貧しい人に福音を

成宗教会待降節第二主日礼拝説教

聖書:イザヤ55章1-11節, ルカによる福音書4章14-21節

 クリスマスを待つこの時期、今年も沢山の、驚きというより愕然とするような事件がありました。しかしそれでもこの社会にあって、いつも変らない主の御言葉を聞くことができることは本当に幸いなことです。そして成宗教会にいるわたしたちは、変らない教会を、これからの時代にも建てようとしております。このために、牧師も長老会と共に教会員の方々と共に祈り、労苦している訳ですが、この労苦もまた本当に幸いなものです。なぜなら、わたしたち一人一人は、本当にゆとりのない時代に生きており、経済的にも余力がなくなっていますし、また時間的にも日曜日にもゆっくりできない方々、体力的にも教会に足を運べない方々が多くなっているからです。

しかし、それでも、何とか次世代にも教会を残したいと願うならば、主はわたしたちの願いをお聞きくださるでしょう。この願いは考えてみれば、貧困な願いではない。ゆとりある願い、むしろ豊かな贅沢な願いなのではないでしょうか。わたしたち、お金に乏しくとも、時間に乏しくとも、体力に乏しくとも、豊かな贅沢な願いを持つことができる。それはどんな願いでしょうか。それは、教会を建てたいという願いです。わたしたちはたとえ先日まで青々として木々の葉のようであっても、いつの間にか紅葉して、人の目を楽しませ、きれいと言われる葉のようであっても、やがて風に吹かれて散って行く花のようであっても、天の父、そして教会の主には覚えられ、喜ばれる名前を持っているのですから。

教会は、外の世界から見ると、何の目的で立っているように見えるでしょうか。教会では讃美歌が歌われる。コーラスの愛好家が集まっている。昔は書道や華道に優れた方々も沢山いらしたことを思い出します。また、12月になると、社会奉仕を実践している救世軍の社会鍋が懐かしく思い出されます。また教会は貧窮者を助けるために、また少数者の立場に立って権利を擁護するためにあると思われるかもしれません。そのどれも、教会の中で、全く否定されたり、除外されたりすることはないと思います。しかし、外の世界から見えるこのような活動のために、教会が建っているのではありません。

教会の目的は、神の言葉に従い、神の言葉を宣べ伝えることにあり、教会は神の言葉のために建てられるのです。それでは、神の言葉は教会に大切にされて来たのでしょうか。わたしたちが手にしている聖書。当たり前のように読むことができる聖書ですが、実は500年前、宗教改革が起こる、その前の数百年以上、人々は神の言葉をほとんど失っていた時代が続きました。聖書はラテン語で、一般の人には目に触れることはおろか、聞いて理解することもできませんでした。讃美歌でさえラテン語で、一般会衆が歌うことはできなかったのです。

そこで、主は宗教改革者たちを起こし、彼らを励まして、聖書をそれぞれの自国の言葉に翻訳させるように導かれました。そのおかげで世界の人々は聖書がラテン語ではなく、自分の分かる言葉で読まれるのを聞きことができるようになりました。今から500年前のことです。ルカ福音書は、ガリラヤの町、ナザレで安息日に会堂に集まった人々に、イエスさまが皆に分かる言葉で聖書を読み、解き明かされたと伝えましたが、それと同じように、わたしたちも聞くことができるようになったのです。わたしたち現代人は、宗教改革の時代の神学者たちの労苦と献身の働きを経て、初めて聖書を開き、イエスさまの時代と同じ御言葉を聞くことができるようになったわけです。この恵みに感謝して、福音に耳を傾けたいと願います。

今日読んでいただいたイザヤ書55章1節。「渇きを覚えている者は皆、水の所に来るがよい。銀を持たない者も来るがよい。穀物を求めて、食べよ。来て、銀を払うことなく穀物を求め、値を払うことなく、ぶどう酒と乳を得よ。」神さまは貧しい人々に呼びかけておられます。飢え渇いている人々。神さまは彼らにパンを与えようとしておられるのです。ぶどう酒と乳も。神の言葉によって神さまは貧しい人々を御自分に招いてくださっています。神さまのくださるパンは神さまの恵みとして無償で与えられます。神さまのくださるパンこそ、あらゆる良いものの源でありますから。

イザヤは、神さまがダビデに約束した慈しみをお忘れにならず、永遠の契約を結んでくださると預言しました。この契約によって約束された慈しみは、神さまの民イスラエルばかりでなく、神さまを知らなかった世界中の諸国民が神さまの備え給う食卓に招かれることです。それでは、どのようにして世界中の人々は招かれたのでしょうか。わたしたちはどのようにして神さまの穀物、神さまのぶどう酒、乳など、あらゆる良いものの食卓に行くことができるのでしょうか。

それはみ言葉によってです。今日の新約聖書はイエスさまがガリラヤで伝道を開始されたときの様子を語ります。4章14節。「イエスは‟霊”の力に満ちてガリラヤに帰られた。その評判が周りの地方一体に広まった。」霊の力は、すなわち聖霊の力です。神さまの霊によらなければ、神さまの思いを人々に伝えることは決してできません。イエスさまは神さまの霊に満ちあふれて伝道を開始されたのでした。それは人々を悔い改めさせ、御国に招く力でした。ところで、ユダヤ人の家族の住むところには、必ず会堂がありました。人々はこの会堂に集まって礼拝を献げ、教えを受けるところでもありました。イエスさまは諸会堂で教え、皆から尊敬を受けられたのです。

イエスさまは御自分の故郷ナザレの会堂で、聖書を朗読しようとしてお立ちになりました。(昔は身分の高い人は座り、身分の低い人は立っていました。)イエスさまが立ち上がられたのは、聖書に対する敬意を表すためでした。聖書を解きあかそうとする人々が、畏れ敬う態度で聖書を扱うことは、聖書の尊厳にとってふさわしいことだからであす。神の言葉に対して姿勢を示されたのです。

それは預言者イザヤの言葉でした。「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである。」イザヤが語りかけていた人々は紀元前6世紀、バビロンの捕囚後の人々です。彼らは、破壊し尽くされ、暗闇しか見えない荒廃の中にいました。預言者はその闇の中にいる人々を集め、このような長い不幸と災いの連続に打ちのめされている人々を教会として、すなわち神さまを礼拝する共同体として再建する神の恵みを語りました。破壊され尽くしたところに再建の希望を語る。それは人の業ではない。ただ神の恵みの力、聖霊の力による他は考えられません。イザヤはただ聖霊の力によって教会を再建する神の恵みの証人が現れると、預言したのです。

この救いはキリストの到来によって実現されると預言され、人々に信じられて来ました。キリストとはギリシャ語ですが、ヘブライ語でメシア。その意味は油注がれた者、王、祭司、預言者を表します。そして主の霊、すなわち聖霊については、わたしたちもまた、その導き、ご支配を受けたからこそ、その力によって、不信仰な者が信仰を言い表して、イエスさまを救い主と告白、洗礼を受けることができたのです。それは神さまの霊であり、イエスさまが弟子たちに約束してくださった霊ですから、イエスさまに結ばれた教会は昔も今も聖霊の力によって救われる者を生み出しているのです。

ですから主の霊はイエスさまにこそ、限りなく注がれているのです。なぜなら、救い主、キリストであるイエスさまは、わたしたちを神さまと和解させるために、神さまからの使者としての務めを持って世に来てくださったのですから。ヨハネの福音書にこう書かれているとおりです。ヨハネ3章34節。「神がお遣わしになった方は、神の言葉を話される。神が‟霊”を限りなくお与えになるからである。」168下。イエスさまに注がれた霊は、イエスさまによって神の教会が回復されることを目指しておられるのです。主なる神さまがキリスト・イエスさまに油を注がれたことは、この方がご自分の考えではなく、ただただ神さまのお命じになるところだけを行われることを意味しているのです。

そしてこの目的のために、神さまはキリストをお立てになり、貧しい人に福音を告げ知らせてくださいます。預言者イザヤは紀元前6世紀の頃、打ちひしがれた人々にこの言葉を語りました。それは時代を超えて、地域を超えて今も全世界に告げ知らせられています。福音の知らされる前には、神の民、教会がどんなに悲惨な状態にあったかを、またキリストがおられないとき、わたしたちすべてがどのような状態であるかを示しています。

昔も今も、人々は非常に多くの悲惨によって虐げられているので、世界中に、このような傷ついた人々の呼び方がふさわしくない、当てはまらないような所は全くないくらい、人々は傷ついているのではないでしょうか。ところがヨハネの黙示録3章17節に、主は次のように言われます。456頁下。「あなたは、「わたしは金持ちだ。満ち足りている。何一つ必要な物はない』と言っているが、自分が惨めな者、哀れな者、貧しい者、目の見えない者、裸の者であることが分かっていない。」

このように、実は多くの人々が自分の貧しさに気づかず、盲目であることにも気づかない。知らないうちに人に支配され、人にばかりではなく、物にも、支配される。例えば、便利なものに頼り切って、結果的に支配されていることに気がついていないのです。更に、死と滅びにさえも魅力を感じ、死にたいと公言して犯罪者の餌食になったりします。わたしたちは実に、自分のみじめな状態を感じないほど愚かであることさえあります。真に悲しむべき深刻な悲劇が遠くにも近くにも見過ごしにされているのを、わたしたちは感じないではいられません。

福音には二つの目的があります。その一つは、神さまは福音を通して慈しみ深い御顔をわたしたちに示し、深い死の淵からわたしたちを救い出して下さり、そして、完全な幸福をわたしたちに回復するために、命を与える希望を示してくださるところにあります。それが、19節の主の恵みの年という言葉に示されています。旧約の律法の書には、50年目の解放の年が定められていました。その年が来ると、奴隷は解放され、負債はすべて免除されるという規定でしたが(レビ25:10)、このことは、罪人の罪を免除する神の憐れみのしるしとして宣言されているのです。神の恵みによって罪の奴隷から解放されるのですから、その人は解放された後は、罪に支配されず、神に従う者とならなければなりません。せっかく神の恵みの年に解放されても、神の畑で働くのでなければ、また罪の負債を負ってしまうことになるからです。

福音のもう一つの目的は、わたしたちも自分の中にある貧しさを真に感じて謙り、キリストをわたしたちの解放者として求めることにあります。そうでないならば、キリストがわたしたちにもたらそうとしておられる恵みの救いを受けることができない。高慢でふくれあがり、自分の惨めな者であることを思わず、そこからの解放を願わない者は、このイエスさまの預言に耳を閉ざす者であり、侮る者となっているのです。

だとすれば、本当に幸いなのは、人間の貧しさを知ることではないでしょうか。草は枯れ、花は散ると思う時、だれ一人そのような存在でないと言うことはできません。わたしたちはあらゆる社会にあって、どのような時にも貧しい人に、すなわち神の言葉に耳を開くすべての人々に福音を告げ知らせてくださる聖霊の働きを求めて行きたいのです。祈ります。

 

恵み深き天の父なる神さま

尊き御名を讃美します。待降節第二の主の日の礼拝にわたしたちは集められ、恵みの御言葉を聞き、讃美を捧げます。小さな群れは、御子キリストの執り成しによって罪を赦され、あなたの慈しみと恵みによって今日まで守り導かれて参りました。今、少子高齢化の進む社会にあって、東日本連合長老会の一員として共に一つの教会を建てる歩みの中に入れられていることを感謝します。

わたしたちの想像を超える時代が始まって行くのではないか、と思う今、どんな時にも、所にも、貧しい者に福音を告げるために世に来てくださった御子イエス・キリストを信じ、あなたの御名を褒め称えさせてください。どうか、私たちをこの主に従い、主の命に連なり、命を得る者としてください。あなたの御心は天が地よりも高いように、私たちの思いを高く超えてあることを感謝します。どうかわたしたちの教会を建てる志、御言葉を世に残す願いが御心に適うものでありますように。来週は成宗教会に新たな主任担任教師を招聘するために臨時教会総会を開きます。どうぞ、御心ならば、多くの教会員が集められ、心を一つに祈りを合わせて招聘を決議することができますように。すべてのことの上に主の恵みのお導き、ご支配を祈ります。

今、ご病気の方々を顧みてくださり、ご健康を回復させて下さいますようお願いいたします。クリスマスの準備が整えられ、喜びと感謝のうちに多くの兄弟姉妹が集められ、お祝いされるクリスマスとなりますように。今、悩みの中にある方々、特にお独り暮らしの方々のご生活の上に平安をお与えください。どうか聖霊の主の助けによって、無くてならないもので養ってください。

この感謝と願いとを、尊き主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

主を待ち望め

聖書:詩編13018節, ローマの信徒への手紙3920

 週報にも報告しました通り、成宗教会は私の後任の教師を招聘するべく準備を進めております。ひと昔前の時代には、倒れるまで頑張ってあとはよろしくというのが牧師の務めのように考える傾向もあったかもしれません。しかし、辞任を表明する牧師は、単に辞めて行けば良いのではない。後任を迎えるために長老会と共に最大限の努力を傾ける。これが教会の主に対する私の最後にして最大の務めである。このことを今、私は長老会と共に主から示されているところであります。

さて、そういうわけで、次年度に続く仕事の一つはキリスト教主義の学校とのつながりでありますから、来年も成宗教会の教会学校が覚えられるようにと、先週も明治学院東村山校のキリスト教教育懇談会に参加して参りました。高校三年生の方々が教会やキリスト教について、それぞれの持つイメージや考えを発表していました。大変印象的だったことは、受洗を決心したきっかけが、いろいろなキャンプへの参加であったことです。とても楽しく心を打ち明けて話が出来た。その後も楽しい交流が続いているなど、発表者のほとんどが同様の体験を語っていました。

同年代の生徒が、若者が、一緒にいるとそれだけで楽しいという経験。これは、わたしの年代だと小中学校で普通にあったことなのに、今はそうではないらしい。楽しくない集団がむしろ当たり前になっているのかもしれないと思いました。それが現実だとすれば、イエスさまを教える主催者が開くキャンプは、彼らにとって本当に珍しい喜びの体験だったのは当然だと思いました。

その反対の例ですが、勤労感謝の祝日にわたしが教会の前を掃除しようと出て見ると、何と不審な人々が5,6人も前の道路に立っていました。と言っても集団で来たのではありません。ほとんど並んでスマホを見ながら立っていますが、恐らくポケモンを探しているのだろう、と想像できなかったら、私にはただ気味の悪い人々としか感じられないでしょう。一緒に人々がいる、ということだけで、うれしい、楽しいということには決してならないのです。

わたしたちは、この夏から 十戒 についてみ言葉を学んで参りました。人々が一緒に喜んで生きるためのルール、それが十戒であるとも言えるのであります。これは、神さまから与えられました。人々が一緒に喜んで生きるためのルールなら、人が決めれば良いのではないか、と思うかもしれませんが、理屈はそうでも、それはできなかったのです。なぜなら、次のように書いてあるとおりです。ローマの信徒への手紙3章10節~11節。「正しい者はいない。一人もいない。悟る者もなく、神を探し求める者もいない。皆迷い、だれもかれも役に立たない者となった。善を行う者はいない。ただの一人もいない。」人々が一緒にいて喜んで生きられるというためには、何よりも人々を一人残らずお造りになった神さまを信頼することが前提となります。ところが、神さまを信じ、神さまを頼りにする人がいないという。皆、罪人だというのです。

12~18節。「彼らののどは開いた墓のようであり、彼らは舌で人を欺き、その唇には蝮の毒がある。口は、呪いと苦みで満ち、足は血を流すのに速く、その道には破壊と悲惨がある。彼らは平和の道を知らない。彼らの目には神への畏れがない。」

わたしたちには律法が与えられているのですが、それでは、これらの律法、戒めをすべて守ることができるでしょうか。その問には、今日読んでいただいたローマの信徒への手紙が答えています。わたしたちはたとえ見た目には正しいことをしているように見えるとしても、心の中では十戒をすべて守ってはいないのです。密かに人を呪い、姦淫の罪を犯し、人のものが絶えず羨ましく、自分のものにしたいと思い、また嘘をついてします。そしてそういう罪が大きい人ほど、ますます自分の罪には気がつかないということが起こります。それは自分で自分をだまし、ごまかし、欺いているからで、ここに人間の罪の深刻さがあります。

神さまは罪人であるわたしたちに、ある時は苦難に遭わせます。わたしたちはしばしば、苦しんでいる人々に対して同情しない。それどころか、神に見捨てられているのだと突き放すことさえあるのではないでしょうか。その反対に、自分が苦しみに遭う時には、神さまに見捨てられたように感じてしまうでしょう。どちらにしても、わたしたちの考えは、神さまのお考えとは全く違うのです。そのように、わたしたちは皆、神さまから心が離れてしまう罪人です。しかし、旧約聖書詩編130篇で詩人は叫びます。礼拝の場、エルサレムを目指して、神さまに叫び求めるのです。しかしそれは、自分が正しい者だから、神さまに祈り求める資格がある者だから叫ぶのではありません。

そうではなく、詩人は深い淵の中にいる者として、耐え難い試練に打ち沈んでいる者として、しかしながら、神さまに叫ぶのです。自分は間違っていない、自分は悪くない、と主張しているのではありません。神さまがわたしたちの間違い、罪、いろいろすべて数え上げなさるならば、主よ、誰が耐えられるでしょう。「だれもあなたからお咎めを受けないで済む者はいません」と、自分の罪を認めざるを得ないのです。一つ一つ罪を裁かれたら、その罰は死刑が100回どころか1000回も死ななければならないでしょう。

しかし、それでは詩人はなぜ叫ぶのでしょうか。なぜか、が分かる人は真に幸いです。なぜなら、それこそが神さまが罪人に求めておられることだからです。だからこそ、神さまはわたしたちに試練をお与えになるのではないでしょうか。「悩みを与えられ、懲らしめを受けて、ついに神さまに向かって叫び求める者になりなさい」と。詩人は自分が神さまの御手によって懲らしめられるのは、当然であることを認めながらも、勇気を出し、立ち上がって神さまに救いを求めます。そればかりか、すべての信仰者に向かって、神さまに確かな望みを抱くように勧めるのです。「イスラエルよ、主を待ち望め。慈しみは主のもとに、豊かな贖いも主のもとに」と。なぜなら、神さまはとこしえにご自分の民を救う方、贖う方でありますから。神さまは人々を死から救い出す手立てを、その御手の内に常に備えておられると確信しているからです。

世の人々は、神の存在も認めず、従って神を恐れない傲慢な人々が多いのですが、それでも、神がおられると信じる人々は、神は厳しく裁く方であると考える人々も少なくないと思います。しかし、聖書の信仰は、わたしたちにご自分を顕される神さまは、罪人を憐れみ、悔い改める者を救いに招こうとなさる方である、ということなのです。わたしたちに起こるあらゆる困難、試練、災いも幸いも、すべて、わたしたちを悔い改めに導こうとなさる神さまのご配慮であります。そのことを信じて常に神さまの恵みの招きに立ち帰るなら、わたしたちは、困難の中にあっても本当に幸いな者とされるでしょう。

旧約の詩人が待ち望み、人々に力強く教え励ました救いを求める祈りは、イエス・キリストによって実現しました。旧約の民に与えられた二枚の板に記された十戒。この戒めはローマ3章20節の言葉の中に目的を達成したのです。「なぜなら、律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされないからです。律法によっては、罪の自覚しか生じないのです。」つまりだれも律法を自分の力で実行することができなかったということなのです。しかし、神さまは御自分の独り子イエスさまを世に送ってくださいました。そしてイエスさまだけが、律法の心を実現なさったのでした。律法の心、それは、イエスさまが人々に教えられたみ言葉です。マタイ22章37-39節。「イエスは言われた。『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。」これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』」44頁。

そしてイエスさまは人々に教えられた戒めを、御自身において実行され、神を愛し、そのみ心を行われました。そして、隣人を愛し、最後まで愛し抜いて下さったのです。すなわち、わたしたちの罪の身代わりとして十字架に掛かられ、わたしたちの贖いとなってくださいました。このようにして、イエスさまは、隣人を愛することも、神さまを愛することもできず、いやそれどころか神さまの独り子イエスさまを十字架に付けた張本人であるわたしたちの罪を赦してくださったのです。

真に、人は律法の行いによって救われるのではなく、イエスさまの愛と赦しを信じる信仰によって救われることをわたしたちは教えられました。この信仰によって、わたしたちは罪赦され、新しく生きる者とされるのです。こうして律法はわたしたちをキリストへと導く養育係となったのです。イエスさまは十字架の苦難と死、そして復活によって、神と人を愛するという十戒の戒めをすべて完成させてくださいました。そして、わたしたちは、律法を行って完成することによってではなく、この律法の完成者であるイエスさまを信じることによって、救われる者となったのです。

ですから、何よりも大切なのは、キリストの御支配がわたしたちの内にあるかどうかなのです。イエスさまの霊のご支配の下に生きる者は救われます。わたしたちは、たとえ律法を完全には守ることができなくとも、キリスト・イエスさまへの信仰によって、万物を支配するキリストの御力によって、わたしたちの内に力を振るおうとする罪の支配を絶えず打ち砕いていただくことができるのです。このことは、クリスチャンの個々人に起こるだけではありません。このことは、御言葉を宣べ伝えて行く教会にまず起こらないはずはありません。わたしたちは地上に立っているこの教会の上に、まずキリストの体として御支配を受けることを祈り求めて参りましょう。

本日まで学んで参りました十戒の最後の問は、「これらの律法をすべて守ることができますか」でした。それに対する答は、「いいえ、できません。それがわたしたちの罪です。けれども律法の完成者であるイエスさまによって、罪赦されたわたしたちは、この教えに従って新しく生きることができるのです。」この十戒の教えに従って新しく生きることができるということが、十戒に与えられた新しい目標なのです。すなわち十戒に表された律法は、罪赦された者の感謝の生活を導く道しるべとなっているのです。ここに、新しく生きるクリスチャンの喜びと幸いがあります。

今日は説教の最初に、キリスト教についての高校生が持っている主観的、あるいは客観的な考えを聞いたとお話ししました。私は彼らと50年以上年を隔てて、自分が受洗した20歳前後の頃を思い出しました。時代は激しく変りましたので、今の時代に即した伝道を次世代に担っていただくことは喫緊の課題です。しかし、全く変わらないのは、クリスチャンを律法主義的に捉える世の人々の考えだと分かりました。「『クリスチャンなら悪いことしないよね』『正しいことをするよね』と言われ、プレッシャーをかけられる」と言った高校生がいたからです。

しかし、私たちが世に知らせたいのはそういうことではありません。神さまが人の命をどんなに慈しみ、大切に思っておられるか、万物の救いのためにも、人が神さまに立ち帰ることがどんなに求められているか、このことこそがイエス・キリストの到来に結晶しているのだと、世に知らせたい。それが主の喜ばれることではないでしょうか。わたしたちの社会への救いの祈りはまだ始まったばかりです。主を待ち望みましょう。

 

恵み深き天の父なる神さま

尊き御名を讃美します。 終末主日の礼拝を守るためにわたしたちを呼び集めて下さり、感謝いたします。先週の礼拝には藤野雄大先生、藤野美樹先生を次年度からの主任担任教師候補としてお遣わしくださいましたことを深く感謝申し上げます。東日本連合長老会に加盟し、全国連合長老会の人事によって新しい教職を迎える希望が与えられていることを、感謝し、このことの上に主の御導き、お支えを切に祈ります。

成宗教会は牧師の交代をまじかにしたこの時期をあなたの御心に従って、教会を整えて参りたいと存じます。どうか長老会を励まし、また信徒の皆様を励ましてください。それぞれが与えられた務めを思い、また果たすことができるために聖霊の尊き助けをいただくことができますように。招聘に向けて臨時総会を開催します。あなたの御心がすべてのことに行われますように。

十戒の学びを本日まで導いて下さったことを感謝いたします。来週から待降節に入ります。どうか心からの感謝と悔い改めの祈りをもって準備をし、待降節を迎えることができますように。今、病床にあるオルガニストの小高氏をお支えください。ご家族も慰め、励まして下さり、癒しの御手を伸ばしてくださいますようお祈りいたします。他にもお病気の方々がおられます。どうか、日々の困難の中から、主の救いを祈り求めることができますように。

今、様々な試練、困難の中にある方々を顧みてください。助けを求める信仰が豊かに与えられますよう、祈ります。

この感謝と願い、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

神の栄光を現わす

聖書:申命記324852節, ペトロの手紙一 4711

 本日の礼拝、11月最初の主の日の礼拝を、わたしたちは永眠者記念聖餐礼拝として捧げるために、こうして教会に集められました。思えば、わたしたちは何と豊かにされていることでしょうか。世界中では人々が自分の住むところを失うほどの戦争や社会不安に襲われている地域があります。アメリカでは中米から何千人という人々が合衆国を目指して移動を始めたというニュースが流れ、本当に行き場を失う人々がいるのだ。またそれを迎え入れるかどうか、という問題に直面している人々がいるのだ、ということに驚きます。

人口減少社会の日本がある一方、世界は人口爆発です。わたしたちの社会も明日が予測できない方向へと向かっているのですが、今日という日、わたしたちは成宗教会に集められ、たくさんの写真を前にしています。あわただしい日々の中で、また明日の思い煩いが押し寄せる日々の中で、わたしたちはこれらの写真の方々を思い出して礼拝を守ります。何と豊かなことでしょうか。わたしたちは何がなくても、今日、教会と共にいらした方々を思い起こしたい、そして神さまに感謝したいという思いに満たされているからです。

本日は旧約聖書の申命記32章を読んでいただきました。これは、預言者モーセの最期についての神さまのお言葉です。モーセという人は、神さまの命令に従った人でした。彼は何か偉い人になりたかったわけでは決してありませんでした。しかし、神さまは彼をお選びになってイスラエルの人々を救い出す仕事をお与えになったのです。彼はそのために多くの困難に直面しなければなりませんでした。有名なのは、エジプト王ファラオが頑なで、どうしてもイスラエルの人々を奴隷解放しませんでしたので、彼はその罰として次々とエジプトに災いをもたらすように神さまから命じられたことです。また、モーセが杖を持って手を海に差し伸べると海が真っ二つに分かれ、乾いた地が現れたので、イスラエルの人々はそこを歩いて渡って、襲いかかるファラオの追手から救われたのでした。

しかし、モーセの直面した最もつらい試練は、敵の王様の頑固さではありません。何と味方であるはずのイスラエルの人々の頑なさでありました。モーセが苦労し、神さまに従ってすべてを耐え忍んだのは、イスラエルの人々を救うためではなかったでしょうか。ところが彼らは感謝するどころか、不平不満の塊で、モーセに激しく反抗したのでした。その時にただ一度だけ、モーセは神さまの命令通りにしなかった、ということなのです。神さまはモーセが「イスラエルの人々の中で私に背き、イスラエルの人々の間でわたしの聖なることを示さなかった」と言われました。モーセは、ただ一度の罪のために、イスラエルに約束された土地に入ることができなかったのだと言われています。

モーセは本当に神さまに忠実でしたが、完全に神様に従うことができませんでした。彼は神さまが救おうとしてくださる神の民のあまりの不信仰、あまりの恩知らずに驚き、あきれ、ついに怒ってしまったからです。それでも、モーセはイスラエルの人々の罪を一生懸命に神さまに執り成して、その生涯を終えたのですが、神さまはモーセに言われました。「イスラエルの人々の間でわたしの聖なることを示さなかった」と。神さまが聖なる方であるとはどういうことなのでしょうか。

新約聖書はペトロの手紙の一、4章7節から読んでいただきました。その一つ前の6節から見ましょう。6節。「死んだ者にも福音が告げ知らされたのは、彼らが人間の見方からすれば、肉において裁かれて死んだようでも、神との関係で、霊において生きるようになるためです。」死んだ者にも福音が告げ知らされたと語られています。このことはキリストが十字架にお掛かりになり、死んで葬られ、陰府に下られたときに、死んで陰府にいた人々にも福音を宣べ伝えてくださったのだと解釈する人々がいますが、それは確かではありません。ただ、イエスさまの福音が死者を生かす力あるものであるからには、福音がこの地上で生きている人々に限定されて宣べ伝えられるということは考えられないでしょう。

わたしたちの親しい人々が既に地上から去って行きました。その中には、キリストを知らない人々、キリストを信じるに至らなかった人々が多くいます。キリスト教人口が1パーセントと言われるこの国では、当然の現実です。また、教会はこの救いを宣べ伝える使命をイエスさまからいただいているのですが、罪ある人間が十分に宣べ伝えることができているとは決して言えない。イエスさまのことが十分に分かってもらえないうちに親しい者は地上を去って行くでしょう。福音を聞く者も、語る者も共に罪あるわたしたちです。このことを神さまは御存じです。

ですから、たとえわたしたちが、またわたしたちの愛する者、親しい者がイエスさまをこの地上で救い主として受け入れないまま世を去ったとしても、それだからイエス・キリストの罪の赦しは無駄になるのか、無意味になるのか、と言えば、決してそういうことではありません。なぜなら、キリストの恵みの御業は、生きている者たちにばかりでなく、死んだ者たちにまで及ぶにちがいないのですから。だからこそ、わたしたちが「あの人は救われない」とか「あの人は駄目だ。この人は・・・」と批判したりすることは空しいこと、無意味なことではないでしょうか。

御覧ください。ここに飾られた写真の方々、教師として奉仕した方々も、信徒として教会に結ばれていた方々も、地上を去っても霊においてキリストと結ばれて生きる者とされています。では、わたしたちが今地上にあって為すべきことは何でしょうか。モーセに言われた主の御言葉を思い出しましょう。地上に生きているうちになすべきことは、神さまが聖なる方であることを表すことです。モーセにさえ完全にはできなかったこのことを、成し遂げられたのは、イエス・キリストでした。この方は、神さまがわたしたちの罪を赦して下さり、神さまの命に生きる者となるために、わたしたちのために執り成しをして下さったのです。すなわち、イエスさまは十字架にかかり、すべての人の罪の身代わりとなって死んでくださいました。この救いを信じて告白した教会の人々が、新しいイスラエル、神の民です。そのわたしたちは何をして生きればよいのか。すなわち何をしてこの救いの神さまが聖なる方であることを表したらよいのでしょうか。今日のペトロの手紙は勧めています。

「万物の終わりが迫っています。だから、思慮深くふるまい、身を慎んで、よく祈りなさい」と。教会では自分たちの求めるべき幸福は神の国の宝を受け継ぐことである、と教えられます。そうはいうものの、わたしたちは特に近年は長寿国に生きていますので、何となく自分も長生きできると思っていますから、神の国のことを思うよりも、専ら考えるのは地上のことです。たとえて言うならば、地上を去る時は必ず迫って来るのに、まるで夢の中でウトウトしているように生きている訳です。しかし、聖書は、それは愚かなことであると警告します。

そうは言っても、ペトロの手紙の時代以来、2千年もの間、世の終わりは来ないではないか、と言う人も多いでしょう。確かに今日明日と過ぎて行くこの世の流れによって、時の長さを測る限り、時間は長いと感じられるのではないでしょうか。しかし、わたしたちの目を上げて、神さまの永遠を思うことができるとするならば、数百年をもって数えられる多くの歳月も、一時間あるいは一分間と思われるようになるのです。そして終わりが近いということに、わたしたちは動揺しません。なぜなら信じる者には、永遠の命を約束されているからです。

そこで勧められています。「思慮深くふるまい、身を慎んでいなさい」と。イエスさまもマタイ24章で教えておられます。42節です。「目を覚ましていなさい。いつの日、自分の主が帰ってこられるのか、あなたがたには分からないからである」と。

そして祈りなさいと勧められています。クリスチャンが生活の中で実践しなければならないことは祈りです。なぜなら、わたしたちの力はすべて主の御力によって与えられる力であって、わたしたち自身の力ではありませんから。それならば、わたしたちが祈らないでいることは、本当に弱くなるばかりということです。だから、「わたしたちを主の御力によって強くしてくださいと、主なる神様に求めなさい」と勧められているのです。

さて、主なる神さまに願い求めるべき、わたしたちの生活は、「何よりもまず、心を込めて愛し合う」生活であります。だから、このためにこそわたしたちは祈らなければなりません。なぜならば、「愛は多くの罪を覆うからです。」人々が互いに愛し合う時には、多くの事がらを互いに赦し合うようになります。わたしたちのうちに愛が支配するとき、それは、特別な恵みをわたしたちにもたらします。それは、忘却という恵みです。不愉快な扱いを受けたこと、傷つけられた思いをいつの間にか忘れてしまうというということよりも大きな恵みはないのではないでしょうか。忘却によって、心に残っていた多くの悪い事を、悪い思い出を葬り去ることができる。これは特別な恵みです。だから、わたしたちが愛のうちに互いを赦し合い、助け合う以上に良いことはありません。人は誰もが多くの罪という名のシミがあり、しわがあり、傷があるのですが、神さまがキリストによってわたしたちを赦してくださいました。だからこそ、わたしたちは何よりも互いに赦し合うことが必要なのです。

そして更に勧められています。「不平を言わずにもてなし合いなさい。あなたがたはそれぞれ、賜物を授かっているのですから、神の様々な恵みの善い管理者として、その賜物を生かして互いに仕えなさい」と。わたしたちは自分のものと思っているものも、すべて主から与えられている賜物であります。だから、人に何かを与えるとしても、何一つ自分のものを与えるわけではなく、ただ、主がわたしたちの手の中へ入れてくださったものを、他の人々にも分配しているにすぎないのです。ですから自分に与えられた恵みの善い管理者になりなさい、と教えられます。もしあなたが物やお金や、才能を多く与えられているならば、主は、あなたが多く他の人々に分配し、共に豊かになるようにと与えてくださったと知るべきであります。神さまがすべての人に同じ賜物を平等に与えてくださらない理由がそこにあるのです。神さまの御旨は、わたしたちが互いの不足を補い合い、助け合って生きるようになることなのですから。

「語る者は、神の言葉を語るにふさわしく語りなさい。奉仕をする人は、神がお与えになった力に応じて奉仕しなさい。それは、すべてのことにおいて、イエス・キリストを通して、神が栄光をお受けになるためです。栄光と力とが、世々限りなく神にありますように。」キリストに救われて、今を生きるわたしたちが、神さまに求められていることがここに示されています。それは神が栄光を受けるために、わたしたちが与えられたものすべてを用いて、神の栄光を現わすものになることです。

モーセのような忠実な神の僕であっても赦されず、裁かれた罪を、イエス・キリストは取り除いて下さった。この恵み深い神の計り知れない救いのご計画を思い、感謝が溢れます。成宗教会は創立78年になります。主に結ばれていることを証しして下さった兄弟姉妹を、そして教職の方々を通して、教会の主は今、わたしたちに恵みを注いでおられます。不思議な主の御力によって、この方々は地上を去った今も、主と共に在って励ましを送ってくださっています。いつまでも思い出されるのは善いこと、懐かしいことばかりなのです。ここに神の御名がほめたたえられずにはいられない教会があります。わたしたちもまた後に続いて、神の栄光を輝かせるものとなりましょう。地上を生きるこの時を生かし、わたしたちに与えられている賜物を生かして。 祈ります。

 

教会の主イエス・キリストの父なる神さま

尊き御名を讃美します。今日わたしたちは御前に喜び集い、永眠者記念礼拝を捧げ、聖餐の恵みに与ることを感謝します。わたしたちは小さな群れですが、あなたは恵みを豊かに注いで、今日まで守り導いてくださいました。今、わたしたちは、雨の日も風の日も成宗教会に在って共に教会の主に結ばれ、主にお仕えした永眠者の方々を覚え、感謝を捧げます。地上で思い出すわたしたち以上に、天でその名が覚えられていることを信じ、またわたしたちも後に続きたいと切に願います。すべてが主の栄光を現わすために用いられ、天上にも地上にもあなたの喜びが溢れますように。

今日、礼拝にあなたに依って招かれたご遺族の上に、あなたの豊かな顧みがありますように。地上であなたを愛していた兄弟姉妹のご家族がご子孫が、あなたの恵みを受け、主イエス・キリストを知る者となりますように。

成宗教会を今日まで守り導いて下さった大きな恵みを改めて思い、感謝申し上げます。わたしたちは、牧師の退任に伴う後任の人事を進めるために、連合長老会と学びを共にしております。どうか東日本の諸教会と共に歩み、教会の業を整えて行くことができますようにお助けください。この地に変らないあなたの恵み、福音を宣べ伝える教会として、成宗教会を建設してください。今日の長老会の上に恵みのご支配を祈ります。

本日は主の聖餐に与ることを感謝します。どうかわたしたちを、主の死に結ばれ主の命に生きる者として、悔い改めと感謝を捧げて聖餐に与ることを得させてください。本日礼拝に参加できなかった方々も顧みてください。病気の方、悩みにある方々に癒しの賜物をお与えください。

すべてを感謝し、御手に委ねます。イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

互いに真実を語りなさい

聖書:申命記191519節, ペトロの手紙一 3814

 わたしたちは神の民に与えられた戒めを学んでいます。それは昔、旧約聖書に記されている神の民イスラエルに与えられましたが、今に至るまで、「神を愛し人を愛するとは、どういうことなのか」を教える神の言葉となっています。そして、「これを守る者は命を得る」と教えられているにも拘わらず、戒めを守ることができない人間の罪の現実をも指し示している。それが 十戒 であります。人は自分の力で戒めを守り、自分の力で命を得ることができない。すなわち、救いを得るに至らないのであります。

では、どうしたらよいのでしょうか。人は自分で救いを獲得することはできないけれども、神は人に救いの道を開いてくださいました。それはすなわち、ただ神の恵みによる救いです。神は御子を救い主、キリストとして世に遣わしてくださいました。人の力でできなかった罪の贖いを、真の神の子は、真の人の子として全人類の身代わりになって贖ってくださいました。そのことを信じた者は悔い改め、主の犠牲の死に結ばれた者となりました。主の死に結ばれたわたしたちは、主のご復活の命に結ばれて、教会の生きた肢とされたのです。教会とは、主イエスのご命令によって教えを宣べ伝える唯一の真の使徒的教会であると信じられています。

わたしたちは、自分の力で、聖書に与えられた十戒を守ることができない者でありますが、しかし、他方、キリストによって救いに招かれた喜ばしい者として、どのように生きたらよいかという課題が与えられているのです。それこそが、救われた者の感謝の生活であります。感謝の生活とはどのようなものであるか、という問いなのです。わたしたちクリスチャンは全世界の主の民であり、年齢、性別が違うだけでなく、様々な時代、様々な地域、様々な民族の特徴を持った主の民であります。「甲の肉は乙の毒」というほど、違いの方が際立って見えます。だから昔の戒めは今に通用しないと思っても不思議がないほどの多様性があるのです。

しかしながら、キリスト教徒の教会はいつの時代にも十戒を教え、十戒を学び、これを救われた者の感謝の生活の柱として来ました。わたしたちは、今までに第八戒まで学びました。今日は第九の戒めです。それは「あなたは、隣人について、偽証してはならない」です。今日は旧約聖書申命記19章を読みましたが、これはイスラエル共同体の中でどうしたら公平、公正な裁判が可能となるかを論じているのです。十戒の第九の戒めを見ると、隣人について偽証してはならない、というのですから、確かに裁判に関わっている戒めですから、日常とは違う裁判の被告人のために、あるいは原告のために、証人として立つ場合などが頭に浮かぶのではないでしょうか。19章15-19節をもう一度読みます。

「いかなる犯罪であれ、およそ人の犯す罪について、一人の証人によって立証されることはない。二人ないし三人の証人の証言によって、その事は立証されねばならない。不法な証人が立って、相手の不正を証言するときは、係争中の両者は主の前に出、そのとき任に就いている祭司と裁判人の前に出ねばならない。裁判人は詳しく調査し、もしその証人が偽証人であり、同胞に対して偽証したということになれば、彼が同胞に対してたくらんだ事を彼自身に報い、あなたの中から悪を取り除かねばならない。」

「あなたは」と申命記が呼びかけているのは、裁判人に対してではありません。むしろ、裁判人を立てている信仰共同体に対して、祭司を立て、訴える者、訴えられる者を立て、証人を立てているこの信仰共同体全体に向かって、「あなたは、責任を持ちなさい」と命じられているのです。もし誰かを殺そうとして嘘の罪でその人を訴えた者がいるとしたら、その偽りの証人となった者は人を無実の罪で殺そうとしたのですから、その悪い企みの報いとして殺されなければならない、ということになります。昔の石打の刑というのも、わたしたちの目にはいかにも残虐な行為と思われますが、一人の死刑執行人が犯罪人を死なせるのではなく、みんなの責任でその人を死なせるという強い決意が共同体に迫られているのです。

このように裁判において偽証することは、共に生きる社会の中で無実の人の名誉を傷つけるだけでなく、誤った裁判を行う事になりますから、社会的な公正を破壊し、共同体を崩壊させる深刻な原因となります。ですから、強い決意をもって悪を取り除かなければならないと命じられているのです。申命記が書かれた時代は、そんなに古くはないと思われていますが、それでもも二千数百年は経過していると考えられますので、裁判の公平、公正さがこのように訴えられていることは、信仰者でなくても驚くべきことではないかと思います。わたしたちは神によって与えられていると信じるのですから、神の公平、公正を命じ給うその熱意を褒め称えずにはいられません。

申命記で取り上げられたものは公正な裁判のための偽証の禁止であります。しかし、そういう公の裁判でのことが守られるためには、ごく身近な人と人との関係の中で偽りが取り除かれなければなりません。ですから、偽証してはならないということは、家族、隣人、教会、地域社会について命じられている戒めです。今日の新約聖書は、ペトロの手紙一、3章です。8節。「終わりに、皆心を一つに、同情し合い、兄弟を愛し、憐れみ深く、謙虚になりなさい。」わたしたちはそれぞれの個性あふれる人間であり、異なった様々な意見を持つ自由が与えられているのですが、ところが度を超すと、些細なことでも自分と相手が違うと気に入らないと思い、受け入れられないとなり、嫌悪感を持つことは大きな問題であります。

だからこそ、一人一人、喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣くような心遣いが勧められています。心を一つにするとはそういうことであります。そして兄弟を愛し、と言われていますのは、天の神さまを「天にまします我らの父」と呼び奉るわたしたちだからこそ、共に神の子とされた兄弟姉妹を愛する愛が与えられているのです。また、「憐れみ深く」と言われているのは、神さまが慈愛に満ちた方であるからです。神さまが憐れみ深い方であるからこそ、兄弟姉妹を救い、その人たちの悲惨さを少しでも和らげ、またその人たちの弱さを支えるようにと、教えているのです。

これらの勧めを実行するために無くてはならないものは何でしょうか。それは謙虚であることです。人と人との心がバラバラになる大きな原因の一つは、傲慢であり気位の高さであります。自分を人より一段と高い者とするならば、そのために隣人たちを低く見るようになり、非常に問題です。そんなことがあってはならないのですが、実際はこの世の価値観が、基準が教会の中にもどんどんと入って来ます。わたしたちはこの世の価値に全く影響されないということはほとんど不可能です。何かの職業に就くためには勉強して試験をパスしなければなりません。また病気になると仕事をすることが難しいので、健康を保持しなければなりません。また家とか何かを買うためには、たくさんのお金が必要です。このようなことが沢山あり、わたしたちは苦労して来たし、またこれからもこの世の価値に関わりなく生きることはできません。

しかし、成宗教会の78年にわたる歴史を振り返ったとき、貧しい時代を生きた人々の言葉が思い起こされます。食べる物が乏しかった頃、牧師先生が畑で作ったホウレン草を分けてくださった、とか。コーヒーを入れてくださった、とか。売らなければならなかった石鹸をママ先生が買ってくださった、とか、本当に小さなことに対する感謝を忘れないでいる方々がいるのです。私の仕えた教会の17年では、そんな感謝は一つも生まれませんでした。感謝というのは、自分が貧しいからこそ生まれるものだと思います。

一方、今の時代にも貧しさはあります。それは健康の貧しさ、特に年を取っていろいろできないことが増える。病気にもかかる、ということで、わたしたちは貧しくなります。すると本当に小さな事にも感謝が生れます。なかなか礼拝が守れなくなった方の所に伺うと、それは喜ばしい出来事になります。何を話すか、世間話では終わりません。このわざわざ出かけて行くこと。わざわざ迎えるために待っていること。その両方がイエスさまの教会を思っているからです。教会の主が会わせてくださる交わりです。すると感謝が生れます。両方とも、主の御前に謙虚にならないではいられないからです。9節。

「悪をもって悪に、侮辱をもって侮辱に報いてはなりません。かえって祝福を祈りなさい。祝福を受け継ぐためにあなたがたは召されたのです。」わたしたちは神さまの慈しみを受けて生きているのですから、兄弟姉妹にも慈しみをもって交わるのですが、そのためには多くのことに耐え、また多くのことを支えていかなければなりません。時には思いがけなく意地悪な人々がいてわたしたちは腹立たしくなるのですが、その悪口、侮辱にも忍耐するように勧められています。それではやられっ放しで良くないと世の人々は思うことですが、わたしたちは悪に悪をもって立ち向かわないことが、神さまに仕える者の広い心であると教えられます。それは神さまが良い人々ばかりでなく、悪い人々の上にも雨を降らせ、太陽の恵みを注いでくださる広いお心の持ち主だからです。

だから祝福を祈りなさいと勧められます。祝福は他人の繁栄を祈ることです。わたしたちは、侮辱されてもそれに報復しないだけでなく、善を為すことによって悪を乗り越えなければならないと教えられています。そしてそれは、相手の利益のためではありません。わたしたちがクリスチャンとされたのは、神さまの祝福を受け継ぐためだからです。だからこそ、悪に悪をもって報いては、神さまの祝福を断ってしまうことになるのです。10節。

「命を愛し、幸せな日々を過ごしたい人は、舌を制して、悪を言わず、唇を閉じて、偽りを語らず、悪から遠ざかり、善を行い、平和を願って、これを追い求めよ。」神さまは残酷な人や、裏切る人々を祝福することを欲してはおられません。そうではなく、善良な人々と善い行いのある人々に臨み給うことを欲しておられるのです。だからこそわたしたちは人の悪口を言ったり、人を侮辱したりすることのないようにしなさいと命じられています。また表裏のある人間、人をだます人間とならないように、舌が犯す罪、悪徳から身を守らなくてはなりません。更に、積極的に努めるべきことは、人を傷つけないこと、だれにも害を与えないこと、そして、すべての人に善くするように配慮を怠らないことです。

平和を願い、追い求めよと力強く勧められています。平和はただ争いが無く何もしなくても良い状態ではありません。ボーっとして居たら平和はわたしたちからいつの間にか逃げて行くかもしれません。ですから常に平和を追いかけて探し出さなければならない。平和とはそのように心配りすべきものであることを教えています。12節。「主の目は正しい者に注がれ、主の耳は彼らの祈りに傾けられる。主の顔は悪事を働く者に対して向けられる。」わたしたちは困難に直面するとき、まるで主は自分をお忘れになったかのように動揺することが多い者です。しかし、主は適切な時期に我々を救うために、わたしたちを見ておられます。主なる神様はわたしたちの保証人で保護者なのです。

ですから主の喜んでくださることを行っている時にも思いがけない困難、苦難に遭うことがあっても、どのような時にも人を恐れず、神さまだけを恐れて、わたしたちは互いに真実を語る者となりましょう。どんな時にも神を畏れて他人に悪を為すことなく、間違いにも不正にも耐えることが勧められています。カテキズム問49 第九戒は何ですか。その答は、「あなたは、隣人について、偽証してはならない」です。偽りや嘘や悪口を語って人を悲しませたり、困らせたりしてはいけないということです。わたしたちはイエスさまによって真実を語る者とされているからです。祈ります。

 

御在天の主なる父なる神さま

尊き御名を褒め称えます。今日の礼拝、わたしたちを一週間の旅路から、御前に引き返し、感謝と讃美を捧げる者とさせていただきました。

今日の御言葉の糧を感謝します。第九戒は偽証を禁じる戒めでした。偽証に先立つ小さな嘘、隣人に対する悪意、高慢な心をわたしたちから取り去ってください。あなたの前に低くされ、あなたの恵みを知る者とさせられたことを感謝します。互いに主のものとされ、イエスさまの生きた御体の肢とされたわたしたち、助け合って良い実を結ぶことができますように切に祈ります。今日の礼拝後に行われるバザーの行事をどうかあなたの恵みの下においてください。あなたの祝福を受け継ぐものにふさわしく、この働きを通して兄弟姉妹を祝福し、またバザーを機会に教会を訪れる地域の方々にあなたの祝福をお与えください。どうか思いがけない困難をも乗り越え、怪我無く事故無く行われますよう、最後まで御手の内にお導きください。

また、今週のわたしたちの歩みも御言葉に従うものとなりますように。来週は永眠者記念の聖餐礼拝を守ります。またどうぞ、あなたの豊かな顧みがそれぞれの生活の上に注がれますように。牧師後任の人事に伴う準備をあなたの御手によってお導きください。また東日本連合長老会の働き、日本基督教団の将来に向かう取り組みの上に御心を行ってください。わたしたちの限りある力が豊かに用いられ、あなたのご栄光を現わすために勤しむ者となりますように。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

奪ってはならない

聖書:エゼキエル459節, エフェソの信徒への手紙425節-51

 昨日、ポストに宗教の宣伝ビラが入っていました。ハローウィーンの季節を意識してか、おどろおどろしい夏のお化けのようなイラストで各宗教を説明していました。それは仏教系の新興宗教なので、仏教以外は皆ダメだと書いてあり、特にキリスト教に至っては、「神に見捨てられた人を拝んでいる」人々がいるなんて全く信じられない弱い宗教だと総括していました。思わず微笑んだのは、これとまったく同じ感想が、古代ローマ帝国時代の人々に聞かれたということを、東北学院大学の松本宣郎学長の講演で聞いたことがあるからです。

日本社会は只今、かつて経験したことのない少子高齢化社会であり、また世界的にはIT革命の時代であります。人の仕事がITに奪われると危機感を持ち、まるで人間の価値が仕事で決まるかのように騒ぎ立てる時代に、わたしたちは呆然としてしまうかもしれません。しかし、どんな時代にも教会は信仰を受け継いで来ました。今とは異なる危機ではありますが、今より軽い患難では決してない、危機の時代を生きて、教会は旅を続けております。わたしたちは「弱いときにこそ強い」というみ言葉(Ⅱコリ12章10節)を与えられています。なぜなら、イエス・キリストがわたしたちの弱さをすべて身に受けて、弱さの極みを御自分のものとし、反対に神の強さをわたしたちに与えてくださったからです。わたしたちはこの方を救い主と信じ、自分の罪を告白して、キリストに結ばれるものとなりました。

わたしたちはキリストに結ばれ、キリストの体の教会の部分となっています。イエスさまは言われました。(ヨハネ15:4…198頁)「わたしに繋がっていなさい。わたしもあなたがたに繋がっている」と。またこうも言われます。「人がわたしに繋がっており、わたしもその人に繋がっていれば、その人は豊かに実を結ぶ(ヨハネ15:5)」と。わたしたちはどのようにして教会の肢となるのでしょう。それは洗礼を受けて肢となるのです。ではどのようにして教会の肢として、イエス・キリストに繋がっていることができるのでしょう。それは、礼拝を捧げ、神の言葉によって養われることによってつながっているのです。

さて、イエスさまに結ばれた者は、罪赦され救われていることを、どのように感謝したら良いでしょうか。これがわたしたちの大きなテーマです。今日まで学んで来た 十戒 も、この大きなテーマの中で学んでいます。すなわち、わたしたちが暮らす一日一日は感謝の生活であるはずだからです。今日は十戒の第八番目です。第八戒とは何でしょうか。それは、「あなたは、ぬすんではならない」です。世の中の犯罪の中で最も多いのは、窃盗、ひったくり、そして万引きだそうです。盗むというとそういうことを思い出しますので、わたしは盗んでない。だからわたしには関係ない、と思うかもしれません。

しかし、この戒めは単に物を盗むことだけを言っているのでしょうか。決してそうではないのです。この戒めも第六戒の「殺してはならない」や、第七戒の「姦淫してはならない」と同様に、人と人との関係を破壊するに至る重大な罪を指しているのです。盗みの非常に深刻な一例は誘拐であります。誘拐はすなわち人間を盗むことです。古代社会では労働力を確保するために誘拐が頻繁に行われました。先週取り上げました創世記のヨセフ物語でも、悪意ある兄たちは、穴に入れられたヨセフを、売ろうか、どうしようかと相談しているうちに、商人の一行が来て、穴の中の子供を勝手に引き上げ、奴隷として売るために連れ去ったことが語られています。このことからも、誘拐が珍しくなかったことが分かるのです。しかし、自分の身にそういうことが起こることを少しでも想像すれば、誰にでも分かることですが、自分の人生が誰かの手に握られるのは、失われたも同然であります。そして、誘拐された家族の生活も破壊されます。

本日の旧約聖書はエゼキエル45章9節を読んでいただきました。「主なる神はこう言われる。イスラエルの君主たちよ、もう十分だ。不法と強奪をやめよ。正義と恵みの業を行い、わが民を追い立てることをやめよと、主なる神は言われる。」ここでは誘拐という盗みとはまた異なった盗みについて、預言者の言葉が語られます。大国との戦争に破れたイスラエルの人々は奴隷の民となってバビロンに引いて行かれ、異国で敗戦の民の憂き目を味わいました。ペルシャ王クロスの時代から祖国への帰還ができるようになったのですが、依然としてイスラエルは外国の支配を受ける属国でありました。その属国を支配する者は同じ神の民、イスラエルでありながら、上に立つ者が権力を奮い、貧しい人々を苦しめ、搾取したのです。彼らはどうやってそれをしたのか。貧しい人々から盗んでいるとは、全く思いません。支配者たちは自分たちの都合の良い方法で、お金を貸し、作物の種を貸し、土地を耕させるからです。しかし、農耕民は借金が返せなくなると、先祖からの嗣業の土地を手放さざるを得なくなる。また、土地ばかりか、子供たちさえ売らなければならない。最後には自分自身さえも、借金の抵当として取られてしまう。こうして真に深刻な共同体の破壊が起こりました。

このようなことが起こらないように、村の人々を守り、町の人々を守ることこそ、上に立つ指導者、権力者の務めであったはずです。エゼキエル書の預言者は叫びます。正義と恵みの業を行えと。そのためには、正しい度量衡を施行することも、支配者の責任でありました。申命記25章13-16節には次のように言われます。「あなたは袋に大小二つの重りを入れておいてはならない。あなたの家に大小二つの升をおいてはならない。あなたが全く正確な重りと全く正確な升を使うならば、あなたの神、主が与えられる土地で長く生きることができるが、このようなことをし、不正を行う者をすべて、あなたの神、主はいとわれる。」320頁上。ところが法に違反して、二種類の升、二種類の重りを使い分けて、不正な取引が実際行われ、その結果は貧富の差の著しい拡大となりました。

盗んではならないという戒めが指し示すものは、わたしたちの生きる社会、世界でも全く同じではないでしょうか。イエスさまの許に来た金持ちの青年がいました。マタイ19章16節です。彼は尋ねます。「永遠の命を得るには、どんな良いことをすればよいのでしょうか。」イエスさまは十戒によってお答えになりました。「殺すな、姦淫するな、偽証するな、父母を敬え、また隣人を自分のように愛しなさい」と。青年はこともなげに答えました。「そういうことはみな守ってきました」と。それほど簡単に答えられることの方が不思議です。しかし彼は、「持ち物を売り払って貧しい人々に施しなさい」と勧められると、悲しみながら去っていきました。盗んではならないという戒めの意味の深さ、大きさを彼は思いめぐらすことができなかったのでしょう。今日の世界中の貧富の差を考えると、そしてますますそれが開いて行くということを知らされると、本当に深刻なことではないでしょうか。キリストの体に結ばれているわたしたちは、ただ主を仰ぐより他はありません。

今日読んでいただいた新約聖書は、エフェソの信徒への手紙4章25節からです。「だから、偽りを捨て、それぞれ隣人に対して真実を語りなさい。わたしたちは、互いに体の一部なのです。」わたしたちは神さまが人間を神の形にお造りになったと教えられました。ところが、神さまに背いて以来、神の似姿を失ってしまいました。イエスさまは真の神の子であられますが、人間を救うために背きの罪を贖ってくださいました。わたしたちは真の神の子と結ばれて、神さまが最初に人間にお与えになった神の形を回復させていただいたのであります。そこで神の形と言われる人間になるとは、どんな風になることなのでしょうか。

それは神さまの似姿ですから、神さまに似たものとなることです。神さまは真実な方ですから、わたしたちもまた偽りを捨て、真実を語ることを目指します。クリスマスが近づくと聖書に読まれる祭司ザカリヤはこう歌いました。ルカ1章74節。102頁。「こうして我らは、敵の手から救われ、恐れなく主に仕える、生涯、主の御前に清く正しく。」これは「わたしたちは清く神さまに仕えたい」という目標です。そして「正しく隣人と仕え合いたい」という目標です。しかし、これはわたしたちの力でできることではありません。ただ教会の主イエスさまに結ばれているからできる希望があるのです。26節。

「怒ることがあっても、罪を犯してはなりません。日が暮れるまで怒ったままでいてはいけません。」カルヴァンは怒りの三段階ということを言いました。第一は、自分の一身に関わる不正、過ちに動揺して腹を立てることです。第二段階は、ひとたび動揺すると度を越して激しい怒りに走ってしまうことです。第三段階になると、自分に対して向けるべき怒りを兄弟たちに向けるようになります。いわゆる八つ当たりで、自他ともに思い当たることではないでしょうか。パウロが勧めているのは、罪を犯さないように怒りなさいということです。そのためには怒りの原因を他人よりも自分の中に求めなければなりません。また怒ることがあっても、いつまでも怒り続けることのないように努力しなさいと勧めています。

ところで、皆様は思うかもしれません。今日の第八の戒めと怒りとは関係がないのではないかと。これまで盗んではいけないのは、物だけではないことを学んで来ました。人そのものを盗んではならないのです。そうだとすれば、人の心にあるものも盗んだり、奪ったりしてはならないのです。パワハラで奪われるものは心の平安ではないでしょうか。八つ当たりされる家族は、落ち着いていられません。小さい者、弱い者ほど、激しく盗まれるのではないでしょうか。27節。

「悪魔にすきを与えてはなりません。」怒りに身を任せている人はサタンに心が占領されているのです。また、それがいつまでも根深い恨みとなって心に残れば、それは癒しがたい病となるでしょう。28節。「盗みを働いていた者は、今からは盗んではいけません。むしろ、労苦して自分の手で正当な収入を得、困っている人々に分け与えるようにしなさい。」くり返して申しますが、盗みを働いていた者とは、泥棒家業の人ではありません。ここでは、人間の裁きでは見逃されてしまうような、隠れた盗みのことを言っているのです。つまり、他人の利益を自分の方に引っ張って来るあらゆる種類の横領を含めて考えています。オレオレ詐欺は実に巧妙ですが、人から名誉を盗む、評判を盗む、人のことを巧みにけなしたり、持ち上げたりして自分の利益になるようにもって行く人は、自分でも盗みを働いているとは、全く気付かない。そこにわたしたちの隠れた罪があります。

しかし、わたしたちは、ただ神の言葉によって過ちが正され、悔い改めに至るように、聖霊の助けを絶えず願いましょう。教会の肢であるわたしたちには高い目標が与えられています。これまで他人の利益を密かに奪うようなことをして来たとしても、これからはだれにも害を及ぼさないように働くという目標です。それは、ただ単に自分を養うだけのものを得るために働くだけではなく、他の人々を助けることができるようにならねばならないという高い目標です。自分だけのために生きることを考えるのでなく、互いの必要に役立つように努力する。これこそがキリストが与える愛の目標なのです。

わたしはもう年取って何の役にも立たないと、言いたくなる気持ちはよく分かります。しかし、それもまた、人間の側の身勝手な判断ではないでしょうか。だれが役に立つのでしょうか。だれが役に立たないというのでしょうか。わたしたちが役に立つのはキリストに結ばれているからです。もし人が、わたしに繋がっているならば、その人は豊かに実を結ぶと主は言われたではありませんか。「生きている限り清く正しく」と歌うザカリヤの言葉は真実です。わたしたちの判断によってではなく、ただ主の恵みによって、わたしたちは第八の戒めを守る者とされるでしょう。

カテキズム問48 第八戒は何ですか。その答は、「あなたは、ぬすんではならない」です。神さまは、わたしたちに必要なものをすべて与えてくださいます。しかし、自分に与えられたものを恵みと理解せずに、むしろ不満に思って、人に与えられている神さまからの恵みを奪うことが禁じられています。」祈ります。

 

主なる父なる神さま

今、わたしたちは、必要なものはすべて豊かにあなたから与えられていることを、教えられました。真に感謝です。わたしたちの救いのために、御子をも惜しまず、すべてのことを成し遂げてくださったことに、あなたの豊かさを知る者でありますように。そして讃美礼拝する者となりますように。

わたしたちを主の体の教会に連なる者としてくださったこの計り知れない恵みを感謝します。わたしたちはこの群れに在って、互いの安否を尋ね合い、互いの喜びを喜びとし、互いの悲しみを悲しみとして、キリストの体にふさわしい教会となりますように。どうか御言葉を以てわたしたちを養い、守り、教会を建ててください。成宗教会は連合長老会に加盟し、5年が経ちました。東日本の諸教会との交わりを感謝します。また更に大きな教会の交わりを与えられ、共に助け合って、教会形成をする道が開かれますように。

目に見える教会の行事の一つ一つを顧みて、福音伝道にふさわしく整えてください。働く者が足りないと思っているわたしたちですが、あなたがいつも必要を満たしてくださいました。特に来週行われるバザーの行事、事故無く怪我無く、あなたの御旨のままに良き交わりの時が与えられますように。奉仕する者、参加する者を祝福してください。また今、ご健康を害しておられる方、いろいろな悩みの中にある方、遠くにいて教会を覚えている方々を顧み、共に主に在って一つの群れとしてください。

成宗教会は、主の恵みの下に、東日本連合長老会の指導を受けて牧師後任の人事に取り組んでいます。そのすべての上にあなたの御心が成りますように。 すべてを感謝し、御手に委ねます。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。