死は勝利にのみ込まれた

聖書:イザヤ2579節, コリントの信徒への手紙一155058

 私たちの国にはお盆という習慣があって、これは仏教の慣わしと思っていましたが、外国から伝来した元々の仏教の教えや習慣ではなく、実は先祖を崇拝する日本古来の伝統なのだそうです。この季節はそういうわけで、死んだ家族のことを思うことと、日本が太平洋戦争に敗れた終戦の年を思うこととを両方思い起こす時になっております。罪もない多くの人々が戦争によって命を失ったのですが、人間は、「どうしてあの人々は死んだのか」ということを考えます。この戦争を起こしたのは誰だと問うのです。すると、自分たちばかりが責められることを避けたいものですから、他に理由を探したくなるのです。たとえば、部下だった人は上司が悪いと言うのです。上司は更に上に立つ人が悪いと言います。例えば原爆投下の話で言えば、原爆を落としたのは、そうしないと日本が戦争をやめなかったからだと主張も出て来ます。このように、人はどうしても「自分は悪くない」と考えたいようです。しかし聖書の教えは一貫しています。

ローマの信徒への手紙に、このように言われているのです。3章23節。277頁下。「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、(24節)ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。」私は成宗教会に務めを与えられまして17年目になります。振り返ってみる時に、もし自分のして来た働きということを判断の基準にして考えるならば、本当に良い結果は、良い働きをしたからだということになり、良くない結果は、良い働きをしなかったからだということになります。

すると、振り返って満足するどころか、考えれば考えるほど、自分の働きの乏しさが思わされるばかりになるでしょう。17年もここにいたのだから、もっとああすればよかった。こうするべきではなかったということが沢山あります。どんどん反省して行ったら、退任を控えた教師である私としては、落ち込むばかりではないでしょうか。いやいや、ここで落ち込んではいけない。そこで、自分は悪くなかったと思いたいために、働きの乏しさをこの時代のせいにするのでしょうか。それとも、他人のせいにするのでしょうか。

しかし、結論を言うならば、全くそうはならないのです。なぜなら成宗教会にいる私たちは、ここで礼拝をし、ここでいただく福音によって主の教会に結ばれているからです。主に結ばれているわたしたちは、罪の赦しに結ばれているということなのですから。過去を振り返ってみると、心痛むことがありました。悔やまれることがありました。その度にだれが悪いのか、と教会の中で問いたくなることもあったと思います。しかし、わたしたちには教会の告白があります。これをもって代々の教会が建てられて来た信仰告白です。前回私たちは、使徒信条で告白している「罪の赦しを信じる」ということはどういうことかを学びました。

わたしたちはどう生きるべきかを神さまから教えられています。律法によって教えられているのです。律法とは、一つには神に対する戒めであり、もう一つは隣人に対する戒めであります。私たちは「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」と教えられています。また私たちは、「隣人を自分のように愛しなさい」と教えられています。しかし、律法を知っていながら、律法を守ることができない者であります。このような律法を神さまからいただいているからこそ、私たちは、それを守っているとは決して言えない自分を知っているのです。

キリストは律法を守ろうとして守ることのできない罪人のために死んでくださいました。それは罪人の代わりにその罪の罰を受けてくださって、私たちを罪から解放してくださるためだったのです。そして、キリストは復活されました。このことは、キリストの身代わりの死を神さまが受け入れてくださったことを証ししています。教会は、わたしたちのために死んで復活してくださったキリストを信じ、キリストに結ばれて終わりの日に復活する約束を受けた者の群れです。

さて本日は、使徒信条が告白する「からだの甦りを信じる」ことについて学びます。体と言いますと、当然のことながら私たちは、この自分の肉体を思います。今は写真やビデオやいろいろな記録手段によって自分の姿形がいつまでも残る時代です。幼子だった時のあどけない姿や若い頃の写真。その一方で同じ人とは思われない年取った自分等々。この同じ体が、人の姿がどんどん変わって行くことを考えれば、このままで、この姿かたちのままで、天国に入れられるということはあり得ないだろうと思うのです。

「肉と血は神の国を受け継ぐことはできず、朽ちるものが朽ちないものを受け継ぐことはできません」と聖書に言われます。肉と血とは、この地上の生活を生きる体です。それは年老いてやがては朽ちて行くより他はありません。聖書の時代の人々はすべての人々は死んで葬られるが、終わりの日に復活させられる。そして裁きを受けなければならないと信じていました。イエスさまもヨハネ福音書でこう教えておられます。ヨハネ5章28-29節です。172-3頁。「驚いてはならない。時が来ると、墓の中にいる者は皆、人の子の声を聞き、善を行った者は復活して命を受けるために、悪を行った者は復活して裁きを受けるために出て来るのだ。」

だからこそ、主イエスさまは別のところで、こう命じられました。マタイ10:28です。18下「人々を恐れてはならない。(中略)体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい。」

イエスさまが「魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい」と言われた、本当に恐れるべきお方とはどなたでしょう。その方こそ、真の造り主であり、イエス・キリストの父である神さまです。人間を愛して止まない方、しかし、同時に罪を憎んで止まないその方です。その方の御心、その愛こそが、イエスさまを世の罪を贖う救い主として世にお遣わしになりました。

聖書はこのことを伝えているのです。つまり、イエス・キリストの罪の赦しに結ばれている者は、罪の赦しを約束されている。これが福音です。今日の聖書15章51節でパウロが告げている神秘とはこのことではないでしょうか。終わりの日に、「わたしたちは皆、今とは異なる状態に変えられる」というのです。52節です。「最後のラッパが鳴るとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は復活して朽ちないものとされ、わたしたちは変えられます。」終わりの日に一瞬のうちに起こることを、ラッパという表現でパウロは伝えました。すなわち、軍隊の隊長がラッパの音とともに兵隊を集めるように、主はわたしたち生きて地上にいる者と共に、眠りについている者(すなわち死んだ者たち)を復活させ、世界の隅々から集められるのです。

この言葉が語られた当時は福音が伝えられた世界は限られた地域でした。そして使徒パウロたちも、イエス・キリストが来られる終わりの日は近いと緊張していたようです。しかし、今や福音は、一つの民族だけでなく、全世界の人々に宣べ伝えられています。ですから、終わりの日にはすべての人が呼び集められ、神の裁きの御座に出頭しなけばならないでしょう。生きている者も集められるばかりでなく、死者も墓から出て来るよう呼びかけられるでしょう。更に、乾いた骨とほこりにも命じて、再び初めの形と霊とを取らせ、人皆が生き返らせられて、キリストの面前に直ちに出頭しなければならない時が来るというのですから。それは、正に天地を揺るがす大音響となるでありましょう。

しかし51節で「わたしたちは皆、今とは異なる状態に変えられる」というのは、呼び集められるすべての人のことではありません。それでは、「わたしたち」とは誰のことでしょうか。それはキリスト・イエスに結ばれている人のことです。その他の人々について語られているのではありません。52節。なぜなら、「ラッパが鳴ると、復活して朽ちない者とされ、変えられる」というわたしたちは、朽ちるからだのままでは、神さまの前に出ることができない者ですが、キリストに結ばれているので、神さまの御前に立つことができる者に変えていただけるということなのです。

53節。「この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを必ず着ることになります」と言われているのは、朽ちるからだのままでは、神さまの前に出ることができない者が、朽ちないもの、死なないものを着て、神さまの御前に立つことができるということです。朽ちないもの、死なないものとは何でしょうか。それは、イエス・キリストの義、すなわちキリストの義しさであります。このお方は真に神の子であり、同時に人の子としてわたしたちと同じ肉体を持って生きてくださいましたが、神さまに忠実にその使命を果たされた方です。パウロはこのようにキリストの義しさを朽ちない衣という言葉によって表しました。わたしたちはキリストの義しさを衣のように自分の上に着て、罪赦され、義しい者とされるでしょう。

イエスさまは人間の罪を負って十字架に死なれました。私たちの死を苦しまれ、わたしたちの下るべき陰府に下ってくださいました。そして死に勝利されました。神さまがキリストの贖いを義と認められたからです。死は勝利にのみ込まれた、という表現は、今日読まれた旧約イザヤ25章8節からの引用だと言われています。そこには、のみ込むという言葉ではなく、「死を永久に滅ぼしてくださる」という表現がなされています。それは全滅させる、絶滅させるという意味なのです。

死よ、お前のとげはどこにあるのかと、歌われているのは、キリストの勝利をほめたたえるためです。死のとげは罪であり、罪の力は律法であります。しかし、人々は考えるかもしれません。「律法がなければ、罪もなかったのではないか。悪いのは律法があることではないか」と。しかし、それでは、「神を愛しなさい」と、言われなければよかったのでしょうか。また、「隣人を愛しなさいと、言われなければよかったのでしょうか。そんなことはあり得ません。それではまるで、何も知らずに泣きわめいている赤ん坊が、何も知らないまま大人になって、傍若無人にふるまい、人が傷つこうが気付けられようが、一切自分が悪いとは思わなくて一生が終わった方が良い、と言っているようなものです。愛そうとするからこそ、多くの失敗、過ちに気づき、悲しみも苦しみも経験することをわたしたちは知っているのです。

わたしたちは自分の罪を知る者だからこそ、キリストに出会うことができました。だからこそ、悔い改めへの招きに従う者となりました。だからこそ主イエス・キリストに結ばれて、終わりの日に復活にキリストの義しさに結ばれて、罪に勝利することができます。使徒信条で告白している「からだのよみがえりを信じる」とは、この希望をいただいて、今与えられている地上の命を大切に生きることです。どんなに悩み多い日々であり、どんなに心に責められることの多い人生であっても、わたしたちは死にのみ込まれることは決してないのです。主イエス・キリストが死の勝利してくださったのですから。この確信に生きましょう。祈ります。

 

主イエス・キリストの父なる神さま

尊き御名を賛美します。厳しい暑さの中、八月第二の主の日の礼拝に、わたしたちを呼び集めてくださり、わたしたちは恵みの御言葉をいただきました。足りない者、罪深い者を慈しみ、励まして、キリストの恵みに結んでくださいました。過ぎし日々の歩みを思い感謝に堪えません。

わたしたちの教会に与えられて来た恵みを思い感謝いたします。78年の歴史を歩み、この地域とこの時代に在って福音を宣べ伝える貴い務めをいただきました。私は8代目の教師として遣わされましたが、本当に至らないことが多かったにもかかわらず、教会に忍耐を与えて下さり、共に助け合う教会に育ててくださったことを感謝します。あなたが聖霊の助けによっていつも共にいらして、支え導いてくださったことを思います。

わたしたちの群れは、来年度新しい教師を迎えようとしています。福音を宣べ伝えるためにこれまで用いて下さった事を感謝し、これからもこの教会を生かし用いてくださいますように祈ります。成宗教会は太平洋戦争が起こる前に伝道を開始しました。戦争中の迫害と困窮の中、あなたは牧師とわずかな信徒を励まし忍耐させてくださったからこそ、教会は残されたことを思います。今はその時代を知る人々はほんのわずかになりましたが、困難を共に忍んでくださった主がここにおられたことを感謝します。どうか、これから迎えようとしている新たな試練の時代にこそ、これまでにいただいて来た恵みを振り返って勇気と知恵とを与えられますように。

小さな群れよ、恐れるな、御国をくださることは父の御心である、と御言葉によって励ましてくださる主に感謝します。どうか、高齢の会員を励まし、信仰を強くし、後の世代のために祈りの務めを果たすものとならせてください。どうか若い世代、勤労世代の会員を励まし、求道者の方々と共に、家族とともに、御言葉によって道が開かれることを信じる者とならせてください。

来週は教会学校の行事に合わせて合同の礼拝を捧げます。どうか、心を合わせて主を礼拝し、主を喜び、御言葉に養われますよう、お導きください。午後の教会学校の活動を祝してください。また、9月の音楽会、10月のバザーに向けての準備を導いてください。今日の長老会にあなたが共にいらして、御心をなしてください。すべてを御手に委ね、感謝して、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

2018年6月号

日本キリスト教団成宗教会

牧師・校長  並木せつ子

このお便りは、なりむね教会からのメッセージです。キリスト教会は神様の愛について学び、伝えます。子供さんも大人の方も、読んでいただければ幸いです。

興津晴枝先生のお話

(これは今年527日の礼拝で話されたものです。)

聖書:イザヤ書5章1~4節

「甘くておいしいブドウの実

興津晴枝

みなさんの大好きな果物はなんですか? スイカの好きなひと、いちごの好きなひとなど皆さんのまわりにはおいしい沢山のくだものがありますね。今朝はブドウのお話です。

ブドウ狩りに行ったことのある人もいることでしょう。自分でそおっと枝からもいで食べたとき、思わず「甘い!おいしい!」って、とびきりの笑顔になった楽しい思い出もあるのではないでしょうか。でも、もし口に入れたとたん,甘くなくてすっぱすぎたりしたら「まずい!」って顔をしかめて吐き出してしまうかもしれませんね。

「ブドウ園」がありました。そのお世話をしている人のお話です。甘くておいしいブドウを育てるのはとても手間のかかる仕事です。まず最初に、ブドウの苗を植える畑の手入れをします。ブドウに適した栄養豊かな土地、大きな石コロなどは取り除かなくてはなりません。次はよく耕します。育ってきたら枝の剪定をしたり、ブドウの色をいい色にするために葉っぱでかくれないようお日様にあてます。肥料も大切です。みなさん、「お米」という字を思い浮かべて下さい。八十八、つまり88回も色々と手間をかけるという意味があるそうです。

ブドウのお世話をする人は「甘い実のおいしいブドウ」が出来ますようにと心から願いながら一生懸命働きました。それなのに甘い実の美味しいブドウではなく腐ったような酸っぱい実のブドウがなったとしたら、どうでしょうか?私たちならきっと「こんなまずいもの食べられない!」と捨ててしまうに違いありません。では、このブドウ園の世話人はどうしたでしょうか?やっぱり捨ててしまう?

みなさんはもうきっとわかりましたね。ブドウ園の世話人とは神様のことです。すっぱいブドウとは私たち人間のことです。神様がなさったことは何ひとつ足りない事はなかったのでとてもがっかりして悲しまれました。どうしてこんなことが起こったのでしょう?それは私たち人間に「罪」があるからです。神様に善いものとして造られた私たちなのに、そのことを忘れ、神様との約束を破り、神様なんかいらない!と離れて自分勝手な生き方をしてしまう、そのことです。「甘いブドウ」とは神様に喜ばれる生き方をすること。けれどそれは自分の力によっては出来ません。

だから神様はそのままではすっぱいブドウの私たちに、どうしても甘いブドウになって欲しいと願い、捨てるどころかイエスさまを送ってくださいました。イエスさまは私たちの罪の身代わりとなって私たちに新しい命をくださいました.イエス様のお言葉です。「わたしはブドウの木、わたしの父は農夫である、あなた方はその枝である」神様が愛して下さっているのに私たちは神様に喜ばれる生き方がなかなか出来ません。

けれどイエスさまという木から栄養を頂いている私たちが自分勝手に離れようとしても、イエスさまが木の幹として繋いでいてくださるのです。甘いおいしい実のなるブドウになれますよう、イエスさまから離れないように毎日をすごしましょう。

6月の御言葉

「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」マルコによる福音書2章17節。

6月の教会学校礼拝

(毎週日曜日、朝9時15分~9時45分)

  • 神様に感謝して祈り、歌います。イエスさまのお話、聖書について学びます。
  • お話の聖書箇所と担当の先生は次のとおりです。

6月3日(日)  ローマ3:20    お話の担当…     並木せつ子

10日(日) 詩編14:1-3           並木せつ子

17日(日) マルコ2:13-17         焦  凝

24日(日) マタイ14:22-33        興津晴枝


成宗教会学校からお知らせ

「知恵と知識の宝はすべて、キリストの内に隠れています。」

(新約聖書、コロサイ人への手紙2章3節)

  • 成宗教会学校は礼拝と聖書の学びが中心です・・・イエス様が全世界に知らせてくださった神様はどのようなお方でしょうか。このことを学ぶことは大きな利益となります。
  • 礼拝の後の活動もあります。全体で1時間程度。10時半にはキチンと終わります。
  • 6月10日(日)は花の日です・・・この日は、成田東三丁目の交番にお花を届ける活動をしています。お家にお花が咲いている方は、お持ち下されば一緒にお届けします。
  • 聖霊の神様の助けによって全世界に教会が建てられました。教会は神様の見えない恵みを、確かな宝物として皆さんにお分けしたいと思います。それはイエス様の福音(良い知らせ)という宝です。世界中の教会に与えられているこの宝を、皆さんも心に受けて、新しい一歩を元気に踏み出すことができますようにお祈りします。
  • 教会学校は、幼児(初めは保護者とご一緒に)から高校生、大人の方でも参加できます。親子でもご参加ください。また、中学生以上の方には、10時半~11時半のからの礼拝もお勧めしています。

呪いを祝福に

聖書:イザヤ書53章1-5節, ローマの信徒への手紙6章4-11節

 昨日は成宗教会の兄弟の結婚式が、恵比寿にある教会で行われました。それは中国語を中心に礼拝が行われている大きな教会で、集まっている人々は働き盛りの若い世代。昔の日本の高度成長期の教会はそうだったと懐かしく思いました。それに比べると、わたしたちの教会をはじめ、日本の多くの教会は人々が高齢化し、いかにも弱っているように感じるかもしれません。しかし、本当にそうなのでしょうか。人は必ず高齢化するのです。社会もそうでしょう。山だって火山活動が盛んな時代が過ぎると、だんだんとおとなしく丸くなる時代が来ると学校で習いました。

すると私たちは進んでいるのかもしれません。血気盛んな人々が集まっている国があり、教会がある。しかし、若者は決して若者のままではいない。だれもがだんだん高齢になって行く。もし教会に、全く同じ世代の人以外、一人もいないならば、その教会はいずれ立ち行かなくなるでしょう。しかし、神様が教会を建てるとお決めになったのであれば、決して人の予想通りにはなりません。私がこの教会に呼ばれたときも、役員会の記録には、高齢化のため、礼拝出席が減少した、と書かれていました。その時も教会員は自分より、年取った方々がほとんどであったのです。

けれども自分より先輩がいること。何十年年上の大先輩が自分の傍にいるということは実は思いがけない恵みです。人は多くの場合、同じ年代の人々といることを好むので、自分と同じ年頃の人々を仲間と感じるようです。しかし、人生の先輩、信仰の大先輩がここにいる恵みは大きい。実際、私も成宗教会の大先輩の方々から多くの恵みをいただきました。遠い星を見て、宇宙を学ぶように、高齢の教会員が共に生きているならば、その人を通して神様が学ばせてくださる恵みは計りしれません。

私は大学生の時、教会に通う者となりました。その頃の礼拝の様子は、今はほとんど記憶のかなたに行ってしまっています。しかし、思い出すのは、礼拝堂の片隅に座って肩を震わせて泣いていらした老婦人の後ろ姿です。なぜ泣いていたのでしょうか。それは1960年代後半。まだ多くの高齢者が戦争の悲しみ、悼みの中にあったことを、今更ながら思います。高齢者は悲惨な時代、悲惨な社会を記憶しているからこそ、礼拝説教に涙をもって自分たちの罪を社会の罪を証ししていたのでしょう。罪によって呪われたのだと。

ですが、それから数十年の内にわたしたちはすっかり変わってしまったことに気がつきませんでした。呪いなんて、何のことだろうか。漢字も忘れてしまっています。わたしたちの理想は衣食住に困らないこと。みんなと仲良く楽しく暮らすこと。いつまでも長生きすること。それだけでいい。その理想さえ実現すれば、神様のことは忘れてもいいではないか。実際、高度経済成長期にだれもが豊かになったと感じていた頃、教会の礼拝で泣く人はいなくなったと思います。そして礼拝で居眠りする人が増えました。皆、神の愛の話を聞きたいと思います。神の祝福を受けたいと思います。しかし、それではなぜ、キリストは十字架にお掛かりにならなければならなかったのでしょうか。そのことを知らせることは、教会にとって非常に困難な時代が来たのでした。

私は居眠りしている信者の一人ではありましたけれども、教会の人々が弱り果てていることを感じておりました。そして神さまは、私がどうしても伝道者として立たなければならないというところまで追い詰められました。しかし、伝道者として、教会の皆さんに神様の言葉を説き明かすことになった時、何と言っても一番困難であったのは、人間の罪について語ることでありました。ローマの信徒への手紙3章23-24節にある言葉です。「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスの贖いの業を通して、神の恵みに寄り無償で義とされるのです。」

このわずか3行ばかりの言葉です。読み上げるのは簡単ですが、一体だれが、自分のこととして納得するのでしょうか。説教者は、会衆の一人一人に「あなたは罪ある者です」と言わなければならない。これが大変困難だったのです。私は自分は足りない人間だという自覚があり、一方で教会の人々がたいそう立派に見えました。元々、学校の教師として上から目線で生徒を見ることの無い者でした。また生徒の方も大変おおらかに言いたい放題のことを私に言って来る、そういう教師でした。私には生徒も教師も神の御前に等しい者同士だったのです。

ところが教会の説教者は、自分の落ち度を差し置いて、人間が等しく神の御前に罪人であることを語らなければなりません。そして「あんたなんかにそんなことを言われたくない」と言われることも覚悟しなければなりません。教区総会の時期になると思い出すのですが、教会記録審査という仕事があり、私もそれを担当しました。ルールに従って審査をし、問題を指摘したときのことです。ある教会の会計役員が私を指さし、その指を振りながら、声を震わして言ったのです。「お前なんかに、お前なんかに、私の報告を直されて・・・。」それは高齢の男性でしたが、私が教会の教師であることを知った上でも、自分の書類が直された怒りが治まらないようでした。私の17年の教会の務めは、人間の罪とは何か、について学ばされる年月でありました。そして、そのことを、人々に向かって恐れず大胆に語れるようになることは非常に困難で、多くの時間を要したわけです。

今日読んでいただいたイザヤ書53章1節。「わたしたちの聞いたことを、誰が信じえようか。主は御腕の力を誰に示されたことがあろうか。」こう言っている「わたしたち」とはだれでしょうか。それは諸国の王たちであります。人々の上に立って統治している王たちが、「実に驚きに堪えない」と言っているのです。わたしたちの聞いたことを、だれも信じられなかったし、これまでにだれもその意味が分からなかったというのであります。

それほどに、この福音を信じる者はいないというのです。だからイザヤ書はその不信仰を、悲しみ嘆かないではいられないのです。そう嘆いてから、彼らは苦難を受けた一人の方について語りはじめます。

「乾いた地に埋もれた根から生え出た若枝のように、この人は主の前に育った。見るべき面影はなく、輝かしい風格も、好ましい容姿もない。」輝かしい風格、好ましい姿は美しさを表します。美しさは神の祝福のしるしです。ところがこの方は美しくなかった。だから、だれも彼を見たいと思わなかったのです。わたしたちはキリストの栄光を人間の見方によって判断してはならず、ただ聖霊の神がキリストについて教えてくださることを信仰によって理解しなければなりません。3節。

「彼は軽蔑され、人々に見捨てられ、多くの痛みを負い、病を知っている。彼はわたしたちに顔を隠し、わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。」ここでは、主の僕であるこの方のさらに詳しい状況が語られています。つまり、彼は社会から追放された者であり、侮られ、友もない。彼は悲しみと悲哀の人でありました。またこの方は、見るに堪えられないほど魅力のない、病の人であったのです。人は万事が好都合に行っていて、更に健康である時には、不健康で醜い病んでいる者をさげすみ、侮りやすいものです。だからこそわたしたちは自分のこうした傾向と戦わなければならないのです。

わたしたちは楽をして得して、その上で救われたいと考えたいのではないでしょうか。だから、キリストについて理解することができず、キリストを受け入れることができないのです。しかし、イースターの喜びについて語る前には、まず必ず、キリストの苦難と死について思わなければなりません。もし、キリストの苦難を思わず、復活から宣べ伝え始めるならば、それは弱い福音になるでしょう。預言者はキリストの悲しみ、病弱、見捨てられ、侮られ、死に至ったことから宣べ伝え始めたのです。

ところが、多くの人々が彼の死に躓くのです。それはまるで彼が死によって打ち負かされ、死によって圧倒させられたかのように感じられるからです。しかしわたしたちは、死の力と支配を主が打ち破って復活してくださったことを告げるべきなのであります。主の強さとその力は、死を打ち破ることによってこそ、その本質が理解されるからです。

主の強さと力は、死と関係なくあるのではないのです。それは死の支配を打ち破った所に示されました。さて、諸国の王たちは、キリストが負われた苦難の本当の意味を悟らされて、次のように告白したのであります。「彼が担ったのはわたしたちの病、彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに、わたしたちは思っていた。神の手にかかり、打たれたから彼は苦しんでいるのだ、と。彼が刺し貫かれたのはわたしたちの背きのためであり、彼が打ち砕かれたのは、わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって、わたしたちに平和が与えられ、彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。」

これまでは彼らはこの方が単純に打たれ、苦しめられ、何かの理由で神に叩かれているのだ、と考えていたのでしたが、この時初めて理解しました。実はこの方は自分たちの悩みと、自分たちの悲しみを担っていることを。キリストは地上にいらして、その御言葉によって悪霊を追い出し、多くの病人を癒されましたが、その奇跡物語は、わたしたちの魂にもたらす救いを証しするものであったのです。キリストの地上の働きは、わたしたちの体を癒すためではなく、むしろ魂を癒すことにあるのではないでしょうか。

だからこそ、その癒しは体に対する癒しよりもはるかな大きな広がりを持っていたのです。主はわたしたちの魂の医者に任命された方でありますから。「わたしたちは思っていた。神の手にかかり、打たれたから彼は苦しんでいるのだ、と」いう告白は、人間がどんなに感謝がなく邪悪であるかを、預言者が示そうとしているのに違いありません。彼らはキリストがなぜそんなに激しく苦しんでいるのかを知らず、「ただ彼自身の罪のせいで、神が彼を打ち叩いたのだ」と勝手に解釈していたのです。

わたしたちも全く変わりないと思います。自分の身に何も苦労がない間は、苦労している人の気持ちがなかなか分からない。辛い戦争の体験が共通の苦しみだった時代を記憶している間は、キリストの苦難に救いを見い出す人々が教会に集まったのです。しかし、わたしたちも何とか福音を宣べ伝えようと思うならば、ご自分のためではなく、ただただ罪人を憐れまれたために苦難を負ってくださった方の労苦を僅かでも味わうことができるのではないでしょうか。そして神の御心を知ろうとしない人間の罪、自分の痛みには火がつくほど敏感なのに、人の苦しみには全く鈍感な人間の罪が思われるのです。罪を罪とも思わない生き方そのものが呪われているのです。しかし、それにもかかわらずキリストは、この罪の浅ましさにまみれた人間をなお憐れんで、呪いを祝福に変えてくださいました。キリストの苦難と死は、わたしたちの苦難を苦しみ、死を御自分のものとしてくださったのです。ローマ6章4節。

「わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死に与るものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。」今日は、使徒信条の中で主は「十字架につけられた」ことがどのような意味を持つのかについてみ言葉に聞きました。「木に掛けられる者は呪われる」と聖書に書いてあります。イエス・キリストの十字架の意味は、わたしたちが神様に赦され、永遠に祝福されるために、キリストが神様に呪われたということです。最後にローマ6章7-8節を呼んで、祈ります。

「わたしたちの古い自分がキリストと共に十字架に付けられたのは、罪に支配された体が滅ぼされ、もはや罪の奴隷にならないためであると知っています。死んだ者は、罪から解放されています。わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きることにもなると信じます。」

 

父・御子・聖霊の三位一体の神様

尊き御名をほめたたえます。ペンテコステに聖霊を注いで下さり、教会の歩みが始まって以来、全世界の教会を励まして、主の体に結ばれるものとしてくださいました。わたしたちの教会もただあなたの恵みによって今日まで導かれたことを感謝します。

本日は使徒信条について、わたしたちの主が十字架にお掛かりになったことを告白して来た意義を学びました。わたしたちもあなたに立ち帰って生きるために、キリストの十字架の死に結ばれ、罪の贖いを受けました。このことを繰り返し思い起こし、新たに感謝を込めて、主の命と共に生きる者とならせてください。

教会の行事が守られ、東日本連合長老会の教会会議も恵みのうちに導かれたことを感謝します。本日は、西東京教区の総会が行われます。あなたの福音がこの小さな教会でも宣べ伝えられると同時に、全国、全世界の教会が手を携えて、福音を宣べ伝え、一つのキリストの体に結ばれるために、教区総会を清めてお用いください。そこで行われる選挙によって秋に行われる教団総会の議員が選ばれます。どうかこの選挙の上に御心が行われますように。

礼拝に来ることが困難になっている兄弟姉妹のために祈ります。多くの方々が主の日の礼拝を覚え、心を込めて祈っておられます。どうかその祈りが聴かれ、わたしたちの祈りと共に、あなたの喜びとされ、この教会が守られますように。主に連なる一人一人が共に主の恵みを受けますように。主はわたしたちをその死に結ばれ、わたしたちの呪いを御自身に受けてくださいました。その代わりにて御自分にある天の祝福に、わたしたちを結んでくださいました。わたしたちの多くが高齢となっておりますが、あなたがわたしたちに注いでくださった恵みを、年を重ねる毎にますます豊かに証しする者となりますように。

この感謝と願いとを、我らの主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

我らを兄弟と呼ぶために

イザヤ7章10-14節, ヘブライ人への手紙2章10-18節

昨日は子供の日でしたので、ある俳優の方が、子どもたちを祝福するメッセージをラジオで語っていました。子どもたちよ、失敗を恐れず、勇敢に生きなさいと。そして私も85歳だが、もう少し頑張って楽しく仕事に打ち込み、それからあの世とやらに行くつもりだと。この方は一人の人間として、高齢者として、誠実に精いっぱい愛情を込めて語っていることだと感じました。しかし人が人に語ることとしては、これ以上のことは言えないと思います。

わたしたちは2018年度の教会標語を掲げました。それは週報の表紙に書かれています。(エフェソの信徒への手紙第3章18-19節)「また、あなたがたがすべての聖なる者たちと共に、キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解し、人の知識をはるかに超えるこの愛を知るようになり、そしてついには、神の満ちあふれる豊かさのすべてにあずかり、それによって満たされるように。」

キリストの愛とは、キリストの内に表された神の愛を指しています。それはわたしたちの生きる土台となるものです。私たちの信仰の学びは「神とはどなたであるか?」を知ることから始まりました。この学びを続けることは、人の言葉ではなく、神の言葉を求めることです。人の励ましではなく、神の励ましを受けることによって、わたしたちは、これからあの世とやらに至る道ではなく、救いに至る道をしっかりと歩むことができるのです。

そこで、本日の使徒信条の学びは、使徒信条に「主は聖霊によって宿り、おとめマリヤから生まれ」と告白されていることについてです。これはどういうことでしょうか。答は、結論から言えば、イエスさまが、罪を別にすればわたしたちと同じ人間になってくださったということです。ここにこそ、神の愛が真っ先に人間に向けられていることが表されているのです。神は御自分に似せて人間を創造されました。ところが人は罪の支配を受けて以来、死を恐れるようになりました。アダムとエヴァは神との約束を破って、食べてはならないと言われた木の実を食べました。するとその直後、二人が取った行動は神の前にありのままの自分の姿を見せることではなく、神から自分の身を隠すことだったのです。

こうして人間は、光の源である神から身を隠すようになって以来、闇に支配されることになりました。闇を恐れ、死を恐れながら、しかし神に立ち帰ることができないのです。では、これに対して、神はどうされたでしょうか。神は人間の創造者であります。人間を造り人間に目標を与えられました。その目標とは、神の交わりに生きることです。神は、罪のためにその目標を失っている人間を御覧になりました。そこで悲惨な人間のために行動し給うたのです。それはまさに神にふさわしいことでありました。

今日のヘブライ人への手紙2章10節。「というのは、多くの子らを栄光へと導くために、彼らの救いの創始者を数々の苦しみを通して完全な者とされたのは、万物の目標であり源である方に、ふさわしいことであったからです。」ここで、「彼らの救いの創始者」と言われるのは、イエス・キリストその方です。創始者というより、救いに導く方という方がふさわしいと思います。わたしたち人間を神の子とするために、神の独り子をお遣わしになるほど、神は世を愛されたことを、わたしたちは繰り返し思うのです。神の御子である救い主も(11節には人を聖なる者とする方)、また私たち救われる者(聖なる者とされる人たちと言われています)も、その源は一つ、キリストは神から出た方であり、私たちは神に造られたものだからです。

神は人間を(しかも罪のために悲惨な状態に陥っている人間を)どんなに愛しておられることでしょうか。それで、御子であるイエスさまは、わたしたちを兄弟と呼ぶことを恥ずかしいと思われないのです。よく子供たちがいたずらをしたり、悪いことをすると、親は叱って、「こんな子はうちの子じゃない!」と言います。そりゃ、親にして見たら恥ずかしいと思うことがあるのです。しかし、神様はどうでしょう。恥ずかしいようなことをしでかす人間を、何とか救おうとなさるのであります。

それでイエスさまも、恥さらしのとんでもない人間を兄弟姉妹と呼ぶことを厭わないで、12節。「わたしは、あなたの名をわたしの兄弟たちに知らせ、集会の中であなたを賛美します」と言い、また、「わたしは神に信頼します」と言い、更にまた、「ここに、わたしと、神がわたしに与えてくださった子らがいます」と言われます。12節の引用は詩編22篇23節です。この詩人は、人から虫けらのように言われ、人間の屑と蔑まれるわたしを、主は救ってくださったと証ししています。だから私はこのことを兄弟たちに証ししたい。それはそれを知って、多くの人々が救われるようにと願うからです。

また13節後半には、「ここに、わたしと、神がわたしに与えてくださった子らがいます」が引用されています。ヘブライ人への手紙の著者は、これをキリストの言葉として私たちに聞かせているのです。ヨハネ福音書10章11節(186頁)に、主イエスは言われました。「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる」と言われた主の御言葉を思い出します。

そこで主イエスは、私たちを救いに招き、兄弟姉妹と呼ぶために、何をしてくださったでしょうか。私たちに目に見える姿で現れ、私たちの耳が聞くことのできる言葉を語るために、主はどうなさったでしょうか。主は謙って、私たちの世界に現れてくださいました。すなわち、主は血と肉を備えられたのです。血と肉とは地上の命のことです。血と肉とは、やがては死すべき人間を表します。私たちは皆、地上に血と肉をもって生きているので、私たちを救おうとなさるお方もまた、御自身に血と肉を備えられました。

今日の旧約聖書イザヤ7章11節「それゆえ、わたしの主が御自らあなたたちにしるしを与えられる。見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ。」インマヌエル、すなわち、「神、我らと共にいまし給う」です。イザヤ書に登場するユダ王国の王アハズとその国民はイスラエル王国の滅亡の危機、大国アッシリアの攻撃の脅威にさらされ、風に震える木の葉のように動揺していたと言われます。その時、預言者イザヤは「主の救いを信じなさい」とアハズ王を励ましたのです。

ここに鋭く問われているのは、王と民の信仰であり、またわたしたち教会の民の信仰なのです。神に対して自己を完全に委ねること。そうすれば、どんな危機に直面したとしても、わたしたちは神の真実に堅く信頼して立つことができるのです。しかし、もし王にこのように委ね切ることがなく、かえって神が在さないかのように恐れおののくなら、王も民もその安全は確かに脅かされるだろうとイザヤは警告します。イスラエルの民は信仰においてのみ成り立っているからです。なぜなら、イスラエルは神の選びによって生まれたのでありますから、神に全面的に信頼している限りにおいてのみ、存続するのです。だから、もし信じることができなければ、イスラエルの王も貴族も神の民も消滅するでしょう。

イスラエルの不信仰。すなわち神に招かれ、その民とされながら、神に信頼し委ね切ることができない。そのイスラエルのために、イザヤは預言しました「主御自ら、あなたたちにしるしを与えられる」と。「見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ」と。こうして、神の御子、すべてを超越した存在であるイエスさまが、地上に生まれられました。このことによって、主はすべての人間と共通する存在であることを、御自分に受け入れたのであります。14節~15節を読みます。

「ところで、子らは血と肉を備えているので、イエスもまた同様に、これらの者を備えられました。それは、死をつかさどる者、つまり悪魔を御自分の死によって滅ぼし、死の恐怖のために一生涯、奴隷の状態にあった者たちを解放なさるためでした。」イエス・キリストは肉を裂き、血を流して我らの贖いとなってくださったことを思います。すなわち、わたしたちを死から解放するためにご自分を犠牲として捧げ、罪を断罪してくださいました。この目的のためにも、主は肉体を取ってくださったのです。

そして、わたしたちに、信じたくても信じることができず、信じ続けることがなお難しい人間のために、目に見える存在として、耳で聞くことのできる存在として、また不信仰なトマスと同じく、触ってみなければ信じない人間のためにも、地上にただ一度いらしてくださって、神の愛がどのようなものであるかを明らかにしてくださいました。この目的のためにも、救い主は限りある血と肉とを人間となってくださいました。

人々は神を知ることを真剣に求めない人でも、天使や悪魔に興味のある人は多いと思います。姿形まで想像して絵や彫像を造ったりします。彼らが霊的存在であることも興味が惹かれる理由の一つであると思います。お化け、幽霊とか、ハリーポッターなどの世界に登場する霊が好まれるところを見ると、どうも変幻自在であるとか、神出鬼没という存在が人間の憧れなのかもしれません。しかし、神の愛は人間に注がれている、ということを、最もユニークに表現しているのは、ヘブライ人への手紙ではないかと私は思います。16節に「確かに、イエスは天使たちを助けず、アブラハムの子孫たちを助けられるのです。」とあるからです。

神は、限りある肉体をもって、地上に限定されて生きている人間を愛しておられます。ちょうど、植物が雨が降っても雨宿りもできず、日照りの時も川に移動することもできずに、一つところに根を下ろしたら、その場でいつの日にも一生懸命生きていくより他はないように、神は、私たちが日々の困難に耐えて精一杯生きてこそ、美しいと見給うのではないでしょうか。その所で、その時において、造り主を見上げ、その愛が造られた者に注がれていることを信じ、この神を私たちに教えてくださった救い主をほめたたえる命を今日も生きたいと願います。

植物の例えを出しましたが、私たちは空の鳥、野の花より価値あるものであると教えてくださったのも、また救い主イエス・キリストであります。私たちは神の形に造られた者。空の鳥、野の花を手本に生きるのではありません。それを造られ、守られる恵み深い神に立ち帰り、神をほめたたえるために、私たちは罪の赦しに結ばれなければならないのです。自然にそれができたのでは決してない。神を離れ、さ迷い出て苦しむ私たちのために、私たちと神との間に立ってくださり、壊れた関係を回復してくださるために、神の御前において憐れみ深い大祭司となってくださいました。憐れみ深い神の御心を表してくださいました。同時に忠実な大祭司となってくださいました。それは、神に対して忠実な人間の本当の姿を表してくださったということなのです。

御自身は神に忠実であり、神に全く背いておられないのに、試練を受けて苦しまれたのは、神に背いて試練を受けていた人たちを助けるためでした。これほどの愛をいただいているのは、天使ではないのです。限りある私たちなのです。この喜ばしい言葉を、神の恵みの言葉として聞きましょう。目に見える私たちは小さな群れ、しかし、主はこの群れを愛して、その証しを沢山残してくださいました。見ようと願うなら見ることができます。聞こうと願うなら聞くことができます。礼拝の民として、とどまることを願うなら、あなたがた自身、主の愛が注がれた者としての生涯を証しすることになるでしょう。

主がそのことを喜び助けられるからです。祈ります。

 

御在天の父なる神様

尊き救いの御名をほめたたえます。あなたは罪ある者の罪を憎み、それを決して見逃されない方です。しかしあなたは罪ある者を憐れみ、イエス・キリストにおいて、その愛の広さ、高さ、長さ、深さを表してくださいました。どうか、私たち地上の生涯の間に、その愛を少しでも多く知ることができ、知って喜び、感謝し、讃美礼拝の中に、あなたの御許に召される日まで、歩ませてください。

あなたの御心はまた、御子によって示された計り知れない愛を、地上に在って、主の兄弟姉妹とされた教会の方々と、共に分かち合うことにあると知りました。どうか、あなたの御心を全く知らずに、または信じられず、主にゆだねることができずに、不安の日々を生きている多くの人々に、主と共に生きる幸いを知らせてください。主が聖霊を送って共におらせてくださることを切に願います。20日にはペンテコステ礼拝を守ります。どうか私たちを清めて、聖霊の住み給うにふさわしいものとしてください。

多くの方々が高齢になっております。それぞれのご家庭をあなたの恵みの御支配のある所としてください。平安と必要な助けが日々与えられますように。また同様に、独り暮らしの方、ご病気の方、どうぞあなたのお守りと顧みが豊かにございますように。来週は墓前礼拝を予定しております。どうか、このために出かける旅路をあなたの恵みのうちにお守りください。感謝の礼拝を捧げることができますように。

本日は、長老会議が開かれます。どうぞ、来年度の主任担任教師の交代に向けて長老会を導いてください。すべての教会員が心を一つにして備えることができますように。また、教師ばかりでなく、長老、信徒についても新しい奉仕者が与えられますように切に祈ります。また、東日本連合長老会の交わり、その働きがあなたの御心にかなったものとなり、共に主の体の教会を建てて行くために、諸教会と心を合わせて進むことができますように、助け導いてください。善き働きのために奉仕する諸教会の教師、長老、信徒の皆様のご健康が祝されますように祈ります。

この感謝、願い、尊き主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さ

聖書:イザヤ53章6-12節, エフェソ3章14-19節

 本日は、成宗教会の教会総会が開かれます。そこに上程します議案については、日本基督教団の教会規則によって、既に公告がされております。私は2017年1月の長老会議に退任の希望を提出し、同年3月に長老会として承認されました。私は退任の期日を、2018年3月末と希望しましたので、今年度の教会総会に議案として上程されることになったわけです。教会総会の議員資格を持っておられる方々には、是非とも総会にご出席いただきたいのですが、皆様の中には健康上の理由から、礼拝後の会に継続して参加できない方々もおられます。そこで、礼拝のメッセージを通して主の御心が成宗教会に伝えられることを私は心から願い祈ります。

私が辞任することは、この教会の歴史の一ページが閉じられ、また新しいページが開かれることです。一人の教師、この教会の牧師であった者が辞任をします。しかし、牧師が辞任することは、教会にとって決して大きなことではありません。なぜなら牧師が辞任しても、しなくても変らないことがあるからです。それは変らない一つの願いです。わたしたちに一つの共通の願いがあります。それは何でしょうか。イエス・キリストが集めてくださった群れを守り、キリストの一つの体とすることです。

このただ一つの願いのために、私もここに務めさせていただきました。この一つの願いのことをわたしたちは最初から知っていたでしょうか。理解していたでしょうか。私自身については最初から十分知っていたとは言えません。ただ、献身の決意を与えた御言葉は次のものでした。マタイ9章36-38節。(17ページ)「イエスは(中略)また、群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた。そこで、弟子たちに言われた。『収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。』」

私は教会が「ただ飼う者のない羊のように弱り果てている」ことを知っていました。それは何もこの教会がそうだというのではありません。私は、赴任するまで成宗教会を知らなかったし、教会の方々もわたしを知らなかったのですから。そして、この教会の方々も、自分たちは「飼う者のない羊のよう」だと思っておられたかどうかわかりません。

そもそも、私たちは皆、私たちには一つの願いあることを、共通の願いがあることを知らなかったのではないでしょうか。なぜなら、この願いは元々から私たち自身の願いではなかったからです。この願いは、私たちに与えられた願いであったのです。そして今は、私たちに与えられて、共通の一つの願いとなっていることを、私は確信しています。その願いとは元々、私たちが願ったものではなかった。では、それは誰の願いだったのでしょうか。それは主の願いだったのです。主が、父・御子・聖霊の神様が切に願っておられたので、主はその願いを私たちに与えて下さり、私たち自身の願いとしてくださるのです。

今日、読んでいただいたイザヤ書53章6節。「わたしたちは(われわれのすべてが)羊の群れ、道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。」ところが、道を誤り、散り散りになって行った私たちのすべてを、主は放置されたでしょうか。主は私たちが滅びに向かうことを望まれませんでした。だからそのままにされませんでした。主は、一人の僕を立てられました。御自分に全く忠実な僕を。そして道を誤った私たちの罪を負わせられ、苦しみと死を受けさせられました。一体それは何のためだったでしょうか。それは一重に、ただ一重に彼らを正しい道に呼び返すためではなかったでしょうか。

 イザヤ53章11節。「彼は自らの苦しみの実りを見、それを知って満足する。わたしの僕は、多くの人が正しい者とされるために彼らの罪を自ら負った。」私たちは、主イエス・キリストの死によって贖われ、救われました。私たちは、正に主の苦しみの実りなのであります。ですから今、私たちは救われたものとして、主の道に立ち帰らなければならない。さまよい出た道から、主の導かれる道へと立ち帰るのです。主に立ち帰るならば、主に結ばれて、実を結ぶものとなるでしょう。主は御自分をぶどうの木に例えられました。私たちは主の体の肢。私たちの結ぶ実は何でしょうか。その実の名は「救い」です。私たちは主によって罪赦され、清められ、「永遠の救い」という実を結ぶのです。

 そのために、私たちは日々、主に立ち帰り、主に結ばれて生きるのです。この実りはまた自分自身のためになるばかりでは、決して終わりません。この実りは自分の救いを世に明らかに示し、そのことによって更に世の多くの人々を救いに招くために用いられるでしょう。世の多くの人々、その中に、私たちの隣人、身近な人々がいることを信じましょう。

私が成宗教会に遣わされて来たのは、そのためでありました。そして私が去って行くのも、またそのためであります。私ばかりでなく、信者となり、教会の肢として結ばれている私たちは皆、生きる時も死ぬときも、来る時も去る時も、働くときも休む時も、皆すべてが祝され用いられます。病気や困難、苦難でさえもこの目的のために用いられるに違いないのです。主からわたしたちに与えられた願い、父・子・聖霊の神様の一つの願いが私たちにあるならば。その願い、キリストの体である教会を建て、キリストと結ばれたい。その願いを私たちは主に捧げて祈りましょう。

今日の聖書エフェソの信徒への手紙3章14節。「こういうわけで、わたしは御父の前にひざまずいて祈ります。」自分たちの働きが多いとか少ないとか、苦労が多いとか少ないとか、考えるよりも、またこれまでのことを振り返って、自分で評価したり、人を評価したりするよりも、何よりも前に、天の父の御前に恐れをもって立ち、心を低くして祈りを捧げましょう。なぜなら、私たちを実りあるものにしてくださるのは、私たち自身ではなく、主の憐れみと慈しみなのですから。

15節。「御父から、天と地にあるすべての家族がその名を与えられています。」神さまの御国には、すべて天にある血縁的につながる人々から、地上の血縁的につながる一群の人々がその名が記されているというのです。こう言われているのは、キリストがそうしてくださったからに他なりません。キリストがおいでになる前は、ユダヤ人は神の民と自分たちを誇り、その一方、異邦人は救いとは関係のない人々でありました。ところがキリストは地上においでになって、すべての人間のために罪の贖いを成し遂げてくださいました。そうして、キリストによって救われる人々は、一つの家族、一つの同じ親族に帰せしめられたばかりでなく、天使とさえも同じ一つの家族にされました。ですから、私たちを結んで神の家族とする絆は、イエス・キリストなのです。

パウロは祈ります。16-17節。「どうか、御父が、その豊かな栄光に従い、その霊により、力をもってあなたがたの内なる人を強めて、信仰によってあなたがたの心の内にキリストを住まわせ、あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように。」

「内なる人」とは、どういうことでしょうか。それは、私たちの魂と霊的、精神的な生活に関わる全てを表します。それに対して外なる人という表現もありますが、こちらの方は、体の健康、富、名声、若さ、信用、その他これに類するものであります。人々の関心は専ら、外なる人を強めることにあり、頑張っています。それに対し、内なる人は、神の国に関わることでありますから、神の力によって強くされるのです。

パウロのこの祈りは、キリストによって神に仕える福音伝道者に共通の祈りです。それぞれの信者が賜物を与えられ、御霊の働きによって内なる人を強くしていただけるようにと祈ります。これは、だれでも御霊によって信仰が強められる希望があるからです。つまり、私たちは幼い者から年老いた者まで、だれもが成長させていただける希望が与えられているということなのです。パウロはⅡコリ4:16でも次のように教えて人々をはげましています。「たといわたしたちの外なる人は衰えていくとしても、わたしたちの『内なる人』は日ごとに新しくされていきます。」329下。

私たちは、何かと人を評価して、あの人は立派な信仰者であると、まるで完全な人のように言うことがあるかもしれません。しかし宗教改革者は言います。「信仰者というものは、これ以上常に成長する必要はない、と言い得る位にまで進歩することは決してないのだ」と。そうだとすれば、信仰者にとって地上の生活の完全とは何でしょうか。それは信仰者として成長を愛するようになることです。少しずつ少しずつ、主に向かって成長する。「キリストに倣う」と言います。キリスト御自身も言われました。「天の父は完全な方なのだから、あなたがたも完全な者になりなさい」と。使徒パウロも、皆が自分のようになってほしいと述べています。けれども、このようなことは聖霊の働きによらなければ、だれも決してできないのであって、人間の能力ではないのです。

あらゆる良いことの初めは、神の霊のお働きによって起こったのです。そのように、私たちが、神様に向かって成長することを、心から愛し、望むならば、その望みもまた聖霊の働きであることを確信しましょう。では、内なる人の成長は何によって分かるのでしょうか。キリストは言われました。ヨハネ福音書14章23節。「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。わたしの父はその人を愛され、父とわたしとはその人のところに行き、一緒に住む。」(197頁)キリストが聖霊によって私たちの内に住んでくださることの結果は、愛という実となって現れます。すなわちキリストによってわたしたちに示された神の恵み、神の愛がどんなに絶大なものであるか、ということが分かるようになるのです。

神の愛が、まるで立派な基礎を持った建て物のように、あるいは深い根を降ろした植物のように、わたしたちの内に深く在って堅固で不変のものとなるのです。そして、私たち人間はだれ一人、直接神を見ることはできないのですが、キリストが私たちと共におられることによって、人間に対するキリストの愛がどれ程大きいかを理解ようになるでしょう。18-19節。

「また、あなたがたがすべての聖なる者たちと共に、キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれ程であるかを理解し、人の知識をはるかに超えるこの愛を知るようになり、そしてついには、神の満ちあふれる豊かさのすべてにあずかり、それによって満たされるように。」ここに聖徒の交わり、教会の姿が示され、祈られているのではないでしょうか。「すべての聖なる者たちと共に」と祈られているからです。罪ある者でありながら、共に罪赦され、罪の奴隷から解放され、キリストによって神のもの、神の家族とされた私たちであります。このことを日々信じる。心から信じる。そして互いに愛し合い、その弱さを忍び合い、助け合うことができるようにしてくださるのは、正に神の愛が、キリストの愛が、信じる群れに注がれているからに他なりません。

主の願いはただ一つの救い、ただ一つの教会を建てることです。そしてこの願いを主は私たちにもくださいました。この願いのために私は退任しますが、この願いのために、成宗教会に教師が新たに遣わされます。そして、新しい時代にも福音が宣べ伝えられる教会とされるのです。このことを皆さんと共に確信して祈りましょう。