主イエスの栄光

主日CS合同礼拝説教

齋藤 正 牧師

《賛美歌》

讃美歌6番
讃美歌148番
讃美歌515番

《聖書箇所》

旧約聖書:詩篇 139編23-24節 (旧約聖書980ページ)

139:23 神よ、わたしを究め/わたしの心を知ってください。わたしを試し、悩みを知ってください。
139:24 御覧ください/わたしの内に迷いの道があるかどうかを。どうか、わたしを/とこしえの道に導いてください。

新約聖書:ヨハネによる福音書 1章14-18節 (新約聖書163ページ)

1:14 言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。
1:15 ヨハネは、この方について証しをし、声を張り上げて言った。「『わたしの後から来られる方は、わたしより優れている。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである。」
1:16 わたしたちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた。
1:17 律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである。
1:18 いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。

《説教》『主イエスの栄光』

本日はCS合同礼拝の日ですので、マルコによる福音書連続講解から離れ教会学校カテキズム教本の示す聖書箇所からの説教です。

先ほどお読みしたヨハネによる福音書1章14節に、「言(ことば)は肉となって、わたしたちの間に宿られた」とあります。この言語の「言(げん)」と漢字で書いて「ことば」と読ませるのは、1節に「初めに言(ことば)があった」と言われていたその「言(ことば)」のことです。1節ではさらに、その「言(ことば)」は神と共にあり、自らが神であったと語られています。また3節には、万物はこの「言(ことば)」によって成ったとありました。天地万物を創造したまことの神である言(ことば)、その言(ことば)が、肉となって私たちの間に宿られた、と14節は語っているのです。この「言(ことば)」とは、ギリシャ語で“ロゴス”と言います。新約聖書では、何と330回も使われていて、大変広い意味に用いられて日本語に翻訳するのが難しい言葉です。この聖書に書かれている“ロゴス”を扱うだけでも、神学論文が沢山書けるとさえ言えるでしょう。ただ、ここではっきり言えることは、このヨハネ福音書1章においての“ロゴス”は、創造の前から存在した、創造主でもあられ、永遠の命をもたらす主イエスが歴史的に出現されたことを指し示しているのです。この「言(ことば)“ロゴス”」とは主イエス・キリストのことです。主イエス・キリストは、天地の造り主であり、まことの神である「言(ことば)」なのです。その「言(ことば)」が肉、一人の人間となって、この世を生きて下さったのです。

14節の後半には「わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた」とあります。「言(ことば)」が肉となって、まことの神であるキリストが主イエスという一人の人となって、私たちの間に宿って下さったので、私たちは神の栄光の姿を見ることができたのです。旧約聖書によれば、人間は神の栄光を見ることはできない、なぜなら神の姿を見たら罪ある人間は死んでしまう、とされているからです。その神の栄光の姿を私たちは見ることができた。それは、神が肉となって、つまり主イエスという人となってこの世に来て下さったからです。本日の最後の18節もそれと同じことを語っています。「いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである」とあります。いまだかつて神を見た者はいない、それは神は本来見ることができない方だからです。神ご自身も、その栄光も、人間が直接見ることはできないのです。しかし、父のふところにいる独り子である神、主イエス・キリストが、肉となって、人間としてこの世を生きて下さったことで、人間が神を知り、神のお姿を見ることができるようになったのです。これは、ヨハネ福音書の大切な主題の一つです。14章9節にも主イエスは、「わたしを見た者は、父を見たのだ」とおっしゃいました。父なる神は人間の目で見ることのできない方ですが、主イエス・キリストが人となってこの世に来て下さったことで、私たちも神様を見ることができるようになり、神様と共に生きることができるようになったのです。

しかしそれは、主イエスが人としてこの地上を生きておられた2000年前の話だろう、と思うかもしれません。主イエスと共に生きていた弟子たちは、確かに主イエスを見たことによって神を見ることができたかもしれない、しかし私たちは今、父なる神と同じように主イエスも、この目で見ることができません。従って、私たちは神様を見ることも、神の栄光を見ることもできない、そのように思うかもしれません。しかしそれは違うのです。私たちは今、この地上で、主イエス・キリストを見ることができます。主イエスとお会いすることができます。主イエスによる救いの恵みを受けることができます。主イエスとの交わりに生きる場が、私たちには与えられているのです。それは、主イエス・キリストの体である教会です。教会で私たちは、人となって私たちの間に宿られた「言(ことば)」である主イエスとお会いすることができ、父なる神の独り子としての、恵みと真理とに満ちている主イエスの栄光を見ることができるのです。その教会とは建物のことではありません。洗礼を受け、キリストと結び合わされた者たちの群れが教会であり、その群れが共に集って礼拝をするところに、キリストの体である教会が目に見えるものとなっているのです。礼拝において私たちは、主イエス・キリストと出会い、父なる神の独り子としての、恵みと真理に満ちている栄光を見ることができるのです。まことの神である「言(ことば)」が肉となって私たちの間に宿って下さったという恵みの出来事は、主イエス・キリストが人間としてこの地上を生きておられた間だけのことではなくて、主イエスの十字架の死と復活、そして昇天の後、聖霊が弟子たちに降って地上にキリストの体である教会が誕生した、あのペンテコステの出来事において受け継がれ、その後の教会の歴史において継続されていったのです。肉となってこの世を生きて下さった「言(ことば)」である主イエス・キリストは、教会において、その礼拝において、今も私たちの間に宿って下さり、私たちにご自身の栄光を示し、私たちと共に生きて下さっているのです。

一つの教会が誕生するごとに、神の救いのみ業が、地上においても前進し続け、まさにこの成宗教会も誕生したのです。私たちの成宗教会は、この杉並の地で、「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」という神の救いの出来事を人々に示して来ました。この成宗教会を通して、多くの人々が、「わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた」ということを体験してきました。また16節にあるように、「わたしたちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に更に恵みを受けた」ということを味わってきました。その恵みは、17節にあるように、モーセを通して与えられた律法とは違うものです。自分が頑張って律法を守り、正しい良い行いをすることで救いを得る、のではなく、神の独り子である主イエスが人間となってこの世を生きて下さり、私たちの全ての罪をご自分の身に負って十字架にかかって死んで下さり、神様が私たちの罪を赦して下さり、また主イエスの復活によって私たちにも、復活と永遠の命を約束して下さった、それが「イエス・キリストを通して現れた恵みと真理」です。神様が、独り子の命をすら与えて下さるほどに、罪人である私たちを愛して下さっているという恵みと真理が、主イエス・キリストを通して現されたのです。

しかし、これは教会の礼拝において自動的に起ることではありません。弟子たちが集まっただけで教会が生まれたのではなく、聖霊が降ったことによって教会が誕生したように、“ロゴス”なる神が私たちの内に宿り、働いて下さってこそ、キリストの体である教会が築かれるのです。そのことが起るために、私たちは、主イエス・キリストを常に指し示し、証ししていかなければなりません。それを最初にしたのが、15節に出て来る洗礼者ヨハネでした。15節にこうあります。「ヨハネは、この方について証しをし、声を張り上げて言った。「『わたしの後から来られる方は、わたしより優れている。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである」。洗礼者ヨハネは、自分の後から来られる主イエス・キリストこそが救い主であることを証ししたのです。私たちの教会はこの世にあって、肉となって人となられた主イエス・キリストこそがまことの神であり救い主であることを証しし、宣べ伝えていく群れです。教会がその証しをしっかりとしていくならば、そこに、まことの神である主イエスと出会い、神の栄光を見上げて、その救いにあずかる人々が興されていきます。

今日の14節「言(ことば)は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。」とあるのには、はっきりと目的がありました。それはヨハネ福音書3章21節(新約聖書210ページ)「これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである。」と、私たちが新しく信仰によって生きるべきことを語っているのです。

主イエス・キリストの救いの恵みによって人々が新しく生かされていくのです。しかし教会が、イエス・キリストを指し示すことをしなくなり、キリストを証しすることができなくなるなら、教会はこの世に飲み込まれ、この社会の中で何のインパクトもない、教会で神を見ることも、神の恵みと真理に生かされることも起らない、形骸化したただの人々の交わりの集まりに成り下がってしまうでしょう。

私たちに与えられている救いの伝道という使命をしっかりと果していけるように、聖霊の力づけと導きを祈り求めていきたいものです。

お祈りを致します。

クリスマス イヴ礼拝説教「言(ことば)が人となった」

齋藤 正 牧師

《賛美歌》

讃美歌106番
讃美歌103番
讃美歌119番
讃美歌109番

《聖書箇所》

旧約聖書:創世記 1章1―2節 (旧約聖書1ページ)

1:1 初めに、神は天地を創造された。
1:2 地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。

新約聖書:・・・ヨハネによる福音書 1章1―14節 (新約聖書163ページ)

1:2 この言は、初めに神と共にあった。
1:3 万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。
1:4 言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。
1:5 光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。
1:6 神から遣わされた一人の人がいた。その名はヨハネである。
1:7 彼は証しをするために来た。光について証しをするため、また、すべての人が彼によって信じるようになるためである。
1:8 彼は光ではなく、光について証しをするために来た。
1:9 その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。
1:10 言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。
1:11 言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。
1:12 しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。
1:13 この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである。
1:14 言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。

《説教》『言(ことば)が人となった』

新約聖書には四つの福音書があります。福音書とは、2000年前にこの地上で人として生きて働かれた主イエスの活動記録です。ヨハネによる福音書は四番目の福音書ですので、第四福音書とも呼ばれます。この第四の福音書は、他の三つの福音書とはかなり違ったものになっています。マタイ、マルコ、ルカの三つの福音書は、主イエスのご生涯を、ほぼ同じ調子で語り、共通する記事も多くあります。そのためにこの三つは並べて比較しながら読むことができます。そういう意味でこの三つを共に同じ観点から見る「共観福音書」と言います。しかしヨハネ福音書が語っている主イエスのご生涯は、共観福音書とはかなり違いますし、他の三つの福音書には語られていない話も沢山あり、かなり毛色の違う、独特な福音書です。そして、新約聖書にこのヨハネ福音書が入っていることによって、主イエス・キリストについての、また救いについての私たちの理解と認識は、大きな広がりと深まりを与えられているのです。

ヨハネ福音書は、「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった」と語り始めています。この謎のような言葉によってこの福音書は私たちに何を語ろうとしているのでしょうか。「初めに」という冒頭の言葉によって、この世界の、そして私たち人間の「初め」を尋ね求めているのです。この「初め」、それは起源、根源と言う言葉です。この世界の、人間の、初め、起源、根源とは何か。それは「言」だ、と語っているのです。その「言」とは、私たち人間が語る不確かな、あやふやな、また不誠実な言葉ではありません。神の言です。神の私たちに対する語りかけです。この世界の、そして私たちの人生の、初めには、神の語りかけがある、とヨハネ福音書は宣言しているのです。そしてその神の語りかけ、言は、神と共にあり、言そのものが神であった、と続いています。それはこの福音書が、神の語りかけ、「言」を、一人の人格的な存在として見ているということです。そのお方とは主イエス・キリストです。14節まで読み進めるとそれが分かります。この福音書が「言」と書いて「ことば」と読む「言」とは、肉つまり人となって私たちの間に宿られた主イエス・キリストのことなのです。ですから、「初めに言があった」という謎めいた言葉で語り始められているこの福音書も、やはり冒頭から主イエス・キリストのことを語っているのです。主イエスとは、この世界の根源であり、私たちの人生を根底において支えている土台であるところの神の「言」、神からの語りかけなのだ、ご自身が神であられるその「言」が肉なる人となってこの世を生きて下さったのが主イエス・キリストなのだ、ということをこの福音書は語っているのです。

2節の「この言は、初めに神と共にあった」は一見、1節を言い直しているだけのように思えますが、「この言」と訳されているのは「このもの」あるいは「この方」という意味であって、それは1節の「言」を受けていると同時に、14節の「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」を既に意識しています。肉となってこの世を生きて下さった主イエス・キリストは世の初めに既に父である神と共におられたのです。この「初めに」は創世記冒頭の「初めに神は天地を創造された」を意識しているのです。神がこの世界を創造なさった時、そこに、言である主イエス・キリストも共におられ、天地創造のみ業に共に関わっておられたのです。そのことが3節に「万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった」と語られているのです。「言」であられる主イエス・キリストによって、この世の全てのものは造られたのです。主イエス・キリストは神によって造られた被造物ではなくて「創造主」であられるのです。主イエスは父なる神から生まれた子なる神であられ、まことの神として創造の初めから父と共におられるのです。しかしそれは父なる神と子なる神という二人の神がおられるということのではありません。神はお一人である、ということも聖書の根本的な信仰です。そこにさらに聖霊なる神が加わって、父と子と聖霊という三者でありつつお一人なる神であるという、いわゆる「三位一体の神」という神の本質的なお姿が見えてくるのです。ヨハネ福音書のこの冒頭の部分は、聖書においてご自身を啓示しておられる神が父と子と聖霊なる三位一体の神であられることを私たちが認識するための大切な役割を果しているのです。

6節になると、「神から遣わされた一人の人がいた。その名はヨハネである」と、一人の人間のことが語られ始めます。ここで私たちの目は、この世のこと、地上を生きた具体的現実的な人間のことへと向けられるのです。このヨハネとは、「洗礼者ヨハネ」と呼ばれ、ヨハネ福音書を書き記したヨハネとはまったくの別人です。主イエス・キリストが宣教活動を始められる前に、洗礼者ヨハネが現れ、主イエスの伝道のための備えをしました。しかし、その洗礼者ヨハネがどのように主イエスのための備えをしたかは、ヨハネ福音書と他の三つの福音書ではかなり違っています。他の三つの福音書では、洗礼者ヨハネは人々の罪を指摘し、悔い改めを求め、悔い改めの印としての洗礼を授けました。自分たちが罪人であることを人々に意識させ、悔い改めて神に立ち帰り、向き合うことによって、救い主イエス・キリストを迎える準備をしたのです。それに対して、ヨハネ福音書において洗礼者ヨハネがしたことは何か。7節に「彼は証しをするために来た。光について証しをするため、また、すべての人が彼によって信じるようになるためである」とあります。ヨハネ福音書における洗礼者ヨハネは、証しをするために神から遣わされた人なのです。証しとは、証言です。見たり聞いたり体験して知っていることを、「こうでした」と人に伝え、それを聞いた人々が「ああそうなんだ」と知るようになる、それが証しです。洗礼者ヨハネは、「光について証しをするため」に神によって遣わされました。その光とは、初めにあった「言」に命と光があった、と言われているその光です。5節に「光は暗闇の中に輝いている。暗闇は光を理解しなかった」と言われているその光です。そして9節では「その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである」と言われています。初めにあった「言」、自らが神であり、命であり、光であるその方がこの世に来られて、まことの光として全ての人を照らす、それは主イエス・キリストのことです。「言」も「命」も「光」も、主イエス・キリストのことなのです。その「光」である主イエスについて証しをするために洗礼者ヨハネが現れたのです。洗礼者ヨハネは、「証し人」です。彼は主イエスこそがまことの光であることを全ての人が知り、信じるようになるために証しして、救い主イエス・キリストの働きのための備えをしたのです。

これは、主イエス・キリストの現れとは、罪が支配するこの世の暗闇の中に、神の救いの恵みの光が輝き、罪の闇に打ち勝つ、というような象徴的なことではありません。そうではなく、人間を照らす光が、暗闇の中に輝いているのです。それは、まことの神である主イエス・キリストが人間となってこの世に来て下さり、この地上を生きて下さり、十字架の死と復活による救いを実現して下さったことを言っているのです。「人間を照らす光」とは、主イエス・キリストです。「光は暗闇の中に輝いている」というのも、私たちの罪によって深まっているこの世の暗闇の中に、主イエス・キリストが来て下さり、私たちの罪を全て背負って十字架にかかって死んで下さり、それで私たちの罪を赦して下さり、その死からの復活によって、私たちにも復活と永遠の命の約束を与えて下さった、ということです。その主イエスが今、この礼拝において私たちと出会い、語りかけ、交わりを持って下さっているのです。この世の現実におけるどのような暗闇も、この主イエスの恵みの光に打ち勝つことはできません。暗闇は光を支配下に置くことはできないのです。

主イエスについての証しを聞いて、主イエスを神の言、救い主、まことの光として信じ、受け入れると、私たちには「神の子」として新しく生かされる、という救いを与えられます。

しかしそこには同時に、主イエスを受け入れず、信じない、ということも可能です。この世を生きている私たちは、自分がそのどちらの道を選び、歩むのかを問われているのです。「証しの書」であるヨハネ福音書は、そのことを私たちに問い掛けているのです。その最初の「証し」が洗礼者ヨハネです。洗礼者ヨハネから始まった主イエスについての証しを信じて受け入れ、世に来てすべての者を照らして下さるまことの光である主イエスによって照らされるなら、私たちも神の子とされて生きることができます。その信仰の歩みにおいて私たちも、まことの光である救い主イエス・キリストの証し人として、それぞれの生活の場へと、神によって遣わされていくのです。

お祈りを致します。

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起き上がりなさい

《賛美歌》

讃美歌66番
讃美歌365番
讃美歌225番

《聖書箇所》

旧約聖書  ネヘミヤ記 13章17-18節 (旧約聖書761ページ)

13:17 わたしはユダの貴族を責め、こう言った。「なんという悪事を働いているのか。安息日を汚しているではないか。
13:18 あなたたちの先祖がそのようにしたからこそ、神はわたしたちとこの都の上に、あれほどの不幸をもたらされたのではなかったか。あなたたちは安息日を汚すことによって、またしてもイスラエルに対する神の怒りを招こうとしている。」

新約聖書  ヨハネによる福音書 5章1-18節 (新約聖書171ページ)

5:1 その後、ユダヤ人の祭りがあったので、イエスはエルサレムに上られた。
5:2 エルサレムには羊の門の傍らに、ヘブライ語で「ベトザタ」と呼ばれる池があり、そこには五つの回廊があった。
5:3 この回廊には、病気の人、目の見えない人、足の不自由な人、体の麻痺した人などが、大勢横たわっていた。
5:3 (†底本に節が欠落 異本訳<5:3b-4>)彼らは、水が動くのを待っていた。それは、主の使いがときどき池に降りて来て、水が動くことがあり、水が動いたとき、真っ先に水に入る者は、どんな病気にかかっていても、いやされたからである。
5:5 さて、そこに三十八年も病気で苦しんでいる人がいた。
5:6 イエスは、その人が横たわっているのを見、また、もう長い間病気であるのを知って、「良くなりたいか」と言われた。
5:7 病人は答えた。「主よ、水が動くとき、わたしを池の中に入れてくれる人がいないのです。わたしが行くうちに、ほかの人が先に降りて行くのです。」
5:8 イエスは言われた。「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい。」
5:9 すると、その人はすぐに良くなって、床を担いで歩きだした。その日は安息日であった。
5:10 そこで、ユダヤ人たちは病気をいやしていただいた人に言った。「今日は安息日だ。だから床を担ぐことは、律法で許されていない。」
5:11 しかし、その人は、「わたしをいやしてくださった方が、『床を担いで歩きなさい』と言われたのです」と答えた。
5:12 彼らは、「お前に『床を担いで歩きなさい』と言ったのはだれだ」と尋ねた。
5:13 しかし、病気をいやしていただいた人は、それがだれであるか知らなかった。イエスは、群衆がそこにいる間に、立ち去られたからである。
5:14 その後、イエスは、神殿の境内でこの人に出会って言われた。「あなたは良くなったのだ。もう、罪を犯してはいけない。さもないと、もっと悪いことが起こるかもしれない。」
5:15 この人は立ち去って、自分をいやしたのはイエスだと、ユダヤ人たちに知らせた。
5:16 そのために、ユダヤ人たちはイエスを迫害し始めた。イエスが、安息日にこのようなことをしておられたからである。
5:17 イエスはお答えになった。「わたしの父は今もなお働いておられる。だから、わたしも働くのだ。」
5:18 このために、ユダヤ人たちは、ますますイエスを殺そうとねらうようになった。イエスが安息日を破るだけでなく、神を御自分の父と呼んで、御自身を神と等しい者とされたからである。

《説教》『起き上がりなさい』

今日、この礼拝のために与えられた御言葉は、2000年前のエルサレムの町のベトザタ池の畔での主イエスの癒しです。

2000年前の主イエスが歩かれたユダヤの都エルサレムの町は、周囲をぐるりと城壁で囲まれていました。

そのエルサレムの北東の城壁に「羊の門」と名付けられた門があり、その近くにベトザタと言う名の池があったと伝えて語られていました。ヨハネ福音書だけにその名が残されている、このベトザタの池が本当にあったのか、長い間、その存在が疑われていましたが、近代になってエルサレムの町の発掘調査が行われ、ついにこの池の跡が発見されたのです。

2000年前の主イエスの時代、このベトサダの池は隣り合う二つの池、北の池と南の池からなっていた様です。その二つの池をぐるりと囲む様に、屋根のついた四棟の回廊が建っており、その回廊には、沢山の病人たちが横たわっていたとヨハネ福音書は語っています。病気の人、目の見えない人、足の不自由な人、体の麻痺した人などが横たわる、病人だけが集まる所で、当時のユダヤ人にとっては近づき難い穢れた場所でした。この時は、ユダヤ人の祭りがあったので主イエスがエルサレムに上られたと1節に記されています。そして、主イエスはこのユダヤ人の近付かない穢れた場所をお訪ねになりました。

病人達がこの池に集まっていた理由を記す文章が、ここにはありませんが、よく見ると3節の終わりのところに十字架の様なマーク(♰)が印刷されています。そのマーク(♰)の後には4節がなく、すぐに5節となっています。これは、従来本文とされてきたこの箇所の文章が、元々はなかったものであり、後から誰かが加えた文章であるとされて削除されたことを表す印なのです。

そして、後に加筆されたと判断された3節後半から4節は、このヨハネによる福音書の一番最後212ページに付け足されています。そこにはこう書いてあります。

「彼らは、水が動くのを待っていた。それは、主の使いがときどき池に降りて来て、水が動くことがあり、水が動いたとき、真っ先に水に入る者は、どんな病気にかかっていても、いやされたからである」(3b-4)

何かの拍子に水面が動いたとき、人々はそれを天使が池に降りて来た証拠だと考えました。そのときに真っ先に池の水に入ったものはどんな病気でも癒されると信じられていたのです。この殆ど迷信の様な言い伝えだけが、当時の、この世から見捨てられた人々の望みをかすかに繋ぐものだったのです。

つまり、ベトザタの池に集まっていた多くの病人は水が動くときを待って、真っ先に池に入って、自分の病気を治してもらおうと集まっていたのです。

ここに集まる人々は「めったに起こらないその瞬間を逃してはならない、その瞬間が来たら、真っ先に飛び込もう」と考えて集まっていた人々でした。

「水が動いたとき、真っ先に水に入る者」だけ、つまり一番最初の一人しか癒されないのです。水が動いたらそこには何が起きるでしょうか。激しい競争が起きます。夜もおちおち眠れない、神経をピリピリとがらせた、不安な毎日が続きます。先に池に降りて行く者を憎み、呪い、妬む生活が続きます。池の水面が少し動くだけで、池の周りは修羅場と化したのです。

この様に、人と人の激しい競争から、憎しみや妬みに捉えられ、自分だけが先にならなければ幸福を得られないとベトザタ池の周りの人々は思っていました。この姿は私達の現実の姿とも似ています。

我先に池に入ろうと待ち構えている病人の中に38年間もの長い間、病気に苦しめられ、殆ど寝たきり状態だった一人の男が居ました。この男は、病気のために素早く動くことも出来ず、池の畔で横たわっているだけで、当然人より先に池に降りることも出来ずに38年間居たのでした。

つまり、この男は、仮に20歳位で病気を患っていたとしたら、この時は既に58歳にもなって、当時の人間の寿命から考えると、老人と言ってよい年齢です。

彼は、治る見込みもなく、家族からも見捨てられ、財産なども持っていなかったでしょう。ここには、同じ様な境遇の人々が沢山いた筈です。そして、この男を含め池の周囲の人々は皆孤独でした。なぜかと言えば、あの、いつ起こるとも知れない水の動きを巡って、お互いにライバル関係にあったからです。

ライバル関係ですから、勿論お互い慰め合いや励ましあい、会話や笑い、楽しみ喜びなど一切ない、それこそ魂の荒れ野とも言うべきところであったのです。

この病人ばかりの回廊に人々は決して近づこうともしません。周辺はユダヤの祭りで多くの人々が祝い騒いでいました。このような病人たちで穢れていると人々が思う場所、魂の荒れ野に主イエスだけがわざわざ訪ねられたのでした。

主イエスはその病人を憐れに思い「良くなりたいか」と声をかけられたのでした。私達は、この人が「はい、そうです。良くなりたいのです」と当然答えるだろうと考えます。ところが、この男の答えは「主よ。水が動くとき、わたしを池の中に入れてくれる人がいないのです。わたしが行くうちに、ほかの人が先に降りて行くのです。」でした。彼は、一緒に池の畔に横たわっているライバルを責めることしかしていません。他人への非難と自分の現実への不満の中でしか生きることが出来なくなって、心が歪み、魂がすさんでしまっていたのです。自己本位のこの男に、主イエスは、「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい」と言われました。これは主イエスにしか言えない言葉です。それは、主イエスこそがこの人の病と、その苦しみを代わって背負って下さる方だからです。主イエスはこの人を憐れに思われました。憐れまれて、肉体の病、憎しみと呪いにまみれた人生全体、それらすべてをご自分のものとして引き受け、担って下さったのです。「私が十字架の上であなたの惨めさ、あなたの病、あなたの苦しい思いをすべて代わりに担うから、あなたは起き上がりなさい」と仰って下さったのです。

この「起き上がりなさい(evgei,rw)」という言葉は主イエスが2章19節で「三日で神殿を立て直してみせる」とおっしゃった時の「建て直す」と同じ言葉です。その主イエスの「建て直す」は、2章22節の「復活される」という言葉とも同じです。主イエスが後に十字架の死から復活される、そのことを語るのと同じ言葉で、「起き上がりなさい」と言われているのです。そこに込められているのは、「私があなたのすべての悩みと苦しみ、いや死の力に打ち勝って復活するから、あなたは私の復活の光の中で立ち上がりなさい。その光の中に留まり続けなさい」、という主イエスの思いです。「起き上がりなさい」というみ言葉は、主イエスの十字架と復活による救いの恵みに彼をあずからせるためのみ言葉だったのです。

私たちもまた、この復活の光の中に置かれるとき、たとえこの男の様に完全な肉体の癒しが与えられなくとも、神様に向かって立ち続けることができるのです。主イエスの「起き上がりなさい」という御言葉のもとで、神を信じる信仰によって、希望を持って生きて行くことができるのです。

床を担いで歩き出したこの男に備えられた道は、主イエスの御言葉に立ち続け、歩み続ける道、主の救いに感謝し、その恵みを証しする道でした。自分を立ち上がらせた力が、何というお方のどの様な力であるかを正しくわきまえ、その恵みの中に留まって歩み続けることであった筈です。しかし、この男は、その道に踏みとどまることが出来なかったのでした。ヨハネ福音書が語るこのベトザタ池の癒しの奇蹟の出来事は更に複雑になって行きます。

この男は主イエスの癒しに与りながら、神の恵みの中に留まり続けることが出来ませんでした。

キッカケとなったのは、安息日に床を担いで歩いているところをユダヤ人たちに見咎められたことでした。それは律法と呼ばれるユダヤ人が守る神の掟を破っていることを意味していました。ユダヤ人たちは、38年間の長い苦しみから解放されたこの男の恵みを共に喜んだのではありませんでした。それどころか、「今日は安息日だから床を担ぐことは律法では許されない」と、「ユダヤの神の前に相応しくない」と、この人を責め立てたのです。

当時のユダヤ教では、神がモーセを通してイスラエルの民に与えた十の戒め、十戒をもとに600以上もの細かな規定が定められ、その中には安息日には何をしていいか、何をしてはいけないかが、細かく定められていました。安息日には何歩以上歩いてはいけない、一度使った炭ならば再び火を起こしても良いが、新しい炭で火は起こしてはならない、など、守らねばならない細かい規定が沢山ありました。病気を癒されたこの男が床を担いで喜んで歩き回っていたのは、この細かな規定に違反していたのです。それを責められたこの男は、「わたしをいやしてくださった方が、『床を担いで歩きなさい』と言われたのです」と答えました。この男は、ユダヤ人たちに責められて、自分では主イエスの恵みの大きさが分かっていながら、周囲の人々の批判に会い主イエスの救いを見失ってしまったのです。

責めるユダヤ人たちは「お前に『床を担いで歩きなさい』と言ったのはだれだ」と尋ねました。しかし、その答えは驚くべきもので、そこには、「病気をいやしていただいた人は、それがだれであるか知らなかった」とあります。考えられないことです。人生で最高の恵みを受けた筈なのに、その癒しを行って下さった方に名前さえ聞こうとしなかったのです。自分が癒されればそれで良い、誰が救って下さり、その方と自分は今どういう関係に招かれているのか、そういった事はこの人にとっては問題ではなかったのです。

ユダヤ人たちは、この男から聞き出した話によって、主イエスを迫害し始めます。そして何と、彼らは益々はっきりと主イエスを殺そうと狙うようになった、というのです。

その理由は、主イエスが安息日の律法を破り、この男に床を担がせただけではなく、全能の神を「私の父」と呼び、「御自身を神と等しい者とされたからである」といった理由からでした。

この男は、主イエスから受けた忘れてはならない筈の癒しを、「安息日には床を担ぐことは律法で許されていない」と咎めるユダヤ人たちの言葉に、その恵みを忘れてしまいます。

主イエスのお陰で今の私たちがあるのに、池で救われたこの男の様に、主イエスの光の中に立つことを忘れてしまう事や、今自分に与えられている恵みを恵みと思わずに当然の事として過ごしている事が、私たちの歩みにおいても多いのではないでしょうか。

ユダヤ人たちは神の御子を迫害するという罪を犯しながら、自分達は神に奉仕している敬虔な信仰者だと信じていました。また、病を癒されたこの男も、自分が癒され、楽になる事だけに留まり、自分を癒して下さった方との出会いと、この方との新しい関係に入って歩む事が出来ずに罪の中に留まってしまいました。

あろうことか、さらに、この男はユダヤ人たちの主イエスに対する殺意をあおり、結果として主イエスを十字架刑に送ることに加担してしまいました。

ベトザタの池の畔で、主イエスはこの男に出会って下さり、愛を持って救い上げて下さいました。

その後、神殿の境内で主イエスはこの男に再び出会って、「あなたは良くなったのだ。もう、罪を犯してはいけない。さもないと、もっと悪いことが起こるかもしれない」と言われました。それはその男の病気が罪の結果であると言っているのではありません。ここで問題となっている罪とは、主イエスに癒されたにも拘わらず、主イエスを自らの救い主として受け入れられなかったことです。

その男に再び出会ってくださった主イエスの御言葉は、「あなたは良くなったのだ。癒されたのだ。罪を赦されているのだ。礼拝に生きる者、ただ神の恵みのみによって赦され生かされている者なのだ。救われる前の苦しみを忘れることなく私の光の中にいなさい」と繰り返し語りかけてくださり、新しく目覚めさせようとして下さっているのです。

時間的には後になった、主イエスの十字架の贖いの死は、ベトザタの池で病を癒された、この男のためでもあったのです。この男を病から癒されただけではなく、罪からの救いを与えるために繰り返し会ってくださり、招いてくださっているのです。この男が主イエスを信じて救われたとは、ここの聖書箇所には書かれていませんが、この男も、この後でキリストの十字架の御業で救われたと信じたいものです。

主イエスは今日のこの礼拝においても私達に出会い「良くなりたいか」と声をかけてくださり、従う私たちに、「あなたは良くなったのだ。私の光の中を歩きなさい」と導いて下さっているのです。

主イエスは、私達に「起き上がりなさい」と声をかけられた時の事を、私達に思い起こさせ、主イエスの復活の光の中に留まる様にと、今日も出会って御言葉を与えて下さり、信仰に生きる希望を与えて下さいます。

お祈りを致しましょう。

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主イエスの祈り

《賛美歌》

讃美歌7番
讃美歌166番
讃美歌338番

《聖書箇所》

旧約聖書  詩篇 40篇9-10節 (旧約聖書873ページ)

40:9 わたしの神よ、御旨を行うことをわたしは望み/あなたの教えを胸に刻み
40:10 大いなる集会で正しく良い知らせを伝え/決して唇を閉じません。主よ、あなたはそれをご存じです。

新約聖書  ヨハネによる福音書 17章1-13節 (新約聖書202ページ)

17:1 イエスはこれらのことを話してから、天を仰いで言われた。「父よ、時が来ました。あなたの子があなたの栄光を現すようになるために、子に栄光を与えてください。
17:2 あなたは子にすべての人を支配する権能をお与えになりました。そのために、子はあなたからゆだねられた人すべてに、永遠の命を与えることができるのです。
17:3 永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。
17:4 わたしは、行うようにとあなたが与えてくださった業を成し遂げて、地上であなたの栄光を現しました。
17:5 父よ、今、御前でわたしに栄光を与えてください。世界が造られる前に、わたしがみもとで持っていたあの栄光を。
17:6 世から選び出してわたしに与えてくださった人々に、わたしは御名を現しました。彼らはあなたのものでしたが、あなたはわたしに与えてくださいました。彼らは、御言葉を守りました。
17:7 わたしに与えてくださったものはみな、あなたからのものであることを、今、彼らは知っています。
17:8 なぜなら、わたしはあなたから受けた言葉を彼らに伝え、彼らはそれを受け入れて、わたしがみもとから出て来たことを本当に知り、あなたがわたしをお遣わしになったことを信じたからです。
17:9 彼らのためにお願いします。世のためではなく、わたしに与えてくださった人々のためにお願いします。彼らはあなたのものだからです。
17:10 わたしのものはすべてあなたのもの、あなたのものはわたしのものです。わたしは彼らによって栄光を受けました。
17:11 わたしは、もはや世にはいません。彼らは世に残りますが、わたしはみもとに参ります。聖なる父よ、わたしに与えてくださった御名によって彼らを守ってください。わたしたちのように、彼らも一つとなるためです。
17:12 わたしは彼らと一緒にいる間、あなたが与えてくださった御名によって彼らを守りました。わたしが保護したので、滅びの子のほかは、だれも滅びませんでした。聖書が実現するためです。
17:13 しかし、今、わたしはみもとに参ります。世にいる間に、これらのことを語るのは、わたしの喜びが彼らの内に満ちあふれるようになるためです。

《説教》『主イエスの祈り』

今日、与えられた御言葉はヨハネによる福音書17章です。主イエスが弟子たちに教え共に過ごしたガリラヤを出られ、過越祭のエルサレムに入られ、いよいよ十字架の受難を迎えられるのです。ヨハネ福音書には最後の晩餐の明確な場面はありませんが、弟子たちの足を洗われ、沢山の教えとご自身の受難予告をされました。そして、十字架に架けられるために逮捕され、連行される直前にされたのが今日の「主イエスの祈り」です。

聖書の中で主イエスの祈りが記録されている箇所は沢山ありますが、最も有名なのが「主の祈り」でしょう。

このヨハネ福音書17章に記された主イエスの祈りは、聖書に記されている中でも最も長い祈りです。この祈りはその内容から「大祭司の祈り」とも呼ばれています。神の御子である主イエスが父なる神に私たちのためにとりなしてくださっている祈りだからです。主イエスが何を考えられ、何を祈られたのかは興味深いことです。今日のこの主イエスの祈りは、1節から5節の「主イエスご自身のための祈り」と6節以降の「弟子たちのための祈り」の二つに分けられます。先ず1節には、「イエスはこれらのことを話してから、天を仰いで言われた。『父よ、時が来ました。あなたの子があなたの栄光を現すようになるために、子に栄光を与えてください。』とあります。

主イエスは祈られるとき、目を天に向けられました。私たちは祈りの時に、目を閉じ、手を合わせ、頭を垂れてお祈りします。それが祈りの姿勢として教えられているからです。しかし主イエスの祈りの姿勢は、目を開いて、目を天に向けて、声を出して祈られています。手を合わせたとも記されていません。ですからまったく私たちの祈りの姿勢と違います。聖書には祈りの姿勢についてほとんど記されていません。旧約聖書では人々がひれ伏して祈った姿や、主イエスや弟子たちがひざまずいて祈られたことが書かれています。祈りは心でするのですから、決まった姿勢はありません。心から神様に祈るなら、どんな格好であれ、どんな場所であれ、天の神様は聞いてくださる筈です。

主イエスの祈りの第一声は「父よ。」でした。それは子供が父親に話すときの飾らない呼びかけです。そして「時がきました。」と宣言されました。この言葉には主イエスの深い思いが込められています。「時」と訳されている言葉は「ホラ:w[ra」というギリシャ語で時刻、時間を表します。『とうとう時間がきました』、『ついにその時刻になりました』という思いが込められています。今まで宣教の働きを続けられてきた中で、主イエスは「時」ということを常に考えて行動されていました。「わたしの時はまだ来ていません」、「わたしの時はまだ満ちていません」と語られたお方が、「ついにその時になりました」とおっしゃっているのです。それは神様が創造されたこの世界の歴史の中で、「最も大いなる時」です。罪に汚れた世界から私たちを救い出すために、御子が十字架に架かり、贖いをなされる「時」がそこまで来ているのです。

世界の歴史がアダムからはじまり、アダムが罪に陥って以来、この世界は神様が望まれた世界とは違った方向に進んできました。この世界は罪が支配する世界となってしまったのです。その罪に満ちた世界の中に住み、罪に陥っている私たちを神様は憐れまれました。そして罪の世界から私たちを救い出そうとされて贖いの御計画を立てられたのです。ついに、その時が来たのです。人間が受けるべき罪の刑罰を罪の無いキリストが背負って死なれることにより、罪の赦しが与えられる時です。それは主イエスが父なる神のみもとへ帰還する時であり、人の子として栄光をお受けになる時です。ヨハネ福音書では繰り返し主イエスの時がまだ到来していないことが告げられてきました。今まさに主イエスの受難と栄光の時が到来したのです。主イエスは栄光を現して下さるよう父なる神に祈り求めます。主イエスの栄光と十字架は不可分なのです。主イエスの十字架の死を通して永遠の命が私たちにもたらされるのです。この永遠の命を与えられることにおいては父と子の栄光は完全に一致しているのです。父なる神は、御子が永遠の命を与えるための人々を御子に与え、そのすべてのものを支配する権威を与えられたのが、次の2節と3節で、「あなたは子にすべての人を支配する権能をお与えになりました。そのために、子はあなたからゆだねられた人すべてに、永遠の命を与えることができるのです。永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。」とあります。

主イエスはご自身のためには、ただ一つのことだけを父なる神に願っておられます。それは「栄光を与えてください」です。それは、もともと主エスが持っておられた栄光です。三位一体の神として栄光の中に住んでおられたお方が、天での栄光を捨てて父なる神の御心に従って人間イエスとしてこの世に下ってこられました。その目的は父なる神の栄光を現すためであり、私たちを罪のさばきから救い、永遠のいのちを与えるためでした。

イエス・キリストが天の栄光を捨てられるほど人間を愛しておられる、それは私たちの目には不思議なことです。これを理解するためには、皆さんが神様の立場になったときのことを考えてみてはどうでしょうか。

もし皆さんが神様で、全能者だったらどうするでしょうか。最高のおしゃれをし、最高の車に乗り、最高の家に住みます。何でも思いのままです。しかしだんだんとその虚しさに気付くのではないでしょうか。すべてのものを手に入れても、愛が無ければ虚しいものです。全能者であるなら、金も衣食住も、すべてのものを手に入れることができます。そこには感動や喜びは有るのでしょうか。全能者にとって何が喜びとなりえるのでしょうか。その答えは聖書にあります。新約聖書317ページ コリントの信徒への手紙第一13章13節には、「それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。」と記されています。

これは素晴らしい真理のことばです、最も大いなるものは愛だと教えているのです。

全能者には希望も信仰も必要ありません。すべて現実となるからです。残るのは愛だけです。そして事実、神様は聖書を通して、私たち人間を愛していると伝えておられます。新約聖書167ページヨハネによる福音書3章16節に、「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである」とはっきりと示されています。

全能者なる神様は私たちを愛しておられ、そして私たちが神様を愛することを願っておられるのです。

もし私が全能者であるなら、人間が崖から落ちそうになったときに手を差し伸べて助けあげるでしょう。人間が悩み苦しんでいるなら解決しようとするでしょう。しかし、決して自分が身代わりになって死の苦しみを味わおうとは思わないでしょう。自分が造ったもののために苦しむことなどありえないからです。しかし、主イエスはそれをしてくださったのです。ご自分の栄光を捨てて、人となられ、苦しまれ、実に十字架の死の苦しみまでも味わわれました。主イエスは私たちのため大いなる代償を支払ってくださったのです。主イエスの愛は私たちの想像をはるかに超えているのです。そして4節と5節には、「わたしは、行うようにとあなたが与えてくださった業を成し遂げて、地上であなたの栄光を現しました。父よ、今、御前でわたしに栄光を与えてください。世界が造られる前に、わたしがみもとで持っていたあの栄光を。」と祈られました。

地上での主イエスは数々の奇蹟をはじめ、なすべきわざをすべて行われました。語るべきことばをすべて弟子たちに語り終えられました。そして父なる神の御心を示し、ご自身の愛を示されました。この直後、捕えられ、十字架で殺されること、そして三日目によみがえられることもご存知で、その覚悟もできていました。主イエス御自身の御言葉から、十字架の受難はすでに終わったことのように話されています。主イエスの祈りは地上での役目を終えられて父なる神の身元に帰って、栄光の中に留まることでした。それが主イエスが、ご自身のために祈られた唯一のことでした。そして、この後からは、弟子たちのために、私たちのために祈られます。

6節にあるように主イエスは弟子たちを、父なる神によって主イエスに与えられた者と呼ばれます。また、このヨハネ福音書は信仰者をも父なる神によって主イエスに与えられた者たちと呼びます(6:37,39,10:29,17:2,6‐9,24,18:9)。この与えられた者たちに主イエスは父なる神を知らせ、御言葉を与えられました。彼らは主イエスの御言葉を受け入れ、主イエスが神のみもとから遣わされた方であることを信じました(17:8)。6節から10節で主イエスが祈られた「彼ら」とは、弟子たちだけではなく、9節の「わたしに与えてくださった人々」とあるように、キリストを信じる信仰者すべてであり、10節にあるようにその信仰者が主イエスを通して神に栄光を帰するのです。

成すべき御業を成し遂げ、語るべき御言葉をすべて語り終えたと主イエスは言われました。父なる神から受けた使命をすべて終えたという達成感のある言葉です。そして主イエスの働きを通して、弟子たちが主の御言葉を信じ、イエス・キリストが天から来られたことを理解し、そして永遠のいのちを持ち、神様の者となったことを感謝し祈られたのでした。

主イエスはご自分が十字架の贖いを成し終えて天に帰られることを知っておられました。従って、自分のすぐ後に続く福音宣教の働きを弟子たちに託され、そのために主イエスは弟子たちのために11節から13節で祈られました。これから使徒として彼らがどんな困難にも負けず、働いていくためでした。そして弟子たちの福音宣教を通して救われるクリスチャンたちのために同じ内容のことを祈られました。ですから、この主イエスの祈りは私たちのために祈られた祈りでもあるのです。

この主イエスの祈りと願いから、私たちが何を求めて祈ったらいいのか、そしてどのように信仰者として生きていったらよいのかを知ることができます。今、父なる神のみもとへ行かれようとしている主イエスが願われるのは、弟子たちをこの世から連れ出すことではありません。このすぐ後の15節にあるように、彼らがこの世にあって悪い者から守られることなのです。それは主イエスが弟子たちをやむを得ず世に残しておくのではなく、積極的に弟子たちを世に対して派遣しているからなのです。父なる神が御子イエスをこの世に派遣して御業を成し遂げさせたように、弟子たちをこの世に派遣するのが目的なのです。

世に遣わされる弟子たちのために、17節にあるように主イエスはまた彼らの聖別を祈られます。神が聖であるように彼らも聖であることが求められているのです。

クリスチャンたちが神の家族として仲睦まじく集う教会、互いに愛し合い、励まし合い、主にある豊かな恵みを分かち合う教会、そしてその中心にはイエス・キリストがおられ、心からの礼拝を共にささげる教会は、天国に最も近い場所だと言えるでしょう。

しかしながら、実際の教会には多くの問題があることも現実です。教会に集われる人々には、大人もいれば子供もおり、老人もいます。男性も女性もいて、育った環境や性格も趣味も違います。当然、習慣の違いや考え方の違いがあります。

信仰面では、聖書解釈が違ったり、伝道方針が違ったりもするでしょう。仲たがいがあり、躓いたりして、和やかに交わることができないときもあります。

自分の思い描く理想の教会との違いにつまずいてしまう人もいます。教会につまずくくらいなら教会に来ることをやめたいと思う人もいます。そのようなときには、主イエスが「御名によって彼らを守ってください」と祈られたことを思い出しましょう。

私たちは同じ信仰を持って生きています。同じ御霊をいただいています。同じ主イエスを信じています。主イエスを愛するように互いに愛し合おうとするなら多くの問題は必ず解決できる筈です。愛はすべての結びの帯であり、私たちが一つとなるために新しい戒めとして主イエスが与えられたのです。

その愛による執り成しの祈りを、主イエスは今も私たちのために祈ってくださっているのです。

お祈りを致しましょう。

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生きた水を与える主

《賛美歌》

讃美歌298番
讃美歌404番
讃美歌461番

《聖書箇所》

旧約聖書  詩篇 1篇1-6節 (旧約聖書835ページ)

1:1 いかに幸いなことか
神に逆らう者の計らいに従って歩まず
罪ある者の道にとどまらず
傲慢な者と共に座らず
1:2 主の教えを愛し
その教えを昼も夜も口ずさむ人。
1:3 その人は流れのほとりに植えられた木。ときが巡り来れば実を結び
葉もしおれることがない。その人のすることはすべて、繁栄をもたらす。
1:4 神に逆らう者はそうではない。彼は風に吹き飛ばされるもみ殻。
1:5 神に逆らう者は裁きに堪えず
罪ある者は神に従う人の集いに堪えない。
1:6 神に従う人の道を主は知っていてくださる。神に逆らう者の道は滅びに至る。

新約聖書  ヨハネによる福音書 4章1-15節 (新約聖書168ページ)

◆イエスとサマリアの女
4:1 さて、イエスがヨハネよりも多くの弟子をつくり、洗礼を授けておられるということが、ファリサイ派の人々の耳に入った。イエスはそれを知ると、
4:2 ―洗礼を授けていたのは、イエス御自身ではなく、弟子たちである―
4:3 ユダヤを去り、再びガリラヤへ行かれた。
4:4 しかし、サマリアを通らねばならなかった。
4:5 それで、ヤコブがその子ヨセフに与えた土地の近くにある、シカルというサマリアの町に来られた。
4:6 そこにはヤコブの井戸があった。イエスは旅に疲れて、そのまま井戸のそばに座っておられた。正午ごろのことである。
4:7 サマリアの女が水をくみに来た。イエスは、「水を飲ませてください」と言われた。
4:8 弟子たちは食べ物を買うために町に行っていた。
4:9 すると、サマリアの女は、「ユダヤ人のあなたがサマリアの女のわたしに、どうして水を飲ませてほしいと頼むのですか」と言った。ユダヤ人はサマリア人とは交際しないからである。
4:10 イエスは答えて言われた。「もしあなたが、神の賜物を知っており、また、『水を飲ませてください』と言ったのがだれであるか知っていたならば、あなたの方からその人に頼み、その人はあなたに生きた水を与えたことであろう。」
4:11 女は言った。「主よ、あなたはくむ物をお持ちでないし、井戸は深いのです。どこからその生きた水を手にお入れになるのですか。
4:12 あなたは、わたしたちの父ヤコブよりも偉いのですか。ヤコブがこの井戸をわたしたちに与え、彼自身も、その子供や家畜も、この井戸から水を飲んだのです。」
4:13 イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでもまた渇く。
4:14 しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」
4:15 女は言った。「主よ、渇くことがないように、また、ここにくみに来なくてもいいように、その水をください。」

《説教原稿》

本日はヨハネによる福音書4章の1節から15節をご一緒に読むのですが、この場面は、5節と6節にあるように、シカルというサマリアの町の近くにあるヤコブの井戸での出来事です。

主イエスはこの時、旅をしておられました。3節と4節に、「ユダヤを去り、再びガリラヤへ行かれた。しかし、サマリアを通らねばならなかった」とあります。聖書の後ろにある付録の中に地図があります。旧約新約が合わさっている聖書ですと地図の6に「新約時代のパレスチナ」というのがありますのでご覧いただきたいのですが、ユダヤは、この地図の下の方、死海の西側あたり、エルサレムを中心とする地域です。ガリラヤは上の方、つまり北の方の、ガリラヤ湖のあたりです。ユダヤからガリラヤへ北上していく時に通らなければならないのが、その間にあるサマリアで、この地図の真ん中あたりです。そこに「ゲリジム山」という山が書かれています。その北に「シカル」があります。ユダヤからガリラヤへの旅の丁度半ばに、主イエスはこのシカルというサマリアの町に来られたのです。このシカルの町の近くに、「ヤコブの井戸」と呼ばれる泉があったのです。主イエスは旅に疲れて、その井戸のそばに座っておられた、とあります。そこに、サマリアの女が水を汲みに来ました。旅に疲れ、喉が渇いていた主イエスは彼女に、「水を飲ませてください」と頼んだのです。

井戸というと私たちは、狭い縦穴を思い浮かべます。この「ヤコブの井戸」は、町中の辻にある井戸ではなくて、町の外にある泉であり、「泉」と「井戸」は同じ言葉なのです。

人々は毎日町を出てそこに水を汲みに来たのです。生活のための水はこの泉に来て、水がめに汲んで家まで持ち帰らなければなりませんでした。この泉がシカルの町中からどれくらい離れていたのかは分かりませんが、8節に「弟子たちは食べ物を買うために町に行っていた」とありますし、28節には、「女は、水がめをそこに置いたまま町に行き」ともあります。シカルの町とこの泉との間には一定の距離があったことが分かります。このヤコブの泉のほとりで、そこに水を汲みに来た一人の女性と主イエスとが出会い、そこで語られたのがこの13節と14節のみ言葉だったのです。主イエスが「水を飲ませてください」と願ったことから、主イエスと彼女との間に会話が始まり、二人の出会いが起りました。それは決して、たまたま偶然に起ったことではありません。主イエスは既に彼女のことを知っておられ、彼女を救いへと招くために、主イエスの方から声をかけ、出会って下さったのです。

13節で主イエスは、「この水を飲む者はだれでもまた渇く」とおっしゃいました。人は生きるために水を飲まなければなりません。しかし水はとても重いものですから、一度にそうたくさん汲んで来ることはできません。だからじきになくなり、また泉へ汲みに行かなければならないのです。水道やペットボトルのある生活に慣れている私たちには想像もできないような苦労が、昔の人々の生活にはあったのです。飲んでも暫らくするとまた喉が渇くということのない、一度飲めばもう決して渇かない水を与える、と主イエスはおっしゃったのです。しかもこの水は、一度飲めばその効果が持続するだけではありません。主イエスが与えて下さる水は、その人の内で泉となるのです。つまり新鮮な水が滾々と湧き出る泉が自分の内に出来るのです。その水によっていつも新たに潤され、渇きを癒されるのです。汲めども尽きぬ水が自分自身の中にいつも湧き出るようになるから、もう渇くことがなくなるのです。主イエスのこのお言葉を聞いてこのサマリアの女性は「主よ、渇くことがないように、また、ここにくみに来なくてももいいように、その水をください」と願いました。そういう泉が自分の中にあれば、もう遠くの泉へ水を汲みに行く必要がなくなる、と思ったのです。

この女性が自分から主イエスに水を求めるようになったのは、いくつかの驚きが積み重なったことによってでした。その驚きは主イエスが彼女にもたらしたものです。主イエスの方から「水を飲ませてください」と声をかけられたことは、彼女にとって大きな驚きでした。9節で彼女は、「ユダヤ人のあなたがサマリアの女のわたしに、どうして水を飲ませてほしいと頼むのですか」と言っています。彼女はここで二つのことに驚いたのです。一つは、当時、ラビと呼ばれている律法の教師は、公の場で女性に声をかけることはしませんでした。彼女は、主イエスと弟子たちの一行を、律法の教師が弟子と共に旅をしているのだと思ったのです。律法の教師は、自分が汚れを受けてしまうリスクのあることは一切しません。弟子たちだけが町へ買い物に行っているというのもそういうことだと彼女は思ったのです。そういう律法の教師が、女である自分に親しく声をかけ、水を飲ませてくださいなどと頼むなんて、当時は考えられないことでした。彼女は先ずそのことに驚いたのです。

そして第二の、大きな驚きは、主イエスはユダヤ人であり、自分はサマリア人だということです。9節の後半に「ユダヤ人はサマリア人とは交際しないからである」とあるように、ユダヤ人とサマリア人は当時、お互いに敵意を抱いており、口もきかないような関係でした。それには歴史的ないきさつがありますが、ここではそれには触れません。とにかくユダヤ人がサマリア人にものを頼むなどというのはあり得ないことだったのです。このように主イエスの方から「水を飲ませてください」と声をかけられたことに彼女は極めて驚いたのです。その驚きは彼女の中に主イエスについて一つの思いを芽生えさせたと言えるでしょう。それは、この人は自分が知っている律法の教師たちとは全く違う、という思いです。この人は、男と女を分け隔てする、今日の言葉で言えば差別の思いに捕われていない。またこの人は、ユダヤ人とサマリア人の間の、決して乗り越えることができないと思われる分厚い壁、お互いを隔てて住む世界を違うものとしている障壁をも、事もなげに乗り越えている。こんな人には今まで出会ったことがない。そういう思いを彼女は抱いたのです。彼女は、その主イエスの姿に新鮮な驚きを感じたのです。

そして、その驚きに、主イエスは10節の、「もしあなたが、神の賜物を知っており、また、『水を飲ませてください』と言ったのがだれであるか知っていたならば、あなたの方から“その人”に頼み、その人はあなたに生きた水を与えたことであろう」と答えられました。彼女には主イエスのこの言葉の意味はさっぱり分からなかったでしょう。しかし、「水を飲ませてください」と言った“その人”というのは目の前にいるこの人であり、この人が、私はあなたに生きた水を与える、と言っていることだけは分かったのです。それはいったいどういうことだろうか、水を飲ませてくださいと願っているこの人が私に水を与えるだなんて、そんなことがどうしてあり得るだろうか、と彼女はますます驚き、混乱しました。そしてこう言ったのです。11と12節です。「主よ、あなたはくむ物をお持ちでないし、井戸は深いのです。どこからその生きた水を手にお入れになるのですか。あなたは、わたしたちの父ヤコブよりも偉いのですか。ヤコブがこの井戸をわたしたちに与え、彼自身も、その子供や家畜も、この井戸から水を飲んだのです」。彼女は、主イエスが与えると言っておられる「生きた水」を、泉から湧き出る普通の水として捉えています。だから、あなたは汲む物も持っていないのにどうして私に水を与えることなどできるのですか、と言ったのです。しかしここで彼女は、主イエスの言葉に、泉から汲まれた普通の水を与えることとは違う何かを感じ取ってもいます。「あなたは、わたしたちの父ヤコブよりも偉いのですか」以下の言葉がそれを表しています。サマリア人にとっても、ヤコブはユダヤ人たちと共通の先祖です。その先祖ヤコブが、息子ヨセフを通して、自分たちの先祖であるマナセとエフライムにこの地を与え、ここで生きるようにしてくれたのです。ヤコブがこの井戸を与えてくれたというのは、自分たちが生きていく場としてこの地を与えてくれたことを意味しているのです。そのことを持ち出している彼女の言葉には、あなたも先祖ヤコブと同じように、水を与えるだけでなく、私たちが生きていく場を、言い換えれば私たちに命を与えて下さる方なのですか、という問いが込められています。彼女は、「私がだれであるかをあなたが知っていたなら、あなたの方から私に生きた水を求め、私はそれを与えるだろう」と言われる主イエスの言葉に驚かされながらも、そこに自分たちを本当に生かしてくれる神の力と権威を、おぼろげながら感じ始めているのです。

主イエスはご自分から彼女に語りかけ、出会っていかれました。それが、主イエスに対する驚きをもたらし、主イエスが与える生きた水を求める思いを少しずつ育てていったのです。その上で、あの13節と14節のみ言葉をお語りになったのです。「この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」。それを聞いた彼女は、「主よ、渇くことがないように、また、ここにくみに来なくてももいいように、その水をください」と願いました。このようにして、水を飲ませてくださいと主イエスから求められた彼女が、自分から主イエスに水を求める者へと変えられたのです。

しかし、彼女が求めているのはなお、泉から汲む普通の水です。決して渇かなくなる水があれば、繰り返しこの泉に汲みに来なくてもよくなるから、と言っています。けれどもその彼女の心の中には同時に、よく分かってはいないながらも、普通の水を超えた、自分を本当に生かす「生きた水」「永遠の命に至る水」を求める思いが芽生えてきていると言えるでしょう。「水を飲ませてください」と自分に頼んできたこの方は、実は私たちを本当に生かす水を与えて下さる方なのかもしれない、と彼女は思い始めているのです。「主よ」という呼び掛けがそのことを示しています。主であられる方に、渇くことのない命の水を求める思いを、主イエスご自身が彼女の中に起し、与えて下さったのです。

主イエスは私たちと出会って下さり、語りかけて下さることによって、私たちの中にも、主イエスが与えて下さる生きた水、永遠の命に至る水を求める思いを起し、与えて下さいます。その水は、私たちの渇きを一時癒すだけの、その場しのぎの水ではありません。それは私たちの内で泉となり、永遠の命に至る水が湧き出るような水、主イエス・キリストは私たちの内に、新鮮な水が滾々と湧き出る泉を与えて下さるのです。この泉は、主イエス・キリストご自身です。主イエス・キリストご自身が私たちの内に来て下さり、宿って下さることによって、泉となって下さるのです。それは私たちが主イエスを信じて、主イエスと共に生きる者となること、洗礼を受けてキリストの体である教会の一員とされることによって与えられる恵みです。主イエス・キリストと結び合わされることによって、主イエスが私たちの内で泉となり、生きた水によって私たちの渇きを癒し、潤していって下さるのです。

主イエスは私たちの救いのために、私たちの罪を全て背負って十字架にかかって死んで下さった方です。そして私たちの先駆けとして復活して、永遠の命を生きておられる方です。十字架にかかって死んで、復活して下さった主イエスが与えて下さる水ですから、それは「永遠の命に至る水」、肉体の死を超えて、私たちを、主イエスの復活と永遠の命にあずからせてくれる水です。「その水を私にください」と求めさえすれば、主イエスという涸れることのない泉が私たちの内に宿って下さり、私たちを決して渇くことのない生きた水によって潤して下さり、流れのほとりに植えられた木のように豊かに実を結ばせて下さるのです。

お祈りを致します。

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