喜びの知らせ

主日礼拝

齋藤 正 牧師

《賛美歌》

讃美歌298番
讃美歌1420番
讃美歌380番

《聖書箇所》

旧約聖書:エレミア書 31章31-34節 (旧約聖書1,237ページ)

31:31 見よ、わたしがイスラエルの家、ユダの家と新しい契約を結ぶ日が来る、と主は言われる。
31:32 この契約は、かつてわたしが彼らの先祖の手を取ってエジプトの地から導き出したときに結んだものではない。わたしが彼らの主人であったにもかかわらず、彼らはこの契約を破った、と主は言われる。
31:33 しかし、来るべき日に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこれである、と主は言われる。すなわち、わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。

新約聖書:マルコによる福音書 16章9-20節 (新約聖書97ページ)

◆マグダラのマリアに現れる
16:9 〔イエスは週の初めの日の朝早く、復活して、まずマグダラのマリアに御自身を現された。このマリアは、以前イエスに七つの悪霊を追い出していただいた婦人である。
16:10 マリアは、イエスと一緒にいた人々が泣き悲しんでいるところへ行って、このことを知らせた。
16:11 しかし彼らは、イエスが生きておられること、そしてマリアがそのイエスを見たことを聞いても、信じなかった。
◆二人の弟子に現れる
16:12 その後、彼らのうちの二人が田舎の方へ歩いて行く途中、イエスが別の姿で御自身を現された。
16:13 この二人も行って残りの人たちに知らせたが、彼らは二人の言うことも信じなかった。
◆弟子たちを派遣する
16:14 その後、十一人が食事をしているとき、イエスが現れ、その不信仰とかたくなな心をおとがめになった。復活されたイエスを見た人々の言うことを、信じなかったからである。
16:15 それから、イエスは言われた。「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。
16:16 信じて洗礼を受ける者は救われるが、信じない者は滅びの宣告を受ける。
16:17 信じる者には次のようなしるしが伴う。彼らはわたしの名によって悪霊を追い出し、新しい言葉を語る。
16:18 手で蛇をつかみ、また、毒を飲んでも決して害を受けず、病人に手を置けば治る。」
◆天に上げられる
16:19 主イエスは、弟子たちに話した後、天に上げられ、神の右の座に着かれた。
16:20 一方、弟子たちは出かけて行って、至るところで宣教した。主は彼らと共に働き、彼らの語る言葉が真実であることを、それに伴うしるしによってはっきりとお示しになった。〕
◇結び
16:20 〔婦人たちは、命じられたことをすべてペトロとその仲間たちに手短に伝えた。その後、イエス御自身も、東から西まで、彼らを通して、永遠の救いに関する聖なる朽ちることのない福音を広められた。アーメン。〕

《説教》『喜びの知らせ』

主日礼拝においてマルコによる福音書を読み続けてきましたが、いよいよ本日をもって終えることになりました。本日の16章9節以下は、「大きな括弧〔 〕かっこ」の中に入って、「結び一」という小見出しがつけられています。「結び一」があるからには「結び二」があるわけで、それは98頁の下の段に、節の数字なしに、短い結びとして記されています。「結び」のどちらも、前後に括弧〔 〕で括られています。この括弧は、もともとはなかったと思われる、後から書き加えられた部分だろうとの印です。信頼すべき古い写本にこの部分がないものが多いからです。現在まで残っているマルコ福音書の初期のものには、すべて9節以下はなく、どれも8節で終わっているのです。そしてこの9-20節の「結び一」とは違う結びを持っている写本もある、それが「結び二」です。いずれの結びも、もともとはなかったもので、後からつけ加えられたと思われるのです。では何故「結び」がつけ加えられたのでしょうか。それは、先週読んだ8節をもってマルコ福音書が終わるのでは、何とも尻切れとんぼだからです。16章1-8節には、主イエスの十字架の死から三日目の日曜日の朝、三人の女性たちが墓に行ってみると、墓は空になっており、そこにいた天使が「あの方は復活なさって、ここにはおられない」と告げたことが語られています。さまざまな文献の研究から、この9節以下は、おそらく、2世紀に入ってから、教会によって加筆されたものであろうということです。何故、本来のマルコ福音書の結末部分が欠けてしまったのかということについては、今となっては知る由もありませんが、福音書の終わりが「恐ろしかった」(8)という言葉で終わっているのは相応しくないと考えた教会が、9節以下を加えたのではないかと考えられています。

そのため、マルコ福音書を読むときに、この9節以下を軽んじる人もいますが、それは大変な間違いです。何故なら、私たちは、福音書を「誰が書いたか」ということによって重んじるのではなく、ここにまとめられたすべてを、聖霊の働きのままに教会が受け容れ、「神の言」として告白したという信仰によって重んじるからです。

9節以下が後の時代の教会による加筆であるということを承知で、改めて読むときに、今、教会に生きる私たちが、キリストの復活をどのように受け止めるべきかということが、ここに記されているのです。そして、それがマタイ、ルカ、ヨハネの他の三つの福音書で詳しく語られていることの「まとめ」であるということに気がつきます。

他の三つの福音書では詳しく語られていることの大部分が省略され、極度に簡略された要約として記されています。それらの具体的内容は、ここでは詳しくお話する時間がありませんので、どうぞ皆さんで比較して頂きたいと思います

しかしここで、簡略化されたマルコ福音書のこの物語を他の三つの福音書と比較すると、繰り返される「ひとつの言葉」に気が付きます。それは「信じなかった」という言葉です。マルコ福音書は、他の福音書の物語を単に簡略化したのではなく、それぞれの出来事を、「信じなかった」という主題でまとめていると言えるのです。

11節には、「マリアがそのイエスを見たことも聞いても、信じなかった」

13節には、「彼らは二人の言うことも信じなかった」

14節には、「復活されたイエスを見た人々の言うことを、信じなかった」

マルコ福音書が強調しているのは「すべての人が信じられなかった」という事実を、教会自身が認めていることです。

「信じられなかった」と書き加えることに、どれだけの勇気が必要であったことでしょう。この部分が加筆されたのは、少なくとも2世紀に入ってからであり、教会が体制を作り上げ、ペトロ以下の弟子たちは、初代の伝説的な偉大な指導者として語り伝えられていた時代でした。その時代に、あえて「あの偉大な弟子たちが主の復活を信じられなかった」と記すことは、本当に思い切ったことであったと言えるでしょう。

この加筆部分のすべては、神の偉大な出来事に出会った人間の驚きを告げるものであり、言わば、教会は、「信じられない」という驚きの中から誕生したということなのです。

それでは、いったい何を「信じられなかった」のでしょう。「死者の甦り」でしょうか。誰でも、死とはこの世からの完全な別離であることを知っています。ひとたび死の世界に入った者は決して戻ることはない、ということを、誰でも知っています。これは、現代の人々も古代の人々も同じです。「昔の人は幼稚だから、死の世界を旅して来ることが出来ると想像したのであろう」などと考えるのは間違いです。古代ユダヤ人の考え方の中には、そのような死生観といったものはまったくありません。

ファリサイ派は、復活を何とか信じようとしていましたが、それでも、今生きている世界の延長程度で、決して、明確な復活や、新しく生きる「新生」などというものではありませんでした。ファリサイ派の復活論は、言わば「人生のやり直し」であり、それ故に、七人の兄弟と結婚した女性の復活後の立場を問うサドカイ派の詰問に彼らは答えられませんでした(マルコ12:18以下参照)。

また、エルサレム神殿を支配していた大祭司を筆頭とするサドカイ派は、復活を完全に否定していました。

現代の人々が死者の復活を信じることが出来ないのと同じように、当時の人々も、復活を信じることが出来なかったのです。重要なことは、「キリストの復活を信じる」ということは、ただ単に、「キリストが生き返った」というだけの問題ではないということです。

「死んだのに生き返った」という驚きだけならば、それは、神の子キリストが行った「ひとつの奇跡」に過ぎません。イエス・キリストは、五つのパンと二匹の魚で五千人を養い、荒れ狂う嵐のガリラヤ湖の上を歩かれた方です。一人息子を失ったナインのやもめを悲しみから救い、ヤイロの娘を甦らせ、ラザロを死から呼び戻された方です。

全能なる神の御力を思うならば、神の子キリストは、私たちの世界の自然法則を、あらゆる意味で超えておられたということが出来るでしょう。そしてそれ故に、「死から甦ることも可能である」ということになるかもしれません。

しかし、それだけでよいのでしょうか。「キリストは神の子だから甦った」。そのように、「キリストの甦り」を「ひとつの奇跡」に留めておいてよいのでしょうか。

ここで私たちが目を向けなければならないこととは、「復活を信じる」ということが、多くの人々が予想するような、「死者の甦りというひとつの奇跡的出来事」という認識で終わってはならない、ということなのです。

マルコ福音書16章16節に「信じてバブテスマを受ける者は救われるが、信じない者は、滅びの宣告を受ける。」とあります。ここで、「信じる」とは、「死者の甦り」という一つの「認識」に終わるのではなく、キリストの甦りが私の罪の贖いのためであったということを「信じる」ことです。これを「信じる」ことこそが「信仰」なのです。

しかし、また、これを「信じる」ことが極めて困難なのです。即ち、「信じられないこと」とは、「キリストの甦りそのもの」ではなく、キリストの復活が実は、「自分自身の救い」のことと認識できないからです。

教会とは、この「信じられなかった人々」を見捨てられない復活のキリストが、その「信じられない人々」を「信じる者」へと変えられる場として建てられたのです。神は、私たちを「信じる者」として御業の完成に仕える新しい生命、新しい生活を、私たちに与えてくださり、逞しく人生を生き抜く力が、そこに新しく誕生するのです。

初代教会には、このような力が満ち溢れていました。そしてこの充満したエネルギーが、15節にある「全世界に行って、すべての造られたものに福音を述べ伝えなさい。」とのキリスト・イエスの宣教命令によって、全世界に伝わって行ったのです。この宣教命令によって、昆虫が脱皮を経て大きく変身するように、全世界への伝道は、復活のキリストに出会い新しく造り替えられた人間の、必然的な行動でした。一人でも多くの人々に救われた喜びを伝えたいという気持ちを抑えることが出来ないからです。

不信仰とかたくなな心によって主イエスの十字架から逃げ去り復活を信じなかった弟子たちに、復活によって喜びを伴った大きな使命が与えられたのです。それは私たちにも与えられている使命です。主イエス・キリストによる救いにあずかり、キリストの体である教会に召し集められた私たちは、キリストによる救いの知らせ、福音を宣べ伝える使命を与えられて、この世へと遣わされているのです。この使命は弟子たちにとって、また私たちにとっても、重過ぎる、とても担うことができない重大な使命であると感じられます。自分が、どうして全世界に福音を宣べ伝えることなど出来るだろうか、と不安に思ってしまいます。主イエスが復活なさって今も生きて働いておられることを信じることこそが、不信仰でかたくなな私たちの心を、福音を宣べ伝えるという使命を果していくことの中でこそ打ち砕かれていくのです。

「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい」と言われています。全ての人に、ではなくて、全ての造られたものに、と主が言われています。それは、人間にだけでなく動物や植物、自然界の全てのものに向かって福音を語れということではなく、人間は勿論のこと、この世界の全てのものは主なる神によって造られ、支配されている被造物なのだということを私たちに弁えさせるためです。

私たちも、弟子たちと同じように、主イエスの救いの恵みにあずかり、福音を宣べ伝え、伝道する群れとしてこの世に遣わされています。私たちが伝道していくとき、主イエスが共に働いて下さり、生きておられることを私たちに顕して下さるのです。私たちのつたない伝道、まことに貧しい言葉や行いを通して、一人でも多くのご家族や友人など多くの方々が主イエス・キリストと出会い、主イエスを信じる信仰を与えられ、洗礼を受けてキリストの体である教会の枝とされていく、それこそが大きな奇跡なのです。

お祈りを致しましょう。

甦り

主日礼拝

齋藤 正 牧師

《賛美歌》

讃美歌298番
讃美歌142番
讃美歌380番

《聖書箇所》

旧約聖書:詩編 107編1-9節 (旧約聖書947ページ)

107:1 「恵み深い主に感謝せよ/慈しみはとこしえに」と
107:2 主に贖われた人々は唱えよ。主は苦しめる者の手から彼らを贖い
107:3 国々の中から集めてくださった/東から西から、北から南から。
107:4 彼らは、荒れ野で迷い/砂漠で人の住む町への道を見失った。
107:5 飢え、渇き、魂は衰え果てた。
107:6 苦難の中から主に助けを求めて叫ぶと/主は彼らを苦しみから救ってくださった。
107:7 主はまっすぐな道に彼らを導き/人の住む町に向かわせてくださった。
107:8 主に感謝せよ。主は慈しみ深く/人の子らに驚くべき御業を成し遂げられる。
107:9 主は渇いた魂を飽かせ/飢えた魂を良いもので満たしてくださった。

新約聖書:マルコによる福音書 16章1-8節 (新約聖書97ページ)

◆復活する

16:1 安息日が終わると、マグダラのマリア、ヤコブの母マリア、サロメは、イエスに油を塗りに行くために香料を買った。
16:2 そして、週の初めの日の朝ごく早く、日が出るとすぐ墓に行った。
16:3 彼女たちは、「だれが墓の入り口からあの石を転がしてくれるでしょうか」と話し合っていた。
16:4 ところが、目を上げて見ると、石は既にわきへ転がしてあった。石は非常に大きかったのである。
16:5 墓の中に入ると、白い長い衣を着た若者が右手に座っているのが見えたので、婦人たちはひどく驚いた。
16:6 若者は言った。「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。御覧なさい。お納めした場所である。
16:7 さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる』と。」
16:8 婦人たちは墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである。

《説教》『甦り』

キリスト者の信仰の中心は、言うまでもなく、主イエス・キリストが十字架の上で私たちの罪の身代わりとして殺され、三日目に死より復活されたという事実にあるのです。これはキリスト教信仰の土台です。「これが真実かどうか」とか、「聖書に書かれていることは事実ではない」といった議論は自由ですが、「信じられないなら、それは信仰がない」と言われてしまうことなのです。使徒パウロは、コリントの信徒への手紙 第一 15章14節で、「キリストが復活しなかったのなら、わたしたちの宣教は無駄であるし、あなた方の信仰も無駄です。」、そして、17節で「キリストが復活しなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお罪の中にあることになります。」と言っています。

キリスト教信仰は主イエス・キリストの「十字架」と「復活」を自分のものと信じることです。これを信じない、信じられない人はキリスト教信者ではないのです。

私たちを救われる神の愛は、御子キリストの復活によって、その御計画を大きく進められました。主イエスが死から甦った復活は、単なる肉体の死の否定ではなく、偉大な神の力の誇示でもありません。復活とは、罪の赦しの宣言であり、永遠の生命を与える神の約束の実現であり、神と共に生きる人間の最終的な希望そのものなのです。

聖書は、この驚くべき出来事を、二千年の時を超えて告げており、決して忘れてはならない新しい時代の始まりを、語り続けて来ました。それ故に、現代に生きる私たちもまた、常に、あの日の朝の驚きの中に立ち戻らなければなりません。

安息日の前日の金曜日の夕方近く、午後三時頃に息を引き取られた主イエスの最期の時まで十字架のもとに残っていた女性たちは、日没と共に始まる土曜日の安息日のために大急ぎで墓へ納められ、充分な葬りの処置をすることが出来ませんでした。ペトロをはじめとする弟子たちがすべて逃げ去ったにもかかわらず、最期まで付き従っていたの彼女たちにとって、主イエスの埋葬の翌日のこの土曜日の安息日ほど長い一日はなかったでしょう。

主イエスの葬られた翌日の土曜日の安息日も日没とともに終わり、3日目の日曜日となり、厳しい戒めから解放され、ようやく開いた店に行き香料を買い求めました。しかし、土曜日の安息日の終わりは同時に夜となってしまい、暗い墓へ行くことも出来ず、日曜日の夜明けを待たなければなりませんでした。

安息日は、神と共に生きる者にとって、信仰の確かさを確認する日でした。安息日とは、決して休養の日ではなく、神に近づくことが求められる日でした。しかし、神が与えて下さった「安息日の定めのため」に主イエスから引き離され、奉仕する志しを持ちながらも近づくことさえ許されなかった「この一日」こそ、古い時代の姿そのものであったと言えましょう。

しかし、女性たちが目指していたことは、あくまでも「遺体の処置」であり、「死者を葬る作業」に過ぎませんでした。死者を葬ること、生と死は越えることの出来ない淵で遮られており、それはただ別れを告げるためだけであり、肉体を土に帰すための作業でしかなく、人が悲しみながら繰り返して来た、「あきらめ」の作業でしかなかったのです。

そんな悲しみの想いの中で、彼女たちは、ひたすらに夜明けを待っていました。他の誰よりも夜明けを待ち、そしてその夜明けが、彼女たちの想いを遥かに超え、神に顧みられた人間の新しい出発の日となるのです。

「週の初めの日の朝ごく早く、日が出るとすぐに」。おそらく一睡も出来ず、夜の終わりを待ちかねて、誰よりも早く夜明けの墓場に急ぎました。主イエスを納めた墓は、金持ちのユダヤ最高法院の議員でもあるアリマタヤのヨセフが、自分のために用意した墓でした。

現在でも残っている多くの墓のように、岩壁に掘られた横穴式のものであり、中は広く、何人もの人が入れる部屋が二つ以上あった筈です。入り口は、巨大な円盤状の石を、溝にそって転がして閉めるようになっていました。

主イエスの十字架の金曜日の夕方、閉じられた墓の入り口を最後に見届けたのは彼女たち自身でした。女性の力で開くようなものでない「墓の入り口の大石をどうしたらよいのか」と話し合っているのです。いったい誰に開けてもらうつもりで来たのでしょうか。確かに先のことを考えない行動と言えるでしょう。

しかし、ここで大切なのは、「福音の知らせに真っ先に与ったのは彼女たちであった」という事実です。深く考えるあまり、一向に腰を上げない人よりは、その「ひたむきさ」において、はるかに勝っていたと言うべきでしょう。

4節には「目を上げて見ると、石は既にわきへ転がしてあった」とあります。「目を上げる」とは、「自分の心を見つめる」ことから「神を仰ぐこと」を意味します。自分ではどうにもならないことにこだわり、その内に留まり続けるのではなく、問題は問題として意識しながら、まず何よりも「神に目を向けること」が必要なのです

「石は既にわきへ転がしてあった」。これが、自分たちの力では動かせないとの判断を捨て、ただ主イエスに仕えることしか考えなかった彼女たちに対する「神の答」でした。

「石は既にわきへ転がしてあった」。私たちの力に余ることは、神御自身が力を貸して下さるのです。主のもとへ急ぐ人間の前に、神御自身が道を開かれるのです。

彼女たちは、この朝、夜明けを待ちかねて、誰よりも早く墓に来ました。

しかし、ここに主イエスの甦りは「もっと早かった」と告げられているのです。人間のどんな行動よりも、主なる神の行動はさらに早いのです。

しかも、「墓の中に入ると、白い長い衣を着た若者が右手に座っているのが見えたので、婦人たちはひどく驚いた」(5節)と記されています。「墓の中で待っている方」がそこに居られたのです。主なる神は、誰よりも早く来た人よりも、「もっと早く」から待っておられたのです。それ故に、この日の夜明けを誰よりも待ち望んだのは、神御自身であったのです。

白い長い衣を着た御使いは、「あの方は復活なさって、ここにはおれない。」と彼女たちに告げました。これが、甦りを信じられないすべての人間に対する神の回答です。

甦りを信じない人は沢山います。コリントの信徒への手紙でパウロが述べているように、初代教会の時代から、「死人の甦り」を嘲笑う人々はすでに数多くいました。

「復活など昔の人の幼稚な迷信だ」と言う人がいます。「現代の人間に復活など語っても無駄だ」と言う人がいます。しかし、遠い二千年の昔でも、死者の甦りは「あり得ないこと」でありました。現代と同じように、復活は人間の常識の外にあり、弟子たちでさえ誰一人として信じていなかったのです。復活を否定することによって、主イエス・キリストを永遠に墓の中に閉じ込めておこうとする人々で何時の時代も満ちているのです。

主イエス・キリストの復活は、議論の対象ではなく、まして、私たちの考えの延長にあるものではなく、その是非を私たちが判断するというようなものではありません。

私たちは、神が御心のままに成されたキリストの出来事の跡を追うだけであり、キリストが復活され、死を征服されたという事実から、それを信じ従うことから信仰は始まるのです。

更に、主イエスの復活のメッセージが、「ガリラヤへ行け」という命令に結び付けられていることにも注目すべきでしょう。

ガリラヤは、神御自身が選ばれて主イエス・キリストとして福音宣教を開始されたところであり、弟子たちが召されたところです。復活の福音宣教もまた「ガリラヤから始めなければならない」ということは、神の御計画は初めから少しも変わっていないということを示しているのです。この、「ガリラヤへ行け」という命令は、ただ単に、主イエスに再会するために行くのではなく、神の御業のための「働きの場」へ赴く伝道命令なのです。

そして、主イエスが先にガリラヤへ行き、待っておられるということは、復活の主イエスが、私たちの働きの場にも先立って行かれることを示していると言えるでしょう。主イエスは、私たちに、沈黙や、虚しく時を待つのではなく、神の御業に仕える新しい希望と勇気を与えられるのです。

これが2節「週の初めの日」に起こった出来事であり、それは、天地創造の再来の日であり、神が全世界に秩序をお与えになり、人間の歴史を変える歩みがこの日に始まったのです。主イエス・キリストの復活こそ「新しい創造の日」なのです。

神の信頼を破り、創造の秩序を損なって来た人間の罪が、ここに赦され、再び、神を神とし、造られた者が神の眼差しの前で生きることを喜べる「本来の姿」が回復されたのです。

キリスト教信仰の最も重要な教えの一つは主イエス・キリストの復活なのです。主イエス復活の事実は、初代教会時代の初代説教者たちによる、「使徒言行録」に記されている13回の説教のうち、11回までが復活を中心とした説教です。そこでは主イエスの復活を論争の余地のない事実として伝えているのです。これらの説教者は、主イエスが確かに復活されたこと、従って主を信じ従う者もまた、復活することを確信していました(使2:23‐24、17:31)。

主イエスは復活の後、40日の間、弟子たちに姿を現されました。この復活の裏づけとなるのは、四福音書全てに書かれ、コリントの信徒への手紙にも記された合計で10回に亘る復活の主イエスが人々の目に見える形で現れた物語です。また主イエス復活の証人の人数が多いことや、十字架で死なれた主イエスを見捨てるように逃げ去った弟子たちが主イエスの復活を知るや、大胆に福音を語り始めるといった大きな変化が起きたことも復活を証明していると言えましょう。

加えて、それまで土曜日の安息日を堅く守っていたユダヤ人の弟子たちが、なぜ日曜日の主の日を守り、聖餐を祝うようになったのか。ユダヤ教から別れた初代教会が、礼拝の日を、土曜日の安息日から「週の初めの日・日曜日」に変えたこれらのことはみな主イエスの復活があったからこそ行われるようになったと考えられます。

キリスト者とは、この新しい世界に生かされていることを告白する者のことであり、それ故に、週の初めの日の礼拝を固く守っているのです。

主イエスの墓を早朝に訪ねた女性たちと同じように、私たちもまた深く考えない者かもしれません。大きな問題を抱え、解決の道も知らないままに集まって来た者と言えるかもしれません。

しかし、今ここで、「目を上げて見よう」ではありませんか。主なる神は、主イエス・キリストによって、すべてを備えて下さっているのです。墓を塞ぐ大石は既に取り除かれ、道は開かれています。そして、その開かれた道は、死の世界へではなく、死にさえ勝利された、主イエス・キリストと共に生きる世界へと通じているのです。

お一人でも多くの方々、取り分けご主人や友人・知人の方々の上に、主イエス・キリストの十字架の救いの御業と復活によって新しく生きる道がありますよう、お祈りを致します。

キリストの復活

イースター礼拝

齋藤 正 牧師

《賛美歌》

讃美歌338番
讃美歌420番
讃美歌512番

《聖書箇所》

旧約聖書:詩篇 118篇13-29節 (旧約聖書957ページ)

118:13 激しく攻められて倒れそうになったわたしを/主は助けてくださった。
118:14 主はわたしの砦、わたしの歌。主はわたしの救いとなってくださった。
118:15 御救いを喜び歌う声が主に従う人の天幕に響く。主の右の手は御力を示す。
118:16 主の右の手は高く上がり/主の右の手は御力を示す。
118:17 死ぬことなく、生き長らえて/主の御業を語り伝えよう。
118:18 主はわたしを厳しく懲らしめられたが/死に渡すことはなさらなかった。
118:19 正義の城門を開け/わたしは入って主に感謝しよう。
118:20 これは主の城門/主に従う人々はここを入る。
118:21 わたしはあなたに感謝をささげる/あなたは答え、救いを与えてくださった。
118:22 家を建てる者の退けた石が/隅の親石となった。
118:23 これは主の御業/わたしたちの目には驚くべきこと。
118:24 今日こそ主の御業の日。今日を喜び祝い、喜び躍ろう。
118:25 どうか主よ、わたしたちに救いを。どうか主よ、わたしたちに栄えを。
118:26 祝福あれ、主の御名によって来る人に。わたしたちは主の家からあなたたちを祝福する。
118:27 主こそ神、わたしたちに光をお与えになる方。祭壇の角のところまで/祭りのいけにえを綱でひいて行け。
118:28 あなたはわたしの神、あなたに感謝をささげる。わたしの神よ、あなたをあがめる。
118:29 恵み深い主に感謝せよ。慈しみはとこしえに。

新約聖書:マルコによる福音書 16章1-8節 (新約聖書97ページ)

16:1 安息日が終わると、マグダラのマリア、ヤコブの母マリア、サロメは、イエスに油を塗りに行くために香料を買った。
16:2 そして、週の初めの日の朝ごく早く、日が出るとすぐ墓に行った。
16:3 彼女たちは、「だれが墓の入り口からあの石を転がしてくれるでしょうか」と話し合っていた。
16:4 ところが、目を上げて見ると、石は既にわきへ転がしてあった。石は非常に大きかったのである。
16:5 墓の中に入ると、白い長い衣を着た若者が右手に座っているのが見えたので、婦人たちはひどく驚いた。
16:6 若者は言った。「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。御覧なさい。お納めした場所である。
16:7 さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる』と。」
16:8 婦人たちは墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである。

《説教》『キリストの復活』

今日は、私たちキリスト者が待望するイースター、「キリストの復活」を祈念する日です。私たちの信仰の中心は主イエス・キリストの十字架の救いと復活です。それ以外はないと言っても良いでしょう。

キリスト者の信仰の中心は、主イエス・キリストが十字架の上で殺され、三日目に死より復活されたという事実にあります。使徒パウロは、コリントの信徒への手紙15章14節から17節で、「キリストが復活しなかったのなら、わたしたちの宣教は無駄であるし、あなた方の信仰も無駄です。・・・そして、キリストが復活しなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお罪の中にあることになります。」と、ハッキリと記しています。私たちを救われる神の愛は、御子キリストを復活させることによって、救いの御計画を実現させました。

キリストの復活は、単なる生物的な肉体の死の否定ではなく、神の力の偉大さを示すことでもありません。復活という死からの甦りは、罪の赦しの宣言であり、永遠の生命を与えるとの神の約束の実現であり、神と共に生きる人間の最終的な希望そのものです。

聖書は、この驚くべき神のなされた出来事を、二千年の時を超えて告げており、それによって始まる新しい時代の希望を語り続けて来ました。だからこそ、私たちは日々、主イエス・キリスト復活の日の朝の驚きに心新たに立ち戻らなければなりません。

ユダヤの暦では、日没が一日の区切りです。現在の暦で言えば、金曜日の日没で安息日が始まり、土曜日の日没で安息日が終わります。その安息日では、仕事はすべて禁じられ、礼拝のために会堂・シナゴーグへ行く以外には、外出さえ禁じられていました。その安息日を避けるために主イエスは金曜日に十字架にかけられ、夕方近く、午後三時頃に十字架上で息を引き取られました。十字架から降ろされた主イエスの亡骸を日没と共に始まる安息日の前に大急ぎで日没前に墓へ納めました。そして、日没と共に、現代の暦で土曜日の安息日が始まりました。主イエスに最後の奉仕をしようとしていた女性たちにとって、この安息日ほど長い一日はなかったでしょう。

更に象徴的なこととして、安息日という戒めのために、シナゴーグでの礼拝に行く以外は外出さえ許されない日でした。安息日を守ることは、確かに重要な律法の定めであり、神と共に生きる者にとって、信仰の確かさを確認する日でした。安息日とは、本来、そういう日であり、決して休養の日ではなく、神に近づくことしか許されない日でした。神が与えて下さった「安息日の定め」のために、神が与えてくださった御子イエスから引き離され、「イエスに奉仕する志を持ちながら」近づくことが許されなかったこの安息日の土曜日、一日は、古い時代の信仰の姿そのものであり、福音を待つ人間を象徴する日であったとも言えるでしょう。

彼女たちには、主イエスへの献身的な愛があったとは言え、希望がありませんでした。彼女たちが周囲の目を忍んでまで行おうとしていたことは、あくまでも「遺体の処置」であり、「死者を葬る作業」に過ぎませんでした。生と死とは、越えることの出来ない大きな淵で遮られており、彼女たちには、ただ別れを告げるため、肉体を土に帰すためだけの作業でしかありませんでした。それは、「あきらめ」とも言える作業でした。

今日の16章1節から2節に「安息日が終わると、マグダラのマリア、ヤコブの母マリア、サロメは、イエスに油を塗りに行くために香料を買った。そして、週の初めの日の朝ごく早く、日が出るとすぐ墓に行った。」と記されています。

ペトロをはじめ、ずっと主イエスの従って来た弟子たちでさえ、逃げ去ったにもかかわらず、彼女たちは、最後まで十字架の下に留まっていました。そして、悲惨な最期を遂げられた主イエスのために、周囲の人々の冷たい眼差しにも拘わらず、「せめて最後の奉仕だけでも…」と考えていたのです。日没と共に安息日が終わり、ようやく開いた店で葬りのための香料を買い求めました。しかし、日没で夜となり、墓へ行くことも出来ず、日曜日の夜明けを待たなければなりませんでした。

彼女たちは、週の初めの日曜日の朝、夜の明けるのを待ちかねて空が白み始めるとすぐに、夜明けの墓場に急ぎました。このとき主イエスを埋葬した墓は、ユダヤ議会の議員でもあるアリマタヤのヨセフが、本来、自分のために用意した墓でした。現在でもイスラエルに残っている多くの墓のように、岩壁に掘られた横穴式のものであり、中は広く、何人もの人が入れる部屋が二つ以上あった筈です。そして入り口は、巨大な円盤状の石を、溝にそって転がして閉めるようになっていました。

二人のマリアとサロメは、夜が明けるか明けないかという時に家を飛び出して来ましたが墓の前まで来て、「だれが墓の入り口からあの石を転がしてくれるでしょうか」と、女性の力では墓を開けることが出来ないと相談をしているのです。これは実に象徴的な「呟き」と言うべきでしょう。

婦人たちは、他のことを一切考えず、ただ主イエスの葬りのことだけを思いつめて、この場に急いだのです。確かに周りの視線も意識せず、深い考えもない行動と言えるかも知れませんが、「福音の知らせに真っ先に与ったのは彼女たちであった」のです。一向に腰を上げない人より、その「ひたむきさ」において、はるかに勝っていたと言えるでしょう。

4節には、「ところが、目を上げて見ると、石は既にわきへ転がしてあった。石は非常に大きかったのである。」とあります。ここに、「目を上げて見る」とあります、これが大切です。「目を上げる」とは、「自分の心を見つめる」ことから「神を仰ぎ見る」ことへの変化を意味します。自分ではどうにもならないことにこだわり、その思いに留まり続けるのではなく、問題は問題として意識しながら、まず何よりも「神に目を向ける」ことが必要なのです。「石は既にわきへ転がしてあった」。これが、自分に何が出来るのかを深く考えることなく、ただ主イエスに仕えることしか考えなかった彼女たちに対する「神の答」でした。私たちの力に余ることは、神御自身が力を貸して下さるのです。主のもとへ急ぐ人間の前に、神御自身が道を開かれるのです。

しかも、主イエスの甦りは「更に早かった」と告げられています。5節には、「墓の中に入ると、白い長い衣を着た若者が右手に座っているのが見えたので、婦人たちはひどく驚いた」と記されています。墓の中には婦人たちを待っている神の御使いが既にそこに居られたのです。主なる神は、誰よりも早く来た人よりも、「もっと早く」から待っておられたのです。それ故に、この日の夜明けを誰よりも待ち望んでいたのは、実は、神御自身であったのです。

御子を世に送り、御子キリストの御業によって救いの御計画を実現される父なる神の御心は、この朝にすべてを用意されておられたのです。6節の「あの方は復活なさって、ここにはおられない。」これが、この時の女性たちを含めて「復活を信じられないすべての人間」に対する主なる神の回答です。

復活を信じない人は沢山います。コリントの信徒への手紙でパウロが述べているように、初代教会の時代から、「死人の甦り」を嘲笑う人々はすでに数多くいました。「復活など昔の人の幼稚な迷信だ」と言う人もいます。「現代の人間に復活など語っても無駄だ」と言う人もいます。しかし、遠い二千年の昔でも、死者の甦りは「あり得ないこと」でした。現代と同じように、復活は人間の常識の外にあり、弟子たちでさえ誰一人として信じていなかったのです。復活を否定することは、主イエスを墓の中に永遠に閉じ込めてしまうことです。主イエス・キリストの復活は、議論の対象ではなく、まして、私たちの熟慮の結果その是非を判断するというようなものではありません。

私たちは、神が御心のままに為されたキリストの御業の後に従うだけであり、キリストが復活して、死を征服されたという真実を信じることから、信仰は始まるのです。

さらに、復活の主イエスのメッセージが、「ガリラヤへ行け」という命令に結び付けられていることにも注目しなければなりません。ガリラヤとは、福音の出発に相応しいと、神御自身が選ばれたところであり、弟子たちが召されたところです。復活の福音もまた「ガリラヤから始めなければならない」という神の御計画は初めから少しも変わっていないのです。「ガリラヤに行け」という命令は、伝道しなさいという命令です。単に、主イエスに再会するためにガリラヤに行くのではなく、神の救いの御業のため「働く場」へと行くことです。復活の主イエスが、私たちの働きの場にも先立って行かれているのです。主イエスの復活は、私たちに、虚しく待つ時を求めるのではなく、付き従う者へ新しい希望と勇気を与えるのです。

これが「週の初めの日」に起こった出来事であり、人間の歴史を変える歩みがこの日に始まったのです。

「週の初めの日」とは、天地創造の初めの日であり、神が全世界に秩序をお与えになった日です。

主イエス・キリストの復活こそ、「新しい創造の日」です。主なる神の信頼を裏切り、創造の秩序を損なって来た人間の罪が、ここに赦され、再び、神を神とし、造られた者が神の眼差しの前で生きることを喜べる「本来の姿」が回復されたのです。

ユダヤ教から分かれたキリスト教会は、礼拝の日を、ユダヤ教の土曜日の安息日から「週の初めの日」「日曜日」に変えました。キリスト者とは、この新しい世界に生かされていることを告白する者であり、「週の初めの日」主日礼拝を固く守っているのです。

今朝のあの女性たちと同じように、私たちもまた深く考えずに行いをなしている者です。自分で解決できない色々な問題を抱えて集まって来ていると言えるかもしれません。今ここで、「目を上げて見よう」ではありませんか。主なる神が、主イエス・キリストの十字架と、復活の御業によって、「救い」を備えて下さっているのです。

既に墓の入口を塞ぐ石は取り除かれ、「救いの道」は開かれています。その開かれた「救いの道」は、死に勝利された、主イエス・キリストと共に歩む世界なのです。

私たちが愛するお一人でも多くの方々を、主イエス・キリストの「救い」の世界へとお誘いいたしましょう。

お祈りを致します。