あなたは宝の民

成宗教会副牧師 藤野美樹

聖書:ヨハネによる福音書 15:12~17、申命記7:6~11

私たち夫婦が、この成宗教会に赴任して、2ヶ月が経とうとしております。雄大牧師と、成宗教会に赴任してまだ二ヶ月か、もう二年経ったような気がするね、と言っていました。というのも、この二ヶ月は、いろいろなことがぎっしりつまった二ヶ月間でありました。並木牧師から引き継ぎ、受難節、イースター礼拝、定期総会、納骨式、墓前礼拝、そして、ひとりの姉妹の信仰告白式を行うことができました。家族のようにホットする雰囲気の教会の方々にいろいろ教えていただきながら、牧会をすることができており、とても感謝しております。

二ヶ月前、成宗教会にどんな方々がいらっしゃるのかも知りませんでした。でも、今では毎週お会いして、ともに礼拝を守り、祈り合っております。二ヶ月前には想像もつかないことでした。この成宗教会に赴任したことに、神様の不思議なお導きを感じずにはいられません。

教会というところには、さまざまな人たちが集まっています。年齢も仕事も境遇も教会へ通うきっかけも、それぞれ違う方々が週一回集まり、ともに神様のまえにひれふして、礼拝を捧げています。そう考えますと、教会とはとても不思議なところに思えます。

教会とは、一体何でしょうか。

本日読みました、申命記ではこう語られています。

「あなたは、あなたの神、主の聖なる民である。あなたの神、主は地の面にいるすべての民のなかからあなたを選び、御自分の宝の民とされた。」

教会とは、「聖なる民」の集まりだと言われているのです。ここで言われている「聖なる」というのは、道徳的に清く正しいという意味ではありません。「聖なる民」というのは、「主なる神様のために聖別された」人々、という意味です。私たちは、それぞれ、神様との関係の中で、召し出され、招かれて、いま教会にいるということです。そして、神様は私たちのことを「宝の民」と呼んで、宝のように価値のある者としてくださっています。

しかし、私たちがそのようにして神様から選ばれ、「宝の民」と呼ばれるのは、なぜでしょうか。私たち、教会に集う者たちは、この地上の誰よりも優れているから、選ばれたのでしょうか。7節ではこう語られています。

「主が心引かれてあなたたちを選ばれたのは、あなたたちが他のどの民よりも数が多かったからではない。あなたたちは他のどの民よりも貧弱であった。ただ、あなたに対する主の愛のゆえに」。

つまり、私たちが選ばれ理由は、私たちの能力、素質によるのではなく、ひとえに「神様の愛」によるのです。神の選びは、人間の側の価値ではなく、むしろ資格のないような者に向けられているのです。それは、この世の価値観とは正反対です。「宝の民」と呼ばれる私たちは、優れたものであるどころか、神様から見たら貧弱な存在です。しかし、神様は私たちを選んで、「神様の宝の民」としてくださいました。

このように、教会というのは、ただ神様の愛によって選ばれた者の集いなのです。

本日お読みしました、もうひとつの聖書のみことば、ヨハネによる福音書にも、この「選び」ということが語られています。15章16節で主はこうおっしゃいます。

「あなたがたがわたしを選んだのではない、わたしがあなたがたを選んだ。」

主イエスは、はっきりと仰います。主が私たちを選んでくださいました。私たちの側には主の選びにふさわしい理由は何もないのです。主イエスが私たちを探しに来てくださったから、私たちは主イエスを知ることができたのです。主の無償の愛が私たちには注がれているのです。

13~15節では、さらに、その主の愛について語られています。

「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。」 

 主イエスは、私たちを「友」と呼んでくださっています。「友」とは、何でも打ち明けたり、共有したりできる間柄です。長く続く友情というのは、利害関係によって成り立つものではなく、利害に関わらず、何でも打ち明けたり、指摘し合ったりできる間柄ではないでしょうか。主イエスは、無償の愛を注いで、私たちの本当の「友」になってくださいました。

主イエスは友である私たちのために、十字架の死によってご自分の命を捧げられました。主の十字架の死によって、私たちの罪は帳消しにされました。それほどまでに、私たちを愛してくださったからです。主が私たち人間のために命を捨てられ、罪を赦してくださったことを思う時、そこには人間の友人関係以上の、もはや私たちには想像できない、深い愛を感じるのではないでしょうか。

主は、私たちとの関係性を僕と主人にたとえておられます。僕つまり奴隷は、主人のことをよく知らず、愛されているかいないかもわからず、ただ主人から命令されたことだけをするのです。でも、私たちと神様の関係は異なります。友となってくださる神様は、私たちにはっきりと、その愛を知らせ、すべてを打ち明けてくださっています。

カルヴァンは15節の注解で、このように言います。「わたしたちは福音のうちに、いわば開かれたキリストの心を所有しており、かれの愛を疑わず、容易に把握できるようにされているのである。わたしたちは、わたしたちの救いの確実性を求めて、雲の上はるかに高く登ったり、深淵の奥底に深く沈み入ろうとする必要はない。福音のうちに含まれているこの愛のあかしだけで満足しよう。」と言っています。

私たちは、福音のみことば、聖書、つまり主イエス・キリストを通して、神様の愛を知らされています。ですから、すこしも神様の愛を疑わず、救いに預かることができるのです。

主が、私たち人間のために、罪を贖うために、この世に降りてきてくさって、十字架の死と復活によって、大きな愛を示してくださいました。ですから、私たちのほうが、がんばって登って行く必要もないし、神様の愛がわからない、難しい、と深淵でもがき苦しむ必要もないというのです。

教会というのは、そのとてつもなく大きな、神様の無償の愛を受けるために選ばれた者が集まるところです。

成宗教会は、今から約80年前、この成田の地で開拓伝道された有馬牧師の家庭集会から始まりました。現在に至るまで、成宗教会は滞ることなく礼拝をずっと守り続け、永遠に変わることのない福音をのべ伝えて来ました。そしてこれからも、福音をのべ伝えて行きます。

教会員の数が減り、伝道が困難なこの時代です。日本の教会はずっと、多くの信仰者が与えられるように祈り続けてきました。それでも、クリスチャンの人口は減っており、もともと1パーセントと言われていましたが、もう1パーセントを切ってしまいました。

アメリカ留学中には、いろいろな国の生徒がいました。アメリカや韓国、中国、エチオピア、ナイジェリア、どの学生も口を揃えて、日本のクリスチャンは少ないと聞いているけれど、伝道が進むように祈っているよ、と言ってくれました。

でも、考えてみると、伝道が困難なこの日本のなかで、私たちはクリスチャンとして生きております。その少ない1パーセントのなかに入れられているのです。神様が私たちを選んでくださったのです。この成宗教会が成田の地で開拓伝道を始めて、約80年間の伝道の業によって、いまここに私たちは呼び集められました。これは、「実り」であると言えるのではないでしょうか。主はおっしゃいます。

「あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである」。

ここでは、主イエス・キリストにつながって、祈り求めるのなら、父なる神様は必ず実りを与えてくださると言われています。15章のはじめには、ぶどうの木のたとえが語られています。ぶどうの木は、枝が幹にしっかりとつながって養分がたっぷり行き渡り、しっかりと剪定されれば、おいしい実が実ります。

教会は、このぶどうの木のようなものです。父なる神様によって剪定された、つまり選ばれた枝である私たちは、主イエス・キリストという養分たっぷりの幹につながっていれば、必ず豊かな実を結ぶことができるのです。

私たちは、教会に集い、礼拝で福音のめぐみに生かされています。それは、教会が今までなしてきた、大きな実りということができるのではないでしょうか。そして、そのぶどうの実は、だれかに食べられて無くなってしまうものではなくて、これからも残るものです。私たち、ひとりひとりのうちに永遠の命の御言葉として残ると同時に、教会がこれからも実りを生み出していくという意味においても、永遠に残っていくものです。

そのとき、教会に、神様の無償の愛により任命され、選ばれた私たちには、求められていることがあります。しかも、主はそのことを繰り返し、何度も何度もおっしゃっておられます。それは、この神様の愛にとどまりつつ、「互いに愛し合う」ということです。神様から受けている大きな愛を、互いに持ちながら、互いに愛し合いつつ、全員で協力して、教会を立てていく必要があるのです。

主の喜びが私たちの内に満ちあふれるように

聖書:詩編84篇5-13節, ヨハネ17章1-13節

 本日は、礼拝の後、新しい牧師先生方をお迎えし、私を送るというので、長老会は歓送迎会を予定してくださいました。私は4月に赴任される藤野雄大先生、美樹先生の歓迎会は当然4月の最初に開くべき、と思いましたが、本当に人手の少ないところ準備してくださることを思い、今日のような形になりました。しかし、これで良かったとも思います。なぜなら、私は、私を見送るだけのために今日の礼拝に出席していただきたいとは思わなかったからです。なぜなら、私は礼拝に向かって皆様をいつもいつもお招きして来たのですから、私のために礼拝にいらしてくださいというつもりは全くなかったからです。

それが、御言葉を語るために遣わされた者の思いです。17年も講壇に立って来たのに、説教準備は一度だって楽だったことはありませんでした。楽ということは祈らなくてもできるということですから。いつでも苦しんで祈って聖霊の助けを求めて準備して参りました。引退したら、さぞ並木先生は楽になるだろうと思っている方もおられるでしょう。ところがそうではございません。私は御言葉を語るのがこんなに苦しいのに、しかし説教のために準備することで、救われていました。それが教会にいる私の務めだったからです。説教者の務めのために、私はありとあらゆることを耐え忍ぶことができたのだと思います。

皆様はどうでしょうか。礼拝に来るのは健康の面で大変な人が増えました。忙しい人も、仕事を理由に礼拝から遠ざかる人々も増えました。しかし、楽に教会に来られる人々だけが礼拝を守っているのでしょうか。そんなことはございません。私は若い時、鬱状態でした。二時間と続けて眠ることができない時もありました。しかし、とにかく教会に向かって足を向けよう、と思いました。100m歩いてダメだったら、家に帰ろうと思いました。教会に着いた途端にダメだったら、それでも良いと思って礼拝に向かいました。途中で引き返すようなことには一度もなりませんでした。礼拝に向かう思いを、主は喜んでくださいます。皆様も苦労して苦労しても礼拝に足を運び、御言葉を聞き続けてください。

本日は詩編84篇5節から読みました。「いかに幸いなことでしょう。あなたの家に住むことができるなら、まして、あなたを賛美することができるなら。いかに幸いなことでしょう。あなたによって勇気を出し、心に広い道を見ている人は。嘆きの谷を通るときも、そこを泉とするでしょう。雨も降り、祝福で覆ってくれるでしょう。彼らはいよいよ力を増して進み、ついにシオンで神にまみえるでしょう。」神さまは礼拝のために集まって来る人々に、シオンでお会いくださいます。そのように、神さまは礼拝のために教会に集まる人々を喜ばれ、聖霊によって共にいらしてくださいます。礼拝で、人々は共に御言葉を聞き、讃美を捧げ、自分たちの告白によって神さまをほめたたえ、互いに顔と顔とを合わせて、慰めと励ましを共にいただくのです。

私が御言葉を語る務めのために、すべてのことを耐え忍ぶことができたように、皆様もあらゆる困難苦難の中で苦労して礼拝を守り、御言葉を聞き続けるならば、わたしたちが生きて行くために通らなければならない道筋で起こるすべてのことを耐え忍ぶことができるでしょう。私はこのことを確信して皆様にお勧め致します。

さて、わたしたちが礼拝で学んで参りました主の祈りですが、本日は最後の祈りの言葉です。主の祈りを祈るわたしたちは「国と力と栄えとは限りなく汝のものなればなり」と祈って、最後にアーメンと唱えます。この「アーメン」とはどういうことでしょうか。わたしたちは、この世の権力も支配も栄光もすべて神さまのものであることを信じて、心から神さまをほめたたえて終わりました。アーメンとは「そのとおり」という意味です。

さて、この祈りを教えてくださった主イエスさまは、十字架の苦難を受ける最後の時が迫っておられたとき、何をなさったでしょうか。その時、弟子たちはイエスさまが去って行かれることを思い、不安と悲しみで胸つぶれる思いでいたのですが、その弟子たちを愛して、最後まで愛し抜かれた主は、彼らに平安を残すために、彼らに分かるように声に出してお祈りをなさいました。「父よ、時が来ました。あなたの子があなたの栄光を現すようになるために、子に栄光を与えてください」と。アウグスティヌスはこの祈りを解き明かして、主イエスは、「あなたがわたしによって全地に知られるように、わたしを復活させてください」と祈られたのだと言っています。

主イエスさまは天の父に祈られました。「あなたは子にすべての人を支配する権能をお与えになりました。そのために、子はあなたから委ねられた人すべてに、永遠の命を与えることができるのです。」人は皆、罪を犯しているために神さまのご支配を喜ばず、神さまに逆らって、却ってこの世の支配を受ける結果になりますが、この世の支配は人を生かすでしょうか。それはじりじりと人を追い詰めて滅びに至らせるのではないでしょうか。神さまはすべての人に永遠の命を与えることがお出来になりますが、神さまはその力を、愛する御子にお与えになりました。イエスさまは永遠の命を与えることができるのです。だからイエスさまは祈りの中で宣言されます。「永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストとを知ることです」と。

わたしたちは、主の祈りを教えられました。わたしたちが「天の父よ」と呼びかけることをお許しくださる神さまがおられる、とわたしたちは教えられました。わたしたちは神さまを見ることができない。わたしたちは神さまを知らなかったのです。しかし、イエスさまは地上に来られ、天の父の御心をお示しくださいました。わたしたちはイエス・キリストを知ることで、天の父なる神さまを知ることになります。

最初の弟子たち、イエスさまが地上に来られた時、一緒にいた弟子たちを、イエスさまは愛されました。そして、地上に来られた目的を果たして、神さまの御許に帰るときが迫りました時、彼らのために声に出して祈られたヨハネ17章の祈りは、後に続く弟子たちにも、その弟子たちの弟子たちのためにも、何十代も後の弟子たちであるわたしたちのためにも、声に出して祈ってくださった祈りでもあります。11節。「わたしは、もはや世にはいません。彼らは世に残りますが、わたしはみもとに参ります。聖なる父よ、わたしに与えてくださった御名によって彼らを守ってください。わたしたちのように、彼らも一つとなるためです。」

父なる神さまと御子イエスさまは心一つであられます。そのように地上に遺されたわたしたちも主に守られ、主に在って一つとなるように、とイエスさまは祈っておられるのです。そのために主は地上に来られました。そのために、わたしたち罪人の重荷を負い、罪人の報いを受け、罪人に代わって十字架の死を死んでくださろうとしておられます。しかし、その目的は、神の永遠の命に復活されることです。そしてイエスさまのご復活の命に、わたしたちも与る希望が与えられているのです。その希望のために、わたしたちはイエスさまを贖い主と信じ告白して、洗礼を受け、キリストの体に結ばれる者となりました。

13節。「しかし、今、わたしは参ります。世にいる間に、これらのことを語るのは、わたしの喜びが彼らの内に満ちあふれるようになるためです。」このように主イエスさまは弟子たちの前で祈られました。この言葉が語られたのは、地上におられる間のことです。地上には多くの不安があり、この世の支配者、すなわちサタンの勢いが増しているようにさえ見えるからです。

しかし、だからこそ、主イエスさまは祈られました。「わたしの喜びが彼らの内に満ちあふれるようになるためです」と。これから十字架の道を進まれるイエスさまは、どんなに苦しまれようとしていたことでしょう。どんなに傷を受け、侮辱され、捨てられようとしていたことでしょう。しかし、主は言われるのです。「わたしの喜びが彼らの内に満ちあふれるように」と。神の御子の内には喜びがあるのです。この世のどんな苦難にも打ち崩されることのない喜びが。それはこの世の苦難にいつも脅され、打ちのめされるわたしたちには、思いも及ばない圧倒的な平安が、御子の内にあるのだ、ということに他なりません。そして御子イエスさまの喜びこそが、天の父の御心そのものでなくて何でしょうか。

ここに、主の祈りの最後のアーメンがあるのではないでしょうか。主の祈りを祈るわたしたちに、何よりもなくてならないものがあります。それは何でしょうか。それは天の父に対する心からの信頼です。そして、このアーメンに表れた心からの信頼は、主の祈りの終わりの言葉にあるだけでなく、初めから終わりまで、神を信じ、神の働きとわざに信頼する者が捧げる共通の思いに他なりません。

最初の弟子たちは、地上のイエスさまに付き従っていた時には、イエスさまの喜び、天の父なる神さまと共にあるゆるぎない喜び、平安が分からなかったでしょう。しかし、主の十字架の苦難と死という大変な悲しみと絶望を体験した彼らだったからこそ、やがて復活の主に出会い、この尽きることのない圧倒的な喜びを宣べ伝える者に変えられて行ったのであります。そして、わたしたちには救いの出来事が届けられました。神さまの備えられた救いのご計画を知らされているわたしたちではないでしょうか。

だから、どんな困難に打ちのめされるばかりの時も、どんな希望も見えて来ないと思われる時にも、主の祈りは祈られて来たように、今もこれからも祈られることが求められているのです。そして不安の風に震える木の葉のような世界の中でも、社会にあっても、神さまお一人が善い方であり、正義を愛し、慈しみを愛して、嵐を鎮めてくださる方であると固く信じて、主の祈りを祈りましょう。主イエスさまは「わたしの喜びが彼らの内に満ちあふれるように」と祈ってくださいました。

だから、神さまが与えてくださるものは、地上の生活を送る私たちにとってなくてはならないものだと確信しましょう。この命も、この生涯も、この家族も私たちに無くてならないものとして与えられています。そして日用の糧も、それから私たちには「いらない」言いたいものや、避けて通りたいものも、何か深い訳があって私たちに与えられていると信じましょう。そしていつの日には、その訳を教えていただきたいと願いながらも、天の父のご配慮を信じて従って参りましょう。

この教会にはかつてヘンデルのメサイアを歌う合唱団に加わっていた方もいらしたと思います。東京神学大学でもメサイアを歌う学生を募集していましたが、アーメンコーラスだけでも大変長く難しかったので、ギヴアップしたことを思い出します。しかし、たとえ歌が上手に歌えなくても、アーメンの言葉は地上を生きる私たちの人生の中でいつも鳴り響いています。初めは、「神さま、ああなりますように。こうなりますように」という真に身勝手な、自分の願いばかりであった私たちの祈りも、次第にアーメンの祈りに変えられて行くでしょう。「主なる神さま、どうかあなたのご計画のとおりにしてください。あなたは、その通り行われる方であることを、わたしたちはよく知っています」と。祈ります。

 

教会の主、イエス・キリストの父なる神さま

尊き御名をほめたたえます。あなたは御子を世に遣わし、わたしたちの罪の贖いのために苦難を負わせられました。この死と復活によって私たちにも主と共に復活の命に与る希望が与えられました。深く感謝申し上げます。どうかこの救いの恵みを信じ、悔い改めて多くの人々が主あなたの子とされるために、主イエスさまの執り成しを受けることができますように。教会に与えられた尊い働きを思い、感謝申し上げます。どうか、成宗教会がこれまでお守りくださった御心に従い、福音伝道の使命を果たすものとしてください。

また私たちの教会は2013年以来、東日本連合長老会と共に助け合って歩むことができ、真に感謝です。この礼拝を以て私は与えられた務めを終えますが、この尊い務めを受け継いでくださる教師、藤野雄大先生、美樹先生を与えられましたことを心から感謝申し上げます。どうぞお二人の先生方のお働きを祝し、成宗教会ばかりでなく、東京神学大学や多くの働きを担う先生方を豊かに支え導いてください。

困難なことが多い中ですが、本当に大切な人の救いを社会に知らせるために、成宗教会を強めてください。共に喜んで教会形成をなすために、長老会を強め、励ましてください。また同じ地域連合長老会に在って、互いに励まし合い、主のご栄光のために喜んで働く教会員の皆さんを励ましてください。また、高齢の教会員を特に励まし、清い手を上げて祈る者となり、生涯の終わりを迎える時まで、あなたに喜ばれる者となりますように。

今週、明日から新年度の歩みが始まります。どうか、特に教会学校の働きを顧みてください。教会総会、イースター、墓前礼拝と多くの行事が続きますが、あなたの恵みのご支配のもとに導かれますように。特に教会形成のために皆が果たすべき役割、奉仕を喜んで担うように、主の聖霊がご支配くださいますように。

わたしたちの内にある多くの困難、悩み、病気その他の問題を御存じのあなたが、すべてのことを通して、私たちに信仰による忍耐と愛と希望を増し加えてください。

言い尽くしません感謝と願いとを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。

アーメン。

2019年3月号

「知恵と知識の宝はすべて、キリストの内に隠れています。」

新約聖書、コロサイ2章3節

このお便りは、なりむね教会からのメッセージです。キリスト教会は神様の愛について学び、伝えます。子供さんも大人の方も、読んでいただければ幸いです。


焦 凝先生のお話

聖書:ヨハネによる福音書

「聖霊を信じることとは」

焦  凝

今日はカテキズムの問い23、「聖霊を信じることとは」という問題について、一緒に勉強しましょう。

まず、聖霊とは何かについて一緒に考えてみましょう。霊というと、絵本や小説によく登場する「幽霊」が思い出せます。怖いイメージです。また、ゲームや中世の映画によく登場する精力の「精」を前に着く「精霊」もあります。ゲームや映画の中では、こちらの「精霊」は明るく光るけど、いったいどんな顔をしているかもわからず、宙に浮いていて、動きも不安定です。世の中では、霊を表現する時、このような表現を使っています。怖いこととか、形がわからないとか、動きが不安定なものですっと。これはつまり、この表現を使う人は、霊についてよくわからないからです。自分自身が見たこともないし、周りから見たことのある人もいないからなのです。

キリスト教では、「聖霊」は神様が働く力というふうに解説されています。カトリック教会では、もっとわかりやすい表現があります。「天使」といいます。天は神様を指していますので、天使はつまり神様に遣わされたものということです。

私たちクリスチャンは、天地創造の神様を信じています。また神様の大祭司、私たちを死から救ったキリストを信じています。そして、神様とキリストイエス様と同様に聖霊の力も信じています。聖霊の力が私たちに働いていたから、神様のことやイエス様を信じるようになりました。初めて教会に足を運んだことや、教会にて神様との出会いも、すべて聖霊の働きなしにはできないことと信じています。

私たちは色々な願い事を神様にお願いしています。できるときとできないときがあります。できるときは、私たちは喜びます。聖霊の働きは如何にもわかりやすいです。しかし、できないはどうでしょう。できないときでも、聖霊の働きがあります。その時は、私たちの願いは神様の御心にかなわなかったからです。神様が私達の主です。私たちは神様の主ではありません。私たちは神様を自分の好きなように動かすことはできません。それはやってはいけ ないことです。

ということで、聖霊の働きは常に我々と共にいるということです。今日の聖書箇所では、イエス様がこのように明白に宣言していました。イエス様がこの話をするときは、逮捕される直前でした。その後、皆さんが知っているようにイエス様が十字架にかけられ、尊い命の代価を払っていました。イエス様と共にいる弟子たちはしばらく絶望に陥ることになります。

しかしその絶望の時でも、イエス様がいないときに弟子たちを守ってくれるのは、イエス様がここでいう聖霊だということです。

聖書のほかのところでも、聖霊や天使について、語られる箇所は多いです。神様のご計画を実現するために、聖霊は重要な働きを成し遂げました。今日勉強する箇所から、実は私たちが信じる聖霊は、つねに私たちと共にいることがわかります。イエス様を通して、神様からいただくこと大きな恵みに感謝しましょう!

3月の御言葉

「今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから。人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。」

ルカ19章9-10節

3月の教会学校礼拝

(毎週日曜日、朝9時15分~9時45分)

  • 神様に感謝して祈り、歌います。イエスさまのお話、聖書について学びます。
  • お話の聖書箇所と担当の先生は次のとおりです。
    3月3日(日) マタイ26:13~20 お話の担当… 並木せつ子
    10日(日) 使徒言行録20:32~35 勝田令子
    17日(日) ルカ19:1~10 焦  凝
    24日(日) コリント(一)15:42~49 興津晴枝
    31日(日) ヨハネ17:1~3 並木せつ子

     

成宗教会学校からお知らせ・・・お祈り

  • 3月は卒業や進級の季節ですね。思い出の小学校や中学とお別れして、新しい学校へ進まれる皆さん、おめでとうございます!イエスさまを通して、神さまは私たちに祝福を送ってくださいました。教会学校で学んだことを心にしっかりと受け、希望にあふれて、新しい学校に、新しい学年に進んでください。私たちは教会で祈り、これからも皆さんをお待ちしています。教会で学ぶ神さまからの教えが、一生の宝となりますように。
  • 四月から成宗教会は、並木せつ子牧師に代わって、新しい牧師先生をお迎えします。
    藤野雄大先生、藤野美樹先生です。聖霊の神さまが共にいらして、皆さんにイエスさまの福音を力強く、優しく、美しく伝えてくださいますように!

  • 真の神さまは、イエス・キリストの御生涯に表されました。イエス様を通して、私たちは、神さまの真実を知ることができます。
  • 礼拝でのお話は小学校高学年~中学生にもわかりやすく語られます。礼拝後の活動は幼少~小学生向きですが、何歳でも楽しく参加することができます。中高生の皆さんは、大人の礼拝にもご参加をおすすめいたします。礼拝時間は10時半~11時半です。親子連れの方も、どうぞいらしてください。

 

 

 

 

 

 

 

 

御国が来ますように

聖書:詩編675-8節, ヨハネによる福音書183637

旧約の詩編67篇の詩人は知っていました。神さまが公平な方であることを。公平を行ってくださることを。神さまこそは誠実であられ、真実であられることを。だから彼は祈るのです、神さまのご支配を諸国の人々もこぞって喜ぶようにと。

今日はヨハネの福音書18章。イエスさまは十字架に付けられようとしています。イエスさまを訴え、殺そうとする人々は、神さまの義しさを信じていたでしょうか。喜んでいたでしょうか。公平な神が、彼らにとって有利なことをしてくださるのか、彼らはそうは思わなかったでしょう。彼らは民の指導者。この世の権力者でした。民のような悩みはない。民のような苦しみはない。健康にも、経済にも地位にも恵まれ、却って神の恵みを思わなくなった。まして感謝などしない。そのような人々はイエスさまを理解しないのです。イエスさまが民のために働いている様子が疎ましい。ただの人気取り、としか見えないのです。彼は何をねらっているのか。王になろうとしているのか。人気を博し、民衆を味方につけ、権力に逆らって立とうというのか。それならば、そうならないうちに捕えよう。処罰しよう。それは彼らに好都合な筋書きであったに違いありません。

そう企てる彼らは、自分たちの考えが神さまに逆らっているとは夢にも思いません。むしろ、イエスさまの方が神を冒涜していると決めつけることができました。何の後ろめたさも無く。ついに彼らは時の権力者、彼らの国を支配しているローマ総督ピラトを動かして、イエスさまを尋問させました。「お前が王なのか?」と。イエスさまはお答えになります。「わたしの国は、この世には属していない。もし、わたしの国がこの世に属していれば、わたしがユダヤ人に引き渡されないように、部下が戦ったことだろう。しかし、実際、わたしの国はこの世には属していない。」そうです。イエスさまを亡き者にしようとする人々からは、イエスさまは他の人間と同じように見えるのです。他の人間と同じように、この世の力を持って人間の上に君臨する王になろうとしている、と。

しかし、イエスさまはこの世に属してはいないと仰います。確かにこの時、イエスさまは肉体を持って世に生まれ、私たちと同じように疲れもする、倒れもする、肉体の限界の中を生きておられました。しかし、イエスさまは、たとえ私たちと同じ人間であっても、この世に属していないのです。だからイエスさまはこの世と同じ土俵に上がって、同じ力と力をもって戦ったりしないのです。この世から見ればイエスさまは、何の力もなく、人々の悪意にさらされ、やりたい放題のことをされて、完全な敗北を喫したとしか見えない。それほどまでに、この世の力に対して無力に見えたのでしょう。

しかし、本当にそうでしょうか。「わたしの国は、この世には属していない」と言われました。キリストの王国はこの世に属していないのだから、だからこそ、イエスさまは仰います。「あなたがたも来なさい」と。「わたしの国に来なさい」と。「信じることによって来なさい」と、イエスさまは招いておられるのです。キリストの王国はこの世の力を持っている人々の支配を妨げたりはしません。イエスさまは仰いました。「神の国は近づいた」と(マコ1:3)。イエスさまは、この世の王たちの支配を転覆させるために来られたのではないのです。だから、どこの国の国民であってもどんな民族であっても、「わたしの国に来なさい」と言われているのです。だから、力のある人もない人もキリストの王国を恐れることはない。不安になることはないのです。ただ、「イエスさまの王国は自分たちの支配を脅かすものではないか、自分たちに都合の悪いものではないか」と考える人にとっては、それは恐ろしいもの、不安にさせられるものなのではないでしょうか。

それでは、イエスさまは何のために王国を建てようとしておられるのでしょうか。イエスさまの王国は、神さまのご支配です。イエスさまは仰いました。マコ1:3「悔い改めて福音を信じなさい。」神さまのご支配こそは、人を救うからです。それは旧約の預言者たちが祈り求めていたことです。今日の詩編67篇5節です。「諸国の民が喜び祝い、喜び歌いますように。あなたがすべての民を公平に裁き、この地において諸国の民を導かれることを。」6節。「神よ、すべての民があなたに感謝をささげますように。すべての民が、こぞってあなたに感謝をささげますように。」この祈りは、神さまへの讃美の歌です。神さまがどんなに感謝されるべき方であることかを、私たちに教えているのです。なぜなら、神さまの御支配こそが、人を救うからです。

わたしたちの教会のことを考えましょう。わたしたちの信仰生活のことを振り返りましょう。わたしたちの多くは、信仰は個人的なものと考えていたのではないでしょうか。確かにこの世の法律ではそれが正しいのです。わたしたちの国には信教の自由を保障する憲法があります。もしそれがなかったら、この世の王、この世の支配者によって宗教が決められたり、禁止されたりするでしょう。実際、日本の国でも徳川時代にはキリスト教は禁止されていましたし、明治時代以降も太平洋戦争が終わるまでは、政府の監視、統制を受けた時代がありました。そして、そういう国々は現代でもあることをわたしたちは知っています。

しかし、わたしたちの教会のことを考えるときに、この教会がこの社会の中で、決して社会とは切り離されたもの、関係ないものとしてあったのではないことを思い起こします。教会には多くの人々が出入りし、業者の方や近隣の方との交わりもございます。藤野先生は引き継ぎに当たって私に、「ご近所とのトラブルはありませんか」と尋ねられましたが、私はすぐに「とても良い関係ですよ」と答えることができました。このことは、大変幸いなことであり、またそれは大切なことであります。わたしたちは、自分が救われて幸いだということは、自分だけが救われれば良いということには決してならないからです。

この頃の痛ましい事件は小学生の児童が父親から虐待を受けて死んでしまったということがあり、毎日毎日、報道されるたびに、心が暗くならない人はいないと思います。まして身近に、親しい者の中にこのような不幸があるならば、「ああ、自分でなくて良かった。」「自分は関係ない」と思って平気でいられるでしょうか。昨日の藤原姉の葬儀式でわたしたちは「かみともにいまして」という讃美歌を歌いました。「神のお守り、なが身をはなれざれ」と歌う時、それは「天に召された姉妹がいつも神さまのお守りのうちにありますように」という祈りだけではないと思います。「この讃美歌を歌う私にも神さまのお守りがありますように」そして、「一緒に歌うすべての人にもありますように」という祈りでなくて何でしょうか。葬儀式で人々が集まり、久しぶりに本当に何十年ぶりに会う人もいます。一緒に歌い、一緒に祈り、祝福を分かち合って、また去って行くのです。

いつまた会えるだろうか。もう会うことはないかもしれない、というのがわたしたちの現実でありましょう。しかし、もしわたしたちが互いに祈る祝福が、神さまによって与えられるように祈るのであれば、わたしたちは同じ神さまの恵みの下にあるからこそ、祈るのではないでしょうか。神さまはどのようなお方でしょうか。旧約聖書の宣べ伝えます。詩67篇5節のように、神さまは「すべての民を公平に裁き、この地において諸国の民を導かれる」方だと。神のご支配は愛の支配だと信じていたのです。すなわち、神さまは暴力や人間の力を用いて人々を抑圧するのではない。人を慈しみ、公平に裁くことによって御支配くださる方だと信じていたのです。

そして旧約聖書の人々から見れば、わたしたちは諸国の民、異邦人なのですが、わたしたちはイエス・キリストの福音によって知らされました。神さまはどのような方であるかを。神さまはイエスさまの執り成しによってわたしたちを悔い改めさせ、天の父と呼ぶことをお許しになりました。わたしたちは悔い改め、罪の赦しをいただいて、キリストの体と呼ばれる教会の肢となりました。一部となりました。イエスさまの一部なのですから、イエスさまと同じように、わたしたちもまた「天の父よ」と呼びかけて、神さまから喜んでいただける者となっているのです。ここに一人の信者がいます。昨日葬儀が行われた藤原姉もそうです。今は一族の中でただ一人の信者でしたが、彼女に与えられた祝福は彼女だけにはとどまりません。神さまはイエス・キリストの父と呼ばれる神さまは全世界をお造りになった方。全世界の救いを望んでおられる方に他なりません。

イエスさまはわたしたちの罪のために十字架に掛かり、罪の贖いをしてくださいました。それはすべての人のための罪の贖いだったのですが、現実には自分を罪人のうちに数え、「どうぞこの罪を赦し、汚れを清めてください」とイエスさまのお名前によって祈る者だけが罪赦され、清められたのです。

イエスさまは復活され、天に昇られました。ですからその時からイエスさまをわたしたちが目で見ることができなくなりました。しかし、そのことによって、イエスさまは、挙げられた天から、わたしたちに聖霊を注ぎ、教会と世界に働きかけ、御国の到来を語り伝える務めを教会に与えておられるのです。教会とは、恵みによって救われた人々の群れです。礼拝にみんなで集まることができれば、大勢のクリスチャンがいると、目に見えて実感することができるでしょう。しかし、集まろうとして集まることができない人も、できない時も、教会の主イエス・キリストを思い、心を天に向けて祈ることができる。むしろ祈らずにはいられないならば、その人は何と幸いな人ではないでしょうか。

ここに一人のクリスチャンがいます。ここに一つの祈りがあります。「天におられるわたしたちの父よ」と祈ります。「あなたのお名前があがめられますように」と祈ります。そして「御国が来ますように」と祈ります。一人のクリスチャンが神さまのご支配を祈るとき、それは、決して自分にだけ祈っているのではないのです。一人のクリスチャンの祈る御国は来てくださり、その御支配をその人の周りにいる人々にも及ぼしてくださるでしょう。「あなたがたは地の塩である」と主は言われました。御国のご支配によってわたしたちが塩として用いられる時、わたしたちは御国の平和を持って人々に和らぎを与えないではいられないでしょう。それは私たちの働きではなく、イエスさまが送られる聖霊による御国のご支配の結果なのです。

また、主は言われました。「あなたがたは世の光である」と。イエスさまの霊、父なる神さまの霊がわたしたちに来てくださって、この土の器の中で光となってくださるとき、私たちの内に住まわれた神さまの光、イエスさまの光が周囲を明るくしないでしょうか。それもわたしたちの働きではなく、イエスさまが送られる聖霊による御国のご支配の結果なのです。

わたしたちの生きている限り、地上に悩みは絶えず、残酷な事件がなくなることはないでしょう。神さまの御心に逆らう力が地上を支配しようとしているからです。しかし神さまの愛は、イエスさまのみ言葉に、御業において明らかにされました。神さまの愛のご支配が完全になる世の終わりの日が来るまで、わたしたちは忍耐して祈り続けるのです。「御国が来ますように」と。イエスさまは仰いました。ルカ17章20-21節です「神の国は、見える形では来ない。『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。」今日のカテキズムは問58「主の祈りは何を第二に求めていますか。」その答は、「御国が来ますように」です。悪の力が完全に滅ぼされ、すべてが神さまのご支配のもとに置かれることを心から願い、待ち望みます。祈りましょう。

 

御在天の主なる父なる神さま

尊き御名を讃美します。本日の礼拝、わたしたちは雪になる寒さの中、困難を排して礼拝を守るために集められました。大勢の信者、この教会に連なるすべての者を代表して、あなたが招いてくださいましたので、わたしたちはみ言葉に耳を傾け、罪の赦しを改めて感謝して心に刻み、いただいた恵みを携えて世に出て行こうとしております。どうぞ、御国を求める主イエスの尊い祈りが、わたしたちの祈りとなりますように。主よ、天から聖霊をお送りくださって、今週もわたしたちを照らし、行く道を導いてください。

昨日は厳しい天候が予想される中、あなたは藤原京子姉妹の葬儀式を成宗教会で行うわたしたちを祝福してくださいました。心を込めてお母様を天に旅立たせようと願い続けて来たご子息方を祝福してください。そのご子孫の上に、あなたの愛と慈しみが明らかになりますように祈ります。

成宗教会に最期まで連なろうと努めて来た兄弟姉妹をあなたは豊かに祝し、その方々を用いてあなたの恵み深さ、ご栄光を現わしてくださいました。79年にわたる教会の歴史を振り返り、心からの感謝をささげます。どうか、これからもこの群れに、成宗教会にあなたの慈しみを注いでください。この所を、み言葉が力強く宣べ伝えられ、讃美と祈りが絶えないところとしてください。東日本連合長老会の諸教会と共に助け合い、日本キリスト教団の中で主の体の教会を建てて行くことができますように、新たに赴任される藤野雄大先生、美樹先生と共に主に仕える、長老、信徒の志を励まし、導いてください。

来週は東日本の講壇交換による礼拝が守られます。どうかご奉仕にいらっしゃる清瀬信愛教会の竹前治先生をお迎えして、喜びと感謝の礼拝を捧げることができますようにお導きください。また同じく清瀬信愛教会で奉仕する私の務めをも祝してください。病院で行われる礼拝と問安の奉仕をも御心に適って行われますように。

厳しい寒さの中、健康に不安を抱えている多くの方々を御言葉と御霊によって励ましてください。必要な助けが与えられますように。また、どうか多忙を極めている働く世代の方々をも支えてください。そして、どのような時も主に頼り従う者とならせてください。

この感謝と願いとを、主イエス・キリストの尊きお名前によって祈ります。アーメン。

天の父よ、と呼びかける

聖書:イザヤ6316節、ヨハネによる福音書171-5

 主イエスさまの教えてくださった祈りは、神さまへの呼びかけから始まります。話し始める前に、聞いてもらいたい相手の名前を呼ぶということは大切です。私たちは誰に向かって話しているのか、はっきり意識することが必要ですが。そのことは、祈りにおいてはなおさらのことです。よく子どもが遊びながら、一人でぶつぶつ言っているのを見ます。時には大人も歩きながらぶつぶつ言っているのを見かけます。しかし、自分は一体だれに向かって話しているのか、考えを述べているのか、このことに気がつく人は幸いです。

なぜなら、私たちは心の中で話をしているうちに次第に後ろ向きな考えに陥ることがあるからです。「お前は駄目だ」という声や、人々の批判、陰口、悪口、そしりなどが、まるで耳元に語られるようにリアルに聞こえるならば、わたしたちは決して善い者との対話をしているのではないのです。ですからわたしたちが心の中で話す時、誰に向かって話しているのか、私たちの話を聞いている相手を知ることは非常に大切です。もし、私たちが悪魔に向かって話しているとしたら、いつの間にか邪な考えや、自分を破壊するような考えに陥ってしまうのは当然なのではないでしょうか。

わたしたちの考え、願い、不安などを、もし実際に人に聞いてもらうなら、相手は誠実な人でなければなければならないのです。わたしたちの弱さに付け込んで来るような者、また悪い道に唆すような人には、決してわたしたちの思いを聞いてもらいたくないものです。こう考えますと、人にも語ることを用心しているわたしたちの思いを、神さまに聞いていただくという時には、何よりも大切なことは神さまに対する信頼です。わたしたちはお祈りする時には、まず第一番に神さまが誠実な方であることを信じなければなりません。

イエスさまの弟子たちは、イエスさまが祈るのを見ていていました。人々に無くてはならない神さまの言葉を語り、救いの御業を行うことは、この世の勢力との戦いでした。そのために、イエスさまは夜を徹して祈り、ご自分の全てを神さまにゆだねておられた。弟子たちはそのことを知っていました。それで主の祈りを教えてくださいとお願いのでした。

そこでイエスさまは、祈りは何よりもまず、神さまに呼びかけなさいと教えられました。そして「天におられる父なる神さまと呼びかけなさい」と言われたのです。天とは何でしょうか。どこにあるのでしょうか。創世記第1章1節に「初めに、神は天地を創造された」とあります。しかしイエスさまの教えられた天とは、天地を造られた、その「天」ではありません。「天におられる神さま」と呼びかける天とは、神さまのおられるところを意味します。イエスさまは復活後、天に昇られたと、教会が告白する使徒信条。その告白の中で言われる天のことです。

天におられる神さまは、イエス・キリストの父なる神さまであります。そして、イエスさまは言われました。御自身の父である神さまのことを、「あなたがたも、わたしと同じように『わたしたちのお父さん』と呼びなさい」と。考えてみれば、これは何と驚くべきことではないでしょうか。何と恐れ多いことではないでしょうか。わたしたちは神さまのことを全く知らなかったのに、「天におられるわたしたちの父よ」と呼びかけることが許されたのです。

今日読みました旧約聖書、イザヤ63章16節を読みます。「あなたはわたしたちの父です。アブラハムがわたしたちを見知らず、イスラエルがわたしたちを認めなくても、主よ、あなたはわたしたちの父です。『わたしたちの贖い主』これは永遠の昔からあなたの御名です。」神さまはその昔アブラハムを呼び出され、祝福を約束されました。(創世記12章2節)「わたしはあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める。祝福の源となるように。」しかしイザヤ書の預言者の時代、アブラハムの子孫の国は荒れ果て、やせ衰え、人々は国を追われ、イスラエルの民はほんのわずかとなりました。

それは、神さまが約束をたがえたからではありません。逆に、イスラエルの人々が神さまに逆らい、その愛に背き、真心を踏みにじった結果なのであります。こうしてイスラエルの人々は諸国の中でも惨めなもの、見捨てられたもののようになりました。その時、預言者は立ち上がって人々のために神さまに訴えているのです。わたしたちは落ちぶれ、みすぼらしい民となってしまっているけれども、あなたはわたしたちの父ですと、神さまに告白しているのです。もしも、わたしたちの先祖であり、信仰の父であるアブラハムがわたしたちの現在の姿を見たら、驚きのあまり、「ああ、こんな惨めな、わずかばかりの人々がわたしの子孫なのか。そんなはずはない。」と叫ぶかもしれません。わたしたちのことを「そんな人々は全く知らない。私と関係ない」と言うかもしれません。

本当に信仰の父アブラハムのことを思えば、そういわれても仕方がない。アブラハムは主なる神さまに従って旅に出、人生の苦難を耐え忍びました。しかも自分のために耐え忍んだのではない。あらゆる人々のわがまま、身勝手に悩みながら、耐え忍びました。神さまの約束を信じて、約束されたものを自分の時代に受けなかったけれども、信仰を抱いて死にました。更にまさった故郷を、天の故郷を熱望していたからです。そのアブラハムと比べて自分たちの惨めさはどうだろう。神さまからいただいた豊かさに、繁栄に飽きたりて、得意になって、豊かに恵んでくださった神さまを忘れてしまった。わたしたちは真に恩知らずの民なのだ、とイザヤ書の預言者は知っているのです。

しかし、その上で、彼は神さまに訴えます。「主よ、あなたはわたしたちの父です。『わたしたちの贖い主』これは永遠の昔からあなたの御名です」と。このような罪深い者をお見捨てにならず、永遠の昔から、贖ってくださる神さま、わたしたちはあなたがそういうお名前を持っていらっしゃることを告白します」と。私たちはどうでしょうか。さんざん不信仰な人生を歩んで来た。でも、「私もそうだけれども、あの人はもっとひどいではないか」と言って、非難し合うのでしょうか。それとも、「今頃になって神さまに救ってくださいと言うほど、私は恥知らずではない」と言って、神さまに助けを求めないのが正しいのでしょうか。

しかし、預言者は訴えました。「あなたはわたしたちの父です」と。「あなたこそ、わたしたちの贖い主です」と。「あなたのお名前は、永遠の昔から変わることがありません」と。そしてこの訴えこそ、神さまの真のお姿、お名前を人々に指し示すこととなったのです。

イエスさまは地上で弟子たちと共に歩まれる間、み言葉の説教と驚くべき御業によって永遠の命がここにあることを証ししてくださいました。そして地上を去るときが近づいた時、弟子たちの前で声に出して祈られました。それが今日の聖書ヨハネ17章1節です。「イエスはこれらのことを話してから、天を仰いで言われた。「父よ、時が来ました。あなたの子があなたの栄光を現すようになるために、子に栄光を与えてください。」このように声に出して祈られたのは、聞いている人々が主の祈りによって教えられるためでしたでしょう。父よ、と祈る祈りによって、神さまがどんなに恵み深い方であるかを言い表されたのです。「あなたの子があなたの栄光を現わすようになるために」とは、神の子イエスさま御自身が、天の父なる神さまの栄光を現わすようになる」ということです。

神さまの栄光を現わすために、イエスさまは十字架に死なれました。イエスさまはすべての人の罪を贖うために、神さまの御心に従われたのです。このイエスさまを神さまは復活させ、罪の贖いを成し遂げられました。このことによって神さまの栄光が明らかになったのです。なぜなら、イエスさまによってどのように罪深い者にも悔い改めによって救いの道が拓かれたからです。イエスさまは天に昇られ、そこから、私たちを見守り、聖霊を注いで、私たちと私たちの教会を導いてくださっています。

このイエスさまが地上で弟子たちに教えられた祈りを、私たちも祈ることができるとは、本当にありがたい恵みであります。父なる神さまは、人間の父のように、子を愛し助けてくださる方です。また私たちの悪い行いをご覧になった時、それを裁き、罰してくださるのは、私たちを滅ぼさないためです。ただ天の父の恵み深さ、忍耐強さは人間の父とは比べものになりません。そのことを私たちはイエスさまによって知らされています。

今に至るまで、そしてこれからも地上に目に見える形で教会があることを私たちは知っています。そして地上の教会が正しく建設されるならば、それらは目に見えない一つの教会を指し示していることを私たちは信じています。教会は、主が私たちのために試練と苦難を通して、救いの道を開いてくださったことを証ししています。そこで私たちはイエスさまの父なる神を、あたかも本当の父であるかのように、「父なる神よ」と呼びかけることができるのです。

この呼びかけの言葉は、イエスさまの苦難と死を通して恵みによって救われたことを思うときに、改めて心の底から発することができるでしょう。心からの信頼と感謝をもって。そしてまた、私たちは天のお父さまと呼びかけるとき、神さまの前に本当に小さな子供のように立ちましょう。年齢も、職業も、何も関係なく、神さまの前にたちは幼子のようなものではないでしょうか。分別がある、知識がある、と思う人も、明日のことさえ分からない。また自分の正しささえ、本当には分からない。そんな小さな者に過ぎないのです。

これまでの私たちの歩みを振り返ると、私たちの教会の将来も、自分の将来も、だれも正しく予測もすることも予定することもできませんでした。ただ私たちは教会に集められ、共に礼拝し、共に祈ることができたからこそ、今日があることを思います。先々の事まで見通そうとすると、楽観的になれることはなかなか見い出せないことが多いのではないでしょうか。すると、自分だけ取りあえず助かろうとするのか、どこかもっと有利な立場を求めて動き回る人々は多いのです。そうして離合集散を繰り返すのですが、私たちはここに神さまが集めてくださったことを大切にして来ました。この群れはただの人の集まりではなかったからです。イエス・キリストさまが御自分の血によって贖い取って神の子とされた人々、すなわち教会だと信じたからです。

教会は建て物ではありません。人々がいるから教会なのでもありません。教会は信じるからこそ教会とされるものです。イエスさまの建てられた教会が、今もイエスさまが天から送ってくださる聖霊によって、教会とされているのです。聖霊は、私たちに来てくださって、私たちが主の祈りを祈ることができるようにしてくださいます。「天におられるわたしたちの父なる神さま、」と親しく祈ることができるのも、イエスさまの送ってくださる聖霊がわたしたちと共にいてくださるからに他なりません。

ローマ8章15-16節を読みます。284頁。「あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊こそは、私たちが神の子どもであることを、私たちの霊と一緒になって証ししてくださいます。」今日のカテキズム問56 「主の祈りは、どのような言葉で始まっていますか。そして答は、「『天におられるわたしたちの父よ』です。私たちは、イエスさまによって神さまの子どもとされたので、天におられる神さまを『父よ』と呼びかけることから始めます」です。主の祈りを与えられていること自体が限りない恵みでありますから、共に主の体の教会に連なり、父なる神さまを呼び求めて参りましょう。祈ります。

 

御在天の主なる父なる神さま

尊き御名をほめたたえます。一年で一番寒さの厳しい季節、インフルエンザも猛威を奮っている中、私たちを今日の礼拝に集めてくださり、み言葉によって罪の赦しをお知らせくださいました。集まることのできたわたしたちは真に小さな群れですが、背後に教会員は祈りを合わせております。集められた者も、集まることのできなかった者も、どうかあなたの恵みによって、私たちに豊かな慰め、励ましをお与えください。聖霊の神さまの助けによって病が癒され、弱り果てている者も、疲れている者も、あなたの平安で満たされ立ち上がって行くことができますように。

主よ、私たちは2019年度新しい先生方を招聘するべく道が開かれましたことを思い、真にあなたのお導きを感謝申し上げます。どうか私たちの小さな力を励まし奮い立たせて善き準備をなすことができますようお助け下さい。来週の長老会議には藤野先生ご夫妻にご臨席いただき、準備を始める予定ですが、御心に適って進めることができますように。長老会の働き、また教会学校の働きを祝し、御力をお与えください。

また、記念誌の発行までの道筋をも整えていただき、真に感謝致します。この教会が東日本連合長老会の中で共に学び、共に教会を形成する働きに加わって行くことができますように。私たちの教会を慈しんで励ましてくださる主が、共に歩む東日本の諸教会とその長老信徒の皆様を豊かに慈しみ励ましてください。

皆様のご健康を祝し、整えてください。この厳しい季節の困難の中にある全国の教会を励まして助け導いてください。

この感謝、願い、尊き主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。