奪ってはならない

聖書:エゼキエル459節, エフェソの信徒への手紙425節-51

 昨日、ポストに宗教の宣伝ビラが入っていました。ハローウィーンの季節を意識してか、おどろおどろしい夏のお化けのようなイラストで各宗教を説明していました。それは仏教系の新興宗教なので、仏教以外は皆ダメだと書いてあり、特にキリスト教に至っては、「神に見捨てられた人を拝んでいる」人々がいるなんて全く信じられない弱い宗教だと総括していました。思わず微笑んだのは、これとまったく同じ感想が、古代ローマ帝国時代の人々に聞かれたということを、東北学院大学の松本宣郎学長の講演で聞いたことがあるからです。

日本社会は只今、かつて経験したことのない少子高齢化社会であり、また世界的にはIT革命の時代であります。人の仕事がITに奪われると危機感を持ち、まるで人間の価値が仕事で決まるかのように騒ぎ立てる時代に、わたしたちは呆然としてしまうかもしれません。しかし、どんな時代にも教会は信仰を受け継いで来ました。今とは異なる危機ではありますが、今より軽い患難では決してない、危機の時代を生きて、教会は旅を続けております。わたしたちは「弱いときにこそ強い」というみ言葉(Ⅱコリ12章10節)を与えられています。なぜなら、イエス・キリストがわたしたちの弱さをすべて身に受けて、弱さの極みを御自分のものとし、反対に神の強さをわたしたちに与えてくださったからです。わたしたちはこの方を救い主と信じ、自分の罪を告白して、キリストに結ばれるものとなりました。

わたしたちはキリストに結ばれ、キリストの体の教会の部分となっています。イエスさまは言われました。(ヨハネ15:4…198頁)「わたしに繋がっていなさい。わたしもあなたがたに繋がっている」と。またこうも言われます。「人がわたしに繋がっており、わたしもその人に繋がっていれば、その人は豊かに実を結ぶ(ヨハネ15:5)」と。わたしたちはどのようにして教会の肢となるのでしょう。それは洗礼を受けて肢となるのです。ではどのようにして教会の肢として、イエス・キリストに繋がっていることができるのでしょう。それは、礼拝を捧げ、神の言葉によって養われることによってつながっているのです。

さて、イエスさまに結ばれた者は、罪赦され救われていることを、どのように感謝したら良いでしょうか。これがわたしたちの大きなテーマです。今日まで学んで来た 十戒 も、この大きなテーマの中で学んでいます。すなわち、わたしたちが暮らす一日一日は感謝の生活であるはずだからです。今日は十戒の第八番目です。第八戒とは何でしょうか。それは、「あなたは、ぬすんではならない」です。世の中の犯罪の中で最も多いのは、窃盗、ひったくり、そして万引きだそうです。盗むというとそういうことを思い出しますので、わたしは盗んでない。だからわたしには関係ない、と思うかもしれません。

しかし、この戒めは単に物を盗むことだけを言っているのでしょうか。決してそうではないのです。この戒めも第六戒の「殺してはならない」や、第七戒の「姦淫してはならない」と同様に、人と人との関係を破壊するに至る重大な罪を指しているのです。盗みの非常に深刻な一例は誘拐であります。誘拐はすなわち人間を盗むことです。古代社会では労働力を確保するために誘拐が頻繁に行われました。先週取り上げました創世記のヨセフ物語でも、悪意ある兄たちは、穴に入れられたヨセフを、売ろうか、どうしようかと相談しているうちに、商人の一行が来て、穴の中の子供を勝手に引き上げ、奴隷として売るために連れ去ったことが語られています。このことからも、誘拐が珍しくなかったことが分かるのです。しかし、自分の身にそういうことが起こることを少しでも想像すれば、誰にでも分かることですが、自分の人生が誰かの手に握られるのは、失われたも同然であります。そして、誘拐された家族の生活も破壊されます。

本日の旧約聖書はエゼキエル45章9節を読んでいただきました。「主なる神はこう言われる。イスラエルの君主たちよ、もう十分だ。不法と強奪をやめよ。正義と恵みの業を行い、わが民を追い立てることをやめよと、主なる神は言われる。」ここでは誘拐という盗みとはまた異なった盗みについて、預言者の言葉が語られます。大国との戦争に破れたイスラエルの人々は奴隷の民となってバビロンに引いて行かれ、異国で敗戦の民の憂き目を味わいました。ペルシャ王クロスの時代から祖国への帰還ができるようになったのですが、依然としてイスラエルは外国の支配を受ける属国でありました。その属国を支配する者は同じ神の民、イスラエルでありながら、上に立つ者が権力を奮い、貧しい人々を苦しめ、搾取したのです。彼らはどうやってそれをしたのか。貧しい人々から盗んでいるとは、全く思いません。支配者たちは自分たちの都合の良い方法で、お金を貸し、作物の種を貸し、土地を耕させるからです。しかし、農耕民は借金が返せなくなると、先祖からの嗣業の土地を手放さざるを得なくなる。また、土地ばかりか、子供たちさえ売らなければならない。最後には自分自身さえも、借金の抵当として取られてしまう。こうして真に深刻な共同体の破壊が起こりました。

このようなことが起こらないように、村の人々を守り、町の人々を守ることこそ、上に立つ指導者、権力者の務めであったはずです。エゼキエル書の預言者は叫びます。正義と恵みの業を行えと。そのためには、正しい度量衡を施行することも、支配者の責任でありました。申命記25章13-16節には次のように言われます。「あなたは袋に大小二つの重りを入れておいてはならない。あなたの家に大小二つの升をおいてはならない。あなたが全く正確な重りと全く正確な升を使うならば、あなたの神、主が与えられる土地で長く生きることができるが、このようなことをし、不正を行う者をすべて、あなたの神、主はいとわれる。」320頁上。ところが法に違反して、二種類の升、二種類の重りを使い分けて、不正な取引が実際行われ、その結果は貧富の差の著しい拡大となりました。

盗んではならないという戒めが指し示すものは、わたしたちの生きる社会、世界でも全く同じではないでしょうか。イエスさまの許に来た金持ちの青年がいました。マタイ19章16節です。彼は尋ねます。「永遠の命を得るには、どんな良いことをすればよいのでしょうか。」イエスさまは十戒によってお答えになりました。「殺すな、姦淫するな、偽証するな、父母を敬え、また隣人を自分のように愛しなさい」と。青年はこともなげに答えました。「そういうことはみな守ってきました」と。それほど簡単に答えられることの方が不思議です。しかし彼は、「持ち物を売り払って貧しい人々に施しなさい」と勧められると、悲しみながら去っていきました。盗んではならないという戒めの意味の深さ、大きさを彼は思いめぐらすことができなかったのでしょう。今日の世界中の貧富の差を考えると、そしてますますそれが開いて行くということを知らされると、本当に深刻なことではないでしょうか。キリストの体に結ばれているわたしたちは、ただ主を仰ぐより他はありません。

今日読んでいただいた新約聖書は、エフェソの信徒への手紙4章25節からです。「だから、偽りを捨て、それぞれ隣人に対して真実を語りなさい。わたしたちは、互いに体の一部なのです。」わたしたちは神さまが人間を神の形にお造りになったと教えられました。ところが、神さまに背いて以来、神の似姿を失ってしまいました。イエスさまは真の神の子であられますが、人間を救うために背きの罪を贖ってくださいました。わたしたちは真の神の子と結ばれて、神さまが最初に人間にお与えになった神の形を回復させていただいたのであります。そこで神の形と言われる人間になるとは、どんな風になることなのでしょうか。

それは神さまの似姿ですから、神さまに似たものとなることです。神さまは真実な方ですから、わたしたちもまた偽りを捨て、真実を語ることを目指します。クリスマスが近づくと聖書に読まれる祭司ザカリヤはこう歌いました。ルカ1章74節。102頁。「こうして我らは、敵の手から救われ、恐れなく主に仕える、生涯、主の御前に清く正しく。」これは「わたしたちは清く神さまに仕えたい」という目標です。そして「正しく隣人と仕え合いたい」という目標です。しかし、これはわたしたちの力でできることではありません。ただ教会の主イエスさまに結ばれているからできる希望があるのです。26節。

「怒ることがあっても、罪を犯してはなりません。日が暮れるまで怒ったままでいてはいけません。」カルヴァンは怒りの三段階ということを言いました。第一は、自分の一身に関わる不正、過ちに動揺して腹を立てることです。第二段階は、ひとたび動揺すると度を越して激しい怒りに走ってしまうことです。第三段階になると、自分に対して向けるべき怒りを兄弟たちに向けるようになります。いわゆる八つ当たりで、自他ともに思い当たることではないでしょうか。パウロが勧めているのは、罪を犯さないように怒りなさいということです。そのためには怒りの原因を他人よりも自分の中に求めなければなりません。また怒ることがあっても、いつまでも怒り続けることのないように努力しなさいと勧めています。

ところで、皆様は思うかもしれません。今日の第八の戒めと怒りとは関係がないのではないかと。これまで盗んではいけないのは、物だけではないことを学んで来ました。人そのものを盗んではならないのです。そうだとすれば、人の心にあるものも盗んだり、奪ったりしてはならないのです。パワハラで奪われるものは心の平安ではないでしょうか。八つ当たりされる家族は、落ち着いていられません。小さい者、弱い者ほど、激しく盗まれるのではないでしょうか。27節。

「悪魔にすきを与えてはなりません。」怒りに身を任せている人はサタンに心が占領されているのです。また、それがいつまでも根深い恨みとなって心に残れば、それは癒しがたい病となるでしょう。28節。「盗みを働いていた者は、今からは盗んではいけません。むしろ、労苦して自分の手で正当な収入を得、困っている人々に分け与えるようにしなさい。」くり返して申しますが、盗みを働いていた者とは、泥棒家業の人ではありません。ここでは、人間の裁きでは見逃されてしまうような、隠れた盗みのことを言っているのです。つまり、他人の利益を自分の方に引っ張って来るあらゆる種類の横領を含めて考えています。オレオレ詐欺は実に巧妙ですが、人から名誉を盗む、評判を盗む、人のことを巧みにけなしたり、持ち上げたりして自分の利益になるようにもって行く人は、自分でも盗みを働いているとは、全く気付かない。そこにわたしたちの隠れた罪があります。

しかし、わたしたちは、ただ神の言葉によって過ちが正され、悔い改めに至るように、聖霊の助けを絶えず願いましょう。教会の肢であるわたしたちには高い目標が与えられています。これまで他人の利益を密かに奪うようなことをして来たとしても、これからはだれにも害を及ぼさないように働くという目標です。それは、ただ単に自分を養うだけのものを得るために働くだけではなく、他の人々を助けることができるようにならねばならないという高い目標です。自分だけのために生きることを考えるのでなく、互いの必要に役立つように努力する。これこそがキリストが与える愛の目標なのです。

わたしはもう年取って何の役にも立たないと、言いたくなる気持ちはよく分かります。しかし、それもまた、人間の側の身勝手な判断ではないでしょうか。だれが役に立つのでしょうか。だれが役に立たないというのでしょうか。わたしたちが役に立つのはキリストに結ばれているからです。もし人が、わたしに繋がっているならば、その人は豊かに実を結ぶと主は言われたではありませんか。「生きている限り清く正しく」と歌うザカリヤの言葉は真実です。わたしたちの判断によってではなく、ただ主の恵みによって、わたしたちは第八の戒めを守る者とされるでしょう。

カテキズム問48 第八戒は何ですか。その答は、「あなたは、ぬすんではならない」です。神さまは、わたしたちに必要なものをすべて与えてくださいます。しかし、自分に与えられたものを恵みと理解せずに、むしろ不満に思って、人に与えられている神さまからの恵みを奪うことが禁じられています。」祈ります。

 

主なる父なる神さま

今、わたしたちは、必要なものはすべて豊かにあなたから与えられていることを、教えられました。真に感謝です。わたしたちの救いのために、御子をも惜しまず、すべてのことを成し遂げてくださったことに、あなたの豊かさを知る者でありますように。そして讃美礼拝する者となりますように。

わたしたちを主の体の教会に連なる者としてくださったこの計り知れない恵みを感謝します。わたしたちはこの群れに在って、互いの安否を尋ね合い、互いの喜びを喜びとし、互いの悲しみを悲しみとして、キリストの体にふさわしい教会となりますように。どうか御言葉を以てわたしたちを養い、守り、教会を建ててください。成宗教会は連合長老会に加盟し、5年が経ちました。東日本の諸教会との交わりを感謝します。また更に大きな教会の交わりを与えられ、共に助け合って、教会形成をする道が開かれますように。

目に見える教会の行事の一つ一つを顧みて、福音伝道にふさわしく整えてください。働く者が足りないと思っているわたしたちですが、あなたがいつも必要を満たしてくださいました。特に来週行われるバザーの行事、事故無く怪我無く、あなたの御旨のままに良き交わりの時が与えられますように。奉仕する者、参加する者を祝福してください。また今、ご健康を害しておられる方、いろいろな悩みの中にある方、遠くにいて教会を覚えている方々を顧み、共に主に在って一つの群れとしてください。

成宗教会は、主の恵みの下に、東日本連合長老会の指導を受けて牧師後任の人事に取り組んでいます。そのすべての上にあなたの御心が成りますように。 すべてを感謝し、御手に委ねます。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

聖なる公同の教会

聖書:エレミヤ書138-14節, エフェソの信徒への手紙416

 教会は今朝の礼拝でも、使徒信条を告白しました。成宗教会がそうしているだけでなく、全世界の教会において礼拝毎に告白されています。また現代の教会だけがそうしているのではなく、代々の教会が、使徒信条あるいはコンスタンチノーポリス信条を告白しています。全世界の教会は歴史を通してこの告白を以て一致して参りました。

さて、今日は使徒信条の中で「教会を信じる」ということについて学びたいと思います。わたしたちは教会というと、何といっても思い出すのは建て物です。また、そこに集まっている人々です。また教会学校が開かれるとお子さんが集まって来ます。するとその人々によって教会は目に見える教会となります。しかし、教会を信じるというのはそういうことでしょうか?目に見えているものを信じるとはどういうことでしょうか。わたしたちは目に見える教会に集まっています。ここに、イエスさまがわたしたちを集めておられると信じるからです。イエスさまは今も神さまの右に、つまり天の教会におられます。だからわたしたちは目に見える地上の教会に集まって、目に見えないイエスさまによって礼拝を守るのです。それはわたしたちの礼拝が目に見えない天の教会、神さまとイエスさまがおられるところを見上げて、そこに向かって礼拝を捧げることに他なりません。

地上の教会にいるわたしたちは、今日も「聖なる公同の教会を信じます」と告白しました。聖なるとは、きよいということですが、特に衛生的な意味で「清い」ということではありません。「聖なる」とは、「わたしたちが神さまに選ばれ、集められた」という意味です。わたしたちが礼拝に集まっているのは、神さまが一人一人、名前を呼んでくださったからなのです。そして「公同の」とは、いつでもどこでも誰でもが信じることのできる、普遍的な、という意味です。これに対して様々な考え、価値観が時代によって地域によって起こり廃れ、絶えず変化するので、わたしたちは生きる上で大変大きな影響を受けています。その世界に在って聖なる公同の教会を信じるとはどういうことなのでしょうか。

本日はエレミヤ13章を読んでいただきました。13章9節。「主はこう言われた。『このように、わたしはユダの傲慢とエルサレムの甚だしい傲慢を砕く。この悪い民はわたしの言葉に聞き従うことを拒み、かたくなな心のままにふるまっている。また、彼らは他の神々に従って歩み、それに仕え、それにひれ伏している。彼らは全く役に立たないこの帯のようになった。人が帯を腰にしっかり着けるように、わたしはイスラエルのすべての家とユダのすべての家をわたしの身にしっかりと着け、わたしの民とし、名声、栄誉、威光を示すものにしよう、と思った。しかし彼らは聞き従わなかった』と主は言われる。」

主なる神さまは御自分の民をどんなに集めようとしておられるか、それは歴史を通していつも変らない神さまの御心に他なりませんでした。主は、ご自分の民を帯に例えておられます。「人が帯を腰にしっかり着けるように、わたしはイスラエルのすべての家とユダのすべての家をわたしの身にしっかりと着ける」と。そして「わたしの民とする」と。帯の例えが語られます。帯と言えば、わたしたちは日本の女性の和服のことを思い出します。昔は着物よりも帯の方が高価でありました。帯は和装の全身を飾る美しさの象徴であったのです。また男の人ならボクシングの豪華なチャンピオンベルトを思い出すでしょう。帯というものは身に着ける物のうちでも本当に大切なものだったのです。

神さまは人々をどんなに愛して大切にしておられたことでしょう。神さまはイスラエルのすべての家とユダのすべての家をご自分の身にしっかりと着け、ご自分の民とし、ご自分の名声、栄誉、威光を、神の民によって示したいと思われたのです。ところが人々は神さまに従いませんでした。ところが、「この悪い民はわたしの言葉に聞き従うことを拒み、かたくなな心のままにふるまっている。また、彼らは他の神々に従って歩み、それに仕え、それにひれ伏している。彼らは全く役に立たないこの帯のようになった。」その結果は傷ましいもの、忌まわしいものとなりました。主はこう言われました。『見よ、わたしは、この国のすべての住民、ダビデの王座につくすべての王、祭司、預言者、およびイスラエルのすべての住民を酔いで満たす。わたしは、人をその兄弟に、父と子を互いに、打ちつけて砕く。わたしは惜しまず、ためらわず、憐れまず、彼らを全く滅ぼす」と。

神様への反逆の結果は全世界の不幸であります。しかし、神さまはこの世界をお見捨てにならず、その罪を贖うためにイエス・キリストを世に遣わしてくださいました。イエスさまは真の人として世にお生まれになり、世の罪を負われ、十字架にすべての人の身代わりとなって死んでくださいました。ご自分を信じる者に、最後の晩餐に新しい契約を立ててくださったのです。イエスさまはパンを取り、それを裂いて弟子たちに与えて言われました。「取りなさい。これはわたしの体である」と。また杯を取り弟子たちにお渡しになって言われました。「これは、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である」と。

そういうわけで、イエスさまを信じ、この方の死に結ばれて罪の赦しを受けることを信じたわたしたちは洗礼を受けました。わたしたちが「聖なる公同の教会を信じる」と告白するとき、わたしたちはイエス・キリストの体に結ばれているという、その体がどういうものであるかを知りたいと思います。それを教えられるなら学ぶことができるのです。学ぶことに向かった道が開かれるのです。今日はエフェソの信徒への手紙4章を読みます。1節以下。「そこで、主に結ばれて囚人となっているわたしはあなたがたに勧めます。神から招かれたのですから、その招きにふさわしく歩み、一切高ぶることなく、柔和で、寛容の心を持ちなさい。愛をもって互いに忍耐し、平和のきずなで結ばれて、霊による一致を保つように務めなさい。」

使徒パウロは聖なる公同の教会を信じ、目指して教会を建設していく道筋を勧めます。それは抽象的な、頭の中だけの理想では全くありません。実に具体的な日常に関わることなのです。2節に書かれている「一切高ぶることなく、柔和で、寛容の心を持つ」というところは特に肝心なことです。エレミヤ13章でも、主は「ユダの傲慢とエルサレムの甚だしい傲慢を砕く」と宣言されているように、教会を建てるために何よりも大きな妨げになるものは高慢、そして傲慢なのです。寛容の心を持つということも、単にニコニコと人を寛大に扱うということではなく、辛抱強く、長く耐え忍ぶということです。自分が何も痛くもかゆくもない、ただ言葉だけの広い心というのはあり得ません。そのためには、第一に傲慢な姿勢が改められなければなりません。

ところが、「自分が悔い改める必要があるとは全く思わない。悪いのはあの人だ。この人だ」と思う人々は少なくありません。私は皆さんにお話しして参りました。「イエスさまはわたしたちのためにどれ程耐え忍んで、教会を建ててくださったことでしょう。私たちはイエスさまのために忍耐して教会を建てましょう」と。しかし、17年教会に仕えて思うことは、人を赦せない、人に我慢できないということは、結局イエスさまの忍耐のことをいくら話しても無駄であるということでした。主はこう言われたからです。「もし人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたの過ちをお赦しになる。しかし、もし人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦しにならない」と。

振り返れば、そういう人々のために悲しむべきことはたくさんあります。しかし教会を建てるということは日々、心を低くして悔い改め、主に従うことです。具体的には互いに愛をもって忍耐し、平和に共に過ごすことです。愛そのものの性質が忍耐強いのですから、愛がわたしたちを支配し力を得るところでは、わたしたちは互いに多くのことを忍び合うのではないでしょうか。しかし、人々から遠く離れて一切付き合わず、礼拝から遠ざかっていて、「わたしは人々と愛をもって平和に過ごしている」とは言えないでしょう。

4節です。「体は一つ、霊は一つです。それは、あなたがたが、一つの希望にあずかるようにと招かれているのと同じです。」わたしたちはすべて同じキリストの命、同じ永遠の命に召されているのです。だから、いくらわたしたちが聖なる公同の教会を信じると告白しても、今わたしたちは地上の教会にいるのですから、ここで、互いに友情と和合とを保って生活しない限り、永遠の命を受けることはできないと思います。それとも天の国で、神さまの宴会に招かれた人々が、神さまに「わたしはあの人と一緒にいるのは我慢できません。あの人はひどい人だったのに、なぜここにいるのですか」などとクレームをつけるつもりなのでしょうか。人は皆、全くイエスさまの執り成しの恵みを信じてようやく入れていただくのに、そんな偉そうなことを言うのでしょうか。あり得ないことです。

5節。「主は一人、信仰は一つ、洗礼バプテスマは一つ」です。主とはキリストのことです。主は御父によってわたしたちの主となられたのです。わたしたちはこのことで一致しているのでなければ、この主の御支配の下に主の御力をいただいて生きることはできません。また信仰もいろいろあってよいということには決してなりません。すべての人に共通の信仰があるのです。またすべての人に共通の一つの洗礼があるのです。だからこそ、わたしたちは洗礼を授ける前に、代々の教会の信仰について学び、この共通の土台の上に立つ信仰を受け入れて、キリストの体に属する者となる信仰を問うのであります。また、他の教会からの転入会の場合も一人の主、一つの信仰、一つの洗礼を確認するのはこのためです。

わたしたちはその時代、その地域、個々人の都合によって信仰を変えることは決してありません。パウロがコリント(一)8章6節で述べている通りです。「わたしたちにとっては、唯一の神、父である神がおられ、万物はこの神から出、わたしたちはこの神へ帰っていくと信じているのですから。また、唯一の主、イエス・キリストがおられ、万物はこの主によって存在し、わたしたちもこの主によって存在しているのです。」309上末。

教会の信仰は、父・子・聖霊の神への信仰です。この神は三つの位格を持っておられますが同じ一つの神であられます。人間の知恵によっては計り知ることのできない神のご性質を、しかし教会は聖霊によって教えられ、信仰を受け継いで来たのであります。6節。「すべての者の父である神は唯一であって、すべてのものの上にあり、すべてのものを通して働き、すべてのものの内におられます。」

神さまは聖霊によって主の体の教会のすべての肢々に来てくださいます。イエス様は「わたしはまことのぶどうの木、あなたがたはその枝である」といわれたのですから、主の聖霊はわたしたちにも来てくださいます。わたしたちが元気な時も丈夫な時もですが、弱っている時にこそ、来てくださり、平安を与え、安らぎを与え、主の恵みで満たしてくださるのではないでしょうか。そしてわたしたちを清めてくださいます。「清めて」というのは聖なる公同の教会に連なる者にふさわしく造り変えてくださることにほかなりません。また、このことをわたしたちに対してバラバラに個人的にしてくださるのではありません。すべてを御自分の恵みの御支配の下に含めてくださるので、すべての者のうちにして下さる、ということなのです。

神さまは三位一体の神さまと呼ばれますが、心は一つであられ、ご自分の中に何の不調和もございません。ですから、当然わたしたちも心を一つにしなければならないのです。わたしたちは「聖なる公同の教会を信じる」と告白しました。わたしたちは、真の神さまを信頼しない世界に住んでいます。そして多くの人々は、真の神さまではなく自分の欲を満たしてくれそうなものを追い求めるので、様々な不幸、不安、争いは尽きることがありません。しかしわたしたちは、このような世界にキリストの救いを差し出し、教会を建ててくださる神さまに感謝し、主の体の一致を求めたいと願います。祈ります。

 

恵み深き天の父なる神さま

御名をほめたたえます。今日もこうして礼拝に招かれましたことを感謝します。今西日本の豪雨の被災地にある教会を励まし、その地域の救いのためにお力をお与えください。本日は聖なる公同の教会を信じるという告白の意味について学びました。わたしたちは多くの問題を抱え、困難の中にありますが、心を高く上げて主の体の教会を形成してくださる聖霊の助けを待ち望みます。どうかわたしたちの自分中心になりがちな心を打ち砕き、あなたの御前に謙る者とならせてください。自分の間違いを知らせ、あなたの愛と慈しみがどんなにわたしたちすべてに注がれているかを悟らせてください。主のご労苦とご忍耐を思い、主の愛に応える者として、兄弟姉妹助けあって行くことができますように。

今、わたしたちの多くは年を取り、力弱くなっております。しかし、あなたの御心でしたら、この地に、わたしたちの隣人に主イエス・キリストの福音を宣べ伝えるために教会を残してください。わたしたちは自分の力に頼ることなく、あなたの恵みの力に頼り、希望をもって将来に備えます。どうぞ、主に結ばれて終わりの日まで忠実な歩みを一人一人にお与えください。

成宗教会に遣わされる後任の人事のために、労苦してくださる連合長老会の働きのために祈ります。どうか全国のすべての教会にとって益となる人事が行われますように、そのために労を取ってくださる役職の方々を祝福し、お守りください。

成宗教会の信徒のために祈ります。どうか、今病床にある方々、これから手術を受けられる方をお支えくださり、最善の治療が受けられますように、支えているご家族、医療、介護に携わる方々を顧み、その働きを祝してください。礼拝への奉仕をあなたに捧げようと全力を挙げて努めている方々を祝してください。どうか豊かな平安、喜びをもって報いてくださいますように。礼拝を覚えながら、参加できない方々を慰め励ましてください。

また、8月教会学校の行事をはじめ、これから秋にかけて、音楽会、バザーなど、準備をしようとしております。どうかすべてのことがあなたのご栄光のために、主の体の教会にふさわしく勧められますように。

この感謝と願いとを主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

神の右にいますキリスト

聖書:詩編1101節, エフェソの信徒への手紙12023

 先週は、教会の信仰告白使徒信条の中で、主イエス・キリストは天に昇られた、という告白について学びました。歴史のある時、ある所に神は人となり給いて、人の罪を負って罪の贖いを成し遂げられました。救いは、神の子イエス・キリストの十字架の死と復活によって成し遂げられたのです。こうして主イエスは御自分を信じる者に救いをもたらしてくださったのですが、ご復活の体をもって天に挙げられたと、弟子たちは証言しました。そして代々の教会は使徒たちの告白を受け継いで来たのです。主イエスはなぜ天に挙げられなければならなかったのか。それはこの救いが、ある時代の、ある人々の救いのためだけではなく、歴史を超えて、地域を超えて全人類の救いとなるためでありました。

主は使徒たちに約束されました。使徒言行録1章8節。「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」(213下)そして主が天に昇られた後、この約束の通りに、教会は聖霊を受けました。そして聖霊の力を受けて全世界に福音を宣べ伝え、今日に至ったのです。

さて、今日はその後、主イエスは「全能の父である神の右に座しておられます」という教会の告白を学びます。わたしたちはこの告白が、新約聖書エフェソの信徒への手紙1章20節に語られていることを知りました。「神は、この力をキリストに働かせて、キリストを死者の中から復活させ、天において御自分の右の座に着かせ、すべての支配、権威、勢力、主権の上に置き、今の世ばかりでなく、来たるべき世にも唱えられるあらゆる名の上に置かれました」と記されています。「神は、この力をキリストに働かせて」と言われるこの力とは、その前の19節の言葉によれば、「わたしたち信仰者に対して絶大な働きをなさる」力と言われます。つまり信じる者に対して、神が絶大な働きをなさる力であります。

わたしたちの信じる神は、全能の神です。全能というと、何かスーパーマンとか、ドラえもんではありませんが、何でもわたしたちの願いを適えてくれる力なのかと思うかもしれませんが、それは神を知らない人間の願望に過ぎません。神の全能とはわたしたちがどこにいても、どんな時にも、わたしたちも愛し、わたしたちを育て、わたしたちを救ってくださるということなのです。だからこそ、わたしたちは、神の全能は、独り子を罪人の中にお遣わしになられるほどの愛の中に、表されたのだと信じるのです

さて、エフェソ1章20節の言葉は、今日同時にお読みいただいた詩編110篇1節を前提としています。「わが主に賜った主の御言葉。『わたしの右の座に就くがよい。わたしはあなたの敵をあなたの足台としよう。』」これはダビデの歌とされているものです。この詩の中で、ダビデは自分の子孫のことをなぜか「わが主」と呼んでいます。なぜでしょうか。その質問は主イエスからも出されました。マタイ22章41節-46節(44下)

「ファリサイ派の人々が集まっていた時、イエスはお尋ねになった。『あなたたちはメシア(ギリシャ語でキリスト)のことをどう思うか。だれの子だろうか。』彼らが、『ダビデの子です』と言うと、イエスは言われた。『では、どうしてダビデは、霊を受けて、メシアを主と呼んでいるのだろうか。「主は、わたしの主にお告げになった。『わたしの右の座に着きなさい、わたしがあなたの敵をあなたの足もとに屈服させるときまで」と。このようにダビデがメシア(キリスト)を主と呼んでいるのであれば、どうしてメシア(キリスト)がダビデの子なのか。』これにはだれ一人、ひと言も言い返すことができず、その日からは、もはやあえて質問する者はなかった。」この問いの答は、それはダビデの子孫からメシア、すなわちキリストがお生れになったからです。ここで主イエスが自ら証ししておられるように、主イエスこそは、ダビデが「わが主」と呼んだキリストであり、天に昇られ、神の右にいます方なのです。

それでは、神の右とはどういう意味でしょうか。このことは先週も少しお話ししました。それは、主イエスが全能の神さまと等しい力をもって、あらゆる権威や勢力を御自分の御支配の下に従わせることを意味します。その御支配はこの世の勢力の支配とは全く違います。この世の勢力の支配しか、思い当たることがない人々は、支配と言えば、お金や暴力の支配などを考えてしまいます。しかし全能の父の右におられるキリストの御支配は全く違います。その支配は愛の支配に他ならない。悪霊どもでさえ、キリストの愛の力にたじろがざるを得ない。この愛を受け、この愛を信じ、この愛に支配されている人々を、彼らはどうすることもできないのです。

その愛は、神を裏切り、キリストを裏切った人々をさえ追い求めて、滅びの穴、絶望の淵から救い出そうとする熱意です。これが人間の力ではない、全能の父の右におられるキリストの力であるならば、だれが逆らうことが出来るでしょうか。主は地上を去る前にこう祈られました。ヨハネ福音書17章21節(203上)「父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください。彼らもわたしたちの内にいるようにしてください。そうすれば、世は、あなたがわたしをお遣わしになったことを信じるようになります」と。この方が天におられるのですから、わたしたちがどこにいてもわたしたちを愛し続け、救いへと導いてくださる。教会が告白しているのは、正にこの信仰です。

わたしたちが常に立ち帰らなければならないのはこの信仰です。主イエスが神の右に座しておられ、わたしたちに全能の御力をもって聖霊を送り助けてくださっている、その絶大な力、お働きを、わたしたちは本当にどれだけ真剣に信じ、告白しているでしょうか。ただ、習慣的に(それでも、告白することが許されていることは、それだけでも真に幸いなことですが)、機械的に告白するのではなく、一字一句に込められた告白の言葉に込められている教会の信仰を、わたしたちは改めて心に深く受け留めましょう。

更に21節に宣言されています。神はキリストの権威、力を「すべての支配、権威、勢力、主権の上に置き、今の世ばかりでなく、来たるべき世にも唱えられるあらゆる名の上に置かれました」と。反省させられることは、わたしたちの視野があまりにも狭いということです。私達は、良い意味で一人一人の人権が尊重される時代を生きたと思っていましたが、自己実現型の人間の視野はひどく狭くなってしまいました。極端な言い方をすれば、自分のことしか考えない。自分で稼いだものは自分のものだという考えを良しとしましたが、自分の働きの成果を用いて社会全体の幸福のために還元することを考える人々がどんどん少なくなったのです。高額所得者は税金を逃れるためにこの世のあらゆる知恵を駆使する一方、貧しい人々は自分が仕事を奪われているから貧しいのだと考え、不満のはけ口を自分以外にぶつけようとする有様です。

教会の中には昔から多くの貧しい人々がいました。そして少数ではあったにせよ、豊かな人々、この世の力を持った人々もいたのです。また奴隷の身分(広い意味では労働者階級の人々)もいれば、自由人もいました。要するに、この世の身分、階級においては様々であったのです。そして教会の中でみんなが全く同じ身分、同じ力を持つということにはなりませんでした。貧しい人々への配慮ということは神のご命令と受け止められていたでしょうが、教会には当初から、いろいろな意味ででこぼこがあったのです。

しかし、すべての優劣、経済的優劣、健康の優劣、社会的優劣、能力的優劣に生まれる力関係の上にイエス・キリストの恵みの御支配があったということは間違いありません。その上に、この社会の変動がありました。今地中海を粗末な船で難民が押し寄せる様子がテレビで映し出される。昔、古代ローマ帝国の衰えと共にゲルマン民族が大移動して来たことを思いました。民族の大移動は決して過去のことではなく、また欧米に限られたことではないでしょう。絶え間なく、世界のどこかで戦争が起こり、また地震や山崩れなどの災害も起こります。人類の歴史には人口が激減したという疫病が、これからの時代には核施設の起こす人災の危険があるでしょう。

それにもかかわらず、この二千年、目に見える教会が地上に建てられているということです。わたしたちの視野の狭さ、取りあえず自分だけ生きられれば良い的な、貧弱な幸福感。自分の夢が叶えさえすれば良い的な、低いことこの上ない人生の目標。あるいはせいぜい自分の家族、自分の好きな仲間だけ守られれば良い的な視野の狭さが、わたしたちの社会の貧しさであり、その貧しさが教会の中にも浸透してきているのではないでしょうか。

そして気がつけば、超高齢化社会であります。少子化社会であります。ごく一部の人々をのぞけば、心身共にゆとりある人々はますます少なくなるばかりです。このような歴史の中の今、日本という社会の今、その中にわたしたちは生きています。狭いところで考えれば考えるほど、困難ばかりが見えます。希望が何も見えないように思われます。しかし、視野を広げましょう。この二千年の教会の旅路を。その歴史は嵐に荒れ狂う夜の闇にのみ込まれるばかりの漂流船のようであります。明日をも知れない。いつどうなるか。明るい日の光を果たして見ることが出来るのか。しかし、その時にも教会は信仰告白を唱え続けました。なぜなら、教会は主イエス・キリストの御支配の下にあるからです。

22節、23節。「神はまた、すべてのものをキリストの足もとに従わせ、キリストをすべてのものの上にある頭として教会にお与えになりました。教会はキリストの体であり、すべてにおいてすべてを満たしている方の満ちておられる場です。」すべてのものとは神の造られたものすべてを意味します。嵐を鎮める主イエスのお姿を、地上のご生涯で弟子たちは見ておりました。その時は限られた所で、神の力を表してくださいました。天に挙げられ、神の右におられる主は、全世界の教会に、また昔も今も、そしてこれからも、その御力を表してくださる。わたしたちは、この信仰を受け継いでいるのです。

その力は、わたしたちの計り知ることのできる力をはるかに超えています。教会は全能の神と等しい御力をもって御支配くださるキリストの体である。この表現をわたしたちは初代教会から、使徒たちの信仰から受け継いで来ました。私は、今直面している困難な時代から、視野を広げて初代教会から今に至るまでの教会に、どんなに大きな恵みが注がれて来たかを考えていただきたいと申しました。そして、そこからわたしたちが理解すること。すなわち、神の右にいますキリストが、全能の父と同じ力、万物を支配する力が注がれていることを知るならば、わたしたちは教会として、キリストの体に結ばれる者として、しなければならないことがあります。

それは、この方の全能の御力を信じ、この方をいつも見上げることなのです。全能の力、それはわたしたちがどこにいても、どんな時にも、わたしたちも愛し、わたしたちを育て、わたしたちを救ってくださる力です。こんなにありがたい、慰めに満ちた信仰があるでしょうか。しかしこれは、信じなければ信仰告白にはならないのです。信じなくても信じても救われるということではありません。ですから、この信仰告白を受け入れ、いつも新たに信じることが大切です。キリストがわたしたちの頭であることをいつも告白して従って行くこと無しに、教会は建てられません。

わたしたちは人間の業、自分の業にこだわっています。しかし、わたしたちの救いはただ神の全能の御力、いつでもどこでもわたしたちを愛して救ってくださる神の力です。だからこそ、無力となった者も、貧しくなった者も、希望をいただいて、天の父の右にいます神の御子イエス・キリストを見上げ、その執り成し、その助けを待ち望むことが出来るのです。祈ります。

 

御在天の主なる父なる神様

御名をほめたたえます。わたしたちは主イエス・キリストがわたしたちに先立って天に昇られ、わたしたちの罪を赦すために、執り成しの務めを担ってくださっていることを感謝します。そればかりでなく、地上で罪の誘惑、試練にさらされながら、困難な道を歩む教会を御自分のものとして助けるために、聖霊を送ってくださっていることを感謝します。

わたしたちは豊かにゆとりある生活をしている時には、理解が及ばなかったあなたの愛を日々教えられる思いです。生活の困難、仕事の困難、家族の困難、そして健康の困難を多く抱える度に、どうか教会の主に結ばれているわたしたちが心からあなたを信じ、あなたを愛し、あなたに従って行くことが出来ますように。

わたしたちは礼拝を思いながら、様々な事情で教会に来られない多くの方々のことを思います。どうか御心ならば、その困難を取り除き、教会に集まるために道を開いてください。また、わたしたちも福音を運んで行き、その方々のおられるところで礼拝を守り、聖餐式を行う事が許されますように。真に老いも若きも、明日はどうなるか分からないという思いを他人事としないで、あなたの御前に立つことが出来るように、主イエスの執り成しを受けることを切に望ませてください。

東日本連合長老会の一員として教会の歩みを与えられておりますことを感謝します。どうかこの教会が、この地で福音を宣べ伝えるために、次の世代への伝道を前進させることが出来ますように。そしてどうか新しい教師があなたの御旨によって与えられますように。

今日も教会学校から、ナオミ会の活動に至るまで、主の御導きを感謝し、御手に委ねます。どうか教会に与えられて来た伝統、恵みを受け継ぐ教会として、信仰者を増し加えてください。今、苦しんでいる兄弟姉妹を御力によって慰め、救い出してください。

この感謝と願いとを主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

主は天に昇られた

聖書:詩編6819節, エフェソの信徒への手紙4716

 あまり実感がないのですが、世の中は好景気なのだそうです。その証拠に今は人手不足だということで、若い人々の就職活動も順調と聞いて、まずは良かったと思っています。考えてみれば、少子高齢化社会では、人手不足は慢性的なものと思われます。私のおばあさんは、私の両親が結婚することになった時、「さあ、これからはご飯炊きから洗濯から縫物まで、全部嫁にしてもらって遊んで暮らしましょう」と言ったと聞いたことがありますが、その時祖母は40代前半だったのです。今頃それを思い出して驚きます。昔は40代半ばぐらいの年から何も労働をしないで老後を暮らそうと言えるほど人手があったのだ、と。

それから祖母は40年以上生きたのですが、今の高齢者はそうはいきません。「長生きするなら、だれにもあまりお世話をかけないように、自立した心構えで生きなくては」と互いに励まし合う時代です。そして、これからはますますそうなるでしょう。高齢になっても、できることは自分で何でもするようになります。このことは、教会の歩みに一番よく表れていると思います。地上の教会はその時代、その地域に建っているのですから、その時代、その地域の社会の姿を映し出さないはずはないからです。そしてその社会の中で、その社会が抱える問題のただ中で、教会は建てられて来たからです。

今日のエフェソの信徒への手紙4章7節は、教会のわたしたち一人一人にキリストの賜物が恵みとして与えられていることを語っています。教会もまた人手不足。奉仕する人々が足りない。礼拝に出席する人々が不足している。そういう不足を嘆くわたしたちに、子の手紙は語りかけています。キリストの賜物は、恵みとして与えられているのだよ、と。わたしたちの思い煩いにもかかわらず、わたしたちの努力を超えて、恵みとして与えられるのだよ、と諭されているのです。

8節の聖句は、旧約の詩編68篇19節の引用と思われます。「そこで、「高い所に昇るとき、捕われ人を連れて行き、人々に賜物を分け与えられた」と言われています。」ここには主語が語られていませんが、イエス・キリストのことを証ししているのです。この方は高いところ、すなわち天に昇られた方であるというのですから、それなら、天に昇る前は地上におられたことになります。キリストは地上に来てくださり、福音を宣べ伝え、神の国、天の国にわたしたちを招いてくださった方です。そしてキリストはわたしたちが天の国に入るために、わたしたちの罪を清めてくださった。それが十字架の贖いであります。

主イエスさまはわたしたちの罪のために死なれ、陰府に降り、三日目に甦らされました。それによって、わたしたちの罪の贖いがなされたのです。キリストの死は、わたしたちの罪の死であります。そして、キリストの復活はわたしたちの罪が赦されることを証しするものにほかなりません。さて、主イエスは御復活の体をもって40日弟子たちと共におられました。それから、使徒言行録1章によれば、弟子たちの見ている前で天に上げられました。それならば、キリストは御自分の御体をもって天に行かれたということではないでしょうか。「主イエスが天に昇られた」という天、新共同訳聖書では「高い所」と言われているこの言葉は、空の果て、宇宙の果てという空間を意味しているのではありません。天とはご復活の主が神と共におられる所であり、神の御支配が行われている所なのです。

ところで、マグダラのマリアは、ご復活の主に出会った時、喜びのあまり主に駆け寄ってすがりつこうとしました。その時主イエスは彼女に言われました。「わたしにすがりつくのはよしなさい。まだ父のもとへ上っていないのだから。」しかし弟子たちもまた、マリアと同じ思いだったかもしれません。地上で主イエスに出会った人々は、「いつまでも主と共に地上で暮らしていたい。今までのように、目で見て、耳で聞くことのできる先生と」と思うのは無理もないことではなかったでしょうか。

しかしキリストは、ご自身が弟子たちから離れて天に上げられることの利益について教え諭しておられます。その言葉は、ヨハネ16:7にあります。200上。「しかし、実を言うと、わたしが去っていくのは、あなたがたのためになる。わたしが去って行かなければ、弁護者はあなたがたのところに来ないからである。わたしが行けば、弁護者をあなたがたのところに送る。」主が天に上げられる意義は、何と言っても、その事がわたしたちのためになる。利益となるからなのです。主イエスが天に昇った時、主は地上に残っている弟子たちに、弁護者を送ると約束されました。弁護者とはだれでしょうか。弁護者とは聖霊の神であります。

主イエス・キリストは天に昇り、父なる神の右におられることによって、父なる神と共に、全能の力をもって、わたしたちを救いに導いてくださいます。そのために主イエスは父と共に聖霊の弁護者を送ってくださり、わたしたちと共にいてくださると約束してくださったのです。思えば、キリストの地上の生涯、十字架の死と復活は、パレスチナという世界のごくごく狭いところで起こったのでした。そして時間の限られた間に起こった出来事です。歴史の中に神がご自身を現わしてくださったということは、限られた時間と空間の中に限られた命の中に御自身を現わされたということに他なりません。しかし、御子イエス・キリストは限られた命に死んで限りなき命に復活されました。そうして主は天に昇られました。このことによって、主は全世界の信じる者すべてと共に生き、昔も今もそして今より後の時代にも、信じる者と共にいてくださるのです。聖霊が教会の人々に送られるのは、「すべてのものを満たすため」なのです。

弟子たちの上に聖霊が降った最初の出来事は、ご存知のようにペンテコステの日として聖書に書かれ、人々に語り継がれました。すなわち、聖霊は、主を信じる者が皆集まって共に祈っている所に来てくださいました。聖霊によって聖書の言葉が神の言葉として与えられました。聖霊によって、語る者も聞く者もキリストが共にいらしてくださることを知る者とされたのです。このように聖霊は教会に降ったのでした。その頃は、教会堂も礼拝堂もなかったでしょう。人々は仲間の家に集まって聖書を読み、祈り、讃美しました。今も同じです。礼拝堂があれば教会なのではありません。礼拝堂に人々が集まって礼拝するから教会なのです。イエス・キリストの恵みを分かち合うために、聖霊の賜物が与えられました。

「この降りて来られた方が、すべてのものを満たすために、もろもろの天よりも更に高く昇られたのです。」キリストがもろもろの天よりも更に高く、つまり神の国にまで上られることで、主は今、わたしたちの目には今は見えない離れたお方となっておられるように思われますが、しかし実際は却ってそのために、聖霊の力によってすべての者を満たしてくださっています。つまり、キリストの霊的な力は、神の右に及ぶまで、広げられました。そして、キリストは天にあっても地上でも、その無限の力によって、至る所に現存しておられるのです。

「そして、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を福音宣教者、ある人を牧者、教師とされたのです。」このように、教会のいろいろな役職、役割が書かれています。これは初代教会の話でありますから、今日の諸教会の教師や長老の役職とは一致しません。しかし中でも牧者は羊飼いを表す重要な役職でありまして、その務めは羊飼いです。常に先頭に立って羊の群れを導き、牧草地に連れて行って食物を与え、流れのほとりで水を飲ませ、野獣などの外敵から身をもって羊を守ることそのものであります。もちろん、絶対的な意味では、キリストがすべての信徒の牧者であることが前提となっています。

福音がその職務に遣わされたある一定の人々によって説かれるということは、教会が完全にこの世に存続して最後に全く完成されるに至るために、主が教会に、統治と、秩序を保つことを望んでおられるからです。わたしたちは自分に能力がない、力が不足していることを、大変痛感することがあります。特に高齢化社会の教会は、若い人が溢れ、我も我もと奉仕を申し出たような時代とは全く違っています。果たして自分に出来るだろうか、という思い。自分ばかりが大きな期待をかけられたらどうしようかといった不安や消極的な思いが先立つのです。

しかし、教会での奉仕においては、聖霊の助けによって賜物が与えられていることを信じることが大切です。人が神に奉仕するよう呼ばれる時には、必ずその務めに必要な賜物が与えられるのです。教会はキリストの体と呼ばれるのですから、その体は非常に多種多様な部分をもっていることは当然のことであります。もしも皆が同じ顔、同じ賜物、同じ特徴しかないなどという教会があるなら、それこそは異常なこと、異様なことではないでしょうか。キリストの体全体は多様性によって保たれております。このことによって、主イエス・キリストは求めておられるのは、おかしな競争意識、異常な妬み、世の人々が追い求める野心が蔓延らないように、教会から取り除かれることではないでしょうか。

そしてキリストの体である教会は、その部分の一部が大切にされたり、一部がないがしろにされたりすることはあり得ない。皆がキリストに呼び集められた者として大切なのですが、教会の統治については、はっきりと理解しておかなければならないことがあります。それは、教会を総べ治めるのは、キリストであるということです。キリストはみ言葉によって、統治なさるのです。この世のように鞭と飴によって、脅しとおだてによって統治されることはあり得ません。ですから教会の統治はみ言葉を語ること、聞くことによってなされることを常に覚えなければならないのです。

すなわち、教会の統治は御言葉への奉仕によって成り立っています。それは、人の考え、人の力によって造り出されるものではありません。ただ神の子イエス・キリストによって立てられるものなのです。この務めを果たすように教会に任命された者は、その務めを果たすのに十分な責任も能力も二つ同時に授けられることを信じましょう。厳しい言い方をするならば、御言葉の説教者であろうと、または御言葉を聴く会衆であろうと、この務めを拒否する者、あるいは軽蔑する者があれば、その人は、キリストを侮辱し、それに叛く者となってしまっているのです。なぜならキリストは、その務めを立てた方なのですから。

だからこそ、わたしたちの教会が後任の教師を招聘するために、連合長老会にお願いしている最も大切な条件はここにあります。それは、日本基督教団信仰告白にも唱えられている通り、御言葉を正しく宣べ伝え、聖礼典を正しく執り行うための教師です。教師が与えられる職務はキリストに励まされなければ、この務めを全うすることはあり得ないのですから、わたしたちはひたすら祈って主に委ねて参りましょう。祈りこそ、わたしたちに求められている第一の奉仕でありますから。

13-14節「こうして、聖なる者たちは奉仕の業に適した者とされ、キリストの体を造り上げてゆき、ついには、わたしたちは皆、神の子に対する信仰と知識において一つのものとなり、成熟した人間になり、キリストの満ちあふれる豊かさになるまで成長するのです。」

大変厳しいことに、今、礼拝を守るだけの体力がなくなっている信仰者がたくさんおられます。そしてそうなってますます礼拝に集まることの大切さを痛感しておられるのを、わたしたちは知っています。逆に教会に来ようと思えばいつでも来られる人々の中に、「教会に集まる必要はない、家で聖書を読んでいれば良い。教会の共同の奉仕などは全く必要ではない」と思っている人がいるとしたら、それは傲慢と言わなければなりません。

主が天の昇られたのは、教会に連なる人々に賜物を与えるためでした。互いに足りないところを助け合い、礼拝を捧げて御言葉を宣べ伝え、御言葉を聴くために、讃美の声を合わせるために、すべてが整えられるのです。教会は信仰者すべてに共通の母であります。信仰者はキリストの中に生まれ、大きい者も小さい者をも教会の主が養い始められます。それがみ言葉によって、説教と聖餐に与ることによってなされるのです。同じ教えに呼ばれ、集められるということは一致を保つための訓練なのですから。

わたしたちは本日、主が天に昇られたことの意味を学びました。「頭であるキリストに向かって成長していく」希望を与えられているのは天の昇られた主から教会に注がれている聖霊の賜物であります。主はこうしていつまでも教会と共にいてくださいます。祈ります。

 

主なる父なる神様

尊き御名をほめたたえます。今日の礼拝にもわたしたちに天から聖霊を注いで下さり、御言葉で養ってくださいました。小さな群れですが、あなたのお支えは決して小さくはなく、目に見える恵みと共に目に見えない恵みを豊かにいただいておりますことを感謝します。ここに集まる兄弟姉妹ばかりでなく、集まることのできない方々が、この礼拝を覚えて祈り、あなたの御前に静まっていることを私たちは思います。御言葉の恵み、主の愛を形に表すべく、わたしたちは今週も教会から出かけて行って働きたいと思います。

非常に苦しんでいる人々の苦しみがそれだけではないことを、どうかわたしたちに知らせてください。イエス・キリストが地上で非常に苦しまれましたが、その御苦しみがわたしたちの救いのためであったように、わたしたちは困難と向き合っている人々によってあなたを思い起こし、人々のために祈り、わたしたちも勇気と愛を主からいただけるように、祈ります。そしてどうぞ、教会に連なっている方々とあなたの恵みの下に再会することが出来ますように。

わたしたちの弱さ、思い煩いをご存じの主が、どうか絶えずわたしたちを励ますために聖霊を送ってくださいますよう。そして父、御子、御霊の豊かさに与り、喜びと感謝を以て従って、教会を建てて行くことが出来ますようにお助け下さい。本日も、遠くから困難を乗り越え、あなたに勇気を与えられて礼拝に集められ、奉仕された方々のゆえに感謝します。どうぞ帰りの道をも祝福の中にお守りお導きください。

この感謝、願い、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さ

聖書:イザヤ53章6-12節, エフェソ3章14-19節

 本日は、成宗教会の教会総会が開かれます。そこに上程します議案については、日本基督教団の教会規則によって、既に公告がされております。私は2017年1月の長老会議に退任の希望を提出し、同年3月に長老会として承認されました。私は退任の期日を、2018年3月末と希望しましたので、今年度の教会総会に議案として上程されることになったわけです。教会総会の議員資格を持っておられる方々には、是非とも総会にご出席いただきたいのですが、皆様の中には健康上の理由から、礼拝後の会に継続して参加できない方々もおられます。そこで、礼拝のメッセージを通して主の御心が成宗教会に伝えられることを私は心から願い祈ります。

私が辞任することは、この教会の歴史の一ページが閉じられ、また新しいページが開かれることです。一人の教師、この教会の牧師であった者が辞任をします。しかし、牧師が辞任することは、教会にとって決して大きなことではありません。なぜなら牧師が辞任しても、しなくても変らないことがあるからです。それは変らない一つの願いです。わたしたちに一つの共通の願いがあります。それは何でしょうか。イエス・キリストが集めてくださった群れを守り、キリストの一つの体とすることです。

このただ一つの願いのために、私もここに務めさせていただきました。この一つの願いのことをわたしたちは最初から知っていたでしょうか。理解していたでしょうか。私自身については最初から十分知っていたとは言えません。ただ、献身の決意を与えた御言葉は次のものでした。マタイ9章36-38節。(17ページ)「イエスは(中略)また、群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた。そこで、弟子たちに言われた。『収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。』」

私は教会が「ただ飼う者のない羊のように弱り果てている」ことを知っていました。それは何もこの教会がそうだというのではありません。私は、赴任するまで成宗教会を知らなかったし、教会の方々もわたしを知らなかったのですから。そして、この教会の方々も、自分たちは「飼う者のない羊のよう」だと思っておられたかどうかわかりません。

そもそも、私たちは皆、私たちには一つの願いあることを、共通の願いがあることを知らなかったのではないでしょうか。なぜなら、この願いは元々から私たち自身の願いではなかったからです。この願いは、私たちに与えられた願いであったのです。そして今は、私たちに与えられて、共通の一つの願いとなっていることを、私は確信しています。その願いとは元々、私たちが願ったものではなかった。では、それは誰の願いだったのでしょうか。それは主の願いだったのです。主が、父・御子・聖霊の神様が切に願っておられたので、主はその願いを私たちに与えて下さり、私たち自身の願いとしてくださるのです。

今日、読んでいただいたイザヤ書53章6節。「わたしたちは(われわれのすべてが)羊の群れ、道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。」ところが、道を誤り、散り散りになって行った私たちのすべてを、主は放置されたでしょうか。主は私たちが滅びに向かうことを望まれませんでした。だからそのままにされませんでした。主は、一人の僕を立てられました。御自分に全く忠実な僕を。そして道を誤った私たちの罪を負わせられ、苦しみと死を受けさせられました。一体それは何のためだったでしょうか。それは一重に、ただ一重に彼らを正しい道に呼び返すためではなかったでしょうか。

 イザヤ53章11節。「彼は自らの苦しみの実りを見、それを知って満足する。わたしの僕は、多くの人が正しい者とされるために彼らの罪を自ら負った。」私たちは、主イエス・キリストの死によって贖われ、救われました。私たちは、正に主の苦しみの実りなのであります。ですから今、私たちは救われたものとして、主の道に立ち帰らなければならない。さまよい出た道から、主の導かれる道へと立ち帰るのです。主に立ち帰るならば、主に結ばれて、実を結ぶものとなるでしょう。主は御自分をぶどうの木に例えられました。私たちは主の体の肢。私たちの結ぶ実は何でしょうか。その実の名は「救い」です。私たちは主によって罪赦され、清められ、「永遠の救い」という実を結ぶのです。

 そのために、私たちは日々、主に立ち帰り、主に結ばれて生きるのです。この実りはまた自分自身のためになるばかりでは、決して終わりません。この実りは自分の救いを世に明らかに示し、そのことによって更に世の多くの人々を救いに招くために用いられるでしょう。世の多くの人々、その中に、私たちの隣人、身近な人々がいることを信じましょう。

私が成宗教会に遣わされて来たのは、そのためでありました。そして私が去って行くのも、またそのためであります。私ばかりでなく、信者となり、教会の肢として結ばれている私たちは皆、生きる時も死ぬときも、来る時も去る時も、働くときも休む時も、皆すべてが祝され用いられます。病気や困難、苦難でさえもこの目的のために用いられるに違いないのです。主からわたしたちに与えられた願い、父・子・聖霊の神様の一つの願いが私たちにあるならば。その願い、キリストの体である教会を建て、キリストと結ばれたい。その願いを私たちは主に捧げて祈りましょう。

今日の聖書エフェソの信徒への手紙3章14節。「こういうわけで、わたしは御父の前にひざまずいて祈ります。」自分たちの働きが多いとか少ないとか、苦労が多いとか少ないとか、考えるよりも、またこれまでのことを振り返って、自分で評価したり、人を評価したりするよりも、何よりも前に、天の父の御前に恐れをもって立ち、心を低くして祈りを捧げましょう。なぜなら、私たちを実りあるものにしてくださるのは、私たち自身ではなく、主の憐れみと慈しみなのですから。

15節。「御父から、天と地にあるすべての家族がその名を与えられています。」神さまの御国には、すべて天にある血縁的につながる人々から、地上の血縁的につながる一群の人々がその名が記されているというのです。こう言われているのは、キリストがそうしてくださったからに他なりません。キリストがおいでになる前は、ユダヤ人は神の民と自分たちを誇り、その一方、異邦人は救いとは関係のない人々でありました。ところがキリストは地上においでになって、すべての人間のために罪の贖いを成し遂げてくださいました。そうして、キリストによって救われる人々は、一つの家族、一つの同じ親族に帰せしめられたばかりでなく、天使とさえも同じ一つの家族にされました。ですから、私たちを結んで神の家族とする絆は、イエス・キリストなのです。

パウロは祈ります。16-17節。「どうか、御父が、その豊かな栄光に従い、その霊により、力をもってあなたがたの内なる人を強めて、信仰によってあなたがたの心の内にキリストを住まわせ、あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように。」

「内なる人」とは、どういうことでしょうか。それは、私たちの魂と霊的、精神的な生活に関わる全てを表します。それに対して外なる人という表現もありますが、こちらの方は、体の健康、富、名声、若さ、信用、その他これに類するものであります。人々の関心は専ら、外なる人を強めることにあり、頑張っています。それに対し、内なる人は、神の国に関わることでありますから、神の力によって強くされるのです。

パウロのこの祈りは、キリストによって神に仕える福音伝道者に共通の祈りです。それぞれの信者が賜物を与えられ、御霊の働きによって内なる人を強くしていただけるようにと祈ります。これは、だれでも御霊によって信仰が強められる希望があるからです。つまり、私たちは幼い者から年老いた者まで、だれもが成長させていただける希望が与えられているということなのです。パウロはⅡコリ4:16でも次のように教えて人々をはげましています。「たといわたしたちの外なる人は衰えていくとしても、わたしたちの『内なる人』は日ごとに新しくされていきます。」329下。

私たちは、何かと人を評価して、あの人は立派な信仰者であると、まるで完全な人のように言うことがあるかもしれません。しかし宗教改革者は言います。「信仰者というものは、これ以上常に成長する必要はない、と言い得る位にまで進歩することは決してないのだ」と。そうだとすれば、信仰者にとって地上の生活の完全とは何でしょうか。それは信仰者として成長を愛するようになることです。少しずつ少しずつ、主に向かって成長する。「キリストに倣う」と言います。キリスト御自身も言われました。「天の父は完全な方なのだから、あなたがたも完全な者になりなさい」と。使徒パウロも、皆が自分のようになってほしいと述べています。けれども、このようなことは聖霊の働きによらなければ、だれも決してできないのであって、人間の能力ではないのです。

あらゆる良いことの初めは、神の霊のお働きによって起こったのです。そのように、私たちが、神様に向かって成長することを、心から愛し、望むならば、その望みもまた聖霊の働きであることを確信しましょう。では、内なる人の成長は何によって分かるのでしょうか。キリストは言われました。ヨハネ福音書14章23節。「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。わたしの父はその人を愛され、父とわたしとはその人のところに行き、一緒に住む。」(197頁)キリストが聖霊によって私たちの内に住んでくださることの結果は、愛という実となって現れます。すなわちキリストによってわたしたちに示された神の恵み、神の愛がどんなに絶大なものであるか、ということが分かるようになるのです。

神の愛が、まるで立派な基礎を持った建て物のように、あるいは深い根を降ろした植物のように、わたしたちの内に深く在って堅固で不変のものとなるのです。そして、私たち人間はだれ一人、直接神を見ることはできないのですが、キリストが私たちと共におられることによって、人間に対するキリストの愛がどれ程大きいかを理解ようになるでしょう。18-19節。

「また、あなたがたがすべての聖なる者たちと共に、キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれ程であるかを理解し、人の知識をはるかに超えるこの愛を知るようになり、そしてついには、神の満ちあふれる豊かさのすべてにあずかり、それによって満たされるように。」ここに聖徒の交わり、教会の姿が示され、祈られているのではないでしょうか。「すべての聖なる者たちと共に」と祈られているからです。罪ある者でありながら、共に罪赦され、罪の奴隷から解放され、キリストによって神のもの、神の家族とされた私たちであります。このことを日々信じる。心から信じる。そして互いに愛し合い、その弱さを忍び合い、助け合うことができるようにしてくださるのは、正に神の愛が、キリストの愛が、信じる群れに注がれているからに他なりません。

主の願いはただ一つの救い、ただ一つの教会を建てることです。そしてこの願いを主は私たちにもくださいました。この願いのために私は退任しますが、この願いのために、成宗教会に教師が新たに遣わされます。そして、新しい時代にも福音が宣べ伝えられる教会とされるのです。このことを皆さんと共に確信して祈りましょう。