あなたの父と母とを敬え

聖書:箴言232225節, マタイによる福音書1549

 今日の説教題をごらんください。「あなたの父と母とを敬え」です。これが 十戒 の戒めのうちの、第5番目の戒めであります。とてもシンプルで、だれもが納得する戒めです。しかし、この戒めはただ単に血縁関係にある父母を敬いなさい、とか、両親の言う通りにしなさいという道徳的な勧めではありません。古代イスラエルでは、両親は神への畏れや信仰を子どもたちに伝達する役割を果たしていましたから、いわば、神さまの代理のような存在であったのです。子どもたちは、神さまを礼拝する生活と信仰を父母から継承し、それをまた次の世代に伝えました。イエスさまも、神さまを天の父と呼ばれ、また弟子たちにも祈る時には「天にまします我らの父よ」と呼びかけなさいと教えられました。

神はすべてのものをお造りになり、また人間を御自分に似た者としてお造りになりました。そして私たちが生きるために沢山のものを与え、管理させ、神さまがそのすべてを支えておられるのです。真に神さま御自身が、わたしたちに天の父と呼ばれることを許してくださっています。それは真の神の子、救い主イエスさまが私たちに教えてくださったことです。このようにして、私たちは地上に父を持っている一方、神さまを天の父と呼ぶのです。

またわたしたちは地上に母を持っていますが、その他に、私たちには母と呼んでいるものがあります。それは何でしょうか。それは教会です。教会は母なる教会と呼ばれます。なぜでしょうか。それは、教会がイエスさまを信じて洗礼を受け、新しい命に生きる人を生み出すからです。クリスチャンは教会から生まれます。だから、私たちは天には父がおられ、教会を母として生まれた神の子なのです。

さて、そう考えると「あなたの父と母とを敬え」という戒めは、ただ単に親孝行しなさい、というようなこと。また両親の言うことを聞きなさいというようなことではないことが分かります。私たちが具体的に、この親の子供であるということは、不思議なことです。神さまからこういう親をいただいた、ということですから。わたしたちは誰も、親が子を選んだのでもありません。また、子が親を選んだのでもないのです。それはただ一重に、神さまがくださった親子の関係です。神さまが選んで私たちに父母を与えてくださり、その父母の力によって育てられたのですが、本当は神さまのご支配がここに働いてくださったからこそ、親子の関係ができるのです。

父母を敬うことは、神さまの導きを信じるからこそ、できることです。だからこそ、親から受けたものを子に伝えていくことができます。つまり、父母を敬うことは神さまを信頼し、神さまを敬うからこそ、できることなのではないでしょうか。神さまに信頼し、自分の道は神さまが備えてくださると信じる人は、神さまから離れないでしょうし、父母からも離れ去ることはないでしょう。しかし、わたしたちの多くは人生の主に若い時に、あるいは中年の時に、父母に反抗したり、父母を煙たく思ったりするところを経験しております。ルカ15章の有名な放蕩息子の話(139頁)のように。ただもう「父親から離れたところで、思う存分好きなように暮らしたい」という思いは、同時に神さまからも離れて生きる生活に陥らざるを得ないのです。だからこそ、放蕩息子は悔い改めて父に謝罪するとき、こう言わずにはいられませんでした。「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました」と。

放蕩息子の例え話は、豊かな財産を持つ父親と若くて力のない息子の関係として描かれていますが、今日読んでいただいたマタイ福音書15章でイエスさまが指摘している親子の関係はそうではありません。4節からイエスさまのお言葉を読みます。「神は、『父と母を敬え』と言い、『父または母をののしる者は死刑に処せられるべきである』とも言っておられる。」これらの言葉は、一つは出エジプト記20章12節の言葉であり、もう一つの『父または母をののしる者は』という戒めは、レビ記20章9節の言葉です。どちらも単純で率直な戒めです。親をののしる、または呪う者は死刑に処せられる。恐ろしく厳しい言葉ですが、その意味は誰でも理解できる、心に響くのではないでしょうか。

神さまが人々に律法を与えになった目的は、人々が真心から神さまを礼拝するというところにあります。そこにすべての幸いの源があるからです。十戒で見るとおり、神さまを礼拝する人生といいますか、生き方はそんなに複雑なものではありません。むしろ単純素朴であるといえるでしょう。第一戒から振り返ってみるならば、それは「あなたは、わたしのほかに、何ものも神としてはならない」です。とても明快ではないでしょうか。第二戒は偶像礼拝の禁止です。また第三戒は神さまのお名前を心から大切にすることを命じられています。ところが、第四戒の安息日の戒めについても、神さまがお命じになったことを形式的に守ろうとするうちに、次第に神さまを礼拝する真心を考えなくなってしまう。

そして安息日にしてはいけないことを増やす。ここまではしても良いが、ここからはしてはいけないことを増やすのです。事細かなルールを作り出してそれも十戒と同様に守ることを要求する人々がいました。それが律法学者とファリサイ派の人々でした。先週読んだマタイ福音書の例では弟子たちが安息日に麦畑を通った時、お腹が空いていたので、麦畑に入って麦を摘んで食べたことを、彼らは見とがめて、これは安息日にしてはいけない労働であると非難したのでした。それと同じように、今度は弟子たちの食事の前に手を洗わないといって咎めました。しかし、よく考えてみれば、だれにでも分かることがありました。食事の前に手を洗うことは衛生的に良いことですが、それは神さまを心から礼拝することとどれだけ関係があるのでしょうか

そこでイエスさまが持ち出したのが「父と母を敬え」の戒めであり、また『父または母をののしる者は死刑に処せられるべきである』というみ言葉です。こんなに単純明快な戒めはないのではないでしょうか。イエスさまは続けて、ファリサイ派の人々、律法学者たちが決めたルール思い出させます。15章5-6節。「それなのに、あなたたちは言っている。『父または母に向かって、『あなたに差し上げるべきものは、神への供え物にする』と言う者は、父を敬わなくてもよい』と。こうして、あなたたちは、自分の言い伝えのために神の言葉を無にしている。」

この言葉は十戒に代表されるような聖書に記された戒めではなく、長い間に出来上がった言い伝えであります。この言い伝えによれば、ある人が自分の持ち物の一部を神さまに供え物として捧げたとします。その人は、一部を捧げ、その残りを自分のものとして所有し続けることができます。その一方で、その持ち物は神に捧げられたのだから、その両親を扶養するために、持ち物から少しも差し出さないで、もっともらしく父母の扶養を断ることができるという話なのです。なぜ、このような言い伝えが出来たのでしょうか。それは、神殿に仕える人々(レビ人)の利益となったからです。こうすれば、人は自分の持ち物の一部を神さまに捧げたとして、実際はそれは神殿に仕える人々のものとなり、そして残りは丸々、その人の手元に残る訳ですから。

主イエスはこれを非難なさいました。また当時のラビ、教師と言われたたちの多くも、主イエスのようにこのような不正を非難したが、それでも、このような言い逃れは行われていたことが分かります。このような不正。神さまを口実に使った偽善は、神の言葉を無にすることそのものを表しています。「父と母とを敬え」と言われている父母とは、どのような父母でしょうか。今日読んでいただいた箴言の23章22節。「父に聞き従え、生みの親である父に。母が年老いても侮ってはならない。」「父と母とを敬え」と命じられている本人は既に大人になった人でしょう。そうすると、神さまが命じられている対象は、若い両親ではありません。年老いて、力も衰え、自分で働くことのできない父母が思い描かれるのではないでしょうか。そして今の時代のように、社会保障制度がない時代であったのですが、そんな時代にも高齢の父母を見捨てるために、どうやって第五の戒めを回避できるかに心血を傾けているという浅ましい人間の罪が見えて来るのではないでしょうか。

マタイ15章8-9節『この民は口先ではわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。人間の戒めを教えとして教え、むなしくわたしをあがめている。』」こうして神さまの戒めは、無にされ、無視されている、この偽善の罪をイエスさまは鋭く指摘されているのです。神さまの戒めの目的に、立ち帰りましょう。それは神さまを礼拝することを目指しています。礼拝のために安息日が与えられました。毎日が繰り返される同じ一日のようであっても、時間が絶え間なく流れていくようであっても、神さまは人に御自身の安息を与えて下さり、人の心を神さまに向けるシンボルの日を、時間の中に定めてくださいました。

それが第四の戒めであったのですが、神さまは第五の戒めにおいて人と人との交わりの中に神さまとの関係を造り出してくださいました。父母がいる。父母は神さまが自分に与えられた存在であると思う。その思いは神さまを信頼する信仰から生まれるのです。自分中心に思えば、なかなかそうは思えない。自分に都合の良い時は、父母に頼ったけれども、父母はいつも自分に都合よくしてはくれない、と思う自己中心が、いつも人にはあるのではないでしょうか。そのようなわたしたちに、第五の戒めが与えられています。出エ20章12節にはこう書いてあります。「あなたの父と母とを敬え。そうすればあなたは、あなたの神、主が与えられる土地に長く生きることができる。

父と母とを敬うことと主が与えられる土地に長く生きることができる、ということがどうつながりがあるのでしょうか。それはつながるのです。なぜなら、ずばり、ここに神さまの祝福があるからです。神さまがわたしにあの父と母とを与えてくださったと思う心。その心そのものが神さまの賜物です。そして、「そうすればあなたは、あなたの神、主が与えられる土地に長く生きることができる。」という約束の言葉は第五の戒めだけでなく、その前のすべての言葉に繋がっているのです。第一戒「あなたには、わたしをおいて他に神があってはならない。そうすればあなたは、あなたの神、主が与えられる土地に長く生きることができる。」と続きます。第二戒「あなたはいかなる像も造ってはならない。そうすればあなたは、あなたの神、主が与えられる土地に長く生きることができる。

そんなふうに第三戒にも第四戒にも続いています。このように自分中心に生きることから、神さまの戒めを受け入れて、神中心に生きることで、どんなに大きな祝福が約束されているかを、わたしたちは思うべきであります。先週、わたしたちは敬愛する姉妹を天に送り、感謝に溢れて葬儀式を行いました。とても寂しい思いはありますが、地上の労苦から自由になられたことを思うと、遺されたご家族も慰められたことでしょう。

私たちは血縁のものではないのですが、同じ信仰を与えられ、主イエス・キリストの執り成しに結ばれている人を、皆兄弟姉妹と呼びます。わたしたちは信仰によって神さまの家族とされていることを喜び、誇りに思います。わたしたちは佐田姉を母のように敬い、いつまでも敬い続けるでしょう。それは、佐田姉が天の父の御許に召されたという、何よりの信仰の証しを立ててくださったからです。真に感謝です。

最後に今日の学びは十戒の第五戒でした。カテキズム問45 第五戒は何ですか。その答は、「あなたの父と母とをうやまえです。神さまがわたしたちの父母を与えてくださり、神さまのご支配の中で育ててくださったので、父母を尊び、うやまい、助けるようにすることです。」祈ります。

 

恵み深き天の父なる神さま。

尊き御名を褒め称えます。わたしたちはこの荒天の中、主の御招きによって教会に集められ、礼拝を捧げることができました。今日は第五の戒めを学びました。どうかわたしたちにこの戒めを喜んで受け入れる心をお与えください。私たちは敬愛する佐田節子姉を先週、地上から失いましたが、しっかりとあなたに信頼し、地上の教会の行く末のために、祈りをもって働いてくださったことを感謝します。どうかご家族の上にこれまでにも優る祝福を注いでください。わたしたちは佐田姉妹を母のように敬い、これからも感謝を以て、思い起こします。どうかわたしたちを、これからも変ることなく主と共に歩む教会とならせてください。

今週行われる会議の上に、成宗教会の今後の歩みの上にあなたの御心をすべて行ってください。また、イエス・キリストの執り成しによって私たちの罪を赦し、御心に従って今週も歩ませてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

神の安息にあずかる

聖書:出エジプト記20811節, マタイによる福音書1218

 私たちは代々の教会、全世界の教会が受け継いで来た教会の信仰を学んでいます。それは、使徒信条と 十戒 と主の祈りの中に表されています。今、私たちは十戒の三つの戒めを学びました。第一と第二と第三の戒めに共通していることがあります。それはどれも心の問題、すなわち形に表すことのできない神さまと私たちの間の問題であるということです。第二戒の「あなたはいかなる像も造ってはならない」については、もし人が像を実際に造ったり、拝んだりすれば、確かに形に表れるでしょう。しかし、人があからさまに偶像を拝んでいるという形を取っていない場合でも、人の心に密かに神以外のものにひれ伏しているということはいくらでもあります。そしてそれは外側からは全く見えないのです。

それに対して、本日学ぼうとしている第四戒は、明らかに外側に表れる形を伴っている。第四戒は「安息日をおぼえて、聖としなさい」というものです。安息日は、神さまに捧げる日であります。それは形に表れます。安息日には労働をやめることが求められるからです。自分のためであろうと、家族のためであろうと、または雇われているご主人のためであろうと、一切人に関わる自分の働きをやめることが求められたのです。

それでは、なぜ神さまは安息日を制定されたのでしょうか。それには、三つのことが考えられます。その一つは、神さまが天地創造の業を六日で完成させ第七の日に業を終えて休まれたという聖書の言葉に根拠をもっています。そこで神さまは、第七日目の休みという象徴の下に、イスラエルの人々に霊的な安息を持つことを望み給うたのです。それは、神さまを信じる人々が、神さまが自分たちの中に働いてくださることを信じてお委ねし、自分たちの業をやめることです。自分の仕事、やるべきことは延々と続くと思って休まらない心も魂も、神さまに信頼して、「休みなさい」という命令に従う。イエスさまは教えられました(マルコ4章26-7節、68頁)。「人が土に種を蒔いて、夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない」と。神の国に向かって信仰者を成長させてくださる神さまにお任せして、安息日を守ることが命じられているのです。

安息日の制定について、神さまが求められる第二のことは、その日に人々が集まって律法を学び、儀式を執行することです。少なくとも神さまからいただいた恵みの御業について考えるために、特に捧げる日が定められることです。そして神さまは、人々がこの日を覚えて信仰生活を訓練することを望んでおられるからです。そして安息日の第三の意義は非常に具体的なことです。すなわち、自分の家のために労働する人ばかりでなく、あらゆる人々の支配下にある労働者に休みの日を与えること。たとえば、主人が働き続ければ、その家の者たちも休むことはできません。家畜に至るまで、安息日を守らせることによってすべての者に労働の免除を得させようとし給うたのです。そしてこの律法は、イスラエルの共同体の中に生きる外国人にも全く同じに適用されるように命じられました。

「安息日を守り、聖としなさい」について、以上の三つの意義をお話ししました。これが第四の戒めでありますが、ここで注目すべきは、神さまはこの戒めを他の戒め以上に重要なものとされたことです。それは、聖書の多くの個所で安息日の戒めについて特別に語られていることがあるからです。出エジプト記31章13-14節。「あなたは、イスラエルの人々に告げてこう言いなさい。あなたたちは、わたしの安息日を守らねばならない。それは、代々にわたってわたしとあなたたちとの間のしるしであり、私があなたたちを聖別する主であることを知るためのものである。安息日を守りなさい。それは、あなたたちにとって聖なる日である。それを汚す者は必ず死刑に処せられる。だれでもこの日に仕事をする者は、民の中から断たれる。」146下。

非常に厳しい掟であることが分かりますが、それは安息日が単に仕事を休み、体を休める。何もしないための日ではないからです。安息日は霊的な休みの日です。それは自分の心身を使っての働きを止めるだけではなく、神さまの御業、そのお働きを瞑想する一日として定められた日なのです。ですからイザヤ書58章13-14節にこう書かれています。「安息日に歩き回ることをやめ、安息日を喜びの日と呼び、主の聖日を尊ぶべき日と呼び、これを尊び、旅をするのをやめ、したいことをし続けず、取り引きを慎むなら、そのとき、あなたは主を喜びとする。」1157下。

イスラエルの指導者たちはこれを厳しく守り、人々に守らせました。けれども、「安息日は霊的な休みの日」と教えられても、人間には外側に見えることだけしか見えないし、分からないものです。その結果、戒めを与えられた神さまのお心を思うことに、心を傾けることは次第になおざりにされ、その一方で形式だけが厳しく問われるようになっていったようです。

今日の新約聖書は、マタイ12章1節以下を読んでいただきましたが、ここに登場するファリサイ派の人々は、イエスさまの弟子たちの行為を見とがめました。彼らは、人の外側に見えるものによって、その人の信仰を図ろうとする代表的な人々でした。一方、人の内側にあるものは見えないので、ひたすら外面的な正しさだけを追及するのです。彼らは律法学者と共に第四戒から考えて、安息日にしてはいけないことの規定を具体的に増やして行きました。それは何百年もの間になされて行った律法の体系でした。それを厳格に当てはめて人を裁くのです。12章の記事でも、彼らは、イエスさまの弟子たちが安息日に麦の穂を摘んで食べるという行為を労働と位置付けました。

マタイ12章2節。「ファリサイ派の人々がこれを見て、イエスに、『御覧なさい。あなたの弟子たちは安息日にしてはならないことをしている』と言った。」このとがめは、実はイエスさまに対する妬みから出たもので、彼らは弟子たちに言いがかりをつけ、何とかしてイエスさまを陥れたかったのです。それに対してイエスさまは、名高いダビデ王の例を挙げることで弟子たちを弁護されました。3節以下。「そこで、イエスは言われた。『ダビデが自分も供の者たちも空腹だったときに何をしたか、読んだことがないのか。神の家に入り、ただ祭司のほかには、自分も供の者も食べてはならない供えのパンを食べたではないか。』」

それはダビデ王がまだ若く、サウル王の家来であった時のことです。勇敢な武将であった彼は大変な手柄を立て、国民の人気はサウル王を遥かにしのぐ者となりました。しかしそのためにサウル王に妬まれ、命をねらわれる者となったのです。イエスさまが語られた話はダビデ王が逃げる途中の出来事です。神殿には普通のパンがなかったので、祭司は聖別されたパンをダビデに与えました。それは一般人が食べてはいけないことになっていたのですが、神さまはダビデの必要を認め、罪を問われなかったのです。もしダビデが空腹でパンを必要としていたことで、罪が赦されるならば、同じ理由が他の人々にも適用されなければならない訳です。この違反は、律法には違反していても、神さまに対する敬意について違反しているのでは全くないのです。

更にイエスさまは言われました。5節以下です。「安息日に神殿にいる祭司は、安息日の掟を破っても罪にならない、と律法にあるのを読んだことがないのか。言っておくが、神殿よりも偉大なものがここにある。」ファリサイ派の人々は、ひたすら人の外側に見えるものでその人の信仰深さを図ろうとしました。彼らは第4の戒めを守ることに集中しているようですが、しかし、安息日を与えられた神の御心を思わないのです。このような人々の偽善の罪は真に重いと言わなければなりません。

これに対して、聖書と教会は証ししています。イエス・キリストこそ神の御心であると。イエスさまこそ安息そのものであると証しするのです。ユダヤ人は金曜日の日没から土曜日の日没までを安息日として守っていました。しかしキリスト教では、主イエス・キリストの復活の日、つまり日曜日を安息日としています。なぜなら、日曜日は神の独り子イエスさまが、十字架にかかり死んで甦ってくださった日だからです。それで教会は日曜日の朝に礼拝を守っています。それは、イエスさまの復活を記念し、日曜日にすべての仕事と業を一度中断して、復活の主イエスさまに心を向けるためです。

イエスさまは言われました。「人の子は安息日の主なのである」と。このことは、イエス・キリストは彼に従う人たちを助けて、安息日を守る必要から免れさせる力をもっておられるということを意味しています。言い換えれば、真の神の子であり、人の子であられるイエスさまは、御自身の権威によって、安息日を解き放つことができると述べておられることになります。

実際考えてみれば分かることですが、もしキリストが来てくださらなければ、ただただ律法に従うことは大変な苦痛と悲惨を伴わずには済まされないでしょう。ただ主イエス・キリストのみが、神の自由の霊をもっておられます。そして、神さまは独り子であられるイエスさまを通して私たちに御自分の「子たる身分」を授ける霊を与えてくださいます。ローマの信徒への手紙8章15節にこのように書かれています。「あなたがたは、人を奴隷にして再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。」284下。こうして私たちはイエスさまの執り成しによって自由の霊を与えられ、目に見える形だけの律法から自由になり、神の御心を仰ぎ見る信仰によって第四の戒めを学んでいるのです。

確かに忙しい現代では、たくさんの仕事を中断して礼拝に集まることは容易ではないのです。しかし、神さまが創造の業を完成させ、その働きを中断して安息を取られたことを思い、わたしたちもこの日を礼拝の時としてすべてを捧げるように命じられていることを銘記しましょう。

もし、律法を厳守しなければ救いはないと考えるならば、わたしたちが救われることは大変に厳しいものがあります。しかしそれに対して、神の独り子イエスさまこそ、天地創造の業を終えて安息された神に等しい方ゆえに、そのイエスさまのおられるところに、既に真の安息があると信じる。これが教会の信仰です。安息日。その日は復活の主がわたしたちと共にいてくださる喜びと安らぎがあります。その日には集い、主の言葉を聖書から聴き、感謝と讃美の礼拝を捧げます。キリストが主となられたことの恵みを味わう時。この日が教会の安息日です。天地創造の時、神さまはすべてを造られ、すべてを良しとされました。その時に造られた最初の人間の姿が、聖霊の働きによって回復される日。それが安息日なのです。

私は明日の東日本連合長老会の教会全体修養会で講師の務めをいただいております。この17年間の成宗教会での牧会についてお話するつもりです。多くの方々に是非聞いていただきたいと思うのは、自分の失敗の話やあるいは成功の話をするからではありません。むしろ、この教会の貧しさ、過去の教師の苦難にも拘わらず、教会の過去の方々が皆、一人の御方を指し示すことになったことを語ろうと思います。聖餐を如何に主が授けてご栄光を現わしてくださったか。最も弱くなった人々に主の恵みがいかに現れたかを語ろうと思います。神の恵みは常に下を支えます。本当は上をも支えているのですが、ほとんど目立ちません。それは多くの人々が自分を誇り、自分を高める一方、自分を感謝と讃美する一人の礼拝者として集まることができないからです。

しかし今、ホスピスにおられる姉妹はちがっていました。若い時に多くの働き、多くの活躍をされ、年取ってから教会の中に入られ、それからも教会の外で沢山活躍されました。しかし次第に、礼拝を一生懸命守ることに専心されるようになりました。それは命がけであったと思います。このことを忘れないで主に感謝します。神さまの前に出ること、讃美と感謝に加わること、御言葉をいただくことを生きる務めとし喜びとされた方々を私は忘れません。彼らは神さまのものとされているからこそ、できるからです。主の霊は励ます霊。私たちはこうして励まされて、主の御前に立ち、そしてついには主と共に後の世代を励ます者となりましょう。

最後に、第四戒をもう一度心に刻みましょう。カテキズム問44 第四戒は何ですか。その答は「安息日をおぼえて、これを聖とせよ」です。わたしたちは神さまのものなので、礼拝するための特別な日を大切にしなければならないということです。祈ります。

 

愛と憐れみに富み給う主イエス・キリストの父よ、

尊き御名を讃美します。あなたの戒めを守り得ず、御心に従うことのできない私たちを憐れみ、その罪をイエス・キリストの贖いによって清めてくださいました。こんなにも私たちを愛し、罪人が罪の中にとどまり、闇の中にさまよい滅びに至ることを捨て置くに忍びなかったあなたの御心を思います。どうか背きの罪を赦し、この心を新たに造り変えて主の霊に従う者とならせてください。

成宗教会は高齢化が進んでいる一方、皆力を合わせて、福音の光が輝くように祈り働いております。あなたのお支えを感謝いたします。どうか、10月のバザーの行事を御心に適って御進めください。またあなたは教会学校の働きを祝してくださっていることを感謝します。成宗教会は新しい世代に、福音の恵みが受け継がれるよう祈りながら、次年度新しい主任担任教師が与えられることを待ち望んでいます。どうか連合長老会の中で成宗教会にふさわしい道が開かれますようにお導きください。そして、その備えのために長老会を励まし、また信徒一人一人が祈りをもって備えることができますように。

今、困難の中にある方々、特にお病気の方々を助け導いて、その悩みを聞き上げてください。教会のご家族の中に新しい命が誕生したという、この何よりもうれしい恵みを感謝します。どうかご家族を主イエス・キリストの祝福で満たしてください。

主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

唯一の真の神

聖書:エレミヤ1758節, マタイ4810

 神さまの国に招かれた人々の生涯は、神さまがどんなにわたしたちを愛して、慈しんで、救って下さろうとしておられるかを、知るようになる日々の歩みです。その神さまは聖書において御自身を証しされました。教会では聖書の言葉を聴き、神さまの言葉として聞いて、神さまを礼拝します。

さてわたしたちはカテキズム、信仰問答によって、今、 十戒 について学び始めました。先週は問の39、「十戒とは何ですか」という問いに対して、その答をわたしたちは学びました。十戒とは、神さまに救われたわたしたちが、御心に従って生きるために与えられた律法です。神さまに招かれた人々は、神さまがどんなにわたしたちを愛して、慈しんで、救って下さろうとしておられるかを、感じ始めました。この方の愛にどのようにして応えることができるでしょうか。その人々に与えられたのが律法です。

では、十の戒めとは、どんな内容なのでしょうか。わたしたちは出エジプト記20章にその内容が書いてあることを学んだところです。連合長老会の教会では、十戒を礼拝毎に読み上げている教会が多いので、わたしたちも、十戒がここにある御言葉であることをしっかり覚えたいと思います。カテキズムの次の問は、では、「十戒はわたしたちに何を教えてくれますか」という問いです。十の戒めを与えられた神さまの目的は、それによってわたしたちに何をお命じになっておられるかということです。

それは二つのことです。その第一に神を愛すること。そして第二に隣人を愛することです。イエスさまも、そのことを教えておられます。これほど、分かりやすい言葉はないと思います。素晴らしいと思います。しかし、これほど難しいこともありません。教える方も教えられる方も悩みに悩んでしまうほどのことなのです。私は十戒の学びの最後に改めてこの問いについて取り上げることと致します。そこで今日は早速、実際の戒めについて入って行きたいと思います。

問41は「第一戒は何ですか」と尋ねます。そしてその答は、「あなたには、わたしのほかに、何ものをも神としてはならない」です。池上彰氏の国ごとの宗教分類によれば、日本は仏教国となっていますが、それは江戸時代からの国家政策によるので、元々は八百万の神々がいると信じられていましたから、今でも、生まれた子は神社に御礼に行き、結婚式はキリスト教式もいますが、死ぬときは仏教式で、という人々が多いようです。私は昔、横浜で結婚する時に借家を探さなければならなかったのですが、候補の家を見に行ったら、赤い旗に黒字で何やら書いたものが何本も庭の傍らに立っていました。「これは一体何の宗教だろう」と少し心配しました。しかし後になってそれは商売繁盛のご利益があるという狐を祀っているので、毎年旗を立てる時期に当たっていたことが分かりました。こういう狐の祠のような物は日本では珍しくないのだと分かりましたが、ありがたいことに、あまり信じている様子でもなく、従って祟りを恐れている様子でもないようでした。

旧約聖書の中で神さまから十戒をいただいたイスラエルの人々はどうだったのでしょう。彼らの周りの世界も、今の日本の社会とあまり違いはなかったと思われます。エジプトの奴隷となって苦しんで、助けを求めた時、その叫びを聞いてくださり、彼らを解放してくださった神さまに彼らは従いたいと思いました。しかし、彼らが苦労して旅を続け、ついに住み着いた土地には、いろいろな神々を拝む人々がいました。隣の家の芝生は青いという諺の通り、イスラエルの人々には、他の民族がいろいろ拝んでいる神々の方が魅力的に見えました。そして彼らは自分たちが豊かになったときに、却って自分たちを愛し、慈しみ、その苦難の時の叫びを聞いて手を差し伸べてくださった神さまを忘れるようになったのです。

それは彼らの考えが、「神さまはお一人ではなく、大勢いて天地を造ったのだ」という考えに変ったということでは決してないでしょう。頭の中では、神さまはお一人と思っているのかもしれません。今日読んでいただいたエレミヤ書は紀元前7世紀のバビロニアの大王ネブカトネツァルによってユダ王国が滅ぼされ、バビロンに人々が奴隷として連れて行かれる直前の時代を記しています。人々はこの時代にも律法に従って神殿に行き、礼拝を守っていたと思われます。しかし、神さまが救いに招いた人々は、表向きは神さまに従っているようでも、実際には二つのグループに分かれています。それは目に見えて別れているというより、神さまの目にははっきりと区別される違いがあるということなのです。

その一つは不信仰な人々であり、神さまを信じている、礼拝している、と言いながら、心は遠く神さまから離れている人々でありました。そこで預言者エレミヤはその人々は呪われている、と叫んでいるのです。5-6節。「主はこう言われる。呪われよ、人間に信頼し、肉なる者を頼みとし、その心が主を離れ去っている人は。神は荒れ地の裸の木。恵みの雨を見ることなく、人の住めない不毛の地、炎暑の荒れ野を住まいとする。」

わたしたちもこの言葉を非常に真剣に聞きたいと思います。なぜなら、これは大昔のイスラエルに語られているのではなく、だれでも人間に僅かな望みでも置く人は、ある程度神さまから離れ去っているのでありますから。人が人を尊敬することは良いことです。しかし、それは人の持っているお金、地位、健康、才能を尊敬することになってはいないでしょうか。そして自分にもそれがあると誤解し、「まだまだ、もっともっと」と自分の望むイメージを追い求めて行くのです。そして神さまを失い、自分を見失ってしまうのでしょうか。良いものは皆、神さまから恵みとして各人に与えられているものであって、また神さまの望まれるときに取り去られるものに過ぎません。そのことをいつも弁えるならば、本当に望みを置くべきは人に対してではないはずです。だからわたしたちは厳しく戒められているのです。「人に望みを置く者は神に背を向けているのであり、神を見捨てているのだ」と。

不信仰な人、神さまに望みを置かない人は、枯れ木に例えられているのではありません。根もあるし、外見は生き生きしているようにさえ見えるのです。彼らは幸せに見え、自分でもそう思っている一方、神の教えを皆はねつけています。まるで自分たちは神さまには縛られないし、自由であると言っているかのようです。そういう人々は神の預言者の言うことには耳を貸しません。その結果は根もあり葉もある木なのに実を結ばない。炎暑が来ると干上がってしまうことになるのです。

さて、これに対して、もう一方のグループは、神に心から信頼する信仰者です。エレミヤは預言します。17章7-8節。「祝福されよ、主に信頼する人は。主がその人のよりどころとなられる。彼は水のほとりに植えられた木。水路のほとりに植えられた木。水路のほとりに根を張り、暑さが襲うのを見ることなく、その葉は青々としている。干ばつの年にも憂いが無く、実を結ぶことをやめない。」

本当に神に信頼し、望みを置く人は、どのような人でしょうか。宗教改革者カルヴァンはこう言います。「自分自身の災いと窮乏と裸と恥の意識に打ちのめされ脅えている者こそ、自己認識において最も進歩している。」わたしたちは思うのではないでしょうか。そんなに自分はダメだと打ちのめされていたら、何もする元気も勇気も出ないのではないかと。しかしそうではないのです。カルヴァンは続けて言います。「しかしまた、同時に、人は自分の中にないものを神に置いて回復すると学ぶ限り、自分を低め過ぎて危険に陥ることにならずに済むからである。」自分の中には何も良いものがない。しかし神さまは必要なものをすべて自分の中に回復してくださる、と信じることこそ、神さまへの信頼なのです。一体どうして自分にがっかりして落ち込んでしまう必要があるでしょうか。このような自分をも愛し、救おうとしておられる恵みの主がおられるのですから。

このことからわたしたちが学ぶべきことは、神さまが与え給うことを忘れ、神さまが与え給う以上に持ちたいと願うことは、自分に破滅をもたらすということです。わたしたちは聖書に登場する最初の人間がどのようにして悪魔に唆されたかを知っています。人は、善悪を知って神のようになりたいという願いを起こさせられました。しかし、神さまからの恵みによらないで、恵みとは別に、恵みを拒否して、自分の判断で善悪を知ることはい信仰の死をもたらすことになったのです。それは、神さまとの喜ばしい信頼の関係が断絶したということでありました。

わたしたちは新約聖書マタイ4章8-10節を読みました。これはイエスさまが悪魔から受けられた誘惑の一つです。「更に、悪魔はイエスを非常に高い山に連れて行き、世のすべての国々とその繁栄ぶりを見せて、『もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう』と言った。イエスさまが悪魔に高い山に連れて行かれ、この世の繁栄をごらんになったのは、わたしたちのように何か花々しいもの、キラキラしたものに心を奪われたからではありません。イエスさまはわたしたちの弱さを知っておられましたから、わたしたちのためにこの誘惑に遭ってくださったのです。

この世界の壮大な美しさ、あらゆる魅力的なものを支配したいという欲望のために、その願いを適えてくれそうな神でないものにひれ伏したいという誘惑。しかしあらゆるものを支配しておられる方は天地万物をお造りになった唯一の真の神さまではありませんか。それを忘れてしまう。それを思わず忘れさせるようなこの悪魔の傲慢な言葉。「もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう。」何というあきれ返る傲慢ではありませんか。神さまのものを如何にも自分のものであるかのように言う詐欺師であり、泥棒であります。しかし、この言葉、この誘惑にわたしたちはいつも直面しているのではないでしょうか。そして時には悪魔と一緒になってこの傲慢な言葉を口にしかねない誘惑にさえさらされているのです。

イエスさまは言われました。「退け、サタン。『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と書いてある。」真に、このイエスさまのお言葉こそ、十戒の戒めの第一であります。聖書は神さまのみを礼拝することを、つまり神さまだけに仕えることを命じています。わたしたちは主の祈りの中で、「我らの日用の糧を今日も与え給え」と祈ります。これはわたしたちに与えられるすべては神さまからいただく、という堅い信仰を表します。神さまからもいただけるけれども、他からももらえるかもしれないとか、他からももらいたい、ということでは決してありません。良いものはすべて神さまから賜るものと信じるのでなければ、どうして様々な思いがけない試練の時に、救いは主から来ると信じることができるでしょうか。

最後に、ローマの信徒への手紙8章32節を読みます。「わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか。」わたしたちはただ一人のまことの神さまだけに依り頼み、この神さまだけを礼拝しましょう。主なる神さまはそのことをわたしたちに求めておられます。祈ります。

 

御在天の主なる父なる神さま

2018年も9月を迎えました。本日の聖餐礼拝を感謝します。厳しい夏の間もわたしたちのそれぞれが生活と健康とを支えられて、このように礼拝に集まり、あなたのご栄光を現わすことができます幸いを感謝します。

真に弱く乏しい者でありながら、あなたの恵みを受け、イエス・キリストの福音によって救いに入れられましたことを感謝します。わたしたち自身にも、家族にもそしてこの社会にも多くの困難があり、試練がありますが、今こそ、真に救いをもたらす神さまであるあなたを公に言い表し、あなたに依り頼み従う信仰を新たにしてください。

弱い者が強くされ、最も力ない者があなたの恵みを証ししている教会に、今わたしたちはおりますことを感謝します。どうか教会に集う一人一人が信仰を強くされ、人の力によらず、ただ上より賜る励ましと慰めと必要な力とを待ち望む者となりますように。

本日は聖餐に与ります。どうか、心を低くされ、主イエス・キリストがわたしたちの罪を皆負ってくださったこの尊い愛に感謝を表すことができますように。

また、先週は遠くにある方々、病床にある方も聖餐に与ることができましたことを感謝します。どうか礼拝に足を運ぶことができない方々と共に主イエス・キリストの生ける体としてわたしたちを終わりの日まで一つの信仰に連ならせてください。

今週は毎年恒例となりましたコンサート「子どもと楽しむ音楽会」を開催します。どうぞ、この行事をあなたの御名が広められ、讃えられる機会としてください。10月にはバザーも企画しております。どうぞ御心に従ってその準備をもお恵みください。また今日から始まった教会学校の後半の歩みをも、豊かに祝し、御言葉が広く宣べ伝えられますように祈ります。聖霊の主よ、今、病床にある方をどうか平安で包み、その痛みを取り去ってくださいますように、切に祈ります。

この感謝、願いを我らの主、イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

幸いな人

聖書:申命記6章4-15節, マタイによる福音書5章1-11節

 主の年、すなわち西暦2018年が始まっています。世の中は大変好景気といわれております。1980年代のバブル期のようだという人もいます。しかし、東京の街中の様子を見ると、どうしてもあの頃とは違うと感じてしまいます。違いを感じることの一つは、車です。外国車の数が圧倒的に増えています。日本の車は性能が良いのに、どうして買わないのだろうかと思います。また、自動車産業は関連する産業のすそ野が大変広いのですから、国産車が売れると、日本の労働者の生活を安定的に支えることに繋がります。そうして多くの人々が恩恵を受けることが出来たのが、以前の好景気でした。

ところが、今車を買わない若い人々が多いと言われています。そして高収入の人々は外国車を買う傾向にあります。これが好景気なのか?と思いたくなるのは、昔と比較する私の考えが古いのでしょうか。しかし、車がなくても生活できるのは若い時代だからだ、と私は思います。遠くに出かけるのに、時間も体力も使うことが出来るからです。私が成宗教会に赴任してから16年。浴風園キリストの会という老人ホームでの集会に出かけたり、病院のお見舞いに遠出するのは、バスや電車を乗り継いで行けばよいのですが、より多くの時間と体力が必要です。教会の墓前礼拝について考えても、やはり車を出すことが出来なければ、なかなか困難です。

二十年前、三十年前と今を比べた時、明らかに分かるのは、好景気ではないでしょう。以前は体力があった。車もあるのが当然だった。時間も取ることが出来た。それが、今は大変乏しくなっています。これは何も私たちの教会に限って言えることではありません。日本の社会全体が、好景気といわれているにもかかわらず、いろいろな意味で貧しくなっているのではないでしょうか。そしてこれは日本だけの問題では決してない、世界の多くの地域でいろいろな貧しさが進んでしまっているのではないでしょうか。

とはいえ、私たちが過去を振り返って、現在と見比べるのは、せいぜい50年、100年のことでありましょう。私たちが知っている昔とは、その程度の長さだからです。主イエス・キリストが地上に来てくださった時、神の御子は神の国の限りない豊かさから、限りない貧しさの中に降り立って下さいました。しかし、主の地上での御使命は、私たちと同じ貧しさを共にするためではありません。もしそれが目的なら、ああ、イエスさまは私たちと同じ人間の苦労をして下さったということに尽きることになります。もしそれだけが目的なら、確かに感謝は生まれるかもしれませんが、それだけで、人は救われるでしょうか。

主イエスの目的は、私たちの貧しさの中にいらして、天の御国の豊かさを教えることではありました。神の国について教え、そして私たちを神の国の豊かさに招くことであったのです。ですから、今日の聖書、山上の説教として有名な教えを、主イエスは教えられたのです。主イエスは群衆を離れて山に登られました。そして近くに従っておりました弟子たちに教え始められました。弟子とは、どういう人々でしょうか。弟子とは先生の教えに聞き従う人であります。ここでは、キリストに従う人々であり、キリストを通して神に従う人々であります。神の御心を知った時、それは、「ちょうど私の考えて同じです。喜んで従いましょう」ということではないのです。「えーっ!」と驚き、「とても信じられない」と思いながらも、自分の考えを捨て、御心に従って行った人々です。

思えばマリアもそうでした。主イエスの誕生に先立って、マリアに天使が現れて、常識では考えられないことを告げた時、マリアはどうしたでしょうか。自分の考えを捨てて従ったのです。「わたしは主のはしためです。お言葉通り、この身になりますように。」またマリアの夫となるヨセフもそうでした。主イエスの誕生に先立って、ヨセフに天使が現れて、常識では考えられないことを告げた時、ヨセフはどうしたでしょうか。自分の考えを捨てて従ったのです。このように、キリストが世に生まれてくださるために、神は地上に従う人々をすでに備えてくださいました。

そのようにして人々の貧しさ、乏しさの中にキリストは来られました。そして従う者を集め、教え始められます。それは、幸いな人とはだれか、という教えです。「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。」心の貧しい人々とはだれでしょう。それは、自らを空しくし、神の憐れみに頼る人。苦悩にさいなまされ、押しつぶされても、それでも神に全く服従し、そして、心から謙遜であり、神に救いを求めてやって来る人々。そういう人々は幸いだと主は言われます。そうです。母マリアがそうでした。ヨセフもそうでした。常識では考えられないことが起こった時、自分に頼らず、他人に頼らず、ただ神に全く服従する。私たちもそうでありたい。だから神に救いを求めて教会に集まるのです。

しかしこのことは、何か他の人々と比べて、「救われる」特権を持っているかのように得意になることではありません。主イエスは従う人々が天の国に入れることを確信させ、だからあらゆる困難を忍耐するようにと、励ましておられるのです。また主は教えられました。「悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる」と。世間の常識では、悲しみは幸いとは程遠い。むしろ不幸なことではないでしょうか。しかし主は悲しみに暮れる人々は悲惨ではない、と仰るのです。それどころか、涙を流すことそのものが幸福な人生の助けとなる、と教えられました。

私は教会に在って、皆様と共に多くの悲しみを経験しました。それは、多くの方々が教会を去って行ったからです。ある方々は高齢になり、また遠くに行ってしまったので、教会に足を運ぶことが出来なくなりましたから。また、他の理由で教会に来られなくなった方々もおられます。その方々はどうしていることか、主がどこかの教会に招いておられるだろうか、などと思います。しかし、私たちはその他の方々を天に送りました。召された方々とのお別れには一番涙を流しましたけれど、それは不幸ではありません。私たちには愛する人々がいるからです。ですから愛する人々と別れる悲しみは確かに幸いなのです。この悲しみが天の国の希望に続いているからです。私たちの悲しみはただ神によって慰められると信じるなら幸いです。

主イエスはまた教えられました。「柔和な人々は、幸いである、その人たちは地を受け継ぐ」と。柔和な人々とはだれでしょうか。それは侮辱されてもすぐに立腹しない。人々にひどいことをされても同じことで仕返しをしない。何事にも忍耐強い、穏やかで温和な人々のことです。この教えもまた信じがたいのです。むしろやり返さないとますます相手は傲慢になって悪事を重ねるだろうと思うからです。その不安が争いに争いを巻き起こすのです。私たちは命じられています。主イエスだけが私たちをお守りくださると確信しなさいと。確信して、その救いの翼の陰に隠れなさいと。そうするためには、私たちは悪人に悪をもって報いる人であってはならないのです。主は羊飼い。そして、私たちは主のもの。主の羊なのですから。

多くの土地を所有するために力を振るう人々は、いかにも繁栄しているようですが、実は、他から力で奪われないように絶えず警戒しなければならない、従って絶えず不安なのです。反対に私たちは、地上に僅かなものしか持っていなくても、確かに地上に住むところが保証されています。なぜなら私たちは神の恵みをいただいているからです。そしてやがて地上を去る時、神の国に住まいが用意されていることを思えば、主に従って生きる者が地を受け継ぐのです。

6節。「義に飢え渇く人々は、幸いである、その人たちは満たされる」と主は教えられました。飢え渇くという言葉は、生活必需品にも事欠くような貧困に苦しんでいることを表します。さらに義に飢え渇いている人々は、大変な侮辱、屈辱を味わって苦悶にうめいているのですが、しかし彼らは、「生きて行くためには、もう何でもするより他はない」ということにはならない。どんなに苦しんでも道を踏み外さず、節操を守っている。そしてそのために苦しみ、弱り果ててしまっているのです。

人々の目には、このような人々は愚かに見えるかもしれません。しかし、主は言われます。これは、幸福への確かな準備であると。なぜならついに、彼らはついには幸福で満たされるようになるからです。母マリアは次のように神をほめたたえる賛歌を歌いました。ルカ1:53「(主は)飢えた人を良い物で満たし、富める者を空腹のまま追い返されます。」このことを神がなしてくださる。いつの日か神は彼らのうめきを聴き入れ、彼らの正しい願いを満たしてくださるからであります。

「憐れみ深い人々は、幸いである、その人たちは憐れみを受ける」という教えもまた、4節の悲しむ人々と同様の幸いではないでしょうか。世の人々は、他人の不幸など顧みないで、彼ら自身の安楽を計っている人々を「幸いな人々」と思っているかもしれません。

しかし、キリストの言われる幸い違います。幸いな人とは、自分の不幸を担おうとするだけでなく、苦しんでいる貧しい人々を助けるために、他人の不幸をも担い、苦しんでいる人々を助けるために、喜んでその人々の中に進んで入り、その不幸を共有する人々であります。そういう人々は、神からばかりでなく、ついには人々の間でも憐れみを受けるだろうと言われるのです。争いが絶え間なく起こるこの世に在って、ついに人々は心に何のゆとりも無くなり、すべて恩知らずとなりかねないのです。その結果、親切な人々を利用し、受けた善意にも悪をもって報いるようなことも起こるでしょう。しかし、憐れみ深い人には神によって恩恵が備えられています。なぜなら神こそが恵み深く、憐れみに満ちておられるのを知るからです。それを知る人々は心満たされると、主は教えられるのです。

そして8節。「心の清い人々は、幸いである、その人たちは神を見る」と主は教えられました。清い心とは、何でしょうか。それは、人々の交わりにおいて常に純真であり、心の中に思っていること以外は、言葉にも表情にも全く表さない。すなわち二心がない。二枚舌を使わない、ということではないでしょうか。それは、だれもが「美しい心」だと一応認める性質でしょう。しかし軽蔑する人々は、このような純真な人のことをあたかも思慮が足りなくて、物事を十分見ることが出来ないかのように思っているのであります。ところがキリストは改めて心の清い人々を高く評価なさいました。二心がない、たとえ悪人に騙されることがあっても、人を欺くことが出来ない人々は、天の神の御前で神に喜ばれることだろうと。

そして「平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる」と主は教えておられます。人々の間でも、あるいは組織、国家の間でも、不和の状態、戦争状態にある者たちを仲直りさせるのはやっかいな骨の折れる仕事であります。平和を作り出そうと努める善意の人々は、双方から侮辱されたり、不平不満や非難を受けても、それに耐えなければならないことがしばしばです。なぜなら、人々はだれもが、執り成す者に、まず自分を守ってくれるよう期待するからです。そこで主は何と言われたでしょうか。主は私たちが誰よりも、何よりも、父なる神の調停によって平和を作り出すように努めるように教えておられます。だから人々の平和のために働く者は、人の思いどおりにではなく、神の正しい裁きが行われるように祈り働く者となりなさい。そうすれば、あなたがたは、たとえ人々から良い評価は受けなくても、それどころか、いわれのない悪評を受けることになっても、大丈夫。主は私たちを御自身の子と数えてくださると約束して下さいました。

2018年最初の礼拝、私たちは主イエス・キリストの教えを聞きました。主イエスは、この世の人々の繁栄の幸いではなく、神に従う者の幸い、神と人を愛して生きる道を教えてくださいました。私たちは新しい年に改めて、主の教えに従い、幸いな人に数えられたいと思います。祈ります。

 

恵み深き天の父なる神様

新年最初の礼拝を感謝し、御名をほめたたえます。あなたは私たち成宗教会の群れを守り導き、新しい年を迎えさせてくださいました。多くの方々が高齢となり、病気やお体の不調に悩み、仕事や家庭に困難があることをあなたはご存知です。しかし、目に見えてここに、あなたの御前に集まる者は少ない者ですが、その生活の所々に在って、あなたの御名を覚え、心を合わせて祈る群れであることを感謝します。

私たちは主が恵み深く、地上に在って、私たちの乏しさを神の国の豊かさに変えてくださるために教えてくださることを感謝します。今多くの悩みがある中で、あなたがどうぞ私たちになすべき務めを教えてくださいますように。あなたが聖書によって、主イエスによって、恵み深さを表してくださいました。今、私たちは聖餐によって、主イエス・キリストが私たちになしてくださった救いの恵みに与ります。主イエスは山上の説教の教えを身をもって生き、十字架にご自分を捧げ、私たちの罪を赦し、平和の礎となってくださいました。私たちは主に感謝し、主の御体の教会にしっかりと連なる者となりますように。

高齢化少子化が進む社会にあって、あなたの御心が成り、私たちの罪が赦され、福音が日本の社会に伝えられ続けるために、この年も私たちの教会を、連合長老会の教会と共に、また日本基督教団をはじめ、全国全世界の主の教会と共に、一つなる教会が形成されるために用いてくださいますように。成宗教会の長老会の働きを強め、教会学校、ナオミ会、ピアノ・オルガン教室の働きを豊かに祝して下さい。また明日行われる東日本の日曜学校研修会と長老会議から、2018年の連合長老会の諸行事が始まります。すべてを祝し導いてください。

この感謝と願い、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

人は神を忘れるけれども

永眠者記念礼拝説教

聖書: 創世記4章1-16節, マタイ27章15-26節

 成宗教会は本日の礼拝を、永眠者記念礼拝として守ります。写真の大きさで区別しているのではありませんが、1940年にこの教会が創立されて以来、この教会に仕えて地上の生涯を終えた教職の方々の姿を、私たちは大きな写真によって思い出しております。太平洋戦争の起こる前から始まった集会です。欧米の宗教であると敵視された時代も、戦後のキリスト教ブームの時代も経験しました。そしてまた人々が物質的に豊かになり、心の豊かさを求めなくなり、魂が飢え渇いて行く時代をも経験してきました。

ここに写真によって見ることができる方々は、そういう時代を経験したのでした。そういう激動の時代を生きて、福音に出会った方々。そして福音から遠ざからなかった方々です。教会にとどまり、教会の主であるイエス・キリストを仰いで、生涯を終えた方々です。

福音とは、イエス・キリストがわたしたちの罪の身代わりとなって死んでくださったことです。私たちの身代わりであるということは、わたしたちはもう罪は問われない。罪赦されたということに他なりません。罪人にとってこれより良い知らせがあるでしょうか。イエス・キリストは御復活され、わたしたちのために成し遂げた救いの御業を、全世界の人々に告げ知らせるために、信じる者を世に遣わし、福音を宣べ伝えさせてくださいました。キリストは天に昇り、今もわたしたちの祈りを聞き上げて、主なる父なる神様に私たちを執り成して下さいます。私たちの日々の過ち、小さな罪から大きな罪まで、わたしたちの救いの妨げになるものを、取り除いてくださるのです。

この福音を信じて教会にいるということは、どんなに計り知れない恵みであるであることでしょうか。私たちは、今、先に召された方々と兄弟姉妹とされています。それは主イエスを信じて神の子とされ、主の兄弟姉妹とされているからです。しかし、わたしたちの内には、先に召された方々と血縁の関係、または姻戚関係の子孫もいることでしょう。そのような方々は、特別な恵みを受けている喜ばしい方々です。わたしたちは家族を看取り、見送り、神さまの御許に召されるために、できるだけのことをすることができますが、しかし、わたしたち自身についてはどうなるのか、自分で決めた通りにできるという保証はありません。私たちがそれぞれ、召される日まで歩み、生涯を安らかに全うすることができるのは、一重に家族、隣人、社会の人々の誠実さによって支えられてのことなのです。そのために、わたしたち自身が主の御前に誠実に立ち、人々を執り成して祈り続けることがどんなに必要であることでしょうか。

今日読まれました創世記4章はカインとアベルの物語。彼らはアダムとエバの最初の子らです。最初の人アダムは神に禁止された実を食べた結果、神との隔てない交わりを避けるようになりました。すなわち、罪とは人が神に背を向ける。呼びかけに答えない、ということです。出来れば神を忘れて好きなように暮らしたい、ということであります。

そのような罪に陥った二人は楽園から追放され、苦しんで働き、苦しんで子を産むことになりました。それでも彼らは神から子孫を与えられたと言って感謝しました。神は背いた人を滅ぼさなかったのです。そして彼らは息子たちに教えたのでしょう。カインとアベルは成人してそれぞれ働きの成果、収穫を手にしたとき、神に献げ物をしたのでありました。すなわち収穫感謝の礼拝です。感謝を捧げることは、「わたしたちが受けているものは皆あなたからいただいたものです」と告白するその言葉を形に表すことです。

ところが聖書は、「主はアベルとその献げ物には目を留められたが、カインとその献げ物には目を留められなかった」と語ります。人は見た目でいろいろと評価しますが、神は人の心を見る方です。献げ物を捧げるアベルとカインの心を見ておられたのです。主イエスは礼拝についてヨハネ福音書でこのように語られました。「神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。」(ヨハネ4:24…170上)「霊と真理をもって」とは、「心から」、「真心を込めて」、「誠実の限りを尽くして」、という意味です。また、ヘブライ人への手紙の記者はアベルについて次のように述べました。「信仰によって、アベルはカインより優れたいけにえを神に献げ、その信仰によって正しい者であると証明されました。神が彼の献げ物を認められたからです。アベルは死にましたが、信仰によってまだ語っています。」(ヘブライ11:4…414下)

そうすると、神に目を留められなかったカインの方は、献げ物に問題があったというより(そういうところにも表れたのかもしれませんが)、彼の、神に献げる態度に問題があったと考えなければならないでしょう。形式的にはいかにも整って立派な礼拝を捧げているようであっても、その心を神は問うておられます。すなわち、礼拝者が神を畏れ、喜んで神に従う心をもっているのかどうかです。世に偽りの礼拝というものは後を絶ちません。それは、表向き神を敬っているように見えながら、心の中では神を侮り、何とか宥めすかして、自分の思いどおりに神を動かそうとするのです。

カインの献げ物は正にそのようなものであったのでしょう。ところが、彼は自分の心の罪に気がつかない。従って自分を反省するどころではありません。神に対して激しい怒りを発するのでした。神は不公平だ、自分は不当な扱いを受けている!と。常日頃、真の神を尋ね求めることをせず、まして聞き従おうなどとは夢にも思わず、全く神を無視して生きているのに、何か悪いことが起こると、神などあるものか、神はひどい!と罵詈雑言の数々を並べたてる人々がいます。彼らは自分を顧みず、間違いに気がつかず、悔い改めからは程遠いのであります。

恐ろしいのはその次です。そういう人々は神に対する怒りを、隣人にぶつける。罪もない隣人に猛烈に当たり散らすのです。その結果であるアベルの死は人間が神から離れることの恐ろしい結末を表します。もし、わたしたちにこの世界のことしか希望がないならば、アベルのように悪の犠牲となる人々に慰めは全くないことになるでしょう。

それでも神はカインがしたように、カインを不意に襲って滅ぼすなどということはされませんでした。カインは神を忘れ、神を無視して行動しました。しかし、神はそうではありません。カインを思い、カインの心に語り掛けます。「お前の弟アベルはどこにいるのか。」カインは答えます。「知りません。わたしは弟の番人でしょうか。」恐ろしい居直りであります。まるで「わたしは弟を守るように頼まれたことはない。だから殺そうが何をしようが構わないでしょう」と言わぬばかりです。そう口答えしながらも、彼は気がついて行きます。これは人と人との問題ではない。自分と神との問題なのだと。神が言われたひと言、「お前の弟の血が土の中から叫ぶ」この一言によって、神は彼のしたことを赤裸々に示し、その犯罪の恐ろしさを強調し給うたのです。

神と争って神から離れて生きようとする者の至る不幸な結末がここに示されました。彼は地上を放浪する者となりました。神を信頼せず、神を離れ、神を忘れて勝手に生きたいのですから、自分の都合で生きるより他はありません。聖書は、それでも神はカインが殺されないように守ってくださったと語ります。ひどい犯罪、理不尽な殺人事件などが社会に後を絶ちません。裁判員裁判で裁かれると一般に量刑が重くなる傾向が報告されています。無理もないことで、素人の目にはこんなひどい人が平然と生きているとは許せない、という思いがあるでしょう。

しかし、神の思いは計り知れません。神はカインが犯罪者として打ち殺されないように、しるしをつけられたのでした。神から離れてさまよう人生。従って神の御許に安らう希望を持たない人生。彼のそのものが、神の厳しい裁きであったのでしょう。しかし、重ねて申しますが、神の思いは計りしれません。このような人の子孫にも救いの道が開かれたのです。私たちは今日、マタイ福音書27章を読みました。主イエスを十字架につけようとする人々は一体誰でしょう。私たちは皆、自分はカインのようではない、と思いたいのです。まして、世の人々は、自分は違うと言うことでしょう。

カインは形の上では、立派に献げ物を捧げて礼拝したように見えます。そして自分でもそうした、と信じています。主イエスを十字架につけようとした人々、そのために画策をした人々も同じではなかったでしょうか。彼らは表向き、神を礼拝していました。立派に献げ物を捧げ、人々から尊敬されていました。ところが心は神から遠く離れていました。救い主、メシアを待っている人々の指導者であったのに、実はメシアを待っていなかった。神の恵みが現れる時、自分たちの権威を捨て、神にひれ伏さなければならないことを知っていたからです。神が遠く離れていてくださる方が良い。神が遠くにおられるなら、自分たちが神に成り代わって権威ある支配者として人々の上に君臨出来たからです。

そのためには、今自分たちを属国として支配しているローマ帝国に対しても、お世辞を言い、うまく取り入り、宥めすかして、自分たちの要求を実現するために利用することもやってのける。本当に神を畏れ、神を礼拝することとは程遠い偽善がそこにありました。

ローマ帝国の役人であるポンテオ・ピラトは、この彼らの醜い企てを見抜いていました。彼らはメシア・イエスを十字架に付けるためには、犯罪者、殺人者であるバラバ・イエスを解放することを要求したのです。ここで起こった本末転倒は、人間の罪の深さを証しします。異邦人であるピラトが理不尽だと、できれば阻止したいと思ったこと。異邦人であるピラトの妻が夢によって(当時夢は神の啓示として重んじられた)義しい人と証言したことが、偽善の罪の深さを示しています。

しかし、だれも主イエスの十字架を止めることはできませんでした。弟子たちもできませんでした。だれもが主イエスに罪はないと知りながら妨げることはできなかったのです。それは、だれもが神の差し出された真心を受け止めることができなかった罪を表しています。そして同時に、だれもが阻止できなかった十字架の死こそ、わたしたちの罪を贖う尊い犠牲でありました。私たちはこの主の福音を受け入れて、教会を建てた方々と共に、主の罪の赦し、復活の体に結ばれています。今、わたしたちが永眠者として思い起こしている方々の多くは、戦争の時代、復興の時代、いろいろな時代を生きて、教会にとどまっていました。それは主の霊がわたしたちと共にいらしてくださったからです。

人間は、神の被造物として造られ、神に似たもの、神のかたちとして造られました。善いものとして、祝福されたものなのです。神さまが呼びかけ、人が応える関係、本当に親しく喜ばしい関係に生きるために、人は造られました。しかし、人は神さまから離れてしまいました。神さまのことを忘れてしまいました。神さまに背を向けて生きている結果は、人と比べ、人を妬み、人を憎み、孤独になりました。すべての人と人との善い関係は、本当は神との関係を回復すること無しには築けないのです。なぜなら、人が与えられている持ち物も、能力も、健康もすべては神から与えられているように、人との善い交わりも神から与えられるものだからです。

人は神を忘れ、神を無視して生きていようとも、神は人をお忘れにならず、イエス・キリストを救い主と信じて執り成される者の罪を赦してくださいます。罪人をお忘れにならず、罪から救ってくださる神をほめたたえましょう。祈ります。

 

教会の主イエス・キリストの父なる神さま

尊き御名をほめたたえます。本日は地上での働きを終えて御許に召された成宗教会に連なる永眠者の方々を御前に覚えて、感謝の礼拝を捧げました。私たちは目の前の悩みに日々を過ごして折る、貧しい者でありますが、あなたはここに主に仕えて生涯を全うされた教職の方々、信仰の先輩の兄姉を憶えて、わたしたちを励まし、慰めてくださいました。時代が移り変わり、わたしたちの力も知恵も移り変わりますが、わたしたちはただ代わることのないあなたの慈しみとその御力に信頼して参ります。

真に自分の背きの罪に気づくこと遅く、日日の小さな事にとらわれて思い煩ううちに年月が飛ぶように去っていきます。主よ、どうか私たちに自分に残された時を数える知恵をお与えください。真にご高齢の方々が示してくださった善い歩みを見上げ、信仰の道を歩み、あなたから与えられた務めを家族の中で、職場で、病院や施設においても果たすために、わたしたちをお用いください。それぞれの年代の人々に対して、慰めとなり、励ましとなる生き方を私たちにお与え下さい。

なによりも、主イエス・キリストの良い知らせ、福音によって教会が立てられますように、どうか成宗教会を東日本連合長老会の諸教会と共に伝道する群れとしてください。あなたの御旨は広く深く、全世界に広がっています。どうか主の平和を教会に打ち立て、全国全世界の教会と共に、主イエス・キリストの御支配の下に、世界の平和を実現して下さい。今、東アジアの政情が緊迫していると伝えられます。貧しい人々を顧み、主よ、憐れんでください。戦争の悲惨から人々を救ってください。国々の為政者が主の御支配の下により良い道を選ぶことができますように助けてください。

本日のすべてを感謝し、主の聖餐に与ります。どうか、主の聖霊によって私たちの隣人である家族、友人が福音を聞き、キリストを救い主と告白する日が来ますように。特に召天者の方々のご家族のために、豊かな祝福と顧みをお願い致します。

最後に、2週間後に迫りました、今村宣教師ご夫妻の上に、主の豊かな助けが聖霊によって与えられますように。ご健康とご準備が祝されることを祈ります。

この感謝と願いとを、我らの主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。