喜びの知らせ

主日礼拝

齋藤 正 牧師

《賛美歌》

讃美歌298番
讃美歌1420番
讃美歌380番

《聖書箇所》

旧約聖書:エレミア書 31章31-34節 (旧約聖書1,237ページ)

31:31 見よ、わたしがイスラエルの家、ユダの家と新しい契約を結ぶ日が来る、と主は言われる。
31:32 この契約は、かつてわたしが彼らの先祖の手を取ってエジプトの地から導き出したときに結んだものではない。わたしが彼らの主人であったにもかかわらず、彼らはこの契約を破った、と主は言われる。
31:33 しかし、来るべき日に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこれである、と主は言われる。すなわち、わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。

新約聖書:マルコによる福音書 16章9-20節 (新約聖書97ページ)

◆マグダラのマリアに現れる
16:9 〔イエスは週の初めの日の朝早く、復活して、まずマグダラのマリアに御自身を現された。このマリアは、以前イエスに七つの悪霊を追い出していただいた婦人である。
16:10 マリアは、イエスと一緒にいた人々が泣き悲しんでいるところへ行って、このことを知らせた。
16:11 しかし彼らは、イエスが生きておられること、そしてマリアがそのイエスを見たことを聞いても、信じなかった。
◆二人の弟子に現れる
16:12 その後、彼らのうちの二人が田舎の方へ歩いて行く途中、イエスが別の姿で御自身を現された。
16:13 この二人も行って残りの人たちに知らせたが、彼らは二人の言うことも信じなかった。
◆弟子たちを派遣する
16:14 その後、十一人が食事をしているとき、イエスが現れ、その不信仰とかたくなな心をおとがめになった。復活されたイエスを見た人々の言うことを、信じなかったからである。
16:15 それから、イエスは言われた。「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。
16:16 信じて洗礼を受ける者は救われるが、信じない者は滅びの宣告を受ける。
16:17 信じる者には次のようなしるしが伴う。彼らはわたしの名によって悪霊を追い出し、新しい言葉を語る。
16:18 手で蛇をつかみ、また、毒を飲んでも決して害を受けず、病人に手を置けば治る。」
◆天に上げられる
16:19 主イエスは、弟子たちに話した後、天に上げられ、神の右の座に着かれた。
16:20 一方、弟子たちは出かけて行って、至るところで宣教した。主は彼らと共に働き、彼らの語る言葉が真実であることを、それに伴うしるしによってはっきりとお示しになった。〕
◇結び
16:20 〔婦人たちは、命じられたことをすべてペトロとその仲間たちに手短に伝えた。その後、イエス御自身も、東から西まで、彼らを通して、永遠の救いに関する聖なる朽ちることのない福音を広められた。アーメン。〕

《説教》『喜びの知らせ』

主日礼拝においてマルコによる福音書を読み続けてきましたが、いよいよ本日をもって終えることになりました。本日の16章9節以下は、「大きな括弧〔 〕かっこ」の中に入って、「結び一」という小見出しがつけられています。「結び一」があるからには「結び二」があるわけで、それは98頁の下の段に、節の数字なしに、短い結びとして記されています。「結び」のどちらも、前後に括弧〔 〕で括られています。この括弧は、もともとはなかったと思われる、後から書き加えられた部分だろうとの印です。信頼すべき古い写本にこの部分がないものが多いからです。現在まで残っているマルコ福音書の初期のものには、すべて9節以下はなく、どれも8節で終わっているのです。そしてこの9-20節の「結び一」とは違う結びを持っている写本もある、それが「結び二」です。いずれの結びも、もともとはなかったもので、後からつけ加えられたと思われるのです。では何故「結び」がつけ加えられたのでしょうか。それは、先週読んだ8節をもってマルコ福音書が終わるのでは、何とも尻切れとんぼだからです。16章1-8節には、主イエスの十字架の死から三日目の日曜日の朝、三人の女性たちが墓に行ってみると、墓は空になっており、そこにいた天使が「あの方は復活なさって、ここにはおられない」と告げたことが語られています。さまざまな文献の研究から、この9節以下は、おそらく、2世紀に入ってから、教会によって加筆されたものであろうということです。何故、本来のマルコ福音書の結末部分が欠けてしまったのかということについては、今となっては知る由もありませんが、福音書の終わりが「恐ろしかった」(8)という言葉で終わっているのは相応しくないと考えた教会が、9節以下を加えたのではないかと考えられています。

そのため、マルコ福音書を読むときに、この9節以下を軽んじる人もいますが、それは大変な間違いです。何故なら、私たちは、福音書を「誰が書いたか」ということによって重んじるのではなく、ここにまとめられたすべてを、聖霊の働きのままに教会が受け容れ、「神の言」として告白したという信仰によって重んじるからです。

9節以下が後の時代の教会による加筆であるということを承知で、改めて読むときに、今、教会に生きる私たちが、キリストの復活をどのように受け止めるべきかということが、ここに記されているのです。そして、それがマタイ、ルカ、ヨハネの他の三つの福音書で詳しく語られていることの「まとめ」であるということに気がつきます。

他の三つの福音書では詳しく語られていることの大部分が省略され、極度に簡略された要約として記されています。それらの具体的内容は、ここでは詳しくお話する時間がありませんので、どうぞ皆さんで比較して頂きたいと思います

しかしここで、簡略化されたマルコ福音書のこの物語を他の三つの福音書と比較すると、繰り返される「ひとつの言葉」に気が付きます。それは「信じなかった」という言葉です。マルコ福音書は、他の福音書の物語を単に簡略化したのではなく、それぞれの出来事を、「信じなかった」という主題でまとめていると言えるのです。

11節には、「マリアがそのイエスを見たことも聞いても、信じなかった」

13節には、「彼らは二人の言うことも信じなかった」

14節には、「復活されたイエスを見た人々の言うことを、信じなかった」

マルコ福音書が強調しているのは「すべての人が信じられなかった」という事実を、教会自身が認めていることです。

「信じられなかった」と書き加えることに、どれだけの勇気が必要であったことでしょう。この部分が加筆されたのは、少なくとも2世紀に入ってからであり、教会が体制を作り上げ、ペトロ以下の弟子たちは、初代の伝説的な偉大な指導者として語り伝えられていた時代でした。その時代に、あえて「あの偉大な弟子たちが主の復活を信じられなかった」と記すことは、本当に思い切ったことであったと言えるでしょう。

この加筆部分のすべては、神の偉大な出来事に出会った人間の驚きを告げるものであり、言わば、教会は、「信じられない」という驚きの中から誕生したということなのです。

それでは、いったい何を「信じられなかった」のでしょう。「死者の甦り」でしょうか。誰でも、死とはこの世からの完全な別離であることを知っています。ひとたび死の世界に入った者は決して戻ることはない、ということを、誰でも知っています。これは、現代の人々も古代の人々も同じです。「昔の人は幼稚だから、死の世界を旅して来ることが出来ると想像したのであろう」などと考えるのは間違いです。古代ユダヤ人の考え方の中には、そのような死生観といったものはまったくありません。

ファリサイ派は、復活を何とか信じようとしていましたが、それでも、今生きている世界の延長程度で、決して、明確な復活や、新しく生きる「新生」などというものではありませんでした。ファリサイ派の復活論は、言わば「人生のやり直し」であり、それ故に、七人の兄弟と結婚した女性の復活後の立場を問うサドカイ派の詰問に彼らは答えられませんでした(マルコ12:18以下参照)。

また、エルサレム神殿を支配していた大祭司を筆頭とするサドカイ派は、復活を完全に否定していました。

現代の人々が死者の復活を信じることが出来ないのと同じように、当時の人々も、復活を信じることが出来なかったのです。重要なことは、「キリストの復活を信じる」ということは、ただ単に、「キリストが生き返った」というだけの問題ではないということです。

「死んだのに生き返った」という驚きだけならば、それは、神の子キリストが行った「ひとつの奇跡」に過ぎません。イエス・キリストは、五つのパンと二匹の魚で五千人を養い、荒れ狂う嵐のガリラヤ湖の上を歩かれた方です。一人息子を失ったナインのやもめを悲しみから救い、ヤイロの娘を甦らせ、ラザロを死から呼び戻された方です。

全能なる神の御力を思うならば、神の子キリストは、私たちの世界の自然法則を、あらゆる意味で超えておられたということが出来るでしょう。そしてそれ故に、「死から甦ることも可能である」ということになるかもしれません。

しかし、それだけでよいのでしょうか。「キリストは神の子だから甦った」。そのように、「キリストの甦り」を「ひとつの奇跡」に留めておいてよいのでしょうか。

ここで私たちが目を向けなければならないこととは、「復活を信じる」ということが、多くの人々が予想するような、「死者の甦りというひとつの奇跡的出来事」という認識で終わってはならない、ということなのです。

マルコ福音書16章16節に「信じてバブテスマを受ける者は救われるが、信じない者は、滅びの宣告を受ける。」とあります。ここで、「信じる」とは、「死者の甦り」という一つの「認識」に終わるのではなく、キリストの甦りが私の罪の贖いのためであったということを「信じる」ことです。これを「信じる」ことこそが「信仰」なのです。

しかし、また、これを「信じる」ことが極めて困難なのです。即ち、「信じられないこと」とは、「キリストの甦りそのもの」ではなく、キリストの復活が実は、「自分自身の救い」のことと認識できないからです。

教会とは、この「信じられなかった人々」を見捨てられない復活のキリストが、その「信じられない人々」を「信じる者」へと変えられる場として建てられたのです。神は、私たちを「信じる者」として御業の完成に仕える新しい生命、新しい生活を、私たちに与えてくださり、逞しく人生を生き抜く力が、そこに新しく誕生するのです。

初代教会には、このような力が満ち溢れていました。そしてこの充満したエネルギーが、15節にある「全世界に行って、すべての造られたものに福音を述べ伝えなさい。」とのキリスト・イエスの宣教命令によって、全世界に伝わって行ったのです。この宣教命令によって、昆虫が脱皮を経て大きく変身するように、全世界への伝道は、復活のキリストに出会い新しく造り替えられた人間の、必然的な行動でした。一人でも多くの人々に救われた喜びを伝えたいという気持ちを抑えることが出来ないからです。

不信仰とかたくなな心によって主イエスの十字架から逃げ去り復活を信じなかった弟子たちに、復活によって喜びを伴った大きな使命が与えられたのです。それは私たちにも与えられている使命です。主イエス・キリストによる救いにあずかり、キリストの体である教会に召し集められた私たちは、キリストによる救いの知らせ、福音を宣べ伝える使命を与えられて、この世へと遣わされているのです。この使命は弟子たちにとって、また私たちにとっても、重過ぎる、とても担うことができない重大な使命であると感じられます。自分が、どうして全世界に福音を宣べ伝えることなど出来るだろうか、と不安に思ってしまいます。主イエスが復活なさって今も生きて働いておられることを信じることこそが、不信仰でかたくなな私たちの心を、福音を宣べ伝えるという使命を果していくことの中でこそ打ち砕かれていくのです。

「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい」と言われています。全ての人に、ではなくて、全ての造られたものに、と主が言われています。それは、人間にだけでなく動物や植物、自然界の全てのものに向かって福音を語れということではなく、人間は勿論のこと、この世界の全てのものは主なる神によって造られ、支配されている被造物なのだということを私たちに弁えさせるためです。

私たちも、弟子たちと同じように、主イエスの救いの恵みにあずかり、福音を宣べ伝え、伝道する群れとしてこの世に遣わされています。私たちが伝道していくとき、主イエスが共に働いて下さり、生きておられることを私たちに顕して下さるのです。私たちのつたない伝道、まことに貧しい言葉や行いを通して、一人でも多くのご家族や友人など多くの方々が主イエス・キリストと出会い、主イエスを信じる信仰を与えられ、洗礼を受けてキリストの体である教会の枝とされていく、それこそが大きな奇跡なのです。

お祈りを致しましょう。

誰が救われるのか

主日礼拝説教

齋藤 正 牧師

《賛美歌》

讃美歌74番
讃美歌122番
讃美歌497番

《聖書箇所》

旧約聖書:エレミア書 32章17-20節 (旧約聖書1,239ページ)

32:17 「ああ、主なる神よ、あなたは大いなる力を振るい、腕を伸ばして天と地を造られました。あなたの御力の及ばない事は何一つありません。
32:18 あなたは恵みを幾千代に及ぼし、父祖の罪を子孫の身に報いられます。大いなる神、力ある神、その御名は万軍の主。
32:19 その謀は偉大であり、御業は力強い。あなたの目は人の歩みをすべて御覧になり、各人の道、行いの実りに応じて報いられます。
32:20 あなたはエジプトの国で現されたように今日に至るまで、イスラエルをはじめ全人類に対してしるしと奇跡を現し、今日のように御名があがめられるようにされました。

新約聖書:マルコによる福音書 10章23-31節 (新約聖書82ページ)

10:23 イエスは弟子たちを見回して言われた。「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか。」
10:24 弟子たちはこの言葉を聞いて驚いた。イエスは更に言葉を続けられた。「子たちよ、神の国に入るのは、なんと難しいことか。
10:25 金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」
10:26 弟子たちはますます驚いて、「それでは、だれが救われるのだろうか」と互いに言った。
10:27 イエスは彼らを見つめて言われた。「人間にできることではないが、神にはできる。神は何でもできるからだ。」
10:28 ペトロがイエスに、「このとおり、わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました」と言いだした。
10:29 イエスは言われた。「はっきり言っておく。わたしのためまた福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子供、畑を捨てた者はだれでも、
10:30 今この世で、迫害も受けるが、家、兄弟、姉妹、母、子供、畑も百倍受け、後の世では永遠の命を受ける。
10:31 しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる。」

《説教》『誰が救われるのか』

本日の物語に先立つ10章22節には、主イエスの御前にたくさんの財産をもった人が現れ、悲しみつつ去って行ったことが記されていました。永遠の生命を求めて御前に平伏しながら、御言葉に従うことが出来なかった人を見送りつつ、主イエスが弟子たちに語られたのが今日の聖書箇所です。この会話を通して、「神の国に入ること」即ち「救われる」ということが如何に困難なことであるか、ということを私たちは自覚しなければなりません。

「らくだが針の穴を通る」。実に極端なたとえであり、「不可能である」とさえ言われています。「救い」とは、このように本来有り得ない不思議な奇跡なのです。

神に逆らい、罪を背負い、なおそれを知らずに反逆者として滅びへの道を歩いていた私たちが、神の子とされ、永遠の生命を受けるということを、あらゆる奇跡に優る奇跡だと考えたことがあったでしょうか。絶対なる神、万物の主なる神、正義の神が救い上げるとは、「らくだが針の穴を通る」以上に不可能なことだと言われているのです。

多くの人々は、ここに語られた御言葉を、「財産のある者」「金持ち」のことであると考えますが、そうでしょうか。確かに、そう考える人は沢山います。所有物の全てを放棄し、世俗の富と無縁で生きようとした人は、古来、宗教を問わず大変多く知られています。

しかし、ここで語られる「難しさ」が「財産のある者・金持ちのことである」とするならば、それでは「貧しい者・貧乏人は神の国に入り易いのか」という反論が、成り立つでしょうが、神の国に入るのに、財産が問題になると言うのは釈然としません。

21節以下に記されていた主イエスの語られる財産問題はひとつの比喩でした。ここでも「財産のある者」「金持ち」という言葉を比喩として読まなければならないのです。マタイによる福音書 5章3節の有名な「山上の説教」で主イエスは「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。」と教えられました。

この「天の国」とは、今日の「神の国」のことです。そこに入る条件としての「貧しさ」とは、「心の貧しさ」のことなのです。しかも、主イエスが言われた「貧しさ」とは、「乏しさ」という程度ではなく、「物乞い」のことです。神の憐れみを「ほんのひとかけらでも頂かなければ、生きて行けない」と、必死の思いで、切実に求める人のことです。それが「心の貧しい者」のことなのです。

主イエスは、17節から22節で「ひとりの男」を例としてあげ、信仰に生きる人間の心構えをお話になったのです。それに対して28節でペトロが主イエスに直ちに反応して、「このとおり、わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました」と言い出しました。果たしてそうであったでしょうか。確かに、かつてペトロは魚をとる漁師で、ガリラヤ湖畔で主イエスによる大漁の奇跡に出会い、主イエスの導きに従い、「舟を陸に引き上げ、すべてを捨ててイエスに従った」のでした。「舟も網も捨てた」ということは事実ですが、それは何時まで続いたのでしょうか。ヨハネによる福音書 21章2節以下に主イエスの復活の様子がかたられていますが、そこには、「その次第はこうである。シモン・ペトロ、ディディモと呼ばれるトマス、ガリラヤのカナ出身のナタナエル、ゼベダイの子たち、それに二人の弟子たちが一緒にいた。シモン・ペトロが、「わたしは漁に行く」と言うと、彼らは、「わたしたちも一緒に行こう」と言った。彼らは出て行って、舟に乗り込んだ。」とあり、弟子たちは、主イエスの十字架の後、再びガリラヤに帰り、元の漁師に戻ろうとしていたのであり、何も変わっていなかったのです。「捨てる」とは形式的なことではなく、復帰の余地のないものでなければならないのです。「具合が悪くなったら元に戻す」というのでは「捨てた」ことにはならず、それは、「一時、横に置いた」ということに過ぎません。

そこで主イエスは、29節以下で、「はっきり言っておく。わたしのためまた福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子供、畑を捨てた者はだれでも、今この世で、迫害も受けるが、家、兄弟、姉妹、母、子供、畑も百倍受け、後の世では永遠の生命を受ける。」と言われました。

これは、「自分の生活を支える身近なもののすべてを捨てよ」と主は言われるのです。「身近なもののすべてを捨てる」。財産放棄か、家出か、出家か。洋の東西を問わず、このようなことをした人は数多くいます。釈迦やアッシジのフランチェスコ、また多くの隠者、修道士、聖者など、無一物となり世界を放浪した修行者たちはいくらもいます。

しかし、家族と別れること自体に何の意味があるのでしょうか。イエスは、決して「家族と別れよ」などとはおっしゃってはいません。それどころか、30節では、それらを「百倍受ける」と言われています。しかも、その百倍の恩寵は「後の世」ではなく、原文では「迫害の中で」と記されており、岩波訳では、「今この時期に、迫害の中にあっても」と『現在』を強調しています。「捨てる」とは、「手放すこと」「別れること」のみを意味するのではなく、価値の転換を意味すると考えるべきでしょう。「私の家族」という考えを捨て、「神の家族」になるのです。「私の財産」ではなく、「神の財産」となるのです。全てをキリスト中心に考える時、家族もまた信仰の同労者、神の国への旅を共にする者となり、与えられている豊かさは、その旅路を全うするための「神よりの賜物」と見ることが出来るでしょう。かくて、この世に属するものとして執着して来たすべてがその価値を失い、神の民としての生活がそこから始まるのです。

今までのお話が、主イエスが教えられた「永遠の生命に至る道」です。しかし、「問題はここからである」とも言えます。いったい誰がこのような生き方によって、永遠の生命を獲得出来るかということです。

私たちは、自分を知れば知るほど、この道が困難であり、この方法が、自分にとって「あまりにもかけ離れたもの」であると言わざるを得ないでしょう。現実に、主イエスの前から立ち去った豊かな財産を持つ男だけではなく、私たちもまた、「それでは、だれが救われるのだろうか」という26節の言葉を、弟子たちと共に呟かざるを得ません。

31節で主イエスは、「しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる」と言われました。地上における先と後という順序がそのまま後の世、神の国における順序となるわけではない、ということです。マタイによる福音書21章31節では「先の者」とは祭司長や民の長老たちを指し、「後の者」とは徴税人や娼婦のような罪人を示していました。ルカによる福音書13章30節では「先の人」とはユダヤ人を、「後の人」とは異邦人を示していました。それは、神の救いが人間の功績によって得られるのではなく、ただ神の恵みによってのみ与えられることが示されています。人間の功績、どれだけ立派な善い行いをしたのかと問えば、そこには先と後という順序、序列が生まれます。しかし、その順序は神の国、神による救いにおいては何の関わりもありません。むしろ神は、恵みを際立たせるためにしばしば、後のものを先に、先のものを後になさるのです。今先頭を走っている者が真っ先に救いにあずかるわけではないし、今はまだ神の恵みを拒んでいる者が、何でもおできになる神の力によって、先に救いにあずかっていくことも起るのです。私たちの救いは、私たちの努力や功績によってではなくて、ただ神の恵みによって、主イエス・キリストの十字架の死と復活において示された神の全能の力によって与えられるのです。

自分が先に救われて洗礼を受けているといった自尊心にしがみつくことをやめて、神の恵みに身を委ねていくなら、私たちはこのような後先の逆転を受け入れることができます。そこには、お互いの地上の富を比べ合い、それによって順序、序列をつけ、どちらが先か後かと競い合い、誇って人を見下したり、劣等感にさいなまれて人を妬んだりすることから解放されて、天の富、神様の恵みに依り頼み、その恵みによってお互いに与えられている賜物を喜び合い、生かし合い、お互いに仕え合っていくような、百倍千倍も豊かな人間関係が与えられていくのです。

お祈りを致しましょう。

あなたはキリストの手紙

《賛美歌》

讃美歌461番
讃美歌515番
讃美歌525番

《聖書箇所》

旧約聖書  エレミア書 31章31-34節 (旧約聖書1,237ページ)

31:31 見よ、わたしがイスラエルの家、ユダの家と新しい契約を結ぶ日が来る、と主は言われる。
31:32 この契約は、かつてわたしが彼らの先祖の手を取ってエジプトの地から導き出したときに結んだものではない。わたしが彼らの主人であったにもかかわらず、彼らはこの契約を破った、と主は言われる。
31:33 しかし、来るべき日に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこれである、と主は言われる。すなわち、わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。
31:34 そのとき、人々は隣人どうし、兄弟どうし、「主を知れ」と言って教えることはない。彼らはすべて、小さい者も大きい者もわたしを知るからである、と主は言われる。わたしは彼らの悪を赦し、再び彼らの罪に心を留めることはない。

新約聖書  コリントの信徒への手紙 二 3章1-6節 (新約聖書327ページ)

3:1 わたしたちは、またもや自分を推薦し始めているのでしょうか。それとも、ある人々のように、あなたがたへの推薦状、あるいはあなたがたからの推薦状が、わたしたちに必要なのでしょうか。
3:2 わたしたちの推薦状は、あなたがた自身です。それは、わたしたちの心に書かれており、すべての人々から知られ、読まれています。
3:3 あなたがたは、キリストがわたしたちを用いてお書きになった手紙として公にされています。墨ではなく生ける神の霊によって、石の板ではなく人の心の板に、書きつけられた手紙です。
3:4 わたしたちは、キリストによってこのような確信を神の前で抱いています。
3:5 もちろん、独りで何かできるなどと思う資格が、自分にあるということではありません。わたしたちの資格は神から与えられたものです。
3:6 神はわたしたちに、新しい契約に仕える資格、文字ではなく霊に仕える資格を与えてくださいました。文字は殺しますが、霊は生かします。

《説教》『あなたはキリストの手紙』

コリントの町は古代ギリシアの都市でしたが、ローマ帝国に反抗したために、紀元前146年にローマ軍によって徹底的に破壊され、その場所は廃墟になっていました。しかし約100年後、ユリウス・カエサルによってローマ帝国の植民都市として再建され、主イエスの時代にはローマ帝国のアカイア州の総督府が置かれるようになりました。古代地中海世界の多くの主要都市と同じように、そこにはかなりのユダヤ人が住んでいました。パウロはいつものようにこれらの人々の間で宣教を始めたのでした。

コリントの信徒への手紙第二では、コリント教会共同体の内部生活やパウロとの関係について多く取り上げられているので、他のどの手紙よりもパウロ自身について多くを知ることができます。コリントの教会は罪を犯すことがない聖人の集まりではなく、救いにあずかり、信仰について考える過程の只中にある、罪人の集まりであったと言えましょう。パウロは紀元55年前後にコリント教会の混乱を収めるためコリントの信徒への手紙第一を執筆しました。その手紙で、コリント教会の混乱が収まったかどうかは明確には分かりませんが、パウロは再びコリント教会に問題が起きたとの情報をエフェソで得て、解決のためコリントに赴きましたが、結果は不調に終りました。エフェソに帰ったパウロは2章4節にあるように「涙ながらに」コリント教会に書簡を書き、弟子のテトスに託しました。

エフェソでの働きを終り、パウロはトロアスに移動しました。トロアスは伝道有望地でしたが、パウロはコリント教会の成行きを案じてマケドニヤへ渡り、そこで、コリントから帰ったテトスに会い、コリント教会の悔い改めを聞きました。この朗報に接してマケドニヤから書いたのが、このコリントの信徒への手紙第二でした。つまり、第一コリント執筆後1~2年後の紀元56年から57年頃に、この手紙は書かれたと思われます。

今日の3章1節から、パウロは、「新しい契約」に仕える使徒として任じられた証拠を自分は持っていると論じ始めます。パウロは「わたしたちは、またもや自分を推薦し始めているのでしょうか。」と書き始めています。ここに「またもや」という言葉が使われていますが、この手紙によると、パウロはコリント教会の人々から自己推薦をしていると誤解して受け取られていたようです。

この時代には、推薦状がしきりに書かれていました。ここで、「ある人々のように、あなたがたへの推薦状、あるいはあなたがたからの推薦状が、私たちに必要なのでしょうか。」とあるように、コリントの教会にも推薦状が送られていたようですし、またコリントの教会の人も誰かを推薦し推薦状を書いていたということが分かります。このように、コリントの教会では、来会者を判断するために推薦状を受け取ることが当たり前になっていたようです。

パウロが言わんとしているのは、「自分には誇れることはない、むしろ弱さばかりある。しかし、神様が、そのような宣べ伝えるに相応しくない自分を、宣べ伝える者として召して下さったから、今あなた方に宣べ伝えているのです。」ということです。パウロが弱さを誇るのは、自分は自己推薦できる者ではなく、そして他者から推薦されるに相応しくないことを示したいからです。パウロは自分を自己推薦するのではなく、ただ神様が推薦してくださっているということを、コリントの人々に伝えたかったのでした。ここで、パウロはこの神様の推薦があることを明らかにしようと試みます。それが2節の、「わたしたちの推薦状は、あなたがた自身です。」というこの不思議な言葉です。これは、読む人にとっては意外な言葉です。推薦状とは、他者か、または自分が書いた書類である筈です。しかし、パウロは書類ではなく、人が自分の推薦状であると言うのです。そして、それがコリントの人々であると言っています。「自分は、あなたがたに対して、イエス・キリストの福音を宣べ伝えた。それをあなたがたが受け入れた。そしてあなたがたは救われて、主イエスを信じるようになって、信仰生活を送っている。それがわたしの推薦状になっている」と言っているのです。パウロは、人に信仰を与え、その人を信仰者として生み出してくださるのは、神様であると確信していました。信仰者もまた「信仰は父なる神が与えてくださる」ということ、すべては神様の働きであるということを知るようになります。だから、「あなたがたは神から与えられた私の推薦状なのだ」とコリントの人々に訴えるのです。

この後半で「それは、わたしたちの心に書かれており、すべての人々から知られ、読まれています。」とあります。「パウロの推薦状は、コリントの人々自身である」ということが「パウロの心に書かれており」、その事柄は、すべての人々に知られているということなのです。そして3節には、「あなたがたは、キリストがわたしたちを用いてお書きになった手紙として公にされています。墨ではなく生ける神の霊によって、石の板ではなく人の心の板に、書きつけられた手紙です。」と、今度は、「あなたがたはキリストの手紙」であるということを語り始めます。パウロがまだ推薦状のことを語りたいのならば、ここを「手紙」とは書かずに「キリストがわたしたちを用いてお書きになった“推薦状”」と書いたのではないでしょうか。ここでは、「推薦状」と書かずに「手紙」と言い換えているのです。ここからは自分の推薦の話ではなくて、コリントの人々に対して、あなたたちは「キリストによって書かれた手紙である」ということを伝えたかったからなのです。

どういう意味でキリストの手紙なのでしょうか。それは、ここに「キリストがわたしたちを用いてお書きになった」と書かれていることから、この手紙は、主イエスご自身によって書かれた手紙であり、その内容は主イエスが仰りたいことであるということが分かります。

主イエスが人々にお伝えになりたいことというのは、「喜びの知らせ」すなわち「福音」です。主イエスによって罪を贖われ、罪を赦され、復活を信じることができ、永遠の命を与えられることを信じることができる。そして本当に父なる神が、どうしようもない私たちを見捨てず愛してくださって死ですべてを終わりになさらず、復活し新しい命が与えられて、神の国に入らせ、そして父なる神の家に住まわせてくださることを約束して下さっているということをお伝えになりたいのです。そのお伝えになりたいことを主イエスは、手紙として書いているのです。その救いと愛と希望の喜びの知らせを、主イエスは私たちに書き記しておられるのです。

どのようにして、私たちに書き記されているのか、それは信仰によってです。ここに「墨によってではなく、神の霊によって、書きつけられた」とあります。私たちは、その喜びの知らせを信じる信仰を与えられた時に同時に神の霊、聖霊を与えられます。信仰を与えられたその時に私たちは、聖霊なる神によって、その喜びの知らせを刻まれるのです。パウロは永遠に消えることのない神の霊によって、信仰と喜びの知らせが刻まれているということを伝えたかったのです。

どこにそれが刻まれるのか、それは後半に「石の板ではなく、心の板に、書きつけられている」とあります。石の板ということで、私たちが思い出すのは、モーセが神様から与えられた十戒が記された石の板、すなわち律法ではないでしょうか。パウロは、石の板である律法ではなくて、主イエスに与えられている喜びの知らせである福音が私たちの心に書きつけられているのだと言っているのです。私たちは律法によって、自分たちの罪を知りますが、律法によってでは、救われませせん。律法によって私たちが自覚させられる罪を、主イエスが十字架の死の犠牲によって代わりに背負って、贖ってくださって、救ってくださったのです。その救いの喜びの知らせ、「福音」が私たちの心に刻まれるということを、パウロは4節で強調しているのです。

パウロは、この救いの喜びの知らせ、福音に確信を持っていました。

そして、パウロは続く5節で神様に与えられた「資格」について語ります。「もちろん、独りで何かできるなどと思う資格が、自分にあるということではありません。わたしたちの資格は神から与えられたものです。」

パウロがここで述べている「資格」というのは、伝道者としての資格のことです。そのような伝道者としての「資格」は、自分にはないということを、ここで述べています。「独りでなにかできると思う」と書いていますが、ここは原文に沿って訳すと、「わたしたち自身は、何か考えたり主張したりするには相応しい者ではない」ということです。

これは、パウロのコリントの教会に対しての忠告であり、願いでもあったのでしょう。または彼らに御言葉を語ることの権利や資格は「そもそも自分にない」というへりくだりとも言えましょう。

ここでは、パウロが自分だけのことを言っているのではないことに気付かされます。

「わたしたちには、その資格がない」と「わたしたち」と言っているのです。つまり、パウロにだけ伝道者としての資格がないのではなく、誰一人として、伝道者になる資格を持ち合わせていないと言っているのです。

私たちは本来、神様の救いに与る資格や神の子とされる資格も資質もありません。しかし、その資格もただ主イエスによって、ふさわしく無い自分が赦され、救いに与る資格が与えられ、神の子とされる資格が与えられたのです。それは最後の6節を読むと分かります。「神はわたしたちに、新しい契約に仕える資格、文字ではなく霊に仕える資格を与えてくださいました。文字は殺しますが、霊は生かします。」とあります。

ここの「新しい契約」とは、主イエスが十字架上で流された血によって結ばれた契約のことです。神様と人との契約です。創世記のアダムとエバ以来失われた神様との関係を主イエスがその犠牲によって修復して下さったことにより神様の前に立つことができ、神様と共に生きることができ、神様とつながって永遠の命に与ることができるようになるという、神様の一方的な約束です。そして、この「新しい契約」というのは、主イエスがお生まれになる600年も昔の時代に預言者エレミヤを通して神様から与えられた約束でした。それは、先程お読み頂いた旧約聖書エレミア書に書かれていた言葉です。

ここの「霊に仕える」というのは、聖霊なる神にすべてを委ねるということです。パウロは、ここで「文字に仕えるのではなく、聖霊なる神に仕える」と言っています。

ところが、ユダヤ人たちは、「神の民」とされているということや「新しい契約」をいつの間にか忘れ、律法に書かれている掟を守れる者が「神の民」であり、「神の民にふさわしい者である」と考えるようになっていました。そして、律法を、絶対視するようになり、文字に書かれた律法の「行い」に違反する者を裁く者になっていました。

パウロは、そのような「文字」に仕えるのではなく、「聖霊」に仕えると言っています。また聖霊に仕える資格を神様から与えられたと言っているのです。「文字に仕える」というのは、文字で書かれた律法の「行い」に従い、自分自身を評価し、また他者をも評価し裁くことです。そして、その律法と自らの「行い」で自分を変えたり、その律法の力と自分の力とで他者をも変えようとすることです。「霊に仕える」とは、ただ一方的な愛ゆえに赦し選び救いだしてくださった神様の霊によって、自分自身を判断し、他者を見ること、そして、自分の力で自分を変えようとせず聖霊なる神によって変えられること、また隣人も同様に聖霊なる神によって変えられていくことです。

今、私たちは礼拝に集い、神様の前に立つ資格を与えられています。本当は、私たちは誰一人として神様の前に立つことのできる資格を有していません。私たちの中で、生まれながらに穢れ無く、聖なる者、義なる者は居るでしょうか。一人も居ません。誰一人として神の御前に本来は立ち得ないのです。

そんな私たちが、神様の前に立ち、御言葉を聞くことができるのは、神様の一方的な赦しがあり、義なる者として、認めてくださっているからなのです。

罪ある者、穢れある者が、ここに居ることができるのは、4節でパウロが「キリストによってこのような確信を神の前で抱いています」と言っているように、それは一方的な神様の愛である「キリストによって」なのです。主イエスによってということです。私たちは、神様の前に立つことが赦されています。神の子であることが赦されています。それはただ主イエス・キリストの十字架の犠牲によってのみで与えられているのです。その結果、私たちには、聖霊なる神に仕える資格が与えられています。この素晴らしい神様の愛を一人でも多くの人たちに伝え、共に豊かな愛の中を生きようではありませんか。

特に自分が大切であると思う人にこそ、この素晴らしい豊かな神様の愛を伝え、その愛の中に居て欲しいと思うのが私たちの素直な気持ちではないでしょうか。ですから私たち自身が「キリストの手紙」となり、すべてを神様に委ね、自分の生きる姿こそが福音を伝えるものとなりますよう祈りつつ歩んでまいりましょう。

お祈りを致します。

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私について来なさい

賛美歌

讃美歌7番

讃美歌238番

讃美歌502番

聖書箇所

旧約聖書 エレミア書 16章16節

16:16 見よ、わたしは多くの漁師を遣わして、彼らを釣り上げさせる、と主は言われる。その後、わたしは多く の狩人を遣わして、すべての山、すべての丘、岩の裂け目から、彼らを狩り出させる。

新約聖書 マルコによる福音書 1章16~20節

◆四人の漁師を弟子にする

1:16  イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、シモンとシモンの兄弟アンデレが湖で網を打っ ているのを御覧になった。彼らは漁師だった。
1:17  イエスは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。
1:18  二人はすぐに網を捨てて従った。
1:19  また、少し進んで、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、舟の中で網の手入れをしているのを御覧になると、
1:20  すぐに彼らをお呼びになった。この二人も父ゼベダイを雇い人たちと一緒に舟に残して、イエスの後について行った。

説教原稿

私たちは時の流れの中で生きています。昨日から今日へ、今日から明日へと向う時の流れの中です。そし て今日を生きるということによって、常に新しい時に出会っていると言えるでしょう。現在とは、未来という時を 過去に変えるものであり、毎日一つずつ卵を産む鶏のように、私たちは毎日過去を生み出しているのです。

過去とは古い時であり、既に背後に追いやられた時です。一方、未来とは「新しい時」であり、未だ誰も知らな いことが起こる時です。その「新しい時」を如何に生きるか。それが私たちの課題と言わなければなりません。

もちろん、この「新しい時」とは無自覚に迎える自然の時の流れではありません。自然のサイクルから言え ば、朝、眼が覚めた時、「新しい一日が始まった」ということです。しかし、自分の生きざまを深く省みて問うな らば、朝の目覚めにおいて出会う一日が、果たして「新しい一日」「新しい時」と無条件に言い得るでしょうか。

確かに、そこには未だ出会っていない未経験なものがあるでしょう。しかし「新しさ」とはいったい何でしょう か。もしその一日が古い一日の焼き直しに過ぎないとするならば、「新しい一日を生きた」とは言えないのかも 知れません。判で押したような日常生活の中で、何を「新しい時」と言うのでしょう。ガリラヤの湖畔で起こった 出来事は、その「新しい時」への招待でした。

16節に「イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、シモンとシモンの兄弟アンデレが湖で網を打 っているのを御覧になった。」とあります。そして19節には「また、少し進んで、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟 ヨハネが、舟の中で網の手入れしているのを御覧になった。」とあります。

ここは、ルカ福音書によれば、時は朝でした。つまり、シモンとアンデレは未だ朝の漁をしており、ヤコブとヨ ハネは一晩の漁で痛んだ網を繕っている、ガリラヤの漁師たちにとって昨日と変わらない朝でした。早朝まで 魚をとり、陽が昇ったら漁を終え、岸に上がって明日のために網を繕う。そして昼間は休み、また日暮れと共 に湖へ出て行く。これまで何年もの間続けて来たのです。昨日と少しも変わらない同じような朝であり、一日 の始まりでした。ガリラヤ湖の漁師として、父親もそのまた父親も、同じようにして過ごしたであろう生活がここ に繰り返されているのです。シモンにもアンデレにも、ヤコブにもヨハネにも、それぞれ夢や希望があったこと でしょう。しかし、生活のためには大きな冒険は諦めざるを得ず、昨日と同じような今日を過ごし、明日もまた 同じ仕事を続けて行かなければなりませんでした。そしてその日常生活の中で、ささやかな夢や希望をそれ なりに実現して行く。これは誰もが過ごしている人生です。

私は何時までこの仕事をしなければならないのか。何故、この仕事をしなければならないのか。私たちは、 よくこのようなことを考えるのではないでしょうか。そして、もしかすると、ほかにもっと生き甲斐のある良い仕 事があるのではないか、とも思います。しかしながら、そう思いながらも、やはり、昨日と同じように、同じことを 繰り返している自分を見出さざるを得ません。

朝、仕事に出かける時に、あるいは夫を送り出した後、洗濯掃除に追われる時に、このような自分の姿を見 出すことはないでしょうか。そこには「新しい朝」を迎える新しい気持ちは感じられません。

シモンもアンデレも、ヤコブもヨハネも、そのような朝を迎えました。誰もが迎える「昨日と同じ朝」それがこの場 面です。ところが、その「少しも変わることのない昨日と同じであった筈の朝」が、突然、「全く新しい朝」になった のです。そしてこの出来事において、「新しい時」というものが自分の思いの外にあることを教えられるのです。

四人にとって、主イエスとの出会い、それが「古い生活」から「新しい生活」への転換を引き起こしました。16節 にも19節にも「イエスが御覧になった」と記されています。「御覧になった」とはどういうことでしょう。主イエスが 漁師の仕事を珍しくてつくづくご覧になったということなのでしょうか。

 

主イエスの眼差しは、彼らの仕事へではなく、その仕事をしている人間そのものに向けられているのです。 「その人が何をしているか」ではなく、「その人がどのように生きているか」ということに向けられているのです。 私たちが今、何をしているのか、何をしようとしているのかということに関りなく、常に、主イエスの眼差しは

私たちの心に向けて注がれているのです。そして、そのキリストの眼差しが自分に向けられていることを意識 した時、「新しい朝」が訪れるのです。

シモンたちは誰一人として、その日、自分の生活を変えようとは思っていませんでした。与えられた環境の 中で、ただひたすらに生きて行くことだけを考えていました。しかし今や、彼ら自身、全く考えていなかったこと が始まろうとしているのです。

17節に「イエスは、『わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしてあげよう』と言われた。」とあります。

「私について来なさい」。主イエスが新しい朝に語りかけるのは、この言葉です。「ついて行く」とは、ただわけ も分からず「後ろからついて行く」ということではありません。

ここで主イエスがお語りになった「わたしについて来なさい」は、「わたしに」と「ついて来なさい」の組み合わ せではありません。原文の構造に従って訳すならば、「来なさい(あるいは「おいで」)、わたしの後ろに(あるい は「あとに」)」となります。主イエスはここで、「来なさい」「おいで」と招いておられるのです。あのマタイ福音書 11章28節の主イエスのお言葉、「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあ げよう」と同じ言葉なのです。「わたしのところに来なさい」と主イエスは招いておられるのです。その招きに応 えて主イエスのところに行った者は、主イエスの後ろを、その後(あと)について歩んでいくのです。

よく「あの人の生き方にはついていけない」とか「あの人の考え方にはついていけない」という表現がなされま す。また以前は、結婚のときなど「夫を信じて何処までもついて行きます」などという覚悟が語られたものでした。

このような表現は、ただ単に、表面的に追従することではなく、生きる営みを共にするということであることは 言うまでもありません。「私について来なさい」と主イエスが言われる時、それは主イエスと共に生きる生涯へ の招きであり、キリストと共に人生の営みを全うすることへの呼びかけなのです。

主イエスは彼らに、「人間をとる漁師にしよう」と言われました。この言葉は誤解されやすい面があります。 「あなたがたは今、魚をとる漁師をしているが、魚よりも人間をとる方が尊い仕事だから、あなたがたを今より もっと大事な働きをする人へと格上げしてあげる」という意味に理解してしまったら全くの間違いです。人間を とる漁師にするということによって語られているのは、主イエスの後について行く者となることによって与えら れる新しい歩み、それまでとは違う新しい人生が与えられるということです。人間をとるとは、主イエスが神様 の独り子、救い主としてこれから成し遂げようとしている救いのみ業、それによって実現する神の国に人々を 招き、人々が主イエスの救いにあずかって新しく生きることができるように導くこと、伝道の働きを担う者となる ということです。

18節に「二人はすぐに網を捨てて従った。」、そして20節には「この二人は父ゼベダイを雇い人たちと一緒に 舟に残して、イエスの後について行った。」と驚くべきことが起こりました。仕事を捨て家を捨てた人間がここに 描かれているのです。

この物語を読む時、「いったい誰がこのようなことを行えるのか」と思わずにはいられないでしょう。しかも聖 書によれば、「すぐに従った」と記されています。「すぐに」という言葉を、時間的速さだけで理解するのは間違 いです。もちろん、主の呼びかけに対して応答を先に延ばす決断の弱さは責められなければなりません。

ここまで、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」という主イエスの言葉の意味を見てきました。 主イエスは四人の人々をじっと見つめ、このように語りかけて彼らをお招きになったのです。シモンとアンデレ は「すぐに網を捨てて従った」とあります。またヤコブとヨハネは「この二人も父ゼベダイを雇い人たちと一緒に 舟に残して、イエスの後について行った」とあります。ここには二つのポイントがあります。一つは、彼ら四人 が皆、主イエスの招きを受けてすぐに従って行ったことです。もう一つは、「網を捨て、父と雇い人を舟に残し て」とあるように、自分の大事なものを捨てて、また家族から離れて従ったということです。

私たちはこれを読むと不思議に思うんではないでしょうか。どうしてそんなにすぐに従って行くことができたの だろうか、何故大事なものを捨てたり家族と別れたりできたのだろうか、と思うのです。

「すぐに」ということは、あれこれ条件を確認したりせずに、ということです。主イエスについて行くとどうなる のか、こんな場合にはどうか、あんな時にはどうすればよいのか、などと一切質問をしていないのです。また、 ついて行くことによってどういう酬いがあるのか、主イエスは自分に何を約束してくれるのか、という確認もして いません。また、ついて行くことができるように自分の側の状況を整えたいのでそれまでもう少し待って、とい うことも言っていません。それらの条件を一切顧みることなく、つまりそれらのことを全て捨てて従ったのです。 「網を捨て、父と雇い人を舟に残して」という言葉がそれを現しています。ですから先程二つのポイントと言い ましたが実は一つと言えます。それは「献身」という一言で言い表すことができます。主イエスの弟子となると は、主イエスに、そして神様に自分自身をお献げし、委ねることなのです。彼ら四人は献身したのです。そこ に、彼らの人生の転換、それまでとは全く違う新しい歩みが始まったのです。

この主イエスの呼びかけは、私たち、一人ひとりの個人に対する神の個別の御業なのです。この主イエスの 呼びかけは、「そこにいる皆」とか「あなたがたの誰でも」というようなものではありません。はっきりと一人ひと りの個人を名指しされた個別の呼びかけなのです。

20節で「彼らをお呼びになった」とは「名を呼ぶ」ということです。大勢の人々に向って語られた言葉に感動し て「その中から誰かが従った」ということではなく、大勢の人々の中にいた「この私に向けて呼びかけられた」 ので、キリストの招きに従ったのです。主イエスは私たちを、常に、一人の人格として扱って下さるのです。決 して十羽ひとからげに扱うようなことはなさいません。

シモン、アンデレ、ヤコブ、ヨハネの決断を見ると共に、名指しで召されるイエスの御心と私たち自身の決断 を、各自の個別の問題として考えることが大切です。ですから「よくも仕事を捨てられたものだ」「親を捨てるこ となど誰が出来るか」などと考える人たちは、既に聖書を読み違えていると言わなければなりません。仕事を 捨て親を捨てたというのは、伝道者として召されたシモンたちの「この時」の応答の仕方なのです。

彼らは彼ら自身の召しにそのように応えたのですが、私たちの召しはシモンたちとは違う筈です。私たちに はそれぞれ違う召しがあり、それぞれ独自な応答がなされなければなりません。それが個別性というもので す。「仕事を捨て、親を捨てた」という外面的なことに拘るのではなく、そのようなシモンたちの個別の問題の 底に流れる普遍的なもの、私たちとの共通な特徴に眼を向けることが大切です。

それを一言で言えば、「日常の断ち切り」とか「惰性を絶つこと」と表現出来るでしょう。昨日行ったことを今日 もまた同じように繰り返して行なうことを断ち切ることです。仕事を辞めたり、肉親の絆を切ることが必要なの ではなく、それらの生活を続ける中で、無自覚的・惰性的に生きることを止め、主の呼びかけに応え、キリスト と共に生きる生活の中に飛び込んで行くことが「惰性の断ち切り」「切り換え」です。新しい生活への切り換え が大切なのです。

自分の喜びのため、自分の欲望のために生きることから、神の喜びのために生きる人間へとなるのです。 キリストに仕える人間に変わり、神の喜びが私のどのような生き方の中に求められているかを正しく聞き取る のです。

キリストの招きを聞き取り、受け入れなければ、決して「新しい一日」に踏み出せないことを知るべきなのです。

主イエスはガリラヤの漁師を使徒としてお立てになりました。そして彼らは、主イエスの御言葉の前に服従し たのです。その直前まで予想もしなかったこと、考えることさえなかった新しい生き方の中に飛び込んで行き ました。

ここに神の召しの特徴があると言えるでしょう。自分の能力、資格、性格、興味など、自分自身に対する人 間的価値や判断はそこでは一切意味を持ちません。「召しへの相応しさ」とは、自分自身の姿を省みて自分 が信仰者に相応しいのだとして信仰に入るのではなく、キリストへの信頼によって、自分自身の人間的価値を 捨て去ることなのです。シモンもアンデレも、ヤコブもヨハネも、各自の個性の数々の欠点にも拘らず、使徒と しての名を聖書に残しました。

召された者は、その召しに応える生涯をもって、神の選びの正しさを証すると言えるでしょう。私たちにとって の「新しい一日」とは、その神の御業の証人としての目覚めでなければならないのです。

私たちはどうしても、いろいろな人間的条件を考えようとします。条件が整っているかどうかを見極めたいと 思います。そういうことによって、先の見通しをはっきりさせた上で進みたいと思います。それはそれで大事な ことでしょう。けれども、人生において、私たちの側で整えることのできる条件というのは、実はそんなに多くは ありません。

明日何が起るか、私たちは知ることができません。今日どんなに条件を整えても、それによって明日の歩み が保証されることはないのです。本当に確かな歩みは、私たちが条件を整えたり確認することによってではな くて、この世界を造り、私たちに命を与え、全てを導いておられる主なる神様のご支配を信じて、自分の身を 献げることによってこそ与えられます。神様はご支配される神の国を、独り子主イエス・キリストによって、その 十字架の死と復活によって実現して下さり、その裁きと救いとを私たちに告げ知らせて下さいます。悔い改め て神様の方に向き直ることによってこそ与えられる救いへと私たちを招いて下さり、その救いのみ業の前進の ために私たちを用いようとしておられるのです。そのみ業の前進のために必要な全ての条件は、神様ご自身 が整え、与えて下さるのです。ですから、今私たち一人一人をこの礼拝へと招き、私たちのことをしっかり見つ めつつ、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と語りかけて下さっている主イエスに自分の身 を、人生を、委ね、お献げしましょう。それによって私たちも、大きな転換を与えられ、それまでとは全く違う新 しい、神様の恵みのみ手の中で生きる人生を歩み出すことができるのです。

お祈りを致します。 <<<祈 祷>>>