主日CS合同礼拝
齋藤 正 牧師
《賛美歌》
讃美歌67番
讃美歌240番
讃美歌515番
《聖書箇所》
新約聖書:ヨハネの手紙 一 4章19-21節 (新約聖書446ページ)
4:19 わたしたちが愛するのは、神がまずわたしたちを愛してくださったからです。
4:20 「神を愛している」と言いながら兄弟を憎む者がいれば、それは偽り者です。目に見える兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することができません。
4:21 神を愛する人は、兄弟をも愛すべきです。これが、神から受けた掟です。
《説教》『神は愛』
今朝は、久し振りに教会学校の生徒さんとの合同礼拝です。今日のテーマは「愛」です。私が2年前に成宗教会に赴任して以来教会標語は「愛」をテーマにして選んで来ました、新しい今年度の教会標語も、キリスト教の本質をなし、旧新約聖書の中心である「愛」から決めたいと思っています。
「愛」と一言で言っても、「愛」には美しいものや醜いもの、感覚的なものや精神的なもの、家族の愛、友情、男女の愛、そして神への愛、神から人への愛など様々あります。
本日のヨハネの手紙が書かれた背景には、ヨハネの教会内に起こった教会内部の人々の分裂という問題があったと考えられています。ヨハネの教会に異端の伝道者が訪れ、活発な活動を行いました。その結果、異端の教えに惑わされる人々が出てきたのです。この異端の教えの特徴は、主イエス・キリストの受肉と贖罪を認めず、人間には本質的な罪はなく、犯した罪に責任を感じる必要はない、と主張していたのです。彼らに向かって、教会を正しい福音理解に戻すことを勧めたのがこのヨハネの手紙です。ヨハネの教会論の中心には、ヨハネ福音書13章34節から35節の「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」という主イエスの教えがありました。正しい教会のあり方は、主イエスが教えられた「神への愛」と「人への愛」を大切にすることが土台なのです。
ヨハネの手紙は、その「愛」とは何かを語ります。この手紙の中では「愛がすべて」であり、「愛は完全」であると語っています。2章5節では「神の言葉を守る者」、つまり私たち信仰者の内に神の愛が実現していると言っているのです。そして、4章12節で「わたしたちが互いに愛し合うなら」目には見えない神が信仰者同士の愛の中に見えてくると説いているのです。そして「愛」とは神から裁きといった罰を受けるのではなく(17-18)、神に憐れまれ大切にされることだと説いているのです。そして、神に愛された人は、自分と同じく神に創られ、神に愛されている自分の周りの人々である隣人を愛するのだ、と説いているのです(19‐21)。今日の19節の「わたしたちが愛する」とある動詞の「愛する」は目的格がない不定過去形ですが、これは神に対しても兄弟に対しても、愛することのあらゆる可能性を含んだ「愛の根源」を表しているのです。その愛の根拠は19節で強調されている通り「神がまず私たちを愛してくださったから」なのです。
私たちは何の束縛もないまったく自由な世界に憧れます。しかし、何の秩序もない全くの自由な世界ほど恐ろしいものはないでしょう。神が造られたこの世界には神の秩序があり、その秩序を守ることがこの世界で安全に、幸せに生きるための基本的条件なのです。
大切なことは、すべての前提条件として、神が私たちを選び、愛してくださった。神の愛がはじめにあったということです。十戒の序文に「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である」(出エ20:2)とある通りです。神の愛はイスラエルの民には、具体的に出エジプトという歴史における神の御業において示されました。エジプトで奴隷として苦しめられていたイスラエルの民を、神がモーセを用いて救い出してくださり、乳と蜜の流れる約束の地に導き入れてくださったのです。それはさらに遡ると、アブラハム、イサク、ヤコブというイスラエルの先祖たちに神が結んでくださった契約に基づくものでした。
その神の選びである「愛」に対して応える。それが、神を愛するということです。神の愛に応える人のあり方、神を愛する道が十戒の前半に五つの戒めとして教えられているのです。十戒の前半五つの戒めは、人が神の愛に応えて神を愛する方法です。そして、後半五つの「隣人を愛する」ことは、神の愛を受けた者は隣人を愛するという方向に向かう、隣人を愛する者となる、ということを教えているのです。神の愛を受けた者として、隣人を愛することによって、神に応えるのです。その隣人を愛することで神を証しするのです。
「神を愛する」ことと「隣人を愛する」ことは、それぞれ無関係で独立したものではありません。深く結び合っているのです。神を愛することも、隣人を愛することも、いずれも私たちの愛に先立って神の愛があるのです。
その神の愛を受けて、神に愛された者として、私たちは神を愛し、隣人を愛していくことが出来るのです。その大前提を忘れる時、私たちの愛は空回りしてしまいます。それは、私たち自身の内には、そもそも神を愛する力も、人を愛する力もないからです。空っぽのコップで人に水を差し上げることはできません。空っぽのコップに水をたっぷり注がれて、はじめて人にその水を差し上げる、分けてあげることができるのです。
19節に「わたしたちが愛するのは、神がまずわたしたちを愛してくださったからです」とありますが、神の私たちに対する愛、それが明らかになったのは主イエス・キリストの十字架による罪の赦し「贖罪」です。神は御子イエス・キリストの血を十字架の上で流し、その血によって、罪から私たちを解放してくださった。そのような形で神の愛を注いでくださった。私たちの空っぽのコップに愛という水をたっぷりと注いでくださったのです。
それはこのヨハネの手紙4章9節の「神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました」とある通りです。
その神の愛が私たち人間同士の愛の原動力となるのです。私たちの愛は、神の愛を源泉としているのです。
20節から21節で、「『神を愛している』と言いながら兄弟を憎む者がいれば、それは偽り者です。目に見える兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することができません。神を愛する人は、兄弟をも愛すべきです。これが、神から受けた掟です。」と結んでいます。
ヨハネはこの手紙で、「神を愛する人は、兄弟をも愛すべきです」(21)と繰り返し、これが「神から受けた掟です。」と、権威をもって命じているのです。
人の神への愛と、兄弟姉妹や隣人への愛は密接に結び合っており、二つを分けることはできないのです。神の愛を源とする限り、どちらかだけの単独の愛はあり得ません。
人が自分の力だけで行おうとするのではなく、主イエス・キリストに愛された愛をもって、神を愛し、兄弟同士互いに愛し合うことが大切なこととして勧められています。
ヨハネの手紙の締めくくりである5章の1節で、「イエスがメシアであると信じる人は皆、神から生まれた者です。そして、生んでくださった方を愛する人は皆、その方から生まれた者をも愛します。このことから明らかなように、わたしたちが神を愛し、その掟を守るときはいつも、神の子供たちを愛します。神を愛するとは、神の掟を守ることです。神の掟は難しいものではありません。」と宣言されています。
自分勝手な生き方をしている人間のために、神は御子イエス・キリストを十字架に向かわせ、私たちに大きな愛を差し出してくださいました。私たちはその豊かな愛を主イエス・キリストから受けています。その神の愛の御業が、神に愛された人たちに愛に相応しい姿をとらせるのです。愛してくださった方を悲しませてはいけないという生き方を自ら選ばせるのです。その道こそが、神を愛し、隣人を愛するという神の律法です。そして、それこそが人間本来の姿であるべきなのです。
主イエス・キリストの愛は信仰者に神への信頼と確信を生み出させます。この神に対する人の信仰・確信・完全な信頼こそが、隣人に対する具体的な愛となって現れると言えましょう。
「愛」とは、信仰に基づくものであり、神への信仰こそが正しい愛を生み出すのです。「愛によって働く信仰」とは「愛を生み出し、愛という具体的な形を現す信仰」なのです。「信仰が生み出す愛」であって、「愛が生み出す信仰」ではありません。この順序は大切です。
もう一度繰り返します。「信仰が生み出す愛」であって、「愛が生み出す信仰」ではないのです。
この「信仰が生み出す愛」を持って、あなたの大切な隣人、家族の方々、友人・知人の方々を「キリストの愛」である「十字架の救い」へとお誘いましょう。その「救い」への誘いこそが私たちに神様が求められる「行い」なのです。
お祈りを致しましょう。