安心していきなさい

7月の説教

聖書箇所 ルカによる福音書7章36-50節

説教者 成宗教会牧師 藤野雄大

「イエスは女に、『あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい』と言われた。」(ルカによる福音書7章50節)

主に在る兄弟姉妹の皆様、本日も、主の御言葉を共に聴きましょう。

本日示されました新約聖書の箇所は、ルカによる福音書7章36-50節です。今日の箇所では、ファリサイ派のシモンという人の家にイエス様が招かれた時のことが記されております。イエス様たちが、シモンの家にいると、そこに一人の「罪深い女」といわれる人がやってきて、主イエスの足を涙でぬらし、髪の毛でぬぐい、さらに接吻して香油を塗ったのでした。

この罪深い女というのが、誰であったのか、その名前をなんといったのか、それは、記されていません。例えば、伝統的な教会の理解では、この罪深い女を、他の福音書に描かれる、主イエスの頭に香油を注いだとされる女、あるいはベタニアのマリアと同じ人物であるとされてきました。確かにマルコによる福音書14章では、重い皮膚病を患うシモンという人の家に主イエスが招かれた時に、主イエスの頭に香油を注いだ女の人がいたという類似した記事が記されています。

もしかしたら似たような出来事が、何度かあったのかもしれません。あるいは同一の出来事が、それぞれの福音書に異なる形で載せられたと考えることもできるかもしれません。しかし、この女性が誰であったのか、それをはっきりと断定することは、今日の私たちにはできません。ただその女性が罪深い女であったとだけ、私たちは知ることができます。そして、その罪とは、売春、あるいは性的不品行を指すものであったと言われています。確かなことは、その女性が、罪深い存在であること、当時のユダヤ教の道徳や宗教的慣習に反する行いをしていることが、町の人々には広く知られていたということです。

そのことは、ファリサイ派のシモンの言葉にも表れています。「イエスを招待したファリサイ派の人はこれを見て、『この人がもし預言者なら、自分に触れている女がだれで、どんな人か分かるはずだ。罪深い女なのに』と思った。」(39節)。

このシモンの言葉には、彼の二つの思いが表れていると言えます。一つは、この罪深い女に対する批判あるいは怒りです。シモンは、この女性がユダヤ教の基準からすれば、罪を犯していることを知っています。ファリサイ派であったシモンは、ユダヤ教の教えを守ることに熱心であり、自分を正しい人間であると考えています。ですから、そのような罪深い人々と関わりを持つことなどありえないことでした。それが、突然、自分の許しも得ずに、この罪深い女が勝手に自分の家に入り込んできたのです。そして、主イエスの足に香油を塗ったのです。それは、客である主イエスに対しても、また家の主人であるシモンに対しても、無礼なことでありました。シモンの面目をつぶすことになるからです。

しかし、一方で、シモンは、この女性を無理に追い出したりはしません。むしろ彼は、一歩引いて、主イエスであればこの事態をどのように対処するのか、事態を伺っています。「預言者ならば、この女がどのような人であるか分かるはずだ」。そのシモンの言葉には、主イエスの期待あるいは主イエスを試すような彼の気持ちが込められています。

この言葉が示すように、シモンは、ファリサイ派でしたが、同時に、主イエスのことを真っ向から敵対視していたわけではなかったでしょう。むしろ、自分の家に招いて、食事を共にしようとしています。ユダヤ社会において、食事を一緒にするということは、その人を自分の仲間であるとみなすことです。ですから、シモンは、むしろ主イエスに対して、一定の興味や関心をもっていたといえます。もしかしたら主イエスは、真の預言者であるかもしれない。そのように思っているわけです。そこで、彼は、この罪深い女にイエス様が気づくかどうかを試そうとします。

そのシモンの思惑に対して、主イエスは、シモンの想像をはるかに超えた言葉を語られます。41節から42節に記されている主イエスのシモンに対する問いかけに注目しましょう。「イエスはお話しになった。『ある金貸しから、二人の人が金を借りていた。一人は5百デナリオン、もう一人は50デナリオンである。二人には返す金がなかったので、金貸しは両方の借金を帳消しにしてやった。二人のうちどちらが多くその金貸しを愛するだろうか。』」

この主イエスの問いかけには、主が、その女性がどのような人であったかをご存知であることが暗示されています。ご自分の足を拭った女性が、神に対して大きな負債を負っていること、つまり、これまで深い罪を犯してきたこと、また罪の赦しを心から願っていることをご存知でした。そのことを言い当てることによって、ここで主イエスは、真の預言者であることを示されたのです。

さらに、主イエスは、その後で、愛と赦しの関係を語られます。「だから、言っておく。この人が多くの罪を赦されたことは、わたしに示した愛の大きさで分かる。赦されることの少ない者は、愛することも少ない。」(47節)

赦されることの少ない者は、愛することも少ない。どれだけ自分が罪深いものであるか、自分の罪の深さを知る者は、罪からの赦しを心から願います。そして、罪から赦された喜びを、主イエスへの愛によって表現しようとします。

おそらく、この罪深い女は、この出来事以前に、どこかで主イエスの教えに触れたことがあったのでしょう。直接、主イエスの教えを聞いたのかもしれませんし、あるいは人づてに主イエスのことを知ったのかもしれません。そして、主イエスが、自分の罪を赦してくださる方であることに望みをかけていたからこそ、今日のような大胆な行動にでたのでしょう。

他人の家に勝手に入り込んで、そこにいる客の足を涙で濡らし、髪の毛で拭い、接吻して、香油を塗るというのは、よくよく考えてみれば、非常識とも言える光景です。しかし、その非常識さの中に、この女性がどれほど自分の罪深さを痛感し、またそこからの赦しを、解放を願っているかが示されています。

一方、ファリサイ派のシモンは、たしかに主イエスにある種の好意を持っていましたが、自分の罪の赦しをねがっての行動ではありませんでした。世間で話題になっている人だから、有名な先生だから、主イエスを招いたのであって、自分のすべてを主の前にさらけ出す気持ちはありませんでした。それが、シモンと罪深い女の決定的な違いでした。

この二人の違いを示された後、主イエスは「あなたの罪は赦された」と女性に宣言されます。預言者として、その女性の正体を見抜かれただけでなく、罪の赦しを宣言されたのです。罪の赦し、それはただ神様以外にはできないことです。それを主はここではっきりと宣言されます。この言葉には、主イエスに自らを委ね、心から悔い改めるものは、主イエスによって救われるということが示されています。

古代教会では、今日の箇所は、しばしばユダヤ教とキリスト教の違いを示すものとして理解されてきました。すなわちファリサイ派のシモンは、ユダヤ教を象徴し、罪深い女性はキリスト教会を象徴するものと考えたのです。主イエスは、最初、シモンの家、つまりユダヤ人の間に来られますが、彼らは主イエスを受け入れません。主イエスを心から受け入れ、愛したのは、罪深い女であったのです。

この古代教会の解釈は、今日の聖書学では受け入れられないものかもしれません。しかし、一方で、感心させられるのは、それでもなお古代教会の聖書の読み方には、一定の真理が込められているということです。それは、教会というものが、この罪深い女と同じように、罪に呻き、また主イエスに罪を赦された者の集いであるということです。今日の聖書箇所は、読む者全てに、自分がシモンなのか、罪深い女性なのかを突きつけます。

自らをシモンであると考える人、つまり自分の罪を認めない人に、主イエスを本当に受け入れることはできません。そして、主イエスを受け入れ入れないがゆえに、赦されることもなく、また真の愛を知ることもできません。しかし、自らの罪を認め、心から悔い改めるならば、その時、主イエスを救い主と受け入れることになります。

宗教改革者のマルティン・ルターは言いました。「キリスト者よ、大胆に罪を犯せ。しかし、大胆に祈り、大胆に悔い改めよ」と。ルターが言う「大胆に罪を犯せ」というのは、わざと罪を犯せ、わざと悪いことをしろというものではありません。罪とは、そのような単純なものではないからです。ルター自身も、長い間、自分自身の罪に悩み苦しんだといいます。罪とは、自分自身の生き方を変えられないという嘆きです。罪とは、生き方そのものに関わるものです。

今日の聖書箇所に登場した罪深い女が、一体どのような罪を犯したのか、具体的には知ることはできません。しかし、いずれにしても、それは彼女が、望んで、故意に犯した罪ではなかったはずです。むしろ、彼女は、そのように生きていく他なかったのです。自分では望まないけれども、他にどうすることもできない。それまでの生き方を変えたくても変えることができない。それこそが、人間の本当の罪であり、また悲惨です。本当の罪とは、私たちをこのように責めさいなむものです。しかし、その苦しみと嘆きの後に、罪深い女は、やがて主イエスを見出したのでした。それは、自らの罪を、自らの人生を変えてくださる方でした。

主イエスは、この罪深い女に、最後にこう言われました。「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。」(50節)あなたの信仰こそがあなたを救う。主イエスへの信仰によってだけ救われる。主イエスを信じることによって、全く新しい生き方をするようになるということです。

主イエスによって罪が赦され、この女性は全く新しい人生を歩むようになりました。しかし、それはこの女性だけではありません。ルターもそうですし、また私たち教会に集う者全てがそうです。「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。」この主イエスの言葉は、今も、自らの罪に呻き、主イエスに依り頼む全ての者に向けられているのです。この御言葉に支えられて、平安の内を生きたいと思います。

祈りましょう。

目が開ける時

成宗教会牧師 藤野雄大

説教箇所:ルカ24章13-35節

「一緒に食事の席に着いた時、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。」

主にある兄弟姉妹の皆様、私たちは先週の日曜日、主の復活をお祝いいたしました。そして、これから6月半ばのペンテコステまでのおよそ2か月の間、教会は復活節の時を過ごしていくことになります。

主イエスは、復活された後、まずマリア達に現れ、それからも弟子たちのもとに次々と姿を現わしていきます。イエス様が十字架にかけられてしまったことで、弟子たちは、うろたえ、なすすべを知りませんでした。しかし、主は、そのような弟子たちをお見捨てになることなく、復活後、弟子たちに御自身の姿を示されました。そして、その復活の主イエスのお姿を見ることで、初めて弟子たちの止まっていた時は進みだし、今一度、信仰を取り戻していきます。

今日、示されました聖書の箇所、ルカによる福音書もまさにその一つで、しばしば「エマオの途上」と呼ばれる箇所です。聖書の言葉は、どれも素晴らしく、神の救いにあふれたものですが、このエマオの途上の話は、とりわけ魅力に富んでいて、一つの美しい短編小説のようだと言う人もいます。教会でも、復活節の時期に繰り返し読まれる、大変馴染み深い箇所だと言えます。

主イエスが復活された日のことでした。二人の弟子が、エルサレムから10キロほど離れたエマオという村に向かっていました。18節に記されておりますように、二人の弟子の内の一人は、クレオパという名前でした。もう一人の弟子の名前は記されておりません。

クレオパともう一人の弟子は、エマオに向かって歩きながら、婦人たちから聞いた話について論じあっていました。それは、イエス様が復活され、その亡骸がどこにも見当たらないというものでした。その時、イエス様御自身が、彼らのもとに近づいてこられましたが、しかし、二人の弟子たちは、それがイエス様だとは気づきません。なぜなら、彼らの「目がさえぎられていたからだ」と聖書は記します。二人の弟子の目が開かれ、イエス様に気づくまで、まだしばらく待たなければならなかったのです。

この二人の弟子たちにイエス様は、「やり取りしているその話は何のことですか」と尋ねられました。これに対して、クレオパは、「あなたはエルサレムにいながら、あなただけは、この話を聞いたことがなかったのですか」と答えます。このクレオパの言葉から、イエス様の復活のうわさは、すでにエルサレム中に広まっていたことが分かります。皆が、その噂を聞き、さまざまに話し合っていたのでしょう。しかし、同時にクレオパの言葉には、大きな皮肉も込められています。なぜかと言いますと、気づかないとは言え、クレオパは、復活の出来事を誰よりも知っているお方、この世界で唯一、復活について理解し尽くされているお方に対して、「あなたただけは知らないのですか」と問うているからです。

そのあとの19節以下のクレオパの言葉には、彼の落胆と戸惑いが表れています。彼は、イエス様が、「行いにも言葉にも力のある預言者であった」と言います。しかし、そのイエス様が、十字架にかかり、死んでしまったことを嘆きます。そして、クレオパは21節にあるように、「わたしたちは、あの方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました」と過去形で語ります。そして、十字架にかかってからもう三日も経ってしまったとダメ押しします。これは、イエス様に抱いていた希望が打ち砕かれてしまったというクレオパのあきらめや落胆の心境を示していると言えます。そのように失望の中にいたクレオパたちを驚かせたのが、マリアたちがもたらした知らせでした。それは、「イエス様は生きておられる」というものでした。そして、その言葉通り、墓には、イエス様のご遺体が無くなっていたという知らせでした。

この知らせを聞いても、クレオパたちは、半信半疑だったと推察されます。「常識で考えれば、そのようなことはありえないに決まっている。いや、しかし、もしイエス様が本当に復活したとしたら...。」おそらく、そのような気持ちでいたので、仲間とずっと話し合っていたのでしょう。しかし、信仰に関する事柄、とくに復活は、どれだけ議論したところで、理解できるものではありません。人間の知恵や理性では捉えきることができない事柄だからです。そのため、二人の弟子の議論も結局は、結論のでない堂々巡りものだったことでしょう。人が、復活を受け入れ、信じるためには、やはり主イエスの御導きに依るほかはないのです。

そこで、主イエスは、クレオパともう一人の弟子に、聖書全体にわたり、御自分について書かれている事柄を説明されました。さらに村に近づいた時、夕方になっていたので、二人の弟子たちの求めに応じて、イエス様は、同じ家に泊まられます。そして、食事を共にされたのでした。この食事の席で、イエス様は賛美の祈りを唱え、パンを裂いて、それを弟子たちにお渡しになったと聖書には記されています。すると弟子たちの目が開け、はじめてイエス様だと分かりましたが、すぐにイエス様の姿は見えなくなってしまったとあります。

大変、不思議な記述です。そして、この箇所が、まさに今日の聖書箇所全体の中心とも言えます。イエス様が、パンを裂かれる時、つまり聖餐に弟子たちを招かれた時、始めて、さえぎられていた弟子たちの目は開かれたのです。二人の弟子たちは、人間的な議論をいくら交わしても、結局は、目の前にいるイエス様の姿さえ認識することはできませんでした。彼らが、イエス様の姿を認めることができたのは、イエスさま御自身が彼らに近づいてきて、聖書のことを説明され、さらに聖餐のパンを分け与えられたからでした。

しかし、それではなぜ、そのあとすぐにイエス様のお姿は見えなくなってしまったのでしょうか。なぜ、イエス様は、ずっと弟子たちにお姿を現わしてはくださらないのでしょうか。

古代の有名な神学者、アウグスティヌスは、このことについて次のように語っています。「イエス様は、彼らから姿を見えなくされた。それは、それから後、イエス様は、御言葉と聖餐の中で、信仰によって見えるようになられるためであった。そのように弟子たちに認識されることをイエス様は望まれたのである。そして、主イエスは、今日では、パンを裂くこと、つまり聖餐によって、私たちにお姿を現わしつづけておられるのである。」

アウグスティヌスは、今日の聖書の箇所、エマオの途上の物語を、決して、二人の弟子たちだけに起こったことだとは考えていません。イエスさまは、説教と聖餐を通して、私たちにもお姿を現わしてくださっていると考えているのです。そして、信仰の目によって私たちもイエス様を認めることができるのだと語っているのです。

アウグスティヌスの言うことは、全くその通りだと思います。つまり、この美しいエマオの物語は、ただ2000年前、クレオパたち二人の弟子にだけ起きた物語ではないのです。実は、私たちもエマオの途上、エマオに向かって旅しているのではないでしょうか。

聖書では、しばしば信仰者の生涯を旅に例えることがあります。信仰の旅路、それは常に順風満帆とは限りません。旅の途中では、いつも天気が良い時ばかりではありません。曇りの日もあれば、大雨に振られることもあります。平らで歩きやすい道もあれば、登坂、下り坂もあるでしょう。さらに道に迷うこともあります。まっすぐに歩けずに、遠回りしなければならないこともあるでしょう。疲れて立ち止まったり、転んで倒れてしまうこともあるかもしれません。

これは、私たちの信仰にも当てはまります。いつも信仰に心が燃えているというのは難しいことです。様々な困難の中で、日常的な忙しさの中で目が曇らされてしまうこともあります。心に燃えていた情熱が、いつの間にか冷めてしまうこともあります。しかし、イエスさまは、そのような私たちにも寄り添ってくださり、旅を共にしてくださいます。そして、聖書の御言葉と聖餐を通して、私たちの信仰を呼び覚ましてくださるのです。その意味で信仰の旅とは、まさにエマオの旅そのものと言えます。

今日の礼拝後には、教会総会が開かれます。その中で長老の選挙も行われます。教会総会とは言うまでもなく、昨年度の教会の歩みを確認し、また今年度、教会がどのように進んでいくかを決める教会にとって最も大切な意思決定の時です。

しかし、教会総会とは人間的な会議の場所ではないということも忘れてはいけません。教会総会は、他の会議のように人間的な知恵を寄せ集める場所ではありません。まず何よりも私たちの祈りを寄せ集める場所です。そして、私たちを教会へと呼び集めてくださったイエス様の恵みに感謝する時でもあります。

イエス様が、私たちに近づいてきてくださいます。そして私たちを呼び集めてくださいます。ただ主イエスのこの恵みによって、私たちの信仰は温められ目が開かれるのです。そして本当に大切なこと、主の御心にかなう道が見えるようになります。教会総会、そして長老選挙とは、人間的な意思決定の場ではなく、このイエス様の恵みに答える場所であることを覚えたいと思います。

成宗教会に集う一人ひとりが、主に結ばれて、主に強められて、2019年度の歩みをなすことができますように。また新しく神様の救いの御業に触れて、信仰を起こされる方が与えられますようにお祈りいたします。

神の御心をたずね求める

聖書:詩編1031012節, 1722節, ルカによる福音書223946

 先週は東日本の講壇交換礼拝が守られ、感謝します。成宗教会には東日本議長の竹前治先生がいらして、力強く福音を語ってくださったと伺っています。また、「議長だというのに、お若い先生だったので驚いた」という声も聞きました。

私も車でしか行ったことがないので、晴天の主の日、雪の心配もなく出かけることができ、感謝でした。病院の礼拝から、成人の礼拝、そして月に一度は病棟を廻ってお見舞いをすることも、清瀬信愛教会の方々とさせていただきましたが、竹前牧師はこの上に教会学校もなさるので、大変たくさんの務めをされていることが分かりました。清瀬信愛教会は大塚啓子先生が病院のチャプレンとして働かれた教会でもあります。目黒原町教会から、私の休暇中に礼拝の奉仕をしてくださいました時、代わりに留守を守ってくださった引退教師の先生にも今回お会いしましたので、本当に成宗教会も私も、いろいろなところで、いろいろな方々にお世話になっていることが思われました。

先週はまた、四月から赴任される藤野雄大先生、美樹先生方も教会にいらして、引き継ぎの話し合いを行うことができました。お伝えすることが沢山ありましたが、お互いに「普通はこんなに綿密な、丁寧な引き継ぎはできないですよね」と語り合いながらも、まだまだ出来てないことがある、ということで、次の日程を立てているところです。すべては東日本連合長老会の交わりの恵みであります。様々な違いがあっても、わたしたちは共に一つの主の体の教会を目指しています。そのために共に主の前に謙って、み言葉に聴き、共に祈り、共に学ぶことの大切さは計り知れません。

共に祈るわたしたちの、共通の祈りとして主の祈りが与えられています。これは、弟子たちに与えられた祈り、そして教会に受け継がれた祈りです。そこで今日はカテキズム問59を学びます。それは「主の祈りは何を第3に求めていますか」という問いです。第3の祈りは、「みこころが天に行われるとおり地にも行われますように」です。「天に行われるように」と祈る、その「天」とは、神さまのおられる所だとわたしたちは知っています。そして、そこには神さまの右に、御子である主イエスさまが座しておられます。

天には交わりがあります。それは、父なる神と御子イエス・キリストの親しい交わりです。そして、それは聖霊という愛の絆で結ばれている麗しい交わりなのです。そして神さまは願いを持っておられます。神さまの願いは何でしょうか。それは、神さまのうちにあるこの美しい交わりへと、わたしたち人間を導き入れることなのです。これが神さまの御心なのです。詩編103篇の預言者はこう宣言します。10節。「主はわたしたちを罪に応じてあしらわれることなく、わたしたちの悪に従って報いられることもない」と。真に神様はご自分をいつくしみふかく憐れみに富む神、と宣言しておられます。

11節。「天が地を超えて高いように、慈しみは主を畏れる人を超えて大きい」と。わたしたちは誰も彼もが神さまに逆らい、過ちを犯し、罪を免れない者なのですが、神さまは主を畏れる人に対しては、ふさわしい報復を加えることをなさらない。その寛大さを以てわたしたちの悪行と戦ってくださいます。なぜなら、神さまの憐れみがどんなに深くても、わたしたちの罪が憐れみの邪魔をするので、その罪が取り除かれなければ、憐れみがわたしたちの所まで届かないからです。12節。神さまは「東が西から遠いほど、わたしたちの背きの罪を遠ざけてくださる」と言われるほど、わたしたちの罪を遠くへと追い払ってくださいます。

神さまはそれほどまでのご決意を持っておられます。それが御心です。今日読まれたルカ福音書22章39節から46節。これはイエスさまが十字架にお掛かりになる直前の出来事を伝えています。イエスさまは受難の時が迫っているときも、いつものように同じ所に出かけられたのです。つまり、主は敵から身を隠すために退かれることはなさらず、却って、敵の前に御自分を曝されたのでした。それは、死に対して、御自分の身を与えられたということです。ここにイエスさまの従順が描かれている。死に対して従順だったのではありません。死に対して進んで命を差し出すこと以外には、天の父の心を満たすことはできないことをイエスさまはご存じだったからです。

わたしたち人間が救われるためには、それを妨げて道を塞いでいる罪を滅ぼさなければなりません。その罪を滅ぼすために、神の子イエスさまは死に渡されようとしていました。

42節。「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください。」神さまは御子イエスさまを既に苦難を受けるための準備的な訓練を与えておられましたが、今やより差し迫った死を目の前に描き出して鋭くイエスさまを撃たれました。そして愛する御子は今までに経験したことのない恐怖に打ちのめされたのであります。

しかし、聖書が伝えるこの祈りの場面ですが、神の子イエスさまが迫り来る死に直面して恐怖に打ちのめされる、という弱さを、「あり得ないことだ」と思う人々は多かったのであります。神さまの御子が死を恐れるなんて・・・と思うので、古代教会以来、神学者もいろいろな解釈をつけて何とか、何があっても動じない敢然とした神さまの強いお姿をイエスさまに反映させようと努めたようです。しかしそのような労苦は間違いであり、必要がないと宗教改革者は断言しました。なぜならキリストがこのように恐れと悲しみを経験されたことを、もしわたしたちが恥と思うなら、わたしたちのための身代わりの犠牲は破壊され、失われてしまうでしょうから。

四世紀の古代教会教父、聖アンブロシウスはその説教の中で、ただ次のように言いました。「わたしは主イエスのために、このお姿に何の弁解の必要も感じないばかりでなく、主イエスの親切と威厳がここよりも讃えられるところは他にないと思う。なぜなら彼はわたしの思いを御自分に取り入れたのでなければ、わたしのためにこれほどのことを成し遂げてはくださらなかったであろうから。真に、主はわたしのために嘆き悲しまれたのであって、御自身のために悲しむ理由は何もなかったのだ。主は永遠の神のご性質とその喜びをしばし脇に置いて、わたしの弱さの苦しみを経験されているのである。」天から降られて人となられたイエスさまは、御自身に人間の外観を取られたのではなく、人間の生きる現実の性質を取られたのだから。故に、主は人の悲しみを経験されなければなりませんでした。さらにその悲しみを克服しなければなりませんでした。

イエスさまは祈りました。「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください。」キリストの十字架の苦しみはすべての面で自発的なものとは言えません。しかし、御父の御心の故にそれは自発的になっているのではないでしょうか。わたしたちも自分の願いがあります。自分のしたい事があります。また自分が避けたいことがあります。是非このことだけは叶えてほしいというものがあるわたしたちです。

しかし、主イエスさまはわたしたちの弱さを持って苦しみもだえ、切に祈られたときに、その祈りはわたしたちの弱さを以て、神さまの御心を求める祈りの格闘をしてくださったのです。わたしたち人間の救いのために、主イエスさまは神さまの御心を願い求め、そしてその苦しみによってわたしたちに救いの道が開かれました。十字架の受難に先立つ格闘、この苦しみの祈りにこそ、わたしたちは学ばなければならないと思うのです。神さまは御自分を頼る人々を憐れんでくださいます。その人々がたとえどんなに罪、咎、過ちに満ちた人生を歩んで来たとしても、ご自分を畏れる人々を憐れみ、天の国の交わり、神さまの喜ばしい交わりの中に招き入れることを望まれます。これが救いであります。これが神さまの御心であります。その御心を知っておられる御子イエスさまは、御使いに力づけられ、立ち上がって十字架ヘと進まれました。

では、神さまを畏れる人々はどこにいるのでしょうか。わたしたちは言いましょう。わたしたちがそうです、と。せめてわたしたちは言いましょう。「わたしたちはそうでありたいです」と。そのためにわたしたちは教会に招かれたのです。そのためにわたしたちはイエスさまを救い主と信じ、悔い改めて洗礼を受けたのです。そのためにわたしたちはイエスさまの罪の赦しに結ばれたのです。

しかし、地上にいる限り、わたしたちは新しい試練に直面します。地上にある限り、わたしたちは自分に望ましいことがあり、自分が避けたいことがあります。わたしたちは主の祈りを祈る前に、この自分の願いをはっきりと見る必要があります。自分に望ましいことは何か。そして自分が避けたいことは何か。しかし、それだけで終わってしまうのでは、主の祈りには届きません。わたしたちは弱い者なので、自分の考えや願いが正しいと思ってしまう。すると、まるで神さまもきっとそうだ、と思うかのように、全然神さまの御心を尋ね求めようともしなくなります。それでは主の祈りには届きません。

主イエスさまは、弟子たちに主の祈りを教えてくださいました。そして、主は御自分が教えられた祈りの通りに生きて、死を迎えてくださいました。それは多くの人々のための死。多くの人々が神さまを畏れるようになるため、多くの人々が神さまを頼るようになるために、多くの人々が神さまの喜ばしい交わりに入れられるために、死んでくださった。だからこそ、神さまは御子イエスさまを復活させられ、天に昇らせてくださったのです。

ここにこそ、神さまの御心がありました。ここにこそ、わたしたちの祈りは向けられなければなりません。わたしたちは主と結ばれて教会にいる者です。わたしたちは神さまにどれほど愛されていることか。どれ程慈しみをいただいていることか。本当に知っているでしょうか。「神の愛がわたしたちの心に注がれている」とパウロは教会の人々に告げ知らせました。ローマ5章5節以下です。「実にキリストは、わたしたちがまだ弱かったころ、定められた時に、不信心な者のために死んでくださった。(中略)わたしたちがまだ罪人であった時、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。」279頁。

この愛が分かることこそ重要です。なぜなら自分を愛し、大切にしてくださる神さまをわたしたちはイエスさまによって知ることができるからです。この神さまを信頼して行く。イエスさまをさえ惜しまなかったほどわたしたちの救いにこだわってくださった主なる神さま、天のお父さまに祈るとき、私たちはその愛の心、慈しみに満ちたご計画が地上で成し遂げられることを祈らずにはいられません。

そして、それはキリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さを理解することですから、わたしたちに関わること、わたしたちの教会に関わることでなくて何でしょうか。これから成宗教会は新しい先生方をお迎えし、新しい時代を迎えようとしています。ここに具体的にああすれば良い、とか、こうすれば良いとか、いろいろと計画が建てられるようになることは喜ばしいことでしょう。しかし何よりも祈るべきことは主の祈りの第三の祈り。「みこころが天に行われるとおり地にも行われますように」です。神さまの御心が天で行われているのと同じように、地上にも完全に行われることを私たちは心から願い、待ち望むのです。自分の思いとちがう思いがけないことが起こるときにも、主の祈りをしっかりと祈るならば、神さまは私たちを愛して良い道を開いてくださると確信することができるでしょう。祈ります。

 

主なる父なる神さま

あなたの尊き御名をほめたたえます。御子イエス・キリストのご受難によってわたしたちに救いの道を開いてくださるほど、わたしたちを大切にしてくださる、計り知れない愛についてみ言葉を聴きました。どうかわたしたち成宗教会に集められた者も、あなたの愛に応える者となりますように。あなたを信頼し、すべてのことの上に御心が成りますように、と祈る者となりますように。そして、同時にあなたの御心を尋ね求め、知る者となりますように。弱いわたしたちは楽を求め、労苦を望まないものですが、イエスさまはわたしたちに代わって労苦を厭わず、あなたの御用を果たしてくださいました。

あなたはわたしたちの弱さをご存知です。どうかわたしたちがあなたの愛、イエスさまの救いに感謝し、いつもあなたに讃美を捧げる礼拝の時をお与えください。あなたの御国の喜び、その麗しさ、その平和、その支え合う心をわたしたちにお知らせ下さい。地上にイエス・キリストの教会をわたしたちは建てるために東日本連合長老会の諸教会と共に、また志を同じくする全国全世界の教会と共に心を合わせ、歩みたいと切に願います。一方、あなたの御心よりも自分の願いを先にする誘惑は常に現れ、教会の脅威となります。どうか、主よ、この教会が、また東日本の地域教会がそのような試みから守られますように。

どんな時にも御心を尋ね求め、あなたの喜びをわたしたちの喜びとさせていただけるように祈ります。

これから4月の着任に向けてご準備くださっている藤野雄大先生、美樹先生の上にあなたの豊かなお支えがございますように。また、成宗教会が長老会と心を一つにして祈り準備することができますように。また止むを得ない事情で礼拝に来られない日々を送っている方々をどうぞ顧みてください。深い慰めと励ましを祈ります。

この感謝、願い、尊き主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

主の祈り

聖書:詩編1211-8節, ルカによる福音書11110

 私たちは昨年12月30日の礼拝から、主の祈りについて学び始めました。主の祈りは、使徒信条と十戒と共に、三要文と呼ばれます。それは、三つの重要な文言、言葉という意味であります。私たちは今、成宗教会に集まり、全国、全世界の教会にも人々が集まり礼拝を守っております。ただ教会に集まっているというだけで、全世界の教会が同じキリストを信じていることにはなりません。そうではなくて、教会は代々同じ信仰の言葉を受け継いで来たからこそ、同じ信仰に立っていると言えるのです。

その信仰の言葉が三要文の中に示されています。そして私たちはキリスト教の教えを知らせる求道者会や洗礼志願者の会では、使徒信条、十戒、主の祈りを教え、そして学んでおります。私自身は2006年に東部連合長老会に個人加盟しましたが、それはちょうど全国連合長老会日曜学校委員会がカテキズム教案を出版し、カテキズム信仰問答によって教会学校の教育を行うという取り組みが始まった時でした。

それから12年が経ち、今年も日曜学校研修会が開かれました。講師に立たれた富田林教会の兼子洋介先生は、私が加盟したとき、一緒に初任者研修を受けた若者であったことを思い出しました。東神大出立てのまだ学生の雰囲気がいっぱいに見えた先生が、立派な指導者となって教案の出版について苦労や、問題点、また将来の希望に向かって東日本の教会に呼びかけている様子を拝見し、私はうれしく感慨深い気持ちでいっぱいでした。若い教師がやがて中堅となって教会を支えて行く。しかも自分の教会について語るときも、他の教会について語るときも、同じ熱意と感謝を込めて呼びかけるのを見ることは、どんなに喜ばしいことでしょうか。カテキズムの学びは子供だけの学びではない。教える教師も教わる子供も、大人も共に学び、同じ神さまに対する同じ信仰を伝えて広めていくのだという実感がわきました。

私たちの教会の2018年度の標語が週報に掲げられています。(エフェソの信徒への手紙第3章18-19節です。)「また、あなたがたがすべての聖なる者たちと共に、キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解し、人の知識をはるかに超えるこの愛を知るようになり、そしてついには、神の満ちあふれる豊かさのすべてにあずかり、それによって満たされるように。」この聖句の意味するところが、カテキズムの学びの中に正に現れているのではないでしょうか。

そういうわけで、私たちは教会の信仰を学び、いつでもどこでも確信をもって教会の信仰を生き、伝道する者と成長するために、大人の礼拝でもこのように、三要文の学びを続けています。さて、12月30日に学んだカテキズム問52は次のようです。カテキズム問52、 「なぜわたしたちは祈るのですか。」そしてその答は、「神さまがわたしたちに祈ることを求めておられるから」でした。人間は神さまの似姿に造られた者ですから、神さまの呼びかけに応えるのが本来の喜びに満ちた姿なのです。次に問53を学びました。それは、カテキズム問53、「わたしたちが祈るとき、どのような恵みが与えられますか」という問いでした。その答は、わたしたちが神さまに近づき、親しく語り合う恵みが与えられるのです。神さまが近くにおられることは大きな喜びです。キリスト・イエスさまが私たちの住むこの世界に近くいらしたのは、私たちの罪を赦し、神さまの子とさせるためでしたから。この恵みの中で、わたしたちは既に罪赦されていることを思うとき感謝と喜びを忘れません。

そして、先週のカテキズム問54は、「祈るときに大切なことは何ですか」でした。私たちに大切なことは神さまに対する信頼です。「神さまだけが最も良いものを与えてくださることを信じて感謝し、熱心に求めること」が大切なのです。このように、私たちには神さまに向かって祈りが必要なこと、また祈りの恵みや祈るときの心構えについて、これまで学んできました。では具体的に、私たちはどのように神さまに祈ったらよいのでしょうか。それが本日の学びです。

主イエスさまが弟子たちに祈りを教えられたことはマタイとルカの二つの福音書に伝えられています。本日はルカ11章を読んでいます。1節です。「イエスはある所で祈っておられた。祈りが終わると、弟子の一人がイエスに、「主よ、ヨハネが弟子たちに教えたように、わたしたちにも祈りを教えてください」と言った。」イスラエルの人々の社会は神さまを知らない社会ではありません。皆が聖書に啓示された神さまを信じて従う神の民だったはずです。それなのに、弟子たちがイエスさまに祈りについて改めて教えてくださいとお願いしている。私たちは何となく意外な感じがするのではないでしょうか。

その当時エルサレムには壮大な神殿があり、人々は祭のたびにエルサレムに大勢、国外からも集まっていました。祭司が香を焚き、犠牲の献げ物が屠られ、献金や十分の一の献げ物が捧げられて、立派な儀式が行われたことでしょう。しかし、そのような整った儀式の礼拝と、個々人の祈りとはかけ離れてしまっていたのかもしれません。形は整い、人々の目や耳を奪うほど美しいとしても、人々は心に何と祈って良いのか分からなかった。だからこそ、主イエスさまの前に現れた預言者ヨハネは、堕落してしまっていた礼拝儀式ではなく、「悔い改めて洗礼を受けなさい」と宣べ伝えました。そのヨハネが弟子たちに祈りのために指導していたのは当然のことであったかもしれません。

それではイエスさまの弟子たちはどうだったでしょうか。「洗礼者ヨハネが弟子たちにお祈りを教えているらしい。」「じゃあ、私たちもイエスさまに教えてもらおうではないか」というようなことだったのでしょうか。マルコ福音書には主の祈りについての記述はありませんが、1章を見ますと、イエスさまに呼ばれた弟子たちが、イエスさまに付き従って伝道の生活を共にした様子が見えてきます。21節から見ますと、イエスさまは安息日に会堂に入られ、み言葉を教え始められました。すると汚れた霊に着かれた人が、説教を遮る。「ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか」と。イエスさまの前に立ちはだかる悪霊に、イエスさまは「黙れ。この人から出て行け」と一喝され。追い出されました。

また弟子のシモンとアンデレの家に行くと、イエスさまは熱を出して寝ていたシモンの姑の手を取り、姑はすぐに癒されました。日が沈み夜になって安息日が終わりました。その時を待っていたかのように、人々は病人や悪霊に取りつかれた者を皆、イエスさまのところに連れて来たというのです。弟子たちはイエスさまがいろいろな病気にかかっている大勢の人々を癒すのを見ていました。また、多くの人々から悪霊を追い出されるのも見ました。それはどんなに悲喜こもごもの大騒ぎであったことか、決して十分に想像することができません。言ってみれば野戦病院さながらの光景だったのではないでしょうか。

イエスさまは地上に在って私たちと同じ人間であられ、肉体の限界の中を生きておられましたから、このような大騒ぎの伝道の活動に、イエスさま御自身お疲れにならないはずはありません。まして弟子たちはイエスさまの周りに押し寄せて来る人々の応対に疲れ果てて、仕事が終わると泥のように眠ったに違いありません。しかし、朝早く暗いうちにイエスさまは起きて、人のいないところに行ってお祈りをしておられました。弟子たちは起きて、イエスさまがいないのに気付き、さあ、どちらへ行かれたかと捜し回る、という生活の様子が分かります。

イエスさまの弟子たちは、このようなイエスさまのお姿を見て、何を求めたでしょうか。それは祈りでした。彼らは病人を癒す技術を尋ねたのではありません。悪霊の追い出し方を教わろうとしたのではありません。確かに弟子たちはイエスさまのご復活後、そのような力をも与えられました。しかし、彼らはイエスさまの弟子としてなくてはならないものは何かを理解したに違いありません。イエスさまに従う者はイエスさまの祈りを知らなければならないと思ったのです。イエスさまの祈りを知りたいと思ったのです。あのように心を込めて人々に向き合い、人々の苦しみ、悩みの根本を見極め、人々を縛り付け、がんじがらめにしている悪の力、悪霊の支配、神さまに敵対する勢力に立ち向かうイエスさま。その力の源は祈りにあると思わずにはいられませんでした。だからこそ、疲れ果てて倒れ込むような夜も、神さまを仰ぐために祈りへと立ち上がるお姿があることを、弟子たちは知っていました。

こうしてイエスさまが教えてくださった祈りについて、私たちは順番に学んで参ります。主イエスさまは弟子たちに祈りに用いる言葉を細かく規定したのではありません。そうではなくて祈るべき内容について教えてくださいました。すなわち、わたしたちの願いや祈りの目的が何か、何でなければならないかということのみを指摘しておられるのです。主の祈りは、六つの部分から成り立っています。それは六つの願いです。この願いによって神さまに求めることが許されている、その内容が私たちに示されました。まず、「父よ、御名が崇められますように。御国が来ますように」が最初の三つです。これらは神の栄光に関するものです。後の三つは「私たちに必要な糧を毎日与えてください。私たちの罪を赦してください、私たちも自分に負い目のある人を皆赦しますから。私たちを誘惑に合わせないでください」で、これらの祈りはわたしたちの救いのために必要なものです。

私たちはちょうど去年十戒を学びました。それで神の戒め、律法が二枚の板に分けられてあることを思い出す方もいらっしゃると思います。第一は神の栄光を讃えるための戒めでありました。そして第二は隣人に対する愛の戒めであります。祝福されて生きるために、神を愛し、人を愛しなさいと命じられているのであります。この祝福は永遠の命に至る祝福であります。この戒めを守ることのできない罪人を救うために、イエスさまが地上に人となり、人の罪を贖って、罪人に救いの道を開いてくださいました。

そのイエスさまが教えられた祈りも、十戒のように、まず第一に神の栄光を讃えるための願いで始まりました。まずこの願いを祈り求めてこそ、私たちは正しい方法で祈る準備が出来たことになるのです。私たちは、すぐに自分の願いにとびつく者ではないでしょうか。すぐに自分の損得を計算するのではないでしょうか。私たちは「隣人を自分のように愛しなさい」との目標から程遠い人間なので、祈りの目標も、目的も真に貧しいと、さもしいものになりかねません。しかし、こういう私たちが自分に関わることだけを考え、はるかに重要である神の国のことを考えないならば、私たちの祈りは主イエスさまのお心とは程遠いものになるでしょう。

イエスさまが朝暗いうちに人里離れたところで祈られた祈りを思います。詩編121篇の祈りは、神さまを礼拝するために神さまの家に向かう人の歌です。都に上る歌。「目を上げて、わたしは山々を仰ぐ。わたしの助けはどこから来るのか。わたしの助けは来る。天地を造られた主のもとから。どうか、主があなたを助けて、足がよろめかないようにし、まどろむことなく見守ってくださるように。見よ、イスラエルを見守る方はまどろむことなく、眠ることもない。主はあなたを見守る方、あなたを覆う陰、あなたの右にいます方。昼、太陽はあなたを撃つことがなく、夜、月もあなたを撃つことがない。主がすべての災いを遠ざけて、あなたを見守り、あなたの魂を見守ってくださるように。あなたの出で立つのも帰るのも、主が見守ってくださるように。今も、そしてとこしえに。」

この歌には、神さまをほめたたえる讃美が溢れています。詩人は自分を救ってくださる神さまをどんなに信頼していることでしょう。神さまは、信頼して従う者を必ず助けてくださる。必ず救ってくださる。イエスさまも真の人としてこの信頼を神さまに捧げてくださったのです。そしてよろめく足で世の旅を続ける私たちを守るために、すべての災いを遠ざけて救うために、御自ら私たちの贖いとなってくださいました。主をほめたたえましょう。

 

恵み深き天の父なる神さま

尊き御名を讃美致します。あなたの憐れみが全世界の主に従う教会の群れに注がれますように。そしてどんな苦難、困難の中にあっても、私たちの救いのためにすべてを忍んで十字架の贖いを成し遂げてくださった主イエス・キリストを思い、感謝を捧げます。わたしたち心新たに主の教えに従う者となりますように。

本日はどのように祈れば良いか、について教会の信仰を学びました。主が教会に教えてくださった祈りをよく理解し、生涯の宝として真心を込めて祈るようにお導きください。先週は藤野先生ご夫妻より、1月8日に成宗教会長老会からお送りした招聘状の受諾状をいただきました。すべてが御旨に従って導かれたことを信じ、心から感謝を捧げます。全国にある多くの教会が少子高齢化の中で、困難を抱えています今、成宗教会は主の憐れみと励ましをいただいて後任の先生方をお招きし、広く長く地域連合長老会と共に交わりと学びをすることで、主の体の教会を形成するあなたの御業に仕えることができますように。

これから4月の新年度着任に向けて、新しい体制を整えることができますように、どうか長老会とそれを支える信徒の方々を励ましてください。藤野雄大先生、美樹先生に伝道者としての大きな志を与えられた神さま、どうか成宗教会が先生方をお迎えし、心を合わせて共に主の教会に仕え、共にあなたから豊かな祝福を受けることができますように、どうかお導きください。

先週の主の日に地上の生涯を閉じられた野方町教会員、桑原信子姉妹のことを覚え、あなたに感謝を捧げます。桑原姉はお病気の辛さを乗り越えて、全身全霊を以てこの教会の礼拝に奉仕してくださり、あなたに喜ばれました。そして私たち成宗教会には励ましと感謝を残してくださいました。桑原姉を励ましてくださった主よ、どうか私たちをも励まし、弱い時にも、あなたに愛されているこの愛に応えて喜んで奉仕する群れとならせてください。尽きない感謝と願い、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

祈りの中にある人生

聖書:詩編116篇12-19節, ルカによる福音書18章1-8節

 わたしたちが礼拝説教の中で、信仰問答(カテキズムと申します)によって、教会が受け継いで来た信仰を学び始めたのは、2017年の9月でありました。その内容は、使徒信条と十戒と主の祈りでありまして、三要文と呼ばれます。今年の待降節の前に使徒信条と十戒について学びを終えましたので、本日、2018年最後の礼拝から主の祈りを学びます。そして、ちょうど年度末までには学び終えるでしょう。

本日の問52は、「なぜわたしたちは祈るのですか」です。大変、率直な、素朴な問いです。そしてそれに対する答もまた、大変単純明快なものです。なぜなら、「神さまがわたしたちに祈ることを求めておられるからです。」これが答です。私たちはよく、お祈りは苦手だなどと言うことがあります。どう祈っていいか分からないと思うこともありますが、人前で祈るということを考えれば、なおさらです。私は40代の頃、ある教会の長老を務めたことがありましたが、長老の務めが重荷だったのは、「どう祈ったらよいか分からない」という単純な悩みのためでした。

一方、洗礼も受けていないのに、また教会を離れて久しいのに、滔々と人前で祈る人がいることにも驚きました。牧師の娘だったという、ある年取った信者の方が「わたしはお祈りができないので、オルガンを弾いて讃美します」と言うのを聞いて、わたしも気持ち分かるなあと思ったことです。こんな私が献身して牧師になったのですから、私は成宗教会の皆さんに祈りについて具体的な勧めをしたことはほとんどありませんでした。ただ、わたしたちは祈りが必要であることだけは、身をもって感じているのではないでしょうか。

私に洗礼を授けてくださった仙台東一番町教会の田中従夫牧師は多くを語らない人でしたが、一つだけはっきりと勧めておられたことがありました。それは祈りを止めてはならないということだったことを思い出します。「悪魔は、わたしたちの計画することに何でも賛成します。わたしたちが、「あれがしたい」と思っても、大賛成。「これがしたい」と言っても、大賛成です。ただし、一つだけ賛成しないことがあります。それは神さまに祈ることです」と田中牧師は言い、だから悪魔に支配されないために、祈りを止めてはいけないと勧められました。長い人生を振り返ったとき、この言葉を思い出します。何かの理由で教会を離れざるを得なかったときも、戻って来ることができたのは、祈りによって神さまの助けを求めて来たからでしょう。

このような体験は、おそらく皆様にもおありのことでしょう。神さまがわたしたちに祈ることを求めておられるから、わたしたちは祈るのだと教えられました。聖書は、人間が神さまのかたちに造られたと教えています。それは神さまの呼びかけに応える相手として造られたということなのです。ですから、人は神さまとお話ができる、祈ることができるように造られたということです。人が見えない神さまに祈りをささげる姿こそは、神さまがお造りになった本来の人の姿だということができるでしょう。

本日の新約聖書のテキストはルカ18章です。イエスさまは弟子たちに気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教えるために、このたとえ話をなさいました。「ある町に、神を畏れず人を人とも思わない裁判官がいた。ところが、その町に一人のやもめがいて、裁判官のところに来ては、『相手を裁いて、わたしを守ってください』と言っていた。

裁判官は、しばらくの間は取り合おうとしなかった。しかし、その後に考えた。『自分は神など畏れないし、人を人とも思わない。しかし、あのやもめは、うるさくてかなわないから、彼女のために裁判をしてやろう。さもないと、ひっきりなしにやって来て、わたしをさんざんな目に遭わすに違いない。』」

ここには神を畏れず、人を人とも思わない傲慢不遜な裁判官が登場します。彼が貧しい寡婦の弱い立場を守ってくれそうな期待は到底持てないのです。しかし、やもめはどうしたでしょうか。見込みがないのであきらめたでしょうか。絶望したでしょうか。彼女に最善の方法は何でしょうか。たとえ傲慢で情け容赦のない相手であっても、彼女は訴えを諦めるより、訴え続ける方を選びました。そしてとうとう不正な裁判官を根負けさせたという話です。

イエスさまはこの傲慢不遜な裁判官を神さまに例えておられるのでしょうか。そんなことは決してないでしょう。ただこんなにひどい相手であっても、この人に訴える他に方法はない、となったとき、この女の人はもう絶対にあきらめないで訴え続けた、ということを強調しておられるのです。まして、あなたたちが祈り求めている相手は神さまではないか。神さまはどのようなお方か、あなたたちは知らないのか、とイエスさまは問われているのではないでしょうか。神さまは憐れみ深い方です。神さまは御自分を次のように言い表された方です。出エジプト記34章6節。「主、主、憐れみ深く恵みに富む神、忍耐強く、慈しみとまことに満ち、幾千代にも及ぶ慈しみを守り、罪と背きと過ちを赦す。しかし、罰すべき者を罰せずにはおかず、父祖の罪を、子、孫に三代、四代までも問う者。」151上。

このような神さまの慈しみを知っているならば、どうして祈り求め、祈り続けないでいられるのだろうか、とイエスさまは問われているのです。あきらめるなどということは論外ではないかと。本当にその通りなのです。ところが、私も冒頭で正直に述べました様に、「お祈りは苦手だ」とか、「何をどう祈って良いか分からない」という理由で「人前で祈るのは・・・」とためらう人がいるかと思えば、まるで神さまに向かって大演説をするような人も出て来る。また、それを見て、大いに驚いて躓く者まで出て来るという現実があります。そんなことなら、自分の言葉で祈らないで決められた祈祷文にすれば簡単だ、等々、あれこれと百でも理由を作っては、祈りから遠ざかろうとするのではないでしょうか。わたしたちはそれこそ、サタンの思う壺にはまりかけているのです。

ところが、イエスさまは何と言われたでしょうか。それは「あなたがたは、あきらめずに祈りなさい!」とのご命令です。「あきらめないで、」です。「自分の拙い言葉や自分の情けない祈りにがっかりしないで、」です。神さまは立派な日本語でないと、立派な英語でないと聞き取れないとはおっしゃらず、忍耐強く聞いてくださる方なのです。また、神さまはわたしたちのひそかな不平不満もご存じです。あれをお願いしたのに、聞いていただけない、わたしの祈りは聞かれないと思い、がっかりしたり、悲しんだりするわたしたちがいます。

わたしたちからすると無理もないことです。重い障害や難病に苦しんでいる人々を思うとき、いつもイエスさまが手を取って起こしてくださった奇跡、目に泥を塗って見えるようにしてくださった奇跡、耳に指を入れ、つばを舌に付けて、開けと言って聞こえ話せるようにしてくださった奇跡が、起こったらどんなにうれしいことかと思うのです。そしてこれ以上良い願いはない、祈りはない、とまで思い、叶わないことを悲しむのです。

しかし、「がっかりしない。あきらめないで祈りなさい」と、今もイエスさまはわたしたちに呼びかけておられます。わたしたちは、幸いなことにあきらめない者として教会にいます。私はこの教会で祈りについてほとんど指導することはありませんでしたが、ほとんどいつの間にか、祈りに満ちた教会になっていました。兄弟姉妹が集まり、礼拝を守り、共に主に祈って来たからです。そして礼拝が終わると皆、教会の外に出て行きました。また会えるだろう、また集まれるだろうと思って別れるのですが、二度と会うことはなかった人もいます。いつまでも元気でいるのが当たり前のように思ってお別れするのですが、思いがけない困難に直面することもあります。その折々に、わたしたちは祈り合って来ました。

もちろん、お互いのことが十分分かっている訳ではないので、「あの人はこうすれば良いのに」「ああしない方が良いのに」と心配しても、わたしたちの考えが正しいかどうかも分かりません。そういう限りある知識の者たちが、限りある力の者たちが集まって祈る祈りなのですが、この拙い、貧しい祈りを神さまは喜んで聞いておられる。だからイエスさまは「祈りなさい」と言われます。ちょうど何も分かっていない幼子のようであっても、その祈りを喜んでくださる神さまがおられるのです。

成宗教会が祈りに満ちていると思うのは、わたしたちに沢山の困難や課題があるからです。この教会に限ったことではなく、教会はこの社会の、また全世界の悩みを映し出しています。悩む人々、悩む社会、悩む世界の中に建つ教会は、祈りの務めを与えられているからです。今日のイエスさまの例え話には悩みある人の訴え、という祈りが取り上げられましたが、わたしたちは礼拝で感謝の祈りを捧げています。御心を尋ねる祈りもあります。そして、これから主の祈りで学ぶことですが、神さまの御心が行われるようにと祈る祈りに導かれます。自分の願いだけを一方的に願うばかりの時は気がつかないことですが、祈りは毎週の礼拝の中だけでなく、個々人で、毎日、時間を決め、一人で、あるいは家族と共に祈ることによって、思いがけない導きが与えられます。それは、自分がこれまで本当に神さまに守られ、恵まれて来たのだ、という発見です。

詩編116篇の詩人は言います。「主はわたしに報いてくださった。わたしはどのように答えようか。」神さまがわたしの祈りを聞いてくださったことに気がつく、ということは非常な恵みなのです。なぜなら困ったときに神さま助けてくださいと祈る人は多くいたとしても、災いが過ぎ去ると、神さまが助けてくださったとは思わず、祈ったこともすっかり忘れてしまう人も非常に多いからです。そのような中で、「わたしはこんなに神さまの恵みを受けた」と気がつく人は幸いです。そして人から助けられたとき、何か御礼の贈り物をしようと思うのですが、相手は神さまなのですから、どのように御礼をしようとしてもできないことが分かります。

また、神さまは助けられた人が無理をして献げ物をしてほしいと思ってはおられません。神さまは本当に豊かで恵み深い方なので、ただ人が祈り求めることを喜ばれ、その人を救うことを喜びとしてくださいます。それを信じる人にできることはただ一つ。それは感謝の祈りを捧げることです。喜びの集いを開いて、集まった人々の見守る前で、捧げる献げ物は何でしょうか。それこそが感謝の祈りなのです。

主の慈しみに生きる人、すなわち信仰者の命を神さまは貴いものとして思われるからこそ、これを御心に留められ、必要な助けを与えてくださいます。わたしたちが弱り果てる時、わたしたちは自分で自分を低く見積もり、「わたしは何の値打ちもない」と自分を決めつけて、神さまのせっかくのご好意を蔑ろにするのではないでしょうか。そんなことにならないように常に注意しなければなりません。

こうしてわたしたち主イエスさまに結ばれた者たちは、初めは祈ることが分からず、人前を気にかけたり、自分中心な願い事だけを祈っていたとしても、主はわたしたちをお見捨てにならないのです。なぜなら、主はわたしたちのために命を捨ててくださった方ですから。この方が聖霊によってわたしたちを守り導いてくださったことによって、わたしたちはどんなに前進させられたことでしょうか。わたしたちは時が良くても、悪くても祈り、自分の願いをはるかに超えて善きことを成し遂げることがお出来になる方にすべてを委ね、御名をほめたたえて生きる信仰生活を整えて頂きましょう。2018年が終わろうとする今、わたしたちの歩みを振り返ると、真に人生の一部が祈りの時だったのではなく、わたしたちの人生そのものが祈りの中にあるように、導かれて来たことが思われます。感謝して新しい年を迎えたいと願います。祈ります。

 

主イエス・キリストの父なる神さま

本日の礼拝に集めて頂きましたことを感謝申し上げます。2018年を振り返り、成宗教会を通して主と結ばれたわたしたちを守り導いてくださいましたことを、思います。世は移り変わり、人々は変わって行きますが、変ることのない主イエスによっていただいた救いの御業、あなたに対する信仰を感謝し、慈しみとご忍耐の神であられるあなたの御名をほめたたえます。

この年、成宗教会は連合長老会より新たな教師を推薦され。臨時教会総会においてお二人の先生を招聘することを決議しました。真に小さな群れが招聘するにふさわしい教会として整えてください。あなたの御名を汚すことなく、御心に適った道筋が備えられますように切に祈ります。どうかお二人の先生のお働きがあなたのご栄光を現わすものとして貴く用いられますように。先生方のご健康をお支えくださいますようお願い申し上げます。

また成宗教会の長老会の働きを強めてください。長老、信徒の方々のご健康を支えてください。多くの方々が高齢になっておりますが、なお健やかにあなたに支えられ、用いられますように切に祈ります。

どうかこの教会を用いてあなたが招いてくださった方々の上にあなたの御心があり、慈しみ深い主の下に集められますように。来るべき年にも、世の災いを避けることが出来ますように。そして、み言葉を力強く宣べ伝えられる教会としてくださいますように。今、お病気の方、お怪我をしておられる方を思います。どうぞ、その場に共にいらして励まし必要な助けをお与えください。

言い尽くせない感謝、願いを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。