主日礼拝
齋藤 正 牧師
《賛美歌》
讃美歌191番
讃美歌234番A
讃美歌444番
《聖書箇所》
旧約聖書:イザヤ書 40章6-8節 (旧約聖書1,124ページ)
40:6 呼びかけよ、と声は言う。わたしは言う、何と呼びかけたらよいのか、と。肉なる者は皆、草に等しい。永らえても、すべては野の花のようなもの。
40:7 草は枯れ、花はしぼむ。主の風が吹きつけたのだ。この民は草に等しい。
40:8 草は枯れ、花はしぼむが/わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ。
新約聖書:マルコによる福音書 13章28-37節 (新約聖書88ページ)
◆いちじくの木の教え
13:28 「いちじくの木から教えを学びなさい。枝が柔らかくなり、葉が伸びると、夏の近づいたことが分かる。
13:29 それと同じように、あなたがたは、これらのことが起こるのを見たら、人の子が戸口に近づいていると悟りなさい。
13:30 はっきり言っておく。これらのことがみな起こるまでは、この時代は決して滅びない。
13:31 天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。」◆目を覚ましていなさい
13:32 「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。父だけがご存じである。
13:33 気をつけて、目を覚ましていなさい。その時がいつなのか、あなたがたには分からないからである。
13:34 それは、ちょうど、家を後に旅に出る人が、僕たちに仕事を割り当てて責任を持たせ、門番には目を覚ましているようにと、言いつけておくようなものだ。
13:35 だから、目を覚ましていなさい。いつ家の主人が帰って来るのか、夕方か、夜中か、鶏の鳴くころか、明け方か、あなたがたには分からないからである。
13:36 主人が突然帰って来て、あなたがたが眠っているのを見つけるかもしれない。
13:37 あなたがたに言うことは、すべての人に言うのだ。目を覚ましていなさい。」
《説教》『恩寵に包まれて生きる』
主イエスは、十字架を目前にして、残される弟子たちが強く生きるために、この13章で、初めて終末のことをお教えになりました。御自身が世を去られた後、弟子たちを間違いなく襲うであろう数々の苦難への備えとして、主イエスは終末についてお話しになったのです。
聖書が教える「終末」とは、1999年7の月に人類が滅亡すると言う「ノストラダムスの大予言」や、巨大隕石が衝突して恐るべき天変地異が起きるといった人類絶滅や自然現象のことではありません。それは、「今という時」を力強く生きる信仰についてなのです。
先々週の聖書箇所マルコ福音書13章24節~27節で主イエスは語られました。「それらの日には、このような苦難の後、太陽は暗くなり、月は光を放たず、星は空から落ち、天体は揺り動かされる。そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る。」 ここに記されているのは、世界の終わりの日の出来事であり、神の御計画完成の日の光景なのです。これは、確かに神秘的表現であり、科学的な表現ではありません。しかし、確かに歴史の終わりが告げられているのです。私たちは、これを信仰の知恵によって受け止めるべきなのです。
私たちは既に、終末の前兆の中を生きています。世界の何処を見回しても、神の裁きを招くのが当然である状況が満ち満ちています。現代を生きる私たちは、常に終末に直面して生きる者となって信仰を強くしなければなりません。本日の聖書箇所は、そのことを教えているのです。28節から「いちじくの木から教えを学びなさい。枝が柔らかくなり、葉が伸びると、夏の近づいたことが分かる。それと同じように、あなたがたは、これらのことが起こるのを見たら、人の子が戸口に近づいていると悟りなさい。」とあります。パレスティナは、6月中旬から9月中旬までの、雨がまったく降らない乾季・即ち「夏」と、10月中旬から翌年の4月中旬にかけての雨季・即ち「冬」に大別されます。この間に、短い「春」と「秋」があります。
「いちじくの葉」は、春の終わりを告げるものであり、青々とした葉が未熟の実を隠すようになる頃、雨がまったく降らない強烈な夏が始まるのです。「それと同じように」と主イエスは言われたのです。「それと同じように」。この言葉は二つの意味で理解出来るでしょう。ひとつは「終末の前兆」です。罪の下にある世界の混乱と悲惨。それは、主なる神が創られた、「良しとされた世界の終焉」を告げるものです。これは誰でも読み取ることが出来ます。言わば、時間的必然性です。もうひとつは、「いちじくの葉が出そろう」ということは誰でも眼にすることであり、皆が知っている変化だということです。気付かない人はいません。同様に、終末の前兆も、「気付かない人がないほどに明瞭である」ということです。「それと同じように、これらのことが起こるのを見たならば」。誰が「見なかった」と言えるのか。主イエスの指摘はここにあるのです。
信仰の正しい眼でこの世界を見ているならば、如何にサタンの誘惑・罪に毒されているかは、誰でも気づく筈です。この世界の姿、この社会に生きる人間の姿の何処に、主なる神が造られた本来の素晴しい姿を見ることができるでしようか。「すべてを良しとされた」という神の御心を、この世界の何処に見出せるでしょうか。主なる神が定められた創造の秩序が、まったく乱されてしまった世界の姿に気づかぬ者はないでしょう。私たちの世界の歴史は罪を生み、苦しみに苦しみを重ねて来たものに他ならないのです。私たちは、そういう世界に生きているのです。歴史の必然とは、積み上げられて来た罪の堆積が、必然的に、「十字架刑という最終的極刑に至る」ということなのです。キリスト者がこのことに気づくのは、パレスティナの人々がいちじくの葉によって夏の到来を知るのと同じように、誰一人気づかない者がないほどに明白なことであり、ハッキリと分かる筈である、と主イエスは言われているのです。
つまり、終末を単なる滅亡として理解してはならないのです。「人の子が戸口に近づいていると悟りなさい」と主イエスは言われました。それは、「終末の接近」という以上のこと、単なる自然のリズムではなく、主なる神の御意志に基づいて決定された御業の開始の時を示しているのです。「人の子」とは、言うまでもなく主イエス御自身であり、「キリストが戸口に近づく」のです。それは何のためでしょうか。ヨハネの黙示録3章20節には「見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をするであろう。」と、「食事をするため」と記されています。また、ルカ福音書22章16節では、主イエスは、「神の国で過ぎ越しが成し遂げられるまで、わたしは決してこの過ぎ越しの食事をとることはない。」と言われました。
「人の子が戸口に近づいた」とは、かつて「食事をとることはない」と言われた方が、「食事をする時が来た」と宣言しておられるのです。「神の国での食事の時」とは「御業の成就の時」のことであり、私たちに約束された「救いの完成の時が近づいた」ということを告げています。
確かに、終末は罪の中に生きる者にとっては滅びの時ですが、その終末の日を、神によって選ばれたキリスト者は、喜びの日として迎えることが出来るのです。ここに驚くべき大きな転換が示されています。主イエスは32節以下で終末の日には「目を覚ましていなさい」ということを、何度も繰り返して警告されています。聖書が警告する「眠り」とは、私たちが夜眠る肉体的な眠りではありません。それは「信仰的に眠る」ことであり、正常な知覚と判断が出来なくなる状態を意味します。信仰的に、神の御言葉・主の十字架と復活が、心に緊張を与えなくなってしまった時、その人は、「霊的に眠った者」となるということです。
「目を覚ましていなさい」とはこのことです。「目を覚ます」と訳されている言葉は、正しくは「警戒するために起きている」ということです。「目を覚ましていれば良い」ということではありません。
目覚めさせている自分の心を、キリストの出来事に絶えず結びつけることであり、結び続けさせることなのです。キリストの御苦しみの姿が心にしっかりと刻み込まれているならば、復活の日の驚くべき知らせが心にはっきりと記憶されているならば、どうして、滅ぶべき世界に心を奪われて、神の御言葉を忘れる筈があるでしょうか。神の御業の実現を待ち望むことなく、不安の中に留まる筈があるでしょうか。そして、信仰に目覚めている心の眼は、ただ神の御計画の完成のみを待ち望むのです。
よく、終末について「それはいつなのですか」ということが語られます。
主イエスは、32節で、「その日、その時は、だれも知らない」と言われました。それは、神の御子でも分からないという意味ではなく、「尋ねる必要はない」という意味で、父なる神への完全な信頼を教えられたのです。
3回に分けてお話してきたマルコ福音書13章ではギリシャ語の「デイ」という言葉、神の必然性を表す「信仰のデイ」と言われる特徴的な言葉が何と3回も出てきますが、主イエスが十字架の迫る中で弟子たちに、話の中心である「終末」とは神が必ずなされることで、必然の御業であるとの強い思いを込めているのです。
私たちが注意し、警戒しなければならないのは、「神の時」を人間の思いで予測しようとする「試み」です。「時の予測」とは、一見、神の御業に忠実であるように思われます。しかし、「時の予測」は、同時に「まだ時がある」という考えに繫がるのです。その「時」そのものも、神が創造されたものなのです。
聖書の御言葉を都合の良いように利用する時、それは「神を道具として利用するサタンの業」となっていると言わざるを得ません。終末は「人間の時」ではなく、「神の時」です。この自覚をもって生きることが大切であり、私たちの日々の生活を支える力の源となるでしょう。
私たちは、「その日」を数えて待つのではなく、御計画の時が来る迄、与えられた生命を力一杯生きることが大切なのです。父なる神が、神としての権威をもって支配し給う歴史の中を生きていくのです。
「目を覚ましていなさい」とは、ただ目を開けてボンヤリと過ごすのではなく、この偉大な「神の時の中を生きる自分の姿」を、しっかりと見詰めることなのです。
この後の14章でゲツセマネで祈り続ける主イエスは、「シモン、眠っているのか。わずか一時も目を覚ましていられなかったのか。誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えても、肉体は弱い。」と言われました。
目を覚まして祈り続けるのです。絶えず祈り、全世界の運命を変える驚くべき出来事が起こる「その時」を待ち望み「祈りつつ生きる」。これが終末的に生きるキリスト者の姿です。30節以下で主イエスは、「はっきり言っておく。これらのことがみな起こるまでは、この時代は決して滅びない。天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。」とハッキリと言われました。
万物は滅んで行きますが、その滅ぶべき世界でただ一つ、永遠に消えることのない神の約束が「祝福という言葉である」のです。信仰に生きる者にとって、この世界で一番確実なものは、「私はあなたを祝福する」という神の御言葉なのです。
私たちの教会が、終末を目指して生きる神の民として相応しい姿をとることが出来るよう、祈り求めて行こうではありませんか。
お祈りを致しましょう。