イエス・キリストの名によって

聖書:詩編1182225節, 使徒言行録3110節,41012

 今年も恵まれてイースターの礼拝を守ることができました。主イエスのお墓はからっぽだった。このことによって弟子たちは、自分たちの罪が赦されたことを信じたのでした。それだけではありません。主イエスの復活という奇跡は、神が、差し出しておられる救いへの招きであります。主イエスの復活を信じるなら、その人の罪を赦されると、信じたのでした。私たちは礼拝の中で、世界中の教会が代々信じて来た信仰とは何かを学んでいます。それは古代教会から今に至るまで教会が受け継いで来た信仰告白で、それに基づいて明治時代に制定された日本基督教会信仰告白があり、また日本基督教団信仰告白も制定されております。

わたしたちの教会は洗礼式の際には日本基督教団信仰告白を告白しますが、1954年に制定された教団信仰告白の元になっているものが日本基督教会信仰告白なので、元々連合長老会に所属している教会では、この信仰告白を合わせて告白しているところもあります。

わたしたちが今取り上げて学んでいるのは、使徒信条です。本日は、「我らの主イエス・キリストを信ず」と告白している、このところであります。この言葉は、教会の中ではイエスが名前でキリストが名字だと思っている方はいないと思いますが、世の中ではそういう誤解もあるそうです。

これは、イエス様は救い主キリストであると、私たちは信じ、主と崇めます、という意味であります。世の中にはたくさんの宗教があり、たくさんの神々と称するものがありますが、そのことを受け入れているのではありません。他の人々はどうであろうとも、私たちはイエス様こそ、救い主。私たちを救う御力のあるただお一人の方、神であると告白しているのです。今日の聖書はよく知られた神殿の前で起こった奇跡物語です。

この神殿を立てたのはヘロデ大王。マタイ福音書の2章に登場する異邦人の支配者であります。彼は壮大な神殿を建てましたが、その入り口の一つに「美しい門」という名の場所がありました。大層豪華で美しい装飾で飾られた門は当時の人々の目を奪ったことでしょう。ところがその入り口には一人の乞食が座っていました。境内に入る人々に施しを求めて生活をしていたのでしょう。美しい門とみすぼらしい乞食。それは全く不釣合と思うかもしれませんが、実はそうではないのです。神殿が豪華であろうと質素であろうと、ユダヤの人々には神殿に来る目的は別にありました。

それは言うまでもなく、神を礼拝することです。では、復活の主にお会いし、主イエスはキリストであると信じた人々はどうしたでしょう。彼らもユダヤ人でした。主イエスを十字架に付けたのもユダヤ人。主イエスの復活を信じ、罪の赦しを信じた最初の弟子たちもユダヤ人でありました。では弟子たちは、主イエスを十字架に付けた憎き人々の指導する、仕える神殿には行かなくなったのか、と言えば、決してそうではありませんでした。彼らは家に集まって主を賛美し、パンを裂き、主の制定された聖餐を守ったことでしょう。しかし、彼らがこれまでしていたことを止めませんでした。それは毎日2回か3回、神殿に出かけて行ってこれまで通り、礼拝を守ることでした。

そういうわけで、ペトロとヨハネは神殿の美しの門を入ろうとしました。すると物乞いをしている人が目に留まりました。この人の方は、毎日大勢の人々が出入りするので、一人一人を見上げたりしなかったでしょう。ただ下を向いてお願いして居れば、中にはお金を落とす人がいる。それで良かったのです。彼はそれ以上、だれにも何も期待してはいなかったでしょう。

ところが、ペトロとヨハネは彼をじっと見て、「私たちを見なさい」と言いました。その人はびっくりしたでしょう。でも彼は自分が人に期待していること以外のことは考えませんでした。期待していること。それは、何かもらえることです。ところが彼の期待は裏切られました。しかし、彼の期待を全く打ち破ることが起こったのです。ペトロは言います。「わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう」と。弟子たちの持っているもの。それは主イエスのお名前でした。イエス・キリストへの信仰でした。

金銀を持っている人々は、そうだれにでも分けて上げたいとは思わないものです。分けたらなくなってしまうと心配します。どこかに隠してでも取って置こうとします。食べ物でも沢山あったら、みんなに分けてしまわないで、何とか保存食にして取って置こうとするでしょう。ところが本当に良いものを持っている人は分け与えずにはいられない。本当に良いもの。それは、人に分けても無くならないのです。むしろますます豊かになります。それは何でしょうか。それがイエス・キリストの福音です。ペトロが持っているものは、しまいこんでおくことができないもの・・・それは福音です。福音は人から人へと伝えられてこそ福音である。福音は人々に伝えてこそ、その本当の意味、本当の力が現れるのです。

ペトロは彼が持っている福音を言葉によって、この人に伝えました。「ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」と命令したのです。この命令は、決してペトロ自身の力や権威によって命じたのではありません。彼は、ナザレの人であり、私たちの救い主である主イエスの名を呼んで、その名を信じて、その名によって命じたのでした。言葉は力となり、結果を生み出します。それだからこそ、主イエスの力と権威は、命じられた人の上に現れることとなったのです。そして、右手を取って彼を立ち上がらせた。すると、たちまち、その男は足やくるぶしがしっかりして、躍り上がって立ち、歩き出しました。そして、歩き回ったり躍ったりして神を賛美し、二人と一緒に境内に入って行ったのです。

こうして、乞食の期待は全く裏切られました。彼はただいくらかの施しを求めただけだったのですが、思いがけないもの、立ち上がって、歩く力を与えられるという、全く信じられないほどの主の恵みに与ることになりました。「立ち上がる」というギリシャ語は、座っている状態から立ち上がるという意味ばかりではありません。人が眠っている状態から「起き上がる」、あるいは死んでいる状態から」「甦る」という意味をも表します。また「歩く」というギリシャ語は、「生活する」、「生きて行く」という意味でもあります。

エフェソの信徒への手紙5章14節(358ページ)に次のように言われます。「眠りについている者、起きよ。死者の中から立ち上がれ。そうすれば、キリストはあなたを照らされる。」キリストの御名によって、私たちは死者の中からキリストと共に復活したのです。これからもキリストに照らされて恵みの道を歩みましょう。

何年も前から「美しい門」にいるこの足の不自由な乞食は人々に知られていました。人々が驚き怪しむ中で、彼は今やすべての参拝者の中で、一番喜びにあふれた人となったことでしょう。こうして、この出来事は証言したのです。救い主イエスの御名が真に権威あるものであることを、だれの目にも明らかなように証言するものとなりました。

福音を聞いた人々の一方は、他方に向かって呼びかけます。「ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」と。すると呼びかけられた人は立ち上がり、歩き回ったり、躍ったりして神を賛美するのです。素晴らしいことではないでしょうか。主イエスの名によって立ち上がる。そして神を賛美する。そのために私たちは教会に集まるのです。さて、私たちは今喜んで神様を賛美しているでしょうか。イエス・キリストの救いを自分だけのものにしておくことができずに、他の人に呼びかけずにはいられない人でしょうか。神の不思議な業としるしとは、このような人々の間に現れるでしょう。どちらも主イエスの御名の権威を証ししているからです。そしてこのような私たちが教会の門の内側に入って主イエスの名によって教会を建てることができるのです。

しかし、私たちはしばしば福音を忘れてしまう者ではないでしょうか。門の前に座りながら、入って行くことを忘れてしまっている。神様に溢れる恵みをいただきながら、感謝と賛美と祈りのために教会に集まることを忘れてしまう。神様の恵みを忘れてしまう恩知らずの罪深い者である私たち。しかし、だからこそ、福音はいつも繰り返し聞かなければならないのです。主イエスの名によって語られる罪の赦しの言葉を新たに聞いて立ち上がって行かなければならないのです。

小さなたとえ話をしましょう。これは古代教会の神学者が語ったものではないかと思いますが、今は覚えていません。世界という名の一人の乞食がいました。その名は「世界」というのです。彼が天の国の門の前に横たわっている。それを神さまは見ました。ところで、神様にはご自分の中に隠してしまっておくことのできないものがありました。それは御自分の命と愛でありました。世界という名の乞食はただ施しと冷たい飲みものを求めました。しかし、神さまは御自分の愛する御子を彼にお与えになりました。御子は人が従うべき真の人、人が求めるべき命でありました。御子は世界の萎えた身体の内に住んでくださいました。そして、世界が再び歩き、飛び跳ね、賛美できるようにして下さいました。それは、イエス・キリストの物語であります

ところで、イエス・キリストの名によって癒された人のことでペトロたちは非難中傷されました。しかしこのような迫害も、神様はキリストの名を高めるためにお用いになってくださることが分かります。ペトロは公の場で宣言する機会を与えられたからです。4章10節。「あなたがたもイスラエルの民全体も知っていただきたい。この人が良くなって、皆さんの前に立っているのは、あなたがたが十字架につけて殺し、神が死者の中から復活させられたあのナザレの人、イエス・キリストの名によるものです。」ペトロはさらに詩編118編を根拠として、人間の罪、特に人の上に立って人々を導いている指導者の罪を告発しました。

「家を建てる者の退けた石が隅の親石となった。これは主の御業、わたしたちの目には驚くべきこと。今日こそ主の御業の日。今日を喜び祝い、喜び躍ろう。どうか主よ、わたしたちに救いを。どうか主よ、わたしたちに栄えを。」ペトロは人間の罪と神の恵みを恐ろしいまでに対比させています。「あなたがたはイエス様を殺したのだ。しかし、神さまはその方を復活させられたのだ」と。すなわち、人間が価値のないものとして軽蔑して捨てた方を、神さまが用いられるということが起こりました。隅の親石とは、建物が建てられる時の、最も端にある土台の石のことであります。隅というのは、大変不思議な二つの特徴があります。まず、建物の隅といえば、目立たない場所ですが、逆に建物の外から隅を見ると、いろいろな方向からよく目立ち、建物の根幹を支える要の石がそこに置かれているのです。

では主が隅の親石となって下さる目的は何でしょうか。それは、わたしたちがキリストを信じて、キリストの体の教会に組み込まれ、教会の生ける石となるためである。「私たちを救うことができるのは、イエス・キリストの御名によるしかない」という宣言を私たちは聞きました。代々の教会はこのお名前を信じ、告白しているのです。私たちはこのような確信をもって、信頼を以って、日々、主を見上げているでしょうか。この告白において、ペトロや使徒たちと同じ立場に立っているでしょうか。そうでないか、ここが私たちの決定的な違いとなる。この告白によってのみ、私たちはイエス・キリストの教会を建てることができる。

 

主なる父なる神様

皆をほめたたえます。先週はイースター聖餐礼拝を豊かに守ることができ、感謝でございます。私たちは新しい姉妹を教会に迎えることができました。どうかあなたの祝福に満ちた教会を建てるために、互いに主の御旨を行い、ご栄光を表す教会となりますように。教会総会をまじかに控え、様々な問題を解決していくことができますように。多くの兄弟姉妹が高齢のため、奉仕を続けることが困難です。若い方々も非常に忙しく困難を極めていますが、どうか助け合って礼拝を守り、奉仕を捧げ、あなたのご栄光と御心とを表す教会となりますように。総会の準備を祝し、また導いてください。長老選挙の上にあなたの恵みの導きを祈ります。長老、信徒の皆様のご健康をお支えください。教会学校はじめ、若い方々の信仰の教育が発展し、良い実を結ぶ教会となりますように。教会学校に与えられている生徒さんとご家族がイエス・キリストの福音を豊かに聞くことができますように。

東日本連合長老会に加盟して5年になります。この間のお導きを心から感謝します。長老会もますます忙しくなりますですが、どうか長老ばかりでなくすべての教会の奉仕者が恵まれ、支えられますように。御言葉によって良い学びが出来、共に教会を建てて行くことができますようにお助け下さい。

今、お病気が重く、お見舞いもできない方がおられます。どうぞ、また共に集い、主の御顔を仰ぎ賛美を捧げることができますように、ご回復を切に祈ります。また特にご高齢の方々の日を平安で満たしてください。

この感謝、願い、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

死から命へ!

イースター聖餐礼拝

聖書:イザヤ42章10-16節,  マルコ16章1-8節

 主の年2018年のイースターを迎え、主はわたしたちを成宗教会に集めてくださいました。日頃、主を覚え、礼拝を思いながらも、集まることのできない多くの人々のために、主は今日、特別な時を与え、必要なものをお与えくださって、わたしたちが取るものも取りあえず、集まって主を礼拝する心を備えてくださいました。復活の主が二千年前に人々にお知らせくださったように、今は全世界でご自分の復活をお知らせくださり、その命にわたしたちをも招いておられるのです。

しかし、わたしたちは日常の生活で、主のご復活を思うよりも先に、日日の出来事に深くかかわり、時間に追われるより他ないのが実情です。あれやこれやの急な出来事があり、心配事や、周囲の人々の言動に影響され、悩まないではいられないのです。そんなわたしたちが主の御言葉を思い出すと、弟子たちがうろたえた気持ちがよく分かるのではないでしょうか。彼らは主に従って来たのですが、主の御言葉の意味が分かりませんでした。マルコ10章33-34節です。82頁。「今、わたしたちはエルサレムへ上って行く。人の子は祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して異邦人に引き渡す。異邦人は人の子を侮辱し、唾をかけ、鞭打ったうえで殺す。そして人の子は三日の後に復活する。」

そしてお言葉通りになりました。エルサレム入城された時、喜び出迎えた群衆は、十字架を見て、イエス様を軽蔑し、呪う群衆と変ってしまいました。そして弟子たちも、「たとえイエス様と一緒に死ななければならなくなっても、イエス様を知らないなどとは決して申しません」と誓ったペトロは、「あの人は知らない」と激しく三度も言ってしまいましたし、他の弟子たちは逃げ去ってしまいました。みんなうろたえ、変ってしまった。それも本当に主の御言葉通りになったのです。

それならば、主の最後の一言もやっぱり、お言葉通りになるはずではなかったでしょうか。主の御言葉は次の通りです。「そして人の子は三日の後に復活する。」けれども、それについて思い出し、思いめぐらす者はだれもいなかったのでした。ご復活の朝、婦人たちは、主が葬られたお墓にやって来ました。彼女たちがやって来た訳は、ご復活を信じていたからではありません。しかし、絶望の時にも、彼女たちはてきぱきと行動しました。なぜなら、その当時の社会の習慣があったからです。それは死んだ人の遺体に香料を塗ることでした。彼女たちもイエス様の十字架の死に衝撃を受け、これからどうやって生きて行くのか、と途方に暮れていたでしょう。

しかし、そんな時にも彼女たちはできる限りのことをしました。出来る限り日常の生活を続けるのです。お腹がすいた者に食卓を整え、子を産み育てる者を助け、病気の者を気遣い、そして死者を大切に葬って、真心を尽くすのです。「一番偉くなりたい者は仕える者となりなさい」言われた主の言葉を思います。彼女たちは偉くなりたいと思わなかったかもしれません。そして実際男の弟子たちからも偉いとも思われてはおらず、むしろ、話をしても、「なんだ、女の言うことじゃないか」ということでしょうか、信じてももらえなかったようです。しかし彼女たちは、実はこのように主の言葉に従っているのです。たとえどんなに希望の見えない時にも。これからどうすれば良いのか、と途方に暮れる時も。取りあえずしたことは、イエス様に対する礼儀、感謝を具体的に表すことだったのです。

しかも、お墓に出かけたのは、冷静で計画的とも言えない行動であったようです。なぜなら、彼女たちはお墓の入り口に大きな石があるので、中には入れないことを知っていたのですから。ところがこのような女性たちを主は祝福しておられます。彼女たちは他の弟子たちと同様、主のご復活のことが分からなかった。覚えてもいませんでした。それでも主に対する愛を表して、お墓にやって来た。泣きに来たのかもしれません。その女性たちを祝福して、主は空っぽの墓を見せてくださいました。なぜご遺体は消えてしまったのだろうか。もしや泥棒が盗んだのだろうか。仰天した彼女たちが、あれこれ思い悩む前に、主は白い衣の若者を遣わされました。白い長い衣が天使を思わせます。

彼は次の言葉を告げます。「驚くことはない。あなたがたは十字架に付けられたナザレのイエスを探しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。御覧なさい。お納めした場所である。」「驚くことはない。あなたがたは十字架に付けられたナザレのイエスを探しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。御覧なさい。お納めした場所である。」復活!彼女たちも知っていました。イスラエルの人々は皆、死者の復活を信じていたからです。わたしたちは皆終わりの日に復活させられ、神の裁きを受けなければならないことを。

イエス様は人間の罪を借金に例えられました。神様に借金しているその負債額は天文学的数字にも上ると言われたのです。人は神様に、きっと自分で払いますから待って下さいと願っていますが、到底自分で返すことはできないのです。そこで、神様は人をかわいそうに思い、負債を免除して上げました。天文学的数字の負債をゼロにしてくださる神。その方はどんなにありがたい方でしょうか。終わりの日にどんなに感謝してもしきれるものではないでしょう。ところが罪の赦しを約束された人は、何と、自分に対する人の罪が赦せません。大きな深刻な罪から小さな些細な罪に至るまで、どれもこれも赦せないのです。

神様がお怒りになるのはこのことです。神様は御子を世に遣わして、大きな罪も小さな罪も決して免れない世の人々を憐れんでくださいました。そして人の罪がどれだけ大きいかをまざまざと目の前に見せてくださいました。それが御子の十字架の死です。何の罪もない真心溢れる方を、残虐な死に追いやったのは、力ある者、世の指導者たちではありませんか。それを止めることもできない民衆は、ただ力ある者に追随するばかりなのです。この方の誠実を知り、その隠れた愛の力を知っている弟子たちさえ、逃げ出してしまった。一体だれが、神の恵みに与るにふさわしいでしょうか。全くだれ一人いないのです。

罪が赦されるにふさわしい人はいない。救われる値打ちのある人はいない。しかし、イエス・キリストはそのような罪人を愛して、救いに招くために世に来られ、十字架に死んでくださいました。そして三日目に復活してくださった。それが神の御心であったからです。終わりの日に死者が復活して裁かれる前に、イエス・キリストの十字架の死と復活を信じて、罪の赦しと永遠の命に結ばれるために、神は救いの道を開いてくださったのです。

では、この救いに与るために、わたしたちに必要なことは何でしょうか。この世の借金を返済するために一生懸命働くように、神様からお借りしている積りに積もった負債を返済しようと、良い業に励むことでしょうか。実際、そうしようとする人々は少なくないのです。そして大威張りで、「神様、わたしはあなたにお借りしているものは何一つありません」と言いたい人は多いのです。神様はこのような傲慢な人々にも忍耐しておられます。また、全くだらしがなく、人々にも神様にも重荷を負わせ、平気な顔をしている人々にもじっと我慢をしておられます。しかし、そこに、その人々に救いはあるでしょうか。

空っぽの墓を指し示して、天使は婦人たちに命じます。「さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かけて言われたとおり、そこでお目にかかれる』と。」これが婦人たちに与えられた使命でした。福音を宣べ伝える者たち、弟子たちとペトロ。ここで特にペトロの名が挙げられているのは、ペトロが誰よりも強くキリストを否定して裏切ったからです。主は、ペトロに復活を知らせて、罪に苦しんでいるペトロを特別に慰めようとしておられるのです。こうして彼らに福音を運んだのが、女性たちでありました。それは、彼女たちに対する主の特別な祝福であり、励ましです。もっとも、彼女たちはただただ恐ろしくて、すぐにはその役割を果たすことができなかったようですが。このように、復活の知らせは、聞いても俄かには信じられなかったのです。主のご復活の喜ばしい知らせが、初めは恐ろしいこととしか思えなかったのです。

わたしたちは思います。人間は一方ではどんなに高慢であり、他方ではどんなに弱い者であるかを。そしてどんなに自分にこだわっているかを。自分はどのように生きて、どのようにして死を迎えるか、にばかりこだわり、自分を中心にすべてを考えるのです。しかし、本当にこだわらなくてはならないことは、キリストの死と復活であります。一体、キリストは、あなたと関わりなく十字架に死なれ、あなたと関わりなく復活されたのでしょうか。この答を考えてください。神はキリストによってわたしたちにその答を与えておられます。「そうではない」と。キリストはあなたのためにも十字架に死なれ、あなたのためにも復活されたと。

これを信じるならば、あなたの人生は変えられます。自分にこだわる者から、イエス・キリストによって、神様との関係にこだわるものに変えられる。キリストに結ばれたあなたは生きる時も、死ぬときも、神に属する者と変えられます。その時、あなたの命は神のもの。神の中に隠されていると知るでしょう。その時、あなたはキリストと共に死んで、キリストと共に神の永遠の命に移って行くでしょう。祈ります。

 

主イエス・キリストの父なる神様

主のご復活を祝い、感謝を捧げる礼拝に、わたしたちをお招き下さり、真に感謝申し上げます。わたしたちは小さな群れですが、あなたを仰ぎ見、天にも地にも一つである

キリストの体なる教会を見上げ、主の御心に適った教会を建てようとわたしたちはみ言葉を聞き、聖餐に与って、主の聖霊がわたしたちの心を照らしてくださることを切に願っております。

本日あなたは、わたしたちの群れに1人の信仰者を興してくださいました。真に感謝申し上げます。どうか、今日洗礼の恵みに与った齋藤倫子姉妹を豊かに祝し、ご主人齋藤眞兄と共に助け合って、主に仕えることができますように。遠くから通って来られますので、あなたがその道々を顧みてくださいますよう、お願いいたします。また、教会のすべてのものがこの洗礼式を通して改めて自分に与えられた計り知れない救いの恵みを再認識し、主と結ばれた者としての自覚、信仰を増し加えていただけますよう、お願い申し上げます。

変わりゆく時代の中で、変ることのない主の御言葉による主の御支配が、この教会の上に、そして共に学び、歩んでいる東日本連合長老会の諸教会の上に、また志を同じくする全国連合長老会、また改革長老教会の諸教会の上に豊かにございますように祈ります。

人口減少が進むこの国で、次世代にもとこしえに残る神の言葉を伝えるために、どうかわたしたちをお用いくださり、知恵と力と、何よりもイエス・キリストに現れた計り知れないあなたの愛をお与えください。新年度が始まりました。どうか、今月行われる成宗教会総会にあなたのご計画を表すことができますように。議案の準備、また長老選挙を導いてください。私たちはそれぞれが多くの課題、多くの困難を抱えています。その中で日々の信仰の戦いを立派に戦うために、自分中心を捨て去り、主に従って、主の御支配を仰ぐものとならせてください。そして、わたしたちの死を打ち破り、あなたの永遠の命をいただくために、それぞれの戦いを主の戦いとしてください。教会の戦いをキリストの命が現れるための戦いとしてください。

ご病気のために、また様々な弱さのために苦しんでいる方々を覚えます。今日いただく聖餐、あなたの計り知れない恵みを感謝し、共にこの救いの恵みに与る人々を覚え、祈ります。この感謝と願いをわたしたちの救い主、イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

平和の君を迎える

聖書:ゼカリヤ書9章9-10節, マルコ福音書1-11節

 全世界の今年も棕櫚の主日を迎えます。日本にいる私たちは、今年は桜の開花と共に今日の日を迎えました。特に寒かった冬。東京でさえ、たくさん雪が降って、雪を片付けようにも場所に困るほどだった。それでも今年の桜は平年より早く咲いたそうです。何だかんだあっても、春は必ず巡って来る。これは本当にありがたいことです。

しかし、わたしたちは同じ季節を迎えているようでも、それは同じ年では決してありません。年は変り、時代が変って行くのですから。子供たちはこの間、赤ちゃんだったのに、今は立派に讃美歌を歌っています。この間小学生だと思ったら、今はもう大学も卒業する年だと聞いてびっくりするのです。それでは、年取って行くのは、しわが増えるくらいであとは変らないのでしょうか。私たちは何となくそんなふうに思って生きて来ました。年を取ったら家で静かに過ごしたいと思っていました。ところが独り暮らしがおぼつかなくなると施設に入ることになる。もちろん、病気になれば病院に入ります。そこで過ごす生活は、自分のイメージしていたこととは一変します。毎日、朝から晩まで、入れ替わりたくさんの人と会わなければなりません。挨拶したり、質問に答えたり、次々と人が来るので、一体自分はだれに頼れば良いのか、というほど、目まぐるしい社交的な生活の始まりです。

成宗教会では、私の務めとして、多くの高齢の教会員のご様子を拝見し、共に歩んできたので、高齢者を巡るこういう変化が、私たちの時代の特徴の一つなのだと感じないではいられません。しかし、若い世代の人々にとって、時代の変化はもっと激しく、凄まじいものではないか、と想像しているのです。同じ春は巡って来る。しかし巡って来る時代は決して同じではないのです。新しい時代が来る。それが良い時代であろうと、自分にとって好ましくない時代であろうと、必ず時代は先へ先へと進んで行きます。私たちは準備をしているでしょうか。新たな時代に主の教会を建てるために備えをしているでしょうか。

本日は棕櫚の主日、パームサンデーと呼ばれる日です。マルコ福音書11章8節では「ほかの人々は野原から葉の付いた枝を切って来て道に敷いた」と書かれていますが、ヨハネ福音書12章13節では「人々が椰子の枝を持って出迎えに出た」と言われていることに由来するもので、イエス様がエルサレムに入城された日を表しています。それは、ゼカリヤ書9章の預言の言葉が実現した日でありました。ゼカリヤ章9章9、10節をもう一度読みましょう。「娘シオンよ、大いに躍れ。娘エルサレムよ、歓呼の声を上げよ。見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者。高ぶることなく、ろばに乗って来る。雌ろばの子であるろばに乗って。」この預言が成就されるために、キリストは神に従う者となりました。その結果、神から勝利を与えられた者として、平和をもたらす王として、神の都エルサレムに迎えられるのです。

そしてキリストは高ぶることがないと書かれています。高ぶらない勝利者。謙っておられる王。このことは私たちには驚きではないでしょうか。勝利者であると同時に高ぶらない。そういう勝利者を私たちは見たことがあるでしょうか。勝利の凱旋パレードと言えば、豪華な車に乗って華やかに、きらびやかに見る者を圧倒するのが普通です。それが勝利者にふさわしいはずです。ところがゼカリヤ書に不思議なほど強調されているのは、この方が「高ぶらない」ということなのです。謙虚な勝利者というのはあまり聞いたことがありません。しかし、ゼカリヤ書では、謙虚な勝利者のしるしがあるというのです。それは子ろばです。子ろばに乗って謙虚な王が来る。この方こそ、あなたの王である。ゼカリヤは宣言しました。

そしてその預言から何百年後でしょうか。主イエスはエルサレムに入ろうとしておられます。勝利者として。苦難と死に打ち勝つ勝利者として。苦難と死を御自分のものとするために。そういうわけで、主はエルサレムに近づいた時、二人の弟子にろばの子を連れて来るように使いに出しましたが、それは御自分が疲れたので乗り物に乗りたいと思われたからではありませんでした。主は御自分の十字架の死を目の前にした今、ご自分が神の国の王であることを、荘重な儀式でお示しになることを望まれたのです。それがエルサレム入城でありました。そして御自分の王国、すなわち神の国の支配は、人々が考えるような王国とは全く違うことをお示しになりたいとお考えだったのです。もしもゼカリヤ書の「あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者。高ぶることなく、ろばの子に乗って来る」という預言がなかったら・・・。そしてその預言を誰も知らなかったなら、主イエスのエルサレム入城は大変滑稽なものであったことでしょう。

わたしたちは、この儀式に備える弟子たちの姿を注目したいと思います。彼らは主の言葉を素直に受けて従っています。主は命じられました。「向こうの村に行きなさい。村に入るとすぐ、まだだれも乗ったことのない子ろばのつないであるのが見つかる。それをほどいて、連れて来なさい。もし、だれかが、『なぜ、そんなことをするのか』と言ったら、『主がお入用なのです。すぐここにお返しになります』と言いなさい。」わたしたちは、主イエス・キリストを信じることは、主の言葉に従うことであると教えられています。しかし、わたしたちには常に不安があります。主に遣わされて向こうの村に行くときに、もしそんなろばが見つからなかったらどうしよう、と思うのです。そして見つかったとしても、だれもそこに人がいなかったら、黙って連れて来ても良いのだろうか。泥棒と間違われるかもしれない、と心配になります。更に、「なぜ、そんなことをするのか」と言われたとして、「主がご入用なのです。すぐここにお返しになります」と答えても、「ダメダメ、貸して上げられない」と言われたらどうしようか、等々心配の種は尽きません。

その時わたしたちは、いかに自分が主を信頼していないか、主に頼り切っていないかが分かって愕然とするのではないでしょうか。そして改めて、弟子たちがどんなにイエス様を信じていたかを発見するでしょう。彼らは特に立派な人々ではありません。密かに、自分と人とを比べて、自分の方が上だ、とか、偉いとか、思うような浅はかな者でもあったでしょう。しかし、主イエスのことを愛していました。皆、いつも一緒にいたいと思い、主イエスのお言葉通りになることを信じていた。そういう弟子であったのです。そして主イエスが彼らに命じられたことは、本当にすべてその通りになりました。私たちが心配するようなことは全く起こらなかったのです。このことにおいて、イエス様はその貧しいお姿の中に、真の神のご性質を示されていたのです。すなわち、神がお命じになったことはその通りになるように、イエス様がお命じになったことも、その通りになったからです。

さて、そうして連れて来られた子ろばには、まだだれも乗ったことがないのですから、当然鞍も鐙もありませんでした。もちろん弟子たちにもその用意がありませんでしたので、弟子たちは子ろばの上に自分の服をかけてイエス様をお乗せしました。その御姿を想像して見ても、何とも貧しいお姿ではなかったでしょうか。しかし多くの人々が自分の服を広げてカーペットのように道に敷いた。また他の人々は野原から葉の付いた枝を切って来て道に敷いたということです。そして喜んで、貧しい姿の王を迎えました。主の前を行く人々も主の後ろから従う人々も声を張り上げて叫びました。「ホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように。我らの父ダビデの来(きた)るべき国に、祝福があるように。いと高きところにホサナ。」

人々はホサナと叫んでいますが、「ホサナ」というヘブライ語は元々、「主よ、救い給え」という意味の言葉です。しかし、ギリシャ語に音訳されて初代教会に用いられた時には、祝福の歓呼と理解されていました。それは、主イエスがほめたたえられますように、という祈りであり、感謝であり、祝福でありました。

神の子とされた者たちが、堅く持ち続けなければならない希望、唯一つの希望があります。それは、わたしたちの悩みに沈み、罪に苦しんでいる日々の中でも、ついには贖い主が来られるという希望なのです。神はただ仲保者、すなわちキリストの執り成しによって、人々に慈悲深い方となられるのです。そして仲保者は御自分の民をあらゆる罪、咎、過ちから解放なさる方であります。この方こそ、罪に沈み、悲惨に打ちのめされた人々を歓喜させる方にほかなりません。だからこそ、預言者ゼカリヤとその言葉を語る今日の聖句は、私たちを励ましているのです。たとえわたしたちに何がなくても、だれがいなくても、贖い主が共におられる。だからこそ、わたしたちは真に喜ぶことが出来るのだと。

今日まで、そして後も、主イエス・キリストは天の父の右に座し給い、御国を求める教会の人々を御支配くださっておられます。しかし、十字架にかかられる前、主イエス・キリストの地上のお姿を記したこの有様は何と貧しいものであったことでしょうか。それにもかかわらず、大勢の人々が歌いながら、叫びながら、子ろばに乗った王を迎え、従って行ったのでした。

「主の名によって来られる方に」と歌うこの言葉に注目しましょう。主の名によって来られるとは、すなわち、神によって任命され、遣わされたという意味です。神の遣わし給う王は、世の人々の罪を贖う救い主。この方に贖っていただいて初めて、わたしたちは神の国の住民、御国の子らとさせていただけるのです。罪、咎、過ちを免れないわたしたちは、正しいことを行おうと大変な努力を重ねたと思うことで、自分に満足しようとしています。しかし、それでも救われません。神の国の住民とはなれないのです。なぜでしょうか。わたしたちは神に従うよりも早く、自分の道を行こうとするからです。キリストが「自分の十字架を背負ってわたしに従いなさい、と言われても、自分には十字架はないと思うほど高ぶっています。自分のことさえ十分に分かっていません。まして、自分以外の人のことがどれだけ分かるでしょうか。

また、主と共にエルサレムに入城した弟子たちは、「我らの父ダビデの来(きた)るべき国に、祝福があるように」とも歌いました。「我らの父ダビデの王国が再び建てられるように」と歌っているのは、地上に自分たちの国が再建されることを弟子たちも民衆も願っていたのではないでしょうか。そして、イエス様にその願いを託していたのかもしれません。つまり、イスラエルの貧しい人々は、救い主が御支配なさるその時には、実際に自分たちの国も他国からの支配ではなく、ダビデ王が支配したような国がキリストによって実現されると考えたのではないでしょうか。わたしたちも『御国が来ますように』と祈る時に、どうしても御国の御支配の中に自分の願い、具体的な願いを入れているかもしれないのです。そのような人々の過ちが、やがて主イエス・キリストに失望し、怒りと憎悪と軽蔑を向けるようになった。それは聖書の中では、彼らの出来事であり、弟子たちの出来事であります。そして、その罪を負って主は十字架に着かれました。このすべての的外れな人々のために。

彼らは心底主イエスを愛してついて行ったでしょう。しかし、最後までつき従うことはできませんでした。主の受けられた苦難と自分の願いとちがってしまった時、彼らはイエス様に対する自分の愛も力尽きてしまいました。しかし、それに対して、主イエス・キリストはどうでしょうか。この方は真に人の子であり、人の弱さを御自身に持っておられました。だからこそ、死の苦しみを苦しまれました。そして同時に、この方こそ真に神の子であられます。だからこそ、わたしたちの願いを打ち破り、それに代えて神の願いをお与えになりました。神の願い、神の御心はわたしたちの死を死んでくださったキリストに、わたしたちが結ばれること。そしてキリストの復活に、神の永遠の命にわたしたちが結ばれることに他なりません。これからわたしたちが直面するあらゆる罪との戦いに勝利して、平和をもたらす王。イエス・キリストを、心を新たにして迎え入れましょう。

わたしたちが御子を心に迎えさせてくださいと祈る時、わたしたちの王として、わたしたちに平和の御支配をもたらしてください祈る時、キリストの王国はわたしたちによって建てられるのではなく、わたしたちの力によって維持されるものでもなく、ただ天の助けによって堅く立つことを、わたしたちは知る者とされるでしょう。来週はイースター、そして新しい年度を迎えます。わたしたちは教会に復活の主イエス・キリストをお迎えしましょう。そして、わたしたちの心に、わたしたちの家庭に職場に、主イエスを迎え入れ、平和の御支配を祈り求めましょう。祈ります。

 

教会の頭、主イエス・キリストの父なる神様

棕櫚の主日礼拝を感謝いたします。主は私たちの罪を贖うために、来てくださいました。たとえ、私たちの罪の悩みは深くても、キリストが私たちを御支配くださるならば、私たちの罪は赦され、あなたと和解させていただけることを教えられました。どうか、聖霊のお働きによって、私たちを作り変えて、心新たに主に従う者としてください。

受難週を迎える今、どうか主イエス・キリストのご受難を覚え、心砕かれて、歩む者となりますように。病気や、仕事、また様々な事情により、礼拝を守ることが出来ないでいる兄弟姉妹を特に顧みてください。わたしたちはどんな困難な時も、主の憐れみと愛が注がれている教会であることを、信じ、感謝します。わたしたちの不信仰を打ち破り、新しい年度も、主の執り成しによって罪赦され、喜びと感謝を以て、教会を建てて行くことが出来ますように。イースターの礼拝、そこにおいて行われる洗礼式、聖餐式を導いてください。教会学校のイースター礼拝から午後の祝会に至るまで、わたしたちの捧げる喜びの賛美と感謝に豊かな祝福をお与えください。

この祈りと願いとを主イエス・キリストの御名によって捧げます。アーメン。

十字架の勝利

聖書:哀歌3章18-33節, マルコ福音書10章32-45節

 一行はエルサレムに上って行く途中であります。一行とはイエス様につき従って来た人々の一団であります。イエス様を救い主と告白する人々で成り立つ集団であります。そうだとしたら、それは教会ではないでしょうか。イエス様を救い主と信じた人々。まもなくイエス様は栄光をお受けになると信じた人々です。では彼らはなぜ信じたのでしょう。イエス様がいかにも救い主らしい威厳に満ちた、神々しいお姿でいらしたからでしょうか。あるいは天から響くような美しい声で教えられたからでしょうか。聖書にはそのような記述は一つもありません。

では、イエス様は王侯貴族のような地位と身分の方だったからでしょうか。いいえ、わたしたちの誰もがそうではないことを知っています。イエス様は慎ましい生活の中に生まれ育ち、その御姿には取り立てて言うほどの美しさはありませんでした。それにもかかわらず、その教えに人々が集まり、その癒しの業を見聞きして、やがてたくさんの人々がイエス様に着き従いました。彼らはイエス様の平凡な、むしろ貧しいお姿を見上げて、この方に救いの望みをかけたのでした。

わたしたちは聖書の中に登場する最初の弟子たちが、しばしばあまりにも普通の人々のように見えるので、半分驚きながら、半分安心するのではないかと思います。彼らはあまりにもわたしたちの現実に近いということを思うのですが、ではわたしたちもなぜ、他の人々はイエス様について来ないのに、わたしたちはついて来たのでしょうか。本当に自分が他の人々と特別に変わったこともなく、特に立派である訳でもないことを思う時、改めて分かることがあるのです。彼らも、またわたしたちも、こうしてイエス様の教会にいる、イエス様の群れの中にいるその理由は、イエス様が招いてくださったからです。招いてくださったからこそ、イエス様のお言葉を信じることが出来たのです。

イエス様は「神の国は近づいた」と言われました。神の国とは、神の御支配される王国です。悩みのあるわたしたちを神がご支配なさる、と聞いて、それを信じたからこそ、わたしたちは祈ります。『御国が来ますように』と。「御心の天になるごとく地にもなさせ給え」と。なぜか分からないけれども、わたしたちの悩みを御支配くださり、悩みを平安に変えてくださる神を信じる。その信仰がイエス様の教えによって与えられました。それでは、今はもうわたしたちも悩みなく、憂いなく、生きているでしょうか。そんなことはありません。地上に生きているわたしたちは、今も「神の国は近づいた」と言われたイエス様を信じ、『御国が来ますように』とひたすら祈っています。また祈ることが必要です。それは、わたしたちもまた教会の中にあってイエス様と共に旅を続けている途上にあるからなのです。

さて、一行はエルサレムに上って行きます。イエス様はこの旅路を先頭に立って進まれます。この世の王様のように先立つ者に露払いをさせ、多くの人々に守られて行くのではありません。先頭に立ってエルサレムを目指しておられます。エルサレム、そこに待っている敵対する者がいることを、主に従っていた人々は知っていたでしょう。そこには、主イエスを憎み、陥れようとする者たちが待っている。しかも彼らは権力ある者たちです。だから、弟子たちは驚き、従っている人々は恐ろしく思いましたが、しかしそれでも、彼らは主の後につき従って行った。それは、彼らに信仰が与えられていたからです。神の救いの恵みが何より素晴らしいと思う心が与えられていたからです。

そこで、主は今一度改めて弟子たちに教えられます。「今、わたしたちはエルサレムに上って行く。人の子は祭司長や律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して異邦人に引き渡す。異邦人は人の子を侮辱し、唾をかけ、鞭打った上で殺す。そして、人の子は三日の後に復活する。」と。この苦難と死と復活。これこそがこの旅の目的でありました。この目的を理解させるために、主は繰り返し語られ、弟子たちを励ましておられます。すなわち、これから起こることを前もって知らせることによって、主は彼らを信仰の戦いに備えさせ、彼らが思いがけない悪に突然襲われるような時にも、悪に負けないようにさせたいのです。

主はまたご自分の十字架に対して、弟子たちが短期間ではあっても屈辱を受けられる主を見て心挫けることがないようにさせたい。この方こそ神の子であり、死に勝ち給う方であることを確信するようにさせるためでありました。このために主は三日目の復活を弟子たちに知らせて励ましてくださいました。彼らは臆病になっていましたが、それでも主を離れてしまわなかった。自分たちも主の弟子として迫害や暴力を受ける危険があるかもしれないけれど、それでも主に従って行きました。

これは神の国を来たらせるための戦いだ、わたしたちはイエス様に従って行こうと、弟子たちは決心した。そこまでは良かったのですが、その時です。主に対する熱意と信仰が、思いがけない欲望にとって代わられたのです。それがあからさまに行動に表れたのは、ゼベダイの子ヤコブとヨハネでした。この二人は兄弟で、主イエスが「わたしについて来なさい」とお招きになった最初の頃の弟子たちの二人です。彼らは熱心に主に従い、ペトロと共にいつも主の近くにお仕えしていました。そのうちに彼らは、主はわたしたちを特別にだれよりも大切に思っておられるのだ、という得意になっていたのではないでしょうか。

彼らのように、教会の中でたくさんの奉仕を熱心に行い、主に仕えることが喜びであるという人々は、主にも喜ばれ、教会にとっても大変ありがたいと思われるでしょう。しかし、自分たちは神さまから特別に大切にされて当然だと思うほど働いている、と思い上がってしまった結果、神の国に特別な地位を求めるとしたら、それは大変な問題であります。

ヤコブとヨハネは「あなたが栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください」と求めましたが、一体彼らはキリストが栄光を受けるということが何を意味するか知っていたでしょうか。ほとんど知らなかったと思います。主イエスがエルサレムに上って行かれるのは、苦難と死を受けるためです。そして、この苦難は御自身のためではなく、わたしたちが受けるはずの苦難です。この死は御自身のためでなく(神の御子がどうして死ななければならないはずがあるでしょうか)、わたしたちが受けるはずの死なのです。

彼らは主イエスが世に軽蔑され、非難にさらされているのを見ていました。しかし、それでも彼らは主がまもなく偉大な王となるだろうと信じていました。なぜなら、ただ主がそう言われたからです。主の教えを単純素朴に信じた彼らの信仰は素晴らしいと思います。しかし彼らは将来実現されると信じた王国を心に描いた時、たちまち欲望に囚われました。神の国で一番になりたい。二番になりたいと。このように単純な素直な信仰者も、たやすく自分に取りつかれてしまうことを思う時、私たちは自分のためにこう祈らなければなりません。

主よ、どうかわたしたちの心の目を開いてください、そしてわたしたちを導き、常に正しい目的に向かってひたすら進むことが出来るようにお守りくださいと。わたしたちに信仰を起こしていただくだけでなく、その信仰が救いの道から踏み外すことのないようにお守りくださいと。その時イエスは言われたのです。「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。このわたしが飲む杯を飲み、このわたしが受ける洗礼を受けることができるか」と。わたしたちは神に従う者とされました。それは、本当に不思議な恵みの選びによるもので、なぜなのかをわたしたちは知りません。しかし、この恵みによる救いだけがいつもわたしたちの喜びであることを思う者は真に幸いであります。

しかし、ヤコブとヨハネはそれだけに満足しないで、神さまがお望みかどうか知ることのできないことにまで口を出し、自分を神さまのお考え以上の者にしようと画策しました。他の弟子たちは憤慨しましたが、実は彼らもまた同じようなことを考えていたからこそ腹が立っただけなのです。こういう態度は決して主に喜ばれるものではないでしょう。更に問題なのは、彼らが、神の王国について、地上の王国のような序列を想像していることです。人間の浅はかな空想で神の国や、天国について好き勝手なことを考え、それを事実であるかのように言いふらす人々は大きな過ちを犯していると言えるでしょう。

主は彼らの願いがまちがっていることを教え、諭そうとしてくださいます。そのために「このわたしが飲む杯を飲み、このわたしが受ける洗礼を受けることができるか。」とお尋ねになりました。それは、主イエスの受けなければならない苦難と死を受けることが出来るかと、問うておられるのです。彼らは簡単に「できます」答えました。これもまた、傲慢な態度だと言わざるを得ません。苦難について、一体誰が自信満々に「わたしは耐えられる」と言うことが出来るでしょうか。わたしたちは日頃、なるべく楽に生きたい。苦労はしたくない。災難には遭いたくないと思っています。それにも拘わらず、天の父は思いがけない苦難、苦労の体験をわたしたちにお与えになりますが、それがわたしたちに必要だとお考えだからなのだ、と思わざるを得ません。

わたしたちは愚かにも、自分が病気にならないと病人の辛さを思い遣ることが十分できないし、また自分が苦労しないと他人の苦労が十分には分からない者です。「そうだね、本当だね」と共に悩みを分かち合うことが出来るように、神さまはご配慮くださっているのではないでしょうか。そのようにして主は世にいらしたとき、わたしたちの弱さをいつも担ってくださり、真の神として誰よりも偉い方であられるのにも拘らず、真の人として誰よりも下にお立ち下さり、多くの人々を下から支えてくださったのです。

私は一生の間に多くの教師に出会い教えられました。高校、大学の先生。そして50歳で編入学した東京神学大学の先生方。教区の牧師方や連合長老会の教職の方々。結論から申しますと、優れた先生ほど、謙虚でありました。相手が優秀であろうがなかろうが、質問を喜んで受け、相手に力に応じて熱心に教えてくださったことを思い出します。だからイエス・キリストの苦難の意味に納得させられるのです。キリストはこの上ない高いところにおられた卓越した方だからこそ、地の底にまで降って、救われる値打ちのない者をも、ただ恵みによって、愛によって救ってくださる天の父の御心を表していることが知られるのです。

エルサレムに上って行く主イエスに、教会も従って行きます。この苦難はわたしたちの勝利のためです。主イエスは十字架の勝利を目指して進んで行かれました。主の勝利はわたしたちに対しても約束された勝利です。ただ、わたしたちは主イエスに従って行く途上にあります。そして主イエスは、ご自分の教会に勝利を確信しなさいと言われます。しかしそのことは、「もう勝ったんだ」とか、「どうせ最後は勝利に終わるから」と言って、地上の日々を無為に過ごしたり、好き勝手なことに時を費やして安閑と空しく過ごすことではありません。この日々の労苦が必ず報われると天の父に希望をかけ、日々の思いがけない戦いに備え、そこにわたしたちの努力を傾けることに集中する。それが十字架の勝利を確信する生き方なのです。

では、十字架の主に従うわたしたちの戦いは、どんな戦いなのでしょうか。それは、主イエスがなさってように、仕えられるためではなく、仕える者となるように、すべての人の僕(しもべ)となるように、日々、このことを私たちの祈りとし、与えられた立場において、境遇において、主が望み給う最善を尽くして、主の体の教会にふさわしく生きる戦いではないでしょうか。教会学校の今月の聖句は、次の言葉です。「パンは一つだから、わたしたちは大勢でも一つです。皆が一つのパンを分けて食べるからです。」わたしたちは主イエスの命のパンを分けていただいて一つの家族、神の家族とされているのです。一つの体として、だれかの苦しみを共に苦しみ、だれかの悩みを悩みとし、だれかに慰めをもたらすように。だれかに喜びをもたらすように。この戦いが、私たちに絶えず働いてくださる聖霊の神の助けによって十字架の勝利をもたらしますように。祈ります。

 

御在天の父なる神様

あなたは御子をわたしたちに賜り、あなたの御心を十字架に表してくださいました。御子がわたしたちのためにあらゆる労苦を忍んでくださったことを覚え、深く感謝申し上げます。何のとりえもないわたしたちが、ただ恵みによって救いに招かれていることを思い、わたしたち、喜んで主に従う者となりますように。

一筋の救いの道を歩み、あなたがわたしたちに与えられた尊い使命を見い出し、どのような日にも倦むことなく疲れることなく、いただいた務めを果たすことが出来ますように。私たちの教会に与えられている使命を思います。どうか世の終わりまで福音が力強く宣べ伝えられ、恵みの福音を新しい世代もまた聴くことが出来ますように。救いに入れられる人々をこれからもこの教会に起こしてください。また同時に、わたしたち年老いて行く者が、主に従う者として地上の生涯を全うすることが出来ますように。幾多の苦しみ悩みを乗り越えさせていただき、本当にイエス様は神の御子であったと心から告白しますように。

成宗教会のイースターへ向かう日々、また教会総会に向けて準備する私たちの歩みをお守り下さい。また、悩み多い世に在って、またご病気のため、なかなか礼拝に来られない方々を覚えます。どうかその方々の心身共に安らかに今週もお守り下さい。新年度に備えるこの時期、来年度もいただいた賜物を生かし用いてくださる主の聖霊の導きを切に祈ります。この感謝と願いとを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

キリストに、神の輝くお姿を見る

聖書:出エジプト24章12-18節, コリントの信徒への手紙二 4章1-6節

 本日は、旧約聖書として出エジプト記の聖書が与えられています。出エジプトの民の物語は、今、21世紀を生きるわたしたちに、現実として差し出されています。彼らの先祖であるヨセフは、ヤコブの息子であり、アブラハムのひ孫にあたりますが、兄弟に妬まれ、憎まれて、奴隷としてエジプトに売られました。しかしその兄弟たちもすべて、パレスチナの飢饉の際にエジプトに移り住んだのです。そして長い間にはエジプト人に支配され、奴隷の身分に転落して行きました。しかし、彼らは神がご自分に従う民として選ばれたアブラハムの子孫でありました。そこで神は人々を支配する者の鎖を断ち切ってくださり、自由へと招いてくださいました。自由。それは神に向かう自由。神に従う自由であります。

人々は実に孤独で生きて来たのではありません。人々の生きた歴史は、人々が共に生きる共同体の歴史です。共に生きる交わりです。それはどんな共同体なのでしょうか。血縁共同体なのでしょうか。または住む地域を共にする地縁の(地域社会の)共同体なのでしょうか。それとも、共同体とは、一緒に仕事をする仲間なのでしょうか。趣味の仲間ならたくさんいる、という人々もいることでしょう。学びの仲間もそうかもしれません。しかしそれ以上に、共同体を作るために集まる人々もいます。それでは、出エジプトの民はどんな共同体だったでしょう。そのどれも当てはまるところがあるかもしれません。しかし、全く当てはまるかと言えば、そのどれにも当てはまらないのです。

なぜなら、出エジプトの民は神が集められた共同体であります。奴隷の状態から自由にされた共同体です。そして自由とは、神への自由です。神だけが人をあらゆるものの支配から自由にしてくださる方です。これは神への信頼で成り立っている共同体です。逆に言えば、それがなければ成り立たない共同体なのです。

先ほど私は、出エジプトの民の現実を私たちも生きていると言いました。なぜなら、わたしたちもまた現代という激動の時代を生きているからです。21世紀、激しい気候変動が起こっています。また、福島の原発事故は人類がかつて体験したことのない災害でありました。これから何十年、あるいは何百年経っても過去の話にはできないかもしれません。そして第二、第三の事故がいつでも起こるリスクがあります。それも、自然災害からだけではなくても、戦争という人災によって引き起こされる可能性はいつでもあるのです。その上に日本ではこれから激しい人口減少に直面していかなければなりません。その一方、世界中では人口爆発があり、地球全体としてはすでに72億を越えているということです。

そういう現代に在って、今わたしたちも、神の集められた共同体に生きています。イエス・キリストによって招かれたからです。今日も、こうしてわたしたちは成宗教会という日本基督教団の1600余りの教会の一つである小さな教会に礼拝を守っております。また、教団の中にある連合長老会の一つである東日本連合長老会という地域教会に所属する群れとして礼拝を守っております。このように、聖書の御言葉に向かいながら、今、歴史的に自分たちがどこに立っているのか、また世界の中でどこに立っているのかを、確認させられることは大切なことではないでしょうか。

こうして今年も春に向かおうとしています。教会の入り口から差し込む光が日に日に明るくなり、柔らかくなっているのを感じて、「ああ、今年も春だ。春だ」と思いながら、私は16年も成宗教会と共におらせていただいたのだと感慨深く思います。16年前も礼拝に集まっていた人々が集まることが出来なくなったという嘆きの思いが教会にありました。一生懸命教会に仕えていた人々が高齢になり、教会に足を運ぶことが出来なくなった。また、転居を、引っ越しを境にどこの教会にも行かなくなった人々は少なくありません。しかし、礼拝を守ることが出来ないことの深刻さを真に理解していた人々はどれだけいたのでしょうか。

出エジプト記でエジプトから脱出した民は、人間の支配者の奴隷状態から救い出されたのでしたが、それからが彼らの戦いの始まりでした。なぜなら、人の支配に縛られなくなっても、罪の支配を受けず、本当に神に従う自由な人となるために、人々は自分たちの罪と戦わなければならなかったからです。なぜなら、人は一人で生きる者ではなく、共同体の一員として生きる者だからです。実はこういうふうに申しますことさえ、ごく最近まで「それは共同体論という一思想に過ぎない」と批判されるだけになっていました。

現代人は共同体など不必要、なくても生きられるという思想が歓迎されたからです。ひとりで○○に登ったとか、世界を一人で○○したとか、そういう個人プレーがもてはやされるのですが、実際にはその個人を育て、サポートするどれだけ多くの人々がいるか、ということが成功の決め手であります。また、7年前の震災の直後、私は一人の老人がお団子屋さんの前から動かないのを見ました。何だかんだと話しながら、そこに座り込んでいるので、店の主人は困った顔をしていましたが、老人の気楽な独り暮らしが地震を境に一変して、家にいるのが恐ろしい様子でした。

生きるということは、決して一人で誰とも関わりなく生きることではないとは、震災を経験したすべての現代人が知っていることです。また長く生きれば生きるほど、多くの人々のサポートによって自分の生活が成り立つことを実感することでしょう。また実感すべきです。また、少子化が進む時代に、子供を家庭で育てられなくなるという深刻な事態も急速に増えています。子どもたちが家族という共同体を失って行く危機的な状況が広がっているのです。

このような今、成宗教会に集まっているわたしたちは、礼拝共同体の一員として主の御招きを受けているのです。神に招かれ、神の自由に生きる特別な恵みを受けるために。主はモーセに言われました。出エジプト記24章12節。「わたしのもとに登りなさい。山に来て、そこにいなさい。わたしは、彼らを教えるために、教えと戒めを記した石の板をあなたに授ける。」そこでモーセは山に登り、十戒を刻んだ石の板を主から受けることになるのですが、この板は御存じの通り、礼拝共同体の人々が神に対する戒めを守り、隣人に対する戒めを守って、救いを得るための律法が書かれていたのです。

モーセは神の御許に出るために山に登って行く際に、礼拝共同体の長老たちに言いました。「わたしたちがあなたたちのもとに帰って来るまで、ここにとどまっていなさい。見よ、アロンとフルがあなたたちと共にいる。何か訴えのある者は、彼らのところに行きなさい。」

こう言い残してモーセは人々から離れ、四十日四十夜神の御声に聞き従っていましたが、モーセが不在の間、神の礼拝共同体であるはずの人々は、自分たちを導いてくださる神から心が離れ、金の子牛の形を造り、これを自分たちの神として拵え上げ、これに礼拝を捧げるようになってしまったのです。

わたしたちを圧迫し、支配する人間から解放してくださった方こそ、真の神でありますが、その方を信じ続け、従い続けることの何と困難なことでしょう。また、真の神は目に見えない方、わたしたちの感覚や考えをはるかに超える方でありますが、わたしたちは自分の考え、感覚を何と信じていることか。自分で良いと思うものに何と夢中になることか。そして自分で拵え上げたものを神としてこれに仕え、この世の支配に縛られ、それに何とがんじがらめに縛られることになることでしょうか。

モーセが不在であった40日40夜とは、イエス様が荒野で悪魔の誘惑を受けられた長さに匹敵します。それは実際の数字というよりは、十分長い期間を意味します。その間、神の共同体は礼拝を守り、教えを聞くことが出来なかったのでしょうか。それともしなかったのでしょうか。ここに礼拝を守ることの大切さをわたしたちは教えられるのではないでしょうか。わたしたちはイエス・キリストによって礼拝の民とされました。共に集まり、讃美と感謝を捧げ、御言葉によって生かされるのです。主の聖霊がわたしたちの罪の赦しを御言葉によって教えてくださるからです。

わたしたちは旧約の民に優るとも劣らない罪の誘惑にさらされている者です。それは絶えざる不安となってわたしたちを攻め立てて来ないでしょうか。自分が救いに入れられたということがどんなに大きな事であったことか。神を忘れ、すぐに他の頼れるものを捜し求めてバタバタする。礼拝を守るどころではない、ということになってしまう。しかし、神はわたしたちの不信仰にもかかわらず、様々な落ち度にもかかわらず、ただ恵みによって救いに入れてくださったのです。それも忘れてしまって、わたしはあれをしたから良かった、わたしはこれができるから、と自分で自分に値打ちをつけようとします。そうすることによって、ただ自分を輝くようにしたいのです。その結果、神の恵み深さをほめたたえることから遠ざかり、神の栄光の輝きを目立たないようにするために努力しているという、真に情けない不幸な状態に陥るのではないでしょうか。

それでも、この教会の群れは、大変幸いであると私は思います。今日の新約聖書コリントの信徒への手紙で、使徒パウロが強調して止まないことを、私も強調するために、説教をさせていただくことが出来たからです。すなわち、イエス・キリストの真の福音とはどのようなものかを明らかに伝えるために、主はパウロをお遣わしになりましたが、私もまた、どんなに小さな足りない者であっても同じ福音を伝え続けるために、この教会に遣わされたからです。本当に誇るべきは、この輝かしい福音伝道の務めであります。

ですからパウロは、「卑劣な隠れた行いを捨て、悪賢く歩まず、神の言葉を曲げず、真理を明らかにすることにより、神の御前で自分自身をすべての人の良心にゆだねます」と述べましたその言葉を、私もそのままお伝えしたいと思います。使徒パウロほど、人生の大逆転を経験した人はいないと思います。キリストを迫害する者、教会を迫害する者としてのサウロ。彼の名はダビデ王を妬み殺そうとしてサウル王と同じでした。サウル王には神からの悪霊が来て、彼を迫害者に変貌させたのですが、教会の迫害者サウロには何と主イエス御自身が来てくださって彼を罪に死なせ、福音に生きる者と生まれ変わらせてくださいました。

真に恐るべきは神の力。神の恵みの圧倒的な力であります。わたしたちの目には何が正しいのか、また何が一番大切なのかが、しばしば隠されて見えません。様々な声がわたしたちを惑わし、迷わせるからです。しかし、主の方に向き直りましょう。災害や疫病や戦争や、ありとあらゆる不安が世界に昔からあるのに加えて、今はIT革命の時代です。人間も社会をも支配すると言われるITが果たして誰の支配を受けるのか、わたしたちの知恵が及ばないとしても、わたしたちは見えない神の御支配を信じ、2000年従って来たキリストの体の教会を信じます。

「この世の神(=悪魔)が、信じようとはしないこの人々の心の目をくらまし、神の(目に見えない)似姿であるキリストの栄光に関する福音の光が見えないようにしたのです。」御父は人間の感覚によっては理解できません。しかし神は、御子を通してわたしたちに現れたまい、御子によって見えるものとなり給うたのです。「闇の中から光が輝き出よ」と命じられた神は、わたしたちの心の内に輝いて、イエス・キリストの御顔に輝く神の栄光を悟る光を与えてくださいました。キリストは闇の中に輝く光、救いの光です。しかし、わたしたちの救いのためにいらしてくださった主は、地上では何ら輝かしい、人を引き付けるようなお姿をお持ちになりませんでした。わたしたちの中にいらしてわたしたちの弱さを担い、わたしたちの破れを御自分のものとしてくださったこの愛を、わたしたちは知ることが出来るでしょうか。この愛に神の輝くお姿を見ることが出来るでしょうか。

キリストは救いの光として世に来てくださいました。光がそこにあるだけではわたしたちは感じることが出来ません。目の中に映し出されて、初めてわたしたちは光を見ることが出来るのです。福音は二つの光に例えられます。一つは聖霊が与え給う福音がキリストをわたしたちの罪を贖うために掲げてくださる光です。そしてもう一つは聖霊がわたしたちの心にその光を感じる光を与えてくださることです。聖霊がわたしたちの心を照らして、救いを悟らせてくださるために、わたしたちは礼拝共同体として御言葉を聴き、真の救いを心に確信する教会を建てて参りましょう。

 

御在天の主なる父なる神様

御子イエス・キリストによって開かれた救いの御業を感謝し、尊き御名をほめたたえます。わたしたちはあなたの御招きに従って、本日も礼拝を守り、代々の教会と共に、また全国全世界にある教会と共に真の主イエス・キリストの体に結ばれることを切に願い祈ります。

目に見える悲惨と困難に満ちた世界に在って、またこの国、この社会の問題の中にあって、わたしたちはただ恵みによってあなたに招かれ、あなたに従う者とされました。どうかわたしたちが志を同じくする東日本連合長老会と共に、また全国全世界の教会と共に、御心を尋ね求め、福音を宣べ伝えて真にあなたに信頼する共同体を建て上げるために努めることが出来ますように。

主なる神様、あなたはあなたの慈しみに頼る他はない貧しい者を決してお見捨てにならないとわたしたちは知っております。どうか、同じ信仰を告白し、主の執り成しに頼る人々を教会に集めてください。わたしたちをつなぐものはイエス・キリストの尊い死と復活の命であることを、多くの人々が悟り、悔い改めてあなたに立ち帰りますように。どうか受難節の歩みを主が共に導いてください。今苦しんでいる者を顧みてください。

この尽きない感謝と願い、尊き主イエス・キリストの御名によって捧げます。アーメン。