献身

主日礼拝

齋藤 正 牧師

《聖書箇所》

旧約聖書:イザヤ書 1章11-20節 (旧約聖書1,061ページ)

1:11 お前たちのささげる多くのいけにえが/わたしにとって何になろうか、と主は言われる。雄羊や肥えた獣の脂肪の献げ物に/わたしは飽いた。雄牛、小羊、雄山羊の血をわたしは喜ばない。
1:12 こうしてわたしの顔を仰ぎ見に来るが/誰がお前たちにこれらのものを求めたか/わたしの庭を踏み荒らす者よ。
1:13 むなしい献げ物を再び持って来るな。香の煙はわたしの忌み嫌うもの。新月祭、安息日、祝祭など/災いを伴う集いにわたしは耐ええない。
1:14 お前たちの新月祭や、定められた日の祭りを/わたしは憎んでやまない。それはわたしにとって、重荷でしかない。それを担うのに疲れ果てた。
1:15 お前たちが手を広げて祈っても、わたしは目を覆う。どれほど祈りを繰り返しても、決して聞かない。お前たちの血にまみれた手を
1:16 洗って、清くせよ。悪い行いをわたしの目の前から取り除け。悪を行うことをやめ
1:17 善を行うことを学び/裁きをどこまでも実行して/搾取する者を懲らし、孤児の権利を守り/やもめの訴えを弁護せよ。
1:18 論じ合おうではないか、と主は言われる。たとえ、お前たちの罪が緋のようでも/雪のように白くなることができる。たとえ、紅のようであっても/羊の毛のようになることができる。
1:19 お前たちが進んで従うなら/大地の実りを食べることができる。
1:20 かたくなに背くなら、剣の餌食になる。主の口がこう宣言される。

新約聖書:マルコによる福音書 12章41-44節 (新約聖書88ページ)

◆やもめの献金

12:41 イエスは賽銭箱の向かいに座って、群衆がそれに金を入れる様子を見ておられた。大勢の金持ちがたくさん入れていた。
12:42 ところが、一人の貧しいやもめが来て、レプトン銅貨二枚、すなわち一クァドランスを入れた。
12:43 イエスは、弟子たちを呼び寄せて言われた。「はっきり言っておく。この貧しいやもめは、賽銭箱に入れている人の中で、だれよりもたくさん入れた。
12:44 皆は有り余る中から入れたが、この人は、乏しい中から自分の持っている物をすべて、生活費を全部入れたからである。」

《説教》『献身』

本日の聖書箇所を含む、マルコによる福音書11章から12章にかけては、主イエスと、エルサレム神殿の祭司長、ユダヤ人の宗教指導者である律法学者たちとの間でなされたいくつかの論争、議論が語られています。12章の終りである本日の聖書箇所の前半には、主イエスが律法学者たちを鋭く批判して語られたことが記されています。「律法学者に気をつけなさい。彼らは、長い衣をまとって歩き回ることや、広場で挨拶されること、会堂では上席、宴会では上座に座ることを望み、また、やもめの家を食い物にし、見せかけの長い祈りをする。このような者たちは、人一倍厳しい裁きを受けることになる」とありました。

律法学者たちとは、自分たちが人よりも尊ばれ、重んじられ、名誉ある者とされることをいつも求めていました。神様のみ言葉である律法も、祈りも、信仰自体が、そのための道具になってしまっていたのです。それは私たちが考えても、まことにいやらしい、偽善的な姿です。主イエスはそのような彼らを批判して、「このような者たちは、人一倍厳しい裁きを受けることになる」とおっしゃいました。

それに続いた本日の舞台は、ヘロデ大王の築いた広大なエルサレム神殿の中の「婦人の庭」と呼ばれる場所です。広い神殿の外側は「ソロモンの回廊」と呼ばれる回廊で囲まれ、内側は「異邦人の庭」と呼ばれる境内です。更に神殿内側に続く「美しの門」を入ったところ、そこは「婦人の庭」と呼ばれ、イスラエルの女性はそこまでは入ることが許され、その先へ入ることは禁じられていました。その「婦人の庭」の回廊に13個の献金箱が置かれていました。6個は所謂私たちの任意献金にあたる自由献金のための箱、7個は特定の目的のための所謂私たちの特定献金にあたる、焼き尽くす献げものや、それを燃やして灰にするための薪のためや、乳香のためなど献金目的などを決めたものでした。これらの献金箱には、盗難防止のためとも言われていますが、牡羊の角から作ったラッパ状の投げ入れ口が付いていたため「ラッパ」とも呼ばれていたようです。一説によれば、この献金箱の傍らには祭司がいて、人々がそこに入れる献金を記録に留め、そして周囲の人々に聞こえるように、「誰々さんがいくら献金なさいました」と大声で告げていたのではないかと言われています。祭司がその人たちの名前と献金額を読み上げる、すると人々の間から「おお!」と感嘆の声があがる、そのようにして金持ちたちは大いに面目を施していたのです。主イエスは、その「ラッパ」のひとつの傍らに居られたのです。41節では主イエスはその「賽銭箱」の向かいに座って、人々がそれに金を入れる様子を見ておられました。「大勢の金持ちがたくさん入れていた」とあります。今日のマルコ福音書では「人々が賽銭箱に金を入れる」と表現されていますが、この場面を語る他の聖書翻訳の多くは「献金箱」と訳しています。ですから、マルコ福音書でも「献金箱」と訳すべきでしよう。ここで「賽銭」と訳されているギリシャ語の「ガソフュラキオン」という言葉は、「財宝」「宝物」の意味であり、軽く考えるべきものではありません。ルカ福音書21章では「“賽銭箱”に“献金”を入れる」とあって「賽銭箱:ガゾフュラキオン」が用いられていますが、ここの「献金」には、「献金:ドーロン」が用いられています。この言葉は、「賜物」「贈り物」「献げもの」の意味です。通常、上位の人への贈り物を「献げもの」と言います。そして、「捧げ物」や「贈り物」は贈る人の気持ちや立場を明らかにするものとも言えます。

主イエスが人々の神殿での献金の様子を見ておられるとそこに、一人の貧しいやもめがやって来ました。この人は、4月10日の説教箇所に出て来た、律法学者たちに食い物にされるような金持ちのやもめではなくて、「貧しいやもめ」です。その日その日を、爪に火を灯すようにして生きている人です。そのやもめが献金箱に、「レプトン銅貨二枚、すなわち一クァドランス」を入れたのです。それはどれくらいの金額なのでしょうか。新共同訳聖書の後ろの付録には、聖書に出て来るいろいろな単位の換算表があります。そこで「レプトン」を調べると、「ローマの銅貨で、1デナリオンの1/128」と書かれています。つまりレプトン二つ、一クァドランスは、1デナリオンの64分の一ということになります。一デナリオンは、一人の労働者が一日働いてもらう賃金でしたから、その64分の1ということで、この献金が当時としてもかなり小額だったことが分かります。このやもめはそういう献金をしたのです。記録する祭司はおそらく、「こんなはした金を献げるなんて、何を考えているんだ」という軽蔑の目で彼女を見たでしょう。そして金持ちたちの献金を報告するのとは全く違う、馬鹿にした冷たい声で彼女の名と献金額を告げる、すると周囲の人々からは「あきれた」「よく恥ずかしくないね」「あんな金額なら献金しない方がましだね」などという冷たい反応が起る、そんな光景を思い浮かべることができるでしょう。

この物語は、エルサレム神殿の「婦人の庭」の献金箱の前で、主イエス・キリストの御前で献金するというだけのことではなく、自分の生き方が問われる事柄として見なければならないのです。

ここで、主イエスは弟子たちを呼び寄せて、「はっきり言っておく。この貧しいやもめは、賽銭箱に入れている人の中で、だれよりもたくさん入れた。皆は有り余る中から入れたが、この人は、乏しい中から自分の持っている物をすべて、生活費を全部入れたからである」。主イエスの答えがここに示されているのです。

貧しいやもめが献金を捧げる様子を見つめておられた主イエスが、やもめが献げたレプトン二枚の方が、金持ちたちの多額の献金よりも、神様の前ではたくさんの献げものなのだ、と仰ったのです。それは、金持ちたちは「有り余る中から入れたが、この人は、乏しい中から自分の持っている物をすべて、生活費を全部入れたから」です。私たちはこの主イエスの言葉を間違って受けとめてはなりません。献金の価値は金額の大小によって決まるのではなくて、その金額がその人の財産、収入の中で占める割合によって決まる、例えば一千万円の収入がある人が十万円を献げてもそれは1%だが、十万円の収入の中から一万円を献げるならそれは10%になるので、この場合には十万円よりも一万円の方が十倍の価値がある…、ということではありません。収入に対する献金のパーセンテージの計算を始めるなら、人よりも高いパーセンテージの献金をすることによって称賛、名声を得ようとするということになり、結局あの律法学者たちの姿が繰り返されていくことになるのです。

ここで明らかなように、「レプトン二枚」がこの物語の中心ではなく、「それがすべてであった」ということが大切であり、「すべてであることを認定されるのがイエス・キリストである」ということが決定的なことなのです。主イエスは「すべてを献げる人間の真実」を、心から喜んで下さるのです。

主イエスがやもめの献金を見て弟子たちに教えられたのは、このやもめが、自分の全てを神様に献げ、委ねたことです。彼女は、乏しい生活費を全部神様に献げてしまったのです。それは、自分の生活を全て神様の恵み、導きにお委ねしたということです。そこには、人と自分を見比べて、自分は生活費をも含めて百%を神様に献げている、この自分に敵う人はいないだろう、と誇るような思いはこれっぽっちもありません。そのような思いが少しでもあったら、このような献げ物はできない筈です。なぜなら、そのように自分を誇ろうとする思いは、基本的に自分で自分を守ろうとする思いであり、自分の安心安全を自分で確保しようとする思いだからです。

私たちが自分で自分を守り、自分の安心を自分の手の内に確保しておこうとしている限り、全てを神様に献げることはできません。自分のもとに確保しておくものが全く無くなってしまうことには耐えられないからです。だから自分のものを確保した上で、余ったものを献げる、ということになるのです。彼女が生活費も含めたすべてを献げたということは、彼女が、自分で自分の安心を確保しようという思いから完全に自由になり、神様にすべてをお委ねしているということなのです。

私たちは、一人で生きているのではなくて、この社会の中で、人々と共に生きています。人と共に生きている以上、人の目が気になり、人が自分をどう評価しているかを気にすることも、また人に褒められることを求めることも自然なことです。自然のまま、ありのままの私たち人間の生き方というのは、人の目を気にして生きている、優越感と劣等感、誇りと妬みが表と裏のように分ち難く存在している、偽善に満ちた、決して本当に幸せとは言えない生き方なのです。そのような生まれつきの私たち人間を、人の目を気にすることから解放し、優越感と劣等感、誇りと妬みの狭間で苦しむことから解き放って下さるのが、神様の恵みである主イエス・キリストの十字架です。

私たちのために十字架へ向かって歩まれる主イエス・キリストの御心が何処にあるのか、今日のエルサレム神殿における「やもめの献金」というささやかなエピソードが、私たちにそれをはっきりと教えているのです。

主イエス・キリストは、私たちの信仰や奉仕や献金を採点し、誰と比べて何点高いとか低いとか、平均点より上だとか下だとか、評価するようなことはなさらないのです。主イエス・キリストは私たちの罪を、欠けを、弱さを、ご自分の十字架の苦しみと死とによって償って下さり、罪人である私たちを喜んで受け入れ、用いて下さり、信じる者すべてを天の御国へ導いてくださるのです。その主イエス・キリストの慈しみに満ちたまなざしが、人の目、人の評価、人からの誉れを越えて、私たちを支え、生かし、力づけるのです。

これからあずかる聖餐は、主イエスの慈しみに満ちたまなざしがこの自分に注がれていることを、私たちが思い起こし感じ取るために与えられるしるしです。主イエス・キリストのこのまなざしの中で生かされることによって私たちは、今日のやもめのように、人の目、人の評価から自由になって、自分の持っているもの、自分自身のすべてを、心をこめて神様にお献げすることができるのです。

お祈りを致しましょう。

主イエス・キリスト

主日礼拝

齋藤 正 牧師

《賛美歌》

讃美歌321番
讃美歌142番
讃美歌448番

《聖書箇所》

旧約聖書:詩篇 10篇1-7節 (旧約聖書841ページ)

10:1 主よ、なぜ遠く離れて立ち/苦難の時に隠れておられるのか。
10:2 貧しい人が神に逆らう傲慢な者に責め立てられて/その策略に陥ろうとしているのに。
10:3 神に逆らう者は自分の欲望を誇る。貪欲であり、主をたたえながら、侮っている。
10:4 神に逆らう者は高慢で神を求めず/何事も神を無視してたくらむ。
10:5 あなたの裁きは彼にとってはあまりにも高い。彼の道はどのようなときにも力をもち/自分に反対する者に自分を誇示し
10:6 「わたしは揺らぐことなく、代々に幸せで/災いに遭うことはない」と心に思う。
10:7 口に呪い、詐欺、搾取を満たし/舌に災いと悪を隠す。

新約聖書:マルコによる福音書 12章35-40節 (新約聖書87ページ)

◆ダビデの子についての問答

12:35 イエスは神殿の境内で教えていたとき、こう言われた。「どうして律法学者たちは、『メシアはダビデの子だ』と言うのか。
12:36 ダビデ自身が聖霊を受けて言っている。『主は、わたしの主にお告げになった。「わたしの右の座に着きなさい。わたしがあなたの敵を/あなたの足もとに屈服させるときまで」と。』
12:37 このようにダビデ自身がメシアを主と呼んでいるのに、どうしてメシアがダビデの子なのか。」大勢の群衆は、イエスの教えに喜んで耳を傾けた。

◆律法学者を非難する

12:38 イエスは教えの中でこう言われた。「律法学者に気をつけなさい。彼らは、長い衣をまとって歩き回ることや、広場で挨拶されること、
12:39 会堂では上席、宴会では上座に座ることを望み、
12:40 また、やもめの家を食い物にし、見せかけの長い祈りをする。このような者たちは、人一倍厳しい裁きを受けることになる。」

《説教》『主イエス・キリスト』

本日のマルコによる福音書第12章35節以下には、エルサレム神殿の境内で人々を教えておられた主イエスが、律法学者たちの「メシアはダビデの子だ」という発言に対して疑問を投げかけているところから始まっています。十字架に向かってエルサレムに来られた主イエスが、祭司長、律法学者、長老たちと論争された場面です。これまでの論争では、主イエスに反対するためや陥れるために相手が問いかけて来ることが多かったのですが、ここでは主イエスの方から問いかけておられるのです。主イエスが人々に、「どうして律法学者たちは、『メシアはダビデの子だ』と言うのか」と突然問うことはかなり唐突な感じがします。多分、これが語られる前に既に主イエスと律法学者たちの間にこのことをめぐる議論があったのでしょう。

ここで「メシア」と訳されている言葉は、ギリシャ語では「クリストス」つまり「キリスト」です。口語訳聖書では「律法学者たちは、どうしてキリストをダビデの子だと言うのか」となっています。「キリスト」という言葉は、旧約聖書のヘブライ語「メシア」という言葉がギリシャ語に訳されたものです。「メシア」とは、ヘブライ語のマーシャ(油を注ぐ)という動詞から派生した名詞で、「油注がれた者」という意味の言葉です。旧約聖書では、神によって王や祭司の務めに任命されることの印として油が注がれました。メシア、キリストは神によって立てられ、任命された者でしたが、時代を経て「メシア」は神が遣わして下さる「救い主」を意味する言葉に変化していきました。主イエスの時代、メシア、キリストと言えばそれは「救い主」という意味に変わっていたのです。

主イエスの問い掛けは、律法学者たちが「キリスト、救い主はダビデの子である」と言っていることについてでした。ダビデはイスラエル王国の土台を築いた最も偉大な王です。イスラエルの王位は、ダビデ王の子孫に代々受け継がれてきたのです。救い主キリストはこのダビデの子であるというのは、ダビデ王の子孫として生まれるということです。律法学者たちはそのように人々に教えていたのです。それは彼らが根拠なしに勝手に言っていたのではありません。旧約聖書の多くの箇所に、救い主メシアはダビデの子として生まれる、ということが預言されいるのです。その代表的な聖書箇所がイザヤ書第11章1-10節です。ここには、平和の王としての救い主の到来が予告されています。救い主がエッサイの株から生え出ると語られています。エッサイはダビデ王の父の名前です。ですからこれは、ダビデの家系から、ダビデ王に匹敵する平和の王、救い主が現れて、人々に全き平和を与えて下さるという預言なのです。こう言った箇所が他にも沢山あります。ダビデ王の子孫として救い主メシアが生まれることは、旧約聖書に親しんでいる人々にとっては常識だったのです。

主なる神は、一つの民族イスラエルを選ばれ、イスラエルを通して、御自分が「唯一の神でである」ことを明らかにされました。アブラハムを通しての神の選びと救いの啓示とイスラエル民族を通しての信仰の進展、これが旧約聖書が語ることです。

それ以来、イスラエルは、長い歴史の中で苦しみに耐えつつ、真実の神が約束して下さった祝福の成就を待ち続けました。「救い主・メシア」とは、神の祝福の約束を実現される方でした。ですから、「救い主・メシアを待つ」ということは、民族に委ねられた希望であり、正しい信仰として、預言者たちが語り続けて来たことでした。

しかし、その神の祝福の内容が、何時の間にか、人間の要求と入れ替わってしまったのてす。神は、確かにイスラエルに栄光を約束して下さいました。ところが、イスラエル民族は、それを現実の「悲惨からの解放」として考えてしまいました。小さな民族イスラエルが神によって示され住みついた場所は、東のメソポタミアと西のエジプトを結ぶ、地政学的に人類の歴史上極めて重要な地域でした。小さなイスラエル民族は周辺の大国に度々支配され、長い歴史の中を生き抜いてきたのですが、独立した民族・国家として誇りを持っていたのは、ダビデ王の時代だけであったと言えましょう。ダビデ王の時代以外は、まさに混乱と屈辱の歴史でした。エジプト、アッシリア、バビロニア、ペルシャ、ギリシア、そして新約の時代にはローマに支配されていました。

「他民族による支配」という苦しみの中で、神の祝福の約束を「隷属状態からの脱出」と考えるようになってしまったことは、人間の弱さから見れば、当然のことと言えるかもしれません。現実の苦しみの中で、その苦しみからの解放を求めるあまり、「自分たちの願い」を、何時の間にか、「神の約束」と置き換えてしまったのです。

しかし、本当の危険とは、苦難に出会ったことで、神の御言葉を聞かなくなってしまうことから生じるのです。目前の苦しみの解決が何よりも大切なことになり、その解決のためにのみ、目先の幸いを与える神を求めるようになってしまうのです。主イエスの時代、イスラエルの人々が、「救い主・メシア」を「ダビデの子」と言ったのは、かつてのダビデ王の時代を再現しようとする意味でした。

聖書に基づいてイスラエルの民を指導する律法学者たちが、「救い主」を「ダビデの再来」と教えるとき、それは、神が示してくださった救いの約束を、「昔のダビデ王国の再来」といった人間的な栄枯盛衰に矮小化してしまったのです。主イエスの怒りは、このような人間の勝手な姿に対してであり、永遠なる神から離れて、人間の世界に信仰を引き下げたことを鋭く指摘しているのです。

39節から主イエスは「律法学者に気をつけなさい。彼らは、長い衣をまとって歩き回ることや、広場で挨拶されること、会堂では上席、宴会では上座に座ることを望み、また、やもめの家を食い物にし、見せかけの長い祈りをする。このような者たちは、人一倍厳しい裁きを受けることになる。」と言われました。

この律法学者の姿は、世間の人々から尊敬され、重んじられることを求めているのです。「長い衣をまとって歩き回ること」とありますが、長い衣は彼らが律法学者であることを示す、いわゆる「ステイタス・シンボル」です。その衣をまとっていると、人々が尊敬して頭を下げるのです。「広場で挨拶されること」ともあります、町の広場は様々な市民生活が営まれる場で、集まる多くの人々の間で、特別な人として尊敬され、みんなに「先生」と呼ばれて挨拶されることをのぞんでおり、逆に自分のことを「先生」と呼ばない人には「失礼だ」と怒ったりするでしょう。「会堂の上席」というのは、ユダヤ人たちの礼拝の場であるシナゴーグと呼ばれる会堂にある聖書を納めた箱の前の席のことです。その席は一般の人々の席に向かい合っており、礼拝を司る人の席です。私たちのこの礼拝堂で言えば、講壇の上の、説教者と司式者の席と思えばよいでしょう。会堂だけでなく宴会の場でも、彼らは上座を求めています。これは、必ずしも彼らの個人的な名誉欲だけによるのではありませんでした。彼らは、自分たちが神様のみ言葉である律法を研究し、それに従う生活をし、人々にもその律法に従う生活を教えている立場にいることを常に意識しているのです。その彼らが尊敬され、尊重されるというのは、本来は、神様のみ言葉が尊ばれ、大事にされるということです。神様のみ言葉を大事にするなら、それを教えている人を大事にするのは自然であり当然のことです。しかしそのように基本的にはみ言葉への尊重のゆえに尊敬を受けていた律法学者たちでしたが、いつのまにか、自分たちを尊敬し、重んじることを求めるようになってしまったのです。自分個人に対する尊敬を要求するようになってしまったのは、彼らが名誉欲に捕われていることを示しているのです。律法学者は、自分たちが人よりも尊ばれ、重んじられ、名誉ある者とされることをいつも求めていました。神様のみ言葉である律法も、祈りも、つまり信仰も、そのための道具になってしまったのです。

主イエスはそのような彼らを批判して、「このような者たちは、人一倍厳しい裁きを受けることになる」とおっしゃいました。律法学者は自分たちが一般の人より高い尊敬を受けることを求めている、それなら、神の裁きにおいても、より高い、人一倍厳しい裁きを受けるのが当然だろう、と言っておられるのです。これは彼らが人よりも高い地位を求めていることへの皮肉なのです。

神との約束に生きることを忘れた律法学者には、人の眼を意識することしか残された道はないのです。この姿の何処に、神が律法学者たちに与えられた栄光の務めがあるでしょうか。そして、律法学者たちが示す惨めさは、民衆が何を見て生きているかという、すべての人間の惨めさをも象徴しているでしょう。

現代の私たちもまた、この過ちを繰り返しているのではないでしょうか。私たちもまた、生きる苦しみの中にあります。人として出会わなければらない、さまざまな悩みを担っています。そしてその重荷に、心のすべてを奪われていることはないでしょうか。日々の生活の中で、主なる神が、御子キリストを通して約束して下さる永遠の生命が、どれ程の魅力をもって見詰められているでしょうか。あらゆる重荷に耐え、そしてその苦しみに勝利する力こそが、真実の信仰である筈です。

主なる神を世界の主として告白し、神が遣わされた御子イエス・キリストを唯一の救い主と信じることこそ、人間の罪が造り出す、自分自身の惨めな姿から解放されることなのです。

それは、この世で消えることのない生きる喜びを知る時であり、生涯をかけて求めるものが何であるかを正しく見詰める時なのです。父なる神が、御子キリストを通して用意して下さったものが、どれほど素晴しいものであるかを、私たちは、その時、知ることが出来るのです。

お祈りを致しましょう。

愛するということ

主日礼拝

齋藤 正 牧師

《賛美歌》

讃美歌320番
讃美歌164番
讃美歌495番

《聖書箇所》

旧約聖書:申命記 7章6-8節 (旧約聖書292ページ)

7:6 あなたは、あなたの神、主の聖なる民である。あなたの神、主は地の面にいるすべての民の中からあなたを選び、御自分の宝の民とされた。
7:7 主が心引かれてあなたたちを選ばれたのは、あなたたちが他のどの民よりも数が多かったからではない。あなたたちは他のどの民よりも貧弱であった。
7:8 ただ、あなたに対する主の愛のゆえに、あなたたちの先祖に誓われた誓いを守られたゆえに、主は力ある御手をもってあなたたちを導き出し、エジプトの王、ファラオが支配する奴隷の家から救い出されたのである。

新約聖書:マルコによる福音書 12章28-34節 (新約聖書87ページ)

12:28 彼らの議論を聞いていた一人の律法学者が進み出、イエスが立派にお答えになったのを見て、尋ねた。「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか。」
12:29 イエスはお答えになった。「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。
12:30 心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』
12:31 第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる掟はほかにない。」
12:32 律法学者はイエスに言った。「先生、おっしゃるとおりです。『神は唯一である。ほかに神はない』とおっしゃったのは、本当です。
12:33 そして、『心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして神を愛し、また隣人を自分のように愛する』ということは、どんな焼き尽くす献げ物やいけにえよりも優れています。」
12:34 イエスは律法学者が適切な答えをしたのを見て、「あなたは、神の国から遠くない」と言われた。もはや、あえて質問する者はなかった。

《説教》『愛するということ』

本日与えられたマルコによる福音書第12章冒頭の28節に「彼らの議論を聞いていた一人の律法学者が進み出、イエスが立派にお答えになったのを見て、尋ねた」とあります。ここで「彼らの議論」と言われているのは、先々週の3月20日の礼拝でご一緒に読んだ、18節以下の、主イエスとサドカイ派の人々の復活をめぐる議論です。復活をめぐって当時、ファリサイ派とサドカイ派が対立していました。サドカイ派は復活はないと言っていたのに対して、ファリサイ派は復活を信じていました。本日の律法学者はファリサイ派です。ファリサイ派が目指しているのは、ローマ帝国に支配されているユダヤの民が、律法を守って生活し、神の民としての誇りと自負をもって生きることです。そのためにファリサイ派は民衆の中で律法を教え、生活の指導をする律法学者となりました。この律法学者は、復活などないとするサドカイ派の人々に対して、主イエスが聖書に基づいてはっきりと死者の復活を語られたのを聞いて、立派な答えだと思い、主イエスが自分たちと同じことを教えているという親近感を抱いたのです。それで彼は、一つの問いを主イエスに投げかけようとして進み出たのです。

この律法学者が主イエスに問い掛けた問題は、サドカイ派の質問のように作り上げられた罠ではなく、実際に彼が悩んでいた課題、「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか。」という質問でした。

古くから存在した旧約聖書には「~せよ」という積極的な戒めが248ヶ条、「~すべからず」という消極的な戒めが365ヶ条、合計613ヶ条あると言われて来ました。

律法学者たちは、聖書に記された数多くの律法を基本に、更に多くの戒めを造り上げて行きました。新しい問題が起こる度毎に、それに対する新しい戒めを付け加えたので、紀元5世紀の頃には、60巻、250万語の書物になっていたと言われています。まさに民衆にとって、律法学者は知恵の宝庫であり、律法学者なしには律法の下で生活し、律法を守ることが出来ませんでした。

その律法学者にも、どうしても解決出来ない問題があったというのです。あらゆる事柄を、聖書の御言葉によって解決してくれる律法学者に、「分からないことがある」とは、一般民衆にとって不思議なことでもありました。

その不思議な難問とは、何と、「沢山の戒めの中で、どれが一番大切か」ということでありました。次々に新しい戒めを造り加えて来た結果、あまりにも戒めが多くなり過ぎて、「最も根本的なものは何か」ということが分からなくなってしまったというのです。これは、真面目な律法学者にとって、笑い事ではない真剣な問題と言えます。

29節で主イエスは、「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』」と告げられました。申命記6章4節と5節に、「“聞け”、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」とあります。この箇所は「聞け」、へブル語でシェマーという言葉で始まるために、この戒めそのものも「シェマー」と呼ばれていました。

主イエスは、それを律法学者に指摘したのです。端的に言えば、「もつとも基本的なものに帰れ」ということです。イスラエルの民であるならば、この御言葉を知らない者は居ません。

主イエスは、「このような当たり前のことを、どうして分からないのか」と言われているのです。律法学者でさえ、何故分からなくなってしまったのか。それは、この御言葉全体を貫く根本的な精神を見失ったからに他なりません。

この「聞け」という言葉の重みです。「聞け」と命じられていることは、人間が本来「聞く者」として存在していることを示しています。「聞く」ことを怠ったとき、私たちは、「本来の自己」を見失って行くのです。

「聞け」と言われたとき、「語るべき者は誰か」ということがはっきりと意識されなければなりません。

神が語り、人は聞く。これがすべての根本であり、出発点でなければならないのです。私たちが「本来の道」を見失うのは、「神に聞くことを怠ったから」と言うべきです。人は、語ることに多く、聞くことに少ないのです。

「私が・・」「私の家族が・・」「私の会社が・・」「私の国が・・」。「私」が心を埋め尽くしているのであり、自分自身の立場のみを守ろうとするところから、「あらゆる問題が発生している」と言うべきです。

「神は、何と言われているのか」ということを、生活の中の何処で意識しているでしょうか。御言葉に耳を傾け、御言葉に立ち戻ることこそ、行くべき道を見出す第一歩なのです。

そして、「聞く」こととは、当然、「従うこと」を意味します。「参考にするために聞く」のではありません。「語られたとおり生きるために、聞く」のです。正しく聞く者は、正しく従う者です。それが信仰というものです。

「あなたの神である主を愛しなさい」と言われていますが、「愛する」という言葉が神に対して用いられる場合、「従う」という意味であることはもちろんのことです。「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし」、全人格を献げて従うのです。

ヨハネの手紙 第一 には、「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣しになりました。ここに愛があります。」と記されています。

主イエスが指摘されたシェマーが語る「唯一の主」とは、このことです。「他に神はない」というだけのことではなく、「これ程までに私たちを愛しておられる方が他にあるか」ということです。私たちが「他に神はいないと認める」のではなく、神御自身が、「わたしは、あなただけを愛した」と宣言されているのです。

「私は、あなたを愛している」。これが、常に聞かなければならない御言葉であり、神に愛されているということに気づいた者は、当然、その愛に相応しい生き方をするでしょう。それ故に、第二の戒めが語られるのです。31節で、主イエスは、「第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』」と言われ、その上、『この二つにまさる掟はほかにない。』」とまで言われました。

「自分を愛する」とは、「自分を大切にする」ことです。自分の身体、自分の魂、自分の価値を大切にすることです。何が、それほど自分を大切にさせるのでしょうか。それが「愛」なのです。「神に愛されている」という自覚が、自分の本当の価値を目覚めさせるのです。いささか通俗的な例ですが、皆さんは恋に破れた人がどれ程捨て鉢になるかをよく知っているでしょう。「愛されていない」と思ったとき、人は自分を大切にする気持を反動的に失います。愛の喪失は、あらゆるものの価値を消滅させるような錯覚を与えることがあるのです。「愛」は、それほどの大きな影響力を持つものなのです。

そして、隣人を愛することは、好きになるとか一緒にいて楽しいということではなくて、相手を赦すことです。赦すことこそ愛することだと言うことができます。「自分自身を愛するように」隣人を愛しなさいと教えられているのです。「自分を愛するように」とは「自分を赦しているように」と言い換えることもできます。私たちは、自分のことは基本的に赦しているのではないでしょうか。それなのに人に対しては「赦せない」という思いを持ってしまうのです。

また、「自分を愛する」とは、「神の愛を知ることに他ならない」とも言えるでしょう。「神が愛して下さった私自身の発見」です。「神が私をどれほど愛しておられるか」という自覚の程度に応じて、私たちは自分自身を見つめるのです。

そしてその神の愛が、「御子を十字架につけてもなお厭わぬ」という程の神の愛が、「今、目の前にいる人々にも向けられている」なら、その人々を軽んじることが出来るでしょうか。

神の愛に感謝する者は、「神が愛する者を愛する」ことに応答する。それが、神の愛への応答です。隣人への愛は、神の愛への感謝の表れに他なりません。

ここまで来ると、この二つの戒めは、結局、「一つである」ことが明らかでしょう。「私は神に愛されている」。これがあらゆる事柄の根本であり、私たちが聞くべき「根本的な御言葉」なのです。

律法学者は、主イエスが語られた「愛の交わり」に生きることと、神を愛することと隣人を愛することは分かち難く結び付いていることが、律法全体の中心であることをしっかり理解したのです。しかも彼はそれを直ちに、旧約聖書、ホセア書第6章6節の、「わたしが喜ぶのは愛であっていけにえではなく、神を知ることであって焼き尽くす献げ物ではない」と結びつけました。主イエスがお語りになったことを直ちにこの別の箇所と結びつけることができたということは、彼自身が聖書についての深い知識を持ち、また鋭い信仰的感性を持っていることを示していると言えるでしょう。主イエスはこの彼の言葉を聞いて「あなたは神の国から遠くない」と言われました。

主イエスは「そこまでよく分かっているあなたはもう神の国に到達している」とは言われませんでした。あなたは「遠くない」、神の国はあなたの近くにある、あなたはいい線まで来ている、しかしまだそこに到達してはいない、と言われたのです。主イエスの言葉をしっかり受け止め、逆らったり揚げ足を取ったりしないこの律法学者になお欠けていること、彼がなお神の国に入ることができないでいる原因は何なのでしょうか。

律法学者の目の前にはキリストがいる、キリストが彼に語りかけているのです。そのキリストを信じ、キリストに従って共に歩み、キリストにこそ依り頼むこと、それだけが律法学者に欠けているのです。後それだけが出来れば、神の国に到達することができる、と主イエスは言っておられるのです。

キリスト者にとってもっとも大切なことは、「御言葉を聞くこと」です。「何をしようか」と自分で考えるのではなく、神の御心を聞くのです。「私はお前を愛している」という神の御言葉を聞くのであり、「私は独りぼっちではない」ということを知らされるのです。すべてはそこから始まります。

神の愛によって愛された者同士が共に歩む神の国の交わりを、私たちは、今日も生きるのです。

お祈りを致します。

生きている者の神

主日礼拝

齋藤 正 牧師

《賛美歌》

讃美歌11番
讃美歌183番
讃美歌528番

《聖書箇所》

旧約聖書:創世記 1章28節 (旧約聖書2ページ)

1:28 神は彼らを祝福して言われた。「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ。」

新約聖書:マルコによる福音書 12章18-27節 (新約聖書86ページ)

12:18 復活はないと言っているサドカイ派の人々が、イエスのところへ来て尋ねた。
12:19 「先生、モーセはわたしたちのために書いています。『ある人の兄が死に、妻を後に残して子がない場合、その弟は兄嫁と結婚して、兄の跡継ぎをもうけねばならない』と。
12:20 ところで、七人の兄弟がいました。長男が妻を迎えましたが、跡継ぎを残さないで死にました。
12:21 次男がその女を妻にしましたが、跡継ぎを残さないで死に、三男も同様でした。
12:22 こうして、七人とも跡継ぎを残しませんでした。最後にその女も死にました。
12:23 復活の時、彼らが復活すると、その女はだれの妻になるのでしょうか。七人ともその女を妻にしたのです。」
12:24 イエスは言われた。「あなたたちは聖書も神の力も知らないから、そんな思い違いをしているのではないか。
12:25 死者の中から復活するときには、めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになるのだ。
12:26 死者が復活することについては、モーセの書の『柴』の個所で、神がモーセにどう言われたか、読んだことがないのか。『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』とあるではないか。
12:27 神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。あなたたちは大変な思い違いをしている。」

《説教》『生きている者の神』

聖書には主イエスと対立する律法に忠実なファリサイ派の姿が数多く記されていますが、本日の箇所は、ユダヤ教の別の一派、サドカイ派が正面に出て来る珍しい箇所です。

サドカイ派は、特にモーセ五書を重んじる一派で、「モーセ五書に復活という言葉がない」という理由で甦りを否定、神殿で献げる犠牲のみが人間の唯一の義務であり、大祭司を頂点とする「神殿の儀式が信仰のすべてである」と考えていました。

復活を否定するということは、おのずから、その考え方が現世的であるのです。この世の命がすべてであり、「今生きている肉体の命がすべて」であるといった世界観であるならば、今生きている現実の世界での幸福のみを追い求めることになります。そのため、彼らは時代の権力者と結びつき、この世の政治を重んじ、ユダヤの最高法院サンヘドリンの過半数を占める宗教的貴族階級に深く浸透していました。サドカイ派は「神を信じる」と言っても「この世での幸福を与える神」を求めているのであり、「肉体の死が一切の終わりである」と考えたのです。

このサドカイ派は、現代の私たちの社会に充満している現実主義、現世主義と同じです。永遠を考えず、目の前の問題の解決・生活の豊かさのみを追い求める現代の社会、そしてそれに迎合する諸宗教。サドカイ派の現代版が如何に多いかということは、誰でも気づくでしょう。サドカイ派は、宗教的装いをしていても、現実は、合理主義的唯物論者と言うべきでありました。その彼らが、主イエスに「ある人の兄が死に、妻を後に残して子がないので、兄の跡継ぎをもうけなければならないので、次の弟の嫁となったが同じぐ跡継ぎが無く弟は死に、次々と7人兄弟と結婚したが誰とも跡継ぎを残せないまま女は死んだ。復活の時、彼らが復活すると、その女は誰の妻になるのでしょうか。」と詰め寄りました。

これは、申命記25章5節以下に記されている律法に基づく問題提起です。申命記では、跡継ぎを残さないで死んだ者の妻は、家族以外の他の者に嫁ぐことは許されず、死んだ夫の兄弟と再婚し、そこで産まれた長子に亡き夫の後を継がせ、死んだ者の名を残すという制度でした。このような制度をレビレート婚と言い、古代社会によくある制度と言われています。このように、未亡人の再婚に関する旧約聖書の教えは、弱い者を守り、小さな民族をメシア到来の日まで導くことに本来の目的があったのですが、サドカイ派はそれを極端に誇張し、対立するファリサイ派の復活信仰を否定するために用いたのです。

ファリサイ派は復活信仰を持ってはいました。しかし彼らの復活信仰は、この世の継続でしかありませんでした。復活の目的は、この世の報いを死後に受けるという因果応報的なもので、この世での生き方を死後の恐怖によって縛り付けるという倫理的効果を持つこと以上の効力はありませんでした。

サドカイ派が提出した問題は、一人の女性が七人の兄弟と次々と結婚したが死後、全員が復活したら、「彼女は誰の妻か」ということです。

彼らは、「こんな矛盾したことを誰が信じられるか」と言いたいのです。

そのサドカイ派に対して主イエスは「死者の中から復活するときには、めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになるのだ。」と答えられました。同じ問答がルカによる福音書20章36節では「この人たちは、もはや死ぬことがない。天使に等しい者であり、復活にあずかる者として、神の子だからである。」と言葉が加えられています。「もはや死ぬことはなく、神の子である。」とは、「死んだ人間が生き返る」ということではなく、この世の生活を「もう一度繰り返すこと」でもなく、「まったく新しい世界に移ること」なのです。そしてその新しい世界とは、今私たちが生きている世界とは、本質的に異なる世界で、神の子として生きる世界なのです。

夫婦は、最も素晴しい愛の交わりを実現するものとして、先程お読み頂いた創世記1章28節に「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ。」と記されています。

人は、この世にある限り、神から世界の管理を任された者として、夫婦が助け合って生きて行かなければなりません。これが神によって造られた人間の使命であり、創造の秩序なのです。

では、「復活」によって「永遠の神の御国」に生きるとき、このような管理者の務めが必要でしょうか。

「復活」を考えるとき、ヨハネの黙示録21章「復活の世界」である「新しい天と新しい地」を改めて思い起こさねばなりません。その3節から4節には、「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである。」とあります。そこには、慰め合わなければならない孤独はありません。助け合わなければならない苦しみもありません。神自ら、共に居てくださり、悲しみも嘆きも労苦もないのです。

パウロもコリントの信徒への手紙 第一 15章42節から44節で、「死者の復活もこれと同じです。蒔かれるときは朽ちるものでも、朽ちないものに復活し、蒔かれるときは卑しいものでも、輝かしいものに復活し、蒔かれるときには弱いものでも、力強いものに復活するのです。つまり、自然の命の体が蒔かれて、霊の体が復活するのです。自然の命の体があるのですから、霊の体もあるわけです。」と記しています。

復活を信じることが出来ない人は、この「霊の体の世界」を信じることが出来ないのです。またパウロは、コリントの信徒への手紙第二の5章6節で「わたしたちはいつも心強い」と記しています。「霊の保証を受けている」という確信がそこにあり、その信仰こそ、この世を生きる力であり、この復活を信じる信仰によって、私たちはあらゆる試練に勝利するのです。

サドカイ派に対して主イエスは26節から27節で「死者が復活することについては、モーセの書の『柴』の箇所で、神がモーセにどう言われたか、読んだことがないのか。『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』とあるではないか。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。あなたたちは大変な思い違いをしている。」とハッキリと言われました。

「神は生きている者の神である。」とは、父なる神は、常に私たちに関わりを持ち続けられるのであるという意味です。「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」と現在形で記されているのであり、「神であった」と過去形で記されていないのです。アブラハムもイサクもヤコブも、みんなずっと昔に死んで過去の人です。しかし、主なる神は、彼らとの関係を「過去のもの」とは言っておられません。死を超えてなお、神は彼らとの関係を保ち続けられています。死の力をもってしても、主なる神との関係を断ち切ることは出来ないのです。

復活信仰の最大の要点は、「死んだ者が生き返る」のではなく、主なる神は「死の力を虚しくし、人との交わりをいっそう強められる」というところにあります。人は、何時も「肉体の生き返り」を問題にします。「それが可能か不可能か」と問います。しかし、「生命は何のためにあるのか」を改めて考えるならば、たとえ死から甦ったとしても、「神なき世界への生き返り」であるならば、それは「何にも値しない命」と言うべきです。

復活とは、主なる神との永遠の交わりであり、主なる神が結ばれた愛の絆を断ち切ろうとする「死の力」を無力化するものです。死を超えてなお続く永遠の世界。そこにおける交わりは、神御自身の御手の中にある安らぎであり、人にとって最高の幸福が備えられているのです。

死を、愛する者との別離ととらえるところから絶望が生じます。しかし、その絶望を希望に変えたのが、御子イエス・キリストの復活です。主イエス・キリストの復活によって、主なる神に迎えられる永遠の世界こそが、人が本来「行くべきところ」なのです。

最後に、ヨハネによる福音書 11章25節から26節の主イエスの御言葉をお読みします。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」

「あなたはこれを信じるか」という主イエス・キリストの問いかけこそ、新しい希望への招きなのです。そして、私たちの前に、その道は開かれているのです。

お祈りを致しましょう。

神のものは神に

主日礼拝

齋藤 正 牧師

《賛美歌》

讃美歌10番
讃美歌68番
讃美歌338番

《聖書箇所》

旧約聖書:創世記 1章26-27節 (旧約聖書2ページ)

1:26 神は言われた。「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう。」
1:27 神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。

新約聖書:マルコによる福音書 12章13-17節 (新約聖書86ページ)

12:13 さて、人々は、イエスの言葉じりをとらえて陥れようとして、ファリサイ派やヘロデ派の人を数人イエスのところに遣わした。
12:14 彼らは来て、イエスに言った。「先生、わたしたちは、あなたが真実な方で、だれをもはばからない方であることを知っています。人々を分け隔てせず、真理に基づいて神の道を教えておられるからです。ところで、皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか。納めるべきでしょうか、納めてはならないのでしょうか。」
12:15 イエスは、彼らの下心を見抜いて言われた。「なぜ、わたしを試そうとするのか。デナリオン銀貨を持って来て見せなさい。」
12:16 彼らがそれを持って来ると、イエスは、「これは、だれの肖像と銘か」と言われた。彼らが、「皇帝のものです」と言うと、
12:17 イエスは言われた。「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」彼らは、イエスの答えに驚き入った。

《説教》『神のものは神に』

先週から受難節に入りました。主イエスの十字架の受難日は今年は4月15日ですが、それまで1ヶ月ほどあります。

今私たちが礼拝において読み進めているマルコによる福音書12章に語られているのはまさに主イエスの最後の一週間、受難週における出来事です。主イエスを殺してしまおうと思っている人々が、言葉尻を捕えて陥れ、訴える口実を得ようとしていろいろなことを語りかけて来たのです。13節に「さて、人々は、イエスの言葉じりをとらえて陥れようとして、ファリサイ派やヘロデ派の人を数人イエスのところに遣わした。」とあります。人々とは11章27節以来、主イエスの陥れようとしている祭司長、律法学者、長老たちです。

もともと、この時代、ファリサイ派とヘロデ派は犬猿の仲でした。

ヘロデ派はローマ帝国の支配を受容しています。ローマ帝国の植民地でありながらガリラヤの領主であったヘロデ・アンティパスによる直接支配がユダヤ全土に及ぶことを認めていました。言わば現実派であり、支配するローマ帝国への納税も当然受け入れていました。

他方、ファリサイ派は伝統的な律法第一主義です。「神にのみ従え」という神の直接的支配を夢見るユダヤ民族主義が基本的主張であり、神殿税と呼ばれる神にささげる献金には大賛成ですが、ローマ帝国への納税には反対でした。

ファリサイ派は、ヘロデ派を信仰を虚しくする世俗主義として憎み、ヘロデ派はファリサイ派を現実を無視する原理主義として批判していたのです。それなのに両者が、主イエスを陥れるために相談し、協力しているのです。

彼らは、何のためにお互いの争いを超えてまで協力しているのでしょうか。

ファリサイ派にとっても、ヘロデ派にとっても、主イエスを陥れることによって得るものは何もありません。彼らはただ、「これまでの自分の生き方を否定される」ことを嫌がり自分の立場をそのまま保っていたいと思っているのです。彼らは、古いものを打ち砕き、新しい御国をイスラエルにもたらそうとしている神の御子を拒否します。すべての者を福音のうちに包み込もうとする神の御手から必死に逃れようとする人間、それがここに現れた人々なのです。彼らは主イエスに、「先生、わたしたちは、あなたが真実な方で、だれをもはばからない方であることを知っています。人々を分け隔てず、真理に基づいて神の道を教えておられるからです。ところで、皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか。適っていないでしょうか。納めるべきでしょうか、納めてはならないのでしょうか。」と問いかけました。彼らは、神の御子を陥れることが出来ると思ったのです。「言葉じりをとらえる」とは「狩人が獲物を捕らえる」という意味で、単純なあげ足取りではなく、イエスを罠に掛けようとしたのです。

これが、ファリサイ派が考えに考えた末の質問でした。その初めに心ならずも語られている、イエスに対する儀礼上の褒め言葉は、皮肉にもまことに正しいものでありでありました。主イエスこそ真実な方であり、人の言葉に惑わされる方ではなく、人の顔を見て差別される方でもなく、聖書に基づいて神が示された正しい道を教える唯一の方です。

彼らが主イエスに話しかけた14節前半は、「言葉としては」まことに立派なものでした。しかし同時に、人の語る言葉は、心を規定するものであることを知らねばなれません。言葉は、語る人自身の人格を表すのです。そして言葉の醜さは、同時に、人格の醜さをさらけ出してしまいます。

彼らは、主イエスに対してまさに最高の賛辞をもって語り掛けましたが、神の御子が自分たちの本心を見抜いておられないと、思い込んでいたのではないでしょうか。

私たちは、主イエス・キリストに対する信仰告白を公にしています。主なる神への絶対的な服従を、聖霊の導きとキリストの執り成しによって告白しています。しかし、自分が言葉に出した信仰告白と、私たち自身の心と行動とが、何処まで一致しているでしょうか。私たちは、人の心を覗き見ることは出来ません。偽りの言葉を区別することは困難です。しかし、主なる神はそれを見抜くことが出来るのです。

神を偽ることは出来ません。それ故に、「最も美しい言葉が、最も醜い心を表してしまう」ことになってしまうのです。

ファリサイ派は、自分たちの言葉が、自分自身の醜さを既に暴露していることにも気づかず、彼らなりに練りに練った難問を、神の御子を陥れる罠として用意したのです。

古代世界では、支配者が課す税は、圧制による搾取とも考えられ、問題があったことも確かです。しかし、ここでの問題はそういうことではなく、ローマ帝国の税金は、ユダヤ人にとって、生活上の負担や苦しみであるという以上に、信仰上の問題でした。

14節にある「税金:ケーンソス」とは、所得税や物品税のようなものではなく「人頭税」のことです。人頭税とは、市民・国民の義務、国家に所属する証しであり、一人年額1デナリ、労働者一日分の給料に当たる金額でした。金額的には大して大きなものではありませんが、ユダヤ人の国家意識は、あくまでも神が支配する神制国家であり、彼らは、主なる神への信仰の証しとして、年額半シェケル、デナリオンに換算すればローマ帝国の人頭税の二倍に相当する金額を、イスラエル神殿へ納めていました。それがユダヤ人としてのアイデンティティであり、信仰確認でした。

ローマ帝国の人頭税は、ローマ帝国の支配権・王権を認めることになり、神の神聖性を犯すとユダヤ人は考えていたのです。それ故に、ここに提出された問題は、「税金を納めるべきか反対すべきか」という搾取に対する抵抗というような政治・社会的問題ではなく、純粋に信仰上の問題であったのです。

この時、主イエスが「納めよ」と言えば、民衆は世俗主義であるとして主イエスを見棄てるでしょう。ファリサイ派はそれをローマ帝国支配への迎合として宣伝します。反対に、「納めるな」と言えば、ヘロデ派は反政府主義者として主イエスを捕らえる口実とするでしょう。

どちらにしても主イエスを陥れる名案だと、ファリサイ派と反目し合うヘロデ派が、共に自分たちの主義主張を捨ててまで団結し、神に逆らう人間としての結論でした。主イエスは、彼らの下心を見抜いて、「デナリオン銀貨には、誰の肖像と銘があるか」と問われました。デナリオン銀貨は当時のローマ帝国内の基本的貨幣です。そして、デナリオン銀貨を初めとするローマの貨幣には、すべて表面に皇帝の肖像が浮き彫りにされていました。

古代社会において、貨幣に刻まれた肖像は、それを用いる者への主権・支配権を表すものでした。国際的な条約などはなく、また現在のような銀行制度もない時代です。貨幣の発行は、皇帝または国王の支配権を明らかにするものであり、肖像が刻まれた貨幣を使用する者は、そこに刻まれた皇帝の支配権を認めるものでした。古代世界では貨幣の通用する範囲が支配地域でした。「これは誰の肖像か」と主イエスが尋ね、「皇帝のものです」と彼らが答えた時、ローマ帝国の支配を彼らが認めていたことを意味しているのです。

彼らは、ユダヤ人の自主独立や信仰の純粋さを語って来ました。しかし実際は、後にローマ総督ピラトに訴え、主イエスの十字架刑を要求したように、ローマ帝国の支配を容認しており、必要に応じてそれを利用し、国家の権力を信仰の上においていたのです。国家の恩恵を受けているのなら、その義務も負っている筈です。権利を主張する以上、義務もまた果たすべきです。これが主イエスの考えでした。主イエスは「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」と言われました。この「返しなさい」とは、「支払うべきものを支払う」という意味です。

「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に」という御言葉は、よく政教分離ということで誤解されることがあります。「信仰と政治は別のものだ」という意味で、この言葉が格言のように利用されます。

しかし、主イエスは「政治や経済はこの世に属し、霊的な部分は神に属する」と言っておられるのではありません。「この世の支配者もまた、神の支配の下にある」ということを明確にしておられるのです。

17節の最後に「彼らはイエスの答えに驚き入った」と記されています。私たちは、ここで「なるほど流石見事に答えられた」と感心して終わってはなりません。

「神のものは神に」とは、どのようなことでしようか。ここに信仰の大切なことを表されているのです。では、何故、「税金を納めよ」と言われたのでしょうか。

デナリオン銀貨には皇帝の肖像が刻んであります。それを使用するということは、ローマ皇帝の支配権を認めていることになります。国家への税金支払いは主権国家への義務だからです。

それでは、「神に返すべきもの」とは何でしょうか。16節で「肖像」と訳されている「エイコーン」という言葉は、通常は「姿」「かたち」と訳されます。

余計は話ですが、この「エイコーン」という言葉はギリシャ正教の聖なる絵画「イコン」となり、英語で「icon:アイコン」となって私たちが普段スマホやパソコンでお馴染みの世界語となっています。

話を戻して、ここで、主イエスは「皇帝の“姿・かたち”が刻まれているものは皇帝のものであり、皇帝に返せ」と言われました。ですから「神のもの…」とは、「神のかたちが刻まれているものは神のものであり、神に返せ」ということになるでしょう。「神のかたち」とは何でしょうか。それは、司式者に先程お読み頂いた旧約聖書創世記1章26節~27節にある「神は言われた。『我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう。』 神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって人を創造された。男と女に創造された。」を思い出すとすぐに分かります。

地とそこに満ちるもの、世界とそこに住むもの、神がお創りになったこの世界のすべては神のものなのです。私たちが神に返すべきものとは、私たちの生活の中の限られた部分や物ではなくて、その全てなのです。地上にあるもので、神のものでないものなどありません。「神のものは神に返しなさい」というみ言葉は、この世において、あるいは私たちの人生において、「神のもの」である領域を限定して、そこにおいてのみ神に従いなさいと言っているのではないのです。この世の全ては神のものなのです。全てを神にお返しすることによってこそ、神のものを神に返して生きることができるのです。

 

「神のもの」とは、神の似姿を刻まれて創造された私たち人間です。神は私たち人間にご自身の肖像を、似姿を刻みつけて、「あなたは私のものだ」と言っておられるのです。私たちは神の似姿を刻まれた神のものとして生きているのです。「神のもの」とはこの世界の全てですが、私たち人間に限って言えば、私たち自身こそ、神に返されるべき「神のもの」なのです。

私たち自身が、神の主権をこの世において顕すものなのです。私たちは、「神のかたち」に造られ、罪によって、一時、本来の姿を失っていましたが、キリストの福音によって、「神のかたち」に倣う新しいものに改めて造りかえられたのです。神の御前に、造られた者としての正しい姿を示すことが求められているのです。そしてその神様が、何処までも私たちから離れることなく、愛され導かれていることを、私たちは常に覚えるべきです。御子キリストは、御前にひれ伏す私たちに対し、「あなたは神のもの・私のもの」と、おっしゃっているのです。

お祈りを致しましょう。