私について来なさい

賛美歌

讃美歌7番

讃美歌238番

讃美歌502番

聖書箇所

旧約聖書 エレミア書 16章16節

16:16 見よ、わたしは多くの漁師を遣わして、彼らを釣り上げさせる、と主は言われる。その後、わたしは多く の狩人を遣わして、すべての山、すべての丘、岩の裂け目から、彼らを狩り出させる。

新約聖書 マルコによる福音書 1章16~20節

◆四人の漁師を弟子にする

1:16  イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、シモンとシモンの兄弟アンデレが湖で網を打っ ているのを御覧になった。彼らは漁師だった。
1:17  イエスは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。
1:18  二人はすぐに網を捨てて従った。
1:19  また、少し進んで、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、舟の中で網の手入れをしているのを御覧になると、
1:20  すぐに彼らをお呼びになった。この二人も父ゼベダイを雇い人たちと一緒に舟に残して、イエスの後について行った。

説教原稿

私たちは時の流れの中で生きています。昨日から今日へ、今日から明日へと向う時の流れの中です。そし て今日を生きるということによって、常に新しい時に出会っていると言えるでしょう。現在とは、未来という時を 過去に変えるものであり、毎日一つずつ卵を産む鶏のように、私たちは毎日過去を生み出しているのです。

過去とは古い時であり、既に背後に追いやられた時です。一方、未来とは「新しい時」であり、未だ誰も知らな いことが起こる時です。その「新しい時」を如何に生きるか。それが私たちの課題と言わなければなりません。

もちろん、この「新しい時」とは無自覚に迎える自然の時の流れではありません。自然のサイクルから言え ば、朝、眼が覚めた時、「新しい一日が始まった」ということです。しかし、自分の生きざまを深く省みて問うな らば、朝の目覚めにおいて出会う一日が、果たして「新しい一日」「新しい時」と無条件に言い得るでしょうか。

確かに、そこには未だ出会っていない未経験なものがあるでしょう。しかし「新しさ」とはいったい何でしょう か。もしその一日が古い一日の焼き直しに過ぎないとするならば、「新しい一日を生きた」とは言えないのかも 知れません。判で押したような日常生活の中で、何を「新しい時」と言うのでしょう。ガリラヤの湖畔で起こった 出来事は、その「新しい時」への招待でした。

16節に「イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、シモンとシモンの兄弟アンデレが湖で網を打 っているのを御覧になった。」とあります。そして19節には「また、少し進んで、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟 ヨハネが、舟の中で網の手入れしているのを御覧になった。」とあります。

ここは、ルカ福音書によれば、時は朝でした。つまり、シモンとアンデレは未だ朝の漁をしており、ヤコブとヨ ハネは一晩の漁で痛んだ網を繕っている、ガリラヤの漁師たちにとって昨日と変わらない朝でした。早朝まで 魚をとり、陽が昇ったら漁を終え、岸に上がって明日のために網を繕う。そして昼間は休み、また日暮れと共 に湖へ出て行く。これまで何年もの間続けて来たのです。昨日と少しも変わらない同じような朝であり、一日 の始まりでした。ガリラヤ湖の漁師として、父親もそのまた父親も、同じようにして過ごしたであろう生活がここ に繰り返されているのです。シモンにもアンデレにも、ヤコブにもヨハネにも、それぞれ夢や希望があったこと でしょう。しかし、生活のためには大きな冒険は諦めざるを得ず、昨日と同じような今日を過ごし、明日もまた 同じ仕事を続けて行かなければなりませんでした。そしてその日常生活の中で、ささやかな夢や希望をそれ なりに実現して行く。これは誰もが過ごしている人生です。

私は何時までこの仕事をしなければならないのか。何故、この仕事をしなければならないのか。私たちは、 よくこのようなことを考えるのではないでしょうか。そして、もしかすると、ほかにもっと生き甲斐のある良い仕 事があるのではないか、とも思います。しかしながら、そう思いながらも、やはり、昨日と同じように、同じことを 繰り返している自分を見出さざるを得ません。

朝、仕事に出かける時に、あるいは夫を送り出した後、洗濯掃除に追われる時に、このような自分の姿を見 出すことはないでしょうか。そこには「新しい朝」を迎える新しい気持ちは感じられません。

シモンもアンデレも、ヤコブもヨハネも、そのような朝を迎えました。誰もが迎える「昨日と同じ朝」それがこの場 面です。ところが、その「少しも変わることのない昨日と同じであった筈の朝」が、突然、「全く新しい朝」になった のです。そしてこの出来事において、「新しい時」というものが自分の思いの外にあることを教えられるのです。

四人にとって、主イエスとの出会い、それが「古い生活」から「新しい生活」への転換を引き起こしました。16節 にも19節にも「イエスが御覧になった」と記されています。「御覧になった」とはどういうことでしょう。主イエスが 漁師の仕事を珍しくてつくづくご覧になったということなのでしょうか。

 

主イエスの眼差しは、彼らの仕事へではなく、その仕事をしている人間そのものに向けられているのです。 「その人が何をしているか」ではなく、「その人がどのように生きているか」ということに向けられているのです。 私たちが今、何をしているのか、何をしようとしているのかということに関りなく、常に、主イエスの眼差しは

私たちの心に向けて注がれているのです。そして、そのキリストの眼差しが自分に向けられていることを意識 した時、「新しい朝」が訪れるのです。

シモンたちは誰一人として、その日、自分の生活を変えようとは思っていませんでした。与えられた環境の 中で、ただひたすらに生きて行くことだけを考えていました。しかし今や、彼ら自身、全く考えていなかったこと が始まろうとしているのです。

17節に「イエスは、『わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしてあげよう』と言われた。」とあります。

「私について来なさい」。主イエスが新しい朝に語りかけるのは、この言葉です。「ついて行く」とは、ただわけ も分からず「後ろからついて行く」ということではありません。

ここで主イエスがお語りになった「わたしについて来なさい」は、「わたしに」と「ついて来なさい」の組み合わ せではありません。原文の構造に従って訳すならば、「来なさい(あるいは「おいで」)、わたしの後ろに(あるい は「あとに」)」となります。主イエスはここで、「来なさい」「おいで」と招いておられるのです。あのマタイ福音書 11章28節の主イエスのお言葉、「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあ げよう」と同じ言葉なのです。「わたしのところに来なさい」と主イエスは招いておられるのです。その招きに応 えて主イエスのところに行った者は、主イエスの後ろを、その後(あと)について歩んでいくのです。

よく「あの人の生き方にはついていけない」とか「あの人の考え方にはついていけない」という表現がなされま す。また以前は、結婚のときなど「夫を信じて何処までもついて行きます」などという覚悟が語られたものでした。

このような表現は、ただ単に、表面的に追従することではなく、生きる営みを共にするということであることは 言うまでもありません。「私について来なさい」と主イエスが言われる時、それは主イエスと共に生きる生涯へ の招きであり、キリストと共に人生の営みを全うすることへの呼びかけなのです。

主イエスは彼らに、「人間をとる漁師にしよう」と言われました。この言葉は誤解されやすい面があります。 「あなたがたは今、魚をとる漁師をしているが、魚よりも人間をとる方が尊い仕事だから、あなたがたを今より もっと大事な働きをする人へと格上げしてあげる」という意味に理解してしまったら全くの間違いです。人間を とる漁師にするということによって語られているのは、主イエスの後について行く者となることによって与えら れる新しい歩み、それまでとは違う新しい人生が与えられるということです。人間をとるとは、主イエスが神様 の独り子、救い主としてこれから成し遂げようとしている救いのみ業、それによって実現する神の国に人々を 招き、人々が主イエスの救いにあずかって新しく生きることができるように導くこと、伝道の働きを担う者となる ということです。

18節に「二人はすぐに網を捨てて従った。」、そして20節には「この二人は父ゼベダイを雇い人たちと一緒に 舟に残して、イエスの後について行った。」と驚くべきことが起こりました。仕事を捨て家を捨てた人間がここに 描かれているのです。

この物語を読む時、「いったい誰がこのようなことを行えるのか」と思わずにはいられないでしょう。しかも聖 書によれば、「すぐに従った」と記されています。「すぐに」という言葉を、時間的速さだけで理解するのは間違 いです。もちろん、主の呼びかけに対して応答を先に延ばす決断の弱さは責められなければなりません。

ここまで、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」という主イエスの言葉の意味を見てきました。 主イエスは四人の人々をじっと見つめ、このように語りかけて彼らをお招きになったのです。シモンとアンデレ は「すぐに網を捨てて従った」とあります。またヤコブとヨハネは「この二人も父ゼベダイを雇い人たちと一緒に 舟に残して、イエスの後について行った」とあります。ここには二つのポイントがあります。一つは、彼ら四人 が皆、主イエスの招きを受けてすぐに従って行ったことです。もう一つは、「網を捨て、父と雇い人を舟に残し て」とあるように、自分の大事なものを捨てて、また家族から離れて従ったということです。

私たちはこれを読むと不思議に思うんではないでしょうか。どうしてそんなにすぐに従って行くことができたの だろうか、何故大事なものを捨てたり家族と別れたりできたのだろうか、と思うのです。

「すぐに」ということは、あれこれ条件を確認したりせずに、ということです。主イエスについて行くとどうなる のか、こんな場合にはどうか、あんな時にはどうすればよいのか、などと一切質問をしていないのです。また、 ついて行くことによってどういう酬いがあるのか、主イエスは自分に何を約束してくれるのか、という確認もして いません。また、ついて行くことができるように自分の側の状況を整えたいのでそれまでもう少し待って、とい うことも言っていません。それらの条件を一切顧みることなく、つまりそれらのことを全て捨てて従ったのです。 「網を捨て、父と雇い人を舟に残して」という言葉がそれを現しています。ですから先程二つのポイントと言い ましたが実は一つと言えます。それは「献身」という一言で言い表すことができます。主イエスの弟子となると は、主イエスに、そして神様に自分自身をお献げし、委ねることなのです。彼ら四人は献身したのです。そこ に、彼らの人生の転換、それまでとは全く違う新しい歩みが始まったのです。

この主イエスの呼びかけは、私たち、一人ひとりの個人に対する神の個別の御業なのです。この主イエスの 呼びかけは、「そこにいる皆」とか「あなたがたの誰でも」というようなものではありません。はっきりと一人ひと りの個人を名指しされた個別の呼びかけなのです。

20節で「彼らをお呼びになった」とは「名を呼ぶ」ということです。大勢の人々に向って語られた言葉に感動し て「その中から誰かが従った」ということではなく、大勢の人々の中にいた「この私に向けて呼びかけられた」 ので、キリストの招きに従ったのです。主イエスは私たちを、常に、一人の人格として扱って下さるのです。決 して十羽ひとからげに扱うようなことはなさいません。

シモン、アンデレ、ヤコブ、ヨハネの決断を見ると共に、名指しで召されるイエスの御心と私たち自身の決断 を、各自の個別の問題として考えることが大切です。ですから「よくも仕事を捨てられたものだ」「親を捨てるこ となど誰が出来るか」などと考える人たちは、既に聖書を読み違えていると言わなければなりません。仕事を 捨て親を捨てたというのは、伝道者として召されたシモンたちの「この時」の応答の仕方なのです。

彼らは彼ら自身の召しにそのように応えたのですが、私たちの召しはシモンたちとは違う筈です。私たちに はそれぞれ違う召しがあり、それぞれ独自な応答がなされなければなりません。それが個別性というもので す。「仕事を捨て、親を捨てた」という外面的なことに拘るのではなく、そのようなシモンたちの個別の問題の 底に流れる普遍的なもの、私たちとの共通な特徴に眼を向けることが大切です。

それを一言で言えば、「日常の断ち切り」とか「惰性を絶つこと」と表現出来るでしょう。昨日行ったことを今日 もまた同じように繰り返して行なうことを断ち切ることです。仕事を辞めたり、肉親の絆を切ることが必要なの ではなく、それらの生活を続ける中で、無自覚的・惰性的に生きることを止め、主の呼びかけに応え、キリスト と共に生きる生活の中に飛び込んで行くことが「惰性の断ち切り」「切り換え」です。新しい生活への切り換え が大切なのです。

自分の喜びのため、自分の欲望のために生きることから、神の喜びのために生きる人間へとなるのです。 キリストに仕える人間に変わり、神の喜びが私のどのような生き方の中に求められているかを正しく聞き取る のです。

キリストの招きを聞き取り、受け入れなければ、決して「新しい一日」に踏み出せないことを知るべきなのです。

主イエスはガリラヤの漁師を使徒としてお立てになりました。そして彼らは、主イエスの御言葉の前に服従し たのです。その直前まで予想もしなかったこと、考えることさえなかった新しい生き方の中に飛び込んで行き ました。

ここに神の召しの特徴があると言えるでしょう。自分の能力、資格、性格、興味など、自分自身に対する人 間的価値や判断はそこでは一切意味を持ちません。「召しへの相応しさ」とは、自分自身の姿を省みて自分 が信仰者に相応しいのだとして信仰に入るのではなく、キリストへの信頼によって、自分自身の人間的価値を 捨て去ることなのです。シモンもアンデレも、ヤコブもヨハネも、各自の個性の数々の欠点にも拘らず、使徒と しての名を聖書に残しました。

召された者は、その召しに応える生涯をもって、神の選びの正しさを証すると言えるでしょう。私たちにとって の「新しい一日」とは、その神の御業の証人としての目覚めでなければならないのです。

私たちはどうしても、いろいろな人間的条件を考えようとします。条件が整っているかどうかを見極めたいと 思います。そういうことによって、先の見通しをはっきりさせた上で進みたいと思います。それはそれで大事な ことでしょう。けれども、人生において、私たちの側で整えることのできる条件というのは、実はそんなに多くは ありません。

明日何が起るか、私たちは知ることができません。今日どんなに条件を整えても、それによって明日の歩み が保証されることはないのです。本当に確かな歩みは、私たちが条件を整えたり確認することによってではな くて、この世界を造り、私たちに命を与え、全てを導いておられる主なる神様のご支配を信じて、自分の身を 献げることによってこそ与えられます。神様はご支配される神の国を、独り子主イエス・キリストによって、その 十字架の死と復活によって実現して下さり、その裁きと救いとを私たちに告げ知らせて下さいます。悔い改め て神様の方に向き直ることによってこそ与えられる救いへと私たちを招いて下さり、その救いのみ業の前進の ために私たちを用いようとしておられるのです。そのみ業の前進のために必要な全ての条件は、神様ご自身 が整え、与えて下さるのです。ですから、今私たち一人一人をこの礼拝へと招き、私たちのことをしっかり見つ めつつ、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と語りかけて下さっている主イエスに自分の身 を、人生を、委ね、お献げしましょう。それによって私たちも、大きな転換を与えられ、それまでとは全く違う新 しい、神様の恵みのみ手の中で生きる人生を歩み出すことができるのです。

お祈りを致します。 <<<祈 祷>>>

十字架への道

齋藤 正 牧師

聖書箇所

詩篇 22篇2a,b~41節 (旧約聖書852ページ)

22:2 わたしの神よ、わたしの神よ
なぜわたしをお見捨てになるのか。

マルコによる福音書 15章33~41節 (新約聖書96ページ)

◆イエスの死
15:33 昼の十二時になると、全地は暗くなり、それが三時まで続いた。
15:34 三時にイエスは大声で叫ばれた。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。
15:35 そばに居合わせた人々のうちには、これを聞いて、「そら、エリヤを呼んでいる」と言う者がいた。
15:36 ある者が走り寄り、海綿に酸いぶどう酒を含ませて葦の棒に付け、「待て、エリヤが彼を降ろしに来るかどうか、見ていよう」と言いながら、イエスに飲ませようとした。
15:37 しかし、イエスは大声を出して息を引き取られた。
15:38 すると、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けた。
15:39 百人隊長がイエスの方を向いて、そばに立っていた。そして、イエスがこのように息を引き取られたのを見て、「本当に、この人は神の子だった」と言った。
15:40 また、婦人たちも遠くから見守っていた。その中には、マグダラのマリア、小ヤコブとヨセの母マリア、そしてサロメがいた。
15:41 この婦人たちは、イエスがガリラヤにおられたとき、イエスに従って来て世話をしていた人々である。なおそのほかにも、イエスと共にエルサレムへ上って来た婦人たちが大勢いた。

説教

今から約2000年前の西暦33年、ユダヤの暦でニサンの月の14日、金曜日の午後、全地は「暗黒」に閉ざされました。マルコによる福音書15章33節には、「昼の十二時になると、全地は暗くなり、それが三時まで続いた」と記されています。

この日、朝の9時に十字架につけられた主イエスは、午後3時までの6時間、苦しみ抜かれ、遂に息を引き取られました。ローマ帝国の極刑であった十字架刑は処刑者を苦しませるためもあって、死ぬまでに数日かかる残酷な処刑でしたが、主イエスはその直前の苛酷な鞭打ち刑もあって短い時間で息を引き取られました。この聖書が記す「全地の暗黒」は、この主イエスの苦しみの頂点で起きました。

この「暗黒」とは何であったのでしょうか。ある人は日食があったのであろうと言います。またある人は、東の砂漠から吹いて来た砂嵐によって太陽が隠されたと説明したりします。聖書は、「全地は暗くなって、三時まで続いた」と記していますが、聖書が告げることを裏付ける記録はどこにもなく、このときの「暗黒」を聖書以外には誰も記してはいません。

1951年度のノーベル文学賞に輝いたスウェーデンの作家ラーゲル・クヴィストは、受賞作品「バラバ」の中で、このように書いています。

イエスの十字架刑がローマ総督ピラトから言い渡され、その時、イエスの代わりに赦されたバラバは、自分の身代わりになった男はどんな男かを見るために、ゴルゴタへやって来ました。十字架上のイエスを見上げていると、突然、暗くなり、その闇の中で、「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか」という声を聴きました。三本の十字架がボンヤリ見えるだけの真昼の暗黒の中で、バラバは怖ろしくなりました。やがて、明るさが戻って来た時、すべては終わっていたのです。バラバは自由でした。「身代わりの男は死んだ。もう自分の罪を咎める者はいない」。ところが、エルサレムの街の中に帰って来て、今、自分が見てきたイエスの死の様子を話すと、誰も「暗くなった」ことを認めません。何も変わらなかったと言います。太陽は何時もの通りでした。ここからバラバの悩みが始まります。「あの時の暗黒は何であったのか」。そしてバラバは、彼の生涯を賭けて、その「暗黒の意味」を尋ね続けるのです。

聖書は、この時の「暗黒」を明確に語っています。しかし、この世の記録は、それについて何も記しておらず、あたかも何事もなかったかのようです。この食い違いに直面するとき、私たちもまた、あのバラバと同じ場に立たされていることに気付かなければなりません。

あの「暗黒」が日食であったのか、砂嵐によるものなのか、そんなことが問題なのではありません。

大切なことは、バラバのように、ナザレのイエスを、自分の罪の身代わりになって死んだ方として仰ぐ者だけが認める「暗黒」なのではないでしょうか。そして、十字架の下であの声を聴いた者が、「あれはいったい何であったのか」と、生涯をかけて尋ね求めるべき「暗黒」なのです。古代の記録の何処にも記されていない「暗黒」。それにもかかわらず「全地が」と告げている聖書。私たちは、ここに、聖書の明確な主張を読み取ることが出来ます。

太陽が出ていようが隠れていようが、暗くなったと認めても、認めなくとも、それに関わりなく、全地の、即ち、神によって造られたものすべての「暗黒」が、ここに宣言されているのです。光を失った世界。それが主イエスが叫んだ言葉によって表されているのです。34節には、「三時にイエスは大声で叫ばれた。『エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。』これは、『わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか』という意味である。」とあります。この言葉は、先程お読みした詩編22編の冒頭の言葉です。この詩編22編は、確かにこの嘆きの言葉をもって始まっていますが、全編を貫くものは神への信頼であり、神の栄光を讃美する喜びの歌です。そのことから、十字架の主イエスの言葉は、「信仰者の勝利を叫んだのである」と解釈する人もいますが、そうでしょうか。

むしろ、主イエスご自身が日頃から親しまれていた詩編の中の一つの聖句を、十字架上で死を目前にした絶望的な苦しみの中で、主イエスの口をついて出たとみるべきではないでしょうか。主イエスの十字架は、この言葉の通りでした。御子イエスは、ゴルゴタにおいて、まさしく「神に捨てられた」のです。

パウロは、ガラテヤの信徒への手紙 3章13節で、「キリストは、わたしたちのために呪いとなって、わたしたちを律法の呪いから贖い出してくださいました。」と記しています。

私たちクリスチャンは、主イエスの十字架の死を、どんな意味においても英雄の死のように美化してはなりません。主イエスの十字架の死には、恥ずかしさと惨めさと醜さと神に見捨てられた絶望を見なければなりません。神の怒りが主イエスに対して徹底的に向けられたものに他ならないのです。主イエスの十字架において、私たちの罪のすべてが、神の眼の前に曝け出され、徹底的に罪が糾弾されたのです。もはや、どこへ逃げることも出来ず、隠れることも誤魔化すことも出来ず、自分の身に負う罪を、神の裁きの前に曝すのが主イエスの十字架なのです。そしてこれこそが、神から見捨てられた人間の本来の死の姿です。

私たちは、この世を生きる間、この恐ろしさをしばらくは忘れて過ごすことはできるでしょう。生活の慌ただしさによって、職場の厳しさによって、また、さまざまな趣味や娯楽によって、本来の死の姿を忘れ、罪の重荷を考えないようにして、ひとときを過ごすことはできるでしょう。しかし、本当に死に直面した時、それまでのすべての誤魔化しは無駄です。もはや、恐ろしさを紛らわすものは何一つなく、裸の自分がただ一人、神の裁きの前に立たされるのです。これこそが死の恐怖です。死に際して出会う神は正義の神であり、御心に逆らって生きて来た者の罪を、どこまでも追及する裁き主である神です。神の怒り、神の呪い、神からの完全な絶縁。「もうお前のことは知らぬ」と告げられるのが、罪の下における死です。十字架における主イエスの『エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。』との叫びは、この絶望を表すものと見るべきです。私たちすべてが受けなければならない苦しみを、主イエスが受けられたことを現しているのです。肉体の苦しみは死と共に終わります。しかし、魂の苦しみは、そこから始まるのです。主イエスの叫びに「真実の暗黒」を見るとは、こういうことを現しているのです。

そしてこの主イエスの十字架から、まさに「この時」から、新しい時代が始まりました。それは、人間の苦しみ、その「暗黒」を、「神の独り子・主イエス・キリストが引き受けられた」ということです。

「全地は暗くなった」と聖書は告げています。すべての人間が、例外なくすべての人間が、この怖ろしい神の裁きの下で絶望を味わわなければならない、と告げる聖書が、同時に、この「暗黒」を主イエス・キリストもお受けになったと記しているのです。私たちは、その「暗黒」を自分一人で負うのではなく、その「暗黒の絶望」の中でも、キリスト・イエスが共にいて下さるということです。さらに、その「暗黒の絶望」が、私たち自身では負えない怖ろしい「暗黒」であることを知っておられる神の御子が、私たちに代わって引き受けてくださったのです。御子イエス・キリストは、私たちと共に歩まれ、寄り添われるだけではなく、私たちに先立って、その「暗黒の重荷」を担われる方なのです。

まさに、主イエスが十字架に架かられたあの日は「暗黒の日」でした。すべての人間が絶望を見るべき日でした。しかし、その後の歴史が語っていることは、この世界はその「暗黒」に気付かなかった、ということです。

聖書が、「全地は暗くなった」と告げているのに、それに気付いた人はいなかったのです。神の御子が、私たちの絶望を代わりに引き受けて下さっている時にも、自分たちは明るさの中で生きていると思っていたのです。

旧約聖書1,150ページ、イザヤ書 53章6節から8節をお読みします。

わたしたちは羊の群れ
道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。
そのわたしたちの罪をすべて
主は彼に負わされた。
苦役を課せられて、かがみ込み
彼は口を開かなかった。
屠り場に引かれる小羊のように
毛を切る者の前に物を言わない羊のように
彼は口を開かなかった。
捕えられ、裁きを受けて、彼は命を取られた。
彼の時代の誰が思い巡らしたであろうか
わたしの民の背きのゆえに、彼は神の手にかかり
命ある者の地から断たれたことを。

これこそが、聖書が告げる「暗黒」です。そして、この「暗黒」に気付くとき、聖書が伝えようとしているメッセージが明らかになるのです。それは、この「暗黒」が、主イエスの死と共に終わったということであり、むしろ、主イエスの死が「暗黒」を追い払ったと言うべきです。37節には、「しかし、イエスは大声を出して息を引き取られた」とあります。

並行箇所にあたるヨハネ福音書では、この主イエスの最後の言葉を、「成し遂げられた」と記しています。神の怒り、神の裁きは、主イエスの死によって、まつとうされたということです。また、口語訳では、ここを「すべてが終った」と訳しています。この訳の方が聖書の告知を正しく伝えていると言えるでしょう。「すべてが終った」。これは驚くべき言葉です。「すべてが終った」即ち「神の裁きが終った」と御子イエスは最後に言われたのです。

私たちの罪は、「もう追及されることはなくなった」と主イエスは、この世の生命の最後の言葉でおっしゃったのです。小説のバラバが、主イエスの死を見て「これで自分は本当に自由になった」と感じたように、主イエスの死によって、私たちに対する神の怒りは終わり、私たちの罪は赦されたのです。

旧約聖書(1,237ページ)エレミヤ書31章31節から34節で、預言者エレミヤは次のように語っています。「見よ、わたしがイスラエルの家、ユダの家と新しい契約を結ぶ日が来る、と主は言われる。この契約は、かつてわたしが彼らの先祖の手を取ってエジプトの地から導き出したときに結んだものではない。わたしが彼らの主人であったにもかかわらず、彼らはこの契約を破った、と主は言われる。しかし、来るべき日に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこれである、と主は言われる。すなわち、わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。そのとき、人々は隣人どうし、兄弟どうし、「主を知れ」と言って教えることはない。彼らはすべて、小さい者も大きい者もわたしを知るからである、と主は言われる。わたしは彼らの悪を赦し、再び彼らの罪を心に留めることはない。」

「わたしは新しい契約を結ぶ」という主の御言葉をエレミヤは記しています。「わたしは彼らの罪を赦し、再び彼らの罪を心に留めることはない」。これが、エレミヤを通して語られた「新しい契約」であり、「新約」の新しい約束とはこのことなのです。何も知らず、何も気づかず、無知の中に日々を過ごして来た者の犯した罪のために、神の御子は、贖いの小羊となられたと聖書は語るのです。そして、主イエスの十字架の死で、象徴的なことが起こりました。38節に、「すると、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けた。」とあります。「神殿の垂れ幕」とは、至聖所と聖所との間にある幕のことです。普段は祭司と言えども、人はその幕の内側に入ることは許されず、年に一度、大祭司だけが「全イスラエルの罪の赦しを祈るために、入ることが出来る」と定められていました。「幕」は、神の神聖さの象徴であると共に、聖なる神の御前に出られない「罪の下にある人間」の惨めさの象徴でもあり、神と人を隔てる「隔ての象徴」でした。「その幕が無くなった」というのです。私たちが神の御前に出ることを妨げていたものが主イエスの死によって取り払われ、私たちと父なる神を隔てるものを、主イエス・キリストは、御自身の生命と引き換えに取り去って下さったのです。そして「その幕が無くなった」ということによって、はじめて神と人の交わりが回復したのです。エデンの園から追放以来の長い間の苦しみが今や終わり、神を「父」と呼び、「子よ」と呼ばれる神と人間の関係が、ここにようやく回復したのです。

そして、このキリストの十字架の御業は、私たちと神との関係を回復しただけではなく、同時に、人と人との交わりをも正しくされたのです。それを、新約聖書354ページ、エフェソの信徒への手紙 2章14節から20節でパウロは、「実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。キリストはおいでになり、遠く離れているあなたがたにも、また、近くにいる人々にも、平和の福音を告げ知らせられました。それで、このキリストによって私たち両方の者が一つの霊に結ばれて、御父に近づくことができるのです。従って、あなたがたはもはや、外国人でも寄留者でもなく、聖なる民に属する者、神の家族であり、使徒や預言者という土台の上に建てられています。」と告げているのです。

私たちの幸福のすべてが、十字架に基づいていることが明らかです。39節には、「百人隊長がイエスの方を向いて、そばに立っていた。そして、イエスがこのように息を引き取られたのを見て、『本当に、この人は神の子だった』と言った。」と記されています。

神に選ばれたユダヤ人が主イエスを憎んで十字架に追いやり、異邦人であるローマの百人隊長が主イエスを「神の子」と告白したとは、実に皮肉なことです。私たちは、ここに神が、すべての人を救いに招き、キリストを信じる信仰のみによって、新しい民を誕生させられたという、新しい時代の始まりを見ることができます。

この告白をする者のみが神の国の民であり、神の家族なのです。主イエス・キリストの十字架の下、たとえ「絶望の暗黒」を味わったとしても、私たちは、「すべてが終った」というキリストの宣言に守られ、無知と無力にも拘わらず、今、御国へ招かれていることを感謝しようではありませんか。

新しい神の家族。それが、主イエスが流された「十字架の血」によって誕生したのです。

お祈りを致しましょう。

<<< 祈  祷 >>>

 

2018年9月号

日本キリスト教団成宗教会

牧師・校長  並木せつ子

このお便りは、なりむね教会からのメッセージです。キリスト教会は神様の愛について学び、伝えます。子供さんも大人の方も、読んでいただければ幸いです。

「知恵と知識の宝はすべて、キリストの内に隠れています。」

新約聖書、コロサイ2章3節

焦 凝先生のお話

(これは今年6月17日の礼拝で話されたものです。)

聖書:マルコによる福音書2章13-17節

「罪人を招くイエスさま」

焦 凝

皆さんはお熱が出して、風が引いた時、お母さんやお父さんは皆さんを病院に連れて行き、お医者さんから薬をもらいます。もらった薬を飲んだら、お熱が下げ、病気が治ります。

以前の教会学校の授業では、私たち人間は罪びとであることを学ぶことができました。では、神様が私たちのような罪びとをどうやって救ったのかについて、今日皆さんと一緒に学びましょう。

今日の聖書箇所では、イエス様がレビや多くの罪人たちと一緒にお食事したことを書きました。レビはイエス様の弟子という表現がありしましたが、ここの聖書箇所以外では、レビという名前を出ていません。聖書研究家たちの間では、レビはマタイと同一人物だいう説もあります。マタイはイエス様のお弟子さんで、聖書に名前もついているから、何となく偉い人だということがわかります。だからイエス様が彼と同じ席でお食事することがわかります。でも、イエスさまがなぜ多くの罪人と食事するかはわかりません。イエス様は神様の一人子ですから、高貴なお身分です。

実はマタイも自分自身が生きる時代において、高貴な身分をもっていません。マタイの仕事は徴税人です。当時の徴税人は今の徴税人と違いまして、お給料がとても少ないのです。しかし、人々から本当にいくら税金をもらったかは、徴税人の上司である政府が管理できないので、徴税人は人々から集めた税金を隠して自分のものにしてしまう。そのようなことがよく行われていました。そしてこの事実は皆が知っているから、徴税人は皆から嫌われています。マタイの身分と立場は他の罪人に比べても低いです。

では、なぜイエス様はこのような身分の低い人たちと一緒に食事するのでしょうか。イエス様はこのことを自分のお考えで行動したわけではなく、神様のご意志に従って行動しています。イエス様のご誕生も生涯も死も全部そうです。なぜなら、神様は私たち人間の中に罪があって、苦しんでいるので、私たちを救いたいからです。神さまはそのために、イエス様をこの世に遣わしたのであります。

従って、私たちもそのような徴税人や罪びとと変わりありません。そこでイエス様は私たちと一緒に食事することだけではなく、この罪びとの、この私たちのために死ぬことになったのです。

すべては神様がイエス様を通して私たちの罪を贖い、救いたいみ旨があるからです。

9月の御言葉

「アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。」

創世記15章6節

9月の教会学校礼拝

(毎週日曜日、朝9時15分~9時45分)

  • 神様に感謝して祈り、歌います。イエスさまのお話、聖書について学びます。
  • お話の聖書箇所と担当の先生は次のとおりです。

9月2日(日)  創世記3:1-10            お話の担当…並木せつ子

9日(日) 創世記4:1-7               並木せつ子

16日(日) 創世記9:9:17             勝田令子

23日(日) 創世記11:1-9             興津晴枝

30日(日) 創世記15:1-7             山口智代子


8月19日教会学校と大人の合同礼拝、そして一日夏期学校

長い夏休み、皆さんいかがお過ごしでしたか。8月19日に夏の1日教会学校が行われました。教会学校では、初の試みとして、大人と子供の合同礼拝を守りました。大人の礼拝に出席したことがない皆さんも、大人の礼拝プログラムに従い、讃美歌を起立して歌い、静かに聖書の御言葉に耳を傾けていました。献金の歌とお祈りは教会学校の仕方で、守りました。何よりも、子供も大人も一緒に大勢の方々と共に礼拝を捧げることは、大きな恵みでした。

その後、和田堀公園のバーベキュー場に移動しました。生徒の皆さんも荷物を運んだり、椅子を組み立てたり、お手伝いをして、みんなで協力して、準備することが出来ました。「お肉、お肉」と小学生に急かされ、大人が次から次へお肉と野菜を焼き、美味しく頂き、あっという間に完食しました。その後みんなで後片付けをし、教会に戻り、スイカを食べ、ガレージで花火をしてから、勝田さん手作リのシフォンケーキを美味しく頂きました。

お天気にも恵まれ、暑すぎず、怪我や事故がなく、無事に終えることが出来ました。保護者の方々には、備品を貸して頂いたり、多大なご協力をありがとうございました。主にある交わりの時を持つことが出来て、感謝です。参加は生徒9名、大人(教師、保護者、ヘルパー)13名でした。

(報告は主に山口智代子先生)

成宗教会学校からお知らせ

  • 成宗教会学校は礼拝と聖書の学びが中心です・・・イエス様が全世界に知らせてくださった神様はどのようなお方でしょうか。このことを学ぶことは大きな利益となります。
  • 礼拝の後の活動もあります。全体で1時間程度。10時半にはキチンと終わります。
  • 教会学校は、幼児(初めは保護者とご一緒に)から高校生、大人の方でも参加できます。親子でもご参加ください。また、中学生以上の方には、10時半~11時半のからの礼拝もお勧めしています。

2018年8月号

日本キリスト教団成宗教会

牧師・校長  並木せつ子

このお便りは、なりむね教会からのメッセージです。キリスト教会は神様の愛について学び、伝えます。子供さんも大人の方も、読んでいただければ幸いです。

「知恵と知識の宝はすべて、キリストの内に隠れています。」

新約聖書、コロサイ2章3節

並木せつ子先生のお話

(これは今年6月10日の礼拝で話されたものです。)

聖書: マルコ1章21-28節

「イエスさまの三つのお働き」

並木せつ子

 イエスさまが地上に来てくださったのは、神様から与えられたお仕事があったからです。

今日のお話はイエスさまが汚れた霊に取りつかれた人から、その霊を追い出したというお話ですが、この中で、イエスさまは御自分に三つの働き(お仕事)が与えられていることを、人々にお示しになりました。

その一つは、イエスさまが安息日に会堂で教えられたことです。私たちが日曜日教会に集まって、神さまの教えを聞いているように、イエスさまは聖書の言葉から、神さまのお心を皆さんに知らせたのです。これが預言者の働きです。

するとみんなが静かに聞いていたとき、汚れた霊にとりつかれた男が騒ぎ始めたのでした。その男はそこにいた人々の目には変な人だとか、怖い人としか見えなかったでしょう。でも、イエスさまはその人の本当の気持ちと、その人の言っていること、していることが違うと分かってくださいました。彼が悪霊にとりつかれていたことも。彼の本当の気持ちは、悪霊に出て行ってほしいのだ、とイエスさまには分かったので、彼の本当の願いの通りにして上げました。「悪霊よ、この人から出て行け」と言って追い出しました。その人がしたくてもできなかったことを、その人に代わってして上げたのです。これは祭司の務めです。人のために代わってして上げる働きです。

でも、わたしたちにはできないことですね。なぜなら相手は汚れた霊で人間より強いのですから。出て行けと言ったって出て行くはずがありません。でもイエスさまにはお出来になります。イエスさまは神の権威をお持ちなので悪魔もイエスさまには勝てないのです。この働きは王の働きです。

イエスさまはこの三つの働きをもって地上に来てくださいました。そして神さまの本当のお心を人々に伝えました。神さまは罪の奴隷になっている(悪霊にとりつかれている人はその一番目立つ例です)人間の本当の苦しみを分かってくださり、身代わりになって罪を引き受けて十字架の死を耐え忍んでくださいました。神はイエスさまを死から復活させて神の権威をお与えくださいました。わたしたちもイエスさまを信じるならば、イエスさまの三つの働き

によって救われるのです。イエスさまは、十字架に死なれましたが、復活され、信じる人を罪から解放してくださいました。今も天に在ってこの働きをしてくださっているのです。

9月の御言葉

「アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。」

創世記15章6節

9月の教会学校礼拝

(毎週日曜日、朝9時15分~9時45分)

  • 神様に感謝して祈り、歌います。イエスさまのお話、聖書について学びます。
  • ◎ お話の聖書箇所と担当の先生は次のとおりです。

9月2日(日)  創世記3:1-10            お話の担当…並木せつ子

9日(日) 創世記4:1-7               並木せつ子

16日(日) 創世記9:9:17             勝田令子

23日(日) 創世記11:1-9             興津晴枝

30日(日) 創世記15:1-7              山口智代子


成宗教会学校からお知らせ

  • 成宗教会学校は礼拝と聖書の学びが中心です・・・イエス様が全世界に知らせてくださった神様はどのようなお方でしょうか。このことを学ぶことは大きな利益となります。
  • 礼拝の後の活動もあります。全体で1時間程度。10時半にはキチンと終わります。
  • 教会学校は、幼児(初めは保護者とご一緒に)から高校生、大人の方でも参加できます。親子でもご参加ください。また、中学生以上の方には、10時半~11時半のからの礼拝もお勧めしています。
  • 成宗教会学校の夏休み・・・8月一か月は9時15分から10時15分までの教会学校はありません。この機会に10時半からの礼拝に参加してみて下さい。どなたでもイエスさまは招いておられます。
  • 8月19日(日)夏休み一日教会学校・・・この日は10時半からの合同礼拝から始まります

Ⅰ 大人との合同礼拝・・・10時半~11時20分(いつもより短めです。どなたも遅刻しないように心掛けてください。) 教会ガレージで持ち物準備。出発は11時50分。

Ⅱ 善福寺川緑地公園でバーベキュー・・・12時半~15時

Ⅲ 教会に戻っておやつタイム、お祈り、解散・・・15時半~16時半

  • 詳しい案内を差し上げています。郵送もしています。申込み締切は7月29日(日)

死から命へ!

イースター聖餐礼拝

聖書:イザヤ42章10-16節,  マルコ16章1-8節

 主の年2018年のイースターを迎え、主はわたしたちを成宗教会に集めてくださいました。日頃、主を覚え、礼拝を思いながらも、集まることのできない多くの人々のために、主は今日、特別な時を与え、必要なものをお与えくださって、わたしたちが取るものも取りあえず、集まって主を礼拝する心を備えてくださいました。復活の主が二千年前に人々にお知らせくださったように、今は全世界でご自分の復活をお知らせくださり、その命にわたしたちをも招いておられるのです。

しかし、わたしたちは日常の生活で、主のご復活を思うよりも先に、日日の出来事に深くかかわり、時間に追われるより他ないのが実情です。あれやこれやの急な出来事があり、心配事や、周囲の人々の言動に影響され、悩まないではいられないのです。そんなわたしたちが主の御言葉を思い出すと、弟子たちがうろたえた気持ちがよく分かるのではないでしょうか。彼らは主に従って来たのですが、主の御言葉の意味が分かりませんでした。マルコ10章33-34節です。82頁。「今、わたしたちはエルサレムへ上って行く。人の子は祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して異邦人に引き渡す。異邦人は人の子を侮辱し、唾をかけ、鞭打ったうえで殺す。そして人の子は三日の後に復活する。」

そしてお言葉通りになりました。エルサレム入城された時、喜び出迎えた群衆は、十字架を見て、イエス様を軽蔑し、呪う群衆と変ってしまいました。そして弟子たちも、「たとえイエス様と一緒に死ななければならなくなっても、イエス様を知らないなどとは決して申しません」と誓ったペトロは、「あの人は知らない」と激しく三度も言ってしまいましたし、他の弟子たちは逃げ去ってしまいました。みんなうろたえ、変ってしまった。それも本当に主の御言葉通りになったのです。

それならば、主の最後の一言もやっぱり、お言葉通りになるはずではなかったでしょうか。主の御言葉は次の通りです。「そして人の子は三日の後に復活する。」けれども、それについて思い出し、思いめぐらす者はだれもいなかったのでした。ご復活の朝、婦人たちは、主が葬られたお墓にやって来ました。彼女たちがやって来た訳は、ご復活を信じていたからではありません。しかし、絶望の時にも、彼女たちはてきぱきと行動しました。なぜなら、その当時の社会の習慣があったからです。それは死んだ人の遺体に香料を塗ることでした。彼女たちもイエス様の十字架の死に衝撃を受け、これからどうやって生きて行くのか、と途方に暮れていたでしょう。

しかし、そんな時にも彼女たちはできる限りのことをしました。出来る限り日常の生活を続けるのです。お腹がすいた者に食卓を整え、子を産み育てる者を助け、病気の者を気遣い、そして死者を大切に葬って、真心を尽くすのです。「一番偉くなりたい者は仕える者となりなさい」言われた主の言葉を思います。彼女たちは偉くなりたいと思わなかったかもしれません。そして実際男の弟子たちからも偉いとも思われてはおらず、むしろ、話をしても、「なんだ、女の言うことじゃないか」ということでしょうか、信じてももらえなかったようです。しかし彼女たちは、実はこのように主の言葉に従っているのです。たとえどんなに希望の見えない時にも。これからどうすれば良いのか、と途方に暮れる時も。取りあえずしたことは、イエス様に対する礼儀、感謝を具体的に表すことだったのです。

しかも、お墓に出かけたのは、冷静で計画的とも言えない行動であったようです。なぜなら、彼女たちはお墓の入り口に大きな石があるので、中には入れないことを知っていたのですから。ところがこのような女性たちを主は祝福しておられます。彼女たちは他の弟子たちと同様、主のご復活のことが分からなかった。覚えてもいませんでした。それでも主に対する愛を表して、お墓にやって来た。泣きに来たのかもしれません。その女性たちを祝福して、主は空っぽの墓を見せてくださいました。なぜご遺体は消えてしまったのだろうか。もしや泥棒が盗んだのだろうか。仰天した彼女たちが、あれこれ思い悩む前に、主は白い衣の若者を遣わされました。白い長い衣が天使を思わせます。

彼は次の言葉を告げます。「驚くことはない。あなたがたは十字架に付けられたナザレのイエスを探しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。御覧なさい。お納めした場所である。」「驚くことはない。あなたがたは十字架に付けられたナザレのイエスを探しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。御覧なさい。お納めした場所である。」復活!彼女たちも知っていました。イスラエルの人々は皆、死者の復活を信じていたからです。わたしたちは皆終わりの日に復活させられ、神の裁きを受けなければならないことを。

イエス様は人間の罪を借金に例えられました。神様に借金しているその負債額は天文学的数字にも上ると言われたのです。人は神様に、きっと自分で払いますから待って下さいと願っていますが、到底自分で返すことはできないのです。そこで、神様は人をかわいそうに思い、負債を免除して上げました。天文学的数字の負債をゼロにしてくださる神。その方はどんなにありがたい方でしょうか。終わりの日にどんなに感謝してもしきれるものではないでしょう。ところが罪の赦しを約束された人は、何と、自分に対する人の罪が赦せません。大きな深刻な罪から小さな些細な罪に至るまで、どれもこれも赦せないのです。

神様がお怒りになるのはこのことです。神様は御子を世に遣わして、大きな罪も小さな罪も決して免れない世の人々を憐れんでくださいました。そして人の罪がどれだけ大きいかをまざまざと目の前に見せてくださいました。それが御子の十字架の死です。何の罪もない真心溢れる方を、残虐な死に追いやったのは、力ある者、世の指導者たちではありませんか。それを止めることもできない民衆は、ただ力ある者に追随するばかりなのです。この方の誠実を知り、その隠れた愛の力を知っている弟子たちさえ、逃げ出してしまった。一体だれが、神の恵みに与るにふさわしいでしょうか。全くだれ一人いないのです。

罪が赦されるにふさわしい人はいない。救われる値打ちのある人はいない。しかし、イエス・キリストはそのような罪人を愛して、救いに招くために世に来られ、十字架に死んでくださいました。そして三日目に復活してくださった。それが神の御心であったからです。終わりの日に死者が復活して裁かれる前に、イエス・キリストの十字架の死と復活を信じて、罪の赦しと永遠の命に結ばれるために、神は救いの道を開いてくださったのです。

では、この救いに与るために、わたしたちに必要なことは何でしょうか。この世の借金を返済するために一生懸命働くように、神様からお借りしている積りに積もった負債を返済しようと、良い業に励むことでしょうか。実際、そうしようとする人々は少なくないのです。そして大威張りで、「神様、わたしはあなたにお借りしているものは何一つありません」と言いたい人は多いのです。神様はこのような傲慢な人々にも忍耐しておられます。また、全くだらしがなく、人々にも神様にも重荷を負わせ、平気な顔をしている人々にもじっと我慢をしておられます。しかし、そこに、その人々に救いはあるでしょうか。

空っぽの墓を指し示して、天使は婦人たちに命じます。「さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かけて言われたとおり、そこでお目にかかれる』と。」これが婦人たちに与えられた使命でした。福音を宣べ伝える者たち、弟子たちとペトロ。ここで特にペトロの名が挙げられているのは、ペトロが誰よりも強くキリストを否定して裏切ったからです。主は、ペトロに復活を知らせて、罪に苦しんでいるペトロを特別に慰めようとしておられるのです。こうして彼らに福音を運んだのが、女性たちでありました。それは、彼女たちに対する主の特別な祝福であり、励ましです。もっとも、彼女たちはただただ恐ろしくて、すぐにはその役割を果たすことができなかったようですが。このように、復活の知らせは、聞いても俄かには信じられなかったのです。主のご復活の喜ばしい知らせが、初めは恐ろしいこととしか思えなかったのです。

わたしたちは思います。人間は一方ではどんなに高慢であり、他方ではどんなに弱い者であるかを。そしてどんなに自分にこだわっているかを。自分はどのように生きて、どのようにして死を迎えるか、にばかりこだわり、自分を中心にすべてを考えるのです。しかし、本当にこだわらなくてはならないことは、キリストの死と復活であります。一体、キリストは、あなたと関わりなく十字架に死なれ、あなたと関わりなく復活されたのでしょうか。この答を考えてください。神はキリストによってわたしたちにその答を与えておられます。「そうではない」と。キリストはあなたのためにも十字架に死なれ、あなたのためにも復活されたと。

これを信じるならば、あなたの人生は変えられます。自分にこだわる者から、イエス・キリストによって、神様との関係にこだわるものに変えられる。キリストに結ばれたあなたは生きる時も、死ぬときも、神に属する者と変えられます。その時、あなたの命は神のもの。神の中に隠されていると知るでしょう。その時、あなたはキリストと共に死んで、キリストと共に神の永遠の命に移って行くでしょう。祈ります。

 

主イエス・キリストの父なる神様

主のご復活を祝い、感謝を捧げる礼拝に、わたしたちをお招き下さり、真に感謝申し上げます。わたしたちは小さな群れですが、あなたを仰ぎ見、天にも地にも一つである

キリストの体なる教会を見上げ、主の御心に適った教会を建てようとわたしたちはみ言葉を聞き、聖餐に与って、主の聖霊がわたしたちの心を照らしてくださることを切に願っております。

本日あなたは、わたしたちの群れに1人の信仰者を興してくださいました。真に感謝申し上げます。どうか、今日洗礼の恵みに与った齋藤倫子姉妹を豊かに祝し、ご主人齋藤眞兄と共に助け合って、主に仕えることができますように。遠くから通って来られますので、あなたがその道々を顧みてくださいますよう、お願いいたします。また、教会のすべてのものがこの洗礼式を通して改めて自分に与えられた計り知れない救いの恵みを再認識し、主と結ばれた者としての自覚、信仰を増し加えていただけますよう、お願い申し上げます。

変わりゆく時代の中で、変ることのない主の御言葉による主の御支配が、この教会の上に、そして共に学び、歩んでいる東日本連合長老会の諸教会の上に、また志を同じくする全国連合長老会、また改革長老教会の諸教会の上に豊かにございますように祈ります。

人口減少が進むこの国で、次世代にもとこしえに残る神の言葉を伝えるために、どうかわたしたちをお用いくださり、知恵と力と、何よりもイエス・キリストに現れた計り知れないあなたの愛をお与えください。新年度が始まりました。どうか、今月行われる成宗教会総会にあなたのご計画を表すことができますように。議案の準備、また長老選挙を導いてください。私たちはそれぞれが多くの課題、多くの困難を抱えています。その中で日々の信仰の戦いを立派に戦うために、自分中心を捨て去り、主に従って、主の御支配を仰ぐものとならせてください。そして、わたしたちの死を打ち破り、あなたの永遠の命をいただくために、それぞれの戦いを主の戦いとしてください。教会の戦いをキリストの命が現れるための戦いとしてください。

ご病気のために、また様々な弱さのために苦しんでいる方々を覚えます。今日いただく聖餐、あなたの計り知れない恵みを感謝し、共にこの救いの恵みに与る人々を覚え、祈ります。この感謝と願いをわたしたちの救い主、イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。