栄光と救いが来る

主日CS合同礼拝

齋藤 正 牧師

《賛美歌》

讃美歌67番
讃美歌217番
讃美歌525番

《聖書箇所》

旧約聖書:イザヤ書 60章1-7節 (旧約聖書1,159ページ)

◆栄光と救いの到来

60:1 起きよ、光を放て。あなたを照らす光は昇り/主の栄光はあなたの上に輝く。
60:2 見よ、闇は地を覆い/暗黒が国々を包んでいる。しかし、あなたの上には主が輝き出で/主の栄光があなたの上に現れる。
60:3 国々はあなたを照らす光に向かい/王たちは射し出でるその輝きに向かって歩む。
60:4 目を上げて、見渡すがよい。みな集い、あなたのもとに来る。息子たちは遠くから/娘たちは抱かれて、進んで来る。
60:5 そのとき、あなたは畏れつつも喜びに輝き/おののきつつも心は晴れやかになる。海からの宝があなたに送られ/国々の富はあなたのもとに集まる。
60:6 らくだの大群/ミディアンとエファの若いらくだが/あなたのもとに押し寄せる。シェバの人々は皆、黄金と乳香を携えて来る。こうして、主の栄誉が宣べ伝えられる。
60:7 ケダルの羊の群れはすべて集められ/ネバヨトの雄羊もあなたに用いられ/わたしの祭壇にささげられ、受け入れられる。わたしはわが家の輝きに、輝きを加える。

新約聖書:マタイによる福音書 2章9-11節 (新約聖書13ページ)

2:9 彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。
2:10 学者たちはその星を見て喜びにあふれた。
2:11 家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。

《説教》『栄光と救いが来る』

今日から教会は、イエス様がお生まれになったクリスマスを待ち望むアドベント、漢字で降るのを待つと書く「待降節」を迎えます。私たちが待ち望むクリスマス、イエス様が2000年前に、お生まれになったことを私たちは誰でも知っています。今日は、アドヴェント第一主日です。今年は、12月25日が日曜日なので、その日が「クリスマスの主日」となります。25日が主日・日曜日にならない多くの年は「アドヴェント第四主日」に「クリスマス礼拝」が行われていますが、今年はアドヴェント(待降節)の主日を四回経てクリスマスを迎えるのです。例年よりじっくりと、クリスマスに備えることができるわけです。

アドヴェントでクリスマスに備えるとはどういうことなのでしょうか。「イエス様のご降誕を待ち望み、それに備える」と言いますが、しかしイエス様はもう既に二千年前に、ご降誕して下さったのです。イエス様のご降誕は過去の出来事です。だからイエス様のご降誕は私たちにとって、待ち望んだり備えたりするものではなくて、喜び祝い、感謝するものなのです。アドヴェントとは、本来ラテン語で「来る」「到来する」という意味の言葉です。従って、本当に私たちが待ち望み、備えるイエス様の「到来」は、2000年前にイエス様がこの世に来てくださったご降誕、クリスマスではありません。将来イエス様がこの世に再び来てくださる「再臨」なのです。イエス様が私たちの救いを完成して下さるために、世の終わりにもう一度来てくださる、そのイエス様の再びの到来を覚え、それを待ち望み、備える時がアドヴェントです。ですから、アドヴェントは、イエス様の2000年前の第一の到来を喜び祝うクリスマスを迎えるだけでなく、イエス様の第二の到来、将来必ず起こるこの世の終わり「終末」のときのイエス様の「再臨」を待ち望み、それに備えていく時なのです。

今から3千年程昔、ユダヤの預言者イザヤが救い主・メシアの到来を預言してからイエス様がお生まれになるまで700年がかかりました。私たちが生きている間にイエス様の再臨が実現するかどうかは私たちには分かりません。けれども私たちは、ユダヤの民が、メシアが救いに来られるのを待ち望み続けたように、クリスマスにお生まれになり、十字架と復活によって私たちの救いを実現してくださったイエス様が、再び来てくださり救いを完成してくださることを待ち望むのです。

イエス様が、母マリアの子、人としてこの世に生まれて下さり成長して救い主として公生涯を働いて下さることは、そのご降誕の700年も前のイザヤ書9章1~6節と、11章1~5節に、共に「メシア預言」と呼ばれて書き記されています。ダビデの家系に王が誕生し、イスラエルの民を救うことの預言は、今日読まれた新約聖書マタイによる福音書2章9~11節のように実現しました。このイザヤ預言の成就として、救い主の到来を信じて待ち望む思いに神が応えて、独り子イエス様をこの世に遣わしてくださったのです。

今日のこのアドヴェント第一主日のために与えられている聖書箇所は、イザヤ書第60章です。預言者イザヤが、旧約聖書のイスラエルの人々に救い主の到来を告げた預言がここに記されています。

今日のイザヤ60章で記されている「救い」は紀元前605年以降のバビロン捕囚からの解放であり、対象ははユダヤのシオンであり、エルサレムです。しかし、私たちは、この文脈から、これを終末的預言として聞き取らなければなりません。「救われる」のは「新しいエルサレム」即ち「教会」であり、神は預言者イザヤを通して、キリストの十字架を信じ新しい「神の民」とされたすべて人々に対して希望のメッセージを語られているのです。

1節冒頭の「起きよ、光を放て」との命令は、単にエルサレムの回復のためにイスラエルの民に与えられているのでなく、新しいエルサレム「神の都」の民とされるすべての贖われた私たち「神の民」に対するものなのです。

2節の「闇は地を覆い、暗黒が国々を包んでいる」というのは3000年程前、当時のバビロンによってイスラエルが荒廃し、人々が捕囚として連れ去られた現実の中に、「しかし、あなたの上には主が輝き出で、主の栄光があなたの上に現れる」という預言が語られ、それが実現したと語られているのです。それがイエス様の誕生だったのです。そして、そのイスラエルの暗黒は、「当時のイスラエルの人々」のことではなくて、現在の私たちの現実でもあるのです。新型コロナウイルスの蔓延はいったい「第何波」まで続くのでしょうか。その中で私たちの生活は多くの制約を受けています。また、ロシアによるウクライナ侵攻によって多くの人命が失われ、町が破壊され、人々が傷ついていることが連日テレビ画面に、ほぼリアルタイムで放映されています。そればかりでなく、世界の国々の対立が深まり、軍備が増強され、核兵器が用いられる懸念さえも報じられ、食糧危機、物価の上昇が起き、地球温暖化は文明を破壊しかねません。権威主義国家の台頭と民主主義国家の弱体化による世界的不安、これからこの世界はどうなっていくのかという懸念は、子供たちも感じ取っているでしょう。現在の私たちも、闇が地を覆い、暗黒が国々を包んでいるという現実の中にいるのです。

しかし、この2節では、その闇と暗黒に覆われた世界に、光が輝いたことを告げています。「しかし、あなたの上には主が輝き出で、主の栄光があなたの上に現れる」、この「しかし」によって、闇、暗黒から主の光、栄光への大きな転換が告げられているのです。

私たちも、目に見えている現実は闇と暗黒ばかりです。主の光と栄光が輝き出るきざしがどこかに見えているわけではありません。その中で私たちはアドヴェントを迎えました。アドヴェントは、イエス様の第二の到来、それによる救いの完成を待ち望み、それに備える時です。しかしそのきざしなどは見えていません。当時のイスラエルの民が、暗闇しか見えない現実の中で、主の光と栄光が輝き出る、というイザヤの預言を聞いた時に感じたのと同じことを、私たちも感じているのではないでしょうか。主の光と栄光なんてどこにも見えないし、それが輝き出るなんて、どうして信じることができるだろうかと思ってしまいます。

しかし、神の民には、暗黒の中でも神の栄光を反映させることが求められているのです。神の栄光のために生きるのが、神にかたどって創造された人間の究極の目的なのです。3節の様に周囲の暗黒にある国々の民も、その神の栄光を慕い集まって来るようになることが、神の民には求められているのです。神の祝福にあずかることは、同時に神の証人として宣教的責任を託されていることをも意味しているのです。

新しいシオンを慕い、新しい神の民となりたい諸国の民は、多くの宝を持って来るので、「喜びに輝き、心は晴れやかになる」のです。ここの「喜び」という語には、「広くなる」すなわち「自由になる」の意味もあり、素晴らしい祝福の約束なのです。

神の支配のもと、イエス様による「救い」の完成する「終末」にはそのように諸国から多くの富や労力がささげられるのです。祖国滅亡や捕囚と神殿崩壊という悲劇を経験した人々は、贖われたイスラエルの民として大きな救いの恵みにあずかったのでした。

しかしイスラエルの人々と違って私たちは知っています。このイザヤの預言は確かに実現したのです。神の独り子イエス様が、救い主としてこの世に来て下さり、それによって主の光が昇り、主の栄光が輝いたのです。そのことを喜び祝い、感謝するクリスマスを私たちは間もなく迎えようとしています。クリスマスは、イエス様のこの世への第一の到来によって、主の光と栄光が、地を覆っていた闇と暗黒に勝利して輝き出たという救いの出来事を喜ぶ時です。そのことを覚える時、私たち「新しい神の民」、「教会」のアドヴェントの歩みに希望が与えられるのです。イエス様の第二の到来による救いの完成を待ち望み、それに備えることがアドヴェントの信仰です。現在の現実の何処を見ても、その実現のきざしや証拠などは見えないかも知れません。しかし、神の独り子イエス様を救い主としてこの世に遣わして下さった父なる神は、イエス様の第二の到来も必ず実現して、イエス様による救いを完成して下さいます。今、この世界を覆っている闇と暗黒は、その時打ち破られ、主の栄光が輝き出るのです。クリスマスに備えるアドヴェントは、そのことを信じて希望に生きる信仰を確かにされていく時なのです。

お一人でも多くの方々が、このアドヴェントの希望の下で、一日も早く救われますようお祈りを致します。

イエス様のお誕生

主日CS合同礼拝説教

齋藤 正 牧師

《賛美歌》

讃美歌90番
讃美歌96番
讃美歌234A

《聖書箇所》

旧約聖書:イザヤ書 7章14節 (旧約聖書1,071ページ)

7:14 それゆえ、わたしの主が御自ら
あなたたちにしるしを与えられる。
見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み
その名をインマヌエルと呼ぶ。

新約聖書:マタイによる福音書 1章18-25節 (新約聖書1ページ)

1:18 イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。
1:19 夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した。
1:20 このように考えていると、主の天使が夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。
1:21 マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」
1:22 このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。
1:23 「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。
1:24 ヨセフは眠りから覚めると、主の天使が命じたとおり、妻を迎え入れ、
1:25 男の子が生まれるまでマリアと関係することはなかった。そして、その子をイエスと名付けた。

《説教》『イエス様のお誕生』

今日は、教会学校との合同礼拝ですので、教会学校のテキストからマタイによる福音書1章18節から25節のイエス様がお生まれになった時の大切なお話をしましょう。

私は去年の4月から、この成宗教会の牧師として皆さんとご一緒して来ましたが、昨年度2020年はクリスマスイヴ礼拝を含めて52回の礼拝中で皆様と集まって普通に礼拝できたのは32回でした。何と今年度2021年に至っては17回中のたった2回だけです。何としても神様の御言葉を皆様にお届けしようとライブ配信をしていますが、残念ながらキチンとはお届け出来ていないと反省しています。

ところが、この1年3ヵ月ほどの間に、何と5人の兄弟姉妹を神様の御許にお送りしています。そのお一人が野田妙子姉妹です。葬儀は明日午後、荻窪河南の葬儀社斎場で執り行われます。成宗教会で葬儀をと願いましたが、喪主様のご意向で教会ではなく、斎場に私が赴いての葬儀となりました。

葬儀は教会でないといけないとは言いませんが、天の神様に向かって旅立つに際して、葬儀とは、その方が、それまでどう生きて、どう神様を証してきたかを思う一つの大きな機会と思います。私たちにとってこの世の家でもある教会とは何なのかといった思いで今日のイエス様のお誕生物語を、「生まれる・誕生」の中からも「葬儀・死」を思って、お聞きいただければと思います。

実はイエス様の生誕物語は四つの福音書のうち、このマタイ福音書とルカ福音書の二つの福音書にしかありません。二つの福音書の生誕物語は、夫々特徴があります。主イエスの誕生を父親ヨセフの側から語り始める今日のマタイ福音書では母親マリアの言葉はなく、父親ヨセフと天使との夢の中でのやり取りが中心です。一方のルカ福音書では母親マリアを中心としたマリア賛歌も含まれた主イエスの生誕に関連する物語が母マリアの立場から長く記されているのとは大変対照的であると言えましょう。

当時のユダヤ人の結婚に関する決まりでは婚約中の2人はすでに夫婦とされていたので、20節と24節でマリヤは婚約者ではなく「妻」と呼ばれています。婚約者同士は通常1年程度の婚約期間を経て結婚生活に入りますが、その婚約期間中にマリヤの妊娠が明らかになりました。ルカ福音書では、マリヤ自身が大天使ガブリエルから妊娠は聖霊によるのであると告知を受けましたが、今日のマタイ福音書では、主の天使が父親ヨセフの夢に現れたとしています。ここに母マリヤの言葉はなく、マリアの沈黙を敢えて示そうとしているとも言えましょう。しかし、如何に聖霊によって身ごもったとしても、周囲の人々がマリアの妊娠に気付くのは時間の問題であった筈でした。

マリアが身ごもったことは、ヨセフにはまったく身に覚えがないことでした。そこで、マリアの妊娠を知ったヨセフは、密かに縁を切ろうと決心します。19節にあるように、夫ヨセフは、「正しい人」でした。しかし、その「正しさ」とは、マリアを疑い、それが表沙汰になることを恐れた、いわば世間体を気にしてのことでした。このことについて、神に御旨を尋ねようとすることなく、自分の考えだけでマリアと縁を切ろうとした、この時のヨセフの思いは、人間の「正しさ」の限界を示していると言えましょう。人間の「正しさ」とは、自分の罪について自覚できなくなる危険性をいつも孕んでいます。ヨセフはこの時、神の御旨を尋ねるべきでした。しかし、それをしないで、自分だけで判断してマリアと別れよう、縁を切ろうとしていたのです。絶対的な義の存在である神の前では、どんな人間でも一人の罪人に過ぎません。いくら私たちが正しさを主張したとしても、それは神の前に完全な「義」正しさとはなりません。私たちが「真の義」を求めるには、神の導きが必要なのです。

ヨセフが、このようにマリアのことで思い悩んでいるとき、夢を見ます。それこそが、ヨセフにとっての「神の助け」でした。夢の中に天使が現れ、恐れないで妻マリアを迎え入れること、マリアの胎の子は聖霊によって宿ったこと、その子は男の子で、イエスと名付けること、イエスは自分の民を罪から救う救い主となることが天使から告げられます。夢の中で、今起こっていることの意味を、主なる神が天使を通して、ヨセフに告げ知らせたのです。それまで、ヨセフはマリアを妻とすることを恐れていました。しかし、マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのだから恐れることはないとの、天使の告げることを聞いて、全能の神の力によって、マリアの胎に男の子が宿ったことを知り、ヨセフは主なる神に信頼して安心することが出来たのです。また、生まれてくる男の子をイエスと名付けるように命じられました。命名は子供の認知を意味します。イエスとはギリシヤ語の呼び名です。ヘブライ語ではヨシュア、「神は救い」を意昧する名前で、よくあるユダヤ人男性の名前でした。「ヨシュア」と呼ばれた人物は主イエスの他に聖書に10人程登場しますが、最も有名なのはモーセの後継者でエリコを陥落させ、カナンの地を占領し、その地を12部族に分け与え、イスラエルの定住の地を確保したヨシュアでしょう。この「ヨシュア」という名は、自分だけの力ではどうしようもない罪の中にある人間を、確かに救ってくださる救い主の名前として、相応しいものでした。しかし、その「救い」とは「罪からの救い」であり、ローマ帝国の支配からの解放を望んでいた当時のユダヤ人の期待とは異なるものでした。従って、21節の「ご自分の民を」という表現は、「新しいイスラエルの民」、「新しい神の民の創造」という視点から理解されなければならないでしょう。ここにもイスラエルを「ご自分の民」とされた旧約の「主なる神」と主イエスの姿が重なってきます。マタイ福音書は主イエスの生涯が旧約聖書の預言の成就であることを示すため「主が預言者を通して言われた事が成就するためであった」という表現で旧約聖書を度々引用しています。

ここではマリヤの聖霊による妊娠がイザヤ書7章14節の「それゆえ、わたしの主が御自ら/あなたたちにしるしを与えられる。見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み/その名をインマヌエルと呼ぶ。」との旧約聖書の預言の成就とされています。

23節にあるように主イエスは「インマヌエル」という名で呼ばれるとありますが、ご生涯は「イエス」と名乗り、「イエス」と呼ばれ、「インマヌエル」というお名前では呼ばれませんでした。主イエスの人格とご生涯そのものが「インマヌエル:神は私たちとともにおられる」であったと、マタイ福音書全体を通して、現実の主イエスのお姿を現しているのです。

ヨセフは夢で告げられたことを主なる神の啓示と信じて、妊娠したマリヤを迎え入れました。場合によっては人の好奇の目を浴びるリスクも引き受けたと言えましょう。こうして主イエスはヨセフとマリヤという人間の両親のもとで、人として生れることになったのです。

ヨセフは、主の天使が夢で語った神の御言葉を聞いてから、劇的な変化を遂げています。ヨセフは、信じることができなかったものから、信じるものへと変えられ、受け入れることのできなかったものから、受け入れるものへと変えられたのです。

妻マリアのお腹の中に主イエスが宿ってから、夫ヨセフは愛する人も、主なる神も信じることのできない自分の弱さと罪を知りました。神様は、そのヨセフを見捨てることなく、言葉を投げかけて下さり、彼にその言葉を信じる信仰を与えてくださいました。ヨセフは、その神様を信じる信仰によって、自分からは受け入れられることのできなかったマリアを受け入れ、お腹の子に、名前を付け、自分の子として、受け入れることができるようになったのです。

この子、主イエス・キリストがマリアのお腹の中に来て下さった時から、救いが始まりました。この方が来られてから、闇は光に照らされ、闇の中にいた私たち人間が光に照らされ、罪が明らかになると同時に、その光がどんどん近づいてこられて、私たちの心の内側に入ってきてくださったのです。その光によって、私たちは、新たにされるのです。その希望の光が、私たちの内側に来てくださって、いつも共にいてくださる。「インマヌエル:神はわれわれと共におられる」というのは、このことです。

今日のこの聖書箇所に書かれている主イエスの誕生、キリストの受肉の神秘については、様々な批判や意見のあることは事実でしょう。私たち現代人の高度な科学的知識では、処女降誕など、考えられないといった意見や、妥協して生物界には雌雄両性生殖ではなく、単性生殖も見られるので人間の単性生殖もあり得るのではないかといった議論など、この出来事を無理矢理説明しようとする努力する人もいます。歴史上、数えきれない程の多くの憶測が述べられて来ました。聖書をよく読んでいるキリスト者でも、これは神話なので、実際に起こった事ではないと、この出来事を彼方に遠ざけてしまい、正面から取り上げようとしない人が少なくありません。

しかし、主イエスの生誕において起こったことは、今日のマタイ福音書によれば、神御自身が主イエスとして人となって、人々の間にとどまり「インマヌエル」、その民にとっての「救い主イエス」となるのであり、救い主・キリストが人々を救うためにここに生まれる、ということを述べているのです。

その中心をなしているものは、主イエスにおいて実現する神の人間に向けての救いの実現であり、人間はそれに応答することしかないのです。

信じて従う、それが信仰です。神の御業を信じることから信仰が始まるのです。主イエス・キリストを真の神であり救い主と信じる私たちはこの生誕物語を信仰として受け止め、神の救いの実現に際して、欠くことの出来ない大切な出来事として捉え、信じて伝え続けなければなりません。神の右に座して、神と等しいお方が、肉を取って、私たちと同じ人間となって下さったからこそ、私たちの救いがあるのです。

イエス様が救い主としてお生まれになることは、昔から旧約聖書の預言者によって伝えられて来たことでした。神様ご自身が創造され、何よりも愛された人間が、神様から離れて罪の中で悲しみ・苦しむのを見て、何とか人間を罪の中から救おうとされました。その神様の救いのご計画の中心がイエス様の誕生でした。

昔から、神様を信じる沢山の人々が、神様が一緒にいてくださることで励まされ、辛く苦しいことを乗り越えることが出来ました。乗り越えられれば乗り越えられる程、神様を信じる気持ちを強く持てるようになっていきました。このように神様が共にいて下さり、守ってくださることは、神様の働きとして、今も私たちにも向けられています。

私たちは、聖書を通して神様の御言葉を聞き「天のお父様」と、親しく神様にお祈りすると、神様は、「インマヌエル:神様が私たちと一緒にいてくださる」ために聖霊を私たちのもとに遣わして下さり、私たちが健やかに成長する力を下さいます。

このイエス様の生誕によって、人々が罪から救われて神の国に入るという、確かな救いへの希望が与えられるようになりました。

このようにして始まったイエス様のこの世でのご生涯は、私たちと同じ肉を取られ、私たちと同じ人としてお生まれになり、私たちの救いのために歩まれたものでした。仮の姿ではなく、真の人として、痛みを感じて、苦しみ、十字架にかかり、自分たちでは決して拭い去ることの出来ない私たちの罪を負って下さいました。それは、まさに私たちを愛してくださっている神の御計画そのものなのです。

今日のこの、イエス様の生誕物語「キリストの受肉の神秘」こそ、その内容と意味を、大切な信仰の事柄として、家族や子どもたち・孫たちに伝え続ける責務を、私たちは託されているのです。

そのおひとりお一人の家族への伝道の働きが、一生を通しての天国への旅立ちの準備を形作っていくのです。

お祈りを致します。

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キリストの復活

イースターCS合同礼拝説教

齋藤 正 牧師

《賛美歌》

讃美歌147番
讃美歌151番
讃美歌148番

《聖書箇所》

旧約聖書:イザヤ書 12章1-6節 (旧約聖書1,079ページ)

◆救いの感謝
12:1 その日には、あなたは言うであろう。「主よ、わたしはあなたに感謝します。あなたはわたしに向かって怒りを燃やされたが/その怒りを翻し、わたしを慰められたからです。
12:2 見よ、わたしを救われる神。わたしは信頼して、恐れない。主こそわたしの力、わたしの歌/わたしの救いとなってくださった。」
12:3 あなたたちは喜びのうちに/救いの泉から水を汲む。
12:4 その日には、あなたたちは言うであろう。「主に感謝し、御名を呼べ。諸国の民に御業を示し/気高い御名を告げ知らせよ。
12:5 主にほめ歌をうたえ。主は威厳を示された。全世界にその御業を示せ。
12:6 シオンに住む者よ/叫び声をあげ、喜び歌え。イスラエルの聖なる方は/あなたたちのただ中にいます大いなる方。」

新約聖書:マタイによる福音書 28章1-10節 (新約聖書59ページ)

◆復活する
28:1 さて、安息日が終わって、週の初めの日の明け方に、マグダラのマリアともう一人のマリアが、墓を見に行った。
28:2 すると、大きな地震が起こった。主の天使が天から降って近寄り、石をわきへ転がし、その上に座ったのである。
28:3 その姿は稲妻のように輝き、衣は雪のように白かった。
28:4 番兵たちは、恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになった。
28:5 天使は婦人たちに言った。「恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、
28:6 あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい。
28:7 それから、急いで行って弟子たちにこう告げなさい。『あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる。』確かに、あなたがたに伝えました。」
28:8 婦人たちは、恐れながらも大いに喜び、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走って行った。
28:9 すると、イエスが行く手に立っていて、「おはよう」と言われたので、婦人たちは近寄り、イエスの足を抱き、その前にひれ伏した。
28:10 イエスは言われた。「恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる。」

《説教》『キリストの復活』

今日はイースターです。主イエスが私たちの罪のために十字架に架かって死なれて3日目によみがえられた、復活されたことをお祝いする『復活祭』です。それを英語でイースターと言います。皆様と共におめでとうとお祝い致しましょう。

さて、今日は先ほどお読みした聖書箇所から主イエスの「復活」について考えてみたいと思います。そのためにマタイ福音書を少し前まで遡って、主イエスのご受難、十字架の経過を少し振り返って見たいと思います。

26章で主イエスは最後の晩餐を終られて、弟子たちを連れてゲッセマネへ行き、父なる神様に血の滲む祈りを捧げられました。すると、裏切りのユダに先導されたユダヤ宗教指導者の差し向けた兵士や大勢の群衆に主イエスは捕まえられました。そして、ユダヤ教の大祭司カイアファのもとで尋問を受け、続いて、ローマ帝国の総督ピラトから裁判を受けられたことが書かれています。そして、総督ピラトによる裁判が行われ、主イエスに何の罪をも見いだせなかったものの、ユダヤ群衆から異常な圧力を受け主イエスに死刑の判決を下します。そして主イエスは十字架につけられ、直前の鞭打ちの苦しみや痛みも相まって6時間ほどの短い時間で息を引き取られました。その主イエスの亡骸をアリマタヤのヨセフが引き取り、自分のために準備した新しい墓にご遺体を葬り大きな石で墓の入口を塞ぎました。そして、過越祭の終わった三日目の朝に、マグダラのマリアが、その主イエスの墓に行ったところが、今日の主イエスのご復活の聖書箇所です。

因みに、新約聖書の中には主イエスが様々な奇蹟を行われる記事があります。特に主イエスが死んだ人を生き返らせる奇蹟物語は有名で、皆さんもよくご存知ではないでしょうか。なかでも、ルカ福音書7章の「ナインのやもめの息子のよみがえり」、マルコ福音書5章の「会堂長ヤイロの娘のよみがえり」、そして、ヨハネ福音書11章の「ラザロのよみがえり」の3つの死からのよみがえり、奇蹟物語がよく知られています。これらは、主イエスが死人を生き返らせた奇蹟物語ですが、これら蘇り・生き返る物語は今日の主イエスご自身の「復活」とは全く意味が違います。

マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの四福音書は、それぞれ特徴があります。例えば、主イエスがお生まれになった降誕記事であるクリスマス物語を省略するマルコ福音書や“ロゴスは肉となってわたしたちの間に宿られた”と抽象的な表し方をするヨハネ福音書がありますが、この主イエスの「復活記事」を省略する福音書はありません。四福音書すべてが必ず主イエスの復活記事を書いていることからも、聖書にとって主イエスの「復活」が極めて重要な物語であると理解できます。主イエスの復活こそが、キリスト教の中心テーマであり、最も大切な主イエスによる救いへと繋がっているのです。

四福音書すべてに記されている主イエスの復活記事は通常2つの形に分類されます。主イエスのご遺体が墓の中にはないことを記し、間接的に主イエスの復活を物語る「空の墓物語」がまず一つの形です。そして、もう一つは復活の主イエスが弟子たちに御姿を現されたことを記す、顕微鏡の「顕」に現われると書く「顕現物語」が二つ目です。

1節の「週の初めの日」とは、金曜日に十字架で死なれ葬られた主イエス復活の日のことで日曜日です。この日曜日の朝に主イエスの墓を訪れた者として、マタイ・マルコ・ルカ3つの共観福音書が複数の女性たちの名前を挙げています。ここで「もう一人のマリア」とは、間違いなく主イエスの母マリアと考えられていますが、何故「イエスの母マリア」とせずに「もう一人のマリア」とマルコが書いているのか意図は不明です。このマタイ福音書では婦人たちが墓へ行った理由は記されていませんが、他の共観福音書によると、それは過越祭の前の十字架刑のために急いで葬られた主イエスの未完成に終った葬りを完成させるためであったと思われます(マコ16:1)。

マグダラのマリアは、2節にあるように、天から下ってきた天使に「あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる。」と主イエスの復活とガリラヤでの再会の約束まで告げられ、そのことを弟子たちに告げ知らせる様に命じられました。

主イエスの復活の様子は、四福音書それぞれの記事によれば、先ず空の墓が発見され、主イエスの亡骸がなくなっていたこと、その次には天使による御告げ、これは天の上から行われたことであるとの知らせであり、最後に復活の主イエスの顕現、つまり人々の目に見えるお姿でマグダラのマリアだけでなく弟子たちを始め多くの人々に姿を現されたということでした。

天使の言うことを畏れながらも喜んで聞いたマリアが、このことを弟子たちに知らせようと墓から走り出すと、何と死なれた筈の主イエスが、行く手に立って「おはよう」と声をかけて来られました。

マグダラのマリアは、ルカ福音書8章から登場して主イエスのガリラヤからの宣教の早い時期から付き従って旅をするようになりました。主イエスのことを最も慕う女性の一人でした。主イエスが十字架で処刑され、弟子たちも逃げ去っていった中で、主イエスが息を引き取られる最後まで見届けました。そして、日曜日の朝早く、押え切れない気持で、墓へ行ったのです。

神様を信じる信仰には、“サル型”と“ネコ型”があると言われています。サルは自分の子供を運ぶ時、子ザルを母ザルのお腹にしっかりとしがみつかせます。母ザルが自分の手で子ザルを抱えることはありません。子ザルは掴んでいる手を離したら終わりです。従って、サルの子供は必死で母ザルにすがりつくことになります。一方、ネコの子供は移動する時、母ネコが子ネコをくわえて運びます。子ネコはすがりつこうにも四つ足ともブランブランです。力を抜いて、お母さんにお任せなのです。信仰は、サルの子のように自分の力でしがみつく信仰と、ネコの子のように、お任せしてしまう、お委ねする信仰とがあると言えます。私たちの信仰は、自分の力で必死にすがりつくような信仰ではなく、神様を信頼し切って、安心して自分のすべてを神様にお委ねできるような信仰へ変えられなければならないのです。

自分からすがりつく信仰は頑張らなければならない信仰です。一生懸命努力しなければならない信仰です。それは疲れます。いつも自分の方からすがりついていなければならない。自分が手を離したら終わりです。信仰のために自分が、頑張らなければならない。善い行いや努力をしていないと、神様に愛してもらえない、見捨てられてしまうのではないだろうか。そんな不安が心の中に大きな場所を占めます。その結果、自分は神様に愛されていないのではないだろうか、見捨てられてしまうのではないだろうか、と不安になっていないでしょうか。教会での奉仕や良い行いが充分にできれば安心します。しかし、教会奉仕や自助努力が足りないと思うと落ち込んだりしてしまうのではないでしょうか。

頑張らないと神様に愛されない人生になっていないでしょうか。もちろん、何事に対しても努力するのは極めて大切です。しかし、努力の結果で、神様が私たちを愛されるのか、愛されないのかが決まるのではありません。神様の愛とは、そんなものではないのです。

あなたは愛されている存在だ。聖書は、私たちに、そのように語りかけます。たとえ善い行いができなくても、何もできなくても、結果が出せなくても、神様はあなたを一方的に愛してくださっている。その手で、しっかりと掴んでいてくださる。だから、私たちは、“良い子でいなければ”と力む力を抜いて、“神様、感謝します。こんな私ですが、よろしくお願いします”と、神様を信頼し、お任せする。お委ねする。そこに安心が生まれます。喜びが生まれます。

そんな人生の安心と喜びに気づかせるために、復活した主イエスは、マリアに「おはよう」と声をかけられたに違いありません。「イエス様はどこ?」「幸せはどこ?」「救いはどこ?」と、必死に願い求めているマリアに声をかけられました。

マタイ福音書での主イエスの本当の栄光とは十字架で私たちの罪のために死なれたことだけではなく、十字架で死なれても復活されて、天に上げられ、天に存在されていることです。

「復活」とは一度死んだ者が再び息を吹き返すという現象、「生き返り」や「蘇生」とは全く違います。「復活」とは主イエスが初めてなさった特別な御業なのです。この世には復活を認めない人たちも沢山います。クリスチャンを名乗る人の中にさえ復活を認めない人たちもいるのです。

復活を認めない人たちが主イエスの墓が空であった理由を大きく分けて二つ挙げています。まずその第一は、主イエスの親しい者たちが運び去ったというもの。第二は、主イエスの敵が盗んだというもの。いずれも問題があります。第一の説は、弟子たちはこの時復活をはっきりと信じていなかったし、ユダヤ人を恐れて隠れていたうえ、墓は数人の番兵が番をしており、たとえ亡骸を墓から運び出そうとしても難しかったでしょう。第二の「敵が盗んだ」はそうしなければならない動機が見当たりません。何より、弟子たちが主の復活の宣教を開始した時、主のからだを敵が提示して反論することができなかったことでも分かります。これだけでも主イエスの復活が確認されるんではないでしょうか。逆に復活の裏付けとなるのは、四福音書とⅠコリ15章に記されている主イエスの合計10回に上る顕現物語ではないでしょうか。それら一つ一つの記事は、それぞれが独立して多様性を持っています。後になって調和させたとは考えられません。主イエスが復活されたという主要な点においてはすべての記事が一致しています。

また多くの人々に復活の主イエスが現れた状況や、主イエスの十字架を見て逃げ去ってしまった弟子たちが復活の主イエスに出会って大きな変化が起きたことは否定できません。何が弟子たちを逃げ隠れする者から殉教を恐れず大胆に福音を語る者に変えたのでしょう。弟子たちに勇気と確信を与え、伝道者とさせたのは復活の主イエスに出会ったからに他ならないのです。また、それまでは、ユダヤ人として土曜日の安息日を守っていた弟子たちが、なぜ土曜日に代えて日曜日の主の日を守り、また聖餐を祝うようになったのか、そして1節にあるようにこの日が「週の初めの日」になったのか。これらはみな、キリストの復活によってなされたものと考えるべきです。洗礼“バプテスマ”は、キリストと共に葬られ、よみがえったことのしるしです。この主イエスの復活は神様の御業であり、キリスト信仰の基礎なのです。

そして、主イエスがなされたこの復活は私たちにも将来起きる、終末の時にすべての人々に起きる。その終末の時には、生きている人々だけでなく、死んだ人々も復活すると新約聖書は語っているのです。

復活した身体がどんなものなのかについては、聖書では詳しくは語られていません。しかし、主イエスの復活が私たちの救いと密接に結びついていることは、ローマの信徒への手紙4章25節にある様に「イエスは、わたしたちの罪のために死に渡され、わたしたちが義とされるために復活させられたのです。」という言葉からも明確に分かります。

私たちの罪を贖うために十字架で死なれた主イエスは復活されて、今も私たちが義とされるため、私たちを罪から救うために生きて働いておられるのです。

復活を信じることは、主イエスを信じる信仰、キリスト教信仰の中心なのです。神様の恵みである主イエスの復活なくしてキリスト教信仰はないのです。この主イエスの復活を信じるか、信じないかでキリスト教信仰が大きく変わると言えます。この復活信仰は、私たちが努力して身に着け、己の知識とするものではないのです。マグダラのマリアが復活の主イエスに出会ったように、主イエスから一方的に与えられる愛によるのです。私たちが主イエスの呼び掛けに応える時に与えられる一方的な信仰の恵みなのです。

最後にヨハネによる福音書20章27節、新約聖書210ページをお読みします。「それから、トマスに言われた。『あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。』」

復活の主イエスは疑い深い弟子のトマスだけでなく、私たちみんなに『信じない者ではなく、信じる者になりなさい』と呼び掛けているのです。疑うトマスにも優しく呼び掛けられる復活の主イエスは、今も生きて私たちを愛して『信じない者ではなく、信じる者になりなさい』と呼び掛け続けられているのです。

深く信じる信仰を与えられ、「祈りの家」としての教会に仕え続けることができますよう。

お祈りを致します。

イースター(復活日) CS合同礼拝 (2021年4月4日 № 3747)

受付:興津晴枝
司会:齋藤 正
奏楽:吾妻愛子
前奏
招詞
讃美 147
主の祈り (ファイル表紙)
使徒信条 (ファイル表紙)
交読詩編 13078節(交読詩編p.149 [赤司会・黒一同]
祈祷
讃美 500
聖書 イザヤ書 1216 (旧約 p.1,079)
マタイによる福音書 28章1-10節 (新約 p.59)
説教
「キリストの復活」
成宗教会 牧師 齋藤 正
讃美 148
聖餐式
献金 547 齊藤 紀
頌栄 543番
祝祷
後奏

 

あなたは地の塩、世の光

教会学校との合同礼拝

《賛美歌》

讃美歌6番
讃美歌512番
讃美歌77番

《聖書箇所》

旧約聖書:レビ記 23章13節 (旧約聖書164ページ)

2:13 穀物の献げ物にはすべて塩をかける。あなたの神との契約の塩を献げ物から絶やすな。献げ物にはすべて塩をかけてささげよ。

新約聖書:マタイによる福音書 5章13~16節 (新約聖書6ページ)

5:13 「あなたがたは地の塩である。だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである。
5:14 あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。
5:15 また、ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである。
5:16 そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。」

《説教》『あなたは地の塩、世の光』

今日は、教会学校の生徒さんとご一緒に新約聖書マタイによる福音書の「山上の説教」を読みます。このマタイによる福音書の5章から7章までの間にあるイエス様の語られた「山上の説教」とは、5章1節の「山に登られた」という書出しから名付けられました。この「山上の説教」に比べて短いのですが良く似た説教がルカ6章17節以下に記されています。こちらは、「イエスは……山から下りて、平らな所にお立ちになった」と書き始められているところから「山上の説教」と、はっきりと分けるために「平地の説教」とも呼ばれています。

今日の「山上の説教」は、イエス様を信じてついて来た12人の弟子たちに山の上で語られたもので、この福音書に書かれているイエス様による5つの説教の最初のものです。イエス様が神の御子であり、救い主としてのご自身を深く自覚して、宣教・伝道の先頭に立って語られたものです。

既にこの時、イエス様のお名前はユダヤの国中に広まっていて、多くの人々がイエス様の説教を聞きに集まっていました。イエス様がガリラヤ伝道を始められた時の説教は「悔い改めよ。天の国は近づいた」(4:17)でした。そして、この「山上の説教」では、既に天の御国に招き入れられた者たちに対して、その御国とは何であるかを説明されたのでした。

この「山上の説教」はまぎれもなく弟子たちと同じく私たちすべてのキリスト者に語られたものであり、第一にキリスト者の真の幸いとは何か、それは何処にあるのかが語られています。次いで、天の父なる神様を喜ばせるにはどうしなければならないかが語られているのです。

また私たちは、「山上の説教」のすべてが、イエス様ご自身を現わしていることをハッキリと知ることができます。また、それだけではなく、イエス様がモーセの権威をはるかに越える主権を持って、私たちを含めた新しい契約の民の心に、愛による本当の律法を刻み込んでくださっているのです。

この「山上の説教」で最も大切なことは、私たちがイエス様と本当に出会って、イエス様を知ることなのです。

聖書には、神様とは「光そのもの」であると書かれています(Ⅰヨハ1:5)。イエス様は、その「光そのもの」である神様を人々に示するために「世の光」として来られたのです。始めの5章13節と14節には、「あなたがたは地の塩である。だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである。あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない」とイエス様は言われました。ここで、イエス様は「あなたがたは地の塩である」と「あなたがたは世の光である」と断言しています。「どうして地の塩なのか」という説明も、「どんな世の光なのか」という解釈もまったくないままです。

この「地の塩」とは何でしょうか。私たちは人間社会で生きています。学校や会社など周りの沢山の人たちと共に暮らしているのです。そんな中で学校や会社などに対する不平・不満があります。余り好きでない人と一緒に仕事をしなければならない会社、古いしきたりを守っているとしか思えない教会などがあるでしょう。そんな私たちに話しかけるように、イエス様は、弟子たちはこの世において「地の塩」の役割を果しなさいと命じられているのです。塩は味付けはもとより、食べ物が腐ることを防ぎます。その腐敗防止の働きがなければ、塩の存在する意味がなくなり、世の人々からも顧みられなくなります。弟子たちはこの腐敗して腐ってしまう世の中でしっかりと防腐剤の働きをしなければならないとイエス様は教えられているのです。

私たちが不平・不満を周りにぶつけると、周りを腐らせてしまうでしょう。腐らせるのではなく、むしろ周りの人々に対して腐らない様に働く防腐剤としての塩となりなさいとイエス様は言われているのです。

また、「世の光」とは何でしょうか。続く15節と16節には、「また、ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである。そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである」と、キリスト者が世に輝く光として振る舞いなさいと教えられているように聞こえますがそうでしょうか。例えば、牧師個人が教会で光り輝くのでは教会は教会でなくなるでしょう。そうではなく光である神様に照らされ、その光を反射して輝けとイエス様は仰っているのです。

弟子たち、私たちはキリストという光を反射して世界を照らす光となる(エフェ5:8、フィリ2:15‐16)のです。自分が光として輝くのではありません。光であるイエス様が周りを明るく照らす時に、弟子たち私たちは、そのイエス様の光を反射して世界を照らす光となるのです。弟子たちや私たちキリスト者に、イエス様は闇を照らすご自身の光を反射して光り輝けと言われているのです。そしてまた、どんな小さな光でも「家の中のものすべてを照らす」のです。小さな光、小さな私たちが明るくなれば、この世界で周りの人々を照らすことが出来るのです。光として表現されるイエス様の弟子たちの使命は、人々の注意を自分に引きつけることではありません。光である天の神様の光を反射して神様の存在を人々に明らかにして、人々が神様をあがめるようになるお手伝いをするのです。

そして、16節では「あなたがた」と複数を用い、世の光を単数で表してありますが、この「あなたがた」の複数は共同体である教会を現わしているのです。一人一人のキリスト者は、このように光にも譬えられていますが、今日の聖書箇所では共同体である教会全体が、「地の塩」であり「世の光」として神様に仕え、共同の伝道を果たすようにイエス様から命じられているのです。神様の召しである伝道を忘れてしまう教会は、自分自身の塩気をなくし何の役にも立たないものになってしまうと言われているのです。

これらのイエス様の言葉は、このマタイ福音書の最後の28章で、力強く宣言されたあの大宣教命令、「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」(28:18-20)を導く言葉と言えます。

教会が本当に世の光であるのは、キリストを宣教する時のみです。知識や学問ではありません。生きて生活する中にあって、キリストを告げ知らせることが大切なのです。

最後に新約聖書329ページ、コリントの信徒への手紙第二 4章5節をお読みします。「わたしたちは、自分自身を宣べ伝えるのではなく、主であるイエス・キリストを宣べ伝えています。わたしたち自身は、イエスのためにあなたがたに仕える僕なのです。」

私たち一人一人にとって、大切な人たち、身近な人たちに、この素晴らしい光であるイエス様を、この私たち自身の姿で伝えていく者とならせてください。

お祈りを致します。

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