主は近くにおられる

8月の説教

説教箇所 フィリピの信徒への手紙4章1-7

説教者 成宗教会牧師 藤野雄大

「あなたがたの広い心がすべての人に知られるようにしなさい。主はすぐ近くにおられます。」(5節)

主にある兄弟姉妹の皆様、今日もまた、共に主の御言葉を聞きましょう。

本日の礼拝では、「フィリピの信徒への手紙」第4章の箇所が与えられています。これは、使徒パウロがフィリピという今日のギリシャにあった町の信徒に対して送った手紙です。

また「フィリピの信徒への手紙」は、別名「喜びの手紙」と呼ばれることがあります。それは、この手紙の中で、パウロが、繰り返し「喜び」という言葉を用いているからです。今日の聖書箇所である4章は、そのフィリピの信徒への手紙の1番最後の章になりますが、その3節には、次のように記されております。「だから、わたしが愛し、慕っている兄弟たち、わたしの喜びであり、冠である愛する人たち、このように主によってしっかりと立ちなさい。」さらに4節にも、「主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい」と記されております。

このように喜びということが強調されている手紙ではありますが、それはなぜでしょうか。それほどフィリピの信徒たちが、喜んでいたからでしょうか。喜びに満ちた信仰生活を送っていたからでしょうか。残念ながら、多くの人は、そうではないと考えられています。喜びなさいとパウロが命じるのは、実際には、フィリピの教会が、喜びとは、ほど遠い状態であったからでした。

フィリピの教会から喜びを奪っていたものとは、教会内にあった不和や対立であったと考えられています。それは、今日の聖書箇所にも表れています。「わたしはエボディアに勧め、またシンティケに勧めます。主において同じ思いを抱きなさい。」(2節)

ここでは、エボディアとシンティケという二人の人の名前が登場します。パウロの手紙には、しばしば実在の人物の名前が登場します。それは、パウロが、ただ深遠な神学書を書くことを目的にしていたのではなく、現実の教会のために、つまり実在する教会とそこに集う人々を想いながら、手紙を書き送ったからです。そのため、このエボディアとシンティケというのも実在の人物であったと考えられています。おそらくフィリピの教会に属する人で、フィリピの教会に対して、とくに重要な働きを担っていた人だったと考えられます。

興味深いことに、この二人の名前は、ともに女性の名前だとされています。今日でも、教会は、男性よりも女性の数が多いところです。それは、日本の教会ばかりではなく、世界的傾向といってもよいと思います。そのため、教会の実際の働きには、女性の力が必要不可欠です。それは、この成宗教会もそうでありますし、聖書の時代の教会も同様であったわけです。

おそらく、エボディアもシンティケもフィリピの教会を献身的に支えていた女性であったと考えられます。そして理由は、はっきりとは記されていませんが、この時、二人の間には、何らかの行き違いや対立が生じていました。些細な事が原因であったかもしれませんし、あるいは重要な信仰上、教会運営の意見の対立であったかもしれません。一つ確かなことは、二人の対立の結果、フィリピの教会から喜びが失われ、悲しみが生じており、またそれが遠方にいたパウロの耳にも達していたということでした。

これは教会の現実の姿を伝えていると言えます。悲しむべきことに、教会にもしばしば対立が生じることがあります。伝道や教会の方針を巡る意見の対立を巡って、あるいは、もっと個人的な問題、たとえば気の合う、合わないと言ったことでも対立が生じることがあります。このような対立が生じるのは、究極的には、私たちが、主イエスを信じ、主イエスによって罪許されても、なお罪を犯しうる存在であるからです。人間の弱さであり、また愚かさであると言えましょう。残念ながら、それはどのような教会でも起きうることです。そして、この時のフィリピの教会でも、まさにそのような対立が生じていたのでした。

それでは、そのような教会に使徒パウロはなんと語ったのでしょうか。一体、どうすれば、対立がある教会に、喜びが再び回復されると教えているのでしょうか。それは、先に引用しました2節の「主において同じ思いを抱きなさい」というパウロの言葉に表れています。

そして、続く3節以下で、当事者のエボディアとシンティケだけでなく、他の人々にも、この二人のことを支えてあげるように言います。

つまり、パウロは、二人の問題を他人事として無関心でいるのではなく、二人のために祈り、理解してくださいと願っています。それはなぜかと言うと、二人とも、他の協力者とともに、福音のためにパウロとともに戦っていたからだとパウロは言います。エボディアもシンティケも、今は対立していますが、ともに主イエスを熱心に信じる人でした。そして、福音伝道のために力を惜しまず働いていた人だったのです。このことを思い出させた後、パウロは次のように語りました。「主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい。」(4節)

キリスト者の喜びというのは、主イエス・キリストにおいて、もたらされるものであるとパウロは語ります。ここにキリスト者の喜びの根本があります。教会は、主イエスを離れて、存在することはありません。また教会で語られる喜びというのは、世間的、この世的な喜びではありません。教会の喜びとは、常に主イエスから生じるものです。この世的、人間的な喜びというのは、やがては消え去るものですが、主における喜びというのは、変わることがないものです。

エボディアもシンティケも、パウロの他の協力者たちも、またフィリピの信徒たちも、主イエスを知り、主イエスを信じることで救われました。ここに、すべてのキリスト者の一致の基礎がありますし、また喜びがあります。

パウロは、この喜びと教会の一致の基礎を今一度強調いたします。「あなたがたの広い心がすべての人に知られるようになさい。主はすぐ近くにおられます。どんなことにも思い煩うのはやめなさい。」(5節)

パウロは言います。「主はすぐ近くにおられます」と。そして、そうだからこそ広い心で、互いを受け入れ合い、あれこれと思い煩うことはやめさない。パウロは、そのように勧めます。

ここでパウロが言う「主がすぐ近くにおられる」というのが、空間的に近いということか、時間的に近いということかは、はっきりとは分かりません。主は、わたしたちの側近くにおられるのか、あるいは主は、まもなく私たちの所にやってこられるという意味なのかは判然とはしません。

結論的に言えば、おそらく両方の意味が込められているのでしょう。主が近くにおられるということは、パウロの差し迫った終末的希望への信仰と密接に結びついているからです。

古代教会の有名な説教者であったクリュソストムスは、今日の聖書箇所について、「『主がすぐ近くにおられる』ここに慰めがある。」と語りました。

私たちには、思い煩いがあります。思い通りにはいかない現実があります。心配事があり、悩みがあります。それは、一人一人の信仰生活にもありますし、また教会の中にもあります。しかし、パウロが語ったように、主は近くにおられます。これこそが、信仰者にとって唯一にして、究極の慰めです。

「主は近くにおられる」ということを礼拝の中で、もっとも端的に表しているものが、聖餐式であると言えます。聖餐式を通して、主の御体と御血に与る時、私たちは、「主が近くにおられる」という恵みをはっきりと味わい知ることになるからです。そして、主が親しく臨在される聖餐式は、同時に教会が主に在って一つであることを示します。教会の一致の基礎でもあるのです。

この聖餐式の直前に「平和の挨拶」というものを行う教会があります。これは、聖餐式の前に、互いに「主の平和がありますように」と挨拶を交わすことです。自らの罪を悔い改め、お互いに対立があれば、まず仲直りしてから主の聖餐に与るというものです。主において一つである教会において、互いの罪を赦しあい、主において喜び合うことの大切さを象徴したものと言えます。

先ほども申しましたが、教会では、さまざまな対立が起こり得ます。フィリピの教会がそうであったように、日本の教会でも起こり得ます。小さな群れの中であっても、さまざまないさかいや対立、意見の相違は見られることです。しかし、使徒パウロは、そのような私たちに向けてこう語ります。人間的な目で見るのをやめなさい。この世的なものを求めるのはやめなさい。そうではなく、ただ主において喜びなさい。いつも喜んでいなさい。そして、主に在って一つとなりなさい。なぜなら、主はすぐ近くにおられるからですと。

この御言葉を心に留めて、今日もまた、主の聖餐に与りましょう。そして、そこからもたらされる喜びに生きるものとなりましょう。

お祈りをいたします。

安心していきなさい

7月の説教

聖書箇所 ルカによる福音書7章36-50節

説教者 成宗教会牧師 藤野雄大

「イエスは女に、『あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい』と言われた。」(ルカによる福音書7章50節)

主に在る兄弟姉妹の皆様、本日も、主の御言葉を共に聴きましょう。

本日示されました新約聖書の箇所は、ルカによる福音書7章36-50節です。今日の箇所では、ファリサイ派のシモンという人の家にイエス様が招かれた時のことが記されております。イエス様たちが、シモンの家にいると、そこに一人の「罪深い女」といわれる人がやってきて、主イエスの足を涙でぬらし、髪の毛でぬぐい、さらに接吻して香油を塗ったのでした。

この罪深い女というのが、誰であったのか、その名前をなんといったのか、それは、記されていません。例えば、伝統的な教会の理解では、この罪深い女を、他の福音書に描かれる、主イエスの頭に香油を注いだとされる女、あるいはベタニアのマリアと同じ人物であるとされてきました。確かにマルコによる福音書14章では、重い皮膚病を患うシモンという人の家に主イエスが招かれた時に、主イエスの頭に香油を注いだ女の人がいたという類似した記事が記されています。

もしかしたら似たような出来事が、何度かあったのかもしれません。あるいは同一の出来事が、それぞれの福音書に異なる形で載せられたと考えることもできるかもしれません。しかし、この女性が誰であったのか、それをはっきりと断定することは、今日の私たちにはできません。ただその女性が罪深い女であったとだけ、私たちは知ることができます。そして、その罪とは、売春、あるいは性的不品行を指すものであったと言われています。確かなことは、その女性が、罪深い存在であること、当時のユダヤ教の道徳や宗教的慣習に反する行いをしていることが、町の人々には広く知られていたということです。

そのことは、ファリサイ派のシモンの言葉にも表れています。「イエスを招待したファリサイ派の人はこれを見て、『この人がもし預言者なら、自分に触れている女がだれで、どんな人か分かるはずだ。罪深い女なのに』と思った。」(39節)。

このシモンの言葉には、彼の二つの思いが表れていると言えます。一つは、この罪深い女に対する批判あるいは怒りです。シモンは、この女性がユダヤ教の基準からすれば、罪を犯していることを知っています。ファリサイ派であったシモンは、ユダヤ教の教えを守ることに熱心であり、自分を正しい人間であると考えています。ですから、そのような罪深い人々と関わりを持つことなどありえないことでした。それが、突然、自分の許しも得ずに、この罪深い女が勝手に自分の家に入り込んできたのです。そして、主イエスの足に香油を塗ったのです。それは、客である主イエスに対しても、また家の主人であるシモンに対しても、無礼なことでありました。シモンの面目をつぶすことになるからです。

しかし、一方で、シモンは、この女性を無理に追い出したりはしません。むしろ彼は、一歩引いて、主イエスであればこの事態をどのように対処するのか、事態を伺っています。「預言者ならば、この女がどのような人であるか分かるはずだ」。そのシモンの言葉には、主イエスの期待あるいは主イエスを試すような彼の気持ちが込められています。

この言葉が示すように、シモンは、ファリサイ派でしたが、同時に、主イエスのことを真っ向から敵対視していたわけではなかったでしょう。むしろ、自分の家に招いて、食事を共にしようとしています。ユダヤ社会において、食事を一緒にするということは、その人を自分の仲間であるとみなすことです。ですから、シモンは、むしろ主イエスに対して、一定の興味や関心をもっていたといえます。もしかしたら主イエスは、真の預言者であるかもしれない。そのように思っているわけです。そこで、彼は、この罪深い女にイエス様が気づくかどうかを試そうとします。

そのシモンの思惑に対して、主イエスは、シモンの想像をはるかに超えた言葉を語られます。41節から42節に記されている主イエスのシモンに対する問いかけに注目しましょう。「イエスはお話しになった。『ある金貸しから、二人の人が金を借りていた。一人は5百デナリオン、もう一人は50デナリオンである。二人には返す金がなかったので、金貸しは両方の借金を帳消しにしてやった。二人のうちどちらが多くその金貸しを愛するだろうか。』」

この主イエスの問いかけには、主が、その女性がどのような人であったかをご存知であることが暗示されています。ご自分の足を拭った女性が、神に対して大きな負債を負っていること、つまり、これまで深い罪を犯してきたこと、また罪の赦しを心から願っていることをご存知でした。そのことを言い当てることによって、ここで主イエスは、真の預言者であることを示されたのです。

さらに、主イエスは、その後で、愛と赦しの関係を語られます。「だから、言っておく。この人が多くの罪を赦されたことは、わたしに示した愛の大きさで分かる。赦されることの少ない者は、愛することも少ない。」(47節)

赦されることの少ない者は、愛することも少ない。どれだけ自分が罪深いものであるか、自分の罪の深さを知る者は、罪からの赦しを心から願います。そして、罪から赦された喜びを、主イエスへの愛によって表現しようとします。

おそらく、この罪深い女は、この出来事以前に、どこかで主イエスの教えに触れたことがあったのでしょう。直接、主イエスの教えを聞いたのかもしれませんし、あるいは人づてに主イエスのことを知ったのかもしれません。そして、主イエスが、自分の罪を赦してくださる方であることに望みをかけていたからこそ、今日のような大胆な行動にでたのでしょう。

他人の家に勝手に入り込んで、そこにいる客の足を涙で濡らし、髪の毛で拭い、接吻して、香油を塗るというのは、よくよく考えてみれば、非常識とも言える光景です。しかし、その非常識さの中に、この女性がどれほど自分の罪深さを痛感し、またそこからの赦しを、解放を願っているかが示されています。

一方、ファリサイ派のシモンは、たしかに主イエスにある種の好意を持っていましたが、自分の罪の赦しをねがっての行動ではありませんでした。世間で話題になっている人だから、有名な先生だから、主イエスを招いたのであって、自分のすべてを主の前にさらけ出す気持ちはありませんでした。それが、シモンと罪深い女の決定的な違いでした。

この二人の違いを示された後、主イエスは「あなたの罪は赦された」と女性に宣言されます。預言者として、その女性の正体を見抜かれただけでなく、罪の赦しを宣言されたのです。罪の赦し、それはただ神様以外にはできないことです。それを主はここではっきりと宣言されます。この言葉には、主イエスに自らを委ね、心から悔い改めるものは、主イエスによって救われるということが示されています。

古代教会では、今日の箇所は、しばしばユダヤ教とキリスト教の違いを示すものとして理解されてきました。すなわちファリサイ派のシモンは、ユダヤ教を象徴し、罪深い女性はキリスト教会を象徴するものと考えたのです。主イエスは、最初、シモンの家、つまりユダヤ人の間に来られますが、彼らは主イエスを受け入れません。主イエスを心から受け入れ、愛したのは、罪深い女であったのです。

この古代教会の解釈は、今日の聖書学では受け入れられないものかもしれません。しかし、一方で、感心させられるのは、それでもなお古代教会の聖書の読み方には、一定の真理が込められているということです。それは、教会というものが、この罪深い女と同じように、罪に呻き、また主イエスに罪を赦された者の集いであるということです。今日の聖書箇所は、読む者全てに、自分がシモンなのか、罪深い女性なのかを突きつけます。

自らをシモンであると考える人、つまり自分の罪を認めない人に、主イエスを本当に受け入れることはできません。そして、主イエスを受け入れ入れないがゆえに、赦されることもなく、また真の愛を知ることもできません。しかし、自らの罪を認め、心から悔い改めるならば、その時、主イエスを救い主と受け入れることになります。

宗教改革者のマルティン・ルターは言いました。「キリスト者よ、大胆に罪を犯せ。しかし、大胆に祈り、大胆に悔い改めよ」と。ルターが言う「大胆に罪を犯せ」というのは、わざと罪を犯せ、わざと悪いことをしろというものではありません。罪とは、そのような単純なものではないからです。ルター自身も、長い間、自分自身の罪に悩み苦しんだといいます。罪とは、自分自身の生き方を変えられないという嘆きです。罪とは、生き方そのものに関わるものです。

今日の聖書箇所に登場した罪深い女が、一体どのような罪を犯したのか、具体的には知ることはできません。しかし、いずれにしても、それは彼女が、望んで、故意に犯した罪ではなかったはずです。むしろ、彼女は、そのように生きていく他なかったのです。自分では望まないけれども、他にどうすることもできない。それまでの生き方を変えたくても変えることができない。それこそが、人間の本当の罪であり、また悲惨です。本当の罪とは、私たちをこのように責めさいなむものです。しかし、その苦しみと嘆きの後に、罪深い女は、やがて主イエスを見出したのでした。それは、自らの罪を、自らの人生を変えてくださる方でした。

主イエスは、この罪深い女に、最後にこう言われました。「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。」(50節)あなたの信仰こそがあなたを救う。主イエスへの信仰によってだけ救われる。主イエスを信じることによって、全く新しい生き方をするようになるということです。

主イエスによって罪が赦され、この女性は全く新しい人生を歩むようになりました。しかし、それはこの女性だけではありません。ルターもそうですし、また私たち教会に集う者全てがそうです。「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。」この主イエスの言葉は、今も、自らの罪に呻き、主イエスに依り頼む全ての者に向けられているのです。この御言葉に支えられて、平安の内を生きたいと思います。

祈りましょう。

2019年7月号

「知恵と知識の宝はすべて、キリストの内に隠れています。」

新約聖書、コロサイ2章3節

このお便りは、なりむね教会からのメッセージです。キリスト教会は神様の愛について学び、伝えます。子供さんも大人の方も、読んでいただければ幸いです。


山口智代子先生のお話

(4月14日の礼拝で話されたものです。)

聖書:マタイによる福音書27:45~61

今日のお話は、十字架にかけられて、苦しまれて、死なれるイエス様の姿が描かれています。悲しくて辛い場面です。

イエス様は、捕らえられて、大祭司の屋敷の中庭へ連れていかれます。弟子は皆逃げてしまいました。ペトロだけが、大祭司の家の中庭で遠くからイエス様が裁判にかけられている様子を見ていました。すると、その屋敷の女中が、ペトロに近づいてきて「あなたもガリラヤのイエスと一緒にいた」と言いました。ペトロは、「何を言っているのかわからない」と言いました。また別の女中が「この人はナザレのイエスと一緒にいました」と言いました。そこでペトロは再び「そんな人は知らない」と否定しました。そこにいた人々が近寄って来て「おまえもあの連中の仲間だ」と言いました。それに対してまた「そんな人は知らない」と言いました。

イエス様の仲間だと言うと自分も捕らえられて殺されてしまうかもしれません。ペトロも私たちと同じように弱い人間でした。

イエス様はその何時間か前にペトロに「鶏が鳴く前にあなたは三度わたしを知らないと言うだろう」とおっしゃっていました。イエス様はペトロがこうなってしまうことをご存知だったのです。それでもイエス様はペトロを愛しておられたのです。

イエス様は死刑を宣告されて、ゴルゴダの丘という所で十字架にかけられています。金曜日の午後のことでした。イエス様は何も悪いことはしていないのに十字架の刑になってしまいました。お昼の時間なのに真っ暗でした。十字架に磔はりつけになっているのですから、とっても痛いし苦しいです。あと何時間も苦しんで死ぬまで磔はりつけになっていなければいけません。昼の12時に、あたりは暗くなりました。それが3時まで続きました。3時頃イエス様は大声で叫ばれました。「わが神よ、わが神よ、なぜわたしをお見捨てになったのですか」

イエス様は神様の御子なのにこの言葉は、イエス様にふさわしくないと思ってしまうと思うのですが、イエス様はお祈りをされているのです。私たちは、本当に辛い時や苦しい時は、お祈りができなくなることがあります。仲のいいお友達が急に亡くなってしまったことがありましたが、そのような時はお祈りすることが出来ませんでした。「神様、どうしてですか?」と思ったりしました。

イエス様は、身近にいた弟子達に裏切られ、見捨てられました。人に裏切られ見捨てられるのはつらいことですが、神様が支えて下さるという希望があるから立ち上がれます。でも、神様に見捨てられたら、誰も立ち上がることはできません。

イエス様は、神様に見捨てられるほど苦しい時に、神様を呼ばれて祈られたのです。絶望のの中にあっても、神様に信頼をおき、神様に従われたのです。イエス様は私たちの罪のために十字架におかかりになりました。私たちが見捨てられる代わりにイエス様が見捨てられました。本当は私たちが神様から見捨てられるはずだったのが、イエス様が私たちに代わって下さったのです。

何の罪もないイエス様が、私たちのために神様に見捨てられる。このことで、イエス様が神様の御子であることが明らかになりました。この十字架の死によって、人間の罪を赦して下さったからです。神の御子のイエス様が、私たちを救うために、私たちに代わって、神に見捨てられ、神様の裁きを受けて下さったので、私たちは罪赦されて救われました。聖書の箇所に「しかし、イエスは再び大声で叫び、息を引き取られた。そのとき、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂け、地震がおこり、岩が裂け、墓が開いて、眠りについていた多くの聖なる者たちの体が生き返った」 とあります。

この一部始終を見ておいた百人隊長たちは、「本当に、この人は神の子だった」といいました。私たちも「この方は本当に神の子です」と告白する礼拝を毎週日曜日にお捧げしていきます。皆さんも頑張って、出来るだけ礼拝に出席して下さい。

7月の御言葉

「わたしは主に望みをおき、わたしの魂は望みをおき、御言葉を待ち望みます。」

詩編130篇5節

7月の教会学校礼拝

(毎週日曜日、朝9時15分~9時45分)

★ お話の聖書箇所と担当の先生

聖書 お話
7月7日(日) 出エジプト記16:13~21 藤野美樹先生
  14日(日) マタイによる福音書15:10~20 藤野雄大先生
  21日(日) ルカによる福音書12:13~21 焦凝先生
  28日(日) 詩編130:1~8 興津晴枝先生

成宗教会学校からお知らせ

  • 8月18日(日)は「夏休み一日教会学校」です。大人と子供の合同礼拝をしたあと、バーべキューやスイカわり、ゲームなど楽しいプログラムを計画しています。ぜひお友達を誘って、ご参加ください!

時間 10:30~16:00  場所 成宗教会  参加費 500円

  • 礼拝でのお話は小学校高学年~中学生にもわかりやすく語られます。礼拝後の活動は幼少~小学生向きですが、何歳でも楽しく参加することができます。中高生の皆さんは、大人の礼拝にもご参加をおすすめいたします。礼拝時間は10時半~11時半です。親子連れの方も、どうぞいらしてください。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

唯一無二

6月の説教

聖書箇所 使徒言行録4章5-12節

説教者 成宗教会牧師 藤野雄大

 

「ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです」(使徒言行録4章12節)

主にある兄弟姉妹の皆様、本日もまた主の御言葉を聴きましょう。

本日は、使徒言行録4章の御言葉が示されました。ここでは、12使徒のペトロとヨハネがユダヤ教の議員、長老、律法学者たちによって、取り調べを受けた時のことが記されています。6節には、「お前たちは何の権威によって、だれの名によってああいうことをしたのか。」と記されております。

「ああいうこと」というのは、病人を主イエスの名によって癒したことを指します。これは3章のところで記されている、足の不自由な男を癒したことでした。3章16節にありますように、イエスの名によって、ペトロたちは、この人を強め、癒しました。

ユダヤ教の議員や律法学者たちは、これを問題視しました。なぜなら、イエスの御名によって人が癒されることを認めるならば、自分たちが死刑の判決を下し、十字架につけて殺してしまったイエスこそが、特別な力を持った存在、さらに言えば神の御子であったということを認めることになるからです。

そこで、彼らは、ペトロ達を尋問することで、ペトロ達を押さえつけようとします。ペトロたちを脅すことで、イエス・キリストの復活を宣べ伝え、主イエスの御名によって、人々を癒そうとすることを妨害しようとしたのです。

これに対して、ペトロは、彼らの圧力に恐れることなく実に堂々と弁明しています。8節にも「聖霊に満たされて言った」と記されておりますように、ペトロを強めたのは聖霊なる神でありました。聖霊が、ペトロに勇気を与え、証しすべきこと、語るべきことをお示しになったのです。

それでは、ペトロは聖霊に満たされてどのようなことを語ったのでしょうか。10節には次のように記されています。「あなたがたもイスラエルの民全体も知っていただきたい。この人が良くなって、皆さんの前に立っているのは、あなたがたが十字架につけて殺し、神が死者の中から復活させられたあのナザレの人、イエス・キリストの名によるものです。」

この10節の言葉にも表れているように、ペトロは、恐れることなく堂々と語ります。律法学者や長老たちのみならず、イスラエルの民全体に向けて、あなたがたが十字架につけて殺してしまい、神が死者の中から復活させられたキリストこそが、救い主であると宣言します。ペトロのこの変化は、驚くべきことです。なぜなら私たちは、聖書を読むとき、ペトロの信仰が、これまでとても弱々しいものであったことを知るからです。

例えば、イエス・キリストが十字架にかけられる夜、ペトロは、主イエスの弟子であることを指摘されました。その時、ペトロは、巻き込まれるのを恐れて、「私はイエスという人を知らない」と、三度も主イエスのことを否定したのです。そして、恐れてガリラヤに逃げ帰ってしまったのでした。

そのペトロが、今ここで、かつて関わりを否定した主イエスの御名によって癒しを行っています。さらに、取り調べの最中にも、その主イエスを、あなたがたは十字架につけて殺してしまったではないかと、有力者たちに、物おじすることなく、はっきりと批判しているのです。それはイスラエルの宗教的指導者たちを、怒らせ、命の危険を生じさせる危険性のある行為でした。しかし、それにも関わらず、ペトロは、主イエスの御名によって、癒しを行い。またその名による救いを大胆に語ったのでした。それは、まぎれもなく聖霊の神の御導きに他なりません。なぜなら、誰も、聖霊による以外に、イエスをキリスト、救い主であると告白することはできないからです。

こうして、聖霊によって促されたペトロは、12節において、はっきりと主イエスの名による救いを証言します。「ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです。」この言葉は、ペトロの偉大な信仰告白であると言えるでしょう。聖霊によって、導かれたものが語る真実の言葉であると言えます。

思えば、キリスト教とは、このキリストの名に対する信頼に基づくものであると言えましょう。たとえば、わたしたちは、お祈りする時、最後に決まって、「主イエス・キリストの御名によって祈ります」と締めくくります。これは、お決まりの定型句のように考えてはいけないものです。そこには、信仰的な意味が込められているのです。それは、ただキリストに依り頼むという徹底した救いの確信です。今日の箇所で、ペトロが証したように、私たちには、この名前以外に救いは与えられていないからです。

父なる神に祈る時、私たちは、自分自身の名によって祈るのではありません。また、天使や偉大な聖人の名によるのでもありません。ただイエス・キリストの名、イエス・キリストの権威によって、わたしたちは父なる神に祈ることができます。主イエス・キリストによって、私たちの祈りを聞き届けてください。私たちの祈りには、そのようなキリストへの徹底した信頼が込められているのです。

当たり前のことと思われるかもしれません。しかし、信仰者であっても、しばしばキリストを忘れ、キリスト以外に救いを求めてしまうことがあります。『ハイデルベルグ信仰問答』の問い29、30でも、その危険性に対して警告しています。

問29 なぜ神の御子は、「イエス」すなわち「救済者」と呼ばれるのですか。

答 それは、この方がわたしたちをわたしたちの罪から救ってくださるからであり、

唯一の救いをほかの誰かに求めたり、ましては見出すことなどできないからです。

問30 それでは、自分の幸福や救いを聖人や自分自身やほかのどこかに求めている人々は、唯一の救済者イエスを信じていると言えますか。

答え:いいえ。たとえ彼らがこの方を誇っていたとしても、その行いにおいて、彼らは唯一の救済者また救い主であられるイエスを否定しているのです。なぜなら、イエスが完全な救い主ではないとするか、そうでなければ、この救い主を真実な信仰をもって受け入れ、自分の救いに必要なことすべてをこの方のうちに持たねばならないか、どちらかだからです。(吉田隆訳『ハイデルベルク信仰問答』、信教出版社、2002年、pp.31-32)

ここには、はっきりとキリストが唯一無二の救いであることが示されています。ここで大切なことは、キリスト「のみ」が救いであるということです。キリストによってのみ救われるのであって、キリスト「も」、また別の神も救いであるということではないのです。

このハイデルベルグ信仰問答の言葉は、ペトロの信仰の告白と同じように、日本で生きるキリスト教徒へ重要な課題をなげかけることになります。

なぜなら、この日本の宗教的観念では、このようなキリスト「のみ」の信仰は、しばしば受け入れがたいものとされるからです。たとえば、こういうことを言う人がいます。「たしかにキリスト教もいいものです。でも、結局は、どの神様を信じていても同じでしょう。キリストだって、お釈迦様だって、神社の神さまだって、どれもみな結局は同じでしょう。」

このような考え方をする方も、日本では少なくないように思います。そして、ハイデルベルグ信仰問答が警告しているように、私たち信仰者もまた、気を付けていないと、キリスト「のみ」の信仰から、キリスト「も」、他のもの「も」という信仰に陥ってしまう危険性を持っています。しかし、このキリスト「も」という信仰は、結局のところ、キリストを信じているとは言えない。そのことを、『ハイデルベルグ信仰問答』ははっきりと教えています。

このことは、「キリスト者」、「クリスチャン」という言葉にもよく表れています。この言葉は、わたしたちが何者であるかを良く言い表しています。キリスト者とは、そしてキリスト教とは、ただキリストにのみ、自らの救いの確信を置き、また望みを置くことです。救いの一部ではなく、救いに必要なことがすべてキリストにあると確信することです。

それは、キリストだけが、罪の赦しのために十字架にかかり、また死者の中から復活されたということによっています。キリストだけが、わたしたちの罪を許すことのできるお方であり、また永遠の命を与えてくださるということです。

主イエスの御名により頼むというのは、その犠牲に感謝し、その恵みの内を生きるということを意味します。ただ主が示してくださった救いを信じ、そこに唯一無二の慰めを見出しつつ、信仰の歩みを進めたいと思います。

祈りましょう。

2019年6月号

「知恵と知識の宝はすべて、キリストの内に隠れています。」

新約聖書、コロサイ2章3節

このお便りは、なりむね教会からのメッセージです。キリスト教会は神様の愛について学び、伝えます。子供さんも大人の方も、読んでいただければ幸いです。


斉藤紀先生のお話

(5月19日の礼拝で話されたものです。)

聖書:申命記4章15-19節

旧約聖書に、出エジプト記という項目があります。昔昔、エジプトで奴隷になって働かされていたイスラエルの人たちを、モーセが率いてカナンの地まで連れてゆく物語です。苦労してエジプトを脱出、そしてシナイ山で、モーセは神様との約束を石に刻みました。これが有名な十戒です。モーセがシナイ山にこもり、パンも水も口にしないでひたすら神様と会話をして、石に刻んだと言われています。全部で10項目あります。第1番めが「あなたは私のほかに何者をも神としてはならない」 2番めが「あなたは自分のために刻んだ像を作ってはならない(神様でないものをつくって拝んではならない)」です。今日の勉強の箇所は、この十戒の2番目、偶像を作ってはならないというところです。自分のために、どんな形の像も作って拝んではならないと、今日の聖書箇所にあります。神様は目に見えない方です。神様の形を作って、拝むというのは、いけないことなんです。なぜかというと、神様の形を木とか、石膏とか、そうだ、高価な高いもので作ればお金がたくさんかかったのだから心がこもるかなと思って、金で作ってもいけません。木は燃やせば灰になります。灰の中には神様はいらっしゃいません。石膏も同じです。壊せば白い粉になってそれだけです。白い粉の中には神様は存在しません。金もそうです。溶かしても、金です。金は1000℃ちょっとくらいで溶けますけれど、融けて塊になっても神様は現れません。どうしてでしょうか。金の中に神様はいらっしゃらないからです。要するに、木にしろ、石膏にしろ、金にしろ、それは神様ではないのです。

神様ではないものを神様として拝むことは、いけないことなのです。イスラエルの人たちは、神様によって自由を与えられ、奴隷から解放されました。でも、それには守られなければならないことがあったのです。それが十戒です。モーセがシナイ山に登って、神様と対話をしているときに、なかなか下りてこないので、ふもとで待っていた人たちは不安になって、金で子牛を作って拝んだりしましたがこれを知った神様はたいそうお怒りになりました。人間は大変弱いものですから、神様が目に見えないので不安になって、金の偶像を

作ってしまったのかも知れません。でも、まことの神様は天にいらっしゃいます。天にあって、私たちを愛し、恵みを下さり、そして正しい方向に導いて下さっているのです。このことを忘れないでください。

私はこの十戒が刻まれた石を見たいと思っているのですが、まだ発見されていません。十戒の石版は石ですから、どこかで土に埋もれているのではないかと思っています。モーセの時代は、はっきりとは分からないのですが、紀元前12-3世紀ではないかと言われています。

この石版は、契約の箱という箱に収められ、エルサレムの神殿に安置されていた時代もあったのですが、よその国の王様が攻め入ってきて、神殿を壊したころから、行方が分からなくなりました。コピー機のような便利なものが無い時代ですから、私はきっとこの石版の複

製品が何枚かあるのではないかと思っています。そのうちきっと土の中から掘り出される日が来ると期待しています。なぜかというと、この石版よりもっともっと古いものが、近代になって土の中から出てきているのです。ですから、モーセの十戒の石版もそのうちに発見されるかもしれませんね。

6月の御言葉

「愛する人たち、自分で復しゅうせず、神の怒りに任せなさい。「『復しゅうはわたしのすること、わたしが報復する』と主は言われる」と書いてあります。」

ローマの信徒への手紙12:19

6月の教会学校礼拝

(毎週日曜日、朝9時15分~9時45分)

◎ お話の聖書箇所と担当の先生

聖書 お話
6月2日(日) マタイ12:1-8 藤野美樹先生
  9日(日) 使徒言行録2:1-13 勝田令子先生
  16日(日) 箴言23:22-25 藤野雄大先生
  23日(日) ローマの信徒への手紙12:19-21 興津晴枝先生
  30日(日) 創世記2:18-25 藤野美樹先生

成宗教会学校からお知らせ

 

  • 6月9日はペンテコステ・花の日礼拝です。教会のお誕生日です。
  • 礼拝でのお話は小学校高学年~中学生にもわかりやすく語られます。礼拝後の活動は幼少~小学生向きですが、何歳でも楽しく参加することができます。中高生の皆さんは、大人の礼拝にもご参加をおすすめいたします。礼拝時間は10時半~11時半です。親子連れの方も、どうぞいらしてください。