起き上がりなさい

《賛美歌》

讃美歌66番
讃美歌365番
讃美歌225番

《聖書箇所》

旧約聖書  ネヘミヤ記 13章17-18節 (旧約聖書761ページ)

13:17 わたしはユダの貴族を責め、こう言った。「なんという悪事を働いているのか。安息日を汚しているではないか。
13:18 あなたたちの先祖がそのようにしたからこそ、神はわたしたちとこの都の上に、あれほどの不幸をもたらされたのではなかったか。あなたたちは安息日を汚すことによって、またしてもイスラエルに対する神の怒りを招こうとしている。」

新約聖書  ヨハネによる福音書 5章1-18節 (新約聖書171ページ)

5:1 その後、ユダヤ人の祭りがあったので、イエスはエルサレムに上られた。
5:2 エルサレムには羊の門の傍らに、ヘブライ語で「ベトザタ」と呼ばれる池があり、そこには五つの回廊があった。
5:3 この回廊には、病気の人、目の見えない人、足の不自由な人、体の麻痺した人などが、大勢横たわっていた。
5:3 (†底本に節が欠落 異本訳<5:3b-4>)彼らは、水が動くのを待っていた。それは、主の使いがときどき池に降りて来て、水が動くことがあり、水が動いたとき、真っ先に水に入る者は、どんな病気にかかっていても、いやされたからである。
5:5 さて、そこに三十八年も病気で苦しんでいる人がいた。
5:6 イエスは、その人が横たわっているのを見、また、もう長い間病気であるのを知って、「良くなりたいか」と言われた。
5:7 病人は答えた。「主よ、水が動くとき、わたしを池の中に入れてくれる人がいないのです。わたしが行くうちに、ほかの人が先に降りて行くのです。」
5:8 イエスは言われた。「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい。」
5:9 すると、その人はすぐに良くなって、床を担いで歩きだした。その日は安息日であった。
5:10 そこで、ユダヤ人たちは病気をいやしていただいた人に言った。「今日は安息日だ。だから床を担ぐことは、律法で許されていない。」
5:11 しかし、その人は、「わたしをいやしてくださった方が、『床を担いで歩きなさい』と言われたのです」と答えた。
5:12 彼らは、「お前に『床を担いで歩きなさい』と言ったのはだれだ」と尋ねた。
5:13 しかし、病気をいやしていただいた人は、それがだれであるか知らなかった。イエスは、群衆がそこにいる間に、立ち去られたからである。
5:14 その後、イエスは、神殿の境内でこの人に出会って言われた。「あなたは良くなったのだ。もう、罪を犯してはいけない。さもないと、もっと悪いことが起こるかもしれない。」
5:15 この人は立ち去って、自分をいやしたのはイエスだと、ユダヤ人たちに知らせた。
5:16 そのために、ユダヤ人たちはイエスを迫害し始めた。イエスが、安息日にこのようなことをしておられたからである。
5:17 イエスはお答えになった。「わたしの父は今もなお働いておられる。だから、わたしも働くのだ。」
5:18 このために、ユダヤ人たちは、ますますイエスを殺そうとねらうようになった。イエスが安息日を破るだけでなく、神を御自分の父と呼んで、御自身を神と等しい者とされたからである。

《説教》『起き上がりなさい』

今日、この礼拝のために与えられた御言葉は、2000年前のエルサレムの町のベトザタ池の畔での主イエスの癒しです。

2000年前の主イエスが歩かれたユダヤの都エルサレムの町は、周囲をぐるりと城壁で囲まれていました。

そのエルサレムの北東の城壁に「羊の門」と名付けられた門があり、その近くにベトザタと言う名の池があったと伝えて語られていました。ヨハネ福音書だけにその名が残されている、このベトザタの池が本当にあったのか、長い間、その存在が疑われていましたが、近代になってエルサレムの町の発掘調査が行われ、ついにこの池の跡が発見されたのです。

2000年前の主イエスの時代、このベトサダの池は隣り合う二つの池、北の池と南の池からなっていた様です。その二つの池をぐるりと囲む様に、屋根のついた四棟の回廊が建っており、その回廊には、沢山の病人たちが横たわっていたとヨハネ福音書は語っています。病気の人、目の見えない人、足の不自由な人、体の麻痺した人などが横たわる、病人だけが集まる所で、当時のユダヤ人にとっては近づき難い穢れた場所でした。この時は、ユダヤ人の祭りがあったので主イエスがエルサレムに上られたと1節に記されています。そして、主イエスはこのユダヤ人の近付かない穢れた場所をお訪ねになりました。

病人達がこの池に集まっていた理由を記す文章が、ここにはありませんが、よく見ると3節の終わりのところに十字架の様なマーク(♰)が印刷されています。そのマーク(♰)の後には4節がなく、すぐに5節となっています。これは、従来本文とされてきたこの箇所の文章が、元々はなかったものであり、後から誰かが加えた文章であるとされて削除されたことを表す印なのです。

そして、後に加筆されたと判断された3節後半から4節は、このヨハネによる福音書の一番最後212ページに付け足されています。そこにはこう書いてあります。

「彼らは、水が動くのを待っていた。それは、主の使いがときどき池に降りて来て、水が動くことがあり、水が動いたとき、真っ先に水に入る者は、どんな病気にかかっていても、いやされたからである」(3b-4)

何かの拍子に水面が動いたとき、人々はそれを天使が池に降りて来た証拠だと考えました。そのときに真っ先に池の水に入ったものはどんな病気でも癒されると信じられていたのです。この殆ど迷信の様な言い伝えだけが、当時の、この世から見捨てられた人々の望みをかすかに繋ぐものだったのです。

つまり、ベトザタの池に集まっていた多くの病人は水が動くときを待って、真っ先に池に入って、自分の病気を治してもらおうと集まっていたのです。

ここに集まる人々は「めったに起こらないその瞬間を逃してはならない、その瞬間が来たら、真っ先に飛び込もう」と考えて集まっていた人々でした。

「水が動いたとき、真っ先に水に入る者」だけ、つまり一番最初の一人しか癒されないのです。水が動いたらそこには何が起きるでしょうか。激しい競争が起きます。夜もおちおち眠れない、神経をピリピリとがらせた、不安な毎日が続きます。先に池に降りて行く者を憎み、呪い、妬む生活が続きます。池の水面が少し動くだけで、池の周りは修羅場と化したのです。

この様に、人と人の激しい競争から、憎しみや妬みに捉えられ、自分だけが先にならなければ幸福を得られないとベトザタ池の周りの人々は思っていました。この姿は私達の現実の姿とも似ています。

我先に池に入ろうと待ち構えている病人の中に38年間もの長い間、病気に苦しめられ、殆ど寝たきり状態だった一人の男が居ました。この男は、病気のために素早く動くことも出来ず、池の畔で横たわっているだけで、当然人より先に池に降りることも出来ずに38年間居たのでした。

つまり、この男は、仮に20歳位で病気を患っていたとしたら、この時は既に58歳にもなって、当時の人間の寿命から考えると、老人と言ってよい年齢です。

彼は、治る見込みもなく、家族からも見捨てられ、財産なども持っていなかったでしょう。ここには、同じ様な境遇の人々が沢山いた筈です。そして、この男を含め池の周囲の人々は皆孤独でした。なぜかと言えば、あの、いつ起こるとも知れない水の動きを巡って、お互いにライバル関係にあったからです。

ライバル関係ですから、勿論お互い慰め合いや励ましあい、会話や笑い、楽しみ喜びなど一切ない、それこそ魂の荒れ野とも言うべきところであったのです。

この病人ばかりの回廊に人々は決して近づこうともしません。周辺はユダヤの祭りで多くの人々が祝い騒いでいました。このような病人たちで穢れていると人々が思う場所、魂の荒れ野に主イエスだけがわざわざ訪ねられたのでした。

主イエスはその病人を憐れに思い「良くなりたいか」と声をかけられたのでした。私達は、この人が「はい、そうです。良くなりたいのです」と当然答えるだろうと考えます。ところが、この男の答えは「主よ。水が動くとき、わたしを池の中に入れてくれる人がいないのです。わたしが行くうちに、ほかの人が先に降りて行くのです。」でした。彼は、一緒に池の畔に横たわっているライバルを責めることしかしていません。他人への非難と自分の現実への不満の中でしか生きることが出来なくなって、心が歪み、魂がすさんでしまっていたのです。自己本位のこの男に、主イエスは、「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい」と言われました。これは主イエスにしか言えない言葉です。それは、主イエスこそがこの人の病と、その苦しみを代わって背負って下さる方だからです。主イエスはこの人を憐れに思われました。憐れまれて、肉体の病、憎しみと呪いにまみれた人生全体、それらすべてをご自分のものとして引き受け、担って下さったのです。「私が十字架の上であなたの惨めさ、あなたの病、あなたの苦しい思いをすべて代わりに担うから、あなたは起き上がりなさい」と仰って下さったのです。

この「起き上がりなさい(evgei,rw)」という言葉は主イエスが2章19節で「三日で神殿を立て直してみせる」とおっしゃった時の「建て直す」と同じ言葉です。その主イエスの「建て直す」は、2章22節の「復活される」という言葉とも同じです。主イエスが後に十字架の死から復活される、そのことを語るのと同じ言葉で、「起き上がりなさい」と言われているのです。そこに込められているのは、「私があなたのすべての悩みと苦しみ、いや死の力に打ち勝って復活するから、あなたは私の復活の光の中で立ち上がりなさい。その光の中に留まり続けなさい」、という主イエスの思いです。「起き上がりなさい」というみ言葉は、主イエスの十字架と復活による救いの恵みに彼をあずからせるためのみ言葉だったのです。

私たちもまた、この復活の光の中に置かれるとき、たとえこの男の様に完全な肉体の癒しが与えられなくとも、神様に向かって立ち続けることができるのです。主イエスの「起き上がりなさい」という御言葉のもとで、神を信じる信仰によって、希望を持って生きて行くことができるのです。

床を担いで歩き出したこの男に備えられた道は、主イエスの御言葉に立ち続け、歩み続ける道、主の救いに感謝し、その恵みを証しする道でした。自分を立ち上がらせた力が、何というお方のどの様な力であるかを正しくわきまえ、その恵みの中に留まって歩み続けることであった筈です。しかし、この男は、その道に踏みとどまることが出来なかったのでした。ヨハネ福音書が語るこのベトザタ池の癒しの奇蹟の出来事は更に複雑になって行きます。

この男は主イエスの癒しに与りながら、神の恵みの中に留まり続けることが出来ませんでした。

キッカケとなったのは、安息日に床を担いで歩いているところをユダヤ人たちに見咎められたことでした。それは律法と呼ばれるユダヤ人が守る神の掟を破っていることを意味していました。ユダヤ人たちは、38年間の長い苦しみから解放されたこの男の恵みを共に喜んだのではありませんでした。それどころか、「今日は安息日だから床を担ぐことは律法では許されない」と、「ユダヤの神の前に相応しくない」と、この人を責め立てたのです。

当時のユダヤ教では、神がモーセを通してイスラエルの民に与えた十の戒め、十戒をもとに600以上もの細かな規定が定められ、その中には安息日には何をしていいか、何をしてはいけないかが、細かく定められていました。安息日には何歩以上歩いてはいけない、一度使った炭ならば再び火を起こしても良いが、新しい炭で火は起こしてはならない、など、守らねばならない細かい規定が沢山ありました。病気を癒されたこの男が床を担いで喜んで歩き回っていたのは、この細かな規定に違反していたのです。それを責められたこの男は、「わたしをいやしてくださった方が、『床を担いで歩きなさい』と言われたのです」と答えました。この男は、ユダヤ人たちに責められて、自分では主イエスの恵みの大きさが分かっていながら、周囲の人々の批判に会い主イエスの救いを見失ってしまったのです。

責めるユダヤ人たちは「お前に『床を担いで歩きなさい』と言ったのはだれだ」と尋ねました。しかし、その答えは驚くべきもので、そこには、「病気をいやしていただいた人は、それがだれであるか知らなかった」とあります。考えられないことです。人生で最高の恵みを受けた筈なのに、その癒しを行って下さった方に名前さえ聞こうとしなかったのです。自分が癒されればそれで良い、誰が救って下さり、その方と自分は今どういう関係に招かれているのか、そういった事はこの人にとっては問題ではなかったのです。

ユダヤ人たちは、この男から聞き出した話によって、主イエスを迫害し始めます。そして何と、彼らは益々はっきりと主イエスを殺そうと狙うようになった、というのです。

その理由は、主イエスが安息日の律法を破り、この男に床を担がせただけではなく、全能の神を「私の父」と呼び、「御自身を神と等しい者とされたからである」といった理由からでした。

この男は、主イエスから受けた忘れてはならない筈の癒しを、「安息日には床を担ぐことは律法で許されていない」と咎めるユダヤ人たちの言葉に、その恵みを忘れてしまいます。

主イエスのお陰で今の私たちがあるのに、池で救われたこの男の様に、主イエスの光の中に立つことを忘れてしまう事や、今自分に与えられている恵みを恵みと思わずに当然の事として過ごしている事が、私たちの歩みにおいても多いのではないでしょうか。

ユダヤ人たちは神の御子を迫害するという罪を犯しながら、自分達は神に奉仕している敬虔な信仰者だと信じていました。また、病を癒されたこの男も、自分が癒され、楽になる事だけに留まり、自分を癒して下さった方との出会いと、この方との新しい関係に入って歩む事が出来ずに罪の中に留まってしまいました。

あろうことか、さらに、この男はユダヤ人たちの主イエスに対する殺意をあおり、結果として主イエスを十字架刑に送ることに加担してしまいました。

ベトザタの池の畔で、主イエスはこの男に出会って下さり、愛を持って救い上げて下さいました。

その後、神殿の境内で主イエスはこの男に再び出会って、「あなたは良くなったのだ。もう、罪を犯してはいけない。さもないと、もっと悪いことが起こるかもしれない」と言われました。それはその男の病気が罪の結果であると言っているのではありません。ここで問題となっている罪とは、主イエスに癒されたにも拘わらず、主イエスを自らの救い主として受け入れられなかったことです。

その男に再び出会ってくださった主イエスの御言葉は、「あなたは良くなったのだ。癒されたのだ。罪を赦されているのだ。礼拝に生きる者、ただ神の恵みのみによって赦され生かされている者なのだ。救われる前の苦しみを忘れることなく私の光の中にいなさい」と繰り返し語りかけてくださり、新しく目覚めさせようとして下さっているのです。

時間的には後になった、主イエスの十字架の贖いの死は、ベトザタの池で病を癒された、この男のためでもあったのです。この男を病から癒されただけではなく、罪からの救いを与えるために繰り返し会ってくださり、招いてくださっているのです。この男が主イエスを信じて救われたとは、ここの聖書箇所には書かれていませんが、この男も、この後でキリストの十字架の御業で救われたと信じたいものです。

主イエスは今日のこの礼拝においても私達に出会い「良くなりたいか」と声をかけてくださり、従う私たちに、「あなたは良くなったのだ。私の光の中を歩きなさい」と導いて下さっているのです。

主イエスは、私達に「起き上がりなさい」と声をかけられた時の事を、私達に思い起こさせ、主イエスの復活の光の中に留まる様にと、今日も出会って御言葉を与えて下さり、信仰に生きる希望を与えて下さいます。

お祈りを致しましょう。

<<< 祈  祷 >>>

主イエスの祈り

《賛美歌》

讃美歌7番
讃美歌166番
讃美歌338番

《聖書箇所》

旧約聖書  詩篇 40篇9-10節 (旧約聖書873ページ)

40:9 わたしの神よ、御旨を行うことをわたしは望み/あなたの教えを胸に刻み
40:10 大いなる集会で正しく良い知らせを伝え/決して唇を閉じません。主よ、あなたはそれをご存じです。

新約聖書  ヨハネによる福音書 17章1-13節 (新約聖書202ページ)

17:1 イエスはこれらのことを話してから、天を仰いで言われた。「父よ、時が来ました。あなたの子があなたの栄光を現すようになるために、子に栄光を与えてください。
17:2 あなたは子にすべての人を支配する権能をお与えになりました。そのために、子はあなたからゆだねられた人すべてに、永遠の命を与えることができるのです。
17:3 永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。
17:4 わたしは、行うようにとあなたが与えてくださった業を成し遂げて、地上であなたの栄光を現しました。
17:5 父よ、今、御前でわたしに栄光を与えてください。世界が造られる前に、わたしがみもとで持っていたあの栄光を。
17:6 世から選び出してわたしに与えてくださった人々に、わたしは御名を現しました。彼らはあなたのものでしたが、あなたはわたしに与えてくださいました。彼らは、御言葉を守りました。
17:7 わたしに与えてくださったものはみな、あなたからのものであることを、今、彼らは知っています。
17:8 なぜなら、わたしはあなたから受けた言葉を彼らに伝え、彼らはそれを受け入れて、わたしがみもとから出て来たことを本当に知り、あなたがわたしをお遣わしになったことを信じたからです。
17:9 彼らのためにお願いします。世のためではなく、わたしに与えてくださった人々のためにお願いします。彼らはあなたのものだからです。
17:10 わたしのものはすべてあなたのもの、あなたのものはわたしのものです。わたしは彼らによって栄光を受けました。
17:11 わたしは、もはや世にはいません。彼らは世に残りますが、わたしはみもとに参ります。聖なる父よ、わたしに与えてくださった御名によって彼らを守ってください。わたしたちのように、彼らも一つとなるためです。
17:12 わたしは彼らと一緒にいる間、あなたが与えてくださった御名によって彼らを守りました。わたしが保護したので、滅びの子のほかは、だれも滅びませんでした。聖書が実現するためです。
17:13 しかし、今、わたしはみもとに参ります。世にいる間に、これらのことを語るのは、わたしの喜びが彼らの内に満ちあふれるようになるためです。

《説教》『主イエスの祈り』

今日、与えられた御言葉はヨハネによる福音書17章です。主イエスが弟子たちに教え共に過ごしたガリラヤを出られ、過越祭のエルサレムに入られ、いよいよ十字架の受難を迎えられるのです。ヨハネ福音書には最後の晩餐の明確な場面はありませんが、弟子たちの足を洗われ、沢山の教えとご自身の受難予告をされました。そして、十字架に架けられるために逮捕され、連行される直前にされたのが今日の「主イエスの祈り」です。

聖書の中で主イエスの祈りが記録されている箇所は沢山ありますが、最も有名なのが「主の祈り」でしょう。

このヨハネ福音書17章に記された主イエスの祈りは、聖書に記されている中でも最も長い祈りです。この祈りはその内容から「大祭司の祈り」とも呼ばれています。神の御子である主イエスが父なる神に私たちのためにとりなしてくださっている祈りだからです。主イエスが何を考えられ、何を祈られたのかは興味深いことです。今日のこの主イエスの祈りは、1節から5節の「主イエスご自身のための祈り」と6節以降の「弟子たちのための祈り」の二つに分けられます。先ず1節には、「イエスはこれらのことを話してから、天を仰いで言われた。『父よ、時が来ました。あなたの子があなたの栄光を現すようになるために、子に栄光を与えてください。』とあります。

主イエスは祈られるとき、目を天に向けられました。私たちは祈りの時に、目を閉じ、手を合わせ、頭を垂れてお祈りします。それが祈りの姿勢として教えられているからです。しかし主イエスの祈りの姿勢は、目を開いて、目を天に向けて、声を出して祈られています。手を合わせたとも記されていません。ですからまったく私たちの祈りの姿勢と違います。聖書には祈りの姿勢についてほとんど記されていません。旧約聖書では人々がひれ伏して祈った姿や、主イエスや弟子たちがひざまずいて祈られたことが書かれています。祈りは心でするのですから、決まった姿勢はありません。心から神様に祈るなら、どんな格好であれ、どんな場所であれ、天の神様は聞いてくださる筈です。

主イエスの祈りの第一声は「父よ。」でした。それは子供が父親に話すときの飾らない呼びかけです。そして「時がきました。」と宣言されました。この言葉には主イエスの深い思いが込められています。「時」と訳されている言葉は「ホラ:w[ra」というギリシャ語で時刻、時間を表します。『とうとう時間がきました』、『ついにその時刻になりました』という思いが込められています。今まで宣教の働きを続けられてきた中で、主イエスは「時」ということを常に考えて行動されていました。「わたしの時はまだ来ていません」、「わたしの時はまだ満ちていません」と語られたお方が、「ついにその時になりました」とおっしゃっているのです。それは神様が創造されたこの世界の歴史の中で、「最も大いなる時」です。罪に汚れた世界から私たちを救い出すために、御子が十字架に架かり、贖いをなされる「時」がそこまで来ているのです。

世界の歴史がアダムからはじまり、アダムが罪に陥って以来、この世界は神様が望まれた世界とは違った方向に進んできました。この世界は罪が支配する世界となってしまったのです。その罪に満ちた世界の中に住み、罪に陥っている私たちを神様は憐れまれました。そして罪の世界から私たちを救い出そうとされて贖いの御計画を立てられたのです。ついに、その時が来たのです。人間が受けるべき罪の刑罰を罪の無いキリストが背負って死なれることにより、罪の赦しが与えられる時です。それは主イエスが父なる神のみもとへ帰還する時であり、人の子として栄光をお受けになる時です。ヨハネ福音書では繰り返し主イエスの時がまだ到来していないことが告げられてきました。今まさに主イエスの受難と栄光の時が到来したのです。主イエスは栄光を現して下さるよう父なる神に祈り求めます。主イエスの栄光と十字架は不可分なのです。主イエスの十字架の死を通して永遠の命が私たちにもたらされるのです。この永遠の命を与えられることにおいては父と子の栄光は完全に一致しているのです。父なる神は、御子が永遠の命を与えるための人々を御子に与え、そのすべてのものを支配する権威を与えられたのが、次の2節と3節で、「あなたは子にすべての人を支配する権能をお与えになりました。そのために、子はあなたからゆだねられた人すべてに、永遠の命を与えることができるのです。永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。」とあります。

主イエスはご自身のためには、ただ一つのことだけを父なる神に願っておられます。それは「栄光を与えてください」です。それは、もともと主エスが持っておられた栄光です。三位一体の神として栄光の中に住んでおられたお方が、天での栄光を捨てて父なる神の御心に従って人間イエスとしてこの世に下ってこられました。その目的は父なる神の栄光を現すためであり、私たちを罪のさばきから救い、永遠のいのちを与えるためでした。

イエス・キリストが天の栄光を捨てられるほど人間を愛しておられる、それは私たちの目には不思議なことです。これを理解するためには、皆さんが神様の立場になったときのことを考えてみてはどうでしょうか。

もし皆さんが神様で、全能者だったらどうするでしょうか。最高のおしゃれをし、最高の車に乗り、最高の家に住みます。何でも思いのままです。しかしだんだんとその虚しさに気付くのではないでしょうか。すべてのものを手に入れても、愛が無ければ虚しいものです。全能者であるなら、金も衣食住も、すべてのものを手に入れることができます。そこには感動や喜びは有るのでしょうか。全能者にとって何が喜びとなりえるのでしょうか。その答えは聖書にあります。新約聖書317ページ コリントの信徒への手紙第一13章13節には、「それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。」と記されています。

これは素晴らしい真理のことばです、最も大いなるものは愛だと教えているのです。

全能者には希望も信仰も必要ありません。すべて現実となるからです。残るのは愛だけです。そして事実、神様は聖書を通して、私たち人間を愛していると伝えておられます。新約聖書167ページヨハネによる福音書3章16節に、「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである」とはっきりと示されています。

全能者なる神様は私たちを愛しておられ、そして私たちが神様を愛することを願っておられるのです。

もし私が全能者であるなら、人間が崖から落ちそうになったときに手を差し伸べて助けあげるでしょう。人間が悩み苦しんでいるなら解決しようとするでしょう。しかし、決して自分が身代わりになって死の苦しみを味わおうとは思わないでしょう。自分が造ったもののために苦しむことなどありえないからです。しかし、主イエスはそれをしてくださったのです。ご自分の栄光を捨てて、人となられ、苦しまれ、実に十字架の死の苦しみまでも味わわれました。主イエスは私たちのため大いなる代償を支払ってくださったのです。主イエスの愛は私たちの想像をはるかに超えているのです。そして4節と5節には、「わたしは、行うようにとあなたが与えてくださった業を成し遂げて、地上であなたの栄光を現しました。父よ、今、御前でわたしに栄光を与えてください。世界が造られる前に、わたしがみもとで持っていたあの栄光を。」と祈られました。

地上での主イエスは数々の奇蹟をはじめ、なすべきわざをすべて行われました。語るべきことばをすべて弟子たちに語り終えられました。そして父なる神の御心を示し、ご自身の愛を示されました。この直後、捕えられ、十字架で殺されること、そして三日目によみがえられることもご存知で、その覚悟もできていました。主イエス御自身の御言葉から、十字架の受難はすでに終わったことのように話されています。主イエスの祈りは地上での役目を終えられて父なる神の身元に帰って、栄光の中に留まることでした。それが主イエスが、ご自身のために祈られた唯一のことでした。そして、この後からは、弟子たちのために、私たちのために祈られます。

6節にあるように主イエスは弟子たちを、父なる神によって主イエスに与えられた者と呼ばれます。また、このヨハネ福音書は信仰者をも父なる神によって主イエスに与えられた者たちと呼びます(6:37,39,10:29,17:2,6‐9,24,18:9)。この与えられた者たちに主イエスは父なる神を知らせ、御言葉を与えられました。彼らは主イエスの御言葉を受け入れ、主イエスが神のみもとから遣わされた方であることを信じました(17:8)。6節から10節で主イエスが祈られた「彼ら」とは、弟子たちだけではなく、9節の「わたしに与えてくださった人々」とあるように、キリストを信じる信仰者すべてであり、10節にあるようにその信仰者が主イエスを通して神に栄光を帰するのです。

成すべき御業を成し遂げ、語るべき御言葉をすべて語り終えたと主イエスは言われました。父なる神から受けた使命をすべて終えたという達成感のある言葉です。そして主イエスの働きを通して、弟子たちが主の御言葉を信じ、イエス・キリストが天から来られたことを理解し、そして永遠のいのちを持ち、神様の者となったことを感謝し祈られたのでした。

主イエスはご自分が十字架の贖いを成し終えて天に帰られることを知っておられました。従って、自分のすぐ後に続く福音宣教の働きを弟子たちに託され、そのために主イエスは弟子たちのために11節から13節で祈られました。これから使徒として彼らがどんな困難にも負けず、働いていくためでした。そして弟子たちの福音宣教を通して救われるクリスチャンたちのために同じ内容のことを祈られました。ですから、この主イエスの祈りは私たちのために祈られた祈りでもあるのです。

この主イエスの祈りと願いから、私たちが何を求めて祈ったらいいのか、そしてどのように信仰者として生きていったらよいのかを知ることができます。今、父なる神のみもとへ行かれようとしている主イエスが願われるのは、弟子たちをこの世から連れ出すことではありません。このすぐ後の15節にあるように、彼らがこの世にあって悪い者から守られることなのです。それは主イエスが弟子たちをやむを得ず世に残しておくのではなく、積極的に弟子たちを世に対して派遣しているからなのです。父なる神が御子イエスをこの世に派遣して御業を成し遂げさせたように、弟子たちをこの世に派遣するのが目的なのです。

世に遣わされる弟子たちのために、17節にあるように主イエスはまた彼らの聖別を祈られます。神が聖であるように彼らも聖であることが求められているのです。

クリスチャンたちが神の家族として仲睦まじく集う教会、互いに愛し合い、励まし合い、主にある豊かな恵みを分かち合う教会、そしてその中心にはイエス・キリストがおられ、心からの礼拝を共にささげる教会は、天国に最も近い場所だと言えるでしょう。

しかしながら、実際の教会には多くの問題があることも現実です。教会に集われる人々には、大人もいれば子供もおり、老人もいます。男性も女性もいて、育った環境や性格も趣味も違います。当然、習慣の違いや考え方の違いがあります。

信仰面では、聖書解釈が違ったり、伝道方針が違ったりもするでしょう。仲たがいがあり、躓いたりして、和やかに交わることができないときもあります。

自分の思い描く理想の教会との違いにつまずいてしまう人もいます。教会につまずくくらいなら教会に来ることをやめたいと思う人もいます。そのようなときには、主イエスが「御名によって彼らを守ってください」と祈られたことを思い出しましょう。

私たちは同じ信仰を持って生きています。同じ御霊をいただいています。同じ主イエスを信じています。主イエスを愛するように互いに愛し合おうとするなら多くの問題は必ず解決できる筈です。愛はすべての結びの帯であり、私たちが一つとなるために新しい戒めとして主イエスが与えられたのです。

その愛による執り成しの祈りを、主イエスは今も私たちのために祈ってくださっているのです。

お祈りを致しましょう。

<<< 祈  祷 >>>

生きた水を与える主

《賛美歌》

讃美歌298番
讃美歌404番
讃美歌461番

《聖書箇所》

旧約聖書  詩篇 1篇1-6節 (旧約聖書835ページ)

1:1 いかに幸いなことか
神に逆らう者の計らいに従って歩まず
罪ある者の道にとどまらず
傲慢な者と共に座らず
1:2 主の教えを愛し
その教えを昼も夜も口ずさむ人。
1:3 その人は流れのほとりに植えられた木。ときが巡り来れば実を結び
葉もしおれることがない。その人のすることはすべて、繁栄をもたらす。
1:4 神に逆らう者はそうではない。彼は風に吹き飛ばされるもみ殻。
1:5 神に逆らう者は裁きに堪えず
罪ある者は神に従う人の集いに堪えない。
1:6 神に従う人の道を主は知っていてくださる。神に逆らう者の道は滅びに至る。

新約聖書  ヨハネによる福音書 4章1-15節 (新約聖書168ページ)

◆イエスとサマリアの女
4:1 さて、イエスがヨハネよりも多くの弟子をつくり、洗礼を授けておられるということが、ファリサイ派の人々の耳に入った。イエスはそれを知ると、
4:2 ―洗礼を授けていたのは、イエス御自身ではなく、弟子たちである―
4:3 ユダヤを去り、再びガリラヤへ行かれた。
4:4 しかし、サマリアを通らねばならなかった。
4:5 それで、ヤコブがその子ヨセフに与えた土地の近くにある、シカルというサマリアの町に来られた。
4:6 そこにはヤコブの井戸があった。イエスは旅に疲れて、そのまま井戸のそばに座っておられた。正午ごろのことである。
4:7 サマリアの女が水をくみに来た。イエスは、「水を飲ませてください」と言われた。
4:8 弟子たちは食べ物を買うために町に行っていた。
4:9 すると、サマリアの女は、「ユダヤ人のあなたがサマリアの女のわたしに、どうして水を飲ませてほしいと頼むのですか」と言った。ユダヤ人はサマリア人とは交際しないからである。
4:10 イエスは答えて言われた。「もしあなたが、神の賜物を知っており、また、『水を飲ませてください』と言ったのがだれであるか知っていたならば、あなたの方からその人に頼み、その人はあなたに生きた水を与えたことであろう。」
4:11 女は言った。「主よ、あなたはくむ物をお持ちでないし、井戸は深いのです。どこからその生きた水を手にお入れになるのですか。
4:12 あなたは、わたしたちの父ヤコブよりも偉いのですか。ヤコブがこの井戸をわたしたちに与え、彼自身も、その子供や家畜も、この井戸から水を飲んだのです。」
4:13 イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでもまた渇く。
4:14 しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」
4:15 女は言った。「主よ、渇くことがないように、また、ここにくみに来なくてもいいように、その水をください。」

《説教原稿》

本日はヨハネによる福音書4章の1節から15節をご一緒に読むのですが、この場面は、5節と6節にあるように、シカルというサマリアの町の近くにあるヤコブの井戸での出来事です。

主イエスはこの時、旅をしておられました。3節と4節に、「ユダヤを去り、再びガリラヤへ行かれた。しかし、サマリアを通らねばならなかった」とあります。聖書の後ろにある付録の中に地図があります。旧約新約が合わさっている聖書ですと地図の6に「新約時代のパレスチナ」というのがありますのでご覧いただきたいのですが、ユダヤは、この地図の下の方、死海の西側あたり、エルサレムを中心とする地域です。ガリラヤは上の方、つまり北の方の、ガリラヤ湖のあたりです。ユダヤからガリラヤへ北上していく時に通らなければならないのが、その間にあるサマリアで、この地図の真ん中あたりです。そこに「ゲリジム山」という山が書かれています。その北に「シカル」があります。ユダヤからガリラヤへの旅の丁度半ばに、主イエスはこのシカルというサマリアの町に来られたのです。このシカルの町の近くに、「ヤコブの井戸」と呼ばれる泉があったのです。主イエスは旅に疲れて、その井戸のそばに座っておられた、とあります。そこに、サマリアの女が水を汲みに来ました。旅に疲れ、喉が渇いていた主イエスは彼女に、「水を飲ませてください」と頼んだのです。

井戸というと私たちは、狭い縦穴を思い浮かべます。この「ヤコブの井戸」は、町中の辻にある井戸ではなくて、町の外にある泉であり、「泉」と「井戸」は同じ言葉なのです。

人々は毎日町を出てそこに水を汲みに来たのです。生活のための水はこの泉に来て、水がめに汲んで家まで持ち帰らなければなりませんでした。この泉がシカルの町中からどれくらい離れていたのかは分かりませんが、8節に「弟子たちは食べ物を買うために町に行っていた」とありますし、28節には、「女は、水がめをそこに置いたまま町に行き」ともあります。シカルの町とこの泉との間には一定の距離があったことが分かります。このヤコブの泉のほとりで、そこに水を汲みに来た一人の女性と主イエスとが出会い、そこで語られたのがこの13節と14節のみ言葉だったのです。主イエスが「水を飲ませてください」と願ったことから、主イエスと彼女との間に会話が始まり、二人の出会いが起りました。それは決して、たまたま偶然に起ったことではありません。主イエスは既に彼女のことを知っておられ、彼女を救いへと招くために、主イエスの方から声をかけ、出会って下さったのです。

13節で主イエスは、「この水を飲む者はだれでもまた渇く」とおっしゃいました。人は生きるために水を飲まなければなりません。しかし水はとても重いものですから、一度にそうたくさん汲んで来ることはできません。だからじきになくなり、また泉へ汲みに行かなければならないのです。水道やペットボトルのある生活に慣れている私たちには想像もできないような苦労が、昔の人々の生活にはあったのです。飲んでも暫らくするとまた喉が渇くということのない、一度飲めばもう決して渇かない水を与える、と主イエスはおっしゃったのです。しかもこの水は、一度飲めばその効果が持続するだけではありません。主イエスが与えて下さる水は、その人の内で泉となるのです。つまり新鮮な水が滾々と湧き出る泉が自分の内に出来るのです。その水によっていつも新たに潤され、渇きを癒されるのです。汲めども尽きぬ水が自分自身の中にいつも湧き出るようになるから、もう渇くことがなくなるのです。主イエスのこのお言葉を聞いてこのサマリアの女性は「主よ、渇くことがないように、また、ここにくみに来なくてももいいように、その水をください」と願いました。そういう泉が自分の中にあれば、もう遠くの泉へ水を汲みに行く必要がなくなる、と思ったのです。

この女性が自分から主イエスに水を求めるようになったのは、いくつかの驚きが積み重なったことによってでした。その驚きは主イエスが彼女にもたらしたものです。主イエスの方から「水を飲ませてください」と声をかけられたことは、彼女にとって大きな驚きでした。9節で彼女は、「ユダヤ人のあなたがサマリアの女のわたしに、どうして水を飲ませてほしいと頼むのですか」と言っています。彼女はここで二つのことに驚いたのです。一つは、当時、ラビと呼ばれている律法の教師は、公の場で女性に声をかけることはしませんでした。彼女は、主イエスと弟子たちの一行を、律法の教師が弟子と共に旅をしているのだと思ったのです。律法の教師は、自分が汚れを受けてしまうリスクのあることは一切しません。弟子たちだけが町へ買い物に行っているというのもそういうことだと彼女は思ったのです。そういう律法の教師が、女である自分に親しく声をかけ、水を飲ませてくださいなどと頼むなんて、当時は考えられないことでした。彼女は先ずそのことに驚いたのです。

そして第二の、大きな驚きは、主イエスはユダヤ人であり、自分はサマリア人だということです。9節の後半に「ユダヤ人はサマリア人とは交際しないからである」とあるように、ユダヤ人とサマリア人は当時、お互いに敵意を抱いており、口もきかないような関係でした。それには歴史的ないきさつがありますが、ここではそれには触れません。とにかくユダヤ人がサマリア人にものを頼むなどというのはあり得ないことだったのです。このように主イエスの方から「水を飲ませてください」と声をかけられたことに彼女は極めて驚いたのです。その驚きは彼女の中に主イエスについて一つの思いを芽生えさせたと言えるでしょう。それは、この人は自分が知っている律法の教師たちとは全く違う、という思いです。この人は、男と女を分け隔てする、今日の言葉で言えば差別の思いに捕われていない。またこの人は、ユダヤ人とサマリア人の間の、決して乗り越えることができないと思われる分厚い壁、お互いを隔てて住む世界を違うものとしている障壁をも、事もなげに乗り越えている。こんな人には今まで出会ったことがない。そういう思いを彼女は抱いたのです。彼女は、その主イエスの姿に新鮮な驚きを感じたのです。

そして、その驚きに、主イエスは10節の、「もしあなたが、神の賜物を知っており、また、『水を飲ませてください』と言ったのがだれであるか知っていたならば、あなたの方から“その人”に頼み、その人はあなたに生きた水を与えたことであろう」と答えられました。彼女には主イエスのこの言葉の意味はさっぱり分からなかったでしょう。しかし、「水を飲ませてください」と言った“その人”というのは目の前にいるこの人であり、この人が、私はあなたに生きた水を与える、と言っていることだけは分かったのです。それはいったいどういうことだろうか、水を飲ませてくださいと願っているこの人が私に水を与えるだなんて、そんなことがどうしてあり得るだろうか、と彼女はますます驚き、混乱しました。そしてこう言ったのです。11と12節です。「主よ、あなたはくむ物をお持ちでないし、井戸は深いのです。どこからその生きた水を手にお入れになるのですか。あなたは、わたしたちの父ヤコブよりも偉いのですか。ヤコブがこの井戸をわたしたちに与え、彼自身も、その子供や家畜も、この井戸から水を飲んだのです」。彼女は、主イエスが与えると言っておられる「生きた水」を、泉から湧き出る普通の水として捉えています。だから、あなたは汲む物も持っていないのにどうして私に水を与えることなどできるのですか、と言ったのです。しかしここで彼女は、主イエスの言葉に、泉から汲まれた普通の水を与えることとは違う何かを感じ取ってもいます。「あなたは、わたしたちの父ヤコブよりも偉いのですか」以下の言葉がそれを表しています。サマリア人にとっても、ヤコブはユダヤ人たちと共通の先祖です。その先祖ヤコブが、息子ヨセフを通して、自分たちの先祖であるマナセとエフライムにこの地を与え、ここで生きるようにしてくれたのです。ヤコブがこの井戸を与えてくれたというのは、自分たちが生きていく場としてこの地を与えてくれたことを意味しているのです。そのことを持ち出している彼女の言葉には、あなたも先祖ヤコブと同じように、水を与えるだけでなく、私たちが生きていく場を、言い換えれば私たちに命を与えて下さる方なのですか、という問いが込められています。彼女は、「私がだれであるかをあなたが知っていたなら、あなたの方から私に生きた水を求め、私はそれを与えるだろう」と言われる主イエスの言葉に驚かされながらも、そこに自分たちを本当に生かしてくれる神の力と権威を、おぼろげながら感じ始めているのです。

主イエスはご自分から彼女に語りかけ、出会っていかれました。それが、主イエスに対する驚きをもたらし、主イエスが与える生きた水を求める思いを少しずつ育てていったのです。その上で、あの13節と14節のみ言葉をお語りになったのです。「この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」。それを聞いた彼女は、「主よ、渇くことがないように、また、ここにくみに来なくてももいいように、その水をください」と願いました。このようにして、水を飲ませてくださいと主イエスから求められた彼女が、自分から主イエスに水を求める者へと変えられたのです。

しかし、彼女が求めているのはなお、泉から汲む普通の水です。決して渇かなくなる水があれば、繰り返しこの泉に汲みに来なくてもよくなるから、と言っています。けれどもその彼女の心の中には同時に、よく分かってはいないながらも、普通の水を超えた、自分を本当に生かす「生きた水」「永遠の命に至る水」を求める思いが芽生えてきていると言えるでしょう。「水を飲ませてください」と自分に頼んできたこの方は、実は私たちを本当に生かす水を与えて下さる方なのかもしれない、と彼女は思い始めているのです。「主よ」という呼び掛けがそのことを示しています。主であられる方に、渇くことのない命の水を求める思いを、主イエスご自身が彼女の中に起し、与えて下さったのです。

主イエスは私たちと出会って下さり、語りかけて下さることによって、私たちの中にも、主イエスが与えて下さる生きた水、永遠の命に至る水を求める思いを起し、与えて下さいます。その水は、私たちの渇きを一時癒すだけの、その場しのぎの水ではありません。それは私たちの内で泉となり、永遠の命に至る水が湧き出るような水、主イエス・キリストは私たちの内に、新鮮な水が滾々と湧き出る泉を与えて下さるのです。この泉は、主イエス・キリストご自身です。主イエス・キリストご自身が私たちの内に来て下さり、宿って下さることによって、泉となって下さるのです。それは私たちが主イエスを信じて、主イエスと共に生きる者となること、洗礼を受けてキリストの体である教会の一員とされることによって与えられる恵みです。主イエス・キリストと結び合わされることによって、主イエスが私たちの内で泉となり、生きた水によって私たちの渇きを癒し、潤していって下さるのです。

主イエスは私たちの救いのために、私たちの罪を全て背負って十字架にかかって死んで下さった方です。そして私たちの先駆けとして復活して、永遠の命を生きておられる方です。十字架にかかって死んで、復活して下さった主イエスが与えて下さる水ですから、それは「永遠の命に至る水」、肉体の死を超えて、私たちを、主イエスの復活と永遠の命にあずからせてくれる水です。「その水を私にください」と求めさえすれば、主イエスという涸れることのない泉が私たちの内に宿って下さり、私たちを決して渇くことのない生きた水によって潤して下さり、流れのほとりに植えられた木のように豊かに実を結ばせて下さるのです。

お祈りを致します。

<<< 祈  祷 >>>

 

あの方は栄える

《賛美歌》

讃美歌54番
讃美歌151番
讃美歌238番

《聖書箇所》

旧約聖書  詩篇 6篇7-11節 (旧約聖書838ページ)

6:7 わたしは嘆き疲れました。夜ごと涙は床に溢れ、寝床は漂うほどです。
6:8 苦悩にわたしの目は衰えて行き/わたしを苦しめる者のゆえに/老いてしまいました。
6:9 悪を行う者よ、皆わたしを離れよ。主はわたしの泣く声を聞き
6:10 主はわたしの嘆きを聞き/主はわたしの祈りを受け入れてくださる。
6:11 敵は皆、恥に落とされて恐れおののき/たちまち退いて、恥に落とされる。

新約聖書  ヨハネによる福音書 3章22-30節 (新約聖書168ページ)

3:22 その後、イエスは弟子たちとユダヤ地方に行って、そこに一緒に滞在し、洗礼を授けておられた。
3:23 他方、ヨハネは、サリムの近くのアイノンで洗礼を授けていた。そこは水が豊かであったからである。人々は来て、洗礼を受けていた。
3:24 ヨハネはまだ投獄されていなかったのである。
3:25 ところがヨハネの弟子たちと、あるユダヤ人との間で、清めのことで論争が起こった。
3:26 彼らはヨハネのもとに来て言った。「ラビ、ヨルダン川の向こう側であなたと一緒にいた人、あなたが証しされたあの人が、洗礼を授けています。みんながあの人の方へ行っています。」
3:27 ヨハネは答えて言った。「天から与えられなければ、人は何も受けることができない。
3:28 わたしは、『自分はメシアではない』と言い、『自分はあの方の前に遣わされた者だ』と言ったが、そのことについては、あなたたち自身が証ししてくれる。
3:29 花嫁を迎えるのは花婿だ。花婿の介添え人はそばに立って耳を傾け、花婿の声が聞こえると大いに喜ぶ。だから、わたしは喜びで満たされている。
3:30 あの方は栄え、わたしは衰えねばならない。」

《説  教》

今日のヨハネによる福音書と、他の三つの福音書、いわゆる共観福音書との間にはいろいろな点で違いがあります。本日の箇所の冒頭、22節に、主イエスが洗礼を授けておられたと記されています。しかし共観福音書には、主イエスが洗礼を授けたことは何処にも書かれていません。主イエスご自身が洗礼を授けたと語っているのは共観福音書ではないヨハネ福音書だけなのです。また、主イエスと洗礼者ヨハネが同じ時期に洗礼を授ける活動をしていたとも書かれています。この洗礼者ヨハネのことは既に1章に語られていました。彼は主イエスのことを証しするために神から遣わされた人であり、主イエスがこの世に現れることの備えとして洗礼を授けていました。そして主イエスこそ「世の罪を取り除く神の小羊だ」と記されていました。洗礼者ヨハネと主イエスが同じ時期に活動していたと語られていることも他の三つの福音書、共観福音書とは違っています。例えばマルコ福音書の1章14節では、「ヨハネが捕えられた後(のち)、主イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて…」とあります。共観福音書ではこのように、洗礼者ヨハネが領主ヘロデによって捕えられた後で、主イエスの活動が始まったと語られているので、洗礼者ヨハネと主イエスの活動は重なっていません。しかしヨハネ福音書がこのように洗礼者ヨハネの活動と主イエスの活動が重なっていたことを語り、しかも主イエスも洗礼者ヨハネと同じように洗礼を授けていたと語っていることには、一つの意図があります。本日の箇所は、その意図に基づいて書かれているのです。その意図とは、主イエスと洗礼者ヨハネとを比較して、両者の関係を明確にする、ということです。しかもその関係を、ヨハネ福音書の言葉によって示そうとしているのが本日の箇所なのです。

ここまで聞いて頂いて、お気付きの方もいらっしゃると思いますが、同じヨハネを名乗っても洗礼者ヨハネとヨハネ福音書を書いた福音書記者のヨハネは全くの別の人物ですので、以降は洗礼者ヨハネと洗礼者を付けると長くなるので、単にヨハネと呼ぶ時は洗礼者ヨハネで、ヨハネ福音書記者のヨハネは福音書記者ヨハネと呼びますので、お間違いない様お聞きください。

ヨハネ福音書が書かれたのは、主イエスの十字架と復活、そして教会の誕生から既に五十年以上が経っていた紀元1世紀の終り頃でした。当時のユダヤには、ヨハネの教えを受け継ぐ弟子たちがまだ多く残っていたのです。その人たちはユダヤ人の共同体の中に残ったまま、ヨハネが授けていた悔改めバプテスマ(洗礼)を受けて、神に従う生活を築こうとしていました。その人々の中から、主イエスを「世の罪を取り除く神の小羊」と信じて主イエスの弟子となる、つまりキリスト教会に加わる人々が現れて来たのでした。しかしユダヤ人たちの間には、イエスを救い主メシアと信じる者をユダヤ教会堂から追放する、という迫害が始まっていたのです。ヨハネの弟子たちはそういう状況の中で、ユダヤ人の共同体つまりユダヤ教に留まり続けるのか、主イエスを信じるキリスト教会に連なっていくのか、という決断を突きつけられていたのです。それが、紀元1世紀の終り頃のユダヤ人たちの置かれていた状況なのです。

ヨハネは27節で、「天から与えられなければ、人は何も受けることができない」と言っています。ヨハネのもとに人々が洗礼を受けにやって来たのも、今主イエスのもとにみんなが行っているのも、どちらも天から与えられたこと、神の御心なのだ、とヨハネは言っているのです。神の御心によって人々はヨハネのもとに来て洗礼を受けた、そして今、神の御心によってその人々は主イエスの方へと行っているのです。どうしてそういうことが起るのかが、ヨハネによって28節に語られています。「わたしは『自分はメシアではない』と言い、『自分はあの方の前に遣わされた者だ』と言ったが…」とあります。1章の19節以下に語られていたように、ヨハネは「わたしはメシアではない」つまり救い主ではない、とはっきり語りました。「ではあなたは何なのか」という問いに対して彼は1章23節で、「わたしは荒れ野で叫ぶ声である。『主の道をまっすぐにせよ』と」と答えました。メシア、救い主である主が自分の後に来られる。私はその主の道をまっすぐに整えるために先に遣わされた者だ、ということです。ヨハネの役割は、後から来られるメシアである主イエスのための道を備えることなのです。だからヨハネの働きによって、人々はメシアである主イエスを知り、主イエスのもとに行ってその救いにあずかっていくのです。神の御心によってヨハネのもとに来た人々が、主イエスこそ救い主であられるというヨハネの証しを聞いて主イエスのもとに行き、主イエスを信じて救いにあずかっていく、それが神の御心なのです。

28節の後半には「そのことについては、あなたたち自身が証ししてくれる」とあります。ヨハネの弟子たちが、師であるヨハネの証しを聞いて主イエスのもとへ行き、その救いにあずかることこそが、ヨハネが自分に与えられた使命をしっかりと果たしていることの証しとなるのです。だから、みんなが自分のところにではなく主イエスの方へ行っているという報告は、ヨハネにとってはむしろ当然のこと、喜ぶべきことなのです。

しかし、ここで主イエスが洗礼を授けていたと語られているのは、歴史的には事実ではありません。主イエスは地上のご生涯においては、神の国の福音を宣べ伝え、神のご支配の印としての奇跡を行い、そして十字架の死による救いを成し遂げられたのです。主イエスを信じて受けるキリスト教の洗礼は、復活なさった主イエスのご命令によって、教会の誕生と共に始まったことです。主イエスによる救いにあずかる群れが洗礼によって結集されていったのはヨハネ福音書が書かれた後代です。ですから、地上を歩まれた主イエスがヨハネと同じように洗礼を授けていたわけではないのです。

29節においてヨハネは、主イエスと自分との関係を花婿と花婿の介添え人という譬えで語っています。「花嫁を迎えるのは花婿だ」というのは、婚礼の主役は花婿だということです。その花婿とは主イエスです。自分は花婿の介添え人だとヨハネは言っています。介添え人は「そばに立って耳を傾け、花婿の声が聞こえると大いに喜ぶ」のです。当時の婚礼において、花婿には男性の、花嫁には女性の介添え人がついたようです。今の教会の結婚式でも、花嫁には介添え人がついて、いろいろとお世話をします。しかし花婿には介添え人はいません。特に必要がないからです。当時のユダヤの結婚式だって、おそらく花婿の介添え人には大してすることはなかったのでしょう。「そばに立って耳を傾け、花婿の声が聞こえると大いに喜ぶ」ぐらいしかすることはないのです。介添え人はあくまでも脇役です。花婿、主役である主イエスに対して、自分は介添え人、脇役なのだ、とヨハネは言っているのです。

30節の「あの方は栄え、わたしは衰えねばならない」という言葉もそういうことを意味しています。栄えるべきなのは主役、花婿である主イエスなのであって、介添え人である自分が栄えてはならない、介添え人が花婿より目立ってどうする、介添え人である自分は、むしろ衰えていく、見えなくなっていく、消え去っていくことで、花婿である主イエスの栄光がよりはっきりと表されていくのだ、「みんながあの人の方へ行っています」ということによってまさにそうなるべきである、とヨハネは言っているのです。

さて、ヨハネがこのように自分を花婿の介添え人つまり脇役と位置づけており、「その方は栄え、自分は衰えねばならない」と言っているのを読むと、何だか自分の人生には大した意味がないと言っているようでヨハネが可哀想だと感じてしまうかもしれません。しかしそうではないのです。「介添え人」と訳されている言葉は、直訳すると「友」です。ヨハネは花婿主イエスの友である、と福音書は語っているのです。このことには深い意味があります。15章14-15節には、主イエスのこういうお言葉があるのです。「わたしの命じることを行なうならば、あなたがたはわたしの友である。もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである」。主イエスが弟子たちを友と呼んで下さる、そこに大きな恵みがあることがここに示されています。主イエスの「友」となるとは、独り子なる神、主イエスが父なる神から聞いたことをすべて知らせて下さり、主イエスの命じること、父なる神の御心を行なうことができるようになる、ということです。僕と友の違いもここに示されています。僕はただ命じられたことをその通りにするのであって、主人が何を思い、何のためにこれを命じているのかなどは知る由もありません。しかし友は、主イエスのみ言葉を聞くことによって、父なる神が独り子主イエスによって実現しようとしておられる救いの御心を知らされるのです。そしてその御心を自発的に行なっていくのです。主イエスの友とはそのように、主イエスの言葉を聞いて父なる神の御心を知り、主イエスと共にそれを行なっていく者です。ヨハネもそういう意味で主イエスの友なのだ、ということを、「花婿の介添え人、友」という言葉に込めているのです。花婿の介添え人が「そばに立って耳を傾け、花婿の声が聞こえると大いに喜ぶ。だから、わたしは喜びで満たされている」と語られていることが大切な意味を持ってきます。この喜びは、主イエスの友とされた者の喜びです。ヨハネは、主イエスの語る言葉に耳を傾け、主イエスが父なる神から聞いたこと、父なる神が独り子主イエスによって実現しようとしておられる救いの御心をしっかり聞いたのです。それによって、主イエスこそ来るべき救い主であられることを確信し、喜びに満たされて、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」と証ししたのです。このヨハネの姿に、主イエスの友とされた者はどのように生きるのかが示されています。主イエスの友とは主イエスを証しする人です。弟子たちも主イエスの友とされ、証しする者として立てられていきました。1章の6-8節にこのように語られていました。「神から遣わされた一人の人がいた。その名はヨハネである。彼は証しをするために来た。光について証しをするため、また、すべての人が彼によって信じるようになるためである。彼は光ではなく、光について証しをするために来た」。このように、ヨハネを、主イエスの友とされて、主イエスの証しをするというとても大切な働きをした人として、信仰者たちの先駆けとして描いているのです。ですからここに語られているのは、ヨハネは介添え人、脇役に過ぎない、大して意味のない人だ、ということではありません。むしろヨハネは、主イエスの最初の友とされ、主イエスの言葉を聞いて父なる神の救いの御心を最初に知らされた人であり、その喜びを最初に味わった人であり、その喜びに押し出されて主イエスこそ救い主であることを最初に証しした人だったのです。

ですからこのヨハネこそ、主イエスを信じて生きる私たち信仰者の先頭に立っている人です。私たちも、主イエス・キリストのもとに来るならば、このヨハネのようになることができるのです。主イエス・キリストのもとに来ることによって私たちは、自分が神に背いている罪人であり、本来は裁かれ滅ぼされるしかない者であることを示されます。しかしそのような罪人である私たちを、神が愛して下さって、独り子主イエス・キリストを与えて下さり、その十字架と復活によって罪を赦し、私たちが滅びることなく永遠の命を得るようにして下さったことをも示されます。その神の独り子であり救い主であられる主イエスが、私たちを友として下さり、父なる神の愛の御心を御言葉によって知らせて下さるのです。私たちも主イエスと共にその神の愛の御心に従っていくことができるようにして下さるのです。私たちはヨハネと共に、「あの方は栄える」と喜びをもって語ることができるのです。

お祈りを致します。

<<< 祈  祷 >>>

悲しみが喜びに変わる

《賛美歌》

讃美歌56番
讃美歌338番
讃美歌515番

《聖書箇所》

旧約聖書  イザヤ書 26篇17節 (旧約聖書1,100ページ)

26:17 妊婦に出産のときが近づくと/もだえ苦しみ、叫びます。主よ、わたしたちもあなたの御前で/このようでした。

新約聖書  ヨハネによる福音書 16章12~24節 (新約聖書200ページ)

16:12 言っておきたいことは、まだたくさんあるが、今、あなたがたには理解できない。
16:13 しかし、その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。その方は、自分から語るのではなく、聞いたことを語り、また、これから起こることをあなたがたに告げるからである。
16:14 その方はわたしに栄光を与える。わたしのものを受けて、あなたがたに告げるからである。
16:15 父が持っておられるものはすべて、わたしのものである。だから、わたしは、『その方がわたしのものを受けて、あなたがたに告げる』と言ったのである。」
16:16 「しばらくすると、あなたがたはもうわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる。」
16:17 そこで、弟子たちのある者は互いに言った。「『しばらくすると、あなたがたはわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる』とか、『父のもとに行く』とか言っておられるのは、何のことだろう。」
16:18 また、言った。「『しばらくすると』と言っておられるのは、何のことだろう。何を話しておられるのか分からない。」
16:19 イエスは、彼らが尋ねたがっているのを知って言われた。「『しばらくすると、あなたがたはわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる』と、わたしが言ったことについて、論じ合っているのか。
16:20 はっきり言っておく。あなたがたは泣いて悲嘆に暮れるが、世は喜ぶ。あなたがたは悲しむが、その悲しみは喜びに変わる。
16:21 女は子供を産むとき、苦しむものだ。自分の時が来たからである。しかし、子供が生まれると、一人の人間が世に生まれ出た喜びのために、もはやその苦痛を思い出さない。
16:22 ところで、今はあなたがたも、悲しんでいる。しかし、わたしは再びあなたがたと会い、あなたがたは心から喜ぶことになる。その喜びをあなたがたから奪い去る者はいない。
16:23 その日には、あなたがたはもはや、わたしに何も尋ねない。はっきり言っておく。あなたがたがわたしの名によって何かを父に願うならば、父はお与えになる。
16:24 今までは、あなたがたはわたしの名によっては何も願わなかった。願いなさい。そうすれば与えられ、あなたがたは喜びで満たされる。」

《説教原稿》

イエスは今や十字架の時、父なる神の御許へ帰る時が近付いていたので、弟子たちに対して告別の説教をされてきました。しかし、弟子たちにはそれらのことが十分に理解出来たわけではありませんでした。

助け主なる聖霊が弟子たちに派遣されることと、その働きについては、ヨハネによる福音書14章で、主イエスは、ハッキリと弟子たちに話されました。16章7節では、主イエスが去ることが「弁護者」の到来という益をもたらすとまで語られています。この「弁護者」とは、皆様がよくご存知の「聖霊」を指しています。この聖霊が派遣されると、8節にあるように、この世に対しては「罪について、義について、また、裁きについて、世の誤りを明らかにする」のです。

そして、本日の12節以下に入ります。そこには主イエスが弟子たちに、「言っておきたいことは、まだたくさんあるが、今、あなたがたには理解できない。しかし、その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。その方は、自分から語るのではなく、聞いたことを語り、また、これから起こることをあなたがたに告げるからである。その方はわたしに栄光を与える。わたしのものを受けて、あなたがたに告げるからである。父が持っておられるものはすべて、わたしのものである。だから、わたしは、『その方がわたしのものを受けて、あなたがたに告げる』と言ったのである。」と、主イエスの弟子たちに対する別れの言葉が続いています。主イエスは、とにかく弟子たちに慰めと励ましの言葉を残し、聖霊を派遣されようとしておられるのがよく分かります。

派遣される聖霊の働きとは、13節にあるように「真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる」と弟子たちに対して真理を明らかにするのです。弟子たちは、しばしば主イエスの言葉を十分には理解出来ませんでした。しかし、弁護者である聖霊は弟子たちに主イエスの言葉の意味を明らかにして、弟子たちをすべての真理に導くのです。主イエスこそが、その十字架においてこの世を救われ、聖霊はこれらのことを世に対して明らかにするのです(8‐11)。従って14節にあるように「その方(御霊)はわたしに栄光を与える。わたしのものを受けて、あなたがたに告げるからである」と聖霊の働きがはっきり述べられているのです。16節には、「しばらくすると、あなたがたはもうわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる。」と、またしても弟子たちの理解出来ないことを言われました。弟子たちは、主イエスの言葉と態度に、何かしら、いつもと違うただならぬものを感じ取っています。張りつめた空気が漂っています。しかし、その言葉の真意を悟ることができませんでした。

この時になっても、まだ主イエスが明くる日に十字架にかかって死なれることになるということを、弟子たちは誰も信じることができなかったのです。弟子たちは互いに、言い合いました。17節と18節に、そこで、弟子たちのある者は互いに言った。「『しばらくすると、あなたがたはわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる』とか、『父のもとに行く』とか言っておられるのは、何のことだろう。」 また、言った。「『しばらくすると』と言っておられるのは、何のことだろう。何を話しておられるのか分からない。」と、弟子たちのうろたえた様子を伝えています。

聖書を読んで、この後の展開を知っている私たちにしてみれば、もどかしい気もします。「ここまでイエス様がおっしゃっているのに、どうしてわからないのか。」何か映画やドラマのあらすじを知っている者が、その物語の中の登場人物が、それが分らずにいるのがもどかしく見えるのに似ているかも知れません。すぐ横に解決のヒントがあるのに。犯人が分かっているのに。でもそれに気づかないで、通り過ぎていく。テレビドラマなどを見ていると、こちらも、じれったくてイライラしてきます。「ほらそこにいるのに、どうして気づかないの。すぐそこにいるじゃないの。そっちじゃない! こっちだ、こっちだ!」テレビを見ながら、本気で叫んでいる人もいます。

しかし考えてみると、私たちと主イエスの関係も、これと似たところがあるのかも知れません。すぐそばにおられるのに分からない。すぐそばに解決のヒントがあるのに、それに気づかないのではないでしょうか。それをもう一つ、別の視点で見れば、「救いはそこまで来ているのに、どうして気づかないの」ということになるかも知れません。

その気付かぬ弟子たちに主イエスはお答えになります。続く19節で、「イエスは、彼らが尋ねたがっているのを知って言われた。「『しばらくすると、あなたがたはわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる』と、わたしが言ったことについて、論じ合っているのか。はっきり言っておく。あなたがたは泣いて悲嘆に暮れるが、世は喜ぶ。あなたがたは悲しむが、その悲しみは喜びに変わる。」とあります。

この時、弟子たちは不安と恐れの真っ只中にありました。主イエスがまだ目の前におられる訳ですから、まだ悲しみはそれほど感じていないかも知れません。しかし、主イエスは彼らの悲しみを先取りして、しかもその悲しみは一時的なものだと言って慰め、その先には喜びが待っていると告げられるのです。

少し前の14章19節に「しばらくすると」という言葉が1回出てきます。ところがこの16章では、何と7回も出てきます。この「しばらくすると」と言う言葉が、これから「しばらくすると」自分はいなくなる。しかしまた「しばらくすると」帰ってくる。主イエスは、悲しみに続く喜びまで語っておられるのです。

「しばらくすると」とはおもしろい表現です。日本語訳の幾つかの聖書を読み比べてみましたが、どの聖書も「しばらく」という言葉を使っています。この「しばらく」というのは、「ほんのわずかの間」という意味です。ちなみにギリシャ語では、ミクロンという言葉です。ミクロンというのは、目に見えない小さな世界です。それほど小さな時間、という意味なのです。

時間の感覚というのは、非常に主観的なものです。「しばらく」というのも、それがどれ位の長さなのかは、状況次第です。人によって受けとめ方が違います。同じ時間でも、楽しい時間はあっという間に過ぎますが、苦しい時間は、言いようもなく長く感じたりします。「テレビドラマの30分はあっという間なのに、教会の説教の30分は何でこんなに長いのか」と感じている人もおられるかも知れません。そう言われないように私も頑張り、今日は30分丁度で終ります。

弟子たちにとって、主イエスと一緒にいた「しばらく」の間は、あっという間に過ぎたことでしょうが、十字架の後の悲嘆にくれた「しばらく」の間は、とても長く感じられたことでしょう。

この最初の「しばらくすると」の後は、主イエスの受難、十字架の死を指しているのですが、その次に「喜びに変わる」時とは、復活を指していると読むこともできますし、「聖霊降臨」を指している、と読むこともできるでしょう。

いずれにせよ、主イエスは弟子たちの疑問に明確な答を与えられませんでしたが、弟子たちの悲しみがやがては奪い去ることの出来ない喜びに変る日が来ることを約束されたのです。

もともとヨハネ福音書は、ルカ福音書のようにはっきりと復活の40日後に聖霊降臨という出来事があったという書き方をしてはいません。復活と聖霊降臨が同時であったと読まざるを得ません。ヨハネ福音書の聖霊降臨は20章22節で復活の主イエスが弟子たちの家を訪れ、戸に鍵がかかっているのに、ドアをすり抜けて、弟子たちに息を吹きかけながら「聖霊を受けなさい」と言われるのが聖霊降臨にあたります。

私たちは生きて行く中で、つらい悲しみや苦しみの時があります。また、それに代わる喜びの時もあります。今日の20節の終わりでは「悲しみが喜びに変わる」と主イエスははっきりと言われています。悲しみと喜びが無関係に交互に現れてくるのではなくて、悲しみが喜びに変わると言われています。しかも、このことをたいへん具体的な例で21節に「女は子供を産むとき、苦しむものだ。自分の時が来たからである。」と、「時」という言葉を使いながら、女性の出産前後の苦しみと喜びのことを表しています。女性が出産後、一人の人間が世に生まれ出る喜びのために、もはや出産の苦痛を思い出さないことに譬えています。今はあなたがたも、悲しんでいる。しかし、わたしは再びあなたがたと会い、あなたがたは心から喜ぶことになる。その喜びをあなたがたから奪い去る者はいない。

16章で7回も出て来た、「しばらくすると」は終末の日を指し示している、という風に読むこともできます。未だこの約束は実現していない。私たちにはまだ悲しみが残っている。そのことは、22節の「ところで、今はあなたがたも、悲しんでいる。しかし、わたしは再びあなたがたと会い、あなたがたは心から喜ぶことになる。その喜びをあなたがたから奪い去る者はいない。」とあります。この喜びは、わずか一時(いっとき)であるというのではありません。

今日の聖書箇所の時点では、何も分からなかった弟子たちでした。悲しみで心が閉ざされていて、喜びなどなかったのでした。しかし喜びが与えられると主イエスから約束されたことが実現します。20章19節以下に、「その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、『あなたがたに平和があるように』と言われた。そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ」とあります。弟子たちは復活の主イエスに出会い、本当に「喜んだ」のです。

主イエスは22節で言われました。「ところで、今はあなたがたも、悲しんでいる。しかし、わたしは再びあなたがたと会い、あなたがたは心から喜ぶことになる。その喜びをあなたがたから奪い去る者はいない。」とあります。主イエスが与えてくださる喜びは、決して奪い去られないものなのです。

これらはあの2000年前のユダヤで主イエスの復活と聖霊降臨の日に起こったことでした。現代の私たちにしてみれば、主イエスは目に見えるお姿ではおられません。目に見えない聖霊として臨在してくださっているのです。しかし終わりの日にはすべての人の目に明らかに現われてくださる。23節には、「その日には、あなたがたはもはや、わたしに何も尋ねない」とあります。なぜ尋ねないのか。すべての疑問が解けるからです。主イエスと顔と顔を合わせて一体となる世界が実現するのです。尋ねる必要がないのです。

主イエスが復活される。それは死を乗り越えることです。それだけではありません。私たち人間の罪を乗り越え、悲惨さを乗り越え、病を乗り越え、悲しみを乗り越え、苦難を乗り越える。あらゆることを乗り越える喜びが与えられるということなのです。

たとえ私たちの人生がどのようであっても、一週間ごとに喜びが約束されている人生が私たちキリスト者の人生です。たとえどのような一週間を送ったとしても、私たちはここに集い、与えられている喜びを新たに受け取り、新しい一週間を始めていくのです。

今日の聖書箇所の23節後半には、「はっきり言っておく。あなたがたがわたしの名によって何かを父に願うならば、父はお与えになる。今までは、あなたがたはわたしの名によっては何も願わなかった。願いなさい。そうすれば与えられ、あなたがたは喜びで満たされる。」

この「願いなさい」というのは、今日の聖書箇所の文脈に合わせて「願いなさい」と訳されていますが、本来は「求めなさい」と訳すべき言葉です。「求めなさい。そうすれば与えられる。」、何が与えられるのでしょうか。喜びです。決して取り去られることのない喜びが与えられる。主イエスがそのように約束をしてくださり、その約束が本当に私たちの間で実現されていくのです。

お祈りを致します。

<<< 祈  祷 >>>