あなたはキリストの手紙

《賛美歌》

讃美歌461番
讃美歌515番
讃美歌525番

《聖書箇所》

旧約聖書  エレミア書 31章31-34節 (旧約聖書1,237ページ)

31:31 見よ、わたしがイスラエルの家、ユダの家と新しい契約を結ぶ日が来る、と主は言われる。
31:32 この契約は、かつてわたしが彼らの先祖の手を取ってエジプトの地から導き出したときに結んだものではない。わたしが彼らの主人であったにもかかわらず、彼らはこの契約を破った、と主は言われる。
31:33 しかし、来るべき日に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこれである、と主は言われる。すなわち、わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。
31:34 そのとき、人々は隣人どうし、兄弟どうし、「主を知れ」と言って教えることはない。彼らはすべて、小さい者も大きい者もわたしを知るからである、と主は言われる。わたしは彼らの悪を赦し、再び彼らの罪に心を留めることはない。

新約聖書  コリントの信徒への手紙 二 3章1-6節 (新約聖書327ページ)

3:1 わたしたちは、またもや自分を推薦し始めているのでしょうか。それとも、ある人々のように、あなたがたへの推薦状、あるいはあなたがたからの推薦状が、わたしたちに必要なのでしょうか。
3:2 わたしたちの推薦状は、あなたがた自身です。それは、わたしたちの心に書かれており、すべての人々から知られ、読まれています。
3:3 あなたがたは、キリストがわたしたちを用いてお書きになった手紙として公にされています。墨ではなく生ける神の霊によって、石の板ではなく人の心の板に、書きつけられた手紙です。
3:4 わたしたちは、キリストによってこのような確信を神の前で抱いています。
3:5 もちろん、独りで何かできるなどと思う資格が、自分にあるということではありません。わたしたちの資格は神から与えられたものです。
3:6 神はわたしたちに、新しい契約に仕える資格、文字ではなく霊に仕える資格を与えてくださいました。文字は殺しますが、霊は生かします。

《説教》『あなたはキリストの手紙』

コリントの町は古代ギリシアの都市でしたが、ローマ帝国に反抗したために、紀元前146年にローマ軍によって徹底的に破壊され、その場所は廃墟になっていました。しかし約100年後、ユリウス・カエサルによってローマ帝国の植民都市として再建され、主イエスの時代にはローマ帝国のアカイア州の総督府が置かれるようになりました。古代地中海世界の多くの主要都市と同じように、そこにはかなりのユダヤ人が住んでいました。パウロはいつものようにこれらの人々の間で宣教を始めたのでした。

コリントの信徒への手紙第二では、コリント教会共同体の内部生活やパウロとの関係について多く取り上げられているので、他のどの手紙よりもパウロ自身について多くを知ることができます。コリントの教会は罪を犯すことがない聖人の集まりではなく、救いにあずかり、信仰について考える過程の只中にある、罪人の集まりであったと言えましょう。パウロは紀元55年前後にコリント教会の混乱を収めるためコリントの信徒への手紙第一を執筆しました。その手紙で、コリント教会の混乱が収まったかどうかは明確には分かりませんが、パウロは再びコリント教会に問題が起きたとの情報をエフェソで得て、解決のためコリントに赴きましたが、結果は不調に終りました。エフェソに帰ったパウロは2章4節にあるように「涙ながらに」コリント教会に書簡を書き、弟子のテトスに託しました。

エフェソでの働きを終り、パウロはトロアスに移動しました。トロアスは伝道有望地でしたが、パウロはコリント教会の成行きを案じてマケドニヤへ渡り、そこで、コリントから帰ったテトスに会い、コリント教会の悔い改めを聞きました。この朗報に接してマケドニヤから書いたのが、このコリントの信徒への手紙第二でした。つまり、第一コリント執筆後1~2年後の紀元56年から57年頃に、この手紙は書かれたと思われます。

今日の3章1節から、パウロは、「新しい契約」に仕える使徒として任じられた証拠を自分は持っていると論じ始めます。パウロは「わたしたちは、またもや自分を推薦し始めているのでしょうか。」と書き始めています。ここに「またもや」という言葉が使われていますが、この手紙によると、パウロはコリント教会の人々から自己推薦をしていると誤解して受け取られていたようです。

この時代には、推薦状がしきりに書かれていました。ここで、「ある人々のように、あなたがたへの推薦状、あるいはあなたがたからの推薦状が、私たちに必要なのでしょうか。」とあるように、コリントの教会にも推薦状が送られていたようですし、またコリントの教会の人も誰かを推薦し推薦状を書いていたということが分かります。このように、コリントの教会では、来会者を判断するために推薦状を受け取ることが当たり前になっていたようです。

パウロが言わんとしているのは、「自分には誇れることはない、むしろ弱さばかりある。しかし、神様が、そのような宣べ伝えるに相応しくない自分を、宣べ伝える者として召して下さったから、今あなた方に宣べ伝えているのです。」ということです。パウロが弱さを誇るのは、自分は自己推薦できる者ではなく、そして他者から推薦されるに相応しくないことを示したいからです。パウロは自分を自己推薦するのではなく、ただ神様が推薦してくださっているということを、コリントの人々に伝えたかったのでした。ここで、パウロはこの神様の推薦があることを明らかにしようと試みます。それが2節の、「わたしたちの推薦状は、あなたがた自身です。」というこの不思議な言葉です。これは、読む人にとっては意外な言葉です。推薦状とは、他者か、または自分が書いた書類である筈です。しかし、パウロは書類ではなく、人が自分の推薦状であると言うのです。そして、それがコリントの人々であると言っています。「自分は、あなたがたに対して、イエス・キリストの福音を宣べ伝えた。それをあなたがたが受け入れた。そしてあなたがたは救われて、主イエスを信じるようになって、信仰生活を送っている。それがわたしの推薦状になっている」と言っているのです。パウロは、人に信仰を与え、その人を信仰者として生み出してくださるのは、神様であると確信していました。信仰者もまた「信仰は父なる神が与えてくださる」ということ、すべては神様の働きであるということを知るようになります。だから、「あなたがたは神から与えられた私の推薦状なのだ」とコリントの人々に訴えるのです。

この後半で「それは、わたしたちの心に書かれており、すべての人々から知られ、読まれています。」とあります。「パウロの推薦状は、コリントの人々自身である」ということが「パウロの心に書かれており」、その事柄は、すべての人々に知られているということなのです。そして3節には、「あなたがたは、キリストがわたしたちを用いてお書きになった手紙として公にされています。墨ではなく生ける神の霊によって、石の板ではなく人の心の板に、書きつけられた手紙です。」と、今度は、「あなたがたはキリストの手紙」であるということを語り始めます。パウロがまだ推薦状のことを語りたいのならば、ここを「手紙」とは書かずに「キリストがわたしたちを用いてお書きになった“推薦状”」と書いたのではないでしょうか。ここでは、「推薦状」と書かずに「手紙」と言い換えているのです。ここからは自分の推薦の話ではなくて、コリントの人々に対して、あなたたちは「キリストによって書かれた手紙である」ということを伝えたかったからなのです。

どういう意味でキリストの手紙なのでしょうか。それは、ここに「キリストがわたしたちを用いてお書きになった」と書かれていることから、この手紙は、主イエスご自身によって書かれた手紙であり、その内容は主イエスが仰りたいことであるということが分かります。

主イエスが人々にお伝えになりたいことというのは、「喜びの知らせ」すなわち「福音」です。主イエスによって罪を贖われ、罪を赦され、復活を信じることができ、永遠の命を与えられることを信じることができる。そして本当に父なる神が、どうしようもない私たちを見捨てず愛してくださって死ですべてを終わりになさらず、復活し新しい命が与えられて、神の国に入らせ、そして父なる神の家に住まわせてくださることを約束して下さっているということをお伝えになりたいのです。そのお伝えになりたいことを主イエスは、手紙として書いているのです。その救いと愛と希望の喜びの知らせを、主イエスは私たちに書き記しておられるのです。

どのようにして、私たちに書き記されているのか、それは信仰によってです。ここに「墨によってではなく、神の霊によって、書きつけられた」とあります。私たちは、その喜びの知らせを信じる信仰を与えられた時に同時に神の霊、聖霊を与えられます。信仰を与えられたその時に私たちは、聖霊なる神によって、その喜びの知らせを刻まれるのです。パウロは永遠に消えることのない神の霊によって、信仰と喜びの知らせが刻まれているということを伝えたかったのです。

どこにそれが刻まれるのか、それは後半に「石の板ではなく、心の板に、書きつけられている」とあります。石の板ということで、私たちが思い出すのは、モーセが神様から与えられた十戒が記された石の板、すなわち律法ではないでしょうか。パウロは、石の板である律法ではなくて、主イエスに与えられている喜びの知らせである福音が私たちの心に書きつけられているのだと言っているのです。私たちは律法によって、自分たちの罪を知りますが、律法によってでは、救われませせん。律法によって私たちが自覚させられる罪を、主イエスが十字架の死の犠牲によって代わりに背負って、贖ってくださって、救ってくださったのです。その救いの喜びの知らせ、「福音」が私たちの心に刻まれるということを、パウロは4節で強調しているのです。

パウロは、この救いの喜びの知らせ、福音に確信を持っていました。

そして、パウロは続く5節で神様に与えられた「資格」について語ります。「もちろん、独りで何かできるなどと思う資格が、自分にあるということではありません。わたしたちの資格は神から与えられたものです。」

パウロがここで述べている「資格」というのは、伝道者としての資格のことです。そのような伝道者としての「資格」は、自分にはないということを、ここで述べています。「独りでなにかできると思う」と書いていますが、ここは原文に沿って訳すと、「わたしたち自身は、何か考えたり主張したりするには相応しい者ではない」ということです。

これは、パウロのコリントの教会に対しての忠告であり、願いでもあったのでしょう。または彼らに御言葉を語ることの権利や資格は「そもそも自分にない」というへりくだりとも言えましょう。

ここでは、パウロが自分だけのことを言っているのではないことに気付かされます。

「わたしたちには、その資格がない」と「わたしたち」と言っているのです。つまり、パウロにだけ伝道者としての資格がないのではなく、誰一人として、伝道者になる資格を持ち合わせていないと言っているのです。

私たちは本来、神様の救いに与る資格や神の子とされる資格も資質もありません。しかし、その資格もただ主イエスによって、ふさわしく無い自分が赦され、救いに与る資格が与えられ、神の子とされる資格が与えられたのです。それは最後の6節を読むと分かります。「神はわたしたちに、新しい契約に仕える資格、文字ではなく霊に仕える資格を与えてくださいました。文字は殺しますが、霊は生かします。」とあります。

ここの「新しい契約」とは、主イエスが十字架上で流された血によって結ばれた契約のことです。神様と人との契約です。創世記のアダムとエバ以来失われた神様との関係を主イエスがその犠牲によって修復して下さったことにより神様の前に立つことができ、神様と共に生きることができ、神様とつながって永遠の命に与ることができるようになるという、神様の一方的な約束です。そして、この「新しい契約」というのは、主イエスがお生まれになる600年も昔の時代に預言者エレミヤを通して神様から与えられた約束でした。それは、先程お読み頂いた旧約聖書エレミア書に書かれていた言葉です。

ここの「霊に仕える」というのは、聖霊なる神にすべてを委ねるということです。パウロは、ここで「文字に仕えるのではなく、聖霊なる神に仕える」と言っています。

ところが、ユダヤ人たちは、「神の民」とされているということや「新しい契約」をいつの間にか忘れ、律法に書かれている掟を守れる者が「神の民」であり、「神の民にふさわしい者である」と考えるようになっていました。そして、律法を、絶対視するようになり、文字に書かれた律法の「行い」に違反する者を裁く者になっていました。

パウロは、そのような「文字」に仕えるのではなく、「聖霊」に仕えると言っています。また聖霊に仕える資格を神様から与えられたと言っているのです。「文字に仕える」というのは、文字で書かれた律法の「行い」に従い、自分自身を評価し、また他者をも評価し裁くことです。そして、その律法と自らの「行い」で自分を変えたり、その律法の力と自分の力とで他者をも変えようとすることです。「霊に仕える」とは、ただ一方的な愛ゆえに赦し選び救いだしてくださった神様の霊によって、自分自身を判断し、他者を見ること、そして、自分の力で自分を変えようとせず聖霊なる神によって変えられること、また隣人も同様に聖霊なる神によって変えられていくことです。

今、私たちは礼拝に集い、神様の前に立つ資格を与えられています。本当は、私たちは誰一人として神様の前に立つことのできる資格を有していません。私たちの中で、生まれながらに穢れ無く、聖なる者、義なる者は居るでしょうか。一人も居ません。誰一人として神の御前に本来は立ち得ないのです。

そんな私たちが、神様の前に立ち、御言葉を聞くことができるのは、神様の一方的な赦しがあり、義なる者として、認めてくださっているからなのです。

罪ある者、穢れある者が、ここに居ることができるのは、4節でパウロが「キリストによってこのような確信を神の前で抱いています」と言っているように、それは一方的な神様の愛である「キリストによって」なのです。主イエスによってということです。私たちは、神様の前に立つことが赦されています。神の子であることが赦されています。それはただ主イエス・キリストの十字架の犠牲によってのみで与えられているのです。その結果、私たちには、聖霊なる神に仕える資格が与えられています。この素晴らしい神様の愛を一人でも多くの人たちに伝え、共に豊かな愛の中を生きようではありませんか。

特に自分が大切であると思う人にこそ、この素晴らしい豊かな神様の愛を伝え、その愛の中に居て欲しいと思うのが私たちの素直な気持ちではないでしょうか。ですから私たち自身が「キリストの手紙」となり、すべてを神様に委ね、自分の生きる姿こそが福音を伝えるものとなりますよう祈りつつ歩んでまいりましょう。

お祈りを致します。

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私について来なさい

賛美歌

讃美歌7番

讃美歌238番

讃美歌502番

聖書箇所

旧約聖書 エレミア書 16章16節

16:16 見よ、わたしは多くの漁師を遣わして、彼らを釣り上げさせる、と主は言われる。その後、わたしは多く の狩人を遣わして、すべての山、すべての丘、岩の裂け目から、彼らを狩り出させる。

新約聖書 マルコによる福音書 1章16~20節

◆四人の漁師を弟子にする

1:16  イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、シモンとシモンの兄弟アンデレが湖で網を打っ ているのを御覧になった。彼らは漁師だった。
1:17  イエスは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。
1:18  二人はすぐに網を捨てて従った。
1:19  また、少し進んで、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、舟の中で網の手入れをしているのを御覧になると、
1:20  すぐに彼らをお呼びになった。この二人も父ゼベダイを雇い人たちと一緒に舟に残して、イエスの後について行った。

説教原稿

私たちは時の流れの中で生きています。昨日から今日へ、今日から明日へと向う時の流れの中です。そし て今日を生きるということによって、常に新しい時に出会っていると言えるでしょう。現在とは、未来という時を 過去に変えるものであり、毎日一つずつ卵を産む鶏のように、私たちは毎日過去を生み出しているのです。

過去とは古い時であり、既に背後に追いやられた時です。一方、未来とは「新しい時」であり、未だ誰も知らな いことが起こる時です。その「新しい時」を如何に生きるか。それが私たちの課題と言わなければなりません。

もちろん、この「新しい時」とは無自覚に迎える自然の時の流れではありません。自然のサイクルから言え ば、朝、眼が覚めた時、「新しい一日が始まった」ということです。しかし、自分の生きざまを深く省みて問うな らば、朝の目覚めにおいて出会う一日が、果たして「新しい一日」「新しい時」と無条件に言い得るでしょうか。

確かに、そこには未だ出会っていない未経験なものがあるでしょう。しかし「新しさ」とはいったい何でしょう か。もしその一日が古い一日の焼き直しに過ぎないとするならば、「新しい一日を生きた」とは言えないのかも 知れません。判で押したような日常生活の中で、何を「新しい時」と言うのでしょう。ガリラヤの湖畔で起こった 出来事は、その「新しい時」への招待でした。

16節に「イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、シモンとシモンの兄弟アンデレが湖で網を打 っているのを御覧になった。」とあります。そして19節には「また、少し進んで、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟 ヨハネが、舟の中で網の手入れしているのを御覧になった。」とあります。

ここは、ルカ福音書によれば、時は朝でした。つまり、シモンとアンデレは未だ朝の漁をしており、ヤコブとヨ ハネは一晩の漁で痛んだ網を繕っている、ガリラヤの漁師たちにとって昨日と変わらない朝でした。早朝まで 魚をとり、陽が昇ったら漁を終え、岸に上がって明日のために網を繕う。そして昼間は休み、また日暮れと共 に湖へ出て行く。これまで何年もの間続けて来たのです。昨日と少しも変わらない同じような朝であり、一日 の始まりでした。ガリラヤ湖の漁師として、父親もそのまた父親も、同じようにして過ごしたであろう生活がここ に繰り返されているのです。シモンにもアンデレにも、ヤコブにもヨハネにも、それぞれ夢や希望があったこと でしょう。しかし、生活のためには大きな冒険は諦めざるを得ず、昨日と同じような今日を過ごし、明日もまた 同じ仕事を続けて行かなければなりませんでした。そしてその日常生活の中で、ささやかな夢や希望をそれ なりに実現して行く。これは誰もが過ごしている人生です。

私は何時までこの仕事をしなければならないのか。何故、この仕事をしなければならないのか。私たちは、 よくこのようなことを考えるのではないでしょうか。そして、もしかすると、ほかにもっと生き甲斐のある良い仕 事があるのではないか、とも思います。しかしながら、そう思いながらも、やはり、昨日と同じように、同じことを 繰り返している自分を見出さざるを得ません。

朝、仕事に出かける時に、あるいは夫を送り出した後、洗濯掃除に追われる時に、このような自分の姿を見 出すことはないでしょうか。そこには「新しい朝」を迎える新しい気持ちは感じられません。

シモンもアンデレも、ヤコブもヨハネも、そのような朝を迎えました。誰もが迎える「昨日と同じ朝」それがこの場 面です。ところが、その「少しも変わることのない昨日と同じであった筈の朝」が、突然、「全く新しい朝」になった のです。そしてこの出来事において、「新しい時」というものが自分の思いの外にあることを教えられるのです。

四人にとって、主イエスとの出会い、それが「古い生活」から「新しい生活」への転換を引き起こしました。16節 にも19節にも「イエスが御覧になった」と記されています。「御覧になった」とはどういうことでしょう。主イエスが 漁師の仕事を珍しくてつくづくご覧になったということなのでしょうか。

 

主イエスの眼差しは、彼らの仕事へではなく、その仕事をしている人間そのものに向けられているのです。 「その人が何をしているか」ではなく、「その人がどのように生きているか」ということに向けられているのです。 私たちが今、何をしているのか、何をしようとしているのかということに関りなく、常に、主イエスの眼差しは

私たちの心に向けて注がれているのです。そして、そのキリストの眼差しが自分に向けられていることを意識 した時、「新しい朝」が訪れるのです。

シモンたちは誰一人として、その日、自分の生活を変えようとは思っていませんでした。与えられた環境の 中で、ただひたすらに生きて行くことだけを考えていました。しかし今や、彼ら自身、全く考えていなかったこと が始まろうとしているのです。

17節に「イエスは、『わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしてあげよう』と言われた。」とあります。

「私について来なさい」。主イエスが新しい朝に語りかけるのは、この言葉です。「ついて行く」とは、ただわけ も分からず「後ろからついて行く」ということではありません。

ここで主イエスがお語りになった「わたしについて来なさい」は、「わたしに」と「ついて来なさい」の組み合わ せではありません。原文の構造に従って訳すならば、「来なさい(あるいは「おいで」)、わたしの後ろに(あるい は「あとに」)」となります。主イエスはここで、「来なさい」「おいで」と招いておられるのです。あのマタイ福音書 11章28節の主イエスのお言葉、「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあ げよう」と同じ言葉なのです。「わたしのところに来なさい」と主イエスは招いておられるのです。その招きに応 えて主イエスのところに行った者は、主イエスの後ろを、その後(あと)について歩んでいくのです。

よく「あの人の生き方にはついていけない」とか「あの人の考え方にはついていけない」という表現がなされま す。また以前は、結婚のときなど「夫を信じて何処までもついて行きます」などという覚悟が語られたものでした。

このような表現は、ただ単に、表面的に追従することではなく、生きる営みを共にするということであることは 言うまでもありません。「私について来なさい」と主イエスが言われる時、それは主イエスと共に生きる生涯へ の招きであり、キリストと共に人生の営みを全うすることへの呼びかけなのです。

主イエスは彼らに、「人間をとる漁師にしよう」と言われました。この言葉は誤解されやすい面があります。 「あなたがたは今、魚をとる漁師をしているが、魚よりも人間をとる方が尊い仕事だから、あなたがたを今より もっと大事な働きをする人へと格上げしてあげる」という意味に理解してしまったら全くの間違いです。人間を とる漁師にするということによって語られているのは、主イエスの後について行く者となることによって与えら れる新しい歩み、それまでとは違う新しい人生が与えられるということです。人間をとるとは、主イエスが神様 の独り子、救い主としてこれから成し遂げようとしている救いのみ業、それによって実現する神の国に人々を 招き、人々が主イエスの救いにあずかって新しく生きることができるように導くこと、伝道の働きを担う者となる ということです。

18節に「二人はすぐに網を捨てて従った。」、そして20節には「この二人は父ゼベダイを雇い人たちと一緒に 舟に残して、イエスの後について行った。」と驚くべきことが起こりました。仕事を捨て家を捨てた人間がここに 描かれているのです。

この物語を読む時、「いったい誰がこのようなことを行えるのか」と思わずにはいられないでしょう。しかも聖 書によれば、「すぐに従った」と記されています。「すぐに」という言葉を、時間的速さだけで理解するのは間違 いです。もちろん、主の呼びかけに対して応答を先に延ばす決断の弱さは責められなければなりません。

ここまで、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」という主イエスの言葉の意味を見てきました。 主イエスは四人の人々をじっと見つめ、このように語りかけて彼らをお招きになったのです。シモンとアンデレ は「すぐに網を捨てて従った」とあります。またヤコブとヨハネは「この二人も父ゼベダイを雇い人たちと一緒に 舟に残して、イエスの後について行った」とあります。ここには二つのポイントがあります。一つは、彼ら四人 が皆、主イエスの招きを受けてすぐに従って行ったことです。もう一つは、「網を捨て、父と雇い人を舟に残し て」とあるように、自分の大事なものを捨てて、また家族から離れて従ったということです。

私たちはこれを読むと不思議に思うんではないでしょうか。どうしてそんなにすぐに従って行くことができたの だろうか、何故大事なものを捨てたり家族と別れたりできたのだろうか、と思うのです。

「すぐに」ということは、あれこれ条件を確認したりせずに、ということです。主イエスについて行くとどうなる のか、こんな場合にはどうか、あんな時にはどうすればよいのか、などと一切質問をしていないのです。また、 ついて行くことによってどういう酬いがあるのか、主イエスは自分に何を約束してくれるのか、という確認もして いません。また、ついて行くことができるように自分の側の状況を整えたいのでそれまでもう少し待って、とい うことも言っていません。それらの条件を一切顧みることなく、つまりそれらのことを全て捨てて従ったのです。 「網を捨て、父と雇い人を舟に残して」という言葉がそれを現しています。ですから先程二つのポイントと言い ましたが実は一つと言えます。それは「献身」という一言で言い表すことができます。主イエスの弟子となると は、主イエスに、そして神様に自分自身をお献げし、委ねることなのです。彼ら四人は献身したのです。そこ に、彼らの人生の転換、それまでとは全く違う新しい歩みが始まったのです。

この主イエスの呼びかけは、私たち、一人ひとりの個人に対する神の個別の御業なのです。この主イエスの 呼びかけは、「そこにいる皆」とか「あなたがたの誰でも」というようなものではありません。はっきりと一人ひと りの個人を名指しされた個別の呼びかけなのです。

20節で「彼らをお呼びになった」とは「名を呼ぶ」ということです。大勢の人々に向って語られた言葉に感動し て「その中から誰かが従った」ということではなく、大勢の人々の中にいた「この私に向けて呼びかけられた」 ので、キリストの招きに従ったのです。主イエスは私たちを、常に、一人の人格として扱って下さるのです。決 して十羽ひとからげに扱うようなことはなさいません。

シモン、アンデレ、ヤコブ、ヨハネの決断を見ると共に、名指しで召されるイエスの御心と私たち自身の決断 を、各自の個別の問題として考えることが大切です。ですから「よくも仕事を捨てられたものだ」「親を捨てるこ となど誰が出来るか」などと考える人たちは、既に聖書を読み違えていると言わなければなりません。仕事を 捨て親を捨てたというのは、伝道者として召されたシモンたちの「この時」の応答の仕方なのです。

彼らは彼ら自身の召しにそのように応えたのですが、私たちの召しはシモンたちとは違う筈です。私たちに はそれぞれ違う召しがあり、それぞれ独自な応答がなされなければなりません。それが個別性というもので す。「仕事を捨て、親を捨てた」という外面的なことに拘るのではなく、そのようなシモンたちの個別の問題の 底に流れる普遍的なもの、私たちとの共通な特徴に眼を向けることが大切です。

それを一言で言えば、「日常の断ち切り」とか「惰性を絶つこと」と表現出来るでしょう。昨日行ったことを今日 もまた同じように繰り返して行なうことを断ち切ることです。仕事を辞めたり、肉親の絆を切ることが必要なの ではなく、それらの生活を続ける中で、無自覚的・惰性的に生きることを止め、主の呼びかけに応え、キリスト と共に生きる生活の中に飛び込んで行くことが「惰性の断ち切り」「切り換え」です。新しい生活への切り換え が大切なのです。

自分の喜びのため、自分の欲望のために生きることから、神の喜びのために生きる人間へとなるのです。 キリストに仕える人間に変わり、神の喜びが私のどのような生き方の中に求められているかを正しく聞き取る のです。

キリストの招きを聞き取り、受け入れなければ、決して「新しい一日」に踏み出せないことを知るべきなのです。

主イエスはガリラヤの漁師を使徒としてお立てになりました。そして彼らは、主イエスの御言葉の前に服従し たのです。その直前まで予想もしなかったこと、考えることさえなかった新しい生き方の中に飛び込んで行き ました。

ここに神の召しの特徴があると言えるでしょう。自分の能力、資格、性格、興味など、自分自身に対する人 間的価値や判断はそこでは一切意味を持ちません。「召しへの相応しさ」とは、自分自身の姿を省みて自分 が信仰者に相応しいのだとして信仰に入るのではなく、キリストへの信頼によって、自分自身の人間的価値を 捨て去ることなのです。シモンもアンデレも、ヤコブもヨハネも、各自の個性の数々の欠点にも拘らず、使徒と しての名を聖書に残しました。

召された者は、その召しに応える生涯をもって、神の選びの正しさを証すると言えるでしょう。私たちにとって の「新しい一日」とは、その神の御業の証人としての目覚めでなければならないのです。

私たちはどうしても、いろいろな人間的条件を考えようとします。条件が整っているかどうかを見極めたいと 思います。そういうことによって、先の見通しをはっきりさせた上で進みたいと思います。それはそれで大事な ことでしょう。けれども、人生において、私たちの側で整えることのできる条件というのは、実はそんなに多くは ありません。

明日何が起るか、私たちは知ることができません。今日どんなに条件を整えても、それによって明日の歩み が保証されることはないのです。本当に確かな歩みは、私たちが条件を整えたり確認することによってではな くて、この世界を造り、私たちに命を与え、全てを導いておられる主なる神様のご支配を信じて、自分の身を 献げることによってこそ与えられます。神様はご支配される神の国を、独り子主イエス・キリストによって、その 十字架の死と復活によって実現して下さり、その裁きと救いとを私たちに告げ知らせて下さいます。悔い改め て神様の方に向き直ることによってこそ与えられる救いへと私たちを招いて下さり、その救いのみ業の前進の ために私たちを用いようとしておられるのです。そのみ業の前進のために必要な全ての条件は、神様ご自身 が整え、与えて下さるのです。ですから、今私たち一人一人をこの礼拝へと招き、私たちのことをしっかり見つ めつつ、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と語りかけて下さっている主イエスに自分の身 を、人生を、委ね、お献げしましょう。それによって私たちも、大きな転換を与えられ、それまでとは全く違う新 しい、神様の恵みのみ手の中で生きる人生を歩み出すことができるのです。

お祈りを致します。 <<<祈 祷>>>