あなたは地の塩、世の光

教会学校との合同礼拝

《賛美歌》

讃美歌6番
讃美歌512番
讃美歌77番

《聖書箇所》

旧約聖書:レビ記 23章13節 (旧約聖書164ページ)

2:13 穀物の献げ物にはすべて塩をかける。あなたの神との契約の塩を献げ物から絶やすな。献げ物にはすべて塩をかけてささげよ。

新約聖書:マタイによる福音書 5章13~16節 (新約聖書6ページ)

5:13 「あなたがたは地の塩である。だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである。
5:14 あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。
5:15 また、ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである。
5:16 そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。」

《説教》『あなたは地の塩、世の光』

今日は、教会学校の生徒さんとご一緒に新約聖書マタイによる福音書の「山上の説教」を読みます。このマタイによる福音書の5章から7章までの間にあるイエス様の語られた「山上の説教」とは、5章1節の「山に登られた」という書出しから名付けられました。この「山上の説教」に比べて短いのですが良く似た説教がルカ6章17節以下に記されています。こちらは、「イエスは……山から下りて、平らな所にお立ちになった」と書き始められているところから「山上の説教」と、はっきりと分けるために「平地の説教」とも呼ばれています。

今日の「山上の説教」は、イエス様を信じてついて来た12人の弟子たちに山の上で語られたもので、この福音書に書かれているイエス様による5つの説教の最初のものです。イエス様が神の御子であり、救い主としてのご自身を深く自覚して、宣教・伝道の先頭に立って語られたものです。

既にこの時、イエス様のお名前はユダヤの国中に広まっていて、多くの人々がイエス様の説教を聞きに集まっていました。イエス様がガリラヤ伝道を始められた時の説教は「悔い改めよ。天の国は近づいた」(4:17)でした。そして、この「山上の説教」では、既に天の御国に招き入れられた者たちに対して、その御国とは何であるかを説明されたのでした。

この「山上の説教」はまぎれもなく弟子たちと同じく私たちすべてのキリスト者に語られたものであり、第一にキリスト者の真の幸いとは何か、それは何処にあるのかが語られています。次いで、天の父なる神様を喜ばせるにはどうしなければならないかが語られているのです。

また私たちは、「山上の説教」のすべてが、イエス様ご自身を現わしていることをハッキリと知ることができます。また、それだけではなく、イエス様がモーセの権威をはるかに越える主権を持って、私たちを含めた新しい契約の民の心に、愛による本当の律法を刻み込んでくださっているのです。

この「山上の説教」で最も大切なことは、私たちがイエス様と本当に出会って、イエス様を知ることなのです。

聖書には、神様とは「光そのもの」であると書かれています(Ⅰヨハ1:5)。イエス様は、その「光そのもの」である神様を人々に示するために「世の光」として来られたのです。始めの5章13節と14節には、「あなたがたは地の塩である。だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである。あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない」とイエス様は言われました。ここで、イエス様は「あなたがたは地の塩である」と「あなたがたは世の光である」と断言しています。「どうして地の塩なのか」という説明も、「どんな世の光なのか」という解釈もまったくないままです。

この「地の塩」とは何でしょうか。私たちは人間社会で生きています。学校や会社など周りの沢山の人たちと共に暮らしているのです。そんな中で学校や会社などに対する不平・不満があります。余り好きでない人と一緒に仕事をしなければならない会社、古いしきたりを守っているとしか思えない教会などがあるでしょう。そんな私たちに話しかけるように、イエス様は、弟子たちはこの世において「地の塩」の役割を果しなさいと命じられているのです。塩は味付けはもとより、食べ物が腐ることを防ぎます。その腐敗防止の働きがなければ、塩の存在する意味がなくなり、世の人々からも顧みられなくなります。弟子たちはこの腐敗して腐ってしまう世の中でしっかりと防腐剤の働きをしなければならないとイエス様は教えられているのです。

私たちが不平・不満を周りにぶつけると、周りを腐らせてしまうでしょう。腐らせるのではなく、むしろ周りの人々に対して腐らない様に働く防腐剤としての塩となりなさいとイエス様は言われているのです。

また、「世の光」とは何でしょうか。続く15節と16節には、「また、ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである。そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである」と、キリスト者が世に輝く光として振る舞いなさいと教えられているように聞こえますがそうでしょうか。例えば、牧師個人が教会で光り輝くのでは教会は教会でなくなるでしょう。そうではなく光である神様に照らされ、その光を反射して輝けとイエス様は仰っているのです。

弟子たち、私たちはキリストという光を反射して世界を照らす光となる(エフェ5:8、フィリ2:15‐16)のです。自分が光として輝くのではありません。光であるイエス様が周りを明るく照らす時に、弟子たち私たちは、そのイエス様の光を反射して世界を照らす光となるのです。弟子たちや私たちキリスト者に、イエス様は闇を照らすご自身の光を反射して光り輝けと言われているのです。そしてまた、どんな小さな光でも「家の中のものすべてを照らす」のです。小さな光、小さな私たちが明るくなれば、この世界で周りの人々を照らすことが出来るのです。光として表現されるイエス様の弟子たちの使命は、人々の注意を自分に引きつけることではありません。光である天の神様の光を反射して神様の存在を人々に明らかにして、人々が神様をあがめるようになるお手伝いをするのです。

そして、16節では「あなたがた」と複数を用い、世の光を単数で表してありますが、この「あなたがた」の複数は共同体である教会を現わしているのです。一人一人のキリスト者は、このように光にも譬えられていますが、今日の聖書箇所では共同体である教会全体が、「地の塩」であり「世の光」として神様に仕え、共同の伝道を果たすようにイエス様から命じられているのです。神様の召しである伝道を忘れてしまう教会は、自分自身の塩気をなくし何の役にも立たないものになってしまうと言われているのです。

これらのイエス様の言葉は、このマタイ福音書の最後の28章で、力強く宣言されたあの大宣教命令、「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」(28:18-20)を導く言葉と言えます。

教会が本当に世の光であるのは、キリストを宣教する時のみです。知識や学問ではありません。生きて生活する中にあって、キリストを告げ知らせることが大切なのです。

最後に新約聖書329ページ、コリントの信徒への手紙第二 4章5節をお読みします。「わたしたちは、自分自身を宣べ伝えるのではなく、主であるイエス・キリストを宣べ伝えています。わたしたち自身は、イエスのためにあなたがたに仕える僕なのです。」

私たち一人一人にとって、大切な人たち、身近な人たちに、この素晴らしい光であるイエス様を、この私たち自身の姿で伝えていく者とならせてください。

お祈りを致します。

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偽善と本当のこと

《賛美歌》

賛美歌7番
賛美歌24番
賛美歌280番

《聖書箇所》

旧約聖書:ヨナ書 4章1-11節

4:1 ヨナにとって、このことは大いに不満であり、彼は怒った。
4:2 彼は、主に訴えた。「ああ、主よ、わたしがまだ国にいましたとき、言ったとおりではありませんか。だから、わたしは先にタルシシュに向かって逃げたのです。わたしには、こうなることが分かっていました。あなたは、恵みと憐れみの神であり、忍耐深く、慈しみに富み、災いをくだそうとしても思い直される方です。
4:3 主よどうか今、わたしの命を取ってください。生きているよりも死ぬ方がましです。」
4:4 主は言われた。「お前は怒るが、それは正しいことか。」
4:5 そこで、ヨナは都を出て東の方に座り込んだ。そして、そこに小屋を建て、日射しを避けてその中に座り、都に何が起こるかを見届けようとした。
4:6 すると、主なる神は彼の苦痛を救うため、とうごまの木に命じて芽を出させられた。とうごまの木は伸びてヨナよりも丈が高くなり、頭の上に陰をつくったので、ヨナの不満は消え、このとうごまの木を大いに喜んだ。
4:7 ところが翌日の明け方、神は虫に命じて木に登らせ、とうごまの木を食い荒らさせられたので木は枯れてしまった。
4:8 日が昇ると、神は今度は焼けつくような東風に吹きつけるよう命じられた。太陽もヨナの頭上に照りつけたので、ヨナはぐったりとなり、死ぬことを願って言った。「生きているよりも、死ぬ方がましです。」
4:9 神はヨナに言われた。「お前はとうごまの木のことで怒るが、それは正しいことか。」彼は言った。「もちろんです。怒りのあまり死にたいくらいです。」
4:10 すると、主はこう言われた。「お前は、自分で労することも育てることもなく、一夜にして生じ、一夜にして滅びたこのとうごまの木さえ惜しんでいる。
4:11 それならば、どうしてわたしが、この大いなる都ニネベを惜しまずにいられるだろうか。そこには、十二万人以上の右も左もわきまえぬ人間と、無数の家畜がいるのだから。」

新約聖書:マタイによる福音書 6章1-15節

◆施しをするときには
6:1 「見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい。さもないと、あなたがたの天の父のもとで報いをいただけないことになる。
6:2 だから、あなたは施しをするときには、偽善者たちが人からほめられようと会堂や街角でするように、自分の前でラッパを吹き鳴らしてはならない。はっきりあなたがたに言っておく。彼らは既に報いを受けている。
6:3 施しをするときは、右の手のすることを左の手に知らせてはならない。
6:4 あなたの施しを人目につかせないためである。そうすれば、隠れたことを見ておられる父が、あなたに報いてくださる。」
◆祈るときには
6:5 「祈るときにも、あなたがたは偽善者のようであってはならない。偽善者たちは、人に見てもらおうと、会堂や大通りの角に立って祈りたがる。はっきり言っておく。彼らは既に報いを受けている。
6:6 だから、あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。
6:7 また、あなたがたが祈るときは、異邦人のようにくどくどと述べてはならない。異邦人は、言葉数が多ければ、聞き入れられると思い込んでいる。
6:8 彼らのまねをしてはならない。あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。
6:9 だから、こう祈りなさい。『天におられるわたしたちの父よ、/御名が崇められますように。
6:10 御国が来ますように。御心が行われますように、/天におけるように地の上にも。
6:11 わたしたちに必要な糧を今日与えてください。
6:12 わたしたちの負い目を赦してください、/わたしたちも自分に負い目のある人を/赦しましたように。
6:13 わたしたちを誘惑に遭わせず、/悪い者から救ってください。』
6:14 もし人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたの過ちをお赦しになる。
6:15 しかし、もし人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦しにならない。」

《説教》『偽善と本当のこと』

わたしたちは幸せに生きたいと思います。幸せに生きたいと願っています。
ですが、今、私たち、幸せでしょうか。幸せですか?
誰もが幸せを願っています。でも、幸せって何でしょうか?
私たちが幸せを感じる時は、どんな時でしょう。
聖書は、どう考えているのでしょうか。聖書は、信仰、希望、愛が大切で、最後まで愛は残ると言っています。
幸せの根本は愛です。
愛が大切なのです。
とは言っても、愛ってなんなのでしょうか。
愛って、たとえば、自己愛という言葉があります。
それって、愛でしょうか。聖書が言う愛でしょうか。
それは違うでしょう。聖書が言う愛とは、対極なものです。
私たちが本当に求める愛も自己愛とは違うのではないでしょうか。
愛は自己愛を満たすことではありません。
けれども、私たちは愛されなければ、委縮し、いくら美辞麗句で、塗り固めても心は焼け焦げていくのではないでしょうか。ただ、その美辞麗句をいつのまにか求めてしまうということがあるかもしれません。
とは言っても、もし、いつもけなされたり、頭ごなしに言われたり、下僕に言うように言われたら、魂は焼け焦げて、涙すら枯れてしまうかもしれません。
そんな不幸なことってあるでしょうか。
愛って、何なのでしょうか。それを今日の聖書に聞きたいと思います。
そして、偽りではなく、愛を求めたいと思うのです。

今日の聖書は、「見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい。さもないと、あなたがたの天の父のもとで報いをいただけないことになる。」というイエス様のお言葉からはじまります。
これは、なるほどと思います。
ただ、善行、善い行いは大抵はだれかのためにすることです。ですから、人の前で行うことになるでしょう。
イエス様は、善い行いを人前でするなとおっしゃっているのでしょうか。
それは、違います。
イエス様は、「見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい。」とおっしゃっています。
「見てもらおうとして」というのが問題なのです。
でも、それはこれ見よがしにするなという意味でしょうか。確かにそうも言えます。ただ、それは人に「見てもらおうとして」善い行いをすれば、あざといので人にその意図がばれてしまうから、「見てもらおうとして」善い行いをするなということなのでしょうか。
それも違います。
そもそも、善い行いとはなんでしょうか。
イエス様は続けてこうおっしゃっています。
「さもないと、あなたがたの天の父のもとで報いをいただけないことになる。」と。
すると、善い行いとは「天の父」、神様から「報い」を受けるためにするのでしょうか。それは、「善いこと」をすれば、何か神様から善いことが来るからするのでしょうか。
日本には、「情けは人のために非ず」という言葉があります。
これは、人に情けをかけるのは、巡り巡って自分のためになるから、人のためでなはいという意味です。そう、自分のために善い行いをするのです。
でも、それって本当に善い行いでしょうか。情けでしょうか。自分のために情けをかけるのですから、それは、結局は単に自分の利益のためで、なんの善い行いでもなんでもないのではないでしょうか。
見てもらおうとして善い行いを行うこと、それは、自己愛を満たすだけのことにすぎないのです。
そうではなくて、見てもらおうとしないで、人前で善行を行うことは、それは愛の問題なのです。
人のため、相手のためを思ってすることです。善い行いには愛が伴うのです。
でも、それは一方的なものではありません。疲弊していきます。愛し合うことが大切なのです。
イエス様は、こうもおっしゃいました。
「だから、あなたは施しをするときには、偽善者たちが人からほめられようと会堂や街角でするように、自分の前でラッパを吹き鳴らしてはならない。はっきりあなたがたに言っておく。彼らは既に報いを受けている。」
これもなるほど、イエス様のおっしゃる通りだなと思いませんか。
これは、施しの話です。
善い行いの中で、具体的な話です。それをたとえで、こうしてはならないとおっしゃっています。
それは、「偽善者たちが人からほめられようと会堂や街角でするように、自分の前でラッパを吹き鳴らしてはならない。」というお話です。
人にほめられようと会堂や街角で、ラッパを鳴らしてしていた人がいたんでしょう。でも、今だって、街角で歌を歌っている人はいます。そういう人たちがいけないといっているのでしょうか。
そんなことをイエス様はおっしゃっておられません。
そのラッパを鳴らすということは、宗教的な意味合いがあったのでしょう。ラッパを鳴らすことでいかにも神様に敬虔な人物であるかのように自分を見せていたのです。
そういう施しはしてはならないとイエス様はおっしゃっているのです。結局、自分のための自己愛のための施しだからです。

ところで、イエス様は、お生まれになったあと、どこに行ったでしょうか。その時の王、ヘロデ王は、ユダヤ人の王が生まれると聞いて、その子を探し出して殺そうとしました。イエス様の父ヨセフに天使のお告げがあって、ヨセフはイエス様と母マリアを連れて、エジプトに逃げました。
そこには、父ヨセフのイエス様に対する愛がありました。
ただ、ヨセフとマリアとイエス様の親子は、難民となったのです。当然、施しを受ける立場になったことでしょう。困窮を極めたはずです。人から舐められ、人からの上から目線での施しや、笑われて、さげすみ、善意と称する偽善にもあってきたはずです。身をもってイエス様はそれを体験していたはずです。
そこで、イエス様を支えたのは、神様からの愛と、お互いを愛する愛です。
イエス様は、ヘロデが死んで父ヨセフの故郷イスラエルのナザレに帰ってきました。
ところが、父ヨセフは、早くに亡くなってしまったようです。
イエス様には、母マリアと多くの兄弟姉妹がいました。
イエス様は長男でしたから、母マリアと兄弟姉妹たちを食べさせ、彼らが独り立ちし、母マリアも生活していける段取りをつけてから、伝道にでたのです。もちろん、十戒の「父と母を敬え」という律法があります。それを守ったということもあるでしょう。
でも、大切なのは、イエス様が家族を愛したことです。兄弟姉妹は少なくとも6人以上いたと考えられます。その兄弟姉妹を独り立ちさせるには、相当のご苦労があったはずです。さらに、母マリアがイエス様が伝道にいかれても、食べて行けるようにもなさったのです。どれほどのご苦労がおありだったのか。神の子イエス様が、本当にこの世界で人間として生活され、ご苦労され、律法を守られた、その背景には、イエス様がきちんと家族を愛した愛があったのです。そして、伝道にいかれたのです。神様から愛され、人を愛され、神様と、人とお互いに愛し合う愛がそこにあったのです。
ところで、施しについて、イエス様は、こうおっしゃっています。
「あなたの施しを人目につかせないためである。そうすれば、隠れたことを見ておられる父が、あなたに報いてくださる。」
イエス様のおっしゃる通り、施しは人の目につかなくても出来ます。イエス様は、エジプトにいたとき、善意と称するさげすみの、あるいは自己満足な施しをうけたかもしれません。イエス様は、現実を知っておられるのです。
ただ、ここでも「隠れたことを見ておられる父が、あなたに報いてくださる。」とおっしゃっています。
神様から、報いを受けるために施しをするのでしょうか。
イエス様は、今日の聖書の中で、「主の祈り」を私たちに教えてくださいます。そのお祈りのはじまりは「天におられるわたしたちの父よ、」です。
「父よ」と祈れとおっしゃいます。
たとえば、子供が何か出来たときに、「お父さん、見て見て」とくると思います。そしたら、お父さんは「すごいね。よくできたね。」と言うのではないでしょうか。
それはいけないことでしょうか。
そうではありません。
子供は純粋にお父さんにほめられたいと思っていると思います。それをほめるのは愛です。
「偽善者たちが人からほめられようと会堂や街角でするように、自分の前でラッパを吹き鳴らしてはならない。はっきりあなたがたに言っておく。彼らは既に報いを受けている。」とイエス様はおっしゃっていますが、「偽善者たちが人からほめられよう」とおっしゃっています。
偽善者たちは人からほめられるためにいかに自分が神様に敬虔であるかを見せようとします。それは善い行いでも施しでもなんでもありません。イエス様はこうもおっしゃいました。「はっきりあなたがたに言っておく。彼らは既に報いを受けている。」
これは、何を指しているのか、少し、難解ですが、実は、とても単純で、イエス様のおっしゃるとおり、彼らは報いを受けているのです。
それは、自己愛を満足させることです。
善い行いも施しもすべて、自分の自己愛を満足させることです。そこには愛する対象はありません。すべて自分の利益のみです。なんとむなしくさみしい、魂が焼け焦がれる状態ではないでしょうか。
しかし、私たちにはそうなる誘惑がいつも転がっています。
人から美辞麗句を言われたい、善い人だと思われたい、あるいは敬虔な人だと思われたい、そうやって、偽善の罠が待ち構えているのです。
ただ、偽善には、もう一つあるのではないでしょうか。
自分を綺麗に、良く見せようとするほかに、綺麗なものは、すべて建前で、綺麗事だと考えることです。
一見、真実のようにも聞こえますが、果たしてそれが真実でしょうか。これも偽善なのではないでしょうか。
本当に、善い思いからしていることや敬虔さはかけらもないでしょうか。
イエス様は、施しについて、「あなたの施しを人目につかせないためである。そうすれば、隠れたことを見ておられる父が、あなたに報いてくださる。」とおっしゃいました。
神様からの報いとは、子供がお父さんからほめられたいというの似ているのではないでしょうか。父なる神様が喜んでくださる、父なる神様にほめられたいと。
そして、神様を、あの人を愛するから助けるんだという思いもあるのではないでしょうか。それは善意です。

しかし、この当時の人々は、とくに律法を厳格に守り、敬虔さを売りにしていたファリサイ派や律法学者には、その愛を忘れて、自己愛を満たすことだけにすべてを費やしていったのではないでしょうか。

例えば、赤信号があります。
赤信号ではわたってはならない
それは法律です。
もしかしたら、無機質なものかもしれません。
秩序のためであることは確かです。
でも、赤信号は、人を殺さないためにある、人を傷つけないためにあると考えたら、全く違って読めるのではないでしょうか。人の命を守るためなんだって。それにだれも人を殺したくはないからです。
そういう意味で、愛の法律だって考えることも出来ます。
でも、ファリサイ派や律法学者たちは、律法を厳格に守り為にどんどん無機質になっていったのです。
律法は神様が制定されたものです。
無機質なわけがありません。
例えば、十戒の第1戒「あなたはわたしの他に、何者をも神としてはならない」第6戒
「あなたは、人を殺してはならない」
この二つも神様の「あなたはわたしの他に、何者をも神としないでほしい」「あなたは人を殺さないでほしい」という神様の思いが込められているのです。
それなら、大切なのは、無機質に厳格に守ることではなくて、神様の思いに応えること、受け取ること、それが神様の求めておられることなのです。神様は一方的なことをのぞんでおられるのではないのです。神様の思いが先にあって、それに私たち人間が応える、神様が私たち人間を愛してくださって、私たちも神様を愛する、それを神様は望んでおられるのです。
しかし、私たちは、神様を愛することも、人も愛することも出来ないでしょうか。
そう、イエス様が十字架につけられるまではできなかったのです。だから、イエス様は十字架につけられなければならなかったんです。
善い行いをしているつもりで、実は、人に見られるためにやっていたり、神様に対して敬虔であるように見せかけて、自己愛を満足させるためであったり、愛し合うということは一つもなかったのです。
そこに愛がなかったのです。だから、なんの罪もない神の子イエス様が私たちの代わりに罰を受け、十字架につけられ死なれたのです。そして、神様によってイエス様はその死から復活されました。
愛のない私たちの罪のために、イエス様は十字架につけられて、その死から復活されました。それは愛のない私たちの罪が赦されるためでした。そこに本当の愛があるのです。
ただ、それは、赦されたんだから、何をしても許されるということではありません。たとえば人を何人も殺したり、貶めたりしても、それを悔い改めなくても何をやってもいいなんてことにはならないんです。
むしろ、愛せない自分の罪が赦されたことを知った時、イエス様の十字架と、その死から復活が自分のためであったことを知ったとき、私たちは変えられていくのです。赦しには変化が伴うのです。
少しづつ神様を、人を愛することが出来るようになってくるのです。
神様に愛されて、神様を愛し、私たちは人間同士少しずつ愛し合うことが出来るようになるのです。
今日の聖書ある主の祈りのはじめは、「天におられるわたしたちの父よ」と呼びかけから始まりますが、「わたしたちの」と祈るのです。そこに私たち同士が愛し合うことも秘められているのです。
主の祈りは、愛の祈りです。
イエス様は、現実を知っておられます。
だから、「わたしたちに必要な糧を今日与えてください。」というお祈りがあるのです。私たちの信仰や愛は、精神論ではないのです。
次に「わたしたちの負い目を赦してください、わたしたちも自分に負い目のある人を赦しましたように。」というお祈りがあります。
これは難解です。
何をやられても赦すということを意味するでしょうか。
それは違います。
もし、家族が殺されようとしている、強姦されようとしている、それをすることを許すのでしょうか。それは違います。
殺しに来る相手とは、全力で命をかけて戦わないと勝てません。その時、自分が殺されるかもしれません、そうしなければその相手は止まらないかもしれません。強姦をしてくるあいてもそうです。
ですが、戦わなければ家族の愛は壊れます。
もとに戻ることはないでしょう。
赦しには変化が伴うのです。
悪いことをしても、反省もしない人がいます。でも、それは、既に報いを受けているんじゃないでしょうか。
私たち人間は、赦すことはできないかもしれません。でも、神様は、反省して悔い改めた人をお赦しになるでしょう。
ということは、反省も悔い改めもしないということ自体が裁き、報いになっているのです。
それに、私たちが思う負い目や過ちは、私たちの見る目でしかありません。例えば、私のお祖父さんでは、よく怒鳴る人でした。僕は怒鳴られたことはありませんでしたが、父はとても苦しみました。
一度、理不尽におばあさんに怒鳴っているのを見た私は、お祖父さんにやめろと怒鳴りました。すると聞こえないふりをしたのです。
私はその時、思いました。自分は怒鳴って他の人に嫌な思いをさせているのに、しかも弱いおばあちゃんに、なのに、自分が怒鳴られたら逃げるのかと。自分が嫌な思いを人にさせているのに、自分がやられるのは拒否するのかと。
今日の聖書の最後に書かれている「もし人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたの過ちをお赦しになる。しかし、もし人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦しにならない。」というイエス様のお言葉は、まさにそのことを指しているのではないかと。
確かに、私たちの目に移る負い目や過ちは自分の感覚でしかないかもしれない、でも、その自分の感覚で裁かれるのではないでしょうか。だから、偽善者たちはもう報いを受けているのです。自己愛を満足させるという報いを。
でも、その負い目、過ちを認めるなら、そのことで人を裁くのはやめにしよう、赦そうとなるんじゃないでしょうか。
人に怒鳴るなら、人から怒鳴られても赦そうと。
僕たちがしなければならないことは、神様を愛して、人を愛して、そして愛し合うことです。そして、本当の負い目をイエス様があの十字架で磔にしてくださった私たちの神様を人を愛せなかった自分です。
だから、今は、そのイエス様の十字架とその死からの復活を信じる時、少しづつでも神様を愛し、人を愛し、お互いを少しづつでも愛せるようになるのです。そのために全力で戦うのです。愛の戦いです。神様を愛し、人を愛し、お互いを愛し合うそれが本当の幸せです。だから、この一週間もそうしてすごしてまいりましょう。

聖餐の喜び

《賛美歌》

讃美歌6番
讃美歌352番
讃美歌515番

《聖書箇所》

旧約聖書:詩篇 41篇10-11節 (旧約聖書875ページ)

41:10 わたしの信頼していた仲間
わたしのパンを食べる者が
威張ってわたしを足げにします。
41:11 主よ、どうかわたしを憐れみ
再びわたしを起き上がらせてください。
そうしてくだされば
彼らを見返すことができます。

新約聖書:マタイによる福音書 26章26-30節 (新約聖書53ページ)

26:26 一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えながら言われた。「取って食べなさい。これはわたしの体である。」
26:27 また、杯を取り、感謝の祈りを唱え、彼らに渡して言われた。「皆、この杯から飲みなさい。
26:28 これは、罪が赦されるように、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。
26:29 言っておくが、わたしの父の国であなたがたと共に新たに飲むその日まで、今後ぶどうの実から作ったものを飲むことは決してあるまい。」
26:30 一同は賛美の歌をうたってから、オリーブ山へ出かけた。

《説教》『聖餐の喜び』

今日は、「聖餐」について教会学校の生徒さんとご一緒に考えてみたいと思います。

教会学校の礼拝では「聖餐」が行われていません。教会学校の生徒さんの中には「聖餐」を見たことがない人が居るかも知れません。大人の礼拝でパンと葡萄ジュースが配られてそれを大人たちが飲んで食べているのを見たことがあると思いますが、それが「聖餐」です。

教会学校で「聖餐」が行われていないのは、生徒さんが「洗礼」を受けていないか、洗礼を受けていても幼児洗礼だからです。

パンを食べて、葡萄ジュースを飲む「聖餐」とは、私たちにとって何のために、なぜ行っているのでしょうか。

それには、教会の歴史、古い時代に遡ってみなければなりませんが、今日は時間が少ないので500年前の宗教改革の時代から振り返って見ましょう。

私たちの教会は、宗教改革で生まれ直したプロテスタント教会です。プロテスタント教会では、「洗礼」と「聖餐」だけを聖礼典、神様が行いなさいと定められた正式な儀式とします。聖書の中でイエス様が直接命令なさった儀式はこの二つだけだからです。ただ命令なさっただけでなく、イエス様ご自身がその儀式に直接関わっておられます。

イエス様ご自身がマタイ福音書最後の28章18節から「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。」と命じられているのです。これを主イエス・キリストの「大宣教命令」と呼んでいます。

今日の聖書箇所マタイ福音書26章には「パンを取って食べなさい。杯から飲みなさい」とあります。マタイ福音書28章の「大宣教命令」では「洗礼」を授けなさいとあります。イエス様ご自身が26章で「聖餐」を、28章で「洗礼」をしなさいと命じられているのです。。

「聖餐」は、今日の聖書箇所で記されるようにイエス様ご自身がパンを裂き、杯をとり、弟子たちと分かち合われました。イエス様が弟子たちと最後の晩餐をする場面です。イエス様はこの弟子たちとの最後の晩餐の直ぐ後で捕まえられて十字架に架けられてしまうのです。このイエス様との最後の食事は弟子たちにとっても決して忘れられないものになりました。それは、イエス様がこんなことをなさったからです。まずパンをとってお祈りをしてそれをいくつかに裂いて弟子たちに分けられました。そして弟子たちに裂いたパンをお与えになりながらおっしやいました。「取って食べなさい。これはわたしの体である。」 弟子たちは「これからイエス様の体がこのように裂かれてしまうのか。悲しい。でもイエス様にずっとついていくのだ」と固い覚悟をしていました。続いて、イエス様は葡萄酒が入った杯をとって弟子たちに差し出し、「皆、この杯から飲みなさい。これは、罪が赦されるように、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。」と言われました。「わたしの血によって、あなたたちは罪が赦される。このわたしの約束を信じて生きていきなさい」と言われ、弟子たちは、「イエス様はこれから血を流されるのだ。恐ろしい。でもイエス様のことを守り抜こう」と思ったことでしょう。しかし、イエス様はこの後ゲッセマネと呼ばれる場所でお祈りをしますが、そこで捕まってしまい、そのまま十字架に架けられ死んでしまいます。すると、あれだけイエス様を守ると言っていた弟子たちはてんでんばらばらに逃げ散ってしまいました。イエス様にどこまでもついていきます、イエス様を守り抜きます、と言った筈の弟子たちは、自分の身に危険が迫ると怖くなってしまいました。イエス様は十字架で死んでしまわれました。その十字架の死は私たち人間の罪を赦すためであったのです。そして神様のご栄光をあらわすために死から蘇られ「復活」されました。その十字架の主イエスの裂かれた体と流された血によって私たちの罪が贖われ赦されたのです。復活された主イエスにお会いした弟子たちは、力づけられて新しい生き方をするようになりました。教会をたて、主イエスのことを人々に伝えたのです。

その時から、イエス様がお命じになったように、教会に集まってパンを裂いて一緒に食べ、杯からぶどう酒をみんなで飲み始めたのです。パンを裂き、杯から飲む時、そこに主イエスが居てくださる、と信じるようになったからです。弟子たち、そして教会はこのことをずっと続け、私たちの教会もこれを主イエスの食卓、聖なる晩餐「聖餐」と呼ぶようになりました。今も、私たちは聖餐式でパンを裂き、葡萄ジュースを飲む時、主イエスがそこに居てくださり、主イエスと一つになっているのです。「聖餐」にあずかるとき、十字架にかかってくださった主イエスのことを思い出し、復活なさった主イエスがここにいらして、パンを差し出してくださるのです。杯から飲む時、十字架で流されたあの血を思い出し、復活された主イエスが終わりの日にまた会おうといってくださった約束を思うのです。

「聖餐」は神様から私たちに対しての一方的な恵みです。主イエス・キリストの体と血をいただくということはキリストと一つになることを意味します。私たち罪人は聖餐に与るために清められなくてはなりません。その清めは「洗礼」によって与えられるのであり、主日礼拝の説教において清めが宣言されているのです。罪の赦しなしに「聖餐」はありえません、その赦しはただ神様の一方的な愛として、恵みとしてのみ起こるのです。従って「聖餐」も、神様を信じる信仰において受け取るべきものです。

神様からの一方的な恵みである「聖餐」は単に救われたことの証拠や「洗礼」を受けた証拠ではありません。

「聖餐」とは私たちの信仰と魂に対する食べ物であり栄養なのです。「聖餐」とは私たちに生きる力を与える糧なのです。この「聖餐」がないとクリスチャンは霊的な栄養失調になって、ひどくなると霊的に死んでしまうのです。「聖餐とは、主の体と血にあずかることによって、私たちの魂が永遠の命の希望のうちに養われることを保証するために、私たちの主がこれを制定されたのです」(ジュネーブ信仰問答 問340)。

「聖餐」を通して、聖霊の働きによって私たちは、キリストと一体となり、キリストの命「永遠の命」を頂き、天の父なる神様、子なる主イエス・キリスト、聖霊なる神様との交わりに中に加えられるのです。そしてそのことによって、私たちはキリストの体である教会の肢となるのです。

「聖餐」は信仰において受けるべきものですが、それは決して頭で考えるだけのものではありません。パンを食べ、葡萄酒を飲むことはキリストの肉と血を食すことです。私たちの信仰とは頭の中や心の中だけなのではなく、血と肉を伴うものなのです。ですから「聖餐」によって信じる者の体もつくられ、その人の信仰は人生、生活そのものになるのです。信仰の自覚が深まり、自分自身を生きた聖なる供え物として神様に献げることができるようになります。「聖餐」とは神様からの恵みであり、同時に献身につながる応答でもあるのです。

お祈りを致します。

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私の軛(くびき)を負いなさい

《賛美歌》

讃美歌9番
讃美歌352番
讃美歌312番

《聖書箇所》

旧約聖書 申命記 1章29b~31節 (旧約聖書280ページ)

1:29b 「うろたえてはならない。彼らを恐れてはならない。
1:30 あなたたちに先立って進まれる神、主御自身が、エジプトで、あなたたちの目の前でなさったと同じように、あなたたちのために戦われる。

新約聖書 マタイによる福音書 11章28~30節 (新約聖書21ページ)

11:28 疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。
11:29 わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。
11:30 わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」

《説 教》

今日、示された新約聖書の御言葉は、教会では度々「招きの言葉」・「招詞」としても大変良く用いられる御言葉で、キリスト者にとっては、諳んじて覚えられているほど馴染み深い聖書箇所と言えるでしょう。

本日のこの聖書箇所の少し前の11章20節から振り返って見ましょう。主イエスは、ガリラヤで伝道を始められてから沢山の奇蹟をされましたが、ここには、悔い改めなかったガリラヤの町を主イエスが叱り始められたとあります。それらの町の人々は、主イエスに癒しや悪霊からの解放を求めました。しかしながら、ティルスとシドンの人々は主イエスの御言葉に耳を傾けても悔い改めることをしませんでした。主イエスは、これらのガリラヤの町は旧約聖書に引用されている「ソドム」や「ゴモラ」などより重い罰に値すると言われたのでした。これらのガリラヤの町は、神の御子主イエスの御言葉を直接聞くことができ、すぐにも、悔い改めて主に聞き従えるという有利な立場にありながら、旧約聖書に出て来る町「ソドム」や「ゴモラ」と同じように、主イエスの御言葉に応答しなかったからなのです。ガリラヤの地で伝道を開始された主イエスの御言葉には力がありました、その最初の御言葉は4章17節にある、「悔い改めよ。天の国は近づいた」です。この御言葉を聞き信じた人々は、最も大切なこととして、主イエス様ご自身が言われた「わたしの軛を負いなさい」という御言葉に聞き従ったのです。今日の御言葉の直前の25節以下で主イエスは、「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。そうです、父よ、これは御心に適うことでした。」と言われています。自らを「知恵のある者や賢い者」として高ぶる者には神の国の真理は隠され、幼子のように素直に心を開き信頼する者に、神の国の真理は明らかにされると主イエスは語られたのです。

人間にとって神様を信じる信仰という霊的な行為は、人間の常識とは別のものであることを主イエスは語られたのです。主イエスが「父」と呼ぶ神様が、御子である主イエスを通してご自身を現したのであり、主イエスは神様のひとり子として父なる神様と特別で密接な関係にあることを話されたのが、主イエスの伝道の御言葉でした(2:15、3:17、4:3、6、8:29)。御子イエスが父なる神様を人々に知らせなければ、人は父なる神様を知ることは出来ない、人は主イエスを通してしか神様を知ることが出来ないことを語られたのです。

28節で、主イエスは、「疲れた者」と呼びかけておられます。この「疲れた者」とは、当時の律法学者やファリサイ派の人々によって、律法の重荷を負わされていた民衆です。毎日毎日さまざまな掟によって縛り付けられていたユダヤの人々のことでした。

律法とは、ユダヤの人々が生きて行くこと、日々の生活を神様の恵みと喜び、感謝しながら過ごす中にあるもので、本来人々に知恵を与えるものでした。しかし、当時のユダヤ教の祭司や律法学者、ファリサイ派の人々は多くの律法の規定を作り出してしまい、かえって律法を重荷にしてしまったのでした。そして、この「疲れた者」に対する聖書の御言葉と主イエスの約束は、今ここに生きている私達に向けられた御言葉でもあるのです。

私たちの人生にはさまざまな労苦があります。重い重い、重荷があります。私達を疲れさせるものが沢山あります。疲れ果ててしまっている私達に対して、主イエスは、「疲れた者」と呼びかけておられるのです。

これは私達疲れ果てた者に対する主イエスの呼び掛け・招きです。ここで主イエスが私達に与えようとされている「安息」とは一体どんなものでしょうか。また、それは本当に必要なものであるということを、私達が充分に理解しているでしょうか。世の中には、重荷を負っている人は沢山居ますが、その重荷は、主イエスによってのみ軽くして頂けるものなのでしょうか。本当にそうなのか、どうしたらそうなるのか、ということだけでなく、その内容を私達がどれだけ知っているのでしょうか。例えば、世の中の多くの人々は酒を飲むことによって、重荷をおろそうとしています。もしかすると、キリスト者でありながら、キリストのところへ行って重荷をおろすより、一杯やったほうが気が晴れると、心の奥底の何処かで思っている人も居るのではないでしょうか。私なども、長いサラリーマン生活の中で、ついつい深酒をしてしまったこともありました。こんな一例に限らず、私達は「重荷を負っている者こそ、この私達なのだ。」と思っています。それほど重荷は何処にでもあるのです。そして、何と自分が重荷を負っていることは当然分かり切っているのですが、その「重荷の正体」を実は何も分かっていないのではないでしょうか。「重荷の正体」とは、いったい何なのでしょうか。今日、私達に示された28節の御言葉を読んで気付かされるのは、実は私達が重荷だ、重荷だと思っていたものを、主イエス様が「そうだ、それがお前の重荷だ。」と簡単に受け入れて下さっているのではないということです。

そうではなく、私達が「これは苦しく悲しい、大変な重荷だ」と考えるよりも、ずっと深い思いで、本当の重荷とは何か、私達を苦しめている本当の重荷とは何であるかを主イエスは見抜いておられるのです。

私達を、疲れ果てさせて、絶望の淵にまで追い込んでいるものは、いったい何であり、どんな重荷なのでしょうか。それを本当に取り除いてしまう道はどこにあるのでしょうか。その重荷を取り除くことに関連する御言葉として29節には「そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。」と主イエス様は仰っています。口語訳聖書では、主イエス様は「そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられるであろう。」と若干違った訳になっていますが、29節のこの日本語に訳されている「得られる」と「与えられる」との言葉は元来「見出す」という言葉です。

苦しく重い「重荷」を放り出したり、下ろしたりするのではないのです。そうではなく「安らぎを見出す」と主イエスは言われたのです。私達は人生において、苦しい時や悲しい時に、得てして「ああ、休みたい、ここで荷を下ろして休みたい。」と思います。しかし、主イエスは言われました。重荷とは放り出したり、下ろしたり出来るものではない、また、主イエスによって与えられる「安らぎ」とは、その重荷を負った者に、重荷を負ったままで与えられるものなのだと、言われているのです。この主イエスの与えられる「安らぎの約束」は、その前にある2つの御言葉を前提としています。その二つの御言葉は「わたしの軛を負いなさい」と「わたしから学びなさい」の2つです。そうすれば主イエスは重荷を負ったまま「休ませてあげよう」と言われているのです。「安らぎ」を与えられるのは、主イエスの軛を負って、主イエスに学ぶときであると、はっきりと言っておられるのです。主イエスは「その重荷を下しなさい」とか「わたしが重荷を下ろしてあげよう」と言われているのでは決してないのです。実に、この人生の重荷は下ろすことも、外すことも出来ないのです。言ってしまえば「重荷は死ななければ下ろせない」のです。この下ろせない重荷を軽く担えるようにして下さるのが、主イエスが言われた「わたしの軛」なのです。

現代社会、それも都会に生きる私達にとってまったく馴染みのない、「軛」とは何でしょうか。「軛」とは、通常2頭の牛などの家畜の首の間に渡され、運搬や農耕の作業時に家畜の力を使うために装着された道具です。2頭の家畜の間に渡して鋤を引かせて畑の畝起こしをしていたと言われれば想像することができるでしょう。日本の田畑は土が柔らかく通常1頭の家畜で鋤起こししていましたが、荒れ地で固い土が多かったパレスティナでは左右2頭の家畜に渡した「軛」が使われていたのです。この軛は、家畜を傷めないために1頭づつのオーダーメードで作られていました。この軛は家畜にかかる負担を下げて、皮膚が剥けたりしないよう上手く作られないといけませんが、公生涯前の若きイエス様はこの軛制作の匠でもありました。そのイエス様の経験が、「軛」という御言葉に現れているのです。また、そればかりではなく、当時のユダヤ人は、元来家畜が重荷を負う時に用いられた道具である「軛」という言葉を比喩的に『掟』を意味するものとして用いました。当時のユダヤ人の世界では、重荷を背負いながら、生きていく時の最も優れた生き方として、掟である律法、例えて「軛」によって生きることが求められていたのです。その「掟」である「軛」を主イエスは「軛なんかいらん」「軛は外してしまえ」と仰ったのではないのです。「わたしの軛を与えよう」すなわち「わたしの新しい掟を与える」と仰っているのです。この主イエスの新しい掟である「軛」は、明らかに主イエスによる、新しい教えであり、新しい律法であり、新しい約束なのです。主イエスの「新しい掟」とは、『山上の説教』に代表される福音です。主イエスの「新しい掟」である福音とは律法を廃止するためではなく、“律法を完成させるため”に主イエス様が与えられた「軛」なのであると、『山上の説教』で高らかに宣言されています。

私達は、この世に生きるとき、人生の重荷が、軽重の差は別としても、間違いなく厳然と存在するのです。

その人生の重荷のために、「安らぎ」を得られるのは、死ぬ時しかないとさえ考える人もいます。ここに自殺の誘惑が生じているとも言えましょう。もちろん、この「安らぎ」を自ら命を絶つこと、自殺することによって得られると考えることは、大変悲しいことです。そんな、不幸な現実から主イエスは私達を救い出して下さるのです。それは、私達の担いきれない重荷を主イエスが担って下さるから私達は生きることが出来るのです。自分に与えられた重い命、重い人生を軽々と担って生きられる、そんな生きる道があるのだと、主イエスは言われているのです。「わたしの軛を負いながら、生きなさい」と言われているのです。

それでは、「主イエスの軛」はなぜ軽いのでしょうか。それには2つの理由があります。その一つは、「軛」とは、2頭の家畜をつないで2頭の首に掛けられ重荷を引くものです。2頭の家畜が軛で一つとなって重荷を引くのです。その軛が軽くなるためには、あなたが自分の首に掛けた一方の軛、そのもう一方は主イエスご自身が担ってくださるのだ。だから主イエスの軛は軽いのだ。大変分かり易い話です。もう一つは、私達が生きる際の重荷をすべて主イエス様に委ねることが、この聖書箇所で許され約束されているから、重荷はすべて神様にお委ねする。私達の重荷を主イエス様が背負って下さるというのです。

昔は作者不詳と言われていましたが、現在は作者の分かった有名な詩があります。私の大好きな詩です。お読みします。

ある夜、わたしは夢を見た。
わたしは、主とともに、なぎさを歩いていた。
暗い夜空に、これまでのわたしの人生が映し出された。
どの光景にも、砂の上にふたりのあしあとが残されていた。
一つはわたしのあしあと、もう一つは主のあしあとであった。
これまでの人生の最後の光景が映し出されたとき、
わたしは、砂の上のあしあとに目を留めた。
そこには一つのあしあとしかなかった。
わたしの人生でいちばんつらく、悲しい時だった。
このことがいつもわたしの心を乱していたので、
わたしはその悩みについて主にお尋ねした。
「主よ。わたしがあなたに従うと決心したとき、
あなたは、すべての道において、わたしとともに歩み、
わたしと語り合ってくださると約束されました。
それなのに、わたしの人生のいちばんつらい時、
ひとりのあしあとしかなかったのです。
いちばんあなたを必要としたときに、
あなたが、なぜ、わたしを捨てられたのか、
わたしにはわかりません。」
主はささやかれた。
「わたしの大切な子よ。
わたしは、あなたを愛している。あなたを決して捨てたりはしない。
まして、苦しみや試みの時に。
あしあとがひとつだったとき、
わたしはあなたを背負って歩いていた。」

30節にある「わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」と約束されている理由は、まさに主イエスご自身が、私たちの苦しみや試みの時に、主イエスが私たちを背負って歩いて下さるからです。

あの『山上の説教』の中で主イエスが力強く言われておられる「思い悩むな」と約束は、私たちの生きるための労苦のすべてを、主イエスが共に担って下さり、背負って歩まれるからなのです。

また、「私に学びなさい」とは、父なる神様の御心をすべて従順に受け入れられたことを主イエスに学ぶということです。人生のすべてにおいて、神様に聞き従うすべを主イエスに倣って学ぶのです。それは、自分のすべてを神様に委ねてしまうことでもあります。そして、その結果、主イエスが、あなたに代わって人生の重荷を背負って下さるのです。従って、あなたは軽くなった人生の重荷を喜びをもって担うことが出来るのです。

今日の、この28節から30節のたった3節の間には、「わたしは」「わたしに」「わたしの」と、合計6回も主イエスの「わたし」が出て来ます。ここには、「わたしを通らなければ誰も・・・できない」を強調して、父なる神様へのとりなしをされる主イエスの重要な役割が述べられているのです。しかも、29節の「わたしは柔和で謙遜な者だから」とあるように、主イエスは神の柔和と謙遜そのものです。私達にとっては、倣うべき見本なのです。

主イエスは神と等しい者であることを好まず、ご自分を無にして、僕の身分になり、私達に仕える者となって下さり、2頭立ての軛の一方を、共に担って下さるだけでなく、時として疲れ切った私たちを背負って歩かれるのです。しかも、「疲れた者」である私達のふらつく歩みに合わせてゆっくりと、また背の高いイエス様は私達の背丈に合わせてかがむように軛の一方を担って下さるのです。

神様と等しい者でありながら、私達に仕える者となられた主イエスは、「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。」と、この苦しみ悲しむ私達を優しく招いておられるのです。

主イエスのご生涯は、ただ私達のために“安らぎ”を与えるためのものでした。そして、主イエスが私達の人生を、ただ重く、苦しく喘ぎながら生きるのではなく、軽やかに神の恵みの中に生きる人生に変えて下さったのです。私達もまた、主イエスに倣って、柔和と謙遜に生きることが出来るのです。主イエスの掟が軽いことを知っているからこそ、主イエスと共に「軛」を負いつつ柔和で、謙遜に生きることが出来るのです。主イエスから、人に仕えることの軽やかさを教えられるのです。

それでは、お祈りを致します。

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2020年2月号

「知恵と知識の宝はすべて、キリストの内に隠れています。」

新約聖書、コロサイ2章3節

このお便りは、なりむね教会からのメッセージです。キリスト教会は神様の愛について学び、伝えます。子供さんも大人の方も、読んでいただければ幸いです。


山口智代子先生のお話

(2020年1月19日になされたものです。)

聖書:マタイによる福音書25章14-30節

今日のお話は、イエス様が話された例え話についてです。イエス様は、神さまがどういう方か、そして神の国はどういうところであるかを教える為にいろいろな例え話をされました。

今日のタラントンの例え話もそのひとつです。

ある家の主人が旅行に出かけることになりました。この主人は、自分がいない間、3人の僕に自分の財産を預けました。最初の1人には5タラントン、もう1人には、2タラントン、そして3人目の僕には、1タラントンを預けました。

タラントンはお金の単位です。タラントンとデナリというお金が使われていました。当時、1日のお給料が1デナリでした。1タラントンと6000デナリは同じです。1タラントンは、週に1日休んだとしても、約20年分のお給料になります。1タラントンでも相当な金額になります。そんな大金を預けるのですから、この主人は僕のことをすごく信頼していました。

5タラントン預かった僕と2タラントン預かった僕は、主人の信頼に応えようとしました。

5タラントン預かった僕は、それで商売を始めました。そして倍の10タラントンにしました。2タラントン預かった僕も、同じように商売をして、財産を倍の4タラントンにしました。ところが、1タラントン預かった僕は、出かけて行って、地面に穴を掘って、そのお金を埋めてしまいました。それで商売して失敗したらご主人に怒られるかもしれないと思ったのです。この僕は、自分に預けられた1タラントンを増やそうとしませんでした。この僕は、自分には少ししか預けてもらえなかったことにがっかりしたのかもしれません。5タラントン預かった僕と2タラントン預かった僕は、主人の信頼に応えようと一生懸命働きました。

だいぶ日が経って、ご主人が帰ってきました。5タラントン預かった僕と2タラントン預かった僕は、喜んでご主人の前に出て、預かったお金と儲けたお金を差し出しました。2人が預けられたお金を一生懸命に働いて増やしたことをとても喜びました。

1タラントン預かった僕は、埋めておいた1タラントンを差し出して、こう言いました。「あなたは蒔かないとこらから刈り取り、散らさない所からかき集められる厳しい方だと知っていましたので、恐ろしくなり、出かけて行ってあなたのタラントンを地の中に隠しておきました。ご覧ください。これがあなたのお金です。」

その僕は、主人のことが怖くて、もし失敗したら怒られると思って、何もしなかったのです。結局は主人を信頼していなかったのです。

すると主人は厳しくその僕を叱りました。銀行に預けておけば利息がもらえたのに、それさえもしないお前は怠け者だと言って、その僕を外に追い出してしまいました。

主人はこの1タラントンを預けられた僕が単にそれで商売をしてお金を増やしてほしかったわけではないのです。たとえ商売をして失敗して、その1タラントンをなくしてしまったとしても、主人はこんなに怒ったりしなかったと思います。何も努力しなかったことに対して叱ったのです。主人はお金を増やすことを重視してはいなくて、それを活用してほしかったのです。1タラントンの僕も自分が預かったものを何とかしてふやそうとしていたならば、主人は3人の僕に対して、区別なく、同じように褒め、そして喜んだでしょう。

私達も神さまからこの命を預かっていますし、命と一緒にいろいろな能力も預かっています。自分は何タラントン預かっていますか。そう聞かれたら、大抵の人は1タラントンだと答えると思います。他のお友達には多くのものが与えられているように思いがちです。他の人をうらやましく思ってしまうこともあります。でも、私達の目から見れば違うようでも、神さまからみれば、同じタラントンを私達に預けているのです。その為、預けられているタラントンを他の人と比べるべきではないのです。

私達の世の中では、5タラントンの僕が一番偉くて、2タラントンの僕がその次であるということになってしまっています。でも、自分が持っているものを一生懸命に活用したらそれで良いと神さまはおっしゃって下さいます。5タラントンでも2タラントンでも差はないのです。神さまは、私達一人一人が持っている特別な賜物をご存知です。私達一人一人に相応しいタラントンを預けて下さっています。きっと、応援して下さっています。私達は、神様から預けられたものを 感謝して頭を使って生かしたらそれで良いのです。神さまは、そのことを喜んで、「よくやった。良い忠実な僕だ」と褒めてくださいます。

2月の御言葉

「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。」

ヨハネによる福音15章1節

2月の教会学校礼拝

(毎週日曜日、朝9時15分~9時45分)

★ お話の聖書箇所と担当の先生

聖書 お話
2月  2日(日) ルカ15章11~24節 藤野雄大 先生
    9日(日) ヨハネ15章1~24節 斉藤 紀 先生
   16日(日) ルカ10章25~37節 興津晴枝 先生
   23日(日) 大人と合同礼拝 藤野雄大 先生

お知らせ

🌸2月23日(日)は大人との合同礼拝となります。この日は10時半から礼拝が始まりますので、ご注意ください。