神の備え

主日礼拝

齋藤 正 牧師

《賛美歌》

讃美歌138番
讃美歌294番
讃美歌461番

《聖書箇所》

旧約聖書:サムエル記 下 12章1-10節 (旧約聖書496ページ)

◆ナタンの叱責

12:1 主はナタンをダビデのもとに遣わされた。ナタンは来て、次のように語った。「二人の男がある町にいた。一人は豊かで、一人は貧しかった。
12:2 豊かな男は非常に多くの羊や牛を持っていた。
12:3 貧しい男は自分で買った一匹の雌の小羊のほかに/何一つ持っていなかった。彼はその小羊を養い/小羊は彼のもとで育ち、息子たちと一緒にいて/彼の皿から食べ、彼の椀から飲み/彼のふところで眠り、彼にとっては娘のようだった。
12:4 ある日、豊かな男に一人の客があった。彼は訪れて来た旅人をもてなすのに/自分の羊や牛を惜しみ/貧しい男の小羊を取り上げて/自分の客に振る舞った。」
12:5 ダビデはその男に激怒し、ナタンに言った。「主は生きておられる。そんなことをした男は死罪だ。
12:6 小羊の償いに四倍の価を払うべきだ。そんな無慈悲なことをしたのだから。」
12:7 ナタンはダビデに向かって言った。「その男はあなただ。イスラエルの神、主はこう言われる。『あなたに油を注いでイスラエルの王としたのはわたしである。わたしがあなたをサウルの手から救い出し、
12:8 あなたの主君であった者の家をあなたに与え、その妻たちをあなたのふところに置き、イスラエルとユダの家をあなたに与えたのだ。不足なら、何であれ加えたであろう。
12:9 なぜ主の言葉を侮り、わたしの意に背くことをしたのか。あなたはヘト人ウリヤを剣にかけ、その妻を奪って自分の妻とした。ウリヤをアンモン人の剣で殺したのはあなただ。
12:10 それゆえ、剣はとこしえにあなたの家から去らないであろう。あなたがわたしを侮り、ヘト人ウリヤの妻を奪って自分の妻としたからだ。』

新約聖書:マルコによる福音書 14章12-16節 (新約聖書91ページ)

◆過越の食事をする

14:12 除酵祭の第一日、すなわち過越の小羊を屠る日、弟子たちがイエスに、「過越の食事をなさるのに、どこへ行って用意いたしましょうか」と言った。
14:13 そこで、イエスは次のように言って、二人の弟子を使いに出された。「都へ行きなさい。すると、水がめを運んでいる男に出会う。その人について行きなさい。
14:14 その人が入って行く家の主人にはこう言いなさい。『先生が、「弟子たちと一緒に過越の食事をするわたしの部屋はどこか」と言っています。』
14:15 すると、席が整って用意のできた二階の広間を見せてくれるから、そこにわたしたちのために準備をしておきなさい。」
14:16 弟子たちは出かけて都に行ってみると、イエスが言われたとおりだったので、過越の食事を準備した。

《説教》『神の備え』

本日のマルコによる福音書14章12節に、「除酵祭の第一日、すなわち過越の小羊を屠る日」とあります。

除酵祭については、先週お話しさせていただきましたが、この「過越の小羊を屠る日」とは、過越の食事のための準備の日のことであり、「除酵祭の第1日」ではありません。何故なら、ユダヤ暦の一日は日没が区切りであり、「小羊を屠る日」はユダヤ暦のニサンの月の14日で、その日の日没から15日となり、そこから「15日」つまり「除酵祭」は始まります。ですから、「徐酵祭の第1日」と「過越の小羊を屠る日」とを同一視している12節には、「一日の食い違いがある」ことになります。

マルコによる福音書は、何故、このような間違いを書いてしまったのでしょうか。14章1節には「過越祭と除酵祭の二日前」という指摘がありました。そして今、「その日になった」と言うとき、恐らくマルコは、「時が満ちた」ということを語りたかったのでしょう。「神の時」が御業の完成に向けて徐々に満ちて行く緊張感を、日付を変えてでも強調したかったのでしょう。

しかし、本日の箇所には、なおそれ以上に強調しなければならないことがあります。この物語の冒頭に、あえて「小羊を屠る日」という言葉を記した特別な意味があるからです。「時が満ちる」その日は、「小羊の屠られる日」であるということを、マルコによる福音書は力を込めて語っているのです。

そこで、過越の祭の意味について、改めて振り返ってみる必要があります。この出来事は繰り返し思い起こすことが必要な、イスラエル民族にとって何よりも重要な神の恩寵の御業として語り伝えられて来たのです。

紀元前13世紀の初め、イスラエルの民はエジプトで奴隷として生活していました。主なる神はご自分の民の苦しみの叫びを聞き、祖先アブラハムへの約束を守り、カナンの地へ導き出されました。このエジプト脱出物語は、出エジプト記に詳しく描かれ、イスラエル民族形成の原点でもあり、忘れ得ぬ出来事として祭られているのです。

このエジプト脱出物語は、モーセが、主なる神に召され、イスラエルを救出する使命を与えられ、エジプトへ遣わされてフアラオ・ラメセス二世に解放を要求しましたが、当然受け容れられません。国家にとって奴隷は大切な財産です。エジプト王が、モーセが伝えるイスラエルの神の言葉を拒否するのは当然です。そこで主なる神は、数々の奇跡を行い、御力を明らかにされました。エジプトにとって最も大切なナイル川の水が血に変わったり、大切な作物を壊滅させる「いなご」を大発生させるなど、数々の異常な災害をエジプト全土に下し、神の力を示されました。ファラオは、その度に神の御前に屈服し、モーセの要求を聞くそぶりをしますが、その災害が終わると直ちに言葉を翻し、奴隷解放を認めようとはしませんでした。なんとこれが9回も繰り返されたのです。遂に、主なる神は、最終的な警告として、エジプト中のすべての最初の子供の命を奪うという災厄を下すに至りました。その時、災いがエジプト人だけに限定されるよう、イスラエルの人々の家の戸口の上に、目印として「子羊の血」を塗ることが命じられ、その血を塗った家の前を、命を奪う神の軍勢が「通り過ぎる」即ち「過ぎ越すであろう」と告げられたのです。ファラオの子を含むすべての最初の子供の命が奪われたその夜、イスラエルの子供は一人も死にませんでした。流石に、屈服したファラオの解放許可を得て、イスラエルの民は直ちにエジプトを旅立ちました。「小羊の血に守られた出発」と言うことも出来るでしょう。これを「出エジプト」と言います。

過ぎ越しの祭りとは、このエジプト脱出の「救いの御業」を覚える日であり、かつて祖先たちを救い出した神の御力を再び子孫たちに向けて示されることを祈る日です。「主は必ずイスラエルを救われる」という信仰が、もっとも具体的に語られる日、希望が確認される日であり、イスラエル民族誕生の日と言ってもよい日でした。

本日の14章12節の「除酵祭の第一日、すなわち過越の小羊を屠る日」というマルコ福音書の記述は、「待ち望まれた救いの時が到来した」という宣言なのです。そしてその際に注目すべきことは、エジプト脱出の日、決定的な解放を獲得した夜に、「小羊の血」がイスラエルを守ったことを思い出せということです。毎年、過越しの祭りの夜、人々は小羊を殺して肉を食べ、遠い昔の恵みを改めて新たに思い返して行く、それがユダヤ人のアイデンティティを形成していました。

そして再び、罪の束縛という奴隷状態から解放するために、犠牲として献げられる小羊が神によって備えられ、「子羊の血が流される時が来た」ということを、マルコ福音書は強く訴えているのです。

ヨハネによる福音書1章29節によれば、初めてナザレのイエスを見たバプテスマのヨハネは「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」と呼びかけています。また、使徒パウロは、コリントの信徒への手紙一5章7節で「キリストが、わたしたちの過越の小羊として屠られた」と言っています。

主イエス・キリストこそ、神によって供えられた人間を罪から贖いだす「犠牲の小羊」であり、「身代わりの小羊」なのです。マルコによる福音書14章12節冒頭の日付は、このことを語っているのであり、第二の出エジプト、「罪の奴隷から解放される日」が来たということの宣言なのです。

かつての出エジプトは、完全に神の御業でした。偉大な指導者モーセですら神が命じられるままに、それをなしたに過ぎません。新しい出エジプト「罪からの解放」も、同じように「御子イエス・キリストが定められた通りに」、すべては実現して行くのです。どのように準備しましょうかと聞く弟子たちに主イエスは、「都へ行きなさい。すると、水がめを運んでいる男に出会う。その人について行きなさい。その人が入って行く家の主人にこう言いなさい。『先生が、「弟子たちと一緒に過越の食事をするわたしの部屋はどこか」と言っています。』すると、席が整って用意ができた二階の広間を見せてくれるから、そこにわたしたちのために準備をしておきなさい」と、考えて見ると実に不思議な御言葉を語られます。

何故かと言えば、「水がめを運ぶ男」とは、通常は有り得ないことだからです。水は重いので運ぶ場合は水がめではなく革袋にいれますし、たとえ水がめに入れたとしても重いので頭の上に乗せて運びます。それも通常は女性の仕事であり、男性は行いません。ですから、「水がめを運ぶ男」とは、極めて異常な目立つ姿であり、そこで、イエスが既に手配をして予め打ち合わせていた「目印であった」と考えることが出来るとも言われています。

あるいは、11章2節以下に記されていたベタニアの村で「先の村に繋いである子ロバ」を予見されたように、主イエスには、将来起こることを見通す不思議な力「予知能力」が備えられていた、と解釈する人もいます。

それについては、聖書は何も記していません。大切なことはただ一つ。これは神の御業であり、すべては主イエスが言われたとおりになる。これが福音書が告げることであり、神の御業がすべてであることを聖書はここに語っているのです。

16節にある「イエスが言われたとおりだった」のです。これがマルコが語る中心をなすテーマです。聖書を読むとき、いつも、この「イエスが言われたとおりであった」という御言葉こそを聞かなければなりません。

聖書は、単なる歴史文書ではありません。「~が起こった」という客観的な記録ではありません。また、聖書は教訓の書でもなく、「~せよ」という抽象的な勧告でもありません。「すべては御言葉のとおりであった」「神の約束は本当に真実なものであった」という驚きの証言なのです。

本日のマルコ福音書の語るメッセージは、「過越の小羊を屠る日が来た」という「神の時の宣言」です。

この「神の恵みの時の始まり」に示された「眼に見えるしるし」が、過越しの食事の用意をすることであったことは、主イエス・キリストの福音をさらにいっそう明確にしているのです。

主イエスがなされた御業の中に、罪人と呼ばれている人々との食事がありました。ファリサイ派の人々や律法学者たちが主イエスを強く非難したのは、徴税人であったアルファイの子レビたちとの食事でした(マル2:15-16)。

さらに、神の国のありさまを語る多くの教えが、晩餐会や宴会にたとえられていることもよく知られている通りです。また、初代教会では、礼拝が夜であることが多かったこともあり、コリント教会などでは、礼拝は必ず食事を伴って行われていました。これが後に「愛餐」と呼ばれるようになりました。

食事が何故これほど大切に考えられていたのでしょうか。食事を共にするのは家族です。食事を共にするということが、「交わりそのもの」「新しい家族」の形成を意味したからです。

ユダヤ人には食事に関するさまざまな規定があり、他の民族の人とは決して同じテーブルで食事をしないとされていました。信仰という同じ恵みを与えられた者同志だけが食卓を共にするのです。何故なら、食事とは、本来、家族が共に摂るものであり、それは単に「空腹を満たす」ということだけでなく、家族同士のように「人と人」「人と神」の交わりの場でもあると考えられていたからです。

今、「食事の場をイエス御自身が用意された」と語られるとき、それは「主によって招かれた新しい交わりの場が用意されている」ということであり、すべての者を招く「神の食卓が備えられている」ということを示しているのです。それが過越の食事であるとするならば、主の御業の意味は明らかです。

私たちの救いの確かさとは、単なる、罪の奴隷からの解放ということにとどまらず、主イエス・キリストが用意された「神の家族の食卓」「神の国の交わりの場」への招きであるということなのです。

神の独り子、キリスト・イエス御自身が、身代わりの小羊となって血を流されることにより、「神の国の食卓への招待状」を私たちに与えて下さったのです。

この恵みを思うとき、「すべてはイエスが言われた通りであった」という聖書の告知は、まさに、私たちの希望と喜びです。主イエス・キリストが用意された「神の家族の食卓」「神の国の交わりの場」へ、お一人でも多くの家族や友人の方々と共に招かれ、共に与りましょう。

お祈りを致します。

福音に生きる

齋藤 正 牧師

《賛美歌》

讃美歌68番
讃美歌500番
讃美歌517番

《聖書箇所》

旧約聖書: サムエル記 下 22篇29節 (旧約聖書519ページ)

22:29 主よ、あなたはわたしのともし火
主はわたしの闇を照らしてくださる。

新約聖書: マルコによる福音書 4章21~25節 (新約聖書67ページ)

◆「ともし火」と「秤」のたとえ

4:21 また、イエスは言われた。「ともし火を持って来るのは、升の下や寝台の下に置くためだろうか。燭台の上に置くためではないか。
4:22 隠れているもので、あらわにならないものはなく、秘められたもので、公にならないものはない。
4:23 聞く耳のある者は聞きなさい。」
4:24 また、彼らに言われた。「何を聞いているかに注意しなさい。あなたがたは自分の量る秤で量り与えられ、更にたくさん与えられる。
4:25 持っている人は更に与えられ、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。」

《説教》『福音に生きる』

本日は新型コロナウィルス感染症の「緊急事態宣言」が終了することを祈っての長老会メンバーでの主日礼拝です。ご一緒に連続して読んで参りましたマルコによる福音書の本日の4章には、主イエスがお語りになったいくつかの譬え話が並べられています。先々週2月21日には、「種を蒔く人のたとえ」とその説明、そして、譬え話を用いて語ることの意味あるいは目的が「みことばの実り」と題して語られました。そこで、主イエスは譬え話によって「神の国の秘密」をお語りになりました。神の国とは、神様のご支配という意味です。主イエスは1章15節で「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言って伝道を始められました。主イエスがこの世に来られたことによって、神の国、神様のご支配が今や実現しようとしている、それは言い換えれば救いが実現しようとしている、ということです。しかしその神の国の福音は、同時に「秘密」でもあります。「秘密」というのは「隠されていること」ということです。神様のご支配の実現という救いは、隠されており、誰の目にもはっきりと見えるものにはなっていないのです。「神の国は近づいた」という主イエスのお言葉はそのことを言い表しています。神の国は、近づいているけれどもまだ完全とはなっていないのです。ですから、神の国の福音とは「信じること」しかないものなのです。その神の国の秘密を、身近で具体的な事柄を用いて、体験させ、信じさせてくれるのが、主イエスの語られた譬え話なのです。ですからそれは神の国についての説明ではなくて、ある意味「謎掛け」のような話です。隠された神の国が謎掛けによって示されているのです。譬え話を読む私たちは、その謎を解かなければなりません。本日の箇所に語られている譬え話も、謎のような話です。その謎をご一緒に解いていきましょう。

始めの21節で、主イエスは、「ともし火を持って来るのは、升の下や寝台の下に置くためだろうか。燭台の上に置くためではないか」と言われました。この「ともし火」をろうそくの火と考えてしまうとイメージが掴み難くなります。このともし火は、水指しのようなものに油を入れ、芯を油に浸して火を灯すランプ、アラジンのランプのようなものと言ったら分かり易いでしょう。それなら、升の下や寝台の下にも置けないことはないわけです。しかしランプをそんな所に置くために持って来る者はいません。ランプは燭台の上など高い所、よく見える所に置いて、光が部屋中を照らすようにするものです。これはまことに尤もな話ですが、これがどのような意味で神の国の秘密を語っているのでしょうか。

続く22節の、「隠れているもので、あらわにならないものはなく、秘められたもので、公にならないものはない」という言葉は、主イエスの教えと言うよりも、当時一般に語られていた諺だろうと思われます。この言葉は、「悪事はいつまでも隠しておけるものではなく、必ず露見する」と言い換えると皆様なるほどと納得されるのではないでしょうか。私たちには誰にでも、自分の心の中に秘め、隠している罪があります。人に知られたくない、知られてはならないと思っている罪、それは人間の目からは死ぬまで隠しおおせるかもしれません。しかし私たちは最後に、神様の前に立たなければならないのです。人間の目はごまかすことができても、神様は、私たちの心の中の秘めた思いまで全てご存知です。神様の裁きの前では、隠していることが全て明るみに出されるのです。神様を信じて生きるとは、この様に、自分の隠しているどんなことも全て知っておられ、それを裁かれる神様がおられることを覚えて生きることです。22節の言葉は、この様に理解されることが多いでしょう。そのこと自体は信仰における大事な教えですが、しかしここで語っているのはそういうことだけではありません。主イエスは確かに当時の諺を用いておられますが、それを、ともし火のたとえと結びつけることによって、全く新しい意味を込めておられるのです。

この譬えは、燭台の上に置かれ、あらわにされるべきともし火が、升の下や寝台の下に置かれて隠され、その光が多くの人に見えなくなっているという現実を語られているのです。神の国が隠されている、という現実です。神の国、神様のご支配、救いは、主イエス・キリストがこの世に来られたことによって決定的に近づき、実現しようとしているのです。しかし主イエスは、誰が見てもこの方こそ神様の独り子であり、救い主、まことの王であられると分かるようなお姿でこの世に来られたのではありませんでした。ベツレヘムの馬小屋で生まれ、ナザレの村の大工の子として育って来られた主イエスは、人の目を引く王族の様な立派な姿ではなかったのです。だからその主イエスが神の国の福音を宣べ伝え始め、癒しの奇跡などを行うようになったのを見て、身内の者たちは「気が変になった」と思ったのです。主イエスが神様の独り子であり、救い主であられることは、隠されていたのです。主イエスによって到来している神の国というともし火は、升の下、寝台の下に置かれ、隠されていたのです。今は隠されていて、誰の目にも明かにはなっていないけれども、いつかそれがあらわになり、公になり、全ての人々が主イエス・キリストにおける神の国のともし火に照らされる時が来るのです。22節はその約束を語っています。ともし火のたとえは、主イエスによって到来した神の国、救いは今は隠されているけれども、将来必ずあらわになる、その時を信じて、希望を持って待ち望みつつ、今のこの時の、神の国が隠されている現実の中を、忍耐しつつ歩むようにと教えているのです。

主イエスによってもたらされた神の国のともし火は隠されている、そのことが最もはっきりと現れているのが、主イエスの十字架の死です。升の下に置かれたともし火がじきに消えてしまうように、主イエスの光は人間の罪の力によってかき消されてしまったのです。しかし、父なる神様は、その主イエスを復活させて下さり、もはや死ぬことのない永遠の命に生きるともし火を新たにともして下さいました。そのともし火のもとに集められ、それによって照らされている群れが教会です。しかしながら、このともし火も、誰の目にも明らかに見えているものではありません。教会はいつの時代にも、このともし火を見ることができない、見ようとしない、多数の人々に取り囲まれています。福音書が書かれた初代の教会も、今日の私たちも同じです。主イエス・キリストこそ神の子、救い主であられ、主イエスの十字架と復活により、神様のご支配が、私たちの救いが実現しているということは、信仰によってのみ知ることが出来るのです。

神様のみ言葉を、聞く耳をもって聞くことが、ともし火を見つめて生きるためには必要です。主イエスはさらに24節で、「み言葉を聞く」ことに関する教えを語られました。「何を聞いているかに注意しなさい」とあります。み言葉を、ただ漫然と聞くのではなく、注意深く聞くことが求められています。しかしそれは、居眠りをせずに、一言も聞き漏らさないように、というだけのことではありません。ここに、「あなたがたは自分の量る秤で量り与えられ」るとあります。み言葉を聞くことが、ある秤をもって何かを量ることに譬えられているのです。私たちは、およそ人の話を聞く時に、いつもそれを自分の秤で量っていると言えるでしょう。自分の秤で量って、これは価値があると思うと、その話を一生懸命に聞くのです。逆に、自分の秤に照らして、これはあまり価値がない、と思うと、心に止めずに聞き流すのです。現代は、膨大な量の情報が洪水のように溢れている時代です。その中で、情報を選択して、聞くべき言葉と聞かなくてもよい言葉とをしっかり見分けることは必要です。そのための秤を自分の中に持っていないと、情報の洪水に押し流されてしまいます。しかしそれは同時に、自分がどのような秤によって情報を量っているかが問われているということでもあります。秤が不適切だと、必要な情報を見逃し、役に立たない情報に振り回されてしまうことも起るのです。そのように、世の中の情報を量る秤は大切です。ここで、私たちにとって本当に大切なのは、神のみ言葉を聞く時に、どのような秤を持っているかです。神のみ言葉を聞く時には、この世の情報を量るのとは違う秤が必要です。私たちが自分の考えによってみ言葉の価値を判断してこれは必要だとかこれはいらないなどと判定するのではなくて、神様が与えて下さる恵みのみ言葉をできればすべて汲み取っていくことができるような、大きな秤が必要なのです。「あなたがたは自分の量る秤で量り与えられ」というのはそういうことを語っています。重さを量る秤は、嵩を量る升に置き換えられます、例えば、お米を沢山量れるような大きな升を持っていれば、そこにみ言葉の恵みが豊かに大量に注がれるのです。そして「更にたくさん与えられる」とも語られています。神様はそのように大きな升でみ言葉の恵みを受けようとしている者に、更におまけをどんどん与えて下さるのです。しかし逆に、神のみ言葉を自分の思いによって評価し、判断し、自分に役に立つと思われるものだけを聞こうとしている人は、自分の思いや考えという小さな秤しか持っていないことになります。どういう秤を持っているかによって、神様から頂くことができるみ言葉の恵みが全く違ってしまうのです。25節の「持っている人は更に与えられ、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる」というみ言葉はそういうことを語っているのです。「持っている人」とは、お金持ちのことではありません。み言葉をいただくための大きな器を持っている人です。「持っていない人」とは、貧しい人ではなくて、み言葉を聞く器の小さい人です。自分の思いや考えというちっぽけな器によって受け取っていたのでは、隠されている神様のともし火を見ることができません。この世の現実の暗さ、闇の圧倒的な力に目を塞がれて、神のみ言葉など、信仰など、何の役にも立たない、何の力もない、と感じられ、結局、与えられている恵みをも失ってしまうことが起るのです。しかしそれは、み言葉に力がないからではなくて、その人の、み言葉を受け取る器が、み言葉を量る秤がちっぽけなものだったからなのです。

私たちは、どのような秤で、神様のみ言葉を量っているでしょうか。その秤の大きさはどれくらいでしょうか。そして量る量をより大きくするためには何が必要なのでしょうか。勘違いをしてはならないのは、その秤の大きさは、私たちの理解力の大きさではありませんし、頭が良いとか悪いとかでもありません。またそれは私たちの信仰心の深さや熱心さでもありません。「自分の量る秤で量り与えられる」とは、み言葉をどう聞くのか、それは悔い改めにかかっているのです。自分が神様に背き逆らっている罪を認め、神様のみもとに立ち帰って赦しを願うことです。み言葉は、そういう悔い改めの思いをもって聞く時にこそ、恵みの力を発揮するのです。

キリストに従い、キリストと共に生き、キリストのために死ぬ。その中に、生涯のすべてを傾け尽くす喜びが用意されているのです。25節には「持っている人は更に与えられ、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。」とあります。

悔い改めることなしにみ言葉を聞いても、その恵みの力は伝わって来ないのです。なぜなら悔い改めなければ、自分の思いや考えによってみ言葉を量り、評価し、自分の思いに合うことだけを聞き、そうでないことには耳を塞いでいるからです。自分が主人になって神様のみ言葉を選択しているのです。悔い改めるとは、そのように自分が主人となってみ言葉を評価、判断することをやめて、神様こそが自分の主であるとの信仰を与えられ、神のみ言葉によって自分の思いや感覚、考えを変えられていくことを受け入れることです。そのような秤をもってみ言葉を聞く時にこそ、み言葉の恵みは豊かに与えられていくのです。「聞く耳のある者」とは、この悔い改めの思いをもってみ言葉を聞く人です。その人には、人間の思いや力によっては及びもつかない神様の恵みの世界が開かれ、示されていくのです。そこには、主イエス・キリストの十字架と復活によって実現している神の国のともし火が見えてきます。今は隠されているけれども、いつか必ずあらわになり、全世界を照らすことになる、神様の恵みのご支配がはっきりと見えてくるのです。

私たちは、苦しみ悲しみが多い、罪が支配するこの世の闇の中で、世の光であり、希望のともし火である主イエス・キリストの放つ光に照らし出されているのです。家族や友人など周りの人々に、このキリストの光を届ける者になっていくのです。

お祈りを致します。

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その男はあなただ

《賛美歌》

讃美歌187番
讃美歌286番
讃美歌517番

《聖書箇所》

新約聖書:使徒言行録 2章29~30節 (新約聖書216ページ)

2:29 兄弟たち、先祖ダビデについては、彼は死んで葬られ、その墓は今でもわたしたちのところにあると、はっきり言えます。
2:30 ダビデは預言者だったので、彼から生まれる子孫の一人をその王座に着かせると、神がはっきり誓ってくださったことを知っていました。

旧約聖書:サムエル記 下 12章1~17節 (旧約聖書496ページ)

12:1 主はナタンをダビデのもとに遣わされた。ナタンは来て、次のように語った。「二人の男がある町にいた。一人は豊かで、一人は貧しかった。
12:2 豊かな男は非常に多くの羊や牛を持っていた。
12:3 貧しい男は自分で買った一匹の雌の小羊のほかに/何一つ持っていなかった。彼はその小羊を養い/小羊は彼のもとで育ち、息子たちと一緒にいて/彼の皿から食べ、彼の椀から飲み/彼のふところで眠り、彼にとっては娘のようだった。
12:4 ある日、豊かな男に一人の客があった。彼は訪れて来た旅人をもてなすのに/自分の羊や牛を惜しみ/貧しい男の小羊を取り上げて/自分の客に振る舞った。」
12:5 ダビデはその男に激怒し、ナタンに言った。「主は生きておられる。そんなことをした男は死罪だ。
12:6 小羊の償いに四倍の価を払うべきだ。そんな無慈悲なことをしたのだから。」
12:7 ナタンはダビデに向かって言った。「その男はあなただ。イスラエルの神、主はこう言われる。『あなたに油を注いでイスラエルの王としたのはわたしである。わたしがあなたをサウルの手から救い出し、
12:8 あなたの主君であった者の家をあなたに与え、その妻たちをあなたのふところに置き、イスラエルとユダの家をあなたに与えたのだ。不足なら、何であれ加えたであろう。
12:9 なぜ主の言葉を侮り、わたしの意に背くことをしたのか。あなたはヘト人ウリヤを剣にかけ、その妻を奪って自分の妻とした。ウリヤをアンモン人の剣で殺したのはあなただ。
12:10 それゆえ、剣はとこしえにあなたの家から去らないであろう。あなたがわたしを侮り、ヘト人ウリヤの妻を奪って自分の妻としたからだ。』
12:11 主はこう言われる。『見よ、わたしはあなたの家の者の中からあなたに対して悪を働く者を起こそう。あなたの目の前で妻たちを取り上げ、あなたの隣人に与える。彼はこの太陽の下であなたの妻たちと床を共にするであろう。
12:12 あなたは隠れて行ったが、わたしはこれを全イスラエルの前で、太陽の下で行う。』」
12:13 ダビデはナタンに言った。「わたしは主に罪を犯した。」ナタンはダビデに言った。「その主があなたの罪を取り除かれる。あなたは死の罰を免れる。
12:14 しかし、このようなことをして主を甚だしく軽んじたのだから、生まれてくるあなたの子は必ず死ぬ。」
12:15 ナタンは自分の家に帰って行った。主はウリヤの妻が産んだダビデの子を打たれ、その子は弱っていった。
12:16 ダビデはその子のために神に願い求め、断食した。彼は引きこもり、地面に横たわって夜を過ごした。
12:17 王家の長老たちはその傍らに立って、王を地面から起き上がらせようとしたが、ダビデはそれを望まず、彼らと共に食事をとろうともしなかった。

《説教》『その男はあなただ』

今日は、チョッと私事から話を始めます。私が東京神学大学修士2年の卒業に修士論文作成の真っ最中の2017年に周りの心配をどこ吹く風とイスラエル旅行に行ったのですが、そのエルサレムではてっきり注目すべきはイエス様の関係する遺跡と思いきや、何とダビデ王関係の遺跡ばかりが重視されていることでした。旧約聖書に関係する遺跡ばかりで、新約聖書関係の遺跡は殆ど注目されていませんでした。まあ、考えてみれば、イスラエルはユダヤ教徒の国ですから、当然と言えば当然だったわけですけれど…。

その旧約聖書が語るとおり、ダビデ王は政治的にも軍事的にも大変優れた才能を持ち、人間的にも人を惹きつける魅力を持って、更に、篤い信仰者であり、アブラハム以来イスラエル民族に伝えられてきた神の御言葉をこの世に実現する者とも見られていました。従って、彼の王国は、後の時代の人々には神の約束の「眼に見えるしるし」として映り、来るべき救い主・メシアは、ダビデ王との「新しい約束」として働かれると信じられていました。後世のイスラエルの人々は、自分たちを「ダビデの子孫」と名乗ることよって、神の祝福の下にあることを確かめました。主イエスもまた、多くの人々から「ダビデの子」と呼ばれたことは福音書の記すとおりです。

イスラエル王国のダビデ王は、イスラエル史上最大の人物であるだけでなく、雲の上の存在であった信仰の祖アブラハムと、イスラエル民族をエジプトから救い出したモーセに次ぐ信仰者とも見なされた人物でした。

しかしながら、そのダビデもまた、私たちと同じ人間でした。「同じである」ということは、ダビデもまた、罪を背負って生きた人間であり、神の顧みの下でしか生きることができなかったと言えましょう。ダビデが犯した過ちと、下された神の裁きは、罪に捉えられて生きる人間そのものの姿であり、彼が神から受けた恵みは、憐れみがなければ立ち上がることもできない私たちの姿そのものであると言えるでしょう。ダビデの生涯における、代表的な醜いこの事件は、まさに人間の弱さを示すと共に、神の赦しの御心の大きさを示すものとして、伝えられてきたのです。いわゆる、バト・シェバ事件と呼ばれるこの物語は、11章から始まっています。ある日の夕方、ダビデが王宮の屋上を散歩している時に美しい女性が水浴びしているのを偶然見かけたのが発端でした。彼女は、ダビデ王旗下のイスラエル軍の将軍であるヘト人ウリヤの妻バト・シェバでした。

その頃、イスラエルは東の強敵アンモンと戦っており、ヨアブを総司令官とする遠征軍は、アンモンの都ラバを包囲中でした。ラバとは現在のヨルダンの首都アンマンのことです。ラバの城は要害堅固な丘の上にあり、切り立った崖に城壁を巡らしていました。イスラエル軍は、城を包囲したものの攻め倦み、苦戦を強いられていました。ヘト人ウリヤが総司令官ヨアブに従う将軍の一人として、ラバの前線にいた時に、この事件は起こったのでした。時は紀元前千年の頃、今から約三千年昔でした。遠い昔、古代世界の王がどれ程の権力を持っていたか、想像することは容易でしょう。専制君主たる王は国民の生死を自由にする権力を持ち、戦争で得た民は奴隷として売り払うことが一般的でした。現代的な人権思想や倫理的見方は全くない時代であり、権力だけがすべての時代でした。ダビデはバト・シェバを見初めたのですが、彼女の夫は自分の将軍の一人であるウリヤです。そこで彼は悪知恵を働かせ、ウリヤを激戦の続く最前線へ送り、戦死させるよう総指令官ヨアブに命じました。ダビデの意を受けたヨアブはウリヤに最も危険な前線への攻撃を命じ、ウリヤは戦死してしまいます。そして、ウリヤの死後、未亡人となったバト・シェバを、ダビデは堂々と迎え妻とした、というのです。絶大な権力を手にし、国民から圧倒的な支持を得ていたダビデにとって、自分の目に留まった女性を妻の一人とするのは当然のことと考えられたのでした。ダビデの息子で次の王ソロモンは、妻六百人、妾三百人と記されていることからも、この時代のことが想像できます。「何と卑劣な」と私たちは思いますが、当時の権力者にとって普通のことであったでしょう。エジプトにおけるアブラハム物語にも「美しい妻を持った男の危険」ということが述べられています。古代の専制君主たちは皆、このように自分の欲望を権力によって満たし、だれもそれを不思議に思いませんでした。また、将軍ウリヤの戦死も、軍人として当然な最期と思われたことでしょう。ダビデは実に上手くやったのです。

しかし、人間の生きる姿は、その時代や、その時代の人々の価値観だけで計られるものではありません。「皆、そうしているではないか」「私だけではない」「私だけが特別に責められることはない」という時代ごとの弁明が、通用しない世界があるのです。11章27節には、「ダビデのしたことは主の御心に適わなかった」と記されています。口語訳では、更に厳しく「この事は主を怒らせた」と訳されています。「主なる神が御怒りになった」。これが決定的な問題なのです。たとえ、その時代の人々がどう評価しようとも、その時代の王権が如何に絶大でも、「主が御怒りになった」ということが、時代を越え人間の行動を、最終的かつ決定的に評価するのです。

このことは同時に、人間の罪、人間の悪は、神の怒りによって初めて明らかになることを示しているのです。人間、特に権力者はあらゆる知恵を用いて、その時代の人々を欺き、巧みに批判の目を逸らし、自分の心を欺いてでも、自分の行為の正当性を認めさせようとします。それは、神なき世界で、自分が神として君臨しようとすることと言えます。そして人間とは、ダビデほどの人物であっても、なおこのように神の怒りを受けるという事実は、欲望の前における人間の弱さに終わらず、すべての人間が、神の怒りの対象である罪から逃れることができないという現実を明らかにしているでしょう。

主は預言者ナタンをダビデのもとに遣わされました。ナタンは来て、次のような譬えを語りました。「二人の男がある町にいた。一人は豊かで、一人は貧しかった。豊かな男は非常に多くの羊や牛を持っていた。貧しい男は自分で買った一匹の雌の小羊のほかに何一つ持っていなかった。彼はその小羊を養い、小羊は彼のもとで育ち、息子たちと一緒にいて、彼の皿から食べ、彼の椀から飲み、彼のふところで眠り、彼にとっては娘のようだった。ある日、豊かな男に一人の客があった。彼は訪れて来た旅人をもてなすのに、自分の羊や牛を惜しみ、貧しい男の小羊を取り上げて、自分の客に振る舞った。」(1-4)。預言者ナタンが語ったことは単純明快でした。正義の王と言われていたダビデがその豊かな男のやり方を怒ったのは極めて当然でした。「何と欲の深い男か。このような人間がいるとはとても考えられない」と思ったダビデは、激怒して直ちにその不正な男に対する判決を下して、ナタンに告げました。「主は生きておられる。そんなことをした男は死罪だ。子羊の償いに四倍の値を払うべきだ。そんな無慈悲なことをしたのだから。」(5-6)。これほど厳しく罰するのは当然であり、誰一人として反対する者のない判決であると、ダビデは考えた筈です。当時の国王は、最高裁判官でもありました。それゆえにダビデは、国を治める者として、不正を怒り、正義の判決を下したのでした。

今私たちは、このナタンの譬え話が、バト・シェバをウリヤから奪ったダビデ自身のことを語っていることに既に気付いています。ナタンに告げたダビデの判決は正しいのですが、その判決を受けなければならぬ罪人、不正な男が、ダビデ自身だということも明白です。ただ皮肉なことは、これほど明白な、また弁明の余地のないほどの罪が「自分のことである」ということに、ダビデがまったく気付かなかったということです。

ナタンに指摘され直ぐに、5節で「主は生きておられる」と叫んだダビデほどの人物が、なぜ、自分の過ちに気付かないのでしょうか。不思議なのはここです。そして聖書は、この物語を通して、「これが人間の罪なのだ」と告げているのです。罪の特徴とは、第三者的立場に立てば誰にでも分かることが、自分のことになると、全く分からないところにあるのです。更に、ダビデの罪とは、「ウリヤ殺害とバト・シェバとの不義」というだけのことではなく、むしろその背後にある、彼自身の生き方にあるのです。

ダビデは、ナタンから「不正な男」の話を聞いた時、「主は生きておられる」と叫びました。それは、主なる神が、常にすべてを眼差しの下に置かれている全世界の支配者であることの告白です。すべての者は主なる神の眼差しから離れては有り得ない、という信仰告白です。ダビデは、その不正な男を、王である自分が赦さないだけではなく「神がお赦しにはならない」と断言したのです。

「主は生きておられる」。この言葉は、旧約聖書全体を貫く偉大な信仰告白であり、繰り返し預言者によって用いられている表現です。ダビデの信仰が神の義に支えられていたことを、この言葉は示しています。しかし、バト・シェバを見初め、ウリヤを最前線の激戦地へ送った時、その時でも彼は、「主は生きておられる」と心の中で叫んだでしょうか。ウリヤ戦死の報告を受けた時、ダビデは神の眼差しを意識していたでしょうか。主なる神への信仰、主なる神への服従は、その時、どうなっていたのでしょうか。「主は生きておられる」と叫び続けたでしょうか。一時的にせよ神から離れたダビデの姿が、そこにあったのです。神の眼差しを忘れて生きる人間が、そこにいたのです。それゆえに、ダビデが犯した最大の罪とは、バト・シェバを巡る彼自身の行動と言うより、その行動を起こさせ、それを可能にした、「神からの離反」そのものと言わざるをえません。ナタンはダビデに向かって言い放ちます。「その男はあなただ。」(7)。この言葉は、神から離れて生きていることを自覚しない、すべての人間への警告です。都合のよい時だけ主の御名を呼ぶ人間がそこにいる、「それはあなただ」という指摘です。そしてその指摘と共に、ナタンは、主の御言葉をダビデに伝えるのです。ナタンを通して7節から12節で語られる神の怒りは、単なる不正行為の指摘ではなく、ダビデヘの恵みを思い出させることから始まっています。このことは、神の怒りがダビデの行為の根本にある「神からの離反」そのものに向けられていることを、明らかに示していると言えます。神の恵みが基盤にあるだけに、裁きも厳しいのです。人間の罪に対する神の裁きは、7節でナタンが直ちにダビデに答えたように素早く、徹底的なのです。

私たちは、これを読む時、神の御前に立たされる自分の生きざまを問わずにはいられないでしょう。私たちは、日々の生活の中のどこで、「主は生きておられる」と叫んでいるでしょうか。悪魔の誘いは、美しいバト・シェバの姿の中にあるのではなく、「主は生きておられる」ということを忘れさせるところにあるのです。

続く13節から14節での、ダビデの悔い改めの素早さと素直さに驚かされますが、それ以上に、ナタンを通して告げられる神の赦しの寛大さに驚かされます。神はこれほどまでに悔い改める者に甘いのかと思わされます。主なる神は、悔い改める者を拒まれる方ではなく、しかも、その怒りが早いのと同じように赦しも早く、その怒りが徹底しているのと同じほど、赦しもまた桁外れなのです。

なぜなら、その不正に対して、ダビデが「死刑にせよ」と叫んだのに対して、主なる神は、「死の罰は免れる」と言われているからです。神の御心は、罪を犯した者の滅びにあるのではなく、悔い改めを待つことにありました。アダムとエバの赦しを請う言葉を待つエデンの園の神の御心を思うべきです。正義の神は、ただ一言の悔い改めを喜ぶ愛の神でもあるのです。

ナタンがダビデに告げた「その男はあなただ」という言葉を、私たちは、自分自身の罪を指摘する神の怒りの御言葉として聞くと共に、怒りを越えて罪を赦す神の御言葉として響くのです。この大きな恵みを預言者ナタンは、「その男はあなただ」と私たちに告げているのです。

ダビデの罪は、バト・シェバの産んだ最初の子を失うという痛みを代償とすることで赦されました。

それでは、私たちの罪の赦しには何の代償が必要なのでしょうか。

それこそが、時を越えた主イエス・キリストの十字架の御業です。その十字架の御業はダビデの赦しのためでもあり、今ここに、私たちのためであることも明らかです。ダビデの様に素直に罪を悔い改め、主イエス・キリストの十字架の御救いを感謝し続ける者でありたいものです。

お祈りをいたしましょう。

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