信仰による救い

主日礼拝説教

齋藤 正 牧師

《賛美歌》

讃美歌8番
讃美歌142番
讃美歌365番

《聖書箇所》

旧約聖書:エレミヤ書 30章15節 (旧約聖書1,233ページ)

30:15 なぜ傷口を見て叫ぶのか。お前の痛みはいやされない。お前の悪が甚だしく/罪がおびただしいので/わたしがお前にこうしたのだ。

新約聖書:マルコによる福音書 5章25-34節 (新約聖書70ページ)

5:25 さて、ここに十二年間も出血の止まらない女がいた。
5:26 多くの医者にかかって、ひどく苦しめられ、全財産を使い果たしても何の役にも立たず、ますます悪くなるだけであった。
5:27 イエスのことを聞いて、群衆の中に紛れ込み、後ろからイエスの服に触れた。
5:28 「この方の服にでも触れればいやしていただける」と思ったからである。
5:29 すると、すぐ出血が全く止まって病気がいやされたことを体に感じた。
5:30 イエスは、自分の内から力が出て行ったことに気づいて、群衆の中で振り返り、「わたしの服に触れたのはだれか」と言われた。
5:31 そこで、弟子たちは言った。「群衆があなたに押し迫っているのがお分かりでしょう。それなのに、『だれがわたしに触れたのか』とおっしゃるのですか。」
5:32 しかし、イエスは、触れた者を見つけようと、辺りを見回しておられた。
5:33 女は自分の身に起こったことを知って恐ろしくなり、震えながら進み出てひれ伏し、すべてをありのまま話した。
5:34 イエスは言われた。「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。もうその病気にかからず、元気に暮らしなさい。」

《説教》『信仰による救い』

先々週4月18日には、会堂長ヤイロの娘が危篤になり、命を助けて欲しいと主イエスの前に、ヤイロがひれ伏したお話しをしました。

今日は、この少女の話しと前後して、もう一人の女性の癒しがここに語られています。十二年間出血の止まらない病気で苦しんでいた女性の癒しです。彼女も、主イエス・キリストの恵みによって病を癒され、新しく生き始めることができたのです。先々週申しましたように、この二つの出来事は密接に結び合っており、両方合わせて一つのことを語っているのです。その一つのこととは、主イエス・キリストによって「新しく生かされる恵み」です。

さてこの女性は25節に初めて登場するのですが、彼女に関する話は24節の後半から始まっています。24節で主イエスは、娘が死にそうだから、来て、癒して下さいというヤイロの願いを聞いて出かけました。そこに「大勢の群衆も、イエスに従い、押し迫って来た」とあります。その大勢の群衆の中に一人の女性がいました。彼女は、十二年間出血の止まらない病気に苦しんでいました。26節に「多くの医者にかかって、ひどく苦しめられ、全財産を使い果たしても何の役にも立たず、ますます悪くなるだけであった」とあります。ここには、彼女がこれまで体験してきた様々な苦しみが凝縮されています。病気で全財産を使い果たし、それでも病気はますます悪くなるばかりだったのです。主イエスが34節で彼女に「娘よ」と呼びかけておられることから彼女はまだそれほど年をとってはいなかったと思われます。十二年間というのは、彼女が大人の女性の体になり、生理が始まってから十二年間ということだと考えられます。その出血が止まらないのです。そのために彼女は結婚もできずに家庭を持つというささやかな幸せも得ることができず、しかも全財産を使い果たして貧しさの中にいるのです。さらに彼女のこの病気は、当時のユダヤ人社会においては、宗教的な「汚れ」として忌み嫌われるものでした。旧約聖書レビ記15章19節以下には、生理期間中の女性は汚れているとされています。その間は、彼女に触れた人も、また使った寝床や腰掛けもすべて汚れてしまうとされていました。ですから出血のある間、女性は殆ど人との交わりを持つことができませんでした。そういう状態が十二年間ずっと続いてきたのです。そしてそれは人との交わりが持てないというだけでなく、汚れた者として神様のみ前に出ることができない、礼拝を守ることができない、ということでした。ユダヤ人にとって、主なる神を礼拝する群れに連なることが、神の民の一員である印であり、喜びでした。彼女はその喜びをも奪われ、神の民の群れから疎外されてしまっていたのです。自分は神様から愛されていない、神様は自分のことなど顧みては下さらないのだ、という絶望が彼女を捕えていました。

更に加えて、ユダヤ人特有の深刻な問題もありました。律法によれば、病気は神の怒りの表れと受け止められ、十二年という異常な長さは、神の裁きの厳しさと受け取られ、「あの人は何か神に呪われるようなことをしたに違いない」と見做されたでしょう。同情どころではなく、病気を理由に周囲の人々から忌み嫌われていたでしょう。また、レビ記15章によれば、「長い間の出血」は「穢れ」と規定され、「神の御前に出ることは許されない」とされ、祭司によって「浄め」を受けなければなりませんでした。この女性は、肉体的、経済的、精神的苦痛を味わったのみならず、信仰的にも「見捨てられた者」として、この時までを過ごして来たのです。

この十二年間は、一日一日が、新たな絶望との出会いでした。「明日は今日より、少しは良くなるであろう」。これが普通の人間の期待です。どんなに苦しくとも、なお「良くなる明日」を信じて行くのが普通ですが、その「明日」が期待できないならば、どう生きて行けばよいのでしょう。

生きる希望を日一日と失って行く人々は数多くいます。周囲の人々の冷たい眼差しに脅え、唯一助けを求めることの出来る筈の神さえも答えてくれない寂しさを味わう人々。多くの苦しみの中で、神に救いを求める者の代表として、この女性を見ることが出来ます。彼女は、果てしない苦しみの連続で、完全な絶望に陥っていました。長く続いた苦しみの後に、何を期待出来るのでしょうか。絶望とは、「望みを絶つ」と書くのです。その「断たれた望み」のなかに主がやって来られ、新しい変化は、そこから起こるのです。

27節と28節には、「イエスのことを聞いて、群衆の中に紛れ込み、後ろからイエスの服に触れた。『この方の服にでも触れればいやしていただける』と思ったからである」とあります。

これは当時の女性としては、大変思い切った行動です。何故なら、先程もお話ししたように、律法によれば、神に呪われ穢れた者は、人々と接触する場所に加わることは許されなかったからです。穢れが移るからです。接触することによって穢れることを恐れ、人々は忌み嫌いました。

穢れた者は人前に出られないといった肩身の狭い思いをして長い間生きて来たのがこの女性でした。その女性が、今、群衆の中に出て来たのです。

ここに、この女性の大きな決断を見ることが出来ます。彼女は、全てをこの行動にかけたのです。人々に何と言われようと、どのような眼で見られようと、恥ずかしさと惨めさとあらゆる劣等感と戦い、主イエスが居られる場に出て来たのです。このことによって、彼女は数々の苦しみの中から、既に「ひとつの苦しみを乗り越えた」とも言えるでしょう。その「一つの苦しみ」とは「絶望」です。

「もう駄目だ」「どうにもならない」という諦めから、「どうにかなるかもしれない」という、最後の勇気を振り絞る姿に変わったのです。そしてこの変化が起きたのは、「イエスが町にやって来られた」という知らせを聞いたからです。絶望からの脱出は、自分の心の持ちようによってではなく、「イエスが来られた」という知らせを聞くことから始まるのです。

しかしながら、未だこの段階では、主イエスと正しく向き合っているとは言えません。何故なら、彼女は正面からキリストに近づくことをせず、病気の癒しという肉体的な苦しみからの解放しか望んでいないからです。

様々な問題に苦しむ者が、今、自分の出会っている問題の解決を望むことは当然のことと言えます。貧しさに苦しむ者は豊かさを求め、受験勉強で苦しむ者は合格することを願い、病気で苦しむ者は健康の回復を祈ります。それは確かに切実な求めです。しかし、ひとつの苦しみからの解放は、その次に控える苦しみに直面することに他なりません。。

この女性のあらゆる苦しみは病気が原因と考えられていました。ですから、「病気さえ治れば・・・」と考えることは自然なことでしょう。しかし、その病気を理由に、苦しみを更に増し加えて来た「社会」は変わりません。苦しみを理解することさえせず、苦しむ人を更に差別によって苦しめる人間社会。傷ついた心を慰め支え合うことをせず、むしろ冷たい裁きの眼によって苦しみを増し加える人間の世界。その世界がなくなることはないのです。

続く29節から32節には、「すると、すぐ出血が全く止まって病気がいやされたことを体に感じた。イエスは、自分の内から力が出て行ったことに気づいて、群衆の中で振り返り、「わたしの服に触れたのはだれか」と言われた。そこで、弟子たちは言った。「群衆があなたに押し迫っているのがお分かりでしょう。それなのに、『だれがわたしに触れたのか』とおっしゃるのですか。」しかし、イエスは、触れた者を見つけようと、辺りを見回しておられた。」とあります。

奇跡が起こりました。十二年間苦しんだ病気が主イエスの服の裾に触った瞬間に治りました。しかし私たちは、「この物語の中心はここにはない」ということに気付いているでしょう。

信仰がない人は、何故、病気が治ったのかと驚きます。少し信仰がある人は、34節の「あなたの信仰があなたを救った。」というところを読み、「一生懸命に祈るなら適えられるのか」と思い、「私はやっぱり信仰が足りないのか」と諦めたりするでしょう。この女性に何が起こったのかを聖書を通して考えることが必要です。確かに病気は治りました。誰にも知られないようにしてそっと後ろから近づいたにも拘らず、病気は治り、彼女の苦痛は解決されたかのように見えます。しかし、聖書が本当に語ろうとしていることは、これから後のことなのです。

主イエスは、服に触れた者を見つけようとして、振り返られました。「私の服に触れた者は誰か」と問われました。主イエスは何も分からなかったのでしょうか。何も分からず、キョロキョロと見回しておられたのでしょうか。

そんなことはありません。主イエスには全てを見通す能力があることは、聖書が常に語ることです。十字架につくためにオリーブ山を越える時、これから行く村に「ロバの子がいる」と弟子たちに告げられました。最後の晩餐の場所を準備する男が、「水瓶を背負って町にいる」と指示されたのも主イエスであり、イスカリオテのユダの裏切りも、主イエスは御存知でした。その主イエスが、ご自分の後ろにいる女性に気付かない筈はありません。

何故、主イエスは全てを御存知でありながら、このようなことを尋ね、このような振る舞いをなさったのでしょうか。

32節に「触れた者を見つけようと」と、ありますが、正確に訳すと「触れた者を見つけるために」という意味です。「分からないから見つけようとした」ということでではなく、「御心に背を向けて生きている者を招くために」ということです。あえて表現を変えるならば、「後ろから触れる」という「非人格的な触れ合う」者と、また「癒しの奇跡」だけを自分勝手に求める者との人格的な交わりを持つことを主イエスは求められたのです。主イエス・キリストは全てを御存知でした。分からなかったのは弟子たちだけです。

主イエスはこの女性の苦しみを知り、彼女を憐れみ、病気を癒されました。しかしながら、その女性にとって、このままでは、その癒しは、後ろからそっと触れた「ナザレのイエスの服による奇跡」でしかありません。「御子キリストの御心に触れた喜び」ではなく、「イエスの不思議な服に触れた結果の奇跡」でしかなかったでしょう。

30節にある「力が出て行った」と訳されている箇所は、詳細に訳すと「奇跡が(ご自身から)伝わったことを知って」となります。これは女性に向けられた「御子キリストの愛」として理解しなければなりません。

主イエスが人々に望んでおられる交わりとは、顔と顔とを合わせ、心と心とを響き合わせる人格的な交わりなのです。

主イエス・キリストの御心を思わず、「病気さえ治れば」という自分勝手な願いのみを抱いて来た女性を、主は、今ここで、改めて、御自分の前に召し出されたのです。主イエスの病気の癒しは、彼女が安心して御前に出て来ることが出来るようにするための、「ひとつの方法に過ぎなかった」と言うべきでしょう。本当の救いとは、キリストの招きに応えることなのです。

34節で、主イエスは、「娘よ、あなたの信仰があなたを救った」と言われました。

この女性の何処に「信仰」があったのでしょうか。この女性の何が「信仰」という名にふさわしいのでしょう。主イエスを求め、恥を忍んで出て来たことでしょうか。それもあるでしょう。主イエスに触れれば病気が治ると信じたことでしょうか。そうかもしれません。しかしそれらは、「信仰」と表現するにはあまりにも貧しいと言わざるを得ません。

水曜日の聖書研究祈祷会でご一緒に連続して読んできた創世記3章8節から11節に、「その日、風の吹く頃、主なる神が園の中を歩く音が聞こえてきた。アダムと女が、主なる神の顔を避けて、園の木の間に隠れると、主なる神はアダムを呼ばれた。『どこにいるのか。』彼は答えた。『あなたの足音が園の中に聞こえたので、恐ろしくなり、隠れております。わたしは裸ですから』。神は言われた。『お前が裸であることを誰が告げたのか。取って食べるなと命じた木から食べたのか。』」とあります。

今日の話と実によく似ています。「お前は何処にいるのか」「お前は何をしたのか」。主なる神は全てを御存知の上で呼びかけておられるのです。その御心は「赦し」でした。

主なる神は、告白を求めておられるのです。そして、罪の告白に対し、「赦し」をもつて応えるべく待っておられるのです。

それにも拘らず、あの時のアダムとエバは、神の呼びかけに応えようとはしませんでした。御言葉の意味することを考えようともせず、犯した過ちを告白せず、言い訳しかしなかったアダムとエバは、禁断の木の実を食べたから追放されたのではなく、主なる神の呼びかけに応えず、用意された赦しを拒み、その招きを拒否したために、楽園から追放されたのです。

この女性は、「震えながら進み出てひれ伏した」と記されています。そして、全てをありのままに話しました。自分の苦しさ、惨めさ、悲しさ、その全てを語りました。そこからの救いを求めて主イエスの服に触れたこと、それ以外の方法を知らなかったことを話しました。隠れることによってではなく、キリスト・イエスの御前に出て、御顔の前で真実を告白しました。「信仰とはこうなのだ」と、聖書はそこを語っているのです。

34節の「安心して行きなさい」は、正確に訳すと「平安の中を歩みなさい」ということです。もはや不安から解放され、真実の平安、キリストの愛の中を新しく生きる人生が、ここに始まるのです。

主イエス・キリストは私たちの苦しみをご存知です。私たちの苦しみを見過ごしになさる方ではありません。その苦しみを解消し、断たれた望みを回復するために、「あなたは何処にいるのか」と私たちを呼び出されるのです。

「震えながら進み出てひれ伏し、全てをありのままに話した」、この女性の姿こそ、キリストに呼び出された者の姿なのです。この震えは、恐怖から生じる震えではなく、大いなる喜びに直面した「聖なる畏れ」と言うべきでしょう。

主イエス・キリストに呼びかけられたその時、もう苦しみはなくなっているのです。「平安の中を歩みなさい」との主の御言葉が、今、私たちのこの身に実現しているのです。

お祈りを致します。

私について来なさい

《賛美歌》

讃美歌152番
讃美歌224番
讃美歌494番

《聖書箇所》

旧約聖書:エレミヤ書 16章16節 (旧約聖書1,207ページ)

16:16 主は言われる、見よ、わたしは多くの漁夫を呼んできて、彼らをすなどらせ、また、そののち多くの猟師を呼んできて、もろもろの山、もろもろの丘、および岩の裂け目から彼らをかり出させる。

新約聖書:マルコによる福音書 1章16~20節 (新約聖書61ページ)

1:16 イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、シモンとシモンの兄弟アンデレが湖で網を打っているのを御覧になった。彼らは漁師だった。
1:17 イエスは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。
1:18 二人はすぐに網を捨てて従った。
1:19 また、少し進んで、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、舟の中で網の手入れをしているのを御覧になると、
1:20 すぐに彼らをお呼びになった。この二人も父ゼベダイを雇い人たちと一緒に舟に残して、イエスの後について行った。

《説教》『私について来なさい』

先週は聖書記者のマルコが先を急ぐように「すぐに…」という言葉を大変多く用いて、私たちが「神の時」に生きることについて語られました。

私たちは時の流れの中で生きています。昨日から今日へ、今日から明日へと向う時の流れの中です。そして今日を生きるということによって、常に新しい時に出会っていると言えるでしょう。現在とは、未来という時を過去に変えるものであり、毎日一つずつ卵を産む鶏のように、私たちは毎日過去を生み出しているのです。

過去とは古い時であり、既に背後に追いやられた時です。一方、未来とは「新しい時」であり、未だ誰も知らないことが起こる時です。その「新しい時」を如何に生きるか。それが私たちの課題と言わなければなりません。

もちろん、この「新しい時」とは自覚なしに迎える自然の時の流れだけを問題にするのではありません。自然のサイクルから言えば、朝、眼が覚めた時、「新しい一日が始まった」ということは事実です。

しかし、自分の生きざまを深く省みて問うならば、朝の目覚めにおいて出会う一日が、果たして「新しい一日」「新しい時」と無条件に言い得るでしょうか。

判で押したような日常生活の中で、何を「新しい時」と言うのでしょう。

2000年前のガリラヤ湖の湖畔で起こった、この出来事は、その「新しい時」への招待でした。

16節に「イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、シモンとシモンの兄弟アンデレが湖で網を打っているのを御覧になった。」とあります。そして19節には「また、少し進んで、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、舟の中で網の手入れしているのを御覧になった。」とあります。

ここは、別のルカ福音書によれば、時は朝でした。シモンとアンデレは未だ朝の漁をしており、ヤコブとヨハネは一晩の漁で痛んだ網を繕っている、ガリラヤ湖の漁師たちにとって昨日と変わらない朝でした。

早朝まで魚をとり、陽が昇ったら漁を終え、岸に上がって明日のために網を繕う。そして昼間は休み、また日暮れと共に湖へ出て行く。これまで何年もの間続けて来た昨日と少しも変わらない同じ朝であり、一日の始まりでした。ガリラヤ湖の漁師として、父親もそのまた父親も、同じようにして過ごしたであろう生活がここに繰り返されているのです。

シモンにもアンデレにも、ヤコブにもヨハネにも、それぞれ夢や希望があったことでしょう。しかし、生活のためには大きな冒険は諦めざるを得ません。昨日と同じような今日を過ごし、明日もまた同じ仕事を続けて行かなければなりませんでした。そしてその日常生活の中で、ささやかな夢や希望をそれなりに実現して行く。これは私たち誰もが過ごしている人生です。

私は何時までこの仕事をしなければならないのか。何故、この仕事をしなければならないのか。私たちは、よくこのようなことを考えるのではないでしょうか。

そして、もしかすると、他にもっと生き甲斐のある良い仕事があるのではないか、とも思います。しかしながら、そう思いながらも、やはり、昨日と同じように、同じことを繰り返している自分を見出さざるを得ません。

朝、仕事に出かける時に、あるいは夫を送り出した後洗濯掃除に追われる急がしい時に、このような自分の姿を見出すことはないでしょうか。そこには「新しい朝」を迎える「新しい気持ち」は感じられないでしょう。

シモンもアンデレも、ヤコブもヨハネも、そのような朝を迎えました。誰もが迎える「昨日と同じ朝」それがこの場面です。しかしながら、その「少しも変わることのない昨日と同じであった筈の朝」が、突然、「全く新しい朝」になったのです。

そしてこの出来事において、「新しい時」というものが自分の思いとはまったく別に向こうからやって来ることを教えられるのです。

四人にとって、主イエスとの出会い、それが「古い生活」から「新しい生活」への転換を引き起こしました。16節にも19節にも「イエスが御覧になった」と記されています。「御覧になった」とはどういうことでしょうか。主イエスが漁師の仕事を物珍しく興味をもって見たということなのでしょうか。主イエスの眼差しは、彼らの仕事へではなく、その仕事をしている人間そのものに向けられているのです。「その人が何をしているか」ではなく、「その人がどのように生きているか」ということに向けられているのです。私たちが今、何をしているのか、何をしようとしているのかということに関りなく、常に、主イエスの眼差しは私たちの内面、心に向けて注がれているのです。

そしてキリストの眼差しを自覚した時、「新しい朝」が訪れるのです。シモンたちは誰一人として、その日、自分の生活を変えようとは思っていませんでした。与えられた環境の中で、ただひたすらに生きて行くことだけを考えていました。

しかし今や、彼ら自身全く考えていなかったことが始まろうとしているのです。

17節に「イエスは、『わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしてあげよう』と言われた。」とあります。「私について来なさい」。主イエスが新しい朝に語りかけるのは、この言葉です。「ついて行く」とは、ただわけも分からず「後ろからついて行く」ということではありません。原文を忠実に訳すならば、「来なさい、わたしの後ろに」、砕いた言い方では「おいで、私のあとに」となります。主イエスはここで、「来なさい」「おいで」と招いておられるのです。

それは、あのマタイ福音書11章28節の主イエスのお言葉、「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」と同じです。「わたしのもとに来なさい」と主イエスは招いておられるのです。その招きに応えて主イエスのもとに行き、主イエスの後ろについて歩んでいくのです。

よく「あの人の生き方にはついていけない」とか「あの人の考え方にはついていけない」という表現がなされます。また以前は、結婚式のときなど「夫を信じて何処までもついて行きます」などという覚悟が語られたものでした。このような表現は、ただ単に、表面的に追従することではなく、生きる営みを共にするということであることは言うまでもありません。

「私について来なさい」と主イエスが言われる時、それはイエスと共に生きる生涯への招きであり、キリストと共に人生の営みを全うすることへの呼びかけなのです。

主イエスは彼らに、「人間をとる漁師にしよう」と言われました。この言葉は直訳すると「人の漁師にしよう」であり、誤解されやすい面があります。「あなたがたは今、魚をとる漁師をしているが、魚よりも人間をとる方が尊い仕事だから、あなたがたを今よりもっと大事な働きをする人へと格上げしてあげる」という意味に理解してしまったら全くの間違いです。人間をとる漁師にするというのは、彼らが主イエスの後について行く者となることによって与えられる新しい歩み、それまでとは違う新しい人生が与えられるということです。「人間をとる」とは、主イエスが神様の独り子、救い主としてこれから成し遂げようとしている救いのみ業、それによって実現する神の国に人々を招き、人々が主イエスの救いにあずかって新しく生きることができるように導くこと、つまり伝道の働きを担う者となるということです。18節に「二人はすぐに網を捨てて従った。」、そして20節には「この二人は父ゼベダイを雇い人たちと一緒に舟に残して、イエスの後について行った。」と実に驚くべきことが書かれています。仕事を捨て、家を捨てた人間がここに描かれているのです。

この物語を読む時、「誰が、本当に、このようなことを行えるのか」と、思ってしまうでしょう。しかも聖書には、「すぐにそうした」と記されています。

「すぐに」という言葉は先週も申し上げた通りマルコ福音書を特徴付ける言葉です。ただ、時間的速さだけで理解するのは間違いです。もちろん、主の呼びかけに対して応答を先に延ばす決断の弱さは責められなければなりません。

ここまで、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」という主イエスのお言葉の意味を見てきました。主イエスは四人の漁師を静かに見つめ、このように語りかけて彼らをお招きになったのです。シモンとアンデレは「すぐに網を捨てて従った」と18節にあります。またヤコブとヨハネは「この二人も父ゼベダイを雇い人たちと一緒に舟に残して、イエスの後について行った」と20節にあります。

ここには二つのポイントがあります。

一つは、彼ら四人が皆、主イエスの招きを受けてすぐに従って行ったことです。もう一つは、「網を捨て、父と雇い人を舟に残して」とあるように、自分の大事なものを捨てて、また家族を離れて従ったということです。

私たちはこれを読むと不思議に思います。どうしてそんなにすぐに従って行くことができたのだろうか、また大事なものを捨てたり家族と別れたりできたのだろうか、と思うのです。マルコ福音書特有の「すぐに」ということは、あれこれ条件を確認したりせずに、ということなのです。主イエスについて行くとどうなるのか、こんな場合にはどうか、あんな時にはどうすればよいのか、などと一切質問をしていないということなのです。また、ついて行くことによってどういう酬いがあるのか、主イエスは自分に何を約束してくれるのか、という確認もしていないのです。また、ついて行くことができるように自分の状況を整えたいので、それまでもう少し待って、ということも言っていません。それらの条件を一切顧みることなく、つまりそれらのことを全て捨てて従ったのです。ですから先程二つのポイントと言いましたが実際は一つと言えます。それは「献身」という一言で言い表すことができます。

主イエスの弟子となるとは、主イエスに、そして神様に自分自身をお献げし、委ねることなのです。彼ら四人は献身したのです。そこに、彼らの人生の転換、それまでとは全く違う新しい歩みが始まったのです。

さらにこの主イエスの呼びかけは、個別性あることに注意しなければなりません。この主イエスの招きは、「そこにいる皆」とか「あなたがたの誰でも」というようなものではなく、はっきりと名指しされているのです。

20節で「彼らをお呼びになった」とは「名を呼ぶ」ということです。大勢の人々に向って語られた言葉に感動して「その中から誰かが従った」ということではなく、「この私に向けて呼びかけられた」ので、キリストの招きに従ったのです。

主イエスは私たちを、常に、一人の人格として扱って下さるのです。決して十羽ひとからげに扱うようなことはなさいません。

シモン、アンデレ、ヤコブ、ヨハネの決断を見るときに、名指しで召される主イエスの招きを、各自が個別の問題として考えなければなりません。ですから「よくも仕事を捨てられたものだ」「親を捨てることなど誰が出来るか」などと考える人たちは、既に聖書を読み違えていると言わなければなりません。仕事を捨て親を捨てたというのは、伝道者として召されたシモンたちの「この時」の応答の仕方なのです。

彼らは主イエスの召しにそのように応えたのですが、私たちの召しはシモンたちとは違います。私たちにはそれぞれ違う召しがあり、それぞれ独自な応答があるのです。それが個別性というものです。

「仕事を捨て、親を捨てた」という外面的なことに拘るのではなく、そのようなシモンたちの個別の問題の底に流れる普遍的なもの、私たちとの共通な特徴に眼を向けることが大切です。

昨日行ったことを今日もまた同じように繰り返して行くことを断ち切ることです。仕事を辞めたり、肉親の絆を切ることが必要なのではなく、それらの生活を続ける中で、無自覚に惰性的で生きることを止め、主の呼びかけに応え、キリストと共に生きる生活の中に飛び込んで行くことが大切なのです。

自分の喜びのため、自分の欲望のために生きることから、神様の喜びのために仕える人間に変わり、神様の喜びは自分のどのような生き方の中に求められているかを正しく聞き取るのです。

私たちもまた、今日の生活の中でキリストの招きを聞かなかったならば、決して新しい「神の時」である「新しい一日」を迎えることができないことを知るべきです。

主イエス・キリストはガリラヤの漁師を使徒としてお立てになりました。そして彼らは、主イエスの御言葉の前に服従したのです。その直前まで予想もしなかったこと、考えることさえなかった新しい生き方の中に飛び込んで行きました。

ここに神の召しの特徴があると言えるでしょう。自分の能力、性格、興味の対象など、人間的価値や判断はそこでは一切意味を持ちません。

「召しの相応しさ」とは、自分の姿を省みて足を止めることではなく、キリストへの信頼によって、自分の内にある日常性を乗り越えることなのです。

シモンもアンデレも、ヤコブもヨハネも、各人が持つ数々の欠点にも拘らず、使徒としての名を聖書に残しました。召された者は、その召しに応える生涯をもって、神様の選びの正しさを証すると言えるでしょう。私たちにとっての「新しい一日」とは、その神様の御業の証人としての目覚めでなければならないのです。この素晴らしい救いの恵みを未だ知らない人々に伝えていく者となっていくのです。そのみ業の前進のために必要な全ての条件は、神様ご自身が整え、与えて下さるのです。

お祈りを致しましょう。

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天地は滅びても

待降節第1主日礼拝説教

聖書:エレミヤ3314-16節, ルカによる福音書212536

 2018年の待降節が全世界の教会に今日から始まっております。いつの年にも変らないクリスマス。それは主イエス・キリストが世に来てくださったことをお迎えする記念の行事です。それでは、迎えるわたしたち、そしてわたしたちの周りの世界はどうでしょうか。いつの年にも変わらないのでしょうか。子育て世代の方にとっては毎年大きな変化を感じるでしょう。そして高齢化する多くの人々にとっても毎年の変化は大きいと感じるのではないでしょうか。更に、社会全体を考えれば、多くの人々が少子高齢化社会の急激な変化を感じ、更に、気候の変動も具体的には温暖化する世界を肌身に感じていることです。今日の聖書に語られているとおり(ルカ21:25)、「諸国の民は、なすすべを知らず、不安に陥って」いるのであります。

先日のテレビで、イギリスで発見されたローマ帝国時代の剣奴の墓についての報道を見ました。剣奴というのは、競技場に集まった観衆の娯楽に奉仕する奴隷です。生きるか死ぬかの一騎打ちを人間同士あるいは野獣と戦い、その残酷非道な死の有様を娯楽として楽しんだのが、ローマ帝国の市民たちでありました。人を奴隷にし、人が苦しみ、八つ裂きにされていくのを娯楽としている社会がそこにありました。イギリスのヨークで見つかった墓と同じ種類のものがトルコにあるそうです。そこはエフェソの教会のあった場所です。

わたしたちは思います。イエスさまが福音を伝えてくださったこの世界は、人々が楽しんでいた世界であったことを。悲しみに満ちていたのではありません。人々は楽しんでいた。飲めや歌えや、で、毎日を面白おかしく生きることに浸り切っていたのです。その楽しみのためにだれが苦しもうと、だれが倒れようと、ひたすら楽しんでいる。そして、神さまがそういう有様をご覧になっておられるとは夢にも思わないのです。

だからこそ、イエスさまは遣わされて来たのではないでしょうか。小さな者として。寄る辺ない者として。この世の人が羨むようなこの世の魅力、この世の権威を何も持たない人のようにして。ただ神さまの御心を告げる者として、御言葉と御業をわたしたちにくださるために来てくださったのです。しかし、ひたすら楽しんでいる人々の罪は、ここにこそ明らかにされるのです。自分たちの楽しい生活を邪魔する者には容赦しない。ここに人間の罪は現れました。この世の力、この世の権威を持っている人々がイエスさまを受け入れなかった。そして、それはイエスさまをお遣わしになった天の父を否定することであったと、なぜ気づかなかったのでしょうか。

この世界、この社会に起こる急激な変化、それに伴う不安。それは幸せに浸り切って何も考えない人間に対する神さまからの警告に他なりません。自分だけ満足している。自分の満足の犠牲になっている人々のことを考えない。人だけではない、自分の満足のために、人々も、動物も、自然も踏みにじっているかもしれないのです。また、自分の幸せのために、後から来る人々のことを考えない。あと何十年たったら大変なことが起こる、いや何年先のことかもしれないと言われようが、平気。今自分たちが困らなければ構わない。だからこそ、イエスさまは言われたのではないでしょうか。「人々は、この世界に何が起こるのかと怯え、恐ろしさのあまり気を失うだろう。天体が揺り動かされるからである。」

私は成宗教会の仕事として、教会員の問安、お見舞いを続けて参りました。10年から30年年上の教会員の方々で、牧師の訪問を心待ちにしてくださる方のところへ、私は参ります。実はわたくしにとって問安は本当に遠慮なことでありました。なぜなら、私のうちに人間的な思い煩いが働いていたからです。それは私に訪問されたくないのではないか、という思いです。具体的には、他の先生ならいいけれど、私だから嫌なのではないか…等と考え始めたらきりがありません。しかし、そういうことはあるかもしれませんが、相手の問題である以上に、私の姿勢が問われておりました。イエスさまは弟子たちをお遣わしになって、ご自分の御言葉を語らせましたので、伝道者はそれ以外の御用で遣わされることはありません。だから牧師自身そういう目的で問安をし、迎えてくれる信徒のところにだけ行くことができました。

私の恩師、山本元子先生は中渋谷教会を辞して引退教師となった年に病気にお倒れになり、私はお見舞いに伺いました。それは2002年、私が54歳にしてようやく成宗教会の伝道師となった年でした。先生は、私を病院のベッドに迎えたとき、こうおっしゃいました。「伝道者が来た。伝道者が来た。さあ、聖書を読んでお祈りしてください」と。元子先生は伝道者の務めだけを真っすぐにわたしに指し示してくださいました。

今、わたしたちが不安な時代にいると知っているなら、わたしは幸いです。この天地が覆されるような不安を予告されるキリストは、同時にこのように言われるからです。28節。「このようなことが起こり始めたら、身を起こして頭を挙げなさい。あなたがたの解放の時が近いからだ。」「あなたがたの解放のとき」と主は言われます。では、わたしたちは解放される必要がある者だというのでしょうか。その通りなのです。弱い者が、貧しい者が軽んじられる。表向きはそうでなくても、周到に、上手に、避けられ、よけられ、嫌われ、見捨てられかねない人間関係が、社会の中に、職場に、学校に、そして家庭にさえも密かに入り込んではいないでしょうか。

そういうわたしたちは不安の中で、教会の主イエスさまの御言葉を求めています。わたしたちは真に幸いな者ではないでしょうか。わたしは最近もこのような訴えを病床の方から伺いました。「家族がわたしの話に応えてくれない気がする。スーッと知らん顔をして行ってしまうような…。」一番分かってほしい人々に分かってもらえないもどかしさ、辛さに、私も思わず呻くような思いがしました。しかし他方、家族の方も苦しんでいるのではないかと思います。健康な時はすらすらと出る言葉がまとまらない、自分でも何をどう表現してよいか分からない。うまく声が出ないということだってあるのです。そして家族にはそのような病人の傍らに座ってゆっくりとお話を聞くだけのゆとりがない、これも辛い現実ではないでしょうか。

そう思いながら、いいえ、そう思うからこそ、わたしは気がつきました。わたしたちはイエスさまに出会うようにして教会の信者に会い、イエスさまに訴えるようにして自分の気持ちを話しているのだと。そしてイエスさまが聞いてくださるように相手の話を聞いているのではないかと。これは真に畏れ多いことですが、やはりそう言わざるを得ないのです。なぜなら、イエスさまは具体的に罪人を赦し、罪人を弟子にし、そして罪人を御自分の御言葉と共に伝道のために、遣わしておられるのですから。

ですから、不安の中で、このイエスさまの御言葉を聞く者は幸いです。「あなたがたは、これらのことが起こるのを見たら、神の国が近づいていると悟りなさい」と。すべてのことが起こるまでは、この不安な時代は決して滅びないと主は言われます。なぜなら、神を恐れない邪悪な人々が蔓延っている限り、神さまはこの世界に厳しい警告を送っておられるのですから。しかしわたしたちの希望は神さまの言葉、イエスさまに表された神さまの御言葉なのです。

わたしたちはイエス・キリストの御言葉にこそ、滅びることのない土台を持っています。今日の旧約聖書はエレミヤ書33章を読んでいただきました。14節。「見よ、わたしが、イスラエルの家とユダの家に恵みの約束を果たす日が来る、と主は言われる。」目を挙げて見なさいと言われているのです。わたしたちの現実、それは滅びるものに望みを置く人々にとってはどのようなものでしょうか。今幸せな人はそこしか見ていないかもしれない。今苦しんでいる人もそこしか見ていないかもしれません。しかし目を挙げて見なさいと言われるとき、信仰者は見上げるのです。悲惨な現実、厳しい現実を超えて救いの約束を果たされる神さまを。

15節、16節。「その日、その時、わたしはダビデのために正義の若枝を生え出でさせる。彼は公平と正義をもってこの国を治める。その日には、ユダは救われ、エルサレムは安らかに人の住まう都となる。その名は、『主は我らの救い』と呼ばれるであろう。」ここに、預言者エレミヤは、ダビデの末から生まれる救い主の到来を預言しています。ここで、『主は我らの救い』と言われているのは、主はわたしたちの義さである、という意味なのです。義しい人とは、ただキリストに与えられた言葉であり、キリスト以外には義人は一人もいないのです。その義人であるキリストは教会の頭となってくださいました。すなわち、教会はキリストを頭とするキリストの体であります。

ところで、キリストがわたしたちの頭であるということであり、信者はキリストと結ばれて一体となっているのですから、わたしたちはキリストのご性質をもわたしたちのものとしていただいていることになります。つまり、キリストはわたしたちに御自分の正しさを分け与えてくださっている、ということです。このことは何よりも重要です。だからこそ、主はわたしたちの義さそのものであり、わたしたちの救いであると信じる信仰の基がここにあります。

Ⅰコリ1:30-31にこう書かれています。(300下)「神によってあなたがたはキリスト・イエスに結ばれ、このキリストは、わたしたちにとって神の知恵となり、義と聖と贖いとなられたのです。『誇る者は主を誇れ』と書いてある通りになるためです。」このように勧められているので、わたしたちはキリスト・イエスさまを信じ、洗礼を受け、キリストに結ばれて、ただキリストの義さを恵みによっていただいています。誇るべきものは、わたしたちの弱さ、罪を担って十字架にお掛かりになるまでにわたしたちを愛し、わたしたちの低さにまで謙ってくださったイエスさまのみであることを、改めて思い、感謝しましょう。

長い人生を歩み、信仰を守ってきた兄弟姉妹は、この恵みがよく分かるのですから、ますますこの方にしっかりと依りすがって生きて証しをしていただきたいと思います。しかしながら、これから長い道のりを歩む若い方々にこそ、イエス・キリストの恵みによる救いは知らされなければなりません。「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。」わたしたちの教会はそれだからこそ、終わりの日まで耐え忍んで地上に教会を建てて行く働きに参加しようとしているのです。

「自分さえ楽しめば良い」というのは真に主の喜ばれることではありません。イエスさまは御自分だけ楽しまれたでしょうか。イエスさまは神の内にある喜びを分け与えるために、十字架の恥をさえ忍んで、わたしたちを招いてくださっているのではないでしょうか。また、「自分の人生さえきちんとしていればよい」というのも、決して高い目標とは言えません。それは、言ってみれば、「あとは野となれ山となれ、わたしの行く道花となれ」というのと、あまり変わりはないのではないでしょうか。

しかしわたしたちは、後から来る人々に恵みを残すために労苦する者になりましょう。だからこそ、私の後任の教師を招いて主の恵みによって教会が建てられるために、長老会と共に皆で心を一つにしていくことが必要です。教会は、何よりも御言葉を求める礼拝によって建てられます。苦難の時代の中でも教会に連なり祈り続けるわたしたちは必ず主の体の部分として守られます。終わりの日までイエスさまから離れることがないように、いつも目を覚まして祈る者となりますように。祈ります。

 

教会の主、イエス・キリストの父なる神さま

あなたの尊き御名を褒め称えます。今年も待降節第一の主の日を迎えました。クリスマスに向けて一歩一歩を整えて参ります。すべてがあなたの恵みによって与えられることを思う時、真にわたしたちの信仰の弱さから不安になり、思い煩うことが真に多いことを恥じ入る者でございます。

改めて御言葉によって罪の赦しをいただいたことを感謝します。信仰を新たにされ、いつも主の御心に従う者とされて、今週の日々を歩むことができますように。わたしたちを家庭に職場にまた、あなたの御旨にかなったところにお遣わしください。 この社会の問題に目をつぶるのではなく、いつも正しい道を見い出すことができますように家族、隣人、社会のために祈る教会の群れとしてください。

わたしたちは来年度成宗教会に遣わされる教師を招聘するために16日に臨時教会総会を開くべく、公告を致しました。どうか候補者として立てられた先生方があなたの御心によって祝福を受け、御心であるならば、東日本連合長老会の指導の下、成宗教会に招聘される道が開かれますように、お願い申し上げます。

長老会の働きを祝し、必要な労苦をあなた御自身がお支えください。また来年度に向けて体制が整えられますように導いてください。

オルガニストとして奉仕されている小高さんのご病気が快方に向かっていることを感謝いたします。どうかあなたの恵みによって癒され、ご家族も祝されますように。またその他にもご病気の方、困難な状況に苦しんでおられる方々を思います。どうか、あなたが傍にいらして聖霊の励ましをお与え下さい。また、わたしたちが祈りに覚え、為すべきことを示されますように。

連合長老会の教会の長老、信徒の上に恵みが豊かにありますように。今週行われる東日本婦人会クリスマスの良き交わりを祝して下さい。また、待降節の間、成宗のクリスマスの準備の全ての上に、あなたのお導きがありますように。どうかあなたの恵みに溢れた小さな群れを祝福し、守り導いてください。

これらの感謝、願いを主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン

唯一の真の神

聖書:エレミヤ1758節, マタイ4810

 神さまの国に招かれた人々の生涯は、神さまがどんなにわたしたちを愛して、慈しんで、救って下さろうとしておられるかを、知るようになる日々の歩みです。その神さまは聖書において御自身を証しされました。教会では聖書の言葉を聴き、神さまの言葉として聞いて、神さまを礼拝します。

さてわたしたちはカテキズム、信仰問答によって、今、 十戒 について学び始めました。先週は問の39、「十戒とは何ですか」という問いに対して、その答をわたしたちは学びました。十戒とは、神さまに救われたわたしたちが、御心に従って生きるために与えられた律法です。神さまに招かれた人々は、神さまがどんなにわたしたちを愛して、慈しんで、救って下さろうとしておられるかを、感じ始めました。この方の愛にどのようにして応えることができるでしょうか。その人々に与えられたのが律法です。

では、十の戒めとは、どんな内容なのでしょうか。わたしたちは出エジプト記20章にその内容が書いてあることを学んだところです。連合長老会の教会では、十戒を礼拝毎に読み上げている教会が多いので、わたしたちも、十戒がここにある御言葉であることをしっかり覚えたいと思います。カテキズムの次の問は、では、「十戒はわたしたちに何を教えてくれますか」という問いです。十の戒めを与えられた神さまの目的は、それによってわたしたちに何をお命じになっておられるかということです。

それは二つのことです。その第一に神を愛すること。そして第二に隣人を愛することです。イエスさまも、そのことを教えておられます。これほど、分かりやすい言葉はないと思います。素晴らしいと思います。しかし、これほど難しいこともありません。教える方も教えられる方も悩みに悩んでしまうほどのことなのです。私は十戒の学びの最後に改めてこの問いについて取り上げることと致します。そこで今日は早速、実際の戒めについて入って行きたいと思います。

問41は「第一戒は何ですか」と尋ねます。そしてその答は、「あなたには、わたしのほかに、何ものをも神としてはならない」です。池上彰氏の国ごとの宗教分類によれば、日本は仏教国となっていますが、それは江戸時代からの国家政策によるので、元々は八百万の神々がいると信じられていましたから、今でも、生まれた子は神社に御礼に行き、結婚式はキリスト教式もいますが、死ぬときは仏教式で、という人々が多いようです。私は昔、横浜で結婚する時に借家を探さなければならなかったのですが、候補の家を見に行ったら、赤い旗に黒字で何やら書いたものが何本も庭の傍らに立っていました。「これは一体何の宗教だろう」と少し心配しました。しかし後になってそれは商売繁盛のご利益があるという狐を祀っているので、毎年旗を立てる時期に当たっていたことが分かりました。こういう狐の祠のような物は日本では珍しくないのだと分かりましたが、ありがたいことに、あまり信じている様子でもなく、従って祟りを恐れている様子でもないようでした。

旧約聖書の中で神さまから十戒をいただいたイスラエルの人々はどうだったのでしょう。彼らの周りの世界も、今の日本の社会とあまり違いはなかったと思われます。エジプトの奴隷となって苦しんで、助けを求めた時、その叫びを聞いてくださり、彼らを解放してくださった神さまに彼らは従いたいと思いました。しかし、彼らが苦労して旅を続け、ついに住み着いた土地には、いろいろな神々を拝む人々がいました。隣の家の芝生は青いという諺の通り、イスラエルの人々には、他の民族がいろいろ拝んでいる神々の方が魅力的に見えました。そして彼らは自分たちが豊かになったときに、却って自分たちを愛し、慈しみ、その苦難の時の叫びを聞いて手を差し伸べてくださった神さまを忘れるようになったのです。

それは彼らの考えが、「神さまはお一人ではなく、大勢いて天地を造ったのだ」という考えに変ったということでは決してないでしょう。頭の中では、神さまはお一人と思っているのかもしれません。今日読んでいただいたエレミヤ書は紀元前7世紀のバビロニアの大王ネブカトネツァルによってユダ王国が滅ぼされ、バビロンに人々が奴隷として連れて行かれる直前の時代を記しています。人々はこの時代にも律法に従って神殿に行き、礼拝を守っていたと思われます。しかし、神さまが救いに招いた人々は、表向きは神さまに従っているようでも、実際には二つのグループに分かれています。それは目に見えて別れているというより、神さまの目にははっきりと区別される違いがあるということなのです。

その一つは不信仰な人々であり、神さまを信じている、礼拝している、と言いながら、心は遠く神さまから離れている人々でありました。そこで預言者エレミヤはその人々は呪われている、と叫んでいるのです。5-6節。「主はこう言われる。呪われよ、人間に信頼し、肉なる者を頼みとし、その心が主を離れ去っている人は。神は荒れ地の裸の木。恵みの雨を見ることなく、人の住めない不毛の地、炎暑の荒れ野を住まいとする。」

わたしたちもこの言葉を非常に真剣に聞きたいと思います。なぜなら、これは大昔のイスラエルに語られているのではなく、だれでも人間に僅かな望みでも置く人は、ある程度神さまから離れ去っているのでありますから。人が人を尊敬することは良いことです。しかし、それは人の持っているお金、地位、健康、才能を尊敬することになってはいないでしょうか。そして自分にもそれがあると誤解し、「まだまだ、もっともっと」と自分の望むイメージを追い求めて行くのです。そして神さまを失い、自分を見失ってしまうのでしょうか。良いものは皆、神さまから恵みとして各人に与えられているものであって、また神さまの望まれるときに取り去られるものに過ぎません。そのことをいつも弁えるならば、本当に望みを置くべきは人に対してではないはずです。だからわたしたちは厳しく戒められているのです。「人に望みを置く者は神に背を向けているのであり、神を見捨てているのだ」と。

不信仰な人、神さまに望みを置かない人は、枯れ木に例えられているのではありません。根もあるし、外見は生き生きしているようにさえ見えるのです。彼らは幸せに見え、自分でもそう思っている一方、神の教えを皆はねつけています。まるで自分たちは神さまには縛られないし、自由であると言っているかのようです。そういう人々は神の預言者の言うことには耳を貸しません。その結果は根もあり葉もある木なのに実を結ばない。炎暑が来ると干上がってしまうことになるのです。

さて、これに対して、もう一方のグループは、神に心から信頼する信仰者です。エレミヤは預言します。17章7-8節。「祝福されよ、主に信頼する人は。主がその人のよりどころとなられる。彼は水のほとりに植えられた木。水路のほとりに植えられた木。水路のほとりに根を張り、暑さが襲うのを見ることなく、その葉は青々としている。干ばつの年にも憂いが無く、実を結ぶことをやめない。」

本当に神に信頼し、望みを置く人は、どのような人でしょうか。宗教改革者カルヴァンはこう言います。「自分自身の災いと窮乏と裸と恥の意識に打ちのめされ脅えている者こそ、自己認識において最も進歩している。」わたしたちは思うのではないでしょうか。そんなに自分はダメだと打ちのめされていたら、何もする元気も勇気も出ないのではないかと。しかしそうではないのです。カルヴァンは続けて言います。「しかしまた、同時に、人は自分の中にないものを神に置いて回復すると学ぶ限り、自分を低め過ぎて危険に陥ることにならずに済むからである。」自分の中には何も良いものがない。しかし神さまは必要なものをすべて自分の中に回復してくださる、と信じることこそ、神さまへの信頼なのです。一体どうして自分にがっかりして落ち込んでしまう必要があるでしょうか。このような自分をも愛し、救おうとしておられる恵みの主がおられるのですから。

このことからわたしたちが学ぶべきことは、神さまが与え給うことを忘れ、神さまが与え給う以上に持ちたいと願うことは、自分に破滅をもたらすということです。わたしたちは聖書に登場する最初の人間がどのようにして悪魔に唆されたかを知っています。人は、善悪を知って神のようになりたいという願いを起こさせられました。しかし、神さまからの恵みによらないで、恵みとは別に、恵みを拒否して、自分の判断で善悪を知ることはい信仰の死をもたらすことになったのです。それは、神さまとの喜ばしい信頼の関係が断絶したということでありました。

わたしたちは新約聖書マタイ4章8-10節を読みました。これはイエスさまが悪魔から受けられた誘惑の一つです。「更に、悪魔はイエスを非常に高い山に連れて行き、世のすべての国々とその繁栄ぶりを見せて、『もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう』と言った。イエスさまが悪魔に高い山に連れて行かれ、この世の繁栄をごらんになったのは、わたしたちのように何か花々しいもの、キラキラしたものに心を奪われたからではありません。イエスさまはわたしたちの弱さを知っておられましたから、わたしたちのためにこの誘惑に遭ってくださったのです。

この世界の壮大な美しさ、あらゆる魅力的なものを支配したいという欲望のために、その願いを適えてくれそうな神でないものにひれ伏したいという誘惑。しかしあらゆるものを支配しておられる方は天地万物をお造りになった唯一の真の神さまではありませんか。それを忘れてしまう。それを思わず忘れさせるようなこの悪魔の傲慢な言葉。「もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう。」何というあきれ返る傲慢ではありませんか。神さまのものを如何にも自分のものであるかのように言う詐欺師であり、泥棒であります。しかし、この言葉、この誘惑にわたしたちはいつも直面しているのではないでしょうか。そして時には悪魔と一緒になってこの傲慢な言葉を口にしかねない誘惑にさえさらされているのです。

イエスさまは言われました。「退け、サタン。『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と書いてある。」真に、このイエスさまのお言葉こそ、十戒の戒めの第一であります。聖書は神さまのみを礼拝することを、つまり神さまだけに仕えることを命じています。わたしたちは主の祈りの中で、「我らの日用の糧を今日も与え給え」と祈ります。これはわたしたちに与えられるすべては神さまからいただく、という堅い信仰を表します。神さまからもいただけるけれども、他からももらえるかもしれないとか、他からももらいたい、ということでは決してありません。良いものはすべて神さまから賜るものと信じるのでなければ、どうして様々な思いがけない試練の時に、救いは主から来ると信じることができるでしょうか。

最後に、ローマの信徒への手紙8章32節を読みます。「わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか。」わたしたちはただ一人のまことの神さまだけに依り頼み、この神さまだけを礼拝しましょう。主なる神さまはそのことをわたしたちに求めておられます。祈ります。

 

御在天の主なる父なる神さま

2018年も9月を迎えました。本日の聖餐礼拝を感謝します。厳しい夏の間もわたしたちのそれぞれが生活と健康とを支えられて、このように礼拝に集まり、あなたのご栄光を現わすことができます幸いを感謝します。

真に弱く乏しい者でありながら、あなたの恵みを受け、イエス・キリストの福音によって救いに入れられましたことを感謝します。わたしたち自身にも、家族にもそしてこの社会にも多くの困難があり、試練がありますが、今こそ、真に救いをもたらす神さまであるあなたを公に言い表し、あなたに依り頼み従う信仰を新たにしてください。

弱い者が強くされ、最も力ない者があなたの恵みを証ししている教会に、今わたしたちはおりますことを感謝します。どうか教会に集う一人一人が信仰を強くされ、人の力によらず、ただ上より賜る励ましと慰めと必要な力とを待ち望む者となりますように。

本日は聖餐に与ります。どうか、心を低くされ、主イエス・キリストがわたしたちの罪を皆負ってくださったこの尊い愛に感謝を表すことができますように。

また、先週は遠くにある方々、病床にある方も聖餐に与ることができましたことを感謝します。どうか礼拝に足を運ぶことができない方々と共に主イエス・キリストの生ける体としてわたしたちを終わりの日まで一つの信仰に連ならせてください。

今週は毎年恒例となりましたコンサート「子どもと楽しむ音楽会」を開催します。どうぞ、この行事をあなたの御名が広められ、讃えられる機会としてください。10月にはバザーも企画しております。どうぞ御心に従ってその準備をもお恵みください。また今日から始まった教会学校の後半の歩みをも、豊かに祝し、御言葉が広く宣べ伝えられますように祈ります。聖霊の主よ、今、病床にある方をどうか平安で包み、その痛みを取り去ってくださいますように、切に祈ります。

この感謝、願いを我らの主、イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

何を誇りとして生きているか

説教:大塚啓子牧師(目黒原町教会)

聖書:ローマの信徒への手紙5章1節-11節, エレミヤ書9章22節-23節

今日の御言葉は、私たちが何を誇りとして生きているかを問いかけています。ローマの信徒への手紙を書いたパウロはこう語ります。5:2-3「このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。そればかりでなく、苦難をも誇りとします。」ここでパウロは、「神の栄光にあずかる希望」と「苦難」を誇りとしていると語ります。神の栄光にあずかる希望、それは終わりの日に、キリストが復活されたように復活し、永遠の命を与えられるとの希望です。そして苦難とは、キリストに従って生きる自分に襲いかかるさまざまな苦難です。例えば、パウロが今牢獄に捕らわれているということ。また体に与えられたトゲ。精神的には、使命をまだ果たし終えていないのにどうすることもできないことへの焦りや苛立ち。しかしその苦難をも誇りとすると語ります。そして、今日の御言葉の最後でも、「それだけではなく、わたしたちの主イエス・キリストによって、わたしたちは神を誇りとしています」と告げます。徹底して神を誇りとする。神のために受ける苦難も、神の栄光にあずかる希望があるから、誇りとする。何よりも、神を大事にして生きると告げています。

この言葉の背後には、かつてのパウロの姿があります。パウロはもともと、律法を厳格に守るファリサイ派に属していました。ですから、律法を厳格に守って生きる、その生き方が正しい生き方であり、律法を守る自分を誇りとしていました。しかし、イエス・キリストと出会うことで、パウロは変わりました。律法を本当には守ることのできない自分の姿を知らされ、罪の深さを知らされ、しかしその罪を命をもって赦してくださったイエス・キリストを知らされました。パウロ自身は、選ばれたイスラエル人、ベニヤミン族の出身、非の打ち所がないほど完璧に律法の遵守をしていた人です。それらはパウロにとって社会的に有利に働く要素でしたが、それをパウロは損失と見なすようになった。主イエス・キリストを知るあまりのすばらしさに、それ以外のことはすべて塵あくたと見なし、今は何とかして死者からの復活に達したいとフィリピの信徒への手紙で語っています。またコリントの信徒への手紙一では、月足らずで生まれたようなわたしにも復活した主は現れてくださり、救いに招き入れてくださった。教会の迫害者であり、何の値打ちのないわたしをも神は恵み、救ってくださったと感謝をもって語っています。この原体験があるから、「わたしは神を誇りとする」とパウロは繰り返し述べます。

そして、キリストによって救われたパウロは、徹底して「神の栄光にあずかる希望」によって生きます。苦難の中に置かれたパウロ。肉体的な苦しみだけでなく、精神的な苦しみも大きいものでした。異邦人に福音を宣べ伝える使命を与えられているのに、獄に捕らわれている現実。今までエルサレム教会と異邦人教会の和解のために苦労してきたけれども、一向に改善しない現実。しかしその「苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生む」ということを知っているから、パウロは歩みを止めませんでした。キリストのための苦しみは無駄になることはなく、それは栄光に与る希望につながっている。キリストの苦しみにあずかることで、キリストの復活の姿にもあやかることができる。そのような確信を与えられていたので、パウロは諦めずに自分の使命を果たそうとします。

私たちも、パウロと同じように、復活の主によって救われました。「わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。」神は罪深い私たちを愛し、独り子イエス・キリストを十字架につけ、私たちの罪を贖われました。御自分の御子を犠牲にしてでも、私たちを救おうとされる神の愛が、十字架で、また今日の聖餐ではっきりと示されています。そしてこの深い愛は、絶えず聖霊によって、私たちの心に注がれています。礼拝を通して、御言葉と聖礼典を通して、神の愛がいつも心に注がれます。また日々の生活の中でも、聖霊と共に祈るとき、神との交わりが与えられ、神の愛が注がれます。イエス・キリストの救いは完全な救いです。もともと罪を犯し、神の敵であった時でさえ、神は御子の血によって私たちと和解されました。まして、和解された今は、キリストの血によって救われるのは尚更のことです。神は私たちに神の栄光にあずかる希望を与えられましたが、この希望は欺くことのない確かな希望です。どんなに拙い歩みであったとしても、神は私たちを神の栄光にあずからせくださいます。この希望が、私たちの生きる力となります。パウロが苦難の中でも自分の使命に生きたように、私たちも、教会も、苦難の中でも使命に生きることができます。キリストのための苦しみは、キリストの栄光につながります。教会がいろいろな課題や困難の中でも、伝道の業を果たしていく。毎週心からの礼拝をささげ、そして救われたことを喜び、感謝して生きる時、この地に神の栄光が表されます。また、神の愛の深さ、キリストによる救いのすばらしさ、キリストを誇りとして生きる私たちの姿が、キリストを指し示すものとなります。今、改めて自分が何を誇りとして生きているかを問いかけてみたいと思います。

預言者エレミヤもこう呼びかけます。9:22以下「主は言われる。知恵ある者は、その知恵を誇るな。力ある者は、その力を誇るな。富ある者は、その富を誇るな。むしろ、誇る者は、この事を誇るがよい、目覚めてわたしを知ることを。わたしこそ主。この地に慈しみと正義と恵みの業を行う事、その事をわたしは喜ぶ、と主は言われる。」人間は、自分の知恵や力を誇ります。たいしたことのない知恵や力であっても、気づかない内に頼りにしている。そういう自分の姿があります。しかし、一番大切なのは、目覚めて主を知ることです。主なる神は、この天地を造られ、また私たち人間を造られました。この世界は神の御手の内にあり、歴史も神の支配の中を動いています。圧倒的な神という方がおられることを知ることが、生きる上で私たちに正しい姿勢を与えます。神を知ることで、人間の無力さやはかなさを知ることができます。それは、どんな人も欠けのある弱い器であり、完全な人なんていないということです。人の間に優劣の差はなく、すべての人が神の前には不完全で、でも神に深く愛されています。教会も同じで、大きい教会、小さい教会があり、力の差があるように思えますが、神の前には同じ罪人の集まりです。しかしキリストによって罪を赦され、聖なる者とされた聖なる公同の教会です。神はこの地に立てられた一つ一つの教会を愛し、いつも聖霊を送り、神を、イエス・キリストを知ることができるようにしてくださっています。ですから、私たちは諦めることなく、キリストの救いを宣べ伝え続けることができます。「苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を」生みます。神のための苦しみは、決して無駄になることはなく、むしろ私たちにさらなる希望を与えてくださいます。神の栄光にあずかる希望は、確かなものです。神は私たちを用いて神の栄光をこの地域に現わされます。どんなに拙い歩みでも、キリストを信じて歩き続けるとき、それがキリストを証しする生き方となります。イエス・キリストを信じて生きる生き方は、本当に確かな生き方です。異常な気象が続き、世界が歪んでいる。情勢も不安定な現実の中でも、キリストにより頼み、キリストを誇りとして生きる生き方は、確かで安定した生き方となります。天地を、また私たちを造られ、支配されている主と共に生きる時、私たちはこの世界で一番確かなものと一緒に生きているからです。そして主は、いつも私たちに神の愛を示し、私たちを守り、天の神のもとへと導いてくださいます。この主が私たちと共におられますので、私たちは安心して生きることができます。私たちは何よりも、神を知ることを求めていきたいと思います。必要なものが満たされるようにと祈ることも必要ですが、「まず、神の国と義を求めなさい」と言われるように、神を知ることをまず求めたいと思います。そして神の恵みにより、キリストの救いにあずかったことを喜び、感謝しながら、これからもキリスト者として歩んでいきたいと思います。