主日礼拝
齋藤 正 牧師
《賛美歌》
讃美歌130番
讃美歌354番
讃美歌537番
《聖書箇所》
旧約聖書:ダニエル書 4章1-14節 (旧約聖書1,385ページ)
4:1 わたしネブカドネツァルは、健康に恵まれ、王宮で心安らかに過ごしていた。
4:2 一夜、わたしは夢を見た。眠りの中に恐ろしい光景が現れ、わたしは頭に浮かんだ幻に悩まされた。
4:3 わたしは命令を下してバビロンの知者を全員召集し、夢の解釈をさせようとした。
4:4 占い師、祈祷師、賢者、星占い師らが来たので、わたしは夢の話をしたが、だれひとり解釈ができなかった。
4:5 最後にダニエルが来た。これはわたしの神にちなんでベルテシャツァルという名を与えた者で、彼には聖なる神の霊が宿っていた。わたしは彼に夢の話をして、こう言った。
4:6 「占い師の長ベルテシャツァルよ、お前には聖なる神の霊が宿っていて、どんな秘密でも解き明かせると聞いている。わたしの見た夢はこうだ。解釈をしてほしい。
4:7 眠っていると、このような幻が頭に浮かんだのだ。大地の真ん中に、一本の木が生えていた。大きな木であった。
4:8 その木は成長してたくましくなり/天に届くほどの高さになり/地の果てからも見えるまでになった。
4:9 葉は美しく茂り、実は豊かに実って/すべてを養うに足るほどであった。その木陰に野の獣は宿り/その枝に空の鳥は巣を作り/生き物はみな、この木によって食べ物を得た。
4:10 更に、眠っていると、頭に浮かんだ幻の中で、聖なる見張りの天使が天から降って来るのが見えた。
4:11 天使は大声に呼ばわって、こう言った。『この木を切り倒し、枝を払い/葉を散らし、実を落とせ。その木陰から獣を、その枝から鳥を追い払え。
4:12 ただし、切り株と根は地中に残し/鉄と青銅の鎖をかけて、野の草の中に置け。天の露にぬれるにまかせ/獣と共に野の草を食らわせよ。
4:13 その心は変わって、人の心を失い/獣の心が与えられる。こうして、七つの時が過ぎるであろう。
4:14 この宣告は見張りの天使らの決定により/この命令は聖なる者らの決議によるものである。すなわち、人間の王国を支配するのは、いと高き神であり、この神は御旨のままにそれをだれにでも与え、また、最も卑しい人をその上に立てることもできるということを、人間に知らせるためである。』
新約聖書:マルコによる福音書 10章38-42節 (新約聖書127ページ)
◆大きな苦難を予告する
13:14 「憎むべき破壊者が立ってはならない所に立つのを見たら――読者は悟れ――、そのとき、ユダヤにいる人々は山に逃げなさい。
13:15 屋上にいる者は下に降りてはならない。家にある物を何か取り出そうとして中に入ってはならない。
13:16 畑にいる者は、上着を取りに帰ってはならない。
13:17 それらの日には、身重の女と乳飲み子を持つ女は不幸だ。
13:18 このことが冬に起こらないように、祈りなさい。
13:19 それらの日には、神が天地を造られた創造の初めから今までなく、今後も決してないほどの苦難が来るからである。
13:20 主がその期間を縮めてくださらなければ、だれ一人救われない。しかし、主は御自分のものとして選んだ人たちのために、その期間を縮めてくださったのである。
13:21 そのとき、『見よ、ここにメシアがいる』『見よ、あそこだ』と言う者がいても、信じてはならない。
13:22 偽メシアや偽預言者が現れて、しるしや不思議な業を行い、できれば、選ばれた人たちを惑わそうとするからである。
13:23 だから、あなたがたは気をつけていなさい。一切の事を前もって言っておく。」◆人の子が来る
13:24 「それらの日には、このような苦難の後、/太陽は暗くなり、/月は光を放たず、
13:25 星は空から落ち、/天体は揺り動かされる。
13:26 そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る。
13:27 そのとき、人の子は天使たちを遣わし、地の果てから天の果てまで、彼によって選ばれた人たちを四方から呼び集める。」
《説教》『救われる者』
今日のマルコによる福音書は、主イエスの受難の時に差し掛かっています。十字架と復活を目前にした、主イエスが語られているのはキリスト者の苦難です。十字架へ向かって歩まれた主イエス・キリストの後姿を見詰めるキリスト者にとって、「終末」とはどのように訪れるものでしょうか。終末の前兆、神の裁きをもたらす人間の罪は、この世界に充満していると言わなければなりません。この世が裁かれることは、もはや避けることが出来ない必然であり、それ故に、私たちキリスト者は、主の裁きの日に備える生活を送るべきなのです。
今日の聖書箇所は、「終末の前兆と主の再臨の日」について主イエスご自身が語られ、ここは「小黙示録」とも呼ばれ、福音書の中で最も難解なところです。御言葉を伝える聖書が、わざわざ14節に「読者よ悟れ」と注意を促しているほど、私たちは、浮ついた怪しげな終末思想に惑わされることなく、信仰の眼と耳をもって、主イエス・キリストが語られた「終末」を読み取らなければなりません。
終末の時を迎える決定的な前兆は、「憎むべき破壊者が立ってはならない所に立つ」ことであると言われています。これが何を意味するのかということに関するさまざまな解釈がありますが、マタイ福音書24章15節によれば、ダニエルの預言の一部であることが分かります。ダニエル書9章27節には「彼は一週の間、多くの者と同盟を固め、半週でいけにえと献げ物を廃止する。憎むべきものの翼の上に荒廃をもたらすものが座す。そしてついに、定められた破滅が荒廃の上に注がれる。」とあり、11章31節には「彼は軍隊を派遣して、砦すなわち聖所を汚し、日ごとの供え物を廃止し、憎むべき荒廃をもたらすものを立てる。」とあり、12章11節には「日ごとの供え物が廃止され、憎むべき荒廃をもたらすものが立てられてから、千二百九十日が定められている。」と終末に関する記述が沢山あります。
これを歴史上の史実と照らしてみると、紀元前168年、ヘレニズム世界の覇権を目指したシリア王アンティイオコス四世エピファネスは、エジプト遠征に失敗し、その代わりにユダヤ支配を目指し、エルサレムを制圧、神殿に保管されていた莫大な宝物を略奪しました。更に、ユダヤ全土のヘレニズム化を目指し、徹底的なユダヤ宗教の弾圧を断行、神殿の至聖所にゼウスの像を立て、祭壇には律法が堅く禁じた豚の肉を献げました。もはやこれは単なる政治的権力争いではなく、神への反抗、人間の限界を超えた神への挑戦と見做され、預言者たちは神の裁きと滅びを宣言し、これに応えて、ハスモン家のマタテヤという祭司が一族を率いて反乱を開始、全ユダヤ人が団結したマカベア戦争と呼ばれる戦乱が勃発しました。各地での激戦の結果、マタテヤの三男、ユダ・マカバイオスが指揮をとり、シリア軍を撃退、紀元前164年12月14日、エルサレムを回復、異教の祭壇を除去し神殿の潔めを成し遂げたのは、ユダヤ人にとって、忘れられない栄光の時であり、神の支配の確かな保証となつたのです。
これが現在に至るまで守られている「ハヌカー祭」と呼ばれる宮潔めの起源であり、主イエスが神殿を見詰めてダニエルの預言を引用したのは、明らかに、解放者ユダ・マカベウスと御自身を重ね合わせていると言えるでしょう。主イエスがこの預言を語られたとき、弟子たちは直ちに自分たちの祖先の栄光を思い出したかもしれません。しかしそれは、古い昔の出来事であり、過去の完結した歴史です。遠い時代に終わった出来事が、何故、終末の前兆になるのでしょうか。この疑問を持つことは当然であると思われたので、聖書は、わざわざ「読者よ悟れ」と付け加えたのです。
主イエスは、シリヤ王アンティオコス四世エピファネスが犯した罪を、すべての人間が辿る最終的な神への背きとして語っているのです。
すべての人間は、神を神と思わず、神の領域を侵し続けているのです。神を神として礼拝することこそ、私たち、神に造られた者の最大の義務であり、造られた者としての限度を守り、神の御前に跪くことが正しい創造の秩序なのです。
「そのとき、ユダヤにいる人々は山に逃げなさい。」とあります。創世記19章にあるソドムとゴモラが滅ぼされる時も「山に逃げなさい」と言われました。「山」とは、主なる神が備えられた「逃れの場」のことであり、信仰者が生き延びる唯一の場を意味していると考えられます。
人間が滅び去る危機にあっても、主なる神は、私たちキリスト者に逃れる場を用意して下さっているのです。
ここにキリスト者の平安があります。信じる者は滅びに巻き込まれることはありません。そして「山」が、キリスト者が生きるために主が備えてくださった場所であるならば、そこへ行くことは「逃げること」ではなく、むしろ「前へ進むこと」です。私たちは、危機の中で逃げ惑うのではなく、その時こそ、永遠の生命へ向かってまっしぐらに進むのです。
主なる神が備えてくださった道を行く者には神への全面的信頼がなければなりません。神が養い、守ってくださることへの信頼が、救われる者の条件です。創世記19章16節で、ロトは「ためらいました」。そのため、親しい人々を決断させることが出来ませんでした。ロトの妻は「後ろを振り向きました」(創19:26)。そして「塩の柱」になったと記されています。「塩の柱」とは「生命のないもの」という意味です。
16節以下には、救われるため、逃れるために「屋上にいる者は下に降りてはならない。家にある物を何か取り出そうとして中に入ってはならない。畑にいる者は、上着を取りに帰ってはならない。」と具体的に言われています。「屋上」とは、厚く造られた家の外壁の上のことであり、そこは物干し場などに使用されていました。階段は外壁に沿って造られた簡単なものです。ですから、「下」とは「普段生活している部屋」のことであり、「外階段を降りて家に入るな」という意味です。「上着」とは、寒さを凌ぐ唯一のものであり、貧乏人にとっては代わりがない貴重な財産です。この警告は、「どれほど大切なものでも物質的なものに心を奪われてはならない」という意味です。「先ず、命を守ることだけを考えて直ちに逃げよ」。これが終末を迎える者の心得です。そして続く「それらの日には、身重の女と乳飲み子を持つ女は不幸だ。このことが冬に起こらないように、祈りなさい。」とあるのも、比喩的表現です。親は、どんなときでも子供を捨てて逃げることはありません。危険と分かっていても、子供のところへ戻るものです。また、冬は、パレスティナでは雨季で各地のワディが氾濫し洪水の怖れのある時期です。とても寒く、畑に作物はありません。誰もが体ひとつで出ることがためらわれる時です。これらの表現すべては、主なる神が導くところへ直ちに逃れない人間の不幸を告げています。
19節ではその日には、「神が天地を造られた創造の初めから今までなく、今後も決してないほどの苦難が来るからである。」とあります。これは天変地異というようなことではなく、私たちにとって、本当の試練・苦難の時には、この世に対する未練を捨てなさいと言っているのです。ロトの妻にとっては「救いの時」が「滅びの時」になってしまったことを考えると、私たちにとって、ただ神のみを選び取るということは本当に難しいと言わなければなりません。神が、その場を用意して下さっているからと言って、安心していてはいけません。最後の試練とは、神が用意して下さった救いの場所に向かって、「この私が飛び出して行けるか、否か」ということなのです。
そして、19節に「期間を縮めてくださる。」とは、主なる神が人間の迷いの時を縮めるべく働かれるのです。主なる神が選び、招いて下さった者が一人も滅びないように救い出されるのです。私たちの最も苦しい苦難の時こそ、主なる神が最も御心を傾けておられる時であるのです。
21節~23節は、私たちが如何に大きな惑いの中に置かれているかを告げています。真実を見失うこと、主イエス・キリストとこの世の指導者を見誤ること。さまざまな迷いの中で、最も危険なものは、聖書に記されたこと以外にも幸福の道があるのではないかと思い込むことです。
このような、私たちの迷いと主なる神の救いの御業が繰り返されるのが終末の前兆であり、そしてその後に、いよいよキリストの再臨の時を迎えるのです。
24節以下には、「それらの日には、このような苦難の後、太陽は暗くなり、月は光を放たず、星は空から落ち、天体は揺り動かされる。そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る。そのとき、人の子は天使たちを遣わし、地の果てから天の果てまで、彼によって選ばれた人たちを四方から呼び集める。」とあります。
この文章は、旧約、特に預言書に親しんでいる人々にはお馴染みのものであり、「最後の時」を語る伝統的な黙示的表現です。本来、私たちの知っている言葉では表現できないものを何とか表現しようとした努力の結果であり、特別な文章として信仰の目をもって読んでください。
終末とは、この世界の「終わり」ではなく、「罪の世界の終わり」です。そして、「新しい世界の創造」、「新しい世界の始まり」をここに見ることが大切です。その新しい世界がどのようなものかを、こと細かに推察する必要はありません。その新しい世界とは、主なる神への信頼に生きる世界であり、すべてを主なる神に委ねて生きる世界です。
私たちの人生は、この道を行くことです。私たちは、今日までこの道を歩いて来ました。そして、明日からの生活もまた、この道を行くのです。主イエス・キリストの十字架への道が復活の栄光の中へ続いているのです。主イエス・キリストは、私たちに与えられた最後の時まで、選ばれた者を救うために働かれるのです。
主イエス・キリストの救いに入れられてないお一人でも多くの方々、取り分け大切な愛するご家族や友人が共に救われますようお祈りいたしましょう。
お祈りを致します。