時は満ちた

《賛美歌》

讃美歌225番
讃美歌497番
讃美歌6番

《聖書箇所》

旧約聖書:創世記 3章23-24節 (旧約聖書5ページ)

3:23 主なる神は、彼をエデンの園から追い出し、彼に、自分がそこから取られた土を耕させることにされた。
3:24 こうしてアダムを追放し、命の木に至る道を守るために、エデンの園の東にケルビムと、きらめく剣の炎を置かれた。

新約聖書:マルコによる福音書 1章9-15節 (新約聖書61ページ)

1:9 そのころ、イエスはガリラヤのナザレから来て、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられた。
1:10 水の中から上がるとすぐ、天が裂けて“霊”が鳩のように御自分に降って来るのを、御覧になった。
1:11 すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。
1:12 それから、“霊”はイエスを荒れ野に送り出した。
1:13 イエスは四十日間そこにとどまり、サタンから誘惑を受けられた。その間、野獣と一緒におられたが、天使たちが仕えていた。
1:14 ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、
1:15 「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われた。

《説教》『時は満ちた』

先週の主日礼拝からマルコによる福音書を読み始めました。本日ご一緒に読む、マルコによる福音書1章9節からいよいよ、主イエス・キリストの活動が始まります。これまでのところでは、洗礼者ヨハネが主イエスの活動の備えとして人々に「悔い改めの洗礼」を宣べ伝えたことが語られました。これらのことは全て、主イエスの活動開始のための準備だったと言うことができます。それらの準備がいよいよ整って、主イエスご自身の活動が始まるのです。

先ず、1章10節には、「水の中から上がるとすぐ」と「すぐ」という言葉があります。原文では、「真っ直ぐに」という意味の言葉です。実はこの言葉は、マルコ福音書に大変よく出てくる特徴的な言葉です。この後の16節以下にも四人の漁師たちが主イエスの最初の弟子になったことが語られていきますが、その18節と20節にも「すぐに」という言葉があります。29節も「すぐに」と始まっています。42節に「たちまち」とあるのも、原文では同じ「すぐに」という言葉です。今あげた箇所は原文においてはみんな同じ言葉が使われていて、直訳すれば「そしてすぐに」という言い方になっています。

実に、1章だけで何と12回も、この言葉が使われています。この言葉は新約聖書全体では59回用いられていますが、何とその内の42回が、このマルコ福音書で用いられているのです。何と新約聖書全体の8割程がマルコ福音書に集中している言葉です。この後にもしばしばこの言葉が用いられていて、マルコ福音書は、この「すぐに」「すぐに」と、どんどん先を急ぐような語り方になっています。マルコはよっぽどせっかちな人だったんだろうなあ、などと冗談を言いたくなります。マルコがこのような書き方をしていることの意味はおいおい考えて行きたいと思いますが、先ずは、マルコ福音書に特徴的な「すぐに」という言葉がここにあることを指摘しておきたいと思います。そしてそのことは本日の箇所において見過ごしにすべきでない大切な意味を持っているのです。

この「すぐに」という言葉は、その前に語られていることと、これから語っていくことを結びつける言葉です。前に語られていることから時を移さずにすぐに、これから語ることが起った、と言っているわけです。本日の聖書箇所に語られるのは、主イエスがバプテスマのヨハネから洗礼をお受けになることでした。9節には、「そのころ、イエスはガリラヤのナザレから来て、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられた。」とあります。

「そのころ」とは、勿論、バプテスマのヨハネが活躍した紀元20年代の後半です。この時代は「ローマの平和」「パクス・ロマーナ」と呼ばれ、地中海世界は強大な軍事力を持つローマ帝国の支配下にあって大きな戦乱もなく、世界史の中でも珍しく平和な時代でした。

しかしながら、それはあくまでも世界史という大局的に見た限りでの平和であることは言うまでもありません。主イエスが活動を始められたパレスティナのユダヤ社会はローマ帝国の占領下にあり、ローマ帝国の植民地支配は巧妙であったと言われていますが、そこに搾取と圧制があり、不満が鬱積していたことは否定出来ないでしょう。

また、ユダヤ人内部においても、エルサレム神殿を中心とするユダヤ教の信仰は儀式中心の形骸化したものになり、固定化した律法主義となり、生命を失った形式的宗教に陥っていたと言えました。

このような状況の中で、ユダヤ民族主義に走った人々は、強大なローマ帝国に対し、勝つ見込みのない絶望的な戦争を起こし、エルサレム壊滅に至るのです。

先程述べましたように、後の世の人々はこの時代を「ローマの平和」と呼びましたが、ユダヤ人にとっては、預言者の声も途絶えた希望のない時代であり、明日の生活を考える余裕のない不安の時代でした。

バプテスマのヨハネはこの時代の人々に語りました。その革新的な宗教運動は、歴史の大きな激動の時代に起こった現象と言うことも出来るでしょう。バプテスマのヨハネは、この時代の流れの中に出現した希代の風雲児でした。

しかし聖書は、その時代を一方的に人間の側から見てはいません。確かに、その時代は激動と混乱の時であったとは言えますが、その不安と絶望の中にある「人間の時」は、神が目指された「救いの時」や「救いの歴史」の中に組み込まれた時だったのです。

つまり、ここで語られる「そのころ」とは、ただ漠然と「紀元一世紀の前半」などというだけのことではなく、10節で語られている「天が裂けて」という大変な出来事、つまり「神の行動の時」と考えなければなりません。人間の不安と「天が裂ける」こととの結びつき、ここに私たちは「信仰の目」の焦点を定めなければならないのです。

改めて9節を見てみましょう。主イエスはナザレの村からヨルダン川のほとりにやって来られました。聖書は何故、主の御生涯を語り始めるに当たって、このようなことから記しているのでしょうか。主の家が何処にあったのかを示すためではないでしょう。マルコ福音書は主イエスの活動初期の出来事を簡単に記すだけであり、主イエスの誕生以来の生活については何も語っていません。少年時代のエピソードや何処で何をして暮らしていたのかというようなことは、少なくともマルコにとって大切なことではありませんでした。

「ナザレから来た」とは何を表しているのでしょうか。聖書が記していないナザレにおける生活を想像することは出来ます。間違いなく、全ての人と同じように、普通の人間としての生活をなさっていた筈です。父なる神が定められた時の来るまで、誰もが行うことを主イエスもまた行って来られたことでしょう。言わば「神の子であることが完全に秘められていた時代」と言うことが出来るでしょう。誰一人として神の御子が共にいることに気づかず、また主イエスもそれを明らかにされようとはされませんでした。それが主イエスのナザレでの生活であったのです。

しかし今や、主イエスはナザレを出られました。つまり、神の御子が隠されていた時代は終わったのです。抑えられ、忍耐の時を過ごして来られた神の時代は終わりました。まさに神の決断の時でありました。独り子を十字架につけてまで人間を救おうとされる御心が、今や実行に移されたのです。

聖書は、さりげなく「イエスはガリラヤのナザレから来た」と語っていますが、これは、神が「人間の世界に大いなる力をもって介入して来られた」ことを告げているのです。不安と絶望の中で生きる人間に、救いへの道が開かれたということです。

今実現する神の救いの御業。その恵みに預かるために必要なこと。それがヨハネのバプテスマでした。ヨハネのバプテスマは、4節に記されていた通り、救いのバプテスマではなく「悔い改めのバプテスマ」でした。自分の罪を認識し、過去の自分と完全に訣別して神を迎える姿勢を整えること、それが「悔い改め」(メタノイア)ということでした。それは、「心の向きを変える」という意味と先週申し上げました。

それでは何故、主イエスはこのヨハネのバプテスマをお受けになったのでしょうか。主イエス・キリストは神の御子です。ですから、主イエス御自身には神に背いた罪はなく、整えなければならない「心の乱れ」はない筈です(ヘブライ人への手紙4章15節)。神の御子は、何故、悔い改めのバプテスマを受けられたのでしょうか。

その第一の理由は、マタイによる福音書3章15節によれば、この時「その必要はありません」と言うヨハネに対して、主イエスは、「正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです」と答えられたと記されています。神の御業に接する者に「例外はない」ことをあえて主イエス御自身が示し、全ての人間の先頭に立たれたと言えるでしょう。

私たちにも様々な生き方があります。様々な可能性を持ち、独自の歩み方があります。しかし、全ての人間が生きる姿の中で等しく実現されなければならないこと、それが「悔い改め」なのです。自分のこれまでの生き方を見直し、人生の方向を「自分の喜び」から「神の喜び」へ向け直すのです。これまで何を見つめて生きて来たのか。これから先何を求めて生きて行こうとするのか。その全てをもう一度考え直してみるべきではないでしょうか。御言葉を聞く者にはその準備が必要なのです。

主イエスがバプテスマを受けられた第二の理由は、救いを待つ人々と等しくなるということです。

イエス・キリストの御心は、一段上からではなく、人と共に生きるという愛に基づいています。御自分は高いところにいて、「さあ、上がって来なさい」と上から手を差し伸べるのではなく、救いを求める惨めさの中に共に立って下さり、その苦しさ・悲しさを共に味わわれるのです。神の愛は、神の御子が御自身を徹底的に虚しくされ、罪の深みにおける苦しみを共に受けて下さることから始まります。

「罪なき御方が、私たち罪人と共になられた」ということは、十字架を待つまでもなく、このヨルダン川において実現しました。そしてこの瞬間、聖書は「天が裂けて、『霊』が鳩のように御自分に下って来るのを、御覧になった。」とあります。ここの「天」とは、私たちが考える「大空」や「宇宙」ではありません。私たちが生きる「地」に対する「天」であり、神が居られる場を現す聖書的表現です。

人間の不幸や悲惨の原因は、この「天」がアダムとエバの罪によって閉ざされてしまったことによると創世記は語っているのです。神に対する信頼よりも蛇の言葉を受け容れたアダムとエバの罪のために、人間は楽園から追放され、神との交わりが絶たれました。それ以来、天は人間の前に閉ざされてしまったのです。

それ故に、人間の希望とは、この「天」が再び開かれることにありました。神の御前で全ての者が集い、神の眼差しを受けて生きること、それが真実の喜びであり幸福です。その時を待ち望み、失われた神との交わりが回復されることを願って長い時代を生き抜いて来たのが、旧約聖書が示すイスラエルの歴史でした。

マルコ福音書が告げるイエス・キリストの洗礼の出来事を見る時、今や待ち望んで来た「時」、「神の時」が遂に到来したということが知らされているのです。神と人間の間を閉ざしていた扉が神の側から押し開かれ、御子キリストが父なる神の御心を完全に表す御方として遣わされ、神の御計画は実現の時を迎えました。

「天が裂けた」とは、神の信頼を裏切り、神の愛に背を向けて自ら滅びの道を行く人間の罪を赦し、真実の交わりの回復を望む神の御心を象徴的に表現しています。この神の御心により、私たちは神に向って「父よ」と呼ぶことが許され、「子よ」と呼ばれる時が来たのです。

15節で「時は満ち」と述べられています。この「時」に関し、私たちが考える以上の忍耐をもって、神はこの日を待っておられたのです。私たちの幸福は、私たち以上に神の願いでありました。ですから、この「満ちた時」は御心を実現される「神の時」であり、先週も、お話ししたように如何なる意味でも「私たちの時」ではないのです。

私たち人間は罪の中に苦しみ、罪の故に新しい苦しみを招き続けています。それでもなお、神なき世界の誤りを正しく理解できず、その悲惨から抜け出せない者です。罪の中に留まり続けてしまう者です。

「時が満ち」たとは「苦しみが終わる」ということであり、もはや神の愛が、人間の苦しみを見過ごしには出来なくなったということを示しているのです。

そして、先週もお話しした、人間の孤独を象徴する荒れ野、サタンの誘惑にさらされる人生を象徴する荒れ野。その荒れ野すら、今やサタンが働く場ではなくなり、神の御子が御霊と共に住まう場になっているとマルコ福音書は12節以下の「荒れ野での40日間のサタンの誘惑」に記しています。

主イエスのガリラヤ伝道の開始に当たり、マルコ福音書は先ずこの決定的な「時の変化」を告げているのです。

私たちは今、どのような時の中に置かれているのでしょうか。どのような場に生きているのでしょうか。

「神の国は近づいた」と宣言されているのです。それは、神御自身によって、私たちの前に今差し出されているのです。

「時は満ちた」。その「満ちた時」とは、私たちのために用意された「神の時」です。この神の時の前にあって、私たちが「時の外」に生きることはあり得ません。神の愛が私たちの滅びを赦されないからです。

その「時」の中で、私たちの周りの大切な人々が滅びないよう、家族をはじめ私たちの近くに居る大切な人たちに「神の救いの御言葉」を伝えて行く者でありたいと望みます。

お祈りを致しましょう。

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荒野の叫び

《賛美歌》

讃美歌66番
讃美歌218番
讃美歌338番

《聖書箇所》

旧約聖書:マラキ書 3章1節 (旧約聖書1,499ページ)

3:1 見よ、わたしは使者を送る。彼はわが前に道を備える。あなたたちが待望している主は/突如、その聖所に来られる。あなたたちが喜びとしている契約の使者/見よ、彼が来る、と万軍の主は言われる。

新約聖書:マルコによる福音書 1章1節~8節 (新約聖書61ページ)

1:1 神の子イエス・キリストの福音の初め。
1:2 預言者イザヤの書にこう書いてある。「見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、/あなたの道を準備させよう。
1:3 荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、/その道筋をまっすぐにせよ。』」そのとおり、
1:4 洗礼者ヨハネが荒れ野に現れて、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。
1:5 ユダヤの全地方とエルサレムの住民は皆、ヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた。
1:6 ヨハネはらくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べていた。
1:7 彼はこう宣べ伝えた。「わたしよりも優れた方が、後から来られる。わたしは、かがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない。
1:8 わたしは水であなたたちに洗礼を授けたが、その方は聖霊で洗礼をお授けになる。」

《説教》『荒野の叫び』

プロテスタント教会は説教を大切にし、聖書だけを語り、語る者の個人的な話やその時代の時事報道的な、所謂「混ぜ物をしない説教」を語ります。その説教も聖書の取り扱い方法で分類すると、注解書的説教、テキスト説教、講解説教、トピック説教などに分けられます。もっと分かり易く説教方法を分けると、何か一つの主題を論じる「主題説教」と、聖書の説き明かしに主眼を置く「講解説教」の2種類に分けるのが一般的です。この講解説教とは、字に書くと「講演会」の「講」に、解き明かすの「解く」と読む「解答」の「解」をあわせて「講解説教」と呼び、聖書の解き明かしを指します。この講解説教を聖書の始めから連続で進めるのが「連続講解説教」です。今日からは、この「連続講解説教」をしていきます。勿論、イースターやクリスマスなどは、関係する聖書箇所から説教させて頂きますが、基本的には「マルコによる福音書1章1節」から連続して講解説教をさせて頂きます。福音書には、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの4つの福音書があり、その約3分の1にも及ぶ頁が主イエスの生涯の最後の1週間、受難と復活の出来事に割かれていることから、福音書の中心点がどこにおかれているかは歴然としています。主イエスにおいて神様がこの世に下り、罪深い世の救いのために十字架上で死んで、よみがえり、神の聖と義と愛とをあかしされました。この喜びを告げ知らせ、それを信じて救われる者が起されることを願って、これら四福音書は書かれました。その四つの福音書で最も古く、他の福音書記述の元ともなったと言われる「マルコによる福音書」から連続講解説教を始めたいと思います。

私たちは主イエス・キリストに出会うために聖書を読みます。聖書の読み方にもいろいろありますが、少なくとも、キリスト者は聖書を通して、この世に来られた神の御子イエス・キリストと出会うことに、最も大切な意味を認めます。

主イエス・キリストについて最も詳しく、また具体的に語るのは言うまでもなく福音書です。私たちは福音書を通してキリストのお姿を知るのですが、しかしその際、必ず、バプテスマのヨハネという人物に出会わなければなりません。それぞれ異なる立場と特色を持って書かれた四つの福音書が共通してイエス・キリストに先立って示すのが、バプテスマのヨハネです。

バプテスマのヨハネに関して、それぞれの福音書を比較してみますと、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネという四つの福音書は、バプテスマのヨハネ出現以前のところではそれぞれ違った物語を記しています。主イエスの誕生のクリスマス物語を見てもそれぞれ福音書ごとに違います。しかしながら、バプテスマのヨハネに関しては、殆ど一致しています。丁度、この礼拝堂に入るために、そこの入口を通らなければならないように、バプテスマのヨハネを通らなければ主イエス・キリストとの出会いが不可能であるかのように、描かれているのです。

聖書は、「バプテスマのヨハネを通らなければ主イエス・キリストに出会うことは出来ない」と語っているのです。私たちも聖書が示すこの道筋を通らなければなりません。マルコによる福音書1章2節から4節には、「預言者イザヤの書にこう書いてある。「見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、あなたの道を準備させよう。荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。』」そのとおり、洗礼者ヨハネが荒れ野に現れて、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。」とあります。

ここに引用されている旧約の御言葉から、バプテスマのヨハネが、主イエス・キリストの露払い、先触れとして現れたことは明らかです。来るべき神の御子の活動に先立って、バプテスマのヨハネは父なる神の御旨を受けて先触れをしたのですが、それではいったい、ヨハネは何を告げようとしたのでしょうか。聖書がヨハネにおいて注意を促しているのは何でしょうか。

その、バプテスマのヨハネが告げようとした第一は「時」への目覚めです。2節に預言者イザヤの書に書かれているとありますが、これはマラキ書3章1節に書かれていることであり、3節だけがイザヤ書40章3節の言葉です。おそらく、メシアに関する聖句としてこの二つは結び付けられたのではないかとも言われています。

マラキ書3章1節は「神の支配と裁きを軽んじる者に対する警告」です。ですから、「遣わされた使者」とは罪を裁くための使者であり、終末の日の到来に先立ち、神の使者が裁きを告げるために送られて来るとマラキ書では語られています。その使者は預言者エリヤであり、エリヤの警告に従わなければ恐るべき日となり、「終末の日に生き残る者はない」と述べられているのです。バプテスマのヨハネがこのエリヤの姿を映し、重なっていることは明らかでしょう。神の裁きが近づく恐るべき終末の日・決定的なその日のために、救いに向けて選ばれた人々を目覚めさせる言葉なのです。

私たちは「生きる」ということを真剣に考えます。「人間、如何に生きるか」ということは、何時の時代、またどんな人でも変わりなく抱く問題でしょう。その誰もが考える「生きる」という問題を、何処に焦点を定めて考えているか、それが改めて問われなければなりません゜

その日の自分の生活だけを考える人もあるでしょう。自分の子供たちの将来のために努力を傾ける人もいるでしょう。自分自身の力の限界を確かめようとする生き方もあるでしょう。様々な生き方があります。しかしながら、その「生きる時」を「自分の時」だけに限定してよいのでしょうか。誕生から死にいたる一生涯。その生命のある間だけの生活。誕生と死の間に挟まれた人生は、果たして「自分だけの時間」と言えるでしょうか。

誰でも「死」が思いがけない時にやって来ることを知っています。そしてその死が訪れる時までを「自分の時」であると思っています。紀元前三世紀のギリシアの哲学者エピクロスは「私が生きている時に死はない。私が死んだ時は私はいない。だから、私にとって、死はない」と言いました。この哲学者にとって、自分の存在が全てであり、誕生と死の間に挟まれた生涯・生命の日々を「自分の時」として考えているのです。そして「自分の時」即ち人生を、自分だけが自由にすることの出来る「自分の独占物」であると思っています。これは現代でも最も一般的な考え方ではないでしょうか。

このような考え方に対して聖書は、私たちの時は「神の時」に組み込まれているということを告げています。私たちの肉体が生きているか死んでいるかに拘わらず、「神が定め給うた時の中に置かれている」ということ。そしてその「神の時」とは、「神の義が貫かれる時」なのだということなのです。

神は正しい義なる方です。悪を断じて赦すことのない徹底的に義なる方であり、人間の罪と悪は、絶対の主権を持たれる神の御前で裁かれずにはいられません。ですから、今、神の主権の下に置かれているということは、神の正義と直面して生きるということであり、神の裁きが、「今」という「神の時」の中で迫っているということを知らなければなりません。この緊迫した「神の時への目覚め」、それが主に出会う者に必要なのです。

ヨハネが告げようとした第二は、荒れ野に生きることの自覚です。ヨハネは荒れ野に現れたと記されています。荒れ野(エレーモス)とは、元来、「水のないところ」という意味です。私たちの日本にも荒れ野は沢山あります。狭い国土から見ればもったいないことですが、農地にしようと思っても出来ない荒地があります。しかしそれは、土壌が火山灰などを含んでいるため植物の成育がよくないということであり、降水量は十分あり木や草も生えています。作物は豊かに育たないかもしれませんが、生命のある世界に変わりはありません。

これに対してユダヤの地はまったく違います。水がないのです。水がなければ生命もありません。地中海側は比較的水に恵まれていますが、中央山地から東、ヨルダン渓谷に至る間はまさに荒涼とした荒れ野です。雨季に降る雨はそのまま流れ去ってしまい、水を地面に留める植物が育ちません。雨季の後、小さな草が生え出ても、ひとたび砂漠からのハムシーンと呼ばれる東風が吹けば、その熱風のために全ては瞬時に枯れ果ててしまいます。生命の存在を拒む世界、それが聖書で語られる荒れ野であり、ヨハネはその荒れ野で叫んでいたのです。

ヨハネは暖かい部屋や美しい森の中で神の御言葉を語ったのではなく、厳しい自然、荒涼たる荒れ野の中で、御子を迎える備えを語りました。そしてこの荒れ野こそ「私たちが生きている世界である」と聖書は教えているのです。砂漠でも花は咲きます。荒れ野に咲く小さな花を見るように、私たちもまた、この世で幾つかの小さな花を見つけることは出来るでしょう。しかし、せっかく見い出した幸福、心の安らぎは果たして何時まで続くのでしょうか。砂漠からの熱風によって枯れる荒れ野の草のように、うつろいやすく、儚いものでしかないと認めざるを得ないでしょう。

さらにまた、荒れ野とは身を隠す場所のないところです。ただ一人の自分が、自分だけの力で立たなければならないところです。それどころか、自分ひとりでは生きて行けないことを思い知らされる場でもあります。私たちは、日常的に見出すことの出来る様々な生き甲斐や、仕事、育児、娯楽に囲まれています。それらは確かに自分の弱さや惨めさを一時忘れさせてくれることに役立ちます。「あらゆることは気晴らしである」とパスカルが言うとおり、私たちはこの世の生活の中で、自分の本当の姿を覆い隠すためのものを次から次に作り出していきます。

しかし、神の御前に立ち、キリストと出会う者は、ただ一人、裸で立たなければなりません。神の御前において神の裁きに直面する時、自分を守ったり飾ったりするようなものは何一つないことを知らなければなりません。隠れるところは何処にもないのです。ただ一人で、絶対の正義を貫かれる神の御前に立つ厳しさ、これが荒れ野に生きることの自覚であり、キリストに出会う人間の避けることの出来ない宿命なのです。

ヨハネが告げようとした第三は、悔い改めの勧告を聞くことです。4節には「罪の赦しを得させるためのバプテスマ」と記されていますが、正確には「罪の赦しへ向わせる」と言うべきでしょう。罪の赦しは主イエス・キリストの十字架と復活によって与えられるものであり、神の独り子だけに可能な御業です。それゆえに、ヨハネが行ったのは「主イエス・キリストを迎えるための備えのバプテスマ」と呼ぶべきでしょう。そしてそれは悔い改めのバプテスマでした。ヨハネのバプテスマは、悔い改めを言葉だけではなく全身で表し、自分の罪を神の御前に承認することでありました。

悔い改めをギリシア語では「メタノイア」と言います。それは、「心の向きを変える」という意味です。私たちの社会で一般に言われる悔い改めとは「ああ悪かった」ということであり、口ではそう言いながら、心の向きは少しも変わっていないことが多いのではないでしょうか。「悪かった」とは「一つの行為の失敗」の表明でしかありません。刑務所に何回も出入りしている人々は、この「悪かった」を際限なく繰り返しているのです。何故、その失敗が起こったのかということを考えなければ、根本的な解決には決して結びつきません。真剣に問わなければならないのは、「悪かった」ひとつひとつの行為の反省ではなく、間違った方向に向って歩き続けた結果です。その間違った方向を転換しなければならないのです。しかも、それは私たちの「一度限りの人生」では人生の終点に着いてからでは間に合いません。「心の向きを変える」その方向が、主なる神が祝福してくださる方向へ向っていなければ何にもならないのです。人生の終点では、やり直しは効きません。過去へ戻ることは出来ないのです。

ヨハネは、人々を荒れ野に集め、荒れ野の厳しさの中で叫ぶことによって、安易な生活に溺れた人々の目を覚まさせ、滅びへ向う人生の歩みを止めさせました。5節には、「ユダヤの全地方とエルサレムの住民は皆、ヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた。」とあります。

ヨハネは、それぞれの家、自分たちの町で慣れ親しんだ生活を過ごしている人々のところへ出かけたのではありません。むしろ、人々がこれまでの自分の生活を断ち切り、それらに背を向けることを要求しました。ですから、彼らは住み慣れた快適な村や町の日常生活の流れを止め、わざわざ苛酷な熱気と乾燥の世界へ出掛けて来たのです。ヨルダン渓谷に至るユダの荒れ野に好んで出かける人はいないでしょう。耐えられない暑さと極度に達した乾燥の世界です。

これこそヨハネが果たした最も重要な意味あることでした。御子イエス・キリストを迎える者は、この世の快適さに背を向け、荒野に出て行き、「神の時」の中で生きることの厳しさを知らなければなりません。荒野に生きることを自覚した者だけが、かつて主なる神が預言者を通して語った約束を聞き、その実現に目を向けるのです。ヨハネのその呼びかけを旧約聖書1,124ページ イザヤ書6節から8節に見ることが出来ます。お読み致します。

呼びかけよ、と声は言う。
わたしは言う、何と呼びかけたらよいのか、と。
肉なる者は皆、草に等しい。
永らえても、すべては野の花のようなもの。
草は枯れ、花はしぼむ。
主の風が吹きつけたのだ。
この民は草に等しい。
草は枯れ、花はしぼむが
わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ。      (イザヤ書 40章6節~8節)

今、ここに、人間の力ではなく、人間の努力によってでもなく、一切の人間的可能性を超えた神の大いなる御業が始まるのです。コンコンと湧き出る泉の素晴らしさは、荒れ野に生きる者だけが知っています。この世の惑わしから解き放たれ、神のみを見つめて「心の向きを変えた者」の信仰の耳に、サマリアの町シカルにあったヤコブの井戸端でサマリアの女に語られた主イエスの御言葉が聞こえてくるでしょう。新約聖書169ページ ヨハネによる福音書4章14節、「わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」との主イエスの御言葉です。

この主イエス・キリストの御言葉を真実の喜びの言葉として聞くために、ヨハネは今、私たちに「荒れ野へ出よ」と告げているのです。神の御子は、この世におけるあらゆる可能性を投げ捨てた者の心にこそ、正しく迎えられるでしょう。御子を迎えるに相応しい姿を整えること、それが私たちの課題であります。

お祈りを致します。

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本当に必要なこと

《賛美歌》

讃美歌234番A
讃美歌294番
讃美歌90番

《聖書箇所》

旧約聖書:詩篇 27篇4節 (旧約聖書857ページ)

27:4 ひとつのことを主に願い、それだけを求めよう。
命のある限り、主の家に宿り
主を仰ぎ望んで喜びを得
その宮で朝を迎えることを。

新約聖書:ルカによる福音書 10章38~42節 (新約聖書127ページ)

10:38 一行が歩いて行くうち、イエスはある村にお入りになった。すると、マルタという女が、イエスを家に迎え入れた。
10:39 彼女にはマリアという姉妹がいた。マリアは主の足もとに座って、その話に聞き入っていた。
10:40 マルタは、いろいろのもてなしのためせわしく立ち働いていたが、そばに近寄って言った。「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください。」
10:41 主はお答えになった。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。
10:42 しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」

《説教》『本当に必要なこと』

本日は、教会学校との合同礼拝です。本日は「本当に必要なこと」と題して、ルカによる福音書10章から「マルタとマリア」のお話をさせて頂きます。

実は、この聖書箇所は、4月に赴任したものの、新型コロナウィルス感染症のために集会をすべて中止していた4月25日に無観客というか、成宗教会の皆さんのまったくいらっしゃらない無教会員説教でお話しした聖書箇所です。教会ホームページにも掲載されたので、皆様の中には、お読みになった方もいらっしゃるとは思います。この聖書箇所は、教会での奉仕はどうすればよいかという私たちの思いに示唆を与えられる大切なお話しです。

今日のルカ福音書は、38節の「一行が歩いて行くうち、イエスはある村にお入りになった」というところから始まります。主イエスと弟子たちは、旅の途上である村に入ったのです。

ここにはマルタとマリアという姉妹が登場し、二人の姿が対照的に描かれていきます。そして、「マリアは良い方を選んだ」とあるように、マルタよりもマリアの方が良い、相応しいと主イエスによって褒められたという話に思えます。しかしそれは、マリアこそが信仰者でマルタは信仰者ではない、ということではありません。主イエスを家に迎え入れたのはマルタである、とはっきり書かれています。それは、マルタが主イエスに従い仕える信仰者となったということです。マルタは、主イエスと弟子たちの一行を自分の家に迎え入れるという大いなる信仰の決断をしたのです。その後、「彼女にはマリアという姉妹がいた」と、おそらく妹であるマリアが登場します。マリアも主イエスを信じる者となるわけですが、それは姉であるマルタの信仰の決断が先にあったからだとも言えるでしょう。つまりマリアはマルタによって導かれて信仰者となった、と考えるべきではないでしょうか。

このように同じ信仰者となったマルタとマリアの間に、ある違いが生じました。マリアは主の足もとに座って、その話に聞き入っていたのです。主イエスの足もとに座って話を聞くとは、この時代のユダヤでは男の弟子にのみ許される行為でした。マリアは、そんな大胆な行動をしたと言えますし、また、主イエスの一行が女性差別をしなかった特筆すべき行いを記しているとも言えるでしょう。そのマリアに対して姉のマルタは先程触れたように、大人数の一行のため「いろいろのもてなしのためせわしく立ち働いていた」(40)のです。マルタとマリアの話のポイントは、この対照的な姿にあります。そして私たちはそこから、いろいろなことを読み取ろうとします。と言うよりも、自分たちが感じていることをこの話に読み込もうとします。教会の中で、特にご婦人方の間でよく語られるのは、「私はマリア型」とか「私はマルタ型」というような会話ではないでしょうか。「マリア型」というのは、静かに礼拝を守り、み言葉を聞き、祈るといった信仰生活が自分には合っているし、その方が好ましいと感じているという人たちです。一方「マルタ型」というのは、それよりもむしろ活発に体を動かしていろいろな奉仕をする、例えば昼食作りとか、男性で言えば会堂の掃除や植木の手入れや力仕事など、また一教会に拘らない多くの教会を跨いだ社会奉仕活動に加わるとか、そういうことに喜びを感じ、充実を覚える、静かに説教を聞いているのはちょっと苦手、みたいなタイプであると言えるでしょう。それは女性だけの話ではなくて、男性も含めて、マルタとマリアのどちらに親近感を覚え、自分に近いものを感じるか、ということを私たちはここからよく考えるのではないでしょうか。そして自分がどちらのタイプかというだけではなく、礼拝中はマリアに徹し、終わったとたんにマルタに変身するのだ、という思いを持っている人もいるでしょう。つまり時と場合によってマルタとマリアを使い分けながら信仰生活を送っている、という思いを持っている人も多いのではないでしょうか。これらのことは、私たちが自分の体験や感覚をこの話に読み込んでいるということです。しかし私たちがしなければならないのは、自分の感覚を聖書に読み込むのではなくて、聖書が語っていることを読み取ることです。マルタとマリアの対照的な姿から私たちは何を読み取ることができるのでしょうか。

姉のマルタが主イエスと弟子たちを家に迎え入れたとは、食事を出すことをはじめいろいろなもてなしをするためです。マルタがしていることは、神の国の福音を宣べ伝えている主イエスと弟子たちに仕え、その歩みを支えるという信仰の行為です。マルタは決して、自分の料理の腕前を披露しようとしているわけではありません。キチンともてなさないと恥をかくと思っているのでもありません。彼女がせわしく立ち働いているのは信仰によってです。マルタの姿は、信仰者が主イエスに仕えている姿そのものなのです。そこには、「もてなし」という言葉が使われていますが、この言葉は原文では「ディアコニア」という言葉で、「奉仕」という意味です。マルタがしているのはこのディアコニア、主イエスに従う信仰者にとって大切な信仰の業としての「奉仕」なのです。ですから、このマルタとマリアの姿は、自分はどちらのタイプだとか、どちらの方が自分の好みに合うなどというように読むべきものではありません。これはどちらも、主イエスに従い仕えていく信仰者が大切にすべきあり方なのです。

しかし、このどちらも大切な信仰のあり方の間で問題が生じました。姉のマルタがマリアのことで主イエスに文句を言ったからです。「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください」。マルタは、主イエスの足もとに座ってその話に聞き入っているマリアに対して、「何も手伝わず、私だけにもてなしを、つまりディアコニアを押し付けている」という不満を抱いたのです。このマルタに対して主イエスはお答えになりました。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない」。主イエスはこのお言葉によってマルタに何を語ろうとしておられるのでしょうか。「あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している」。主イエスはマルタが思いわずらいに陥り、心を乱していると言っておられるのです。もてなし、接待、ディアコニアの働きの中で、マルタの心は乱れ、とりみだしてしまっているのです。心が乱れるとどうなるか、自分のしている働き、奉仕を喜んでできなくなるのです。そして、人のことを非難するようになるのです。「自分はこんなに奉仕しているのに、あの人は何もしない。手伝おうとしない。そんなことでいいのか」という思いに支配されていくのです。自分のしている奉仕を喜べないことと、人を非難することは表裏一体の関係です。自分に与えられた奉仕を喜んでしている人は、人のことを非難することはありません。人への批判や攻撃は、自分自身が喜んでいないから生じるのです。マルタはそのような思いわずらい、心の乱れに陥ったのです。そのように心が乱れてしまうと、彼女がせっかく主イエスと弟子たちを家に迎え入れるという信仰の決断をし、奉仕している信仰の業が歪んだものになってしまいます。マルタはこの奉仕を、誰かから強制されたのではありません。自分の意志でそれを引き受け、喜びをもってそれを担ったのです。信仰における奉仕、ディアコニアとはそのように、喜んで、自発的に行なうものです。ところが私たちは時として心を乱し、その喜びを見失って、自分だけが何か重荷を背負わされているように感じてしまうことがあります。心を乱しているマルタの姿は、私たちの信仰生活の中でも時として起るそのような事態を表しているのです。

このように心を乱してしまっているマルタに主イエスがお語りになりました。「しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない」。私たちはこの主イエスの言葉を聞く時、これは折角一生懸命奉仕しているマルタには気の毒な言葉ではないか、と思うのではないでしょうか。

しかし、主イエスのこのお言葉はそのように冷たい言葉ではありません。主イエスはここでマルタに、「あなたのしていることは意味がない」などと言っているのではないのです。マルタは主イエスを迎え入れ、奉仕するという信仰に生きている人です。彼女の奉仕ディアコニアは主イエスに従う者たちにとってとても大事なことなのです。意味がないとか必要がないなどということは絶対にないのです。主イエスがマルタに望んでおられるのは、彼女がそのディアコニアを、心乱れ、喜びを失った中で、人を非難するような思いを抱きながらするのではなくて、本当に喜んで、自発的にして欲しい、ということです。そして、喜んで奉仕できるようになるために必要なただ一つのことを主イエスは教えて下さっているのです。それは、マリアのように、主イエスの足もとに座って、そのみ言葉に聞き入ることです。

この「主イエスのみ言葉に聞き入る」ことを忘れてしまうと、私たちの奉仕は教会での自己実現や自己主張のためになります。教会が奉仕を競い合う人々の集まりと化してしまいます。そこには、自分の奉仕への評価や見返りを求める思いが生じます。そうなったらもはや本当に喜んで奉仕しているとは言えません。そして自分の奉仕を本当に喜んでしていないところには、自分はこれだけしているのにあの人はなんだ、と人を非難し審く思いが生じるのです。本当にすべきことは、主イエスの足もとに座ってその恵みのみ言葉に聞き入ることなのです。「必要なことはただ一つだけである」という主イエスのみ言葉は、そのことを姉のマルタに、そして私たちに教えています。つまりマルタとマリアの姉妹の姿は、信仰者のタイプの違いではありません。ある時はマリアに、ある時はマルタに徹する、などというものでもないのです。そうではなく、姉のマルタのしている奉仕、ディアコニアが本当に生かされ、喜びをもって自発的になされていくためには、妹のマリアのみ言葉を聞く姿勢が必要なのです。主イエスは姉のマルタも愛しておられるのです。それゆえに、「必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない」とおっしゃったのです。それは妹のマリアを褒めるための言葉ではなくて、姉のマルタが喜んで奉仕に生きるために本当に必要なことを教えようとされた愛に裏付けされたみ言葉なのです。そして、主イエスの足もとに座ってみ言葉に聞き入っているマリアには、「行って、あなたも同じようにしなさい」という励ましが与えられました。そのようにしてマルタもマリアも共に、主イエスのみ言葉によって養われつつ、自分に与えられている賜物を喜んで自ら献げ、生活の中で具体的に主イエスに仕える者となっていったのです。 お祈りを致します。

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その男はあなただ

《賛美歌》

讃美歌187番
讃美歌286番
讃美歌517番

《聖書箇所》

新約聖書:使徒言行録 2章29~30節 (新約聖書216ページ)

2:29 兄弟たち、先祖ダビデについては、彼は死んで葬られ、その墓は今でもわたしたちのところにあると、はっきり言えます。
2:30 ダビデは預言者だったので、彼から生まれる子孫の一人をその王座に着かせると、神がはっきり誓ってくださったことを知っていました。

旧約聖書:サムエル記 下 12章1~17節 (旧約聖書496ページ)

12:1 主はナタンをダビデのもとに遣わされた。ナタンは来て、次のように語った。「二人の男がある町にいた。一人は豊かで、一人は貧しかった。
12:2 豊かな男は非常に多くの羊や牛を持っていた。
12:3 貧しい男は自分で買った一匹の雌の小羊のほかに/何一つ持っていなかった。彼はその小羊を養い/小羊は彼のもとで育ち、息子たちと一緒にいて/彼の皿から食べ、彼の椀から飲み/彼のふところで眠り、彼にとっては娘のようだった。
12:4 ある日、豊かな男に一人の客があった。彼は訪れて来た旅人をもてなすのに/自分の羊や牛を惜しみ/貧しい男の小羊を取り上げて/自分の客に振る舞った。」
12:5 ダビデはその男に激怒し、ナタンに言った。「主は生きておられる。そんなことをした男は死罪だ。
12:6 小羊の償いに四倍の価を払うべきだ。そんな無慈悲なことをしたのだから。」
12:7 ナタンはダビデに向かって言った。「その男はあなただ。イスラエルの神、主はこう言われる。『あなたに油を注いでイスラエルの王としたのはわたしである。わたしがあなたをサウルの手から救い出し、
12:8 あなたの主君であった者の家をあなたに与え、その妻たちをあなたのふところに置き、イスラエルとユダの家をあなたに与えたのだ。不足なら、何であれ加えたであろう。
12:9 なぜ主の言葉を侮り、わたしの意に背くことをしたのか。あなたはヘト人ウリヤを剣にかけ、その妻を奪って自分の妻とした。ウリヤをアンモン人の剣で殺したのはあなただ。
12:10 それゆえ、剣はとこしえにあなたの家から去らないであろう。あなたがわたしを侮り、ヘト人ウリヤの妻を奪って自分の妻としたからだ。』
12:11 主はこう言われる。『見よ、わたしはあなたの家の者の中からあなたに対して悪を働く者を起こそう。あなたの目の前で妻たちを取り上げ、あなたの隣人に与える。彼はこの太陽の下であなたの妻たちと床を共にするであろう。
12:12 あなたは隠れて行ったが、わたしはこれを全イスラエルの前で、太陽の下で行う。』」
12:13 ダビデはナタンに言った。「わたしは主に罪を犯した。」ナタンはダビデに言った。「その主があなたの罪を取り除かれる。あなたは死の罰を免れる。
12:14 しかし、このようなことをして主を甚だしく軽んじたのだから、生まれてくるあなたの子は必ず死ぬ。」
12:15 ナタンは自分の家に帰って行った。主はウリヤの妻が産んだダビデの子を打たれ、その子は弱っていった。
12:16 ダビデはその子のために神に願い求め、断食した。彼は引きこもり、地面に横たわって夜を過ごした。
12:17 王家の長老たちはその傍らに立って、王を地面から起き上がらせようとしたが、ダビデはそれを望まず、彼らと共に食事をとろうともしなかった。

《説教》『その男はあなただ』

今日は、チョッと私事から話を始めます。私が東京神学大学修士2年の卒業に修士論文作成の真っ最中の2017年に周りの心配をどこ吹く風とイスラエル旅行に行ったのですが、そのエルサレムではてっきり注目すべきはイエス様の関係する遺跡と思いきや、何とダビデ王関係の遺跡ばかりが重視されていることでした。旧約聖書に関係する遺跡ばかりで、新約聖書関係の遺跡は殆ど注目されていませんでした。まあ、考えてみれば、イスラエルはユダヤ教徒の国ですから、当然と言えば当然だったわけですけれど…。

その旧約聖書が語るとおり、ダビデ王は政治的にも軍事的にも大変優れた才能を持ち、人間的にも人を惹きつける魅力を持って、更に、篤い信仰者であり、アブラハム以来イスラエル民族に伝えられてきた神の御言葉をこの世に実現する者とも見られていました。従って、彼の王国は、後の時代の人々には神の約束の「眼に見えるしるし」として映り、来るべき救い主・メシアは、ダビデ王との「新しい約束」として働かれると信じられていました。後世のイスラエルの人々は、自分たちを「ダビデの子孫」と名乗ることよって、神の祝福の下にあることを確かめました。主イエスもまた、多くの人々から「ダビデの子」と呼ばれたことは福音書の記すとおりです。

イスラエル王国のダビデ王は、イスラエル史上最大の人物であるだけでなく、雲の上の存在であった信仰の祖アブラハムと、イスラエル民族をエジプトから救い出したモーセに次ぐ信仰者とも見なされた人物でした。

しかしながら、そのダビデもまた、私たちと同じ人間でした。「同じである」ということは、ダビデもまた、罪を背負って生きた人間であり、神の顧みの下でしか生きることができなかったと言えましょう。ダビデが犯した過ちと、下された神の裁きは、罪に捉えられて生きる人間そのものの姿であり、彼が神から受けた恵みは、憐れみがなければ立ち上がることもできない私たちの姿そのものであると言えるでしょう。ダビデの生涯における、代表的な醜いこの事件は、まさに人間の弱さを示すと共に、神の赦しの御心の大きさを示すものとして、伝えられてきたのです。いわゆる、バト・シェバ事件と呼ばれるこの物語は、11章から始まっています。ある日の夕方、ダビデが王宮の屋上を散歩している時に美しい女性が水浴びしているのを偶然見かけたのが発端でした。彼女は、ダビデ王旗下のイスラエル軍の将軍であるヘト人ウリヤの妻バト・シェバでした。

その頃、イスラエルは東の強敵アンモンと戦っており、ヨアブを総司令官とする遠征軍は、アンモンの都ラバを包囲中でした。ラバとは現在のヨルダンの首都アンマンのことです。ラバの城は要害堅固な丘の上にあり、切り立った崖に城壁を巡らしていました。イスラエル軍は、城を包囲したものの攻め倦み、苦戦を強いられていました。ヘト人ウリヤが総司令官ヨアブに従う将軍の一人として、ラバの前線にいた時に、この事件は起こったのでした。時は紀元前千年の頃、今から約三千年昔でした。遠い昔、古代世界の王がどれ程の権力を持っていたか、想像することは容易でしょう。専制君主たる王は国民の生死を自由にする権力を持ち、戦争で得た民は奴隷として売り払うことが一般的でした。現代的な人権思想や倫理的見方は全くない時代であり、権力だけがすべての時代でした。ダビデはバト・シェバを見初めたのですが、彼女の夫は自分の将軍の一人であるウリヤです。そこで彼は悪知恵を働かせ、ウリヤを激戦の続く最前線へ送り、戦死させるよう総指令官ヨアブに命じました。ダビデの意を受けたヨアブはウリヤに最も危険な前線への攻撃を命じ、ウリヤは戦死してしまいます。そして、ウリヤの死後、未亡人となったバト・シェバを、ダビデは堂々と迎え妻とした、というのです。絶大な権力を手にし、国民から圧倒的な支持を得ていたダビデにとって、自分の目に留まった女性を妻の一人とするのは当然のことと考えられたのでした。ダビデの息子で次の王ソロモンは、妻六百人、妾三百人と記されていることからも、この時代のことが想像できます。「何と卑劣な」と私たちは思いますが、当時の権力者にとって普通のことであったでしょう。エジプトにおけるアブラハム物語にも「美しい妻を持った男の危険」ということが述べられています。古代の専制君主たちは皆、このように自分の欲望を権力によって満たし、だれもそれを不思議に思いませんでした。また、将軍ウリヤの戦死も、軍人として当然な最期と思われたことでしょう。ダビデは実に上手くやったのです。

しかし、人間の生きる姿は、その時代や、その時代の人々の価値観だけで計られるものではありません。「皆、そうしているではないか」「私だけではない」「私だけが特別に責められることはない」という時代ごとの弁明が、通用しない世界があるのです。11章27節には、「ダビデのしたことは主の御心に適わなかった」と記されています。口語訳では、更に厳しく「この事は主を怒らせた」と訳されています。「主なる神が御怒りになった」。これが決定的な問題なのです。たとえ、その時代の人々がどう評価しようとも、その時代の王権が如何に絶大でも、「主が御怒りになった」ということが、時代を越え人間の行動を、最終的かつ決定的に評価するのです。

このことは同時に、人間の罪、人間の悪は、神の怒りによって初めて明らかになることを示しているのです。人間、特に権力者はあらゆる知恵を用いて、その時代の人々を欺き、巧みに批判の目を逸らし、自分の心を欺いてでも、自分の行為の正当性を認めさせようとします。それは、神なき世界で、自分が神として君臨しようとすることと言えます。そして人間とは、ダビデほどの人物であっても、なおこのように神の怒りを受けるという事実は、欲望の前における人間の弱さに終わらず、すべての人間が、神の怒りの対象である罪から逃れることができないという現実を明らかにしているでしょう。

主は預言者ナタンをダビデのもとに遣わされました。ナタンは来て、次のような譬えを語りました。「二人の男がある町にいた。一人は豊かで、一人は貧しかった。豊かな男は非常に多くの羊や牛を持っていた。貧しい男は自分で買った一匹の雌の小羊のほかに何一つ持っていなかった。彼はその小羊を養い、小羊は彼のもとで育ち、息子たちと一緒にいて、彼の皿から食べ、彼の椀から飲み、彼のふところで眠り、彼にとっては娘のようだった。ある日、豊かな男に一人の客があった。彼は訪れて来た旅人をもてなすのに、自分の羊や牛を惜しみ、貧しい男の小羊を取り上げて、自分の客に振る舞った。」(1-4)。預言者ナタンが語ったことは単純明快でした。正義の王と言われていたダビデがその豊かな男のやり方を怒ったのは極めて当然でした。「何と欲の深い男か。このような人間がいるとはとても考えられない」と思ったダビデは、激怒して直ちにその不正な男に対する判決を下して、ナタンに告げました。「主は生きておられる。そんなことをした男は死罪だ。子羊の償いに四倍の値を払うべきだ。そんな無慈悲なことをしたのだから。」(5-6)。これほど厳しく罰するのは当然であり、誰一人として反対する者のない判決であると、ダビデは考えた筈です。当時の国王は、最高裁判官でもありました。それゆえにダビデは、国を治める者として、不正を怒り、正義の判決を下したのでした。

今私たちは、このナタンの譬え話が、バト・シェバをウリヤから奪ったダビデ自身のことを語っていることに既に気付いています。ナタンに告げたダビデの判決は正しいのですが、その判決を受けなければならぬ罪人、不正な男が、ダビデ自身だということも明白です。ただ皮肉なことは、これほど明白な、また弁明の余地のないほどの罪が「自分のことである」ということに、ダビデがまったく気付かなかったということです。

ナタンに指摘され直ぐに、5節で「主は生きておられる」と叫んだダビデほどの人物が、なぜ、自分の過ちに気付かないのでしょうか。不思議なのはここです。そして聖書は、この物語を通して、「これが人間の罪なのだ」と告げているのです。罪の特徴とは、第三者的立場に立てば誰にでも分かることが、自分のことになると、全く分からないところにあるのです。更に、ダビデの罪とは、「ウリヤ殺害とバト・シェバとの不義」というだけのことではなく、むしろその背後にある、彼自身の生き方にあるのです。

ダビデは、ナタンから「不正な男」の話を聞いた時、「主は生きておられる」と叫びました。それは、主なる神が、常にすべてを眼差しの下に置かれている全世界の支配者であることの告白です。すべての者は主なる神の眼差しから離れては有り得ない、という信仰告白です。ダビデは、その不正な男を、王である自分が赦さないだけではなく「神がお赦しにはならない」と断言したのです。

「主は生きておられる」。この言葉は、旧約聖書全体を貫く偉大な信仰告白であり、繰り返し預言者によって用いられている表現です。ダビデの信仰が神の義に支えられていたことを、この言葉は示しています。しかし、バト・シェバを見初め、ウリヤを最前線の激戦地へ送った時、その時でも彼は、「主は生きておられる」と心の中で叫んだでしょうか。ウリヤ戦死の報告を受けた時、ダビデは神の眼差しを意識していたでしょうか。主なる神への信仰、主なる神への服従は、その時、どうなっていたのでしょうか。「主は生きておられる」と叫び続けたでしょうか。一時的にせよ神から離れたダビデの姿が、そこにあったのです。神の眼差しを忘れて生きる人間が、そこにいたのです。それゆえに、ダビデが犯した最大の罪とは、バト・シェバを巡る彼自身の行動と言うより、その行動を起こさせ、それを可能にした、「神からの離反」そのものと言わざるをえません。ナタンはダビデに向かって言い放ちます。「その男はあなただ。」(7)。この言葉は、神から離れて生きていることを自覚しない、すべての人間への警告です。都合のよい時だけ主の御名を呼ぶ人間がそこにいる、「それはあなただ」という指摘です。そしてその指摘と共に、ナタンは、主の御言葉をダビデに伝えるのです。ナタンを通して7節から12節で語られる神の怒りは、単なる不正行為の指摘ではなく、ダビデヘの恵みを思い出させることから始まっています。このことは、神の怒りがダビデの行為の根本にある「神からの離反」そのものに向けられていることを、明らかに示していると言えます。神の恵みが基盤にあるだけに、裁きも厳しいのです。人間の罪に対する神の裁きは、7節でナタンが直ちにダビデに答えたように素早く、徹底的なのです。

私たちは、これを読む時、神の御前に立たされる自分の生きざまを問わずにはいられないでしょう。私たちは、日々の生活の中のどこで、「主は生きておられる」と叫んでいるでしょうか。悪魔の誘いは、美しいバト・シェバの姿の中にあるのではなく、「主は生きておられる」ということを忘れさせるところにあるのです。

続く13節から14節での、ダビデの悔い改めの素早さと素直さに驚かされますが、それ以上に、ナタンを通して告げられる神の赦しの寛大さに驚かされます。神はこれほどまでに悔い改める者に甘いのかと思わされます。主なる神は、悔い改める者を拒まれる方ではなく、しかも、その怒りが早いのと同じように赦しも早く、その怒りが徹底しているのと同じほど、赦しもまた桁外れなのです。

なぜなら、その不正に対して、ダビデが「死刑にせよ」と叫んだのに対して、主なる神は、「死の罰は免れる」と言われているからです。神の御心は、罪を犯した者の滅びにあるのではなく、悔い改めを待つことにありました。アダムとエバの赦しを請う言葉を待つエデンの園の神の御心を思うべきです。正義の神は、ただ一言の悔い改めを喜ぶ愛の神でもあるのです。

ナタンがダビデに告げた「その男はあなただ」という言葉を、私たちは、自分自身の罪を指摘する神の怒りの御言葉として聞くと共に、怒りを越えて罪を赦す神の御言葉として響くのです。この大きな恵みを預言者ナタンは、「その男はあなただ」と私たちに告げているのです。

ダビデの罪は、バト・シェバの産んだ最初の子を失うという痛みを代償とすることで赦されました。

それでは、私たちの罪の赦しには何の代償が必要なのでしょうか。

それこそが、時を越えた主イエス・キリストの十字架の御業です。その十字架の御業はダビデの赦しのためでもあり、今ここに、私たちのためであることも明らかです。ダビデの様に素直に罪を悔い改め、主イエス・キリストの十字架の御救いを感謝し続ける者でありたいものです。

お祈りをいたしましょう。

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主イエスの恵み“カリス”

《賛美歌》

讃美歌20番
讃美歌183番
讃美歌546番

《聖書箇所》

旧約聖書:申命記 4章20節 (旧約聖書287ページ)

4:20 しかし主はあなたたちを選び出し、鉄の炉であるエジプトから導き出し、今日のように御自分の嗣業の民とされた。

新約聖書:エフェソの信徒への手紙 2章1-10節 (新約聖書353ページ)

2:1 さて、あなたがたは、以前は自分の過ちと罪のために死んでいたのです。
2:2 この世を支配する者、かの空中に勢力を持つ者、すなわち、不従順な者たちの内に今も働く霊に従い、過ちと罪を犯して歩んでいました。
2:3 わたしたちも皆、こういう者たちの中にいて、以前は肉の欲望の赴くままに生活し、肉や心の欲するままに行動していたのであり、ほかの人々と同じように、生まれながら神の怒りを受けるべき者でした。
2:4 しかし、憐れみ豊かな神は、わたしたちをこの上なく愛してくださり、その愛によって、
2:5 罪のために死んでいたわたしたちをキリストと共に生かし、――あなたがたの救われたのは恵みによるのです――
2:6 キリスト・イエスによって共に復活させ、共に天の王座に着かせてくださいました。
2:7 こうして、神は、キリスト・イエスにおいてわたしたちにお示しになった慈しみにより、その限りなく豊かな恵みを、来るべき世に現そうとされたのです。
2:8 事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。
2:9 行いによるのではありません。それは、だれも誇ることがないためなのです。
2:10 なぜなら、わたしたちは神に造られたものであり、しかも、神が前もって準備してくださった善い業のために、キリスト・イエスにおいて造られたからです。わたしたちは、その善い業を行って歩むのです。

《説教》『主イエスの恵み“カリス”』

本日の聖書箇所は、エフェソの教会の兄弟姉妹たちの現実の姿を描き出すことから始まります。それは、この手紙を書いたパウロ自身の現実でもあり、現在の私たちの現実でもあります。その現実とは、私たちは洗礼を受けて教会に加わる前には、「自分の過ちと罪のために死んでいた」という現実です。と、言ってもその現実を明らかにするパウロの言葉は、エフェソの教会の兄弟姉妹たちを非難する言葉ではありません。ここにある、「死んでいた」という表現は、以前のあなたがたは、こうであったと責めたてる言葉というよりも、今は、過ちと罪を赦されて、そこから解き放たれて、自由にされていることの喜びを共にする言葉として理解することができます。死んでいたに等しい人間が、生きるようになったことへの不思議さと感謝の言葉から始まっていると言えましょう。それは、先週ご一緒にお読みした放蕩息子が父のもとに戻って受け入れられたことの喜びに通じます。

私も、あなたも、以前は自分の過ちと罪のために死んだようになっていた。世界を支配する神に背き、罪と過ちを犯して歩んできた。神の怒りを真っ先に受けるにふさわしい者であった。しかし、そのような私たちが、今やキリストと共に生かされているという恵みを語り始めるのです。この恵みがどれほどすばらしいものかが、後半部分の7節以下には鳴り響きます。

さて、2節の「この世を支配する者」や、「かの空中に勢力を持つ者」とは、すぐ後の「不従順な者たち」のことです。「内に今も働く霊」とは悪魔のことと思われます。「この世を支配する者」は原文では「このコスモスのアイオーン」という言葉です。「コスモス」とは「宇宙」と訳される言葉で、「アイオーン」は、当時のアレキサンドリヤなどでは神として祭られていたこともあることから、「偶像の神」と解釈できます。そして、「かの空中に勢力を持つ者」とは、悪魔・サタンと考えられます。サタンは人間を遥かに超える力を持っています。主イエスがこの世に来られた明白な目的は、まさに「悪魔の働きを滅ぼすため」にほかならなかったと言われます(Ⅰヨハ3:8)。主イエスご自身も、公の生涯のはじめに荒れ野でサタンの誘惑に遭われ、サタンを退けられました。サタンは大変巧妙で、パウロはサタンのことを「光の天使を装うのです」(Ⅱコリ11:14)と指摘しているほどです。サタンは、善人を装い、時には天使を装って私たちに近づき、私たちを肉の欲望のままに生きる者として、神様から私たちを遠ざけることを企みます。

使徒パウロは、人間が偶像崇拝に陥り、サタンの支配にとらわれていく現実をしっかりと見つめます。私たちも自分は、サタンや偶像礼拝と無縁だ、自分は教会生活をしっかりと守り、信仰に堅く立っていると、自分勝手に思い込んでいるんではないでしょうか。パウロが語るサタンとは、残忍で恐ろしい姿かたちをいつもとっているわけではありません。私たちが、神以外のものをより大切にし、自分が良いと思っているところに心惹かれていくとき、すでにサタンの誘惑に陥っているのです。パウロは、3節では、ユダヤ人として信仰を受けている人たちや信仰を得ていない不信仰者を含むすべての人々は、生まれながらの本来の姿なら、神の怒りにあう者であり、神の怒りから逃れられないと言っています。自分が善かれと思って行うことが、「肉の欲望の赴くままに生活する」ことです。そのような罪の現実の最大の問題は、自分の思いのままに生きる時、私たちはキリストと共に生きている、キリストによって生かされていることを忘れてしまうことです。

神様は、そのような私たちを、それでもなお深く憐み愛してくださり、その愛によって、罪のために死んでいた私たちをキリストと共に生かし、キリストと共に復活させ、共に天の王座に着かせてくださいましたとパウロは記します。本来なら、神を忘れて、神様とは別な方向を向いている私たちを、神の御前に連れ戻してくださるのです。4節の「愛」とは、神ご自身の愛のことです。この愛は、人間をサタンの誘惑から解き放ち、サタンの支配を粉みじんに打ち砕くような厳しく、激しい決然とした愛です。神が愛する独り子を世界に遣わし、それによって私たちを新たに生まれさせ、生き方を変えてくださった愛です。神様が私たち人間を愛するゆえに、御子をすら惜しまなかった徹底した愛です。この徹底した愛にこそ、はじめからの神の目的があります。5節と6節は、私たちの予想に反するような恵みが語られています。神様がくださる恵みです。「生まれながら神の怒りを受けるべき者」を新生させてくださる神の目的は、5節の「キリストと共に生かし」てくださることであり、6節にある「共に復活させ、共に天の王座に着かせ」るためなのです。その神の豊かな愛は、ここにある「憐れみの豊かさ」であり、「わたしたちをこの上なく愛してくだ」さったからです。

新しく生まれる「新生」とは、霊的に死んでいた者に対する神の一方的な賜物、恵みです。神様は、何のとりえもない私たちを、信仰ゆえに憐み、ただひたすら一方的な恵みによって、私たちを罪の支配から救い出してくださるのです。キリスト者は、いつの時代にもこの一点だけで、共通の経験をしている者です。「あなたがたの救われたのは恵みによるのです」とありますが、これは、すでに与えられた救い、つまりイエス・キリストによる罪の赦しと罪の支配への勝利を示しています。この箇所は、教会における洗礼を指しています。コロサイの信徒への手紙2章12節には、「洗礼によって、キリストと共に葬られ、また、キリストを死者の中から復活させた神の力を信じて、キリストと共に復活させられたのです」と、洗礼についてハッキリと記されています。今日のエフェソ書では、洗礼について明記はありませんが、パウロの言葉遣いは明らかに洗礼を指しています。5節の「罪のために死んでいたわたしたちをキリストと共に生かし」とあります。この「共に生かし」とは、こことコロサイの信徒への手紙2章13節にだけ出て来る言葉です。この「生かす」とは「命をつくる」という言葉です。「キリストの救い」とは、単なる罪の赦しだけではなく、キリストにある新しい命を私たちに与えて下さるのです。この「キリストと共に生かす」とは、「新しく生まれ」てキリストと結び付けられ、キリストに起ったこと「復活と天の王座へ座ること」が、神の力によって私たちにも起こることを示しています。イエス・キリストの生命に与って、それと一体となることです。この「愛による救い」の文章は8節にまで続きますが、感極まったパウロはここで「あなたがたの救われたのは恵みによるのです」と、5節と8節で繰り返し歓呼しています。霊的に死んでいた状態から新しく生きる「新生」とは私たちに対する神の一方的な恵みなのです。

そして、この「救われた」という動詞は完了形で、イエス・キリストの十字架の御業で「すでに救われている」と言っているのです。「あなたがたの救われたのは恵みによるのです」と、ここに「恵み(カリス)」という言葉が出てきます。今日の短い聖書箇所だけでも3回も登場しています。神の救いが、人間に対する神の愛による一方的な賜物・恵みであることを表している言葉です。

成宗教会の皆さんの中にはお気付きの方もいらっしゃいますが、成宗教会のメールアドレスは「ナリムネ・カリス」です。「カリス」に決まった経緯を私は聞かされていませんが、並木先生時代に開設されたメールアドレスが、この「恵み(カリス)」であることに今日は不思議な神の導きを感じずにはおられません。

6節の「共に復活させ、共に天の王座に着かせ」るとは、やがて来る未来の終りの日のことよりも、現在既に起こった出来事を指します。神の救いは霊的な死からのよみがえり・復活ばかりか、何と、神の子たる身分への天への招きでもあるのです。「共に復活させ、共に天の王座に着かせ」と2回も続いて語られる「共に」という言葉は、一つの言葉としては存在していません。この「共に」という言葉は「復活させる」「着かせる・座らせる」という動詞の接頭語です。分かり易く日本語の意味を加えると「キリスト・イエスと一緒に復活させ、天の王座にキリスト・イエスと一緒に着かせてくださいました」となります。霊的に生き返る「新生」とは、天におられる復活の主イエス・キリストと共に新しく生きるということなのです。

7節では、「その限りなく豊かな恵みを、来るべき世に現そうとされたのです。」と、私たちの救いの目的をさらに明らかにします。この「来るべき世」とは、終末に続く新天新地を含む無限の将来・永遠を指し示しています。1章4節に「天地創造の前に、神様はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。」とありました。私たちの「選び」は過去から続くものでしたが、その「恵み(カリス)」は、現在の私たちに永遠の将来まで一方的に与えられるのです。

8節の「あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました」とあります。「恵み(カリス)」は、漠然とした「恵み(カリス)」ではありませせん。前の7節の「キリスト・イエスにおいてわたしたちにお示しになった慈しみにより、その限りなく豊かな恵み(カリス)」であり、「キリスト・イエスの十字架による慈しみ」のことです。キリストの出来事のすべてが「恵み(カリス)」です。しかもその恵みの出来事は一方的に与えられました。

しかし、その恵みとは、私たちの応答を問うことなしに、ばらまかれるのではありません。「恵みにより、信仰によって救われた」とあります。ここは、正確には「信仰による恵みで・・・」と訳すことができます。人はイエス・キリストを自分の救い主として受け入れる信仰を通して、その恵みを受けることが出来るのです。「このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です」。神の救いとは、神様からたまたま頂いた賜物ではなくて、受け取る私たちの悔い改めを前提として信仰という管を通して神のご意思によって与えられる「恵み(カリス)」と言った方が適当でしょう。

9節の、「行いによるのではありません。」とは、前の8節の「自らの力によるのではなく、神の賜物です。」の言い換え、繰り返しです。どんな形でも人の力や功績、努力が顔を出す余地はなく、「わたしたちは、人が義とされるのは律法の行いによるのではなく、信仰によると考えるから」(ロマ3:28)なのです。

10節では、「なぜなら」と、前節までの内容を繰り返して説明を重ねます。私たちは神の作品なのだから、神の救いが人間の行い、善行や業績によることはあり得ないのです。私たち人間は「神が前もって準備してくださった善い業のため」に神によって造られた作品なのです。

キリストの救いとは、救われる私たちの善行という努力や働きがまったく必要ない神の一方的な愛の「恵み(カリス)」なのです。

「恵み(カリス)」は、信仰によってのみ神様から頂くことができるものです。神様は主イエスを救い主として信じる者に溢れるばかりに「恵み(カリス)」を注がれるのであって、善行の報酬として与えられるものではありません。「恵み(カリス)」をいただく手段は信仰のみです。しかも、実に、その信仰そのものも神の賜物なのです(エフェ2:8)。

私たちは、主なる神によって創造された、神の作品です。ゆえに、私たちは、自分を誇ることができません。私たちが誇ることができる唯一の出来事は、神の御子イエス・キリストによる救いという出来事のみです。誇るならば、主を誇れという言葉通りに、信仰者の誇りとは、信仰を持つ自分ではなくて、私たちが信仰の対象としている神の御子イエス・キリストの十字架と復活の出来事、「恵み(カリス)」の出来事に他なりません。神の作品として「恵み(カリス)」を感謝し続けて生きる者となりましょう。

お祈りをいたします。

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