キリストの名によって

主日礼拝

齋藤 正 牧師

《賛美歌》

讃美歌7番
讃美歌332番
讃美歌500番

《聖書箇所》

旧約聖書:詩編 9編2-11節 (旧約聖書840ページ)

9:2 わたしは心を尽くして主に感謝をささげ/驚くべき御業をすべて語り伝えよう。
9:3 いと高き神よ、わたしは喜び、誇り/御名をほめ歌おう。
9:4 御顔を向けられて敵は退き/倒れて、滅び去った。
9:5 あなたは御座に就き、正しく裁き/わたしの訴えを取り上げて裁いてくださる。
9:6 異邦の民を叱咤し、逆らう者を滅ぼし/その名を世々限りなく消し去られる。
9:7 敵はすべて滅び、永遠の廃虚が残り/あなたに滅ぼされた町々の記憶も消え去った。
9:8 主は裁きのために御座を固く据え/とこしえに御座に着いておられる。
9:9 御自ら世界を正しく治め/国々の民を公平に裁かれる。
9:10 虐げられている人に/主が砦の塔となってくださるように/苦難の時の砦の塔となってくださるように。
9:11 主よ、御名を知る人はあなたに依り頼む。あなたを尋ね求める人は見捨てられることがない。

新約聖書:使徒言行録 3章1-10節 (新約聖書217ページ)

◆ペトロ、足の不自由な男をいやす
3:1 ペトロとヨハネが、午後三時の祈りの時に神殿に上って行った。
3:2 すると、生まれながら足の不自由な男が運ばれて来た。神殿の境内に入る人に施しを乞うため、毎日「美しい門」という神殿の門のそばに置いてもらっていたのである。
3:3 彼はペトロとヨハネが境内に入ろうとするのを見て、施しを乞うた。
3:4 ペトロはヨハネと一緒に彼をじっと見て、「わたしたちを見なさい」と言った。
3:5 その男が、何かもらえると思って二人を見つめていると、
3:6 ペトロは言った。「わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」
3:7 そして、右手を取って彼を立ち上がらせた。すると、たちまち、その男は足やくるぶしがしっかりして、
3:8 躍り上がって立ち、歩きだした。そして、歩き回ったり躍ったりして神を賛美し、二人と一緒に境内に入って行った。
3:9 民衆は皆、彼が歩き回り、神を賛美しているのを見た。
3:10 彼らは、それが神殿の「美しい門」のそばに座って施しを乞うていた者だと気づき、その身に起こったことに我を忘れるほど驚いた。

《説教》『キリストの名によって』

使徒言行録に記録された主イエスが人として生きておられた時代のエルサレム神殿には「美しい門」と呼ばれる門がありました。神殿は、高い城壁に囲まれ、広大な面積を持っていましたが、その城壁の中は大きく二つの地域に分けられていました。外側は「異邦人の庭」と呼ばれ、誰でも入ることが許され、大衆のための広場の役割を果たすもので、東西三百メートル、南北五百メートルの広い境内がありました。

その「異邦人の庭」と呼ばれる境内の中央に、さらに高い壁によって囲まれた内側に神聖な神殿があり、十三の門によって、その中へ入ることが出来るようになっていました。

その門のうち、最も美しく装飾されていたものが、聖所の中央に達する正門とも言える東門・ニカノール門であり、銅の下地に金が細工され、陽が当たると輝くので、人々は「美しい門」と呼んでいました。

この門は、「美しい」というだけではなく、「聖域」への入口で、その門から中へは、神の民ユダヤ人だけが入ることが許され、異邦人および罪人と呼ばれた人々や、重病、障害を持つ人々などは「入るのが禁じられていた」のです。このことを先ず頭に入れておかなければなりません。

門には、異邦人および穢れた者の立ち入りを禁止することを定め、「捕えられた者は、自ら責任を負うべきであり、その結果は死である」と書かれた禁止札が立てられていました。この禁止札は発掘され、現在、イスタンブールの考古学博物館で実物を見ることが出来ます。「美しい門」とは、「神の前に出られる人々」と「出られない人々」とを厳密に区別する門であり、「異邦人の庭」にまでしか入れない人々にとって、「神の拒否」を象徴する門であったと言えるでしょう。

神殿へ来る人は「礼拝」を目的にしていました。神の御前に出て祈ることが目的でした。その祈りの願いは、「神の御手を必要とする人ほど強い」筈であり、孤独の寂しさや、身体の痛み・障害を持つ苦しさなど、悩みが強ければ強いほど、神の慰めを祈り求める願いは強かった筈です。

しかしながら、ユダヤの律法は、このような人々が神の御前に出ることを固く禁じていたのです。不信仰な者、邪まな思いを抱く者はともかく、長い間の病気や肉体的な障害に苦しむ者までも、ユダヤの律法では「神の怒りの結果」と見做して礼拝を禁じたのです。

これは一見奇妙なことと思われるかもしれませんが、これこそが律法主義の行き着くところでした。幸福は神からの祝福であり、健康は神より与えられた恵みであるという感謝の信仰は間違ってはいませんが、不幸は神の怒りと考えてしまった結果でした。誰にでも、重い病気に侵されたり、肉体的・精神的な障害に苦しめられることはありえます。こんな時こそ、「神に願い求める」のが私たちの思いではないでしょ言うか。それを、「神の怒りの現われ」と決めつけられ、神の御前で「罪人」と見做されたのです。従って、慰めと救いを求めて神殿に願い求めに来る惨めな境遇にある人々にとって、「異邦人の庭」と聖域の「聖所」の間に立つ禁止札は、「神の拒否宣言」であり、「聖域」の入口に設けられている門は、「通るに通れぬ疎外の象徴」でした。「美しい門」と名前は美しくても、その門は、祈り願いたくとも、「お前は入ってはならない」という差別の象徴でした。

今日の1節に、「ペトロとヨハネが、午後三時の祈りの時に神殿に上って行った。」とあります。そこには「生まれながら足の不自由な男が運ばれて来た。神殿の境内に入る人に施しを乞うため、毎日『美しい門』という神殿の門のそばに置いてもらっていたのである。」とその足の不自由な男が「施しを乞う」ために門の入口外側にいたのです。この男の足の障害は「生まれながら」と記されており、4章22節によれば、四十歳を過ぎていたとあるので、もう何十年もこのような生活を続けていたのでしよう。そしてこの日も、いつものように、「美しい門」を入る人々に施しを求めていました。

「施し」と訳されているギリシャ語のエレーモスノーは、「憐れみ」という意味です。「憐れみ」とは、憐れむべき「惨めさ」が前提であることは言うまでもありません。

この男の求めは直接的であり、一言で言えば、「金をくれ」と言うことでした。彼は「生まれながらの障害」を他人に見せ、その「惨めさへの憐れみ」を「金」によって贖うことを求めたのです。このことは、5節に「何かもらえると思って」と書かれていることからも明らかでしょう。

彼は、自分で歩くことが出来ない重度の障害者でした。働くことも出来ず、また働く場も与えられない人間で、当然、誰よりも貧しかったでしょう。好んで物乞いをしていたわけではありません。生きて行くためには、自分の「惨めさ」を他人の眼に曝すことが、彼にできる唯一の方法でした。

しかしながら、「惨めさ」とはいったい何かという本質的問題を、聖書は、改めて問いかけているのではないでしょうか。

通り過ぎる人々から金を貰い、その金で、一日の生きるための食べ物を得ることは出来るかもしれません。しかし、彼は、翌日もまたここに座らなければならないのです。通り過ぎる人々の「憐れみ」は、その日一日の飢えをしのぐだけであり、明日を保証するものではありません。言わば、「食べるために生きる一日」を支えるだけなのです。

主イエス・キリストは、「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」と言われました。また、「何よりも先ず、神の国と神の義とを求めなさい」と言われ、「明日のことまで思い悩むな」とも言われました。

しかしながら、何年も何年も、長い間「美しい門」の内側に入れず外に座っていた男には、神の御前に出ることも、そこで赦しと慰めを祈ることすら許されなかったのです。祈るべき場所に至る「美しい門」は、彼のためには開かれていませんでした。「お前は、ここに入ってはならない」という「拒絶」が、その男の心を支配し続けていたのです。

神の民イスラエルの一員として生まれながら、神の民から除外され、拒絶の言葉を聞き続けなければない人生とは、いったい、何であったのでしょうか。この男にとっての本当の悲惨とは、「永久に『門の外』に留め置かれていることにあった」と言わなければなりません。

人間の悲惨の原点を、創世記は何と言っているでしょうか。アダムとエバを楽園から追放した主なる神は、「園の入口をケルビムときらめく剣の炎によって閉ざした」と聖書は記しています。「ここから入ることを許さず」という断固とした宣言でした。

罪を犯した者に対する神の拒否。これこそ、神の怒りの下にある人間が受けなければならない「惨めさ」です。神の国の入口を間近に見ながら、自分が背負う罪のため、その手前に留まらざるを得ない者、それが、この男が人々から受けていた「惨めさ」の本当の意味でした。

全ての人間が背負う罪と、その罪故の「惨めさ」、神の御前に出る人の後姿を、ただ見送るだけの人生。この男は、「罪人」という札を背負った私たち自身の象徴として、神の国の入口に座っていたのです。

4節で、ペトロとヨハネの二人は、「わたしたちを見なさい」と言いました。なにを「見よ」というのでしょうか。

物乞いをしていた、この男は、まさに「食べるために生きているだけ」でした。しかし、ペトロとヨハネは、「わたしには金や銀はない」と言うのです。これは、二人が貧しくて与える物がないと表明しているのではなく、真実の「憐れみ」は、「金銀の施し」にはないということです。人間を「神の国の外に追い出している罪をどうするのか」という問題です。

「私たちには、あなたに施すだけの金はない」という言い訳ではなく、むしろ、「私たちは、もっと大切なものを持っている」という積極的な宣言です。人には、「食べるために生きる」ということのほかに大切な生き方があるということです。

「ペトロとヨハネは彼を立ち上がらせると、足やくるぶしがしっかりして、躍り上がって立ち、歩き出した。そして、歩き回ったり躍ったりして神を賛美し、二人と一緒に境内に入って行った。」とあります。

ここで大切なことは、「立ち上がって歩いた」ということではありません、神から拒否させられていたその男が、「二人と一緒に境内に入って行った」ことが「奇跡」なのです。

「歩けない」という障害を、「神の怒り・神よりの罰」として当時の人々が理解していていました。「彼が立ち上がり、歩き出した」ということは、「神の怒りの終結」を意味していると言うべきでしょう。「キリストの名によって歩きなさい」ということは、「キリストの名による神の赦しを受けよ」という「宣言」なのです。

十字架につけられた神の御子の苦しみとその死が、罪に対する神の審きを解消したのです。

それこそが、教会に委ねられた「神の赦しの御業」です。この男は、神を賛美し、何をするよりも先に、「聖所へ向かって進んで行った」のです。そこにこそ、神の国への招きと喜びがあるのです。

「歩けなかった者が躍り上がって立ち、歩き出した」との肉体の癒しは、神の赦しをこの男に知らしめる「現実的なしるし」と理解すれば十分でしよう。真実の奇跡とは、障害の癒しではなく、神に対する「罪の赦し」なのです。

十字架によって罪の贖いを獲得された御子キリストを「主」と仰ぎ、すべての人間に与えられる「イエス・キリストの名による赦しの宣言」こそが、教会に与えられた、霊的な務めであり、教会固有の業です。それ故に、ペトロとヨハネは、「わたしが持っているもの」と言い切ることが出来たのです。この奇跡は、ペトロの持つ「神秘的な力」ではありません。これこそが「キリストによって与えられた私たちキリスト者の力」であり「教会の業」であると聖書は力強く宣言しているのです。

私たちは、今、何を「持っている」のでしょうか。

何を「持っている」と断言できるのでしょうか。

今、私たちは、周囲の人々の前に「何を指し示している」でしょうか。

私たちに対する「神の恵み」「神の憐れみ」「神の顧み」は十分なのです。キリストに従う教会に、「欠けるもの」はありません。それ故に、悲惨の中に苦しむ者に、「私が持っているものをあげよう」と、私たちキリスト者はハッキリと言うことが出来るのです。

「わたしたちを見なさい」(4節)。これこそ、救われた喜びに生きる私たちキリスト者の姿であり、罪の中に閉じこもる世の人々の前で、「私たちが語らなければならない言葉」なのです。

そしてキリスト者は、新しい世界に生きる自分の姿を示すことによって、「キリストによって与えられた新しい世界」へ、人を招くことが出来るのです。「何よりも価値あるものを私は持っている」という確信があり、その「何よりも価値あるもの」を家族をはじめ周囲の人々に顕すことが出来るからです。

お一人でも多くの方々が救われますよう、お祈りを致しましょう。

御心に応えて

元旦主日礼拝

齋藤 正 牧師

《賛美歌》

讃美歌15番
讃美歌448番
讃美歌528番

《聖書箇所》

旧約聖書:イザヤ書 57章14-19節 (旧約聖書1,155ページ)

◆へりくだる者の祝福
57:14 主は言われる。盛り上げよ、土を盛り上げて道を備えよ。わたしの民の道からつまずきとなる物を除け。
57:15 高く、あがめられて、永遠にいまし/その名を聖と唱えられる方がこう言われる。わたしは、高く、聖なる所に住み/打ち砕かれて、へりくだる霊の人と共にあり/へりくだる霊の人に命を得させ/打ち砕かれた心の人に命を得させる。
57:16 わたしは、とこしえに責めるものではない。永遠に怒りを燃やすものでもない。霊がわたしの前で弱り果てることがないように/わたしの造った命ある者が。
57:17 貪欲な彼の罪をわたしは怒り/彼を打ち、怒って姿を隠した。彼は背き続け、心のままに歩んだ。
57:18 わたしは彼の道を見た。わたしは彼をいやし、休ませ/慰めをもって彼を回復させよう。民のうちの嘆く人々のために
57:19 わたしは唇の実りを創造し、与えよう。平和、平和、遠くにいる者にも近くにいる者にも。わたしは彼をいやす、と主は言われる。
57:20 神に逆らう者は巻き上がる海のようで/静めることはできない。その水は泥や土を巻き上げる。
57:21 神に逆らう者に平和はないと/わたしの神は言われる。

新約聖書:使徒言行録 2章37-47節 (新約聖書216ページ)

◆ペトロの説教
2:37 人々はこれを聞いて大いに心を打たれ、ペトロとほかの使徒たちに、「兄弟たち、わたしたちはどうしたらよいのですか」と言った。
2:38 すると、ペトロは彼らに言った。「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。
2:39 この約束は、あなたがたにも、あなたがたの子供にも、遠くにいるすべての人にも、つまり、わたしたちの神である主が招いてくださる者ならだれにでも、与えられているものなのです。」
2:40 ペトロは、このほかにもいろいろ話をして、力強く証しをし、「邪悪なこの時代から救われなさい」と勧めていた。
2:41 ペトロの言葉を受け入れた人々は洗礼を受け、その日に三千人ほどが仲間に加わった。
2:42 彼らは、使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった。
◆信者の生活
2:43 すべての人に恐れが生じた。使徒たちによって多くの不思議な業としるしが行われていたのである。
2:44 信者たちは皆一つになって、すべての物を共有にし、
2:45 財産や持ち物を売り、おのおのの必要に応じて、皆がそれを分け合った。
2:46 そして、毎日ひたすら心を一つにして神殿に参り、家ごとに集まってパンを裂き、喜びと真心をもって一緒に食事をし、
2:47 神を賛美していたので、民衆全体から好意を寄せられた。こうして、主は救われる人々を日々仲間に加え一つにされたのである。

《説教》『御心に応えて』

今日の元旦も教会に集まり礼拝を捧げています。昨年11月からご一緒に読み進めて来た使徒言行録の12月18日は、ペトロの心を打つ説教でした。そして、その説教の結果は人々の悔い改めへと続くのです。今日は、熱狂的な大群衆の回心というクライマックスがあり、この驚くべき出来事は使徒言行録のテーマに相応しいとも言えるでしょう。

しかしながら、使徒言行録は、ペンテコステの日の大いなる出来事として、「三千人の受洗」という劇的な場面ではなく、そこから誕生した「教会の姿」を描き、それをこの記念すべき日の結びとしているのです。

このことは、神の御業の目的が、一時の熱狂に満足することではなく、生涯を通して過ごす「教会生活の確立にある」ということを示していると言えます。端的に言えば、「ペトロの説教が何人の洗礼志願者を生み出したか」ということが大切なのではなく、「どのような教会が形成されたのか」ということが大切なのです。「それが聖霊降臨の目的そのものであった」ということです。

後楽園球場を借り切った大伝道集会や様々な伝道後援会などに比べて、教会形成という務めは地味なものです。聖日毎の礼拝、信徒の交わり。そこには、大講堂を借りきってのオーケストラや大聖歌隊、眩いばかりの光や効果的な音楽に彩られた、感動的・劇的な場面というものはありません。

しかし、キリストの御業への感謝と神の栄光への讃美に満たされた聖日礼拝にこそ、聖霊降臨の目的はあったのです。教会に生きる者の日常生活の中に神の喜びはあるのです。教会は、初めから「神の喜びに仕える姿を取って来た」と聖書は語っているのです。

そのような本質的な教会を形造ったのは、ペトロの説教が始まりでした。

聖霊降臨の出来事に驚いて集まって来た人々に向かって、ペトロは、ただ「キリストの出来事」をひたすらに語りました。自らキリストの出来事の証人として、その事実を語り、聞く者に対して、その出来事との関わりを避けることが出来ないと、力を込めて宣言したのです。すると37節、「人々はこれを聞いて大いに心を打たれ、ペトロとほかの使徒たちに、『兄弟たち、わたしたちはどうしたらよいのですが』と言った。」とあります。

それまで、聖霊を受けた人たちに対し、「あの人たちは新しいぶどう酒(安酒)に酔っているのだ」(13)「まともではない」と言って嘲笑った人々が、「わたしたちはどうしたらよいのですか」と尋ねざるを得なくなったのです。

ここには二つの大きな変化があると言えるでしょう。一つ目は、「あの人たち」と、教会を外側から客観的・批判的に見ていた人々が、「私たちは」と、自分の問題に置き換えたことです。

二つ目は、「どうしたらよいのですが」と問うことによって、「まともではないのは自分たちである」ということに気付いたことです。

この「どうしたらよいのですか」というペトロへの問い掛けは、「何をしたらよいのかわからない」という不安ではなく、聞く人々も「何をなすべきなのか」を尋ねるものでした。

ペトロの説教によって、「不安と恐怖の中に陥れられてしまった」というのではありません。伝道とは、不安や脅迫によるのではなく、人々に新しい生き方を示し、正しい前進を促すものでなければなりません。

ペトロは答えました。「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます」。この「悔い改めなさい」とは、「人生の方向を変えなさい」ということです。

「悔い改め」と訳されるギリシャ語のメタノイアとは身体の向きを変える、向かう方向を変える、という意味の言葉です。正しい目標が見えないのは、正しい方向を向いていないからです。一生懸命に努力しながら、なお罪の誘惑から抜け出せないのは、「正しい方向へ向かっていない」ということなのです。

私たちも、一生懸命に努力し、幸福を求めて生きれば、必ず何時かは幸福にたどり着けると信じているのではないでしょうか。しかし、多くの場合、一生懸命に努力しながら、何度同じことを繰り返しても報いられず、やがて疲れ、諦めて、「人生とはこんなものだ」と呟いているのではないでしょうか。

罪の世界には、努力と体力で解決できる場所ではないのです。もし、罪から脱出することを望むなら、「悔い改め」、つまり「人生の方向転換」に気付かなければならないのです。

「人生の方向転換」こそが、キリストの福音です。主イエス・キリストの名によるバプテスマ、それは、これ迄の道を行くこととは本質的に違うのです。ローマの信徒への手紙6章4節と8節に「わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。・・・・・わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きることになると信じます」とあります。

この「キリストと共に死ぬ」ということは、これまでの生き方を捨てることであり、「キリストと共に生きる」ということは、新しい世界に甦るということです。パウロは、死と復活を語ることによって、古い世界との断絶を示し、キリストに導かれる信仰の世界の新しさを告げているのです。自分は産まれてこのかた犯罪など一度もしたことがないし、人に大きな迷惑をかけたこともないと、自分勝手な思いの中で生きて来た道を捨て、御子キリストの福音にすべてを委ねる、キリストの教えである聖書から新しい自分の生き方を学ぶのです。

41節には、「ペトロの言葉を受け入れた人々は洗礼を受け、その日に三千人ほどが仲間に加わった」とあります。「三千人」という数は、人々の反応の大きさを表す文学的表現であり、39節で語られていた「すべての人に与えられる約束」を受ける「人生の方向転換」へ歩み出した人々が多数現れたことを告げています。

ここは、ペンテコステの日に起こったことだけではなく、新しく生まれた初代教会の働きを表現しています。そして、このように教会が活動を始め、教会の教会たる聖霊の御業は、私たちに喜びを与え、この素晴らしい救いの恵みを、一人でも多くの人々に伝えようと伝道の働きが実現されていったのです。

洗礼を受け教会の仲間となった彼らは42節に「使徒たちの教えを守ることに熱心であった」と記されています。この「使徒たちの教え」とは、個々の使徒・誰々の教えということではなく、「使徒」という言葉によって代表される「信仰の教え」です。教会を導かれる聖霊なる神によって与えられる信仰、「ひとつなる信仰」によって、神の家族としての教会の交わりは成り立つのです。

彼らは、「相互の交わり」にも熱心でした。しかし、大切なことは、この「交わり」とは、いわゆる私たちが誤解しがちな教会の「親睦」や「親交」という親しさではありません。「交わり」のギリシャ語のコイノーニアとは、本来「分かち合う」という意味で、「共に与る」ということです。何を「共に与り」「分かち合って」いるのでしょうか。

それが、44節、46節、47節にある「一つになる」ことであり、「ひとつなる信仰」です。キリスト者は、主イエス・キリストが、すべての者のために生命を捨てて下さったという恵みを共有しており、その恵みに「共に与っている」のです。そして、その恵みによって与えられた「救われた喜び」を、互いに「分かち合う」のです。教会の交わり、コイノーニアとは、そういうことなのです。

キリストによって招かれ、守られ、導かれているという共通の意識、神を父と呼ぶ共通の誇り、信仰の自覚が、神の家族としての教会を成り立たせたのです。一人ひとりが神の家族であるという信仰によって、互いに支え合うことが自然な姿として実行されたのが、44節以下に「信者たちは皆一つになって、すべての物を共有にし、財産や持ち物を売り、おのおのの必要に応じて、皆がそれを分け合った」とあるように、自然発生的な相互扶助というべきものでした。

これを原始共産制だと言う人もいます。

今日の最後を締めくくる46節以下に「そして、毎日ひたすら心を一つにして神殿に参り、家ごとに集まってパンを裂き、喜びと真心をもって一緒に食事をし、神を賛美していたので、民衆全体から好意を寄せられた。こうして、主は救われる人々を日々仲間に加え一つにされたのである」と初代教会の発展の姿を記しています。

キリスト者の交わり「コイノーニア」は、「共にパンを裂き、祈りをする」ということ、即ち、「礼拝を共に守る」というところにあるのです。

この「パン裂き」が、聖礼典としての「パン裂き」「聖餐:ユーカリスト」であったのか、食事を共にする「愛餐:アガペー)」であったのか、議論が分かれたりしますが、大切なことは、「食卓を共にする」ということを、初代教会は「単なる食事」と見なしてはいなかったということです。

主イエスは、人々から嫌われた、徴税人や娼婦のような罪人と、あえて食卓を共にされました。そればかりでなく、主イエスが墓の中から甦ったその日、甦りを信じられなかった弟子たちが主イエスと知ることが出来たのは、「食事を共にしているとき」でした。ルカ福音書とヨハネ福音書でも、弟子たちがキリストの復活を悟るのは、いずれも「食事の場」なのです。

これこそが、「神の国の食卓」が持つ力です。そして、初代の信徒たちも、食卓を共にすることによって、主に贖われて生きる「神の国の喜び」を経験したのです。これこそが初代教会の礼拝でした。現代の教会に生きる私たちの教会の食卓はどうでしょうか。ルカ福音書10章40節のマルタになっていないでしょうか。主イエスのみ言葉に耳を傾けるより食卓の奉仕に心奪われていないでしょうか。ペンテコステの日にもたらされた神の恵みは、この神の食卓である礼拝の喜びの中に実現されて行ったのです。礼拝こそ、神の御業の最終的目標なのです。

私たちが教会に召された自分を見つめ、教会に仕える使命を聖書を通して自覚するとき、神が私たちに求める信仰の姿を見出すことが出来るでしょう。時代や周囲の状況は変わっても、神の喜びは変わりません。教会は、時代の要求におもねるのではなく、聖書で教えられた神の御心に応えることを志すのです。

新年の教会の歩みの第一歩は、「神御自身の御心に応えることから始まる」ということ、お一人でも多くの方々を神の御心である十字架の救いと復活の新しい生き方へと入れられることを、神は、私たちに強く語っているのです。

お祈りを致します。

教会は何を語るのか

主日礼拝

齋藤 正 牧師

《賛美歌》

讃美歌4番
讃美歌285番
讃美歌515番

《聖書箇所》

旧約聖書:ヨエル書 3章1-5節 (旧約聖書1,425ページ)

◆神の霊の降臨
3:1 その後/わたしはすべての人にわが霊を注ぐ。あなたたちの息子や娘は預言し/老人は夢を見、若者は幻を見る。
3:2 その日、わたしは/奴隷となっている男女にもわが霊を注ぐ。
3:3 天と地に、しるしを示す。それは、血と火と煙の柱である。
3:4 主の日、大いなる恐るべき日が来る前に/太陽は闇に、月は血に変わる。
3:5 しかし、主の御名を呼ぶ者は皆、救われる。主が言われたように/シオンの山、エルサレムには逃れ場があり/主が呼ばれる残りの者はそこにいる。

新約聖書:使徒言行録 2章14-36節 (新約聖書215ページ)

◆ペトロの説教
2:14 すると、ペトロは十一人と共に立って、声を張り上げ、話し始めた。「ユダヤの方々、またエルサレムに住むすべての人たち、知っていただきたいことがあります。わたしの言葉に耳を傾けてください。
2:15 今は朝の九時ですから、この人たちは、あなたがたが考えているように、酒に酔っているのではありません。
2:16 そうではなく、これこそ預言者ヨエルを通して言われていたことなのです。
2:17 『神は言われる。終わりの時に、/わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたたちの息子と娘は預言し、/若者は幻を見、老人は夢を見る。
2:18 わたしの僕やはしためにも、/そのときには、わたしの霊を注ぐ。すると、彼らは預言する。
2:19 上では、天に不思議な業を、/下では、地に徴を示そう。血と火と立ちこめる煙が、それだ。
2:20 主の偉大な輝かしい日が来る前に、/太陽は暗くなり、/月は血のように赤くなる。
2:21 主の名を呼び求める者は皆、救われる。』
2:22 イスラエルの人たち、これから話すことを聞いてください。ナザレの人イエスこそ、神から遣わされた方です。神は、イエスを通してあなたがたの間で行われた奇跡と、不思議な業と、しるしとによって、そのことをあなたがたに証明なさいました。あなたがた自身が既に知っているとおりです。
2:23 このイエスを神は、お定めになった計画により、あらかじめご存じのうえで、あなたがたに引き渡されたのですが、あなたがたは律法を知らない者たちの手を借りて、十字架につけて殺してしまったのです。
2:24 しかし、神はこのイエスを死の苦しみから解放して、復活させられました。イエスが死に支配されたままでおられるなどということは、ありえなかったからです。
2:25 ダビデは、イエスについてこう言っています。『わたしは、いつも目の前に主を見ていた。主がわたしの右におられるので、/わたしは決して動揺しない。
2:26 だから、わたしの心は楽しみ、/舌は喜びたたえる。体も希望のうちに生きるであろう。
2:27 あなたは、わたしの魂を陰府に捨てておかず、/あなたの聖なる者を/朽ち果てるままにしておかれない。
2:28 あなたは、命に至る道をわたしに示し、/御前にいるわたしを喜びで満たしてくださる。』
2:29 兄弟たち、先祖ダビデについては、彼は死んで葬られ、その墓は今でもわたしたちのところにあると、はっきり言えます。
2:30 ダビデは預言者だったので、彼から生まれる子孫の一人をその王座に着かせると、神がはっきり誓ってくださったことを知っていました。
2:31 そして、キリストの復活について前もって知り、/『彼は陰府に捨てておかれず、/その体は朽ち果てることがない』/と語りました。
2:32 神はこのイエスを復活させられたのです。わたしたちは皆、そのことの証人です。
2:33 それで、イエスは神の右に上げられ、約束された聖霊を御父から受けて注いでくださいました。あなたがたは、今このことを見聞きしているのです。
2:34 ダビデは天に昇りませんでしたが、彼自身こう言っています。『主は、わたしの主にお告げになった。「わたしの右の座に着け。
2:35 わたしがあなたの敵を/あなたの足台とするときまで。」』
2:36 だから、イスラエルの全家は、はっきり知らなくてはなりません。あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです。」

《説教》『教会は何を語るのか』

ペンテコステの日に誕生した教会はいよいよ語り始めました。ひたすら祈ることで「時を待っていた人々」は、聖霊なる神の降臨と共に、単なる「祈りの群れ」から「教会」に大きく変わり、群れの外の人々に向かって、一斉に語り始めたのです。

そしてその変化が、「霊が語らせるままに」(4)と記されているように、人間の思いではなく、聖霊なる神の導きによるものでした。新たに誕生した教会は、語ることによって教会の本来の姿を形作り始めたのです。

『語る』とは、人によって得意な「おしゃべり」のことではありません。神の御心、神の御業を語るのであり、言い換えれば「人間の口を用いて神が語られる」のです。神の言葉を、人間の言葉によって語るのです。人間の言葉が、何故、神の言葉であるのか。これこそが聖霊なる神の大いなる御業であり、“インマヌエル”「神、共にいます」から生じる信仰の出来事なのです。

私たちは、いかに知恵を重ね知識を深めても、人間の領域を超えることはできません。どこまで行っても、人間は人間です。しかし、主なる神は、今、教会を誕生させ、その教会を、「人間が神の言葉を語り」、「誰でも神の御心を聞くことが出来る」という、「神の恵みの場」とされたのです。これが「教会」です。

先週の4節で「ほかの国々の言葉で話し出した」とは正しくは、「彼らは、神の言葉を語ったのだ」ということでした。教会は、神の言葉を語るものとして誕生し、世の人々は、初めて聞く、「神の言葉」に驚いたのでした。14節には「すると、ペトロは十一人と共に立って、声を張り上げ、話し始めた。」とあります。この「十一人」とは、言うまでもなく、死んだユダを除く「使徒たち全員」ということですが、ここでは、「教会そのもの」を代表していると見るべきでしょう。

ここに教会は、「神の器」として立ち上がり、「語るべき御言葉」が「教会の業」として最初のペトロの説教からなされたのです。ペトロが話し始めたと訳されている「話す」という言葉は、神の霊感を受けて預言者が語る場合などに用いられるもので、心からの確信に満たされて、堂々と語る姿を現しています。「どうか聞いてください」という願いではなく、「今、実現したこのことに耳を傾けよ」という告知なのです。

これが、この世界に初めて出来た教会の姿でした。今日の15節に「今は朝の九時」とあるのは、ユダヤ人の「朝の祈りの時」ということです。神に向かって祈る時であり、神が応えられる時です。人の姿に眼を向けるべきではなく、神の御業に向けて姿勢を整えるべき時なのです。「朝っぱらから酒は飲まない」などという程度の弁明ではなく、むしろ、「今こそ、神の御言葉へ向かう時である」ということを示唆しているのです。ペトロは17節から21節で、先程司式者に読んで頂いた旧約のヨエル書3章1節から5節をかなり自由に引用し、教会の誕生が「神の御計画の下に行われた」ということを宣言しました。

ペトロのヨエル書引用の第一の根拠は、「今は終わりの時である」ということで、教会の誕生は、神の御業の最後を飾る出来事、「福音の完成を告げる」ということです。そして、17節にある「終わりの時」という言葉は、実は、ヨエルの預言にはなく、ペトロはこれを説教に加えることで、教会が置かれた位置の重要性を告白していると言えるでしょう。

聖霊が降ったこの時、世に住むすべての人々は、主なる神から18節にある「わたしの僕」即ち「神の民」と呼ばれるのです。17節の「終わりの時」が「今」であれば、「もはや後がない」のであり、教会は、設立当初から、終末を見据えた緊迫した雰囲気から人々に語り始めていたのです。

この「終わりの時」に、人々はどのような事態に直面しているのかペトロは22節以下で、三つのポイントを挙げています。

まず第一のポイントは、23節です。

「このイエスを神は、お定めになった計画により、あらかじめご存じの上で、あなた方に引き渡されたのですが、あなた方は律法を知らない者たちの手を借りて、十字架につけて殺してしまったのです。」

第二のポイントは、32節です。

「神はこのイエスを復活させられたのです。わたしたちは皆、そのことの証人です。」

最後の第三のポイントは、36節です。

「だから、イスラエルの全家は、はっきり知らなくてはなりません。あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです。」

この三つのポイントを纏めると、教会が語るべき「神の御業」は明らかです。「イエスは十字架につけられ、殺されたが、神は、そのイエスを甦らせられた。そして、そのイエスこそ、救い主キリストであり、この御業は、父なる神が定め給うた御計画に他ならない」ということです。一言で言えば、これが「福音」であり、神の御計画は、御子キリストによって完成した、ということなのです。

さらにペトロは、この出来事における人々の無理解を語ります。「あなたがたは律法を知らない者たちの手を借りて、十字架につけて殺した」と強烈に批判しています。22節の「イスラエルの人たち、これから話すことを聞いてください」と訳されている箇所は「聞きなさい」との命令形の言葉です。キリストを十字架に付けたのは誰か。キリストの大いなる救いの御業に接しながら、聖霊の御業を嘲笑うものは誰か。迫りくる「終末」を前にしたペトロは、極めて強い口調で、すべての人間の逃れることの出来ない危機を告げ、キリストの十字架の救いの御業を宣べ伝えているのです。

36節の「だから、イスラエルの全家は、はっきり知らなくてはなりません」というペトロの告知は、実に力強い、思い切った言葉であり、これはまさに宣戦布告です。

初めて出来た教会は、集まった人々の注目の的でしたが、それは決して歓迎されてない「冷たい眼差しの注目」であったのです。世界でたった一つの教会、初めての教会を取り巻くすべての人々はキリストに背を向けて来た人々だったからです。

その中で、教会は、人々の好意も共感も求めず、ただ神の御業を語りました。自分たちが「人々からどう思われているか」「どのような眼で見られているか」を考えず、人々の救いを完成させる神の御業を、ただひたすらに語り続けたのです。そしてそれを、自分の生き方を省みることなく罪の中に安住する人々に、神からの挑戦として、まさに宣戦布告したのです。ペンテコステの教会とは、このようなものでした。

当然のことながら、教会の船出は順風満帆な安穏な航海への旅ではありませんでした。神の御言葉を受け入れる人は、何時の時代でも、神に敵対する人々に比べ常に少数なのです。教会は、好意を示す人々よりも、嘲笑い、敵対する人々と相対することのほうがはるかに多いことを覚悟しなければなりません。

つまり、教会は罪の中にある世の人々と同じ世界に生きながら、世の罪と共にありながら、キリストの福音を宣べ伝えようとしたのです。その結果、何時の間にかその罪の中に戻って同化してしまう危険が、教会の歴史の初めからあったことは、考えて見れば当然のことでしょう。

人々の声に耳を傾け、人々の要求に従い、この世の好意と共感を求める道に陥った教会が数知れぬほどあったということは、歴史の事実として認めざるを得ません。

十七世紀に成立したウェストミンスター信仰告白は、「サタンの会堂になるほどに堕落した教会がある」ことを痛烈に指摘しています。教会は、この世にある限り、常に、この危険に曝されているのです。

従って、教会は、常に、ペンテコステの日に立ち戻らなければなりません。教会が、教会として誕生したその日、聖霊なる神の御力によって新たに教会が出来た日。神の御業が決定的に成し遂げられたその日の姿を、常に、繰り返し思い返さなければならないのです。聖霊なる神が語らせるままに語った教会の姿を、取り戻さなければなりません。

教会が語るべきことは、主イエス・キリストの福音です。誰が嘲笑おうと、呆れようと、キリストによって実現した十字架と復活の御業を語るのが教会です。教会は、そのように造られ、そのために存在し、そのことのために仕えるのです。

ペトロは36節で「はっきりと知らなくてはなりません」と断言しましたが、口語訳聖書はさらに明確に、「この事をしかと知っておくがよい」と厳しく訳しています。

「世の人々は、この事をしかと知っておくがよい!」、キリストの救いに与っていない人々に対し、教会は、はっきりと福音を語らなければなりません。聖霊の働き、聖霊の導きの下、語るべき言葉が私たち教会に委ねられています。私たちの周囲の人々、愛する家族や友人・知人の救いは、私たちが語る言葉にかかっているのです。その責任の重さを、感謝と共に喜ぼうではありませんか。

お祈りを致します。

召された者がなすべきこと

主日礼拝

齋藤 正 牧師

《賛美歌》

讃美歌10番
讃美歌177番
讃美歌187番

《聖書箇所》

旧約聖書:創世記 11章1-9節 (旧約聖書13ページ)

◆バベルの塔
11:1 世界中は同じ言葉を使って、同じように話していた。
11:2 東の方から移動してきた人々は、シンアルの地に平野を見つけ、そこに住み着いた。
11:3 彼らは、「れんがを作り、それをよく焼こう」と話し合った。石の代わりにれんがを、しっくいの代わりにアスファルトを用いた。
11:4 彼らは、「さあ、天まで届く塔のある町を建て、有名になろう。そして、全地に散らされることのないようにしよう」と言った。
11:5 主は降って来て、人の子らが建てた、塔のあるこの町を見て、
11:6 言われた。「彼らは一つの民で、皆一つの言葉を話しているから、このようなことをし始めたのだ。これでは、彼らが何を企てても、妨げることはできない。
11:7 我々は降って行って、直ちに彼らの言葉を混乱させ、互いの言葉が聞き分けられぬようにしてしまおう。」
11:8 主は彼らをそこから全地に散らされたので、彼らはこの町の建設をやめた。
11:9 こういうわけで、この町の名はバベルと呼ばれた。主がそこで全地の言葉を混乱(バラル)させ、また、主がそこから彼らを全地に散らされたからである。

新約聖書:使徒言行録 2章5-13節 (新約聖書214ページ)

◆聖霊が降る
2:5 さて、エルサレムには天下のあらゆる国から帰って来た、信心深いユダヤ人が住んでいたが、
2:6 この物音に大勢の人が集まって来た。そして、だれもかれも、自分の故郷の言葉が話されているのを聞いて、あっけにとられてしまった。
2:7 人々は驚き怪しんで言った。「話をしているこの人たちは、皆ガリラヤの人ではないか。
2:8 どうしてわたしたちは、めいめいが生まれた故郷の言葉を聞くのだろうか。
2:9 わたしたちの中には、パルティア、メディア、エラムからの者がおり、また、メソポタミア、ユダヤ、カパドキア、ポントス、アジア、
2:10 フリギア、パンフィリア、エジプト、キレネに接するリビア地方などに住む者もいる。また、ローマから来て滞在中の者、
2:11 ユダヤ人もいれば、ユダヤ教への改宗者もおり、クレタ、アラビアから来た者もいるのに、彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは。」
2:12 人々は皆驚き、とまどい、「いったい、これはどういうことなのか」と互いに言った。
2:13 しかし、「あの人たちは、新しいぶどう酒に酔っているのだ」と言って、あざける者もいた。

《説教》『召された者がなすべきこと』

使徒言行録、第2章はいよいよ、教会の誕生、活動開始の章です。

聖霊降臨の出来事は、「五旬祭の日」に起こったと1節にありました。「五旬祭」と訳されているのは「ペンテコステ」という言葉です。それは「五十日目」という意味の言葉です。「旬」という言葉は、上旬・中旬・下旬の旬ですから十日という意味です。ですから五旬祭はまさに五十日目の祭という意味になります。何から五十日目かというと、「過越の祭」からです。ユダヤ人にとって大切な「過越祭」から五十日目の穀物の収穫を祝う民族の祭りの日に過ぎなかったペンテコステの日に、主イエスが約束されていた聖霊なる神が降り、世界に初めて教会が誕生したのです。それは、世界に対する主なる神の永遠の御計画の新しい時代の開始の日となり、「時の区切り」が、ここに刻まれました。

そこには、「突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた」とあります。「激しい風が吹いて来るような音」がして、続いて「炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった」とあり、「すると、一同は聖霊に満たされ、”霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした」と聖霊の働きを指し示していました。聖霊の風が吹き、神様の炎に焼かれて、弟子たちは新しく生かされて、「霊が語らせるままに」に御言葉を語る者となったのでした。ペンテコステにおいて弟子たちに降った聖霊は、彼らに新しい舌、新しい言葉を与え、語る力を与えたのです。

この聖霊降臨の出来事こそが、神の新しい行動開始であり、その働きは、「教会」を誕生させたというところに、決定的な重要性があります。聖霊の降臨が驚くべき神の行動であるならば、教会の誕生、そして、教会の働きもまた、驚くべき神の御業であり、「教会そのもの」である「聖霊に満たされた人間の行動」も、当然、この世の在り方を超えるものとなるからです。

前回の説教の4節にあったように聖霊に満たされた人々は、「霊」が語らせるままに語り出しました。新しく誕生した教会の特徴は、「語る」ということであり、「語る」ことによって、教会は「教会」を生み出された神の御心を現すのです。

しかし、ここ4節では「ほかの国々の言葉」と言われており、6節では「自分の故郷の言葉」、また11節では、「わたしたちの言葉」とも記されています。

このことから、このとき教会は、「さまざまな国の言葉」を語ったように思われますし、「いったい何ヶ国語であったのか」「使徒たちは何時から語学の天才になったのか」という素朴な疑問さえ生じるのです。

しかしながら、後に、パウロが第一宣教旅行でリカオニアの地方に行ったときには、リカオニア地方の言葉が理解できなかったと思われる物語が記されています(使14:11以下)。さらに、パウロの手紙が、すべて例外なく、ギリシア語で書かれているということは、何を意味しているのでしょうか。

先ず、ここに集まっている人々は、今日の5節にあるように「すべてユダヤ人である」ということです。また、9節以下の一覧表は、「各国人」という意味ではなく、「それぞれの地方から帰って来た人々」ということであり、これも「ペンテコステのために国外から帰って来たディアスポラのユダヤ人」と理解すればよいでしょう。「祭りのために故郷に帰省したユダヤ人」ということです。

当時のユダヤ人の言葉は、古代ヘブル語の時代的変遷を経た方言とも言えるアラム語と呼ばれるものであり、国外に移住したユダヤ人は、このアラム語を忘れてはいませんでした。

また、当時の世界観は、ローマ帝国の支配下にあったとは言え、文化としてはギリシア文化、即ちヘレニズム文化の世界であり、コイネーと呼ばれるギリシア語が世界の共通語でありました。アレクサンドロス大王の政策によって普及されたギリシア語「コイネー」は、当時ローマ帝国内各地の人々によって用いられており、現代よりはるかに「世界は一つ」でした。パウロの手紙が、すべてギリシア語で書かれているのは、ギリシャ語が共通語であったからです。

この時代のユダヤ人にとって、アラム語とギリシア語を知っていれば殆ど用が足りたのであり、エルサレムに集まっていた人々は、出身地域・居住地域は別々であったとしても、共通の言葉を持っていたのです。

これこそが、神の御業、主イエス・キリストの福音宣教が極めて相応しい時代に始まったと言えるのであり、この頃、すべての人々は、「言葉の障害を感じることなく、福音に接することが出来た」ということなのです。

このように、ここに集まっていた人々にとって、言葉の障害はなかった筈ですが、それにも拘わらず、「ほかの国々の言葉」とは、どういう意味でしょうか。

これこそ先週の2節以下と同じ、聖霊の御業を「風」や「炎のような舌」と語る信仰的表現なのです。聖霊降臨を語る聖書は、その実態を表現する言葉を持ちませんでした。同様に、そこで始まった聖霊の御業も、このように表現するしかなかったのです。

4節の「ほかの国々の言葉」と訳されている言葉には、「恍惚状態」つまり「忘我状態」という意味もあるので、正しくは、「異なる言葉」と訳すべきだとも言われています。神の霊によって導かれる者は、自分の知恵・自分の思いではなく、神の知恵によって語り、「自分の想いを遥かに超える事柄を語る」ということです。そもそも福音とは、本来、そういう要素を持つものなのです。

主イエスは、ヨハネ福音書14章27節で、「聖霊が、あなたがたにすべてのことを教える」と言われ、また使徒言行録1章8節で、「聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける」とも言われました。その約束された「力」こそヨハネ福音書1章1節の「言(ことば):ロゴス」なのです。神の力は、「言・ことば」となって人々の心の中に突入して行くのです。それは、人間の業ではなく、人間の才能によるものでもありません。それは、神の業であり、神の力なのです。

神の偉大なる力が、この私たちを目指して救いの御業を進められ、世界の歴史そのものが、私たちの救いを目的とし、神の独り子が、御自身を犠牲にしてまで私たちを顧みて下さったことこそ、私たちの「驚きと戸惑い」でした。

9節以下に記されている地名の一覧も、表面的に見るのではなく、信仰の知恵によって、まったく別な意味で理解すると、ユダヤを中心として象徴的に挙げられているといえるでしょう。

ユダヤを真ん中に置いてみると、パルティア、メデイア、エラム、メソポタミアは、ユダヤの「東」であり、カパドキア、ポントス、アジア、フリギア、パンフィリアは、ユダヤの「北」です。

エジプト、リビアは、ユダヤの「南」であり、これらを合わせると、十一の国や地域であり、これにローマを加えれば十二です。十二は、民族を表す完全数であり、「全世界を表す」と考えられます。「西」がないと言われるかもしれませんが、ユダヤの西は地中海で、しかもその地中海を大ローマ帝国が囲んでいました。従って、この地名表記をもって全世界を表しています。更に、海の民の代表としてのクレタ、砂漠の民の代表としてアラビアを加えて完全さに念を入れたと思われます。

そして、13節の「新しいぶどう酒に酔っている」とは、聖霊降臨に関心のないこの世の人々にとって、「安物の酒で悪酔いしているような、わけのわからない妄言」とか、「理解できないことば」としか受け止められなかったのです。聖霊が降った教会の出発は、人々の理解を超える「全く新しいことであった」のです。

 

聖霊を受けた弟子たちが、様々な国の言葉を語ることによって、「新しいイスラエルの民」が結集されていったと言えましょう。本日司式者が読まれた旧約聖書創世記11章の「バベルの塔」の物語において起ったこととは、対照的な出来事でした。バベルの塔の物語は、「世界中が同じ言葉を使って、同じように話していた」ということから始まっています。その人間たちが、シンアルの地に、天にまで届くような塔を建て始めるのです。「天にまで届く」というのは、神のおられる所にまで届く、神の領域にまで人間が自分たちを高め、力を及ぼしていこうとすること、つまり人間が神に成り代わろうとすることを象徴しています。神は、人間のその傲慢で不遜な行いをご覧になり、人間の言葉を混乱させ、互いの言葉が聞き分けられないようになさったのです。それによって人間は全地に散らされていき、それぞれの違う言葉で生きるようになったのです。自分が神になろうとしていく時に、人間どうしの言葉が通じなくなる、コミュニケーションが失われる、そして、共に生きることができなくなる、これは私たち人間のかかえている問題を非常に深くえぐり出している話です。

ペンテコステで、聖霊が降り、新しいイスラエルである教会が誕生したことにおいて、「バベルの塔の物語」の解決策が示されているのです。互いに通じないそれぞれの言葉の中で生まれ育った人々が、この聖霊の働きによって、皆、同じことを聞いたのです。神の偉大な業が語られるのを聞いたのです。人々が同じ神の偉大な業を語る言葉を聞く、つまり主イエス・キリストの十字架と復活による神の救いの恵みを聞いたのです。それによって、言葉の違う人々が一つになり、新しいイスラエルへと結集されていったのです。聖霊の働きによって力を与えられた弟子たちが主イエス・キリストにおける神の偉大な救いのみ業を語るのを聞くときに、様々な違いを越えて一つにされたのです。聖霊は、そのように私たちを一つにするのです。

「福音をすべての人々へ」とは、「すべての人々に対する神の国への招き」です。どこの国ではなく、どこの地域でもなく、すべての人々への招きを教会は語りました。神の御心が地に住むすべての人々の上にあるということ、「ここにこそ、本当の奇跡がある」と言うべきでしょう。

教会は、神の御心を実現するために誕生し、教会に集まる人は、神の御心に仕えるのです。

いかなる妨害と無視と嘲りをもって迎えられようとも、世界は神の御心の下あって、神の御業の働く場であり、御心は、「この世界に生きるすべての人間の救いである」という福音を、教会は語り続けるのです。

しかも、4節によれば、語り出したのは「聖霊に満たされた全員」でした。「誰が」というのではなく、「全員」が「一斉に」語り出したのです。それが聖霊の御業です。聖霊に満たされた者は、語らずにはいられないからです。

私たちキリスト者は福音を語らずにはいられない人間に生まれ変わっているのです。日々お一人でも多くの方々・ご家族にこの素晴らしい救いの豊かな恵みを語らずにはいられないのです。

お祈りを致します。

 

聖霊に満たされて

主日礼拝説教

齋藤 正 牧師

《賛美歌》

讃美歌7番
讃美歌338番
讃美歌512番

《聖書箇所》

旧約聖書:エゼキエル書 37章1-6節 (旧約聖書1,357ページ)

◆枯れた骨の復活
37:1 主の手がわたしの上に臨んだ。わたしは主の霊によって連れ出され、ある谷の真ん中に降ろされた。そこは骨でいっぱいであった。
37:2 主はわたしに、その周囲を行き巡らせた。見ると、谷の上には非常に多くの骨があり、また見ると、それらは甚だしく枯れていた。
37:3 そのとき、主はわたしに言われた。「人の子よ、これらの骨は生き返ることができるか。」わたしは答えた。「主なる神よ、あなたのみがご存じです。」
37:4 そこで、主はわたしに言われた。「これらの骨に向かって預言し、彼らに言いなさい。枯れた骨よ、主の言葉を聞け。
37:5 これらの骨に向かって、主なる神はこう言われる。見よ、わたしはお前たちの中に霊を吹き込む。すると、お前たちは生き返る。
37:6 わたしは、お前たちの上に筋をおき、肉を付け、皮膚で覆い、霊を吹き込む。すると、お前たちは生き返る。そして、お前たちはわたしが主であることを知るようになる。」
37:7 わたしは命じられたように預言した。わたしが預言していると、音がした。見よ、カタカタと音を立てて、骨と骨とが近づいた。

新約聖書:使徒言行録 2章1-4節 (新約聖書214ページ)

◆聖霊が降る
2:1 五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、
2:2 突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。
2:3 そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。
2:4 すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。

《説教》『聖霊に満たされて』

本日の物語は「五旬祭の日が来た」と始まっています。この五旬祭とは、旧約時代に守られていた「七週の祭」(ハグ・シャーブオート)に起源のあるユダヤ教の祭で、小麦の収穫を祝う日でした。申命記やレビ記によれば、過越祭の直後に大麦に鎌を入れ始め、その日から七週後、即ち、五十日目に小麦の初めての収穫・初穂を神に献げます。また、この日は、「過越の閉じる日」とも呼ばれ、過越祭に始まる一連の春の行事の終わりの日とされ、すべての仕事を休み神殿に集まる大切な日でした。この祭が、過越祭から数えて五十日目にあたることから、「五旬節」とも呼ばれ、そのギリシア語がペンテコステ(五十日目)なのです。ですから、「五旬節」ペンテコステは、穀物の収穫を祝う日であり、本来、それ以上の何ものでもありませんでした。

「五旬祭の日が来た」。私たちが、先ず注目するのは、「来た」と訳されている言葉です。この言葉は、「満たす」という意味の言葉を強めたものであり、「期日が満ち、いよいよその時が来た」という内容を持っています。ですから、多くの人々は、この言葉を「始まった」とか「到来した」という意味で理解し、「時が満ちて」と訳すこともあります。

「時が満ちる」とは、重要な出来事の切迫と、予告されていた事柄の実現を意味します。ですから、ただ「過越祭から五十日が経過した」ということではなく、それに先立つ「約束」を思い返さなければなりません。

主イエスは最後の晩餐の席上で、聖霊を送られると繰り返しお約束になりました。それは、ヨハネ福音書16章13節以下に「しかし、その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなた方を導いて真理をことごとく悟らせる。その方は、自分から語るのではなく、聞いたことを語り、また、これから起こることをあなたがたに告げるからである」と約束されています。残された弟子たちの苦難を予告されると共に、その苦しみが喜びに変わる日のことを、はっきりと告げられました。「真理の霊」をこの世に送り、その聖霊なる神こそ、私たちの「助け主」であり、「すべてを父なる神の御計画に従って整える」ということを、主イエスは約束されました。

しかし、主イエスの十字架と復活を巡って、弟子たちの惨めな姿、裏切りと挫折、混乱と絶望の姿が示されました。その情けない弟子たちに対して、キリストは、聖霊という新しい御業へと弟子たちの眼を向けられたのです。

それは、教会がこの世に初めて誕生した時の状況です。「五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった」、何か理解出来そうにない不思議なことが起こったのです。

確かに、何かが起こりました。そして、その何にかによって初めての教会は誕生したのです。

1節に「一つになって集まっていると」と記されていますが、何のために集まっていたのでしようか。1章14節によれば「皆、心を合わせて祈っていた」のです。彼らには祈ることしかできませんでした。祈る以外、なすべきことがなかったと言ってもよいでしょう。

4節以下に、「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは間もなく聖霊による洗礼を授けられるからである」と主イエスが約束された「この時」を待っていたのです。神の力が与えられ、為すべきことが教えられる「時」を、ひたすらに待っていたのです。「聖霊が降る」ということがどのようなことであるのかも、まったく分かってはいなかったでしょう。しかしそれでもなお、理解できなかったキリストの約束を、しかも、何時成就するかわからない「その時」を、じっと待っていたのです。この「突然」という言葉が、待っている者の気持ちを表しています。しかし、神の御業としての「聖霊降臨」は、突然の出来事ではなく、時の満ちることによって実現した「初めからの御計画」そのものでした。

私たちは、聖書の御言葉を読むとき、ときとして、理解できない出来事にぶつかります。とりわけ奇蹟などには、「合理的に理解できないものがあまりにも多すぎる」ということは事実でしょう。

「不合理なるが故に信ず」という古典的な告白は、キリスト者すべてに共通なものと言えるでしょう。「信仰とは、理解ではなく信頼」なのです。

「激しい風が吹いて来るような音」「炎のような舌」とは何であったのでしようか。言葉に尽くせぬ理解できない出来事の意味を、「信仰」によって聞かなければならないのです。

これらは「~のような」という表現であり、その時の光景を、直接的・具体的に語っていないことに注目すべきです。それは、「風」ではなく「炎」でもなく、「舌」でもありません。これは、神の御業に直面した人間の証言なのです。私たちは、この世界にないものを、うまく表現する言葉を持っていません。この世界にないものを想像して表現する場合には、似ている何かで、譬えて語るしか方法はないのです。

この時、「天から聞こえた音」とは、「風の激しさ」を表現するものです。眼に見えぬ「風の激しさ」は、「音の大きさ」でしか表現することはできません。それでは、これほどの激しさで迫って来る「風」とは何であったでしょうか。

「風」(プノエー)とは、「息」という意味です。ここで語られている「風」とは、自然現象である「空気の流れ」ではなく、「神の息」のことなのです。

創世記1章2節には、天地創造以前の混沌とした深い闇の中で、「神の霊が水の面を動いていた」と記されています。「神の霊」とはヘブル語で「神の息」と同じ言葉、「ルーアッハ」であり、創世記1章2節は、天地創造を目指す「神の意志」を表していました。

さらに、創世記2章7節では、土で造った人の形に「神は命の息を吹き入れた」と記されていますが、これは「生きよ」という「神の意志」です。

先程、司式者にお読みいただいたエゼキエル書には預言者エゼキエルが、気味の悪い不思議な幻を見たことが記されていました。幻の中では、エゼキエルが神によって連れ出され、ある谷の真ん中に降ろされると、そこは非常に多くの甚だしく枯れた骨でいっぱいであり、その枯れた骨を生き返らすことが出来るか、との問い掛けがありました。

この時、エゼキエルを連れ出した「主の霊」、幻の中で谷間に吹いた、枯れた骨に生命を与える「神の霊」(ルーアッハ)とは、ギリシア語では「プノエー:神の息」のことです。そしてそれは、甦りの力、新しい生命をもたらす「神の力」であり、ペンテコステは、この預言の成就であったのです。

死んでいた者が生きるようになり、望みをなくしていた者に希望を与え、冷たい谷のような世界に生きる者に安住の地が与えられる驚くべき時を、エゼキエルは、「神の息」がそれを実現すると語りました。

3節の「炎のような舌」とは何でしょう。

モーセはシナイ山上で「燃える柴」の中から呼びかける神の声を聴きました。主なる神は、荒野の旅では「火の柱」としてイスラエルを導いたと記されています。「火」は、神の臨在を表す伝統的な表現です。主イエスの約束を待ち望みただひたすらに祈る群れの中に、「炎のような舌が現れた」という奇妙な表現で神の臨在を語っているのです。「舌のような炎」と聞けば、私たちにも分かり易いかも知れません。

神の驚くべき力を秘めた聖霊に、突然満たされた人間の驚き、それは、彼らにとって極めて強烈な体験でした。彼らは、頭の中で「聖霊に満たされた」と考えたのではありませし、そう「思い込んだ」のでもありません。人間の創造力を遥かに超える「神の力」に包み込まれてしまったのです。創造を越える力に満ちた聖霊なる神を、「風と炎のような舌」という表現で語る以外になかったのです。

「すると、一同は聖霊に満たされ、『霊』が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話し出した」とあります。これこそが聖霊なる神が降られた目的であり、新しく造られた教会の姿です。彼らが語り始めたのが「教会の誕生」です。

「教会の誕生」が、「話し出した」という言葉で始められていることから、「福音を語る」ということが、教会のすべてを決定するということです。その「語る」ことは、「霊が語らせるままに」であり、「神の偉大な業」、「福音」を語ることでした。教会とは、ただ集まり祈るだけではなく、「すべての人に福音を語る」ことを最初から定められていたのです。

4節に「ほかの国々の言葉で話しだした」とありますが、原語では「国々」といった言葉はなく「ほかの言葉」だけです。ここは、国ごとの言語の種類の事ではなく、「質の違う言葉を語る」ということで、「霊に満たされた言葉で語る」ということです。新しく誕生した教会では、人間の意志、人間の思い、人間の判断、そのすべてが排除され、主なる神の御心のみにより、あらゆるものを超える神の御意思が、明らかにされなければならないのです。教会は、神によって立てられ、神によって生かされ、神の御心を現すものとして誕生したのです。

私たちの教会は、「すべての人間を救う」という神の御計画の中で、「聖霊の宮」として建てられ、今、ここに福音を伝道するために存在しているのです。マタイ福音書16章18節で主イエス・キリストは「わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる」と、人間を救わなければならないとの断固たるご意志によって教会を建てられたのです。私たちの教会に、この本来の姿が認められるでしょうか。神の救いの御業の不可欠の器として、私たちの教会は生きているでしょうか。教会は、決して本来の姿を失うことがあってはなりません。

聖霊の宮である「教会」に集められ、救いに生きる喜びに満たされたことが、主が約束して下さった「来るべきその日」のキリスト者の求められる姿なのです。

私たちが「救われた」、この素晴らしい恵みをお一人でも多くの方々、とりわけ愛するご家族、知人の方々にお伝えすることが、主なる神が私たちに望まれていることなのです。

お祈りを致しましょう。