私の軛(くびき)を負いなさい

《賛美歌》

讃美歌9番
讃美歌352番
讃美歌312番

《聖書箇所》

旧約聖書 申命記 1章29b~31節 (旧約聖書280ページ)

1:29b 「うろたえてはならない。彼らを恐れてはならない。
1:30 あなたたちに先立って進まれる神、主御自身が、エジプトで、あなたたちの目の前でなさったと同じように、あなたたちのために戦われる。

新約聖書 マタイによる福音書 11章28~30節 (新約聖書21ページ)

11:28 疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。
11:29 わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。
11:30 わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」

《説 教》

今日、示された新約聖書の御言葉は、教会では度々「招きの言葉」・「招詞」としても大変良く用いられる御言葉で、キリスト者にとっては、諳んじて覚えられているほど馴染み深い聖書箇所と言えるでしょう。

本日のこの聖書箇所の少し前の11章20節から振り返って見ましょう。主イエスは、ガリラヤで伝道を始められてから沢山の奇蹟をされましたが、ここには、悔い改めなかったガリラヤの町を主イエスが叱り始められたとあります。それらの町の人々は、主イエスに癒しや悪霊からの解放を求めました。しかしながら、ティルスとシドンの人々は主イエスの御言葉に耳を傾けても悔い改めることをしませんでした。主イエスは、これらのガリラヤの町は旧約聖書に引用されている「ソドム」や「ゴモラ」などより重い罰に値すると言われたのでした。これらのガリラヤの町は、神の御子主イエスの御言葉を直接聞くことができ、すぐにも、悔い改めて主に聞き従えるという有利な立場にありながら、旧約聖書に出て来る町「ソドム」や「ゴモラ」と同じように、主イエスの御言葉に応答しなかったからなのです。ガリラヤの地で伝道を開始された主イエスの御言葉には力がありました、その最初の御言葉は4章17節にある、「悔い改めよ。天の国は近づいた」です。この御言葉を聞き信じた人々は、最も大切なこととして、主イエス様ご自身が言われた「わたしの軛を負いなさい」という御言葉に聞き従ったのです。今日の御言葉の直前の25節以下で主イエスは、「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。そうです、父よ、これは御心に適うことでした。」と言われています。自らを「知恵のある者や賢い者」として高ぶる者には神の国の真理は隠され、幼子のように素直に心を開き信頼する者に、神の国の真理は明らかにされると主イエスは語られたのです。

人間にとって神様を信じる信仰という霊的な行為は、人間の常識とは別のものであることを主イエスは語られたのです。主イエスが「父」と呼ぶ神様が、御子である主イエスを通してご自身を現したのであり、主イエスは神様のひとり子として父なる神様と特別で密接な関係にあることを話されたのが、主イエスの伝道の御言葉でした(2:15、3:17、4:3、6、8:29)。御子イエスが父なる神様を人々に知らせなければ、人は父なる神様を知ることは出来ない、人は主イエスを通してしか神様を知ることが出来ないことを語られたのです。

28節で、主イエスは、「疲れた者」と呼びかけておられます。この「疲れた者」とは、当時の律法学者やファリサイ派の人々によって、律法の重荷を負わされていた民衆です。毎日毎日さまざまな掟によって縛り付けられていたユダヤの人々のことでした。

律法とは、ユダヤの人々が生きて行くこと、日々の生活を神様の恵みと喜び、感謝しながら過ごす中にあるもので、本来人々に知恵を与えるものでした。しかし、当時のユダヤ教の祭司や律法学者、ファリサイ派の人々は多くの律法の規定を作り出してしまい、かえって律法を重荷にしてしまったのでした。そして、この「疲れた者」に対する聖書の御言葉と主イエスの約束は、今ここに生きている私達に向けられた御言葉でもあるのです。

私たちの人生にはさまざまな労苦があります。重い重い、重荷があります。私達を疲れさせるものが沢山あります。疲れ果ててしまっている私達に対して、主イエスは、「疲れた者」と呼びかけておられるのです。

これは私達疲れ果てた者に対する主イエスの呼び掛け・招きです。ここで主イエスが私達に与えようとされている「安息」とは一体どんなものでしょうか。また、それは本当に必要なものであるということを、私達が充分に理解しているでしょうか。世の中には、重荷を負っている人は沢山居ますが、その重荷は、主イエスによってのみ軽くして頂けるものなのでしょうか。本当にそうなのか、どうしたらそうなるのか、ということだけでなく、その内容を私達がどれだけ知っているのでしょうか。例えば、世の中の多くの人々は酒を飲むことによって、重荷をおろそうとしています。もしかすると、キリスト者でありながら、キリストのところへ行って重荷をおろすより、一杯やったほうが気が晴れると、心の奥底の何処かで思っている人も居るのではないでしょうか。私なども、長いサラリーマン生活の中で、ついつい深酒をしてしまったこともありました。こんな一例に限らず、私達は「重荷を負っている者こそ、この私達なのだ。」と思っています。それほど重荷は何処にでもあるのです。そして、何と自分が重荷を負っていることは当然分かり切っているのですが、その「重荷の正体」を実は何も分かっていないのではないでしょうか。「重荷の正体」とは、いったい何なのでしょうか。今日、私達に示された28節の御言葉を読んで気付かされるのは、実は私達が重荷だ、重荷だと思っていたものを、主イエス様が「そうだ、それがお前の重荷だ。」と簡単に受け入れて下さっているのではないということです。

そうではなく、私達が「これは苦しく悲しい、大変な重荷だ」と考えるよりも、ずっと深い思いで、本当の重荷とは何か、私達を苦しめている本当の重荷とは何であるかを主イエスは見抜いておられるのです。

私達を、疲れ果てさせて、絶望の淵にまで追い込んでいるものは、いったい何であり、どんな重荷なのでしょうか。それを本当に取り除いてしまう道はどこにあるのでしょうか。その重荷を取り除くことに関連する御言葉として29節には「そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。」と主イエス様は仰っています。口語訳聖書では、主イエス様は「そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられるであろう。」と若干違った訳になっていますが、29節のこの日本語に訳されている「得られる」と「与えられる」との言葉は元来「見出す」という言葉です。

苦しく重い「重荷」を放り出したり、下ろしたりするのではないのです。そうではなく「安らぎを見出す」と主イエスは言われたのです。私達は人生において、苦しい時や悲しい時に、得てして「ああ、休みたい、ここで荷を下ろして休みたい。」と思います。しかし、主イエスは言われました。重荷とは放り出したり、下ろしたり出来るものではない、また、主イエスによって与えられる「安らぎ」とは、その重荷を負った者に、重荷を負ったままで与えられるものなのだと、言われているのです。この主イエスの与えられる「安らぎの約束」は、その前にある2つの御言葉を前提としています。その二つの御言葉は「わたしの軛を負いなさい」と「わたしから学びなさい」の2つです。そうすれば主イエスは重荷を負ったまま「休ませてあげよう」と言われているのです。「安らぎ」を与えられるのは、主イエスの軛を負って、主イエスに学ぶときであると、はっきりと言っておられるのです。主イエスは「その重荷を下しなさい」とか「わたしが重荷を下ろしてあげよう」と言われているのでは決してないのです。実に、この人生の重荷は下ろすことも、外すことも出来ないのです。言ってしまえば「重荷は死ななければ下ろせない」のです。この下ろせない重荷を軽く担えるようにして下さるのが、主イエスが言われた「わたしの軛」なのです。

現代社会、それも都会に生きる私達にとってまったく馴染みのない、「軛」とは何でしょうか。「軛」とは、通常2頭の牛などの家畜の首の間に渡され、運搬や農耕の作業時に家畜の力を使うために装着された道具です。2頭の家畜の間に渡して鋤を引かせて畑の畝起こしをしていたと言われれば想像することができるでしょう。日本の田畑は土が柔らかく通常1頭の家畜で鋤起こししていましたが、荒れ地で固い土が多かったパレスティナでは左右2頭の家畜に渡した「軛」が使われていたのです。この軛は、家畜を傷めないために1頭づつのオーダーメードで作られていました。この軛は家畜にかかる負担を下げて、皮膚が剥けたりしないよう上手く作られないといけませんが、公生涯前の若きイエス様はこの軛制作の匠でもありました。そのイエス様の経験が、「軛」という御言葉に現れているのです。また、そればかりではなく、当時のユダヤ人は、元来家畜が重荷を負う時に用いられた道具である「軛」という言葉を比喩的に『掟』を意味するものとして用いました。当時のユダヤ人の世界では、重荷を背負いながら、生きていく時の最も優れた生き方として、掟である律法、例えて「軛」によって生きることが求められていたのです。その「掟」である「軛」を主イエスは「軛なんかいらん」「軛は外してしまえ」と仰ったのではないのです。「わたしの軛を与えよう」すなわち「わたしの新しい掟を与える」と仰っているのです。この主イエスの新しい掟である「軛」は、明らかに主イエスによる、新しい教えであり、新しい律法であり、新しい約束なのです。主イエスの「新しい掟」とは、『山上の説教』に代表される福音です。主イエスの「新しい掟」である福音とは律法を廃止するためではなく、“律法を完成させるため”に主イエス様が与えられた「軛」なのであると、『山上の説教』で高らかに宣言されています。

私達は、この世に生きるとき、人生の重荷が、軽重の差は別としても、間違いなく厳然と存在するのです。

その人生の重荷のために、「安らぎ」を得られるのは、死ぬ時しかないとさえ考える人もいます。ここに自殺の誘惑が生じているとも言えましょう。もちろん、この「安らぎ」を自ら命を絶つこと、自殺することによって得られると考えることは、大変悲しいことです。そんな、不幸な現実から主イエスは私達を救い出して下さるのです。それは、私達の担いきれない重荷を主イエスが担って下さるから私達は生きることが出来るのです。自分に与えられた重い命、重い人生を軽々と担って生きられる、そんな生きる道があるのだと、主イエスは言われているのです。「わたしの軛を負いながら、生きなさい」と言われているのです。

それでは、「主イエスの軛」はなぜ軽いのでしょうか。それには2つの理由があります。その一つは、「軛」とは、2頭の家畜をつないで2頭の首に掛けられ重荷を引くものです。2頭の家畜が軛で一つとなって重荷を引くのです。その軛が軽くなるためには、あなたが自分の首に掛けた一方の軛、そのもう一方は主イエスご自身が担ってくださるのだ。だから主イエスの軛は軽いのだ。大変分かり易い話です。もう一つは、私達が生きる際の重荷をすべて主イエス様に委ねることが、この聖書箇所で許され約束されているから、重荷はすべて神様にお委ねする。私達の重荷を主イエス様が背負って下さるというのです。

昔は作者不詳と言われていましたが、現在は作者の分かった有名な詩があります。私の大好きな詩です。お読みします。

ある夜、わたしは夢を見た。
わたしは、主とともに、なぎさを歩いていた。
暗い夜空に、これまでのわたしの人生が映し出された。
どの光景にも、砂の上にふたりのあしあとが残されていた。
一つはわたしのあしあと、もう一つは主のあしあとであった。
これまでの人生の最後の光景が映し出されたとき、
わたしは、砂の上のあしあとに目を留めた。
そこには一つのあしあとしかなかった。
わたしの人生でいちばんつらく、悲しい時だった。
このことがいつもわたしの心を乱していたので、
わたしはその悩みについて主にお尋ねした。
「主よ。わたしがあなたに従うと決心したとき、
あなたは、すべての道において、わたしとともに歩み、
わたしと語り合ってくださると約束されました。
それなのに、わたしの人生のいちばんつらい時、
ひとりのあしあとしかなかったのです。
いちばんあなたを必要としたときに、
あなたが、なぜ、わたしを捨てられたのか、
わたしにはわかりません。」
主はささやかれた。
「わたしの大切な子よ。
わたしは、あなたを愛している。あなたを決して捨てたりはしない。
まして、苦しみや試みの時に。
あしあとがひとつだったとき、
わたしはあなたを背負って歩いていた。」

30節にある「わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」と約束されている理由は、まさに主イエスご自身が、私たちの苦しみや試みの時に、主イエスが私たちを背負って歩いて下さるからです。

あの『山上の説教』の中で主イエスが力強く言われておられる「思い悩むな」と約束は、私たちの生きるための労苦のすべてを、主イエスが共に担って下さり、背負って歩まれるからなのです。

また、「私に学びなさい」とは、父なる神様の御心をすべて従順に受け入れられたことを主イエスに学ぶということです。人生のすべてにおいて、神様に聞き従うすべを主イエスに倣って学ぶのです。それは、自分のすべてを神様に委ねてしまうことでもあります。そして、その結果、主イエスが、あなたに代わって人生の重荷を背負って下さるのです。従って、あなたは軽くなった人生の重荷を喜びをもって担うことが出来るのです。

今日の、この28節から30節のたった3節の間には、「わたしは」「わたしに」「わたしの」と、合計6回も主イエスの「わたし」が出て来ます。ここには、「わたしを通らなければ誰も・・・できない」を強調して、父なる神様へのとりなしをされる主イエスの重要な役割が述べられているのです。しかも、29節の「わたしは柔和で謙遜な者だから」とあるように、主イエスは神の柔和と謙遜そのものです。私達にとっては、倣うべき見本なのです。

主イエスは神と等しい者であることを好まず、ご自分を無にして、僕の身分になり、私達に仕える者となって下さり、2頭立ての軛の一方を、共に担って下さるだけでなく、時として疲れ切った私たちを背負って歩かれるのです。しかも、「疲れた者」である私達のふらつく歩みに合わせてゆっくりと、また背の高いイエス様は私達の背丈に合わせてかがむように軛の一方を担って下さるのです。

神様と等しい者でありながら、私達に仕える者となられた主イエスは、「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。」と、この苦しみ悲しむ私達を優しく招いておられるのです。

主イエスのご生涯は、ただ私達のために“安らぎ”を与えるためのものでした。そして、主イエスが私達の人生を、ただ重く、苦しく喘ぎながら生きるのではなく、軽やかに神の恵みの中に生きる人生に変えて下さったのです。私達もまた、主イエスに倣って、柔和と謙遜に生きることが出来るのです。主イエスの掟が軽いことを知っているからこそ、主イエスと共に「軛」を負いつつ柔和で、謙遜に生きることが出来るのです。主イエスから、人に仕えることの軽やかさを教えられるのです。

それでは、お祈りを致します。

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2020年2月号

「知恵と知識の宝はすべて、キリストの内に隠れています。」

新約聖書、コロサイ2章3節

このお便りは、なりむね教会からのメッセージです。キリスト教会は神様の愛について学び、伝えます。子供さんも大人の方も、読んでいただければ幸いです。


山口智代子先生のお話

(2020年1月19日になされたものです。)

聖書:マタイによる福音書25章14-30節

今日のお話は、イエス様が話された例え話についてです。イエス様は、神さまがどういう方か、そして神の国はどういうところであるかを教える為にいろいろな例え話をされました。

今日のタラントンの例え話もそのひとつです。

ある家の主人が旅行に出かけることになりました。この主人は、自分がいない間、3人の僕に自分の財産を預けました。最初の1人には5タラントン、もう1人には、2タラントン、そして3人目の僕には、1タラントンを預けました。

タラントンはお金の単位です。タラントンとデナリというお金が使われていました。当時、1日のお給料が1デナリでした。1タラントンと6000デナリは同じです。1タラントンは、週に1日休んだとしても、約20年分のお給料になります。1タラントンでも相当な金額になります。そんな大金を預けるのですから、この主人は僕のことをすごく信頼していました。

5タラントン預かった僕と2タラントン預かった僕は、主人の信頼に応えようとしました。

5タラントン預かった僕は、それで商売を始めました。そして倍の10タラントンにしました。2タラントン預かった僕も、同じように商売をして、財産を倍の4タラントンにしました。ところが、1タラントン預かった僕は、出かけて行って、地面に穴を掘って、そのお金を埋めてしまいました。それで商売して失敗したらご主人に怒られるかもしれないと思ったのです。この僕は、自分に預けられた1タラントンを増やそうとしませんでした。この僕は、自分には少ししか預けてもらえなかったことにがっかりしたのかもしれません。5タラントン預かった僕と2タラントン預かった僕は、主人の信頼に応えようと一生懸命働きました。

だいぶ日が経って、ご主人が帰ってきました。5タラントン預かった僕と2タラントン預かった僕は、喜んでご主人の前に出て、預かったお金と儲けたお金を差し出しました。2人が預けられたお金を一生懸命に働いて増やしたことをとても喜びました。

1タラントン預かった僕は、埋めておいた1タラントンを差し出して、こう言いました。「あなたは蒔かないとこらから刈り取り、散らさない所からかき集められる厳しい方だと知っていましたので、恐ろしくなり、出かけて行ってあなたのタラントンを地の中に隠しておきました。ご覧ください。これがあなたのお金です。」

その僕は、主人のことが怖くて、もし失敗したら怒られると思って、何もしなかったのです。結局は主人を信頼していなかったのです。

すると主人は厳しくその僕を叱りました。銀行に預けておけば利息がもらえたのに、それさえもしないお前は怠け者だと言って、その僕を外に追い出してしまいました。

主人はこの1タラントンを預けられた僕が単にそれで商売をしてお金を増やしてほしかったわけではないのです。たとえ商売をして失敗して、その1タラントンをなくしてしまったとしても、主人はこんなに怒ったりしなかったと思います。何も努力しなかったことに対して叱ったのです。主人はお金を増やすことを重視してはいなくて、それを活用してほしかったのです。1タラントンの僕も自分が預かったものを何とかしてふやそうとしていたならば、主人は3人の僕に対して、区別なく、同じように褒め、そして喜んだでしょう。

私達も神さまからこの命を預かっていますし、命と一緒にいろいろな能力も預かっています。自分は何タラントン預かっていますか。そう聞かれたら、大抵の人は1タラントンだと答えると思います。他のお友達には多くのものが与えられているように思いがちです。他の人をうらやましく思ってしまうこともあります。でも、私達の目から見れば違うようでも、神さまからみれば、同じタラントンを私達に預けているのです。その為、預けられているタラントンを他の人と比べるべきではないのです。

私達の世の中では、5タラントンの僕が一番偉くて、2タラントンの僕がその次であるということになってしまっています。でも、自分が持っているものを一生懸命に活用したらそれで良いと神さまはおっしゃって下さいます。5タラントンでも2タラントンでも差はないのです。神さまは、私達一人一人が持っている特別な賜物をご存知です。私達一人一人に相応しいタラントンを預けて下さっています。きっと、応援して下さっています。私達は、神様から預けられたものを 感謝して頭を使って生かしたらそれで良いのです。神さまは、そのことを喜んで、「よくやった。良い忠実な僕だ」と褒めてくださいます。

2月の御言葉

「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。」

ヨハネによる福音15章1節

2月の教会学校礼拝

(毎週日曜日、朝9時15分~9時45分)

★ お話の聖書箇所と担当の先生

聖書 お話
2月  2日(日) ルカ15章11~24節 藤野雄大 先生
    9日(日) ヨハネ15章1~24節 斉藤 紀 先生
   16日(日) ルカ10章25~37節 興津晴枝 先生
   23日(日) 大人と合同礼拝 藤野雄大 先生

お知らせ

🌸2月23日(日)は大人との合同礼拝となります。この日は10時半から礼拝が始まりますので、ご注意ください。

2019年11月号

「知恵と知識の宝はすべて、キリストの内に隠れています。」

新約聖書、コロサイ2章3節

このお便りは、なりむね教会からのメッセージです。キリスト教会は神様の愛について学び、伝えます。子供さんも大人の方も、読んでいただければ幸いです。


斉藤紀先生のお話

(10月20日の礼拝で話されたものです。)

聖書:イザヤ書55:8~13

今日のテキストは、旧約聖書のイザヤ書からです。イザヤとは、人の名前です。

ずっとずっと昔紀元前8世紀ころに生まれた人です。ユダ王国の人で、預言者イザヤと言われている人です。

預言者とは、神様に代わって神様の言葉を聞きとって、それを皆に伝える人です。今日のみ言葉は、そのイザヤが書いた旧約聖書のイザヤ書からです。

イザヤ書55章8節には

「私の思いはあなたたちの思いとは異なり、私の道はあなたたちの道と異なると主は言われる」と、あります。これは神様の言葉ですから、私とは神様、あなたたちとは、私たちのことです。つまり、「神様の思いはわたしたちの思いとは違う」とあります。神様の思っていらっしゃることは、私たちが思っていることと違うというわけです。

どうしてでしょうか、それは、私たちは神様ではないからです。神様は、偉大なお方です。神様は、なんでもご存知ですが、私たちは違います。私たちは、たとえば「自分のことだけは自分が一番よく知っている」と思っていますが、違います。私たちのことを一番よく知っておられるのは、神様なのです。ですから、神様を信じて、すべてを神様のみ手におまかせして生きることが大切なのです。

ここで、主の祈りを考えましょう。みなさん言えますよね。

これは、マタイによる福音書6章にのっています。もし忘れたら、聖書を開きマタイ6章を読んでみましょう。

天にまします我らの父よ。
1、願わくは御名(みな)をあがめさせたまえ。
2、御国(みくに)を来たらせたまえ。
3、みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ
4、われらの日用の糧を今日も与えたまえ

お願いは全部で6個あります。私も子どもの頃から教会学校に通っていましたので、この主の祈りだけは、暗記しています。この主の祈りは、中で、神様、願わくはとお願いをしています。

願わくはみなをあがめさせたまえ、とありますが、「願わくは」とは、お願いをします、という意味です。願わくはみ名をあがめさせたまえ、神様を賛美させてくださるようお願いします。

み国を来たらせたまえ、神様のみ国が来ますようにお願いします。

そして3番目に、み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ と続きます。

さっきイザヤ書の中でお話ししましたように、み心とは、天と地とでは違うのです。み心とは、神様が思っていらっしゃること、強い意味では、神様のご意思です。

この主の祈りでは、神様のみ心が、天と同じく、地上の私たちにも届き、神様の救いを待っている人たちが神様の言葉を知り、神様の恵みに感謝をして生きるようにしてくださいとお願いしているのです。

先の続きの文は「われらの日用の糧を今日も与えたまえ」ですが、私の日用の糧をではなく、われらの日用の糧をと、われら、私たちという形になっています。私だけではないのです。私たちなのです。み心が天で行われるように、地でも行われますようには、私だけの願いではなく、私たちの願いであり、神様の思う通りに、み心のままになさってくださいという祈りなのです。

私たちが住むこの地上を、神様のみ心がなすままに、なさってくださいと、お祈りしましょう。

11月の御言葉

「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。」

マタイによる福音18:22節

11月の教会学校礼拝

(毎週日曜日、朝9時15分~9時45分)

★ お話の聖書箇所と担当の先生

聖書 お話
11月 3日(日) マタイによる福音書18:21~35 藤野美樹 先生
   10日(日) ルカによる福音書4:1~13 勝田令子 先生
   17日(日) 歴代誌(上)29:10~13 興津晴枝 先生
   24日(日) 合同礼拝 藤野雄大 先生

お知らせ

11月より、原則として第4週日曜日は、大人と子どもの合同礼拝(朝10時半~)を守ることになりました。合同礼拝の日は、教会学校の礼拝はありませんので10時半に教会にお越しください。

🌸 11月24日(日)は合同礼拝です。(朝10時半~)

🌸 12月22日(日)はクリスマス合同礼拝を守ります。(朝10時半~)

礼拝後、祝会でお昼やお菓子、プレゼントがあります。ぜひご出席ください♫

いのちの糧を求めて

聖書:列王記上17816節, マタイによる福音書141321

 成宗教会が東日本連合長老会に加盟する以前には、礼拝で旧約聖書のみ言葉を中心的に取り上げることはなく、新約聖書が中心に説教をしておりましたが、東日本の一員となってからは、毎週旧約聖書と新約聖書の両方から聖句を取り上げるようになりました。これは、聖書の一体性を表すためであります。すなわち、旧約聖書も新約聖書も救い主イエス・キリストを証言する神の言葉であるからです。

そういう訳で今日の旧約聖書は、列王記上17章を読んでおります。教会ではクリスマスの時期になると、洗礼者ヨハネの物語も伝えられます。ヨハネは、救い主の到来に備えて道を整えるために遣わされました。そしてイエスさまは、洗礼者ヨハネについて、預言者エリヤが再来したのだとほめられたことがあります。そのエリヤが今日読んでいただいた聖書に登場するエリヤであります。

神さまはエリヤの時代に地上に飢饉を送りました。イスラエルの王アハブが神さまに甚だしく背いたからです。神さまの怒りは燃え上がりました。そこで神さまはエリヤをアハブ王に遣わして飢饉を預言させました。それから、エリヤはイスラエルの地を去り、外国の地シドンに行きました。神さまがそこに行きなさいと命じられたからです。行ってみると一人の女の人が薪を拾っていました。エリヤは水とパンをくださいと頼みましたが、その人は貧しいやもめだったのです。彼女は答えました。

「あなたの神、主は生きておられます。わたしには焼いたパンなどありません。ただ壺の中に一握りの小麦粉と、瓶の中にわずかな油があるだけです。わたしは二本の薪を拾って帰り、わたしとわたしの息子の食べ物を作る所です。わたしたちは、それを食べてしまえば、後は死ぬのを待つばかりです。」今の時代に生きるわたしたちはこのような窮乏を想像することができません。しかし、日本でも戦争の最中に、また直後に、餓死した人々は少なくなかったのです。戦争で攻める者も、攻められる者も、多くの犠牲者が出ますが、その死者の多くが飢え死にであったのではないでしょうか。ここに一人のやもめがいます。夫は死んで、息子と自分が後に遺された。しかし、雨は降らない。作物はできない。死がまじかに迫っていました。

そんな人に向かって、「わたしに水とパンをください」などとはとても言えないのが普通でしょう。ところがエリヤは言いました。「ください」と。「まず、わたしのためにください」と。なぜなら、イスラエルの神さまである主はこう言われるからです、と。「主が地の面に雨を降らせる日まで壺の粉は尽きることなく、瓶の油はなくならない」と。エリヤは自分の仕える神さまのお名前を明らかにして、神さまの言葉を伝えたのです。すると驚いたことに、外国人の女の人はその通りにしました。彼女はエリヤを預言者であると信じたからです。そしてエリヤを遣わされた神さまの言葉を信じたからです。するとそのお言葉どおりのことが起こりました。そこで、この名もない女の人のことがエリヤと共に聖書に書かれ、伝えられるようになったのです。こうして聖書は証ししています。神さまの御言葉が信じられるとき、そして神さまのお言葉に人が従うとき、正にその時、神さまのお言葉が本当になると。

イエスさま御自身も、このエリヤの物語を人々に語られたことがあります。それはルカ福音書4章25節、26節です。「エリヤの時代に三年六カ月の間、雨が降らず、その地方一帯に大飢饉が起こった時、イスラエルには多くのやもめがいたが、エリヤはそのだれのもとにも遣わされないで、シドン地方のサレプタのやもめのもとにだけ遣わされた。」当時のイスラエルの人々の信仰は大変民族主義的でした。神さまはイスラエルを救ってくださると信じていました。イスラエル第一主義でした。それで、イエスさまのご指摘に腹を立てたのです。イエスさまは神さまがシドン地方のサレプタという、外国の地で外国人だけを助けたと言われたからです。それはイスラエルの中の、何とイエスさまのお育ちになられた町での出来事でした。人々は怒りのあまり、イエスさまを崖から突き落とそうとしたと言われます。

イエスさまは神の民であるイスラエルの中に生れ、人となられました。しかし、神さまの御心はアブラハム、イサク、ヤコブの子孫によって、アブラハムの子孫が救われることだけにあったのではありません。神さまの御心はアブラハム、イサク、ヤコブの子孫によって、全世界が救われることだったのであります。自分を中心に考える人々は、神さまの広いお心が全く理解できなかったのでしょう。しかし、「自分を中心に考える人々」と、わたしたちはまるで他人事のように言う時に、では私たちはそうではないと言うことができるのでしょうか。人は皆、他の人のことを考える余裕がなくなっています。自分のことで精いっぱい。まして、遠い国の人のことを考えるゆとりなど無く、日々の暮らしに追われているのではないでしょうか。そして、ついには近隣の人々でも、隣人のことでも、「人のことは知ったことではない」と言わないばかりに生きているとしたら、真にそれこそが貧しい生き方であり、それを通り越して、醜い生き方をさらしているのです。

しかし、このような人の世の貧しさ、更に醜さをご覧になっている方がおられます。それは天の父なる神さまです。そしてこの方を「天のお父さん」と呼びなさいと教えてくださったイエスさまなのです。今日はマタイ14章を読んでいただきました。13節。「イエスはこれを聞くと、舟に乗ってそこを去り、ひとり人里離れた所に退かれた。しかし、群集はそのことを聞き、方々の町から歩いて後を追った。」この物語の直前に語られているのは、洗礼者ヨハネが殺された、という記事でした。多くの人々が尊敬していた預言者を惨殺したヘロデ王の悪行は人々をどんなに悲しませ、失望させたことでしょう。

それを聞かれたイエスさまは静かな所に退いて一人になりたかったことと思います。イエスさまは人としてたくさんの働きもなさった結果、大変お疲れになり、休息が必要でした。またヨハネが捕えられたからには、ご自分も不用意に捕えられないように用心しなければなりませんでした。そして何よりも主は十字架への道を進んで行くにつれ、人に会う前に、神さまと共に過して祈る時が必要なことを感じられたことでしょう。

ところがイエスが舟から上がってみると、そこには大勢の群衆が待っていました。彼らはイエスさまの後を追って方々から歩いて来たのでした。その人々の有様を見てイエスさまはどうお感じになったでしょうか。疲れていらしたに違いなかったのですが、イエスさまは彼らの姿に深い憐れみを覚えられたのです。同じ場面がマルコの福音書に記されていますが、そこでは、群衆が飼い主のいない羊のような有様を深く憐れまれたと言われています。その憐れみ、深い同情こそは、イエスさまをお遣わしになった天の父の御心そのものであったのです。

イエスさまはお疲れも忘れて、人々に教えを与えられ、またその中の病気の人々を癒されました。ここには同じイスラエルの地に生きている人々の中で、全く別の人々が描かれています。すなわち、一方では自分たちこそ救われるべき神の民と思い、外国人を軽蔑しているので、エリヤが外国の女性を救った話に怒り、イエスさまを殺そうとする人々がいるかと思えば、他方ではここに描かれているように、イエスさまには神さまの御力がある、救いがあると信じて、ただ一心に後をついて来る人々がいるのです。どちらに祈りがあるでしょうか、救いが与えられるでしょうか。答は誰にでも明らかではないでしょうか。

イエスさまはしばらくの間、群衆から離れたいと思われたのですが、ご自分の願いを放棄されました。そして人々が家を離れ、御自分について来ようとする様子を、飼い主のない羊のように御覧になり、憐れんで、彼らが長い道のりを歩いて家に帰る前に食べる物を与えられたのです。こうして、イエス・キリストは魂を養うために働いて来られたのですが、今や御自分の羊飼いとしての務めを、羊の魂の養いばかりでなく、身体の養いにまで拡大してくださいました。このことによってわたしたちは確信することができるのです。それは、もしわたしたちが、イエスさまの教えに従って、神の国とその義を求めるならば、天の神さまはその他のものをも加えて与えてくださるという確信です。

今もイエスさまは、飼い主のいない哀れな羊を天から御覧になっておられるのではないでしょうか。そして、もしわたしたちが自分の欠乏を知り、日々私たちに必要なもの、自分たちに無くてならないものがあることを知っているならば、そしてもし、わたしたちに必要なものが満たされるようにと、願い求めるならば。そして、何よりも、わたしたちに必要なもの、なくてならないものを持っておられる天のお父さまを知っているならば、わたしたちにはイエスさまの執り成しによって、主の祈りが与えられているのです。

しかしわたしたちは、天の父がわたしたちの必要を知っておられると本当に信じているでしょうか。わたしたちは、天の父がわたしたちに一番良いものをくださろうとしておられることを知っているでしょうか。わたしたちは自分の弱さのために、神さまの広い心、深い慈しみを思い見ることができません。与えられている現実に満足せず、もっと良いことがあるはずだと思うあまり、与えられているものを感謝して受けることが疎かになってはいないでしょうか。また、わたしたちは自分の弱さのために、わたしたちの必要を満たしてくださる神さまを待ち望む忍耐が足りない者です。すぐに不安になる。すぐにあきらめてしまう。自分が思うような結果が見えて来ないと、簡単に絶望してしまうのです。

しかし、このようなわたしたちの現実の中にも、いや、このようなわたしたちだからこそ、神さまの深い慈しみは現れました。成宗教会の小さな群れにも、いのちの糧は与え続けられて来たことを思います。イエスさまは今は天におられ、教会に牧師を立てて、長老を立てて、御言葉の糧を与え、教会の群れを養い続けておられます。一人一人の働きは拙く、イエスさまのお弟子たちもそうであったように、疲れ果て、不安でいっぱいになった時も度々あったのです。しかし、イエスさまの弟子たちはイエスさまがパンを取って讃美の祈りを捧げて、渡してくださったそのパンを人々に分け与えた時のように、私たちもこの小さな群れの中で礼拝を捧げ、日々、いのちの糧を分け与えるささやかな務めを果たして参りました。これからもそうでありますように。

今、教会に新しい教師が与えられ、牧師として立てられようとしています。わたしたちの祈りが聞かれているのです。その祈りは、いのちの糧を求める祈りです。わたしたちの日毎の糧を今日も与えてください、という祈りです。これは、パンを求める祈りですが、パンそのものだけを求めているのではない、ということを私たちは知っています。わたしたちに必要なものすべてを求めているのです。しかし人間は自分に本当に何が必要なのかが、分からないということがしばしばあります。

幸いなことに、わたしたちは私たちに必要なものを知っておられる方を知りました。それはイエス・キリストです。この方を信じていのちの糧を求める時、文字通り、身体を養う日毎の糧も、生きるために必要なすべても、そしてわたしたち自身が知らない大切なものも、神さまは備えてくださり、お与えくださることを信じましょう。今週水曜日から受難節に入ります。右も左もわきまえないような弱い者、いつの間にか神さまの許から離れ去り、背き去ったことにも気がつかないようなわたしたちをご覧になって深く憐れんでくださる主を思い起こしましょう。主はこのような罪人の救いのために十字架に掛かり、わたしたちを贖って、ご自分のものとしてくださいました。教会は主イエス・キリストの体です。主に結ばれて、主の祈りを祈りましょう。

今日のカテキズムは問60です。「主の祈りは第四に何を求めていますか。」そして答は、 「わたしたちの日毎の糧を今日もお与えください」です。神さまは私たちに必要なものをすべてご存知であり、わたしたちを生かし、養ってくださるお方です。だから神さまにすべてを求め、委ねます。」祈ります。

 

恵み深き天の父なる神さま

尊き御名を讃美します。あなたは御子イエス・キリストにより贖いの業を成し遂げて、不滅の命を表してくださいました。わたしたちは、その計り知れない御業の偉大さを十分理解することができない、真に罪深い者ですが、主は今もわたしたちのために執り成してくださり、主の教会の肢として救いに至る道を日々整えてくださることを感謝します。今日のみ言葉によってあなたの教えを深く心に思い、ただあなたに対する信頼を持って心からいのちの糧を求める者とならせてください。

三月に入り、受難節を迎えようとしている今、成宗教会は新しい先生方をお迎えする準備を進めています。いたりません所をあなたが整えてくださり、弱いわたしたちを励まして新しい年度に感謝をもって向かわせてください。赴任なさる藤野雄大先生、美樹先生を励まし、皆が心を一つにして支え会うことができますように。成宗教会の新しい時代に向けて扉を開いてください。

どうか心身共に弱い者を助け、高齢の教会員を慰めてください。今、礼拝に来ようとして来られない方々、大きな悩みにある方々を顧みて恵みをお与えください。

本日行われる長老会議の上にも聖霊の主の恵みのご支配があり、御心を行ってくださいますように。また、今日は聖餐に与ります。どうぞ、あなたの聖霊のご支配によって与らせてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

主は羊飼い

講壇交換礼拝説教

聖書:エゼキエル3411-16節, マタイ93538

 本日は東日本連合長老会の講壇交換の行事によって、清瀬信愛教会に伺い、説教の務めを致します私は、成宗教会の主任担任教師で並木せつ子と申します。清瀬信愛教会には、東日本の長老会議や研修会、婦人会クリスマスの行事で、私も成宗教会の長老たちも何度も伺う機会に恵まれました。一方、成宗教会には、竹前先生を除いては長老信徒の方々にはほとんどいらしていただいたことはないと思います。2013年に東日本に加盟して以来、東日本の諸教会には、お世話になっておりますが、特に竹前先生が東日本の議長を務められ、また私は辞任しますのでその後任人事をお願いし、ご指導いただいたことを感謝申し上げます。

成宗教会は東日本に加盟する前は、日本キリスト教団の多くの教会と同じように、取りあえず自分の教会のことだけを考えて伝道牧会を行って来ました。それは、一つには自分の教会のことだけで手一杯と思っていたからです。また、近隣の教会がどんな様子なのか分からないということもあり、よく分からない他所の教会と交流することに不安があったからだと思います。しかし、現実には自分の教会だけで、教会が成り立っているはずはなかったのです。一方では教会に集まる信者が実に様々なルーツを持っていること。そして、他方では、成宗で育った人々がどこかへ行って、長い間には消息不明になっていること。そして、このことが一番大切なことですが、教会をお立てになった主イエス・キリストはお一人で、全世界に一つの信仰共同体をお立てになることが、主の御心なのだ、ということです。

この当然の道筋を教会の人々と分かち合って、東日本連合長老会に加盟申請し、成宗教会は東日本という地域教会の一員とさせていただきました。すると、いわば今までは他の教会のことには目を閉じ、耳を塞いでいたような小さな教会にも、いろいろな学びができるようになりました。その中で何と言っても重要なものは、日本の少子化、高齢化の中を歩む教会です。私は17年間成宗を牧会してきましたが、赴任してから15年間は高齢化と言われながらも、礼拝出席者数は23~26人で安定していました。ところが70歳になるときに辞任しようと考えた2年前あたりから、出席者数は急激に減ってきて、今は15人前後になっています。わたしたちの教会はとても小さい群れですが、この傾向はどうやら大きな教会にも言えることだということも分かりました。たとえば200人規模の教会が100人近くに減少、100人規模が50人近くに減少していると聞くとき、これは、本当に日本社会全体の傾向を映し出しているのではないか、と思わざるを得ませんでした。

しかし、今度はこの激減の内容を少し考えてみる必要があります。私は私の牧会している成宗に関することしか、確かなことは言えませんが、それでは激減した教会員はどうなったのか、ということを申しますと、例えば皆、召天したので地上に礼拝を守れなくなったということではありません。中には東京を去ってしまった。音信を断ってしまった人もいますけれど、大部分は教会と交わりを持っています。ではなぜ礼拝に出席しないのでしょうか。働き盛りの世代について(少数ですが)言えば、礼拝のある日曜日に仕事がある職業についている人がいます。介護の仕事、養護の仕事を始め、日曜日もなかなか休めない職業は少なくないと思います。もう一つの理由は、親子、夫婦で別々の教会に所属していることです。親元の教会。職場に近い教会、配偶者の教会、子供の通う教会など、いろいろあり、一つの教会に籍があるからと言っても、実際には籍がある教会を中心に考えることができないようです。その時々の都合であっちに行ったりこっちに行ったりしているうちに、自分の所属する教会、という意識が薄れることも考えられます。

以上は、若い世代の例ですが、他の大部分は高齢化のために出席できない方々です。教会の礼拝に来会する人々を見て、少なくなったなあと思う私たちですが、目に見えて足を運んで来られる人だけが教会員なのではないことを私たちは知っています。50代までは、60代でも、元気に電車やバスを乗り継いで礼拝に来ていました。しかし、70代、80代。何か病気になる。あるいは転倒して怪我をします。入院をしている間は礼拝に来られませんが、治っても、リハビリによって元の状態に戻るまでは、礼拝は無理になります。そういう訳で礼拝出席者は減少する傾向は当然のことです。

それでは、礼拝出席が出来なくなっている人々は、信者としていなくなったのでしょうか。そんなことはありません。特に高齢の教会員については、そんなことはありません。わたしたちが高齢になっても、主がお招きになり、地上の生涯を終わらせる日が来るまでは、高齢の教会員は目の前に現れなくても、わたしたちは地上の教会の会員なのです。このことを、わたしたちは重く受け止めなければならないと思います。

預言者エゼキエルは神さまの御心を次のように告げ知らせました。34章11節。「まことに、主なる神はこう言われる。見よ、わたしは自ら自分の群れを探し出し、彼らの世話をする」と。地上で弱り果てている人々を見ました。なぜ彼らは弱り果ててしまったのでしょうか。様々な理由、様々な事情があったでしょう。彼らの指導者、彼らを羊として世話をすべき羊飼いは、自分の務めを怠っていた。エゼキエルの時代には、それは王様であり、宗教指導者である祭司であったでしょう。

イエスさまの時代にもそうでありました。イエスさまは、人々が飼う者がいない羊の群れのように弱り果て、打ちひしがれているのをご覧になったと言われます。パレスチナはローマ帝国の支配下にあり、属国でありましたが、ヘロデ王が支配していました。人々はまた、祭司、律法学者の宗教的指導を受けていました。形のうえでは彼ら羊には羊飼いがいたはずです。しかし、いつの時代にも羊飼いはその群れを支配していてもその群れを養わないということが度々起こりました。彼ら自分たちの利益を追い求めるばかりで、羊を飼う務めには怠慢であり、貧困や、病気や様々な困難のために弱っている者たちのことに配慮しませんでした。その結果、人々は牧者のいない羊同然になっていました。

エゼキエル34章16節。「わたしは失われたものを尋ね求め、追われたものを連れ戻し、傷ついたものを包み、弱ったものを強くする。しかし、肥えたものと強いものを滅ぼす〔見張る〕。わたしは公平をもって彼らを養う。」ここに神さまの指し示す真の羊飼いの姿が現されています。エゼキエルをはじめ多くの預言者たちが、世に告げ知らせ、祈り求めた真の神の御心、真の羊飼いは2000年前、人となって世に来てくださいました。マタイ9章35節。「イエスさまは町や村を残らず回って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いをいやされ」ました。イエスさまは「また、群集が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれ」たのです。

真の羊飼い、人となられた神の御心は、弱り果て、打ちひしがれている羊を深く顧みられ、ご自分のことのように憐れんでくださるのです。飼う者のいない羊を自ら集め、養うために、また大きな困難の中にある人々を牧会するために、イエス・キリストは御自分を捨てて身をささげてくださいました。

良い羊飼いは羊のために命を捨てる、と言われた通り、わたしたちの救いのために十字架につかれ、その血を以てわたしたちを罪から解放してくださったのです。こうしてイエスさまは一つの羊の群れ、一つの教会を建てられ、ご自分の体としてくださいました。イエスさまが復活させられ、生きておられる。だから、主と結ばれたわたしたちも生きる者となったのです。どうか、わたしたちが片時もこのことを忘れずに、主と結ばれている自分自身を大切なものとすることができますように。

弱り果てている者、打ちひしがれている者を、主は憐れんでおられる。なぜでしょうか。わたしたちは、神さまの御国を宣べ伝えられたイエス・キリストの福音を信じて教会の中に招かれた者です。神さまの子とされた者です。だから主は信者となった人々を、ご自分の体の一部となった人々を、だれよりも憐れんでおられるのではないでしょうか。そればかりではありません。何とイエスさまは弟子たちにも言われるのです。あなたがたも行きなさいと。行ってわたしがしたように福音を宣べ伝え、神の国を証ししなさいと。

神さまは教会に様々な賜物を与えられました。新約聖書の手紙の文書でも使徒や預言者、福音宣教者、牧者、教師などという分類が語られています。教会には職制が与えられ、わたしたちは長老会を組織し、教師を立てて伝道牧会を行っています。また教師を立てるために、教師を養成する神学校を建てます。私も教会に仕えるために学び必要な資格を得て、主任担任教師として伝道牧会に当たりました。私は年取ってから献身したので、17年の働きしかできませんでしたが、この年月を経て心から思うことは、「羊飼いの務めは個人に与えられているのではない」ということでした。主は真の羊飼いです。主はこの務めを個人にではなく、教会に与えておられるので、教会は人々を教育してある者を牧師に立てているということだと実感します。

私は教会に赴任してからも日々多くのことを教えられました。神学校を出てからも大学の先生方にも指導を受けたということもありますが、決してそればかりではありません。教会の人々の背後に働く聖霊がおられたので、私は人々を通して教えられたのです。沢山の困難、沢山の失敗もございました。思いがけない慰め、思ってもみなかったところからの助けもございました。一つ一つの出来事、一人一人の言葉の背後に聖霊の厳しい、そして慰めに満ちた教育を感じたのです。

特に祈りのことを教えられる日常の出来事があります。教会で今まで共に礼拝を守っていた人々が病気になる、入院する、施設に入る。徐々に礼拝を守る人々の中から姿が消えて行きます。しかしその後も、私たちはそうした信者の一人一人と、どんなに多くの対話をしたことでしょう。手紙や電話や、メール。それは喋りたいだけ喋っていて、下らない話も交えていた時とは全く違う対話になります。信者の一人一人は親戚、家族ではないし、詳しい事情は分からないことが沢山あります。分からないままに地上を去ることも多いのです。しかし、不思議にもどんな親戚より、知人より親しく、懐かしく思われます。それは私たちが主に結ばれて一つだからに違いありません。「礼拝に行きたいのに・・・」という声。「礼拝の時間を覚えて祈ります」という信者の方々の言葉が、閑散とした礼拝堂にいても心に聞こえます。

この信者の人々が、たとえどんなにさ迷った人生であっても、地上の生涯を教会に結ばれて終えることができるように。あの人は魂に勝利の確信を得て天に召されて行った、とわたしたちが思うとき、地上の教会には大きな慰めがあります。その時、わたしたちはたとえどんなに弱り果てた者でも、主は御自分を頼る者を深く憐れみ、その人を主の教会の生きた部分として、神の栄光を証しさせてくださったことを知るでしょう。そのようにしてわたしたちが地上にある限り、主の羊の群れとして留まり、飼う者のない羊となってしまわないために、教会はどんなことができるのだろうか、と思います。主は言われます。「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。」

イエスさまは弟子たちに言われます。「収穫は多いのだ」と。真の羊飼いの群れに入りたい、養われたい人々は沢山いるはずではないでしょうか。主は言われます。「働き人は少ない」と。そうです。本当の働き人の資格は、地位ではありません。名誉ではありません。能力でも、健康でもないのです。本当の働き人は、心から主を信頼し、謙って主に従う人です。主はそのような働き人に聖霊を送ってくださるのです。ですから、主はわたしたちを祈りへと導いてくださる、何よりもまず教会のために、その群れの人々のために祈りなさいと導いてくださるのではないでしょうか。祈ります。

 

御在天の主なる父なる神さま

本日の礼拝を感謝します。東日本連合長老会に与えられたあなたの恵みによってわたしたちは礼拝を守りました。どうぞあなたの恵みが、清瀬信愛教会の竹前牧師、長老会、信徒の方々の上に注がれますように。あなたの愛するこの地に在って伝道し、また病院の働きと共に、ここにおられる方々と共に歩む教会に、特別に与えられた尊き使命を果たすことができますように。「弱い時にこそ、わたしは強い」と証しした聖書のみ言葉を思います。弱い人々のために労苦を惜しまなかった主イエスさまの愛に、絶えず励まされる教会となりますように。この教会の喜びと悩みを聖霊の主が、いつも共にして慰めと励ましで満たしてくださいますように祈ります。

心から感謝し、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。