きて行く、新しい希望に満ちた日々を送りましょう。

それでは、最期にご一緒にお祈り致しましょう。

甦り

主日礼拝

齋藤 正 牧師

《賛美歌》

讃美歌298番
讃美歌142番
讃美歌380番

《聖書箇所》

旧約聖書:詩編 107編1-9節 (旧約聖書947ページ)

107:1 「恵み深い主に感謝せよ/慈しみはとこしえに」と
107:2 主に贖われた人々は唱えよ。主は苦しめる者の手から彼らを贖い
107:3 国々の中から集めてくださった/東から西から、北から南から。
107:4 彼らは、荒れ野で迷い/砂漠で人の住む町への道を見失った。
107:5 飢え、渇き、魂は衰え果てた。
107:6 苦難の中から主に助けを求めて叫ぶと/主は彼らを苦しみから救ってくださった。
107:7 主はまっすぐな道に彼らを導き/人の住む町に向かわせてくださった。
107:8 主に感謝せよ。主は慈しみ深く/人の子らに驚くべき御業を成し遂げられる。
107:9 主は渇いた魂を飽かせ/飢えた魂を良いもので満たしてくださった。

新約聖書:マルコによる福音書 16章1-8節 (新約聖書97ページ)

◆復活する

16:1 安息日が終わると、マグダラのマリア、ヤコブの母マリア、サロメは、イエスに油を塗りに行くために香料を買った。
16:2 そして、週の初めの日の朝ごく早く、日が出るとすぐ墓に行った。
16:3 彼女たちは、「だれが墓の入り口からあの石を転がしてくれるでしょうか」と話し合っていた。
16:4 ところが、目を上げて見ると、石は既にわきへ転がしてあった。石は非常に大きかったのである。
16:5 墓の中に入ると、白い長い衣を着た若者が右手に座っているのが見えたので、婦人たちはひどく驚いた。
16:6 若者は言った。「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。御覧なさい。お納めした場所である。
16:7 さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる』と。」
16:8 婦人たちは墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである。

《説教》『甦り』

キリスト者の信仰の中心は、言うまでもなく、主イエス・キリストが十字架の上で私たちの罪の身代わりとして殺され、三日目に死より復活されたという事実にあるのです。これはキリスト教信仰の土台です。「これが真実かどうか」とか、「聖書に書かれていることは事実ではない」といった議論は自由ですが、「信じられないなら、それは信仰がない」と言われてしまうことなのです。使徒パウロは、コリントの信徒への手紙 第一 15章14節で、「キリストが復活しなかったのなら、わたしたちの宣教は無駄であるし、あなた方の信仰も無駄です。」、そして、17節で「キリストが復活しなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお罪の中にあることになります。」と言っています。

キリスト教信仰は主イエス・キリストの「十字架」と「復活」を自分のものと信じることです。これを信じない、信じられない人はキリスト教信者ではないのです。

私たちを救われる神の愛は、御子キリストの復活によって、その御計画を大きく進められました。主イエスが死から甦った復活は、単なる肉体の死の否定ではなく、偉大な神の力の誇示でもありません。復活とは、罪の赦しの宣言であり、永遠の生命を与える神の約束の実現であり、神と共に生きる人間の最終的な希望そのものなのです。

聖書は、この驚くべき出来事を、二千年の時を超えて告げており、決して忘れてはならない新しい時代の始まりを、語り続けて来ました。それ故に、現代に生きる私たちもまた、常に、あの日の朝の驚きの中に立ち戻らなければなりません。

安息日の前日の金曜日の夕方近く、午後三時頃に息を引き取られた主イエスの最期の時まで十字架のもとに残っていた女性たちは、日没と共に始まる土曜日の安息日のために大急ぎで墓へ納められ、充分な葬りの処置をすることが出来ませんでした。ペトロをはじめとする弟子たちがすべて逃げ去ったにもかかわらず、最期まで付き従っていたの彼女たちにとって、主イエスの埋葬の翌日のこの土曜日の安息日ほど長い一日はなかったでしょう。

主イエスの葬られた翌日の土曜日の安息日も日没とともに終わり、3日目の日曜日となり、厳しい戒めから解放され、ようやく開いた店に行き香料を買い求めました。しかし、土曜日の安息日の終わりは同時に夜となってしまい、暗い墓へ行くことも出来ず、日曜日の夜明けを待たなければなりませんでした。

安息日は、神と共に生きる者にとって、信仰の確かさを確認する日でした。安息日とは、決して休養の日ではなく、神に近づくことが求められる日でした。しかし、神が与えて下さった「安息日の定めのため」に主イエスから引き離され、奉仕する志しを持ちながらも近づくことさえ許されなかった「この一日」こそ、古い時代の姿そのものであったと言えましょう。

しかし、女性たちが目指していたことは、あくまでも「遺体の処置」であり、「死者を葬る作業」に過ぎませんでした。死者を葬ること、生と死は越えることの出来ない淵で遮られており、それはただ別れを告げるためだけであり、肉体を土に帰すための作業でしかなく、人が悲しみながら繰り返して来た、「あきらめ」の作業でしかなかったのです。

そんな悲しみの想いの中で、彼女たちは、ひたすらに夜明けを待っていました。他の誰よりも夜明けを待ち、そしてその夜明けが、彼女たちの想いを遥かに超え、神に顧みられた人間の新しい出発の日となるのです。

「週の初めの日の朝ごく早く、日が出るとすぐに」。おそらく一睡も出来ず、夜の終わりを待ちかねて、誰よりも早く夜明けの墓場に急ぎました。主イエスを納めた墓は、金持ちのユダヤ最高法院の議員でもあるアリマタヤのヨセフが、自分のために用意した墓でした。

現在でも残っている多くの墓のように、岩壁に掘られた横穴式のものであり、中は広く、何人もの人が入れる部屋が二つ以上あった筈です。入り口は、巨大な円盤状の石を、溝にそって転がして閉めるようになっていました。

主イエスの十字架の金曜日の夕方、閉じられた墓の入り口を最後に見届けたのは彼女たち自身でした。女性の力で開くようなものでない「墓の入り口の大石をどうしたらよいのか」と話し合っているのです。いったい誰に開けてもらうつもりで来たのでしょうか。確かに先のことを考えない行動と言えるでしょう。

しかし、ここで大切なのは、「福音の知らせに真っ先に与ったのは彼女たちであった」という事実です。深く考えるあまり、一向に腰を上げない人よりは、その「ひたむきさ」において、はるかに勝っていたと言うべきでしょう。

4節には「目を上げて見ると、石は既にわきへ転がしてあった」とあります。「目を上げる」とは、「自分の心を見つめる」ことから「神を仰ぐこと」を意味します。自分ではどうにもならないことにこだわり、その内に留まり続けるのではなく、問題は問題として意識しながら、まず何よりも「神に目を向けること」が必要なのです

「石は既にわきへ転がしてあった」。これが、自分たちの力では動かせないとの判断を捨て、ただ主イエスに仕えることしか考えなかった彼女たちに対する「神の答」でした。

「石は既にわきへ転がしてあった」。私たちの力に余ることは、神御自身が力を貸して下さるのです。主のもとへ急ぐ人間の前に、神御自身が道を開かれるのです。

彼女たちは、この朝、夜明けを待ちかねて、誰よりも早く墓に来ました。

しかし、ここに主イエスの甦りは「もっと早かった」と告げられているのです。人間のどんな行動よりも、主なる神の行動はさらに早いのです。

しかも、「墓の中に入ると、白い長い衣を着た若者が右手に座っているのが見えたので、婦人たちはひどく驚いた」(5節)と記されています。「墓の中で待っている方」がそこに居られたのです。主なる神は、誰よりも早く来た人よりも、「もっと早く」から待っておられたのです。それ故に、この日の夜明けを誰よりも待ち望んだのは、神御自身であったのです。

白い長い衣を着た御使いは、「あの方は復活なさって、ここにはおれない。」と彼女たちに告げました。これが、甦りを信じられないすべての人間に対する神の回答です。

甦りを信じない人は沢山います。コリントの信徒への手紙でパウロが述べているように、初代教会の時代から、「死人の甦り」を嘲笑う人々はすでに数多くいました。

「復活など昔の人の幼稚な迷信だ」と言う人がいます。「現代の人間に復活など語っても無駄だ」と言う人がいます。しかし、遠い二千年の昔でも、死者の甦りは「あり得ないこと」でありました。現代と同じように、復活は人間の常識の外にあり、弟子たちでさえ誰一人として信じていなかったのです。復活を否定することによって、主イエス・キリストを永遠に墓の中に閉じ込めておこうとする人々で何時の時代も満ちているのです。

主イエス・キリストの復活は、議論の対象ではなく、まして、私たちの考えの延長にあるものではなく、その是非を私たちが判断するというようなものではありません。

私たちは、神が御心のままに成されたキリストの出来事の跡を追うだけであり、キリストが復活され、死を征服されたという事実から、それを信じ従うことから信仰は始まるのです。

更に、主イエスの復活のメッセージが、「ガリラヤへ行け」という命令に結び付けられていることにも注目すべきでしょう。

ガリラヤは、神御自身が選ばれて主イエス・キリストとして福音宣教を開始されたところであり、弟子たちが召されたところです。復活の福音宣教もまた「ガリラヤから始めなければならない」ということは、神の御計画は初めから少しも変わっていないということを示しているのです。この、「ガリラヤへ行け」という命令は、ただ単に、主イエスに再会するために行くのではなく、神の御業のための「働きの場」へ赴く伝道命令なのです。

そして、主イエスが先にガリラヤへ行き、待っておられるということは、復活の主イエスが、私たちの働きの場にも先立って行かれることを示していると言えるでしょう。主イエスは、私たちに、沈黙や、虚しく時を待つのではなく、神の御業に仕える新しい希望と勇気を与えられるのです。

これが2節「週の初めの日」に起こった出来事であり、それは、天地創造の再来の日であり、神が全世界に秩序をお与えになり、人間の歴史を変える歩みがこの日に始まったのです。主イエス・キリストの復活こそ「新しい創造の日」なのです。

神の信頼を破り、創造の秩序を損なって来た人間の罪が、ここに赦され、再び、神を神とし、造られた者が神の眼差しの前で生きることを喜べる「本来の姿」が回復されたのです。

キリスト教信仰の最も重要な教えの一つは主イエス・キリストの復活なのです。主イエス復活の事実は、初代教会時代の初代説教者たちによる、「使徒言行録」に記されている13回の説教のうち、11回までが復活を中心とした説教です。そこでは主イエスの復活を論争の余地のない事実として伝えているのです。これらの説教者は、主イエスが確かに復活されたこと、従って主を信じ従う者もまた、復活することを確信していました(使2:23‐24、17:31)。

主イエスは復活の後、40日の間、弟子たちに姿を現されました。この復活の裏づけとなるのは、四福音書全てに書かれ、コリントの信徒への手紙にも記された合計で10回に亘る復活の主イエスが人々の目に見える形で現れた物語です。また主イエス復活の証人の人数が多いことや、十字架で死なれた主イエスを見捨てるように逃げ去った弟子たちが主イエスの復活を知るや、大胆に福音を語り始めるといった大きな変化が起きたことも復活を証明していると言えましょう。

加えて、それまで土曜日の安息日を堅く守っていたユダヤ人の弟子たちが、なぜ日曜日の主の日を守り、聖餐を祝うようになったのか。ユダヤ教から別れた初代教会が、礼拝の日を、土曜日の安息日から「週の初めの日・日曜日」に変えたこれらのことはみな主イエスの復活があったからこそ行われるようになったと考えられます。

キリスト者とは、この新しい世界に生かされていることを告白する者のことであり、それ故に、週の初めの日の礼拝を固く守っているのです。

主イエスの墓を早朝に訪ねた女性たちと同じように、私たちもまた深く考えない者かもしれません。大きな問題を抱え、解決の道も知らないままに集まって来た者と言えるかもしれません。

しかし、今ここで、「目を上げて見よう」ではありませんか。主なる神は、主イエス・キリストによって、すべてを備えて下さっているのです。墓を塞ぐ大石は既に取り除かれ、道は開かれています。そして、その開かれた道は、死の世界へではなく、死にさえ勝利された、主イエス・キリストと共に生きる世界へと通じているのです。

お一人でも多くの方々、取り分けご主人や友人・知人の方々の上に、主イエス・キリストの十字架の救いの御業と復活によって新しく生きる道がありますよう、お祈りを致します。

別離

主日礼拝説教

齋藤 正 牧師

《賛美歌》

讃美歌301番
讃美歌217番
讃美歌453番

《聖書箇所》

旧約聖書:詩編 88編14-19節 (旧約聖書925ページ)

88:14 主よ、わたしはあなたに叫びます。朝ごとに祈りは御前に向かいます。
88:15 主よ、なぜわたしの魂を突き放し/なぜ御顔をわたしに隠しておられるのですか。
88:16 わたしは若い時から苦しんで来ました。今は、死を待ちます。あなたの怒りを身に負い、絶えようとしています。
88:17 あなたの憤りがわたしを圧倒し/あなたを恐れてわたしは滅びます。
88:18 それは大水のように/絶え間なくわたしの周りに渦巻き/いっせいに襲いかかります。
88:19 愛する者も友も/あなたはわたしから遠ざけてしまわれました。今、わたしに親しいのは暗闇だけです。

新約聖書:マルコによる福音書 15章42-47節 (新約聖書96ページ)

◆墓に葬られる

15:42 既に夕方になった。その日は準備の日、すなわち安息日の前日であったので、
15:43 アリマタヤ出身で身分の高い議員ヨセフが来て、勇気を出してピラトのところへ行き、イエスの遺体を渡してくれるようにと願い出た。この人も神の国を待ち望んでいたのである。
15:44 ピラトは、イエスがもう死んでしまったのかと不思議に思い、百人隊長を呼び寄せて、既に死んだかどうかを尋ねた。
15:45 そして、百人隊長に確かめたうえ、遺体をヨセフに下げ渡した。
15:46 ヨセフは亜麻布を買い、イエスを十字架から降ろしてその布で巻き、岩を掘って作った墓の中に納め、墓の入り口には石を転がしておいた。
15:47 マグダラのマリアとヨセの母マリアとは、イエスの遺体を納めた場所を見つめていた。

《説教》『別離』

紀元30年、ユダヤ暦のニサンの月、現代の太陽暦で3~4月に当たりますが、そのユダヤ暦ニサンの月14日も夕方に近づきました。ユダヤの一日は日没から日没までとされていましたので、まもなく日が暮れ、土曜日、即ち、安息日になってしまいます。あらゆる作業が禁止される安息日になる日没前の短い時間に大急ぎでなされたのが、主イエスの埋葬でした。

主イエスの埋葬は、十字架と復活の間にあり、あまり注目されていないと言えるでしょう。しかしながら、私たちが毎週の主日礼拝で告白している使徒信条には、「死にて葬られ」との一節があり、主イエスの埋葬は、単なる「十字架の後片付け」ではなく、十字架と復活の間にあるものでもありません。主イエスの埋葬は、私たちが改めて見つめなければならない重要な信仰の一部なのです。

14章2節によれば、祭司長たちは、主イエスを捕え殺害するための策略を計りながら「祭りの間はやめておこう」と計画の延期を決めました。祭りのために集まる大勢の人々による混乱を恐れたからです。しかし、ヨハネ福音書13章1節によれば、イエス御自身が、既に祭りの前に、「十字架はこの時である」と、はっきり認識しておられていたことを記しています。そして、大祭司への通報をためらっているイスカリオテのユダに、主イエスご自身が「しようとしていることを、今すぐ、しなさい」(ヨハネ福音書 13章27節)と、おっしゃいました。

このイスカリオテのユダの密告によって、祭司長たちによる主イエスの殺害計画の延期は急遽変更になり、その夜のうちに主イエスの逮捕、裁判へと進んだことを、私たちは既に見て来ました。すべての事柄は主なる神の御心のうちにあり、神の御計画は、御子イエスの主導権の下に進められて行ったのです。

そして主イエスは、御自身の十字架を、かつてのイスラエルの民のエジプト脱出の夜の出来事と結びつけて、自ら「犠牲の小羊」となり、血を流すことによって私たちの罪の身代わりとなられようとされているのです。

ヘブライ書2章9節にあるように、主イエスが私たちのために選び取られた道は、「死の苦しみ」で、その結果は墓でした。死ぬべき人間としてもこの世に来られた主イエスが人としての最後で最大の死という苦難を、すべての人のために死さえも味わわれたのでした。主イエスもまた、単に一人の会葬者としてではなく、まさに死んだ人としてそこに置かれていたのであり、45節にあるように、主イエスが本当に死なれたからこそ、多くの人々のためにご自分の生命を与えることができるのでした。たしかに彼は死んだのです。十字架上で主イエスが息を引き取られた午後三時とは、エルサレム神殿では過越祭の犠牲の小羊を献げる時間であり、人が造った神殿で小羊が次から次へと屠られて行く時に、神の小羊主イエスは死に渡されたのです。これこそが、御子キリストが十字架によって示されたことでした。

主イエスの十字架の上での最後の、そして唯一のお言葉は、「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」でした。その意味は、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」です。それは文字通り、父なる神に見捨てられてしまったという絶望の言葉なのです。主イエス・キリストは、神に見捨てられた絶望の内に死なれたのです。だからこそ、主イエスの十字架の死は、同じ絶望の闇に閉ざされてしまう私たちの救いとなるのです。主イエスの十字架の死という出来事の徹底的な暗さを見つめることが大切なのです。

先程司式者によって、旧約聖書詩編第88編が朗読されました。これは詩編の中で最も暗い詩編と言えましょう。15節に「主よ、なぜわたしの魂を突き放し、なぜ御顔をわたしに隠しておられるのですか」とあります。この問いは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という主イエスの十字架上での叫びと重なるものです。また16-17節にはこうあります。「わたしは若い時から苦しんで来ました。今は、死を待ちます。あなたの怒りを身に負い、絶えようとしています。あなたの憤りがわたしを圧倒し、あなたを恐れてわたしは滅びます」。ここも、主なる神の怒り、憤りの下で自分は滅ぼされようとしているという絶望を語っています。そして最後の18-19節においては「それは大水のように絶え間なくわたしの周りに渦巻き、いっせいに襲いかかります。愛する者も友も、あなたはわたしから遠ざけてしまわれました。今、わたしに親しいのは暗闇だけです」とこの詩編がしめくくられています。光の全く見えない暗闇に閉ざされたまま、この詩編は終わっているのです。何とも救いのない絶望的な詩編であり、私たちは聖書の中にこのような詩編があることを不可解に思ったりもします。けれども、私たちは時として、まさにこの詩編のような暗闇、絶望に陥ることがあります。「今、わたしに親しいのは暗闇だけです」と終わっているこの詩編はまさに今を生きる私たちの思い、私たちのことだ、と感じられるときがあるのです。主イエスの十字架を覆っているのもこの詩編と同じ暗闇です。主イエスもまた、「主よ、なぜわたしの魂を突き放し、なぜ御顔をわたしに隠しておられるのですか」と叫び、「愛する者も友も、あなたはわたしから遠ざけてしまわれました。今、わたしに親しいのは暗闇だけです」という絶望の中で死なれたのです。その暗闇の深さゆえに、主イエスの十字架の死は、苦しみ、悲しみ、絶望の中にあり、光を見出せない暗闇に閉ざされている私たちにとって、まさに自分たちのこと、身近なことなのです。

先程も触れましたが、私たちが主日礼拝毎に告白している使徒信条には、主イエスが「苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ」と語られています。「葬られた」ことを抜きにして主イエスの受難、十字架の苦しみを見つめることはできない、と使徒信条は語っているのです。主イエスが墓に葬られたことは、私たちの信仰においてとても大切なことなのです。だから四つの福音書全てが主イエスの埋葬を語っているのです。では、主イエスが墓に葬られたことは私たちの信仰においてどのような意味を持っているのでしょうか。

先程の、詩編88編の作者が本当に深い苦しみの中で、光の全く見えない暗闇に閉ざされた絶望を体験している、まさにそれと同じことを、主イエスは十字架の死と、墓に葬られたことで体験されたのです。主イエスが墓に葬られたからこそ、この詩編が語っている暗闇が主イエスを覆い尽くしたと言うことができるのです。神に見捨てられ、その怒りによって滅ぼされ、もはや神とのつながりを断たれてしまう、その全く光の見えない絶望の闇の中に、主イエスご自身が身を置かれたのです。別の言い方をすれば、「十字架に架けられたキリストが、自分自身の姿である」ことを、誰一人として理解できないままに、絶望の一日は終わろうとしていました。この一日の締めくくりを、アリマタヤのヨセフとニコデモが担ったのです。

アリマタヤは、エルサレム北方32キロの町でした。ヨセフは、ガリラヤ以来の主イエスの古い弟子ではありませんでしたが、「身分の高い議員で神の国を待ち望んでいた」と記され、ルカ福音書では「善良で正しい人と呼ばれ」そこでも「神の国を待ち望んでいた」と記されているので、熱心な弟子の一人であったと思われます。

しかし、それなら、主イエスの裁判の夜、ユダヤ最高法院サンヘドリンが満場一致で主イエスの死刑を宣告した時、「有力な議員ヨセフ」は、何処にいたのでしようか。主イエスが鞭打たれ、ゴルゴタまで引かれて行く間、ヨセフは何処で何をしていたのでしようか。

ヨハネ福音書は、「ユダヤ人たちを恐れて、弟子であることを隠していた」と、ヨセフのことを記しています(ヨハ19:38)。ヨセフは、他の弟子たちと同様に信仰を「公けに」できなかったのです。裁判の時も、おそらく欠席していたのでしょう。つまり、自分の社会的地位と生命を賭けて主イエスの十字架に反対する勇気がなかったのです。

埋葬に協力した同じ議員のニコデモも同様で、自分の立場を明確にすることが出来ず、以前、主イエスを訪れた時にも、「人目を避けて、夜、こっそり訪ねる」ことしか出来ませんでした。

遺体の引き取りを願い出たアリマタヤのヨセフ、没薬と沈香を持参したニコデモ、意外にも、この二人が主イエスの遺体を引き取り亜麻布にくるみ、墓に納めたと聖書は記しています。このような状況の中で、主イエスの遺体の引き取りを願い出るということは、大変なことであったでしょう。それは、死刑囚である主イエスとの関わりを公然と認め、自分の立場を明確にすることでした。二度と後戻りすることが出来ない道に踏み出すことでした。人目をはばかり、最高法院では何もできなかったこの男たちに、何故このような勇気が湧いて来たのでしょうか。

主イエスの死が、この二人の男たちに新しい決断を促したと言うほかはないでしょう。一人の人間の死は、しばしば、優柔不断の人間に決断の力を与えると言われます。死に直面した人間の厳しさが、後に残された者に力を与え、その人を変えるということは珍しくないのです。

一人の人間の死でさえそうであるならば、神の御子の死においては猶更でしょう。

御子キリストの死が、二人の男の「平凡な生涯を送る夢」を打ち砕いてしまったと言えるでしょう。これまでの、ヨセフやニコデモの社会的な体面を保つことが、罪の下に生きる人間の宿命であったと言うならば、この変化に、新しい時代の始まりを見ることが出来るでしょう。主イエスの埋葬において、早くも「何か」が起こっているのです。

主イエスの埋葬の場面は、復活の場面への備えとなっています。四つの福音書全てに埋葬のことが語られているのはそのためと言えるでしょう。墓に葬られた主イエスは、父なる神によって復活し、その墓から、死と闇の支配から、神に見捨てられ滅ぼされる絶望から、解放されたのです。そこに、私たちは私たち自身の救いの希望を見出すのです。

説教に私事を持ち込むことは、避けなければならない大切なことですが、今日の主イエスの埋葬に近い体験を夏休みにさせられました。北アルプス最高峰の標高3,190mの奥穂高岳に登頂したところまでは順調でしたが、下山に掛かった辺りで急速な高山病による「肺水腫」となり、2時間弱で下れるその下山コースを10時間も掛かり、翌朝長野県警の山岳救助のヘリコプターで松本市内の救急救命病院に緊急入院しました。人工呼吸器を気管挿入し4日間は全く意識なく生死の間を彷徨っていました。その意識不明の間も夢と言うか幻と言うか、目の前に何も喋らないのに明らかにイエス様と分かる人物が現れ、日本語さえも自由に操って、私の目の前に大きなパソコン画面を開いて、私自身が普段から良く知っているみ言葉や説教の原稿を次々と表示されながら細かく指導されるのです。その際に、私自身がそのパソコン画面の原稿に更に手を加えようとすると、何とマウスもキーボードも手元になく、修正しようとして、どうあがいても修正出来ずに、少しイライラしてしまいました。こんな不自由な病院のベッドではなく、「天の御国」で細かく教えを頂こうとイエス様にお願いすると「まだ来るには早い!」と随分とハッキリと断られてしまいました。

この夢・幻は、4日間の生死の境から意識が戻って、医者から「今日は何日か、分かりますか?」と聞かれても頭がボーとして答えられず、筋肉が弱って立ち上がることが出来ない後も、妙に鮮明に記憶に残っていました。

臨死体験などと大袈裟な話はしませんが、死の淵を彷徨う時にあってもイエス様が極めて身近で親しい以上に密接に共に傍らにいてくださるのは、キリスト者にとって最も幸いなことと確信出来ました。

お一人でも多くの方々とイエス様の救いの恵みに与り、イエス様と共に生きる喜びの中を歩み続けたいものです。

お祈りを致します。