キリストと共に

齋藤 正 牧師

《賛美歌》

讃美歌97番
讃美歌420番
讃美歌522番

《聖書箇所》

旧約聖書:  詩篇89編9-10節

89:9 万軍の神、主よ
誰があなたのような威力を持つでしょう。
主よ、あなたの真実は
あなたを取り囲んでいます。
89:10 あなたは誇り高い海を支配し
波が高く起これば、それを静められます。

新約聖書:  マルコによる福音書4章35-41節

◆突風を静める
4:35 その日の夕方になって、イエスは、「向こう岸に渡ろう」と弟子たちに言われた。
4:36 そこで、弟子たちは群衆を後に残し、イエスを舟に乗せたまま漕ぎ出した。ほかの舟も一緒であった。
4:37 激しい突風が起こり、舟は波をかぶって、水浸しになるほどであった。
4:38 しかし、イエスは艫の方で枕をして眠っておられた。弟子たちはイエスを起こして、「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」と言った。
4:39 イエスは起き上がって、風を叱り、湖に、「黙れ。静まれ」と言われた。すると、風はやみ、すっかり凪になった。
4:40 イエスは言われた。「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか。」
4:41 弟子たちは非常に恐れて、「いったい、この方はどなたなのだろう。風や湖さえも従うではないか」と互いに言った。

《説教》『キリストと共に』

私たちが、「教会に生きる」とは、聖書の御言葉に従って生きることです。私たちを真実の幸福に導き、豊かな人生を全うさせて下さるということを信じ、その御言葉に従う生き方です。御言葉に導かれて過ごすキリスト者の人生、その人生には何が待っており、そこで何を見ることが出来るのか、本日の物語はそのことを明らかにしています。

35節に「その日の夕方になって、イエスは、『向こう岸に渡ろう』と弟子たちに言われた」とあります。

何故、夕方になって、舟を出したのでしょうか。何故、「向こう岸に渡ろう」と言われたのでしょうか。聖書は、その理由を何も語っていません。大切なことは、「主イエスが語り、弟子たちはそれに従った」ということです。そして聖書は、「先立って導かれる主イエス・キリスト」に注目することを求めているのです。

私たちの生活は、「さあ、行こう」というキリストの御言葉と共に始まるのであり、その御言葉を聞き漏らして、「正しい信仰生活は有り得ない」のです。キリスト者の人生において、これが先ず何よりも大切なことです。「さあ行こう」という御言葉によって始まった人生がどんなものであるのか、それを聖書はここに語るのです。

37節に「激しい突風が起こり、舟は波をかぶって、水浸しになるほどであった」とあります。

ガリラヤ地方は、イスラエルでは気候の穏やかな暮らしやすい所です。ガリラヤ湖畔には何箇所もの温泉があり、湖上には何時も小さな遊覧船が巡っています。このガリラヤ湖は、アフリカ地溝帯と呼ばれる地球の裂け目にあり、何と地中海の海面より標高が二百米以上低い海抜マイナス200メートルの陥没地帯です。茨城県の霞ヶ浦と同じくらいの広さの湖の周囲は台地に囲まれ、丁度、巨大な鉢の底のような特異な地形です。東はシリア砂漠、西は地中海が、東西の丘陵地帯の背後にあり、それを越えて来る東からの乾燥した熱風、西からの湿った海風がぶつかり、気流が極めて不安定なところです。そのため、特に午後には強い突風が吹く、と多くの書物に記されています。しかし、始終、突風が吹くわけではありません。ところが、稀に激しい風が、何の前触れもなく、突然、吹き荒れる。これが突風の恐ろしさであり、ガリラヤ湖での舟にとっての最大の危険な点と言ってよいでしょう。

この物語を、「さあ、行こう」という主イエスの御言葉から始まったとお話ししました。その「さあ、行こう」という主イエスの御言葉に従う人生にも、「思いがけない恐ろしい危機に出会うことがある」のだ、と今日の聖書は教えているのです。

私たちはこんな話をする人たちに良く会います。「信仰を持っていながら、何故、苦しみに出会うのだろうか?」「信仰に生きているのに、何故、こんなに悲しいことが続くのだろうか?」。

ここに目を向けているのが新興宗教と呼ばれるものです。「信心すれば不幸がなくなる」と言い、不幸に出会えば「あなたの信心が足りない」と言います。苦しみや悲しみから逃れたいと願う人間共通の心の弱点を巧みに利用していると、言うことが出来るでしょう。

しかし、聖書が語ることは、たとえ私たちがキリストに出会い、御言葉を聞き、それに従ったとしても、「決して苦難はなくならない」と言うことです。

苦しみを喜ぶ者はいません。悲しみや不幸を喜ぶ人もいません。誰でも嫌なことから離れて生きたいと願うでしょう。しかし、この世界で、そのようなことが可能でしょうか。

私たちは、人と人との関わりの中で生きています。その一人一人が暮らす日々の中で、どうして苦しみから離れて過ごすことが出来るでしょうか。傷つけ、傷つけられる生活の繰り返しから、どうして逃れられるでしょう。

生きる苦しさ、人生の不条理は、罪の中に埋没した人間の必然なのです。苦しみとは、神に背を向けて生きる人間自身が、自ら生み出しているものなのです。

個人的な人間感情の問題だけではなく、公害や自然破壊、交通事故なども、結局は生命の尊さを真実に知らない社会が作り出したものであると言えるでしょう。そしてその危機は、ガリラヤ湖の嵐の大波のように、繰り返し繰り返し襲って来るのです。しかもそれは、決して生易しいものではありません。

「舟は波をかぶって、水浸しになるほどであった」。舟が沈みそうになったということです。「舟が沈む」ということは、舟の中に居る者にとって、生きるか死ぬかの命の危機にさらされているということです。

今、私は生きている。今、自分は生きてこの世に存在している。その最も重要かつ基本的なことが、根底から覆されてしまうのです。「私は、いったい何のために生きているのか」「私は、何のために苦しんでいるのか」。この世を生きる苦しさを想い、自分の努力の虚しさと闘っている時、自分の力ではどうにもならない力が支配しているということに気付く時、突然襲う突風は、「なんとか耐えて、生き残ろう」とする者の足下を崩壊させてしまいます。

この物語は、キリスト・イエスに従って行く時にも、危機に出会うことから逃れられないという現実を示し、そしてその現実を見極めた上で、「嵐の中で如何に生きるべきか」を教えているのです。

38節には「イエスは艫(とも)の方で枕をして眠っておられた」とあります。すると「弟子たちはイエスを起こして、『先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか』と言った」と、「理解できない応答」があります。

生まれながらの湖の漁師である弟子たちの方が、ガリラヤの山地で育った主イエスより、泳ぎも達者であり、嵐の中で生き残る術を持っていたと言うべきでしょう。それにも拘らず、弟子たちは、この危機を「主イエスの責任」といった言い方をしているのです。

私たちも、良い時は当たり前、悪い時は「自分だけが苦しんでいる」と考えるのではないでしょうか。幸福な時は自分の努力を誇り、自分の働きを誇示します。しかし、ひとたび不幸に出会うと、周囲に責任を転嫁し、社会が悪い、時代が悪いと不満を言い、挙句の果てには「もう、神を信じられなくなった」とまで言うのです。

この時起きた、「理解できない応答」とは、こういうことなのです。何故、こうなるのでしょうか。

ペトロ、アンデレ、ヤコブ、ヨハネの少なくとも四人は、明らかにガリラヤ湖の漁師でした。湖は親代々の職場であり、幼い時から慣れ親しんだ場所です。そして、舟の操作に関しては練達した専門家でありました。

彼らは、初めは主イエスの指示に従って舟を出したかもしれませんが、湖の上では、何時の間にか、そう「何時の間にか」、自分たちが「主役になっていた」のではないでしょうか。毎日働いていた湖の上。自分の手足のように扱うことの出来る舟。経験と技術に絶対の自信を持っている漁師たちは、湖の上では「キリストを必要としなかった」のではないでしょうか。

弟子たちは、扱いなれた舟を操作し、前へ進むために全力を尽くしたことでしょう。それ故に、それまでは主イエスが眠っていても、誰も文句を言いませんでした。主イエスの力を借りる必要がなかったからです。キリストを不要とする人間の世界が、平穏な湖の上にはあったのです。

しかしながら、ひとたび突風が吹き、大波が襲うと、自分たちのあらゆる努力が、何の効果もないことを思い知らされるのです。

それは圧倒的な力の差でした。小さな波や少しばかりの風であるならば、舟を扱う専門家である弟子たちの技術と体力がそれを乗り越えさせたでありましょう。しかし今や、弟子たちの持つもの全てが、「全く無力である」ということに気付かされたのです。

さらに、この弟子たちの恐れは、「知らなかった者の恐れ」ではなく、「知っている者の恐れ」とも言えるでしょう。漁師であるが故に、突風の恐ろしさ、水中に投げ出された者の運命などは、誰よりもよく知っていた筈です。かえって、無知な人間ほど本当の恐ろしさを知らないものです。

世の中をよく知っている人、十分な社会経験を積んだ人ほど、人生最大の危機において、それまで誇っていた知識や経験がかえって不安と恐れの原因となり、自分を戸惑わせることになるのです。ここに記された「理解できない応答」こそ、キリストを必要としないで生きてきた人々が、危機において示す混乱の姿なのです。

39節には「イエスは起き上がって、風を叱り、湖に、『黙れ。静まれ』と言われた。すると、風はやみ、すっかり凪になった」とあります。

主イエスは人間の恐怖に応えて下さる方なのです。

「風を叱り、湖に『黙れ、静まれ』と言われた」と記されています。当時の人々は、そこに悪霊の働きを見ていたからです。嵐を単なる自然現象として捉えるのではなく、人間を傷つけ恐れさせ、危害を加える悪魔の力を嵐の中に見ていたのです。ペトロたちはその時代の人たちでした。

ここで主イエスは、「その時代の人々に分かるように行われた」ということなのです。単に、「超自然的な力によって嵐を静めた」というだけのことではなく、弟子たちを恐怖から解放するために、彼らを捉える恐れの根源に向って叱るという行動をとられたのです。それは「自然に対する言葉」ではなく、それこそが「悪魔の力に対する御子の宣言」として聞くべきでしよう。主イエス・キリストは、たとえ嵐であれ大波であれ、御自身に従う人々を脅かす力に対して、断固とした態度を取る方であり、私たちを襲う危機は、主イエスによって力を失うのです。

さらに、弟子たちが恐れている間、主イエスは眠っていたと記されていますが、主イエスは、この危機に気付かなかったのでしょうか。弟子たちの恐怖を知らなかったのでしょうか。そんなことは有り得ません。

この危機は、滅びをもたらすようなものではないことを、主イエスは御存知だったのです。湖面を騒がせる嵐も、所詮は、見せ掛けの力に過ぎないことを知っておられたからです。38節の「イエスは艫の方で枕をして眠っておられた」とありますが、「艫」とは、船尾です。当時の覆いのないガリラヤ湖の舟の中で船尾で枕をして眠っていたになら嵐に気付かない筈がありません。大揺れに揺れて水しぶきを浴びていたでしょう。そんな中でも主イエスが眠っておられたとは、嵐の力をもってしても「キリストと共に居る者を滅ぼすことは出来ない」ということを表しているのです。そして真実の平安は、この「キリストの保証のもとにのみある」ということです。

キリスト者は、この物語をしっかりと心に止めなければなりません。主イエスの導きに従って歩み始めたとしても、決して、苦難はなくならないのです。主イエスと共に居ても嵐は襲ってきます。しかしその危機は、主イエスと共に居る者を決して破滅させることは出来ず、ただ主イエスが起き上がるまでの間、私たちを脅かす程度のものに過ぎないのです。

私たちも、あの時、舟を操っていた弟子たちと同じように、自分の力で生きているつもりかもしれません。しかし、たとえ、自分の力で生きているつもりであっても、主イエス・キリストは離れては居らず、私たちが主イエスに気づく時まで「目を閉じておられるに過ぎない」のです。主イエスは、常に私たちを見守り、約束の御国に至るまで、この世の歩みを導かれるのです。

最後の40節と41節には「イエスは言われた。『なぜ怖がるのか。まだ信じないのか。』弟子たちは非常に恐れて、『いったい、この方はどなたなのだろう。風や湖さえも従うではないか』と互いに言った」とあります。

弟子たちの、そして私たち信仰者の歩みは常に嵐に翻弄されています。私たちはその中で動揺し、うろたえ、主イエスを疑い、時に文句を言うようなことを繰り返しています。しかしそのように嵐に翻弄されている危なっかしい弟子たちの舟に、そして「私たちの舟である教会」に、主イエス・キリストが確かに乗り込んでおられます。主イエスは、私たちがどんなに動揺し、うろたえても、神の国を実現する救い主としての歩みを貫いていかれるのです。その歩みは、十字架の死と復活へと向かっていました。主イエスが私たちの全ての罪を背負って十字架にかかって死んで下さり、罪と死の力に勝利して復活して下さり、神の国、神様のご支配が、私たちの救いが実現したのです。「いったいこの方はどなたなのだろう」という問いへの答えは、十字架と復活においてこそ与えられたのです。その主イエスが今、私たちの舟に乗り込み、「共に向こう岸に渡ろう」と語りかけて下さっています。私たちも、代々の信仰者たちに倣って、その主のみ言葉に従い、主イエスが示して下さる向こう岸に向けて旅を続けて行く者でありたいのです。その旅路には様々な苦難が待ち受けているでしょうが、主イエスが共に乗り込んでおられるこの舟が沈み滅んでしまうことは決してないのです。

お祈りを致します。

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受難節第4主日礼拝 (2021/3/21 № 3745)

司会:齋藤 正
奏楽:ヒムプレーヤ
前奏  新型コロナウィルス感染症流行拡大防止のため自粛します
招詞
讃美 97
主の祈り (ファイル表紙)
使徒信条 (ファイル表紙)
交読詩編 13014節(交読詩編p.149 [赤司会・黒一同]
祈祷
讃美 420
聖書 詩篇 89910 (旧約 p.926)
マルコによる福音書 43541 (新約 p.68)
説教
「キリストと共に」
成宗教会 牧師 齋藤 正
讃美 522
献金 547 齋藤千鶴子
頌栄 543番
祝祷
後奏
受付:齋藤千鶴子

 

神の国

齋藤 正 牧師

《賛美歌》

讃美歌7番
讃美歌195番
讃美歌502番

《聖書箇所》

旧約聖書:ヨエル書 4章13-15節 (旧約聖書1,426ページ)

4:13 鎌を入れよ、刈り入れの時は熟した。来て踏みつぶせ/酒ぶねは満ち、搾り場は溢れている。彼らの悪は大きい。
4:14 裁きの谷には、おびただしい群衆がいる。主の日が裁きの谷に近づく。
4:15 太陽も月も暗くなり、星もその光を失う。

新約聖書:マルコによる福音書 4章26-34節 (新約聖書68ページ)

◆「成長する種」のたとえ

4:26 また、イエスは言われた。「神の国は次のようなものである。人が土に種を蒔いて、
4:27 夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。
4:28 土はひとりでに実を結ばせるのであり、まず茎、次に穂、そしてその穂には豊かな実ができる。
4:29 実が熟すと、早速、鎌を入れる。収穫の時が来たからである。」

◆「からし種」のたとえ

4:30 更に、イエスは言われた。「神の国を何にたとえようか。どのようなたとえで示そうか。
4:31 それは、からし種のようなものである。土に蒔くときには、地上のどんな種よりも小さいが、
4:32 蒔くと、成長してどんな野菜よりも大きくなり、葉の陰に空の鳥が巣を作れるほど大きな枝を張る。」

◆たとえを用いて語る

4:33 イエスは、人々の聞く力に応じて、このように多くのたとえで御言葉を語られた。
4:34 たとえを用いずに語ることはなかったが、御自分の弟子たちにはひそかにすべてを説明された。

《説教》『神の国』

マルコによる福音書を連続して、ご一緒に読んで来ました。本日は4章26節以下をご一緒に読むのですが、ここには、主イエスがお語りになった二つの譬え話が記されています。小見出しの表現で言えば、「成長する種」の譬えと、「からし種」の譬えです。そしてこれらが、4章の始めから語られてきた一連の譬え話の締めくくりとなっています。主イエスはこのような譬え話を用いて人々に教えを語られたのでした。主イエスの語られた教えは、守るべき戒律や宗教的な教訓話ではありませんでした。主イエスは「神の国」を告げ広めておられたのでした。「神の国」とは、神様のご支配ということです。神様の独り子である主イエスがこの世に来られたことによって、神様のご支配が実現しようとしている、その神の国について主イエスは譬え話によってお語りになったのです。本日の箇所の二つの譬え話にはそのことがはっきりと示されています。「成長する種」の譬えは「神の国は次のようなものである」と語り始められています。「からし種」の譬えも、「神の国を何にたとえようか。どのようなたとえで示そうか」と始まっています。私たちがこれらの譬え話から読み取るべきことは、主イエスによって実現する神の国のことなのです。

しかし、ここに示されているのは、「神の国とはこのような素晴らしい所だ」といった話ではありません。神の国ってどんな所だろうか、という興味でこれらの譬え話を読んでも、肩すかしです。私たちは「神の国」を、死んだら行くであろう「天国」と重ね合わせて理解してしまうことがあるかもしれません。死んだ後行く天国とはどんなところだろうか、それを知ろうとしてこの話を読んでも、まったく満足な答えは得られません。主イエスはそういうことを語ってはおられないからです。主イエスは「神の国」を、そういう素晴らしい所があるから、あなたがたもそこへ行けるように頑張りなさいとか、まして、死んだらそこへ行くことができる、などと語っておられるのではありません。主イエスが語っておられるのは、神の国はもうあなたがたのところに来ている、あなたがたの間で今まさに実現しようとしている、ということなのです。1章15節の「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」という主イエスの言葉がそれを示しています。どこかにある神の国を求めなさいとか、今いる所が神の国になるように努力しなさいと言うのではないのです。あなたがたが生きているその現実、あなたがたの人生そのものにおいて、神の国、神のご支配が今や実現しようとしているのだ、神様があなたがたの日々の生活を、恵みをもって支配して下さる、その神のご支配が既に始まっているのだ、と語っておられるのです。

その神の国、神のご支配は、誰の目にもはっきりと見えるものとはなっていません。私たちの生きているこの現実、この人生において神の恵みのご支配が実現しようとしていることは、私たちの目にははっきりとは見えないのです。それは隠された事実、秘密にされている事柄なのです。2月21日に「みことばの実り」と題してお話しした4章11節には「神の国の秘密」という表現がなされていました。神の国は「秘密」と表現されるような、隠された事柄なのです。その隠された神の国を、それが全く見えない現実の中で、なお神様のご支配を「信じて生きる信仰」へと私たちを招くための話なのです。

26節から、「人が土に種を蒔いて、夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。土はひとりでに実を結ばせるのであり、まず茎、次に穂、そしてその穂には豊かな実ができる」とあります。種は蒔かれると土に埋もれてその姿は見えなくなります。隠されてしまうのです。しかし隠されていても、土の中で人知れず根を張り、成長していくのです。そしてやがて芽を出し、伸びていきます。その成長は私たちが夜昼、寝起きしているうちに進んでいきます。勿論農夫はその作物の成長のために水をやり、雑草を刈り、肥料をやりと手を尽くします。しかしそれらは作物の成長のための環境を整えるということです。水を吸収し、養分を取り入れて成長していくこと自体は、作物そのものの持っている力であって、それは人間の理解を超えた、また人間の力の及ばないことです。そのように作物は、28節にあるように「ひとりでに」実を結ぶのです。作物が「ひとりでに」実を結ぶのも、作物をそのようにお造りになり、力を与えた方がおられるからです。つまりこの「ひとりでに」という言葉は、人間の理解を超えた、人間の力の及ばない所で、神様が作物を成長させ、実を実らせて下さっているのだ、ということを語っているのです。神の国もそれと同じです。主イエスがこの世に来られたことによって、神の国の種が、あなたがたのところに既に蒔かれている。その神の国の種は、今は隠されているけれども、着実に成長を始めている。人間の理解を超えた、人の力の及ばないところで、神様がそれを育て、実を結ばせようとしておられる。その収穫の時が今や近づいているのだ。「成長する種のたとえ」はそういうことを語っているのです。

このことは、先週ご一緒にお読みしました4章21節からの「ともし火」の譬えにおいて語られていたことと通じるものです。ともし火は升の下や寝台の下に置くためのものではない、燭台の上に置くものだ、というあの譬えは、「隠れているもので、あらわにならないものはなく、秘められたもので、公にならないものはない」という言葉と結び合わされて、今は隠されているともし火が、将来必ずあらわになり、全ての人を照らすようになる、という約束を語っていました。そのともし火が、神の国、神のご支配です。今は隠されている神の国が、神様ご自身の働きによって、いつか必ずあらわになるのです。そのことが、本日の「成長する種」の譬えにおいては、種はひとりでに育って行って、ついに収穫の時が来る、という譬えによって言い表されているのです。神様はそのように神の国を育て、完成して下さる、だからそこに希望を置いて、収穫の時を待ち望みつつ生きるようにとこれらの譬え話は教えているのです。

続く30節以下の、「からし種」の譬えも同じことを語っています。この譬え話のポイントは、蒔かれる時には地上のどんな種よりも小さなからし種が、成長するとどんな野菜よりも大きくなる、ということです。砂粒のようなからし種が、五メートルぐらいの大きな木のように成長し、その葉陰に鳥が巣を作れるほど大きな枝を張るようになるのです。これも「神の国」の譬えです。神の国、神のご支配は、今は隠されており、目に見えないので、多くの人々はそれに見向きもしません。今は目にも止まらないような小さな小さな種である神の国が、最終的には素晴らしい木へと成長するのだ、ということを主イエスはこの譬えによって語っておられるのです。

先程もお話ししましたが、マルコは主イエス・キリストの宣教の第一声を「神の国は近づいた」という御言葉の中に見ていました。この「近づいた」という言葉は、確かに「近づく」という意味ですが、さらに具体的には、「来た」という意味もあります。「神の国」の実現は、神の御計画の必然であり、御子キリストの到来と共に「始まった」と述べられているのです。新約聖書128ページ、ルカによる福音書11章20節には、「わたしが神の指で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ。」と記されています。ここは、口語訳聖書では、「来ているのだ」という言葉の前に、「既に」という言葉を加えており、また岩波訳では「まさに」という表現で実現性を特に強調しています。

「神の国は、まさに、今、来ているのだ」。これが最も正確な翻訳と言うべきでしょう。「神の国」は、歴史の遥か彼方に実現を期待する希望ではありません。現実に、この世界に成就した神の御業であるのです。「神の国」とは、私たちがこの世界に建設する何らかの特定な社会ではなく、主イエス・キリストの御業が行われる場のことです。御子キリストの到来、即ちクリスマスこそ、「神の国の始まり」であったということなのです。

このように、私たちは、「神の国」の始まりを見ながら、なお、その完成を望んで生きているのです。ここに、キリスト者の緊張感があると言えるでしょう。私たちの生きる姿は、「既に」と「未だ」という「二つの一見矛盾した時間の中」を過ごしていかなければならないのです。

「既に、神の国の中を生きている」と言う時、「今のこの時」を軽んじることは出来ません。「未だに完成していない」と言う時、「今の生きていること」がすべての終わりになる終末であるとは言えません。

私たちは全て、今、自分が置かれている時をはっきりと見詰め、「来るべき時のために、今日を生きる」という姿勢を明らかにしなければなりません。このような生き方を、難しい言葉ですが、「信仰的実存」と呼ぶのです。このように、私たちは、「既に」と「未だ」という「二つの時」の緊張状態の中にあるのです。従って、この「既に」と「未だ」の緊張感を正しく捉えられない時に、キリスト者としての考えや生活に乱れが生じると言えましょう。

主イエス・キリストは、このような「二つの時の間」を生きる私たちを顧み、恵みに恵みを増し加え、約束の確かさを明確にして下さるのです。

「神の国」の実現は、私たちの力ではなく、努力によってでもなく、神の御心によって進むのです。私たちの心の中に蒔かれた福音の種は主イエス・キリストが正しく成長させて下さるのです。

御子イエスは、この世において極めて軽んじられた生涯を送られました。誕生はベツレヘムの宿屋の家畜小屋であり、御使いの知らせがなければ、誰も訪れることもなく、誰からも祝福されない誕生でした。ナザレの村で育ち、村の人々から特別な注目を受けることもない平凡な大工でした。そして、福音を語り始めると、変人として村から追い出されたのです。その後、ガリラヤ各地を巡り、福音の宣教に携わった時も、周囲に居たのは漁師や徴税人、病人など、恵まれない人々でした。そして、生涯の最後に待っていたのは、最も恥ずべき十字架でした。

この世の誰もが、目もくれないような、主イエス・キリスト。

地上において全く軽んじられる扱いを受けた、主イエス・キリスト。

全ての人々から嘲られ、見捨てられた、主イエス・キリスト。

人間の眼から見れば、この十字架のキリストに「神の国」を見ることは、とても出来ないでしょう。その誕生から十字架までの惨めさが、神としての栄光を隠してしまっているからです。

しかしそれにも拘らず、神の御業は、そのどん底の惨めさから始まったのです。私たちの眼には、この世での力やこの世での姿が強く逞しい方が魅力的に映るかもしれません。しかし、「神の国」は、この十字架の主イエス・キリスト以外からは始まらないのです。ナザレの主イエスに、全ての希望がかかっているのです。

神の国、神のご支配は、このようにして、主イエス・キリストの十字架の死と復活を通して、人間の力や思いをはるかに超えた神様の力によって、まさに主の熱意によって前進し、実現し続けているのです。弟子たちは、この神の国の前進に巻き込まれ、その中で、自らの罪と弱さとそれによる挫折を思い知らされると同時に、主イエスの十字架の死と復活による罪の赦しと、新しい命の恵みをも豊かに味わい、体験させられていったのです。そのようにして弟子たちは、神の国、神のご支配を本当に知り、信じる者となりました。主イエスによって到来した神の国、神のご支配は、からし種一粒のような小さな小さなものでしたが、大きく成長したことは歴史が示しています。私たちも、からし種の様な小さな信仰が、三十倍、六十倍、百倍の実を結ぶのだということを心から信じる者となり、主イエス・キリストに遣わされて、この神の国の福音を宣べ伝える者とされていくのです。

神の国は今、この成宗教会と私たちをも巻き込んで前進し続けています。私たち一人一人の日々の生活が、人生が、神の国の成長の中に置かれているのです。神の国の列車が、私たちを乗せて既に走り出していることを信仰の目を通して見つめ、終着駅での豊かな収穫を待ち望みながら、「時の旅人」として信仰の歩みを続けていきたいものです。

お祈りを致します。

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福音に生きる

齋藤 正 牧師

《賛美歌》

讃美歌68番
讃美歌500番
讃美歌517番

《聖書箇所》

旧約聖書: サムエル記 下 22篇29節 (旧約聖書519ページ)

22:29 主よ、あなたはわたしのともし火
主はわたしの闇を照らしてくださる。

新約聖書: マルコによる福音書 4章21~25節 (新約聖書67ページ)

◆「ともし火」と「秤」のたとえ

4:21 また、イエスは言われた。「ともし火を持って来るのは、升の下や寝台の下に置くためだろうか。燭台の上に置くためではないか。
4:22 隠れているもので、あらわにならないものはなく、秘められたもので、公にならないものはない。
4:23 聞く耳のある者は聞きなさい。」
4:24 また、彼らに言われた。「何を聞いているかに注意しなさい。あなたがたは自分の量る秤で量り与えられ、更にたくさん与えられる。
4:25 持っている人は更に与えられ、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。」

《説教》『福音に生きる』

本日は新型コロナウィルス感染症の「緊急事態宣言」が終了することを祈っての長老会メンバーでの主日礼拝です。ご一緒に連続して読んで参りましたマルコによる福音書の本日の4章には、主イエスがお語りになったいくつかの譬え話が並べられています。先々週2月21日には、「種を蒔く人のたとえ」とその説明、そして、譬え話を用いて語ることの意味あるいは目的が「みことばの実り」と題して語られました。そこで、主イエスは譬え話によって「神の国の秘密」をお語りになりました。神の国とは、神様のご支配という意味です。主イエスは1章15節で「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言って伝道を始められました。主イエスがこの世に来られたことによって、神の国、神様のご支配が今や実現しようとしている、それは言い換えれば救いが実現しようとしている、ということです。しかしその神の国の福音は、同時に「秘密」でもあります。「秘密」というのは「隠されていること」ということです。神様のご支配の実現という救いは、隠されており、誰の目にもはっきりと見えるものにはなっていないのです。「神の国は近づいた」という主イエスのお言葉はそのことを言い表しています。神の国は、近づいているけれどもまだ完全とはなっていないのです。ですから、神の国の福音とは「信じること」しかないものなのです。その神の国の秘密を、身近で具体的な事柄を用いて、体験させ、信じさせてくれるのが、主イエスの語られた譬え話なのです。ですからそれは神の国についての説明ではなくて、ある意味「謎掛け」のような話です。隠された神の国が謎掛けによって示されているのです。譬え話を読む私たちは、その謎を解かなければなりません。本日の箇所に語られている譬え話も、謎のような話です。その謎をご一緒に解いていきましょう。

始めの21節で、主イエスは、「ともし火を持って来るのは、升の下や寝台の下に置くためだろうか。燭台の上に置くためではないか」と言われました。この「ともし火」をろうそくの火と考えてしまうとイメージが掴み難くなります。このともし火は、水指しのようなものに油を入れ、芯を油に浸して火を灯すランプ、アラジンのランプのようなものと言ったら分かり易いでしょう。それなら、升の下や寝台の下にも置けないことはないわけです。しかしランプをそんな所に置くために持って来る者はいません。ランプは燭台の上など高い所、よく見える所に置いて、光が部屋中を照らすようにするものです。これはまことに尤もな話ですが、これがどのような意味で神の国の秘密を語っているのでしょうか。

続く22節の、「隠れているもので、あらわにならないものはなく、秘められたもので、公にならないものはない」という言葉は、主イエスの教えと言うよりも、当時一般に語られていた諺だろうと思われます。この言葉は、「悪事はいつまでも隠しておけるものではなく、必ず露見する」と言い換えると皆様なるほどと納得されるのではないでしょうか。私たちには誰にでも、自分の心の中に秘め、隠している罪があります。人に知られたくない、知られてはならないと思っている罪、それは人間の目からは死ぬまで隠しおおせるかもしれません。しかし私たちは最後に、神様の前に立たなければならないのです。人間の目はごまかすことができても、神様は、私たちの心の中の秘めた思いまで全てご存知です。神様の裁きの前では、隠していることが全て明るみに出されるのです。神様を信じて生きるとは、この様に、自分の隠しているどんなことも全て知っておられ、それを裁かれる神様がおられることを覚えて生きることです。22節の言葉は、この様に理解されることが多いでしょう。そのこと自体は信仰における大事な教えですが、しかしここで語っているのはそういうことだけではありません。主イエスは確かに当時の諺を用いておられますが、それを、ともし火のたとえと結びつけることによって、全く新しい意味を込めておられるのです。

この譬えは、燭台の上に置かれ、あらわにされるべきともし火が、升の下や寝台の下に置かれて隠され、その光が多くの人に見えなくなっているという現実を語られているのです。神の国が隠されている、という現実です。神の国、神様のご支配、救いは、主イエス・キリストがこの世に来られたことによって決定的に近づき、実現しようとしているのです。しかし主イエスは、誰が見てもこの方こそ神様の独り子であり、救い主、まことの王であられると分かるようなお姿でこの世に来られたのではありませんでした。ベツレヘムの馬小屋で生まれ、ナザレの村の大工の子として育って来られた主イエスは、人の目を引く王族の様な立派な姿ではなかったのです。だからその主イエスが神の国の福音を宣べ伝え始め、癒しの奇跡などを行うようになったのを見て、身内の者たちは「気が変になった」と思ったのです。主イエスが神様の独り子であり、救い主であられることは、隠されていたのです。主イエスによって到来している神の国というともし火は、升の下、寝台の下に置かれ、隠されていたのです。今は隠されていて、誰の目にも明かにはなっていないけれども、いつかそれがあらわになり、公になり、全ての人々が主イエス・キリストにおける神の国のともし火に照らされる時が来るのです。22節はその約束を語っています。ともし火のたとえは、主イエスによって到来した神の国、救いは今は隠されているけれども、将来必ずあらわになる、その時を信じて、希望を持って待ち望みつつ、今のこの時の、神の国が隠されている現実の中を、忍耐しつつ歩むようにと教えているのです。

主イエスによってもたらされた神の国のともし火は隠されている、そのことが最もはっきりと現れているのが、主イエスの十字架の死です。升の下に置かれたともし火がじきに消えてしまうように、主イエスの光は人間の罪の力によってかき消されてしまったのです。しかし、父なる神様は、その主イエスを復活させて下さり、もはや死ぬことのない永遠の命に生きるともし火を新たにともして下さいました。そのともし火のもとに集められ、それによって照らされている群れが教会です。しかしながら、このともし火も、誰の目にも明らかに見えているものではありません。教会はいつの時代にも、このともし火を見ることができない、見ようとしない、多数の人々に取り囲まれています。福音書が書かれた初代の教会も、今日の私たちも同じです。主イエス・キリストこそ神の子、救い主であられ、主イエスの十字架と復活により、神様のご支配が、私たちの救いが実現しているということは、信仰によってのみ知ることが出来るのです。

神様のみ言葉を、聞く耳をもって聞くことが、ともし火を見つめて生きるためには必要です。主イエスはさらに24節で、「み言葉を聞く」ことに関する教えを語られました。「何を聞いているかに注意しなさい」とあります。み言葉を、ただ漫然と聞くのではなく、注意深く聞くことが求められています。しかしそれは、居眠りをせずに、一言も聞き漏らさないように、というだけのことではありません。ここに、「あなたがたは自分の量る秤で量り与えられ」るとあります。み言葉を聞くことが、ある秤をもって何かを量ることに譬えられているのです。私たちは、およそ人の話を聞く時に、いつもそれを自分の秤で量っていると言えるでしょう。自分の秤で量って、これは価値があると思うと、その話を一生懸命に聞くのです。逆に、自分の秤に照らして、これはあまり価値がない、と思うと、心に止めずに聞き流すのです。現代は、膨大な量の情報が洪水のように溢れている時代です。その中で、情報を選択して、聞くべき言葉と聞かなくてもよい言葉とをしっかり見分けることは必要です。そのための秤を自分の中に持っていないと、情報の洪水に押し流されてしまいます。しかしそれは同時に、自分がどのような秤によって情報を量っているかが問われているということでもあります。秤が不適切だと、必要な情報を見逃し、役に立たない情報に振り回されてしまうことも起るのです。そのように、世の中の情報を量る秤は大切です。ここで、私たちにとって本当に大切なのは、神のみ言葉を聞く時に、どのような秤を持っているかです。神のみ言葉を聞く時には、この世の情報を量るのとは違う秤が必要です。私たちが自分の考えによってみ言葉の価値を判断してこれは必要だとかこれはいらないなどと判定するのではなくて、神様が与えて下さる恵みのみ言葉をできればすべて汲み取っていくことができるような、大きな秤が必要なのです。「あなたがたは自分の量る秤で量り与えられ」というのはそういうことを語っています。重さを量る秤は、嵩を量る升に置き換えられます、例えば、お米を沢山量れるような大きな升を持っていれば、そこにみ言葉の恵みが豊かに大量に注がれるのです。そして「更にたくさん与えられる」とも語られています。神様はそのように大きな升でみ言葉の恵みを受けようとしている者に、更におまけをどんどん与えて下さるのです。しかし逆に、神のみ言葉を自分の思いによって評価し、判断し、自分に役に立つと思われるものだけを聞こうとしている人は、自分の思いや考えという小さな秤しか持っていないことになります。どういう秤を持っているかによって、神様から頂くことができるみ言葉の恵みが全く違ってしまうのです。25節の「持っている人は更に与えられ、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる」というみ言葉はそういうことを語っているのです。「持っている人」とは、お金持ちのことではありません。み言葉をいただくための大きな器を持っている人です。「持っていない人」とは、貧しい人ではなくて、み言葉を聞く器の小さい人です。自分の思いや考えというちっぽけな器によって受け取っていたのでは、隠されている神様のともし火を見ることができません。この世の現実の暗さ、闇の圧倒的な力に目を塞がれて、神のみ言葉など、信仰など、何の役にも立たない、何の力もない、と感じられ、結局、与えられている恵みをも失ってしまうことが起るのです。しかしそれは、み言葉に力がないからではなくて、その人の、み言葉を受け取る器が、み言葉を量る秤がちっぽけなものだったからなのです。

私たちは、どのような秤で、神様のみ言葉を量っているでしょうか。その秤の大きさはどれくらいでしょうか。そして量る量をより大きくするためには何が必要なのでしょうか。勘違いをしてはならないのは、その秤の大きさは、私たちの理解力の大きさではありませんし、頭が良いとか悪いとかでもありません。またそれは私たちの信仰心の深さや熱心さでもありません。「自分の量る秤で量り与えられる」とは、み言葉をどう聞くのか、それは悔い改めにかかっているのです。自分が神様に背き逆らっている罪を認め、神様のみもとに立ち帰って赦しを願うことです。み言葉は、そういう悔い改めの思いをもって聞く時にこそ、恵みの力を発揮するのです。

キリストに従い、キリストと共に生き、キリストのために死ぬ。その中に、生涯のすべてを傾け尽くす喜びが用意されているのです。25節には「持っている人は更に与えられ、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。」とあります。

悔い改めることなしにみ言葉を聞いても、その恵みの力は伝わって来ないのです。なぜなら悔い改めなければ、自分の思いや考えによってみ言葉を量り、評価し、自分の思いに合うことだけを聞き、そうでないことには耳を塞いでいるからです。自分が主人になって神様のみ言葉を選択しているのです。悔い改めるとは、そのように自分が主人となってみ言葉を評価、判断することをやめて、神様こそが自分の主であるとの信仰を与えられ、神のみ言葉によって自分の思いや感覚、考えを変えられていくことを受け入れることです。そのような秤をもってみ言葉を聞く時にこそ、み言葉の恵みは豊かに与えられていくのです。「聞く耳のある者」とは、この悔い改めの思いをもってみ言葉を聞く人です。その人には、人間の思いや力によっては及びもつかない神様の恵みの世界が開かれ、示されていくのです。そこには、主イエス・キリストの十字架と復活によって実現している神の国のともし火が見えてきます。今は隠されているけれども、いつか必ずあらわになり、全世界を照らすことになる、神様の恵みのご支配がはっきりと見えてくるのです。

私たちは、苦しみ悲しみが多い、罪が支配するこの世の闇の中で、世の光であり、希望のともし火である主イエス・キリストの放つ光に照らし出されているのです。家族や友人など周りの人々に、このキリストの光を届ける者になっていくのです。

お祈りを致します。

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正しさとは何か

齋藤 正 牧師

《賛美歌》

讃美歌66番
讃美歌187番
讃美歌354番

《聖書箇所》

旧約聖書:イザヤ書 49章25節 (旧約聖書 1,144ページ)

49:25 主はこう言われる。
捕らわれ人が勇士から取り返され
とりこが暴君から救い出される。
わたしが、あなたと争う者と争い
わたしが、あなたの子らを救う。

新約聖書:マルコによる福音書 3章20-30節 (新約聖書66ページ)

3:20 イエスが家に帰られると、群衆がまた集まって来て、一同は食事をする暇もないほどであった。
3:21 身内の人たちはイエスのことを聞いて取り押さえに来た。「あの男は気が変になっている」と言われていたからである。
3:22 エルサレムから下って来た律法学者たちも、「あの男はベルゼブルに取りつかれている」と言い、また、「悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」と言っていた。
3:23 そこで、イエスは彼らを呼び寄せて、たとえを用いて語られた。「どうして、サタンがサタンを追い出せよう。
3:24 国が内輪で争えば、その国は成り立たない。
3:25 家が内輪で争えば、その家は成り立たない。
3:26 同じように、サタンが内輪もめして争えば、立ち行かず、滅びてしまう。
3:27 また、まず強い人を縛り上げなければ、だれも、その人の家に押し入って、家財道具を奪い取ることはできない。まず縛ってから、その家を略奪するものだ。
3:28 はっきり言っておく。人の子らが犯す罪やどんな冒涜の言葉も、すべて赦される。
3:29 しかし、聖霊を冒涜する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う。」
3:30 イエスがこう言われたのは、「彼は汚れた霊に取りつかれている」と人々が言っていたからである。

《説教》『正しさとは何か』

主イエスの周りには大勢の群衆が集まっていました。「食事をする暇もないほど」と記されていますが、原文では「食事をすることも出来なかった」となっており、時間がないということではなく、押し寄せた群衆によって小さな家が一杯になり、「食事どころではなかった」ということでした。主イエスに興味をもった人々で満ち溢れていたのが、初期のガリラヤ伝道でした。そして、集まって来た人々の期待は、主イエスの超自然的な癒しなどを求めてのことであり、主イエスを正しく理解していなかったということも事実でした。

先週1月31日に、13節以下をご一緒に読んだ時、この弟子たちと主イエスのお姿は教会の原型であることを述べました。教会とは主イエスが中心にあって、弟子たちを含むすべては、付随するものとも言えるのです。もちろん、弟子たちが何もしなかったのではありません。彼らも一生懸命に働いたことでしょう。しかしそれでもなお、中心に立たれるのは主イエス・キリストであり、教会に働く者は、たとえそれが十二使徒であろうと、ただキリストに従っている者に過ぎないのです。

それでは、この時、人々の目に映った主イエスのお姿はどうであったでしょうか。既に繰り返して来たように、主イエスの癒しの御業などに対し、人々が大きな興味と期待を寄せていたことも確かです。自分たちの要求、自分たちの眼に写る身近な幸福への願い、そのような人間の自己中心主義・エゴイズムが彼らの心にあったことに間違いありませんが、ただそれだけとも言えません。

自分の要求を第一とするエゴイズムは、誰にでも有るものであり、現代の私たちも同じでしょう。当時の人々と現代の私たちとは、問題や要求する事柄は違っていても、心の底にある自己中心性は変わっていないでしょう。

それならば、何故、あの時の熱狂が現代にはないのでしょうか。ガリラヤにおいて主イエスに向った爆発的と思える人々の集中には、単なる「物珍しさ」を通り越した「何か」があったと見るべきです。「イエスへの要求」という人間のエゴイズムだけを見るのではなく、かくも人々の心を引き付けた「何か」を、ここに読み取らなければならないのです。

続く21節から、「身内の人たちはイエスのことを聞いて取り押さえに来た。『あの男は気が変になっている』と言われていたからである。エルサレムから下って来た律法学者たちも、『あの男はベルゼブルに取りつかれている』と言い、また『悪霊の頭の力で悪霊を追い出している』と言っていた。」とあります。

主イエスの家族の者たちは「イエスが気が変になった」と思いました。「気が変になった」とは曖昧な表現ですが、正しくは口語訳聖書にあるように「気が狂った」と記されているのです。また、ユダヤ人の宗教的指導者である律法学者たちは、「イエスは悪霊の頭ベルゼブルに取りつかれている」とも非難しました。

しかしながら、主イエスが、病人を癒し、悪霊を追い出しているだけであったならば、家族の人々は「気が狂った」とは思わなかったでしょう。自分たちの家族の一人であるイエスが「どうしてこのような癒しの力を身に付けたのか」と不思議に思ったとしても、「取り押さえに来る」ことはなかった筈です。ナザレからカファルナウムまで約25km、石がごろごろしているガリラヤの山道を丸一日歩かなければなりません。31節を見れば、母マリアまで来ているのであり、大変な思いで駆けつけて来たと思われます。

それ程までしてナザレからやって来たということは、ただごとではない「気が狂った」としか思えない「何かがあった」と考えるべきではないでしょうか。そして弟子たちも、主イエスと同じ姿をとっていたに違いないのです。

何が、「狂った」と言われるほどに異常だったのでしょうか。それは、「何をしているか」ではなく、「どのように生きているか」ということでした。

それは先ず、彼らが平凡な生活を否定したことに見ることが出来るでしょう。ペトロたちはガリラヤ湖での主イエスとの出会い以来、家も職業も捨てたと思われ、御言葉を聞く人々にも自分たちのような在り方を勧めていたため、これ迄の生活を守る堅実な生き方を否定する危険な思想のように受け取られたのかもしれません。

また、主イエスは、多くの人々からバプテスマのヨハネの再来と見られたように、この世の権力を真っ向から否定はしなかったものの、それに従うのではなく、新しい権威、新しい価値観を説いていたと思われます。

祭司や律法学者たちは民衆の指導者であり、尊敬され、大きな権限を持っていました。会堂を中心としたユダヤ人の日常生活は、伝統的な体制に依存していました。そのため主イエスたちは反社会的行動をしていると見做されていたでしょう。加えて、主イエスの周りには当時の社会で軽んじられている人たちばかりが群がっていました。ガリラヤ湖で魚を採っていた漁師たち、軽蔑されていた徴税人、危険思想を持つ熱心党員、それらに加えて、娼婦として軽蔑されていた女性たちや難病に苦しむ人々、苦しい生活を強いられた未亡人たち。主イエスの周りに集まったのはこのような人々でした。

「神の国の到来」という福音を宣べ伝える主イエスの姿勢は、その時代の一般的な人々、特に体制派の人々には受け入れられないものでした。当時の常識的な人生の価値観と共存出来るものではなく、その時代の現実の社会体制の中で生きる者にとって「異質なもの」と見做されたのです。

私たちの周りには時折、「イエスの時代に生まれ、イエスの説教を直接聴いたら、素晴しい信仰者になったであろう」と言う人がいますが、それは大変な思い違いです。主イエスの御言葉を聴く者は、それまで自分が守って来たもの、大切にして来たものを否定する言葉を聴くのです。福音は、それまでの生活の流れを徹底的に変えることを要求しました。

今ここで、聖霊なる神が導かれる教会で、聖書を読んで分からない人は、何処へ行っても分からないでしよう。何故なら、それは聖書が難しいのではなく、心が固いからです。御言葉を拒否してしまっているからです。主イエスの時代の人々と同じように、福音を自分とは異質なものとして聴いているからです。主イエスの家族は、「言うことは分かるが、それほど迄にすることはあるまい。これはもう行き過ぎている」と思ったのです。

私たちはどうでしょうか。自分のこれまでの生活のリズムがある程度保たれ、社会の人々と折り合いをつけられるのであれば、異なる意見に対しても寛容であり得ます。しかし、自分を守る最後の場が否定されれば相手に対して寛容になることは出来ないでしょう。

律法学者たちが主イエスの奇蹟の御業を目の当たりにし、そこで示された偉大な力を見てそれを認めながら、それでもなお、悪霊との結び付きしか考えられないのも、主イエスの家族と同じ状態にあることを示しています。自分の考え、自分の生き方に合わないもの全てを、「まともではない」と決め付けるのです。

主イエスを愛する家族たちも、主イエスを憎む律法学者たちも、主イエスに対する対応が同じであるならば、それは、個人の感情的な問題ではなく、まさに人間の持つ罪の姿と言う以外ありません。福音とは、神様に背を向けた人間の眼には、「狂っている」としか見えないようなことがあるのです。

更に23節から主イエスは、「どうして、サタンがサタンを追い出せよう。国が内輪で争えば、その国は成り立たない。家が内輪で争えば、その家は成り立たない。同じように、サタンが内輪もめして争えば、立ち行かず、滅びてしまう。また、まず強い人を縛り上げなければ、だれも、その人の家に押し入って、家財道具を奪い取ることは出来ない。まず縛ってから、その家を略奪するものだ。」と言われました。

この28節以下は主イエスが「悪霊の頭ベルゼブルに取りつかれている」という批判に対する論駁です。そして27節の「強い人」とは、その悪霊を指しています。悪霊は、その力で人を罪と死の奴隷にし、「家財道具」のように家に閉じ込めているのです。この悪霊である「強い人」の家に押し入り、その支配下にある「家財道具を略奪しよう」とは、「悪霊に縛られている人を解放しよう」としているのです。そのためには、まず「強い人」を縛り上げるほどの強い力が必要であり、「わたしが悪霊を追い出しているのは、わたしが悪霊よりもはるかに強い力を持っていることの証明である」と、主イエスは言われているのです。

主イエスは悪霊との結び付きを完全に否定しています。そして、悪霊に憑かれていることが「気が変になっている」ということと同じであるとするならば、主イエスはここで、御自分の姿こそ「正常である」と言っているのです。そして更に、もし主イエスが正常であるならば、主イエスを「まともではない」と言う人こそ「まともではない」ということになるでしょう。「正しい」とか「まともである」ということは、それが何を基準にして判断されるのか、明らかに示されなければなりません。

主イエスは御自分の正しさをはっきりと宣言されました。そしてそれは、御自分の家族を含めて、多くの人々が「正常ではない」という宣言でもありました。「正しさ」とは「存在の正しさ」です。私たちが、今、どのように生きているかという問題です。どれだけ、世のため、人のため、また教会のために尽くしているかということではなく、どれ程人を愛して来たかということでもありません。「何のためになされるのか」ということが問われているのです。それは、「神様のため、神様に喜ばれるため」に他ならないのです。

この本来のあるべき姿を失った時、人は全て正常ではなくなると言わざるを得ません。かくて、神様に背を向けて生きる全ての人々は「まともではない」のです。信仰を与えられ神の御前に立つということは、この世の信仰のない人々の生き方から見れば異常な姿に見えるでしょう。信仰を与えられ人本来のあるべき姿として、神の国を生きる時に、人は正常な者として自分を新たに発見するのです。与えられた信仰こそが正しく人を生かすのです。

そして、28節から主イエスは、「はっきり言っておく。人の子らが犯す罪やどんな冒涜の言葉も、すべて赦される。しかし、聖霊を冒涜する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う。」と言われました。

この世で人間の犯す全ての罪は赦される、しかし、永遠の罰が定められるのは聖霊を汚す者だけとあります。それは何故でしょうか。

聖霊なる神とは、キリストから遣わされて私たちのところに来られた「助け主」です。聖霊を拒否する者は、聖霊が与えて下さる神様の赦しを拒否する者であり、神様の赦しを拒否する者は最終的な裁きを受けざるを得ないのです。

ですから、全ての人間に、神様の赦し、つまり正常な人間に戻る道が備えられているのです。福音を信ずるならば全ての人間は救われるのであり、滅びる者は、自分から赦しを拒否して破滅への道を進んでいるのです。

私たちが、今、キリストに属する者、キリストの弟子として教会に召されたということは、この神様の救いの御心が、全ての人々に対して向けられている、ということを証しするためなのです。

聖書が告げる主イエス・キリストの喜びは、私たちがこの世に埋没してしまうことではなく、この世の人々と平和に共存してしまうことでもなく、弟子たちのように、周囲の人々とは違う生き方、新しい生き甲斐を持つ人間の姿を示すことなのです。「いったい、どちらが正常なのか。」との問い掛けを、生涯をかけてこの世に向って証ししていくのが、私たちキリスト者なのです。私たちの日々の生活、生きる姿によって、聖霊に助けられてこの証し人となるのです。

お祈りを致します。

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