祈りの格闘

聖書:創世記32章23-33節, ヨハネの手紙一 5章13-15節

 年の初めと言えば、普段はお祈りのことが全く話題にならない世の中でも、元朝参りから始まるお祈りに関心が集まる季節です。それにしても何気なくテレビを見ていると、マスコミは神社、仏閣の様子を映して一生懸命宣伝をしているように見えますが、このことも海外から観光客を呼ぶために貢献しているのでしょうか。あまりにも多くの人々があちらを拝み、こちらを拝んでいるのを見ているので、わたしたちはそういう様子にとても慣れてしまっております。日本の教会は平日だれでも自由に出入りできるように玄関を開放しているところは少ないと思いますが、教会の北側にあるお地蔵さんを拝むために立ち止っている人々を時々見ますので、教会も戸を開けておくと祈るために来る人がいるかもしれません。

しかし、このように神仏と称するものを何でもかでも拝む人々の祈りと、教会の祈りは全く違うのですが、わたしたち自身、その違いをどこまではっきりと意識しているでしょうか。わたしたちは思うのではないでしょうか。「家内安全とか、無病息災とか、わたしたちも願っているではないか。祈っているではないか。祈る気持ちはだれも一緒ではないか」と。そう思うのは、祈ることについて考えるときに、わたしたちは、まず祈りの内容から考え始めるからです。

本日の信仰問答は「祈るときに大切なことは何か」についてです。み言葉に聴きましょう。わたしたちが祈るときに何よりも大切にしていることは、祈りを聞いてくださる相手です。すなわち祈りを聞いてくださるのは真の神さまだけである、ということなのです。祈ること自体、相手が誰でもいいから四方八方頭を下げるという、まるで選挙の立候補者みたいなことをするのではありません。そうではなく、本当に祈りを聞いておられる方に祈るのです。真の神さまがおられる。そして良いものを与えてくださるのは真の神さまだけだと信じて祈ります。

そうすると、わたしたちにとって良いものが何か、それを本当にご存じなのも神さまだけ、と信じていることになりますから、わたしたちの祈りは、自分の願いを祈るだけでなく、それと同時に神さまにすべてをお委ねして行くことになります。わたしの願いはこれこれだけれども、すべてを御存じの神さまはきっと最良のことをしてくださる、と信じることができる。真にこれよりも平安なことはありません。

けれども、わたしたちの人生には、大きな試練に見舞われることがあります。自分の身に起こること。またそればかりでなく、それまであるのが当たり前であったものが突如、無くなってしまう、あるいは変ってしまうということは、わたしたちを危機的な状況に陥れます。その時、「わたしの願いはこれこれだけれども、神さま、どうぞ御心のままになさってください」と祈ることが、果たしてできるでしょうか。

今日、私たちは創世記32章を読んでいます。これは、アブラハムの子、イサクの子、ヤコブの物語で、ヨルダン川のヤボクの渡し場を渡ろうとしたときの不思議な出来事が描かれています。ヤコブは家族と共に旅をして、故郷の兄エサウとの再会を目指していました。彼は若い時、兄エサウの怒りから逃れるために故郷を去り、伯父の家で働く者となりましたが、この伯父も狡猾、また冷酷な人で、ここも平安な居場所はありませんでした。彼は厳しい仕打ちを受け、耐え忍んで20年、ついに故郷に帰る決心をしました。しかし、故郷の兄はそれを知ってヤコブに会いに出て来るというのです。

ヤコブはその夜、家族と召使いと家畜や持ち物すべてを川の向こうに渡らせ、自分は独り残りました。すると何者かが来て夜明けまでヤコブと格闘したというのです。ヤコブのこの目に見える格闘こそ、教会の人々が日々経験している祈りを象徴しているのではないでしょうか。なぜなら、私たちの試練の時も、私たちは正に神さまと格闘しなければならないからです。しかし、一体だれが神さまに逆らって立つことができるでしょうか。神さまと競争しようとすること自体傲慢で無謀なことではないでしょうか。

しかし、驚くべきことですが、また感謝なことですが、神さまは私たちがこのようにご自分に立ち向かって来ることを喜んでおられるのです。だからこそ、見えない方が、従って、立ち向かおうにも、立ち向かうことなどできない方が、こうして見える姿、(夜の暗闇の中でしたが)人のような姿でヤコブと格闘するために現れたのです。わたしたちはこのように神さまの力によらなければ、助けによらなければ、神さまと戦うことなど決してできないのです。神さまはこの戦いへとわたしたちに挑戦し給うのです。「さあ、かかって来なさい」と無言で挑戦してくださるのです。そして、それと同時に、神さまはわたしたちが抵抗して戦う手段を私たちに備えてくださるのです。これは不思議な戦いです。神さまはわたしたちと戦うと同時に、わたしたちのために戦ってくださるからです。

これが祈りの格闘です。要するに神さまは、わたしたちと片方の手で戦いながら、その間に、もう片方の手でわたしたちを守ってくださるというやり方で格闘を行ってくださいます。神さまは、いわば左の手ではわたしたちに敵対して戦い、右の手でわたしたちに味方して戦ってくださり、その結果は、わたしたちがしっかりした力を与えられて試練を克服できるようにしてくださるのであります。このような祈り。このような祈りを神さまは聞いてくださるのではないでしょうか。

32章26節。「ところが、その人はヤコブに勝てないとみて、ヤコブの腿の関節を打ったので、格闘をしているうちに腿の関節がはずれた。」ここにヤコブの勝利が描かれています。しかし、この勝利は彼に傷を負わせずには、得られなかった勝利でし。前にお話したように、ヤコブと戦うために天使の姿で現れているのは、創世記がわたしたちに理解させるために人間的な表現を取っているからです。そうでなければ人間が神さまと格闘するということは表現できないからです。こうしてヤコブは闘いに勝利したのですが、天使は彼の腿を打ったので彼は生涯足が不自由になりました。しかし、この不自由さは彼の信仰の勝利のしるしとなりました。そして、このしるしによってすべての信仰者は自分の受ける試練において祈り、勝利を得ることができることが明らかになったのです。

祈りが聞かれるということの奥の深さを思うことができるならば幸いです。私たちは祈りの格闘をし、勝利を得るならば、その喜びはどのようなものでしょうか。しかし、喜びのあまり得意になって、有頂天になって神さまを忘れるようなものでしょうか。それはちがうでしょう。神の力は私たちの弱さにおいて完全なものとなります。というのは、本当に救われた者の喜びは、同時に私たちを謙虚にさせるものですから。27節です。

「もう去らせてくれ。夜が明けてしまうから」とその人は言ったが、ヤコブは答えた。「いいえ、祝福してくださるまでは離しません。」ヤコブは祝福を求めました。私たちは礼拝の最後に牧師の祝祷を受けますが、本当に私たちを祝福するのは、神さまだけにあるご性質なのであります。この神さまのご性質を職務としていただいているので、牧師は神の言葉を説教し、また人々を祝福することができるのですし、そうしなければなりません。私たちはこのことから教えられることがあります。それは、あれやこれやの具体的なことを祈ることはもちろん良いのですが、何よりも祈らなければならないことは、神さまの祝福、すなわち聖なる、神さまだけがお与えになることができる恵みをいつも求めることなのです。それは、具体的なあれこれの願い事、無病息災など祈って、それが叶えられた途端に、神さまから遠ざかり、眠りこけたような人生を送るよりもはるかに価値あることではないでしょうか。

祈りの格闘にご臨在される神さまを、聖書はヤコブの物語に証しします。わたしたちは神がご臨在されることを感得しない限り、得意になって自分に満足しているものです。そしてこのことは、人間が地上のことに傾倒している時、愚かにも自分を誇っている空想の命にすぎないのです。新約聖書、ヨハネの手紙一5章13節は語ります。「神の子の名を信じているあなたがたに、これらのことを書き送るのは、永遠の命を得ていることを悟らせたいからです。」教会はもちろんまだ福音を知らない人々に伝道をしているのですが、決してそればかりではありません。既に信仰を告白し、洗礼を受けて教会に連なっている人々にも、教えを広め続けているのです。なぜなら、わたしたちの信仰は日々成長して行かなければならないからです。一層堅固で確実な信仰を持って、永遠の命に確実に与ることをわたしたちは目指しています。

そのためにヨハネの手紙が勧め、戒めたことは、このことです。キリストの他に永遠の命を求めてはならない。力を尽くしてキリストの恩恵をたたえ、讃美し、彼らがこの恩恵に心満たされて、もはやそれ以外の何も欲しないように。ここでわたしたちはカテキズムの今日の問に立ち帰りましょう。問54 「祈るときに大切なことは何ですか。」そして、その答は「神さまだけが最も良いものを与えてくださることを信じて感謝し、熱心に求めることです。」教会はイエス・キリストによって神さまの真実のお姿、ご性質を知らされました。イエスさまによって永遠の命をいただく希望を信じたのです。ですから、「あちらを信じれば良いものがもらえるかもしれない」「いや、こちらにもお願いすればもらえるかもしれない」という祈りでは決してない、ということです。

また、真の神さまならわたしたちの願いを皆叶えてくださると思うことも正しくありません。ヨハネ一、5章14節。「何事でも神の御心に適うことをわたしたちが願うならば、神は聞き入れてくださる。これが神に対するわたしたちの確信です。」なぜなら、私たちは本当に自分に何が幸いなのか、良いことなのかを理解していないのですが、神さまは最も良いことを知っておられ、私たちが信頼するならば、それを実行に移してくださる方だからです。ヨハネの手紙は神さまに対する確信について、それがどこにあるかを教えるのです。確信は、キリストを信じて大胆に祈り求めれば与えられるのだと。

イエスさまは言われました。「わたしは道であり、真理であり、命である」と(ヨハネ14章6節)。真にイエス・キリストこそは信仰の本来の目的です。ですから、イエスさまのお名前を通して、祈ることを実践することこそ、わたしたちの信仰の訓練であり、また試練でもあるのです。祈りが聞かれるということは、本当に信頼して大胆に祈るのでなければ、実感することができないからです。そして、イエスさまによって伝えられた天の父の御心を日々深く知るように努めることがなければ、本当に父、御子、聖霊の神さまを信頼することはできないのです。真に不信仰な世に在って、わたしたち自身も確信に乏しい信者であっても、それでも世界中に教会が建てられ、み言葉が伝えられ、祈りがささげられている現実を見る時、神さまの憐れみと忍耐が、どんなに世界を覆っているかを思わずにはいられません。

私自身は戦争のない真に豊かな時代を70年生きましたが、それでも人々が老いと病と死に苦しんでいる有様を見、ここに神さまの悲しみと救いの熱意を感じて献身しました。自分自身50年生きて後の献身でしたので、ほどなく高齢者の列に加えられました。教会は今、目の前にいるわたしたちで成り立っているように見えるのは無理もないことですが、実は過去の信者の信仰の恵みが祝福されているからこそ、後に続いて行くものです。それぞれの時代にそれぞれの信者に多くの試練があったでしょう。しかし、共に祈った所に教会が残りました。祈りの格闘があった所に、大胆に祈るところに信仰の確信が与えられました。

今、成宗教会は後任の先生方をお迎えしようとしています。同じ信仰告白によって立ち、同じみ言葉の説教によって聖礼典によって教会を建設しようという志を以てお出でになります。お若い教師の方々をお迎えするために、祈りをもって、感謝を捧げて、備えましょう。主が私たちの必要を満たしてくださることを信じて。祈ります。

 

主なる父なる神さま

御名をほめたたえます。本日は祈りについて学びを進めることができ、感謝です。成宗教会に祈りがあり、あなたの憐れみと恵みがありましたので、教会はこの地に立ち続けることができました。多くの人々がここで洗礼を受け、礼拝を守りました。今、教会は東日本連合長老会の一員となって共に学び、教えを受けていますことを感謝します。また8代目の私の退任の後、新年度には新任の教師の先生方を迎えようとしております。藤野雄大先生、美樹先生のご健康とご準備の上にあなたの恵みが豊かにございますように。

また、どうかこの時に私たちを励まし、あなたに感謝を捧げる者とならせてください。高齢の教会員が礼拝に足を運べなくなって改めて、礼拝に心を向けて祈っておられます。どうかすべての教会員が忙しい生活の中で礼拝を守り、み言葉を聴くことを何よりも大切なこととすることができますように。日曜日に休めない仕事の方が増える中でも、神さま、み言葉なるキリストに従うために、すべての教会員がこの志を持ち、そのために祈りを篤くすることができますように、助けてください。そのことによって、主よ、何よりも礼拝を大切にすることによって私たちが次の時代の先生をお迎えすることができますように道を開いてください。

教会長老会の働きを感謝します。教会記念誌編集の歩み、また会堂の整理整頓の歩みが導かれ真に感謝です。どうか長老の方々の健康が守られ、ご家庭が整えられますように。新しい先生方と心を合わせて奉仕する長老、信徒となりますように励まし、また新たに起こしてください。寒さの厳しい季節ですが、教会に連なる兄姉、求道者の方々の健康と生活が守られますように。

すべてのことを感謝し、御心のままに導かれるようにと祈りつつ、この感謝、願い、主イエス・キリストの御名によって御前にお献げします。アーメン。

2018年11月号

日本キリスト教団成宗教会

牧師・校長  並木せつ子

 

このお便りは、なりむね教会からのメッセージです。キリスト教会は神様の愛について学び、伝えます。子供さんも大人の方も、読んでいただければ幸いです。

「知恵と知識の宝はすべて、キリストの内に隠れています。」

新約聖書、コロサイ2章3節

勝田令子先生のお話

(これは今年9月16日の礼拝で話されたものです。)

聖書:創世記9:9-17

「神様の約束の虹」

勝田令子

 皆さんは、ノアの箱舟の物語を知っていらっしゃいますか?絵本や紙芝居にもなっていますから、見たことがあるかもしれませんね。なぜ洪水が起こったのでしょう?創世記6章5節に「主は、地上に人の悪が増し、常に悪いことばかりを思い計っているのをご覧になって、地上に人を造ったことを後悔し、心を痛められた」とあります。地上に人が増え始めると、人は悪いことばかり考え、悪いことばかり行い、悪が満ち溢れました。神様はこの様子をご覧になって、6章7節「わたしは人を創造したが、これを地上からぬぐい去ろう。人だけでなく、家畜も、這うものも、空の鳥も。わたしはこれらを造ったことを後悔する」とあります。そして神様はこの世の全てのものを滅ぼすことにしました。

全部滅ぼすと、何もなくなってしまいますね。そこで神様はノアを選ばれました。ノアは神様に従う正しい人でした。7章1節で「この世代の中で、あなただけはわたしに従う人だと、わたしは認めている」とあります。事実、ノアは神さまに命じられたことを「なぜ」と聞き返さず、全部言われた通りに実行していきます。神様はノアに「大きな船を造って、大洪水が来た時はその中に入りなさい」と伝えました。その舟のことを「ノアの箱舟」と言います。

6章12節には「次のようにしてそれを造りなさい。箱舟の長さを350アンマ、幅を50アンマ、高さを30アンマにして、それを仕上げなさい。」そして、「一階、二階、三階を造りなさい」とも書かれています。300アンマというのは訳135m、幅が22,5メートル、高さが13,5m暗いです。皆さんの学校の肯定は100mが直線で取れますか?50メートルは取れても100mだと取れないのではないでしょうか?そんなに大きいのです。そして、その中にノアさんの家族と、すべての動物の雄と雌一組ずつ乗せなさいと神さまはおっしゃいました。

ノアがこの箱舟を造り始めた時は、まだ、雨も降っていませんでした。大洪水なんて起こりそうもない時に、こんな大きな船を造っている人が皆さんのご近所にいたら、皆さんはどう思いますか?馬鹿じゃない…と思うでしょう。ノアの近所の人も、何をやっているんだとか、おかしいんじゃないか…と笑いました。でも、ノアは毎日こつこつとこの大きな舟を造り続けました。

そしてその後、神さまのおっしゃった通り、40日物間雨が降り、洪水が起こりました。箱舟は、雨が降って水が増え始めると、だんだん浮いて行きました。そして、ノアさんの家族と、すべての動物の雄と雌は、箱舟に入って助かったのです。そしてこの時助かった人たちから、また新しい世界が始まりました。

その後が、先ほど、並木先生にお読みいただいたところです。神様は、この出来事を記念し覚えておくようにと、空に虹をかけてくださいました。そして、全世界を滅ぼすようなことは二度としないとお約束して下さいました。これを‟虹の契約”と呼びます。

今、この世界も悪いこと、悪が満ち溢れています。ノアさんのような正しい人、すべてを神様に従う人がいなければ、この世界も滅んでしまいます。神様はこの世界を救うため、わたしたちの罪をあがなうために、大切な大切な独り子イエスさまをこの世に送ってくださいました。わたしたちはイエスさまの十字架によって救われたのです。イエス様の体である教会は、だれでも、全ての人が来ることができます。ノアさんのように、素直に神さまに、そしてイエス様に従う人になりましょうね。

11月の御言葉

「イエスはシモンに言われた。『恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる。』」

ルカ5章10節

 

11月の教会学校礼拝

(毎週日曜日、朝9時15分~9時45分)

  • 神様に感謝して祈り、歌います。イエスさまのお話、聖書について学びます。
  • お話の聖書箇所と担当の先生は次のとおりです。
11月4日(日) マタイ1:21 焦  凝
11日(日) マルコ15:33-41 並木せつ子
18日(日) ルカ5:1-11 藤野美樹
25日(日) マタイ1:18-25 興津晴枝

 

教会・教会学校からお知らせ・お祈り

「知恵と知識の宝はすべて、キリストの内に隠れています。」

(新約聖書、コロサイ人への手紙2章3節)

  • わたしたちが生きるために一番大切なことは、神さまを知ることです。
  • 皆さんの生活のすべてを恵みの道へと導いてくださる神様がおられます。この方を、聖書を通し、イエス様の教会を通して学んでください。

成宗教会・行事のお知らせ

  • 10月28 日(日)成宗教会バザーに教会学校の皆さん、お手伝い頑張ってくださいました。お父さん、お母さんのご協力も本当にありがとうございました。
  • 成宗教会では、毎年、教会学校クリスマス、大人も子どもも参加できるクリスマス祝会とクリスマス・イヴ礼拝に向けて準備を致します。楽しみに参加してください。
  • 成宗教会学校は礼拝と聖書の学びが中心です・・・イエス様が全世界に知らせてくださった神様はどのようなお方でしょうか。このことを学ぶことは大きな利益となります。
  • 礼拝の後の活動もあります。全体で1時間程度。10時半にはキチンと終わります。

神と人との正しい関係

聖書:創世記21825節, コロサイの信徒への手紙315

本日は説教題を「神と人との正しい関係」と題して、モーセの 十戒 を学びます。十戒のうちの第七の戒めです。それは、「あなたは、姦淫してはならない」という戒めです。姦淫とは、どういう意味でしょうか。古代イスラエルでは、婚約しているかまたは結婚関係にある女性が、婚約者もしくは夫以外の男性と性的な関係を持つことを意味しました。それは殺人と同じ位重大な犯罪で、両方共に死刑を免れないほどだったのです。なぜでしょうか。これは結婚の関係を破壊する悪事であるからです。破壊されるのは、夫婦関係ばかりではありません。親子関係、子供たちとの関係、年老いた親との関係にも計り知れない打撃となるでしょう。だからこそ、「あなたは、姦淫するはずがない」と戒められているのです。

この戒めの根拠は、今日読んでいただいた創世記2章に見ることができるでしょう。18節。「主なる神は言われた。『人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう。』」そこで神さまは野のあらゆる獣、空のあらゆる鳥を形づくり、人に名前を付けさせましたが、自分に合う助ける者は見つけることができ」ませんでした。そこで神さまは人を深く眠らせ、人のあばら骨から取った骨で女を造りました。アダムはすぐに大変喜んで、言いました。「ついに、これこそわたしの骨の骨、わたしの肉の肉。」

この言葉は、自分にふさわしい助ける者を動物たちに見つけることができなかったのとは、対照的な喜びでした。今やアダムは助け手を与えられました。エバはただ肉体的にアダムと共にいるだけでなく、精神的、霊的にも助けとなるものとして共にいる者となったからです。2章21~23節では、神さまは女を男のあばら骨から造られたと書かれているので、これを盾にして女は男より劣った存在とする風潮が長く世界を支配したかもしれません。しかし、これより前の1章27節では、「神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された」と宣言されています。神さまは男も女も神の形に創造されたのです。ですから、当たり前ですが、人類は男と女から成り立っています。男がなければ女は存在しないように、女がなければ男は存在しないという相互的な関係であります。

そして2章24節に戻りますが、「こういう訳で、男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる」と言われます。結婚は、人をその妻と一つの体、一つの魂に結びつける絆であります。それは、人間の他の一切の結び付きの中でも、際立って聖なる絆であるということなのです。聖なるとは、神さまが特別に分けられたという意味です。神さまは男と女を創造された時、彼らを祝福して、「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ」と言われました。ですから、生殖行動をも祝福されたことは明らかです。しかしそれは、神さまが制定された結婚の関係という秩序を守ることにおいて祝福されているのです。

結婚をこのような聖なる秩序として、絶えず大切にし、守って来た夫婦から生まれた子供たちは、そうでない夫婦から生まれた子供たちよりも結婚の秩序を守ること、すなわち第七戒の「姦淫してはならない」を守ることが当然のことだと感じるでしょう。しかし、長い人生の歩みの中で、この戒めを破る誘惑は非常に多いと言わなければなりません。旧約聖書の中で、有名なのはダビデ王の姦淫の罪です。サムエル記下11~12章に詳しく語られています。ダビデは少年時代から勇敢で忍耐強い人で、戦争で数々の勝利を収めましたが、それがかえって自分の主君の妬みを買うことになり、王を敵に回して命がけの逃避行が何年も続いたのでした。そのような地獄の年月を救ったのは、彼が信頼して止まない神さまであって、そのためにダビデは今に至るまでイスラエルの最も尊敬される王であり、イエスさまもその子孫からお生まれになった、ダビデの子と呼ばれるのです。

しかし、そのような立派な王にも大きな誘惑が訪れました。誘惑は人が苦しみに苦しんで戦っていた時では無く、九死に一生を得て、ホッとした、安心、安楽の時にこそ来るものです。ダビデは何と忠実な彼の部下が戦場で戦って留守の間に、部下の妻と姦淫の罪を犯しました。しかもそれを何とか誤魔化そうとしてできないことが分かると、部下を戦死させるように画策したのです。

ダビデ王ほど有名ではありませんが、創世記が記している姦淫の事件があります。それは、創世記39章に記されています。この物語の主人公はヨセフという少年で、彼はアブラハムのひ孫にあたります。ダビデの場合とは正反対で、彼は姦淫の加害者ではなく、被害者とされそうになりました。ヨセフは兄たちの妬みと憎しみを受けて殺されそうになったのですが、殺されず、エジプトに奴隷として連れて来られました。彼はエジプトの王ファラオの侍従長の家で働いたのですが、その妻がヨセフを誘惑しました。しかし、当時まだ未成年であったと思われる彼は、毅然として主人の妻にこう言ったのです。

39章8節。「しかし、ヨセフ拒んで、主人の妻に言った。『ご存知のように、ご主人はわたしを側に置き、家の中のことには一切気をお使いになりません。財産もすべてわたしの手に委ねてくださいました。この家では、わたしの上に立つ者はいませんから、わたしの意のままにならないものもありません。ただ、あなたは別です。あなたは御主人の妻ですから。わたしは、どうしてそのように大きな悪を働いて、神に罪を犯すことができましょう。』」68下。

ヨセフのこの気高さは驚くべきものです。彼は純真で人を疑うことなく、人に取り入ることのない人で、神さまから受けた夢をそのままに語りました。姦淫が大きな悪であると宣言したことも、自分の経験や知識から出たことではなく、神さまから受けた啓示であったに違いありません。彼はこのような性質のために罪人たちから大変な憎しみを受け、患難苦難を忍ばなければなりませんでしたが、それはすべて神さまの救いのご計画のためであったことが後に分かります。彼は自分を殺すほど憎んでいた兄弟たちを含む家族、父イスラエルを始め一族全員の命を救う者となる、それが神さまのご計画でありました。

このヨセフの物語は、後に地上に送られた救い主イエス・キリストを指し示すものであります。ヨセフは罪深い自分の家族を救いましたが、イエスさまは御自分を憎み、殺そうと謀った人々を含め、すべての罪人の命を救うために、死に至るまでの艱難苦難を忍ばれました。さて、そのお方御自身、姦淫の罪について語られているところが、新約聖書に二か所あります。その一つは、マタイ福音書マタイ5章の山上の説教にあります。27節~28節。「あなたがたも聞いているとおり、『姦淫するな』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである。」

このようにイエスさまは、わたしたちの目には見えない、従って他の人には知られない心の中の罪について指摘しておられます。すると、だれも人の前では誇れることでも、自分の中では誇ることができない罪があることを認めざるを得ないのではないでしょうか。このように、姦淫の罪は、他の罪と同様、たとえ目に見えなくても私たちの心の奥底にまでこびりついたものなのです。

それでは、一体だれが第七戒を守っていることになるでしょうか。人の心を見ておられる方は、だれ一人正しくないことを知っておられます。だからこそ、罪人を救うためにイエスさまはわたしたちの所に来てくださったのです。ヨハネ福音書8章では姦淫の罪に問われた女の人がイエスさまの前に連れて来られた、という出来事が記録されています。連れて来た人々は、「姦淫の女は律法に従って石で打ち殺すべきである」と、イエスさまが答えるかどうか、試すのが目的でした。

姦淫の罪は、神さまから祝福された結婚の秩序を破壊するもので、重大な罪であります。しかしイエスさまは言われました。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まずこの女に対して石を投げなさい」と。すると、だれも石を投げることができませんでした。これはイエスさまの起こされた奇跡の一つではなりでしょうか。イエスさまの前では、なぜか誰も自分を偽って「わたしは罪がない」と思うことができなかったからです。イエスさまが地上に来られた目的は、罪人を救うためでありますから、イエスさまは第七の戒めを破る者に対しても、死罪に当たる罪を犯した者にも、罪の赦しを与えようとしておられます。姦淫の女のように、罪のただ中でイエスさまに出会うならば、本当に自分の罪を認めない訳には行かない。本当に罪の報いとして死ぬか、罪を認めて心から悔い改め、イエスさまから罪の赦しを受けるか、その二つに一つを選ばなければならないでしょう。

今日の新約聖書はコロサイの信徒への手紙3章です。パウロは、コロサイの教会の人々に語りかけます。「さて、あなたがたは、キリストと共に復活させられたのですから、上にある者を求めなさい。そこでは、キリストが神の右の座に着いておられます」と。キリストは復活されたのは、十字架に死んだからこそ、復活されたのでした。ですから、キリストを信じるわたしたちも、キリストと共に罪に死んだからこそ、共に復活させられて、新しい命に生きるものとされたのです。

新しい命は上にあるものを求める生活です。キリストは地上を離れて神さまの右におられます。つまり、神さまと共にすべてを御支配なさる方なのです。わたしたちはこの方の執り成しによって罪赦されてキリストに結ばれ、キリストの体と呼ばれているのですから、ひたすら、イエスさまの執り成しによって、神さまとの正しい関係を求めて生きるのです。それは、神の形として造られた本来の人間の祝福に満ちた関係です。だから「上にあるものに心を留め、地上のものに心を引かれないようにしなさい」と勧められています。

すると、「地上のもの」というところを、何か禁欲的に解釈して、物を持つことを禁止したり、結婚を禁じたり、断食をしたり、そういう目に見える何かをしないといけないかのように考え、勧める人々が力を持つことがあります。また、そういう勧めによって人々の行動を支配しようとする力が働きます。しかし、神さまはこのような偽善をご存じで、決してお見逃しにはなりません。「地上的なもの」とは、5節にその例が示されているとおりで、今日のテーマに関わっています。

「だから、地上的なもの、すなわち、みだらな行い、不潔な行い、情欲、悪い欲望、および貪欲を捨て去りなさい。貪欲は偶像礼拝に他ならない。」姦淫もまた情欲であり貪欲の一例であります。お金をいくら集めても飽き足らないのと同様、立派な美しい配偶者がいるのに、姦淫をする人が後を絶たないのは貪欲の罪、偶像礼拝の罪と重なっているからだと教えられます。

このような罪を罪とも思わない人々に満ちている社会に生きています。しかも殺人は禁じている法律はあっても、姦淫にはほとんど無法状態の世の中であります。脅迫されて罪を犯さざるを得ないという危険は沢山あるのではないでしょうか。しかし、ヨセフ物語でヨセフと共にいらして彼を救った神さまは、わたしたちにイエスさまの助けという現実となって勇気を与えておられます。コロサイ3章3節です。「あなたがたは死んだのであって、あなたがたの命は、キリストと共に神の内に隠されているのです。」あなたがたの命は、キリストと共に神の内に隠されて見えなくても、そこにある!と力強く言われているのです。ですから、わたしたちの命は、見かけはそうは見えなくても、危険から守られています。神さまに従う約束を神さまは受け入れてくださいました。神さまは誠実な方です。神さまにお委ねし、頼り行くわたしたちを、神さまは欺くことは決してありません。

ですから、わたしたちは上にあるもの、すなわち神さまとの正しい関係を求め、共に生きる人々との関係を、神さまの戒めの下で慎ましく喜ばしいものにしていただきましょう。

今日はカテキズム問47を学びました。それは、第七戒は何かということです。そしてその答は「あなたは、姦淫してはならない」です。わたしたちの心とからだは、神さまのものなので、神さまの御前に純潔を守り、神と人との関係を正しく保つことです。祈ります。

 

主イエス・キリストの父なる神さま

尊き御名を讃美致します。一週間の旅路を守られ、導かれて、わたしたちは礼拝を捧げる幸いに招かれました。代々の教会と共に、主の日の礼拝を守り、地上にある主の教会の民と共にあなたを見上げて感謝と讃美を捧げます。あなたは御子イエス・キリストの執り成しによってわたしたちの罪を赦して下さり、天にある、朽ちず、しぼまない命の希望に生きる者と作り変えてくださいます。地上の日々は大きな変化に絶えずさらされ、自然の営みも人の営みも激しく変わって行くように思われます。

その中でわたしたちは、目に見える幸いを追い求めることに忙しい世に在って、あなたの御心を尋ね求める者こそ幸いであることを教えられました。どうか神さまの喜ばれることこそが、わたしたちの喜びとなりますように。あなたの喜ばれないことから遠ざかる知恵をお与えください。わたしたちの教会で計画され、行われることが、福音を宣べ伝えるあなたのご命令に従うものとなりますように。また、わたしたちが礼拝の場を去って、それぞれの生活のある所に出て行くとき、どうか福音をそこにもたらすものとならせてください。

命の神よ、わたしたちはあなたの御許に隠されているわたしたちの命を思い、感謝します。どうか、苦しみの時、悩みの時、わたしたちの命に至る道を指し示してください。地上に与えられる新たな命を祝し、またキリストの執り成しによって生まれる救いの命を祝してください。また、地上を去ってあなたの御国に目覚める命を目指して歩む教会を祝してください。わたしたちの信仰の旅路を今週もお守りください。

この感謝と願いを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

命は神さまのもの

聖書:創世記4章1-16節, ローマの信徒への手紙12章15-21節

 教会の主イエス・キリストの父である神さまは、私たちを教会に招き、恵みの福音をお知らせくださいました。私たちは、教会がこの救いをどのように信じているかを使徒信条によって学びました。そして、この教会の信仰を受け入れた者は洗礼を受け、信者の群れの一員とされたのです。救われることに優る喜びはありません。なぜなら、私たちはこの世の生活がすべてではなく、神の永遠の命と結ばれて生きているからです。そこで、私たちは救われて、神の子とされた者としてどのように生きるべきでしょうか。それは感謝の生活であります。

神さまに感謝して生活するための道しるべとして、私たちは改めて 十戒 の戒めをいただいているのです。さて、本日は十戒のうちの第六番目の戒めを学びます。第六戒は何でしょうか。それは、「あなたは、殺してはならない」です。「殺してはならない」の直訳は、「殺すことはないであろう」とか、「殺すはずがない」という意味です。つまり、わたしたちはそんなことは当たり前ではないか。この戒めに関してだけは、自分は殺す心配もないし、殺される心配もしなくて大丈夫と、何となく簡単に守っているかのような気持ちでいるのではないでしょうか。

今日は創世記4章のカインとアベルの話を読んでいただきました。カインとアベルは最初の人間、アダムとエバの子供です。神さまは人間を神の形に造られたのです。それは、すべての造られたものの中で、人間だけが、神さまの呼びかけに応えるものとして神さまの交わりに招かれたということです。神さまに出会い、神さまと対話をするということは、神さまを礼拝することに他なりません。人間が神さまに出会い、礼拝するのは、神さまへの信頼なしにはできないことです。神さまはわたしたちを憐れんでくださる。その足りないところ、失敗を赦してくださることを信じることが出来るので、全知全能の神さまの前に出ることができるのでしょう。

ところがアダムとエバは神さまとの約束を破った時、神さまが呼んでも応えないで、逃げ隠れしたのです。神さまが自分たちを赦してくれないだろうと思うので、神さまに出会うことは恐ろしいことだったからです。それでも、神さまはこの二人から祝福を残してくださいましたので、二人は労苦して働き、子供が生まれました。エバは「わたしは主によって一人の人を得た」と言いました。生れた子どもを、自分が産んだとか、自分の赤ちゃんだとか言わずに、神さまが一人の人を(口語訳、KJ版ではa man)与えてくださったと感謝しました。この二人は神さまを知らないのではなく、エデンの園から追放された後も、神さまを礼拝する家族であり続けていたことが分かります。

ところが、そのような家族の中で生まれた二人の息子に悲劇が起こりました。カインとアベルは神さまに感謝の献げ物をささげたのですが、神さまはアベルの献げ物は目を留められた一方、カインの方には目を留められませんでした。どうしてこのようなことになったのか、と私たちは原因をあれこれと詮索しますが、目に見えてこうだと言えるようなことは分かりません。しかし、はっきりと言えることは、神さまに感謝を捧げるために無くてならないものは、真心であるということです。形は立派に整っていて、人々の目には何も問題は無く、むしろ素晴らしく見えても、神さまは捧げる人の真心を見ておられます。

で預言者サムエルは次のように言いました。(サム上15:22、452頁、上)「主が喜ばれるのは、焼き尽くす献げ物やいけにえであろうか。むしろ、主の御声に聞き従うことではないか。見よ、聞き従うことはいけにえに優り、耳を傾けることは雄羊の脂肪にまさる。」正しい礼拝とは、私たち自身の真心を霊的な供え物として神さまに捧げることであります。ですから、カインの献げ物が神さまに喜ばれなかった原因は、何よりもそこにあったのです。そうだとしたら、カインは自分自身を責め、悔い改めるべきではなかったでしょうか。カインが目に見える形だけの供え物によって神さまをなだめようと考え、自分を全く神に捧げ切ろうとは少しも思わなかったに違いありません。ところが彼は自分の間違いに気がつくどころか、自分の願いがかなわないのは自分の罪のせいだとは考えないで、こうなったのは皆アベルのせいだとしました。そこで、たちまちアベルに対する妬みが火のように燃え上がったのです。

主はカインに呼びかけられました。これは神さまの叱責です。「どうして怒るのか。どうして顔を伏せるのか。もしお前が正しいなら、顔を上げられるはずではないか。正しくないなら、罪は戸口で待ち伏せており、お前を求める。お前はそれを支配せねばならない。」

妬みに燃え上がっている者は、もし自分が罪を犯したら、直ちに罰を受けるということに思い当るならば、罪を支配することもできるのですが、恐ろしいことにはそうではないのです。良心に責めさいなまれることもなく、自分の気にいることを何もかもできると思い込み、自らを欺くことになります。

私たちは神さまを礼拝する家族の中でさえ、このような妬みに駆られた恐ろしい罪が身近に起こることを教えられました。しかし、私たちはカインのようになってはならないことを、しっかりと心に刻まなければなりません。そのためには、十戒の第六の戒め「あなたは、殺してはならない」が命じていることは、単なる殺人の禁止ではないことを理解する必要があります。神さまは人を御自分の似姿として創造されました。そして罪に陥った人間の救いのために、自らの独り子を世に遣わしてくださり、人の罪を贖ってくださったほど、人の命を大切にされました。

そうすると、何があっても、殺人には至らないから良いだろうなどとどうして言えるでしょうか。たとえば人を蔑ろにする言動。いじめや人を疎んじる行動。その人格を否定するような行為のすべてを、神さまは咎めておいでになるのです。罪のない者の命が脅かされることを神さまは決して見過ごしにはなさいません。たとえ犯罪行為を告発する者がなくても、神さまは人が犯した罪について御自身が知っておられることを、聖書は示しています。神さまにとって、人間の命は罪なき者の血が流されて罰せられずには済まないほど愛すべきもの、その救いのために罪なき御子を贖い主としてお遣わしになるほど、貴いものであるということを、私たちは畏れを以て悟らなければなりません。

新約聖書はローマの信徒への手紙12章15節から読みました。十戒の『殺してはならない』という命令は、この世界で味わう苦難や試練ゆえに生じる憎しみや憤りを克服して、互いに愛し合う積極的な生き方へと転換することをわたしたちに求めています。14節から読みますと、「あなたがたを迫害する者のために、祝福を祈りなさい。祝福を祈るのであって、呪ってはなりません」と。ここに非常に高い目標が与えられています。イエスさま御自身、この勧めを私たちにくださいました。要求されていることが難しくあればあるだけ、私たちはこれを切実に追い求める努力を傾けなければならない。なぜなら、主は私たちが主に従わなくても簡単にできるようなことは、お命じにならないでしょうから。私たちは自分を守ることに必死ですから、自分を苦しめる相手に同情することはとてもできないのが常です。しかし、相手は神さまに従っている者を不当に苦しめることで、ますます自分に滅びを招いているのですから、神様はそのような者に心を配ることを、わたしたちに欲しておられます。それが救いの主に従う教会の民にふさわしい高い目標なのです。

15節「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。」兄弟姉妹の繁栄を見て喜ばないのは、羨(うらや)み、ねたみであります。また兄弟に不幸があるのを見て悲しまないのは不人情でです。私たちは、できる限り互いに他と一致し、一人の人に何が起ころうとも、他の人たちはそれを同じ思いで受け取り、艱難に遭っては彼とその深い悲しみを共にし、あるいは、繁栄に遭っては喜びを共にする。これが教会に与えられている目標です。

「互いに思いを一つにし、高ぶらず、身分の低い人々と交わりなさい。自分を賢い者とうぬぼれてはなりません。」ここは身分の低い人々と訳されていますが、人々と言うより、低いもの、慎ましさを意味します。高ぶった思いと対照的に心の謙りが強調されているのです。たとえば、誉れを人から奪って自分のものにするのではなく、誉れを人に譲ることこそ、イエスさまに従う者にふさわしいのではないでしょうか。17節。

「だれに対しても悪に悪を返さず、すべての人の前で善を行うように心がけなさい。」すべての人の前で善を行う目的は、人々が私たちの行いに感心し、私たちが称賛されることではありません。イエスさまは言われました。マタイ6章4節。「あなたの施しを人目につかせないためである。そうすれば、隠れたことを見ておられる父が、あなたに報いてくださる。」18節。

「できれば、せめてあなたがたは、すべての人と平和に暮らしなさい」と勧められています。できるならばと言われていますのは、この世がサタンを頭としている以上、この世と永久的な平和を維持することはできないからです。私たちは平和のために、できる限り多くを忍びますが、しかし必要に迫られる時には、厳しい戦いをする備えをしなければなりません。そして、19節。「愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りにまかせなさい。「『復讐はわたしのすること、わたしが報復する』と主は言われる」と書いてあります。サタンに支配されている者と同じ土俵に立って仕返しをすること自体、サタンの支配下にさらされる非常に危険なことなのです。それを避けなさいと主は言われます。

更に、復讐どころか、「あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ」と勧められています。「そうすれば、燃える炭火を彼の頭に積むことになる」と。悪に報いるに悪をもってしようとすることは、この悪に負けたことになります。それに対して、悪に善をもって報いるならば、これによってわたしたちは神に従う者の一貫性を証明することになります。これこそが悪に対する勝利ではないでしょうか。真に、悪によって悪に勝とうとする人は、その行いそのものによって悪魔に仕えているになってしまうからです。

イエスさまはおっしゃいました。マタイ7:12「だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがも人にしなさい。これこそ律法と預言者である。」11下。

今日の学びはカテキズム問46「第六戒は何ですか」でした。その答は「あなたは、殺してはならない」です。わたしたち人間の命は神さまのものです。その命はイエスさまが十字架にかかって贖ってくださったほどに値高いものです。だから、自分の命も含めて、誰の命も粗末にしたり、殺してはならないばかりか、それを愛することを神さまは求めておられるということです。

教会の主と共に生きるわたしたちは高い目標を与えられています。私たちは自分の好きな人と共にいたい。そして敵対する人はもちろん、自分の気に入らない人はなるべく遠ざけたい。自分にひどいことをする人には仕返しをしたい。この世の考えに従って生きて来ました。しかし、救われた者には高い目標が与えられています。それは教会の主イエスさまの与えられた目標です。

「私の羊を飼いなさい」と主は言われました。私も伝道者としてこの教会に招聘された時、この人々がわたしに任された羊と思って、万難を排して教会にとどまり、牧会を続けて参りました。当時の教会の人々の中には私を受け入れがたい様子が感じられました。しかし、私を知って私を憎んでいるからではないことを私は知っておりました。昔の牧師、前の牧師が懐かしいあまり、後任者を受け入れがたいのだと理解しました。しかし、その当時対立したことが嘘のように、今は教会に残っている方々と新しく加わった方々と助け合って主に仕えています。それは私たちの人間的な懐かしさとか、好き嫌いを超えて、私たちを一つにしてくださる主の聖霊の働きによるのです。

私たちは今、新しい教師を迎えるために準備を始めております。私たちはどんな備えを為すべきでしょうか。それは、祈りです。ふさわしい教師をお与えくださいと、祈りに祈ることです。真心から祈るなら、主は私たちの祈りに応えてくださるでしょう。そして準備して、迎えることができたならば、その先生が主の教会の働きのために遣わされたことを確信することが大切です。決して、後ろ向きになってはならない。必ず、前を向いて小さな群れを愛して命を捨ててくださった主に従って参りましょう。祈ります。

 

主なる父なる神さま

本日の聖餐礼拝を感謝します。主イエス・キリストの恵みによって立てられた救いが私たちにも与えられていることを確信し、ただ感謝を以て本日の聖餐に与らせてください。礼拝に参加できない方にも、主の日を覚えさせ、聖霊の助けによって私たち、心を一つにさせてください。また年々年を取って行くわたしたちが最期の日まで、安らかに健やかに主を仰ぎ見る生活を送るために、私たちの決意を新たにさせてください。

成宗教会は後任教師の招聘を求めております。どうかこのために備える祈りを篤くしてください。ふさわしい道が開かれますように。招聘委員会である長老会の働きを強め、また教会員一人一人が、自分の教会の大切な働きを覚え、主の御業がこれからもこの教会を通して行われるように祈る者となりますように。主よ、祈りをもって支え、主の与え給う教師を感謝を以て迎え、喜んで支えていく決意に至るまで、どうぞ私たちの日々をお導きください。どうかあなたに仕える教会の群れを今週も守り導き、あらゆる困難、労苦の中にあっても、災いから救い出して命を得させてください。本日行われる長老会の上にあなたの恵みのご支配を祈ります。

主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

2018年10月号

日本キリスト教団成宗教会

牧師・校長  並木せつ子

このお便りは、なりむね教会からのメッセージです。キリスト教会は神様の愛について学び、伝えます。子供さんも大人の方も、読んでいただければ幸いです。

「知恵と知識の宝はすべて、キリストの内に隠れています。」

新約聖書、コロサイ2章3節

山口智代子先生のお話

(これは今年9月30日の礼拝で話されたものです。)

聖書:創世記15章1-6節

「アブラハムの信仰」

山口智代子

アブラムは、75歳の時に、神様の言葉を聞きました。「あなたは、生まれ故郷、父の家を離れて、わたしが示す地に行きなさい。わたしは、あなたを大いなる国民にし、あなたを祝福しあなたの名を高める祝福の源となるように。あなたを祝福する人をわたしは祝福しあなたを呪う者をわたしは呪う。地上の氏族はすべてあなたによって祝福に入る。」

アブラムは、神様を信じて、神様の言葉に従って、旅立ちました。行く先も知らないで旅たちました。アブラムは、奥さんのサライ、甥のロトを連れて、カナンに着きました。そこで、神様はアブラムに「あなたの子孫にこの土地を与える。」と約束して下さいました。

それから、アブラムの回りでは色々大変なことが起こりました。飢饉が起こって、エジプトへ逃げたこともありました。飢饉というのは、作物が十分に実らなくて、食べるものが足りなくなって、人々が飢えることです。食べるものがなくては行きていけないので、エジプトへ逃げました。

それから、周辺の国々の争いに巻き込まれてしまいました。甥のロトと財産が奪われてしまったのですが、神様の助けがあって、ロトを助け出すことができました。どんな時でもアブラムは、神様を信じていました。でもアブラムには、恐れと不安がありました。争いには勝ってロトを助けることができましたが、また敵に襲われるかも知れないと思っていたでしょうし、それ以上に、自分には跡継ぎがいないことを不安に思っていました。

そのような時、神様は、アブラムに呼びかけられました。「恐れるな、アブラムよ、わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報いは非常に大きいであろう。」と神様は言われます。

神様は、アブラムを守り、非常に大きい贈り物を与えると約束して下さいました。アブラムは、神様の言葉を聞いて、自分の不安を神様に言いました。「我が神、主よ、私に何をお与えになるのですか。私には、まだ子がありません。私の家の相続人は、あのダマスコのエリエゼルになるのでしょうか。ご覧下さい。あなたが子孫を私に下さらないので、私の家の奴隷が私の跡取りになるでしょう。」と言いました。

その時、アブラムは、75歳で、奥さんのサラは、65歳でした。普通、その年では、子供が出来るとは考えられません。その前から自分達にはもう子供は生まれないと思っていたので、エリエゼルという家の使用人を養子にして、自分の跡を継がせようと考えていました。

ところが神様は、「その者が跡を継ぐのではなく、あなたから生まれる者が跡を継ぐ」とはっきり約束して下さいました。それから神様は、アブラムを外に連れ出して、「天を仰いで、星を数えることができるなら数えてみるがよい。」「あなたの子孫はこのようになる。」と言われました。神様は、アブラムの子孫が空の星のように増えるとを約束なさいました。

アブラムは、神様の言葉を信じました。神様は、アブラムが神様の言葉を信じたのをご覧になって、それを彼の義と認められました。「義と認めた」というのは、アブラムが神様を信じたことを神様は「正しいこと」を認められたのです。神様の御心に従ったと認められました。自分の力では出来ないこと、不可能なことをアブラムは、そのまま信じました。その信仰が、アブラムを義としました。全てを神様に委ねて、神様には出来ないことはないと信じました。アブラムも将来のことを不安に思っていたように私たちも色々心配なことや不安に思うことがあります。私たちが神様を信じていれば、神様は、明日のことを準備して下さり、私達のことを守って下さいます。そして、神様は、必ず約束を実現して下さいます。いつ実現して下さるかは、私達にはわかりません。私達が望む時ではないかも知れません。アブラムは、神様が約束して下さる未来を信じました。

その後、アブラムは、神様に命じられてアブラハムと名を変えました。奥さんのサライも名を変えるように命じられて、サラになりました。アブラハムが100歳、サラが90歳の時、サラは男の子を生みました。そしてその子はイサクと名づけられました。神様とアブラムとの約束通りに、アブラハムの子孫は増えて、国ができるまでになりました。神様に出来ないことはありません。神様は、信頼できる方です。いつも私達を愛し、私達をまもり、導いて下さいます。全てを神様にまかせて、神様を信じ、神様を信頼して、毎日元気に生活していけたら良いと思います。

10月の御言葉

「「主に望みをおく人は新たな力を得、鷲のように翼を張って上る。走っても弱ることなく、歩いても疲れない。」

イザヤ書4031

10月の教会学校礼拝

(毎週日曜日、朝9時15分~9時45分)

  • 神様に感謝して祈り、歌います。イエスさまのお話、聖書について学びます。
  • お話の聖書箇所と担当の先生は次のとおりです。
10月7日(日) コリント(一)15:1-11 並木邦夫
14日(日) イザヤ書40:27-31 並木せつ子
21日(日) 創世記18:9-15 並木せつ子
28日(日) ルカ15:11-24 興津晴枝

 

成宗教会学校からお知らせ

  • 成宗教会学校は礼拝と聖書の学びが中心です・・・イエス様が全世界に知らせてくださった神様はどのようなお方でしょうか。このことを学ぶことは大きな利益となります。
  • 礼拝の後の活動もあります。全体で1時間程度。10時半にはキチンと終わります。
  • 教会学校は、幼児(初めは保護者とご一緒に)から高校生、大人の方でも参加できます。親子でもご参加ください。また、中学生以上の方には、10時半~11時半のからの礼拝もお勧めしています。