主日礼拝
齋藤 正 牧師
《賛美歌》
讃美歌138番
讃美歌294番
讃美歌461番
《聖書箇所》
旧約聖書:サムエル記 下 12章1-10節 (旧約聖書496ページ)
◆ナタンの叱責
12:1 主はナタンをダビデのもとに遣わされた。ナタンは来て、次のように語った。「二人の男がある町にいた。一人は豊かで、一人は貧しかった。
12:2 豊かな男は非常に多くの羊や牛を持っていた。
12:3 貧しい男は自分で買った一匹の雌の小羊のほかに/何一つ持っていなかった。彼はその小羊を養い/小羊は彼のもとで育ち、息子たちと一緒にいて/彼の皿から食べ、彼の椀から飲み/彼のふところで眠り、彼にとっては娘のようだった。
12:4 ある日、豊かな男に一人の客があった。彼は訪れて来た旅人をもてなすのに/自分の羊や牛を惜しみ/貧しい男の小羊を取り上げて/自分の客に振る舞った。」
12:5 ダビデはその男に激怒し、ナタンに言った。「主は生きておられる。そんなことをした男は死罪だ。
12:6 小羊の償いに四倍の価を払うべきだ。そんな無慈悲なことをしたのだから。」
12:7 ナタンはダビデに向かって言った。「その男はあなただ。イスラエルの神、主はこう言われる。『あなたに油を注いでイスラエルの王としたのはわたしである。わたしがあなたをサウルの手から救い出し、
12:8 あなたの主君であった者の家をあなたに与え、その妻たちをあなたのふところに置き、イスラエルとユダの家をあなたに与えたのだ。不足なら、何であれ加えたであろう。
12:9 なぜ主の言葉を侮り、わたしの意に背くことをしたのか。あなたはヘト人ウリヤを剣にかけ、その妻を奪って自分の妻とした。ウリヤをアンモン人の剣で殺したのはあなただ。
12:10 それゆえ、剣はとこしえにあなたの家から去らないであろう。あなたがわたしを侮り、ヘト人ウリヤの妻を奪って自分の妻としたからだ。』
新約聖書:マルコによる福音書 14章12-16節 (新約聖書91ページ)
◆過越の食事をする
14:12 除酵祭の第一日、すなわち過越の小羊を屠る日、弟子たちがイエスに、「過越の食事をなさるのに、どこへ行って用意いたしましょうか」と言った。
14:13 そこで、イエスは次のように言って、二人の弟子を使いに出された。「都へ行きなさい。すると、水がめを運んでいる男に出会う。その人について行きなさい。
14:14 その人が入って行く家の主人にはこう言いなさい。『先生が、「弟子たちと一緒に過越の食事をするわたしの部屋はどこか」と言っています。』
14:15 すると、席が整って用意のできた二階の広間を見せてくれるから、そこにわたしたちのために準備をしておきなさい。」
14:16 弟子たちは出かけて都に行ってみると、イエスが言われたとおりだったので、過越の食事を準備した。
《説教》『神の備え』
本日のマルコによる福音書14章12節に、「除酵祭の第一日、すなわち過越の小羊を屠る日」とあります。
除酵祭については、先週お話しさせていただきましたが、この「過越の小羊を屠る日」とは、過越の食事のための準備の日のことであり、「除酵祭の第1日」ではありません。何故なら、ユダヤ暦の一日は日没が区切りであり、「小羊を屠る日」はユダヤ暦のニサンの月の14日で、その日の日没から15日となり、そこから「15日」つまり「除酵祭」は始まります。ですから、「徐酵祭の第1日」と「過越の小羊を屠る日」とを同一視している12節には、「一日の食い違いがある」ことになります。
マルコによる福音書は、何故、このような間違いを書いてしまったのでしょうか。14章1節には「過越祭と除酵祭の二日前」という指摘がありました。そして今、「その日になった」と言うとき、恐らくマルコは、「時が満ちた」ということを語りたかったのでしょう。「神の時」が御業の完成に向けて徐々に満ちて行く緊張感を、日付を変えてでも強調したかったのでしょう。
しかし、本日の箇所には、なおそれ以上に強調しなければならないことがあります。この物語の冒頭に、あえて「小羊を屠る日」という言葉を記した特別な意味があるからです。「時が満ちる」その日は、「小羊の屠られる日」であるということを、マルコによる福音書は力を込めて語っているのです。
そこで、過越の祭の意味について、改めて振り返ってみる必要があります。この出来事は繰り返し思い起こすことが必要な、イスラエル民族にとって何よりも重要な神の恩寵の御業として語り伝えられて来たのです。
紀元前13世紀の初め、イスラエルの民はエジプトで奴隷として生活していました。主なる神はご自分の民の苦しみの叫びを聞き、祖先アブラハムへの約束を守り、カナンの地へ導き出されました。このエジプト脱出物語は、出エジプト記に詳しく描かれ、イスラエル民族形成の原点でもあり、忘れ得ぬ出来事として祭られているのです。
このエジプト脱出物語は、モーセが、主なる神に召され、イスラエルを救出する使命を与えられ、エジプトへ遣わされてフアラオ・ラメセス二世に解放を要求しましたが、当然受け容れられません。国家にとって奴隷は大切な財産です。エジプト王が、モーセが伝えるイスラエルの神の言葉を拒否するのは当然です。そこで主なる神は、数々の奇跡を行い、御力を明らかにされました。エジプトにとって最も大切なナイル川の水が血に変わったり、大切な作物を壊滅させる「いなご」を大発生させるなど、数々の異常な災害をエジプト全土に下し、神の力を示されました。ファラオは、その度に神の御前に屈服し、モーセの要求を聞くそぶりをしますが、その災害が終わると直ちに言葉を翻し、奴隷解放を認めようとはしませんでした。なんとこれが9回も繰り返されたのです。遂に、主なる神は、最終的な警告として、エジプト中のすべての最初の子供の命を奪うという災厄を下すに至りました。その時、災いがエジプト人だけに限定されるよう、イスラエルの人々の家の戸口の上に、目印として「子羊の血」を塗ることが命じられ、その血を塗った家の前を、命を奪う神の軍勢が「通り過ぎる」即ち「過ぎ越すであろう」と告げられたのです。ファラオの子を含むすべての最初の子供の命が奪われたその夜、イスラエルの子供は一人も死にませんでした。流石に、屈服したファラオの解放許可を得て、イスラエルの民は直ちにエジプトを旅立ちました。「小羊の血に守られた出発」と言うことも出来るでしょう。これを「出エジプト」と言います。
過ぎ越しの祭りとは、このエジプト脱出の「救いの御業」を覚える日であり、かつて祖先たちを救い出した神の御力を再び子孫たちに向けて示されることを祈る日です。「主は必ずイスラエルを救われる」という信仰が、もっとも具体的に語られる日、希望が確認される日であり、イスラエル民族誕生の日と言ってもよい日でした。
本日の14章12節の「除酵祭の第一日、すなわち過越の小羊を屠る日」というマルコ福音書の記述は、「待ち望まれた救いの時が到来した」という宣言なのです。そしてその際に注目すべきことは、エジプト脱出の日、決定的な解放を獲得した夜に、「小羊の血」がイスラエルを守ったことを思い出せということです。毎年、過越しの祭りの夜、人々は小羊を殺して肉を食べ、遠い昔の恵みを改めて新たに思い返して行く、それがユダヤ人のアイデンティティを形成していました。
そして再び、罪の束縛という奴隷状態から解放するために、犠牲として献げられる小羊が神によって備えられ、「子羊の血が流される時が来た」ということを、マルコ福音書は強く訴えているのです。
ヨハネによる福音書1章29節によれば、初めてナザレのイエスを見たバプテスマのヨハネは「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」と呼びかけています。また、使徒パウロは、コリントの信徒への手紙一5章7節で「キリストが、わたしたちの過越の小羊として屠られた」と言っています。
主イエス・キリストこそ、神によって供えられた人間を罪から贖いだす「犠牲の小羊」であり、「身代わりの小羊」なのです。マルコによる福音書14章12節冒頭の日付は、このことを語っているのであり、第二の出エジプト、「罪の奴隷から解放される日」が来たということの宣言なのです。
かつての出エジプトは、完全に神の御業でした。偉大な指導者モーセですら神が命じられるままに、それをなしたに過ぎません。新しい出エジプト「罪からの解放」も、同じように「御子イエス・キリストが定められた通りに」、すべては実現して行くのです。どのように準備しましょうかと聞く弟子たちに主イエスは、「都へ行きなさい。すると、水がめを運んでいる男に出会う。その人について行きなさい。その人が入って行く家の主人にこう言いなさい。『先生が、「弟子たちと一緒に過越の食事をするわたしの部屋はどこか」と言っています。』すると、席が整って用意ができた二階の広間を見せてくれるから、そこにわたしたちのために準備をしておきなさい」と、考えて見ると実に不思議な御言葉を語られます。
何故かと言えば、「水がめを運ぶ男」とは、通常は有り得ないことだからです。水は重いので運ぶ場合は水がめではなく革袋にいれますし、たとえ水がめに入れたとしても重いので頭の上に乗せて運びます。それも通常は女性の仕事であり、男性は行いません。ですから、「水がめを運ぶ男」とは、極めて異常な目立つ姿であり、そこで、イエスが既に手配をして予め打ち合わせていた「目印であった」と考えることが出来るとも言われています。
あるいは、11章2節以下に記されていたベタニアの村で「先の村に繋いである子ロバ」を予見されたように、主イエスには、将来起こることを見通す不思議な力「予知能力」が備えられていた、と解釈する人もいます。
それについては、聖書は何も記していません。大切なことはただ一つ。これは神の御業であり、すべては主イエスが言われたとおりになる。これが福音書が告げることであり、神の御業がすべてであることを聖書はここに語っているのです。
16節にある「イエスが言われたとおりだった」のです。これがマルコが語る中心をなすテーマです。聖書を読むとき、いつも、この「イエスが言われたとおりであった」という御言葉こそを聞かなければなりません。
聖書は、単なる歴史文書ではありません。「~が起こった」という客観的な記録ではありません。また、聖書は教訓の書でもなく、「~せよ」という抽象的な勧告でもありません。「すべては御言葉のとおりであった」「神の約束は本当に真実なものであった」という驚きの証言なのです。
本日のマルコ福音書の語るメッセージは、「過越の小羊を屠る日が来た」という「神の時の宣言」です。
この「神の恵みの時の始まり」に示された「眼に見えるしるし」が、過越しの食事の用意をすることであったことは、主イエス・キリストの福音をさらにいっそう明確にしているのです。
主イエスがなされた御業の中に、罪人と呼ばれている人々との食事がありました。ファリサイ派の人々や律法学者たちが主イエスを強く非難したのは、徴税人であったアルファイの子レビたちとの食事でした(マル2:15-16)。
さらに、神の国のありさまを語る多くの教えが、晩餐会や宴会にたとえられていることもよく知られている通りです。また、初代教会では、礼拝が夜であることが多かったこともあり、コリント教会などでは、礼拝は必ず食事を伴って行われていました。これが後に「愛餐」と呼ばれるようになりました。
食事が何故これほど大切に考えられていたのでしょうか。食事を共にするのは家族です。食事を共にするということが、「交わりそのもの」「新しい家族」の形成を意味したからです。
ユダヤ人には食事に関するさまざまな規定があり、他の民族の人とは決して同じテーブルで食事をしないとされていました。信仰という同じ恵みを与えられた者同志だけが食卓を共にするのです。何故なら、食事とは、本来、家族が共に摂るものであり、それは単に「空腹を満たす」ということだけでなく、家族同士のように「人と人」「人と神」の交わりの場でもあると考えられていたからです。
今、「食事の場をイエス御自身が用意された」と語られるとき、それは「主によって招かれた新しい交わりの場が用意されている」ということであり、すべての者を招く「神の食卓が備えられている」ということを示しているのです。それが過越の食事であるとするならば、主の御業の意味は明らかです。
私たちの救いの確かさとは、単なる、罪の奴隷からの解放ということにとどまらず、主イエス・キリストが用意された「神の家族の食卓」「神の国の交わりの場」への招きであるということなのです。
神の独り子、キリスト・イエス御自身が、身代わりの小羊となって血を流されることにより、「神の国の食卓への招待状」を私たちに与えて下さったのです。
この恵みを思うとき、「すべてはイエスが言われた通りであった」という聖書の告知は、まさに、私たちの希望と喜びです。主イエス・キリストが用意された「神の家族の食卓」「神の国の交わりの場」へ、お一人でも多くの家族や友人の方々と共に招かれ、共に与りましょう。
お祈りを致します。