神の国の訪れ

10月の説教

説教箇所 ルカによる福音書19章11-27節

説教者 成宗教会副牧師 藤野美樹

 本日与えられました御言葉は、「ムナのたとえ」という、主イエスが語られたたとえ話のひとつです。

このたとえ話は、マタイによる福音書25章14節から記されている、タラントンのたとえと良く似ていると言われます。そしてまた、解釈が難しいと言われるたとえ話でもあります。この話には、二つの要素が含まれています。一つが「ムナのたとえ」、もうひとつは、「敵対者たちに対する、王の復讐の物語」です。

まず、この難解なたとえ話しを理解するために、主イエスが、どのような脈絡で、このたとえをお語りになったかということを理解するのは重要なことだと思います。

ルカによる福音書をさかのぼりますと、9:51にはこのように記されています。

「イエスは、天に上げられる時期が近付くと、エルサレムに向かう決意を固められた。」。9:51から、主イエスが、十字架にお架かりになるために、エルサレムへ向けた旅路が始まっていることがわかります。そして、ムナのたとえが語られた直後、19:28で、主は子ろばに乗って、エルサレムへ入城されると記されています。

「イエスはこのように話してから、先に立って進み、エルサレムへ上って行かれた。」

つまり、ムナのたとえ話は、主が十字架に架かるため、エルサレムにとうとう入城される、その直前に語られたたとえ話だということがわかります。

そして、19:1から11節のつながりを読むと分かるように、主は「ムナのたとえ」を、徴税人ザアカイの家で、語られたということも分かります。人々がザアカイの家で、主イエスの話に聞き入っていた時に、「ムナのたとえ」は語られました。

徴税人ザアカイの物語は、今は詳しく説明する時間がありませんが、ザアカイの家で何が起こったかというと、ザアカイは主イエスと出会ったことにより、ザアカイは本当の救いを見ました。それまで一番価値あるものだと思っていた、財産を手放そうと思えるほどの幸いを知ったのです。それは、主イエスというお方と共にいること。主イエスという、真の救い主であり、真の王であるお方との出会いが、ザアカイの人生を変えたのです。主イエスは、その時こうおっしゃいました。

「今日、救いがこの家を訪れた。人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。」

 この出来事を目の当たりにして、ある人々は、徴税人の家にお泊りになる主イエスを批判し、またある人々は、主イエスの言葉に聞き入って、主イエスこそ、私達が待ち望んできたメシア、救い主なのではないか、と期待を膨らませていたのです。当時の人々は、ダビデ王のような、イスラエルの国を立て直してくれる、政治的にも卓越した王様を待ち望んでいました。人々は、主イエスを地上的な王様として期待し、政治的な意味で、自分たちが待ち望んでいる王国が到来すると思っていました。

そのような人々の思いに対して、主は、本当に待ち望むべき真の王とはどのような方か、真の神の国とは何なのか、そして、神の国を待ち望む私たちの姿勢はどのようであるべきか、ということを、本日のたとえ話によって示されたのだと思います。

実際に、このたとえを読んでみたいと思います。

12節「ある立派な家柄の人が、王の位を受けて帰るために、遠い国へ旅立つことになった。」 

この出だしを聞いた時、当時の人々はすぐにピンときただろうと言われます。なぜなら、このたとえの背景に、本当にあった歴史的な出来事があると言われているからです。

それは、紀元前4世紀、ヘロデ王の息子、アルケラオという人の話です。マタイ2:22のクリスマスの物語に、このアルケラオの名前が出てきます。ヨセフとマリアが、ヘロデ王から逃げるため、赤ん坊の主イエスを連れてエジプトへ避難した場面があります。ヘロデが死ぬと、ヨセフの夢に天使が現れて、再びイスラエルに戻るようにお告げがあったのでヨセフたちは戻りましたが、「アルケラオが、父ヘロデの跡をついで、ユダヤを支配していると聞いて、恐れた」とあります。

アルケラオは、ローマの皇帝から、ユダヤを統治するための王権を得る為に、ローマへ旅立ちます。ところが、アルケラオという人は、残虐行為を次々に行う評判の悪い人物でした。なので、ユダヤ人の代表者は、ローマ皇帝に頼んで、アルケラオの任命を妨げようとしました。それでも、結局は、アルケラオは王位を受けることになり、彼に敵対した50人のユダヤ人が殺されてしまったという歴史的な事件があるそうです。

たとえの中の「王」は、恐ろしい王様、アルケラオを彷彿とさせますが、その王は、主イエス御自身にたとえられたのだと、考えることができます。12節で「遠い国へ旅立った王」とあるように、主イエスもまた、これからエルサレムで十字架にお架かりになり、死なれようとしているのです。

そして、14節で「国民は彼を憎んでいたので、後から使者を送り、我々はこの人を王にいただきたくない」と言ったように、主イエスは十字架にお架かりになる時、人々から憎まれ、さげすまれるのです。23:26からの、主が十字架につけられる場面には、主イエスを憎む人々が主を十字架に架けたあと、こう言ったとあります。

「もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救って見るが良い。」

さらに、主は侮辱されて「お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ」。その時、主が架けられている十字架には、「これはユダヤ人の王」という札が掲げてあったと言います。

ルカによる福音書は、主イエスのお誕生の場面でも、この世界には、主のお誕生の時から、人々には主イエスというお方を受け入れる余地がなかったことが記されています。つまり、主イエスのお誕生から、十字架の死、さらに、主の復活、昇天の出来事にいたるまで、主イエスというお方は、いつも人々にとって、期待通りのお方ではなかったという事が出来ます。主イエスは、人々が期待していたこの世の王様のように、政治的に優れ、富と権力に溢れた、王様ではなく、人間の罪の救いのために十字架にお架かりになり、死なれた王であったのです。でも、主イエスの御生涯は、ただ十字架上の死で終わったのではありませんでした。神様は、主イエスを復活させられ、昇天されて、高く天に引き上げられ、主は神様の右に座れられて、「真の王」となられたのです。

主イエスは、人々が期待するようなお方ではなく、もっとも低いところに降られた方でした。主イエスは、この世の王様のように、「金や銀ではなく、十字架上で、御自分の尊い血によって」私たちを罪から救ってくださいました。わたしたちのすべてを御自分のものとして、愛してくださった、ただ一人の「真の王」であられます。

そのような真の王である主に対して、わたしたちがどのように生きるべきか、ということが、13節からの「ムナのたとえ」では語られて行きます。

そこで彼は、十人の僕を呼んで十ムナの金を渡し、『私が帰ってくるまで、これで商売をしなさい』と言った。」

 「わたしが帰ってくるまで」と言われていますが、それは、主イエスの再臨の時、終末の時、ということができます。神の右に座しておられる主イエスが、再び来られる時まで、私達がどのようにして待っているべきか、ということがこの「ムナのたとえ」で語られています。

 王位を受けた王が、旅から帰ってきたとき、1ムナずつ預けられていた僕たちが、王の前に呼ばれました。そして、王が留守にしている間に、それぞれの僕が託されていた1ムナで、どれだけ利益を得たのか、問われます。

最初の僕は、こう言いました。「あなたの1ムナで10ムナ儲けました。」すると王は、「良い僕だ、良くやった。お前はごく小さな事に忠実だったから、10の町の支配権を授けよう。」

次に、二番目の僕がやって来ました。「御主人様、あなたの1ムナで5ムナ稼ぎました。」。すると、王は、「お前は5つの町を治めよ。」と言いました。

そして、3番目の僕は「これがあなたの1ムナです。布に包んでしまっておきました。あなたは預けないものも取り立て、蒔かないものも刈り取られる厳しい方なので、恐ろしかったのです。」。それに対して、王は、「悪い僕だ、その言葉のゆえにお前を裁こう。わたしが預けなかったものも取り立て、蒔かなかったものも刈り取る厳しい人間だということを知っていたのか。ではなぜ、わたしの金を銀行に預けなかったのか。そうしておけば、帰ってきた時、利息付きでそれを受取れたのに。」

そして、この三番目の僕、1ムナを布に包んでしまっておいた僕は、罰をうけます。王は言いました。「その1ムナをこの男から取り上げて、10ムナ持っている者に与えよ。」

 このたとえは、初めに申しましたように、マタイによる福音書の「タラントンのたとえ」とよく似ていますが、違いもあります。違うところはまず、「1タラントン」という単位は、賃金20年分という莫大な額であるのに対して、「1ムナ」というのは、タラントンの60分の一という、小額な金額であるというところです。1ムナという金額は、王にとっては本当に小さな額です。でも、その1ムナであっても、5倍、10倍に増やすことに熱心な王の「貪欲さ」が表れています。

そして、もうひとつは、タラントンのたとえとムナのたとえで違うところは、僕たちが主人から預けられた金額が、ムナのたとえでは、みな1ムナという等しい額だったという点です。つまり、私達には、神様から、同等の責任が与えられている、と理解することができます。でも、たとえの中で、5ムナの利益を得た僕も、10ムナの利益を得た僕も等しく主人から喜ばれたように、私たちは、みな同じ収益を得ることが求められているのではないのです。ただ、私たちに求められているのは、主人である神様、から与えられている財産に対して、たとえそれが私たちには僅かなものに思えたとしても、それぞれがどれだけ、忠実に、献身をしたか、ということが求められているのです。たとえの中の、第三の僕は、僅か一ムナであっても、その一ムナを用いて、主人のために尽力しなかったので、その一ムナさえ取り上げられてしまうのです。

私たちひとりひとりには、このたとえの僕のように、等しく、神の国の財産が託されています。その財産というのは、「みことば」や「信仰」と言うことができると思います。それは、わたしたち自身のものではなく、神様から託されている、主人の財産です。それは、主イエスの十字架と復活という出来事によって、神様が私達に与えてくださった、賜物です。

ともすると、私たちは、自分の信仰が弱いから、とか、賜物はもっていないから、わたしには何もできないのです、と嘆くことがあります。でも、ムナのたとえを聞くとわかるように、私達に預けられた賜物はみな同じです。10人にひとりひとりに、1ムナずつなのです。その1ムナを、主が再び来られる、再臨、終末の時までに、どう生かすか、が求められています。それは、主から託された、信仰生活の一生涯の課題と言えます。

主イエスがザアカイに「今日、救いがこの家を訪れた。」とおっしゃったように、すでに、主はこの世にきてくださり、神の国の支配は始まっています。でも、それと同時に、わたしたちは、その神の国が完成する日に向けて、希望をもって歩む者でもあります。

その信仰生活のなかで、主は、貪欲に、厳しく、私達に求められます。私たちが、神様から託されている賜物を、どれほど熱心に用いているかということ。第三の僕のように布に包んでしまっておくならば、「持っているものまでも取り上げられる」と主はおっしゃいます。でも、わたしたちが、たとえ僅かしか持っていないと思っている賜物でも、それがどうなるか、神様に委ねて、その賜物を精一杯用いて、神様と堅く結びついて、忠実に生きるのなら、私達の1ムナは、計り知れないような豊かなものになることが約束されています。

 

束縛を解かれる

9月の説教

説教箇所 ルカによる福音書第13章10-17節

説教者 成宗教会牧師 藤野雄大

 

「この女は、アブラハムの娘なのに、18年もの間、サタンに縛られていたのだ。安息日であっても、その束縛から解いてやるべきではなかったのか」(16節)

本日の聖書日課では、新約聖書の箇所としてルカによる福音書13章10節以下が与えられています。これは、ルカによる福音書独自の記事であり、イエス様が安息日に、腰の曲がった女性を癒したことが記されております。

安息日にイエス様が、会堂、ユダヤ教のシナゴーグで教えておられた時のことでした。そこに18年間も、病の霊に取りつかれている女性がいたと聖書には記されております。これは「弱さの霊」とも訳すことができる言葉だそうです。この女性が具体的に何の病気であったのか、その病名を特定することは困難ですし、またあまり意味のあることではないでしょう。

大切なのは、その病気が、弱さの霊が原因であり、また16節にも、「この女はアブラハムの娘なのに、18年間もの間サタンに縛られていたのだ」と記されていますように、霊的な力によるものであったということです。この女性は、そのような霊的な力によって苦しめられ、18年間もの長い間、それに縛られていたのでした。

この女性を見た主イエスは、女性を呼び寄せ、その病をいやされました。それは真に奇跡的な癒しの業でした。イエス様の癒しの物語を読むとき、私たちは、ともするとその奇跡としか言いようのない癒しの御業に注目しがちです。しかし、他の福音書とも共通することですが、ルカによる福音書では、そのような奇跡そのものよりも、むしろ、その奇跡を通して、イエス様が語られた教えに注目するように、読む者をうながしています。今日の聖書箇所でも、それは言えます。この不思議な癒しを通して、イエス様は、安息日とはいかにあるべきか、安息日の本当の意味とは何かということを教えてくださっているのです。

そのことは、その直後の14節以下で、ただちに会堂長と安息日の規定に関する議論が展開されていることにも表れています。シナゴーグでは、しばしば安息日というものが、どうあるべきか、安息日の過ごし方について話されることがあったようです。そして、会堂長、つまりシナゴーグの責任者であれば、安息日の規定についても詳しかったのでしょう。

安息日には、あらゆる労働をやめ、休まなければならないというのは、ユダヤ教の基本的な教えです。これは、当時だけでなく、今でもイスラエルでは厳格に守られています。昨年の夏にイスラエルに行ったとき、私も、それを始めて経験しました。ユダヤ教の安息日は、金曜日の日没から始まって、土曜の日没まで続きますが、この金曜日の夕方になると、ユダヤ教徒の店は、軒並みしまってしまいます。そして、静まり返った町の中で開いているのは、ユダヤ教徒以外の人のお店だけになってしまいます。私たちも、夕方には観光客向けの中華料理のお店に入った思い出があります。

このようにユダヤ教の規定では、安息日には緊急性のあること以外は、働いてはいけないとされています。そのため、イエス様が、安息日に癒したことに腹を立てた会堂長は、群衆に向かって、14節にあるような言葉を語ったのです。「働くべき日は六日ある。その間に来て治してもらうがよい。安息日はいけない。」(14節)

この会堂長の判断は、ユダヤ教の規定に適ったものでした。ユダヤ教の安息日規定にも、例外はあって、緊急の病であれば、安息日にも治療することは許されていました。しかし、この女性は、18年間ずっとこの状態であったわけですから、緊急性は低い、だから、安息日以外の日に治してもらうべきだ。こう会堂長は主張したのです。そして、このような会堂長の主張は、ユダヤ教の規定に従えば、真にもっともな判断でした。しかし、それに対して、イエス様は、安息日の本質、安息日の本来の意味は一体何なのかということを示されます。

会堂長たちが厳格に守っていた安息日の規定は、確かに旧約聖書の律法、つまり神の言葉から出たものです。しかし、神様が、安息日を定められたのは、一体何のためであるのか。それは、細かな規則によって、人を縛り付けるためのものでしょうか。何もしないということを強制するためのものでしょうか。

安息日の本来の意味は、全く逆のものです。安息日とは、本来、神様が与えてくださった解放の日です。神様の恵みに生かされる日です。主イエスは、それを、反対者たちの矛盾を突きながらお示しになりました。15―16節には、「しかし、主は彼らに答えていわれた。『偽善者たちよ、あなたたちは誰でも、安息日にも牛やろばを飼い葉桶から解いて、水を飲ませに引いて行くではないか。この女はアブラハムの娘なのに、18年もの間サタンに縛られていたのだ。安息日であっても、その束縛から解いてやるべきではなかったのか。』」と記されています。

ここでは、「縛られている」ことと「解放される」ことの対比がなされています。イエス様に反対した人たちは、自分の家畜を安息日に世話することは忘れませんでした。そうしなければ、暑さの中で、家畜が水も飲めず、食べ物も食べられず死んでしまうからです。そのように、彼らは、自分たちの家畜が、たった一日であっても、縛り付けられたままにしておくことはしません。ところが、同じアブラハムの娘、同胞である女性が、18年間も、病に縛り付けられている状況は、全く放置していたのです。そして、「安息日以外の日に、また癒しにもらいに来たらいいではないか」と言うのです。つまり、彼らは、自分の家畜を大切にすることは知っているのに、自分の同胞を大切にすることには、徹底的に無関心であるということです。主イエスは、その矛盾を指摘されました。

そして、その女性が、18年間も苦しんできたのだから、その束縛から一日も早く解放してあげるべきではないかと言われたのです。

新共同訳聖書では、「安息日であっても、束縛から解いてやるべきではないか」と訳されていますが、この言葉は、「安息日だからこそ、束縛を解いてやるべきではないか」とも訳することができるようです。そのように理解する方が、安息日と束縛からの解放の間により強い結び付きが生まれます。

そもそも安息日というのは、本来、解放の日です。ただ仕事を休むというだけではなく、束縛されている者、苦しんでいる者が、神の愛によって解放され、救われる日です。

イエス様のお言葉を聴いて、反対者たちは恥じ入り、一方、群衆は、イエス様の行いを見て喜んだと記されています。それは、イエス様の言葉が正しいものとされたことを意味しています。主イエスの教えを通して、自分たちの犯している矛盾や過ちを突きつけられたことを示しています。

今日の聖書の箇所は、私たちに安息日の本当の意味を教えてくれます。そして、この箇所は、同時に、一つの問を私たちに突きつけるものでもあります。その問いとは、束縛されていたもの、歪んでいたものは、その女性だけだったのだろうかという問いです。確かに、イエス様によって癒され、18年間の束縛から解放されたのは一人の女性でした。しかし、会堂長たちもまた、束縛され、歪んでいたことが、聖書には表れています。彼らは、安息日の規定という複雑怪奇な教えに束縛され、その本来の意味、つまり神による解放という本当に大切なことを見失っていました。その結果、本来は神様が良いものとして与えてくださった安息日そのものを歪めてしまったのです。

しかし、これは何も、彼らだけに限ったことではありません。私たちは、ともすれば何かに囚われて、本来の意味を見失ってしまうことがあります。ありがちな例え話ですが、例えば、子どもにベッドを与えたとします。ベッドは、本来、人に安眠を与えてくれる良いものです。ところが、子どもはどんどん大きく成長していきます。そして、ついにベッドからはみ出るぐらい大きくなりました。その時、まともな判断であれば、新しい、子どもの背丈にあったベッドを買い与えるということになるでしょう。しかし、そのベッドに囚われてしまった親は、逆に、ベッドに合わせて子どもの足を切り落とすのです。

もちろん、これはあくまでたとえ話であって、その愚かさを笑うことはたやすいことです。しかし、実際には、私たちは、さまざまなことに縛られて、同じような過ちをしていることに気づかされることがあります。むしろ、この世界で起きる問題の多くは、わたしたちが何かに囚われて、本質を見失った結果と言っても良いかもしれません。そして、何かに囚われる時、本来良いもの、良い意図をもって始まったことであっても、形骸化し、腐敗し、歪められていくことになります。

この私たちの持つ歪み、それを聖書では人間の罪であると語っています。聖書が語る罪というのは、単に悪いことをするという意味ではありません。聖書における罪とは、私たちが、神様から離れていることであり、そして神様から離れているがゆえに、まっすぐ、正しく生きることができず、歪んだ生き方しかできないことを指します。

今日の話でも、それは表れていました。安息日は、まぎれもなく神様が定めてくださったものであり、本来、とても良いものです。しかし、人間が持つ罪ゆえに、その本来、良いものである安息日もまた歪められてしまうのです。その結果、安息日は、安息の日ではなく、人を束縛する日となってしまうのです。

そのような束縛から、私たちを解放してくださるのは、ただ主イエス・キリストしかいません。今日の聖書箇所で、腰のまがった女性をいやしてくださったように、私たちを罪から解放し、真の自由を示してくださるのは、主イエスのほかにいません。

安息日に、主イエスによって癒された女性は、腰がまっすぐになり、神を賛美したと、聖書には記されています。また、その主イエスの行いを見た群衆は、喜んだとあります。これこそが、安息日の本来の姿です。主によって罪の束縛を解かれた者が、賛美し、喜ぶ、これこそが本当の安息の日なのです。

私たちもまた、毎週日曜日に主日礼拝、つまり安息の日を守っています。こうして、主の日に集められ、主を賛美し、主を喜んでいます。もし主が、私たちを礼拝へと招き寄せてくださらなかったならば、長年にわたって束縛されていた女性のように、私たちも今もなお罪に縛られていたでしょう。まっすぐに立つことができず、苦しめられていたでしょう。しかし、主は、この女性と同じように、私たちをも招き寄せ、手を置いて癒してくださいました。主の安息の日に、主の御言葉を通して、私たちも罪から解き放たれ、自由にされるのです。

この主イエスが回復してくださった安息日の本来の意味を心に留めましょう。そして、私たちも、主によって解放されたことを賛美し、また喜びたいと思います。

祈りましょう。

安心していきなさい

7月の説教

聖書箇所 ルカによる福音書7章36-50節

説教者 成宗教会牧師 藤野雄大

「イエスは女に、『あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい』と言われた。」(ルカによる福音書7章50節)

主に在る兄弟姉妹の皆様、本日も、主の御言葉を共に聴きましょう。

本日示されました新約聖書の箇所は、ルカによる福音書7章36-50節です。今日の箇所では、ファリサイ派のシモンという人の家にイエス様が招かれた時のことが記されております。イエス様たちが、シモンの家にいると、そこに一人の「罪深い女」といわれる人がやってきて、主イエスの足を涙でぬらし、髪の毛でぬぐい、さらに接吻して香油を塗ったのでした。

この罪深い女というのが、誰であったのか、その名前をなんといったのか、それは、記されていません。例えば、伝統的な教会の理解では、この罪深い女を、他の福音書に描かれる、主イエスの頭に香油を注いだとされる女、あるいはベタニアのマリアと同じ人物であるとされてきました。確かにマルコによる福音書14章では、重い皮膚病を患うシモンという人の家に主イエスが招かれた時に、主イエスの頭に香油を注いだ女の人がいたという類似した記事が記されています。

もしかしたら似たような出来事が、何度かあったのかもしれません。あるいは同一の出来事が、それぞれの福音書に異なる形で載せられたと考えることもできるかもしれません。しかし、この女性が誰であったのか、それをはっきりと断定することは、今日の私たちにはできません。ただその女性が罪深い女であったとだけ、私たちは知ることができます。そして、その罪とは、売春、あるいは性的不品行を指すものであったと言われています。確かなことは、その女性が、罪深い存在であること、当時のユダヤ教の道徳や宗教的慣習に反する行いをしていることが、町の人々には広く知られていたということです。

そのことは、ファリサイ派のシモンの言葉にも表れています。「イエスを招待したファリサイ派の人はこれを見て、『この人がもし預言者なら、自分に触れている女がだれで、どんな人か分かるはずだ。罪深い女なのに』と思った。」(39節)。

このシモンの言葉には、彼の二つの思いが表れていると言えます。一つは、この罪深い女に対する批判あるいは怒りです。シモンは、この女性がユダヤ教の基準からすれば、罪を犯していることを知っています。ファリサイ派であったシモンは、ユダヤ教の教えを守ることに熱心であり、自分を正しい人間であると考えています。ですから、そのような罪深い人々と関わりを持つことなどありえないことでした。それが、突然、自分の許しも得ずに、この罪深い女が勝手に自分の家に入り込んできたのです。そして、主イエスの足に香油を塗ったのです。それは、客である主イエスに対しても、また家の主人であるシモンに対しても、無礼なことでありました。シモンの面目をつぶすことになるからです。

しかし、一方で、シモンは、この女性を無理に追い出したりはしません。むしろ彼は、一歩引いて、主イエスであればこの事態をどのように対処するのか、事態を伺っています。「預言者ならば、この女がどのような人であるか分かるはずだ」。そのシモンの言葉には、主イエスの期待あるいは主イエスを試すような彼の気持ちが込められています。

この言葉が示すように、シモンは、ファリサイ派でしたが、同時に、主イエスのことを真っ向から敵対視していたわけではなかったでしょう。むしろ、自分の家に招いて、食事を共にしようとしています。ユダヤ社会において、食事を一緒にするということは、その人を自分の仲間であるとみなすことです。ですから、シモンは、むしろ主イエスに対して、一定の興味や関心をもっていたといえます。もしかしたら主イエスは、真の預言者であるかもしれない。そのように思っているわけです。そこで、彼は、この罪深い女にイエス様が気づくかどうかを試そうとします。

そのシモンの思惑に対して、主イエスは、シモンの想像をはるかに超えた言葉を語られます。41節から42節に記されている主イエスのシモンに対する問いかけに注目しましょう。「イエスはお話しになった。『ある金貸しから、二人の人が金を借りていた。一人は5百デナリオン、もう一人は50デナリオンである。二人には返す金がなかったので、金貸しは両方の借金を帳消しにしてやった。二人のうちどちらが多くその金貸しを愛するだろうか。』」

この主イエスの問いかけには、主が、その女性がどのような人であったかをご存知であることが暗示されています。ご自分の足を拭った女性が、神に対して大きな負債を負っていること、つまり、これまで深い罪を犯してきたこと、また罪の赦しを心から願っていることをご存知でした。そのことを言い当てることによって、ここで主イエスは、真の預言者であることを示されたのです。

さらに、主イエスは、その後で、愛と赦しの関係を語られます。「だから、言っておく。この人が多くの罪を赦されたことは、わたしに示した愛の大きさで分かる。赦されることの少ない者は、愛することも少ない。」(47節)

赦されることの少ない者は、愛することも少ない。どれだけ自分が罪深いものであるか、自分の罪の深さを知る者は、罪からの赦しを心から願います。そして、罪から赦された喜びを、主イエスへの愛によって表現しようとします。

おそらく、この罪深い女は、この出来事以前に、どこかで主イエスの教えに触れたことがあったのでしょう。直接、主イエスの教えを聞いたのかもしれませんし、あるいは人づてに主イエスのことを知ったのかもしれません。そして、主イエスが、自分の罪を赦してくださる方であることに望みをかけていたからこそ、今日のような大胆な行動にでたのでしょう。

他人の家に勝手に入り込んで、そこにいる客の足を涙で濡らし、髪の毛で拭い、接吻して、香油を塗るというのは、よくよく考えてみれば、非常識とも言える光景です。しかし、その非常識さの中に、この女性がどれほど自分の罪深さを痛感し、またそこからの赦しを、解放を願っているかが示されています。

一方、ファリサイ派のシモンは、たしかに主イエスにある種の好意を持っていましたが、自分の罪の赦しをねがっての行動ではありませんでした。世間で話題になっている人だから、有名な先生だから、主イエスを招いたのであって、自分のすべてを主の前にさらけ出す気持ちはありませんでした。それが、シモンと罪深い女の決定的な違いでした。

この二人の違いを示された後、主イエスは「あなたの罪は赦された」と女性に宣言されます。預言者として、その女性の正体を見抜かれただけでなく、罪の赦しを宣言されたのです。罪の赦し、それはただ神様以外にはできないことです。それを主はここではっきりと宣言されます。この言葉には、主イエスに自らを委ね、心から悔い改めるものは、主イエスによって救われるということが示されています。

古代教会では、今日の箇所は、しばしばユダヤ教とキリスト教の違いを示すものとして理解されてきました。すなわちファリサイ派のシモンは、ユダヤ教を象徴し、罪深い女性はキリスト教会を象徴するものと考えたのです。主イエスは、最初、シモンの家、つまりユダヤ人の間に来られますが、彼らは主イエスを受け入れません。主イエスを心から受け入れ、愛したのは、罪深い女であったのです。

この古代教会の解釈は、今日の聖書学では受け入れられないものかもしれません。しかし、一方で、感心させられるのは、それでもなお古代教会の聖書の読み方には、一定の真理が込められているということです。それは、教会というものが、この罪深い女と同じように、罪に呻き、また主イエスに罪を赦された者の集いであるということです。今日の聖書箇所は、読む者全てに、自分がシモンなのか、罪深い女性なのかを突きつけます。

自らをシモンであると考える人、つまり自分の罪を認めない人に、主イエスを本当に受け入れることはできません。そして、主イエスを受け入れ入れないがゆえに、赦されることもなく、また真の愛を知ることもできません。しかし、自らの罪を認め、心から悔い改めるならば、その時、主イエスを救い主と受け入れることになります。

宗教改革者のマルティン・ルターは言いました。「キリスト者よ、大胆に罪を犯せ。しかし、大胆に祈り、大胆に悔い改めよ」と。ルターが言う「大胆に罪を犯せ」というのは、わざと罪を犯せ、わざと悪いことをしろというものではありません。罪とは、そのような単純なものではないからです。ルター自身も、長い間、自分自身の罪に悩み苦しんだといいます。罪とは、自分自身の生き方を変えられないという嘆きです。罪とは、生き方そのものに関わるものです。

今日の聖書箇所に登場した罪深い女が、一体どのような罪を犯したのか、具体的には知ることはできません。しかし、いずれにしても、それは彼女が、望んで、故意に犯した罪ではなかったはずです。むしろ、彼女は、そのように生きていく他なかったのです。自分では望まないけれども、他にどうすることもできない。それまでの生き方を変えたくても変えることができない。それこそが、人間の本当の罪であり、また悲惨です。本当の罪とは、私たちをこのように責めさいなむものです。しかし、その苦しみと嘆きの後に、罪深い女は、やがて主イエスを見出したのでした。それは、自らの罪を、自らの人生を変えてくださる方でした。

主イエスは、この罪深い女に、最後にこう言われました。「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。」(50節)あなたの信仰こそがあなたを救う。主イエスへの信仰によってだけ救われる。主イエスを信じることによって、全く新しい生き方をするようになるということです。

主イエスによって罪が赦され、この女性は全く新しい人生を歩むようになりました。しかし、それはこの女性だけではありません。ルターもそうですし、また私たち教会に集う者全てがそうです。「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。」この主イエスの言葉は、今も、自らの罪に呻き、主イエスに依り頼む全ての者に向けられているのです。この御言葉に支えられて、平安の内を生きたいと思います。

祈りましょう。

目が開ける時

成宗教会牧師 藤野雄大

説教箇所:ルカ24章13-35節

「一緒に食事の席に着いた時、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。」

主にある兄弟姉妹の皆様、私たちは先週の日曜日、主の復活をお祝いいたしました。そして、これから6月半ばのペンテコステまでのおよそ2か月の間、教会は復活節の時を過ごしていくことになります。

主イエスは、復活された後、まずマリア達に現れ、それからも弟子たちのもとに次々と姿を現わしていきます。イエス様が十字架にかけられてしまったことで、弟子たちは、うろたえ、なすすべを知りませんでした。しかし、主は、そのような弟子たちをお見捨てになることなく、復活後、弟子たちに御自身の姿を示されました。そして、その復活の主イエスのお姿を見ることで、初めて弟子たちの止まっていた時は進みだし、今一度、信仰を取り戻していきます。

今日、示されました聖書の箇所、ルカによる福音書もまさにその一つで、しばしば「エマオの途上」と呼ばれる箇所です。聖書の言葉は、どれも素晴らしく、神の救いにあふれたものですが、このエマオの途上の話は、とりわけ魅力に富んでいて、一つの美しい短編小説のようだと言う人もいます。教会でも、復活節の時期に繰り返し読まれる、大変馴染み深い箇所だと言えます。

主イエスが復活された日のことでした。二人の弟子が、エルサレムから10キロほど離れたエマオという村に向かっていました。18節に記されておりますように、二人の弟子の内の一人は、クレオパという名前でした。もう一人の弟子の名前は記されておりません。

クレオパともう一人の弟子は、エマオに向かって歩きながら、婦人たちから聞いた話について論じあっていました。それは、イエス様が復活され、その亡骸がどこにも見当たらないというものでした。その時、イエス様御自身が、彼らのもとに近づいてこられましたが、しかし、二人の弟子たちは、それがイエス様だとは気づきません。なぜなら、彼らの「目がさえぎられていたからだ」と聖書は記します。二人の弟子の目が開かれ、イエス様に気づくまで、まだしばらく待たなければならなかったのです。

この二人の弟子たちにイエス様は、「やり取りしているその話は何のことですか」と尋ねられました。これに対して、クレオパは、「あなたはエルサレムにいながら、あなただけは、この話を聞いたことがなかったのですか」と答えます。このクレオパの言葉から、イエス様の復活のうわさは、すでにエルサレム中に広まっていたことが分かります。皆が、その噂を聞き、さまざまに話し合っていたのでしょう。しかし、同時にクレオパの言葉には、大きな皮肉も込められています。なぜかと言いますと、気づかないとは言え、クレオパは、復活の出来事を誰よりも知っているお方、この世界で唯一、復活について理解し尽くされているお方に対して、「あなたただけは知らないのですか」と問うているからです。

そのあとの19節以下のクレオパの言葉には、彼の落胆と戸惑いが表れています。彼は、イエス様が、「行いにも言葉にも力のある預言者であった」と言います。しかし、そのイエス様が、十字架にかかり、死んでしまったことを嘆きます。そして、クレオパは21節にあるように、「わたしたちは、あの方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました」と過去形で語ります。そして、十字架にかかってからもう三日も経ってしまったとダメ押しします。これは、イエス様に抱いていた希望が打ち砕かれてしまったというクレオパのあきらめや落胆の心境を示していると言えます。そのように失望の中にいたクレオパたちを驚かせたのが、マリアたちがもたらした知らせでした。それは、「イエス様は生きておられる」というものでした。そして、その言葉通り、墓には、イエス様のご遺体が無くなっていたという知らせでした。

この知らせを聞いても、クレオパたちは、半信半疑だったと推察されます。「常識で考えれば、そのようなことはありえないに決まっている。いや、しかし、もしイエス様が本当に復活したとしたら...。」おそらく、そのような気持ちでいたので、仲間とずっと話し合っていたのでしょう。しかし、信仰に関する事柄、とくに復活は、どれだけ議論したところで、理解できるものではありません。人間の知恵や理性では捉えきることができない事柄だからです。そのため、二人の弟子の議論も結局は、結論のでない堂々巡りものだったことでしょう。人が、復活を受け入れ、信じるためには、やはり主イエスの御導きに依るほかはないのです。

そこで、主イエスは、クレオパともう一人の弟子に、聖書全体にわたり、御自分について書かれている事柄を説明されました。さらに村に近づいた時、夕方になっていたので、二人の弟子たちの求めに応じて、イエス様は、同じ家に泊まられます。そして、食事を共にされたのでした。この食事の席で、イエス様は賛美の祈りを唱え、パンを裂いて、それを弟子たちにお渡しになったと聖書には記されています。すると弟子たちの目が開け、はじめてイエス様だと分かりましたが、すぐにイエス様の姿は見えなくなってしまったとあります。

大変、不思議な記述です。そして、この箇所が、まさに今日の聖書箇所全体の中心とも言えます。イエス様が、パンを裂かれる時、つまり聖餐に弟子たちを招かれた時、始めて、さえぎられていた弟子たちの目は開かれたのです。二人の弟子たちは、人間的な議論をいくら交わしても、結局は、目の前にいるイエス様の姿さえ認識することはできませんでした。彼らが、イエス様の姿を認めることができたのは、イエスさま御自身が彼らに近づいてきて、聖書のことを説明され、さらに聖餐のパンを分け与えられたからでした。

しかし、それではなぜ、そのあとすぐにイエス様のお姿は見えなくなってしまったのでしょうか。なぜ、イエス様は、ずっと弟子たちにお姿を現わしてはくださらないのでしょうか。

古代の有名な神学者、アウグスティヌスは、このことについて次のように語っています。「イエス様は、彼らから姿を見えなくされた。それは、それから後、イエス様は、御言葉と聖餐の中で、信仰によって見えるようになられるためであった。そのように弟子たちに認識されることをイエス様は望まれたのである。そして、主イエスは、今日では、パンを裂くこと、つまり聖餐によって、私たちにお姿を現わしつづけておられるのである。」

アウグスティヌスは、今日の聖書の箇所、エマオの途上の物語を、決して、二人の弟子たちだけに起こったことだとは考えていません。イエスさまは、説教と聖餐を通して、私たちにもお姿を現わしてくださっていると考えているのです。そして、信仰の目によって私たちもイエス様を認めることができるのだと語っているのです。

アウグスティヌスの言うことは、全くその通りだと思います。つまり、この美しいエマオの物語は、ただ2000年前、クレオパたち二人の弟子にだけ起きた物語ではないのです。実は、私たちもエマオの途上、エマオに向かって旅しているのではないでしょうか。

聖書では、しばしば信仰者の生涯を旅に例えることがあります。信仰の旅路、それは常に順風満帆とは限りません。旅の途中では、いつも天気が良い時ばかりではありません。曇りの日もあれば、大雨に振られることもあります。平らで歩きやすい道もあれば、登坂、下り坂もあるでしょう。さらに道に迷うこともあります。まっすぐに歩けずに、遠回りしなければならないこともあるでしょう。疲れて立ち止まったり、転んで倒れてしまうこともあるかもしれません。

これは、私たちの信仰にも当てはまります。いつも信仰に心が燃えているというのは難しいことです。様々な困難の中で、日常的な忙しさの中で目が曇らされてしまうこともあります。心に燃えていた情熱が、いつの間にか冷めてしまうこともあります。しかし、イエスさまは、そのような私たちにも寄り添ってくださり、旅を共にしてくださいます。そして、聖書の御言葉と聖餐を通して、私たちの信仰を呼び覚ましてくださるのです。その意味で信仰の旅とは、まさにエマオの旅そのものと言えます。

今日の礼拝後には、教会総会が開かれます。その中で長老の選挙も行われます。教会総会とは言うまでもなく、昨年度の教会の歩みを確認し、また今年度、教会がどのように進んでいくかを決める教会にとって最も大切な意思決定の時です。

しかし、教会総会とは人間的な会議の場所ではないということも忘れてはいけません。教会総会は、他の会議のように人間的な知恵を寄せ集める場所ではありません。まず何よりも私たちの祈りを寄せ集める場所です。そして、私たちを教会へと呼び集めてくださったイエス様の恵みに感謝する時でもあります。

イエス様が、私たちに近づいてきてくださいます。そして私たちを呼び集めてくださいます。ただ主イエスのこの恵みによって、私たちの信仰は温められ目が開かれるのです。そして本当に大切なこと、主の御心にかなう道が見えるようになります。教会総会、そして長老選挙とは、人間的な意思決定の場ではなく、このイエス様の恵みに答える場所であることを覚えたいと思います。

成宗教会に集う一人ひとりが、主に結ばれて、主に強められて、2019年度の歩みをなすことができますように。また新しく神様の救いの御業に触れて、信仰を起こされる方が与えられますようにお祈りいたします。

神の御心をたずね求める

聖書:詩編1031012節, 1722節, ルカによる福音書223946

 先週は東日本の講壇交換礼拝が守られ、感謝します。成宗教会には東日本議長の竹前治先生がいらして、力強く福音を語ってくださったと伺っています。また、「議長だというのに、お若い先生だったので驚いた」という声も聞きました。

私も車でしか行ったことがないので、晴天の主の日、雪の心配もなく出かけることができ、感謝でした。病院の礼拝から、成人の礼拝、そして月に一度は病棟を廻ってお見舞いをすることも、清瀬信愛教会の方々とさせていただきましたが、竹前牧師はこの上に教会学校もなさるので、大変たくさんの務めをされていることが分かりました。清瀬信愛教会は大塚啓子先生が病院のチャプレンとして働かれた教会でもあります。目黒原町教会から、私の休暇中に礼拝の奉仕をしてくださいました時、代わりに留守を守ってくださった引退教師の先生にも今回お会いしましたので、本当に成宗教会も私も、いろいろなところで、いろいろな方々にお世話になっていることが思われました。

先週はまた、四月から赴任される藤野雄大先生、美樹先生方も教会にいらして、引き継ぎの話し合いを行うことができました。お伝えすることが沢山ありましたが、お互いに「普通はこんなに綿密な、丁寧な引き継ぎはできないですよね」と語り合いながらも、まだまだ出来てないことがある、ということで、次の日程を立てているところです。すべては東日本連合長老会の交わりの恵みであります。様々な違いがあっても、わたしたちは共に一つの主の体の教会を目指しています。そのために共に主の前に謙って、み言葉に聴き、共に祈り、共に学ぶことの大切さは計り知れません。

共に祈るわたしたちの、共通の祈りとして主の祈りが与えられています。これは、弟子たちに与えられた祈り、そして教会に受け継がれた祈りです。そこで今日はカテキズム問59を学びます。それは「主の祈りは何を第3に求めていますか」という問いです。第3の祈りは、「みこころが天に行われるとおり地にも行われますように」です。「天に行われるように」と祈る、その「天」とは、神さまのおられる所だとわたしたちは知っています。そして、そこには神さまの右に、御子である主イエスさまが座しておられます。

天には交わりがあります。それは、父なる神と御子イエス・キリストの親しい交わりです。そして、それは聖霊という愛の絆で結ばれている麗しい交わりなのです。そして神さまは願いを持っておられます。神さまの願いは何でしょうか。それは、神さまのうちにあるこの美しい交わりへと、わたしたち人間を導き入れることなのです。これが神さまの御心なのです。詩編103篇の預言者はこう宣言します。10節。「主はわたしたちを罪に応じてあしらわれることなく、わたしたちの悪に従って報いられることもない」と。真に神様はご自分をいつくしみふかく憐れみに富む神、と宣言しておられます。

11節。「天が地を超えて高いように、慈しみは主を畏れる人を超えて大きい」と。わたしたちは誰も彼もが神さまに逆らい、過ちを犯し、罪を免れない者なのですが、神さまは主を畏れる人に対しては、ふさわしい報復を加えることをなさらない。その寛大さを以てわたしたちの悪行と戦ってくださいます。なぜなら、神さまの憐れみがどんなに深くても、わたしたちの罪が憐れみの邪魔をするので、その罪が取り除かれなければ、憐れみがわたしたちの所まで届かないからです。12節。神さまは「東が西から遠いほど、わたしたちの背きの罪を遠ざけてくださる」と言われるほど、わたしたちの罪を遠くへと追い払ってくださいます。

神さまはそれほどまでのご決意を持っておられます。それが御心です。今日読まれたルカ福音書22章39節から46節。これはイエスさまが十字架にお掛かりになる直前の出来事を伝えています。イエスさまは受難の時が迫っているときも、いつものように同じ所に出かけられたのです。つまり、主は敵から身を隠すために退かれることはなさらず、却って、敵の前に御自分を曝されたのでした。それは、死に対して、御自分の身を与えられたということです。ここにイエスさまの従順が描かれている。死に対して従順だったのではありません。死に対して進んで命を差し出すこと以外には、天の父の心を満たすことはできないことをイエスさまはご存じだったからです。

わたしたち人間が救われるためには、それを妨げて道を塞いでいる罪を滅ぼさなければなりません。その罪を滅ぼすために、神の子イエスさまは死に渡されようとしていました。

42節。「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください。」神さまは御子イエスさまを既に苦難を受けるための準備的な訓練を与えておられましたが、今やより差し迫った死を目の前に描き出して鋭くイエスさまを撃たれました。そして愛する御子は今までに経験したことのない恐怖に打ちのめされたのであります。

しかし、聖書が伝えるこの祈りの場面ですが、神の子イエスさまが迫り来る死に直面して恐怖に打ちのめされる、という弱さを、「あり得ないことだ」と思う人々は多かったのであります。神さまの御子が死を恐れるなんて・・・と思うので、古代教会以来、神学者もいろいろな解釈をつけて何とか、何があっても動じない敢然とした神さまの強いお姿をイエスさまに反映させようと努めたようです。しかしそのような労苦は間違いであり、必要がないと宗教改革者は断言しました。なぜならキリストがこのように恐れと悲しみを経験されたことを、もしわたしたちが恥と思うなら、わたしたちのための身代わりの犠牲は破壊され、失われてしまうでしょうから。

四世紀の古代教会教父、聖アンブロシウスはその説教の中で、ただ次のように言いました。「わたしは主イエスのために、このお姿に何の弁解の必要も感じないばかりでなく、主イエスの親切と威厳がここよりも讃えられるところは他にないと思う。なぜなら彼はわたしの思いを御自分に取り入れたのでなければ、わたしのためにこれほどのことを成し遂げてはくださらなかったであろうから。真に、主はわたしのために嘆き悲しまれたのであって、御自身のために悲しむ理由は何もなかったのだ。主は永遠の神のご性質とその喜びをしばし脇に置いて、わたしの弱さの苦しみを経験されているのである。」天から降られて人となられたイエスさまは、御自身に人間の外観を取られたのではなく、人間の生きる現実の性質を取られたのだから。故に、主は人の悲しみを経験されなければなりませんでした。さらにその悲しみを克服しなければなりませんでした。

イエスさまは祈りました。「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください。」キリストの十字架の苦しみはすべての面で自発的なものとは言えません。しかし、御父の御心の故にそれは自発的になっているのではないでしょうか。わたしたちも自分の願いがあります。自分のしたい事があります。また自分が避けたいことがあります。是非このことだけは叶えてほしいというものがあるわたしたちです。

しかし、主イエスさまはわたしたちの弱さを持って苦しみもだえ、切に祈られたときに、その祈りはわたしたちの弱さを以て、神さまの御心を求める祈りの格闘をしてくださったのです。わたしたち人間の救いのために、主イエスさまは神さまの御心を願い求め、そしてその苦しみによってわたしたちに救いの道が開かれました。十字架の受難に先立つ格闘、この苦しみの祈りにこそ、わたしたちは学ばなければならないと思うのです。神さまは御自分を頼る人々を憐れんでくださいます。その人々がたとえどんなに罪、咎、過ちに満ちた人生を歩んで来たとしても、ご自分を畏れる人々を憐れみ、天の国の交わり、神さまの喜ばしい交わりの中に招き入れることを望まれます。これが救いであります。これが神さまの御心であります。その御心を知っておられる御子イエスさまは、御使いに力づけられ、立ち上がって十字架ヘと進まれました。

では、神さまを畏れる人々はどこにいるのでしょうか。わたしたちは言いましょう。わたしたちがそうです、と。せめてわたしたちは言いましょう。「わたしたちはそうでありたいです」と。そのためにわたしたちは教会に招かれたのです。そのためにわたしたちはイエスさまを救い主と信じ、悔い改めて洗礼を受けたのです。そのためにわたしたちはイエスさまの罪の赦しに結ばれたのです。

しかし、地上にいる限り、わたしたちは新しい試練に直面します。地上にある限り、わたしたちは自分に望ましいことがあり、自分が避けたいことがあります。わたしたちは主の祈りを祈る前に、この自分の願いをはっきりと見る必要があります。自分に望ましいことは何か。そして自分が避けたいことは何か。しかし、それだけで終わってしまうのでは、主の祈りには届きません。わたしたちは弱い者なので、自分の考えや願いが正しいと思ってしまう。すると、まるで神さまもきっとそうだ、と思うかのように、全然神さまの御心を尋ね求めようともしなくなります。それでは主の祈りには届きません。

主イエスさまは、弟子たちに主の祈りを教えてくださいました。そして、主は御自分が教えられた祈りの通りに生きて、死を迎えてくださいました。それは多くの人々のための死。多くの人々が神さまを畏れるようになるため、多くの人々が神さまを頼るようになるために、多くの人々が神さまの喜ばしい交わりに入れられるために、死んでくださった。だからこそ、神さまは御子イエスさまを復活させられ、天に昇らせてくださったのです。

ここにこそ、神さまの御心がありました。ここにこそ、わたしたちの祈りは向けられなければなりません。わたしたちは主と結ばれて教会にいる者です。わたしたちは神さまにどれほど愛されていることか。どれ程慈しみをいただいていることか。本当に知っているでしょうか。「神の愛がわたしたちの心に注がれている」とパウロは教会の人々に告げ知らせました。ローマ5章5節以下です。「実にキリストは、わたしたちがまだ弱かったころ、定められた時に、不信心な者のために死んでくださった。(中略)わたしたちがまだ罪人であった時、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。」279頁。

この愛が分かることこそ重要です。なぜなら自分を愛し、大切にしてくださる神さまをわたしたちはイエスさまによって知ることができるからです。この神さまを信頼して行く。イエスさまをさえ惜しまなかったほどわたしたちの救いにこだわってくださった主なる神さま、天のお父さまに祈るとき、私たちはその愛の心、慈しみに満ちたご計画が地上で成し遂げられることを祈らずにはいられません。

そして、それはキリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さを理解することですから、わたしたちに関わること、わたしたちの教会に関わることでなくて何でしょうか。これから成宗教会は新しい先生方をお迎えし、新しい時代を迎えようとしています。ここに具体的にああすれば良い、とか、こうすれば良いとか、いろいろと計画が建てられるようになることは喜ばしいことでしょう。しかし何よりも祈るべきことは主の祈りの第三の祈り。「みこころが天に行われるとおり地にも行われますように」です。神さまの御心が天で行われているのと同じように、地上にも完全に行われることを私たちは心から願い、待ち望むのです。自分の思いとちがう思いがけないことが起こるときにも、主の祈りをしっかりと祈るならば、神さまは私たちを愛して良い道を開いてくださると確信することができるでしょう。祈ります。

 

主なる父なる神さま

あなたの尊き御名をほめたたえます。御子イエス・キリストのご受難によってわたしたちに救いの道を開いてくださるほど、わたしたちを大切にしてくださる、計り知れない愛についてみ言葉を聴きました。どうかわたしたち成宗教会に集められた者も、あなたの愛に応える者となりますように。あなたを信頼し、すべてのことの上に御心が成りますように、と祈る者となりますように。そして、同時にあなたの御心を尋ね求め、知る者となりますように。弱いわたしたちは楽を求め、労苦を望まないものですが、イエスさまはわたしたちに代わって労苦を厭わず、あなたの御用を果たしてくださいました。

あなたはわたしたちの弱さをご存知です。どうかわたしたちがあなたの愛、イエスさまの救いに感謝し、いつもあなたに讃美を捧げる礼拝の時をお与えください。あなたの御国の喜び、その麗しさ、その平和、その支え合う心をわたしたちにお知らせ下さい。地上にイエス・キリストの教会をわたしたちは建てるために東日本連合長老会の諸教会と共に、また志を同じくする全国全世界の教会と共に心を合わせ、歩みたいと切に願います。一方、あなたの御心よりも自分の願いを先にする誘惑は常に現れ、教会の脅威となります。どうか、主よ、この教会が、また東日本の地域教会がそのような試みから守られますように。

どんな時にも御心を尋ね求め、あなたの喜びをわたしたちの喜びとさせていただけるように祈ります。

これから4月の着任に向けてご準備くださっている藤野雄大先生、美樹先生の上にあなたの豊かなお支えがございますように。また、成宗教会が長老会と心を一つにして祈り準備することができますように。また止むを得ない事情で礼拝に来られない日々を送っている方々をどうぞ顧みてください。深い慰めと励ましを祈ります。

この感謝、願い、尊き主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。