教会に集められた人々

聖書:ヨエル3章1-5節, 使徒言行録2章37-42節

 私たちの教会は只今、カテキズムによって教会が受け継いで来た信仰について学んでいます。カテキズムとは信仰問答とも訳されて来ましたが、必ずしも問と答えという形式をとるものではなかったようです。カテキズムという言葉の語源はカテケーシスという「響き合う」、「再び響かせる」という意味です。古代教会の時代から、洗礼志願者が洗礼を受け、聖餐に与るために、教会が伝えて来た信仰の言葉をくり返し学ぶことが熱心に行われて来ました。私たちはキリストの福音を宣べ伝えるために、共にキリストの救いの秘儀と信仰を伝え、共に救いに招かれていることを、繰り返し心に響き合いたいと思います。

さて、先週の新年礼拝では、「幸いな人」と題して、イエス・キリストの教えの一つ、山上の説教について学びました。主イエスは私たちに何を教えてくださったのでしょうか。それはこの世のことに忙殺され、目をくらまされ、この世の幸福と不幸を押しつけられて生きている人々には、――そして私たちもその中で苦しむことがしばしば、なのですが――驚くばかりの、そして信じがたい教えでありました。なぜなら、私たちを圧倒している価値観は、「豊かな人は幸いであり、喜んでいる人は幸いであり、あらゆる能力を発揮して人々を支配する人は幸いである」というものだからです。そしてそのような幸いを追い求める結果、身近なところから、全世界の隅々まで、不幸の種は尽きず、戦争の火種はつきません。

だから、それを見れば分かるのではないでしょうか。私たちの世界で通用している価値観がどれだけ間違っているかが。そして主イエスが教えられたことが、どんなに私たちにはそうは思えなくても、真に正しいのだと。キリストは神の御心を私たちに教えておられるのだと。神の御心は、私たちを御自身の国に招くことであると。神から遠く離れていた私たちを御自身の救いに招くことであると。神に造られた私たちであるのに、造り主を知らない私たち。人間は神に似る者として造られました。神の似姿に造られたのです。それなのに、神から離れ、神に背を向けて生きている人間は皆、罪人であります。

その人間を罪から解放するために、救い主は世に遣わされました。この方の贖いによって私たちの罪が赦されるためです。このようにまでして、罪人を愛しておられる神がおられる。キリストはこのことを知らせてくださいました。この愛の神を信じることが、どんなに幸いなことであるか。この神を、この愛を信じきって、神にすべてを委ね切って、神に従う人だけが、本当に幸いな人なのです。その人はだれでしょうか。それは主イエス御自身ではないでしょうか。主は本当に神の御心をご存じでした。主こそは本当に神を愛し、人を愛して愛し抜かれた方でした。

さて、今日の聖書は主イエスの弟子、ペトロが語った説教です。これはペンテコステの日、すなわち聖霊が弟子たちの上に降った日の説教です。主イエスは山上の説教をはじめ、たくさんの教えを下さり、その教えが真実であることを奇跡の御業で示してくださいました。しかし、弟子のうち、だれ一人として最後まで主イエスに従い切った人はいなかったのでした。皆、十字架に付けられた主から逃げ去ってしまいました。このことは、人間の力では、だれも主に従うことが出来なかったことを表しています。

しかし、十字架に死に三日目に甦った主イエスは、弟子たちを愛して、彼らに御自身を現してくださったのでした。では、弟子たちが本当に主イエスを神の子と、救い主と信じる者、本当に従う者となったのは、いつでしょうか。それは、ペンテコステの日、すなわち、聖霊が弟子たちの上に降った時だったのです。

人々はその時、弟子たちが言葉の壁を超えて神の偉大な業をほめたたえるのを聞きました。その時ペトロは立ち上がって旧約の預言書ヨエルの言葉を語り始めます。預言の言葉が実現したのだと。今日読んでいただいたヨエル3章1-5節です。「その後、わたしはすべての人にわが霊を注ぐ。あなたたちの息子や娘は預言し、老人は夢を見、若者は幻を見る。その日、わたしは奴隷となっている男女にもわが霊を注ぐ。天と地に、しるしを示す。それは、血と火と煙の柱である。主の日、大いなる恐るべき日が来る前に、太陽は闇に、月は血に変わる。しかし、主の御名を呼ぶ者は皆、救われる。主が言われたように、シオンの山、エルサレムには逃れ場があり、主が呼ばれる残りの者はそこにいる。」1425頁。

聖霊の奇跡の御業は、言語の壁を乗り越えることばかりではありませんでした。聖霊は頑なな人々の心を打ち砕いて、ペトロの教えに耳を傾けさせたのです。だからこそ「人々はこれを聞いて大いに心を打たれ、ペトロとほかの使徒たちに、『兄弟たち、わたしたちはどうしたらよいのですか』と言ったのです。これこそ、悔い改めの始まりでした。なぜなら、ペトロが「ナザレの人イエスこそ、神から遣わされた方です」と宣言し、「あなたがたは、この方を十字架に付けて殺してしまった」と追及したからです。しかし最後に、「神はあなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです」と証ししました。聞いていた人々は、自らの間違い、不幸に胸を突き刺されました。そして彼らは神への恐れに満たされたのです。それは、悔い改めの始まりであり、聞いていた人々に福音が訪れた瞬間でした。

ペトロは言います。「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます」と。悔い改めとは、何よりも人が心において新たにされることです。ローマ12章2節「あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかを弁えるようになりなさい。」291下。主に教えられ、主に従って、今までとは全く別人のように心新たにされたい人を、神は決して拒まれません。主イエスはまた、「門をたたきなさい、そうすれば、開かれる」(ルカ11章9節)と約束しておられます。

人々の言葉「わたしたちはどうしたらよいのですか」は、直ちに神に服従する彼らの志を意味します。一方では、聖霊が教えるものに神のご意志を与え、他方では聞く者に悔い改めを起こしてくださる。どちらにも聖霊の御業が働いているのです。福音の訪れの第一歩は、ペトロが人々に自らの罪に思い至らせ悔い改めを促したことです。しかし、それと同時にペトロは人々に罪の赦しの確信を与えました。罪を知らされただけでは救われる希望はありません。ですから罪の赦しがキリストによって備えられていると、ペトロは語りました。それによって伝道者は罪人を正しい道に立ち帰らせることが出来たのです。

ですから、悔い改めと赦しは、主イエス・キリストの名によって宣べ伝えられなければなりません。私たちのために死んでくださったキリストの死に、私たちも結ばれなければ、私たちは神と和解することが出来ない。すなわち、キリストの復活の命に結ばれることはできません。このことが教えられ、受け入れられる時、信じる者には、バプテスマを受けることが勧められます。バプテスマは救いの恵みを約束する保証であります。

そうすれば、賜物として聖霊を受けると、人々は教えられました。聖霊の恵みはイエス・キリストが天に在って父と共に私たちに与えられる賜物です。聖霊によって、私たちは心に信じていることを真心から告白することが出来るのです。聖霊によって私たちに賜物が与えられます。また聖霊によって私たちはサタンとこの世の誘惑や脅しに対して立ち向かうことが出来、勝利することが出来るのです。

このようにわたしたちは溢れるばかりの救いの恵みを受けるのですから、家族、友人、社会のあらゆる人々が、主イエスの福音を聞くことが出来るように、悔い改めに至り、罪の赦しの確信を得て、キリストを救い主と信じて、神に従う者としてバプテスマを受けることが出来るように、日々祈りを篤くしようではありませんか。「この約束は、あなたがたにも、あなたがたの子どもにも、遠くにいるすべての人にも、つまり、わたしたちの神である主が招いてくださる者ならだれにでも、与えられているものなのです」と宣言されているからです。

ペトロは、力強く証しをし、「邪悪なこの時代から救われなさい」と勧めました。この勧めも、私たちはしっかりと心に留めなければなりません。神の愛を信じる者の一番の困難は、キリストに敵対する人々、また神に背いている者が絶えず仕掛けて来る有形無形の攻撃なのです。ペトロはこういう危険から離れることを命じました。私たちにも警戒が必要です。私たちが世に在って生きることは、邪悪な人々に従うか、それとも、善良な人々と共に神に従うか、という選択をしながら生きることなのですから。

ペンテコステの日、ペトロの初めての教えを受け入れた人々は洗礼を受け、その日に三千人ほどが仲間に加わったということです。ここに聖霊の御支配により教会が始まりました。福音はイエス・キリストによる恵みの救いです。この主の死につながれ、主の命に結ばれ、主イエスが例えられたように、真のぶどうの木に接ぎ木された人々が教会であります。教会と訳されたギリシャ語エクレシアとは、元々は呼び集められた人々、のことでありました。招集された議会のことです。

それでは最初の教会、キリストに呼び集められた人々は何をしたでしょうか。そのことが、2章42節に書かれています。「彼らは、使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった。」最初の教会は、自分たちの信仰を確かなものにするために役立つことを絶えず熱心に努力することでありました。説教者の教えを聞きました。なぜなら、教会の魂がここにあるからです。神の御子が使徒たちを通して与えてくださった教えがあるからです。人々は教えを聞いて自分たちの生活に役立たせることに努めました。

次に信徒同士熱心に交わりをし、共にパンを裂いたとあります。パンを裂いたのは、一緒に食事をしたということよりもむしろ、聖餐式を執り行って主の体の教会を建てていることを意味します。信徒同士の交わりは、教えを聞いている結果、起こっていることです。共に集まっているところに、キリストを通して祈りの扉が開かれるのです。ここでは当然のことながら、共通の信仰の告白も整えられて行ったことでしょう。最初の告白は、「イエスは主である」という短いものであったそうです。それを皆で唱える。そして皆で祈るのです。もし皆が共に祈るために集まらないとしたら、一人一人が特に自分の家の中で祈りを捧げても、それは十分であるとは言えないのです。

今日の聖書から、私たちは教会にはどのような人々が集まって、何をしていたかを学びました。それは二千年経った今日の教会と変りありません。建物とか、規模とか、言葉とか、讃美歌とか、そういうことを別にすれば、変わりないのです。なぜなら私たちもまた真の教会を建てることを目指しているからです。真の教会のしるしとは何でしょうか。少なくとも、そこには、教え、聖餐、交わり、祈りがなければなりません。それは、共に集まり、教えを受け、聖餐に与り、主に在る交わりの中で祈る教会です。

わたしたちは今、厳しい時代にいると言わなければなりません。教会に集まることが難しくなかった時代と比べているからですが、子どもたちや若い世代が大勢いた平和な時代がありました。家が狭いので、日曜日は親が子供たちを教会に追い出してくれ、教会は溢れるばかりでした。また、大人も日曜日は休みという職業も多かったのではないでしょうか。今は介護、養護、病院、など24時間、365日の交代勤務。休日があってないような仕事も増えました。高齢者が出来なくなった仕事を下の世代が担って行く。本当にゆとりのない時代。しかしそういう時代でも教会は続いて行きます。それは、「続いて行かなければならない」という義務ではなく、たとえ私たちには非常に困難でも、主が続けてくださるからです。集まることが困難な人々が増える度に、私たちは改めて思います。主に在る交わりの尊さを。互いに祈り合うのは、主が私たちを恵みによって集めてくださったからです。主が大切に思ってくださる兄弟姉妹だから私たちもそう思うのは当然です。私たちは弱い。しかし、主は私たちを励まして聖霊の助けによって支えておられます。私たちは困難の中にこそ、主が幸いだと言ってくださる教会の交わりの喜びが生れているのを感じるのではないでしょうか。祈ります。

 

恵み深き主イエス・キリストの父なる神様

本日の礼拝を感謝し、あなたの尊き御名をほめたたえます。今日も私たちを呼び集めて下さり、恵みの礼拝に与りましたことを感謝いたします。真の教会の姿を、私たちは追い求めながら、日々困難と向き合っています。しかし、あなたが私たちに御言葉を聴き、交わりを持ち、祈りをささげる教会としてくださいました。どうか、今、力弱くなっている方々をお支えください。共に御前に出ることが出来ますように。また、どうか、私たちに与えられた福音を後の時代にも伝えるために、この教会を用いてくださいますように祈ります。成宗教会が東日本連合長老会に加盟して以来、共に学び合い、助け合って歩んでいる諸教会を覚え感謝いたします。小金井西ノ台教会の引退教師の青戸歌子先生が召されました。残された青戸宏史先生の上に慰めが豊かにございますように。

本日は今年最初の長老会を開きます。この教会、また東日本の教会の諸行事を通して、また長老、信徒の方々を通して、主の恵みの御業が現れますように、生かし用いてください。特に少子化の時代に教会を建てようと、連合長老会のみならず、教区、教団、更には他の教派との間にも協力が生れていると聞きます。主よ、どうか心を低くして共に祈るこれらの働きを祝福して下さい。

今、病気やお怪我のため、療養しておられる兄弟姉妹を特に顧み、またご家族を祝して下さい。癒しの御手を祈り求めます。

この感謝と願いとを、尊き主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

幸いな人

聖書:申命記6章4-15節, マタイによる福音書5章1-11節

 主の年、すなわち西暦2018年が始まっています。世の中は大変好景気といわれております。1980年代のバブル期のようだという人もいます。しかし、東京の街中の様子を見ると、どうしてもあの頃とは違うと感じてしまいます。違いを感じることの一つは、車です。外国車の数が圧倒的に増えています。日本の車は性能が良いのに、どうして買わないのだろうかと思います。また、自動車産業は関連する産業のすそ野が大変広いのですから、国産車が売れると、日本の労働者の生活を安定的に支えることに繋がります。そうして多くの人々が恩恵を受けることが出来たのが、以前の好景気でした。

ところが、今車を買わない若い人々が多いと言われています。そして高収入の人々は外国車を買う傾向にあります。これが好景気なのか?と思いたくなるのは、昔と比較する私の考えが古いのでしょうか。しかし、車がなくても生活できるのは若い時代だからだ、と私は思います。遠くに出かけるのに、時間も体力も使うことが出来るからです。私が成宗教会に赴任してから16年。浴風園キリストの会という老人ホームでの集会に出かけたり、病院のお見舞いに遠出するのは、バスや電車を乗り継いで行けばよいのですが、より多くの時間と体力が必要です。教会の墓前礼拝について考えても、やはり車を出すことが出来なければ、なかなか困難です。

二十年前、三十年前と今を比べた時、明らかに分かるのは、好景気ではないでしょう。以前は体力があった。車もあるのが当然だった。時間も取ることが出来た。それが、今は大変乏しくなっています。これは何も私たちの教会に限って言えることではありません。日本の社会全体が、好景気といわれているにもかかわらず、いろいろな意味で貧しくなっているのではないでしょうか。そしてこれは日本だけの問題では決してない、世界の多くの地域でいろいろな貧しさが進んでしまっているのではないでしょうか。

とはいえ、私たちが過去を振り返って、現在と見比べるのは、せいぜい50年、100年のことでありましょう。私たちが知っている昔とは、その程度の長さだからです。主イエス・キリストが地上に来てくださった時、神の御子は神の国の限りない豊かさから、限りない貧しさの中に降り立って下さいました。しかし、主の地上での御使命は、私たちと同じ貧しさを共にするためではありません。もしそれが目的なら、ああ、イエスさまは私たちと同じ人間の苦労をして下さったということに尽きることになります。もしそれだけが目的なら、確かに感謝は生まれるかもしれませんが、それだけで、人は救われるでしょうか。

主イエスの目的は、私たちの貧しさの中にいらして、天の御国の豊かさを教えることではありました。神の国について教え、そして私たちを神の国の豊かさに招くことであったのです。ですから、今日の聖書、山上の説教として有名な教えを、主イエスは教えられたのです。主イエスは群衆を離れて山に登られました。そして近くに従っておりました弟子たちに教え始められました。弟子とは、どういう人々でしょうか。弟子とは先生の教えに聞き従う人であります。ここでは、キリストに従う人々であり、キリストを通して神に従う人々であります。神の御心を知った時、それは、「ちょうど私の考えて同じです。喜んで従いましょう」ということではないのです。「えーっ!」と驚き、「とても信じられない」と思いながらも、自分の考えを捨て、御心に従って行った人々です。

思えばマリアもそうでした。主イエスの誕生に先立って、マリアに天使が現れて、常識では考えられないことを告げた時、マリアはどうしたでしょうか。自分の考えを捨てて従ったのです。「わたしは主のはしためです。お言葉通り、この身になりますように。」またマリアの夫となるヨセフもそうでした。主イエスの誕生に先立って、ヨセフに天使が現れて、常識では考えられないことを告げた時、ヨセフはどうしたでしょうか。自分の考えを捨てて従ったのです。このように、キリストが世に生まれてくださるために、神は地上に従う人々をすでに備えてくださいました。

そのようにして人々の貧しさ、乏しさの中にキリストは来られました。そして従う者を集め、教え始められます。それは、幸いな人とはだれか、という教えです。「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。」心の貧しい人々とはだれでしょう。それは、自らを空しくし、神の憐れみに頼る人。苦悩にさいなまされ、押しつぶされても、それでも神に全く服従し、そして、心から謙遜であり、神に救いを求めてやって来る人々。そういう人々は幸いだと主は言われます。そうです。母マリアがそうでした。ヨセフもそうでした。常識では考えられないことが起こった時、自分に頼らず、他人に頼らず、ただ神に全く服従する。私たちもそうでありたい。だから神に救いを求めて教会に集まるのです。

しかしこのことは、何か他の人々と比べて、「救われる」特権を持っているかのように得意になることではありません。主イエスは従う人々が天の国に入れることを確信させ、だからあらゆる困難を忍耐するようにと、励ましておられるのです。また主は教えられました。「悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる」と。世間の常識では、悲しみは幸いとは程遠い。むしろ不幸なことではないでしょうか。しかし主は悲しみに暮れる人々は悲惨ではない、と仰るのです。それどころか、涙を流すことそのものが幸福な人生の助けとなる、と教えられました。

私は教会に在って、皆様と共に多くの悲しみを経験しました。それは、多くの方々が教会を去って行ったからです。ある方々は高齢になり、また遠くに行ってしまったので、教会に足を運ぶことが出来なくなりましたから。また、他の理由で教会に来られなくなった方々もおられます。その方々はどうしていることか、主がどこかの教会に招いておられるだろうか、などと思います。しかし、私たちはその他の方々を天に送りました。召された方々とのお別れには一番涙を流しましたけれど、それは不幸ではありません。私たちには愛する人々がいるからです。ですから愛する人々と別れる悲しみは確かに幸いなのです。この悲しみが天の国の希望に続いているからです。私たちの悲しみはただ神によって慰められると信じるなら幸いです。

主イエスはまた教えられました。「柔和な人々は、幸いである、その人たちは地を受け継ぐ」と。柔和な人々とはだれでしょうか。それは侮辱されてもすぐに立腹しない。人々にひどいことをされても同じことで仕返しをしない。何事にも忍耐強い、穏やかで温和な人々のことです。この教えもまた信じがたいのです。むしろやり返さないとますます相手は傲慢になって悪事を重ねるだろうと思うからです。その不安が争いに争いを巻き起こすのです。私たちは命じられています。主イエスだけが私たちをお守りくださると確信しなさいと。確信して、その救いの翼の陰に隠れなさいと。そうするためには、私たちは悪人に悪をもって報いる人であってはならないのです。主は羊飼い。そして、私たちは主のもの。主の羊なのですから。

多くの土地を所有するために力を振るう人々は、いかにも繁栄しているようですが、実は、他から力で奪われないように絶えず警戒しなければならない、従って絶えず不安なのです。反対に私たちは、地上に僅かなものしか持っていなくても、確かに地上に住むところが保証されています。なぜなら私たちは神の恵みをいただいているからです。そしてやがて地上を去る時、神の国に住まいが用意されていることを思えば、主に従って生きる者が地を受け継ぐのです。

6節。「義に飢え渇く人々は、幸いである、その人たちは満たされる」と主は教えられました。飢え渇くという言葉は、生活必需品にも事欠くような貧困に苦しんでいることを表します。さらに義に飢え渇いている人々は、大変な侮辱、屈辱を味わって苦悶にうめいているのですが、しかし彼らは、「生きて行くためには、もう何でもするより他はない」ということにはならない。どんなに苦しんでも道を踏み外さず、節操を守っている。そしてそのために苦しみ、弱り果ててしまっているのです。

人々の目には、このような人々は愚かに見えるかもしれません。しかし、主は言われます。これは、幸福への確かな準備であると。なぜならついに、彼らはついには幸福で満たされるようになるからです。母マリアは次のように神をほめたたえる賛歌を歌いました。ルカ1:53「(主は)飢えた人を良い物で満たし、富める者を空腹のまま追い返されます。」このことを神がなしてくださる。いつの日か神は彼らのうめきを聴き入れ、彼らの正しい願いを満たしてくださるからであります。

「憐れみ深い人々は、幸いである、その人たちは憐れみを受ける」という教えもまた、4節の悲しむ人々と同様の幸いではないでしょうか。世の人々は、他人の不幸など顧みないで、彼ら自身の安楽を計っている人々を「幸いな人々」と思っているかもしれません。

しかし、キリストの言われる幸い違います。幸いな人とは、自分の不幸を担おうとするだけでなく、苦しんでいる貧しい人々を助けるために、他人の不幸をも担い、苦しんでいる人々を助けるために、喜んでその人々の中に進んで入り、その不幸を共有する人々であります。そういう人々は、神からばかりでなく、ついには人々の間でも憐れみを受けるだろうと言われるのです。争いが絶え間なく起こるこの世に在って、ついに人々は心に何のゆとりも無くなり、すべて恩知らずとなりかねないのです。その結果、親切な人々を利用し、受けた善意にも悪をもって報いるようなことも起こるでしょう。しかし、憐れみ深い人には神によって恩恵が備えられています。なぜなら神こそが恵み深く、憐れみに満ちておられるのを知るからです。それを知る人々は心満たされると、主は教えられるのです。

そして8節。「心の清い人々は、幸いである、その人たちは神を見る」と主は教えられました。清い心とは、何でしょうか。それは、人々の交わりにおいて常に純真であり、心の中に思っていること以外は、言葉にも表情にも全く表さない。すなわち二心がない。二枚舌を使わない、ということではないでしょうか。それは、だれもが「美しい心」だと一応認める性質でしょう。しかし軽蔑する人々は、このような純真な人のことをあたかも思慮が足りなくて、物事を十分見ることが出来ないかのように思っているのであります。ところがキリストは改めて心の清い人々を高く評価なさいました。二心がない、たとえ悪人に騙されることがあっても、人を欺くことが出来ない人々は、天の神の御前で神に喜ばれることだろうと。

そして「平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる」と主は教えておられます。人々の間でも、あるいは組織、国家の間でも、不和の状態、戦争状態にある者たちを仲直りさせるのはやっかいな骨の折れる仕事であります。平和を作り出そうと努める善意の人々は、双方から侮辱されたり、不平不満や非難を受けても、それに耐えなければならないことがしばしばです。なぜなら、人々はだれもが、執り成す者に、まず自分を守ってくれるよう期待するからです。そこで主は何と言われたでしょうか。主は私たちが誰よりも、何よりも、父なる神の調停によって平和を作り出すように努めるように教えておられます。だから人々の平和のために働く者は、人の思いどおりにではなく、神の正しい裁きが行われるように祈り働く者となりなさい。そうすれば、あなたがたは、たとえ人々から良い評価は受けなくても、それどころか、いわれのない悪評を受けることになっても、大丈夫。主は私たちを御自身の子と数えてくださると約束して下さいました。

2018年最初の礼拝、私たちは主イエス・キリストの教えを聞きました。主イエスは、この世の人々の繁栄の幸いではなく、神に従う者の幸い、神と人を愛して生きる道を教えてくださいました。私たちは新しい年に改めて、主の教えに従い、幸いな人に数えられたいと思います。祈ります。

 

恵み深き天の父なる神様

新年最初の礼拝を感謝し、御名をほめたたえます。あなたは私たち成宗教会の群れを守り導き、新しい年を迎えさせてくださいました。多くの方々が高齢となり、病気やお体の不調に悩み、仕事や家庭に困難があることをあなたはご存知です。しかし、目に見えてここに、あなたの御前に集まる者は少ない者ですが、その生活の所々に在って、あなたの御名を覚え、心を合わせて祈る群れであることを感謝します。

私たちは主が恵み深く、地上に在って、私たちの乏しさを神の国の豊かさに変えてくださるために教えてくださることを感謝します。今多くの悩みがある中で、あなたがどうぞ私たちになすべき務めを教えてくださいますように。あなたが聖書によって、主イエスによって、恵み深さを表してくださいました。今、私たちは聖餐によって、主イエス・キリストが私たちになしてくださった救いの恵みに与ります。主イエスは山上の説教の教えを身をもって生き、十字架にご自分を捧げ、私たちの罪を赦し、平和の礎となってくださいました。私たちは主に感謝し、主の御体の教会にしっかりと連なる者となりますように。

高齢化少子化が進む社会にあって、あなたの御心が成り、私たちの罪が赦され、福音が日本の社会に伝えられ続けるために、この年も私たちの教会を、連合長老会の教会と共に、また日本基督教団をはじめ、全国全世界の主の教会と共に、一つなる教会が形成されるために用いてくださいますように。成宗教会の長老会の働きを強め、教会学校、ナオミ会、ピアノ・オルガン教室の働きを豊かに祝して下さい。また明日行われる東日本の日曜学校研修会と長老会議から、2018年の連合長老会の諸行事が始まります。すべてを祝し導いてください。

この感謝と願い、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

神の指の働き

聖書:出エジプト記8章12-15節, ルカ福音書11章14-23節

 2017年は1月1日の礼拝から始まり、12月31日の礼拝で終わるという、礼拝に始まり、礼拝に終わる年でした。そしてクリスマスの礼拝と行事が24日の主の日に集中する、という年でもありました。カレンダーが今年と全く同じになった年は、2006年ですから、今から11年前ということになります。その時の教会役員の方々で現在の長老職を担っている方々は今はおられません。ご高齢やお仕事で退かれた方もおられます。また、この10年ほどの間に受洗され、転入された方々が新しく長老に選ばれるようになりました。

成宗教会は2013年に東日本連合長老会に加盟して、長老教会の一員として歩み始めましたが、このことも非常に大きな決断でありました。教会はこうして大きく変化したことを、改めて振り返っております。ただ、この教会に私が赴任して以来、変わらないものもございます。その一つは週報の裏側にある諸報告です。よく申せばアットホーム的な、問題にするならば個人情報に関わるものも報告しています。これは成宗教会が月報とか、季刊誌とか、より教会活動の報告文集的なものを編集発行していないので、その補いとして、あらゆる活動、教会員の最小限の消息など、記録に残すためでありました。

そういうわけで、本日の週報にも24日のクリスマスの報告を感想文的に載せております。もっと客観的に、事実を淡々と報告するのが良いのかもしれません。しかし、今回はあえてお名前を上げさせていただいた方々もいます。これは、一番目立った人の順ではなく、神さまのご配慮のうちに、目に見えて活躍した方も、お顔を見せることさえ出来なかった方も、共に一つになってこのクリスマスを迎えたことを感謝したいと思ったからです。

今の時代に生きるわたしたちには、本当はいつの時代でもそうなのでしょうが、多くの悩みがあります。本人自身のことはもちろん、親の悩み、子孫の悩み、配偶者の悩み、兄弟や、家族の悩み、仕事の悩み等々です。しかし、だからこそ、イエス・キリストは来てくださいました。悩み多い世に。私たちは今年も御子のご降誕をお祝いすることができました。前年よりは少なかったですが、それでも多くの人々がこの教会のクリスマスに来て下さいました。小さな御子の誕生は、その人々の中に来てくださったでしょうか。あなたの心に、イエスさまは生まれたでしょうか。私はそう訊ねています。

主イエス・キリストが来てくださったなら、私たちの内に住んでくださったなら、それは大変大きな出来事です。なぜなら、神の御子は無力なお姿でいらして、私たち、無力な者の心に受け入れられるならば、決して無力なままではおられないからです。神の国は近づいたと、洗礼者ヨハネは告げました。主イエスも言われました。神の国は神の御支配です。世の光として来られる方は、世の闇を追い出す方なのです。それこそが神の御支配の表れです。ではどのようにして闇を追い払ったのでしょうか。今日の聖書、ルカ福音書11章14節がその一つの証しです。

「イエスは悪霊を追い出しておられたが、それは口を利けなくする悪霊であった。悪霊が出て行くと、口の利けない人がものを言い始めたので、群衆は驚嘆した。」主イエスは人々の病気を癒されました。また悪霊を追い出されました。主イエスが人々の病気を癒され、悪霊を追い出されたのは何の目的のためなのでしょうか。主イエスが口の利けなかった人から悪霊を追い出すと、何とその人は話すことができるようになりました。そんなことはあり得ない。今まで見たことも聞いたこともない。その奇跡に、人々は驚嘆しました。では、主イエスの目的は人々を驚嘆させるためだったのでしょうか。

モーセの物語である出エジプト記には魔術師が登場します。モーセと兄弟アロンがエジプトの王、ファラオに交渉に行って、イスラエルの民をエジプトから去らせるように頼みました。ところがファラオは全く耳を貸しません。そこでモーセとアロンは神が命じられる通りに、禍の奇跡を行いました。神はこんな恐ろしい禍をファラオの国に下すことができると。ところが、そこにファラオに仕えている魔術師がいました。彼らはモーセに対抗してファラオに言ったことでしょう。「王様、あんな魔法私たちだってできますよ。」こうして魔術合戦が始まります。ナイル川を血に染める魔術。蛙大発生の魔術。

しかし、モーセが魔術を使ったのは魔術合戦をするためではありません。ファラオを驚かせて、神の力の前に屈服させ、神の命令に従わせるためでした。神はファラオに命じられます。「あなたの奴隷となっているわたしの民を解放せよ!」と。さて、主イエスのなさった奇跡にも、目的がありました。それは人々をびっくりさせるためではありません。もちろん、主イエスの奇跡の業を見た人々は、「この方はすごい!」とか、「この方は一体どなただろう」と驚嘆したことでしょう。しかし、そういうことが目的ではないのです。主イエスは罪人の救いのために来てくださいました。それは、罪人、すなわち罪の奴隷となっているすべての人間に対して神の憐れみ、神の愛の表れであります。

私たちは皆罪人なのですが、神さまがそんなにも私たちを憐れんでおられるとは、大部分の人々が知らないのであります。むしろ、「私は同情されるような惨めな者ではない」と、内心高ぶっているのではないでしょうか。本当は、神に背いているところは、皆同じ人間です。ですから、主イエスも誰に対しても愛情と同情をもっておられます。神は皆同じ人間と思っておられる。しかし、そう思っていないのは人間の方なのです。ですから、主イエスは金持ちの青年が近寄って来て、「先生、救われるためには何をしたらよいですか」と尋ねた時にも、この人を慈しんで声を掛けておられます。

そこで主イエスは、だれもが大変な悩みだと思うような病人、悪霊にとりつかれた人々に対して奇跡を行ってくださいました。こういう人々は、すべての罪人の苦しみを目に見える形で苦しんでいるのですから。ですから、この人々に対する主イエスの深い憐れみ、慈しみは、神の愛を目に見える形で証ししていることなのです。ですから、あんなに人を苦しめ、支配していた悪霊は、主イエスの命令で人から追い出されたとき、何の力も発揮できず、何の抵抗できず、出て行くより他はありませんでした。このように、神の愛の力がどんなに強いものであるか、私たちは知っているでしょうか。信じているでしょうか。

主イエスの奇跡にこそ、神の国の到来を見るべきではないでしょうか。人々は奇跡を見て驚いたけれども、中には疑い深い人々がいました。彼らは救いを待ち望んでいる人々の中にいながら、実は神の愛も、神の御支配も信じたくない。信じないためなら、どんな努力でもする。どんな屁理屈でも考えるのです。そこで「あの男は悪霊の頭ベルゼブルの力で悪霊を追い出している」と言う者や、更に天からのしるしを求める者もいました。

主イエスは、人に同情し、悪霊を追い出して、その人を口の利けない苦しみから解放してくださいました。しかしその結果、言われたことは『悪霊の頭ベルゼブル』です。これがどんなに侮辱的な言葉であったか、想像できないと思います。ベルゼブルとは、本来はバアル・ゼブブという言葉で、ペリシテ人の偽の神々の頭に与えられた名でした。(列王下1:2)  この偶像に備えられた多くの供え物のために神殿にたくさんの蠅がいたので、蠅の守護神を意味しているとも言われています。あるいは食べ物に群がる蠅の害から救われるために、この偶像に助けを求めたのではないか(カルヴァン)という説もあり、とにかくイスラエルの人々は、偶像に対する憎悪と嫌悪を表すために、悪魔をバアル・ゼブブと呼んだのであります。

こういうわけですから、悪意ある人々は、キリストが一般の人々から嫌われるように、「悪魔」、つまり、最大の敵と呼ぶことによって、考えられる限り最大級の非難を与えようとしたのでした。私たちも善意をもって、同情をもって何かをしたのに、思いがけず、非難され、軽蔑されるという経験をすることがありますが、聖書は主イエスがどんなに私たちに同情して下さったか、ということと、その結果はほめたたえられるどころか、悪魔、サタン呼ばわりされるというこれ以上ない侮蔑を受けたことを語り伝えているのであります。

しかし、私たちががっかりして、力を失う時も、心を閉じてしまう時も、主イエスは人々にがっかりして心を閉ざされることはなさいませんでした。主は悪意ある人々に順序よく教え諭されます。それは、私たちが時を経ても、所を隔てても御言葉に教え諭されることができるためなのです。「内輪で争えば、どんな国でも荒れ果て、家は重なり合って倒れてしまう。あなたたちは、わたしがベルゼブルの力で悪霊を追い出していると言うけれども、サタンが内輪もめすれば、どうしてその国は成り立っていくだろうか。」

主イエスが悪霊を追い出したのは、悪霊の内輪もめの結果ではない。もしそうなら悪魔の支配は自己崩壊することでしょうが、実際には、悪魔は堅い一致団結によって、神の支配を来させないように、人々を自分の奴隷にしておくためにあらゆる手段を尽くして戦っているのです。主イエスが奇跡を行われたのは魔術合戦に勝つためではありません。モーセとアロンが魔術合戦を挑んで来るエジプトの魔術師たちと戦った時、ついに魔術師の力が及ばないところに達しました。魔術師たちは降参して、ファラオに言いました。『これは神の指の働きでございます』と。

その聖書にちなんで、主イエスは言われました。20節。「しかし、わたしが神の指で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちの所に来ているのだ。」神の指は神の愛の力です。私たちは無力だと感じることが多い時代です。私たちの内に多くの悩みや課題を抱えています。しかし、私たちの内にキリストが来てくださっているなら、嘆くのは見当違いではないでしょうか。確かに私たちは弱い。しかし、キリストの愛は奇跡を行われる神の指の働きに他ならないのですから。

21節、22節の例えは興味深いものです。強い人が武装しているというのは、神さまのことではありません。悪魔のことなのです。武装して悪魔の支配領域を守っている。しかし悪魔よりもっと強い者が襲って来る。悪魔より強いのは人間ではありません。絶えず、悪魔に唆され、おだてられ、騙されて、疑いを持たされ、脅され、たやすく支配されてしまう私たちだからです。しかしついに強い者が襲ってきて悪魔に勝つ。その人はだれでしょう。私たちの主イエス・キリストに他なりません。

勝利者キリストは悪魔から分捕り品を奪い返します。悪魔の支配下に苦しんでいた人々を奪い返し、神の国の御支配の中に配置してくださるのです。この目に見えない、ひそやかな戦いが進行中です。私たちの多くが家族で、職場で、また施設でただひとりのクリスチャンかもしれません。しかし、考えてごらんください。神はイエス・キリストによって私たちの内に戦いの拠点をあちこちに作っておられるのではないでしょうか。皆が密かに私たちを見ています。私たちが幸せに生きているかどうかと。お金のことではない、能力のことではない、健康のことですらないのです。たとえ、「ない、ない、ない」の、私たちであっても神の愛が私たちに注がれていることを、周囲は見ているのです。ここに神の国が来ているかどうかと。ここに救いがあるかどうかと。

ですから、この戦いは私たちの戦いです。私たちは、どちらの側について戦っているのかが問われています。主イエスは言われます。「わたしに味方しない者はわたしに敵対している」と。私は感じています。既に成宗教会の多くの方々が周囲から見られているだけでなく、当てにされていると。頼りにされていると。その家にとって、その職場にとって、その施設の中で、教会の皆さんが希望のもとになっていると。だから、私たちは、私たちの希望がどこにあるかをはっきりと自覚して生きる者となりましょう。主イエスによって神の愛が、神の指の働きが私たちと共にありますように。祈ります。

 

恵みと憐れみに富み給う教会の主、イエス・キリストの御父

2017年最後の主の日、私たちを御堂に集めて下さり、主の御名をほめたたえる礼拝を捧げさせていただいたことを感謝します。先週私たちは、クリスマスを無事にお祝いすることができ、恵み深い神の御名を世の人々にお知らせすることができました。

この年をも、私たちの不信仰と至らなさにも拘わらず、あなたは私たちを恵みで取り囲んでくださいました。私たちの言動によって教会の兄弟姉妹、家族、友人、また多くの人々を悲しませ、失望させることがございましたら、どうかその罪をお赦しください。あなたの御霊のお働きは罪人の救いのために人々を招くことでございますことを思う時、どうか私たちがあなたの喜ばしいお働きに賛同し、参加することができるために、私たちを新たに造りかえてください。どうか、私たちが家族、友人、社会に対して、あなたの愛と慈しみを、身をもって表す教会共同体となりますように。

成宗教会を地域連合長老会である東日本の諸教会と共に歩ませてくださったことを感謝します。また全国連合長老会を通して、日本基督教団を通して、全世界の主の教会を通して、主イエス・キリストの体の教会を建てるための戦いに参加させてくださったことを感謝します。目に見えて礼拝を守ることができるのは、真に小さな群れですが、あなたの目に大切に守られ、私たちの目の届かない所まで慈しみによって守られ導かれていることを感謝します。

どうか来る年も、主イエス・キリストを告白し、救われて主の体の肢に結ばれる人々を増し加えてください。また、私たちの貧しさを顧みてくださるあなたが、この教会の福音伝道のために、必要なすべてを備えてくださることを信じ、お願い致します。教会の礼拝と諸活動のすべてが福音のために清く用いられますように祈ります。そして今、お病気の方々、ご家族の労苦を負う方々の上に慰めと励ましと癒しをお与え下さい。

すべてを感謝し、御手に委ねて、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

天には栄光、地には平和

聖書:イザヤ書52章7-10節, ルカ福音書2章8-20節

 私たちは、クリスマスを祝うために、この年も、成宗教会の礼拝に集まることができました。私たちはしみじみ思うのです。礼拝に出席できる、ということは決して小さなことではない。むしろ大きな恵みなのだ、と。まず第一に元気がなければ来られない。そして元気があっても日曜日の朝にも、時間がない、休めない人々がいます。その上、出かけて来るにも電車賃も惜しまなければならない人々も増えているという社会であります。

しかし、健康がない、時間がない、お金がない、という人々が教会に多くなるにつれて、教会は活発になります。活発にならないではいられないはずです。なぜなら、私たちは主イエスがどのようなところにお生まれになったかを知らされているからです。主は馬小屋で生まれられました。世の人々でにぎわう街の宿屋に、母マリアとヨセフの滞在する場所がなかったからです。人々の日常茶飯事のてんやわんやの中には、主イエスの宿るゆとりはありませんでした。そこで、神はその御子を貧しい馬小屋、家畜の小屋に生まれさせました。ひっそりと、だれも顧みることもない者としてお生まれになったことは、私たちへの神様からのメッセージであります。主は貧しい者、小さな者の所に、まず来て下さったのだと。

私たちの社会が貧しくなり、健康に乏しい人々、時間に乏しい人々、経済的に乏しい人々が増えれば増えるほど、私たちは改めて思うのであります。救い主は王侯貴族の間にお生まれにはならなかった。貧しい人々、小さな者たちの所に来て、そこに宿ってくださったことを。教会はこのことを知らされています。だからこそ、教会は活発にならないではいられないのです。救い主がお生まれになったクリスマス。この良い知らせを、多くの人々に知っていただくために。

クリスマスの夜、救い主誕生の知らせを誰よりも早く聞いたのは、羊飼いたちでありました。彼らは野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていました。そこに主の天使が現れたのでした。主の天使は、神の御心を忠実に伝えます。その言葉が神の言葉として伝えられ、人々に聞かれるために、天使は神の威厳、神の栄光と共に現れたのでした。恐らくは圧倒的な輝き、この世の知恵では計り知ることのできない栄光の姿によって、天使は現れたので、羊飼いたちは非常に怖じ畏れました。

しかし、天使は彼らを労いました。「恐れるな」と。なぜなら、羊飼いたちに現れた天使の目的は、何も彼らを脅すためではなかったからです。それどころか、天使はクリスマスの知らせを、真っ先に彼らに伝えるために現れたのです。天使は彼らを励まして告げ知らせます。「わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。」

当時、羊飼いという職業は大変でした。羊は他の家畜もそうですが、人々の貴重な財産、多くの富を生み出す生き物でありますから、その世話をする羊飼いは、欠くことのできない仕事でした。しかし、それは当然非常な労苦を伴っていました。上野動物園のパンダなど、貴重な動物の飼育をする人々のことを考えれば、少しは分かるのですが、動物の健康を昼夜を問わず気遣うのは大変です。その上、この当時の牧畜の方法は、安全な囲いの中に常時いる訳ではなく、むしろ広い牧場というよりも山野を放牧して移動するわけです。昼も夜もですから、ある時は野獣の危険、ある時は羊泥棒の危険に立ち向かわなければなりません。

この仕事の苛酷さを考えれば、当然、これを担う人々は、金持ちではなく貧しい人であり、また身分の高い人ではなく、雇われて主人に仕える僕の仕事であったでしょう。しかし、不思議なことですが、神は御自身を私たちに理解させるために、何と言われたかと申しますと、御自身を羊飼いであると表現されたのです。この人間にとって苛酷な職業は、「わたしの務めである」と。イザヤ書40章11節にこう書かれています。1124頁。「主は羊飼いとして群れを養い、御腕をもって集め、小羊をふところに抱き、その母を導いて行かれる。」

主は、羊の群れを養うように、小さな者、弱い者、無力な者を養ってくださる羊飼いとして世に来られました。旧約の預言のように、主イエス・キリスト御自身、こう言われたのです。ヨハネ福音書10章11節。186頁末。「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。」主イエスが命を捨てるのは何のためでしょうか。それは「羊が命を受けるため」に他なりません。これが、救い主が来てくださった真の目的であります。

もちろん、このクリスマスの夜、天使の言葉を聞いた羊飼いたちは、このようなことは何一つ知らなかったでしょう。ただ、彼らに理解出来たことがあったと思います。彼らに告げられた言葉は、彼らにだけ秘密に知らされたのではないこと。天使が告げる言葉は、民全体に、つまり皆に与えられた喜びとして、告げられたのだと。昔の王ダビデの出身の町ベツレヘムに救い主がお生まれになった。この方は皆の救い主なのだと。

では、救い主のしるしは何でしょうか。天使は言いました。「あなた方は、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」何と、救い主は飼い葉桶の中に寝ておられると。限りない天から降って、人々の中に。王宮の中にではない。整えられた文化的な施設の中にではない。貧しい人々の塵芥(ちりあくた)の中に。これこそ、神の御心。人は見かけで人を見ることしかできなくても、神はそうであられるはずがない。こう天使が宣言したとき、思いがけない賛美が起こります。天の大群、きらめく満天の星座が天使と共に高らかに賛美したのです。

神はどんなに人を愛しておられることか。悲しむ人、傷む人、苦しむ人、悩む人を。罪の奴隷となり、人の支配に踏みにじられた魂をどんなに救おうとしておられることか。それは、何と愛する神の御子を世に降らせるほどに。しかも最も低くされた人々、低くされても黙々と耐え忍んでいる人々のところに。自ら幼子となって。飼い葉桶の馬草の中に、家畜の匂いと共に。ああ、神はどんなに人を愛しておられることか。神はどんなに褒め称えられるべきか、と、天の万軍は歌ったのではないでしょうか。

今日読まれたイザヤ書52章7節も高らかに歌います。「いかに美しいことか、山々を行き巡り、良い知らせを伝える者の足は。彼は平和を告げ、恵みの良い知らせを伝え、救いを告げ、あなたの神は王となられた、とシオンに向かって呼ばわる。その声に、あなたの見張りは声をあげ、皆共に喜び歌う。彼らは目の当たりに見る、主がシオンに帰られるのを。歓声をあげ、共に喜び歌え、エルサレムの廃墟よ。主はその民を慰め、エルサレムを贖われた。」良い知らせを伝える者の足は美しいと謳われる。褒められているのは足ではありません。良い知らせが美しいから、伝える者も美しくされる。その足、その労苦全体が美しくされるのです。良い知らせは何の知らせか、もう私たちは知っています。それは救いを求めている者への知らせです。

この知らせを待ち望む者すべてに平和が告げ知らせられます。なぜなら、救い主がその人々の王となってくださるからです。その声を、その知らせを今か今かと待っていた見張りがいます。教会は見張りの務めが与えられています。救い主の来られるのを待ち望み、いち早く告げ知らせ、皆共に喜び歌うために、教会は世の終わりまで建てられます。

ところで、ルカ2章14節に歌われています。「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心にかなう人にあれ。」私たちの地上の生活は、常に競争があり、人々は上を上をと目指して頑張っております。祝福がそこに与えられていると、工夫も進歩も生まれていることは、だれもが認めるところであります。しかし、もし他に与えられるべき栄誉を奪って自分のものとするなら、その悪行は良い結果を生まないようにでしょう。さらに、すべては神から与えられていることを否定し、自分に栄光を与え、自分をほめたたえようとするなら、そこから、あらゆる争いが起こるのではないでしょうか。

日本の社会は二十世紀後半、平和が与えられ、人々は繁栄を楽しみましたが、その間にも多くの国々が、人々が戦争と貧困に苦しんできました。戦争は政治の世界のことであり、力を持たない私たちには、一度始まった流れを止めることなど到底不可能に思われます。しかし、身近なところで起こる小さな争いに対しては平和のために何かができるのではないでしょうか。テレビで近隣住民との騒音トラブルの報道を見て、考えさせられました。騒音を出して近所を悩ませている人は、実は周囲の住民に悪意を持たれているという被害者意識を持っているというのです。「恐怖のあまり、対抗措置として騒音を出している」という言葉を聞いて、国と国との間でも同じではないか。自分がやられるのではないかという恐怖心が募る時、戦争は起こるのではないかと思いました。

どの人も救いを求めています。ただ傲慢な人々だけが平和に関心がないのです。恐るべき傲慢は、戦争で金儲けしようということかもしれません。しかし神は御子を遣わして、この方によって御心にかなう人々を救いに招いておられます。平和の王、イエス・キリストに招いておられるのです。御心に適う人々とはだれでしょうか。貧しい姿で世に来てくださったイエス様の低さに躓くことなく、「この方こそ、私の救い主です。私は長い間神さまに背いて生きていましたが、この方、イエス・キリストによって神さまが私を愛し、私の罪を赦してくださったことを私は信じます」と告白する人ではないでしょうか。

平和の主イエス・キリストは「敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい」と言われました。私たちは自分の貧しい心を知っています。私たちの力では到底敵を愛することができない。迫害する者のために祈ることもできません。しかし、私たちが神に背いて敵となっていた時、キリストは私たちの罪のために死んで執り成してくださいました。キリストはこう祈られました。「父よ、彼らをお赦しください。彼らは自分が何をしているのか分からないのです。」私たちは自分の力では到底こう祈ることはできない者だと認めます。

しかし、だからこそ、私たちはキリストに結ばれて生きなければなりません。赦せない者を赦し、神の国に招き入れてくださった方を信じ、救いの約束に結ばれて行きましょう。2017年クリスマス。今は家族の平和のために祈るべき時です。また友人、社会の平和のため、日本の平和のため、そして全世界の平和のために祈るべき時です。わたしたちが熱心に祈り、多くの人々の救いが全世界で実現するように。御心に適う人々に平和があるように、と天使は歌いました。地にある私たちは、この願いを多くの人々の願いとするために、祈ろうではありませんか。祈ります。

 

恵みの主、天の父なる神さま

2017年のクリスマス聖餐礼拝を感謝し、尊き御名をほめたたえます。私たちは会堂に集められ、主の喜ばしい訪れをほめ歌いました。どうか私たちの背きの罪を赦し、御子の救いの恵みに固く結んでください。御子が尊い救いの務めをもって世に来てくださったことを私たちは知りました。御子によって救われた私たちを、与えられた命を主の喜び、主の栄光を映し出すために貴くお用いください。そしてこの小さな者らのまことに小さな働きを喜び用いてくださり、目の前の人々との交わりの中に平和を築くために、そして世界の平和のために、聖霊の神様によってを私たちをお遣わしください。

今日の恵みの聖餐を感謝します。ここに集う方々、まだあなたを告白する決意に至っておられない方を深く顧みてください。教会の群れ、主の体に結ばれる日を待ち望みます。主と共に歩み、主と共に喜ぶ者とならせてください。

本日、礼拝に参加できない方々をあなたが特別に顧みてくださることを信じ、祈ります。特にご高齢の方々、ご病気の方々を慈しみ、クリスマスの祝福をお与えください。本日の礼拝後の祝会、そしてクリスマス・イヴ礼拝が真に主に喜ばれるものとなりますように。参加する方々、そしてこのために奉仕するすべての方々をお支えください。

心から感謝し、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

主を待ち望む

聖書:イザヤ40章3-5節, マルコによる福音書1章1-8節

私たちはこの年も主イエス・キリストのご降誕を記念するクリスマスを迎えようとしています。救い主の到来は全世界が待ち望んでいることです。昔そうであったように、今も全世界が救いを求めているのではないでしょうか。一体。救いを待ち望まない人々が本当にいるのでしょうか。

旧約聖書の神の民に預言者たちは、長い間語りかけて来ました。彼ら預言者たちは、神の民でありながら、神の掟を守らない人々に、神の言葉を語り続けて来たのです。「主に立ち帰れ」と。神の掟を守り、神に捧げるならば、あなたがたは豊かな祝福を受けるだろう。そして、世界中の人々があなたがたを幸いな者と呼ぶだろう、と。しかし人々は、神に従っても、何の得もない。神の戒めを守って謙って歩いても何の利益があるだろうかと言いました。むしろ高慢な人々に従った方がいいではないか。彼らは悪事を行っても何の損もしない。むしろますます繁栄しているではないか。神を試みても罰を受けていないではないか、と。

私たちはどう思うでしょうか。この世界は貧しい者がますます貧しくなり、力ある者がその力を最大限に生かして富に富を積み上げ、力を増し加えているように見えます。戦争さえも、力を持つ者が起こしている。もっと力を持つために。そして戦いの最前線に出されるのは貧しい人々、戦争で家を失い、土地を追われるのも貧しい人々なのです。そのような人々と、多くの力を握り占めている人々とでは、命の値打ちが違うのでしょうか。権力者の命は金やダイヤモンド。そして貧しい人の命はゴミのようなものなのでしょうか。

主の憐れみが深ければ深いほど、主の怒りは火山のように高く、激しく燃え上がらないでしょうか。こうして戦争に次ぐ戦争が起こるのです。荒廃に次ぐ荒廃に人々は心も荒れ果てて行きます。それでも、地上に僅かな人々が残される。わずかな人々、それは主を畏れ敬う人々です。男であれ、女であれ、身分の高い者であれ、取るに足らない小さな者であれ、強い者であれ、力尽きて倒れる者であれ、主を畏れ敬う人々が残されています。そして、それも神の御業に違いありません。人は皆罪を犯して、神の恵みから遠く離れてしまっているので、神がその人を慈しんでくださらなければ、だれも神を仰ぎ見ることもできない。ですから、神を畏れ敬うことも、皆神から心にいただく賜物ではないでしょうか。

私たちもまた、こうして何の取り得もない者も、ある者も、こうして主の日の礼拝を守るために招かれました。いても立ってもいられないほど、忙しい時代に、また「何かしなければ明日が心配だ」という時代に、不思議にも私たちは神に従う者とされている。これこそは、私たちにとって福音の初めです。福音、神の喜ばしいメッセージを聞きましょう。

マルコ福音書は書き出しの言葉を次のように始めました。「神の子イエス・キリストの福音の初め。」キリストは「ダビデの子」と呼ばれたり、「アブラハムの子孫」と呼ばれたりします。キリストは、アブラハムの子孫である神の民の中にお生まれになって、神に背いている罪人を救ってくださる救い主でありますが、マルコが強調しているのは、この方は神の子であるということです。なぜなら、罪人を救うことは神の力でなければできないことだからです。神は背く者の傲慢不遜を大目に見たり、甘やかしたり、なさる方では決してないのですが、その一方、ゴミのように打ち捨てられている小さい者を、お見捨てになっておられるのではありません。預言者たちが繰り返し語っているように、神は「不遜な者を嘲り、へりくだる人に恵みを賜わる」方でありますから。

そこで、苦難の時に、何の希望も見いだせない時に、なお主を待ち望み、「あなたこそ主、正しくお裁きになり、私に落ち度があっても、どうぞ憐れんでお救いください」と祈り求める信仰こそ大切なのであります。神は荒れ野に使者を遣わすことを約束されました。荒れ野。わたしたちは、荒れ野というと、もちろん文字通りの厳しい気候風土で荒廃した場所を思い浮かべることもできましょう。しかし、むしろ荒廃しているのは、自然だけではなく、戦争によって、また人の強欲、傲慢、心無さによって破壊された自然や、農耕地や、建物なのではないでしょうか。さらに荒廃しているのは、人々の悪意に囲まれて、踏みにじられて、すっかり貶められてしまった心、自分の価値など全く見い出せないほど地に落ちた人間の魂の荒れ野ではないでしょうか。

神は悪事を決して見逃されない方であり、しかしまた、罪人を憐れんで救ってくださるために、私たちの思いをはるかに超えた恵みの業を備えてくださいます。この方が御子にこう言われたのです。「見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、あなたの道を準備させよう」と。そこで、神の子イエス・キリストの福音の初めに、語られるのは、キリストに先立って荒れ野に遣わされた使者。すなわち洗礼者ヨハネのことであります。

彼に与えられた使命は、救い主のために道を整えることでした。私たちの人生の荒れ野。そこにはいろいろな道があります。細い道、曲がった道、崖に沿った道、谷間の道、鬱蒼とした山中の道。救いに至る道はどこか、探すうちに迷路に入ってしまうかもしれない私たちの人生です。神から遣わされた者の声は、そのとき荒れ野に響き渡ります。その声は「主の道を整え、その道筋を真っすぐにせよ」と叫ぶのです。いろいろな道があるのです。しかし、主の道は一筋。それは救いに至る道です。その道を真っすぐにしなさい。

「救われるために何をしたらよいのですか。」それは複雑なことではありません。もったいぶって、「それはなかなか難しい」と言っている人がいます。ああでもない、こうでもない、とさんざん議論し、「あれをしなさい」、「これをしなさい」と勧めて人を引き回す人がいます。そうではない。そんなことは聖書には書いてないのです。主の道は真っすぐ、だれでも見出せる広い道に整えなさい、と命じられています。でこぼこもなくし、歩きやすくしなさいと言われているのです。

私たちは多くの人々が長命を生きる時代にいます。昔の人々と比較して、世の中何が変ったかというと、いろいろありますが、何と言っても多くの人々が長生きできるようになったことが100年前、200年前、500年前と全く違うところだと思います。昔の人は子供を沢山授かりましたが、育って成人になる確率は決して高くなかったと思います。戦争の危機に加えて、ペストのような疫病が突如猛威を振るったからです。宗教改革者ルターもカルヴァンも子供たちに先立たれました。そして本人は60代で亡くなりましたが、それでも長生きした方ではないかと思います。

自分はいつまでも生きられるわけではない、と思う時、私たちの心に一筋の道が与えられるなら、私たちは非常に幸いです。自分の救いのために最善の道を日々祈り、選ぶでしょう。また、自分が先立つ時に残される人々のために、最善の道を日々祈り、自分の力で出来ることはして、彼らのために真心を尽くすでしょう。それに対して、いつまでも生きられるという想定をするなら、一筋の真っすぐな道よりも、寄り道をしてみようと思うでしょう。面白いことの追及が最大の目的となり、迷路遊びに取りつかれ、ついに迷宮入りとなってしまわないでしょうか。真に残念なことです。

洗礼者ヨハネは、文字通り荒れ野に現れたと思われます。便利で華やかな都会ではなく、不便で生活も厳しい地方に生活しました。ヨハネの服装や食べ物については、預言者として禁欲的な生活を進んでしたのだと考えることもできますが、彼の生活ぶりはこの時代の農耕や牧畜をして生活する人々の生活と変わりなかったというかもしれません。ヨハネは人々に質素な禁欲的な生活を勧めようとしたのではないのです。ただ私たちもそうですが、立派な風貌の人が立派な身なり出で立ちで現れると、何となく偉い人のように思ったり、話を聞く値打ちがあるように思ったりするものです。しかし、ヨハネは普通の庶民の貧しい身なりをしていました。そしてそれにも拘わらず、人々が彼の許に集まるほど、ヨハネの宣教は力に満ちたものだったことが分かります。

彼は救いの道を真っすぐに整えます。救われるためにはどうしたらよいのか。ヨハネは罪の赦しを求めている人々に、悔い改めを迫りました。すなわち、「私は神さまに背いて罪を犯しました」と告白することを求めました。この告白を公に行った人々に、ヨハネは洗礼を授けたのでした。ですから、洗礼を受けるためにしなければならないことがある訳です。それは神と人の前で(公に、ということの意味です)罪を告白することです。こうして人々は彼の宣べ伝える言葉を受け入れました。その人々の数は、ユダヤの全地方とエルサレムの住民は皆、ヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けたと言われますから、本当に相当な人数になったと思われます。

人々は神から遣わされたヨハネを非常に尊敬したと思われます。神から遣わされ、神の御心をその通り人々に教える預言者。洗礼者ヨハネもその通りの忠実な人でありましたから、人々は彼を尊敬したことは言うまでもありません。牧師が一生懸命福音を宣べ伝えているのは、聞く人に、福音の中心であるイエス・キリストを心に受け取っていただくためであります。別の言い方をすれば、福音を聞く人が福音を通して、主イエスが自分を救いに招いてくださっていることを知るためであります。ところが、聞く人は、イエス・キリストが自分を招いておられると感じないで、○○牧師が自分を招いておられると錯覚してしまうことがあるのではないでしょうか。

バプテスマのヨハネもそのような間違いを心配していました。救いの道は神の子イエス・キリストの御名にこそあるのに、「ヨハネ先生は素晴らしい。救いはヨハネ先生の言葉にある!」と勘違いしてしまい、「この先生について行こう」ということになってしまうのではないか。洗礼者ヨハネはそのことを大変心配しました。そこで、彼は救い主について、次のように予言したのであります。「わたしよりも優れた方が、後から来られる。わたしは、かがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない。わたしは水であなたたちに洗礼を授けたが、その方は聖霊で洗礼をお授けになる。」

来るべき救い主、キリストは、力と地位において自分よりはるかに優れているので、ヨハネは一般的な表現(ここでは、「履物の紐を解く」という奴隷の仕事を例にとりました)を用いて、自分との差が絶大なものであることを教えました。そうしてヨハネは、キリストの栄光をほめたたえ、キリストに比べれば自分は無に等しいものだと述べているのであります。ヨハネがこのように証しした通り、教会の牧師も罪を告白する者に対して、形式として、目に見える形でバプテスマを授けるのです。これはキリストが自ら定められた聖礼典であるので、教会は聖餐式と同様に、この形式を固く守っています。しかし、この形式に表された内容、内実をお与えになる方は救い主、イエス・キリストその方であります。

ヨハネは宣言しています。自分は外的な(目に見える形のことです)バプテスマを授ける者に過ぎない。けれども、やがて来られるキリストは聖霊によってバプテスマを授けてくださる方なのだと。

今成宗教会は、長村牧師以後、今に至るまでの時代の記録を編纂しようとしており、他の教会の記念誌にも目を通して参考を得ております。それらを見ると、今80歳前後の世代の方々がお若い頃は、日本は戦後のキリスト教ブームがあり、多くの人々が洗礼を受けたようでした。時代は変わって行きます。しかし、主の体の頭であるイエス・キリストは変わることがありません。だからこそ、私たちがよろよろしてもグラグラしても、この方に救いの望みをかけることができるのです。本当に主の教会に結ばれる人々は、移り行く時代の牧師に、ではなく、変らない主の体に結ばれているのです。この恵みに感謝してクリスマスを迎えましょう。

 

 

主イエス・キリストの父なる神さま

尊き御名をほめたたえます。待降節第三主日の礼拝に私たちを呼び集めて下さり、ありがとうございました。この日も恵みの御言葉をいただき、讃美と感謝を捧げることができました。 クリスマスを迎えようとしているこの時、私たちの心と体と魂を、御子をお迎えするにふさわしく整えてください。日頃のあわただしい心、落ち着きのない考えを鎮め、感謝と祈りによって一週間を過ごすことができますように。

私たちの地上の命を永くしてくださり、主の恵みを証しする機会を日々与えてくださることを感謝します。どうか若い人々に、次の世代の人々に慰めと励ましと、生きる勇気と知恵の源であるあなたをイエス・キリストを通して紹介することができますように。

クリスマスの準備が沢山ございますが、奉仕者が限られた力を精いっぱい捧げております。どうかあなたが喜んで助けてくださいますように。健康を整え、クリスマス主日聖餐礼拝、祝会、そしてイヴ礼拝を捧げる私たちに、恵みを豊かにお与え下さい。多くの地域の方々の間に、あなたの御名が高く崇められますように。福音が宣べ伝えられますように。そして病気のため、ご高齢のため、礼拝に参加できない方々の上にもクリスマスの喜びと慰めをお与え下さいますように祈り願います。

最後に私たちの教会に集う者すべてのうちに、その背後にあるご家族のうちに、どうか福音の光が届きますように。

この感謝と願いとを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。