天の父よ、と呼びかける

聖書:イザヤ6316節、ヨハネによる福音書171-5

 主イエスさまの教えてくださった祈りは、神さまへの呼びかけから始まります。話し始める前に、聞いてもらいたい相手の名前を呼ぶということは大切です。私たちは誰に向かって話しているのか、はっきり意識することが必要ですが。そのことは、祈りにおいてはなおさらのことです。よく子どもが遊びながら、一人でぶつぶつ言っているのを見ます。時には大人も歩きながらぶつぶつ言っているのを見かけます。しかし、自分は一体だれに向かって話しているのか、考えを述べているのか、このことに気がつく人は幸いです。

なぜなら、私たちは心の中で話をしているうちに次第に後ろ向きな考えに陥ることがあるからです。「お前は駄目だ」という声や、人々の批判、陰口、悪口、そしりなどが、まるで耳元に語られるようにリアルに聞こえるならば、わたしたちは決して善い者との対話をしているのではないのです。ですからわたしたちが心の中で話す時、誰に向かって話しているのか、私たちの話を聞いている相手を知ることは非常に大切です。もし、私たちが悪魔に向かって話しているとしたら、いつの間にか邪な考えや、自分を破壊するような考えに陥ってしまうのは当然なのではないでしょうか。

わたしたちの考え、願い、不安などを、もし実際に人に聞いてもらうなら、相手は誠実な人でなければなければならないのです。わたしたちの弱さに付け込んで来るような者、また悪い道に唆すような人には、決してわたしたちの思いを聞いてもらいたくないものです。こう考えますと、人にも語ることを用心しているわたしたちの思いを、神さまに聞いていただくという時には、何よりも大切なことは神さまに対する信頼です。わたしたちはお祈りする時には、まず第一番に神さまが誠実な方であることを信じなければなりません。

イエスさまの弟子たちは、イエスさまが祈るのを見ていていました。人々に無くてはならない神さまの言葉を語り、救いの御業を行うことは、この世の勢力との戦いでした。そのために、イエスさまは夜を徹して祈り、ご自分の全てを神さまにゆだねておられた。弟子たちはそのことを知っていました。それで主の祈りを教えてくださいとお願いのでした。

そこでイエスさまは、祈りは何よりもまず、神さまに呼びかけなさいと教えられました。そして「天におられる父なる神さまと呼びかけなさい」と言われたのです。天とは何でしょうか。どこにあるのでしょうか。創世記第1章1節に「初めに、神は天地を創造された」とあります。しかしイエスさまの教えられた天とは、天地を造られた、その「天」ではありません。「天におられる神さま」と呼びかける天とは、神さまのおられるところを意味します。イエスさまは復活後、天に昇られたと、教会が告白する使徒信条。その告白の中で言われる天のことです。

天におられる神さまは、イエス・キリストの父なる神さまであります。そして、イエスさまは言われました。御自身の父である神さまのことを、「あなたがたも、わたしと同じように『わたしたちのお父さん』と呼びなさい」と。考えてみれば、これは何と驚くべきことではないでしょうか。何と恐れ多いことではないでしょうか。わたしたちは神さまのことを全く知らなかったのに、「天におられるわたしたちの父よ」と呼びかけることが許されたのです。

今日読みました旧約聖書、イザヤ63章16節を読みます。「あなたはわたしたちの父です。アブラハムがわたしたちを見知らず、イスラエルがわたしたちを認めなくても、主よ、あなたはわたしたちの父です。『わたしたちの贖い主』これは永遠の昔からあなたの御名です。」神さまはその昔アブラハムを呼び出され、祝福を約束されました。(創世記12章2節)「わたしはあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める。祝福の源となるように。」しかしイザヤ書の預言者の時代、アブラハムの子孫の国は荒れ果て、やせ衰え、人々は国を追われ、イスラエルの民はほんのわずかとなりました。

それは、神さまが約束をたがえたからではありません。逆に、イスラエルの人々が神さまに逆らい、その愛に背き、真心を踏みにじった結果なのであります。こうしてイスラエルの人々は諸国の中でも惨めなもの、見捨てられたもののようになりました。その時、預言者は立ち上がって人々のために神さまに訴えているのです。わたしたちは落ちぶれ、みすぼらしい民となってしまっているけれども、あなたはわたしたちの父ですと、神さまに告白しているのです。もしも、わたしたちの先祖であり、信仰の父であるアブラハムがわたしたちの現在の姿を見たら、驚きのあまり、「ああ、こんな惨めな、わずかばかりの人々がわたしの子孫なのか。そんなはずはない。」と叫ぶかもしれません。わたしたちのことを「そんな人々は全く知らない。私と関係ない」と言うかもしれません。

本当に信仰の父アブラハムのことを思えば、そういわれても仕方がない。アブラハムは主なる神さまに従って旅に出、人生の苦難を耐え忍びました。しかも自分のために耐え忍んだのではない。あらゆる人々のわがまま、身勝手に悩みながら、耐え忍びました。神さまの約束を信じて、約束されたものを自分の時代に受けなかったけれども、信仰を抱いて死にました。更にまさった故郷を、天の故郷を熱望していたからです。そのアブラハムと比べて自分たちの惨めさはどうだろう。神さまからいただいた豊かさに、繁栄に飽きたりて、得意になって、豊かに恵んでくださった神さまを忘れてしまった。わたしたちは真に恩知らずの民なのだ、とイザヤ書の預言者は知っているのです。

しかし、その上で、彼は神さまに訴えます。「主よ、あなたはわたしたちの父です。『わたしたちの贖い主』これは永遠の昔からあなたの御名です」と。このような罪深い者をお見捨てにならず、永遠の昔から、贖ってくださる神さま、わたしたちはあなたがそういうお名前を持っていらっしゃることを告白します」と。私たちはどうでしょうか。さんざん不信仰な人生を歩んで来た。でも、「私もそうだけれども、あの人はもっとひどいではないか」と言って、非難し合うのでしょうか。それとも、「今頃になって神さまに救ってくださいと言うほど、私は恥知らずではない」と言って、神さまに助けを求めないのが正しいのでしょうか。

しかし、預言者は訴えました。「あなたはわたしたちの父です」と。「あなたこそ、わたしたちの贖い主です」と。「あなたのお名前は、永遠の昔から変わることがありません」と。そしてこの訴えこそ、神さまの真のお姿、お名前を人々に指し示すこととなったのです。

イエスさまは地上で弟子たちと共に歩まれる間、み言葉の説教と驚くべき御業によって永遠の命がここにあることを証ししてくださいました。そして地上を去るときが近づいた時、弟子たちの前で声に出して祈られました。それが今日の聖書ヨハネ17章1節です。「イエスはこれらのことを話してから、天を仰いで言われた。「父よ、時が来ました。あなたの子があなたの栄光を現すようになるために、子に栄光を与えてください。」このように声に出して祈られたのは、聞いている人々が主の祈りによって教えられるためでしたでしょう。父よ、と祈る祈りによって、神さまがどんなに恵み深い方であるかを言い表されたのです。「あなたの子があなたの栄光を現わすようになるために」とは、神の子イエスさま御自身が、天の父なる神さまの栄光を現わすようになる」ということです。

神さまの栄光を現わすために、イエスさまは十字架に死なれました。イエスさまはすべての人の罪を贖うために、神さまの御心に従われたのです。このイエスさまを神さまは復活させ、罪の贖いを成し遂げられました。このことによって神さまの栄光が明らかになったのです。なぜなら、イエスさまによってどのように罪深い者にも悔い改めによって救いの道が拓かれたからです。イエスさまは天に昇られ、そこから、私たちを見守り、聖霊を注いで、私たちと私たちの教会を導いてくださっています。

このイエスさまが地上で弟子たちに教えられた祈りを、私たちも祈ることができるとは、本当にありがたい恵みであります。父なる神さまは、人間の父のように、子を愛し助けてくださる方です。また私たちの悪い行いをご覧になった時、それを裁き、罰してくださるのは、私たちを滅ぼさないためです。ただ天の父の恵み深さ、忍耐強さは人間の父とは比べものになりません。そのことを私たちはイエスさまによって知らされています。

今に至るまで、そしてこれからも地上に目に見える形で教会があることを私たちは知っています。そして地上の教会が正しく建設されるならば、それらは目に見えない一つの教会を指し示していることを私たちは信じています。教会は、主が私たちのために試練と苦難を通して、救いの道を開いてくださったことを証ししています。そこで私たちはイエスさまの父なる神を、あたかも本当の父であるかのように、「父なる神よ」と呼びかけることができるのです。

この呼びかけの言葉は、イエスさまの苦難と死を通して恵みによって救われたことを思うときに、改めて心の底から発することができるでしょう。心からの信頼と感謝をもって。そしてまた、私たちは天のお父さまと呼びかけるとき、神さまの前に本当に小さな子供のように立ちましょう。年齢も、職業も、何も関係なく、神さまの前にたちは幼子のようなものではないでしょうか。分別がある、知識がある、と思う人も、明日のことさえ分からない。また自分の正しささえ、本当には分からない。そんな小さな者に過ぎないのです。

これまでの私たちの歩みを振り返ると、私たちの教会の将来も、自分の将来も、だれも正しく予測もすることも予定することもできませんでした。ただ私たちは教会に集められ、共に礼拝し、共に祈ることができたからこそ、今日があることを思います。先々の事まで見通そうとすると、楽観的になれることはなかなか見い出せないことが多いのではないでしょうか。すると、自分だけ取りあえず助かろうとするのか、どこかもっと有利な立場を求めて動き回る人々は多いのです。そうして離合集散を繰り返すのですが、私たちはここに神さまが集めてくださったことを大切にして来ました。この群れはただの人の集まりではなかったからです。イエス・キリストさまが御自分の血によって贖い取って神の子とされた人々、すなわち教会だと信じたからです。

教会は建て物ではありません。人々がいるから教会なのでもありません。教会は信じるからこそ教会とされるものです。イエスさまの建てられた教会が、今もイエスさまが天から送ってくださる聖霊によって、教会とされているのです。聖霊は、私たちに来てくださって、私たちが主の祈りを祈ることができるようにしてくださいます。「天におられるわたしたちの父なる神さま、」と親しく祈ることができるのも、イエスさまの送ってくださる聖霊がわたしたちと共にいてくださるからに他なりません。

ローマ8章15-16節を読みます。284頁。「あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊こそは、私たちが神の子どもであることを、私たちの霊と一緒になって証ししてくださいます。」今日のカテキズム問56 「主の祈りは、どのような言葉で始まっていますか。そして答は、「『天におられるわたしたちの父よ』です。私たちは、イエスさまによって神さまの子どもとされたので、天におられる神さまを『父よ』と呼びかけることから始めます」です。主の祈りを与えられていること自体が限りない恵みでありますから、共に主の体の教会に連なり、父なる神さまを呼び求めて参りましょう。祈ります。

 

御在天の主なる父なる神さま

尊き御名をほめたたえます。一年で一番寒さの厳しい季節、インフルエンザも猛威を奮っている中、私たちを今日の礼拝に集めてくださり、み言葉によって罪の赦しをお知らせくださいました。集まることのできたわたしたちは真に小さな群れですが、背後に教会員は祈りを合わせております。集められた者も、集まることのできなかった者も、どうかあなたの恵みによって、私たちに豊かな慰め、励ましをお与えください。聖霊の神さまの助けによって病が癒され、弱り果てている者も、疲れている者も、あなたの平安で満たされ立ち上がって行くことができますように。

主よ、私たちは2019年度新しい先生方を招聘するべく道が開かれましたことを思い、真にあなたのお導きを感謝申し上げます。どうか私たちの小さな力を励まし奮い立たせて善き準備をなすことができますようお助け下さい。来週の長老会議には藤野先生ご夫妻にご臨席いただき、準備を始める予定ですが、御心に適って進めることができますように。長老会の働き、また教会学校の働きを祝し、御力をお与えください。

また、記念誌の発行までの道筋をも整えていただき、真に感謝致します。この教会が東日本連合長老会の中で共に学び、共に教会を形成する働きに加わって行くことができますように。私たちの教会を慈しんで励ましてくださる主が、共に歩む東日本の諸教会とその長老信徒の皆様を豊かに慈しみ励ましてください。

皆様のご健康を祝し、整えてください。この厳しい季節の困難の中にある全国の教会を励まして助け導いてください。

この感謝、願い、尊き主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 

主の祈り

聖書:詩編1211-8節, ルカによる福音書11110

 私たちは昨年12月30日の礼拝から、主の祈りについて学び始めました。主の祈りは、使徒信条と十戒と共に、三要文と呼ばれます。それは、三つの重要な文言、言葉という意味であります。私たちは今、成宗教会に集まり、全国、全世界の教会にも人々が集まり礼拝を守っております。ただ教会に集まっているというだけで、全世界の教会が同じキリストを信じていることにはなりません。そうではなくて、教会は代々同じ信仰の言葉を受け継いで来たからこそ、同じ信仰に立っていると言えるのです。

その信仰の言葉が三要文の中に示されています。そして私たちはキリスト教の教えを知らせる求道者会や洗礼志願者の会では、使徒信条、十戒、主の祈りを教え、そして学んでおります。私自身は2006年に東部連合長老会に個人加盟しましたが、それはちょうど全国連合長老会日曜学校委員会がカテキズム教案を出版し、カテキズム信仰問答によって教会学校の教育を行うという取り組みが始まった時でした。

それから12年が経ち、今年も日曜学校研修会が開かれました。講師に立たれた富田林教会の兼子洋介先生は、私が加盟したとき、一緒に初任者研修を受けた若者であったことを思い出しました。東神大出立てのまだ学生の雰囲気がいっぱいに見えた先生が、立派な指導者となって教案の出版について苦労や、問題点、また将来の希望に向かって東日本の教会に呼びかけている様子を拝見し、私はうれしく感慨深い気持ちでいっぱいでした。若い教師がやがて中堅となって教会を支えて行く。しかも自分の教会について語るときも、他の教会について語るときも、同じ熱意と感謝を込めて呼びかけるのを見ることは、どんなに喜ばしいことでしょうか。カテキズムの学びは子供だけの学びではない。教える教師も教わる子供も、大人も共に学び、同じ神さまに対する同じ信仰を伝えて広めていくのだという実感がわきました。

私たちの教会の2018年度の標語が週報に掲げられています。(エフェソの信徒への手紙第3章18-19節です。)「また、あなたがたがすべての聖なる者たちと共に、キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解し、人の知識をはるかに超えるこの愛を知るようになり、そしてついには、神の満ちあふれる豊かさのすべてにあずかり、それによって満たされるように。」この聖句の意味するところが、カテキズムの学びの中に正に現れているのではないでしょうか。

そういうわけで、私たちは教会の信仰を学び、いつでもどこでも確信をもって教会の信仰を生き、伝道する者と成長するために、大人の礼拝でもこのように、三要文の学びを続けています。さて、12月30日に学んだカテキズム問52は次のようです。カテキズム問52、 「なぜわたしたちは祈るのですか。」そしてその答は、「神さまがわたしたちに祈ることを求めておられるから」でした。人間は神さまの似姿に造られた者ですから、神さまの呼びかけに応えるのが本来の喜びに満ちた姿なのです。次に問53を学びました。それは、カテキズム問53、「わたしたちが祈るとき、どのような恵みが与えられますか」という問いでした。その答は、わたしたちが神さまに近づき、親しく語り合う恵みが与えられるのです。神さまが近くにおられることは大きな喜びです。キリスト・イエスさまが私たちの住むこの世界に近くいらしたのは、私たちの罪を赦し、神さまの子とさせるためでしたから。この恵みの中で、わたしたちは既に罪赦されていることを思うとき感謝と喜びを忘れません。

そして、先週のカテキズム問54は、「祈るときに大切なことは何ですか」でした。私たちに大切なことは神さまに対する信頼です。「神さまだけが最も良いものを与えてくださることを信じて感謝し、熱心に求めること」が大切なのです。このように、私たちには神さまに向かって祈りが必要なこと、また祈りの恵みや祈るときの心構えについて、これまで学んできました。では具体的に、私たちはどのように神さまに祈ったらよいのでしょうか。それが本日の学びです。

主イエスさまが弟子たちに祈りを教えられたことはマタイとルカの二つの福音書に伝えられています。本日はルカ11章を読んでいます。1節です。「イエスはある所で祈っておられた。祈りが終わると、弟子の一人がイエスに、「主よ、ヨハネが弟子たちに教えたように、わたしたちにも祈りを教えてください」と言った。」イスラエルの人々の社会は神さまを知らない社会ではありません。皆が聖書に啓示された神さまを信じて従う神の民だったはずです。それなのに、弟子たちがイエスさまに祈りについて改めて教えてくださいとお願いしている。私たちは何となく意外な感じがするのではないでしょうか。

その当時エルサレムには壮大な神殿があり、人々は祭のたびにエルサレムに大勢、国外からも集まっていました。祭司が香を焚き、犠牲の献げ物が屠られ、献金や十分の一の献げ物が捧げられて、立派な儀式が行われたことでしょう。しかし、そのような整った儀式の礼拝と、個々人の祈りとはかけ離れてしまっていたのかもしれません。形は整い、人々の目や耳を奪うほど美しいとしても、人々は心に何と祈って良いのか分からなかった。だからこそ、主イエスさまの前に現れた預言者ヨハネは、堕落してしまっていた礼拝儀式ではなく、「悔い改めて洗礼を受けなさい」と宣べ伝えました。そのヨハネが弟子たちに祈りのために指導していたのは当然のことであったかもしれません。

それではイエスさまの弟子たちはどうだったでしょうか。「洗礼者ヨハネが弟子たちにお祈りを教えているらしい。」「じゃあ、私たちもイエスさまに教えてもらおうではないか」というようなことだったのでしょうか。マルコ福音書には主の祈りについての記述はありませんが、1章を見ますと、イエスさまに呼ばれた弟子たちが、イエスさまに付き従って伝道の生活を共にした様子が見えてきます。21節から見ますと、イエスさまは安息日に会堂に入られ、み言葉を教え始められました。すると汚れた霊に着かれた人が、説教を遮る。「ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか」と。イエスさまの前に立ちはだかる悪霊に、イエスさまは「黙れ。この人から出て行け」と一喝され。追い出されました。

また弟子のシモンとアンデレの家に行くと、イエスさまは熱を出して寝ていたシモンの姑の手を取り、姑はすぐに癒されました。日が沈み夜になって安息日が終わりました。その時を待っていたかのように、人々は病人や悪霊に取りつかれた者を皆、イエスさまのところに連れて来たというのです。弟子たちはイエスさまがいろいろな病気にかかっている大勢の人々を癒すのを見ていました。また、多くの人々から悪霊を追い出されるのも見ました。それはどんなに悲喜こもごもの大騒ぎであったことか、決して十分に想像することができません。言ってみれば野戦病院さながらの光景だったのではないでしょうか。

イエスさまは地上に在って私たちと同じ人間であられ、肉体の限界の中を生きておられましたから、このような大騒ぎの伝道の活動に、イエスさま御自身お疲れにならないはずはありません。まして弟子たちはイエスさまの周りに押し寄せて来る人々の応対に疲れ果てて、仕事が終わると泥のように眠ったに違いありません。しかし、朝早く暗いうちにイエスさまは起きて、人のいないところに行ってお祈りをしておられました。弟子たちは起きて、イエスさまがいないのに気付き、さあ、どちらへ行かれたかと捜し回る、という生活の様子が分かります。

イエスさまの弟子たちは、このようなイエスさまのお姿を見て、何を求めたでしょうか。それは祈りでした。彼らは病人を癒す技術を尋ねたのではありません。悪霊の追い出し方を教わろうとしたのではありません。確かに弟子たちはイエスさまのご復活後、そのような力をも与えられました。しかし、彼らはイエスさまの弟子としてなくてはならないものは何かを理解したに違いありません。イエスさまに従う者はイエスさまの祈りを知らなければならないと思ったのです。イエスさまの祈りを知りたいと思ったのです。あのように心を込めて人々に向き合い、人々の苦しみ、悩みの根本を見極め、人々を縛り付け、がんじがらめにしている悪の力、悪霊の支配、神さまに敵対する勢力に立ち向かうイエスさま。その力の源は祈りにあると思わずにはいられませんでした。だからこそ、疲れ果てて倒れ込むような夜も、神さまを仰ぐために祈りへと立ち上がるお姿があることを、弟子たちは知っていました。

こうしてイエスさまが教えてくださった祈りについて、私たちは順番に学んで参ります。主イエスさまは弟子たちに祈りに用いる言葉を細かく規定したのではありません。そうではなくて祈るべき内容について教えてくださいました。すなわち、わたしたちの願いや祈りの目的が何か、何でなければならないかということのみを指摘しておられるのです。主の祈りは、六つの部分から成り立っています。それは六つの願いです。この願いによって神さまに求めることが許されている、その内容が私たちに示されました。まず、「父よ、御名が崇められますように。御国が来ますように」が最初の三つです。これらは神の栄光に関するものです。後の三つは「私たちに必要な糧を毎日与えてください。私たちの罪を赦してください、私たちも自分に負い目のある人を皆赦しますから。私たちを誘惑に合わせないでください」で、これらの祈りはわたしたちの救いのために必要なものです。

私たちはちょうど去年十戒を学びました。それで神の戒め、律法が二枚の板に分けられてあることを思い出す方もいらっしゃると思います。第一は神の栄光を讃えるための戒めでありました。そして第二は隣人に対する愛の戒めであります。祝福されて生きるために、神を愛し、人を愛しなさいと命じられているのであります。この祝福は永遠の命に至る祝福であります。この戒めを守ることのできない罪人を救うために、イエスさまが地上に人となり、人の罪を贖って、罪人に救いの道を開いてくださいました。

そのイエスさまが教えられた祈りも、十戒のように、まず第一に神の栄光を讃えるための願いで始まりました。まずこの願いを祈り求めてこそ、私たちは正しい方法で祈る準備が出来たことになるのです。私たちは、すぐに自分の願いにとびつく者ではないでしょうか。すぐに自分の損得を計算するのではないでしょうか。私たちは「隣人を自分のように愛しなさい」との目標から程遠い人間なので、祈りの目標も、目的も真に貧しいと、さもしいものになりかねません。しかし、こういう私たちが自分に関わることだけを考え、はるかに重要である神の国のことを考えないならば、私たちの祈りは主イエスさまのお心とは程遠いものになるでしょう。

イエスさまが朝暗いうちに人里離れたところで祈られた祈りを思います。詩編121篇の祈りは、神さまを礼拝するために神さまの家に向かう人の歌です。都に上る歌。「目を上げて、わたしは山々を仰ぐ。わたしの助けはどこから来るのか。わたしの助けは来る。天地を造られた主のもとから。どうか、主があなたを助けて、足がよろめかないようにし、まどろむことなく見守ってくださるように。見よ、イスラエルを見守る方はまどろむことなく、眠ることもない。主はあなたを見守る方、あなたを覆う陰、あなたの右にいます方。昼、太陽はあなたを撃つことがなく、夜、月もあなたを撃つことがない。主がすべての災いを遠ざけて、あなたを見守り、あなたの魂を見守ってくださるように。あなたの出で立つのも帰るのも、主が見守ってくださるように。今も、そしてとこしえに。」

この歌には、神さまをほめたたえる讃美が溢れています。詩人は自分を救ってくださる神さまをどんなに信頼していることでしょう。神さまは、信頼して従う者を必ず助けてくださる。必ず救ってくださる。イエスさまも真の人としてこの信頼を神さまに捧げてくださったのです。そしてよろめく足で世の旅を続ける私たちを守るために、すべての災いを遠ざけて救うために、御自ら私たちの贖いとなってくださいました。主をほめたたえましょう。

 

恵み深き天の父なる神さま

尊き御名を讃美致します。あなたの憐れみが全世界の主に従う教会の群れに注がれますように。そしてどんな苦難、困難の中にあっても、私たちの救いのためにすべてを忍んで十字架の贖いを成し遂げてくださった主イエス・キリストを思い、感謝を捧げます。わたしたち心新たに主の教えに従う者となりますように。

本日はどのように祈れば良いか、について教会の信仰を学びました。主が教会に教えてくださった祈りをよく理解し、生涯の宝として真心を込めて祈るようにお導きください。先週は藤野先生ご夫妻より、1月8日に成宗教会長老会からお送りした招聘状の受諾状をいただきました。すべてが御旨に従って導かれたことを信じ、心から感謝を捧げます。全国にある多くの教会が少子高齢化の中で、困難を抱えています今、成宗教会は主の憐れみと励ましをいただいて後任の先生方をお招きし、広く長く地域連合長老会と共に交わりと学びをすることで、主の体の教会を形成するあなたの御業に仕えることができますように。

これから4月の新年度着任に向けて、新しい体制を整えることができますように、どうか長老会とそれを支える信徒の方々を励ましてください。藤野雄大先生、美樹先生に伝道者としての大きな志を与えられた神さま、どうか成宗教会が先生方をお迎えし、心を合わせて共に主の教会に仕え、共にあなたから豊かな祝福を受けることができますように、どうかお導きください。

先週の主の日に地上の生涯を閉じられた野方町教会員、桑原信子姉妹のことを覚え、あなたに感謝を捧げます。桑原姉はお病気の辛さを乗り越えて、全身全霊を以てこの教会の礼拝に奉仕してくださり、あなたに喜ばれました。そして私たち成宗教会には励ましと感謝を残してくださいました。桑原姉を励ましてくださった主よ、どうか私たちをも励まし、弱い時にも、あなたに愛されているこの愛に応えて喜んで奉仕する群れとならせてください。尽きない感謝と願い、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

祈りの格闘

聖書:創世記32章23-33節, ヨハネの手紙一 5章13-15節

 年の初めと言えば、普段はお祈りのことが全く話題にならない世の中でも、元朝参りから始まるお祈りに関心が集まる季節です。それにしても何気なくテレビを見ていると、マスコミは神社、仏閣の様子を映して一生懸命宣伝をしているように見えますが、このことも海外から観光客を呼ぶために貢献しているのでしょうか。あまりにも多くの人々があちらを拝み、こちらを拝んでいるのを見ているので、わたしたちはそういう様子にとても慣れてしまっております。日本の教会は平日だれでも自由に出入りできるように玄関を開放しているところは少ないと思いますが、教会の北側にあるお地蔵さんを拝むために立ち止っている人々を時々見ますので、教会も戸を開けておくと祈るために来る人がいるかもしれません。

しかし、このように神仏と称するものを何でもかでも拝む人々の祈りと、教会の祈りは全く違うのですが、わたしたち自身、その違いをどこまではっきりと意識しているでしょうか。わたしたちは思うのではないでしょうか。「家内安全とか、無病息災とか、わたしたちも願っているではないか。祈っているではないか。祈る気持ちはだれも一緒ではないか」と。そう思うのは、祈ることについて考えるときに、わたしたちは、まず祈りの内容から考え始めるからです。

本日の信仰問答は「祈るときに大切なことは何か」についてです。み言葉に聴きましょう。わたしたちが祈るときに何よりも大切にしていることは、祈りを聞いてくださる相手です。すなわち祈りを聞いてくださるのは真の神さまだけである、ということなのです。祈ること自体、相手が誰でもいいから四方八方頭を下げるという、まるで選挙の立候補者みたいなことをするのではありません。そうではなく、本当に祈りを聞いておられる方に祈るのです。真の神さまがおられる。そして良いものを与えてくださるのは真の神さまだけだと信じて祈ります。

そうすると、わたしたちにとって良いものが何か、それを本当にご存じなのも神さまだけ、と信じていることになりますから、わたしたちの祈りは、自分の願いを祈るだけでなく、それと同時に神さまにすべてをお委ねして行くことになります。わたしの願いはこれこれだけれども、すべてを御存じの神さまはきっと最良のことをしてくださる、と信じることができる。真にこれよりも平安なことはありません。

けれども、わたしたちの人生には、大きな試練に見舞われることがあります。自分の身に起こること。またそればかりでなく、それまであるのが当たり前であったものが突如、無くなってしまう、あるいは変ってしまうということは、わたしたちを危機的な状況に陥れます。その時、「わたしの願いはこれこれだけれども、神さま、どうぞ御心のままになさってください」と祈ることが、果たしてできるでしょうか。

今日、私たちは創世記32章を読んでいます。これは、アブラハムの子、イサクの子、ヤコブの物語で、ヨルダン川のヤボクの渡し場を渡ろうとしたときの不思議な出来事が描かれています。ヤコブは家族と共に旅をして、故郷の兄エサウとの再会を目指していました。彼は若い時、兄エサウの怒りから逃れるために故郷を去り、伯父の家で働く者となりましたが、この伯父も狡猾、また冷酷な人で、ここも平安な居場所はありませんでした。彼は厳しい仕打ちを受け、耐え忍んで20年、ついに故郷に帰る決心をしました。しかし、故郷の兄はそれを知ってヤコブに会いに出て来るというのです。

ヤコブはその夜、家族と召使いと家畜や持ち物すべてを川の向こうに渡らせ、自分は独り残りました。すると何者かが来て夜明けまでヤコブと格闘したというのです。ヤコブのこの目に見える格闘こそ、教会の人々が日々経験している祈りを象徴しているのではないでしょうか。なぜなら、私たちの試練の時も、私たちは正に神さまと格闘しなければならないからです。しかし、一体だれが神さまに逆らって立つことができるでしょうか。神さまと競争しようとすること自体傲慢で無謀なことではないでしょうか。

しかし、驚くべきことですが、また感謝なことですが、神さまは私たちがこのようにご自分に立ち向かって来ることを喜んでおられるのです。だからこそ、見えない方が、従って、立ち向かおうにも、立ち向かうことなどできない方が、こうして見える姿、(夜の暗闇の中でしたが)人のような姿でヤコブと格闘するために現れたのです。わたしたちはこのように神さまの力によらなければ、助けによらなければ、神さまと戦うことなど決してできないのです。神さまはこの戦いへとわたしたちに挑戦し給うのです。「さあ、かかって来なさい」と無言で挑戦してくださるのです。そして、それと同時に、神さまはわたしたちが抵抗して戦う手段を私たちに備えてくださるのです。これは不思議な戦いです。神さまはわたしたちと戦うと同時に、わたしたちのために戦ってくださるからです。

これが祈りの格闘です。要するに神さまは、わたしたちと片方の手で戦いながら、その間に、もう片方の手でわたしたちを守ってくださるというやり方で格闘を行ってくださいます。神さまは、いわば左の手ではわたしたちに敵対して戦い、右の手でわたしたちに味方して戦ってくださり、その結果は、わたしたちがしっかりした力を与えられて試練を克服できるようにしてくださるのであります。このような祈り。このような祈りを神さまは聞いてくださるのではないでしょうか。

32章26節。「ところが、その人はヤコブに勝てないとみて、ヤコブの腿の関節を打ったので、格闘をしているうちに腿の関節がはずれた。」ここにヤコブの勝利が描かれています。しかし、この勝利は彼に傷を負わせずには、得られなかった勝利でし。前にお話したように、ヤコブと戦うために天使の姿で現れているのは、創世記がわたしたちに理解させるために人間的な表現を取っているからです。そうでなければ人間が神さまと格闘するということは表現できないからです。こうしてヤコブは闘いに勝利したのですが、天使は彼の腿を打ったので彼は生涯足が不自由になりました。しかし、この不自由さは彼の信仰の勝利のしるしとなりました。そして、このしるしによってすべての信仰者は自分の受ける試練において祈り、勝利を得ることができることが明らかになったのです。

祈りが聞かれるということの奥の深さを思うことができるならば幸いです。私たちは祈りの格闘をし、勝利を得るならば、その喜びはどのようなものでしょうか。しかし、喜びのあまり得意になって、有頂天になって神さまを忘れるようなものでしょうか。それはちがうでしょう。神の力は私たちの弱さにおいて完全なものとなります。というのは、本当に救われた者の喜びは、同時に私たちを謙虚にさせるものですから。27節です。

「もう去らせてくれ。夜が明けてしまうから」とその人は言ったが、ヤコブは答えた。「いいえ、祝福してくださるまでは離しません。」ヤコブは祝福を求めました。私たちは礼拝の最後に牧師の祝祷を受けますが、本当に私たちを祝福するのは、神さまだけにあるご性質なのであります。この神さまのご性質を職務としていただいているので、牧師は神の言葉を説教し、また人々を祝福することができるのですし、そうしなければなりません。私たちはこのことから教えられることがあります。それは、あれやこれやの具体的なことを祈ることはもちろん良いのですが、何よりも祈らなければならないことは、神さまの祝福、すなわち聖なる、神さまだけがお与えになることができる恵みをいつも求めることなのです。それは、具体的なあれこれの願い事、無病息災など祈って、それが叶えられた途端に、神さまから遠ざかり、眠りこけたような人生を送るよりもはるかに価値あることではないでしょうか。

祈りの格闘にご臨在される神さまを、聖書はヤコブの物語に証しします。わたしたちは神がご臨在されることを感得しない限り、得意になって自分に満足しているものです。そしてこのことは、人間が地上のことに傾倒している時、愚かにも自分を誇っている空想の命にすぎないのです。新約聖書、ヨハネの手紙一5章13節は語ります。「神の子の名を信じているあなたがたに、これらのことを書き送るのは、永遠の命を得ていることを悟らせたいからです。」教会はもちろんまだ福音を知らない人々に伝道をしているのですが、決してそればかりではありません。既に信仰を告白し、洗礼を受けて教会に連なっている人々にも、教えを広め続けているのです。なぜなら、わたしたちの信仰は日々成長して行かなければならないからです。一層堅固で確実な信仰を持って、永遠の命に確実に与ることをわたしたちは目指しています。

そのためにヨハネの手紙が勧め、戒めたことは、このことです。キリストの他に永遠の命を求めてはならない。力を尽くしてキリストの恩恵をたたえ、讃美し、彼らがこの恩恵に心満たされて、もはやそれ以外の何も欲しないように。ここでわたしたちはカテキズムの今日の問に立ち帰りましょう。問54 「祈るときに大切なことは何ですか。」そして、その答は「神さまだけが最も良いものを与えてくださることを信じて感謝し、熱心に求めることです。」教会はイエス・キリストによって神さまの真実のお姿、ご性質を知らされました。イエスさまによって永遠の命をいただく希望を信じたのです。ですから、「あちらを信じれば良いものがもらえるかもしれない」「いや、こちらにもお願いすればもらえるかもしれない」という祈りでは決してない、ということです。

また、真の神さまならわたしたちの願いを皆叶えてくださると思うことも正しくありません。ヨハネ一、5章14節。「何事でも神の御心に適うことをわたしたちが願うならば、神は聞き入れてくださる。これが神に対するわたしたちの確信です。」なぜなら、私たちは本当に自分に何が幸いなのか、良いことなのかを理解していないのですが、神さまは最も良いことを知っておられ、私たちが信頼するならば、それを実行に移してくださる方だからです。ヨハネの手紙は神さまに対する確信について、それがどこにあるかを教えるのです。確信は、キリストを信じて大胆に祈り求めれば与えられるのだと。

イエスさまは言われました。「わたしは道であり、真理であり、命である」と(ヨハネ14章6節)。真にイエス・キリストこそは信仰の本来の目的です。ですから、イエスさまのお名前を通して、祈ることを実践することこそ、わたしたちの信仰の訓練であり、また試練でもあるのです。祈りが聞かれるということは、本当に信頼して大胆に祈るのでなければ、実感することができないからです。そして、イエスさまによって伝えられた天の父の御心を日々深く知るように努めることがなければ、本当に父、御子、聖霊の神さまを信頼することはできないのです。真に不信仰な世に在って、わたしたち自身も確信に乏しい信者であっても、それでも世界中に教会が建てられ、み言葉が伝えられ、祈りがささげられている現実を見る時、神さまの憐れみと忍耐が、どんなに世界を覆っているかを思わずにはいられません。

私自身は戦争のない真に豊かな時代を70年生きましたが、それでも人々が老いと病と死に苦しんでいる有様を見、ここに神さまの悲しみと救いの熱意を感じて献身しました。自分自身50年生きて後の献身でしたので、ほどなく高齢者の列に加えられました。教会は今、目の前にいるわたしたちで成り立っているように見えるのは無理もないことですが、実は過去の信者の信仰の恵みが祝福されているからこそ、後に続いて行くものです。それぞれの時代にそれぞれの信者に多くの試練があったでしょう。しかし、共に祈った所に教会が残りました。祈りの格闘があった所に、大胆に祈るところに信仰の確信が与えられました。

今、成宗教会は後任の先生方をお迎えしようとしています。同じ信仰告白によって立ち、同じみ言葉の説教によって聖礼典によって教会を建設しようという志を以てお出でになります。お若い教師の方々をお迎えするために、祈りをもって、感謝を捧げて、備えましょう。主が私たちの必要を満たしてくださることを信じて。祈ります。

 

主なる父なる神さま

御名をほめたたえます。本日は祈りについて学びを進めることができ、感謝です。成宗教会に祈りがあり、あなたの憐れみと恵みがありましたので、教会はこの地に立ち続けることができました。多くの人々がここで洗礼を受け、礼拝を守りました。今、教会は東日本連合長老会の一員となって共に学び、教えを受けていますことを感謝します。また8代目の私の退任の後、新年度には新任の教師の先生方を迎えようとしております。藤野雄大先生、美樹先生のご健康とご準備の上にあなたの恵みが豊かにございますように。

また、どうかこの時に私たちを励まし、あなたに感謝を捧げる者とならせてください。高齢の教会員が礼拝に足を運べなくなって改めて、礼拝に心を向けて祈っておられます。どうかすべての教会員が忙しい生活の中で礼拝を守り、み言葉を聴くことを何よりも大切なこととすることができますように。日曜日に休めない仕事の方が増える中でも、神さま、み言葉なるキリストに従うために、すべての教会員がこの志を持ち、そのために祈りを篤くすることができますように、助けてください。そのことによって、主よ、何よりも礼拝を大切にすることによって私たちが次の時代の先生をお迎えすることができますように道を開いてください。

教会長老会の働きを感謝します。教会記念誌編集の歩み、また会堂の整理整頓の歩みが導かれ真に感謝です。どうか長老の方々の健康が守られ、ご家庭が整えられますように。新しい先生方と心を合わせて奉仕する長老、信徒となりますように励まし、また新たに起こしてください。寒さの厳しい季節ですが、教会に連なる兄姉、求道者の方々の健康と生活が守られますように。

すべてのことを感謝し、御心のままに導かれるようにと祈りつつ、この感謝、願い、主イエス・キリストの御名によって御前にお献げします。アーメン。

主において常に喜べ

聖書:ネヘミヤ記15-11節, フィリピの信徒への手紙447

 主の年2019年、新しい年の歩みが始まっております。この年はどのような年になるのか、人々の関心は経済の動向、また政治や社会の動向に向けられていることでしょう。そうすると、明るい見通しが立つという話、楽観的な見方は出て来ないようです。むしろ、不思議なほど長く続いた世界的な好景気が一転するとか、貿易戦争が激化するとか、難民、移民政策が内向きになり、世界中で自国の利益第一主義が支配的になる結果、利害の対立は経済戦争にとどまらなくなるのではないか、等々、心配の種が尽きない年のようです。

しかし、私たち成宗教会は、1940年の創立以来、どのような時代にも主の日に集まり、礼拝を守って参りました。この国がどの外国を敵に回して戦っていた日々も、昨日の敵が今日の友となった日々にも、変ることなく頼る者を救ってくださる主イエス・キリストによって、全地の主なる父なる神様を礼拝して来ました。ある時は互いに敵となった民族もあり、またある時は味方となった民族もいます。私たちの信頼する神さまは全世界どこに行っても一人の神さまとして崇められます。ですからこの神さまを信頼する人々は全世界に在って、同じ主キリストを頭と仰ぐ唯一の主の体の教会に結ばれているのであり、このことは真に大きな恵みであります。

この恵みのために、私たちは年の初めの主の日に、まず礼拝から一年を始めることができたのです。そして先週から成宗教会は祈りについて学びを始めました。私たちが信仰問答カテキズムによって学びました2018年12月30日の問は、「なぜわたしたちは祈るのですか」でした。そしてその答は、極めて単純明快なものです。なぜなら、「神さまがわたしたちに祈ることを求めておられるから」だから私たちは祈るのです。そして、続いて今日はカテキズム問の53です。その問は、「わたしたちが祈るとき、どのような恵みが与えられますか」というものです。つまり、祈ったら神さまから恵みが与えられるということです。だから「祈りなさい」と勧められているのですね。

今日は祈りの恵みについて教えられたいと思います。教会の幼稚園や保育園では、小さい子どもたちにお祈りを教えます。すると子どもたちは喜んでお祈りしている。そんな様子を目の当たりにしたものです。しかし、大人になるとなかなか祈りができない、という話は前回もしました。どうしてでしょうか。今日読みました旧約聖書はネヘミヤ記1章です。ネヘミヤは紀元前5世紀にペルシャのアルタクセルクセス王に仕えていたユダヤ人の指導者です。彼は戦争によって滅ぼされたユダヤ人の国から奴隷として遠くバビロンへ捕え移された人々の子孫でありました。よく言われる日系何世とか、在日何世と言う表現を使えば、ネヘミヤは在ペルシャ3世あるいは4世ぐらいのユダヤ人だったでしょう。

その彼が祖父か曽祖父の故郷エルサレムについて最近の様子を聞いた時、彼は大変なショックを受けました。あの忌まわしい敗戦と破壊から百何十年も経っているのに、今だに都エルサレムは荒れ果てて悲惨な状態にあるというのです。ネヘミヤは『座り込んで泣き、幾日も嘆き、食を断ち、天にいます神に祈りをささげました。今日の聖書箇所は彼の祈りの内容です。とは言え、私たちは少し不思議に思うのではないでしょうか。ネヘミヤの先祖はバビロンに連れて来られてから、既に長い年月が経ち、もうネヘミヤはエルサレムを全く知らなかったでしょう。そして彼の家はペルシャの王侯に用いられ、高い身分にまで取り立てられて繁栄していました。なぜ彼はエルサレムの惨状にこれほどまで心を痛めたのでしょうか。断食をしてまで祈りをささげたのでしょうか。

それは彼に呼びかけがあったからなのです。秘かな呼びかけがネヘミヤの魂を揺さぶりました。普通なら、自分の先祖にかかわる遠い昔のこと、今は知っている人もいないような遠い世界と思うはずなのに、彼はそう思わなかった。大変心を痛め、悲しんだ。その痛み、その悲しみは、実に神さまからの呼びかけであったのです。神さまの秘かなご計画によってネヘミヤは呼ばれました。エルサレムのために何かの働きをするように召し出されていたのです。だから、彼は嘆き悲しんだ末に祈り始めたのでした。このように、祈りは私たちの目から見れば、自発的なものですが、神さまからの見えない秘かな呼びかけがあるのです。そして、わたしたちの祈りは、神さまからの呼びかけに応えるものなのです。

わたしたちはそれぞれ自分の計画があるでしょう。今年はあれをしたい、これをしたいと。ああなるように、こうなるようにという願いであります。しかし、神さまには神さま御自身のご計画があります。そしてそれは私たちの思いを遠くはるかに超えたご計画なのであります。イザヤ55章8節、9節。「わたしの思いは、あなたたちの思いと異なり、わたしの道はあなたたちの道と異なると、主は言われる。天が地を高く超えているように、わたしの道は、あなたたちの道を、わたしの思いはあなたたちの思いを高く超えている。」(1153頁)

ネヘミヤは神さまの霊に導かれて、願い求めます。神さまから秘かに与えられた務めを果たすために、今まで思いもよらなかった志を願い求めたのです。このようにしてネヘミヤは廃墟の復興の先頭に立ちました。しかし、彼はそれを実際行動から始めたのではありません。彼の行動に先だったのは祈りでした。しかもその祈りは、願いではなく、懺悔から始まりました。彼は祈りました。「わたしたちはあなたに罪を犯しました。私も、わたしの父の家も罪を犯しました」と。人が祈るためには、神さまに近づかなければなりません。しかし神さまから遠く離れているわたしたちは、どのようにして神さまに近づくことができるでしょうか。先立つ祈りは懺悔の祈りです。神さまに背を向け、好き勝手な生き方をして来たことを神さまはご存じなのですから。すべてをご存じの方に悔い改めの告白を捧げることなしに、わたしたちはどうして親しく語りかけることなどできるでしょうか。

申命記30章をご覧ください。(328頁)神さまはモーセによって、次のように語られました。1-4節。「わたしがあなたの前に置いた祝福と呪い、これらのことがすべてあなたに望み、あなたが、あなたの神、主によって追いやられたすべての国々で、それを思い起こし、あなたの神、主のもとに立ち帰り、わたしが今日命じるとおり、あなたの子らと共に、心を尽くし、魂を尽くして御声に聞き従うならば、あなたの神、主はあなたの運命を回復し、あなたを憐れみ、あなたの神、主が追い散らされたすべての民の中から再び集めてくださる。たとえ天の果てに追いやられたとしても、あなたの神、主はあなたを集め、そこから連れ戻される。」

このように真剣な懺悔の祈りはみ言葉から与えられます。祈りから生まれる最初の恵みは、すなわち神への信頼であります。心から悔い改め、神さまに立ち帰るならば、神さまは豊かに赦してくださる、という信仰、これが神さまへの信頼です。

新約聖書フィリピの信徒への手紙は、獄中にいる使徒パウロによって与えられた言葉です。パウロは教会の人々に勧めます。「主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい」と。福音を伝え、教会を建設したパウロが迫害され、獄に繋がれている最中、信者たちは非常に不安でありました。悲観的になっている、これからどうなるのか、明るい見通しは何もない。心配なことばかりでくじけそうになっている。彼らの心と思いはそういう危険な状態でした。しかし、だからこそ、パウロは目の前に押し寄せて来る不安にも拘わらず、主にあって喜ぶように勧めているのです。

なぜなら、神さまが与え給う慰め、わたしたちを喜ばせ、元気づけるような霊的な慰めは、この時にこそ、特に全世界がわたしたちを絶望に陥れようとする時にこそ、力を発揮しなければならないからなのです。この時、たとえ彼らが迫害、投獄、追放、死にさえも脅かされているとしても(パウロは正にその中にいました)、その真っ只中にも、自ら喜ぶばかりでなく、他の人々をも喜ばすようふるまっているパウロ、彼がここにいます。「主において」と訳されている言葉は、「主が自分たちの側に立っておられるのだから」、すなわち「主が自分たちの味方なのだから」という意味です。主が味方なのだから、それだけで喜ぶ理由は十分なのです。

主イエス・キリストを信じて告白して、洗礼を受けて主と結ばれた者。神の子の喜びがここにあります。その喜びは、この世の喜びと比べてみれば分かります。この世の喜びはあてにならず、長持ちがせず、空しいもの。イエスさまが呪われたものとさえ仰ったものです。ルカ6章24-25節です。113上。「今満腹している人々、あなたがたは、不幸である、あなたがたは飢えるようになる。今笑っている人々は不幸である、あなたがたは悲しみ泣くようになる。」それに対して神の子の喜びは、だれも奪い去ることのできない喜びです。神が共にいてくださるから、それはいつも変らない。この喜びを、わたしたちはイエス・キリストに在って持つことになるでしょう。

「あなたがたの広い心がすべての人に知られるようになさい。主はすぐ近くにおられます。」パウロはすべてのことを「広い心」、すなわち優しさと忍耐(寛大、思いやりのあること)をもって耐えるように勧めています。この世の格言に、「狼の中では吼えなければならない」というものがあります。すなわち悪人の傲慢と鉄面皮に対しては同様な態度によって抑え込まなければならない、と。しかしパウロはこれに対して、神さまの摂理(神さまの秘かなご計画)に対する確信を主張するのです。主の御力は悪人の横柄、横暴に優り、主の慈愛は彼らの悪意に打ち勝つものではないか、と。だから、わたしたちが主の掟に従うならば、主はわたしたちを助けてくださるに違いありません。

ですから何よりも大切なことは、信仰者が神さまの深いご配慮と隠されたご計画によって守られていることを悟り、神さまの摂理に全く信頼することなのです。「主は近い」と信じる者は、神がご自分の子らに正に救いの手を差し伸べようとしておられることを知っているのです。だから、一切の思い煩いを捨てて、何事につけ、感謝を込めて祈りと願いを献げ、求めているものを神に撃ち明けることが勧められています。

しかしながら、同時に、神さまへの信頼は何よりも日々わたしたちが祈りを捧げることによって訓練されること無しには生まれるものではありません。まして、わたしたちが何かの誘惑や、不安に襲われる時にはいつでも、直ちに時を移さず祈りに訴えることを実行しましょう。祈りの時と所こそが、わたしたちにとって逃げ込むべき避難所となりますように。そして、神さまへの信頼は感謝を込めた祈りに現れます。過去を振り返り、必ず助けてくださった恵みの主を思い起こし、感謝するとき、未だ行き先の見えない明日を委ねる祈りが、そこに生れます。

そして、7節の「あらゆる人知を超える神の平和」とは何でしょうか。大きな失望の中にあっても、なお望みを抱く。また、非常な貧困の中にあっても、なお豊かさを思い描く。極端な無力の状態でも、なお圧倒されることなく、すべてのものを欠いていても、なお自分たちには何も欠けているものはないと確信する。このような思いほど、この世にあり得ない思いがあるでしょうか。しかし、ただみ言葉によって、ただ聖霊の助けによって、このようなすべての思いがわたしたちに与えられるとしたら、これこそが祈りによって与えられる恵みなのです。わたしたちが祈る時、わたしたちは神さまに近づき、親しく語り合う恵みが与えられます。主が近くにおられることの喜びは計りしれません。祈ります。

 

教会の主、イエス・キリストの父なる神さま

新年最初の聖餐礼拝を感謝し、御名をほめたたえます。本日は祈りの恵みについて、み言葉を学びました。新しい年、身も心も新たにして祈りを献げます。御子の贖いによって罪を赦されたわたしたち、日毎夜毎に罪を告白して、あなたの御前に祈る時と所を与えてください。そして、み言葉に聴くことができますように。すべてのことをあなたと語り合い、この世界が与える喜びをはるかに超えた平安を、祈るわたしたちにお与えください。沢山の悩みある時代、世界のただ中に在っても、あなたの喜びがわたしの喜びとなり、あなたの力がわたしたちの力となりますように。そして罪人のために命を捨ててくださるために世に遣わされた御子イエス・キリストの愛がわたしたちの愛となりますように。

新しい年、教会の歩みが始まりました。主よ、あなたは小さな歩みを喜ばれ、小さな働きを祝して、わたしたちの群れをこれまでお導きくださいました。真に感謝です。新しい年度に、新しい教師の先生方をお迎えするために導いてくださっている連合長老会の働き、あなたの尊きご配慮を感謝します。どうか招聘されようとしておられる先生方を聖霊によって守り導いてください。ご健康とご準備が祝されますように。また、成宗教会がどうか御心に適う準備をしてお迎えすることができますように。長老会を励まし、導いてください。今日から始まりました教会学校の働き、集う方々をも祝してください。

また、教会の信徒一人一人が教会の全てを整えるために、何か奉仕に加わることを考えることができますように。それぞれが限りある体力、時間の中で、喜んで捧げる知恵と力とをあなたからいただくことができますように。本日行われます長老会議をどうか御手の内にお導きください。特に先生方をお迎えするための物理的な準備をも進めて行くことができますように。また、教会記念誌の編集の道筋が守られていることを感謝します。御心であれば3月中に印刷発行を果たすことができますように。今、試練の中にある者、病床にある者を助け、また家族、社会を支える人々の働きを祝してください。

すべてのことを感謝し、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

祈りの中にある人生

聖書:詩編116篇12-19節, ルカによる福音書18章1-8節

 わたしたちが礼拝説教の中で、信仰問答(カテキズムと申します)によって、教会が受け継いで来た信仰を学び始めたのは、2017年の9月でありました。その内容は、使徒信条と十戒と主の祈りでありまして、三要文と呼ばれます。今年の待降節の前に使徒信条と十戒について学びを終えましたので、本日、2018年最後の礼拝から主の祈りを学びます。そして、ちょうど年度末までには学び終えるでしょう。

本日の問52は、「なぜわたしたちは祈るのですか」です。大変、率直な、素朴な問いです。そしてそれに対する答もまた、大変単純明快なものです。なぜなら、「神さまがわたしたちに祈ることを求めておられるからです。」これが答です。私たちはよく、お祈りは苦手だなどと言うことがあります。どう祈っていいか分からないと思うこともありますが、人前で祈るということを考えれば、なおさらです。私は40代の頃、ある教会の長老を務めたことがありましたが、長老の務めが重荷だったのは、「どう祈ったらよいか分からない」という単純な悩みのためでした。

一方、洗礼も受けていないのに、また教会を離れて久しいのに、滔々と人前で祈る人がいることにも驚きました。牧師の娘だったという、ある年取った信者の方が「わたしはお祈りができないので、オルガンを弾いて讃美します」と言うのを聞いて、わたしも気持ち分かるなあと思ったことです。こんな私が献身して牧師になったのですから、私は成宗教会の皆さんに祈りについて具体的な勧めをしたことはほとんどありませんでした。ただ、わたしたちは祈りが必要であることだけは、身をもって感じているのではないでしょうか。

私に洗礼を授けてくださった仙台東一番町教会の田中従夫牧師は多くを語らない人でしたが、一つだけはっきりと勧めておられたことがありました。それは祈りを止めてはならないということだったことを思い出します。「悪魔は、わたしたちの計画することに何でも賛成します。わたしたちが、「あれがしたい」と思っても、大賛成。「これがしたい」と言っても、大賛成です。ただし、一つだけ賛成しないことがあります。それは神さまに祈ることです」と田中牧師は言い、だから悪魔に支配されないために、祈りを止めてはいけないと勧められました。長い人生を振り返ったとき、この言葉を思い出します。何かの理由で教会を離れざるを得なかったときも、戻って来ることができたのは、祈りによって神さまの助けを求めて来たからでしょう。

このような体験は、おそらく皆様にもおありのことでしょう。神さまがわたしたちに祈ることを求めておられるから、わたしたちは祈るのだと教えられました。聖書は、人間が神さまのかたちに造られたと教えています。それは神さまの呼びかけに応える相手として造られたということなのです。ですから、人は神さまとお話ができる、祈ることができるように造られたということです。人が見えない神さまに祈りをささげる姿こそは、神さまがお造りになった本来の人の姿だということができるでしょう。

本日の新約聖書のテキストはルカ18章です。イエスさまは弟子たちに気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教えるために、このたとえ話をなさいました。「ある町に、神を畏れず人を人とも思わない裁判官がいた。ところが、その町に一人のやもめがいて、裁判官のところに来ては、『相手を裁いて、わたしを守ってください』と言っていた。

裁判官は、しばらくの間は取り合おうとしなかった。しかし、その後に考えた。『自分は神など畏れないし、人を人とも思わない。しかし、あのやもめは、うるさくてかなわないから、彼女のために裁判をしてやろう。さもないと、ひっきりなしにやって来て、わたしをさんざんな目に遭わすに違いない。』」

ここには神を畏れず、人を人とも思わない傲慢不遜な裁判官が登場します。彼が貧しい寡婦の弱い立場を守ってくれそうな期待は到底持てないのです。しかし、やもめはどうしたでしょうか。見込みがないのであきらめたでしょうか。絶望したでしょうか。彼女に最善の方法は何でしょうか。たとえ傲慢で情け容赦のない相手であっても、彼女は訴えを諦めるより、訴え続ける方を選びました。そしてとうとう不正な裁判官を根負けさせたという話です。

イエスさまはこの傲慢不遜な裁判官を神さまに例えておられるのでしょうか。そんなことは決してないでしょう。ただこんなにひどい相手であっても、この人に訴える他に方法はない、となったとき、この女の人はもう絶対にあきらめないで訴え続けた、ということを強調しておられるのです。まして、あなたたちが祈り求めている相手は神さまではないか。神さまはどのようなお方か、あなたたちは知らないのか、とイエスさまは問われているのではないでしょうか。神さまは憐れみ深い方です。神さまは御自分を次のように言い表された方です。出エジプト記34章6節。「主、主、憐れみ深く恵みに富む神、忍耐強く、慈しみとまことに満ち、幾千代にも及ぶ慈しみを守り、罪と背きと過ちを赦す。しかし、罰すべき者を罰せずにはおかず、父祖の罪を、子、孫に三代、四代までも問う者。」151上。

このような神さまの慈しみを知っているならば、どうして祈り求め、祈り続けないでいられるのだろうか、とイエスさまは問われているのです。あきらめるなどということは論外ではないかと。本当にその通りなのです。ところが、私も冒頭で正直に述べました様に、「お祈りは苦手だ」とか、「何をどう祈って良いか分からない」という理由で「人前で祈るのは・・・」とためらう人がいるかと思えば、まるで神さまに向かって大演説をするような人も出て来る。また、それを見て、大いに驚いて躓く者まで出て来るという現実があります。そんなことなら、自分の言葉で祈らないで決められた祈祷文にすれば簡単だ、等々、あれこれと百でも理由を作っては、祈りから遠ざかろうとするのではないでしょうか。わたしたちはそれこそ、サタンの思う壺にはまりかけているのです。

ところが、イエスさまは何と言われたでしょうか。それは「あなたがたは、あきらめずに祈りなさい!」とのご命令です。「あきらめないで、」です。「自分の拙い言葉や自分の情けない祈りにがっかりしないで、」です。神さまは立派な日本語でないと、立派な英語でないと聞き取れないとはおっしゃらず、忍耐強く聞いてくださる方なのです。また、神さまはわたしたちのひそかな不平不満もご存じです。あれをお願いしたのに、聞いていただけない、わたしの祈りは聞かれないと思い、がっかりしたり、悲しんだりするわたしたちがいます。

わたしたちからすると無理もないことです。重い障害や難病に苦しんでいる人々を思うとき、いつもイエスさまが手を取って起こしてくださった奇跡、目に泥を塗って見えるようにしてくださった奇跡、耳に指を入れ、つばを舌に付けて、開けと言って聞こえ話せるようにしてくださった奇跡が、起こったらどんなにうれしいことかと思うのです。そしてこれ以上良い願いはない、祈りはない、とまで思い、叶わないことを悲しむのです。

しかし、「がっかりしない。あきらめないで祈りなさい」と、今もイエスさまはわたしたちに呼びかけておられます。わたしたちは、幸いなことにあきらめない者として教会にいます。私はこの教会で祈りについてほとんど指導することはありませんでしたが、ほとんどいつの間にか、祈りに満ちた教会になっていました。兄弟姉妹が集まり、礼拝を守り、共に主に祈って来たからです。そして礼拝が終わると皆、教会の外に出て行きました。また会えるだろう、また集まれるだろうと思って別れるのですが、二度と会うことはなかった人もいます。いつまでも元気でいるのが当たり前のように思ってお別れするのですが、思いがけない困難に直面することもあります。その折々に、わたしたちは祈り合って来ました。

もちろん、お互いのことが十分分かっている訳ではないので、「あの人はこうすれば良いのに」「ああしない方が良いのに」と心配しても、わたしたちの考えが正しいかどうかも分かりません。そういう限りある知識の者たちが、限りある力の者たちが集まって祈る祈りなのですが、この拙い、貧しい祈りを神さまは喜んで聞いておられる。だからイエスさまは「祈りなさい」と言われます。ちょうど何も分かっていない幼子のようであっても、その祈りを喜んでくださる神さまがおられるのです。

成宗教会が祈りに満ちていると思うのは、わたしたちに沢山の困難や課題があるからです。この教会に限ったことではなく、教会はこの社会の、また全世界の悩みを映し出しています。悩む人々、悩む社会、悩む世界の中に建つ教会は、祈りの務めを与えられているからです。今日のイエスさまの例え話には悩みある人の訴え、という祈りが取り上げられましたが、わたしたちは礼拝で感謝の祈りを捧げています。御心を尋ねる祈りもあります。そして、これから主の祈りで学ぶことですが、神さまの御心が行われるようにと祈る祈りに導かれます。自分の願いだけを一方的に願うばかりの時は気がつかないことですが、祈りは毎週の礼拝の中だけでなく、個々人で、毎日、時間を決め、一人で、あるいは家族と共に祈ることによって、思いがけない導きが与えられます。それは、自分がこれまで本当に神さまに守られ、恵まれて来たのだ、という発見です。

詩編116篇の詩人は言います。「主はわたしに報いてくださった。わたしはどのように答えようか。」神さまがわたしの祈りを聞いてくださったことに気がつく、ということは非常な恵みなのです。なぜなら困ったときに神さま助けてくださいと祈る人は多くいたとしても、災いが過ぎ去ると、神さまが助けてくださったとは思わず、祈ったこともすっかり忘れてしまう人も非常に多いからです。そのような中で、「わたしはこんなに神さまの恵みを受けた」と気がつく人は幸いです。そして人から助けられたとき、何か御礼の贈り物をしようと思うのですが、相手は神さまなのですから、どのように御礼をしようとしてもできないことが分かります。

また、神さまは助けられた人が無理をして献げ物をしてほしいと思ってはおられません。神さまは本当に豊かで恵み深い方なので、ただ人が祈り求めることを喜ばれ、その人を救うことを喜びとしてくださいます。それを信じる人にできることはただ一つ。それは感謝の祈りを捧げることです。喜びの集いを開いて、集まった人々の見守る前で、捧げる献げ物は何でしょうか。それこそが感謝の祈りなのです。

主の慈しみに生きる人、すなわち信仰者の命を神さまは貴いものとして思われるからこそ、これを御心に留められ、必要な助けを与えてくださいます。わたしたちが弱り果てる時、わたしたちは自分で自分を低く見積もり、「わたしは何の値打ちもない」と自分を決めつけて、神さまのせっかくのご好意を蔑ろにするのではないでしょうか。そんなことにならないように常に注意しなければなりません。

こうしてわたしたち主イエスさまに結ばれた者たちは、初めは祈ることが分からず、人前を気にかけたり、自分中心な願い事だけを祈っていたとしても、主はわたしたちをお見捨てにならないのです。なぜなら、主はわたしたちのために命を捨ててくださった方ですから。この方が聖霊によってわたしたちを守り導いてくださったことによって、わたしたちはどんなに前進させられたことでしょうか。わたしたちは時が良くても、悪くても祈り、自分の願いをはるかに超えて善きことを成し遂げることがお出来になる方にすべてを委ね、御名をほめたたえて生きる信仰生活を整えて頂きましょう。2018年が終わろうとする今、わたしたちの歩みを振り返ると、真に人生の一部が祈りの時だったのではなく、わたしたちの人生そのものが祈りの中にあるように、導かれて来たことが思われます。感謝して新しい年を迎えたいと願います。祈ります。

 

主イエス・キリストの父なる神さま

本日の礼拝に集めて頂きましたことを感謝申し上げます。2018年を振り返り、成宗教会を通して主と結ばれたわたしたちを守り導いてくださいましたことを、思います。世は移り変わり、人々は変わって行きますが、変ることのない主イエスによっていただいた救いの御業、あなたに対する信仰を感謝し、慈しみとご忍耐の神であられるあなたの御名をほめたたえます。

この年、成宗教会は連合長老会より新たな教師を推薦され。臨時教会総会においてお二人の先生を招聘することを決議しました。真に小さな群れが招聘するにふさわしい教会として整えてください。あなたの御名を汚すことなく、御心に適った道筋が備えられますように切に祈ります。どうかお二人の先生のお働きがあなたのご栄光を現わすものとして貴く用いられますように。先生方のご健康をお支えくださいますようお願い申し上げます。

また成宗教会の長老会の働きを強めてください。長老、信徒の方々のご健康を支えてください。多くの方々が高齢になっておりますが、なお健やかにあなたに支えられ、用いられますように切に祈ります。

どうかこの教会を用いてあなたが招いてくださった方々の上にあなたの御心があり、慈しみ深い主の下に集められますように。来るべき年にも、世の災いを避けることが出来ますように。そして、み言葉を力強く宣べ伝えられる教会としてくださいますように。今、お病気の方、お怪我をしておられる方を思います。どうぞ、その場に共にいらして励まし必要な助けをお与えください。

言い尽くせない感謝、願いを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。