恩寵に包まれて生きる

主日礼拝

齋藤 正 牧師

《賛美歌》

讃美歌191番
讃美歌234番A
讃美歌444番

《聖書箇所》

旧約聖書:イザヤ書 40章6-8節 (旧約聖書1,124ページ)

40:6 呼びかけよ、と声は言う。わたしは言う、何と呼びかけたらよいのか、と。肉なる者は皆、草に等しい。永らえても、すべては野の花のようなもの。
40:7 草は枯れ、花はしぼむ。主の風が吹きつけたのだ。この民は草に等しい。
40:8 草は枯れ、花はしぼむが/わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ。

新約聖書:マルコによる福音書 13章28-37節 (新約聖書88ページ)

◆いちじくの木の教え

13:28 「いちじくの木から教えを学びなさい。枝が柔らかくなり、葉が伸びると、夏の近づいたことが分かる。
13:29 それと同じように、あなたがたは、これらのことが起こるのを見たら、人の子が戸口に近づいていると悟りなさい。
13:30 はっきり言っておく。これらのことがみな起こるまでは、この時代は決して滅びない。
13:31 天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。」

◆目を覚ましていなさい

13:32 「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。父だけがご存じである。
13:33 気をつけて、目を覚ましていなさい。その時がいつなのか、あなたがたには分からないからである。
13:34 それは、ちょうど、家を後に旅に出る人が、僕たちに仕事を割り当てて責任を持たせ、門番には目を覚ましているようにと、言いつけておくようなものだ。
13:35 だから、目を覚ましていなさい。いつ家の主人が帰って来るのか、夕方か、夜中か、鶏の鳴くころか、明け方か、あなたがたには分からないからである。
13:36 主人が突然帰って来て、あなたがたが眠っているのを見つけるかもしれない。
13:37 あなたがたに言うことは、すべての人に言うのだ。目を覚ましていなさい。」

《説教》『恩寵に包まれて生きる』

主イエスは、十字架を目前にして、残される弟子たちが強く生きるために、この13章で、初めて終末のことをお教えになりました。御自身が世を去られた後、弟子たちを間違いなく襲うであろう数々の苦難への備えとして、主イエスは終末についてお話しになったのです。

聖書が教える「終末」とは、1999年7の月に人類が滅亡すると言う「ノストラダムスの大予言」や、巨大隕石が衝突して恐るべき天変地異が起きるといった人類絶滅や自然現象のことではありません。それは、「今という時」を力強く生きる信仰についてなのです。

先々週の聖書箇所マルコ福音書13章24節~27節で主イエスは語られました。「それらの日には、このような苦難の後、太陽は暗くなり、月は光を放たず、星は空から落ち、天体は揺り動かされる。そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る。」 ここに記されているのは、世界の終わりの日の出来事であり、神の御計画完成の日の光景なのです。これは、確かに神秘的表現であり、科学的な表現ではありません。しかし、確かに歴史の終わりが告げられているのです。私たちは、これを信仰の知恵によって受け止めるべきなのです。

私たちは既に、終末の前兆の中を生きています。世界の何処を見回しても、神の裁きを招くのが当然である状況が満ち満ちています。現代を生きる私たちは、常に終末に直面して生きる者となって信仰を強くしなければなりません。本日の聖書箇所は、そのことを教えているのです。28節から「いちじくの木から教えを学びなさい。枝が柔らかくなり、葉が伸びると、夏の近づいたことが分かる。それと同じように、あなたがたは、これらのことが起こるのを見たら、人の子が戸口に近づいていると悟りなさい。」とあります。パレスティナは、6月中旬から9月中旬までの、雨がまったく降らない乾季・即ち「夏」と、10月中旬から翌年の4月中旬にかけての雨季・即ち「冬」に大別されます。この間に、短い「春」と「秋」があります。

「いちじくの葉」は、春の終わりを告げるものであり、青々とした葉が未熟の実を隠すようになる頃、雨がまったく降らない強烈な夏が始まるのです。「それと同じように」と主イエスは言われたのです。「それと同じように」。この言葉は二つの意味で理解出来るでしょう。ひとつは「終末の前兆」です。罪の下にある世界の混乱と悲惨。それは、主なる神が創られた、「良しとされた世界の終焉」を告げるものです。これは誰でも読み取ることが出来ます。言わば、時間的必然性です。もうひとつは、「いちじくの葉が出そろう」ということは誰でも眼にすることであり、皆が知っている変化だということです。気付かない人はいません。同様に、終末の前兆も、「気付かない人がないほどに明瞭である」ということです。「それと同じように、これらのことが起こるのを見たならば」。誰が「見なかった」と言えるのか。主イエスの指摘はここにあるのです。

信仰の正しい眼でこの世界を見ているならば、如何にサタンの誘惑・罪に毒されているかは、誰でも気づく筈です。この世界の姿、この社会に生きる人間の姿の何処に、主なる神が造られた本来の素晴しい姿を見ることができるでしようか。「すべてを良しとされた」という神の御心を、この世界の何処に見出せるでしょうか。主なる神が定められた創造の秩序が、まったく乱されてしまった世界の姿に気づかぬ者はないでしょう。私たちの世界の歴史は罪を生み、苦しみに苦しみを重ねて来たものに他ならないのです。私たちは、そういう世界に生きているのです。歴史の必然とは、積み上げられて来た罪の堆積が、必然的に、「十字架刑という最終的極刑に至る」ということなのです。キリスト者がこのことに気づくのは、パレスティナの人々がいちじくの葉によって夏の到来を知るのと同じように、誰一人気づかない者がないほどに明白なことであり、ハッキリと分かる筈である、と主イエスは言われているのです。

つまり、終末を単なる滅亡として理解してはならないのです。「人の子が戸口に近づいていると悟りなさい」と主イエスは言われました。それは、「終末の接近」という以上のこと、単なる自然のリズムではなく、主なる神の御意志に基づいて決定された御業の開始の時を示しているのです。「人の子」とは、言うまでもなく主イエス御自身であり、「キリストが戸口に近づく」のです。それは何のためでしょうか。ヨハネの黙示録3章20節には「見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をするであろう。」と、「食事をするため」と記されています。また、ルカ福音書22章16節では、主イエスは、「神の国で過ぎ越しが成し遂げられるまで、わたしは決してこの過ぎ越しの食事をとることはない。」と言われました。

「人の子が戸口に近づいた」とは、かつて「食事をとることはない」と言われた方が、「食事をする時が来た」と宣言しておられるのです。「神の国での食事の時」とは「御業の成就の時」のことであり、私たちに約束された「救いの完成の時が近づいた」ということを告げています。

確かに、終末は罪の中に生きる者にとっては滅びの時ですが、その終末の日を、神によって選ばれたキリスト者は、喜びの日として迎えることが出来るのです。ここに驚くべき大きな転換が示されています。主イエスは32節以下で終末の日には「目を覚ましていなさい」ということを、何度も繰り返して警告されています。聖書が警告する「眠り」とは、私たちが夜眠る肉体的な眠りではありません。それは「信仰的に眠る」ことであり、正常な知覚と判断が出来なくなる状態を意味します。信仰的に、神の御言葉・主の十字架と復活が、心に緊張を与えなくなってしまった時、その人は、「霊的に眠った者」となるということです。

「目を覚ましていなさい」とはこのことです。「目を覚ます」と訳されている言葉は、正しくは「警戒するために起きている」ということです。「目を覚ましていれば良い」ということではありません。

目覚めさせている自分の心を、キリストの出来事に絶えず結びつけることであり、結び続けさせることなのです。キリストの御苦しみの姿が心にしっかりと刻み込まれているならば、復活の日の驚くべき知らせが心にはっきりと記憶されているならば、どうして、滅ぶべき世界に心を奪われて、神の御言葉を忘れる筈があるでしょうか。神の御業の実現を待ち望むことなく、不安の中に留まる筈があるでしょうか。そして、信仰に目覚めている心の眼は、ただ神の御計画の完成のみを待ち望むのです。

よく、終末について「それはいつなのですか」ということが語られます。

主イエスは、32節で、「その日、その時は、だれも知らない」と言われました。それは、神の御子でも分からないという意味ではなく、「尋ねる必要はない」という意味で、父なる神への完全な信頼を教えられたのです。

3回に分けてお話してきたマルコ福音書13章ではギリシャ語の「デイ」という言葉、神の必然性を表す「信仰のデイ」と言われる特徴的な言葉が何と3回も出てきますが、主イエスが十字架の迫る中で弟子たちに、話の中心である「終末」とは神が必ずなされることで、必然の御業であるとの強い思いを込めているのです。

私たちが注意し、警戒しなければならないのは、「神の時」を人間の思いで予測しようとする「試み」です。「時の予測」とは、一見、神の御業に忠実であるように思われます。しかし、「時の予測」は、同時に「まだ時がある」という考えに繫がるのです。その「時」そのものも、神が創造されたものなのです。

聖書の御言葉を都合の良いように利用する時、それは「神を道具として利用するサタンの業」となっていると言わざるを得ません。終末は「人間の時」ではなく、「神の時」です。この自覚をもって生きることが大切であり、私たちの日々の生活を支える力の源となるでしょう。

私たちは、「その日」を数えて待つのではなく、御計画の時が来る迄、与えられた生命を力一杯生きることが大切なのです。父なる神が、神としての権威をもって支配し給う歴史の中を生きていくのです。

「目を覚ましていなさい」とは、ただ目を開けてボンヤリと過ごすのではなく、この偉大な「神の時の中を生きる自分の姿」を、しっかりと見詰めることなのです。

この後の14章でゲツセマネで祈り続ける主イエスは、「シモン、眠っているのか。わずか一時も目を覚ましていられなかったのか。誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えても、肉体は弱い。」と言われました。

目を覚まして祈り続けるのです。絶えず祈り、全世界の運命を変える驚くべき出来事が起こる「その時」を待ち望み「祈りつつ生きる」。これが終末的に生きるキリスト者の姿です。30節以下で主イエスは、「はっきり言っておく。これらのことがみな起こるまでは、この時代は決して滅びない。天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。」とハッキリと言われました。

万物は滅んで行きますが、その滅ぶべき世界でただ一つ、永遠に消えることのない神の約束が「祝福という言葉である」のです。信仰に生きる者にとって、この世界で一番確実なものは、「私はあなたを祝福する」という神の御言葉なのです。

私たちの教会が、終末を目指して生きる神の民として相応しい姿をとることが出来るよう、祈り求めて行こうではありませんか。

お祈りを致しましょう。

終わりの日のために

主日礼拝説教

齋藤 正 牧師

《賛美歌》

讃美歌77番
讃美歌352番
讃美歌546番

《聖書箇所》

旧約聖書:エレミヤ書 7章1-15節 (旧約聖書1,188ページ)

◆神殿での預言

7:1 主からエレミヤに臨んだ言葉。
7:2 主の神殿の門に立ち、この言葉をもって呼びかけよ。そして、言え。「主を礼拝するために、神殿の門を入って行くユダの人々よ、皆、主の言葉を聞け。
7:3 イスラエルの神、万軍の主はこう言われる。お前たちの道と行いを正せ。そうすれば、わたしはお前たちをこの所に住まわせる。
7:4 主の神殿、主の神殿、主の神殿という、むなしい言葉に依り頼んではならない。
7:5 -6この所で、お前たちの道と行いを正し、お互いの間に正義を行い、寄留の外国人、孤児、寡婦を虐げず、無実の人の血を流さず、異教の神々に従うことなく、自ら災いを招いてはならない。
7:7 そうすれば、わたしはお前たちを先祖に与えたこの地、この所に、とこしえからとこしえまで住まわせる。
7:8 しかし見よ、お前たちはこのむなしい言葉に依り頼んでいるが、それは救う力を持たない。
7:9 盗み、殺し、姦淫し、偽って誓い、バアルに香をたき、知ることのなかった異教の神々に従いながら、
7:10 わたしの名によって呼ばれるこの神殿に来てわたしの前に立ち、『救われた』と言うのか。お前たちはあらゆる忌むべきことをしているではないか。
7:11 わたしの名によって呼ばれるこの神殿は、お前たちの目に強盗の巣窟と見えるのか。そのとおり。わたしにもそう見える、と主は言われる。
7:12 シロのわたしの聖所に行ってみよ。かつてわたしはそこにわたしの名を置いたが、わが民イスラエルの悪のゆえに、わたしがそれをどのようにしたかを見るがよい。
7:13 今や、お前たちがこれらのことをしたから――と主は言われる――そしてわたしが先に繰り返し語ったのに、その言葉に従わず、呼びかけたのに答えなかったから、
7:14 わたしの名によって呼ばれ、お前たちが依り頼んでいるこの神殿に、そしてお前たちと先祖に与えたこの所に対して、わたしはシロにしたようにする。
7:15 わたしは、お前たちの兄弟である、エフライムの子孫をすべて投げ捨てたように、お前たちをわたしの前から投げ捨てる。」

新約聖書:マルコによる福音書 13章1-13節 (新約聖書88ページ)

◆神殿の崩壊を予告する

13:1 イエスが神殿の境内を出て行かれるとき、弟子の一人が言った。「先生、御覧ください。なんとすばらしい石、なんとすばらしい建物でしょう。」
13:2 イエスは言われた。「これらの大きな建物を見ているのか。一つの石もここで崩されずに他の石の上に残ることはない。」

◆終末の徴

13:3 イエスがオリーブ山で神殿の方を向いて座っておられると、ペトロ、ヤコブ、ヨハネ、アンデレが、ひそかに尋ねた。
13:4 「おっしゃってください。そのことはいつ起こるのですか。また、そのことがすべて実現するときには、どんな徴があるのですか。」
13:5 イエスは話し始められた。「人に惑わされないように気をつけなさい。
13:6 わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『わたしがそれだ』と言って、多くの人を惑わすだろう。
13:7 戦争の騒ぎや戦争のうわさを聞いても、慌ててはいけない。そういうことは起こるに決まっているが、まだ世の終わりではない。
13:8 民は民に、国は国に敵対して立ち上がり、方々に地震があり、飢饉が起こる。これらは産みの苦しみの始まりである。
13:9 あなたがたは自分のことに気をつけていなさい。あなたがたは地方法院に引き渡され、会堂で打ちたたかれる。また、わたしのために総督や王の前に立たされて、証しをすることになる。
13:10 しかし、まず、福音があらゆる民に宣べ伝えられねばならない。
13:11 引き渡され、連れて行かれるとき、何を言おうかと取り越し苦労をしてはならない。そのときには、教えられることを話せばよい。実は、話すのはあなたがたではなく、聖霊なのだ。
13:12 兄弟は兄弟を、父は子を死に追いやり、子は親に反抗して殺すだろう。
13:13 また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。」

《説教》『終わりの日のために』

主イエスがエルサレム神殿でファリサイ派やサドカイ派との論争を終え、神殿を出て行くとき、弟子の一人が主イエスに向かって感嘆の叫びを上げました。「先生、御覧ください。なんとすばらしい石、なんとすばらしい建物でしょう。」

エルサレム神殿は、紀元前10世紀にソロモン王が初めて築き、これを第一神殿と呼びますが、神殿は、戦争のため幾度も破壊され、建て替えられました。本日読まれた当時のものは、ヘロデ大王が紀元前20年に建て始めたもので、建築開始から50年経っても未だ未完成な巨大な神殿であり、先週の説教の際に想像図をお配りしましたが、南北500メートル、東西300メートル。高台に造られ外壁に囲まれた内部は14万平方メートル、エルサレム市街の6分の1を占める広大な神殿でした。外壁の上は柱が連なるソロモン回廊と呼ばれる回廊になっており、その柱は高さ4メートルの大理石であり、全部で数百本の円柱が神殿を取り巻いていました。また、聖所の木の部分には金箔が張ってあり、「日の出の時には、実に眩しくきらめき太陽光線そのものを見詰める時のように、見物人は眼を背けた」と当時の歴史家ヨセフスは記しています。

エルサレム神殿を見た弟子たちの驚きは想像出来ます。彼らは、都から遠く離れたガリラヤ湖の漁師や農夫たちでした。弟子たちの驚きの言葉は、この時代の人々の見る眼を代表していると言えます。弟子たち民衆は、如何にこの世の権力・富に心を奪われやすいかということを物語っています。彼らの心の中に、依然として「眼に見えるものの大きさ」への怖れと憧れが存在し続けたということが、この叫びになったのです。巨大で、堅固なエルサレム神殿は、永久にそこに立っているかのように弟子たちには見えました。主イエスは言われました。「これらの大きな建物を見ているのか。一つの石もここで崩されずに他の石の上に残ることはない。」

弟子たちの感嘆の声が「人間の見る眼」であるのに対し、これが「主イエスの見る眼」であり、まったく違うのです。弟子たちが見ていることが本質ではないことを主イエスは指摘しているのです。「あなたは今、何を見ているのか」。この主イエスの問い掛けから新しい認識が始まるのです。

すると、ペトロたちが、ひそかに尋ねたとあります。「おっしゃってください。そのことはいつ起こるのですか。また、そのことがすべて実現するときには、どんな徴があるのですか。」

弟子たちにとって、主イエスの御言葉が意外なものであったのです。「ひそかに尋ねた」ということが弟子たちの不安を表しています。彼らは、目の前に聳える壮大な神殿の崩壊を現実のこととして考えることが出来ませんでした。ですから、自分たちの思いを遥かに超える主イエスの御言葉を聞いて、動揺せざるを得なかったのです。

通俗的な表現に、「形あるものは必ず滅びる」という言葉があります。弟子たちは「この世が滅びる」どころか、「神殿が崩壊する」ということさえ、この時、信じられなかったのです。しかも、ここで大切なことは、主イエスは「形あるものは必ず滅びる」と言われたのではありません、「罪あるものは、必ず滅びる」と言われているのです。この違いこそ、決定的に重要なことです。

主イエスの予告された神殿崩壊とは、まさに「神による裁きの時」を告げているのです。

そして弟子たちは終末の前兆はあるのでしょうかと尋ねています。弟子たちの求めに応えて主イエスがお語りになった終末の前兆は大きく二点にまとめられます。

第一の前兆は「社会の混乱」であり、「偽キリストの出現」です。偽キリストとは、自分を世界の救世主のように語る者のことです。現実の生活の苦しさを訴える者は、当然、その苦しみからの脱出を望んでいます。「私こそ民衆を幸福へ導く者である」と自ら宣言する偽キリストは、多くの人々を巻き込む混乱を引き起こし、人為的災害を導きます。何故なら、人間が人間である限り、対立と争いは絶えないからです。ある者が語る幸いは、対立する者にとっては悲惨への導きであり、栄光への幻が壊滅の悲劇に終わることは珍しくありません。かつて、ドイツの民衆が何故ヒトラーを支持したのか、そして何故、悲惨の中に落ち込んで行ったのかを考えれば明らかでしょう。現代のプーチンがウクライナを侵略しているにも拘わらずロシヤ国内で高い支持率を得ていることも例外ではありません。社会的混乱は、人間が持つ本質的不安を暴露します。そして、その不安に耐え切れない人間は、さらに新しい神を求めるのであり、新興宗教が常に動乱の時代を背景にして生じるのは、この人間性によると言えるでしよう。

第二の前兆として9節から13節に「迫害」があげられていますが、この場合、紀元一世紀という「限定された時代の姿を写している」ということが出来るでしょう。現在のわが国において、生命を奪われるような迫害はありません。信仰の自由は憲法によって保証され、自由で平和な生活をしています。しかし、迫害とは剣や槍によることだけではなく、ここでは、この世の秩序と神の秩序との対立のことです。キリスト者として生きて行く限り、私たちは幾つもの困難に出会わざるを得ないでしょう。例えば、キリスト者としての良心を隠し切れないために、周囲の人々のようにうまく立ち回ることが出来ないこともあるでしょう。私たちの周囲には、「キリスト者である」ということによって幾つもの問題が生じる余地があります。そして、このような小さな問題が何時か心の重荷となり、それが煩わしくなり、やがて礼拝生活から遠ざかって行く原因にもなるのです。その時、キリスト者に与えられる力は、「苦しみにおいて神の代理者となる」という信仰による力です。それらは「終りの日」の到来ではなく、陣痛にたとえられる前兆にすぎない(8)と、主イエスは言われたのです。

主イエスは11節で、「引き渡され、連れて行かれるとき、何を言おうかと取り越し苦労をしてはならない。そのときには、教えられることを話せばよい。実は、話すのはあなたがたではなく、聖霊なのだ」と言われました。戦うのは神御自身なのです。ごく身近な問題を含め、あらゆる憎しみは、神が引き受けて下さるのです。「わたし一人で戦っている」と思うのは誤りです。

主イエスは、終末の前兆として、「社会の混乱」と「迫害」という二つを示されました。これらは、何故、終末の前兆なのでしょうか。これなら、「現在も同じである」と言えます。「幸福に導く」と自称する新興宗教は世にあふれています。自然災害の前に、現代の科学が如何に無力であるかが教えられています。大地震への恐れや地球温暖化への危機は、繰り返し語られています。人間は、自然災害の前にまったく無力なまま右往左往しています。そして世界は核戦争の不安に怯えています。主イエスが言われていることは、「社会的混乱が起これば終末になる」「迫害があれば神の裁きの時が来る」ということではないのです。

社会的混乱とは何でしょうか。それは、人間の罪の現れです。そして、混乱の中で生じる迫害とは、神への挑戦に他ならないのです。現代でもそれは変わらないのであり、それは人間の罪が少しも変わらず、神への挑戦がますます強まっているということです。それ故に、混乱の継続は、決して神の無力の証明や、神の裁きの予告ではありません。神の御心は罪の裁きではなく、信じる者の救いへと向けられているのです。従って裁きの日とは、「福音を信じる者の勝利が実現する栄光の日である」と聖書は教えているのです。

8節に「これは産みの苦しみの始まりである」と主イエスは言われました。それは、「断末魔の苦しみ」ではなく、「産みの苦しみ」であり、「新しい生命の誕生をそこに見るべきである」と主イエスは仰っているのです。むしろ「キリスト者の勇気の根源を教えている」と言うべきなのです。そして13節で「しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる」とあり、これこそが主イエス・キリストの約束です。この「耐え忍ぶ」とは「じっと我慢の子になれ」ということではありません。「希望を見失うな」、「そこに喜びがある」ということを確信することです。

主イエスの告げられた神殿崩壊は紀元70年のローマ軍による神殿破壊を予告しているのです。これに関しては次回の説教で触れますが、これは歴史に残る大惨事でした。

真実の勇者とは、この世で出会う苦難を、神の代理者として受け止め、その苦しみの中でも信仰の喜びを明らかにする者です。どのようなときでも、13節の「最後まで耐え忍ぶ者は救われる」との主イエスの御言葉が無効になることは決して有り得ないからです。

勿論、この生き方は簡単なものではありません。困難を覚悟しなければなりません。しかし、十字架の彼方に甦りが待っていることを思い返すとき、私たちもその道を辿ることに希望を持つことができるのです。

何故なら、「最後まで耐え忍べ」というだけで、信仰の道を行くことは不可能ですが、そこに「救い」という神様からの確かな約束が、現実の苦しみに打ち勝つ力となるのです。この世を生きるキリスト者の熱き思いは、終末に救いを見ることから生じるのです。

私たちは、主の血潮によって贖われた「この世を生きる神の民」であり、滅びることを知らぬ永遠の世界に、既に生きているのです。

お一人でも多くの方々が滅びることのない「救い」に入れられますよう願い求める者でありましょう。

お祈りを致しましょう。

耐え忍ぶ者は救われる

《賛美歌》

讃美歌546番
讃美歌68番
讃美歌243番

《聖書箇所》

旧約聖書  詩篇 77編5-16節 (旧約聖書912ページ)

77:5 あなたはわたしのまぶたをつかんでおられます。心は騒ぎますが、わたしは語りません。
77:6 いにしえの日々をわたしは思います/とこしえに続く年月を。
77:7 夜、わたしの歌を心に思い続け/わたしの霊は悩んで問いかけます。
77:8 「主はとこしえに突き放し/再び喜び迎えてはくださらないのか。
77:9 主の慈しみは永遠に失われたのであろうか。約束は代々に断たれてしまったのであろうか。
77:10 神は憐れみを忘れ/怒って、同情を閉ざされたのであろうか。」〔セラ
77:11 わたしは言います。「いと高き神の右の御手は変わり/わたしは弱くされてしまった。」
77:12 わたしは主の御業を思い続け/いにしえに、あなたのなさった奇跡を思い続け
77:13 あなたの働きをひとつひとつ口ずさみながら/あなたの御業を思いめぐらします。
77:14 神よ、あなたの聖なる道を思えば/あなたのようにすぐれた神はあるでしょうか。
77:15 あなたは奇跡を行われる神/諸国の民の中に御力を示されました。
77:16 御腕をもって御自分の民を/ヤコブとヨセフの子らを贖われました。

新約聖書  マルコによる福音書 13章1-13節 (新約聖書88ページ)

◆神殿の崩壊を予告する

13:1 イエスが神殿の境内を出て行かれるとき、弟子の一人が言った。「先生、御覧ください。なんとすばらしい石、なんとすばらしい建物でしょう。」
13:2 イエスは言われた。「これらの大きな建物を見ているのか。一つの石もここで崩されずに他の石の上に残ることはない。」

◆終末の徴

13:3 イエスがオリーブ山で神殿の方を向いて座っておられると、ペトロ、ヤコブ、ヨハネ、アンデレが、ひそかに尋ねた。
13:4 「おっしゃってください。そのことはいつ起こるのですか。また、そのことがすべて実現するときには、どんな徴があるのですか。」
13:5 イエスは話し始められた。「人に惑わされないように気をつけなさい。
13:6 わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『わたしがそれだ』と言って、多くの人を惑わすだろう。
13:7 戦争の騒ぎや戦争のうわさを聞いても、慌ててはいけない。そういうことは起こるに決まっているが、まだ世の終わりではない。
13:8 民は民に、国は国に敵対して立ち上がり、方々に地震があり、飢饉が起こる。これらは産みの苦しみの始まりである。
13:9 あなたがたは自分のことに気をつけていなさい。あなたがたは地方法院に引き渡され、会堂で打ちたたかれる。また、わたしのために総督や王の前に立たされて、証しをすることになる。
13:10 しかし、まず、福音があらゆる民に宣べ伝えられねばならない。
13:11 引き渡され、連れて行かれるとき、何を言おうかと取り越し苦労をしてはならない。そのときには、教えられることを話せばよい。実は、話すのはあなたがたではなく、聖霊なのだ。
13:12 兄弟は兄弟を、父は子を死に追いやり、子は親に反抗して殺すだろう。
13:13 また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。」

《説教》『耐え忍ぶ者は救われる』

本日はマルコによる福音書第13章の御言葉が与えられました。私達の信仰生活は「最後まで耐え忍ぶ」歩みであると言うことが出来るでしょう。「最後」というのは、主なる神の救いの御支配が完成する時です。終わりの時、終末とも言われます。

聖書は、はっきりとこの世の最初、創造と、この世の終わり、終末を語ります。聖書の世界観は、すべてのことが繰り返されて行く輪廻転生的なものではなく、創造から終末に向かって一筋に進んで行く直線的なものなのです。

今日のマルコ福音書の13章は、この福音書において主イエスの教えをまとめて語っている最後の部分です。次の14章からは受難の物語に入っていきます。その直前のこの13章は「小黙示録」とも呼ばれます。「小さな黙示録」です。ということは「大きな黙示録」があるわけで、それが新約聖書の最後、「ヨハネの黙示録」です。そのヨハネの黙示録には、この世の終わりに起る様々な苦難に、主イエス・キリストが勝利し、そのご支配が完成し、主に従って生きた信仰者の救い、永遠の命が実現することが語られています。そのヨハネの黙示録と同じように、このマルコ13章にも、この世の終わりのことが語られているのです。しかもここでは主イエスご自身がそれを語っておられます。十字架につけられる直前に、主イエスは最後の教えとして、世の終わりのことをお語りになったのです。

今日は、この終末についてマルコ福音書から読み取っていきたいと思います。

13章始めには、この小黙示録がどのような経緯で語られたのかが示されています。1節に「イエスが神殿の境内を出て行かれるとき」とあります。主イエスは弟子たちと共にエルサレムに来られ、神殿に入り、その境内で人々に教えを語り、また律法学者たちと論争しておられました。そのことが11章以来語られてきたのです。そのような一日が終わり、夕方になって神殿の境内を出て行こうとした時に、弟子の一人が「先生、御覧ください。なんとすばらしい石、なんとすばらしい建物でしょう」と言ったのです。この弟子の言葉は正直な感想でした。当時のエルサレム神殿は、あのヘロデ大王が何十年もの歳月をかけて改築したまことに壮麗なものでした。現在、ユダヤ人が祈っている姿が時々報道されるいわゆる「嘆きの壁」というのは、このエルサレム神殿の僅かに残っている壁の一部です。当時の壁は現在のものよりもずっと高くそびえ立っていたのです。ガリラヤの田舎から出て来て初めてこの神殿を見た弟子たちが、その壮麗さに息を呑み、圧倒されたとしても不思議ではありません。けれども主イエスはこれに対して「これらの大きな建物を見ているのか。一つの石もここで崩されずに他の石の上に残ることはない」とおっしゃいました。この壮麗な神殿が徹底的に破壊される時が来るのだ、と主イエスはおっしゃったのです。実はこの神殿破壊は、主イエスが十字架に架かられて暫らく後の紀元70年に現実となりました。ローマ帝国によって、このエルサレム神殿は徹底的に破壊され、神殿の歴史は終ってしまうのです。そして神殿の中心部分があったと思われる場所には、今は「黄金の岩のドーム」と呼ばれるイスラム教のモスクが建っているのです。

主イエスは、数十年後に起るこの神殿の崩壊を予告なさったわけですが、私たちはこれを、主イエスには予知能力があったとか、時代の流れを見抜く敏感な感覚があった、というようなこととして捉えてしまってはなりません。そこにはもっと深い意味があります。その第一は、主イエスは、神殿の持っている問題性を見つめておられた、ということです。神殿とは、神様がそこでご自分の民と出会って下さり、そこへ行けば神様を礼拝することができる場所です。それはもともとは、イスラエルの民のただ中に主なる神様がいて下さる、神様が民と共に歩んで下さる、という恵みを覚えるための場所でした。ところがその意味が次第に逆転してしまって、神殿があるから、神は我々と共におられるのだ、神殿がある限り、我々には神の守りがあるのだ、と考えられるようになっていったのです。主イエスは先ず「これら大きな建物を見ているのか」と仰っているように、建物に目を向ける弟子の態度を問題にしているのです。目を見張るような神殿が建てられている事実をもって、ここに神がおられると考えていたことは、人間の宗教心が生み出す偶像礼拝であると言っても良いでしょう。そこには、神の居場所を人間が決めて、人間が好き勝手に神を所有するということが起こります。旧約聖書のエレミヤ書7章11節には「神殿を強盗の巣窟にしてる」といった厳しい表現で、神殿があるから大丈夫、というイスラエルの民の安易な思いへの警告が語られています。「我々には主の神殿がある、という虚しい言葉に依り頼んではならない。主に真実に従うことなしに、ただ神殿に依り頼んでもそれは虚しい。そのような神殿を主は滅ぼすだろう」と言われているのです。どのような立派な建物であっても、いや立派な建物であればある程、人間の思いが神に向かうのではなくてその建物に向かっていってしまう、神に信頼し、依り頼むのでなく、立派な建物を見つめてそれによって安心を得ようとする。主イエスはそういう思いを厳しく戒め、壮麗な神殿に頼ることの虚しさを教えておられるのです。これが、主イエスが語られた第一の意味です。

しかしさらにもっと深いことがこのみ言葉には込められています。主イエスは、神殿における礼拝そのものの終わりを見つめておられるのです。神殿は礼拝の場ですが、その礼拝は、動物の犠牲を献げることを中心としていました。動物の命を身代わりとして献げる礼拝によって、神に罪を赦していただき、神の民として歩み続けることができる、それが、イスラエルの民が神殿において行なってきた礼拝でした。しかし、神の独り子であられる主イエスが来られ、まもなくご自分の体を、私たちの罪の赦し、贖いのための完全な犠牲(いけにえ)として、十字架の上で献げて下さろうとしているのです。この主イエスの十字架の死によって、私たちの罪の赦し、贖いは完成し、動物の犠牲による贖いはその意味を失うのです。主イエスが来られたことによって、礼拝は、動物を献げることによってではなく、主イエスによる救いを宣べ伝えるみ言葉を聞き、主イエスとの交わりを与えられることによってこそ成り立つようになったのです。神殿崩壊の予告は、神殿における礼拝の終わり、神殿はもはや礼拝のためには不要となった、ということを語っておられるのです。私たち人間の偶像、神殿は、永遠のものではない、それ故、必ず崩れるものなのです。

3節以下で、弟子のペトロ、ヤコブ、ヨハネ、アンデレが、ひそかに主イエスに尋ねます。「おっしゃってください。そのことはいつ起こるのですか。また、そのことがすべて実現するときには、どんな徴があるのですか」。神殿の崩壊についての話題の後に、弟子たちは世の終わりのことについて尋ねました。弟子たちが語る「そのこと」と言うのは、「神殿の崩壊」のことであると共に、世の終わり、終末のことです。弟子たちは、神殿の崩壊と世の終わりを結びつけたのです。これだけ大きく荘厳な神殿、神が住みたもう家が崩壊するというのであれば、それこそ、その時は世の終わりであるにちがいないという思いをもったのです。大災害や世界大戦のようなものが起こることによって破滅が訪れて、世界は終わるというイメージをもつということは私たちにもあることです。弟子たちは、今、目の前にそびえ立つ、立派な神殿が崩壊するということを聞き、そのような世の終わりがいつ来るのかを知ろうとしたのです。

終末のしるし、終末の時を聞き出そうとした弟子たちに主イエスは話し始められます。「人に惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『わたしがそれだ』と言って、多くの人を惑わすだろう」。多くの偽預言者が登場するというのです。さらに続けて、主イエスは、私たちが世の終わりであると思いがちな事態をお語りになっています。「戦争の騒ぎや戦争のうわさを聞いても、慌ててはいけない。そういうことは起こるに決まっているが、まだ世の終わりではない。民は民に、国は国に敵対して立ち上がり、方々に地震があり、飢饉が起こる」。更に、12節では次のように言われています。「兄弟は兄弟を、父は子を死に追いやり、子は親に反抗して 殺すだろう」。ここで語られていることは、誰しも目を覆いたくなるような事態です。しかし、一方で、ここで語られていることは、私たちが今、現在、直面していることであると言ってよいのではないでしょうか。世界を見渡せば戦争や内戦があります。テロの恐怖も増しています。まさに、国、民の間に争いがあるのです。さらに、「地震」「飢饉」と言われている自然災害も、私たちに身近なことです。ここ最近、地球は災害に見舞われていると言って良いでしょう。日本においても、いくつかの大きな地震が起こりました。世界では、サイクロンや山火事、異常気象等、年々深刻になる環境破壊による災害が生じています。人間の、とどまることを知らない豊かさの追求が、際限なく石油を燃やし、畑にするための土地を求めて熱帯雨林を焼き払うことによって、膨大な二酸化炭素が放出されて、地球温暖化が進んでいるのです。人間の身勝手な行いは、地球に壊滅的なダメージを与えていて、この地球は、後どれだけ私たちが住むことが出来る場所として保たれるかということすら心配される状況ではないでしょうか。又、兄弟、親子の間の殺人事件も、たびたび報道されています。現代人の精神的荒廃を思わずにはいられません。ここで主イエスがお語りになっていることは、これから将来にわたって起こるであろうことと言うよりも、これまでの人間の歴史において、そして、今私たちが生きている現在において起こっていることなのです。主イエスが二千年前に預言されたことが今起こっていると考えることもできます。主イエスは、私たちがどのような時代を生きるかに関わらず直面する世の現実をお語りになっているのです。主イエスは、私たちが、世の終わりと思ってしまうような事態をお語りになった上で、「そういうことは起こるに決まっているが、まだ世の終わりではない」と仰るのです。

9節以下に、「あなたがたは自分のことに気をつけていなさい」とあります。様々な噂が流れ、預言者まがいの者が現れます。しかし、そこで、それらに惑わされるのではなく自分のことに気をつけろと言われるのです。何に気をつけるのでしょうか。それは、自分がしっかりと、主なる神の救いの希望に生かされているか、主なる神の恵みを見失うことなく歩んでいるかということです。

主イエスは、終わりの時がいつ来るのか、その時期を知りたいという弟子たちの願いに答えることを拒まれたのです。弟子たちは、そして私たちも、終わりの時がいつ来るのかを知って、それに応じて自分の計画を立てたいと考えます。

主イエスは11節でこのように約束して下さっています。「引き渡され、連れて行かれるとき、何を言おうかと取り越し苦労をしてはならない。そのときには、教えられることを話せばよい。実は、話すのはあなたがたではなく、聖霊なのだ」。聖霊はこのように働いて下さるのです。私たちは自分の力で、迫害に負けずに信仰を貫き、どんな時でも主イエスを証ししていくなどという力を持っていません。それを私たちにさせて下さるのは聖霊なのです。聖霊は、様々な苦しみの中にいる私たちに、その苦しみを経て世の終わりに実現する神様の救いを見つめさせて下さるのです。その聖霊の働きによって私たちは、苦しみの中で耐え忍んで信仰を守ることができ、そして主イエスを証ししていく言葉を与えられるのです。

キリスト教信仰のゆえに迫害を受けたこと自体が人類の長い歴史上で信仰の証しの機会となっているのです。その厳しい迫害の中でも、主イエス・キリストを証ししていくことによって、10節の、「しかし、まず、福音があらゆる民に宣べ伝えられねばならない」という神の御心が実現していくのです。

祈りつつ、御言葉に立って歩みを続けることこそ、私たちの信仰生活なのです。

世の終わりは既に来ているのです。その現実の中で、私たちは、ただひたすら祈りつつ、御言葉に立つのです。主イエスがお語りになり、十字架と復活によって示して下さった救いの約束の御言葉に立つのです。聖霊の働きに身を委ねつつ、真の平和を作り出す歩みをしていくのです。それは私たちにとって、忍耐を強いるものです。神様の言葉より人の言葉に聞くことが多く、真の御言葉に聞くよりも、様々なものを偶像とし、それを拝むことによって安心しようとするのが私たち人間だからです。

そのような私たちに主イエス・キリストが、「しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる」 と語って下さっているのです。この御言葉に促されて、私たちは、神様がなして下さる救いを見失わずに、この世で、真の救いの御支配を待つ希望に満ちた日々を歩み続ける者となるのです。

お祈りを致します。

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