唇に良きおとずれを

成宗教会・聖霊降臨日聖餐礼拝

聖書:ヨエル2章23-3章2節, 使徒言行録2章1-11節

 今年も聖霊降臨日を記念する礼拝を捧げることができますことを、真に感謝します。成宗教会がこの地に礼拝を始めて、今年で78年。日本の地にプロテスタント教会が建てられて150年になります。(現在も残る横浜海岸教会です。) 今では全世界の津々浦々に教会があり、イエス・キリストの福音が宣べ伝えられていることを私たちは知っております。しかし、多くの人々は不思議に思うことでしょう。一体どのようにして教会が存在するようになったのか。かつては臆病だった弟子たちが、自分たちの言葉でキリストの真理を宣べ伝えることができるようになったのか、と。

毎年、教会が復活祭イースターを祝う時には、その前にわたしたちは、主が十字架にお掛かりになったご受難の道を振り返ります。そして、その中で、主の弟子たちがどんなに臆病であったかを思い出すのです。主は弟子たちを深く愛しておられ、弟子たちもまた主の愛を知っていました。それでも、主の十字架に従うことはできませんでした。ペトロをはじめ皆それぞれが逃げ出してしまったのです。

ところが、このような弟子たちが福音を宣べ伝えたのです。全世界に神の良い知らせを告げ知らせたのです。この世に奇跡が起こるとしたら、この不思議な出来事こそ、奇跡です。奇跡は人によって起こされるのではなく、神の力によって起こされるからです。これは宣教の奇跡です。それまでは、弟子たちは「神の偉大な業」を語るための「舌」(言葉)をもっていませんでした。しかし、その人々が、今や説教を語る者となりました。

創世記2章7節で語られている人間の創造の話を思い出しましょう。神は御自分の霊を、塵を吹き入れて、人間を創造しました。神の霊とは命の息であります。そして、使徒言行録2章4節では、神の霊はかつて臆病であった弟子に命を吹き入れられました。その結果、主は今や新しい人間を創造されました。新しい人間。それは伝道する弟子たちです。彼らは、大胆に語ることのできる賜物をもった新しい人間として造られたのでした。

最初に、主なる神は弟子たちに聖霊を、一度、耳に聞こえ、目に見える形でお示しになりました。2節。「突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。」わたしたちは神の賜物について考えるには、あまり熱心ではなく、面倒くさがる傾向があります。だから、神の力がはっきりと分かるために、神が前もってわたしたちの感覚を目覚めさせてくださらなければならなかったのです。さもないと、神の力はわたしたちに見落とされてしまうことになるでしょう。

また。突然状況が変えられることについても、大きな意味があります。それは弟子たちが勇気を出して伝道する者になった理由を考えて、「偶然こうなった、」とか、「自分の努力のせいだ」と思わないために、必要だったのです。また、風の激しさも重要です。それは人々に恐れを与えるためなのです。人は自分の知恵や力、常識など自分の判断に頼っている間は、決して神の恵みを恵みとして受け入れるようにはならないのです。神の恵みによって立つのでなければ、決して福音を宣べ伝える教会は建てられないでしょう。ただ個々人の常識を信じ、力を信じるだけの教会は、決して主イエスの教会ではありません。わたしたちは自分の限界を知り、打ち砕かれる体験をして初めて直に神の恵みのすばらしさを受け入れるようになるのです。

神の霊は、聖霊、御霊とも言いますが、それは風を意味する言葉です。それは神の本質を表します。しかし、神の本質は私たち人間には測り知られないものです。聖霊降臨日とはペンテコステと呼ばれます。それは過越しの祭から50日目を表すギリシャ語です。主イエスが十字架にお掛かりになったその時も過越しの祭でありました。そして、もう一つのユダヤ教の祭が五旬祭というもう一つのユダヤの祭りでした。それは春の収穫の恵みを感謝する祭でありました。

主イエスに従う者たちは集まって祈り、待っていました。上からの力が与えられるのを待っていたのです。その時、新しい日は、風のような天からの音の噴出によって始まりました。最初は音だけを聞いたのでしたが、次に目に見えるものが現れました。それは、炎のような舌であります。舌とは何でしょう。英語でもそうですが、ギリシャ語でも、舌は同時に言語、言葉を表します。「炎のような舌」とは、5節以下に表現されているように、天下のあらゆる国の人々が使っているさまざまな言語を表しているのでしょう。一か国語ではなく、万国に神の恵み伝えるための万国の言語であります。

創世記8章には有名なバベルの塔の物語があります。かつて人間同士の言葉が通じなくなったのは、人間の傲慢に対する神の懲罰であったと言われています。しかし、この時、神はその懲罰を祝福に変えられました。人は互いに言葉が通じない、心が通じないために、ちりぢりバラバラにされてしまったのでありました。しかし、この人々を一つの祝福に入らせるために、神は主の福音を宣べ伝える使徒たちに各種の国語を語らせました。ここに集まっているのは、天下のあらゆる国々に散らされていたユダヤ人たち。彼らは他国で生まれ育った人々でした。

実にユダヤ人の国は何百年にもわたって、戦争に次ぐ戦争によって荒れ果て、その度に人々は他国に寄留する者とされたのでした。その苦難の歴史の中で彼らがどうして生きて行ったのか、それは奇跡としか言いようがないことです。中には、弱小国の民であることを捨てて、エジプトや、ペルシャや、マケドニア、ギリシャ、ローマに住み着き、地元の神々を拝み、自分たちのルーツを失ってしまった人々もいたかもしれません。しかし、しかし、他方では自分たちがアブラハムによって神の民とされた子孫であることを忘れない人々も全世界に散らばって存在していました。そして一方では、異なる国の言語を話し、異なる国の住民、市民でありながら、他方では、イスラエルの神を真の唯一の神として礼拝するために、ユダヤ教の祭にはエルサレムに集まって来るのを常としていたのです。そして、出エジプトの時も、それ以前も、このイスラエル人が神の許に帰って来る時には、その群れの中に異邦人たちもいたのでした。

今、大勢のユダヤ人と異教徒も含む全世界の人々がエルサレムに集まるこの祭りの時に、主はその霊を弟子たちに注いでくださいました。聖霊は、教会が福音を持って「民衆の場へ出て行く」力であり、教会に民衆をひきつける力であります。聖霊は教会に聞く価値のあることを語らしめる力を与えているのです。この霊の力こそが福音を宣べ伝えることを可能にします。その一方では、福音を宣べ伝えることは、人々に疑問を抱かせたり、戸惑いや嘲りとを呼び起こします。聖霊の力を受けて人々が力強く福音を宣べ伝え始めました。すると、そこには信じる者が起こされます。と同時に、意地悪くあざけっている人々が現れます。また真剣に尋ねている人々も現れます。このことの繰り返しが、最初の教会から始まっているのが分かります。決して一喜一憂すべきではありません。教会の働きは、すべて聖霊の力にかかっているのですから。

五旬祭、収穫の恵みの初穂をささげるこの日に、聖霊の恵みが人々にもたらされたことは大変大きな意味を表しています。旧約聖書では、聖霊が降ってくださるということは、神の預言が成就することを意味していました。それに対して新約聖書では、聖霊が来てくださるということは、復活の主・イエス・キリストの約束なさった救いの御業が、ここに完成したことを意味するのです。

神の驚くべき慈愛はここに輝き渡りました。では、この奇跡は何のために、だれのためになされたのでしょうか。これは皆、神の、わたしたちへの愛のためになされたことなのです。ところで、燃える炎のような舌、という表現の炎とは何を指し示すのでしょうか。使徒たちは元々、ただの人間、弱さと欠点を持った人間に過ぎません。しかし、彼らの上に聖霊の助けが降ったのは、彼らが全く新しい者として用いられるためです。ですから、彼ら、使徒、宣教者たちの声の中に、神の尊い力が示されることを、決して疑ってはならないのです。彼らの声、彼らが語った福音は、聖霊の臨在を証明するしるしでありました。このしるしは、わたしたちを真理に与らせるために、真理を示すのです。わたしたちの感覚によって理解できるように示しているのです。

主は彼らの語る神の偉大な業をほめたたえる言葉を、その声によって、人々の心を燃え立たせようとしておられます。ですから、彼らの言葉は、この世の虚栄を焼き尽くし、すべてのものを清め、一新するために燃える火に他なりません。使徒たちの教えは空気中で雷鳴のように鳴り響いたのではありません。そうではなくて、それらは人々の心に奥にまで入り込みました。心を天の熱い思いによって満たしたのです。そして、この力は、2000年前の使徒たちだけに与えられたのではありません。そうではなくて、今も日ごとに全世界の教会で証明されているのであります。

後に活躍することになる使徒パウロも5つの言葉で話すことができたと言われていますが、これを彼は勉学によって行ったのではなく、聖霊によって与えられたと言われています。これらの異なる言葉が用いられる目的は、もちろん、多くの異邦人に理解できるようにという配慮です。パウロは、ギリシャ人にはギリシャ語を、イタリア人にはラテン語を話したほど、言葉の多様さと理解力とを授かっていたからこそ、聴衆との真のふれあいが出来ていたのだと分かるのです。

ここに、離散していたユダヤ人たちの出身となる国々、地方の名前が並べられています。東はペルシャからカスピ海、南はアラビア、エジプトといった当時のほとんど全世界とも言える地方が書かれています。ユダヤ人は離散し、ほとんど全く滅ぼされたかのように見えるが、異国に在っても彼らの間に信仰の一致を保持したのは、神の奇跡であります。「ユダヤ人もいれば、ユダヤ教への改宗者もおり、クレタ、アラビアから来た者もいるのに、彼らが私たちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは。」ここには二つの驚きが語られています。その一つは、最初の教会を形成した使徒たちが、実はガリラヤの無学な田舎出身者ばかりであったことでした。そしてもう一つは、それなのに彼らは、大勢の人々の前で一斉に異なった言葉の人々に理解できるように神の偉大な御業を語り出したことでした。ある者はラテン語を、ある者はギリシャ語を、他の者はアラビア語を話したと思われます。これこそ神の素晴らしい奇跡の御業ではなかったでしょうか。

わたしたちは、昨年、カンボジア伝道に召命を受けておられる今村宣教師ご夫妻をお招きして礼拝を守り、宣教活動を伺いましたが、やはり伝道をするために第一に取り組むことはその地方の人々の言語を学ぶことなのだと教えられ、感銘を新たにしました。明治の初めに日本に宣教した人々の傾けた努力もどんなであったことかと思います。しかし、改めて思いますことは、それは人々の努力によらず、聖霊の力強い助けによって遂げられたことです。聖霊は、主イエスの上には鳩のように降ってくださったと言われます。その姿はキリストの執り成しの職務を表すものであったでしょう。キリストはわたしたちの平和であります。キリストによって一つとされるところにこそ、平和が打ち建てられるのです。

わたしたちの努力では到底成し遂げられない、気の遠くなるような働きを、主は成し遂げてくださったのですから、わたしたちの努力すべきことはただ一つだけです。それは、キリストの執り成しに頼り、キリストに結ばれて平和を求めることです。家庭で。またそれぞれのいるところで。それぞれが与えられているこの地上の持ち場で。しっかりと主に結ばれて生きましょう。わたしたちの上に聖霊の助けを待ち望みましょう。炎のような舌に表される聖霊は、主の愛の炎です。わたしたちの汚れを清め、救いの福音を、神の賛美をこの唇に与えてくださる主の霊を待ち望みましょう。

ヨエル書は、打ちのめされた人々に神の救いを語ります。この救いは食い尽くすいなごからの解放。命を支える食糧をたちまち食い尽くすイナゴの大襲来からの解放に匹敵する救いなのです。この救いをあなたがたの子孫に語り伝えよとヨエルは叫びます。そのように、わたしたちにも主は命じておられるのではありませんか。神が主イエスの生涯と死と復活を通してなしとげてくださった神の力強い御業を彼らに語りなさい、と。

 

主なる父なる神様

聖霊降臨日の礼拝、あなたの尊き御業が成し遂げられたことを感謝します。わたしたちは、2000年前、主に従う民にあなたは主の霊をお遣わしくださいました。弱い者も力ない者も共に主の体の教会の肢とされ、あなたの霊で燃え立たせていただいたことを感謝します。多くの者にどのようにして救いの恵みを宣べ伝えることができるのか、それぞれの時代、それぞれの地方で、困難がございました。今、わたしたちに与えられている課題は少子高齢化の社会の課題です。しかし、あなたはいつでもどこでもあなたに信頼し、従う教会を助けてくださいました。わたしたちは自分の力を頼らず、あなたの恵みにより頼みます。どうぞ、わたしたちを用いて力強い御業を行ってください。この教会に新しい教師を遣わしてくださることを信じます。わたしたちに善き備えをする知恵をお与えください。

また、本日行われます東日本連合長老会教会会議の上に御心を行ってください。

この教会を今日まで守り導きくださったあなたの慈しみに感謝します。本当に小さな信仰しかない者をも憐れみ助けてくださいました。わたしたちは将来を見通すことはできませんが、これまでの歩みを振り返る時、たくさんの慎ましく美しい証しを残してくださった兄弟姉妹がいることを誇りに思います。あなたの恵みの足跡です。先週も江村姉の最愛のご家族が地上の生涯を終え、安らかな眠りについたことを伺いました。どうかご遺族の上に豊かな慰めと平安をお与えください。また今週26日に行われます焦 凝兄の結婚式に主の豊かな祝福を注いでください。あなたの恵みによってご家庭が導かれますように。

イエス・キリストの名によって

聖書:詩編1182225節, 使徒言行録3110節,41012

 今年も恵まれてイースターの礼拝を守ることができました。主イエスのお墓はからっぽだった。このことによって弟子たちは、自分たちの罪が赦されたことを信じたのでした。それだけではありません。主イエスの復活という奇跡は、神が、差し出しておられる救いへの招きであります。主イエスの復活を信じるなら、その人の罪を赦されると、信じたのでした。私たちは礼拝の中で、世界中の教会が代々信じて来た信仰とは何かを学んでいます。それは古代教会から今に至るまで教会が受け継いで来た信仰告白で、それに基づいて明治時代に制定された日本基督教会信仰告白があり、また日本基督教団信仰告白も制定されております。

わたしたちの教会は洗礼式の際には日本基督教団信仰告白を告白しますが、1954年に制定された教団信仰告白の元になっているものが日本基督教会信仰告白なので、元々連合長老会に所属している教会では、この信仰告白を合わせて告白しているところもあります。

わたしたちが今取り上げて学んでいるのは、使徒信条です。本日は、「我らの主イエス・キリストを信ず」と告白している、このところであります。この言葉は、教会の中ではイエスが名前でキリストが名字だと思っている方はいないと思いますが、世の中ではそういう誤解もあるそうです。

これは、イエス様は救い主キリストであると、私たちは信じ、主と崇めます、という意味であります。世の中にはたくさんの宗教があり、たくさんの神々と称するものがありますが、そのことを受け入れているのではありません。他の人々はどうであろうとも、私たちはイエス様こそ、救い主。私たちを救う御力のあるただお一人の方、神であると告白しているのです。今日の聖書はよく知られた神殿の前で起こった奇跡物語です。

この神殿を立てたのはヘロデ大王。マタイ福音書の2章に登場する異邦人の支配者であります。彼は壮大な神殿を建てましたが、その入り口の一つに「美しい門」という名の場所がありました。大層豪華で美しい装飾で飾られた門は当時の人々の目を奪ったことでしょう。ところがその入り口には一人の乞食が座っていました。境内に入る人々に施しを求めて生活をしていたのでしょう。美しい門とみすぼらしい乞食。それは全く不釣合と思うかもしれませんが、実はそうではないのです。神殿が豪華であろうと質素であろうと、ユダヤの人々には神殿に来る目的は別にありました。

それは言うまでもなく、神を礼拝することです。では、復活の主にお会いし、主イエスはキリストであると信じた人々はどうしたでしょう。彼らもユダヤ人でした。主イエスを十字架に付けたのもユダヤ人。主イエスの復活を信じ、罪の赦しを信じた最初の弟子たちもユダヤ人でありました。では弟子たちは、主イエスを十字架に付けた憎き人々の指導する、仕える神殿には行かなくなったのか、と言えば、決してそうではありませんでした。彼らは家に集まって主を賛美し、パンを裂き、主の制定された聖餐を守ったことでしょう。しかし、彼らがこれまでしていたことを止めませんでした。それは毎日2回か3回、神殿に出かけて行ってこれまで通り、礼拝を守ることでした。

そういうわけで、ペトロとヨハネは神殿の美しの門を入ろうとしました。すると物乞いをしている人が目に留まりました。この人の方は、毎日大勢の人々が出入りするので、一人一人を見上げたりしなかったでしょう。ただ下を向いてお願いして居れば、中にはお金を落とす人がいる。それで良かったのです。彼はそれ以上、だれにも何も期待してはいなかったでしょう。

ところが、ペトロとヨハネは彼をじっと見て、「私たちを見なさい」と言いました。その人はびっくりしたでしょう。でも彼は自分が人に期待していること以外のことは考えませんでした。期待していること。それは、何かもらえることです。ところが彼の期待は裏切られました。しかし、彼の期待を全く打ち破ることが起こったのです。ペトロは言います。「わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう」と。弟子たちの持っているもの。それは主イエスのお名前でした。イエス・キリストへの信仰でした。

金銀を持っている人々は、そうだれにでも分けて上げたいとは思わないものです。分けたらなくなってしまうと心配します。どこかに隠してでも取って置こうとします。食べ物でも沢山あったら、みんなに分けてしまわないで、何とか保存食にして取って置こうとするでしょう。ところが本当に良いものを持っている人は分け与えずにはいられない。本当に良いもの。それは、人に分けても無くならないのです。むしろますます豊かになります。それは何でしょうか。それがイエス・キリストの福音です。ペトロが持っているものは、しまいこんでおくことができないもの・・・それは福音です。福音は人から人へと伝えられてこそ福音である。福音は人々に伝えてこそ、その本当の意味、本当の力が現れるのです。

ペトロは彼が持っている福音を言葉によって、この人に伝えました。「ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」と命令したのです。この命令は、決してペトロ自身の力や権威によって命じたのではありません。彼は、ナザレの人であり、私たちの救い主である主イエスの名を呼んで、その名を信じて、その名によって命じたのでした。言葉は力となり、結果を生み出します。それだからこそ、主イエスの力と権威は、命じられた人の上に現れることとなったのです。そして、右手を取って彼を立ち上がらせた。すると、たちまち、その男は足やくるぶしがしっかりして、躍り上がって立ち、歩き出しました。そして、歩き回ったり躍ったりして神を賛美し、二人と一緒に境内に入って行ったのです。

こうして、乞食の期待は全く裏切られました。彼はただいくらかの施しを求めただけだったのですが、思いがけないもの、立ち上がって、歩く力を与えられるという、全く信じられないほどの主の恵みに与ることになりました。「立ち上がる」というギリシャ語は、座っている状態から立ち上がるという意味ばかりではありません。人が眠っている状態から「起き上がる」、あるいは死んでいる状態から」「甦る」という意味をも表します。また「歩く」というギリシャ語は、「生活する」、「生きて行く」という意味でもあります。

エフェソの信徒への手紙5章14節(358ページ)に次のように言われます。「眠りについている者、起きよ。死者の中から立ち上がれ。そうすれば、キリストはあなたを照らされる。」キリストの御名によって、私たちは死者の中からキリストと共に復活したのです。これからもキリストに照らされて恵みの道を歩みましょう。

何年も前から「美しい門」にいるこの足の不自由な乞食は人々に知られていました。人々が驚き怪しむ中で、彼は今やすべての参拝者の中で、一番喜びにあふれた人となったことでしょう。こうして、この出来事は証言したのです。救い主イエスの御名が真に権威あるものであることを、だれの目にも明らかなように証言するものとなりました。

福音を聞いた人々の一方は、他方に向かって呼びかけます。「ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」と。すると呼びかけられた人は立ち上がり、歩き回ったり、躍ったりして神を賛美するのです。素晴らしいことではないでしょうか。主イエスの名によって立ち上がる。そして神を賛美する。そのために私たちは教会に集まるのです。さて、私たちは今喜んで神様を賛美しているでしょうか。イエス・キリストの救いを自分だけのものにしておくことができずに、他の人に呼びかけずにはいられない人でしょうか。神の不思議な業としるしとは、このような人々の間に現れるでしょう。どちらも主イエスの御名の権威を証ししているからです。そしてこのような私たちが教会の門の内側に入って主イエスの名によって教会を建てることができるのです。

しかし、私たちはしばしば福音を忘れてしまう者ではないでしょうか。門の前に座りながら、入って行くことを忘れてしまっている。神様に溢れる恵みをいただきながら、感謝と賛美と祈りのために教会に集まることを忘れてしまう。神様の恵みを忘れてしまう恩知らずの罪深い者である私たち。しかし、だからこそ、福音はいつも繰り返し聞かなければならないのです。主イエスの名によって語られる罪の赦しの言葉を新たに聞いて立ち上がって行かなければならないのです。

小さなたとえ話をしましょう。これは古代教会の神学者が語ったものではないかと思いますが、今は覚えていません。世界という名の一人の乞食がいました。その名は「世界」というのです。彼が天の国の門の前に横たわっている。それを神さまは見ました。ところで、神様にはご自分の中に隠してしまっておくことのできないものがありました。それは御自分の命と愛でありました。世界という名の乞食はただ施しと冷たい飲みものを求めました。しかし、神さまは御自分の愛する御子を彼にお与えになりました。御子は人が従うべき真の人、人が求めるべき命でありました。御子は世界の萎えた身体の内に住んでくださいました。そして、世界が再び歩き、飛び跳ね、賛美できるようにして下さいました。それは、イエス・キリストの物語であります

ところで、イエス・キリストの名によって癒された人のことでペトロたちは非難中傷されました。しかしこのような迫害も、神様はキリストの名を高めるためにお用いになってくださることが分かります。ペトロは公の場で宣言する機会を与えられたからです。4章10節。「あなたがたもイスラエルの民全体も知っていただきたい。この人が良くなって、皆さんの前に立っているのは、あなたがたが十字架につけて殺し、神が死者の中から復活させられたあのナザレの人、イエス・キリストの名によるものです。」ペトロはさらに詩編118編を根拠として、人間の罪、特に人の上に立って人々を導いている指導者の罪を告発しました。

「家を建てる者の退けた石が隅の親石となった。これは主の御業、わたしたちの目には驚くべきこと。今日こそ主の御業の日。今日を喜び祝い、喜び躍ろう。どうか主よ、わたしたちに救いを。どうか主よ、わたしたちに栄えを。」ペトロは人間の罪と神の恵みを恐ろしいまでに対比させています。「あなたがたはイエス様を殺したのだ。しかし、神さまはその方を復活させられたのだ」と。すなわち、人間が価値のないものとして軽蔑して捨てた方を、神さまが用いられるということが起こりました。隅の親石とは、建物が建てられる時の、最も端にある土台の石のことであります。隅というのは、大変不思議な二つの特徴があります。まず、建物の隅といえば、目立たない場所ですが、逆に建物の外から隅を見ると、いろいろな方向からよく目立ち、建物の根幹を支える要の石がそこに置かれているのです。

では主が隅の親石となって下さる目的は何でしょうか。それは、わたしたちがキリストを信じて、キリストの体の教会に組み込まれ、教会の生ける石となるためである。「私たちを救うことができるのは、イエス・キリストの御名によるしかない」という宣言を私たちは聞きました。代々の教会はこのお名前を信じ、告白しているのです。私たちはこのような確信をもって、信頼を以って、日々、主を見上げているでしょうか。この告白において、ペトロや使徒たちと同じ立場に立っているでしょうか。そうでないか、ここが私たちの決定的な違いとなる。この告白によってのみ、私たちはイエス・キリストの教会を建てることができる。

 

主なる父なる神様

皆をほめたたえます。先週はイースター聖餐礼拝を豊かに守ることができ、感謝でございます。私たちは新しい姉妹を教会に迎えることができました。どうかあなたの祝福に満ちた教会を建てるために、互いに主の御旨を行い、ご栄光を表す教会となりますように。教会総会をまじかに控え、様々な問題を解決していくことができますように。多くの兄弟姉妹が高齢のため、奉仕を続けることが困難です。若い方々も非常に忙しく困難を極めていますが、どうか助け合って礼拝を守り、奉仕を捧げ、あなたのご栄光と御心とを表す教会となりますように。総会の準備を祝し、また導いてください。長老選挙の上にあなたの恵みの導きを祈ります。長老、信徒の皆様のご健康をお支えください。教会学校はじめ、若い方々の信仰の教育が発展し、良い実を結ぶ教会となりますように。教会学校に与えられている生徒さんとご家族がイエス・キリストの福音を豊かに聞くことができますように。

東日本連合長老会に加盟して5年になります。この間のお導きを心から感謝します。長老会もますます忙しくなりますですが、どうか長老ばかりでなくすべての教会の奉仕者が恵まれ、支えられますように。御言葉によって良い学びが出来、共に教会を建てて行くことができますようにお助け下さい。

今、お病気が重く、お見舞いもできない方がおられます。どうぞ、また共に集い、主の御顔を仰ぎ賛美を捧げることができますように、ご回復を切に祈ります。また特にご高齢の方々の日を平安で満たしてください。

この感謝、願い、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

天地の造り主を信じる

聖書:詩編95篇1-7節, 使徒言行録17章22-27節

 わたしたちは今日も礼拝を捧げる中で、使徒信条を告白しました。使徒信条はわたしたち一人一人の口によって唱えられますが、決してバラバラにではなく、思い思いの言葉によってでもなく、異口同音に唱えられるのであります。そして今、全国全世界の多くの教会が使徒信条を告白して礼拝を捧げている訳ですが、それも決して今に始まったことではなく、代々の教会が行って来たことなのです。そう考えるだけでも、同じ信仰告白を同時代に世界中で告白し、また時代を越えて、千年、千五百年と告白することの重大さを思わずはいられません。それは時を越え、所を越えて神に捧げられ続けている告白であります。「神さま、あなたはこういう方であると信じます」と告白することは、そのまま神への賛美となるのです。

そこで、今日は、使徒信条の最初の言葉、「我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず」のうち、「天地の造り主を信じる」とは、どういうことなのかを学ぶために、使徒言行録17章を読んでいただきました。聖書のこの場面は使徒パウロがアテネで行った伝道について伝えています。アテネはギリシャ文明の栄えた中心都市で、ソクラテス、プラトン、アリストテレスなど、古代から哲学、数学、化学などの学者が多数輩出し、学問が非常に栄えた所です。

パウロが当時のアテネに行ってみると、そこに夥しい数の神々の像があることを発見しました。つまり人々はいろいろなものを神として礼拝していたわけです。その一方で、どれが本当の神なのだろうか、と考えてはいないのでした。神々というギリシャ語は聖書では悪魔と同じ、ダイモニオンと言葉なのです。日本ではディーモン小暮という芸名のタレントさんがいますが、要するにディーモンの元の言葉です。そしてアテネの人々はディーモンをそれほど悪いものと思っていませんでした。アテネ人の神々は、いと高きところにいます神のような存在と、人間との間に立っているもの、時には守護神のように考えられる存在だったようです。

人々はそのような神々を幾つも考え出し、空想の限りを尽くして、それらを像として形造り、安置して犠牲をささげました。神々には人間のあこがれ、また願望、また時には恐れが表現されていました。たとえば、美の女神、音楽、知恵から、お酒の神、戦争のなどをつかさどる神々です。そんなに沢山作っても彼らは不安であったのでしょう。「知られざる神」へという祭壇も作っていました。パウロはこの祭壇を見て、これを伝道のきっかけにしようと考えました。

なぜなら、パウロには分かったことがあったからです。アテネの人々はこんなにたくさんの偶像があるのに、まだ知らない神があると思っているのはなぜだろう。彼らは偶像を造って満足するのだが、それでも足りない不安感があるからだ。不安。それは神々を怖いと思う不安です。拝まないと祟られるのではないか。それは大きな恐れ、恐怖心となって彼らを支配しているのではないか。なぜだろうか。それは彼らが、本当の神がどのようなお方か知らないからだ、とパウロは思いました。このように、新約聖書のアテネの人々の様子を見ますと、その姿は意外なほど現代日本の人々と共通するものが見えるのではないでしょうか。

それは、たくさんの偶像に囲まれて生きていることです。お金が沢山ほしいと人々は思います。しかし実際はあればあったで、安心より心配も増えるかもしれませんが。同じように神々も沢山あれば、安心という訳には全く参りません。その神々、ディーモンの性質が分からない。だから、ディーモンが自分をどう思っているのかも分からない。従っていつ祟られるかも分からない、ということになります。あちらも拝んで、こちらも拝んで祟られないようにお付き合いしている。しかし、それで満足、安心という訳には全く行かないのであります。

そこで、パウロはアテネの人々を前にして、あなたがたは信仰のあつい人々だと思う、と話を切り出しました。この「信仰のあつい」という言葉もまた、ダイモニオンという語から成り立っています。その意味は、「神々を恐れる」ということですが、悪い意味では「迷信などを信じやすい」ということなのです。アテネに集まる知識人は自分たちの教養を大変誇りに思っていながら、その一方では、迷信にも惑わされビクビクしていたのでしょう。

パウロはその人々にはっきりと申します。「道を歩きながら、あなたがたが拝むいろいろなものを見ていると、『知られざる神に』と刻まれている祭壇さえ見つけたからです。それで、あなたがたが知らずに拝んでいるもの、それをわたしは知らせましょう。世界とその中の万物とを造られた神が、その方です。この神は天地の主ですから、手で造った神殿などにはお住みになりません。」すなわち、目に見えるものも見えないものもすべては、真の神さまによって造られました。ですから私たちは、そのすべてのものが神さまのものだということを信じるようにと、招かれたのです。

神を自分の考えで形作って拝んでも、空しく、心満たされないのです。神とはどなたかを知らなければなりません。わたしたちは天地を造られたただお一人の神を信じましょう、とパウロは呼びかけました。この方は人の造った神殿に閉じ込めることは決してできません。また、人の造った服を着せてもらったり、食べ物を食べさせてもらうために、人々にお世話される必要もありません。すべてのものが神さまのものですから。それどころか、すべての人は神さまによって命を与えられ、生きるために必要なすべてを与えられているのです。

この方を礼拝するためにはどうしたらよいのでしょうか。祟られないように、何かを捧げるというのは、神さまを恐れてはいても、信頼してはいないことになるのではないでしょうか。すべてを造りすべてを与え、すべてを守り導いておられる神を、信頼することこそ、正しい礼拝の第一歩です。神はなぜ人を造られたのか。その答は詩編102篇に歌われています。102篇19節。「後の世代のためにこのことは書き記されねばならない。『主を賛美するために民は創造された。』」939

このように恵み深い神さまを知らない、そして知ろうとも思わないために、この上なく恵み深い方が、全く正反対に思われる。この上なくケチで、気まぐれで、冷酷だ、と思ってしまう人々が何と多いことでしょうか。自分を頼って生きて行くしかない。あるいは人を信じて助けを求めるしかない。しかし、神さまの代わりになる自分はいるでしょうか。神さまの代わりになるような他人はいるでしょうか。一晩に同じ人に数百回メールを送ったとか、送られたとかいう話があります。あれをして、これをして、とひっきりなしに電話をくれる人がいます。神ならぬ人間を神のように頼れば、人間関係を破壊することになります。神を信頼しない人々の関係は、闇の中で手探りするようなものです。手の届くものは何であろうとしがみつく。その結果は、神でないものに支配されることになるのです。真の神さまを信頼できないほど不幸なことは在りません。

パウロは恵み深い一人の神を信頼しなさい、と呼びかけています。26節。「神は、一人の人からすべての民族を作り出して、地上の至るところに住まわせ、季節を決め、彼らの居住地の境界をお決めになりました。」唯一の神さまによってすべてのものが造られた、という信仰は、更に唯一の神がお造りになった一人の人からすべての民族が分かれたことを信じることでもあります。どんなに多くの民族があり、国家があり、思想信条が異なっていても、私たちが唯一の神さまによって造られたと信じる限り、人は人をないがしろにすることはできません。天地の造り主を信じるということは、他民族や他宗教に対する憎しみや無関心から、解放されることを意味します。

天地創造の初めに、すべてのものがひとつの血から造り出されたと信じることは、私たちがどこに生まれようともどこに住もうとも、常に唯一の創造者、すべての人の父である神さましかおいでにならないと信じることです。だから、この方、真の神こそ、すべての人が満場一致で求められなければならないのです。神がアブラハムを呼び出して、わたしに従って来なさいと命じられた時のことを、私たちは繰り返し思い出します。創世記12章2-3節。「わたしはあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める。祝福の源となるように。あなたを祝福する人をわたしは祝福し、あなたを呪う者をわたしは呪う。地上の氏族はすべてあなたによって祝福に入る」と神はアブラハムに言われました。(旧約15頁)

このことは、神がアブラハムの子孫の中から、救い主をお立てになられたことで実現したのであります。しかし、パウロは神を知らないアテネの人々、そしておそらく聖書も読んだことのなかったアテネの人々に対しては、何よりもまず、神が人を創造された目的を強調して教えます。今日の27節。「これは、人に神を求めさせるためであり、また、彼らが捜し求めさえすれば、神を見いだすことができるようにということなのです。実際、神はわたしたち一人一人から遠く離れてはおられません。」すべての民族、すべての造られたものが等しく神を捜し求め、追い求めることにこそ、造り主の目的があります。この方がどんなに恵み深い方、憐れみ深い方であることか。それは、罪のために全く神さまから離れ去って暗やみを手探りするように歩いているすべての人々を、救い出し、再び救いの光に招こうとする恵み深さなのです。神はそのために愛する御子を救い主としてお遣わしになりました。

この恵み深い神をほめたたえる歌を、今日は詩編の95篇に教えられました。この心、この褒め称えの歌こそ、真の神を礼拝する第一歩なのです。祈ります。

 

恵み深き天の父なる神様

本日の聖餐礼拝に招かれましたことを感謝します。御言葉によってあなたの恵み深さを知り、心を込めて御名をほめたたえます。私たちは、ただあなたの恵みによって救われました。イエス・キリストの執り成しによってあなたを信じ、あなたに罪赦され、あなたに従って平和の道を歩むことが許され、真に感謝申し上げます。どうか、この信仰の弱い者を励まし、聖霊によって強めて、今週の歩みをお導きください。たくさんの日々の困難が私たち自身にも、家族にも、友人、社会にも起こっておりますが、どうかわたしたちが主の御体に結ばれ、主から良いものすべてをいただき、また私たちから悪いものをすべて取り去っていただきますように。教会の主と結ばれて、時が良くても悪くても、福音の使者にふさわしい教会を建ててください。

成宗教会の礼拝に出席することが出来ないでいる方々にも、豊かな顧みを日々注いでください。あなたの助けによって、常に主の体の肢としてご栄光を表す者となりますように、私たちのすべてを顧みてください。連合長老会の交わりを感謝します。東日本の諸教会も少子化高齢化の中にあって、取り組むべき課題を多く与えられています。共に学び共に助け合って教会を建てて行くことが出来ますように。

来週は講壇交換の礼拝が行われます。どうか御言葉を心新たに伺い、互いに多くの励ましをいただきますよう、聖霊の神様、二つの教会を祝し、仕える長老会、教会員の方々を励ましてください。恵みの聖餐に与ります。わたしたちの救いのために差し出された犠牲を覚え、真心から感謝して受けることが出来ますように。また、福音の招きに答え、主イエス・キリストを告白する人々が教会に与えられますように。主よ、どうか日本の救いのために、世界の救いのために、それぞれの地域の教会を顧みてください。

この感謝、願い、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

教会に集められた人々

聖書:ヨエル3章1-5節, 使徒言行録2章37-42節

 私たちの教会は只今、カテキズムによって教会が受け継いで来た信仰について学んでいます。カテキズムとは信仰問答とも訳されて来ましたが、必ずしも問と答えという形式をとるものではなかったようです。カテキズムという言葉の語源はカテケーシスという「響き合う」、「再び響かせる」という意味です。古代教会の時代から、洗礼志願者が洗礼を受け、聖餐に与るために、教会が伝えて来た信仰の言葉をくり返し学ぶことが熱心に行われて来ました。私たちはキリストの福音を宣べ伝えるために、共にキリストの救いの秘儀と信仰を伝え、共に救いに招かれていることを、繰り返し心に響き合いたいと思います。

さて、先週の新年礼拝では、「幸いな人」と題して、イエス・キリストの教えの一つ、山上の説教について学びました。主イエスは私たちに何を教えてくださったのでしょうか。それはこの世のことに忙殺され、目をくらまされ、この世の幸福と不幸を押しつけられて生きている人々には、――そして私たちもその中で苦しむことがしばしば、なのですが――驚くばかりの、そして信じがたい教えでありました。なぜなら、私たちを圧倒している価値観は、「豊かな人は幸いであり、喜んでいる人は幸いであり、あらゆる能力を発揮して人々を支配する人は幸いである」というものだからです。そしてそのような幸いを追い求める結果、身近なところから、全世界の隅々まで、不幸の種は尽きず、戦争の火種はつきません。

だから、それを見れば分かるのではないでしょうか。私たちの世界で通用している価値観がどれだけ間違っているかが。そして主イエスが教えられたことが、どんなに私たちにはそうは思えなくても、真に正しいのだと。キリストは神の御心を私たちに教えておられるのだと。神の御心は、私たちを御自身の国に招くことであると。神から遠く離れていた私たちを御自身の救いに招くことであると。神に造られた私たちであるのに、造り主を知らない私たち。人間は神に似る者として造られました。神の似姿に造られたのです。それなのに、神から離れ、神に背を向けて生きている人間は皆、罪人であります。

その人間を罪から解放するために、救い主は世に遣わされました。この方の贖いによって私たちの罪が赦されるためです。このようにまでして、罪人を愛しておられる神がおられる。キリストはこのことを知らせてくださいました。この愛の神を信じることが、どんなに幸いなことであるか。この神を、この愛を信じきって、神にすべてを委ね切って、神に従う人だけが、本当に幸いな人なのです。その人はだれでしょうか。それは主イエス御自身ではないでしょうか。主は本当に神の御心をご存じでした。主こそは本当に神を愛し、人を愛して愛し抜かれた方でした。

さて、今日の聖書は主イエスの弟子、ペトロが語った説教です。これはペンテコステの日、すなわち聖霊が弟子たちの上に降った日の説教です。主イエスは山上の説教をはじめ、たくさんの教えを下さり、その教えが真実であることを奇跡の御業で示してくださいました。しかし、弟子のうち、だれ一人として最後まで主イエスに従い切った人はいなかったのでした。皆、十字架に付けられた主から逃げ去ってしまいました。このことは、人間の力では、だれも主に従うことが出来なかったことを表しています。

しかし、十字架に死に三日目に甦った主イエスは、弟子たちを愛して、彼らに御自身を現してくださったのでした。では、弟子たちが本当に主イエスを神の子と、救い主と信じる者、本当に従う者となったのは、いつでしょうか。それは、ペンテコステの日、すなわち、聖霊が弟子たちの上に降った時だったのです。

人々はその時、弟子たちが言葉の壁を超えて神の偉大な業をほめたたえるのを聞きました。その時ペトロは立ち上がって旧約の預言書ヨエルの言葉を語り始めます。預言の言葉が実現したのだと。今日読んでいただいたヨエル3章1-5節です。「その後、わたしはすべての人にわが霊を注ぐ。あなたたちの息子や娘は預言し、老人は夢を見、若者は幻を見る。その日、わたしは奴隷となっている男女にもわが霊を注ぐ。天と地に、しるしを示す。それは、血と火と煙の柱である。主の日、大いなる恐るべき日が来る前に、太陽は闇に、月は血に変わる。しかし、主の御名を呼ぶ者は皆、救われる。主が言われたように、シオンの山、エルサレムには逃れ場があり、主が呼ばれる残りの者はそこにいる。」1425頁。

聖霊の奇跡の御業は、言語の壁を乗り越えることばかりではありませんでした。聖霊は頑なな人々の心を打ち砕いて、ペトロの教えに耳を傾けさせたのです。だからこそ「人々はこれを聞いて大いに心を打たれ、ペトロとほかの使徒たちに、『兄弟たち、わたしたちはどうしたらよいのですか』と言ったのです。これこそ、悔い改めの始まりでした。なぜなら、ペトロが「ナザレの人イエスこそ、神から遣わされた方です」と宣言し、「あなたがたは、この方を十字架に付けて殺してしまった」と追及したからです。しかし最後に、「神はあなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです」と証ししました。聞いていた人々は、自らの間違い、不幸に胸を突き刺されました。そして彼らは神への恐れに満たされたのです。それは、悔い改めの始まりであり、聞いていた人々に福音が訪れた瞬間でした。

ペトロは言います。「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます」と。悔い改めとは、何よりも人が心において新たにされることです。ローマ12章2節「あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかを弁えるようになりなさい。」291下。主に教えられ、主に従って、今までとは全く別人のように心新たにされたい人を、神は決して拒まれません。主イエスはまた、「門をたたきなさい、そうすれば、開かれる」(ルカ11章9節)と約束しておられます。

人々の言葉「わたしたちはどうしたらよいのですか」は、直ちに神に服従する彼らの志を意味します。一方では、聖霊が教えるものに神のご意志を与え、他方では聞く者に悔い改めを起こしてくださる。どちらにも聖霊の御業が働いているのです。福音の訪れの第一歩は、ペトロが人々に自らの罪に思い至らせ悔い改めを促したことです。しかし、それと同時にペトロは人々に罪の赦しの確信を与えました。罪を知らされただけでは救われる希望はありません。ですから罪の赦しがキリストによって備えられていると、ペトロは語りました。それによって伝道者は罪人を正しい道に立ち帰らせることが出来たのです。

ですから、悔い改めと赦しは、主イエス・キリストの名によって宣べ伝えられなければなりません。私たちのために死んでくださったキリストの死に、私たちも結ばれなければ、私たちは神と和解することが出来ない。すなわち、キリストの復活の命に結ばれることはできません。このことが教えられ、受け入れられる時、信じる者には、バプテスマを受けることが勧められます。バプテスマは救いの恵みを約束する保証であります。

そうすれば、賜物として聖霊を受けると、人々は教えられました。聖霊の恵みはイエス・キリストが天に在って父と共に私たちに与えられる賜物です。聖霊によって、私たちは心に信じていることを真心から告白することが出来るのです。聖霊によって私たちに賜物が与えられます。また聖霊によって私たちはサタンとこの世の誘惑や脅しに対して立ち向かうことが出来、勝利することが出来るのです。

このようにわたしたちは溢れるばかりの救いの恵みを受けるのですから、家族、友人、社会のあらゆる人々が、主イエスの福音を聞くことが出来るように、悔い改めに至り、罪の赦しの確信を得て、キリストを救い主と信じて、神に従う者としてバプテスマを受けることが出来るように、日々祈りを篤くしようではありませんか。「この約束は、あなたがたにも、あなたがたの子どもにも、遠くにいるすべての人にも、つまり、わたしたちの神である主が招いてくださる者ならだれにでも、与えられているものなのです」と宣言されているからです。

ペトロは、力強く証しをし、「邪悪なこの時代から救われなさい」と勧めました。この勧めも、私たちはしっかりと心に留めなければなりません。神の愛を信じる者の一番の困難は、キリストに敵対する人々、また神に背いている者が絶えず仕掛けて来る有形無形の攻撃なのです。ペトロはこういう危険から離れることを命じました。私たちにも警戒が必要です。私たちが世に在って生きることは、邪悪な人々に従うか、それとも、善良な人々と共に神に従うか、という選択をしながら生きることなのですから。

ペンテコステの日、ペトロの初めての教えを受け入れた人々は洗礼を受け、その日に三千人ほどが仲間に加わったということです。ここに聖霊の御支配により教会が始まりました。福音はイエス・キリストによる恵みの救いです。この主の死につながれ、主の命に結ばれ、主イエスが例えられたように、真のぶどうの木に接ぎ木された人々が教会であります。教会と訳されたギリシャ語エクレシアとは、元々は呼び集められた人々、のことでありました。招集された議会のことです。

それでは最初の教会、キリストに呼び集められた人々は何をしたでしょうか。そのことが、2章42節に書かれています。「彼らは、使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった。」最初の教会は、自分たちの信仰を確かなものにするために役立つことを絶えず熱心に努力することでありました。説教者の教えを聞きました。なぜなら、教会の魂がここにあるからです。神の御子が使徒たちを通して与えてくださった教えがあるからです。人々は教えを聞いて自分たちの生活に役立たせることに努めました。

次に信徒同士熱心に交わりをし、共にパンを裂いたとあります。パンを裂いたのは、一緒に食事をしたということよりもむしろ、聖餐式を執り行って主の体の教会を建てていることを意味します。信徒同士の交わりは、教えを聞いている結果、起こっていることです。共に集まっているところに、キリストを通して祈りの扉が開かれるのです。ここでは当然のことながら、共通の信仰の告白も整えられて行ったことでしょう。最初の告白は、「イエスは主である」という短いものであったそうです。それを皆で唱える。そして皆で祈るのです。もし皆が共に祈るために集まらないとしたら、一人一人が特に自分の家の中で祈りを捧げても、それは十分であるとは言えないのです。

今日の聖書から、私たちは教会にはどのような人々が集まって、何をしていたかを学びました。それは二千年経った今日の教会と変りありません。建物とか、規模とか、言葉とか、讃美歌とか、そういうことを別にすれば、変わりないのです。なぜなら私たちもまた真の教会を建てることを目指しているからです。真の教会のしるしとは何でしょうか。少なくとも、そこには、教え、聖餐、交わり、祈りがなければなりません。それは、共に集まり、教えを受け、聖餐に与り、主に在る交わりの中で祈る教会です。

わたしたちは今、厳しい時代にいると言わなければなりません。教会に集まることが難しくなかった時代と比べているからですが、子どもたちや若い世代が大勢いた平和な時代がありました。家が狭いので、日曜日は親が子供たちを教会に追い出してくれ、教会は溢れるばかりでした。また、大人も日曜日は休みという職業も多かったのではないでしょうか。今は介護、養護、病院、など24時間、365日の交代勤務。休日があってないような仕事も増えました。高齢者が出来なくなった仕事を下の世代が担って行く。本当にゆとりのない時代。しかしそういう時代でも教会は続いて行きます。それは、「続いて行かなければならない」という義務ではなく、たとえ私たちには非常に困難でも、主が続けてくださるからです。集まることが困難な人々が増える度に、私たちは改めて思います。主に在る交わりの尊さを。互いに祈り合うのは、主が私たちを恵みによって集めてくださったからです。主が大切に思ってくださる兄弟姉妹だから私たちもそう思うのは当然です。私たちは弱い。しかし、主は私たちを励まして聖霊の助けによって支えておられます。私たちは困難の中にこそ、主が幸いだと言ってくださる教会の交わりの喜びが生れているのを感じるのではないでしょうか。祈ります。

 

恵み深き主イエス・キリストの父なる神様

本日の礼拝を感謝し、あなたの尊き御名をほめたたえます。今日も私たちを呼び集めて下さり、恵みの礼拝に与りましたことを感謝いたします。真の教会の姿を、私たちは追い求めながら、日々困難と向き合っています。しかし、あなたが私たちに御言葉を聴き、交わりを持ち、祈りをささげる教会としてくださいました。どうか、今、力弱くなっている方々をお支えください。共に御前に出ることが出来ますように。また、どうか、私たちに与えられた福音を後の時代にも伝えるために、この教会を用いてくださいますように祈ります。成宗教会が東日本連合長老会に加盟して以来、共に学び合い、助け合って歩んでいる諸教会を覚え感謝いたします。小金井西ノ台教会の引退教師の青戸歌子先生が召されました。残された青戸宏史先生の上に慰めが豊かにございますように。

本日は今年最初の長老会を開きます。この教会、また東日本の教会の諸行事を通して、また長老、信徒の方々を通して、主の恵みの御業が現れますように、生かし用いてください。特に少子化の時代に教会を建てようと、連合長老会のみならず、教区、教団、更には他の教派との間にも協力が生れていると聞きます。主よ、どうか心を低くして共に祈るこれらの働きを祝福して下さい。

今、病気やお怪我のため、療養しておられる兄弟姉妹を特に顧み、またご家族を祝して下さい。癒しの御手を祈り求めます。

この感謝と願いとを、尊き主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

送り出す教会

説教要旨

牧師:今村裕三 師

聖書:使徒13章1節から3節

この聖書箇所はパウロたちを宣教師として送り出すアンテオケ教会の姿が描かれています。アンテオケ教会は世界宣教に大きな貢献をした教会です。そのお陰で私たちにも福音が届けられたと言っても過言ではないでしょう。

 

1.アンテオケ教会の姿(1節)

(1) アンテオケ教会のはじまり(使徒11章19節から26節)

非ユダヤ人による宣教から始まり、多くの非ユダヤ人が救われた教会。

(2) 多国籍・多民族の国際的な教会であった。

人種や文化、生活背景が違う人たちの集まりでしたが、その多様性の中に一致を持っていました。

 

2.宣教は神の働きである。(2節)

(1) 主の御心を見極めること。

世界宣教は神様の働きであり、その働きに参加していくことが御心と見極める。「本当に、このことが神の私たちの教会への御心であるか?」

(2) 神様の召しに教会は従うか? 御霊による一致。

御霊の一致により教会の5人のリーダーうちの2人を気前よく世界宣教のために送り出しました。御心に従っていった姿。人間的な知恵や方策によらない御霊による一致は大きな信仰と力を教会に与えます。

 

3.教会の働きとしての宣教師派遣(3節)

パウロとバルナバを教会から按手を持って送り出すことで、教会の働きとして神様の働きに加わっていきました。

 

◎ 振り返りの質問

1.皆さんの教会で、もし多様性のなかの一致を妨げているものがあるとするとそれは何でしょうか?

2.神様の宣教の働きにこれからどのように関わっていきたいですか?2018年の具体的な計画を立ててください。(例)祈る、外国語を学ぶ、宣教地訪問をする、献金を捧げるなど。

3.私たちが神様の働きのために気前よくなれない原因は何でしょうか?