唯一の真の神

聖書:エレミヤ1758節, マタイ4810

 神さまの国に招かれた人々の生涯は、神さまがどんなにわたしたちを愛して、慈しんで、救って下さろうとしておられるかを、知るようになる日々の歩みです。その神さまは聖書において御自身を証しされました。教会では聖書の言葉を聴き、神さまの言葉として聞いて、神さまを礼拝します。

さてわたしたちはカテキズム、信仰問答によって、今、 十戒 について学び始めました。先週は問の39、「十戒とは何ですか」という問いに対して、その答をわたしたちは学びました。十戒とは、神さまに救われたわたしたちが、御心に従って生きるために与えられた律法です。神さまに招かれた人々は、神さまがどんなにわたしたちを愛して、慈しんで、救って下さろうとしておられるかを、感じ始めました。この方の愛にどのようにして応えることができるでしょうか。その人々に与えられたのが律法です。

では、十の戒めとは、どんな内容なのでしょうか。わたしたちは出エジプト記20章にその内容が書いてあることを学んだところです。連合長老会の教会では、十戒を礼拝毎に読み上げている教会が多いので、わたしたちも、十戒がここにある御言葉であることをしっかり覚えたいと思います。カテキズムの次の問は、では、「十戒はわたしたちに何を教えてくれますか」という問いです。十の戒めを与えられた神さまの目的は、それによってわたしたちに何をお命じになっておられるかということです。

それは二つのことです。その第一に神を愛すること。そして第二に隣人を愛することです。イエスさまも、そのことを教えておられます。これほど、分かりやすい言葉はないと思います。素晴らしいと思います。しかし、これほど難しいこともありません。教える方も教えられる方も悩みに悩んでしまうほどのことなのです。私は十戒の学びの最後に改めてこの問いについて取り上げることと致します。そこで今日は早速、実際の戒めについて入って行きたいと思います。

問41は「第一戒は何ですか」と尋ねます。そしてその答は、「あなたには、わたしのほかに、何ものをも神としてはならない」です。池上彰氏の国ごとの宗教分類によれば、日本は仏教国となっていますが、それは江戸時代からの国家政策によるので、元々は八百万の神々がいると信じられていましたから、今でも、生まれた子は神社に御礼に行き、結婚式はキリスト教式もいますが、死ぬときは仏教式で、という人々が多いようです。私は昔、横浜で結婚する時に借家を探さなければならなかったのですが、候補の家を見に行ったら、赤い旗に黒字で何やら書いたものが何本も庭の傍らに立っていました。「これは一体何の宗教だろう」と少し心配しました。しかし後になってそれは商売繁盛のご利益があるという狐を祀っているので、毎年旗を立てる時期に当たっていたことが分かりました。こういう狐の祠のような物は日本では珍しくないのだと分かりましたが、ありがたいことに、あまり信じている様子でもなく、従って祟りを恐れている様子でもないようでした。

旧約聖書の中で神さまから十戒をいただいたイスラエルの人々はどうだったのでしょう。彼らの周りの世界も、今の日本の社会とあまり違いはなかったと思われます。エジプトの奴隷となって苦しんで、助けを求めた時、その叫びを聞いてくださり、彼らを解放してくださった神さまに彼らは従いたいと思いました。しかし、彼らが苦労して旅を続け、ついに住み着いた土地には、いろいろな神々を拝む人々がいました。隣の家の芝生は青いという諺の通り、イスラエルの人々には、他の民族がいろいろ拝んでいる神々の方が魅力的に見えました。そして彼らは自分たちが豊かになったときに、却って自分たちを愛し、慈しみ、その苦難の時の叫びを聞いて手を差し伸べてくださった神さまを忘れるようになったのです。

それは彼らの考えが、「神さまはお一人ではなく、大勢いて天地を造ったのだ」という考えに変ったということでは決してないでしょう。頭の中では、神さまはお一人と思っているのかもしれません。今日読んでいただいたエレミヤ書は紀元前7世紀のバビロニアの大王ネブカトネツァルによってユダ王国が滅ぼされ、バビロンに人々が奴隷として連れて行かれる直前の時代を記しています。人々はこの時代にも律法に従って神殿に行き、礼拝を守っていたと思われます。しかし、神さまが救いに招いた人々は、表向きは神さまに従っているようでも、実際には二つのグループに分かれています。それは目に見えて別れているというより、神さまの目にははっきりと区別される違いがあるということなのです。

その一つは不信仰な人々であり、神さまを信じている、礼拝している、と言いながら、心は遠く神さまから離れている人々でありました。そこで預言者エレミヤはその人々は呪われている、と叫んでいるのです。5-6節。「主はこう言われる。呪われよ、人間に信頼し、肉なる者を頼みとし、その心が主を離れ去っている人は。神は荒れ地の裸の木。恵みの雨を見ることなく、人の住めない不毛の地、炎暑の荒れ野を住まいとする。」

わたしたちもこの言葉を非常に真剣に聞きたいと思います。なぜなら、これは大昔のイスラエルに語られているのではなく、だれでも人間に僅かな望みでも置く人は、ある程度神さまから離れ去っているのでありますから。人が人を尊敬することは良いことです。しかし、それは人の持っているお金、地位、健康、才能を尊敬することになってはいないでしょうか。そして自分にもそれがあると誤解し、「まだまだ、もっともっと」と自分の望むイメージを追い求めて行くのです。そして神さまを失い、自分を見失ってしまうのでしょうか。良いものは皆、神さまから恵みとして各人に与えられているものであって、また神さまの望まれるときに取り去られるものに過ぎません。そのことをいつも弁えるならば、本当に望みを置くべきは人に対してではないはずです。だからわたしたちは厳しく戒められているのです。「人に望みを置く者は神に背を向けているのであり、神を見捨てているのだ」と。

不信仰な人、神さまに望みを置かない人は、枯れ木に例えられているのではありません。根もあるし、外見は生き生きしているようにさえ見えるのです。彼らは幸せに見え、自分でもそう思っている一方、神の教えを皆はねつけています。まるで自分たちは神さまには縛られないし、自由であると言っているかのようです。そういう人々は神の預言者の言うことには耳を貸しません。その結果は根もあり葉もある木なのに実を結ばない。炎暑が来ると干上がってしまうことになるのです。

さて、これに対して、もう一方のグループは、神に心から信頼する信仰者です。エレミヤは預言します。17章7-8節。「祝福されよ、主に信頼する人は。主がその人のよりどころとなられる。彼は水のほとりに植えられた木。水路のほとりに植えられた木。水路のほとりに根を張り、暑さが襲うのを見ることなく、その葉は青々としている。干ばつの年にも憂いが無く、実を結ぶことをやめない。」

本当に神に信頼し、望みを置く人は、どのような人でしょうか。宗教改革者カルヴァンはこう言います。「自分自身の災いと窮乏と裸と恥の意識に打ちのめされ脅えている者こそ、自己認識において最も進歩している。」わたしたちは思うのではないでしょうか。そんなに自分はダメだと打ちのめされていたら、何もする元気も勇気も出ないのではないかと。しかしそうではないのです。カルヴァンは続けて言います。「しかしまた、同時に、人は自分の中にないものを神に置いて回復すると学ぶ限り、自分を低め過ぎて危険に陥ることにならずに済むからである。」自分の中には何も良いものがない。しかし神さまは必要なものをすべて自分の中に回復してくださる、と信じることこそ、神さまへの信頼なのです。一体どうして自分にがっかりして落ち込んでしまう必要があるでしょうか。このような自分をも愛し、救おうとしておられる恵みの主がおられるのですから。

このことからわたしたちが学ぶべきことは、神さまが与え給うことを忘れ、神さまが与え給う以上に持ちたいと願うことは、自分に破滅をもたらすということです。わたしたちは聖書に登場する最初の人間がどのようにして悪魔に唆されたかを知っています。人は、善悪を知って神のようになりたいという願いを起こさせられました。しかし、神さまからの恵みによらないで、恵みとは別に、恵みを拒否して、自分の判断で善悪を知ることはい信仰の死をもたらすことになったのです。それは、神さまとの喜ばしい信頼の関係が断絶したということでありました。

わたしたちは新約聖書マタイ4章8-10節を読みました。これはイエスさまが悪魔から受けられた誘惑の一つです。「更に、悪魔はイエスを非常に高い山に連れて行き、世のすべての国々とその繁栄ぶりを見せて、『もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう』と言った。イエスさまが悪魔に高い山に連れて行かれ、この世の繁栄をごらんになったのは、わたしたちのように何か花々しいもの、キラキラしたものに心を奪われたからではありません。イエスさまはわたしたちの弱さを知っておられましたから、わたしたちのためにこの誘惑に遭ってくださったのです。

この世界の壮大な美しさ、あらゆる魅力的なものを支配したいという欲望のために、その願いを適えてくれそうな神でないものにひれ伏したいという誘惑。しかしあらゆるものを支配しておられる方は天地万物をお造りになった唯一の真の神さまではありませんか。それを忘れてしまう。それを思わず忘れさせるようなこの悪魔の傲慢な言葉。「もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう。」何というあきれ返る傲慢ではありませんか。神さまのものを如何にも自分のものであるかのように言う詐欺師であり、泥棒であります。しかし、この言葉、この誘惑にわたしたちはいつも直面しているのではないでしょうか。そして時には悪魔と一緒になってこの傲慢な言葉を口にしかねない誘惑にさえさらされているのです。

イエスさまは言われました。「退け、サタン。『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と書いてある。」真に、このイエスさまのお言葉こそ、十戒の戒めの第一であります。聖書は神さまのみを礼拝することを、つまり神さまだけに仕えることを命じています。わたしたちは主の祈りの中で、「我らの日用の糧を今日も与え給え」と祈ります。これはわたしたちに与えられるすべては神さまからいただく、という堅い信仰を表します。神さまからもいただけるけれども、他からももらえるかもしれないとか、他からももらいたい、ということでは決してありません。良いものはすべて神さまから賜るものと信じるのでなければ、どうして様々な思いがけない試練の時に、救いは主から来ると信じることができるでしょうか。

最後に、ローマの信徒への手紙8章32節を読みます。「わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか。」わたしたちはただ一人のまことの神さまだけに依り頼み、この神さまだけを礼拝しましょう。主なる神さまはそのことをわたしたちに求めておられます。祈ります。

 

御在天の主なる父なる神さま

2018年も9月を迎えました。本日の聖餐礼拝を感謝します。厳しい夏の間もわたしたちのそれぞれが生活と健康とを支えられて、このように礼拝に集まり、あなたのご栄光を現わすことができます幸いを感謝します。

真に弱く乏しい者でありながら、あなたの恵みを受け、イエス・キリストの福音によって救いに入れられましたことを感謝します。わたしたち自身にも、家族にもそしてこの社会にも多くの困難があり、試練がありますが、今こそ、真に救いをもたらす神さまであるあなたを公に言い表し、あなたに依り頼み従う信仰を新たにしてください。

弱い者が強くされ、最も力ない者があなたの恵みを証ししている教会に、今わたしたちはおりますことを感謝します。どうか教会に集う一人一人が信仰を強くされ、人の力によらず、ただ上より賜る励ましと慰めと必要な力とを待ち望む者となりますように。

本日は聖餐に与ります。どうか、心を低くされ、主イエス・キリストがわたしたちの罪を皆負ってくださったこの尊い愛に感謝を表すことができますように。

また、先週は遠くにある方々、病床にある方も聖餐に与ることができましたことを感謝します。どうか礼拝に足を運ぶことができない方々と共に主イエス・キリストの生ける体としてわたしたちを終わりの日まで一つの信仰に連ならせてください。

今週は毎年恒例となりましたコンサート「子どもと楽しむ音楽会」を開催します。どうぞ、この行事をあなたの御名が広められ、讃えられる機会としてください。10月にはバザーも企画しております。どうぞ御心に従ってその準備をもお恵みください。また今日から始まった教会学校の後半の歩みをも、豊かに祝し、御言葉が広く宣べ伝えられますように祈ります。聖霊の主よ、今、病床にある方をどうか平安で包み、その痛みを取り去ってくださいますように、切に祈ります。

この感謝、願いを我らの主、イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

何を誇りとして生きているか

説教:大塚啓子牧師(目黒原町教会)

聖書:ローマの信徒への手紙5章1節-11節, エレミヤ書9章22節-23節

今日の御言葉は、私たちが何を誇りとして生きているかを問いかけています。ローマの信徒への手紙を書いたパウロはこう語ります。5:2-3「このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。そればかりでなく、苦難をも誇りとします。」ここでパウロは、「神の栄光にあずかる希望」と「苦難」を誇りとしていると語ります。神の栄光にあずかる希望、それは終わりの日に、キリストが復活されたように復活し、永遠の命を与えられるとの希望です。そして苦難とは、キリストに従って生きる自分に襲いかかるさまざまな苦難です。例えば、パウロが今牢獄に捕らわれているということ。また体に与えられたトゲ。精神的には、使命をまだ果たし終えていないのにどうすることもできないことへの焦りや苛立ち。しかしその苦難をも誇りとすると語ります。そして、今日の御言葉の最後でも、「それだけではなく、わたしたちの主イエス・キリストによって、わたしたちは神を誇りとしています」と告げます。徹底して神を誇りとする。神のために受ける苦難も、神の栄光にあずかる希望があるから、誇りとする。何よりも、神を大事にして生きると告げています。

この言葉の背後には、かつてのパウロの姿があります。パウロはもともと、律法を厳格に守るファリサイ派に属していました。ですから、律法を厳格に守って生きる、その生き方が正しい生き方であり、律法を守る自分を誇りとしていました。しかし、イエス・キリストと出会うことで、パウロは変わりました。律法を本当には守ることのできない自分の姿を知らされ、罪の深さを知らされ、しかしその罪を命をもって赦してくださったイエス・キリストを知らされました。パウロ自身は、選ばれたイスラエル人、ベニヤミン族の出身、非の打ち所がないほど完璧に律法の遵守をしていた人です。それらはパウロにとって社会的に有利に働く要素でしたが、それをパウロは損失と見なすようになった。主イエス・キリストを知るあまりのすばらしさに、それ以外のことはすべて塵あくたと見なし、今は何とかして死者からの復活に達したいとフィリピの信徒への手紙で語っています。またコリントの信徒への手紙一では、月足らずで生まれたようなわたしにも復活した主は現れてくださり、救いに招き入れてくださった。教会の迫害者であり、何の値打ちのないわたしをも神は恵み、救ってくださったと感謝をもって語っています。この原体験があるから、「わたしは神を誇りとする」とパウロは繰り返し述べます。

そして、キリストによって救われたパウロは、徹底して「神の栄光にあずかる希望」によって生きます。苦難の中に置かれたパウロ。肉体的な苦しみだけでなく、精神的な苦しみも大きいものでした。異邦人に福音を宣べ伝える使命を与えられているのに、獄に捕らわれている現実。今までエルサレム教会と異邦人教会の和解のために苦労してきたけれども、一向に改善しない現実。しかしその「苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生む」ということを知っているから、パウロは歩みを止めませんでした。キリストのための苦しみは無駄になることはなく、それは栄光に与る希望につながっている。キリストの苦しみにあずかることで、キリストの復活の姿にもあやかることができる。そのような確信を与えられていたので、パウロは諦めずに自分の使命を果たそうとします。

私たちも、パウロと同じように、復活の主によって救われました。「わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。」神は罪深い私たちを愛し、独り子イエス・キリストを十字架につけ、私たちの罪を贖われました。御自分の御子を犠牲にしてでも、私たちを救おうとされる神の愛が、十字架で、また今日の聖餐ではっきりと示されています。そしてこの深い愛は、絶えず聖霊によって、私たちの心に注がれています。礼拝を通して、御言葉と聖礼典を通して、神の愛がいつも心に注がれます。また日々の生活の中でも、聖霊と共に祈るとき、神との交わりが与えられ、神の愛が注がれます。イエス・キリストの救いは完全な救いです。もともと罪を犯し、神の敵であった時でさえ、神は御子の血によって私たちと和解されました。まして、和解された今は、キリストの血によって救われるのは尚更のことです。神は私たちに神の栄光にあずかる希望を与えられましたが、この希望は欺くことのない確かな希望です。どんなに拙い歩みであったとしても、神は私たちを神の栄光にあずからせくださいます。この希望が、私たちの生きる力となります。パウロが苦難の中でも自分の使命に生きたように、私たちも、教会も、苦難の中でも使命に生きることができます。キリストのための苦しみは、キリストの栄光につながります。教会がいろいろな課題や困難の中でも、伝道の業を果たしていく。毎週心からの礼拝をささげ、そして救われたことを喜び、感謝して生きる時、この地に神の栄光が表されます。また、神の愛の深さ、キリストによる救いのすばらしさ、キリストを誇りとして生きる私たちの姿が、キリストを指し示すものとなります。今、改めて自分が何を誇りとして生きているかを問いかけてみたいと思います。

預言者エレミヤもこう呼びかけます。9:22以下「主は言われる。知恵ある者は、その知恵を誇るな。力ある者は、その力を誇るな。富ある者は、その富を誇るな。むしろ、誇る者は、この事を誇るがよい、目覚めてわたしを知ることを。わたしこそ主。この地に慈しみと正義と恵みの業を行う事、その事をわたしは喜ぶ、と主は言われる。」人間は、自分の知恵や力を誇ります。たいしたことのない知恵や力であっても、気づかない内に頼りにしている。そういう自分の姿があります。しかし、一番大切なのは、目覚めて主を知ることです。主なる神は、この天地を造られ、また私たち人間を造られました。この世界は神の御手の内にあり、歴史も神の支配の中を動いています。圧倒的な神という方がおられることを知ることが、生きる上で私たちに正しい姿勢を与えます。神を知ることで、人間の無力さやはかなさを知ることができます。それは、どんな人も欠けのある弱い器であり、完全な人なんていないということです。人の間に優劣の差はなく、すべての人が神の前には不完全で、でも神に深く愛されています。教会も同じで、大きい教会、小さい教会があり、力の差があるように思えますが、神の前には同じ罪人の集まりです。しかしキリストによって罪を赦され、聖なる者とされた聖なる公同の教会です。神はこの地に立てられた一つ一つの教会を愛し、いつも聖霊を送り、神を、イエス・キリストを知ることができるようにしてくださっています。ですから、私たちは諦めることなく、キリストの救いを宣べ伝え続けることができます。「苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を」生みます。神のための苦しみは、決して無駄になることはなく、むしろ私たちにさらなる希望を与えてくださいます。神の栄光にあずかる希望は、確かなものです。神は私たちを用いて神の栄光をこの地域に現わされます。どんなに拙い歩みでも、キリストを信じて歩き続けるとき、それがキリストを証しする生き方となります。イエス・キリストを信じて生きる生き方は、本当に確かな生き方です。異常な気象が続き、世界が歪んでいる。情勢も不安定な現実の中でも、キリストにより頼み、キリストを誇りとして生きる生き方は、確かで安定した生き方となります。天地を、また私たちを造られ、支配されている主と共に生きる時、私たちはこの世界で一番確かなものと一緒に生きているからです。そして主は、いつも私たちに神の愛を示し、私たちを守り、天の神のもとへと導いてくださいます。この主が私たちと共におられますので、私たちは安心して生きることができます。私たちは何よりも、神を知ることを求めていきたいと思います。必要なものが満たされるようにと祈ることも必要ですが、「まず、神の国と義を求めなさい」と言われるように、神を知ることをまず求めたいと思います。そして神の恵みにより、キリストの救いにあずかったことを喜び、感謝しながら、これからもキリスト者として歩んでいきたいと思います。

共に苦しみ、共に喜ぶ

聖書:エレミヤ書313134節, コリントの信徒への手紙一121231

 大変な暑さの中で、先週は二階の集会室のエアコンに不具合が起こりました。急なことで無理なお願いをしましたが、原田姉の会社の方々がすぐに来てくださって、本当に助かりました。わたしたちは、今は高度な機械も指一本で操作できる時代と思っていますが、 実際には故障の原因は簡単に分かる者ではなく、作業してくださる方々は、どんどん上昇する暑さの中でエアコンの中を開けて、汗だくになってあれこれ、力と知恵の業を駆使して直す、その様子を目の当たりにして私は思いました。

わたしたちの生活は機械があれば、人の助けは要らない、ということにはならないのだと。一つの物事を解決するのに、実に多くの助けがあり、支えがあって初めてわたしたちが当たり前と思っている生活ができるのだと。人が汗だくになって働いて助けてくださることの有難さを思います。そして改めて思うことは、イエスさまがわたしたちの落ち度、失敗、過ちを、御自身の身に受けて、わたしたちの負った傷を覆ってくださるために働いてくださったことの有難さであります。

そしてわたしたちは教会の有難さを特に思っています。神さまが与えてくださったイエスさま、救い主の教会だと信じるからです。神さまがイエスさまの執り成しを受け入れてわたしたちの罪を赦してくださったことが、わたしたちにとって一番大切なことです。このことなしには生きられない、と信じるので、わたしたちは何とかして礼拝を守るのです。神さまに普段から「父なる神さま、あなたには何でもできないことはありません」と、賛美を捧げないでいながら、「神さま、わたしを助けてください」はあり得ないでしょう。神さまに常日頃、「神さま、あなたはこれまでわたしたちを恵み、導いてくださいました」と、感謝を捧げずに、「神さま、わたしの願いを聴いてください」はあり得ないからです。

ところが世の多くの人々はイエスさまの宣べ伝えられた神さまについて何も知らないので、まさか自分の救いのためにそんなに労苦してくださる神の子イエスさまがおられるとは知りません。だから残念なことに、教会の有難さ、礼拝の大切さをも理解できません。それで自分を頼りに生きるのですが、その自分自身は年を取って行くばかりなのですからどうしようもないのです。何を頼って生きるのか。自分の子供か。お金か、ということになりますが、そんなにあてにすることができるものではありません。まして最初からそれもあてにできない人は多いのですから、多くの人々の人生は惨めなことこの上ないのではないでしょうか。

わたしたちが教会に集まるのは神さまを礼拝するためであります。そして教会は主イエス・キリストの体であり、わたしたちはその肢、部分であると教えられています。この目に見える小さな教会に集まったわたしたちがキリストを信じて告白するなら、わたしたちは目に見えるこの教会のメンバーとして数えられるだけでなく、同時に、天にある目に見えない唯一つのキリストの教会のメンバー、部分として名を記されると信じます。全世界の様々な教会もこの唯一の真の教会を目指して一つとされるのであります。

今日の聖書コリントの信徒への手紙一、12章は、キリストに在って一つとされる教会は、一つの体に例えられています。体のすべての部分の数は多くても、体は一つであるように、キリストの体も一つなのです。教会にはいろいろな人々が招かれます。わたしたちが招いているように見えても、本当に招いてくださるのは主です。ですから、皆一つの体となるために洗礼を受けるのです。今は受けていない人々も主が招いて御自分の体としてくださるなら、きっとそうなるでしょう。洗礼は一つです。お国柄が違っても、人種が違っても、言葉が違っても、その他実に様々な違いがあっても、洗礼は一つです。これは全世界でこの2千年変わりないことで、世の終わりまで続くことです。

一つの洗礼を受けると、父と子から送られる聖霊が、わたしたちを清めて、教会の肢として主の体の部分として成長させ、御国の教会にふさわしいものとしてくださいます。ですからわたしたちに来てくださる聖霊も一つであることはいうまでもありません。この二千年の間、地上には多くの教会が建てられ受け継がれて今日に至ったのですが、世にある教会はいつも試練無くして建つことはありません。コリントの信徒への手紙に語られていることは、教会には実に様々な試練があり、サタンによる絶え間ない攻撃が教会を破壊しようとしていたか、そしてパウロを初め使徒たちがどんなにその攻撃と戦っていたかということなのです。

その一つが今日読んでいただいた12章にあります。それはコリント教会の中に、皆一つの霊をのませてもらったことに反対する勢力がいたということです。皆、一つの体となるために聖霊が各自に来て働いておられるという信仰に反対する理由は何でしょうか。それは聖霊があの人よりも優れた霊としてわたしに来てくださったという主張です。たとえば、わたしたちも、人のお祈りを何気なくほめたりすることがありますが、そういうことから、次第にお祈りの優劣を主張する考えが生れることに警戒しなければなりません。

ある教会では非常に長く熱心に祈る人々が多いのですが、即興で延々と祈る、自発的に立ち上がって祈るということには慣れていない者にとっては、非常にとまどうことです。しかし、初代教会にも我こそはすぐれた霊が降っていると信じ込んで、祈りや預言や、異言(誰かに説明してもらわない限り、普通には理解できない言葉)を語る能力に、優劣をつける考えが教会にはびこることになるのです。パウロは、それはキリストの体として大問題だと警告しているのではないでしょうか。

サッカー選手が活躍すれば、みんなサッカー選手になりたい。将棋の天才少年が現れれば、こぞって将棋教室に通うというのはほほえましいことですが、キリストの体ではありえないことです。みんなが目を羨んでみんなが目になってもらっては困るからです。もし、足が「わたしは手ではないから、みんなと他の人と一緒にやっていけないよ、と言ったらどうなるのでしょうか。それがもっとひどくなると、あの人は役に立たない盲腸みたいな人だから、と言って軽蔑することになるのでしょうか。それはキリストの体ではあり得ないことです。

しかし、現実にはわたしたちは皆、神さまから見れば、小学生のようなことを言ったりしたりしているのです。「お母さん、お隣の○○ちゃんがバレーを習っているから、わたしも習いたい」みたいな言動です。このようなわたしたちをキリストの体の部分としてくださるために、主はどんなに働かれたことでしょうか。もし、わたしたちが主の体の部分であるならば、わたしたちは部分としていつも首である主イエスさまのことを思うはずです。その結果、主がお建てになった体全体のことを思わずにはいられないのです。

わたしたちは体の大事な目立つところが病気になった時だけ、具合が悪くなるのではありません。小指の先でもちょっと傷ついたら、とても痛い、辛いのです。そして小指だからと、目は「ふーん、わたしとは関係ないよ」と言うとは思えません。胃が痛いと全身具合が悪い、と感じます。体全体が同情して熱を出して、痛い、痛いと苦しんで、早く治そうとするではありませんか。

また、外に出して目立った方が全体として美しく見えるところは、外に出して、目立たないように隠して、そっと守ってやらなければならないところは、体の内側に置き、更に着る物で覆っています。そのように全体として各部分が配慮し合っているのが体です。改めてパウロは訴えています。あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分なのだと。そして最後にパウロは、教会での働き人について具体的な明らかにします。28節。「神は、教会の中にいろいろな人をお立てになりました。第一に使徒、第二に預言者、第三に教師、次に奇跡をおこなう者、その次に病気をいやす賜物を持つ者、援助する者、管理する者、異言を語る者などです。」ところがどうでしょうか。教会の中ではみんなが使徒になりたいと言い出したのでしょうか。みんなが預言者になりたい、教師になりたい、奇跡を起こしたい、異言を語りたいと言い出したのでしょうか。

体の例えで考えるなら、これは笑わずにはいられないことではないでしょうか。一人が「わたしは目になりたい」と言えば、次々に「わたしも、俺も、わたしだって」みたいなことです。一人が「わたしは手になりたい」と言えば、「僕も、わたしも、俺も」みたいなことになってしまいます。小学校の授業中みたいなことを申しましたが、これは大人の話であり、教会の話であります。使徒たちは、実に生まれたばかりのコリントの教会を、この世の支配から守り、主の体の教会とするために真剣な戦いをしているのであります。

それでは、主はこのような愚かで浅ましい者たちを御自分の体に結ばれたことを後悔されたでしょうか。有り難いことにそうではなかったと思います。マルコ福音書9章33節でイエスさまは弟子たちに、何を議論していたのかとお尋ねになったのですが、弟子たちは黙っていました。なぜなら、だれがいちばん偉いかと議論し合っていたとは、恥ずかしくて言えなかったのです。コリントの教会の人々、そしてわたしたちの時代の教会でもほとんど変わりない自分中心な罪人の姿がここにあるのです。このようなわたしたちを救うために主イエスさまが来てくださったことを改めて思います。

神はその昔、旧約聖書の民にご自分を顕して神の民として生きるように律法をお与えになりました。神を唯一として礼拝し、人々を愛して共に生きるための律法です。ところがこの人々は自己中心の罪から神に背を向け、律法を守ることができませんでした。神を愛さない者は隣人を愛することもできません。愛とは、相手のことを思って共に苦しみ、相手の救いのために共に忍ぶことに他ならないからです。そして愛とは、相手の幸いを、救いを共に喜ぶことではないでしょうか。

預言者エレミヤは言いました。エレミヤ31章31節。「見よ、わたしがイスラエルの家、ユダの家と新しい契約を結ぶ日が来る、と主は言われる。「来るべき日に、わたしがイスラエルの家と結ぶ計画はこれである、と主は言われる。(33節。)すなわち、わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心に記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。」エレミヤの預言した新しい契約はイエス・キリストによってもたらされました。そのとき、人々はキリストによって神さまの御心を知りました。キリストによって神に立ち帰り、罪の赦しを約束されました。

こうして教会は「聖徒の交わり」を信じると告白して参りました。聖徒とはわたしたち信仰者です。どれ程貧しく小さくとも、神さまが恵みによって選び集めてくださった信仰者のことです。「聖徒の交わり」を信じるとは、わたしたちがイエスさまに結ばれて、神さまから与えられた賜物をお互いに分け合うということです。こうして、救いの喜びをより豊かに、また多くの人に届けたいと願うようになります。元々自己中心的な貧しい者であるわたしたちは、しかし、教会を通して、生けるイエスさまの言葉を聴き、イエスさまの体である教会の一部分となります。教会の頭であるイエスさまの生命を、ぶどうの木が地中から吸い上げる水のようにいただいて生きることができます。それはイエスさまの心を心とし、共に苦しみ、共に喜ぶ教会に成長させられることを目指します。祈ります。

 

主なる父なる神さま

尊き御名をほめたたえます。猛烈な暑さの中、わたしたちは礼拝を与えられ、こうして集められました。大変な異常気象の惹き起こす災害に見舞われてた西日本の被災地を思い、その復興を支えてくださいますようお願い申し上げます。どうか被災者の方々の上に立ちあがって行く希望をお与えください。多くの困難に立ち向かう救援の方々に道を開いてください。

また、わたしたちも同様の困難に備えるために日々の祈りを整えてください。全地を御支配くださる主の恵みを全世界に現わしてください。わたしたちは小さな群れの中にあって見えない主の体の教会を仰いでいます。どうかこの地の救いのために祈り、わたしたちの家族、友人、社会のためにたゆまず祈る教会でありますように。

本日は聖徒の交わりを信じることについて学びました。どうか、わたしたちの貧しさ、弱さにもかかわらず、わたしたちを招いて、罪を赦しキリストの命に結んでくださった方が、わたしたちの教会に将来を与えてください。新しい年度に牧師を迎え、78年続いた成宗教会に将来を開くことができますように。この少子高齢化の時代にも、若い人々に希望を与えてください。また高齢の世代も守られていますことを感謝します。どうか終わりの日に至るまで、キリストの体全体のために奉仕する肢として生かされますように。

今、教会に来ることができなくなっている方々を、あなたの恵みによって慰め、励ましてください。聖徒の交わりの中に立ち帰ることができますように。また、今、大きな悩み、試練の中にある方々を上よりの御力で支えてください。あなたの恵みと慈しみによって立ち上がり、主を証しする生活をいただくことができますように。

教会学校も来週で今年の前半を終えました。あなたの恵みのうちに守られたことを感謝します。8月の一日夏期学校の行事をあなたの御心に従って行い、御名が崇められますように。

この感謝、願い、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

聖なる公同の教会

聖書:エレミヤ書138-14節, エフェソの信徒への手紙416

 教会は今朝の礼拝でも、使徒信条を告白しました。成宗教会がそうしているだけでなく、全世界の教会において礼拝毎に告白されています。また現代の教会だけがそうしているのではなく、代々の教会が、使徒信条あるいはコンスタンチノーポリス信条を告白しています。全世界の教会は歴史を通してこの告白を以て一致して参りました。

さて、今日は使徒信条の中で「教会を信じる」ということについて学びたいと思います。わたしたちは教会というと、何といっても思い出すのは建て物です。また、そこに集まっている人々です。また教会学校が開かれるとお子さんが集まって来ます。するとその人々によって教会は目に見える教会となります。しかし、教会を信じるというのはそういうことでしょうか?目に見えているものを信じるとはどういうことでしょうか。わたしたちは目に見える教会に集まっています。ここに、イエスさまがわたしたちを集めておられると信じるからです。イエスさまは今も神さまの右に、つまり天の教会におられます。だからわたしたちは目に見える地上の教会に集まって、目に見えないイエスさまによって礼拝を守るのです。それはわたしたちの礼拝が目に見えない天の教会、神さまとイエスさまがおられるところを見上げて、そこに向かって礼拝を捧げることに他なりません。

地上の教会にいるわたしたちは、今日も「聖なる公同の教会を信じます」と告白しました。聖なるとは、きよいということですが、特に衛生的な意味で「清い」ということではありません。「聖なる」とは、「わたしたちが神さまに選ばれ、集められた」という意味です。わたしたちが礼拝に集まっているのは、神さまが一人一人、名前を呼んでくださったからなのです。そして「公同の」とは、いつでもどこでも誰でもが信じることのできる、普遍的な、という意味です。これに対して様々な考え、価値観が時代によって地域によって起こり廃れ、絶えず変化するので、わたしたちは生きる上で大変大きな影響を受けています。その世界に在って聖なる公同の教会を信じるとはどういうことなのでしょうか。

本日はエレミヤ13章を読んでいただきました。13章9節。「主はこう言われた。『このように、わたしはユダの傲慢とエルサレムの甚だしい傲慢を砕く。この悪い民はわたしの言葉に聞き従うことを拒み、かたくなな心のままにふるまっている。また、彼らは他の神々に従って歩み、それに仕え、それにひれ伏している。彼らは全く役に立たないこの帯のようになった。人が帯を腰にしっかり着けるように、わたしはイスラエルのすべての家とユダのすべての家をわたしの身にしっかりと着け、わたしの民とし、名声、栄誉、威光を示すものにしよう、と思った。しかし彼らは聞き従わなかった』と主は言われる。」

主なる神さまは御自分の民をどんなに集めようとしておられるか、それは歴史を通していつも変らない神さまの御心に他なりませんでした。主は、ご自分の民を帯に例えておられます。「人が帯を腰にしっかり着けるように、わたしはイスラエルのすべての家とユダのすべての家をわたしの身にしっかりと着ける」と。そして「わたしの民とする」と。帯の例えが語られます。帯と言えば、わたしたちは日本の女性の和服のことを思い出します。昔は着物よりも帯の方が高価でありました。帯は和装の全身を飾る美しさの象徴であったのです。また男の人ならボクシングの豪華なチャンピオンベルトを思い出すでしょう。帯というものは身に着ける物のうちでも本当に大切なものだったのです。

神さまは人々をどんなに愛して大切にしておられたことでしょう。神さまはイスラエルのすべての家とユダのすべての家をご自分の身にしっかりと着け、ご自分の民とし、ご自分の名声、栄誉、威光を、神の民によって示したいと思われたのです。ところが人々は神さまに従いませんでした。ところが、「この悪い民はわたしの言葉に聞き従うことを拒み、かたくなな心のままにふるまっている。また、彼らは他の神々に従って歩み、それに仕え、それにひれ伏している。彼らは全く役に立たないこの帯のようになった。」その結果は傷ましいもの、忌まわしいものとなりました。主はこう言われました。『見よ、わたしは、この国のすべての住民、ダビデの王座につくすべての王、祭司、預言者、およびイスラエルのすべての住民を酔いで満たす。わたしは、人をその兄弟に、父と子を互いに、打ちつけて砕く。わたしは惜しまず、ためらわず、憐れまず、彼らを全く滅ぼす」と。

神様への反逆の結果は全世界の不幸であります。しかし、神さまはこの世界をお見捨てにならず、その罪を贖うためにイエス・キリストを世に遣わしてくださいました。イエスさまは真の人として世にお生まれになり、世の罪を負われ、十字架にすべての人の身代わりとなって死んでくださいました。ご自分を信じる者に、最後の晩餐に新しい契約を立ててくださったのです。イエスさまはパンを取り、それを裂いて弟子たちに与えて言われました。「取りなさい。これはわたしの体である」と。また杯を取り弟子たちにお渡しになって言われました。「これは、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である」と。

そういうわけで、イエスさまを信じ、この方の死に結ばれて罪の赦しを受けることを信じたわたしたちは洗礼を受けました。わたしたちが「聖なる公同の教会を信じる」と告白するとき、わたしたちはイエス・キリストの体に結ばれているという、その体がどういうものであるかを知りたいと思います。それを教えられるなら学ぶことができるのです。学ぶことに向かった道が開かれるのです。今日はエフェソの信徒への手紙4章を読みます。1節以下。「そこで、主に結ばれて囚人となっているわたしはあなたがたに勧めます。神から招かれたのですから、その招きにふさわしく歩み、一切高ぶることなく、柔和で、寛容の心を持ちなさい。愛をもって互いに忍耐し、平和のきずなで結ばれて、霊による一致を保つように務めなさい。」

使徒パウロは聖なる公同の教会を信じ、目指して教会を建設していく道筋を勧めます。それは抽象的な、頭の中だけの理想では全くありません。実に具体的な日常に関わることなのです。2節に書かれている「一切高ぶることなく、柔和で、寛容の心を持つ」というところは特に肝心なことです。エレミヤ13章でも、主は「ユダの傲慢とエルサレムの甚だしい傲慢を砕く」と宣言されているように、教会を建てるために何よりも大きな妨げになるものは高慢、そして傲慢なのです。寛容の心を持つということも、単にニコニコと人を寛大に扱うということではなく、辛抱強く、長く耐え忍ぶということです。自分が何も痛くもかゆくもない、ただ言葉だけの広い心というのはあり得ません。そのためには、第一に傲慢な姿勢が改められなければなりません。

ところが、「自分が悔い改める必要があるとは全く思わない。悪いのはあの人だ。この人だ」と思う人々は少なくありません。私は皆さんにお話しして参りました。「イエスさまはわたしたちのためにどれ程耐え忍んで、教会を建ててくださったことでしょう。私たちはイエスさまのために忍耐して教会を建てましょう」と。しかし、17年教会に仕えて思うことは、人を赦せない、人に我慢できないということは、結局イエスさまの忍耐のことをいくら話しても無駄であるということでした。主はこう言われたからです。「もし人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたの過ちをお赦しになる。しかし、もし人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦しにならない」と。

振り返れば、そういう人々のために悲しむべきことはたくさんあります。しかし教会を建てるということは日々、心を低くして悔い改め、主に従うことです。具体的には互いに愛をもって忍耐し、平和に共に過ごすことです。愛そのものの性質が忍耐強いのですから、愛がわたしたちを支配し力を得るところでは、わたしたちは互いに多くのことを忍び合うのではないでしょうか。しかし、人々から遠く離れて一切付き合わず、礼拝から遠ざかっていて、「わたしは人々と愛をもって平和に過ごしている」とは言えないでしょう。

4節です。「体は一つ、霊は一つです。それは、あなたがたが、一つの希望にあずかるようにと招かれているのと同じです。」わたしたちはすべて同じキリストの命、同じ永遠の命に召されているのです。だから、いくらわたしたちが聖なる公同の教会を信じると告白しても、今わたしたちは地上の教会にいるのですから、ここで、互いに友情と和合とを保って生活しない限り、永遠の命を受けることはできないと思います。それとも天の国で、神さまの宴会に招かれた人々が、神さまに「わたしはあの人と一緒にいるのは我慢できません。あの人はひどい人だったのに、なぜここにいるのですか」などとクレームをつけるつもりなのでしょうか。人は皆、全くイエスさまの執り成しの恵みを信じてようやく入れていただくのに、そんな偉そうなことを言うのでしょうか。あり得ないことです。

5節。「主は一人、信仰は一つ、洗礼バプテスマは一つ」です。主とはキリストのことです。主は御父によってわたしたちの主となられたのです。わたしたちはこのことで一致しているのでなければ、この主の御支配の下に主の御力をいただいて生きることはできません。また信仰もいろいろあってよいということには決してなりません。すべての人に共通の信仰があるのです。またすべての人に共通の一つの洗礼があるのです。だからこそ、わたしたちは洗礼を授ける前に、代々の教会の信仰について学び、この共通の土台の上に立つ信仰を受け入れて、キリストの体に属する者となる信仰を問うのであります。また、他の教会からの転入会の場合も一人の主、一つの信仰、一つの洗礼を確認するのはこのためです。

わたしたちはその時代、その地域、個々人の都合によって信仰を変えることは決してありません。パウロがコリント(一)8章6節で述べている通りです。「わたしたちにとっては、唯一の神、父である神がおられ、万物はこの神から出、わたしたちはこの神へ帰っていくと信じているのですから。また、唯一の主、イエス・キリストがおられ、万物はこの主によって存在し、わたしたちもこの主によって存在しているのです。」309上末。

教会の信仰は、父・子・聖霊の神への信仰です。この神は三つの位格を持っておられますが同じ一つの神であられます。人間の知恵によっては計り知ることのできない神のご性質を、しかし教会は聖霊によって教えられ、信仰を受け継いで来たのであります。6節。「すべての者の父である神は唯一であって、すべてのものの上にあり、すべてのものを通して働き、すべてのものの内におられます。」

神さまは聖霊によって主の体の教会のすべての肢々に来てくださいます。イエス様は「わたしはまことのぶどうの木、あなたがたはその枝である」といわれたのですから、主の聖霊はわたしたちにも来てくださいます。わたしたちが元気な時も丈夫な時もですが、弱っている時にこそ、来てくださり、平安を与え、安らぎを与え、主の恵みで満たしてくださるのではないでしょうか。そしてわたしたちを清めてくださいます。「清めて」というのは聖なる公同の教会に連なる者にふさわしく造り変えてくださることにほかなりません。また、このことをわたしたちに対してバラバラに個人的にしてくださるのではありません。すべてを御自分の恵みの御支配の下に含めてくださるので、すべての者のうちにして下さる、ということなのです。

神さまは三位一体の神さまと呼ばれますが、心は一つであられ、ご自分の中に何の不調和もございません。ですから、当然わたしたちも心を一つにしなければならないのです。わたしたちは「聖なる公同の教会を信じる」と告白しました。わたしたちは、真の神さまを信頼しない世界に住んでいます。そして多くの人々は、真の神さまではなく自分の欲を満たしてくれそうなものを追い求めるので、様々な不幸、不安、争いは尽きることがありません。しかしわたしたちは、このような世界にキリストの救いを差し出し、教会を建ててくださる神さまに感謝し、主の体の一致を求めたいと願います。祈ります。

 

恵み深き天の父なる神さま

御名をほめたたえます。今日もこうして礼拝に招かれましたことを感謝します。今西日本の豪雨の被災地にある教会を励まし、その地域の救いのためにお力をお与えください。本日は聖なる公同の教会を信じるという告白の意味について学びました。わたしたちは多くの問題を抱え、困難の中にありますが、心を高く上げて主の体の教会を形成してくださる聖霊の助けを待ち望みます。どうかわたしたちの自分中心になりがちな心を打ち砕き、あなたの御前に謙る者とならせてください。自分の間違いを知らせ、あなたの愛と慈しみがどんなにわたしたちすべてに注がれているかを悟らせてください。主のご労苦とご忍耐を思い、主の愛に応える者として、兄弟姉妹助けあって行くことができますように。

今、わたしたちの多くは年を取り、力弱くなっております。しかし、あなたの御心でしたら、この地に、わたしたちの隣人に主イエス・キリストの福音を宣べ伝えるために教会を残してください。わたしたちは自分の力に頼ることなく、あなたの恵みの力に頼り、希望をもって将来に備えます。どうぞ、主に結ばれて終わりの日まで忠実な歩みを一人一人にお与えください。

成宗教会に遣わされる後任の人事のために、労苦してくださる連合長老会の働きのために祈ります。どうか全国のすべての教会にとって益となる人事が行われますように、そのために労を取ってくださる役職の方々を祝福し、お守りください。

成宗教会の信徒のために祈ります。どうか、今病床にある方々、これから手術を受けられる方をお支えくださり、最善の治療が受けられますように、支えているご家族、医療、介護に携わる方々を顧み、その働きを祝してください。礼拝への奉仕をあなたに捧げようと全力を挙げて努めている方々を祝してください。どうか豊かな平安、喜びをもって報いてくださいますように。礼拝を覚えながら、参加できない方々を慰め励ましてください。

また、8月教会学校の行事をはじめ、これから秋にかけて、音楽会、バザーなど、準備をしようとしております。どうかすべてのことがあなたのご栄光のために、主の体の教会にふさわしく勧められますように。

この感謝と願いとを主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。