主日礼拝
齋藤 正 牧師
《賛美歌》
讃美歌298番
讃美歌1420番
讃美歌380番
《聖書箇所》
旧約聖書:エレミア書 31章31-34節 (旧約聖書1,237ページ)
31:31 見よ、わたしがイスラエルの家、ユダの家と新しい契約を結ぶ日が来る、と主は言われる。
31:32 この契約は、かつてわたしが彼らの先祖の手を取ってエジプトの地から導き出したときに結んだものではない。わたしが彼らの主人であったにもかかわらず、彼らはこの契約を破った、と主は言われる。
31:33 しかし、来るべき日に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこれである、と主は言われる。すなわち、わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。
新約聖書:マルコによる福音書 16章9-20節 (新約聖書97ページ)
◆マグダラのマリアに現れる
16:9 〔イエスは週の初めの日の朝早く、復活して、まずマグダラのマリアに御自身を現された。このマリアは、以前イエスに七つの悪霊を追い出していただいた婦人である。
16:10 マリアは、イエスと一緒にいた人々が泣き悲しんでいるところへ行って、このことを知らせた。
16:11 しかし彼らは、イエスが生きておられること、そしてマリアがそのイエスを見たことを聞いても、信じなかった。
◆二人の弟子に現れる
16:12 その後、彼らのうちの二人が田舎の方へ歩いて行く途中、イエスが別の姿で御自身を現された。
16:13 この二人も行って残りの人たちに知らせたが、彼らは二人の言うことも信じなかった。
◆弟子たちを派遣する
16:14 その後、十一人が食事をしているとき、イエスが現れ、その不信仰とかたくなな心をおとがめになった。復活されたイエスを見た人々の言うことを、信じなかったからである。
16:15 それから、イエスは言われた。「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。
16:16 信じて洗礼を受ける者は救われるが、信じない者は滅びの宣告を受ける。
16:17 信じる者には次のようなしるしが伴う。彼らはわたしの名によって悪霊を追い出し、新しい言葉を語る。
16:18 手で蛇をつかみ、また、毒を飲んでも決して害を受けず、病人に手を置けば治る。」
◆天に上げられる
16:19 主イエスは、弟子たちに話した後、天に上げられ、神の右の座に着かれた。
16:20 一方、弟子たちは出かけて行って、至るところで宣教した。主は彼らと共に働き、彼らの語る言葉が真実であることを、それに伴うしるしによってはっきりとお示しになった。〕
◇結び
16:20 〔婦人たちは、命じられたことをすべてペトロとその仲間たちに手短に伝えた。その後、イエス御自身も、東から西まで、彼らを通して、永遠の救いに関する聖なる朽ちることのない福音を広められた。アーメン。〕
《説教》『喜びの知らせ』
主日礼拝においてマルコによる福音書を読み続けてきましたが、いよいよ本日をもって終えることになりました。本日の16章9節以下は、「大きな括弧〔 〕かっこ」の中に入って、「結び一」という小見出しがつけられています。「結び一」があるからには「結び二」があるわけで、それは98頁の下の段に、節の数字なしに、短い結びとして記されています。「結び」のどちらも、前後に括弧〔 〕で括られています。この括弧は、もともとはなかったと思われる、後から書き加えられた部分だろうとの印です。信頼すべき古い写本にこの部分がないものが多いからです。現在まで残っているマルコ福音書の初期のものには、すべて9節以下はなく、どれも8節で終わっているのです。そしてこの9-20節の「結び一」とは違う結びを持っている写本もある、それが「結び二」です。いずれの結びも、もともとはなかったもので、後からつけ加えられたと思われるのです。では何故「結び」がつけ加えられたのでしょうか。それは、先週読んだ8節をもってマルコ福音書が終わるのでは、何とも尻切れとんぼだからです。16章1-8節には、主イエスの十字架の死から三日目の日曜日の朝、三人の女性たちが墓に行ってみると、墓は空になっており、そこにいた天使が「あの方は復活なさって、ここにはおられない」と告げたことが語られています。さまざまな文献の研究から、この9節以下は、おそらく、2世紀に入ってから、教会によって加筆されたものであろうということです。何故、本来のマルコ福音書の結末部分が欠けてしまったのかということについては、今となっては知る由もありませんが、福音書の終わりが「恐ろしかった」(8)という言葉で終わっているのは相応しくないと考えた教会が、9節以下を加えたのではないかと考えられています。
そのため、マルコ福音書を読むときに、この9節以下を軽んじる人もいますが、それは大変な間違いです。何故なら、私たちは、福音書を「誰が書いたか」ということによって重んじるのではなく、ここにまとめられたすべてを、聖霊の働きのままに教会が受け容れ、「神の言」として告白したという信仰によって重んじるからです。
9節以下が後の時代の教会による加筆であるということを承知で、改めて読むときに、今、教会に生きる私たちが、キリストの復活をどのように受け止めるべきかということが、ここに記されているのです。そして、それがマタイ、ルカ、ヨハネの他の三つの福音書で詳しく語られていることの「まとめ」であるということに気がつきます。
他の三つの福音書では詳しく語られていることの大部分が省略され、極度に簡略された要約として記されています。それらの具体的内容は、ここでは詳しくお話する時間がありませんので、どうぞ皆さんで比較して頂きたいと思います
しかしここで、簡略化されたマルコ福音書のこの物語を他の三つの福音書と比較すると、繰り返される「ひとつの言葉」に気が付きます。それは「信じなかった」という言葉です。マルコ福音書は、他の福音書の物語を単に簡略化したのではなく、それぞれの出来事を、「信じなかった」という主題でまとめていると言えるのです。
11節には、「マリアがそのイエスを見たことも聞いても、信じなかった」
13節には、「彼らは二人の言うことも信じなかった」
14節には、「復活されたイエスを見た人々の言うことを、信じなかった」
マルコ福音書が強調しているのは「すべての人が信じられなかった」という事実を、教会自身が認めていることです。
「信じられなかった」と書き加えることに、どれだけの勇気が必要であったことでしょう。この部分が加筆されたのは、少なくとも2世紀に入ってからであり、教会が体制を作り上げ、ペトロ以下の弟子たちは、初代の伝説的な偉大な指導者として語り伝えられていた時代でした。その時代に、あえて「あの偉大な弟子たちが主の復活を信じられなかった」と記すことは、本当に思い切ったことであったと言えるでしょう。
この加筆部分のすべては、神の偉大な出来事に出会った人間の驚きを告げるものであり、言わば、教会は、「信じられない」という驚きの中から誕生したということなのです。
それでは、いったい何を「信じられなかった」のでしょう。「死者の甦り」でしょうか。誰でも、死とはこの世からの完全な別離であることを知っています。ひとたび死の世界に入った者は決して戻ることはない、ということを、誰でも知っています。これは、現代の人々も古代の人々も同じです。「昔の人は幼稚だから、死の世界を旅して来ることが出来ると想像したのであろう」などと考えるのは間違いです。古代ユダヤ人の考え方の中には、そのような死生観といったものはまったくありません。
ファリサイ派は、復活を何とか信じようとしていましたが、それでも、今生きている世界の延長程度で、決して、明確な復活や、新しく生きる「新生」などというものではありませんでした。ファリサイ派の復活論は、言わば「人生のやり直し」であり、それ故に、七人の兄弟と結婚した女性の復活後の立場を問うサドカイ派の詰問に彼らは答えられませんでした(マルコ12:18以下参照)。
また、エルサレム神殿を支配していた大祭司を筆頭とするサドカイ派は、復活を完全に否定していました。
現代の人々が死者の復活を信じることが出来ないのと同じように、当時の人々も、復活を信じることが出来なかったのです。重要なことは、「キリストの復活を信じる」ということは、ただ単に、「キリストが生き返った」というだけの問題ではないということです。
「死んだのに生き返った」という驚きだけならば、それは、神の子キリストが行った「ひとつの奇跡」に過ぎません。イエス・キリストは、五つのパンと二匹の魚で五千人を養い、荒れ狂う嵐のガリラヤ湖の上を歩かれた方です。一人息子を失ったナインのやもめを悲しみから救い、ヤイロの娘を甦らせ、ラザロを死から呼び戻された方です。
全能なる神の御力を思うならば、神の子キリストは、私たちの世界の自然法則を、あらゆる意味で超えておられたということが出来るでしょう。そしてそれ故に、「死から甦ることも可能である」ということになるかもしれません。
しかし、それだけでよいのでしょうか。「キリストは神の子だから甦った」。そのように、「キリストの甦り」を「ひとつの奇跡」に留めておいてよいのでしょうか。
ここで私たちが目を向けなければならないこととは、「復活を信じる」ということが、多くの人々が予想するような、「死者の甦りというひとつの奇跡的出来事」という認識で終わってはならない、ということなのです。
マルコ福音書16章16節に「信じてバブテスマを受ける者は救われるが、信じない者は、滅びの宣告を受ける。」とあります。ここで、「信じる」とは、「死者の甦り」という一つの「認識」に終わるのではなく、キリストの甦りが私の罪の贖いのためであったということを「信じる」ことです。これを「信じる」ことこそが「信仰」なのです。
しかし、また、これを「信じる」ことが極めて困難なのです。即ち、「信じられないこと」とは、「キリストの甦りそのもの」ではなく、キリストの復活が実は、「自分自身の救い」のことと認識できないからです。
教会とは、この「信じられなかった人々」を見捨てられない復活のキリストが、その「信じられない人々」を「信じる者」へと変えられる場として建てられたのです。神は、私たちを「信じる者」として御業の完成に仕える新しい生命、新しい生活を、私たちに与えてくださり、逞しく人生を生き抜く力が、そこに新しく誕生するのです。
初代教会には、このような力が満ち溢れていました。そしてこの充満したエネルギーが、15節にある「全世界に行って、すべての造られたものに福音を述べ伝えなさい。」とのキリスト・イエスの宣教命令によって、全世界に伝わって行ったのです。この宣教命令によって、昆虫が脱皮を経て大きく変身するように、全世界への伝道は、復活のキリストに出会い新しく造り替えられた人間の、必然的な行動でした。一人でも多くの人々に救われた喜びを伝えたいという気持ちを抑えることが出来ないからです。
不信仰とかたくなな心によって主イエスの十字架から逃げ去り復活を信じなかった弟子たちに、復活によって喜びを伴った大きな使命が与えられたのです。それは私たちにも与えられている使命です。主イエス・キリストによる救いにあずかり、キリストの体である教会に召し集められた私たちは、キリストによる救いの知らせ、福音を宣べ伝える使命を与えられて、この世へと遣わされているのです。この使命は弟子たちにとって、また私たちにとっても、重過ぎる、とても担うことができない重大な使命であると感じられます。自分が、どうして全世界に福音を宣べ伝えることなど出来るだろうか、と不安に思ってしまいます。主イエスが復活なさって今も生きて働いておられることを信じることこそが、不信仰でかたくなな私たちの心を、福音を宣べ伝えるという使命を果していくことの中でこそ打ち砕かれていくのです。
「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい」と言われています。全ての人に、ではなくて、全ての造られたものに、と主が言われています。それは、人間にだけでなく動物や植物、自然界の全てのものに向かって福音を語れということではなく、人間は勿論のこと、この世界の全てのものは主なる神によって造られ、支配されている被造物なのだということを私たちに弁えさせるためです。
私たちも、弟子たちと同じように、主イエスの救いの恵みにあずかり、福音を宣べ伝え、伝道する群れとしてこの世に遣わされています。私たちが伝道していくとき、主イエスが共に働いて下さり、生きておられることを私たちに顕して下さるのです。私たちのつたない伝道、まことに貧しい言葉や行いを通して、一人でも多くのご家族や友人など多くの方々が主イエス・キリストと出会い、主イエスを信じる信仰を与えられ、洗礼を受けてキリストの体である教会の枝とされていく、それこそが大きな奇跡なのです。
お祈りを致しましょう。