み言葉を待ち望みます

主日CS合同礼拝

齋藤 正 牧師

《賛美歌》

讃美歌11番
讃美歌183番
讃美歌494番

《聖書箇所》

旧約聖書:詩編 130編1-8節 (旧約聖書973ページ)

130:1 深い淵の底から、主よ、あなたを呼びます。
130:2 主よ、この声を聞き取ってください。嘆き祈るわたしの声に耳を傾けてください。
130:3 主よ、あなたが罪をすべて心に留められるなら/主よ、誰が耐ええましょう。
130:4 しかし、赦しはあなたのもとにあり/人はあなたを畏れ敬うのです。
130:5 わたしは主に望みをおき/わたしの魂は望みをおき/御言葉を待ち望みます。
130:6 わたしの魂は主を待ち望みます/見張りが朝を待つにもまして/見張りが朝を待つにもまして。
130:7 イスラエルよ、主を待ち望め。慈しみは主のもとに/豊かな贖いも主のもとに。
130:8 主は、イスラエルを/すべての罪から贖ってくださる。

新約聖書:ルカによる福音書 1章68-69節 (新約聖書102ページ)

1:68 「ほめたたえよ、イスラエルの神である主を。主はその民を訪れて解放し、
1:69 我らのために救いの角を、/僕ダビデの家から起こされた。

《説教》『み言葉を待ち望みます』

昔々、何千年も昔に神様は、動物や植物を創造され、最後に神様と対話することのできる人間アダムとエバを創られました。ところが神様につくられたアダムとエバは神様の言うことを聞きませんでした。神様の言うことを聞かないことを「罪」と言いますが、2人は罪を犯してせっかく神様が用意された「楽園」、「エデンの園」を出なければならなくなりました。アダムとエバは子供を産んで、その子孫の人間は地上に沢山増えていきました。増えた人々は相変わらず神様の言うことを聞こうとしない人々ばかりで、「ノアの洪水」のお話でお馴染みの様に神様は人間をいったん滅ぼして、この世界を創り直さなければならないと思われました。しかし、ノアの家族を選ばれた様に、先ずイスラエルの民を選ばれ神様を信じる人間として育て鍛えることにされました。

ところが、神様に選ばれたイスラエルの民も神様に従い通すことが出来ず、神様に対して大きな罪を犯しました。神様からいただいた恵みを忘れ、神様の言葉も聞かず、神様の悲しまれることばかりしていたのです。

すると神様はイスラエルの人々の信仰の目を開かせるために、バビロニアという強い大きな国を使って、イスラエルを攻めました。そんな強大なバビロニアに攻められ、イスラエルは戦いに負けてしまいました。町は壊され、大切な神殿も粉々にされてしまいました。そしてたくさんの人たちが敵の国に連れていかれてしまったのです。もうどうすることもできない、まるで深くて暗い穴の底に捨てられた様な絶望の中に置かれたのです。イスラエルの人々は、みんな、もう駄目だと思ってしまいました。イスラエルの人々に出来ることはただ一つ、神様に、「赦してください」と、祈ることだけしか残されていませんでした。

イスラエルの人々がバビロニアに連れていかれて何十年か経ってバビロンがペルシャに滅ばされましたが、神様が可哀そうに思われて、何と、囚われていたイスラエルの人々を敵の国から帰れる様になさいましたた。帰ることの出来たイスラエルの人々は、ボロボロになっていた町と神殿を立て直して、もう一度その神殿で礼拝することが出来るようになったのです。夢のようで本当に嬉しかったことでしょう。神殿に集い神様を礼拝すること。みんなで賛美の歌をうたうこと。自分の国で生きること。自分の家で過ごすこと。すべてが、私たちにとって当たり前のことです。

この時になってイスラエルの人々は、これらは、すべて神様に赦されて、神様からいただいて、はじめて出来ることなのだと知ったのでした。神様は赦してくださった。赦されて、国へ帰り祝福の中に置かれたのだと、心からそう思え、神様に感謝したのです。そして、この神様の救いを忘れないために、何度でも新しく神様の赦しをいただくために、人々は礼拝に出かけ繰り返しこの詩編の歌を歌い、祈りました。

「深い淵の底から、主よ、あなたを呼びます。主よ、この声を聞き取ってください。嘆き祈るわたしの声に耳を傾けてください。主よ、あなたが罪をすべて心に留められるなら/主よ、誰が耐ええましょう。しかし、赦しはあなたのもとにあり/人はあなたを畏れ敬うのです」と。

この詩編は120~134編の「都に上る歌」と名前の付けられたものの一つです。これらの詩編は霊的な教会の営みにおいて歴史的に大きな意味を持ったものなのです。初代教会の「七つの悔い改めの詩」の6番目として広く知られています。罪の重荷からの救いを求め、神の顧みを忍耐強く待ち望んでいる詩編なのです。そして、その苦難のどん底で、なお明らかにされる神様への信頼が、読む者の心を強く打ちます。苦しい時代を生きるキリスト者が常に愛唱した詩編として有名なのも当然でしょう。

この詩編は、紀元前5世紀の終わり頃、ネヘミヤの時代に作られたものと考えられています。バビロン捕囚から釈放されて約百年ほど経過していますが、ユダヤ全土は未だひどい混乱の中にありました。バビロンから解放されイスラエルに帰国後、直ちにハガイ・ゼカリヤによる神殿復興が行われましたが(紀元前516年)、彼らが預言したようなメシア到来の日とはならず、人々は深い失望を味わっていた時代です。

さらに、バビロニアから解放されて帰ってきたユダヤ民族に対して、サマリヤ、エドム、モアブ、アンモンなど周辺諸族の敵意は強く、平穏な日々は遠いものでした。彼らは、ユダヤ人がバビロンへ連れ去られている間に勢力を伸ばして、ますます反ユダヤ的な色彩を強めていました。神殿を中心とする新しいエルサレム王国が起こることを恐れ、弾圧を加えたのでした。

この詩編が作られた時代、エルサレム神殿は荒れ、律法は行われず、預言の声も絶え、ユダヤ人たちは絶望と虚無のなかにありました。それも確かに「深い淵」のような魂のどん底と言うことが出来るでしょう。

この詩編の詩人はその苦しみを背負いながら神様を仰ぎ見ました。そして、その苦しみは、自分たちが神様から離れ、神様に背を向けて生きようとした罪の結果であるということを認めざるを得ませんでした。周辺の諸民族から加えられた圧力は確かに苦しいものであり、政治的・経済的破綻は堪え難いものでした。

しかしそれは、あくまで外面的・社会的苦難であり、果たして真実の苦しみなのか、それを問いかけているのです。ここに示される信仰は、もし神様が共にいてくださるならば、民が神様が共にいてくださることを喜ぶ人間であるならば、この時代の苦難にも容易に耐えられるであろう、ということなのです。ここで訴えている苦しみとは、外からのものではなく、他ならぬこの自分自身が神様から遠く離れており、もはや神様の御前に立つことが許されない罪を背負っているという事実でした。こうして詩人は、自分を、この世の苦しみより遥かに深い絶望のどん底に見出ださざるを得なかったのです。1節の「深い淵」とは、このような完全な絶望を意味する言葉です。「深き淵」とは、古代ヘブル人の考えでは、神様から最も遠い場所であり、神様の御光の射さないところ、神様との交わりが断たれたるところです。それにもかかわらず、なお詩人は、そこから神様を呼び求めているのです。神様を呼べないところから神様を呼んでいるのです。

ここに信仰の奥義があります。信仰とは、神様の恵みに満ち溢れたところで神様を呼び求めるだけでなく、神様に捨てられたところから、神様に叫び続けることなのです。絶望的な場にありながら、望みを断ち得ない必死の思いで神様を呼ぶとき、その声は、「深い絶望の淵」を越えて、神様に聞き入れられるのです。

なぜなら、神様は、人間の罪を厳しく糾弾され、死の苦しみを課されましたが、「主よ」と祈る余地を残しておかれたからです。絶望の底からあげた叫びは、4節の「しかし」という言葉によって、希望の歌に変わって行きます。なぜなら、神様は預言者たちが言うように、決してイスラエルを見捨てない神であるからです。

自分の罪を見つめ、自分が置かれた状況を認めることは大切なことです。しかし、人は自分の罪に眼を注ぐだけではいけません。罪の赦しと恵みの座にこそ眼を注がなければなりません。

人を罰するのが神様ならば、その罪を赦すのも神様なのです。罪の中で諦めて終わるのではなく、それでもなお神様の愛を求めるのが信仰です。エデンの園におけるアダムとエバのように、神様の赦しを諦めることこそ、罪と言うべきでしょう。

神様は正義の神様であると共に愛の神様です。神様の正義があらゆる悪の存在を許さないように、神様の愛は、人間のあらゆる思いを超える赦しとなるのです。そして神様の赦しが、あまりにも大きいので、私たちは、そこで喜ぶより、「畏れ、畏(かしこ)まらざるを得ない」のです。

神様に赦されて、今がある。何度も何度もこのことを思い出し、心に刻みながら生きていくとき、その人は必ず、自分の周りの人を「赦す」人になっていきます。

イエス様が教えて下さった「主の祈り」の言葉を思い出します。「我らに罪を犯すものを我らが赦すごとく、我らの罪をも赦したまえ。」 イエス様と一緒にこう祈りながら生きていくとき、私が神様に赦されていることの確かさが日ごとに満ち溢れていきます。

このイエス様の愛と赦しの素晴しさをもっともっと知って、お父さん、お母さんをはじめ、家族の人たち、お友だちに伝えて、イエス様の後に従って生きて行く、新しい希望に満ちた日々を送りましょう。

それでは、最期にご一緒にお祈り致しましょう。

神は速やかに裁かれる

主日CS合同礼拝

齋藤 正 牧師

《賛美歌》

讃美歌15番
讃美歌54番
讃美歌494番

《聖書箇所》

旧約聖書:詩編 22編1-3節 (旧約聖書852ページ)

22:1 【指揮者によって。「暁の雌鹿」に合わせて。賛歌。ダビデの詩。】
22:2 わたしの神よ、わたしの神よ/なぜわたしをお見捨てになるのか。なぜわたしを遠く離れ、救おうとせず/呻きも言葉も聞いてくださらないのか。
22:3 わたしの神よ/昼は、呼び求めても答えてくださらない。夜も、黙ることをお許しにならない。

新約聖書:ルカによる福音書 18章1-8節 (新約聖書143ページ)

◆「やもめと裁判官」のたとえ

18:1 イエスは、気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教えるために、弟子たちにたとえを話された。
18:2 「ある町に、神を畏れず人を人とも思わない裁判官がいた。
18:3 ところが、その町に一人のやもめがいて、裁判官のところに来ては、『相手を裁いて、わたしを守ってください』と言っていた。
18:4 裁判官は、しばらくの間は取り合おうとしなかった。しかし、その後に考えた。『自分は神など畏れないし、人を人とも思わない。
18:5 しかし、あのやもめは、うるさくてかなわないから、彼女のために裁判をしてやろう。さもないと、ひっきりなしにやって来て、わたしをさんざんな目に遭わすにちがいない。』」
18:6 それから、主は言われた。「この不正な裁判官の言いぐさを聞きなさい。
18:7 まして神は、昼も夜も叫び求めている選ばれた人たちのために裁きを行わずに、彼らをいつまでもほうっておかれることがあろうか。
18:8 言っておくが、神は速やかに裁いてくださる。しかし、人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見いだすだろうか。」

《説教》『神は速やかに裁かれる』

今日は教会学校との合同礼拝で、ルカによる福音書からご一緒にお読みします。今日のテーマは、私たちキリスト者にとって大切な「祈り」です。本日礼拝後に開かれる「コイノニア会」のテーマも「祈り」です。この「祈り」について本日はしっかりと御言葉を聞きましょう。

祈りとは、神様を信じる者のしるしです。信仰がなくても聖書の学びはでき、信仰のない聖書学者も現実に数多く居ます。献金や奉仕も信仰がなくてもやる気さえあれば誰でもできます。しかし人に聞かせる形だけの祈りではなく、信じて心から神様に祈ることは、信仰がなければ決してできません。祈りは信仰者の証です。

祈りは生きて働いておられる神様との対話です。神様が祈りを求めてくださり、きちんと耳を傾けてくださるから祈るのです。私たちの祈りは、空中で空しく消えてしまうような独り言ではないのです。

先ず今日の聖書物語はイエス様が直接された譬え話です。ここに登場する「やもめ」とは夫に先立たれた妻のことです。昔は女性がひとりで生きて行くのがとても大変でした。誰も守ってくれなかったからです。この話、自分本にの悪い裁判官に弱い立場のやもめが必死に願い求める話です。

ある町に、神様の言うことはもちろん、誰の言うことも聞かない、悪い裁判官がいました。裁判官とは、裁判を開いて誰が悪い、誰は悪くないと大事なことを決める人のことです。しかもこの裁判官は誰の言うことも聞かないで、自分にお金をくれる人のためになる裁判をしていたのです。

その悪い裁判官のところに、ひとりのやもめが訴えをもってやってきました。彼女は、この裁判官に正しい裁判をして、自分を守ってもらおうとしたのです。でも、この裁判官は、お金を持っていないやもめでは自分が得をしないので、相手にしませんでした。

しかし、やもめはあきらめませんでした。何回も何回も裁判官のところに来て、正しい裁判をしてくださいとお願いをしたのです。とうとう裁判官は言いました。「あのやもめはうるさくて仕方がない。このままだともっとひどいことになるかも知れないから彼女のためになる裁判をしてやろう」といって正しい裁判をしました。こうしてやもめは悪い人から守られたのです。

イエス様は、裁判官とやもめの譬えを用いることによって、神様に従って来た者たちのためには「速やかに裁かれる」(8)ことを示されたのです。ルカによる福音書では、時には、この悪い裁判官ように褒められべきではない人物が譬えとして登場します。聖書の譬え話ですから、私たちは不正な裁判官イコール神様という単純な譬えと考えがちです。この譬えはルカ11章5節以下の真夜中に訪ねて来た旅行中の友達のために隣の友人にパンを借りに諦めずに熱心に願う譬えによく似ています。どちらの物語も、イエス様ご自身が祈りは粘り強く続けなさいと言われているのです。神様の沈黙に対して祈りとはどうあるべきかを語られているのです。

 

イエス様がこの話をなさったのは、1節の最初に語られているように、「気を落とさずに絶えず祈らなければならない」と、私たちが諦めないで祈りを続けるように励ますためです。悪い裁判官でさえ、何度も何度もお願いをすれば聞いてくれる。まして神様は私たちの願いを速やかに聞いてくださり、必ず正しい裁きをしてくださると、イエス様は言われたのです。でも、私たちは、どうしても神様に聞いていただきたいお願いがあってお祈りをしても、聞いていただけないと思うことがあります。いくらお祈りしても何も変わらないように思えるときです。そういう時には、まるで自分が弱いやもめになったような気持ちになります。やもめが、誰の言うことも聞かない悪い裁判官にお願いをしているように感じて、いくら祈っても無駄だという思いになるのではないでしょうか。そう考えると、この譬え話をなさったイエス様は、私たちが祈りを聞かれないでがっかりすることを、よくご存じなのです。

今日のやもめが求め続けたことは「正しい裁き」が行われることです。地位や権力、お金がある者たちだけが守られ幸福になるのではなく、弱い者、貧しい者たちの正当な権利が守られ、支えられる、正しい裁きが行われることです。それは言い換えれば、そのような正義によってこの社会が支配されることです。私たち信仰者も、同じことを願い、祈り求めています。神様のご支配とその正しい裁きが行われることを、祈り願いつつ私たちは生きているのです。神を恐れず人を人とも思わない力が支配しているこの世において、私たちが気を落とさずに絶えず祈り続けていくことができるのは、目に見える現実の背後で、神様こそがこの世を支配しておられることを信じているからです。

8節の後半に「しかし、人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見いだすだろうか」と不思議な御言葉があります。「人の子が来るとき」という言葉から、ここが17章20節から続く「神の国が来る」という一連の話であることが分かります。「神の国が来る」とは、「人の子が現れる」ことで、「人の子」とはイエス様のことです。「人の子」イエス様が、再び、この世に来られる、しかもそれは、稲妻が大空の端から端へと輝くように起こる、そしてその時に、救われる者と滅びる者、命を保つ者とそれを失う者とがはっきりと分けられる、裁きが行われるということが語られています。それが、最後の8節に語られている「神が裁いて下さる時」です。神の国の完成の時です。その時、人の子は「果たして地上に信仰を見いだすだろうか」と言っておられるのです。その「信仰」とは、18章9節からの「ファリサイ派の人と徴税人のたとえ」でイエス様の御言葉で、「二人の人が祈るために神殿に上った。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人だった。ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。『神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。』 ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』 言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」と二人の信仰者の「祈り」について教えられているのです。主イエスがもう一度来て下さることによる神の国を信じて、この世の目に見える現実によって気を落とさずに絶えず神の国を目指して祈るのです。そのような祈りに生きることこそ、主イエスによって既に到来している神の国を信じて、未だ実現していないその完成を待ち望む私たちの信仰のあるべき姿なのです。

私たちがこのやもめのように、神の国の完成、神による正しい裁きの実現を信じて、神を恐れず人を人とも思わない力が支配しているこの世の現実の中で、気を落とさずに絶えず祈り続けていく信仰のあるべき姿にこそ、神の国の完成を指し示すしるしがある、と語られているのです。

本日の聖書箇所の譬え話は、単にあきらめずに祈り続けよという教えであるだけでなく、イエス様によって到来した神の国を信じ、この世の終わり終末にイエス様が再び来て下さり「神の国が完成」することを待ち望みつつ祈り続ける信仰を教えられていることが分かります。そして、私たちがこの世の現実の中で、神の国を、つまり神様のご支配を垣間見ることができるのは、気を落とさずに絶えず祈るときなのだ、ということをも示されているのです。

ルカはイエス様が一晩中祈られていた(6:21他)ことを何度も述べています。ルカ22章には「イエスは苦しみもだえ、いよいよ切に祈られた。汗が血の滴るように地面に落ちた」(22:44)とあります。

私たちの祈りは一方的な独り言ではありません。祈りは神様との対話です。神様は必ず私たちの祈りを聞いてくださいます。神様からの答えが必ずあります。答えを示されたら、私たちはそれに従うのです。

私たちも、神様のため、教会のため、愛する家族を中心とした隣人のため、祈り続ける者でありますよう、お祈りを致します。

霊によって生かしてくださる

主日CS合同礼拝

齋藤 正 牧師

《賛美歌》

讃美歌90番
讃美歌332番
讃美歌512番

《聖書箇所》

旧約聖書:イザヤ書 12章2節 (旧約聖書1,079ページ)

12:2 見よ、わたしを救われる神。わたしは信頼して、恐れない。主こそわたしの力、わたしの歌/わたしの救いとなってくださった。

新約聖書:ルカによる福音書 2章1-7節 (新約聖書102ページ)

8:11 もし、イエスを死者の中から復活させた方の霊が、あなたがたの内に宿っているなら、キリストを死者の中から復活させた方は、あなたがたの内に宿っているその霊によって、あなたがたの死ぬはずの体をも生かしてくださるでしょう。

《説教》『霊によって生かしてくださる』

今日は本来ならば教会学校CSとの合同礼拝です。合同礼拝では教会学校テキストの聖書箇所からお話するので「イエス様の復活」のお話です。

イエス様は、十字架で死なれ墓に葬られましたが、葬られて三日目の朝、ずっとイエス様に従ってきた婦人たちが葬りを完成させるためにご遺体に塗る香料をもって墓に行ってみると亡骸はありませんでした。空になった墓を見た婦人たちも、弟子たちも、最初はイエス様が復活なさったと信じることができませんでした。しかしイエス様は、その信じることのできなかった弟子たちの間に現れ、祝福の言葉を語ってくださったのです。イエス様が十字架で死なれると沢山居た弟子たちはイエス様の弟子であったことを隠して、散り散りになって去って行ってしまい、漁師に戻ったりしました。しかし、復活のイエス様の祝福の言葉を受けた弟子たちは、復活を信じるようになり、力強く宣教伝道に立ち上がりました。自分たちが見捨てたイエス様が、自分たちを祝福するために復活してくださったのです。この喜びこそ、イエス様の復活を信じるということなのです。

イエス様の復活の出来事は、これだけでは終わりませんでした。復活されたイエス様は、弟子たちと四十日のあいだ過ごされたあと、天に上げられました。そして聖霊によって、今も絶えず私たちの間に宿っていてくださるのです。この礼拝での説教を私たちと共に、ここに居てくださって語ってくださっているのです。

復活とはイエス様が史上初めてされたことです、死から甦られて最初に復活されたのはイエス様です。「復活」とは、死から甦ることですが、それは死んでいたのが生き返るといったことではありません。まったく別の新しい霊的な身体に変えられるのです。復活についてお話すると、それだけで説教何回分も掛かってしまいます。復活とは、どんなことなのか、復活そのものについては、ここでは詳しく述べません。

 

本日のローマの信徒への手紙は使徒パウロが書いたものです。パウロがローマの信徒たちに伝えたい福音が凝縮して語られています。「もし……あなたがたの内に宿っているなら」とありますが、パウロはローマの信徒たちの内にキリストの霊が宿っておられることを疑いの余地なく信じているとして、その上で「死ぬはずの体をも生かしてくださるでしよう」というキリスト信仰の根本を語っているのです。

使徒パウロは復活のイエス様に出会う前、ユダヤ教の教えである律法を熱心に厳格に守るファリサイ派としての歩みを続けていました。ファリサイ派の人々は、復活があるということを信じていました。使徒言行録23章にパウロの語った言葉が記されていますが、「わたしは生まれながらのファリサイ派です。死者が復活するという望みを抱いていることで、わたしは裁判にかけられているのです」とあります。ダマスコ途上で復活のイエス様に出会う前も、パウロは復活ということがあるとは教えられていました。しかしそれはどこか他人ごと、自分とは関係のないことだと思っていたのです。むしろ、復活のイエス様を信じる初代教会の人々を迫害していたのです。

そのパウロに復活のイエス様が声をかけられました。「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか(使9:4)」との言葉を受けたのです。

このパウロの回心の出来事を知るとき、何よりも大切なのは、パウロは、イエス様の言葉を聞いたときにはじめて自分の罪を認識したということです。それまでパウロは、キリスト教会を迫害することは正しいことだと思っていました。しかしイエス様の言葉を聞いたとき、教会を迫害することは隣人を愛するという律法の教えに反していることに気づいたのです。そして神様を愛するという律法の基本的な教えにも、違反していることに気づいたのです。それは何故かと言えば、パウロが神様の助けを求めずに自分の力で律法を守ろうとしていたからです。律法を守ろうとしても、自分の力で行うなら、神様を必要としてない上に、神様よりも自分の力を信じていることになるからです。

パウロはその時目が見えなくなりましたが、その後ダマスコに導かれ、イエス様の弟子アナニアの主の御名による祈りによって再び見えるようになりました。それは単なる視力の回復というだけでなく、復活のイエス様を信仰の目で見ることができるようになったことを意味しています。

人間はもちろん時が来れば必ず死にます。キリスト教では、人は死んだら、キリストの再臨のときを待って、キリストと共に新しい命に与る、復活すると信じています。パウロがここで語っているのは、この遠い将来に約束されている復活のことなのでしょうか。もちろん、永遠の命のことも含まれてはいると思います。でも、まずパウロがここで語ろうとしているのは、今ここで生きている私たちが、復活のイエス様によって生かされているのだと言う事実です。

この復活のイエス様と共に生きているという喜びは、何よりも礼拝をささげているときに与えられるものなのです。しかし、私たちのささげている礼拝では、イエス様の姿をこの目で見ることはできません。イエス様の話される言葉をこの耳で聞くことができるわけではありません。でも、この説教を通して復活のイエス様を、神様に与えられた「信仰の目」によって見ることができるのです。

少し後の15節には次のように記されています。「あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によって私たちは、『アッバ、父よ』と呼ぶのです。この霊こそは、私たちが神の子供であることを、私たちの霊と一緒になって証ししてくださいます」とあります。

「私たちは神の子としていただける霊を受けた」と記されています。そしてこの霊を受けた私たちは「アッバ、父よ」と神様を呼ぶことができると約束されています。神様を「アッバ、父よ」と呼ばれたのは、イエス様でした。神様のひとり子であるイエス様が、神様を父と呼ぶことが出来たのです。この「アッバ」という言葉は小さな子どもが父親を呼ぶ言葉で、日本語で言えば「父ちゃん」とか「おとう」といった言葉です。小さな子供が父親を信頼し全てを委ねて抱きついて行くようなときの言葉です。

復活されたイエス様が私たちと共にここに一緒におられるからこそ、私たちは礼拝の中で神様を「アッバ」「お父様」と、喜んで呼びかけることができるのです。礼拝において、喜んで父なる神の御名を呼び求め、熱心に祈るときこそ、私たちは聖霊に満たされ、復活のイエス様と共に生きているのです。復活を信じるとはイエス様を賛美することなのです。

生まれながらのままに生きて来た私たちは、神様を知ることも、自分の罪を認めることもできない人間でした。ですから悔い改めることも、神様の救いの御業を受けていることも、まったく知ることのできませんでした。

今日聖書箇所に、「あなたの死ぬはずの体をも生かしてくださるでしょう」と記されています。私たちは、誰でも、自分の力で生きていると思っています。でも聖書を読んでいて分かってくるのは、私たちが自分で生きているのではなくて、神様に生かされている、ということなのです。

もし神様に生かされているということが分からなければ、私たちは神様の前に死んだことになってしまいます。これは将来のことではありません。今、この時、神様の前に死んでいるか、それとも生かされているか。もし生かされているのであれば、私たちの命は神様の御手の中にあるのです。命が神様の御手にあれば、たとえ死を迎えたとしても神様の前では生き続けるのです。

このように考えてみると、私たちが礼拝をささげているということ自体が、本来なら信じることのできないほどの奇跡なのです。日曜日ごとに礼拝に出席していると、当たり前のようになって礼拝が奇跡であることを忘れているかもしれません。教会はキリストの体です。礼拝こそキリストの体が地上に現わされているときなのです。

礼拝賛美しているとき、私たちは神様に生かされているのです。父なる神様を信じることができるようにしてくださったのは、イエス様です。そしてイエス様が私たちと共にいてくださるとき、私たちは神様を賛美できるのです。

今、こうして礼拝しているとき、復活なさったイエス様は私たちと一緒にいてくださっているのです。

お祈りを致します。

イエス様の誕生

主日CS合同クリスマス礼拝説教

齋藤 正 牧師

《賛美歌》

讃美歌7番
讃美歌94番
讃美歌108番

《聖書箇所》

旧約聖書:イザヤ書 9章5節 (旧約聖書1,074ページ)

9:5 ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。権威が彼の肩にある。その名は、「驚くべき指導者、力ある神/永遠の父、平和の君」と唱えられる。

新約聖書:ルカによる福音書 2章1-7節 (新約聖書102ページ)

2:1 そのころ、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た。
2:2 これは、キリニウスがシリア州の総督であったときに行われた最初の住民登録である。
2:3 人々は皆、登録するためにおのおの自分の町へ旅立った。
2:4 ヨセフもダビデの家に属し、その血筋であったので、ガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。
2:5 身ごもっていた、いいなずけのマリアと一緒に登録するためである。
2:6 ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、
2:7 初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。

《説教》『イエス様の誕生』

主イエスの誕生を語るこの箇所は、「そのころ、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た」という書き出しで始まっています。皇帝アウグストゥスとは、ローマ帝国の最初の皇帝です。彼の時代から、ローマは共和国から皇帝の治める帝国になったのです。彼はオクタヴィアヌスという名前でしたが、紀元前44年に暗殺されたユリウス・カエサルの養子、後継者となり、カエサル亡き後の長い内戦に終止符を打ち、勝利者となりました。ローマの元老院は紀元前27年に彼に「アウグストゥス」という尊称を贈りました。権限を得た彼は次第に帝政を敷き、ローマは共和国から皇帝の治める帝国となったのです。このおよそ百年後にルカはこの福音書を書いたのです。

さてこの皇帝アウグストゥスが、「全領土の住民に、登録をせよとの勅令」を出したとあります。これは、人口調査のための住民登録です。人口調査はそれぞれの地域に住む人々の数や経済状態、生活の様子を調べることによって政策決定の基礎データを収集するために行われました。アウグストゥスはその治世の間に三度この調査を行いました。ルカが福音書を書いたこの時、ユダヤはヘロデが王である王国でした。形は独立国家の王国でしたが、ユダヤは既に事実上ローマの支配下にあり、ローマ帝国の住民登録の対象になっていたのです。1節には、この住民登録が「キリニウスがシリア州の総督であったときに行われた最初の」ものだったとあります。このキリニウスとは、長くローマ帝国シリア州の総督を務めた人です。ただし、主イエスがお生まれになった時の住民登録が、キリニウスがシリア州の総督であったということについては、歴史的に疑問がある様です。さらに、3節の「人々は皆、登録するためにおのおの自分の町へ旅立った」ということも疑問です。果して当時の住民登録がここに語られているように、おのおのが先祖の町、いわば本籍地に行って登録するという仕方で行われたのかどうかはかなり疑問です。父のヨセフもそうであったように、本籍地を離れて暮らしていた人も多かった筈です。それらの人々がいっせいに本籍地に戻って登録をするなどというのは現実離れしているように思われます。むしろ、私たちの現在の国勢調査がそうであるように、今住んでいる所で登録をした方が現状が把握できてよい筈です。ですから、このような方法での住民登録が本当に行われたのかどうかは、かなり疑問があるのです。

ローマ皇帝アウグストゥスについて、そして主イエスがお生まれになった時のユダヤの状況について見てきましたが、それでは、本日のこの主イエス誕生の物語でルカは何を語ろうとしているのでしょうか。

当時の人々にとって、ローマ帝国こそが様々な民族を包み込むすべての世界でした。ローマ帝国が全世界であり、その外のことは人々に知られていなかったのです。ですから、ローマ皇帝は全世界の支配者だったのです。そのローマ皇帝の支配下でヨセフとマリアが旅をして、その旅先で主イエスがお生まれになったと語ることによって、主イエスの誕生が、この世界全体の政治的、経済的、軍事的な動き、支配と深く結びついた出来事であることを語ろうとしているのです。

しかしそれは主イエスもこれらの政治的支配に従属している、ということではありません。ルカは第1章で、生まれてくる主イエスが、いと高き方である神の子であり、神の民の王ダビデの王座を受け継ぎ、神様の救いにあずかる民を永遠に支配する方であることを語ってきました。神の子主イエスこそまことの王、支配者であられるのです。ですからルカはここで世界の支配者皇帝アウグストゥスの名を挙げることによって、主イエスとアウグストゥスとを並べて、いったいどちらが本当の王、支配者なのか、という問いを読む者に提起しているとも言えます。実際当時のローマ帝国では、アウグストゥスのことを「救い主」と呼び、その誕生日を「福音」救いをもたらす良い知らせとして祝うということがなされていたようです。ルカはそのような中で、本当の救い主は誰なのか、本当の良い知らせとは何なのか、誰の誕生をこそ本当に福音として喜ぶべきなのか、ということを問いかけているのです。

加えてルカが、歴史的事実とは必ずしも一致しなくても、この住民登録の物語によって主イエスの誕生を語っているのは、主イエスがベツレヘムでお生まれになることが実現したことを語るためです。ガリラヤのナザレに住んでいたヨセフとマリアがベツレヘムで出産をする必然性など少しもないのです。しかし皇帝アウグストゥスのあの勅令のために、彼らは身重の体でベツレヘムまで旅をすることになり、そしてベツレヘムで主イエスが生まれたのです。では、ベツレヘムで生まれるということにどういう意味があるのでしょうか。そのことが4節に語られています。ヨセフはダビデの家に属し、その血筋だった。ユダヤの繁栄の頂点だったダビデ王の子孫だったのです。ベツレヘムはダビデ王の出身地です。そこにヨセフの本籍もあり、彼は身ごもっていたいいなずけのマリアを連れて、そこへ登録に行ったのです。それによって、旧約聖書ミカ書5章1節の預言が成就したのです。そこにこうあります。「エフラタのベツレヘムよ。お前はユダの氏族の中でいと小さき者。お前の中から、わたしのためにイスラエルを治める者が出る。彼の出生は古く、永遠の昔にさかのぼる」。神様の民イスラエルを治める者、本当の支配者であり救い主である方が、ベツレヘムで、ダビデの子孫から生まれるという預言です。また本日読まれましたイザヤ書9章5節には「ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。権威が彼の肩にある。その名は、『驚くべき指導者、力ある神/永遠の父、平和の君』と唱えられる」とあります。主イエスがベツレヘムでお生まれになったことによって、ダビデ王に優る統治者、いや、ローマ皇帝をも凌ぐ「救い主」が生まれるという、これらの預言が実現したのです。主イエスがベツレヘムでお生まれになったのは、主なる神様が前もって計画し、旧約聖書で告げておられたご計画の成就、み心の実現だったのです。皇帝アウグストゥスの勅令は、主なる神様の救いのご計画、み業の中にあり、ベツレへムでの救い主の誕生という預言の成就のために用いられたのです。主なる神様こそ、皇帝をも用いて私たちの救いのためのみ心を実現して下さる本当の支配者なのです。ルカが主イエスの誕生をこのように描いたのは、そのことを語るためであり、私たちがこの箇所から聞き取るべき最も大事なこともこのことなのです。

世界の歴史を本当に支配し、導き、用いておられたのは主なる神様です。神様はこの不安や悲しみに満ちた現実のこの世界の中に御子を誕生させ、飼い葉桶の中に寝かせて下さいました。この飼い葉桶は、御子イエスが歩まれるご生涯を、とりわけ私たちを救うための十字架の贖いの死を暗示しています。神様は主イエスの苦しみと十字架の死とによって私たちのための救いのみ業を成し遂げて下さり、復活によって私たちにも、死に勝利する新しい命の約束を与えて下さったのです。

今日のクリスマスに生まれて来られた御子、主イエス・キリストこそが私たちの「救い主」「メシア」「キリスト」です。お祈りを致します。

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本当に必要なこと

《賛美歌》

讃美歌234番A
讃美歌294番
讃美歌90番

《聖書箇所》

旧約聖書:詩篇 27篇4節 (旧約聖書857ページ)

27:4 ひとつのことを主に願い、それだけを求めよう。
命のある限り、主の家に宿り
主を仰ぎ望んで喜びを得
その宮で朝を迎えることを。

新約聖書:ルカによる福音書 10章38~42節 (新約聖書127ページ)

10:38 一行が歩いて行くうち、イエスはある村にお入りになった。すると、マルタという女が、イエスを家に迎え入れた。
10:39 彼女にはマリアという姉妹がいた。マリアは主の足もとに座って、その話に聞き入っていた。
10:40 マルタは、いろいろのもてなしのためせわしく立ち働いていたが、そばに近寄って言った。「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください。」
10:41 主はお答えになった。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。
10:42 しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」

《説教》『本当に必要なこと』

本日は、教会学校との合同礼拝です。本日は「本当に必要なこと」と題して、ルカによる福音書10章から「マルタとマリア」のお話をさせて頂きます。

実は、この聖書箇所は、4月に赴任したものの、新型コロナウィルス感染症のために集会をすべて中止していた4月25日に無観客というか、成宗教会の皆さんのまったくいらっしゃらない無教会員説教でお話しした聖書箇所です。教会ホームページにも掲載されたので、皆様の中には、お読みになった方もいらっしゃるとは思います。この聖書箇所は、教会での奉仕はどうすればよいかという私たちの思いに示唆を与えられる大切なお話しです。

今日のルカ福音書は、38節の「一行が歩いて行くうち、イエスはある村にお入りになった」というところから始まります。主イエスと弟子たちは、旅の途上である村に入ったのです。

ここにはマルタとマリアという姉妹が登場し、二人の姿が対照的に描かれていきます。そして、「マリアは良い方を選んだ」とあるように、マルタよりもマリアの方が良い、相応しいと主イエスによって褒められたという話に思えます。しかしそれは、マリアこそが信仰者でマルタは信仰者ではない、ということではありません。主イエスを家に迎え入れたのはマルタである、とはっきり書かれています。それは、マルタが主イエスに従い仕える信仰者となったということです。マルタは、主イエスと弟子たちの一行を自分の家に迎え入れるという大いなる信仰の決断をしたのです。その後、「彼女にはマリアという姉妹がいた」と、おそらく妹であるマリアが登場します。マリアも主イエスを信じる者となるわけですが、それは姉であるマルタの信仰の決断が先にあったからだとも言えるでしょう。つまりマリアはマルタによって導かれて信仰者となった、と考えるべきではないでしょうか。

このように同じ信仰者となったマルタとマリアの間に、ある違いが生じました。マリアは主の足もとに座って、その話に聞き入っていたのです。主イエスの足もとに座って話を聞くとは、この時代のユダヤでは男の弟子にのみ許される行為でした。マリアは、そんな大胆な行動をしたと言えますし、また、主イエスの一行が女性差別をしなかった特筆すべき行いを記しているとも言えるでしょう。そのマリアに対して姉のマルタは先程触れたように、大人数の一行のため「いろいろのもてなしのためせわしく立ち働いていた」(40)のです。マルタとマリアの話のポイントは、この対照的な姿にあります。そして私たちはそこから、いろいろなことを読み取ろうとします。と言うよりも、自分たちが感じていることをこの話に読み込もうとします。教会の中で、特にご婦人方の間でよく語られるのは、「私はマリア型」とか「私はマルタ型」というような会話ではないでしょうか。「マリア型」というのは、静かに礼拝を守り、み言葉を聞き、祈るといった信仰生活が自分には合っているし、その方が好ましいと感じているという人たちです。一方「マルタ型」というのは、それよりもむしろ活発に体を動かしていろいろな奉仕をする、例えば昼食作りとか、男性で言えば会堂の掃除や植木の手入れや力仕事など、また一教会に拘らない多くの教会を跨いだ社会奉仕活動に加わるとか、そういうことに喜びを感じ、充実を覚える、静かに説教を聞いているのはちょっと苦手、みたいなタイプであると言えるでしょう。それは女性だけの話ではなくて、男性も含めて、マルタとマリアのどちらに親近感を覚え、自分に近いものを感じるか、ということを私たちはここからよく考えるのではないでしょうか。そして自分がどちらのタイプかというだけではなく、礼拝中はマリアに徹し、終わったとたんにマルタに変身するのだ、という思いを持っている人もいるでしょう。つまり時と場合によってマルタとマリアを使い分けながら信仰生活を送っている、という思いを持っている人も多いのではないでしょうか。これらのことは、私たちが自分の体験や感覚をこの話に読み込んでいるということです。しかし私たちがしなければならないのは、自分の感覚を聖書に読み込むのではなくて、聖書が語っていることを読み取ることです。マルタとマリアの対照的な姿から私たちは何を読み取ることができるのでしょうか。

姉のマルタが主イエスと弟子たちを家に迎え入れたとは、食事を出すことをはじめいろいろなもてなしをするためです。マルタがしていることは、神の国の福音を宣べ伝えている主イエスと弟子たちに仕え、その歩みを支えるという信仰の行為です。マルタは決して、自分の料理の腕前を披露しようとしているわけではありません。キチンともてなさないと恥をかくと思っているのでもありません。彼女がせわしく立ち働いているのは信仰によってです。マルタの姿は、信仰者が主イエスに仕えている姿そのものなのです。そこには、「もてなし」という言葉が使われていますが、この言葉は原文では「ディアコニア」という言葉で、「奉仕」という意味です。マルタがしているのはこのディアコニア、主イエスに従う信仰者にとって大切な信仰の業としての「奉仕」なのです。ですから、このマルタとマリアの姿は、自分はどちらのタイプだとか、どちらの方が自分の好みに合うなどというように読むべきものではありません。これはどちらも、主イエスに従い仕えていく信仰者が大切にすべきあり方なのです。

しかし、このどちらも大切な信仰のあり方の間で問題が生じました。姉のマルタがマリアのことで主イエスに文句を言ったからです。「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください」。マルタは、主イエスの足もとに座ってその話に聞き入っているマリアに対して、「何も手伝わず、私だけにもてなしを、つまりディアコニアを押し付けている」という不満を抱いたのです。このマルタに対して主イエスはお答えになりました。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない」。主イエスはこのお言葉によってマルタに何を語ろうとしておられるのでしょうか。「あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している」。主イエスはマルタが思いわずらいに陥り、心を乱していると言っておられるのです。もてなし、接待、ディアコニアの働きの中で、マルタの心は乱れ、とりみだしてしまっているのです。心が乱れるとどうなるか、自分のしている働き、奉仕を喜んでできなくなるのです。そして、人のことを非難するようになるのです。「自分はこんなに奉仕しているのに、あの人は何もしない。手伝おうとしない。そんなことでいいのか」という思いに支配されていくのです。自分のしている奉仕を喜べないことと、人を非難することは表裏一体の関係です。自分に与えられた奉仕を喜んでしている人は、人のことを非難することはありません。人への批判や攻撃は、自分自身が喜んでいないから生じるのです。マルタはそのような思いわずらい、心の乱れに陥ったのです。そのように心が乱れてしまうと、彼女がせっかく主イエスと弟子たちを家に迎え入れるという信仰の決断をし、奉仕している信仰の業が歪んだものになってしまいます。マルタはこの奉仕を、誰かから強制されたのではありません。自分の意志でそれを引き受け、喜びをもってそれを担ったのです。信仰における奉仕、ディアコニアとはそのように、喜んで、自発的に行なうものです。ところが私たちは時として心を乱し、その喜びを見失って、自分だけが何か重荷を背負わされているように感じてしまうことがあります。心を乱しているマルタの姿は、私たちの信仰生活の中でも時として起るそのような事態を表しているのです。

このように心を乱してしまっているマルタに主イエスがお語りになりました。「しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない」。私たちはこの主イエスの言葉を聞く時、これは折角一生懸命奉仕しているマルタには気の毒な言葉ではないか、と思うのではないでしょうか。

しかし、主イエスのこのお言葉はそのように冷たい言葉ではありません。主イエスはここでマルタに、「あなたのしていることは意味がない」などと言っているのではないのです。マルタは主イエスを迎え入れ、奉仕するという信仰に生きている人です。彼女の奉仕ディアコニアは主イエスに従う者たちにとってとても大事なことなのです。意味がないとか必要がないなどということは絶対にないのです。主イエスがマルタに望んでおられるのは、彼女がそのディアコニアを、心乱れ、喜びを失った中で、人を非難するような思いを抱きながらするのではなくて、本当に喜んで、自発的にして欲しい、ということです。そして、喜んで奉仕できるようになるために必要なただ一つのことを主イエスは教えて下さっているのです。それは、マリアのように、主イエスの足もとに座って、そのみ言葉に聞き入ることです。

この「主イエスのみ言葉に聞き入る」ことを忘れてしまうと、私たちの奉仕は教会での自己実現や自己主張のためになります。教会が奉仕を競い合う人々の集まりと化してしまいます。そこには、自分の奉仕への評価や見返りを求める思いが生じます。そうなったらもはや本当に喜んで奉仕しているとは言えません。そして自分の奉仕を本当に喜んでしていないところには、自分はこれだけしているのにあの人はなんだ、と人を非難し審く思いが生じるのです。本当にすべきことは、主イエスの足もとに座ってその恵みのみ言葉に聞き入ることなのです。「必要なことはただ一つだけである」という主イエスのみ言葉は、そのことを姉のマルタに、そして私たちに教えています。つまりマルタとマリアの姉妹の姿は、信仰者のタイプの違いではありません。ある時はマリアに、ある時はマルタに徹する、などというものでもないのです。そうではなく、姉のマルタのしている奉仕、ディアコニアが本当に生かされ、喜びをもって自発的になされていくためには、妹のマリアのみ言葉を聞く姿勢が必要なのです。主イエスは姉のマルタも愛しておられるのです。それゆえに、「必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない」とおっしゃったのです。それは妹のマリアを褒めるための言葉ではなくて、姉のマルタが喜んで奉仕に生きるために本当に必要なことを教えようとされた愛に裏付けされたみ言葉なのです。そして、主イエスの足もとに座ってみ言葉に聞き入っているマリアには、「行って、あなたも同じようにしなさい」という励ましが与えられました。そのようにしてマルタもマリアも共に、主イエスのみ言葉によって養われつつ、自分に与えられている賜物を喜んで自ら献げ、生活の中で具体的に主イエスに仕える者となっていったのです。 お祈りを致します。

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