主日礼拝説教
齋藤 正 牧師
《賛美歌》
讃美歌77番
讃美歌352番
讃美歌546番
《聖書箇所》
旧約聖書:エレミヤ書 7章1-15節 (旧約聖書1,188ページ)
◆神殿での預言
7:1 主からエレミヤに臨んだ言葉。
7:2 主の神殿の門に立ち、この言葉をもって呼びかけよ。そして、言え。「主を礼拝するために、神殿の門を入って行くユダの人々よ、皆、主の言葉を聞け。
7:3 イスラエルの神、万軍の主はこう言われる。お前たちの道と行いを正せ。そうすれば、わたしはお前たちをこの所に住まわせる。
7:4 主の神殿、主の神殿、主の神殿という、むなしい言葉に依り頼んではならない。
7:5 -6この所で、お前たちの道と行いを正し、お互いの間に正義を行い、寄留の外国人、孤児、寡婦を虐げず、無実の人の血を流さず、異教の神々に従うことなく、自ら災いを招いてはならない。
7:7 そうすれば、わたしはお前たちを先祖に与えたこの地、この所に、とこしえからとこしえまで住まわせる。
7:8 しかし見よ、お前たちはこのむなしい言葉に依り頼んでいるが、それは救う力を持たない。
7:9 盗み、殺し、姦淫し、偽って誓い、バアルに香をたき、知ることのなかった異教の神々に従いながら、
7:10 わたしの名によって呼ばれるこの神殿に来てわたしの前に立ち、『救われた』と言うのか。お前たちはあらゆる忌むべきことをしているではないか。
7:11 わたしの名によって呼ばれるこの神殿は、お前たちの目に強盗の巣窟と見えるのか。そのとおり。わたしにもそう見える、と主は言われる。
7:12 シロのわたしの聖所に行ってみよ。かつてわたしはそこにわたしの名を置いたが、わが民イスラエルの悪のゆえに、わたしがそれをどのようにしたかを見るがよい。
7:13 今や、お前たちがこれらのことをしたから――と主は言われる――そしてわたしが先に繰り返し語ったのに、その言葉に従わず、呼びかけたのに答えなかったから、
7:14 わたしの名によって呼ばれ、お前たちが依り頼んでいるこの神殿に、そしてお前たちと先祖に与えたこの所に対して、わたしはシロにしたようにする。
7:15 わたしは、お前たちの兄弟である、エフライムの子孫をすべて投げ捨てたように、お前たちをわたしの前から投げ捨てる。」
新約聖書:マルコによる福音書 13章1-13節 (新約聖書88ページ)
◆神殿の崩壊を予告する
13:1 イエスが神殿の境内を出て行かれるとき、弟子の一人が言った。「先生、御覧ください。なんとすばらしい石、なんとすばらしい建物でしょう。」
13:2 イエスは言われた。「これらの大きな建物を見ているのか。一つの石もここで崩されずに他の石の上に残ることはない。」◆終末の徴
13:3 イエスがオリーブ山で神殿の方を向いて座っておられると、ペトロ、ヤコブ、ヨハネ、アンデレが、ひそかに尋ねた。
13:4 「おっしゃってください。そのことはいつ起こるのですか。また、そのことがすべて実現するときには、どんな徴があるのですか。」
13:5 イエスは話し始められた。「人に惑わされないように気をつけなさい。
13:6 わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『わたしがそれだ』と言って、多くの人を惑わすだろう。
13:7 戦争の騒ぎや戦争のうわさを聞いても、慌ててはいけない。そういうことは起こるに決まっているが、まだ世の終わりではない。
13:8 民は民に、国は国に敵対して立ち上がり、方々に地震があり、飢饉が起こる。これらは産みの苦しみの始まりである。
13:9 あなたがたは自分のことに気をつけていなさい。あなたがたは地方法院に引き渡され、会堂で打ちたたかれる。また、わたしのために総督や王の前に立たされて、証しをすることになる。
13:10 しかし、まず、福音があらゆる民に宣べ伝えられねばならない。
13:11 引き渡され、連れて行かれるとき、何を言おうかと取り越し苦労をしてはならない。そのときには、教えられることを話せばよい。実は、話すのはあなたがたではなく、聖霊なのだ。
13:12 兄弟は兄弟を、父は子を死に追いやり、子は親に反抗して殺すだろう。
13:13 また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。」
《説教》『終わりの日のために』
主イエスがエルサレム神殿でファリサイ派やサドカイ派との論争を終え、神殿を出て行くとき、弟子の一人が主イエスに向かって感嘆の叫びを上げました。「先生、御覧ください。なんとすばらしい石、なんとすばらしい建物でしょう。」
エルサレム神殿は、紀元前10世紀にソロモン王が初めて築き、これを第一神殿と呼びますが、神殿は、戦争のため幾度も破壊され、建て替えられました。本日読まれた当時のものは、ヘロデ大王が紀元前20年に建て始めたもので、建築開始から50年経っても未だ未完成な巨大な神殿であり、先週の説教の際に想像図をお配りしましたが、南北500メートル、東西300メートル。高台に造られ外壁に囲まれた内部は14万平方メートル、エルサレム市街の6分の1を占める広大な神殿でした。外壁の上は柱が連なるソロモン回廊と呼ばれる回廊になっており、その柱は高さ4メートルの大理石であり、全部で数百本の円柱が神殿を取り巻いていました。また、聖所の木の部分には金箔が張ってあり、「日の出の時には、実に眩しくきらめき太陽光線そのものを見詰める時のように、見物人は眼を背けた」と当時の歴史家ヨセフスは記しています。
エルサレム神殿を見た弟子たちの驚きは想像出来ます。彼らは、都から遠く離れたガリラヤ湖の漁師や農夫たちでした。弟子たちの驚きの言葉は、この時代の人々の見る眼を代表していると言えます。弟子たち民衆は、如何にこの世の権力・富に心を奪われやすいかということを物語っています。彼らの心の中に、依然として「眼に見えるものの大きさ」への怖れと憧れが存在し続けたということが、この叫びになったのです。巨大で、堅固なエルサレム神殿は、永久にそこに立っているかのように弟子たちには見えました。主イエスは言われました。「これらの大きな建物を見ているのか。一つの石もここで崩されずに他の石の上に残ることはない。」
弟子たちの感嘆の声が「人間の見る眼」であるのに対し、これが「主イエスの見る眼」であり、まったく違うのです。弟子たちが見ていることが本質ではないことを主イエスは指摘しているのです。「あなたは今、何を見ているのか」。この主イエスの問い掛けから新しい認識が始まるのです。
すると、ペトロたちが、ひそかに尋ねたとあります。「おっしゃってください。そのことはいつ起こるのですか。また、そのことがすべて実現するときには、どんな徴があるのですか。」
弟子たちにとって、主イエスの御言葉が意外なものであったのです。「ひそかに尋ねた」ということが弟子たちの不安を表しています。彼らは、目の前に聳える壮大な神殿の崩壊を現実のこととして考えることが出来ませんでした。ですから、自分たちの思いを遥かに超える主イエスの御言葉を聞いて、動揺せざるを得なかったのです。
通俗的な表現に、「形あるものは必ず滅びる」という言葉があります。弟子たちは「この世が滅びる」どころか、「神殿が崩壊する」ということさえ、この時、信じられなかったのです。しかも、ここで大切なことは、主イエスは「形あるものは必ず滅びる」と言われたのではありません、「罪あるものは、必ず滅びる」と言われているのです。この違いこそ、決定的に重要なことです。
主イエスの予告された神殿崩壊とは、まさに「神による裁きの時」を告げているのです。
そして弟子たちは終末の前兆はあるのでしょうかと尋ねています。弟子たちの求めに応えて主イエスがお語りになった終末の前兆は大きく二点にまとめられます。
第一の前兆は「社会の混乱」であり、「偽キリストの出現」です。偽キリストとは、自分を世界の救世主のように語る者のことです。現実の生活の苦しさを訴える者は、当然、その苦しみからの脱出を望んでいます。「私こそ民衆を幸福へ導く者である」と自ら宣言する偽キリストは、多くの人々を巻き込む混乱を引き起こし、人為的災害を導きます。何故なら、人間が人間である限り、対立と争いは絶えないからです。ある者が語る幸いは、対立する者にとっては悲惨への導きであり、栄光への幻が壊滅の悲劇に終わることは珍しくありません。かつて、ドイツの民衆が何故ヒトラーを支持したのか、そして何故、悲惨の中に落ち込んで行ったのかを考えれば明らかでしょう。現代のプーチンがウクライナを侵略しているにも拘わらずロシヤ国内で高い支持率を得ていることも例外ではありません。社会的混乱は、人間が持つ本質的不安を暴露します。そして、その不安に耐え切れない人間は、さらに新しい神を求めるのであり、新興宗教が常に動乱の時代を背景にして生じるのは、この人間性によると言えるでしよう。
第二の前兆として9節から13節に「迫害」があげられていますが、この場合、紀元一世紀という「限定された時代の姿を写している」ということが出来るでしょう。現在のわが国において、生命を奪われるような迫害はありません。信仰の自由は憲法によって保証され、自由で平和な生活をしています。しかし、迫害とは剣や槍によることだけではなく、ここでは、この世の秩序と神の秩序との対立のことです。キリスト者として生きて行く限り、私たちは幾つもの困難に出会わざるを得ないでしょう。例えば、キリスト者としての良心を隠し切れないために、周囲の人々のようにうまく立ち回ることが出来ないこともあるでしょう。私たちの周囲には、「キリスト者である」ということによって幾つもの問題が生じる余地があります。そして、このような小さな問題が何時か心の重荷となり、それが煩わしくなり、やがて礼拝生活から遠ざかって行く原因にもなるのです。その時、キリスト者に与えられる力は、「苦しみにおいて神の代理者となる」という信仰による力です。それらは「終りの日」の到来ではなく、陣痛にたとえられる前兆にすぎない(8)と、主イエスは言われたのです。
主イエスは11節で、「引き渡され、連れて行かれるとき、何を言おうかと取り越し苦労をしてはならない。そのときには、教えられることを話せばよい。実は、話すのはあなたがたではなく、聖霊なのだ」と言われました。戦うのは神御自身なのです。ごく身近な問題を含め、あらゆる憎しみは、神が引き受けて下さるのです。「わたし一人で戦っている」と思うのは誤りです。
主イエスは、終末の前兆として、「社会の混乱」と「迫害」という二つを示されました。これらは、何故、終末の前兆なのでしょうか。これなら、「現在も同じである」と言えます。「幸福に導く」と自称する新興宗教は世にあふれています。自然災害の前に、現代の科学が如何に無力であるかが教えられています。大地震への恐れや地球温暖化への危機は、繰り返し語られています。人間は、自然災害の前にまったく無力なまま右往左往しています。そして世界は核戦争の不安に怯えています。主イエスが言われていることは、「社会的混乱が起これば終末になる」「迫害があれば神の裁きの時が来る」ということではないのです。
社会的混乱とは何でしょうか。それは、人間の罪の現れです。そして、混乱の中で生じる迫害とは、神への挑戦に他ならないのです。現代でもそれは変わらないのであり、それは人間の罪が少しも変わらず、神への挑戦がますます強まっているということです。それ故に、混乱の継続は、決して神の無力の証明や、神の裁きの予告ではありません。神の御心は罪の裁きではなく、信じる者の救いへと向けられているのです。従って裁きの日とは、「福音を信じる者の勝利が実現する栄光の日である」と聖書は教えているのです。
8節に「これは産みの苦しみの始まりである」と主イエスは言われました。それは、「断末魔の苦しみ」ではなく、「産みの苦しみ」であり、「新しい生命の誕生をそこに見るべきである」と主イエスは仰っているのです。むしろ「キリスト者の勇気の根源を教えている」と言うべきなのです。そして13節で「しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる」とあり、これこそが主イエス・キリストの約束です。この「耐え忍ぶ」とは「じっと我慢の子になれ」ということではありません。「希望を見失うな」、「そこに喜びがある」ということを確信することです。
主イエスの告げられた神殿崩壊は紀元70年のローマ軍による神殿破壊を予告しているのです。これに関しては次回の説教で触れますが、これは歴史に残る大惨事でした。
真実の勇者とは、この世で出会う苦難を、神の代理者として受け止め、その苦しみの中でも信仰の喜びを明らかにする者です。どのようなときでも、13節の「最後まで耐え忍ぶ者は救われる」との主イエスの御言葉が無効になることは決して有り得ないからです。
勿論、この生き方は簡単なものではありません。困難を覚悟しなければなりません。しかし、十字架の彼方に甦りが待っていることを思い返すとき、私たちもその道を辿ることに希望を持つことができるのです。
何故なら、「最後まで耐え忍べ」というだけで、信仰の道を行くことは不可能ですが、そこに「救い」という神様からの確かな約束が、現実の苦しみに打ち勝つ力となるのです。この世を生きるキリスト者の熱き思いは、終末に救いを見ることから生じるのです。
私たちは、主の血潮によって贖われた「この世を生きる神の民」であり、滅びることを知らぬ永遠の世界に、既に生きているのです。
お一人でも多くの方々が滅びることのない「救い」に入れられますよう願い求める者でありましょう。
お祈りを致しましょう。