キリストの名によって

主日礼拝

齋藤 正 牧師

《賛美歌》

讃美歌7番
讃美歌332番
讃美歌500番

《聖書箇所》

旧約聖書:詩編 9編2-11節 (旧約聖書840ページ)

9:2 わたしは心を尽くして主に感謝をささげ/驚くべき御業をすべて語り伝えよう。
9:3 いと高き神よ、わたしは喜び、誇り/御名をほめ歌おう。
9:4 御顔を向けられて敵は退き/倒れて、滅び去った。
9:5 あなたは御座に就き、正しく裁き/わたしの訴えを取り上げて裁いてくださる。
9:6 異邦の民を叱咤し、逆らう者を滅ぼし/その名を世々限りなく消し去られる。
9:7 敵はすべて滅び、永遠の廃虚が残り/あなたに滅ぼされた町々の記憶も消え去った。
9:8 主は裁きのために御座を固く据え/とこしえに御座に着いておられる。
9:9 御自ら世界を正しく治め/国々の民を公平に裁かれる。
9:10 虐げられている人に/主が砦の塔となってくださるように/苦難の時の砦の塔となってくださるように。
9:11 主よ、御名を知る人はあなたに依り頼む。あなたを尋ね求める人は見捨てられることがない。

新約聖書:使徒言行録 3章1-10節 (新約聖書217ページ)

◆ペトロ、足の不自由な男をいやす
3:1 ペトロとヨハネが、午後三時の祈りの時に神殿に上って行った。
3:2 すると、生まれながら足の不自由な男が運ばれて来た。神殿の境内に入る人に施しを乞うため、毎日「美しい門」という神殿の門のそばに置いてもらっていたのである。
3:3 彼はペトロとヨハネが境内に入ろうとするのを見て、施しを乞うた。
3:4 ペトロはヨハネと一緒に彼をじっと見て、「わたしたちを見なさい」と言った。
3:5 その男が、何かもらえると思って二人を見つめていると、
3:6 ペトロは言った。「わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」
3:7 そして、右手を取って彼を立ち上がらせた。すると、たちまち、その男は足やくるぶしがしっかりして、
3:8 躍り上がって立ち、歩きだした。そして、歩き回ったり躍ったりして神を賛美し、二人と一緒に境内に入って行った。
3:9 民衆は皆、彼が歩き回り、神を賛美しているのを見た。
3:10 彼らは、それが神殿の「美しい門」のそばに座って施しを乞うていた者だと気づき、その身に起こったことに我を忘れるほど驚いた。

《説教》『キリストの名によって』

使徒言行録に記録された主イエスが人として生きておられた時代のエルサレム神殿には「美しい門」と呼ばれる門がありました。神殿は、高い城壁に囲まれ、広大な面積を持っていましたが、その城壁の中は大きく二つの地域に分けられていました。外側は「異邦人の庭」と呼ばれ、誰でも入ることが許され、大衆のための広場の役割を果たすもので、東西三百メートル、南北五百メートルの広い境内がありました。

その「異邦人の庭」と呼ばれる境内の中央に、さらに高い壁によって囲まれた内側に神聖な神殿があり、十三の門によって、その中へ入ることが出来るようになっていました。

その門のうち、最も美しく装飾されていたものが、聖所の中央に達する正門とも言える東門・ニカノール門であり、銅の下地に金が細工され、陽が当たると輝くので、人々は「美しい門」と呼んでいました。

この門は、「美しい」というだけではなく、「聖域」への入口で、その門から中へは、神の民ユダヤ人だけが入ることが許され、異邦人および罪人と呼ばれた人々や、重病、障害を持つ人々などは「入るのが禁じられていた」のです。このことを先ず頭に入れておかなければなりません。

門には、異邦人および穢れた者の立ち入りを禁止することを定め、「捕えられた者は、自ら責任を負うべきであり、その結果は死である」と書かれた禁止札が立てられていました。この禁止札は発掘され、現在、イスタンブールの考古学博物館で実物を見ることが出来ます。「美しい門」とは、「神の前に出られる人々」と「出られない人々」とを厳密に区別する門であり、「異邦人の庭」にまでしか入れない人々にとって、「神の拒否」を象徴する門であったと言えるでしょう。

神殿へ来る人は「礼拝」を目的にしていました。神の御前に出て祈ることが目的でした。その祈りの願いは、「神の御手を必要とする人ほど強い」筈であり、孤独の寂しさや、身体の痛み・障害を持つ苦しさなど、悩みが強ければ強いほど、神の慰めを祈り求める願いは強かった筈です。

しかしながら、ユダヤの律法は、このような人々が神の御前に出ることを固く禁じていたのです。不信仰な者、邪まな思いを抱く者はともかく、長い間の病気や肉体的な障害に苦しむ者までも、ユダヤの律法では「神の怒りの結果」と見做して礼拝を禁じたのです。

これは一見奇妙なことと思われるかもしれませんが、これこそが律法主義の行き着くところでした。幸福は神からの祝福であり、健康は神より与えられた恵みであるという感謝の信仰は間違ってはいませんが、不幸は神の怒りと考えてしまった結果でした。誰にでも、重い病気に侵されたり、肉体的・精神的な障害に苦しめられることはありえます。こんな時こそ、「神に願い求める」のが私たちの思いではないでしょ言うか。それを、「神の怒りの現われ」と決めつけられ、神の御前で「罪人」と見做されたのです。従って、慰めと救いを求めて神殿に願い求めに来る惨めな境遇にある人々にとって、「異邦人の庭」と聖域の「聖所」の間に立つ禁止札は、「神の拒否宣言」であり、「聖域」の入口に設けられている門は、「通るに通れぬ疎外の象徴」でした。「美しい門」と名前は美しくても、その門は、祈り願いたくとも、「お前は入ってはならない」という差別の象徴でした。

今日の1節に、「ペトロとヨハネが、午後三時の祈りの時に神殿に上って行った。」とあります。そこには「生まれながら足の不自由な男が運ばれて来た。神殿の境内に入る人に施しを乞うため、毎日『美しい門』という神殿の門のそばに置いてもらっていたのである。」とその足の不自由な男が「施しを乞う」ために門の入口外側にいたのです。この男の足の障害は「生まれながら」と記されており、4章22節によれば、四十歳を過ぎていたとあるので、もう何十年もこのような生活を続けていたのでしよう。そしてこの日も、いつものように、「美しい門」を入る人々に施しを求めていました。

「施し」と訳されているギリシャ語のエレーモスノーは、「憐れみ」という意味です。「憐れみ」とは、憐れむべき「惨めさ」が前提であることは言うまでもありません。

この男の求めは直接的であり、一言で言えば、「金をくれ」と言うことでした。彼は「生まれながらの障害」を他人に見せ、その「惨めさへの憐れみ」を「金」によって贖うことを求めたのです。このことは、5節に「何かもらえると思って」と書かれていることからも明らかでしょう。

彼は、自分で歩くことが出来ない重度の障害者でした。働くことも出来ず、また働く場も与えられない人間で、当然、誰よりも貧しかったでしょう。好んで物乞いをしていたわけではありません。生きて行くためには、自分の「惨めさ」を他人の眼に曝すことが、彼にできる唯一の方法でした。

しかしながら、「惨めさ」とはいったい何かという本質的問題を、聖書は、改めて問いかけているのではないでしょうか。

通り過ぎる人々から金を貰い、その金で、一日の生きるための食べ物を得ることは出来るかもしれません。しかし、彼は、翌日もまたここに座らなければならないのです。通り過ぎる人々の「憐れみ」は、その日一日の飢えをしのぐだけであり、明日を保証するものではありません。言わば、「食べるために生きる一日」を支えるだけなのです。

主イエス・キリストは、「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」と言われました。また、「何よりも先ず、神の国と神の義とを求めなさい」と言われ、「明日のことまで思い悩むな」とも言われました。

しかしながら、何年も何年も、長い間「美しい門」の内側に入れず外に座っていた男には、神の御前に出ることも、そこで赦しと慰めを祈ることすら許されなかったのです。祈るべき場所に至る「美しい門」は、彼のためには開かれていませんでした。「お前は、ここに入ってはならない」という「拒絶」が、その男の心を支配し続けていたのです。

神の民イスラエルの一員として生まれながら、神の民から除外され、拒絶の言葉を聞き続けなければない人生とは、いったい、何であったのでしょうか。この男にとっての本当の悲惨とは、「永久に『門の外』に留め置かれていることにあった」と言わなければなりません。

人間の悲惨の原点を、創世記は何と言っているでしょうか。アダムとエバを楽園から追放した主なる神は、「園の入口をケルビムときらめく剣の炎によって閉ざした」と聖書は記しています。「ここから入ることを許さず」という断固とした宣言でした。

罪を犯した者に対する神の拒否。これこそ、神の怒りの下にある人間が受けなければならない「惨めさ」です。神の国の入口を間近に見ながら、自分が背負う罪のため、その手前に留まらざるを得ない者、それが、この男が人々から受けていた「惨めさ」の本当の意味でした。

全ての人間が背負う罪と、その罪故の「惨めさ」、神の御前に出る人の後姿を、ただ見送るだけの人生。この男は、「罪人」という札を背負った私たち自身の象徴として、神の国の入口に座っていたのです。

4節で、ペトロとヨハネの二人は、「わたしたちを見なさい」と言いました。なにを「見よ」というのでしょうか。

物乞いをしていた、この男は、まさに「食べるために生きているだけ」でした。しかし、ペトロとヨハネは、「わたしには金や銀はない」と言うのです。これは、二人が貧しくて与える物がないと表明しているのではなく、真実の「憐れみ」は、「金銀の施し」にはないということです。人間を「神の国の外に追い出している罪をどうするのか」という問題です。

「私たちには、あなたに施すだけの金はない」という言い訳ではなく、むしろ、「私たちは、もっと大切なものを持っている」という積極的な宣言です。人には、「食べるために生きる」ということのほかに大切な生き方があるということです。

「ペトロとヨハネは彼を立ち上がらせると、足やくるぶしがしっかりして、躍り上がって立ち、歩き出した。そして、歩き回ったり躍ったりして神を賛美し、二人と一緒に境内に入って行った。」とあります。

ここで大切なことは、「立ち上がって歩いた」ということではありません、神から拒否させられていたその男が、「二人と一緒に境内に入って行った」ことが「奇跡」なのです。

「歩けない」という障害を、「神の怒り・神よりの罰」として当時の人々が理解していていました。「彼が立ち上がり、歩き出した」ということは、「神の怒りの終結」を意味していると言うべきでしょう。「キリストの名によって歩きなさい」ということは、「キリストの名による神の赦しを受けよ」という「宣言」なのです。

十字架につけられた神の御子の苦しみとその死が、罪に対する神の審きを解消したのです。

それこそが、教会に委ねられた「神の赦しの御業」です。この男は、神を賛美し、何をするよりも先に、「聖所へ向かって進んで行った」のです。そこにこそ、神の国への招きと喜びがあるのです。

「歩けなかった者が躍り上がって立ち、歩き出した」との肉体の癒しは、神の赦しをこの男に知らしめる「現実的なしるし」と理解すれば十分でしよう。真実の奇跡とは、障害の癒しではなく、神に対する「罪の赦し」なのです。

十字架によって罪の贖いを獲得された御子キリストを「主」と仰ぎ、すべての人間に与えられる「イエス・キリストの名による赦しの宣言」こそが、教会に与えられた、霊的な務めであり、教会固有の業です。それ故に、ペトロとヨハネは、「わたしが持っているもの」と言い切ることが出来たのです。この奇跡は、ペトロの持つ「神秘的な力」ではありません。これこそが「キリストによって与えられた私たちキリスト者の力」であり「教会の業」であると聖書は力強く宣言しているのです。

私たちは、今、何を「持っている」のでしょうか。

何を「持っている」と断言できるのでしょうか。

今、私たちは、周囲の人々の前に「何を指し示している」でしょうか。

私たちに対する「神の恵み」「神の憐れみ」「神の顧み」は十分なのです。キリストに従う教会に、「欠けるもの」はありません。それ故に、悲惨の中に苦しむ者に、「私が持っているものをあげよう」と、私たちキリスト者はハッキリと言うことが出来るのです。

「わたしたちを見なさい」(4節)。これこそ、救われた喜びに生きる私たちキリスト者の姿であり、罪の中に閉じこもる世の人々の前で、「私たちが語らなければならない言葉」なのです。

そしてキリスト者は、新しい世界に生きる自分の姿を示すことによって、「キリストによって与えられた新しい世界」へ、人を招くことが出来るのです。「何よりも価値あるものを私は持っている」という確信があり、その「何よりも価値あるもの」を家族をはじめ周囲の人々に顕すことが出来るからです。

お一人でも多くの方々が救われますよう、お祈りを致しましょう。

御心に応えて

元旦主日礼拝

齋藤 正 牧師

《賛美歌》

讃美歌15番
讃美歌448番
讃美歌528番

《聖書箇所》

旧約聖書:イザヤ書 57章14-19節 (旧約聖書1,155ページ)

◆へりくだる者の祝福
57:14 主は言われる。盛り上げよ、土を盛り上げて道を備えよ。わたしの民の道からつまずきとなる物を除け。
57:15 高く、あがめられて、永遠にいまし/その名を聖と唱えられる方がこう言われる。わたしは、高く、聖なる所に住み/打ち砕かれて、へりくだる霊の人と共にあり/へりくだる霊の人に命を得させ/打ち砕かれた心の人に命を得させる。
57:16 わたしは、とこしえに責めるものではない。永遠に怒りを燃やすものでもない。霊がわたしの前で弱り果てることがないように/わたしの造った命ある者が。
57:17 貪欲な彼の罪をわたしは怒り/彼を打ち、怒って姿を隠した。彼は背き続け、心のままに歩んだ。
57:18 わたしは彼の道を見た。わたしは彼をいやし、休ませ/慰めをもって彼を回復させよう。民のうちの嘆く人々のために
57:19 わたしは唇の実りを創造し、与えよう。平和、平和、遠くにいる者にも近くにいる者にも。わたしは彼をいやす、と主は言われる。
57:20 神に逆らう者は巻き上がる海のようで/静めることはできない。その水は泥や土を巻き上げる。
57:21 神に逆らう者に平和はないと/わたしの神は言われる。

新約聖書:使徒言行録 2章37-47節 (新約聖書216ページ)

◆ペトロの説教
2:37 人々はこれを聞いて大いに心を打たれ、ペトロとほかの使徒たちに、「兄弟たち、わたしたちはどうしたらよいのですか」と言った。
2:38 すると、ペトロは彼らに言った。「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。
2:39 この約束は、あなたがたにも、あなたがたの子供にも、遠くにいるすべての人にも、つまり、わたしたちの神である主が招いてくださる者ならだれにでも、与えられているものなのです。」
2:40 ペトロは、このほかにもいろいろ話をして、力強く証しをし、「邪悪なこの時代から救われなさい」と勧めていた。
2:41 ペトロの言葉を受け入れた人々は洗礼を受け、その日に三千人ほどが仲間に加わった。
2:42 彼らは、使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった。
◆信者の生活
2:43 すべての人に恐れが生じた。使徒たちによって多くの不思議な業としるしが行われていたのである。
2:44 信者たちは皆一つになって、すべての物を共有にし、
2:45 財産や持ち物を売り、おのおのの必要に応じて、皆がそれを分け合った。
2:46 そして、毎日ひたすら心を一つにして神殿に参り、家ごとに集まってパンを裂き、喜びと真心をもって一緒に食事をし、
2:47 神を賛美していたので、民衆全体から好意を寄せられた。こうして、主は救われる人々を日々仲間に加え一つにされたのである。

《説教》『御心に応えて』

今日の元旦も教会に集まり礼拝を捧げています。昨年11月からご一緒に読み進めて来た使徒言行録の12月18日は、ペトロの心を打つ説教でした。そして、その説教の結果は人々の悔い改めへと続くのです。今日は、熱狂的な大群衆の回心というクライマックスがあり、この驚くべき出来事は使徒言行録のテーマに相応しいとも言えるでしょう。

しかしながら、使徒言行録は、ペンテコステの日の大いなる出来事として、「三千人の受洗」という劇的な場面ではなく、そこから誕生した「教会の姿」を描き、それをこの記念すべき日の結びとしているのです。

このことは、神の御業の目的が、一時の熱狂に満足することではなく、生涯を通して過ごす「教会生活の確立にある」ということを示していると言えます。端的に言えば、「ペトロの説教が何人の洗礼志願者を生み出したか」ということが大切なのではなく、「どのような教会が形成されたのか」ということが大切なのです。「それが聖霊降臨の目的そのものであった」ということです。

後楽園球場を借り切った大伝道集会や様々な伝道後援会などに比べて、教会形成という務めは地味なものです。聖日毎の礼拝、信徒の交わり。そこには、大講堂を借りきってのオーケストラや大聖歌隊、眩いばかりの光や効果的な音楽に彩られた、感動的・劇的な場面というものはありません。

しかし、キリストの御業への感謝と神の栄光への讃美に満たされた聖日礼拝にこそ、聖霊降臨の目的はあったのです。教会に生きる者の日常生活の中に神の喜びはあるのです。教会は、初めから「神の喜びに仕える姿を取って来た」と聖書は語っているのです。

そのような本質的な教会を形造ったのは、ペトロの説教が始まりでした。

聖霊降臨の出来事に驚いて集まって来た人々に向かって、ペトロは、ただ「キリストの出来事」をひたすらに語りました。自らキリストの出来事の証人として、その事実を語り、聞く者に対して、その出来事との関わりを避けることが出来ないと、力を込めて宣言したのです。すると37節、「人々はこれを聞いて大いに心を打たれ、ペトロとほかの使徒たちに、『兄弟たち、わたしたちはどうしたらよいのですが』と言った。」とあります。

それまで、聖霊を受けた人たちに対し、「あの人たちは新しいぶどう酒(安酒)に酔っているのだ」(13)「まともではない」と言って嘲笑った人々が、「わたしたちはどうしたらよいのですか」と尋ねざるを得なくなったのです。

ここには二つの大きな変化があると言えるでしょう。一つ目は、「あの人たち」と、教会を外側から客観的・批判的に見ていた人々が、「私たちは」と、自分の問題に置き換えたことです。

二つ目は、「どうしたらよいのですが」と問うことによって、「まともではないのは自分たちである」ということに気付いたことです。

この「どうしたらよいのですか」というペトロへの問い掛けは、「何をしたらよいのかわからない」という不安ではなく、聞く人々も「何をなすべきなのか」を尋ねるものでした。

ペトロの説教によって、「不安と恐怖の中に陥れられてしまった」というのではありません。伝道とは、不安や脅迫によるのではなく、人々に新しい生き方を示し、正しい前進を促すものでなければなりません。

ペトロは答えました。「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます」。この「悔い改めなさい」とは、「人生の方向を変えなさい」ということです。

「悔い改め」と訳されるギリシャ語のメタノイアとは身体の向きを変える、向かう方向を変える、という意味の言葉です。正しい目標が見えないのは、正しい方向を向いていないからです。一生懸命に努力しながら、なお罪の誘惑から抜け出せないのは、「正しい方向へ向かっていない」ということなのです。

私たちも、一生懸命に努力し、幸福を求めて生きれば、必ず何時かは幸福にたどり着けると信じているのではないでしょうか。しかし、多くの場合、一生懸命に努力しながら、何度同じことを繰り返しても報いられず、やがて疲れ、諦めて、「人生とはこんなものだ」と呟いているのではないでしょうか。

罪の世界には、努力と体力で解決できる場所ではないのです。もし、罪から脱出することを望むなら、「悔い改め」、つまり「人生の方向転換」に気付かなければならないのです。

「人生の方向転換」こそが、キリストの福音です。主イエス・キリストの名によるバプテスマ、それは、これ迄の道を行くこととは本質的に違うのです。ローマの信徒への手紙6章4節と8節に「わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。・・・・・わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きることになると信じます」とあります。

この「キリストと共に死ぬ」ということは、これまでの生き方を捨てることであり、「キリストと共に生きる」ということは、新しい世界に甦るということです。パウロは、死と復活を語ることによって、古い世界との断絶を示し、キリストに導かれる信仰の世界の新しさを告げているのです。自分は産まれてこのかた犯罪など一度もしたことがないし、人に大きな迷惑をかけたこともないと、自分勝手な思いの中で生きて来た道を捨て、御子キリストの福音にすべてを委ねる、キリストの教えである聖書から新しい自分の生き方を学ぶのです。

41節には、「ペトロの言葉を受け入れた人々は洗礼を受け、その日に三千人ほどが仲間に加わった」とあります。「三千人」という数は、人々の反応の大きさを表す文学的表現であり、39節で語られていた「すべての人に与えられる約束」を受ける「人生の方向転換」へ歩み出した人々が多数現れたことを告げています。

ここは、ペンテコステの日に起こったことだけではなく、新しく生まれた初代教会の働きを表現しています。そして、このように教会が活動を始め、教会の教会たる聖霊の御業は、私たちに喜びを与え、この素晴らしい救いの恵みを、一人でも多くの人々に伝えようと伝道の働きが実現されていったのです。

洗礼を受け教会の仲間となった彼らは42節に「使徒たちの教えを守ることに熱心であった」と記されています。この「使徒たちの教え」とは、個々の使徒・誰々の教えということではなく、「使徒」という言葉によって代表される「信仰の教え」です。教会を導かれる聖霊なる神によって与えられる信仰、「ひとつなる信仰」によって、神の家族としての教会の交わりは成り立つのです。

彼らは、「相互の交わり」にも熱心でした。しかし、大切なことは、この「交わり」とは、いわゆる私たちが誤解しがちな教会の「親睦」や「親交」という親しさではありません。「交わり」のギリシャ語のコイノーニアとは、本来「分かち合う」という意味で、「共に与る」ということです。何を「共に与り」「分かち合って」いるのでしょうか。

それが、44節、46節、47節にある「一つになる」ことであり、「ひとつなる信仰」です。キリスト者は、主イエス・キリストが、すべての者のために生命を捨てて下さったという恵みを共有しており、その恵みに「共に与っている」のです。そして、その恵みによって与えられた「救われた喜び」を、互いに「分かち合う」のです。教会の交わり、コイノーニアとは、そういうことなのです。

キリストによって招かれ、守られ、導かれているという共通の意識、神を父と呼ぶ共通の誇り、信仰の自覚が、神の家族としての教会を成り立たせたのです。一人ひとりが神の家族であるという信仰によって、互いに支え合うことが自然な姿として実行されたのが、44節以下に「信者たちは皆一つになって、すべての物を共有にし、財産や持ち物を売り、おのおのの必要に応じて、皆がそれを分け合った」とあるように、自然発生的な相互扶助というべきものでした。

これを原始共産制だと言う人もいます。

今日の最後を締めくくる46節以下に「そして、毎日ひたすら心を一つにして神殿に参り、家ごとに集まってパンを裂き、喜びと真心をもって一緒に食事をし、神を賛美していたので、民衆全体から好意を寄せられた。こうして、主は救われる人々を日々仲間に加え一つにされたのである」と初代教会の発展の姿を記しています。

キリスト者の交わり「コイノーニア」は、「共にパンを裂き、祈りをする」ということ、即ち、「礼拝を共に守る」というところにあるのです。

この「パン裂き」が、聖礼典としての「パン裂き」「聖餐:ユーカリスト」であったのか、食事を共にする「愛餐:アガペー)」であったのか、議論が分かれたりしますが、大切なことは、「食卓を共にする」ということを、初代教会は「単なる食事」と見なしてはいなかったということです。

主イエスは、人々から嫌われた、徴税人や娼婦のような罪人と、あえて食卓を共にされました。そればかりでなく、主イエスが墓の中から甦ったその日、甦りを信じられなかった弟子たちが主イエスと知ることが出来たのは、「食事を共にしているとき」でした。ルカ福音書とヨハネ福音書でも、弟子たちがキリストの復活を悟るのは、いずれも「食事の場」なのです。

これこそが、「神の国の食卓」が持つ力です。そして、初代の信徒たちも、食卓を共にすることによって、主に贖われて生きる「神の国の喜び」を経験したのです。これこそが初代教会の礼拝でした。現代の教会に生きる私たちの教会の食卓はどうでしょうか。ルカ福音書10章40節のマルタになっていないでしょうか。主イエスのみ言葉に耳を傾けるより食卓の奉仕に心奪われていないでしょうか。ペンテコステの日にもたらされた神の恵みは、この神の食卓である礼拝の喜びの中に実現されて行ったのです。礼拝こそ、神の御業の最終的目標なのです。

私たちが教会に召された自分を見つめ、教会に仕える使命を聖書を通して自覚するとき、神が私たちに求める信仰の姿を見出すことが出来るでしょう。時代や周囲の状況は変わっても、神の喜びは変わりません。教会は、時代の要求におもねるのではなく、聖書で教えられた神の御心に応えることを志すのです。

新年の教会の歩みの第一歩は、「神御自身の御心に応えることから始まる」ということ、お一人でも多くの方々を神の御心である十字架の救いと復活の新しい生き方へと入れられることを、神は、私たちに強く語っているのです。

お祈りを致します。

天からのお告げ

主日CS合同礼拝

齋藤 正 牧師

《賛美歌》

讃美歌98番
讃美歌120番
讃美歌142番

《聖書箇所》

旧約聖書:ミカ書 5章1節 (旧約聖書1,454ページ)

5:1 エフラタのベツレヘムよ
お前はユダの氏族の中でいと小さき者。
お前の中から、わたしのために
イスラエルを治める者が出る。
彼の出生は古く、永遠の昔にさかのぼる。

新約聖書:マタイによる福音書 2章1-12節 (新約聖書2ページ)

◆占星術の学者たちが訪れる
2:1 イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった。そのとき、占星術の学者たちが東の方からエルサレムに来て、
2:2 言った。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」
2:3 これを聞いて、ヘロデ王は不安を抱いた。エルサレムの人々も皆、同様であった。
2:4 王は民の祭司長たちや律法学者たちを皆集めて、メシアはどこに生まれることになっているのかと問いただした。
2:5 彼らは言った。「ユダヤのベツレヘムです。預言者がこう書いています。
2:6 『ユダの地、ベツレヘムよ、/お前はユダの指導者たちの中で/決していちばん小さいものではない。お前から指導者が現れ、/わたしの民イスラエルの牧者となるからである。』」
2:7 そこで、ヘロデは占星術の学者たちをひそかに呼び寄せ、星の現れた時期を確かめた。
2:8 そして、「行って、その子のことを詳しく調べ、見つかったら知らせてくれ。わたしも行って拝もう」と言ってベツレヘムへ送り出した。
2:9 彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。
2:10 学者たちはその星を見て喜びにあふれた。
2:11 家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。
2:12 ところが、「ヘロデのところへ帰るな」と夢でお告げがあったので、別の道を通って自分たちの国へ帰って行った。

《説教》『天からのお告げ』

「イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった」。マタイによる福音書は主イエスの誕生をこのように極めて簡単・簡潔に語っています。ルカによる福音書には、主イエスはベツレヘムで生まれたことと、どうしてそうなったかの事情が詳しく語られています。もっともルカは馬小屋とは書いておらず、生まれた主イエスが飼い葉桶に寝かされたと語っているだけです。ともかく、ルカは主イエスが宮殿のような所ではなくて、貧しさの中で生まれたことを語っているのです。しかしマタイは、主イエスがお生まれになった時の状況を全く語っていません。ヘロデ王の時代に、ユダヤのベツレヘムで生まれた、マタイは、主イエスの誕生については、この二つのことを語れば十分だと思ったのです。

主イエスがベツレヘムでお生まれになったことはルカ福音書も語っていますが、マタイはそこに「ユダヤの」と、付け加えています。「ユダヤのベツレヘム」という言い方は5節にもあります。神が約束しておられる救い主はどこで生まれることになっているのかと問われた祭司長、律法学者たちが、「それはユダヤのベツレヘムです」と答えているのです。それは、先程司式者にお読み頂いた旧約聖書ミカ書5章1節に救い主が現れる、と語られているからです。しかしミカ書は「エフラタのベツレヘム」であって「ユダの地」とは違っていますが、エフラタとはベツレヘムの古い呼び名との説もあり、「ユダの地」とはマタイがわざわざ書き加えたようです。「ユダヤ」という言葉は2節にもあります。東の国から来た占星術の学者たちが「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです」と言っています。マタイが「ユダヤのベツレヘム」とことさらに語ったのは、主イエスが、ユダヤ人の王として、ユダヤ人の地であるユダヤにお生まれになったことを強調しているのです。

ここでもう一つの言葉、「ヘロデ王の時代に」ですが、当時ユダヤはヘロデという王が支配していました。ヘロデは純粋なユダヤ人でなく、旧約聖書に出てくるエドム人とユダヤ人との混血でした。ヘロデがユダヤの王となれたのは、植民地支配していたローマ帝国の後ろ立てによることであり、ヘロデのユダヤでの地位は非常に危ういものでした。そのために彼は、自分の王としての地位を脅かす者、あるいは脅かす恐れのある者を極端に警戒し、そういう人々を次々に排除していきました。親族すら次々に殺していったと言われています。そのように、自分の王位を守ろうと必死になっているヘロデのもとに、東の国の学者たちによって、ユダヤ人の王の誕生の知らせが届けられたのです。3節に、「これを聞いて、ヘロデ王は不安を抱いた」とあるのは当然のことです。そこでヘロデ王は、祭司長、律法学者たちを集めて、メシアはどこに生まれることになっているのかと聞いたのです。祭司長、律法学者たちの頭の中には旧約聖書の言葉が全て入っているので、たちどころに、それはベツレヘムですと答えました。そこでヘロデは、学者たちをベツレヘムに遣わします。「行って、その子のことを詳しく調べ、見つかったら知らせてくれ。わたしも行って拝もう」。しかしそれは、王として生まれた幼子を見つけ出して今のうちに殺してしまうための口実でした。ユダヤ人の王として生まれた方を拝み、礼拝するためにやって来た学者たちを、ユダヤの王ヘロデは、自分の王位を守るために利用しようとしたのです。「ヘロデ王の時代に」という表現によって、主イエスはこのような王の支配下にお生まれになったことを語っているのです。

主イエスはユダヤ人の王としてお生まれになりました。6節の最後に「わたしの民イスラエル」とあります。これが「神の民」であるユダヤ人です。ユダヤ人とは、主なる神の民であり、本来、主なる神が遣わして下さる王を待ち望んでいる筈の民です。そのユダヤ人たちが、主なる神から遣わされた王の誕生の知らせを聞いて不安を覚えるとは何事でしょうか。また4節には「民の祭司長たちや律法学者たち」と出てきますが、この民というのも神の民ユダヤ人のことです。「民の祭司や律法学者たち」というのは、ユダヤ人が主なる神の民として、神に従って生きるための指導者として立てられているのです。ところが彼らは、ヘロデにメシアが誕生する場所を教えただけでした。彼らは聖書の知識を豊富に持っているので、メシアはベツレヘムで生まれることを知っていたのです。しかし彼らはこの聖書の知識を、ヘロデが新しく生まれたユダヤ人のまことの王を殺そうとするのに加担しただけでした。聖書の正しい知識を持っている彼らこそが、本来なら真っ先にこのまことの王を拝みに行き、民と共にその誕生を喜ぶべきなのに、彼らはそんなことは全く考えていません。彼らは、主なる神の民の先頭に立って礼拝すべき者でありながら、その務めを全く果していないのです。主なる神の民であるはずのユダヤ人たちも、その先頭に立つはずの祭司や律法学者たちも、神がお遣わしになったまことの王を喜び迎えようとせず、受け入れようともせず、かえって不安を覚え、その王を抹殺しようとしている、そういう神の民の姿がマタイによって描かれているのです。

このユダヤ人たちと対照的なのが、東の国からはるばるやって来た占星術の学者たちです。彼らは勿論ユダヤ人ではありません。ユダヤ人たちが、あの人たちは神に選ばれていないと蔑んでいた異邦人です。しかも彼らは占星術の学者でした。占星術という訳は適切とは言えません。彼らは、天体の動きを観測する、この当時の最先端の学者たちでした。しかし同時にそこには、ユダヤ人たちが律法で厳しく禁じられている魔術や占いでもありました。彼らは、神の民ではない異邦人であり、主なる神が禁じておられる厭うべきことをしている人々なのです。そのような人々が、ユダヤ人の王の誕生を知り、その王を拝むために、はるばる遠い道を旅して来たのです。「拝む」と訳されている言葉は、ひれ伏して拝む、礼拝するという意味です。彼らはユダヤ人の王をまことの王として拝み、礼拝をするためにやって来たのです。それは本来、主なる神の民であるユダヤ人が真っ先にしなければならないことでした。そのことを、この異邦人の学者たちがしたのです。マタイはこのように、異邦人の学者たちと、主なる神の民である筈のユダヤ人たちとが、神への礼拝の姿勢において全く逆転してしまっていることを描いているのです。

見せ掛けの、偽りの礼拝とは対照的な真実の礼拝をささげたのが、この占星術の学者たちでした。彼らは、自分たちの日常の生活を離れて、生まれたユダヤ人の王を礼拝するために旅立ちました。そこには、主なる神の不思議な導きがあったとしか言いようがありません。その神の導きを表しているのが、彼らが見た「星」です。彼らは星に導かれて、ということは主なる神に導かれて、主イエスのもとに来たのです。それは丁度、教会に行ったことがない、聖書を読んだこともない人が、ふとしたことから教会や聖書のことを知り、行ってみようと腰を上げてやって来るのと同じです。そこにも、主なる神の不思議な導きがあるのです。そのように旅立った彼ら学者たちは、ユダヤ人の王は当然、王の都であるエルサレムにおられると思ってやって来ました。しかしエルサレムにいたのは、まことの王の到来を恐れ、自分の王座を守ることしか考えていない、偽りの王ヘロデでした。また、神の民である筈のユダヤ人たちも、自分たちのまことの王の誕生を喜ぶどころかむしろ不安を抱くばかりでした。そのような神の民の姿に学者たちはは幻滅し、失望を覚えたでしょう。しかしその彼らをあの星が再び導いてくれました。主なる神ご自身が彼らを、ベツレヘムの幼子イエス・キリストのもとへと連れて来て下さったのです。9-10節には「彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。学者たちはその星を見て喜びにあふれた」とあります。彼らは喜びにあふれた。それは、ヘロデやエルサレムの人々が不安を覚えたのと正反対です。学者たちは、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げました。この三つの宝にはそれぞれ意味がある、と解釈がなされていますが、しかし、彼らが、自分にとって最も大切な宝を主イエスに献げた、ということです。彼らは自分の一番大切なものを献げることにで、主イエスを自分の王としてお迎えしたのです。この学者たちは、まことの王である主イエスの前にひれ伏したのです。それこそが真実の礼拝です。それによって彼らは大きな喜びにあふれたのです。

私たちは、教会に集って礼拝を守り、主イエス・キリストを信じる神の民とされていながらも、あのユダヤ人たちと同じように、小さなヘロデとなってしまい、自分自身が人生の王となって、まことの王である主イエスに人生を委ねられないのが現実ではないでしょうか。そのような罪人である私たちのところに、神の独り子である主イエス・キリストは、救い主として来て下さったのです。主イエスは、小さなヘロデである私たちの罪のために、苦しみを受け、十字架にかけられたのです。十字架の死は、私たちの罪の赦しのための贖いの死、私たちの罪を背負っての、身代りの死でした。この主イエスの十字架の死、そして父なる神が主イエスを復活させて下さり、主なる神の救いの恵みが、私たちの罪を贖ったのです。十字架の御業によって主イエスは私たちのまことの王となって下さったのです。このまことの王は、愛という恵みによって私たちを守り導いて下さいます。主イエスがヘロデ王の時代に、ユダヤのベツレヘムでお生まれになったクリスマスによって、私たちのまことの王が来られたのです。私たちのまことの王となられた主イエス・キリストの十字架の救いと、与え続けて下さる豊かな愛と恵みを自分が自分の王となって自分一人のものとするのではなく、愛する家族や友人の方々と共に感謝して祈る時に私たちは心からの喜びに溢れるのです。お祈りを致しましょう。

言が肉となった

クリスマスイヴ礼拝

齋藤 正 牧師

《賛美歌》

讃美歌9番
讃美歌142番
讃美歌361番

《聖書箇所》

旧約聖書:イザヤ書 45章22-25節 (旧約聖書1,132ページ)

45:22 地の果てのすべての人々よ/わたしを仰いで、救いを得よ。わたしは神、ほかにはいない。
45:23 わたしは自分にかけて誓う。わたしの口から恵みの言葉が出されたならば/その言葉は決して取り消されない。わたしの前に、すべての膝はかがみ/すべての舌は誓いを立て
45:24 恵みの御業と力は主にある、とわたしに言う。主に対して怒りを燃やした者はことごとく/主に服し、恥を受ける。
45:25 イスラエルの子孫はすべて/主によって、正しい者とされて誇る。

新約聖書:ヨハネによる福音書 1章1-14節 (新約聖書163ページ)

1:1 初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。
1:2 この言は、初めに神と共にあった。
1:3 万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。
1:4 言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。
1:5 光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。
1:6 神から遣わされた一人の人がいた。その名はヨハネである。
1:7 彼は証しをするために来た。光について証しをするため、また、すべての人が彼によって信じるようになるためである。
1:8 彼は光ではなく、光について証しをするために来た。
1:9 その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。
1:10 言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。
1:11 言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。
1:12 しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。
1:13 この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである。
1:14 言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。

《説教》『言(ことば)が肉となった』

このヨハネによる福音書1章1節にある「初めに言(ことば)があった」とは謎のような分かり難い文章です。まず漢字で「言」と書いて、これを「ことば」と読みます。この読み方も初めから、この福音書を分かり難くしている理由かも知れません。そんな多くの謎も、先へ読み進んでいくと少しずつ解きほぐされ、語られていることが分かってきます。

「初めに言(ことば)があった。言(ことば)は神と共にあった。言(ことば)は神であった」、これは、何のことを言っているのか、最後の14節を読むとはっきりします。「言(ことば)は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた」。ここで「肉となって」とあるのは「肉なる人」つまり「人となって」という意味です。私たちのこの世界の始まる前から神と共にあり、神御自身でもあった、初めにあった言(ことば)、その言(ことば)が肉となって私たちの間に宿られた。その言(ことば)とは、まさに神の独り子イエス・キリストのことです。言(ことば)の栄光が父なる神の独り子としての栄光だったと言われていることからもそれが分かります。初めにあった言(ことば)とは、神の独り子であられる主イエス・キリストのことなのです。神の御子である主イエスが、全てのものの初め、天地創造の前に、父であり創造主である神と共におられたと語っているのです。2節にはもう一度、「この言(ことば)は、初めに神と共にあった」と繰り返されています。そして3節には、「万物は言(ことば)によって成った。成ったもので、言(ことば)によらずに成ったものは何一つなかった」とあります。父なる神である創造主と共におられた独り子主イエス、「言(ことば)」であるその方によって、この世の全てのものは成ったのです。「成った」とは「創造された」ということです。父なる神と共におられ、ご自身も神であられる独り子主イエスによって、この世の全てのものは造られた、主イエスは、全てのものをお造りになった創造者なる神である、ということをこの福音書ははっきりと語っているのです。

それは、天地をお造りになったのは父なる神ではなくて主イエスだ、ということではありません。天地を創造なさったのは父なる神です。後に肉となって私たちの間に宿って下さり、人間となって、この世界に来て下さった主イエスは、世の初めから、父である神と共におられ、ご自身もまことの神として天地創造をされていた、それが、このヨハネ福音書で宣べ伝えようとしていることなのです。私たちは、父なる神、子なる主イエスとしての神、現在この場、この礼拝堂にも存在される聖霊なる神、その三つの形をとって下さる神を「三位一体」なるお一人の神様として崇めているのです。

1節、2節で使われている「初めに」という言葉は、旧約聖書の創世記第1章1節の「初めに神は天地を創造された」と深く結び付いています。神による天地創造こそが、聖書が語るこの世界の「初め」なのです。

「言(ことば)」による天地創造とは、天地創造においても、神の独り子である主イエス・キリストが神と共にあって、この世界すべてを創造されたということです。言葉というのは必ず語りかける相手があるものです。天地創造における神の言葉は、虚しい空間に向かって語られたのではありません。神は言葉によって天地をお造りになり、私たち人間が生きることのできる場としてこの世界を言葉によってお造りになったのです。そして神は言葉によって私たち人間を造り、命を与えて下さいました。私たち人間は、神の言葉を聞き、それに応答して生きるもの、神と交わりをもって生きる存在として下さったのです。

主イエスこそ、初めにあった「言(ことば)」であり、その「言(ことば)」によって全てのものは造られた。この言(ことば)こそ命であり、光である。その光が世に来て、全ての人を照らして下さる光、救い主となって下さる。それが主イエス・キリストであると、ヨハネ福音書は語っているのです。

しかしそれは、誰が読んでも「その通りである」と理解でき、納得できるものではないでしょう。そのことを「信じるのか」、「信じないのか」の決断が私たちに求められているのです。主イエス・キリストのご生涯とは、まさにそのような人が信じて救われるかどうかの歩みであり、そのことが、10節以下で語られているのです。それは、「言(ことば)は世にあった。世は言(ことば)によって成ったが、世は言(ことば)を認めなかった。言(ことば)は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった」とあります。「言(ことば)」は主イエス・キリストという一人の人となって、私たちのこの世界に来て下さったことを言っているのです。主イエスは、ご自分が創造し、命を与えたご自分の民のところに来られたのです。しかし人々は、その主イエスを認めず、受け入れなかった、主イエスを拒み、十字架につけて殺してしまったのです。この世の人々は、主イエスがまことの神であり救い主であることが分からなかったのです。

12節に、「しかし、言(ことば)は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた」とあります。主イエスを受け入れ、その御名を信じる者に、主イエスは「神の子となる資格」を与えて下さるのです。ここで「資格」と訳されていますが、これは私たちが試験を受けて取るような資格とは全く違います。資格と訳されている言葉は「権威」という意味です。「権威」は、獲得するものではなくて与えられ、認められるものです。神の子となることも、私たちが自分の力でその資格を得るのではありません。神が子として認め、受け入れて下さるという恵みによって与えられるのです。生まれつきの私たちは、この世界と私たちを造り、生かして下さっている神に逆らい、神を神として認めずに拒んでいる罪人であって、神の子となることなど到底出来ない者なのです。神はその私たちをご自分の子としようとして、その独り子である主イエス・キリストを人間としてこの世に遣わし、その十字架の死によって私たちの罪を赦して下さいました。神が遣わして下さったこのただ一人のまことの神の子主イエス・キリストを救い主と信じて受け入れ、主イエスと共に生きるなら、神はその人をご自分の子として受け入れて下さるのです。それは13節に語られている、「この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである」ということが実現することです。主イエス・キリストを自分の救い主と信じるなら、神は私たちをご自分の子として生まれ変わらせて下さるのです。

神の「言(ことば)」としての主イエス・キリストのご生涯を語っているのがこのヨハネ福音書です。主イエス・キリストのご生涯全体が、神の言(ことば)、神から私たち人間への恵みの言葉の語りかけなのです。3章16節に、このヨハネ福音書を凝縮したような言葉があります。それは、「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」との言葉です。主イエスという「言(ことば)」が私たちに語りかけているのはこの神の愛です。主イエスは、その神の愛の御心を実現するために、神に背き逆らい、神の御言葉に応答しない私たち罪ある人間のところに来て共に生きて下さいました。そして、私たち罪人の身代わりとなって、私たちの罪を全て背負って十字架にかかって死んで下さったのです。父なる神はその主イエスを復活させて下さいました。主イエスの復活によって、神の恵みの御心が、人間の罪と死とに勝ったのです。私たちも今、神の「言(ことば)」である主イエスとの出会いを与えられています。そして復活して今も生きて働いておられる主イエスが私たちに呼びかけておられるのです。その主イエスの呼びかけに私たちが応え、主イエス・キリストは神の子メシアであり、その救いの御業を信じて告白する時、神は私たちを神の国の愛と平安の中に入れてくださり、新しく生きる道を与えてくださるのです。

神様はご自分の創造された一人ひとりの人間をそれ程までに愛し、慈しみ、大切にされます。お一人でも多くの方が、主イエス・キリストの愛と恵みに溢れた招きの呼びかけに応答し、キリストの愛、キリストの救いへと導きいれられますよう、お祈りを致します。

教会は何を語るのか

主日礼拝

齋藤 正 牧師

《賛美歌》

讃美歌4番
讃美歌285番
讃美歌515番

《聖書箇所》

旧約聖書:ヨエル書 3章1-5節 (旧約聖書1,425ページ)

◆神の霊の降臨
3:1 その後/わたしはすべての人にわが霊を注ぐ。あなたたちの息子や娘は預言し/老人は夢を見、若者は幻を見る。
3:2 その日、わたしは/奴隷となっている男女にもわが霊を注ぐ。
3:3 天と地に、しるしを示す。それは、血と火と煙の柱である。
3:4 主の日、大いなる恐るべき日が来る前に/太陽は闇に、月は血に変わる。
3:5 しかし、主の御名を呼ぶ者は皆、救われる。主が言われたように/シオンの山、エルサレムには逃れ場があり/主が呼ばれる残りの者はそこにいる。

新約聖書:使徒言行録 2章14-36節 (新約聖書215ページ)

◆ペトロの説教
2:14 すると、ペトロは十一人と共に立って、声を張り上げ、話し始めた。「ユダヤの方々、またエルサレムに住むすべての人たち、知っていただきたいことがあります。わたしの言葉に耳を傾けてください。
2:15 今は朝の九時ですから、この人たちは、あなたがたが考えているように、酒に酔っているのではありません。
2:16 そうではなく、これこそ預言者ヨエルを通して言われていたことなのです。
2:17 『神は言われる。終わりの時に、/わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたたちの息子と娘は預言し、/若者は幻を見、老人は夢を見る。
2:18 わたしの僕やはしためにも、/そのときには、わたしの霊を注ぐ。すると、彼らは預言する。
2:19 上では、天に不思議な業を、/下では、地に徴を示そう。血と火と立ちこめる煙が、それだ。
2:20 主の偉大な輝かしい日が来る前に、/太陽は暗くなり、/月は血のように赤くなる。
2:21 主の名を呼び求める者は皆、救われる。』
2:22 イスラエルの人たち、これから話すことを聞いてください。ナザレの人イエスこそ、神から遣わされた方です。神は、イエスを通してあなたがたの間で行われた奇跡と、不思議な業と、しるしとによって、そのことをあなたがたに証明なさいました。あなたがた自身が既に知っているとおりです。
2:23 このイエスを神は、お定めになった計画により、あらかじめご存じのうえで、あなたがたに引き渡されたのですが、あなたがたは律法を知らない者たちの手を借りて、十字架につけて殺してしまったのです。
2:24 しかし、神はこのイエスを死の苦しみから解放して、復活させられました。イエスが死に支配されたままでおられるなどということは、ありえなかったからです。
2:25 ダビデは、イエスについてこう言っています。『わたしは、いつも目の前に主を見ていた。主がわたしの右におられるので、/わたしは決して動揺しない。
2:26 だから、わたしの心は楽しみ、/舌は喜びたたえる。体も希望のうちに生きるであろう。
2:27 あなたは、わたしの魂を陰府に捨てておかず、/あなたの聖なる者を/朽ち果てるままにしておかれない。
2:28 あなたは、命に至る道をわたしに示し、/御前にいるわたしを喜びで満たしてくださる。』
2:29 兄弟たち、先祖ダビデについては、彼は死んで葬られ、その墓は今でもわたしたちのところにあると、はっきり言えます。
2:30 ダビデは預言者だったので、彼から生まれる子孫の一人をその王座に着かせると、神がはっきり誓ってくださったことを知っていました。
2:31 そして、キリストの復活について前もって知り、/『彼は陰府に捨てておかれず、/その体は朽ち果てることがない』/と語りました。
2:32 神はこのイエスを復活させられたのです。わたしたちは皆、そのことの証人です。
2:33 それで、イエスは神の右に上げられ、約束された聖霊を御父から受けて注いでくださいました。あなたがたは、今このことを見聞きしているのです。
2:34 ダビデは天に昇りませんでしたが、彼自身こう言っています。『主は、わたしの主にお告げになった。「わたしの右の座に着け。
2:35 わたしがあなたの敵を/あなたの足台とするときまで。」』
2:36 だから、イスラエルの全家は、はっきり知らなくてはなりません。あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです。」

《説教》『教会は何を語るのか』

ペンテコステの日に誕生した教会はいよいよ語り始めました。ひたすら祈ることで「時を待っていた人々」は、聖霊なる神の降臨と共に、単なる「祈りの群れ」から「教会」に大きく変わり、群れの外の人々に向かって、一斉に語り始めたのです。

そしてその変化が、「霊が語らせるままに」(4)と記されているように、人間の思いではなく、聖霊なる神の導きによるものでした。新たに誕生した教会は、語ることによって教会の本来の姿を形作り始めたのです。

『語る』とは、人によって得意な「おしゃべり」のことではありません。神の御心、神の御業を語るのであり、言い換えれば「人間の口を用いて神が語られる」のです。神の言葉を、人間の言葉によって語るのです。人間の言葉が、何故、神の言葉であるのか。これこそが聖霊なる神の大いなる御業であり、“インマヌエル”「神、共にいます」から生じる信仰の出来事なのです。

私たちは、いかに知恵を重ね知識を深めても、人間の領域を超えることはできません。どこまで行っても、人間は人間です。しかし、主なる神は、今、教会を誕生させ、その教会を、「人間が神の言葉を語り」、「誰でも神の御心を聞くことが出来る」という、「神の恵みの場」とされたのです。これが「教会」です。

先週の4節で「ほかの国々の言葉で話し出した」とは正しくは、「彼らは、神の言葉を語ったのだ」ということでした。教会は、神の言葉を語るものとして誕生し、世の人々は、初めて聞く、「神の言葉」に驚いたのでした。14節には「すると、ペトロは十一人と共に立って、声を張り上げ、話し始めた。」とあります。この「十一人」とは、言うまでもなく、死んだユダを除く「使徒たち全員」ということですが、ここでは、「教会そのもの」を代表していると見るべきでしょう。

ここに教会は、「神の器」として立ち上がり、「語るべき御言葉」が「教会の業」として最初のペトロの説教からなされたのです。ペトロが話し始めたと訳されている「話す」という言葉は、神の霊感を受けて預言者が語る場合などに用いられるもので、心からの確信に満たされて、堂々と語る姿を現しています。「どうか聞いてください」という願いではなく、「今、実現したこのことに耳を傾けよ」という告知なのです。

これが、この世界に初めて出来た教会の姿でした。今日の15節に「今は朝の九時」とあるのは、ユダヤ人の「朝の祈りの時」ということです。神に向かって祈る時であり、神が応えられる時です。人の姿に眼を向けるべきではなく、神の御業に向けて姿勢を整えるべき時なのです。「朝っぱらから酒は飲まない」などという程度の弁明ではなく、むしろ、「今こそ、神の御言葉へ向かう時である」ということを示唆しているのです。ペトロは17節から21節で、先程司式者に読んで頂いた旧約のヨエル書3章1節から5節をかなり自由に引用し、教会の誕生が「神の御計画の下に行われた」ということを宣言しました。

ペトロのヨエル書引用の第一の根拠は、「今は終わりの時である」ということで、教会の誕生は、神の御業の最後を飾る出来事、「福音の完成を告げる」ということです。そして、17節にある「終わりの時」という言葉は、実は、ヨエルの預言にはなく、ペトロはこれを説教に加えることで、教会が置かれた位置の重要性を告白していると言えるでしょう。

聖霊が降ったこの時、世に住むすべての人々は、主なる神から18節にある「わたしの僕」即ち「神の民」と呼ばれるのです。17節の「終わりの時」が「今」であれば、「もはや後がない」のであり、教会は、設立当初から、終末を見据えた緊迫した雰囲気から人々に語り始めていたのです。

この「終わりの時」に、人々はどのような事態に直面しているのかペトロは22節以下で、三つのポイントを挙げています。

まず第一のポイントは、23節です。

「このイエスを神は、お定めになった計画により、あらかじめご存じの上で、あなた方に引き渡されたのですが、あなた方は律法を知らない者たちの手を借りて、十字架につけて殺してしまったのです。」

第二のポイントは、32節です。

「神はこのイエスを復活させられたのです。わたしたちは皆、そのことの証人です。」

最後の第三のポイントは、36節です。

「だから、イスラエルの全家は、はっきり知らなくてはなりません。あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです。」

この三つのポイントを纏めると、教会が語るべき「神の御業」は明らかです。「イエスは十字架につけられ、殺されたが、神は、そのイエスを甦らせられた。そして、そのイエスこそ、救い主キリストであり、この御業は、父なる神が定め給うた御計画に他ならない」ということです。一言で言えば、これが「福音」であり、神の御計画は、御子キリストによって完成した、ということなのです。

さらにペトロは、この出来事における人々の無理解を語ります。「あなたがたは律法を知らない者たちの手を借りて、十字架につけて殺した」と強烈に批判しています。22節の「イスラエルの人たち、これから話すことを聞いてください」と訳されている箇所は「聞きなさい」との命令形の言葉です。キリストを十字架に付けたのは誰か。キリストの大いなる救いの御業に接しながら、聖霊の御業を嘲笑うものは誰か。迫りくる「終末」を前にしたペトロは、極めて強い口調で、すべての人間の逃れることの出来ない危機を告げ、キリストの十字架の救いの御業を宣べ伝えているのです。

36節の「だから、イスラエルの全家は、はっきり知らなくてはなりません」というペトロの告知は、実に力強い、思い切った言葉であり、これはまさに宣戦布告です。

初めて出来た教会は、集まった人々の注目の的でしたが、それは決して歓迎されてない「冷たい眼差しの注目」であったのです。世界でたった一つの教会、初めての教会を取り巻くすべての人々はキリストに背を向けて来た人々だったからです。

その中で、教会は、人々の好意も共感も求めず、ただ神の御業を語りました。自分たちが「人々からどう思われているか」「どのような眼で見られているか」を考えず、人々の救いを完成させる神の御業を、ただひたすらに語り続けたのです。そしてそれを、自分の生き方を省みることなく罪の中に安住する人々に、神からの挑戦として、まさに宣戦布告したのです。ペンテコステの教会とは、このようなものでした。

当然のことながら、教会の船出は順風満帆な安穏な航海への旅ではありませんでした。神の御言葉を受け入れる人は、何時の時代でも、神に敵対する人々に比べ常に少数なのです。教会は、好意を示す人々よりも、嘲笑い、敵対する人々と相対することのほうがはるかに多いことを覚悟しなければなりません。

つまり、教会は罪の中にある世の人々と同じ世界に生きながら、世の罪と共にありながら、キリストの福音を宣べ伝えようとしたのです。その結果、何時の間にかその罪の中に戻って同化してしまう危険が、教会の歴史の初めからあったことは、考えて見れば当然のことでしょう。

人々の声に耳を傾け、人々の要求に従い、この世の好意と共感を求める道に陥った教会が数知れぬほどあったということは、歴史の事実として認めざるを得ません。

十七世紀に成立したウェストミンスター信仰告白は、「サタンの会堂になるほどに堕落した教会がある」ことを痛烈に指摘しています。教会は、この世にある限り、常に、この危険に曝されているのです。

従って、教会は、常に、ペンテコステの日に立ち戻らなければなりません。教会が、教会として誕生したその日、聖霊なる神の御力によって新たに教会が出来た日。神の御業が決定的に成し遂げられたその日の姿を、常に、繰り返し思い返さなければならないのです。聖霊なる神が語らせるままに語った教会の姿を、取り戻さなければなりません。

教会が語るべきことは、主イエス・キリストの福音です。誰が嘲笑おうと、呆れようと、キリストによって実現した十字架と復活の御業を語るのが教会です。教会は、そのように造られ、そのために存在し、そのことのために仕えるのです。

ペトロは36節で「はっきりと知らなくてはなりません」と断言しましたが、口語訳聖書はさらに明確に、「この事をしかと知っておくがよい」と厳しく訳しています。

「世の人々は、この事をしかと知っておくがよい!」、キリストの救いに与っていない人々に対し、教会は、はっきりと福音を語らなければなりません。聖霊の働き、聖霊の導きの下、語るべき言葉が私たち教会に委ねられています。私たちの周囲の人々、愛する家族や友人・知人の救いは、私たちが語る言葉にかかっているのです。その責任の重さを、感謝と共に喜ぼうではありませんか。

お祈りを致します。