目が開ける時

成宗教会牧師 藤野雄大

説教箇所:ルカ24章13-35節

「一緒に食事の席に着いた時、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。」

主にある兄弟姉妹の皆様、私たちは先週の日曜日、主の復活をお祝いいたしました。そして、これから6月半ばのペンテコステまでのおよそ2か月の間、教会は復活節の時を過ごしていくことになります。

主イエスは、復活された後、まずマリア達に現れ、それからも弟子たちのもとに次々と姿を現わしていきます。イエス様が十字架にかけられてしまったことで、弟子たちは、うろたえ、なすすべを知りませんでした。しかし、主は、そのような弟子たちをお見捨てになることなく、復活後、弟子たちに御自身の姿を示されました。そして、その復活の主イエスのお姿を見ることで、初めて弟子たちの止まっていた時は進みだし、今一度、信仰を取り戻していきます。

今日、示されました聖書の箇所、ルカによる福音書もまさにその一つで、しばしば「エマオの途上」と呼ばれる箇所です。聖書の言葉は、どれも素晴らしく、神の救いにあふれたものですが、このエマオの途上の話は、とりわけ魅力に富んでいて、一つの美しい短編小説のようだと言う人もいます。教会でも、復活節の時期に繰り返し読まれる、大変馴染み深い箇所だと言えます。

主イエスが復活された日のことでした。二人の弟子が、エルサレムから10キロほど離れたエマオという村に向かっていました。18節に記されておりますように、二人の弟子の内の一人は、クレオパという名前でした。もう一人の弟子の名前は記されておりません。

クレオパともう一人の弟子は、エマオに向かって歩きながら、婦人たちから聞いた話について論じあっていました。それは、イエス様が復活され、その亡骸がどこにも見当たらないというものでした。その時、イエス様御自身が、彼らのもとに近づいてこられましたが、しかし、二人の弟子たちは、それがイエス様だとは気づきません。なぜなら、彼らの「目がさえぎられていたからだ」と聖書は記します。二人の弟子の目が開かれ、イエス様に気づくまで、まだしばらく待たなければならなかったのです。

この二人の弟子たちにイエス様は、「やり取りしているその話は何のことですか」と尋ねられました。これに対して、クレオパは、「あなたはエルサレムにいながら、あなただけは、この話を聞いたことがなかったのですか」と答えます。このクレオパの言葉から、イエス様の復活のうわさは、すでにエルサレム中に広まっていたことが分かります。皆が、その噂を聞き、さまざまに話し合っていたのでしょう。しかし、同時にクレオパの言葉には、大きな皮肉も込められています。なぜかと言いますと、気づかないとは言え、クレオパは、復活の出来事を誰よりも知っているお方、この世界で唯一、復活について理解し尽くされているお方に対して、「あなたただけは知らないのですか」と問うているからです。

そのあとの19節以下のクレオパの言葉には、彼の落胆と戸惑いが表れています。彼は、イエス様が、「行いにも言葉にも力のある預言者であった」と言います。しかし、そのイエス様が、十字架にかかり、死んでしまったことを嘆きます。そして、クレオパは21節にあるように、「わたしたちは、あの方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました」と過去形で語ります。そして、十字架にかかってからもう三日も経ってしまったとダメ押しします。これは、イエス様に抱いていた希望が打ち砕かれてしまったというクレオパのあきらめや落胆の心境を示していると言えます。そのように失望の中にいたクレオパたちを驚かせたのが、マリアたちがもたらした知らせでした。それは、「イエス様は生きておられる」というものでした。そして、その言葉通り、墓には、イエス様のご遺体が無くなっていたという知らせでした。

この知らせを聞いても、クレオパたちは、半信半疑だったと推察されます。「常識で考えれば、そのようなことはありえないに決まっている。いや、しかし、もしイエス様が本当に復活したとしたら...。」おそらく、そのような気持ちでいたので、仲間とずっと話し合っていたのでしょう。しかし、信仰に関する事柄、とくに復活は、どれだけ議論したところで、理解できるものではありません。人間の知恵や理性では捉えきることができない事柄だからです。そのため、二人の弟子の議論も結局は、結論のでない堂々巡りものだったことでしょう。人が、復活を受け入れ、信じるためには、やはり主イエスの御導きに依るほかはないのです。

そこで、主イエスは、クレオパともう一人の弟子に、聖書全体にわたり、御自分について書かれている事柄を説明されました。さらに村に近づいた時、夕方になっていたので、二人の弟子たちの求めに応じて、イエス様は、同じ家に泊まられます。そして、食事を共にされたのでした。この食事の席で、イエス様は賛美の祈りを唱え、パンを裂いて、それを弟子たちにお渡しになったと聖書には記されています。すると弟子たちの目が開け、はじめてイエス様だと分かりましたが、すぐにイエス様の姿は見えなくなってしまったとあります。

大変、不思議な記述です。そして、この箇所が、まさに今日の聖書箇所全体の中心とも言えます。イエス様が、パンを裂かれる時、つまり聖餐に弟子たちを招かれた時、始めて、さえぎられていた弟子たちの目は開かれたのです。二人の弟子たちは、人間的な議論をいくら交わしても、結局は、目の前にいるイエス様の姿さえ認識することはできませんでした。彼らが、イエス様の姿を認めることができたのは、イエスさま御自身が彼らに近づいてきて、聖書のことを説明され、さらに聖餐のパンを分け与えられたからでした。

しかし、それではなぜ、そのあとすぐにイエス様のお姿は見えなくなってしまったのでしょうか。なぜ、イエス様は、ずっと弟子たちにお姿を現わしてはくださらないのでしょうか。

古代の有名な神学者、アウグスティヌスは、このことについて次のように語っています。「イエス様は、彼らから姿を見えなくされた。それは、それから後、イエス様は、御言葉と聖餐の中で、信仰によって見えるようになられるためであった。そのように弟子たちに認識されることをイエス様は望まれたのである。そして、主イエスは、今日では、パンを裂くこと、つまり聖餐によって、私たちにお姿を現わしつづけておられるのである。」

アウグスティヌスは、今日の聖書の箇所、エマオの途上の物語を、決して、二人の弟子たちだけに起こったことだとは考えていません。イエスさまは、説教と聖餐を通して、私たちにもお姿を現わしてくださっていると考えているのです。そして、信仰の目によって私たちもイエス様を認めることができるのだと語っているのです。

アウグスティヌスの言うことは、全くその通りだと思います。つまり、この美しいエマオの物語は、ただ2000年前、クレオパたち二人の弟子にだけ起きた物語ではないのです。実は、私たちもエマオの途上、エマオに向かって旅しているのではないでしょうか。

聖書では、しばしば信仰者の生涯を旅に例えることがあります。信仰の旅路、それは常に順風満帆とは限りません。旅の途中では、いつも天気が良い時ばかりではありません。曇りの日もあれば、大雨に振られることもあります。平らで歩きやすい道もあれば、登坂、下り坂もあるでしょう。さらに道に迷うこともあります。まっすぐに歩けずに、遠回りしなければならないこともあるでしょう。疲れて立ち止まったり、転んで倒れてしまうこともあるかもしれません。

これは、私たちの信仰にも当てはまります。いつも信仰に心が燃えているというのは難しいことです。様々な困難の中で、日常的な忙しさの中で目が曇らされてしまうこともあります。心に燃えていた情熱が、いつの間にか冷めてしまうこともあります。しかし、イエスさまは、そのような私たちにも寄り添ってくださり、旅を共にしてくださいます。そして、聖書の御言葉と聖餐を通して、私たちの信仰を呼び覚ましてくださるのです。その意味で信仰の旅とは、まさにエマオの旅そのものと言えます。

今日の礼拝後には、教会総会が開かれます。その中で長老の選挙も行われます。教会総会とは言うまでもなく、昨年度の教会の歩みを確認し、また今年度、教会がどのように進んでいくかを決める教会にとって最も大切な意思決定の時です。

しかし、教会総会とは人間的な会議の場所ではないということも忘れてはいけません。教会総会は、他の会議のように人間的な知恵を寄せ集める場所ではありません。まず何よりも私たちの祈りを寄せ集める場所です。そして、私たちを教会へと呼び集めてくださったイエス様の恵みに感謝する時でもあります。

イエス様が、私たちに近づいてきてくださいます。そして私たちを呼び集めてくださいます。ただ主イエスのこの恵みによって、私たちの信仰は温められ目が開かれるのです。そして本当に大切なこと、主の御心にかなう道が見えるようになります。教会総会、そして長老選挙とは、人間的な意思決定の場ではなく、このイエス様の恵みに答える場所であることを覚えたいと思います。

成宗教会に集う一人ひとりが、主に結ばれて、主に強められて、2019年度の歩みをなすことができますように。また新しく神様の救いの御業に触れて、信仰を起こされる方が与えられますようにお祈りいたします。

主の喜びが私たちの内に満ちあふれるように

聖書:詩編84篇5-13節, ヨハネ17章1-13節

 本日は、礼拝の後、新しい牧師先生方をお迎えし、私を送るというので、長老会は歓送迎会を予定してくださいました。私は4月に赴任される藤野雄大先生、美樹先生の歓迎会は当然4月の最初に開くべき、と思いましたが、本当に人手の少ないところ準備してくださることを思い、今日のような形になりました。しかし、これで良かったとも思います。なぜなら、私は、私を見送るだけのために今日の礼拝に出席していただきたいとは思わなかったからです。なぜなら、私は礼拝に向かって皆様をいつもいつもお招きして来たのですから、私のために礼拝にいらしてくださいというつもりは全くなかったからです。

それが、御言葉を語るために遣わされた者の思いです。17年も講壇に立って来たのに、説教準備は一度だって楽だったことはありませんでした。楽ということは祈らなくてもできるということですから。いつでも苦しんで祈って聖霊の助けを求めて準備して参りました。引退したら、さぞ並木先生は楽になるだろうと思っている方もおられるでしょう。ところがそうではございません。私は御言葉を語るのがこんなに苦しいのに、しかし説教のために準備することで、救われていました。それが教会にいる私の務めだったからです。説教者の務めのために、私はありとあらゆることを耐え忍ぶことができたのだと思います。

皆様はどうでしょうか。礼拝に来るのは健康の面で大変な人が増えました。忙しい人も、仕事を理由に礼拝から遠ざかる人々も増えました。しかし、楽に教会に来られる人々だけが礼拝を守っているのでしょうか。そんなことはございません。私は若い時、鬱状態でした。二時間と続けて眠ることができない時もありました。しかし、とにかく教会に向かって足を向けよう、と思いました。100m歩いてダメだったら、家に帰ろうと思いました。教会に着いた途端にダメだったら、それでも良いと思って礼拝に向かいました。途中で引き返すようなことには一度もなりませんでした。礼拝に向かう思いを、主は喜んでくださいます。皆様も苦労して苦労しても礼拝に足を運び、御言葉を聞き続けてください。

本日は詩編84篇5節から読みました。「いかに幸いなことでしょう。あなたの家に住むことができるなら、まして、あなたを賛美することができるなら。いかに幸いなことでしょう。あなたによって勇気を出し、心に広い道を見ている人は。嘆きの谷を通るときも、そこを泉とするでしょう。雨も降り、祝福で覆ってくれるでしょう。彼らはいよいよ力を増して進み、ついにシオンで神にまみえるでしょう。」神さまは礼拝のために集まって来る人々に、シオンでお会いくださいます。そのように、神さまは礼拝のために教会に集まる人々を喜ばれ、聖霊によって共にいらしてくださいます。礼拝で、人々は共に御言葉を聞き、讃美を捧げ、自分たちの告白によって神さまをほめたたえ、互いに顔と顔とを合わせて、慰めと励ましを共にいただくのです。

私が御言葉を語る務めのために、すべてのことを耐え忍ぶことができたように、皆様もあらゆる困難苦難の中で苦労して礼拝を守り、御言葉を聞き続けるならば、わたしたちが生きて行くために通らなければならない道筋で起こるすべてのことを耐え忍ぶことができるでしょう。私はこのことを確信して皆様にお勧め致します。

さて、わたしたちが礼拝で学んで参りました主の祈りですが、本日は最後の祈りの言葉です。主の祈りを祈るわたしたちは「国と力と栄えとは限りなく汝のものなればなり」と祈って、最後にアーメンと唱えます。この「アーメン」とはどういうことでしょうか。わたしたちは、この世の権力も支配も栄光もすべて神さまのものであることを信じて、心から神さまをほめたたえて終わりました。アーメンとは「そのとおり」という意味です。

さて、この祈りを教えてくださった主イエスさまは、十字架の苦難を受ける最後の時が迫っておられたとき、何をなさったでしょうか。その時、弟子たちはイエスさまが去って行かれることを思い、不安と悲しみで胸つぶれる思いでいたのですが、その弟子たちを愛して、最後まで愛し抜かれた主は、彼らに平安を残すために、彼らに分かるように声に出してお祈りをなさいました。「父よ、時が来ました。あなたの子があなたの栄光を現すようになるために、子に栄光を与えてください」と。アウグスティヌスはこの祈りを解き明かして、主イエスは、「あなたがわたしによって全地に知られるように、わたしを復活させてください」と祈られたのだと言っています。

主イエスさまは天の父に祈られました。「あなたは子にすべての人を支配する権能をお与えになりました。そのために、子はあなたから委ねられた人すべてに、永遠の命を与えることができるのです。」人は皆、罪を犯しているために神さまのご支配を喜ばず、神さまに逆らって、却ってこの世の支配を受ける結果になりますが、この世の支配は人を生かすでしょうか。それはじりじりと人を追い詰めて滅びに至らせるのではないでしょうか。神さまはすべての人に永遠の命を与えることがお出来になりますが、神さまはその力を、愛する御子にお与えになりました。イエスさまは永遠の命を与えることができるのです。だからイエスさまは祈りの中で宣言されます。「永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストとを知ることです」と。

わたしたちは、主の祈りを教えられました。わたしたちが「天の父よ」と呼びかけることをお許しくださる神さまがおられる、とわたしたちは教えられました。わたしたちは神さまを見ることができない。わたしたちは神さまを知らなかったのです。しかし、イエスさまは地上に来られ、天の父の御心をお示しくださいました。わたしたちはイエス・キリストを知ることで、天の父なる神さまを知ることになります。

最初の弟子たち、イエスさまが地上に来られた時、一緒にいた弟子たちを、イエスさまは愛されました。そして、地上に来られた目的を果たして、神さまの御許に帰るときが迫りました時、彼らのために声に出して祈られたヨハネ17章の祈りは、後に続く弟子たちにも、その弟子たちの弟子たちのためにも、何十代も後の弟子たちであるわたしたちのためにも、声に出して祈ってくださった祈りでもあります。11節。「わたしは、もはや世にはいません。彼らは世に残りますが、わたしはみもとに参ります。聖なる父よ、わたしに与えてくださった御名によって彼らを守ってください。わたしたちのように、彼らも一つとなるためです。」

父なる神さまと御子イエスさまは心一つであられます。そのように地上に遺されたわたしたちも主に守られ、主に在って一つとなるように、とイエスさまは祈っておられるのです。そのために主は地上に来られました。そのために、わたしたち罪人の重荷を負い、罪人の報いを受け、罪人に代わって十字架の死を死んでくださろうとしておられます。しかし、その目的は、神の永遠の命に復活されることです。そしてイエスさまのご復活の命に、わたしたちも与る希望が与えられているのです。その希望のために、わたしたちはイエスさまを贖い主と信じ告白して、洗礼を受け、キリストの体に結ばれる者となりました。

13節。「しかし、今、わたしは参ります。世にいる間に、これらのことを語るのは、わたしの喜びが彼らの内に満ちあふれるようになるためです。」このように主イエスさまは弟子たちの前で祈られました。この言葉が語られたのは、地上におられる間のことです。地上には多くの不安があり、この世の支配者、すなわちサタンの勢いが増しているようにさえ見えるからです。

しかし、だからこそ、主イエスさまは祈られました。「わたしの喜びが彼らの内に満ちあふれるようになるためです」と。これから十字架の道を進まれるイエスさまは、どんなに苦しまれようとしていたことでしょう。どんなに傷を受け、侮辱され、捨てられようとしていたことでしょう。しかし、主は言われるのです。「わたしの喜びが彼らの内に満ちあふれるように」と。神の御子の内には喜びがあるのです。この世のどんな苦難にも打ち崩されることのない喜びが。それはこの世の苦難にいつも脅され、打ちのめされるわたしたちには、思いも及ばない圧倒的な平安が、御子の内にあるのだ、ということに他なりません。そして御子イエスさまの喜びこそが、天の父の御心そのものでなくて何でしょうか。

ここに、主の祈りの最後のアーメンがあるのではないでしょうか。主の祈りを祈るわたしたちに、何よりもなくてならないものがあります。それは何でしょうか。それは天の父に対する心からの信頼です。そして、このアーメンに表れた心からの信頼は、主の祈りの終わりの言葉にあるだけでなく、初めから終わりまで、神を信じ、神の働きとわざに信頼する者が捧げる共通の思いに他なりません。

最初の弟子たちは、地上のイエスさまに付き従っていた時には、イエスさまの喜び、天の父なる神さまと共にあるゆるぎない喜び、平安が分からなかったでしょう。しかし、主の十字架の苦難と死という大変な悲しみと絶望を体験した彼らだったからこそ、やがて復活の主に出会い、この尽きることのない圧倒的な喜びを宣べ伝える者に変えられて行ったのであります。そして、わたしたちには救いの出来事が届けられました。神さまの備えられた救いのご計画を知らされているわたしたちではないでしょうか。

だから、どんな困難に打ちのめされるばかりの時も、どんな希望も見えて来ないと思われる時にも、主の祈りは祈られて来たように、今もこれからも祈られることが求められているのです。そして不安の風に震える木の葉のような世界の中でも、社会にあっても、神さまお一人が善い方であり、正義を愛し、慈しみを愛して、嵐を鎮めてくださる方であると固く信じて、主の祈りを祈りましょう。主イエスさまは「わたしの喜びが彼らの内に満ちあふれるように」と祈ってくださいました。

だから、神さまが与えてくださるものは、地上の生活を送る私たちにとってなくてはならないものだと確信しましょう。この命も、この生涯も、この家族も私たちに無くてならないものとして与えられています。そして日用の糧も、それから私たちには「いらない」言いたいものや、避けて通りたいものも、何か深い訳があって私たちに与えられていると信じましょう。そしていつの日には、その訳を教えていただきたいと願いながらも、天の父のご配慮を信じて従って参りましょう。

この教会にはかつてヘンデルのメサイアを歌う合唱団に加わっていた方もいらしたと思います。東京神学大学でもメサイアを歌う学生を募集していましたが、アーメンコーラスだけでも大変長く難しかったので、ギヴアップしたことを思い出します。しかし、たとえ歌が上手に歌えなくても、アーメンの言葉は地上を生きる私たちの人生の中でいつも鳴り響いています。初めは、「神さま、ああなりますように。こうなりますように」という真に身勝手な、自分の願いばかりであった私たちの祈りも、次第にアーメンの祈りに変えられて行くでしょう。「主なる神さま、どうかあなたのご計画のとおりにしてください。あなたは、その通り行われる方であることを、わたしたちはよく知っています」と。祈ります。

 

教会の主、イエス・キリストの父なる神さま

尊き御名をほめたたえます。あなたは御子を世に遣わし、わたしたちの罪の贖いのために苦難を負わせられました。この死と復活によって私たちにも主と共に復活の命に与る希望が与えられました。深く感謝申し上げます。どうかこの救いの恵みを信じ、悔い改めて多くの人々が主あなたの子とされるために、主イエスさまの執り成しを受けることができますように。教会に与えられた尊い働きを思い、感謝申し上げます。どうか、成宗教会がこれまでお守りくださった御心に従い、福音伝道の使命を果たすものとしてください。

また私たちの教会は2013年以来、東日本連合長老会と共に助け合って歩むことができ、真に感謝です。この礼拝を以て私は与えられた務めを終えますが、この尊い務めを受け継いでくださる教師、藤野雄大先生、美樹先生を与えられましたことを心から感謝申し上げます。どうぞお二人の先生方のお働きを祝し、成宗教会ばかりでなく、東京神学大学や多くの働きを担う先生方を豊かに支え導いてください。

困難なことが多い中ですが、本当に大切な人の救いを社会に知らせるために、成宗教会を強めてください。共に喜んで教会形成をなすために、長老会を強め、励ましてください。また同じ地域連合長老会に在って、互いに励まし合い、主のご栄光のために喜んで働く教会員の皆さんを励ましてください。また、高齢の教会員を特に励まし、清い手を上げて祈る者となり、生涯の終わりを迎える時まで、あなたに喜ばれる者となりますように。

今週、明日から新年度の歩みが始まります。どうか、特に教会学校の働きを顧みてください。教会総会、イースター、墓前礼拝と多くの行事が続きますが、あなたの恵みのご支配のもとに導かれますように。特に教会形成のために皆が果たすべき役割、奉仕を喜んで担うように、主の聖霊がご支配くださいますように。

わたしたちの内にある多くの困難、悩み、病気その他の問題を御存じのあなたが、すべてのことを通して、私たちに信仰による忍耐と愛と希望を増し加えてください。

言い尽くしません感謝と願いとを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。

アーメン。

主よ、栄光はあなたのもの

聖書:歴代誌上29章10-14節, コリント一 3章18-23節

 この教会の礼拝に御言葉を語る務めによって働いて来た私も、あと二回の説教で終わると感慨深く思います。ちょうど主の祈りもあと二回のカテキズムの学びになります。神さまは御自身の御心を御言葉の説教によってわたしたちに教えてくださいます。しかし、御言葉を語る者も、聞く者も、共に罪人であり、様々な限界を持っていることを考えるとき、私たちは真に不思議だと思わずにはいられません。どうして罪ある人間に神の言葉が語れるだろうかと。そしてどうして罪ある人間がそれを神の言葉だと信じることができるのだろうかと。それは語る者も、聞く者も、聖霊の訪れによって、働きによっているからです。

さて、主の祈りは、どのような言葉で終わっているでしょうか。これがカテキズム問63の問であります。その答は、「国と力と栄光は、永遠にあなたのものです」です。わたしたちにできないことをしてくださるのは、神さまなのだ、としみじみと思うときは、どんな時でしょうか。皆さんにもいろいろあると思います。本日読んでいただいた旧約聖書は歴代誌上の29章です。ダビデ王は生涯の終わりが近くなって、神殿を建てるために準備をしました。非常に多くの金銀宝石や鉄や、木材、大理石を神さまに献げました。

しかし、ダビデ王は祈っています。14節。「このような寄進ができるとしても、わたしなど果たして何者でしょう、わたしの民など何者でしょう。すべてはあなたからいただいたもの、わたしたちは御手から受け取って、差し出したにすぎません。」ダビデ王は紀元前10世紀頃、イスラエルの12部族を統一して強い国家とした人であります。この世の権力者と同じように、軍隊を率いて戦い、破竹の勢いで周辺の国々を征服しました。しかし、彼は非常に謙って祈っています。莫大な富を神さまに献げる時にも「すべてはあなたからいただいたもの、わたしたちは御手から受け取って、差し出したにすぎません」と祈りました。

これは本当に驚くべきことだと思いませんか。もちろん、わたしたちはダビデ王のような力もない、実績もない、平凡な人間ですが、それなのに、何かちょっとできると得意になり、自分を偉いもののように考えたくなるものです。「すべてはあなたからいただいたもの」という実感するなら、それだけでわたしたちの世界は一変するのではないでしょうか。

わたしたちが今日も教会に集まっているのは、聖霊の神さまがわたしたちのうちに働いてくださったからです。そうではないでしょうか。聖霊の神さまが呼んでくださらなければ、何かもっと楽なことをしようと思うでしょう。もし、聖霊の神さまが呼んでくださらなければ、何かもっと得なことがあるかもしれないと思うでしょう。ところが、不思議な聖霊のお働きによって、その呼びかけに応える人々が集められています。全国全世界に、この2千年もの間。神さまは、本当に目に見えないお働きによって人をイエス・キリストの教会に招き、御言葉を聞かせてくださいます。わたしたちが罪の奴隷から解放されて、神さまに従う者となるために働いてくださっています。

成宗教会もそのようにして集められ、続いて来ました。本当に目に見える形では小さな群れですが、救い主として世に来られたイエスさまが、目に見える姿でわたしたちのために苦しみを受け、十字架に死んで甦ってくださったこの福音の言葉によって、生きた教会となったのです。天に昇られたイエスさまは、地上に肉体を持っておられたときとは異なって、全世界のそしていつの時代にも生きる信者と共に生きておられます。それは天からわたしたちに注がれる聖霊によって、イエスさまはわたしたちと共に生きておられるからです。

成宗教会のお墓は越生にありますが、その墓標に刻まれている言葉は、「神は我々と共におられる」というマタイ1章23節の言葉です。そうです。わたしたちと共に神さまがおられる、ということは、わたしたちの味方としておられる、ということに他なりません。救い主イエスさまが、神さまとわたしたちの間にあった罪を滅ぼすために犠牲となってくださったからです。身代わりに人間の死を死んでくださり、神さまの命に甦ってくださいました。

週報にお知らせしましたが、先週成宗教会の教会員、市川孝子姉が召天されました。ご子息のご一家は遠く九州にお住まいでしたので、なかなかお見舞いに来られなかった年月を思い、ご子息はお母さんが亡くなった時には、お骨を九州へ持って帰りたいと言っておられました。ところが、急に成宗教会の墓地にと申し出られました。成宗では2015年以後、納骨がなかったので、私も少し驚きましたが、これも神さまの深いご配慮と感謝しました。家族単位で持っていたお墓の世話も始末もできないような少子高齢化の中で、もし本当の家族と言えるとしたら、教会こそ家族なのではないでしょうか。

それは、成宗教会のお墓が一つの家族という意味ではございません。神の家族というのは、イエス・キリストを信じて、罪を赦していただいた人々のことです。この人々は、イエスさまの兄弟姉妹と呼ばれ、またイエスさまが神さまから愛する子、と呼ばれたように、イエスさまに結ばれているからこそ、神の子と呼ばれている。だからわたしたちは神の家族なのです。

このことはとても大きなことであり、とても重要なことです。なぜなら、わたしたちは罪ある人間でありますから、どうしても自分中心にしか考えられない。好きなもの、嫌いなもの、があり、これは人々についても言えるのです。一緒にいるとうれしい人間がいる一方、あの人とは一緒にいたくない、一緒にされたくないということも決して少なくない訳です。しかし、神さまはそうではない。善い方です。そしてわたしたちもまた善良になることを喜ばれます。神さまは、わたしたちが嫌ったり、捨てたり、軽蔑したりするのをご覧になってどう思われるのでしょうか。神さまは正義を愛し、不正をお嫌いになる方ですが、わたしたちの好き嫌い、わたしたちのいろいろな特徴を含めて、わたしたちを招いて神の子としてくださったのです。

そのことを考えるとき、わたしたちは「神は我々と共におられる」とはどういうことなのかに思い当るでしょう。神さまは色々な、本当にいろいろな多様性を持った人々を招いて、「わたしの子どもたち」と呼んでくださいます。そしてイエスさまは御自分の復活の体の教会を建設するために、天から聖霊を送ってくださるのではないでしょうか。

本日は新約聖書のコリントの信徒への手紙一、3章18節から読んでいただきましたが、これは、教会を建設することについての議論の続きです。いろいろな人々、多様性を持った人々を神さまは招いてくださったのですが、だからこそ、教会建設の土台は何かをしっかりと知る必要があるのです。言うまでもないことだと思うのですが、教会の土台はイエス・キリストなのです。ところが言うまでもない、と思っているのに、現実は大変な行き違い、勘違いがどんどん起こります。これはパウロの時代、すなわち、初代教会の時代から、おそらくいつでも、どこでも起こったことだったでしょう。自分がちょっと何かわかったと思うと、たちまち偉そうなことを言う人々は教会の外にも中にもいるからです。コリントの教会では教師について分派が起こりました。あの先生の方がよい、いやこの先生の方がよい。説教のうまい、下手とか。声が良いとか、悪いとか。挙句の果てはスタイルから、年令から、何だかんだと比較してほめたりけなしたり・・・。

ところが、コリント教会でタレントの人気投票もどきのことをされているパウロも、アポロも、ケファすなわちペトロも、その間、何をしていたでしょうか。教会の人々の救いのために労苦していたのです。くだらない議論にうつつを抜かしている間も、その人々をも含めて教会建設のために命がけの戦いをしていました。そしてそれは今の時代に至るまで大きく変わらないのです。使徒たちは迫害の時代を生きて働きました。国家が宗教を認めても、また別の戦いをしなければなりませんでした。戦争も起こりました。飢饉も起こりました。地上の教会の戦いは終わることはありません。だからパウロは厳しい忠告をしています。18~21節。

「だれも自分を欺いてはなりません。もし、あなたがたのだれかが、自分はこの世で知恵のある者だと考えているなら、本当に知恵のあるものとなるために愚かな者になりなさい。この世の知恵は、神の前では愚かなものだからです。『神は、知恵のある者たちを、その悪賢さによって捕えられる』と書いてあり、また、『主は知っておられる、知恵のある者たちの論議がむなしいことを』とも書いてあります。」

私も16世紀のルターやカルヴァンなど宗教改革者の戦いについて聞いたことが大きな慰めになりました。最近では、落合建仁という神学者が連合長老会の機関誌『宣教』に書いたカルヴァンのエピソードに私は深く心打たれました。それはカルヴァンが最初にジュネーブに行った時そこで受けた脅しと迫害でありました。彼は書いているそうです。「わたしを馬鹿にして、挨拶がわりということで、夕方に入口のドアめがけて火縄銃を四十から五十発くらったこともありました。」

信仰者の戦いについて言えば、20年近く入院したまま地上を去った市川孝子姉もまた、忍耐の年月を戦った方でした。それは死んだ方がましだと自ら言うほどの苦難の日々でしたが、不思議にお元気になることがありました。また彼女ほど牧師の問安を喜んで待っていた人はいなかったと思います。讃美歌に「かみによりて いつくしめる こころのまじわり いともたのし」と歌われる主にある交わりの真実を、この方は証ししてくださったのでしたから、どんなに励まされたことでしょう。理不尽なこと、仰天するようなことが起こっても、苦難に生きた人々の忍耐を思い起こすことができるとき、わたしたちは神の家族の交わりをいただいていることを知るのです。そしてこの交わりのただ中に主がおられることも。

これからわたしたちの多くは年を取り、この社会も困難を増すばかりのことが予想されます。しかし、神さまは人を謙らせて、自分を誇ることをやめさせてくださるなら、それは本当に幸いなことです。困難なことが起こり、自分たちには望ましいとは思えないことが起こる時にも、神さまの深い御心を思うならば、わたしたちは実に幸いです。なぜなら、わたしたちは、神さまがわたしたちに善いものをくださろうとしていると信じるために召されているのですから。どうしてパウロは言うのでしょう。「すべてはあなたがたのものです」と。神さまがすべてを支配しておられ、すべてをくださろうとしておられるからではないでしょうか。それが救いです。それがすべてです。

わたしたちはキリストのもの、そしてキリストは神のもの、と言われます。貧しい人も、豊かな人も、弱い人も、強い人も、いろいろな問題を抱えている人も、いない人も、神の知恵、キリストにあって一つとされるなら、全体が神のものとして支配され、善いものに変えられることを信じましょう。そして祈りましょう「主よ、栄光はあなたのもの」と。最後にもう一度、カテキズム問63です。「主の祈りは、どのような言葉で終わっていますか。答は『国と力と栄光は、永遠にあなたのもの』です。この世の権力も支配も栄光もすべて神さまのものであることを信じて、心から神さまをほめたたえて終わるのです。」祈ります。

 

御在天の父なる神さま

あなたは罪人を深く憐れみ、御子の苦難によって、わたしたちの苦境を打ち破ってくださいました。わたしたちの目に受け入れがたい苦難を通して、わたしたちを常に謙らせ、あなたに祈り、隣人と共に祈り、教会の礼拝に集い、あなたのご栄光をほめたたえる者となりますように。

あなたは先週、一人の姉妹をこの群れから天に召されましたが、長い間病気のために教会に集うこともできない苦労の生活の方でした。あなたはしかし、この姉妹を通して多くの働きをなし、ご栄光をたたえる生涯を終えましたことを感謝申し上げます。私たちにも教会の交わりを証しし、御言葉によって養われる生涯をお与えください。

先週はまた、東日本連合長老会の長老研修会を感謝します。長老の務め、執事の務めについて良い学びの時と交わりが与えられましたことを感謝します。どうかすべての問題、課題について心を開き、互いに学び合い、互いの利益となる連合長老会となりますように。

また、新しく東北地方に新しい連合長老会が発足に向かって進んでいます。どうかそのために労苦しておられる先生方を特に顧みてください。

どうか、藤野雄大先生、美樹先生のご赴任に先立つご準備を祝福してください。この先生方と共に心を一つにして祈り、支えていく志が教会の皆さまにあふれますように。私も最後の引き継ぎを行い、問安の一週間を過ごします。どうか教会員、客員、求道者、教会学校のすべての方々の上に、平安と新しい希望をお与えください。

この感謝と願いとを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

主は試練を受けたからこそ

聖書:詩編91篇1-2節, 14-16節, ヘブライ人への手紙2章10-18節

 私が17年間の務めを終える日が近いこの時、後任の先生方をお迎えする準備も進み、平安のうちに成宗教会を辞することができることは、何よりの喜びです。しかし、一方私の心には深い悲しみがあります。それは時代を超えて、また地域を超えて、すべての伝道者が共有している悲しみであります。その悲しみは、人は神さまを無視しているということです。神さまは豊かな世界を創造され、豊かに人々に与えてくださいました。しかし、人は豊かになって神さまを忘れてしまったのです。神さまは与えてくださる方、守ってくださる方、助けてくださる方です。その方を無視して生きている。人は自分の世界に夢中になっている。

先日、私は用事があって表参道に行きました。恐ろしいほど人が溢れていました。インスタグラムの中に入り込んだような風景。最新のファッションで颯爽と行き交う人、人、人です。思えば、その中には借金を抱えている人もいるのだろうと、わたしは思いました。病気を抱えている人もいるのでしょう。様々なトラブルを抱えている人もいるのでしょう。しかし、その活気の中に、その都会の研ぎ澄まされた雰囲気の中に呑み込まれて行く。そしてその中の一部となっているような錯覚が起こります。そしてまるですべてがノープロブラムのような錯覚が起こるのではないでしょうか。

しかし。誰もが真の神さまを無視している世界。神さまを失っている世界。神さまを礼拝しないで、神さまでない何かを拝んでいる世界に助けがあるのでしょうか。救いがあるのでしょうか。一方、私はこの17年間お見舞いに訪れた続けた所がありました。この教会の中にも、そして教会の外にも病気の人々がいます。施設に入居している人々がいます。その中で私が出かけて行ったのは、その人々が成宗の教会員やその家族だったからです。この社会では牧師の問安が理解されていない所もあり、施設によっては出入りするのに苦労することもありましたが、出かけて行って祈ることができました。一人の病人、施設に入居している人と教会からの訪問者が、一時ですが、共にいるとき、そこに生まれるのは神さまを無視しないです。

どんなに慎ましい病室。時には面会室さえない病院もあります。聖餐式を行うことも困難な世俗の場所なのですが、そこで祈るとき、イエスさまのお言葉が思い出されます。「二人、または三人がわたしの名によって集まるとき、わたしもそこにいるのである」とのお言葉が。そして、そのことが本当に実感されることがあります。そこは表参道とは違って、人々が行きたいと思わないところ、目を奪われるものもなく、ワクワクドキドキするものはないところです。しかし、主の御前で言葉を交わすその思いは明るくなり、しみじみと感謝が溢れて来る。そして讃美の歌も歌います。そして心からの願いを祈ります。笑顔で再会を祈って別れる。別れても主が共にいらしてくださると信じて委ねることができます。

今、私の心にある悲しみの理由は、本当に貧しい世界が広がっていることです。それは見た目の貧しさよりも、病気よりも、障害よりも、比べものにならないほどの貧しい世界です。それは、真の神さまを失っている世界。真の神さまを無視している世界。求めようともしない世界。それは目を覆うばかりの貧しさではないでしょうか。人が自分に夢中になっている。人が自分独りで生きられると思っている世界。一人で生きられない人は生きる価値がないと思っている世界は、神さまに激しく逆らっている。だから悲しいのです。

今日読んでいただいた詩編91篇1節と2節。「いと高き神のもとに身を寄せて隠れ、全能の神の陰に宿る人よ、主に申し上げよ『わたしの避けどころ、砦、わたしの神、より頼む方』と。」詩人は神さまがどのような方かを知っています。神さまは善良な人を助けることを喜びとしておられる。だから、神さまに従って悪から離れて生きたい、正しいことをしたいと願っているのに、困難に苦しむ人々は、神さまに全く頼りなさい。そしてそのことを心の奥に隠していないで、人々の前でも神さまに申し上げなさい、と勧めます。「主よ、あなたは『わたしの避けどころ、砦、わたしの神、より頼む方』ですと。」

神さまは何よりもわたしたちの告白を喜んでくださいます。そうではないでしょうか。その告白を聞いた人々が、わたしたちが神さまから助けられるのを確かに見、また聞いて、彼らもまた神さまを信頼するようになることを、神さまは望んでおられるからです。神さまは私たちの告白をお聞きになって、こう言われると詩人は申します。「彼はわたしを慕う者だから彼を災いから逃れさせよう。わたしの名を知るものだから、彼を高く上げよう」と。そのためにはわたしたちは見かけではなく、真実に神さまを愛し、敬い、信頼する者でなければなりません。

また、「彼はわたしの名を知るものだから」と言われるからには、わたしたちは神さまとはどのような方であるかについて、日々学び、知るように努めなければならないと思います。こうした真実の信仰、そして真実の学びが、わたしたちの日常生活で行われた上で、神さまはわたしたちの祈りを待っておられるのです。「彼がわたしを呼び求めるとき、彼に答え、苦難の襲うとき、彼と共にいて助け、彼に名誉を与えよう。」何よりも、わたしたちは神さまに呼び求める必要があるのです。すなわち、わたしたちは神さまを知っているとしても、また神さまを愛していると思っていても、実際、試練に見舞われたときに、わたしたちは神を呼び求めないということが、実際あるのではないでしょうか。わたしたちは突然の悩みに遭った時に、祈りより先にあれこれと思い煩ってしまうとか、または神さまの御心を求めるよりも、自分の願望が先立ってしまうと、試練の時に「助けてください」と、呼び求めることができないのではないでしょうか。真にわたしたちには、信仰者でありながら多くの落とし穴があることに気づいて愕然とするのです。

今日のカテキズムは主の祈りの第六番目の求めについて学びます。その求めは「わたしたちを誘惑に陥らせず、悪よりお救いください」です。誘惑、試みとは何でしょうか。それは、わたしたちを神さまから背かせ、引き離そうとするあらゆる力を意味しています。それは、犯罪のようなものばかりではありません。たとえば人の物を盗むとか、他人の結婚生活を破壊するというような目に見える分かりやすいものばかりではないのです。神さまを忘れ、自分中心に生きることから起こって来るあらゆるものが誘惑となります。東京のブランドの地域の話をしましたが、目を奪われ、心を失った結果、現実の自分が見えなくなり、現実の隣人も見えなくなることは恐ろしいことです。何が善で何が悪かも次第に見失ってしまうでしょう。

そのようなわたしたちの弱さに悪魔は付け入って、神さまから離れさせようと攻め立てる、それが誘惑です。しかし神さまはそのようなわたしたちを救うことを御自分のお心とされました。そして御子イエスさまによってその救いのご計画を実現なさったのです。今日はヘブライ人への手紙2章を読んでいただきました。その10節で、御子が数々の苦しみに遭うことを良しとされ、それによって完全な者とされたと書かれています。完全な者とは、罪人の罪を贖うための務めを行うことが完全にできる者ということなのです。その内容は17節をご覧ください。

「それで、イエスは、神の御前において憐れみ深い、忠実な大祭司となって、民の罪を償うために、すべての点で兄弟たちと同じようにならねばならなかったのです。」ここで、「憐れみ深い」という言葉は、イエスさまが「人々の弱さを自分のものとして引き受けることができる」という意味です。イエスさまは神の子であり、父なる神と一つの心で従っておられますから、罪とは関係のない方なのですが、神さまから離れ去っていたために罪に苦しむわたしたちのために、その罪を引き受けて苦しんでくださいました。18節。「事実、御自身、試練を受けて苦しまれたからこそ、試練を受けている人たちを助けることがおできになるのです。」

天の父なる神さまはこのような方を救い主として、わたしたちにお与えくださいました。

12節から13節にかけての旧約聖書の引用が三つあります。その一つは詩編22:23です。これは、ダビデが出会った試練の時と、そこから救われた時の神への賛美です。そこには、「わたしの兄弟たちに知らせたい」との熱意が歌われています。また第二は、サムエル記下のダビデの感謝の歌です。「わたしの神、大岩、避けどころ、わたしの盾、救いの角、砦の塔。わたしを逃れさせ、わたしに勝利を与え、不法から救ってくださる方」と歌います。そして第三はイザヤ8:17-18「わたしは主を待ち望む。主は御顔をヤコブの家に隠しておられるが、なおわたしは、彼に望みをかける。見よ、わたしと、主がわたしに委ねられた子らは、シオンの山に住まわれる万軍の主が与えられたイスラエルのしるしと奇跡である。」「主がわたしに委ねられた子ら」とはだれでしょうか。それは救い主によって神さまが救いに入れられることを望んでおられる信仰者のことに他なりません。

ダビデによって指し示された救い主、イエスさまは、信じる者を兄弟と呼んで下さり、神の子らと呼んでくださいます。そしてわたしたちに先立って試練を受け、十字架の死にも打ち勝って、神さまの命へとわたしたちを招いてくださいました。18節をもう一度読みましょう。「事実、御自身、試練を受けて苦しまれたからこそ、試練を受けている人たちを助けることがおできになるのです。」キリストのわたしたちへの熱意は天の父と同じ。キリストの神さまへの信頼は、神さまと一つ心。そしてキリストの忍耐、わたしたちが奇跡的に救われることを待ち望む忍耐は、わたしたちばかりでなく、まだ信仰を持つに至らない人々への希望です。ヘブライ人の手紙によって、神さまは御自分がどんなに恵み深い方であるかを証ししていることでしょうか。

私がこの教会で働いたことは本当に僅かな実りでしかありませんが、多くの人々が救いに入れられる日まで、私は伝道者として遣わされた者の悲しみと痛みを忘れることはなく、祈り続けなければならないでしょう。今年度の教会標語を思い出してください。それは週報の表紙に掲げられています。(エフェソの信徒への手紙第3章18-19節)「また、あなたがたがすべての聖なる者たちと共に、キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解し、人の知識をはるかに超えるこの愛を知るようになり、そしてついには、神の満ちあふれる豊かさのすべてにあずかり、それによって満たされるように。」

わたしたちは成宗教会に連なり、この教会を建てるために祈って参りました。先週の主の日の朝に完成したばかりの成宗教会の記念誌が届きました。キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さを理解することが、この小さな群れの歴史を振り返る記念誌の中でも、なされることは本当にうれしいことです。時は移り、人は変りますが、わたしたちはイエス・キリストの変ることのない愛をささやかにでも証しして生き、証しして、次の世代に受け継がれる信仰共同体のために祈りましょう。

今日のカテキズム問62は、「主の祈りは何を第六に求めていますか」でした。そしてそれに対する答は、「わたしたちを誘惑に陥らせず、悪よりお救いください」です。わたしたちを神さまから引き離そうとするあらゆる力から守ってくださるようにと、心から願うのです。祈ります。

 

主なる父なる神さま

主のご苦難に表された、あなたの大きな愛、罪ある者をも悔い改めさせ、立ち帰って救いに入れられることを望まれるその熱意を思い、心からの感謝を捧げます。

本当にあなたに忠実でありたいと思いながら、なすべき善は行わず、なすべきでない悪を行う惨めな者であったことを深く懺悔いたします。この至らなさのために躓いた兄弟姉妹も少なくなかったと思いますが、どうかあなたの慈しみによってその人々を癒してください。皆共にキリストの執り成しをいただいて罪赦され、御言葉に従う礼拝の生活に立ち帰るようにお導きをお願い致します。

今週は東日本連合長老会の行事が二つございます。月曜日の教師歓送迎会、また木曜日の長老・執事研修会の上に、どうぞ聖霊の豊かな恵みが注がれますように。奉仕する先生方、を祝してください。また、その後行われる教会会議があなたの恵みのご支配と導きのうちに行われますように。

成宗教会に務めを与えられ赴任の準備をされている藤野雄大先生、美樹先生の上にあなたの導き、お支えが豊かにございますように。教会の多くの兄姉が高齢になり、礼拝に参加できない状況をあなたはご存知です。どうか主にある交わり、御言葉の糧をすべての人々が分かち合うことができますように道を開いてください。また、教会を建てるために、特に礼拝の奉仕を担っている方々を励ましてください。小さな奉仕でも担うために、必要な健康などを整えてください。主に喜んで捧げることができますように、聖霊の助けをお与えください。何よりも教会の主の恵みによってすべてが備えられ、導かれますように、すべてを、希望を持って待ち望む群れとなりますように。

どうか、教会員一人一人が、家族に対してあなたが与えられた祈りの務めを思い見、救いのために祈り続けることができますように。病床にある方々、悩みにある方々を顧みて、あなたの恵みによって癒し、守り導いてください。

主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

いのちの糧を求めて

聖書:列王記上17816節, マタイによる福音書141321

 成宗教会が東日本連合長老会に加盟する以前には、礼拝で旧約聖書のみ言葉を中心的に取り上げることはなく、新約聖書が中心に説教をしておりましたが、東日本の一員となってからは、毎週旧約聖書と新約聖書の両方から聖句を取り上げるようになりました。これは、聖書の一体性を表すためであります。すなわち、旧約聖書も新約聖書も救い主イエス・キリストを証言する神の言葉であるからです。

そういう訳で今日の旧約聖書は、列王記上17章を読んでおります。教会ではクリスマスの時期になると、洗礼者ヨハネの物語も伝えられます。ヨハネは、救い主の到来に備えて道を整えるために遣わされました。そしてイエスさまは、洗礼者ヨハネについて、預言者エリヤが再来したのだとほめられたことがあります。そのエリヤが今日読んでいただいた聖書に登場するエリヤであります。

神さまはエリヤの時代に地上に飢饉を送りました。イスラエルの王アハブが神さまに甚だしく背いたからです。神さまの怒りは燃え上がりました。そこで神さまはエリヤをアハブ王に遣わして飢饉を預言させました。それから、エリヤはイスラエルの地を去り、外国の地シドンに行きました。神さまがそこに行きなさいと命じられたからです。行ってみると一人の女の人が薪を拾っていました。エリヤは水とパンをくださいと頼みましたが、その人は貧しいやもめだったのです。彼女は答えました。

「あなたの神、主は生きておられます。わたしには焼いたパンなどありません。ただ壺の中に一握りの小麦粉と、瓶の中にわずかな油があるだけです。わたしは二本の薪を拾って帰り、わたしとわたしの息子の食べ物を作る所です。わたしたちは、それを食べてしまえば、後は死ぬのを待つばかりです。」今の時代に生きるわたしたちはこのような窮乏を想像することができません。しかし、日本でも戦争の最中に、また直後に、餓死した人々は少なくなかったのです。戦争で攻める者も、攻められる者も、多くの犠牲者が出ますが、その死者の多くが飢え死にであったのではないでしょうか。ここに一人のやもめがいます。夫は死んで、息子と自分が後に遺された。しかし、雨は降らない。作物はできない。死がまじかに迫っていました。

そんな人に向かって、「わたしに水とパンをください」などとはとても言えないのが普通でしょう。ところがエリヤは言いました。「ください」と。「まず、わたしのためにください」と。なぜなら、イスラエルの神さまである主はこう言われるからです、と。「主が地の面に雨を降らせる日まで壺の粉は尽きることなく、瓶の油はなくならない」と。エリヤは自分の仕える神さまのお名前を明らかにして、神さまの言葉を伝えたのです。すると驚いたことに、外国人の女の人はその通りにしました。彼女はエリヤを預言者であると信じたからです。そしてエリヤを遣わされた神さまの言葉を信じたからです。するとそのお言葉どおりのことが起こりました。そこで、この名もない女の人のことがエリヤと共に聖書に書かれ、伝えられるようになったのです。こうして聖書は証ししています。神さまの御言葉が信じられるとき、そして神さまのお言葉に人が従うとき、正にその時、神さまのお言葉が本当になると。

イエスさま御自身も、このエリヤの物語を人々に語られたことがあります。それはルカ福音書4章25節、26節です。「エリヤの時代に三年六カ月の間、雨が降らず、その地方一帯に大飢饉が起こった時、イスラエルには多くのやもめがいたが、エリヤはそのだれのもとにも遣わされないで、シドン地方のサレプタのやもめのもとにだけ遣わされた。」当時のイスラエルの人々の信仰は大変民族主義的でした。神さまはイスラエルを救ってくださると信じていました。イスラエル第一主義でした。それで、イエスさまのご指摘に腹を立てたのです。イエスさまは神さまがシドン地方のサレプタという、外国の地で外国人だけを助けたと言われたからです。それはイスラエルの中の、何とイエスさまのお育ちになられた町での出来事でした。人々は怒りのあまり、イエスさまを崖から突き落とそうとしたと言われます。

イエスさまは神の民であるイスラエルの中に生れ、人となられました。しかし、神さまの御心はアブラハム、イサク、ヤコブの子孫によって、アブラハムの子孫が救われることだけにあったのではありません。神さまの御心はアブラハム、イサク、ヤコブの子孫によって、全世界が救われることだったのであります。自分を中心に考える人々は、神さまの広いお心が全く理解できなかったのでしょう。しかし、「自分を中心に考える人々」と、わたしたちはまるで他人事のように言う時に、では私たちはそうではないと言うことができるのでしょうか。人は皆、他の人のことを考える余裕がなくなっています。自分のことで精いっぱい。まして、遠い国の人のことを考えるゆとりなど無く、日々の暮らしに追われているのではないでしょうか。そして、ついには近隣の人々でも、隣人のことでも、「人のことは知ったことではない」と言わないばかりに生きているとしたら、真にそれこそが貧しい生き方であり、それを通り越して、醜い生き方をさらしているのです。

しかし、このような人の世の貧しさ、更に醜さをご覧になっている方がおられます。それは天の父なる神さまです。そしてこの方を「天のお父さん」と呼びなさいと教えてくださったイエスさまなのです。今日はマタイ14章を読んでいただきました。13節。「イエスはこれを聞くと、舟に乗ってそこを去り、ひとり人里離れた所に退かれた。しかし、群集はそのことを聞き、方々の町から歩いて後を追った。」この物語の直前に語られているのは、洗礼者ヨハネが殺された、という記事でした。多くの人々が尊敬していた預言者を惨殺したヘロデ王の悪行は人々をどんなに悲しませ、失望させたことでしょう。

それを聞かれたイエスさまは静かな所に退いて一人になりたかったことと思います。イエスさまは人としてたくさんの働きもなさった結果、大変お疲れになり、休息が必要でした。またヨハネが捕えられたからには、ご自分も不用意に捕えられないように用心しなければなりませんでした。そして何よりも主は十字架への道を進んで行くにつれ、人に会う前に、神さまと共に過して祈る時が必要なことを感じられたことでしょう。

ところがイエスが舟から上がってみると、そこには大勢の群衆が待っていました。彼らはイエスさまの後を追って方々から歩いて来たのでした。その人々の有様を見てイエスさまはどうお感じになったでしょうか。疲れていらしたに違いなかったのですが、イエスさまは彼らの姿に深い憐れみを覚えられたのです。同じ場面がマルコの福音書に記されていますが、そこでは、群衆が飼い主のいない羊のような有様を深く憐れまれたと言われています。その憐れみ、深い同情こそは、イエスさまをお遣わしになった天の父の御心そのものであったのです。

イエスさまはお疲れも忘れて、人々に教えを与えられ、またその中の病気の人々を癒されました。ここには同じイスラエルの地に生きている人々の中で、全く別の人々が描かれています。すなわち、一方では自分たちこそ救われるべき神の民と思い、外国人を軽蔑しているので、エリヤが外国の女性を救った話に怒り、イエスさまを殺そうとする人々がいるかと思えば、他方ではここに描かれているように、イエスさまには神さまの御力がある、救いがあると信じて、ただ一心に後をついて来る人々がいるのです。どちらに祈りがあるでしょうか、救いが与えられるでしょうか。答は誰にでも明らかではないでしょうか。

イエスさまはしばらくの間、群衆から離れたいと思われたのですが、ご自分の願いを放棄されました。そして人々が家を離れ、御自分について来ようとする様子を、飼い主のない羊のように御覧になり、憐れんで、彼らが長い道のりを歩いて家に帰る前に食べる物を与えられたのです。こうして、イエス・キリストは魂を養うために働いて来られたのですが、今や御自分の羊飼いとしての務めを、羊の魂の養いばかりでなく、身体の養いにまで拡大してくださいました。このことによってわたしたちは確信することができるのです。それは、もしわたしたちが、イエスさまの教えに従って、神の国とその義を求めるならば、天の神さまはその他のものをも加えて与えてくださるという確信です。

今もイエスさまは、飼い主のいない哀れな羊を天から御覧になっておられるのではないでしょうか。そして、もしわたしたちが自分の欠乏を知り、日々私たちに必要なもの、自分たちに無くてならないものがあることを知っているならば、そしてもし、わたしたちに必要なものが満たされるようにと、願い求めるならば。そして、何よりも、わたしたちに必要なもの、なくてならないものを持っておられる天のお父さまを知っているならば、わたしたちにはイエスさまの執り成しによって、主の祈りが与えられているのです。

しかしわたしたちは、天の父がわたしたちの必要を知っておられると本当に信じているでしょうか。わたしたちは、天の父がわたしたちに一番良いものをくださろうとしておられることを知っているでしょうか。わたしたちは自分の弱さのために、神さまの広い心、深い慈しみを思い見ることができません。与えられている現実に満足せず、もっと良いことがあるはずだと思うあまり、与えられているものを感謝して受けることが疎かになってはいないでしょうか。また、わたしたちは自分の弱さのために、わたしたちの必要を満たしてくださる神さまを待ち望む忍耐が足りない者です。すぐに不安になる。すぐにあきらめてしまう。自分が思うような結果が見えて来ないと、簡単に絶望してしまうのです。

しかし、このようなわたしたちの現実の中にも、いや、このようなわたしたちだからこそ、神さまの深い慈しみは現れました。成宗教会の小さな群れにも、いのちの糧は与え続けられて来たことを思います。イエスさまは今は天におられ、教会に牧師を立てて、長老を立てて、御言葉の糧を与え、教会の群れを養い続けておられます。一人一人の働きは拙く、イエスさまのお弟子たちもそうであったように、疲れ果て、不安でいっぱいになった時も度々あったのです。しかし、イエスさまの弟子たちはイエスさまがパンを取って讃美の祈りを捧げて、渡してくださったそのパンを人々に分け与えた時のように、私たちもこの小さな群れの中で礼拝を捧げ、日々、いのちの糧を分け与えるささやかな務めを果たして参りました。これからもそうでありますように。

今、教会に新しい教師が与えられ、牧師として立てられようとしています。わたしたちの祈りが聞かれているのです。その祈りは、いのちの糧を求める祈りです。わたしたちの日毎の糧を今日も与えてください、という祈りです。これは、パンを求める祈りですが、パンそのものだけを求めているのではない、ということを私たちは知っています。わたしたちに必要なものすべてを求めているのです。しかし人間は自分に本当に何が必要なのかが、分からないということがしばしばあります。

幸いなことに、わたしたちは私たちに必要なものを知っておられる方を知りました。それはイエス・キリストです。この方を信じていのちの糧を求める時、文字通り、身体を養う日毎の糧も、生きるために必要なすべても、そしてわたしたち自身が知らない大切なものも、神さまは備えてくださり、お与えくださることを信じましょう。今週水曜日から受難節に入ります。右も左もわきまえないような弱い者、いつの間にか神さまの許から離れ去り、背き去ったことにも気がつかないようなわたしたちをご覧になって深く憐れんでくださる主を思い起こしましょう。主はこのような罪人の救いのために十字架に掛かり、わたしたちを贖って、ご自分のものとしてくださいました。教会は主イエス・キリストの体です。主に結ばれて、主の祈りを祈りましょう。

今日のカテキズムは問60です。「主の祈りは第四に何を求めていますか。」そして答は、 「わたしたちの日毎の糧を今日もお与えください」です。神さまは私たちに必要なものをすべてご存知であり、わたしたちを生かし、養ってくださるお方です。だから神さまにすべてを求め、委ねます。」祈ります。

 

恵み深き天の父なる神さま

尊き御名を讃美します。あなたは御子イエス・キリストにより贖いの業を成し遂げて、不滅の命を表してくださいました。わたしたちは、その計り知れない御業の偉大さを十分理解することができない、真に罪深い者ですが、主は今もわたしたちのために執り成してくださり、主の教会の肢として救いに至る道を日々整えてくださることを感謝します。今日のみ言葉によってあなたの教えを深く心に思い、ただあなたに対する信頼を持って心からいのちの糧を求める者とならせてください。

三月に入り、受難節を迎えようとしている今、成宗教会は新しい先生方をお迎えする準備を進めています。いたりません所をあなたが整えてくださり、弱いわたしたちを励まして新しい年度に感謝をもって向かわせてください。赴任なさる藤野雄大先生、美樹先生を励まし、皆が心を一つにして支え会うことができますように。成宗教会の新しい時代に向けて扉を開いてください。

どうか心身共に弱い者を助け、高齢の教会員を慰めてください。今、礼拝に来ようとして来られない方々、大きな悩みにある方々を顧みて恵みをお与えください。

本日行われる長老会議の上にも聖霊の主の恵みのご支配があり、御心を行ってくださいますように。また、今日は聖餐に与ります。どうぞ、あなたの聖霊のご支配によって与らせてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。