2018年9月号

日本キリスト教団成宗教会

牧師・校長  並木せつ子

このお便りは、なりむね教会からのメッセージです。キリスト教会は神様の愛について学び、伝えます。子供さんも大人の方も、読んでいただければ幸いです。

「知恵と知識の宝はすべて、キリストの内に隠れています。」

新約聖書、コロサイ2章3節

焦 凝先生のお話

(これは今年6月17日の礼拝で話されたものです。)

聖書:マルコによる福音書2章13-17節

「罪人を招くイエスさま」

焦 凝

皆さんはお熱が出して、風が引いた時、お母さんやお父さんは皆さんを病院に連れて行き、お医者さんから薬をもらいます。もらった薬を飲んだら、お熱が下げ、病気が治ります。

以前の教会学校の授業では、私たち人間は罪びとであることを学ぶことができました。では、神様が私たちのような罪びとをどうやって救ったのかについて、今日皆さんと一緒に学びましょう。

今日の聖書箇所では、イエス様がレビや多くの罪人たちと一緒にお食事したことを書きました。レビはイエス様の弟子という表現がありしましたが、ここの聖書箇所以外では、レビという名前を出ていません。聖書研究家たちの間では、レビはマタイと同一人物だいう説もあります。マタイはイエス様のお弟子さんで、聖書に名前もついているから、何となく偉い人だということがわかります。だからイエス様が彼と同じ席でお食事することがわかります。でも、イエスさまがなぜ多くの罪人と食事するかはわかりません。イエス様は神様の一人子ですから、高貴なお身分です。

実はマタイも自分自身が生きる時代において、高貴な身分をもっていません。マタイの仕事は徴税人です。当時の徴税人は今の徴税人と違いまして、お給料がとても少ないのです。しかし、人々から本当にいくら税金をもらったかは、徴税人の上司である政府が管理できないので、徴税人は人々から集めた税金を隠して自分のものにしてしまう。そのようなことがよく行われていました。そしてこの事実は皆が知っているから、徴税人は皆から嫌われています。マタイの身分と立場は他の罪人に比べても低いです。

では、なぜイエス様はこのような身分の低い人たちと一緒に食事するのでしょうか。イエス様はこのことを自分のお考えで行動したわけではなく、神様のご意志に従って行動しています。イエス様のご誕生も生涯も死も全部そうです。なぜなら、神様は私たち人間の中に罪があって、苦しんでいるので、私たちを救いたいからです。神さまはそのために、イエス様をこの世に遣わしたのであります。

従って、私たちもそのような徴税人や罪びとと変わりありません。そこでイエス様は私たちと一緒に食事することだけではなく、この罪びとの、この私たちのために死ぬことになったのです。

すべては神様がイエス様を通して私たちの罪を贖い、救いたいみ旨があるからです。

9月の御言葉

「アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。」

創世記15章6節

9月の教会学校礼拝

(毎週日曜日、朝9時15分~9時45分)

  • 神様に感謝して祈り、歌います。イエスさまのお話、聖書について学びます。
  • お話の聖書箇所と担当の先生は次のとおりです。

9月2日(日)  創世記3:1-10            お話の担当…並木せつ子

9日(日) 創世記4:1-7               並木せつ子

16日(日) 創世記9:9:17             勝田令子

23日(日) 創世記11:1-9             興津晴枝

30日(日) 創世記15:1-7             山口智代子


8月19日教会学校と大人の合同礼拝、そして一日夏期学校

長い夏休み、皆さんいかがお過ごしでしたか。8月19日に夏の1日教会学校が行われました。教会学校では、初の試みとして、大人と子供の合同礼拝を守りました。大人の礼拝に出席したことがない皆さんも、大人の礼拝プログラムに従い、讃美歌を起立して歌い、静かに聖書の御言葉に耳を傾けていました。献金の歌とお祈りは教会学校の仕方で、守りました。何よりも、子供も大人も一緒に大勢の方々と共に礼拝を捧げることは、大きな恵みでした。

その後、和田堀公園のバーベキュー場に移動しました。生徒の皆さんも荷物を運んだり、椅子を組み立てたり、お手伝いをして、みんなで協力して、準備することが出来ました。「お肉、お肉」と小学生に急かされ、大人が次から次へお肉と野菜を焼き、美味しく頂き、あっという間に完食しました。その後みんなで後片付けをし、教会に戻り、スイカを食べ、ガレージで花火をしてから、勝田さん手作リのシフォンケーキを美味しく頂きました。

お天気にも恵まれ、暑すぎず、怪我や事故がなく、無事に終えることが出来ました。保護者の方々には、備品を貸して頂いたり、多大なご協力をありがとうございました。主にある交わりの時を持つことが出来て、感謝です。参加は生徒9名、大人(教師、保護者、ヘルパー)13名でした。

(報告は主に山口智代子先生)

成宗教会学校からお知らせ

  • 成宗教会学校は礼拝と聖書の学びが中心です・・・イエス様が全世界に知らせてくださった神様はどのようなお方でしょうか。このことを学ぶことは大きな利益となります。
  • 礼拝の後の活動もあります。全体で1時間程度。10時半にはキチンと終わります。
  • 教会学校は、幼児(初めは保護者とご一緒に)から高校生、大人の方でも参加できます。親子でもご参加ください。また、中学生以上の方には、10時半~11時半のからの礼拝もお勧めしています。

2018年8月号

日本キリスト教団成宗教会

牧師・校長  並木せつ子

このお便りは、なりむね教会からのメッセージです。キリスト教会は神様の愛について学び、伝えます。子供さんも大人の方も、読んでいただければ幸いです。

「知恵と知識の宝はすべて、キリストの内に隠れています。」

新約聖書、コロサイ2章3節

並木せつ子先生のお話

(これは今年6月10日の礼拝で話されたものです。)

聖書: マルコ1章21-28節

「イエスさまの三つのお働き」

並木せつ子

 イエスさまが地上に来てくださったのは、神様から与えられたお仕事があったからです。

今日のお話はイエスさまが汚れた霊に取りつかれた人から、その霊を追い出したというお話ですが、この中で、イエスさまは御自分に三つの働き(お仕事)が与えられていることを、人々にお示しになりました。

その一つは、イエスさまが安息日に会堂で教えられたことです。私たちが日曜日教会に集まって、神さまの教えを聞いているように、イエスさまは聖書の言葉から、神さまのお心を皆さんに知らせたのです。これが預言者の働きです。

するとみんなが静かに聞いていたとき、汚れた霊にとりつかれた男が騒ぎ始めたのでした。その男はそこにいた人々の目には変な人だとか、怖い人としか見えなかったでしょう。でも、イエスさまはその人の本当の気持ちと、その人の言っていること、していることが違うと分かってくださいました。彼が悪霊にとりつかれていたことも。彼の本当の気持ちは、悪霊に出て行ってほしいのだ、とイエスさまには分かったので、彼の本当の願いの通りにして上げました。「悪霊よ、この人から出て行け」と言って追い出しました。その人がしたくてもできなかったことを、その人に代わってして上げたのです。これは祭司の務めです。人のために代わってして上げる働きです。

でも、わたしたちにはできないことですね。なぜなら相手は汚れた霊で人間より強いのですから。出て行けと言ったって出て行くはずがありません。でもイエスさまにはお出来になります。イエスさまは神の権威をお持ちなので悪魔もイエスさまには勝てないのです。この働きは王の働きです。

イエスさまはこの三つの働きをもって地上に来てくださいました。そして神さまの本当のお心を人々に伝えました。神さまは罪の奴隷になっている(悪霊にとりつかれている人はその一番目立つ例です)人間の本当の苦しみを分かってくださり、身代わりになって罪を引き受けて十字架の死を耐え忍んでくださいました。神はイエスさまを死から復活させて神の権威をお与えくださいました。わたしたちもイエスさまを信じるならば、イエスさまの三つの働き

によって救われるのです。イエスさまは、十字架に死なれましたが、復活され、信じる人を罪から解放してくださいました。今も天に在ってこの働きをしてくださっているのです。

9月の御言葉

「アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。」

創世記15章6節

9月の教会学校礼拝

(毎週日曜日、朝9時15分~9時45分)

  • 神様に感謝して祈り、歌います。イエスさまのお話、聖書について学びます。
  • ◎ お話の聖書箇所と担当の先生は次のとおりです。

9月2日(日)  創世記3:1-10            お話の担当…並木せつ子

9日(日) 創世記4:1-7               並木せつ子

16日(日) 創世記9:9:17             勝田令子

23日(日) 創世記11:1-9             興津晴枝

30日(日) 創世記15:1-7              山口智代子


成宗教会学校からお知らせ

  • 成宗教会学校は礼拝と聖書の学びが中心です・・・イエス様が全世界に知らせてくださった神様はどのようなお方でしょうか。このことを学ぶことは大きな利益となります。
  • 礼拝の後の活動もあります。全体で1時間程度。10時半にはキチンと終わります。
  • 教会学校は、幼児(初めは保護者とご一緒に)から高校生、大人の方でも参加できます。親子でもご参加ください。また、中学生以上の方には、10時半~11時半のからの礼拝もお勧めしています。
  • 成宗教会学校の夏休み・・・8月一か月は9時15分から10時15分までの教会学校はありません。この機会に10時半からの礼拝に参加してみて下さい。どなたでもイエスさまは招いておられます。
  • 8月19日(日)夏休み一日教会学校・・・この日は10時半からの合同礼拝から始まります

Ⅰ 大人との合同礼拝・・・10時半~11時20分(いつもより短めです。どなたも遅刻しないように心掛けてください。) 教会ガレージで持ち物準備。出発は11時50分。

Ⅱ 善福寺川緑地公園でバーベキュー・・・12時半~15時

Ⅲ 教会に戻っておやつタイム、お祈り、解散・・・15時半~16時半

  • 詳しい案内を差し上げています。郵送もしています。申込み締切は7月29日(日)

死から命へ!

イースター聖餐礼拝

聖書:イザヤ42章10-16節,  マルコ16章1-8節

 主の年2018年のイースターを迎え、主はわたしたちを成宗教会に集めてくださいました。日頃、主を覚え、礼拝を思いながらも、集まることのできない多くの人々のために、主は今日、特別な時を与え、必要なものをお与えくださって、わたしたちが取るものも取りあえず、集まって主を礼拝する心を備えてくださいました。復活の主が二千年前に人々にお知らせくださったように、今は全世界でご自分の復活をお知らせくださり、その命にわたしたちをも招いておられるのです。

しかし、わたしたちは日常の生活で、主のご復活を思うよりも先に、日日の出来事に深くかかわり、時間に追われるより他ないのが実情です。あれやこれやの急な出来事があり、心配事や、周囲の人々の言動に影響され、悩まないではいられないのです。そんなわたしたちが主の御言葉を思い出すと、弟子たちがうろたえた気持ちがよく分かるのではないでしょうか。彼らは主に従って来たのですが、主の御言葉の意味が分かりませんでした。マルコ10章33-34節です。82頁。「今、わたしたちはエルサレムへ上って行く。人の子は祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して異邦人に引き渡す。異邦人は人の子を侮辱し、唾をかけ、鞭打ったうえで殺す。そして人の子は三日の後に復活する。」

そしてお言葉通りになりました。エルサレム入城された時、喜び出迎えた群衆は、十字架を見て、イエス様を軽蔑し、呪う群衆と変ってしまいました。そして弟子たちも、「たとえイエス様と一緒に死ななければならなくなっても、イエス様を知らないなどとは決して申しません」と誓ったペトロは、「あの人は知らない」と激しく三度も言ってしまいましたし、他の弟子たちは逃げ去ってしまいました。みんなうろたえ、変ってしまった。それも本当に主の御言葉通りになったのです。

それならば、主の最後の一言もやっぱり、お言葉通りになるはずではなかったでしょうか。主の御言葉は次の通りです。「そして人の子は三日の後に復活する。」けれども、それについて思い出し、思いめぐらす者はだれもいなかったのでした。ご復活の朝、婦人たちは、主が葬られたお墓にやって来ました。彼女たちがやって来た訳は、ご復活を信じていたからではありません。しかし、絶望の時にも、彼女たちはてきぱきと行動しました。なぜなら、その当時の社会の習慣があったからです。それは死んだ人の遺体に香料を塗ることでした。彼女たちもイエス様の十字架の死に衝撃を受け、これからどうやって生きて行くのか、と途方に暮れていたでしょう。

しかし、そんな時にも彼女たちはできる限りのことをしました。出来る限り日常の生活を続けるのです。お腹がすいた者に食卓を整え、子を産み育てる者を助け、病気の者を気遣い、そして死者を大切に葬って、真心を尽くすのです。「一番偉くなりたい者は仕える者となりなさい」言われた主の言葉を思います。彼女たちは偉くなりたいと思わなかったかもしれません。そして実際男の弟子たちからも偉いとも思われてはおらず、むしろ、話をしても、「なんだ、女の言うことじゃないか」ということでしょうか、信じてももらえなかったようです。しかし彼女たちは、実はこのように主の言葉に従っているのです。たとえどんなに希望の見えない時にも。これからどうすれば良いのか、と途方に暮れる時も。取りあえずしたことは、イエス様に対する礼儀、感謝を具体的に表すことだったのです。

しかも、お墓に出かけたのは、冷静で計画的とも言えない行動であったようです。なぜなら、彼女たちはお墓の入り口に大きな石があるので、中には入れないことを知っていたのですから。ところがこのような女性たちを主は祝福しておられます。彼女たちは他の弟子たちと同様、主のご復活のことが分からなかった。覚えてもいませんでした。それでも主に対する愛を表して、お墓にやって来た。泣きに来たのかもしれません。その女性たちを祝福して、主は空っぽの墓を見せてくださいました。なぜご遺体は消えてしまったのだろうか。もしや泥棒が盗んだのだろうか。仰天した彼女たちが、あれこれ思い悩む前に、主は白い衣の若者を遣わされました。白い長い衣が天使を思わせます。

彼は次の言葉を告げます。「驚くことはない。あなたがたは十字架に付けられたナザレのイエスを探しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。御覧なさい。お納めした場所である。」「驚くことはない。あなたがたは十字架に付けられたナザレのイエスを探しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。御覧なさい。お納めした場所である。」復活!彼女たちも知っていました。イスラエルの人々は皆、死者の復活を信じていたからです。わたしたちは皆終わりの日に復活させられ、神の裁きを受けなければならないことを。

イエス様は人間の罪を借金に例えられました。神様に借金しているその負債額は天文学的数字にも上ると言われたのです。人は神様に、きっと自分で払いますから待って下さいと願っていますが、到底自分で返すことはできないのです。そこで、神様は人をかわいそうに思い、負債を免除して上げました。天文学的数字の負債をゼロにしてくださる神。その方はどんなにありがたい方でしょうか。終わりの日にどんなに感謝してもしきれるものではないでしょう。ところが罪の赦しを約束された人は、何と、自分に対する人の罪が赦せません。大きな深刻な罪から小さな些細な罪に至るまで、どれもこれも赦せないのです。

神様がお怒りになるのはこのことです。神様は御子を世に遣わして、大きな罪も小さな罪も決して免れない世の人々を憐れんでくださいました。そして人の罪がどれだけ大きいかをまざまざと目の前に見せてくださいました。それが御子の十字架の死です。何の罪もない真心溢れる方を、残虐な死に追いやったのは、力ある者、世の指導者たちではありませんか。それを止めることもできない民衆は、ただ力ある者に追随するばかりなのです。この方の誠実を知り、その隠れた愛の力を知っている弟子たちさえ、逃げ出してしまった。一体だれが、神の恵みに与るにふさわしいでしょうか。全くだれ一人いないのです。

罪が赦されるにふさわしい人はいない。救われる値打ちのある人はいない。しかし、イエス・キリストはそのような罪人を愛して、救いに招くために世に来られ、十字架に死んでくださいました。そして三日目に復活してくださった。それが神の御心であったからです。終わりの日に死者が復活して裁かれる前に、イエス・キリストの十字架の死と復活を信じて、罪の赦しと永遠の命に結ばれるために、神は救いの道を開いてくださったのです。

では、この救いに与るために、わたしたちに必要なことは何でしょうか。この世の借金を返済するために一生懸命働くように、神様からお借りしている積りに積もった負債を返済しようと、良い業に励むことでしょうか。実際、そうしようとする人々は少なくないのです。そして大威張りで、「神様、わたしはあなたにお借りしているものは何一つありません」と言いたい人は多いのです。神様はこのような傲慢な人々にも忍耐しておられます。また、全くだらしがなく、人々にも神様にも重荷を負わせ、平気な顔をしている人々にもじっと我慢をしておられます。しかし、そこに、その人々に救いはあるでしょうか。

空っぽの墓を指し示して、天使は婦人たちに命じます。「さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かけて言われたとおり、そこでお目にかかれる』と。」これが婦人たちに与えられた使命でした。福音を宣べ伝える者たち、弟子たちとペトロ。ここで特にペトロの名が挙げられているのは、ペトロが誰よりも強くキリストを否定して裏切ったからです。主は、ペトロに復活を知らせて、罪に苦しんでいるペトロを特別に慰めようとしておられるのです。こうして彼らに福音を運んだのが、女性たちでありました。それは、彼女たちに対する主の特別な祝福であり、励ましです。もっとも、彼女たちはただただ恐ろしくて、すぐにはその役割を果たすことができなかったようですが。このように、復活の知らせは、聞いても俄かには信じられなかったのです。主のご復活の喜ばしい知らせが、初めは恐ろしいこととしか思えなかったのです。

わたしたちは思います。人間は一方ではどんなに高慢であり、他方ではどんなに弱い者であるかを。そしてどんなに自分にこだわっているかを。自分はどのように生きて、どのようにして死を迎えるか、にばかりこだわり、自分を中心にすべてを考えるのです。しかし、本当にこだわらなくてはならないことは、キリストの死と復活であります。一体、キリストは、あなたと関わりなく十字架に死なれ、あなたと関わりなく復活されたのでしょうか。この答を考えてください。神はキリストによってわたしたちにその答を与えておられます。「そうではない」と。キリストはあなたのためにも十字架に死なれ、あなたのためにも復活されたと。

これを信じるならば、あなたの人生は変えられます。自分にこだわる者から、イエス・キリストによって、神様との関係にこだわるものに変えられる。キリストに結ばれたあなたは生きる時も、死ぬときも、神に属する者と変えられます。その時、あなたの命は神のもの。神の中に隠されていると知るでしょう。その時、あなたはキリストと共に死んで、キリストと共に神の永遠の命に移って行くでしょう。祈ります。

 

主イエス・キリストの父なる神様

主のご復活を祝い、感謝を捧げる礼拝に、わたしたちをお招き下さり、真に感謝申し上げます。わたしたちは小さな群れですが、あなたを仰ぎ見、天にも地にも一つである

キリストの体なる教会を見上げ、主の御心に適った教会を建てようとわたしたちはみ言葉を聞き、聖餐に与って、主の聖霊がわたしたちの心を照らしてくださることを切に願っております。

本日あなたは、わたしたちの群れに1人の信仰者を興してくださいました。真に感謝申し上げます。どうか、今日洗礼の恵みに与った齋藤倫子姉妹を豊かに祝し、ご主人齋藤眞兄と共に助け合って、主に仕えることができますように。遠くから通って来られますので、あなたがその道々を顧みてくださいますよう、お願いいたします。また、教会のすべてのものがこの洗礼式を通して改めて自分に与えられた計り知れない救いの恵みを再認識し、主と結ばれた者としての自覚、信仰を増し加えていただけますよう、お願い申し上げます。

変わりゆく時代の中で、変ることのない主の御言葉による主の御支配が、この教会の上に、そして共に学び、歩んでいる東日本連合長老会の諸教会の上に、また志を同じくする全国連合長老会、また改革長老教会の諸教会の上に豊かにございますように祈ります。

人口減少が進むこの国で、次世代にもとこしえに残る神の言葉を伝えるために、どうかわたしたちをお用いくださり、知恵と力と、何よりもイエス・キリストに現れた計り知れないあなたの愛をお与えください。新年度が始まりました。どうか、今月行われる成宗教会総会にあなたのご計画を表すことができますように。議案の準備、また長老選挙を導いてください。私たちはそれぞれが多くの課題、多くの困難を抱えています。その中で日々の信仰の戦いを立派に戦うために、自分中心を捨て去り、主に従って、主の御支配を仰ぐものとならせてください。そして、わたしたちの死を打ち破り、あなたの永遠の命をいただくために、それぞれの戦いを主の戦いとしてください。教会の戦いをキリストの命が現れるための戦いとしてください。

ご病気のために、また様々な弱さのために苦しんでいる方々を覚えます。今日いただく聖餐、あなたの計り知れない恵みを感謝し、共にこの救いの恵みに与る人々を覚え、祈ります。この感謝と願いをわたしたちの救い主、イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

主を待ち望む

聖書:イザヤ40章3-5節, マルコによる福音書1章1-8節

私たちはこの年も主イエス・キリストのご降誕を記念するクリスマスを迎えようとしています。救い主の到来は全世界が待ち望んでいることです。昔そうであったように、今も全世界が救いを求めているのではないでしょうか。一体。救いを待ち望まない人々が本当にいるのでしょうか。

旧約聖書の神の民に預言者たちは、長い間語りかけて来ました。彼ら預言者たちは、神の民でありながら、神の掟を守らない人々に、神の言葉を語り続けて来たのです。「主に立ち帰れ」と。神の掟を守り、神に捧げるならば、あなたがたは豊かな祝福を受けるだろう。そして、世界中の人々があなたがたを幸いな者と呼ぶだろう、と。しかし人々は、神に従っても、何の得もない。神の戒めを守って謙って歩いても何の利益があるだろうかと言いました。むしろ高慢な人々に従った方がいいではないか。彼らは悪事を行っても何の損もしない。むしろますます繁栄しているではないか。神を試みても罰を受けていないではないか、と。

私たちはどう思うでしょうか。この世界は貧しい者がますます貧しくなり、力ある者がその力を最大限に生かして富に富を積み上げ、力を増し加えているように見えます。戦争さえも、力を持つ者が起こしている。もっと力を持つために。そして戦いの最前線に出されるのは貧しい人々、戦争で家を失い、土地を追われるのも貧しい人々なのです。そのような人々と、多くの力を握り占めている人々とでは、命の値打ちが違うのでしょうか。権力者の命は金やダイヤモンド。そして貧しい人の命はゴミのようなものなのでしょうか。

主の憐れみが深ければ深いほど、主の怒りは火山のように高く、激しく燃え上がらないでしょうか。こうして戦争に次ぐ戦争が起こるのです。荒廃に次ぐ荒廃に人々は心も荒れ果てて行きます。それでも、地上に僅かな人々が残される。わずかな人々、それは主を畏れ敬う人々です。男であれ、女であれ、身分の高い者であれ、取るに足らない小さな者であれ、強い者であれ、力尽きて倒れる者であれ、主を畏れ敬う人々が残されています。そして、それも神の御業に違いありません。人は皆罪を犯して、神の恵みから遠く離れてしまっているので、神がその人を慈しんでくださらなければ、だれも神を仰ぎ見ることもできない。ですから、神を畏れ敬うことも、皆神から心にいただく賜物ではないでしょうか。

私たちもまた、こうして何の取り得もない者も、ある者も、こうして主の日の礼拝を守るために招かれました。いても立ってもいられないほど、忙しい時代に、また「何かしなければ明日が心配だ」という時代に、不思議にも私たちは神に従う者とされている。これこそは、私たちにとって福音の初めです。福音、神の喜ばしいメッセージを聞きましょう。

マルコ福音書は書き出しの言葉を次のように始めました。「神の子イエス・キリストの福音の初め。」キリストは「ダビデの子」と呼ばれたり、「アブラハムの子孫」と呼ばれたりします。キリストは、アブラハムの子孫である神の民の中にお生まれになって、神に背いている罪人を救ってくださる救い主でありますが、マルコが強調しているのは、この方は神の子であるということです。なぜなら、罪人を救うことは神の力でなければできないことだからです。神は背く者の傲慢不遜を大目に見たり、甘やかしたり、なさる方では決してないのですが、その一方、ゴミのように打ち捨てられている小さい者を、お見捨てになっておられるのではありません。預言者たちが繰り返し語っているように、神は「不遜な者を嘲り、へりくだる人に恵みを賜わる」方でありますから。

そこで、苦難の時に、何の希望も見いだせない時に、なお主を待ち望み、「あなたこそ主、正しくお裁きになり、私に落ち度があっても、どうぞ憐れんでお救いください」と祈り求める信仰こそ大切なのであります。神は荒れ野に使者を遣わすことを約束されました。荒れ野。わたしたちは、荒れ野というと、もちろん文字通りの厳しい気候風土で荒廃した場所を思い浮かべることもできましょう。しかし、むしろ荒廃しているのは、自然だけではなく、戦争によって、また人の強欲、傲慢、心無さによって破壊された自然や、農耕地や、建物なのではないでしょうか。さらに荒廃しているのは、人々の悪意に囲まれて、踏みにじられて、すっかり貶められてしまった心、自分の価値など全く見い出せないほど地に落ちた人間の魂の荒れ野ではないでしょうか。

神は悪事を決して見逃されない方であり、しかしまた、罪人を憐れんで救ってくださるために、私たちの思いをはるかに超えた恵みの業を備えてくださいます。この方が御子にこう言われたのです。「見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、あなたの道を準備させよう」と。そこで、神の子イエス・キリストの福音の初めに、語られるのは、キリストに先立って荒れ野に遣わされた使者。すなわち洗礼者ヨハネのことであります。

彼に与えられた使命は、救い主のために道を整えることでした。私たちの人生の荒れ野。そこにはいろいろな道があります。細い道、曲がった道、崖に沿った道、谷間の道、鬱蒼とした山中の道。救いに至る道はどこか、探すうちに迷路に入ってしまうかもしれない私たちの人生です。神から遣わされた者の声は、そのとき荒れ野に響き渡ります。その声は「主の道を整え、その道筋を真っすぐにせよ」と叫ぶのです。いろいろな道があるのです。しかし、主の道は一筋。それは救いに至る道です。その道を真っすぐにしなさい。

「救われるために何をしたらよいのですか。」それは複雑なことではありません。もったいぶって、「それはなかなか難しい」と言っている人がいます。ああでもない、こうでもない、とさんざん議論し、「あれをしなさい」、「これをしなさい」と勧めて人を引き回す人がいます。そうではない。そんなことは聖書には書いてないのです。主の道は真っすぐ、だれでも見出せる広い道に整えなさい、と命じられています。でこぼこもなくし、歩きやすくしなさいと言われているのです。

私たちは多くの人々が長命を生きる時代にいます。昔の人々と比較して、世の中何が変ったかというと、いろいろありますが、何と言っても多くの人々が長生きできるようになったことが100年前、200年前、500年前と全く違うところだと思います。昔の人は子供を沢山授かりましたが、育って成人になる確率は決して高くなかったと思います。戦争の危機に加えて、ペストのような疫病が突如猛威を振るったからです。宗教改革者ルターもカルヴァンも子供たちに先立たれました。そして本人は60代で亡くなりましたが、それでも長生きした方ではないかと思います。

自分はいつまでも生きられるわけではない、と思う時、私たちの心に一筋の道が与えられるなら、私たちは非常に幸いです。自分の救いのために最善の道を日々祈り、選ぶでしょう。また、自分が先立つ時に残される人々のために、最善の道を日々祈り、自分の力で出来ることはして、彼らのために真心を尽くすでしょう。それに対して、いつまでも生きられるという想定をするなら、一筋の真っすぐな道よりも、寄り道をしてみようと思うでしょう。面白いことの追及が最大の目的となり、迷路遊びに取りつかれ、ついに迷宮入りとなってしまわないでしょうか。真に残念なことです。

洗礼者ヨハネは、文字通り荒れ野に現れたと思われます。便利で華やかな都会ではなく、不便で生活も厳しい地方に生活しました。ヨハネの服装や食べ物については、預言者として禁欲的な生活を進んでしたのだと考えることもできますが、彼の生活ぶりはこの時代の農耕や牧畜をして生活する人々の生活と変わりなかったというかもしれません。ヨハネは人々に質素な禁欲的な生活を勧めようとしたのではないのです。ただ私たちもそうですが、立派な風貌の人が立派な身なり出で立ちで現れると、何となく偉い人のように思ったり、話を聞く値打ちがあるように思ったりするものです。しかし、ヨハネは普通の庶民の貧しい身なりをしていました。そしてそれにも拘わらず、人々が彼の許に集まるほど、ヨハネの宣教は力に満ちたものだったことが分かります。

彼は救いの道を真っすぐに整えます。救われるためにはどうしたらよいのか。ヨハネは罪の赦しを求めている人々に、悔い改めを迫りました。すなわち、「私は神さまに背いて罪を犯しました」と告白することを求めました。この告白を公に行った人々に、ヨハネは洗礼を授けたのでした。ですから、洗礼を受けるためにしなければならないことがある訳です。それは神と人の前で(公に、ということの意味です)罪を告白することです。こうして人々は彼の宣べ伝える言葉を受け入れました。その人々の数は、ユダヤの全地方とエルサレムの住民は皆、ヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けたと言われますから、本当に相当な人数になったと思われます。

人々は神から遣わされたヨハネを非常に尊敬したと思われます。神から遣わされ、神の御心をその通り人々に教える預言者。洗礼者ヨハネもその通りの忠実な人でありましたから、人々は彼を尊敬したことは言うまでもありません。牧師が一生懸命福音を宣べ伝えているのは、聞く人に、福音の中心であるイエス・キリストを心に受け取っていただくためであります。別の言い方をすれば、福音を聞く人が福音を通して、主イエスが自分を救いに招いてくださっていることを知るためであります。ところが、聞く人は、イエス・キリストが自分を招いておられると感じないで、○○牧師が自分を招いておられると錯覚してしまうことがあるのではないでしょうか。

バプテスマのヨハネもそのような間違いを心配していました。救いの道は神の子イエス・キリストの御名にこそあるのに、「ヨハネ先生は素晴らしい。救いはヨハネ先生の言葉にある!」と勘違いしてしまい、「この先生について行こう」ということになってしまうのではないか。洗礼者ヨハネはそのことを大変心配しました。そこで、彼は救い主について、次のように予言したのであります。「わたしよりも優れた方が、後から来られる。わたしは、かがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない。わたしは水であなたたちに洗礼を授けたが、その方は聖霊で洗礼をお授けになる。」

来るべき救い主、キリストは、力と地位において自分よりはるかに優れているので、ヨハネは一般的な表現(ここでは、「履物の紐を解く」という奴隷の仕事を例にとりました)を用いて、自分との差が絶大なものであることを教えました。そうしてヨハネは、キリストの栄光をほめたたえ、キリストに比べれば自分は無に等しいものだと述べているのであります。ヨハネがこのように証しした通り、教会の牧師も罪を告白する者に対して、形式として、目に見える形でバプテスマを授けるのです。これはキリストが自ら定められた聖礼典であるので、教会は聖餐式と同様に、この形式を固く守っています。しかし、この形式に表された内容、内実をお与えになる方は救い主、イエス・キリストその方であります。

ヨハネは宣言しています。自分は外的な(目に見える形のことです)バプテスマを授ける者に過ぎない。けれども、やがて来られるキリストは聖霊によってバプテスマを授けてくださる方なのだと。

今成宗教会は、長村牧師以後、今に至るまでの時代の記録を編纂しようとしており、他の教会の記念誌にも目を通して参考を得ております。それらを見ると、今80歳前後の世代の方々がお若い頃は、日本は戦後のキリスト教ブームがあり、多くの人々が洗礼を受けたようでした。時代は変わって行きます。しかし、主の体の頭であるイエス・キリストは変わることがありません。だからこそ、私たちがよろよろしてもグラグラしても、この方に救いの望みをかけることができるのです。本当に主の教会に結ばれる人々は、移り行く時代の牧師に、ではなく、変らない主の体に結ばれているのです。この恵みに感謝してクリスマスを迎えましょう。

 

 

主イエス・キリストの父なる神さま

尊き御名をほめたたえます。待降節第三主日の礼拝に私たちを呼び集めて下さり、ありがとうございました。この日も恵みの御言葉をいただき、讃美と感謝を捧げることができました。 クリスマスを迎えようとしているこの時、私たちの心と体と魂を、御子をお迎えするにふさわしく整えてください。日頃のあわただしい心、落ち着きのない考えを鎮め、感謝と祈りによって一週間を過ごすことができますように。

私たちの地上の命を永くしてくださり、主の恵みを証しする機会を日々与えてくださることを感謝します。どうか若い人々に、次の世代の人々に慰めと励ましと、生きる勇気と知恵の源であるあなたをイエス・キリストを通して紹介することができますように。

クリスマスの準備が沢山ございますが、奉仕者が限られた力を精いっぱい捧げております。どうかあなたが喜んで助けてくださいますように。健康を整え、クリスマス主日聖餐礼拝、祝会、そしてイヴ礼拝を捧げる私たちに、恵みを豊かにお与え下さい。多くの地域の方々の間に、あなたの御名が高く崇められますように。福音が宣べ伝えられますように。そして病気のため、ご高齢のため、礼拝に参加できない方々の上にもクリスマスの喜びと慰めをお与え下さいますように祈り願います。

最後に私たちの教会に集う者すべてのうちに、その背後にあるご家族のうちに、どうか福音の光が届きますように。

この感謝と願いとを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

キリストの権威は人を救う

聖書:イザヤ書9章5-6節, マルコによる福音書1章21-28節

 先週からクリスマスに向かう待降節が始まりました。世界中がイエス・キリストについて聞いたことがあり、お名前を知っています。その中にはただ名前だけ知っている人々も大勢いますが、この方を礼拝している人々も大勢なのです。キリストは神と等しい方、神の御子でいらっしゃいましたが、限りなく高いところから、御自身を低くされて、地上に降って来られました。人間の罪を負うために、人間として苦しみを受けてくださったのです。キリストには世に来られたことには、はっきりとした目的がございました。それは私たちの罪を贖って、私たちを自由にしてくださることでした。

イエス・キリストのお働き、職務について、教会は三つのことを信じて来ました。それは、第一に預言者の務めです。旧約聖書にはモーセ、イザヤ、エレミヤなど多くの預言者が登場します。神は見えないお方であり、私たちはその声を聞くこともできないのですが、神は御自分の御心を預言者の口を通してお知らせくださいました。その言葉を聞き、神に従う民となるためです。地上に来られた主イエスもユダヤ人の会堂に入ってしばしば人々を教えられました。旧約聖書を紐解いて神の御心を教えられたのです。今日読んでいただいたマルコ福音書の物語も、その一つの場面です。

安息日にはユダヤ教徒の人々は旧約聖書の教え通り、労働を止めて会堂に集まりました。そして聖書を読み、讃美と祈りを捧げていました。その時に会堂の責任者がこれと思う人々に話をすることを要請したと思われます。キリスト教会の礼拝のルーツもここに見られるでしょう。主イエスも促されて、人々の前に立たれました。すると人々はその教えに驚きました。主イエスの教えは他の人々の教えとは全く違っていたからです。それは、人々がいつも聞きなれていた律法学者のようではなかったというのです。律法学者は旧約聖書の専門家です。聖書の解釈が専門です。聖書に精通して、どこから聞いてもまちがい無く答えたと思います。しかし、そこには聖霊の神の力がなかったのです。

正しい教えであるはずなのに、それは心を動かす話ではなかった。魂を揺さぶる話ではなかったということでしょうか。人々はそういうお説教に聞き慣れてしまっていました。律法を守りなさい。そうすれば救われる、という教えです。その通りだ。しかし、実際、救われている実感がない。あれも出来ていない。これも出来ていない。出来ていないことが多い、どんどん増えていくように思われるのです。その一方罪の償いのために、しなければならないことがありました。人々は疲れ果てていたのではないでしょうか。

主イエスは権威ある者としてお語りになりました。主イエスは、律法学者のような経歴も無く、人から教えられて学んだのではなかったでしょう。それだけに、人々は驚きが大きかったこともあったでしょう。しかし、主イエスの権威は人からのものではなかった。それは天から与えられた権威であったのです。だからこそ、人々は主の御言葉に計り知れない威厳を感じたのであります。その御言葉は神の国が近づいたことを人々に告げ知らせるものでありました。すなわち、人間の側から何かをして、手柄を立て、点数を稼ぎ、積み上げて神の国を目指して這い上がって行くのではない。神の国が近づいたのは、神の方から恵みをもって近づいてくださるからに他なりません。

預言者イザヤが何百年も前に告げ知らせた御言葉を今日は読みました。9章5節。「ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。権威が肩にある。その名は、『驚くべき指導者、力ある神、永遠の父、平和の君』と唱えられる。」それは幼子誕生の預言です。そしてイザヤは、幼子キリストがやがて果たすべき職務について、この預言を信じる者に告げ知らせるのです。「驚くべき指導者」と。驚くべきとは、素晴らしいという意味です。「指導者Counselor」と呼んでいるのは、キリストがあらゆる角度から見て最高の完全な教師であるからです。

私たちの救いに必要なすべてのことは、このようにしてキリストよって道が開かれました。そのことを、キリストは人々に親しく教えられたのでありました。権威ある者として教えられたのですが、しかし同時に親しみをもって身近に教えられました。それはキリストが弟子たちを僕と呼ばず、友人と呼んでいる親しさなのです。ヨハネ福音書15章15節に主の御言葉を聞きましょう。(199上)「もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。」

幼子の名はまた、「力ある神」であるとイザヤは預言しました。人々は神を信じていると思いながらも、不安に揺らいでいました。それは昔も今も変わりありません。クリスマスが近づくこの時期、一度は行ってみたいベツレヘム生誕教会をはじめエルサレムは、クリスマスを祝う観光客でにぎわうはずですが、今年はただただ大きな戦争にならないことを祈るばかりです。何十年も前にパレスチナを訪れた友人からは、イスラム教徒が観光客にキリスト教徒の喜ぶ土産物を盛んに勧められたと言っていました。そのような平和な共存のためにこそ、私たちは力ある神を頼ります。「キリストは力ある神」と私たちが賛美するのは、この平和を実現してくださるキリストに全面的に頼っているからです。この方が全世界の主として執り成してくださる。キリストは私たち小さな者の日々の救いのためにも執り成しをして、大祭司の務めをも果たしておられます。これが、キリストが世に来てくださった第二の目的です。

また預言者イザヤは幼子を三つ目の名で呼びました。それは「永遠の父」です。父という名前は造り主を意味するものです。キリストは御自分をただ一度罪の犠牲、供え物として十字架に死なれました。そして三日目に復活され、御自分を信じる者を御自分の復活の命に結んでくださいました。こうしてキリストの体である教会を造られ、教会を世々限りなく保ってくださいます。だからこそ、主イエス・キリストは永遠の父と呼ばれているのであり、私たちは永遠の命であるこの方に心を高く挙げて生きるべきであります。

最後にキリストは「平和の君」と呼ばれています。私たちは戦争のない世界を一心に望んではおりますが、神の望まれる平和とは、戦争なしに世界を維持すること以上のものでしょう。平和とは、ヘブライ語では、繁栄prosperityを意味します。すなわち、すべての祝福のうちでも、よりよいもの、望ましいもの。それが平和なのであり、ただ争いがないという状態よりも豊かな内容を持っています。さらにその中に調和のある健全な姿を含んでいるというべきものではないでしょうか。

今、私たちの目には、世界中あまりにも平和がない、むしろますます争いと混乱と悲惨が増し加わって行くばかりのように見えるのではないでしょうか。しかし、それでもこの悩みに満ちた世界に、毎年クリスマスは巡って来ます。その度に私たちは祈り願わずにはいられません。平和の君がやがて完全な幸福の元となることを。または少なくとも平穏で祝福された平安の元となることを。キリストが私たちの世界に来てくださった目的の第三はそのことです。すなわち、キリストは王としての務めを果たすためにいらしたのです。

平和の君。それは、キリストが十字架に付けられる前、エルサレムに王として入城されたことでも知られることです。人を驚かせ、恐れさせるきらびやかな姿で軍隊によって先導されたこの世の権力者としての王ではなく、聖書の証しする平和の王としてキリストは来られました。その様子をマタイ福音書はイザヤの預言を引用して記しています。マタイ21章4節5節。(40上)「それは、預言者を通して言われていたことが実現するためであった。「シオンの娘に告げよ。『見よ、お前の王がお前の所においでになる、柔和な方で、ろばに乗り、荷を負うろばの子、子ろばに乗って。』」

このように、イエス・キリストは三つの職務を果たすために世に来られました。それはすなわち預言者の務め、祭司の務め、王の務めであったのです。そしてその三つの働きはすべて、神に背いて敵となっていた人間が本来神に造られたとき持っていた姿、すなわち神の似姿を取り戻させるために、用いられたのです。

このような神のご意志に、私たちは私たちの理解をはるかに超える愛を知らされるのではないでしょうか。神のこの決意、この熱意こそ、本日読まれましたマルコ1章の21節以下に語られている権威なのです。その権威は神の権威、聖霊によって告げられた言葉となりました。それは人々を非常に驚かせました。そしてその権威はついにそのとき会衆の中にいた一人の男に叫び声を上げさせました。「ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ。」

この人は汚れた霊に取りつかれた男と呼ばれています。どうしてそんなことが分かるのだろうか、と私たちは不思議に思いますが、汚れた霊、つまりサタンの力によって魂も身も心も強く押さえつけられているので、その話すこと、行うことすべてがサタンの思うままにされていると見做されていたのだと思います。よほど尋常でない言動をしていたから人々にそう言われたのでしょうが、神さまから御覧になれば、この男と他の人々とどれぐらい違いがあるのだろうかと疑問に思います。なぜなら、皆が神から遠ざかり、皆が神に従っていないとすれば、皆が神の敵であるサタンの近くにいるわけですから。

ところがこの汚れた霊に取りつかれていると言われる男は、他の人々とちがった行動に出ました。すなわちいきなり主イエスに向かって叫びました。「かまわないでくれ」と。サタンは、たとえ他の人々が知らなくても知っていました。キリストが神の聖者であることを。それを知っていても黙っていれば、他の人々には気づかれない。サタンには何の損害もないはずです。ところが、サタンはこの人を使ってわざわざ「あなたの正体は神の聖者だ」と言わせたのです。これはサタンの策略ではないでしょうか。

汚れた霊に取りつかれていると人々が思っている男の口から、主イエスを持ち上げる言葉を語らせる。そうすれば、あの男とナザレのイエスは知り合いだ、と印象を人々に与えるでしょう。何か深い関係があるのではないか。ひょっとしたら仲間なのではないか?という憶測さえ生まれるかもしれません。神の国を宣べ伝えようとされる主イエスを貶めるためにサタンは巧妙な手段を取っているのではないでしょうか。真に神の恵みから人々を遠ざけようとするサタンの策略は、実に底知れないことをわたしたちは知らなければなりません。

しかし、主イエスはお命じになります。「黙れ。この人から出て行け。」この命令はサタンに対するもの。サタンは神の権威に逆らうことはできません。そして汚れた霊に取りつかれている人に対しては、これは解放の言葉となりました。「汚れた霊はその人にけいれんを起こさせ、大声をあげて出て行った」からです。同じ出来事が記述されているルカ福音書では、「悪霊はその男を人々の中に投げ倒し、何の傷も追わせずに出て行った」のでした(ルカ4章35節)。サタンつまり悪霊によってこの人はさんざん苦しみました。この人とサタンは一体のように人々に見えていましたから、サタンを恐れる人々は当然この人を怖がっていたことでしょう。しかし、主イエスはおいでになり、御自分の前に姿を現わした悪霊を追い出して、この人を解放しました。

この人は人々の目に一目で分かるほど悪霊に取りつかれていましたが、罪の奴隷になっているのは、決してこの人ばかりではありません。人間のすべてが、神に従う道を見失っていたのです。何が良いのか、悪いのか、どれが正しい道なのか、そうでないのかさえ、しばしば分からなくなっているからこそ、この世界に多くの苦しみがあります。人は人を訴え、家族が親しい者が争い、憎み合い、殺し合う有様です。ましてや、遠い国と国の間に悪の応酬があり、真に無慈悲な戦争に発展するのは当然ではないでしょうか。

しかし、希望はイエス・キリストにあります。すっかりサタンの手先になってしまっていてどうにもならないこの男さえ、主の御前に叫んで救われました。真に主の御前に出ることがどんなに幸いなことであるか。この事を私たちは教えられました。なぜなら、キリストは神の権威を持って私たちを執り成してくださるからです。預言者の務め、祭司の務め、そして王の務めによって、私たちを罪から救ってくださることを知らされました。この救いに招かれてキリストの救いの木の枝に連なりましょう。祈ります。

 

主イエス・キリストの父なる神さま

尊き御名をほめたたえます。私たちは今日の礼拝で御子イエス・キリストの地上でのお働きについて教えを受けました。深く感謝いたします。悪霊に取りつかれた人が、自分では何もできなくなっているのに、ただ恵みによって罪から解放されました。ただキリストこそ、変らない希望であることを多くの若い人々に告げ知らせることができますように。私たちは何かできることによって救われるのではなく、ただただ、地上に来てくださった御子の働きの中に現れたあなたの尊い恵みと慈しみによって救われました。

どうかこのことをこの上ない喜びとし、感謝とし、今日この日から感謝と賛美の生活に入るよう、私たちを造り変えてください。そして、これから多くの重荷を負って生きて行こうとしている人々が、自分の働きによる救いではなく、イエスキリストの働きによる救いを信じ、身を委ねて、安らかに健やかに生きる者とされますように。

私たちの教会では、多くの方が高齢になり、健康に支障をきたすことが多くなりました。しかし、自由に何でも出来ていたとき以上に、あなたを思い、祈り、感謝して生きることの幸いを感じております。あなたの恵みを証しする生活を祝福して下さい。今、ご病気の方、入院されている方々を心に覚えます。どうかそれぞれの苦しみを取り去ってください。それぞれの困難を通して主の愛が新たに確信されますように。今週もクリスマスに向かう歩みを導いてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。