2018年11月号

日本キリスト教団成宗教会

牧師・校長  並木せつ子

 

このお便りは、なりむね教会からのメッセージです。キリスト教会は神様の愛について学び、伝えます。子供さんも大人の方も、読んでいただければ幸いです。

「知恵と知識の宝はすべて、キリストの内に隠れています。」

新約聖書、コロサイ2章3節

勝田令子先生のお話

(これは今年9月16日の礼拝で話されたものです。)

聖書:創世記9:9-17

「神様の約束の虹」

勝田令子

 皆さんは、ノアの箱舟の物語を知っていらっしゃいますか?絵本や紙芝居にもなっていますから、見たことがあるかもしれませんね。なぜ洪水が起こったのでしょう?創世記6章5節に「主は、地上に人の悪が増し、常に悪いことばかりを思い計っているのをご覧になって、地上に人を造ったことを後悔し、心を痛められた」とあります。地上に人が増え始めると、人は悪いことばかり考え、悪いことばかり行い、悪が満ち溢れました。神様はこの様子をご覧になって、6章7節「わたしは人を創造したが、これを地上からぬぐい去ろう。人だけでなく、家畜も、這うものも、空の鳥も。わたしはこれらを造ったことを後悔する」とあります。そして神様はこの世の全てのものを滅ぼすことにしました。

全部滅ぼすと、何もなくなってしまいますね。そこで神様はノアを選ばれました。ノアは神様に従う正しい人でした。7章1節で「この世代の中で、あなただけはわたしに従う人だと、わたしは認めている」とあります。事実、ノアは神さまに命じられたことを「なぜ」と聞き返さず、全部言われた通りに実行していきます。神様はノアに「大きな船を造って、大洪水が来た時はその中に入りなさい」と伝えました。その舟のことを「ノアの箱舟」と言います。

6章12節には「次のようにしてそれを造りなさい。箱舟の長さを350アンマ、幅を50アンマ、高さを30アンマにして、それを仕上げなさい。」そして、「一階、二階、三階を造りなさい」とも書かれています。300アンマというのは訳135m、幅が22,5メートル、高さが13,5m暗いです。皆さんの学校の肯定は100mが直線で取れますか?50メートルは取れても100mだと取れないのではないでしょうか?そんなに大きいのです。そして、その中にノアさんの家族と、すべての動物の雄と雌一組ずつ乗せなさいと神さまはおっしゃいました。

ノアがこの箱舟を造り始めた時は、まだ、雨も降っていませんでした。大洪水なんて起こりそうもない時に、こんな大きな船を造っている人が皆さんのご近所にいたら、皆さんはどう思いますか?馬鹿じゃない…と思うでしょう。ノアの近所の人も、何をやっているんだとか、おかしいんじゃないか…と笑いました。でも、ノアは毎日こつこつとこの大きな舟を造り続けました。

そしてその後、神さまのおっしゃった通り、40日物間雨が降り、洪水が起こりました。箱舟は、雨が降って水が増え始めると、だんだん浮いて行きました。そして、ノアさんの家族と、すべての動物の雄と雌は、箱舟に入って助かったのです。そしてこの時助かった人たちから、また新しい世界が始まりました。

その後が、先ほど、並木先生にお読みいただいたところです。神様は、この出来事を記念し覚えておくようにと、空に虹をかけてくださいました。そして、全世界を滅ぼすようなことは二度としないとお約束して下さいました。これを‟虹の契約”と呼びます。

今、この世界も悪いこと、悪が満ち溢れています。ノアさんのような正しい人、すべてを神様に従う人がいなければ、この世界も滅んでしまいます。神様はこの世界を救うため、わたしたちの罪をあがなうために、大切な大切な独り子イエスさまをこの世に送ってくださいました。わたしたちはイエスさまの十字架によって救われたのです。イエス様の体である教会は、だれでも、全ての人が来ることができます。ノアさんのように、素直に神さまに、そしてイエス様に従う人になりましょうね。

11月の御言葉

「イエスはシモンに言われた。『恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる。』」

ルカ5章10節

 

11月の教会学校礼拝

(毎週日曜日、朝9時15分~9時45分)

  • 神様に感謝して祈り、歌います。イエスさまのお話、聖書について学びます。
  • お話の聖書箇所と担当の先生は次のとおりです。
11月4日(日) マタイ1:21 焦  凝
11日(日) マルコ15:33-41 並木せつ子
18日(日) ルカ5:1-11 藤野美樹
25日(日) マタイ1:18-25 興津晴枝

 

教会・教会学校からお知らせ・お祈り

「知恵と知識の宝はすべて、キリストの内に隠れています。」

(新約聖書、コロサイ人への手紙2章3節)

  • わたしたちが生きるために一番大切なことは、神さまを知ることです。
  • 皆さんの生活のすべてを恵みの道へと導いてくださる神様がおられます。この方を、聖書を通し、イエス様の教会を通して学んでください。

成宗教会・行事のお知らせ

  • 10月28 日(日)成宗教会バザーに教会学校の皆さん、お手伝い頑張ってくださいました。お父さん、お母さんのご協力も本当にありがとうございました。
  • 成宗教会では、毎年、教会学校クリスマス、大人も子どもも参加できるクリスマス祝会とクリスマス・イヴ礼拝に向けて準備を致します。楽しみに参加してください。
  • 成宗教会学校は礼拝と聖書の学びが中心です・・・イエス様が全世界に知らせてくださった神様はどのようなお方でしょうか。このことを学ぶことは大きな利益となります。
  • 礼拝の後の活動もあります。全体で1時間程度。10時半にはキチンと終わります。

神と人との正しい関係

聖書:創世記21825節, コロサイの信徒への手紙315

本日は説教題を「神と人との正しい関係」と題して、モーセの 十戒 を学びます。十戒のうちの第七の戒めです。それは、「あなたは、姦淫してはならない」という戒めです。姦淫とは、どういう意味でしょうか。古代イスラエルでは、婚約しているかまたは結婚関係にある女性が、婚約者もしくは夫以外の男性と性的な関係を持つことを意味しました。それは殺人と同じ位重大な犯罪で、両方共に死刑を免れないほどだったのです。なぜでしょうか。これは結婚の関係を破壊する悪事であるからです。破壊されるのは、夫婦関係ばかりではありません。親子関係、子供たちとの関係、年老いた親との関係にも計り知れない打撃となるでしょう。だからこそ、「あなたは、姦淫するはずがない」と戒められているのです。

この戒めの根拠は、今日読んでいただいた創世記2章に見ることができるでしょう。18節。「主なる神は言われた。『人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう。』」そこで神さまは野のあらゆる獣、空のあらゆる鳥を形づくり、人に名前を付けさせましたが、自分に合う助ける者は見つけることができ」ませんでした。そこで神さまは人を深く眠らせ、人のあばら骨から取った骨で女を造りました。アダムはすぐに大変喜んで、言いました。「ついに、これこそわたしの骨の骨、わたしの肉の肉。」

この言葉は、自分にふさわしい助ける者を動物たちに見つけることができなかったのとは、対照的な喜びでした。今やアダムは助け手を与えられました。エバはただ肉体的にアダムと共にいるだけでなく、精神的、霊的にも助けとなるものとして共にいる者となったからです。2章21~23節では、神さまは女を男のあばら骨から造られたと書かれているので、これを盾にして女は男より劣った存在とする風潮が長く世界を支配したかもしれません。しかし、これより前の1章27節では、「神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された」と宣言されています。神さまは男も女も神の形に創造されたのです。ですから、当たり前ですが、人類は男と女から成り立っています。男がなければ女は存在しないように、女がなければ男は存在しないという相互的な関係であります。

そして2章24節に戻りますが、「こういう訳で、男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる」と言われます。結婚は、人をその妻と一つの体、一つの魂に結びつける絆であります。それは、人間の他の一切の結び付きの中でも、際立って聖なる絆であるということなのです。聖なるとは、神さまが特別に分けられたという意味です。神さまは男と女を創造された時、彼らを祝福して、「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ」と言われました。ですから、生殖行動をも祝福されたことは明らかです。しかしそれは、神さまが制定された結婚の関係という秩序を守ることにおいて祝福されているのです。

結婚をこのような聖なる秩序として、絶えず大切にし、守って来た夫婦から生まれた子供たちは、そうでない夫婦から生まれた子供たちよりも結婚の秩序を守ること、すなわち第七戒の「姦淫してはならない」を守ることが当然のことだと感じるでしょう。しかし、長い人生の歩みの中で、この戒めを破る誘惑は非常に多いと言わなければなりません。旧約聖書の中で、有名なのはダビデ王の姦淫の罪です。サムエル記下11~12章に詳しく語られています。ダビデは少年時代から勇敢で忍耐強い人で、戦争で数々の勝利を収めましたが、それがかえって自分の主君の妬みを買うことになり、王を敵に回して命がけの逃避行が何年も続いたのでした。そのような地獄の年月を救ったのは、彼が信頼して止まない神さまであって、そのためにダビデは今に至るまでイスラエルの最も尊敬される王であり、イエスさまもその子孫からお生まれになった、ダビデの子と呼ばれるのです。

しかし、そのような立派な王にも大きな誘惑が訪れました。誘惑は人が苦しみに苦しんで戦っていた時では無く、九死に一生を得て、ホッとした、安心、安楽の時にこそ来るものです。ダビデは何と忠実な彼の部下が戦場で戦って留守の間に、部下の妻と姦淫の罪を犯しました。しかもそれを何とか誤魔化そうとしてできないことが分かると、部下を戦死させるように画策したのです。

ダビデ王ほど有名ではありませんが、創世記が記している姦淫の事件があります。それは、創世記39章に記されています。この物語の主人公はヨセフという少年で、彼はアブラハムのひ孫にあたります。ダビデの場合とは正反対で、彼は姦淫の加害者ではなく、被害者とされそうになりました。ヨセフは兄たちの妬みと憎しみを受けて殺されそうになったのですが、殺されず、エジプトに奴隷として連れて来られました。彼はエジプトの王ファラオの侍従長の家で働いたのですが、その妻がヨセフを誘惑しました。しかし、当時まだ未成年であったと思われる彼は、毅然として主人の妻にこう言ったのです。

39章8節。「しかし、ヨセフ拒んで、主人の妻に言った。『ご存知のように、ご主人はわたしを側に置き、家の中のことには一切気をお使いになりません。財産もすべてわたしの手に委ねてくださいました。この家では、わたしの上に立つ者はいませんから、わたしの意のままにならないものもありません。ただ、あなたは別です。あなたは御主人の妻ですから。わたしは、どうしてそのように大きな悪を働いて、神に罪を犯すことができましょう。』」68下。

ヨセフのこの気高さは驚くべきものです。彼は純真で人を疑うことなく、人に取り入ることのない人で、神さまから受けた夢をそのままに語りました。姦淫が大きな悪であると宣言したことも、自分の経験や知識から出たことではなく、神さまから受けた啓示であったに違いありません。彼はこのような性質のために罪人たちから大変な憎しみを受け、患難苦難を忍ばなければなりませんでしたが、それはすべて神さまの救いのご計画のためであったことが後に分かります。彼は自分を殺すほど憎んでいた兄弟たちを含む家族、父イスラエルを始め一族全員の命を救う者となる、それが神さまのご計画でありました。

このヨセフの物語は、後に地上に送られた救い主イエス・キリストを指し示すものであります。ヨセフは罪深い自分の家族を救いましたが、イエスさまは御自分を憎み、殺そうと謀った人々を含め、すべての罪人の命を救うために、死に至るまでの艱難苦難を忍ばれました。さて、そのお方御自身、姦淫の罪について語られているところが、新約聖書に二か所あります。その一つは、マタイ福音書マタイ5章の山上の説教にあります。27節~28節。「あなたがたも聞いているとおり、『姦淫するな』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである。」

このようにイエスさまは、わたしたちの目には見えない、従って他の人には知られない心の中の罪について指摘しておられます。すると、だれも人の前では誇れることでも、自分の中では誇ることができない罪があることを認めざるを得ないのではないでしょうか。このように、姦淫の罪は、他の罪と同様、たとえ目に見えなくても私たちの心の奥底にまでこびりついたものなのです。

それでは、一体だれが第七戒を守っていることになるでしょうか。人の心を見ておられる方は、だれ一人正しくないことを知っておられます。だからこそ、罪人を救うためにイエスさまはわたしたちの所に来てくださったのです。ヨハネ福音書8章では姦淫の罪に問われた女の人がイエスさまの前に連れて来られた、という出来事が記録されています。連れて来た人々は、「姦淫の女は律法に従って石で打ち殺すべきである」と、イエスさまが答えるかどうか、試すのが目的でした。

姦淫の罪は、神さまから祝福された結婚の秩序を破壊するもので、重大な罪であります。しかしイエスさまは言われました。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まずこの女に対して石を投げなさい」と。すると、だれも石を投げることができませんでした。これはイエスさまの起こされた奇跡の一つではなりでしょうか。イエスさまの前では、なぜか誰も自分を偽って「わたしは罪がない」と思うことができなかったからです。イエスさまが地上に来られた目的は、罪人を救うためでありますから、イエスさまは第七の戒めを破る者に対しても、死罪に当たる罪を犯した者にも、罪の赦しを与えようとしておられます。姦淫の女のように、罪のただ中でイエスさまに出会うならば、本当に自分の罪を認めない訳には行かない。本当に罪の報いとして死ぬか、罪を認めて心から悔い改め、イエスさまから罪の赦しを受けるか、その二つに一つを選ばなければならないでしょう。

今日の新約聖書はコロサイの信徒への手紙3章です。パウロは、コロサイの教会の人々に語りかけます。「さて、あなたがたは、キリストと共に復活させられたのですから、上にある者を求めなさい。そこでは、キリストが神の右の座に着いておられます」と。キリストは復活されたのは、十字架に死んだからこそ、復活されたのでした。ですから、キリストを信じるわたしたちも、キリストと共に罪に死んだからこそ、共に復活させられて、新しい命に生きるものとされたのです。

新しい命は上にあるものを求める生活です。キリストは地上を離れて神さまの右におられます。つまり、神さまと共にすべてを御支配なさる方なのです。わたしたちはこの方の執り成しによって罪赦されてキリストに結ばれ、キリストの体と呼ばれているのですから、ひたすら、イエスさまの執り成しによって、神さまとの正しい関係を求めて生きるのです。それは、神の形として造られた本来の人間の祝福に満ちた関係です。だから「上にあるものに心を留め、地上のものに心を引かれないようにしなさい」と勧められています。

すると、「地上のもの」というところを、何か禁欲的に解釈して、物を持つことを禁止したり、結婚を禁じたり、断食をしたり、そういう目に見える何かをしないといけないかのように考え、勧める人々が力を持つことがあります。また、そういう勧めによって人々の行動を支配しようとする力が働きます。しかし、神さまはこのような偽善をご存じで、決してお見逃しにはなりません。「地上的なもの」とは、5節にその例が示されているとおりで、今日のテーマに関わっています。

「だから、地上的なもの、すなわち、みだらな行い、不潔な行い、情欲、悪い欲望、および貪欲を捨て去りなさい。貪欲は偶像礼拝に他ならない。」姦淫もまた情欲であり貪欲の一例であります。お金をいくら集めても飽き足らないのと同様、立派な美しい配偶者がいるのに、姦淫をする人が後を絶たないのは貪欲の罪、偶像礼拝の罪と重なっているからだと教えられます。

このような罪を罪とも思わない人々に満ちている社会に生きています。しかも殺人は禁じている法律はあっても、姦淫にはほとんど無法状態の世の中であります。脅迫されて罪を犯さざるを得ないという危険は沢山あるのではないでしょうか。しかし、ヨセフ物語でヨセフと共にいらして彼を救った神さまは、わたしたちにイエスさまの助けという現実となって勇気を与えておられます。コロサイ3章3節です。「あなたがたは死んだのであって、あなたがたの命は、キリストと共に神の内に隠されているのです。」あなたがたの命は、キリストと共に神の内に隠されて見えなくても、そこにある!と力強く言われているのです。ですから、わたしたちの命は、見かけはそうは見えなくても、危険から守られています。神さまに従う約束を神さまは受け入れてくださいました。神さまは誠実な方です。神さまにお委ねし、頼り行くわたしたちを、神さまは欺くことは決してありません。

ですから、わたしたちは上にあるもの、すなわち神さまとの正しい関係を求め、共に生きる人々との関係を、神さまの戒めの下で慎ましく喜ばしいものにしていただきましょう。

今日はカテキズム問47を学びました。それは、第七戒は何かということです。そしてその答は「あなたは、姦淫してはならない」です。わたしたちの心とからだは、神さまのものなので、神さまの御前に純潔を守り、神と人との関係を正しく保つことです。祈ります。

 

主イエス・キリストの父なる神さま

尊き御名を讃美致します。一週間の旅路を守られ、導かれて、わたしたちは礼拝を捧げる幸いに招かれました。代々の教会と共に、主の日の礼拝を守り、地上にある主の教会の民と共にあなたを見上げて感謝と讃美を捧げます。あなたは御子イエス・キリストの執り成しによってわたしたちの罪を赦して下さり、天にある、朽ちず、しぼまない命の希望に生きる者と作り変えてくださいます。地上の日々は大きな変化に絶えずさらされ、自然の営みも人の営みも激しく変わって行くように思われます。

その中でわたしたちは、目に見える幸いを追い求めることに忙しい世に在って、あなたの御心を尋ね求める者こそ幸いであることを教えられました。どうか神さまの喜ばれることこそが、わたしたちの喜びとなりますように。あなたの喜ばれないことから遠ざかる知恵をお与えください。わたしたちの教会で計画され、行われることが、福音を宣べ伝えるあなたのご命令に従うものとなりますように。また、わたしたちが礼拝の場を去って、それぞれの生活のある所に出て行くとき、どうか福音をそこにもたらすものとならせてください。

命の神よ、わたしたちはあなたの御許に隠されているわたしたちの命を思い、感謝します。どうか、苦しみの時、悩みの時、わたしたちの命に至る道を指し示してください。地上に与えられる新たな命を祝し、またキリストの執り成しによって生まれる救いの命を祝してください。また、地上を去ってあなたの御国に目覚める命を目指して歩む教会を祝してください。わたしたちの信仰の旅路を今週もお守りください。

この感謝と願いを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

命は神さまのもの

聖書:創世記4章1-16節, ローマの信徒への手紙12章15-21節

 教会の主イエス・キリストの父である神さまは、私たちを教会に招き、恵みの福音をお知らせくださいました。私たちは、教会がこの救いをどのように信じているかを使徒信条によって学びました。そして、この教会の信仰を受け入れた者は洗礼を受け、信者の群れの一員とされたのです。救われることに優る喜びはありません。なぜなら、私たちはこの世の生活がすべてではなく、神の永遠の命と結ばれて生きているからです。そこで、私たちは救われて、神の子とされた者としてどのように生きるべきでしょうか。それは感謝の生活であります。

神さまに感謝して生活するための道しるべとして、私たちは改めて 十戒 の戒めをいただいているのです。さて、本日は十戒のうちの第六番目の戒めを学びます。第六戒は何でしょうか。それは、「あなたは、殺してはならない」です。「殺してはならない」の直訳は、「殺すことはないであろう」とか、「殺すはずがない」という意味です。つまり、わたしたちはそんなことは当たり前ではないか。この戒めに関してだけは、自分は殺す心配もないし、殺される心配もしなくて大丈夫と、何となく簡単に守っているかのような気持ちでいるのではないでしょうか。

今日は創世記4章のカインとアベルの話を読んでいただきました。カインとアベルは最初の人間、アダムとエバの子供です。神さまは人間を神の形に造られたのです。それは、すべての造られたものの中で、人間だけが、神さまの呼びかけに応えるものとして神さまの交わりに招かれたということです。神さまに出会い、神さまと対話をするということは、神さまを礼拝することに他なりません。人間が神さまに出会い、礼拝するのは、神さまへの信頼なしにはできないことです。神さまはわたしたちを憐れんでくださる。その足りないところ、失敗を赦してくださることを信じることが出来るので、全知全能の神さまの前に出ることができるのでしょう。

ところがアダムとエバは神さまとの約束を破った時、神さまが呼んでも応えないで、逃げ隠れしたのです。神さまが自分たちを赦してくれないだろうと思うので、神さまに出会うことは恐ろしいことだったからです。それでも、神さまはこの二人から祝福を残してくださいましたので、二人は労苦して働き、子供が生まれました。エバは「わたしは主によって一人の人を得た」と言いました。生れた子どもを、自分が産んだとか、自分の赤ちゃんだとか言わずに、神さまが一人の人を(口語訳、KJ版ではa man)与えてくださったと感謝しました。この二人は神さまを知らないのではなく、エデンの園から追放された後も、神さまを礼拝する家族であり続けていたことが分かります。

ところが、そのような家族の中で生まれた二人の息子に悲劇が起こりました。カインとアベルは神さまに感謝の献げ物をささげたのですが、神さまはアベルの献げ物は目を留められた一方、カインの方には目を留められませんでした。どうしてこのようなことになったのか、と私たちは原因をあれこれと詮索しますが、目に見えてこうだと言えるようなことは分かりません。しかし、はっきりと言えることは、神さまに感謝を捧げるために無くてならないものは、真心であるということです。形は立派に整っていて、人々の目には何も問題は無く、むしろ素晴らしく見えても、神さまは捧げる人の真心を見ておられます。

で預言者サムエルは次のように言いました。(サム上15:22、452頁、上)「主が喜ばれるのは、焼き尽くす献げ物やいけにえであろうか。むしろ、主の御声に聞き従うことではないか。見よ、聞き従うことはいけにえに優り、耳を傾けることは雄羊の脂肪にまさる。」正しい礼拝とは、私たち自身の真心を霊的な供え物として神さまに捧げることであります。ですから、カインの献げ物が神さまに喜ばれなかった原因は、何よりもそこにあったのです。そうだとしたら、カインは自分自身を責め、悔い改めるべきではなかったでしょうか。カインが目に見える形だけの供え物によって神さまをなだめようと考え、自分を全く神に捧げ切ろうとは少しも思わなかったに違いありません。ところが彼は自分の間違いに気がつくどころか、自分の願いがかなわないのは自分の罪のせいだとは考えないで、こうなったのは皆アベルのせいだとしました。そこで、たちまちアベルに対する妬みが火のように燃え上がったのです。

主はカインに呼びかけられました。これは神さまの叱責です。「どうして怒るのか。どうして顔を伏せるのか。もしお前が正しいなら、顔を上げられるはずではないか。正しくないなら、罪は戸口で待ち伏せており、お前を求める。お前はそれを支配せねばならない。」

妬みに燃え上がっている者は、もし自分が罪を犯したら、直ちに罰を受けるということに思い当るならば、罪を支配することもできるのですが、恐ろしいことにはそうではないのです。良心に責めさいなまれることもなく、自分の気にいることを何もかもできると思い込み、自らを欺くことになります。

私たちは神さまを礼拝する家族の中でさえ、このような妬みに駆られた恐ろしい罪が身近に起こることを教えられました。しかし、私たちはカインのようになってはならないことを、しっかりと心に刻まなければなりません。そのためには、十戒の第六の戒め「あなたは、殺してはならない」が命じていることは、単なる殺人の禁止ではないことを理解する必要があります。神さまは人を御自分の似姿として創造されました。そして罪に陥った人間の救いのために、自らの独り子を世に遣わしてくださり、人の罪を贖ってくださったほど、人の命を大切にされました。

そうすると、何があっても、殺人には至らないから良いだろうなどとどうして言えるでしょうか。たとえば人を蔑ろにする言動。いじめや人を疎んじる行動。その人格を否定するような行為のすべてを、神さまは咎めておいでになるのです。罪のない者の命が脅かされることを神さまは決して見過ごしにはなさいません。たとえ犯罪行為を告発する者がなくても、神さまは人が犯した罪について御自身が知っておられることを、聖書は示しています。神さまにとって、人間の命は罪なき者の血が流されて罰せられずには済まないほど愛すべきもの、その救いのために罪なき御子を贖い主としてお遣わしになるほど、貴いものであるということを、私たちは畏れを以て悟らなければなりません。

新約聖書はローマの信徒への手紙12章15節から読みました。十戒の『殺してはならない』という命令は、この世界で味わう苦難や試練ゆえに生じる憎しみや憤りを克服して、互いに愛し合う積極的な生き方へと転換することをわたしたちに求めています。14節から読みますと、「あなたがたを迫害する者のために、祝福を祈りなさい。祝福を祈るのであって、呪ってはなりません」と。ここに非常に高い目標が与えられています。イエスさま御自身、この勧めを私たちにくださいました。要求されていることが難しくあればあるだけ、私たちはこれを切実に追い求める努力を傾けなければならない。なぜなら、主は私たちが主に従わなくても簡単にできるようなことは、お命じにならないでしょうから。私たちは自分を守ることに必死ですから、自分を苦しめる相手に同情することはとてもできないのが常です。しかし、相手は神さまに従っている者を不当に苦しめることで、ますます自分に滅びを招いているのですから、神様はそのような者に心を配ることを、わたしたちに欲しておられます。それが救いの主に従う教会の民にふさわしい高い目標なのです。

15節「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。」兄弟姉妹の繁栄を見て喜ばないのは、羨(うらや)み、ねたみであります。また兄弟に不幸があるのを見て悲しまないのは不人情でです。私たちは、できる限り互いに他と一致し、一人の人に何が起ころうとも、他の人たちはそれを同じ思いで受け取り、艱難に遭っては彼とその深い悲しみを共にし、あるいは、繁栄に遭っては喜びを共にする。これが教会に与えられている目標です。

「互いに思いを一つにし、高ぶらず、身分の低い人々と交わりなさい。自分を賢い者とうぬぼれてはなりません。」ここは身分の低い人々と訳されていますが、人々と言うより、低いもの、慎ましさを意味します。高ぶった思いと対照的に心の謙りが強調されているのです。たとえば、誉れを人から奪って自分のものにするのではなく、誉れを人に譲ることこそ、イエスさまに従う者にふさわしいのではないでしょうか。17節。

「だれに対しても悪に悪を返さず、すべての人の前で善を行うように心がけなさい。」すべての人の前で善を行う目的は、人々が私たちの行いに感心し、私たちが称賛されることではありません。イエスさまは言われました。マタイ6章4節。「あなたの施しを人目につかせないためである。そうすれば、隠れたことを見ておられる父が、あなたに報いてくださる。」18節。

「できれば、せめてあなたがたは、すべての人と平和に暮らしなさい」と勧められています。できるならばと言われていますのは、この世がサタンを頭としている以上、この世と永久的な平和を維持することはできないからです。私たちは平和のために、できる限り多くを忍びますが、しかし必要に迫られる時には、厳しい戦いをする備えをしなければなりません。そして、19節。「愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りにまかせなさい。「『復讐はわたしのすること、わたしが報復する』と主は言われる」と書いてあります。サタンに支配されている者と同じ土俵に立って仕返しをすること自体、サタンの支配下にさらされる非常に危険なことなのです。それを避けなさいと主は言われます。

更に、復讐どころか、「あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ」と勧められています。「そうすれば、燃える炭火を彼の頭に積むことになる」と。悪に報いるに悪をもってしようとすることは、この悪に負けたことになります。それに対して、悪に善をもって報いるならば、これによってわたしたちは神に従う者の一貫性を証明することになります。これこそが悪に対する勝利ではないでしょうか。真に、悪によって悪に勝とうとする人は、その行いそのものによって悪魔に仕えているになってしまうからです。

イエスさまはおっしゃいました。マタイ7:12「だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがも人にしなさい。これこそ律法と預言者である。」11下。

今日の学びはカテキズム問46「第六戒は何ですか」でした。その答は「あなたは、殺してはならない」です。わたしたち人間の命は神さまのものです。その命はイエスさまが十字架にかかって贖ってくださったほどに値高いものです。だから、自分の命も含めて、誰の命も粗末にしたり、殺してはならないばかりか、それを愛することを神さまは求めておられるということです。

教会の主と共に生きるわたしたちは高い目標を与えられています。私たちは自分の好きな人と共にいたい。そして敵対する人はもちろん、自分の気に入らない人はなるべく遠ざけたい。自分にひどいことをする人には仕返しをしたい。この世の考えに従って生きて来ました。しかし、救われた者には高い目標が与えられています。それは教会の主イエスさまの与えられた目標です。

「私の羊を飼いなさい」と主は言われました。私も伝道者としてこの教会に招聘された時、この人々がわたしに任された羊と思って、万難を排して教会にとどまり、牧会を続けて参りました。当時の教会の人々の中には私を受け入れがたい様子が感じられました。しかし、私を知って私を憎んでいるからではないことを私は知っておりました。昔の牧師、前の牧師が懐かしいあまり、後任者を受け入れがたいのだと理解しました。しかし、その当時対立したことが嘘のように、今は教会に残っている方々と新しく加わった方々と助け合って主に仕えています。それは私たちの人間的な懐かしさとか、好き嫌いを超えて、私たちを一つにしてくださる主の聖霊の働きによるのです。

私たちは今、新しい教師を迎えるために準備を始めております。私たちはどんな備えを為すべきでしょうか。それは、祈りです。ふさわしい教師をお与えくださいと、祈りに祈ることです。真心から祈るなら、主は私たちの祈りに応えてくださるでしょう。そして準備して、迎えることができたならば、その先生が主の教会の働きのために遣わされたことを確信することが大切です。決して、後ろ向きになってはならない。必ず、前を向いて小さな群れを愛して命を捨ててくださった主に従って参りましょう。祈ります。

 

主なる父なる神さま

本日の聖餐礼拝を感謝します。主イエス・キリストの恵みによって立てられた救いが私たちにも与えられていることを確信し、ただ感謝を以て本日の聖餐に与らせてください。礼拝に参加できない方にも、主の日を覚えさせ、聖霊の助けによって私たち、心を一つにさせてください。また年々年を取って行くわたしたちが最期の日まで、安らかに健やかに主を仰ぎ見る生活を送るために、私たちの決意を新たにさせてください。

成宗教会は後任教師の招聘を求めております。どうかこのために備える祈りを篤くしてください。ふさわしい道が開かれますように。招聘委員会である長老会の働きを強め、また教会員一人一人が、自分の教会の大切な働きを覚え、主の御業がこれからもこの教会を通して行われるように祈る者となりますように。主よ、祈りをもって支え、主の与え給う教師を感謝を以て迎え、喜んで支えていく決意に至るまで、どうぞ私たちの日々をお導きください。どうかあなたに仕える教会の群れを今週も守り導き、あらゆる困難、労苦の中にあっても、災いから救い出して命を得させてください。本日行われる長老会の上にあなたの恵みのご支配を祈ります。

主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

2018年10月号

日本キリスト教団成宗教会

牧師・校長  並木せつ子

このお便りは、なりむね教会からのメッセージです。キリスト教会は神様の愛について学び、伝えます。子供さんも大人の方も、読んでいただければ幸いです。

「知恵と知識の宝はすべて、キリストの内に隠れています。」

新約聖書、コロサイ2章3節

山口智代子先生のお話

(これは今年9月30日の礼拝で話されたものです。)

聖書:創世記15章1-6節

「アブラハムの信仰」

山口智代子

アブラムは、75歳の時に、神様の言葉を聞きました。「あなたは、生まれ故郷、父の家を離れて、わたしが示す地に行きなさい。わたしは、あなたを大いなる国民にし、あなたを祝福しあなたの名を高める祝福の源となるように。あなたを祝福する人をわたしは祝福しあなたを呪う者をわたしは呪う。地上の氏族はすべてあなたによって祝福に入る。」

アブラムは、神様を信じて、神様の言葉に従って、旅立ちました。行く先も知らないで旅たちました。アブラムは、奥さんのサライ、甥のロトを連れて、カナンに着きました。そこで、神様はアブラムに「あなたの子孫にこの土地を与える。」と約束して下さいました。

それから、アブラムの回りでは色々大変なことが起こりました。飢饉が起こって、エジプトへ逃げたこともありました。飢饉というのは、作物が十分に実らなくて、食べるものが足りなくなって、人々が飢えることです。食べるものがなくては行きていけないので、エジプトへ逃げました。

それから、周辺の国々の争いに巻き込まれてしまいました。甥のロトと財産が奪われてしまったのですが、神様の助けがあって、ロトを助け出すことができました。どんな時でもアブラムは、神様を信じていました。でもアブラムには、恐れと不安がありました。争いには勝ってロトを助けることができましたが、また敵に襲われるかも知れないと思っていたでしょうし、それ以上に、自分には跡継ぎがいないことを不安に思っていました。

そのような時、神様は、アブラムに呼びかけられました。「恐れるな、アブラムよ、わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報いは非常に大きいであろう。」と神様は言われます。

神様は、アブラムを守り、非常に大きい贈り物を与えると約束して下さいました。アブラムは、神様の言葉を聞いて、自分の不安を神様に言いました。「我が神、主よ、私に何をお与えになるのですか。私には、まだ子がありません。私の家の相続人は、あのダマスコのエリエゼルになるのでしょうか。ご覧下さい。あなたが子孫を私に下さらないので、私の家の奴隷が私の跡取りになるでしょう。」と言いました。

その時、アブラムは、75歳で、奥さんのサラは、65歳でした。普通、その年では、子供が出来るとは考えられません。その前から自分達にはもう子供は生まれないと思っていたので、エリエゼルという家の使用人を養子にして、自分の跡を継がせようと考えていました。

ところが神様は、「その者が跡を継ぐのではなく、あなたから生まれる者が跡を継ぐ」とはっきり約束して下さいました。それから神様は、アブラムを外に連れ出して、「天を仰いで、星を数えることができるなら数えてみるがよい。」「あなたの子孫はこのようになる。」と言われました。神様は、アブラムの子孫が空の星のように増えるとを約束なさいました。

アブラムは、神様の言葉を信じました。神様は、アブラムが神様の言葉を信じたのをご覧になって、それを彼の義と認められました。「義と認めた」というのは、アブラムが神様を信じたことを神様は「正しいこと」を認められたのです。神様の御心に従ったと認められました。自分の力では出来ないこと、不可能なことをアブラムは、そのまま信じました。その信仰が、アブラムを義としました。全てを神様に委ねて、神様には出来ないことはないと信じました。アブラムも将来のことを不安に思っていたように私たちも色々心配なことや不安に思うことがあります。私たちが神様を信じていれば、神様は、明日のことを準備して下さり、私達のことを守って下さいます。そして、神様は、必ず約束を実現して下さいます。いつ実現して下さるかは、私達にはわかりません。私達が望む時ではないかも知れません。アブラムは、神様が約束して下さる未来を信じました。

その後、アブラムは、神様に命じられてアブラハムと名を変えました。奥さんのサライも名を変えるように命じられて、サラになりました。アブラハムが100歳、サラが90歳の時、サラは男の子を生みました。そしてその子はイサクと名づけられました。神様とアブラムとの約束通りに、アブラハムの子孫は増えて、国ができるまでになりました。神様に出来ないことはありません。神様は、信頼できる方です。いつも私達を愛し、私達をまもり、導いて下さいます。全てを神様にまかせて、神様を信じ、神様を信頼して、毎日元気に生活していけたら良いと思います。

10月の御言葉

「「主に望みをおく人は新たな力を得、鷲のように翼を張って上る。走っても弱ることなく、歩いても疲れない。」

イザヤ書4031

10月の教会学校礼拝

(毎週日曜日、朝9時15分~9時45分)

  • 神様に感謝して祈り、歌います。イエスさまのお話、聖書について学びます。
  • お話の聖書箇所と担当の先生は次のとおりです。
10月7日(日) コリント(一)15:1-11 並木邦夫
14日(日) イザヤ書40:27-31 並木せつ子
21日(日) 創世記18:9-15 並木せつ子
28日(日) ルカ15:11-24 興津晴枝

 

成宗教会学校からお知らせ

  • 成宗教会学校は礼拝と聖書の学びが中心です・・・イエス様が全世界に知らせてくださった神様はどのようなお方でしょうか。このことを学ぶことは大きな利益となります。
  • 礼拝の後の活動もあります。全体で1時間程度。10時半にはキチンと終わります。
  • 教会学校は、幼児(初めは保護者とご一緒に)から高校生、大人の方でも参加できます。親子でもご参加ください。また、中学生以上の方には、10時半~11時半のからの礼拝もお勧めしています。

人は神を忘れるけれども

永眠者記念礼拝説教

聖書: 創世記4章1-16節, マタイ27章15-26節

 成宗教会は本日の礼拝を、永眠者記念礼拝として守ります。写真の大きさで区別しているのではありませんが、1940年にこの教会が創立されて以来、この教会に仕えて地上の生涯を終えた教職の方々の姿を、私たちは大きな写真によって思い出しております。太平洋戦争の起こる前から始まった集会です。欧米の宗教であると敵視された時代も、戦後のキリスト教ブームの時代も経験しました。そしてまた人々が物質的に豊かになり、心の豊かさを求めなくなり、魂が飢え渇いて行く時代をも経験してきました。

ここに写真によって見ることができる方々は、そういう時代を経験したのでした。そういう激動の時代を生きて、福音に出会った方々。そして福音から遠ざからなかった方々です。教会にとどまり、教会の主であるイエス・キリストを仰いで、生涯を終えた方々です。

福音とは、イエス・キリストがわたしたちの罪の身代わりとなって死んでくださったことです。私たちの身代わりであるということは、わたしたちはもう罪は問われない。罪赦されたということに他なりません。罪人にとってこれより良い知らせがあるでしょうか。イエス・キリストは御復活され、わたしたちのために成し遂げた救いの御業を、全世界の人々に告げ知らせるために、信じる者を世に遣わし、福音を宣べ伝えさせてくださいました。キリストは天に昇り、今もわたしたちの祈りを聞き上げて、主なる父なる神様に私たちを執り成して下さいます。私たちの日々の過ち、小さな罪から大きな罪まで、わたしたちの救いの妨げになるものを、取り除いてくださるのです。

この福音を信じて教会にいるということは、どんなに計り知れない恵みであるであることでしょうか。私たちは、今、先に召された方々と兄弟姉妹とされています。それは主イエスを信じて神の子とされ、主の兄弟姉妹とされているからです。しかし、わたしたちの内には、先に召された方々と血縁の関係、または姻戚関係の子孫もいることでしょう。そのような方々は、特別な恵みを受けている喜ばしい方々です。わたしたちは家族を看取り、見送り、神さまの御許に召されるために、できるだけのことをすることができますが、しかし、わたしたち自身についてはどうなるのか、自分で決めた通りにできるという保証はありません。私たちがそれぞれ、召される日まで歩み、生涯を安らかに全うすることができるのは、一重に家族、隣人、社会の人々の誠実さによって支えられてのことなのです。そのために、わたしたち自身が主の御前に誠実に立ち、人々を執り成して祈り続けることがどんなに必要であることでしょうか。

今日読まれました創世記4章はカインとアベルの物語。彼らはアダムとエバの最初の子らです。最初の人アダムは神に禁止された実を食べた結果、神との隔てない交わりを避けるようになりました。すなわち、罪とは人が神に背を向ける。呼びかけに答えない、ということです。出来れば神を忘れて好きなように暮らしたい、ということであります。

そのような罪に陥った二人は楽園から追放され、苦しんで働き、苦しんで子を産むことになりました。それでも彼らは神から子孫を与えられたと言って感謝しました。神は背いた人を滅ぼさなかったのです。そして彼らは息子たちに教えたのでしょう。カインとアベルは成人してそれぞれ働きの成果、収穫を手にしたとき、神に献げ物をしたのでありました。すなわち収穫感謝の礼拝です。感謝を捧げることは、「わたしたちが受けているものは皆あなたからいただいたものです」と告白するその言葉を形に表すことです。

ところが聖書は、「主はアベルとその献げ物には目を留められたが、カインとその献げ物には目を留められなかった」と語ります。人は見た目でいろいろと評価しますが、神は人の心を見る方です。献げ物を捧げるアベルとカインの心を見ておられたのです。主イエスは礼拝についてヨハネ福音書でこのように語られました。「神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。」(ヨハネ4:24…170上)「霊と真理をもって」とは、「心から」、「真心を込めて」、「誠実の限りを尽くして」、という意味です。また、ヘブライ人への手紙の記者はアベルについて次のように述べました。「信仰によって、アベルはカインより優れたいけにえを神に献げ、その信仰によって正しい者であると証明されました。神が彼の献げ物を認められたからです。アベルは死にましたが、信仰によってまだ語っています。」(ヘブライ11:4…414下)

そうすると、神に目を留められなかったカインの方は、献げ物に問題があったというより(そういうところにも表れたのかもしれませんが)、彼の、神に献げる態度に問題があったと考えなければならないでしょう。形式的にはいかにも整って立派な礼拝を捧げているようであっても、その心を神は問うておられます。すなわち、礼拝者が神を畏れ、喜んで神に従う心をもっているのかどうかです。世に偽りの礼拝というものは後を絶ちません。それは、表向き神を敬っているように見えながら、心の中では神を侮り、何とか宥めすかして、自分の思いどおりに神を動かそうとするのです。

カインの献げ物は正にそのようなものであったのでしょう。ところが、彼は自分の心の罪に気がつかない。従って自分を反省するどころではありません。神に対して激しい怒りを発するのでした。神は不公平だ、自分は不当な扱いを受けている!と。常日頃、真の神を尋ね求めることをせず、まして聞き従おうなどとは夢にも思わず、全く神を無視して生きているのに、何か悪いことが起こると、神などあるものか、神はひどい!と罵詈雑言の数々を並べたてる人々がいます。彼らは自分を顧みず、間違いに気がつかず、悔い改めからは程遠いのであります。

恐ろしいのはその次です。そういう人々は神に対する怒りを、隣人にぶつける。罪もない隣人に猛烈に当たり散らすのです。その結果であるアベルの死は人間が神から離れることの恐ろしい結末を表します。もし、わたしたちにこの世界のことしか希望がないならば、アベルのように悪の犠牲となる人々に慰めは全くないことになるでしょう。

それでも神はカインがしたように、カインを不意に襲って滅ぼすなどということはされませんでした。カインは神を忘れ、神を無視して行動しました。しかし、神はそうではありません。カインを思い、カインの心に語り掛けます。「お前の弟アベルはどこにいるのか。」カインは答えます。「知りません。わたしは弟の番人でしょうか。」恐ろしい居直りであります。まるで「わたしは弟を守るように頼まれたことはない。だから殺そうが何をしようが構わないでしょう」と言わぬばかりです。そう口答えしながらも、彼は気がついて行きます。これは人と人との問題ではない。自分と神との問題なのだと。神が言われたひと言、「お前の弟の血が土の中から叫ぶ」この一言によって、神は彼のしたことを赤裸々に示し、その犯罪の恐ろしさを強調し給うたのです。

神と争って神から離れて生きようとする者の至る不幸な結末がここに示されました。彼は地上を放浪する者となりました。神を信頼せず、神を離れ、神を忘れて勝手に生きたいのですから、自分の都合で生きるより他はありません。聖書は、それでも神はカインが殺されないように守ってくださったと語ります。ひどい犯罪、理不尽な殺人事件などが社会に後を絶ちません。裁判員裁判で裁かれると一般に量刑が重くなる傾向が報告されています。無理もないことで、素人の目にはこんなひどい人が平然と生きているとは許せない、という思いがあるでしょう。

しかし、神の思いは計り知れません。神はカインが犯罪者として打ち殺されないように、しるしをつけられたのでした。神から離れてさまよう人生。従って神の御許に安らう希望を持たない人生。彼のそのものが、神の厳しい裁きであったのでしょう。しかし、重ねて申しますが、神の思いは計りしれません。このような人の子孫にも救いの道が開かれたのです。私たちは今日、マタイ福音書27章を読みました。主イエスを十字架につけようとする人々は一体誰でしょう。私たちは皆、自分はカインのようではない、と思いたいのです。まして、世の人々は、自分は違うと言うことでしょう。

カインは形の上では、立派に献げ物を捧げて礼拝したように見えます。そして自分でもそうした、と信じています。主イエスを十字架につけようとした人々、そのために画策をした人々も同じではなかったでしょうか。彼らは表向き、神を礼拝していました。立派に献げ物を捧げ、人々から尊敬されていました。ところが心は神から遠く離れていました。救い主、メシアを待っている人々の指導者であったのに、実はメシアを待っていなかった。神の恵みが現れる時、自分たちの権威を捨て、神にひれ伏さなければならないことを知っていたからです。神が遠く離れていてくださる方が良い。神が遠くにおられるなら、自分たちが神に成り代わって権威ある支配者として人々の上に君臨出来たからです。

そのためには、今自分たちを属国として支配しているローマ帝国に対しても、お世辞を言い、うまく取り入り、宥めすかして、自分たちの要求を実現するために利用することもやってのける。本当に神を畏れ、神を礼拝することとは程遠い偽善がそこにありました。

ローマ帝国の役人であるポンテオ・ピラトは、この彼らの醜い企てを見抜いていました。彼らはメシア・イエスを十字架に付けるためには、犯罪者、殺人者であるバラバ・イエスを解放することを要求したのです。ここで起こった本末転倒は、人間の罪の深さを証しします。異邦人であるピラトが理不尽だと、できれば阻止したいと思ったこと。異邦人であるピラトの妻が夢によって(当時夢は神の啓示として重んじられた)義しい人と証言したことが、偽善の罪の深さを示しています。

しかし、だれも主イエスの十字架を止めることはできませんでした。弟子たちもできませんでした。だれもが主イエスに罪はないと知りながら妨げることはできなかったのです。それは、だれもが神の差し出された真心を受け止めることができなかった罪を表しています。そして同時に、だれもが阻止できなかった十字架の死こそ、わたしたちの罪を贖う尊い犠牲でありました。私たちはこの主の福音を受け入れて、教会を建てた方々と共に、主の罪の赦し、復活の体に結ばれています。今、わたしたちが永眠者として思い起こしている方々の多くは、戦争の時代、復興の時代、いろいろな時代を生きて、教会にとどまっていました。それは主の霊がわたしたちと共にいらしてくださったからです。

人間は、神の被造物として造られ、神に似たもの、神のかたちとして造られました。善いものとして、祝福されたものなのです。神さまが呼びかけ、人が応える関係、本当に親しく喜ばしい関係に生きるために、人は造られました。しかし、人は神さまから離れてしまいました。神さまのことを忘れてしまいました。神さまに背を向けて生きている結果は、人と比べ、人を妬み、人を憎み、孤独になりました。すべての人と人との善い関係は、本当は神との関係を回復すること無しには築けないのです。なぜなら、人が与えられている持ち物も、能力も、健康もすべては神から与えられているように、人との善い交わりも神から与えられるものだからです。

人は神を忘れ、神を無視して生きていようとも、神は人をお忘れにならず、イエス・キリストを救い主と信じて執り成される者の罪を赦してくださいます。罪人をお忘れにならず、罪から救ってくださる神をほめたたえましょう。祈ります。

 

教会の主イエス・キリストの父なる神さま

尊き御名をほめたたえます。本日は地上での働きを終えて御許に召された成宗教会に連なる永眠者の方々を御前に覚えて、感謝の礼拝を捧げました。私たちは目の前の悩みに日々を過ごして折る、貧しい者でありますが、あなたはここに主に仕えて生涯を全うされた教職の方々、信仰の先輩の兄姉を憶えて、わたしたちを励まし、慰めてくださいました。時代が移り変わり、わたしたちの力も知恵も移り変わりますが、わたしたちはただ代わることのないあなたの慈しみとその御力に信頼して参ります。

真に自分の背きの罪に気づくこと遅く、日日の小さな事にとらわれて思い煩ううちに年月が飛ぶように去っていきます。主よ、どうか私たちに自分に残された時を数える知恵をお与えください。真にご高齢の方々が示してくださった善い歩みを見上げ、信仰の道を歩み、あなたから与えられた務めを家族の中で、職場で、病院や施設においても果たすために、わたしたちをお用いください。それぞれの年代の人々に対して、慰めとなり、励ましとなる生き方を私たちにお与え下さい。

なによりも、主イエス・キリストの良い知らせ、福音によって教会が立てられますように、どうか成宗教会を東日本連合長老会の諸教会と共に伝道する群れとしてください。あなたの御旨は広く深く、全世界に広がっています。どうか主の平和を教会に打ち立て、全国全世界の教会と共に、主イエス・キリストの御支配の下に、世界の平和を実現して下さい。今、東アジアの政情が緊迫していると伝えられます。貧しい人々を顧み、主よ、憐れんでください。戦争の悲惨から人々を救ってください。国々の為政者が主の御支配の下により良い道を選ぶことができますように助けてください。

本日のすべてを感謝し、主の聖餐に与ります。どうか、主の聖霊によって私たちの隣人である家族、友人が福音を聞き、キリストを救い主と告白する日が来ますように。特に召天者の方々のご家族のために、豊かな祝福と顧みをお願い致します。

最後に、2週間後に迫りました、今村宣教師ご夫妻の上に、主の豊かな助けが聖霊によって与えられますように。ご健康とご準備が祝されることを祈ります。

この感謝と願いとを、我らの主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。