神の美しい世界

W.ジャンセン先生

《賛美歌》

讃美歌19番
讃美歌499番
讃美歌90番

《聖書箇所》

旧約聖書:創世記1章20-31節

1:20 神は言われた。「生き物が水の中に群がれ。鳥は地の上、天の大空の面を飛べ。」
1:21 神は水に群がるもの、すなわち大きな怪物、うごめく生き物をそれぞれに、また、翼ある鳥をそれぞれに創造された。神はこれを見て、良しとされた。
1:22 神はそれらのものを祝福して言われた。「産めよ、増えよ、海の水に満ちよ。鳥は地の上に増えよ。」
1:23 夕べがあり、朝があった。第五の日である。
1:24 神は言われた。「地は、それぞれの生き物を産み出せ。家畜、這うもの、地の獣をそれぞれに産み出せ。」そのようになった。
1:25 神はそれぞれの地の獣、それぞれの家畜、それぞれの土を這うものを造られた。神はこれを見て、良しとされた。
1:26 神は言われた。「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう。」
1:27 神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。
1:28 神は彼らを祝福して言われた。「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ。」
1:29 神は言われた。「見よ、全地に生える、種を持つ草と種を持つ実をつける木を、すべてあなたたちに与えよう。それがあなたたちの食べ物となる。
1:30 地の獣、空の鳥、地を這うものなど、すべて命あるものにはあらゆる青草を食べさせよう。」そのようになった。
1:31 神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった。夕べがあり、朝があった。第六の日である。

新約聖書:ヨハネ黙示録21章1-7節

21:1 わたしはまた、新しい天と新しい地を見た。最初の天と最初の地は去って行き、もはや海もなくなった。
21:2 更にわたしは、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように用意を整えて、神のもとを離れ、天から下って来るのを見た。
21:3 そのとき、わたしは玉座から語りかける大きな声を聞いた。「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、
21:4 彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである。」
21:5 すると、玉座に座っておられる方が、「見よ、わたしは万物を新しくする」と言い、また、「書き記せ。これらの言葉は信頼でき、また真実である」と言われた。
21:6 また、わたしに言われた。「事は成就した。わたしはアルファであり、オメガである。初めであり、終わりである。渇いている者には、命の水の泉から価なしに飲ませよう。
21:7 勝利を得る者は、これらのものを受け継ぐ。わたしはその者の神になり、その者はわたしの子となる。

《説教題》

「神の美しい世界」

神様はご自分の栄光を表し、又、私達が祝福を受けられる為に素晴らしい天地を創造されました。創世記第1章31には、その様子が「神はお造りになった全てのものをご覧になった。見よ、それは極めて良かった。」と記されています。創世記第1章は、神様を全能の芸術者として表しています。初めに地は混沌としており、深淵の面は闇で覆われていました。これはとても希望のない様子です。古代中近東の様々な神話の中に、深淵というものが登場します。深淵とは暗い、命のない、絶望的な海のようなものです。又、深淵には邪悪があり、その深淵が怖い海であると信じていた人々もいました。又、レビヤタンのような怪物が深淵に存在すると信じられていたので、深淵は人間が殺されるような、地獄のような所としてとらえられてきました。

古代の人達にとっては、天地が創造される以前に深い、暗い混沌たる深淵がありました。一方で、海の事を考えてみますと、様々なイメージが眼に浮かぶでしょう。海に囲まれている日本には、素晴らしい景色や場面を描く芸術家が沢山います。海上の日の出や夕焼けの様子を見ると、心を打たれ、感動させられる事もあるでしょう。又、ある人にとっては、海の音、つまり、波が海岸の岩に打ち付けられる音に癒される事もあるでしょう。私達は生まれる前に、母親の胎内で水に囲まれ、その水の音が私達に安心を与えてくれていたのと同様に、海の穏やかな音が私達に平安を与える働きを持つ事もあると考えられます。しかし、海には、別の顔もあります。

イエス様が嵐を静められるという新約聖書の記事はよく言及される記事ですが、この出来事は共観福音書、つまりマタイ、マルコ、ルカの3福音書に記録されているので、キリスト者にはとても馴染みのあるものであり、又、深い意味を持つ話でもあると思われます。イエス様と弟子達は船に乗り、湖に出ました。そして、突然、「湖に激しい嵐が起こり、船は波にのまれそうになった」とマタイによる福音書に記されています。これは、穏やかな海の様子とは全く異なる様子であると言えるでしょう。それは、とても怖い状況であり、弟子達は湖で死んでしまう事を非常に恐れたのでした。しかし、そのような状況の中で「イエスは眠っておられた」と書かれています。この様子を見て、これはあり得ない様子であると、弟子達は思った事でしょう。そして、弟子達はイエス様に「主よ、助けてください。溺れそうです」と言った、とマタイの福音書に書かれています。マルコの福音書には、弟子達は「先生、私たちがおぼれてもかまわないのですか」とあります。何故イエス様は眠られたのかという事に対して、弟子達は不思議に思っていたようです。イエス様は本当に弟子達の困難な状況を知っておられたのでしょうか?それとも、イエス様は全体的な状況を把握しておられた為に嵐の中でも眠る事ができたのでしょうか?

先ほど悪を象徴するレビヤタンという怪物について触れましたが、レビヤタンについて、イザヤ書第27章1節から、ある種のイメージが得られると思われます。「その日、主は/厳しく、大きく、強い剣をもって/逃げる蛇レビヤタン/曲がりくねる蛇レビヤタンを罰し/また海にいる竜を殺される」とあります。この短い一節に、古代中近東のおける人々が天地に対してどのような理解を抱いていたのかが分かります。レビヤタンとは海にいる「逃げる蛇」「曲がりくねる蛇」であり、レビヤタンが邪悪の象徴である事が仄めかされています。平和の状況から逃げるものはありません。レビヤタンが逃げようとしている事が示しているのは、レビヤタン自らに敵があるという事です。又、「曲がりくねる」ものの意味は、真っ直ぐではなく、他の生き物をずるく騙そうとするものを意味していると考えられます。誰かがある状況から逃げようとする時、又、真っ直ぐに話をしようとしない時、私達はその人を信用できないものとして捉えるでしょう。そのような人の話には様々な矛盾が生じる事もあり、そのような状況の中で私たちはその人と一緒に仕事をしたり、会話をしたりする事を難しいと感じる事もあるでしょう。

又、天地創造の時にあった混沌の深淵には、様々な怪物的生き物があったと信じられていました。ベヘモットという物もあり、先ほどのイザヤ書の箇所に出てきた竜もいました。海にはこのような力強い、恐ろしい怪物のような生き物が存在していると思われていたので、海は十分注意をすべきものと考えられていました。

海や大きな湖はこのようなところであると信じられていたので、嵐が現れた時、弟子達は非常に恐れていたのでしょう。というのは、もし自分たちが乗っている船の下に、そのような怪物が存在し、船が転覆し溺れてしまったならば、そのようなものに滅ぼされてしまうと考えたかも知れません。しかし、まるで何も起こっていないかのように、イエス様は眠っていたのでした。イエス様は何故眠る事ができたのでしょうか?イザヤ書第27章1節に、その理由があります。「主は/厳しく、大きく、強い剣をもって」海を支配している全ての怪物を滅ぼす事ができるからなのです。ですから、船に乗っていたイエス様の弟子達は、邪悪な怪物に勝つ事が出来ないと思い込み、恐れていたのですが、それとは対照的に神の子主イエスには、その怪物より力と権威が備わっていた故に、怪物はイエス様の支配下にあった訳でした。神様は天地創造をされた時、深淵の上にご自分の霊が動き、その時から神様はレビヤタンや海にいる他の怪物を追い払おうとなさったのでした。人間には邪悪を追い払う事ができませんが、邪悪なものは神様のみ前においては、無力となるのです。

ヨブ記第40章25節から29節までの箇所において、ヨブに対して神様はレビヤタンの力強い存在に関して問いかけられます。「お前はレビヤタンを鉤にかけて引き上げ/その舌を縄で捕えて/屈服させることができるか。お前はその鼻に綱をつけ/顎を貫いてくつわをかけることができるか。彼がお前に繰り返し憐れみを乞い/丁重に話したりするだろうか。彼がお前と契約を結び/永久にお前の僕となったりするだろうか。お前は彼を小鳥のようにもてあそび/娘たちのためにつないでおくことができるか。」と。現代の私達には、このような問いかけにあるイメージは馴染みの薄いものですが、古代のイスラエルの民族にとっては、具体的なイメージを与えてくれる問いでありました。要するに、人間にとって怖いもの、人間を簡単に滅ぼせるものは恐ろしいものでありましたが、神様には、そのような怪物は小さいものに過ぎず、弱いものでありました。レビヤタンが登場する聖書の別の箇所に、詩篇第104編があります。104編の26節において、次のような韻文があります。「舟がそこを行き交い/お造りになったレビヤタンもそこに戯れる」と。一般的には「戯れる」という言葉を怪物に言及がある同じ文章内で使う事はないでしょう。しかし、神様の立場から見ると、レビヤタンは一種の「かわいい」ものでもあると考える事ができるのでしょうか。「恐ろしいもの」が同時に「かわいいもの」として捉えられるという事はあり得ないと思われるかも知れませんが、猫を飼っている方であれば、想像できるかも知れません。例えば、小鳥にとっては猫はとても恐ろしい存在ですが、飼い主には、猫はかわいい物であると言えるでしょう。そして、飼い猫が何かに激しく噛み付いている様子ですら、「猫が遊んでいる」と言う感覚で捉えられるのではないでしょうか。勿論、飼い主は愛猫に小鳥を殺して欲しいとは思っていないでしょうが、このような時、飼い主の立場からは、猫は恐ろしい存在であるとは言えないでしょう。

又、神様がレビヤタンをお造りになったという事も、詩編第104編26節に書かれています。神様が創造してくださった天地には、レビヤタンのようなものも存在しています。そして、アダムを創造された時には、神様はアダムを愛されていたので、彼を最初にエデンの園という安全な恵まれた所に置かれたのでした。エデンの園には、レビヤタンのような恐ろしい怪物は存在しなかったのでした。しかし、アダムとエバが罪を犯し、エデンから追放された時から、邪悪なものが近くにやって来たのです。神様にはこのような邪悪なものに打ち勝つ力はありますが、人間には悪に勝つ力はないのです。

さて、私たちの世界は今ある意味で混乱状態にあります。COVID-19というコロナウィルスが私たちの世界を支配しようとしています。レビヤタンと同様に、人間にはCOVID-19を倒す事ができません。私達は、今、如何にして、このコロナウィルスに打ち勝つ事が出来るのかという事で頭を悩まされています。ウィルスは目には見えない怖いものでありながらも、同様に自然界には必要なものでもあります。それは、ウィルスが自然界に存在している事によって、生物学的に地球上のバランスが取れているからです。聖書の観点からは、このような事をどのように捉えているのでしょうか。

言うまでもなく、聖書の文化は現代の私達の文化と違うところが多々あります。先ず、私達の世界に対する理解が違います。聖書の時代に、世界には天井のような物が空であり、又、地面の下にあるのは見えない物で、生きものが存在する事を想像できたのでした。彼らは球体である地球を知らず、地面の下には何かの土台があると考えていたのでした。現代の私達には、地球は宇宙に浮いていて、自然界はその地球の表層、地殻にあり、地殻の下に存在するものは生物学的には生命体ではないというように考えるのが普通でしょう。又、宇宙に対しても、どこかに生命が存在するという事は想像できたとしても、その明確な証拠が表されるまで、付き詰めて考える事はしないでしょう。しかし、ウィルスが存在するという事には、証拠があるからこそ、私達はウィルスの存在を否定しないのでしょう。又、私達はウィルスの力をも警戒しつつ、自らの生活パターンを変えるしかないのかも知れません。

聖書の時代の人達にとっては、化学的証拠よりも、「信じる事」が世界を説明する方法でした。それが、彼らの文化でした。それに対し、私達の現代の文化は、科学的な証拠によって結論を導き出す文化であると言えるでしょう。ウィルスに感染した事によって、ある症状が現れ、具体的な症状が現れる事によって人がウィルスに感染していると結論付けます。人に病気の症状が出れば、何らかの原因があると当然推測されます。そして、ウィルスや何らかの菌によって体が不調になったと考えるのです。菌やウィルスを目で確認できなくとも、科学的にそれらが存在している事が明確になっている故に、その事実を受け入れるのです。このような事実は、私達の霊的な世界に対する考え方にどのような影響を与えているのでしょうか。

科学的にこの世界を見る事によって、霊的に世界を考える事が難しくなってしまいます。昨年、私は家族と一緒に、北米で最も好奇心と議論の的になっている場所の一つに行きました。その場所を訪れる予定だと誰かに話すと、「私も行きたかった!」と言う人達がいる一方で、「あんなところに一体何の用があるの?」と言う人達もおり、私達の訪問に対する判断によって、その場所を知っている人達の考え方が分かりました。その目的地とは、ケンタッキー州ピーターズバーグにある創造博物館でした。何故、この博物館は人によって極端に異なる感情を引き起こすのでしょうか?

この質問に答える為に、先ず、創造博物館の掲げているミッション・ステートメントを考えます。

「家族連れに適した安全で健全な、学びと発見のための施設となり、創り主・贖い主・支える方であるイエス・キリストをあがめる。」_とあります。

この博物館について何も聞いた事のないクリスチャンが聞けば、このステートメントはそれなりに良く聞こえます。私はクリスチャンとしてイエス・キリストを自分の創り主・贖い主・支える方として崇めたいと願いますし、イエスは絶えず私も他の全ての人をも創り、贖い、支えておられると信じています。では、何が問題なのでしょうか?それは、この声明が文字通りに受け取られれば良いのですが、その裏に隠されている創造博物館の真の意図にあります。その意図とは、進化論は聖書に示されている真実を害する危険で誤った教えだと糾弾し、進化論を信じる事は文化を崩壊させ、子供達を破滅に導くキリスト教信仰にとって究極的な脅威であると宣言する点にあるのです。 ですから、この博物館を訪れるつもりだと誰かに言うと、大抵二つの両極端の反応が起こるのです。 その人が聖書の逐語主義者であるならば、そこに行く事によって私達が救われるかも知れないという期待を持って私達を鼓舞するでしょうし、一方で、その人が聖書を文学として読む人々、つまり聖書を正確な歴史年表としてとらえない人々であるならば、私達は頭がおかしくなってしまって、自分をダメにしてしまう原理主義的な渦の中に巻き込まれてしまったのだと心配するかも知れません。

個人的に、私たち、皆、自らの信仰のあり方を完全に表そうとしても難しいところがあるのではないかと思われます。根本的に私達の共同体の信仰においては、互いの信仰のあり方に関して一致している点が多いですが、自分自身の信仰に関しては、特別な個人的な部分もあるでしょう。私達は海を眺めている時に、その海の中に大きな怪獣のようなレビヤタンが存在しているとは考えないでしょう。しかし、古代の人達にとっては、それは一般的な常識でした。船が海に出て、戻らなかった時、レビヤタンに飲み込まれてしまったと古代の人達は考えたかも知れません。又、津波が現れた時に、古代人はそれはレビヤタンが大きな尻尾を激しく振った為に巨大な波が出現したと思った事でしょう。又、大きな火災のような場合には、その原因はレビヤタンの息から出た火であるかも知れないと、彼らは捉えたようでした。

私達の暮らしている世界には恐ろしいものが沢山あります。たとえレビヤタンのようなものを想像しなくても、私達は現代の知識に基づいた、私達を滅ぼし得るものによる脅威を経験しています。しかし、創世記第1章31節に記されているように、神様はお造りになったすべてのものをご覧になり、それは極めて良しと思われました。現代の私達はレビヤタンと言うものを恐れなくとも、身近にある病原体に脅威を感じています。私達にはこのような恐ろしいものを消滅させる事は出来ませんが、神様がお造りになった私達の美しい世界を感謝し、生きる事ができます。ヨハネの黙示録第21章4節に記されているように、神様は私達の為に新しい天と新しい地とをお造りになりました。ですから私達が神様に絶対的な信頼を置くならば、神様は「[私達]の目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである。」と約束されています。

私達の主イエスは明確におっしゃっておられます。「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」(John 16:33)このみ言葉を信じ、神の想像された美しい世界に感謝しながら、希望を持って歩もうではありませんか。

<<< 祈  祷 >>>

 

主イエスはまことのぶどうの木

《賛美歌》

讃美歌23番
讃美歌354番
讃美歌512番

《聖書箇所》

旧約聖書  創世記 49章 11~12節 (旧約聖書90ページ)

49:11 彼はろばをぶどうの木に/雌ろばの子を良いぶどうの木につなぐ。彼は自分の衣をぶどう酒で/着物をぶどうの汁で洗う。
49:12 彼の目はぶどう酒によって輝き/歯は乳によって白くなる。

新約聖書  ヨハネによる福音書 15章 1~11節 (新約聖書198ページ)

◆イエスはまことのぶどうの木
15:1 「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。
15:2 わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる。
15:3 わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている。
15:4 わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。
15:5 わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。
15:6 わたしにつながっていない人がいれば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる。そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう。
15:7 あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。
15:8 あなたがたが豊かに実を結び、わたしの弟子となるなら、それによって、わたしの父は栄光をお受けになる。
15:9 父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。
15:10 わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる。
15:11 これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。

《説教原稿》

本日の説教題は「主イエスはまことのぶどうの木」です。先週の説教題での主イエスは「羊飼い」で、本日は「ぶどうの木」です。両方ともに主イエスを「羊飼い」や「ぶどうの木」に譬えた話です。そして先週の「羊飼い」には「良い羊飼い」と「良い」という形容詞がついていました。そして今日の「主イエスはぶどうの木」には「まことのぶどうの木」と「まことの」といった形容詞が付けられています。

1節には「わたしはぶどうの木」と主イエスがご自身をぶどうの木に譬えられています。なぜ譬えられたのかは、5節に「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である」とあるように信じる者を「あなたがたはその枝である」と言われるためでした。ところが1節にもどると「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である」とあります。主イエスは、ご自身をぶどうの木に、そして父なる神をぶどうの木を剪定される農夫に、主イエスを信じる者たちをぶどうの枝に譬えられました。ぶどうの木と枝と農夫の関係によって、主イエスと父なる神と主イエスの救いにあずかる者の関係が描かれているのです。枝は、木が地中から吸い上げる養分を得て、果実を実らせます。枝だけでは果実は実りません。ぶどうの枝が、木につながっていなければ自分では実を結ぶことができないように、信仰者も、キリストにつながっていなければ実を結ぶことができない上に農夫の剪定を受けないと充分な実を結ぶことが出来ないというのです。しかし、もし、枝が木にしっかりとつながっていれば、その枝は養分を与えられて豊かに実を結びます。5節の後半に、「人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ」とあるように、信じる者は、キリストとしっかりと結びついていれば、豊かに実を結ぶ者とされるのです。このぶどうの木の譬えは、人々に非常に知られ愛されている聖書箇所であると言って良いでしょう。皆様の中にも、この箇所が好きだという方も多いんではないでしょうか。既に、キリスト者とされている方は、誰しも、キリストとの出会いを与えられ、救いにあずかり、それによって生かされているという思いをもっています。キリストの救いの恵みを知らされて、以前と比べて、はるかに生き生きと積極的に喜んで歩むことができるようになったと思う方もあるでしょう。そのような者たちにとって、このぶどうの木の譬えは、主イエス・キリストと密接に結びついて生きる自らの姿が、非常に良く言い表されている聖書箇所です。

このぶどうの木の譬えは、主イエスと信仰者との関係をイメージ豊かに語っています。しかし、これによって私たちは、主イエスとの関係にだけに注目してしまうんではないでしょうか。1節には、「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である」。主イエスがぶどうの木であり、信じる者が枝であるということよりも先に、主イエスがぶどうの木であり、父なる神が農夫であるということが語られているのです。主イエスと父なる神との関係が先に語られているのです。私たちは、ぶどうの木全体を植え、養い、育てておられる神様を忘れてはならないのです。ここに直接書かれてはいませんが、当然ながら、主イエスは、ぶどう園を管理する農夫である父なる神に植えられた木なのです。だからこそ、その木である主イエスに結びついている枝は、真の命の源である神様からの救いをいただき、養われて行くのです。

そして、主イエスは、ここで、ご自身を、ただの「ぶどうの木」ではなく「まことのぶどうの木」と「まこと」を付けられています。自分こそ、真実なぶどうの木だとおっしゃっているのです。それは、主イエスが、父なる神に植えられた木であり、信仰者を真の命につながらせる木だからに他なりません。私たちの周りには、ぶどうの木、即ち、私たちが実を実らせるために養分を与えてくれそうに見えるもの、自分の人生を豊かにしてくれそうなものがたくさんあります。主イエスは、そのような中で、何が真実なのかを見失ってしまう人間に、父なる神と密接に結びついており、それ故に信仰者が結びつくべき木は誰なのかをはっきりと示しておられるのです。

では、私たちがこの譬えにおいて先ず注目するべき、父なる神の働きとはどのようなものなのでしょうか。そのことが2節以下で記されています。「わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなされる」。父なる神の働きは、枝を手入れするもの、枝、即ち、信じる者は、神様から手入れされるものなのです。ここで先ず注意したいことは、「わたしにつながっていながら、実を結ばない枝」と言われていることです。主イエスとつながっているかどうかということと共に、実を結んでいるかどうかということが重要なことなのです。主イエスが、私こそまことのぶどうの木だとおっしゃる時、単純に、キリスト教こそ、救いに至る道だということを言っているのではないのです。この世には、私たちに人生の実りをもたらしてくれそうな様々な宗教があります。キリスト教を信じる者は救われるが、他の宗教を選択した人は救われないということを示すために、この譬えを語られているのではありません。主イエスにつながり、キリスト者とされていながら、実を結ばないという事態が問題にされているのです。キリスト者とされていながら形式的な信仰に陥ってしまう危険が語られているのです。

農夫である主なる神は、その実りのない枝を取り除かれ、実を結ぶ枝が更に豊かに実るように手入れをするのです。つまり、農夫である父なる神は、ぶどうの枝を良い枝と悪い枝に分け、実りのない枝を取り除きつつ、実を結ぶ枝がより一層豊かに実を結ぶように剪定されるのです。

しかし、この言葉には注意を要します。私たちの中のある人が、実りをもたらさない枝で、ある人は実りをもたらす枝であると言うように、取り除かれる人と、そうでない人の二つのグループに分けられるのだと考えてはいけません。

そうではなく、どのような人でも、一人の人間の内側に、実りをもたらさない枝と、良い実りをもたらす枝を持っているのです。その実りをもたらさない枝は、私たちの罪とも言えるでしょう。父なる神様は、そのような部分を取り除き、私たちが、良い実を結ぶことが出来るように養って下さっているのです。

では、父なる神の手入れは、どのようになされるのでしょうか。続く3節では、「わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている」という主イエスご自身の言葉が記されています。信じる者が御言葉によって清くされていることが語られているのです。この「清くする」という言葉は、2節で農夫が実を結ぶ実の手入れをなさると言う時の「手入れする」という言葉と同じ言葉なのです。即ち、農夫である父なる神の手入れは、信仰者が御言葉に聞き、それに生かされる、信仰者が御言葉によって生きる時に実現するのです。神様の手入れは、主イエスの御言葉を通して実現するのです。主イエスの御言葉は、農夫が果実を実らせるために剪定するように、真の実りをもたらすように、私たちを剪定するということです。キリスト者は、剪定されることなく、豊かな実りをもたらすことは出来ないのです。御言葉に聞くと言うことは、私たちの中にある真の実りを実らせない罪の部分が取り除かれ、実りある枝が伸ばされて行くことです。このことが語られた上で、4節以下で、まことのぶどうの木である主イエスとその枝である信じる者の姿が語られていくのです。主イエスにつながっていることによって、キリスト者は、御言葉によって剪定されるという形で、父なる神の手入れを受け清くされ、豊かな実を結んで行くのです。

この、ぶどうの木の譬えは、旧約聖書にも出てきます。イザヤ書や詩篇に、ぶどう畑が登場します。これは、 イスラエルの民の姿を歌ったものです。旧約聖書918ページの詩篇80編9節から16節をお読みします。

80:9 あなたはぶどうの木をエジプトから移し/多くの民を追い出して、これを植えられました。
80:10 そのために場所を整え、根付かせ/この木は地に広がりました。
80:11 その陰は山々を覆い/枝は神々しい杉をも覆いました。
80:12 あなたは大枝を海にまで/若枝を大河にまで届かせられました。
80:13 なぜ、あなたはその石垣を破られたのですか。通りかかる人は皆、摘み取って行きます。
80:14 森の猪がこれを荒らし/野の獣が食い荒らしています。
80:15 万軍の神よ、立ち帰ってください。天から目を注いで御覧ください。このぶどうの木を顧みてください
80:16 あなたが右の御手で植えられた株を/御自分のために強くされた子を。

ここでは、イスラエルの民をぶどうに譬え、植えられ世話をされ、一旦は大きく成長したにもかかわらず、その地は侵略され続けていることが歌われています。この譬えにおいて、ぶどうは、旧約における神の民イスラエルです。旧約聖書においてぶどうの譬えが語られる時、共通していることは、神の民イスラエルが、主なる神の守りの内にありながらも、そこで実らせるべきぶどうを実らせても神様に実りを返していない、または実を実らせていないということを示しています。イスラエルの民は、神の民として、主なる神の救いの約束の中を歩んでいた人々でした。しかし、彼らは、救いの約束にあぐらをかいてしまったのです。そして、自分たちの力で神様の救いを獲得できると考えたのです。そのような中で、人間の業によって神様の救いを得ようとする態度が生まれたのです。そして、自分自身を誇り、他人を裁きながら歩んでいったのです。この旧約聖書が語るイスラエルの民の姿勢は、この世で信仰者が陥ってしまう可能性があるものと言わなければならないでしょう。御言葉によって清くされキリスト者とされていながら、絶えずその御言葉に聞き、その前で自らが変えられて行くことがなされなくなってしまったとしたら、それは、真に神様の救いにあずかっていると言うことにはなりません。

主イエスの御言葉は、罪の中にある人間に対して、いつも悔い改めの思いをくださり、罪の部分をとってくださいます。ここで、御言葉と言うのは、ただ、主イエスがお語りになった教えと言うだけでなく、主イエスの言葉、行い、人格、全てを指します。それは、主イエスが、人となってこの世に来て下さり、十字架にかかって人間の罪を贖い、復活によって、罪のために死の支配の中にあった私たちを命に生きるものにして下さったということです。言葉だけでなく、主イエスのすべてを通した語りかけを聞く時に、私たちは、自分自身の罪を知らされるのです。そして、その罪が赦されているという恵みの中で、自分の思いにのみ従って生きていこうとする罪を取り除かれて、神様の下に立ち返り、神様の御心に生かされて行くのです。真の赦し、救いを知らされる時、私たちは自らを悔い改め、新しい命に歩み出さずにはいられないのです。私たちは、常に、御言葉に聞き、そこから生じる、悔い改めによって、自分自身が変えられていかなくてはならないのです。そのことによって、主なる神が与えて下さる真の命に生きることこそ、私たちの豊かな実りなのです。これ以外に、私たちが真の実りを得ることはありません。御言葉によって、変えられて行くことによってのみ罪からの解放があるのです。6節には、「わたしにつながっていない人がいれば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる。そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう」と語られています。主イエスとの交わりから離され、キリストの救いの恵みが及ばない所には、主なる神の裁きが臨むことになるのです。

このヨハネ福音書に用いられている象徴的な、15章「まことのぶどうの木」の「まことの」や10章「良い羊飼い」の「良い」という表現は、ヨハネ福音書の特徴的な言葉です。「羊飼い」や「ぶどうの木」といった表現によって主イエスを他の多くの宗教者や救済者と区別し、救いが主イエスによってのみしかないことを強調し、救いの独自性を強く語っているのです。

私たちが神様の恵みを感謝する時、それは、この世における成功であったり、社会的な高い地位であったり、充実した豊かな暮らしというような、人間の清く正しい立派な行いではないでしょうか。そのような人間の価値観によって考えられる豊かな実りのみが求められる時、キリスト者とされていながら、キリストを自分の思いに従わせ、自分の願う範囲で人生を豊かにしてくれる、自己実現の手段としてしまうことも起こって来るのです。その時私たちは、自分の力で養分を吸い上げることが出来るぶどうの木であるかのように錯覚してしまうのです。そこでは、キリストの御言葉が、自分の都合に合わせて剪定出来る枝のようなものになってしまいます。

私たちは、ぶどうの枝であることを忘れて、自分自身がぶどうの木であるかのように思い違いをしてしまうことがあります。自分で養分を吸い上げ、豊かな実を実らせようと自立しているぶどうの木であるかのように考えてしまうのです。私たちは、ただ、自分がぶどうの枝であることを知り、ぶどうの木である主イエスにしっかりと結びつかなければなりません。御言葉によって剪定され、自分本位の実りへの思いが打ち砕かれて行くことによってのみ、真の実を結ぶ者とされるのです。主なる神は、今日も、主イエスの御言葉を通して、私たちを清くしようとしておられます。「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である」。この御言葉に聞きつつ、御言葉に剪定され、清められて行くときこそ、自分の力で神の御前に立とうとするのではなく、とうてい神様の前に立てない者が、キリストによって生かされていることを知らされるのです。

主イエス・キリストによって与えられる命を受けつつ歩んで行く所に、真の実りが生まれて行くのです。それは、私たちの滅び行く命を超えて、真の命に通じて行く、確かな実りなのです。主の御言葉に生かされて、今日も新たな歩みを始めたいと思います。

お祈りを致します。

<<< 祈  祷 >>>

 

祈りの格闘

聖書:創世記32章23-33節, ヨハネの手紙一 5章13-15節

 年の初めと言えば、普段はお祈りのことが全く話題にならない世の中でも、元朝参りから始まるお祈りに関心が集まる季節です。それにしても何気なくテレビを見ていると、マスコミは神社、仏閣の様子を映して一生懸命宣伝をしているように見えますが、このことも海外から観光客を呼ぶために貢献しているのでしょうか。あまりにも多くの人々があちらを拝み、こちらを拝んでいるのを見ているので、わたしたちはそういう様子にとても慣れてしまっております。日本の教会は平日だれでも自由に出入りできるように玄関を開放しているところは少ないと思いますが、教会の北側にあるお地蔵さんを拝むために立ち止っている人々を時々見ますので、教会も戸を開けておくと祈るために来る人がいるかもしれません。

しかし、このように神仏と称するものを何でもかでも拝む人々の祈りと、教会の祈りは全く違うのですが、わたしたち自身、その違いをどこまではっきりと意識しているでしょうか。わたしたちは思うのではないでしょうか。「家内安全とか、無病息災とか、わたしたちも願っているではないか。祈っているではないか。祈る気持ちはだれも一緒ではないか」と。そう思うのは、祈ることについて考えるときに、わたしたちは、まず祈りの内容から考え始めるからです。

本日の信仰問答は「祈るときに大切なことは何か」についてです。み言葉に聴きましょう。わたしたちが祈るときに何よりも大切にしていることは、祈りを聞いてくださる相手です。すなわち祈りを聞いてくださるのは真の神さまだけである、ということなのです。祈ること自体、相手が誰でもいいから四方八方頭を下げるという、まるで選挙の立候補者みたいなことをするのではありません。そうではなく、本当に祈りを聞いておられる方に祈るのです。真の神さまがおられる。そして良いものを与えてくださるのは真の神さまだけだと信じて祈ります。

そうすると、わたしたちにとって良いものが何か、それを本当にご存じなのも神さまだけ、と信じていることになりますから、わたしたちの祈りは、自分の願いを祈るだけでなく、それと同時に神さまにすべてをお委ねして行くことになります。わたしの願いはこれこれだけれども、すべてを御存じの神さまはきっと最良のことをしてくださる、と信じることができる。真にこれよりも平安なことはありません。

けれども、わたしたちの人生には、大きな試練に見舞われることがあります。自分の身に起こること。またそればかりでなく、それまであるのが当たり前であったものが突如、無くなってしまう、あるいは変ってしまうということは、わたしたちを危機的な状況に陥れます。その時、「わたしの願いはこれこれだけれども、神さま、どうぞ御心のままになさってください」と祈ることが、果たしてできるでしょうか。

今日、私たちは創世記32章を読んでいます。これは、アブラハムの子、イサクの子、ヤコブの物語で、ヨルダン川のヤボクの渡し場を渡ろうとしたときの不思議な出来事が描かれています。ヤコブは家族と共に旅をして、故郷の兄エサウとの再会を目指していました。彼は若い時、兄エサウの怒りから逃れるために故郷を去り、伯父の家で働く者となりましたが、この伯父も狡猾、また冷酷な人で、ここも平安な居場所はありませんでした。彼は厳しい仕打ちを受け、耐え忍んで20年、ついに故郷に帰る決心をしました。しかし、故郷の兄はそれを知ってヤコブに会いに出て来るというのです。

ヤコブはその夜、家族と召使いと家畜や持ち物すべてを川の向こうに渡らせ、自分は独り残りました。すると何者かが来て夜明けまでヤコブと格闘したというのです。ヤコブのこの目に見える格闘こそ、教会の人々が日々経験している祈りを象徴しているのではないでしょうか。なぜなら、私たちの試練の時も、私たちは正に神さまと格闘しなければならないからです。しかし、一体だれが神さまに逆らって立つことができるでしょうか。神さまと競争しようとすること自体傲慢で無謀なことではないでしょうか。

しかし、驚くべきことですが、また感謝なことですが、神さまは私たちがこのようにご自分に立ち向かって来ることを喜んでおられるのです。だからこそ、見えない方が、従って、立ち向かおうにも、立ち向かうことなどできない方が、こうして見える姿、(夜の暗闇の中でしたが)人のような姿でヤコブと格闘するために現れたのです。わたしたちはこのように神さまの力によらなければ、助けによらなければ、神さまと戦うことなど決してできないのです。神さまはこの戦いへとわたしたちに挑戦し給うのです。「さあ、かかって来なさい」と無言で挑戦してくださるのです。そして、それと同時に、神さまはわたしたちが抵抗して戦う手段を私たちに備えてくださるのです。これは不思議な戦いです。神さまはわたしたちと戦うと同時に、わたしたちのために戦ってくださるからです。

これが祈りの格闘です。要するに神さまは、わたしたちと片方の手で戦いながら、その間に、もう片方の手でわたしたちを守ってくださるというやり方で格闘を行ってくださいます。神さまは、いわば左の手ではわたしたちに敵対して戦い、右の手でわたしたちに味方して戦ってくださり、その結果は、わたしたちがしっかりした力を与えられて試練を克服できるようにしてくださるのであります。このような祈り。このような祈りを神さまは聞いてくださるのではないでしょうか。

32章26節。「ところが、その人はヤコブに勝てないとみて、ヤコブの腿の関節を打ったので、格闘をしているうちに腿の関節がはずれた。」ここにヤコブの勝利が描かれています。しかし、この勝利は彼に傷を負わせずには、得られなかった勝利でし。前にお話したように、ヤコブと戦うために天使の姿で現れているのは、創世記がわたしたちに理解させるために人間的な表現を取っているからです。そうでなければ人間が神さまと格闘するということは表現できないからです。こうしてヤコブは闘いに勝利したのですが、天使は彼の腿を打ったので彼は生涯足が不自由になりました。しかし、この不自由さは彼の信仰の勝利のしるしとなりました。そして、このしるしによってすべての信仰者は自分の受ける試練において祈り、勝利を得ることができることが明らかになったのです。

祈りが聞かれるということの奥の深さを思うことができるならば幸いです。私たちは祈りの格闘をし、勝利を得るならば、その喜びはどのようなものでしょうか。しかし、喜びのあまり得意になって、有頂天になって神さまを忘れるようなものでしょうか。それはちがうでしょう。神の力は私たちの弱さにおいて完全なものとなります。というのは、本当に救われた者の喜びは、同時に私たちを謙虚にさせるものですから。27節です。

「もう去らせてくれ。夜が明けてしまうから」とその人は言ったが、ヤコブは答えた。「いいえ、祝福してくださるまでは離しません。」ヤコブは祝福を求めました。私たちは礼拝の最後に牧師の祝祷を受けますが、本当に私たちを祝福するのは、神さまだけにあるご性質なのであります。この神さまのご性質を職務としていただいているので、牧師は神の言葉を説教し、また人々を祝福することができるのですし、そうしなければなりません。私たちはこのことから教えられることがあります。それは、あれやこれやの具体的なことを祈ることはもちろん良いのですが、何よりも祈らなければならないことは、神さまの祝福、すなわち聖なる、神さまだけがお与えになることができる恵みをいつも求めることなのです。それは、具体的なあれこれの願い事、無病息災など祈って、それが叶えられた途端に、神さまから遠ざかり、眠りこけたような人生を送るよりもはるかに価値あることではないでしょうか。

祈りの格闘にご臨在される神さまを、聖書はヤコブの物語に証しします。わたしたちは神がご臨在されることを感得しない限り、得意になって自分に満足しているものです。そしてこのことは、人間が地上のことに傾倒している時、愚かにも自分を誇っている空想の命にすぎないのです。新約聖書、ヨハネの手紙一5章13節は語ります。「神の子の名を信じているあなたがたに、これらのことを書き送るのは、永遠の命を得ていることを悟らせたいからです。」教会はもちろんまだ福音を知らない人々に伝道をしているのですが、決してそればかりではありません。既に信仰を告白し、洗礼を受けて教会に連なっている人々にも、教えを広め続けているのです。なぜなら、わたしたちの信仰は日々成長して行かなければならないからです。一層堅固で確実な信仰を持って、永遠の命に確実に与ることをわたしたちは目指しています。

そのためにヨハネの手紙が勧め、戒めたことは、このことです。キリストの他に永遠の命を求めてはならない。力を尽くしてキリストの恩恵をたたえ、讃美し、彼らがこの恩恵に心満たされて、もはやそれ以外の何も欲しないように。ここでわたしたちはカテキズムの今日の問に立ち帰りましょう。問54 「祈るときに大切なことは何ですか。」そして、その答は「神さまだけが最も良いものを与えてくださることを信じて感謝し、熱心に求めることです。」教会はイエス・キリストによって神さまの真実のお姿、ご性質を知らされました。イエスさまによって永遠の命をいただく希望を信じたのです。ですから、「あちらを信じれば良いものがもらえるかもしれない」「いや、こちらにもお願いすればもらえるかもしれない」という祈りでは決してない、ということです。

また、真の神さまならわたしたちの願いを皆叶えてくださると思うことも正しくありません。ヨハネ一、5章14節。「何事でも神の御心に適うことをわたしたちが願うならば、神は聞き入れてくださる。これが神に対するわたしたちの確信です。」なぜなら、私たちは本当に自分に何が幸いなのか、良いことなのかを理解していないのですが、神さまは最も良いことを知っておられ、私たちが信頼するならば、それを実行に移してくださる方だからです。ヨハネの手紙は神さまに対する確信について、それがどこにあるかを教えるのです。確信は、キリストを信じて大胆に祈り求めれば与えられるのだと。

イエスさまは言われました。「わたしは道であり、真理であり、命である」と(ヨハネ14章6節)。真にイエス・キリストこそは信仰の本来の目的です。ですから、イエスさまのお名前を通して、祈ることを実践することこそ、わたしたちの信仰の訓練であり、また試練でもあるのです。祈りが聞かれるということは、本当に信頼して大胆に祈るのでなければ、実感することができないからです。そして、イエスさまによって伝えられた天の父の御心を日々深く知るように努めることがなければ、本当に父、御子、聖霊の神さまを信頼することはできないのです。真に不信仰な世に在って、わたしたち自身も確信に乏しい信者であっても、それでも世界中に教会が建てられ、み言葉が伝えられ、祈りがささげられている現実を見る時、神さまの憐れみと忍耐が、どんなに世界を覆っているかを思わずにはいられません。

私自身は戦争のない真に豊かな時代を70年生きましたが、それでも人々が老いと病と死に苦しんでいる有様を見、ここに神さまの悲しみと救いの熱意を感じて献身しました。自分自身50年生きて後の献身でしたので、ほどなく高齢者の列に加えられました。教会は今、目の前にいるわたしたちで成り立っているように見えるのは無理もないことですが、実は過去の信者の信仰の恵みが祝福されているからこそ、後に続いて行くものです。それぞれの時代にそれぞれの信者に多くの試練があったでしょう。しかし、共に祈った所に教会が残りました。祈りの格闘があった所に、大胆に祈るところに信仰の確信が与えられました。

今、成宗教会は後任の先生方をお迎えしようとしています。同じ信仰告白によって立ち、同じみ言葉の説教によって聖礼典によって教会を建設しようという志を以てお出でになります。お若い教師の方々をお迎えするために、祈りをもって、感謝を捧げて、備えましょう。主が私たちの必要を満たしてくださることを信じて。祈ります。

 

主なる父なる神さま

御名をほめたたえます。本日は祈りについて学びを進めることができ、感謝です。成宗教会に祈りがあり、あなたの憐れみと恵みがありましたので、教会はこの地に立ち続けることができました。多くの人々がここで洗礼を受け、礼拝を守りました。今、教会は東日本連合長老会の一員となって共に学び、教えを受けていますことを感謝します。また8代目の私の退任の後、新年度には新任の教師の先生方を迎えようとしております。藤野雄大先生、美樹先生のご健康とご準備の上にあなたの恵みが豊かにございますように。

また、どうかこの時に私たちを励まし、あなたに感謝を捧げる者とならせてください。高齢の教会員が礼拝に足を運べなくなって改めて、礼拝に心を向けて祈っておられます。どうかすべての教会員が忙しい生活の中で礼拝を守り、み言葉を聴くことを何よりも大切なこととすることができますように。日曜日に休めない仕事の方が増える中でも、神さま、み言葉なるキリストに従うために、すべての教会員がこの志を持ち、そのために祈りを篤くすることができますように、助けてください。そのことによって、主よ、何よりも礼拝を大切にすることによって私たちが次の時代の先生をお迎えすることができますように道を開いてください。

教会長老会の働きを感謝します。教会記念誌編集の歩み、また会堂の整理整頓の歩みが導かれ真に感謝です。どうか長老の方々の健康が守られ、ご家庭が整えられますように。新しい先生方と心を合わせて奉仕する長老、信徒となりますように励まし、また新たに起こしてください。寒さの厳しい季節ですが、教会に連なる兄姉、求道者の方々の健康と生活が守られますように。

すべてのことを感謝し、御心のままに導かれるようにと祈りつつ、この感謝、願い、主イエス・キリストの御名によって御前にお献げします。アーメン。

2018年11月号

日本キリスト教団成宗教会

牧師・校長  並木せつ子

 

このお便りは、なりむね教会からのメッセージです。キリスト教会は神様の愛について学び、伝えます。子供さんも大人の方も、読んでいただければ幸いです。

「知恵と知識の宝はすべて、キリストの内に隠れています。」

新約聖書、コロサイ2章3節

勝田令子先生のお話

(これは今年9月16日の礼拝で話されたものです。)

聖書:創世記9:9-17

「神様の約束の虹」

勝田令子

 皆さんは、ノアの箱舟の物語を知っていらっしゃいますか?絵本や紙芝居にもなっていますから、見たことがあるかもしれませんね。なぜ洪水が起こったのでしょう?創世記6章5節に「主は、地上に人の悪が増し、常に悪いことばかりを思い計っているのをご覧になって、地上に人を造ったことを後悔し、心を痛められた」とあります。地上に人が増え始めると、人は悪いことばかり考え、悪いことばかり行い、悪が満ち溢れました。神様はこの様子をご覧になって、6章7節「わたしは人を創造したが、これを地上からぬぐい去ろう。人だけでなく、家畜も、這うものも、空の鳥も。わたしはこれらを造ったことを後悔する」とあります。そして神様はこの世の全てのものを滅ぼすことにしました。

全部滅ぼすと、何もなくなってしまいますね。そこで神様はノアを選ばれました。ノアは神様に従う正しい人でした。7章1節で「この世代の中で、あなただけはわたしに従う人だと、わたしは認めている」とあります。事実、ノアは神さまに命じられたことを「なぜ」と聞き返さず、全部言われた通りに実行していきます。神様はノアに「大きな船を造って、大洪水が来た時はその中に入りなさい」と伝えました。その舟のことを「ノアの箱舟」と言います。

6章12節には「次のようにしてそれを造りなさい。箱舟の長さを350アンマ、幅を50アンマ、高さを30アンマにして、それを仕上げなさい。」そして、「一階、二階、三階を造りなさい」とも書かれています。300アンマというのは訳135m、幅が22,5メートル、高さが13,5m暗いです。皆さんの学校の肯定は100mが直線で取れますか?50メートルは取れても100mだと取れないのではないでしょうか?そんなに大きいのです。そして、その中にノアさんの家族と、すべての動物の雄と雌一組ずつ乗せなさいと神さまはおっしゃいました。

ノアがこの箱舟を造り始めた時は、まだ、雨も降っていませんでした。大洪水なんて起こりそうもない時に、こんな大きな船を造っている人が皆さんのご近所にいたら、皆さんはどう思いますか?馬鹿じゃない…と思うでしょう。ノアの近所の人も、何をやっているんだとか、おかしいんじゃないか…と笑いました。でも、ノアは毎日こつこつとこの大きな舟を造り続けました。

そしてその後、神さまのおっしゃった通り、40日物間雨が降り、洪水が起こりました。箱舟は、雨が降って水が増え始めると、だんだん浮いて行きました。そして、ノアさんの家族と、すべての動物の雄と雌は、箱舟に入って助かったのです。そしてこの時助かった人たちから、また新しい世界が始まりました。

その後が、先ほど、並木先生にお読みいただいたところです。神様は、この出来事を記念し覚えておくようにと、空に虹をかけてくださいました。そして、全世界を滅ぼすようなことは二度としないとお約束して下さいました。これを‟虹の契約”と呼びます。

今、この世界も悪いこと、悪が満ち溢れています。ノアさんのような正しい人、すべてを神様に従う人がいなければ、この世界も滅んでしまいます。神様はこの世界を救うため、わたしたちの罪をあがなうために、大切な大切な独り子イエスさまをこの世に送ってくださいました。わたしたちはイエスさまの十字架によって救われたのです。イエス様の体である教会は、だれでも、全ての人が来ることができます。ノアさんのように、素直に神さまに、そしてイエス様に従う人になりましょうね。

11月の御言葉

「イエスはシモンに言われた。『恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる。』」

ルカ5章10節

 

11月の教会学校礼拝

(毎週日曜日、朝9時15分~9時45分)

  • 神様に感謝して祈り、歌います。イエスさまのお話、聖書について学びます。
  • お話の聖書箇所と担当の先生は次のとおりです。
11月4日(日) マタイ1:21 焦  凝
11日(日) マルコ15:33-41 並木せつ子
18日(日) ルカ5:1-11 藤野美樹
25日(日) マタイ1:18-25 興津晴枝

 

教会・教会学校からお知らせ・お祈り

「知恵と知識の宝はすべて、キリストの内に隠れています。」

(新約聖書、コロサイ人への手紙2章3節)

  • わたしたちが生きるために一番大切なことは、神さまを知ることです。
  • 皆さんの生活のすべてを恵みの道へと導いてくださる神様がおられます。この方を、聖書を通し、イエス様の教会を通して学んでください。

成宗教会・行事のお知らせ

  • 10月28 日(日)成宗教会バザーに教会学校の皆さん、お手伝い頑張ってくださいました。お父さん、お母さんのご協力も本当にありがとうございました。
  • 成宗教会では、毎年、教会学校クリスマス、大人も子どもも参加できるクリスマス祝会とクリスマス・イヴ礼拝に向けて準備を致します。楽しみに参加してください。
  • 成宗教会学校は礼拝と聖書の学びが中心です・・・イエス様が全世界に知らせてくださった神様はどのようなお方でしょうか。このことを学ぶことは大きな利益となります。
  • 礼拝の後の活動もあります。全体で1時間程度。10時半にはキチンと終わります。

神と人との正しい関係

聖書:創世記21825節, コロサイの信徒への手紙315

本日は説教題を「神と人との正しい関係」と題して、モーセの 十戒 を学びます。十戒のうちの第七の戒めです。それは、「あなたは、姦淫してはならない」という戒めです。姦淫とは、どういう意味でしょうか。古代イスラエルでは、婚約しているかまたは結婚関係にある女性が、婚約者もしくは夫以外の男性と性的な関係を持つことを意味しました。それは殺人と同じ位重大な犯罪で、両方共に死刑を免れないほどだったのです。なぜでしょうか。これは結婚の関係を破壊する悪事であるからです。破壊されるのは、夫婦関係ばかりではありません。親子関係、子供たちとの関係、年老いた親との関係にも計り知れない打撃となるでしょう。だからこそ、「あなたは、姦淫するはずがない」と戒められているのです。

この戒めの根拠は、今日読んでいただいた創世記2章に見ることができるでしょう。18節。「主なる神は言われた。『人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう。』」そこで神さまは野のあらゆる獣、空のあらゆる鳥を形づくり、人に名前を付けさせましたが、自分に合う助ける者は見つけることができ」ませんでした。そこで神さまは人を深く眠らせ、人のあばら骨から取った骨で女を造りました。アダムはすぐに大変喜んで、言いました。「ついに、これこそわたしの骨の骨、わたしの肉の肉。」

この言葉は、自分にふさわしい助ける者を動物たちに見つけることができなかったのとは、対照的な喜びでした。今やアダムは助け手を与えられました。エバはただ肉体的にアダムと共にいるだけでなく、精神的、霊的にも助けとなるものとして共にいる者となったからです。2章21~23節では、神さまは女を男のあばら骨から造られたと書かれているので、これを盾にして女は男より劣った存在とする風潮が長く世界を支配したかもしれません。しかし、これより前の1章27節では、「神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された」と宣言されています。神さまは男も女も神の形に創造されたのです。ですから、当たり前ですが、人類は男と女から成り立っています。男がなければ女は存在しないように、女がなければ男は存在しないという相互的な関係であります。

そして2章24節に戻りますが、「こういう訳で、男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる」と言われます。結婚は、人をその妻と一つの体、一つの魂に結びつける絆であります。それは、人間の他の一切の結び付きの中でも、際立って聖なる絆であるということなのです。聖なるとは、神さまが特別に分けられたという意味です。神さまは男と女を創造された時、彼らを祝福して、「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ」と言われました。ですから、生殖行動をも祝福されたことは明らかです。しかしそれは、神さまが制定された結婚の関係という秩序を守ることにおいて祝福されているのです。

結婚をこのような聖なる秩序として、絶えず大切にし、守って来た夫婦から生まれた子供たちは、そうでない夫婦から生まれた子供たちよりも結婚の秩序を守ること、すなわち第七戒の「姦淫してはならない」を守ることが当然のことだと感じるでしょう。しかし、長い人生の歩みの中で、この戒めを破る誘惑は非常に多いと言わなければなりません。旧約聖書の中で、有名なのはダビデ王の姦淫の罪です。サムエル記下11~12章に詳しく語られています。ダビデは少年時代から勇敢で忍耐強い人で、戦争で数々の勝利を収めましたが、それがかえって自分の主君の妬みを買うことになり、王を敵に回して命がけの逃避行が何年も続いたのでした。そのような地獄の年月を救ったのは、彼が信頼して止まない神さまであって、そのためにダビデは今に至るまでイスラエルの最も尊敬される王であり、イエスさまもその子孫からお生まれになった、ダビデの子と呼ばれるのです。

しかし、そのような立派な王にも大きな誘惑が訪れました。誘惑は人が苦しみに苦しんで戦っていた時では無く、九死に一生を得て、ホッとした、安心、安楽の時にこそ来るものです。ダビデは何と忠実な彼の部下が戦場で戦って留守の間に、部下の妻と姦淫の罪を犯しました。しかもそれを何とか誤魔化そうとしてできないことが分かると、部下を戦死させるように画策したのです。

ダビデ王ほど有名ではありませんが、創世記が記している姦淫の事件があります。それは、創世記39章に記されています。この物語の主人公はヨセフという少年で、彼はアブラハムのひ孫にあたります。ダビデの場合とは正反対で、彼は姦淫の加害者ではなく、被害者とされそうになりました。ヨセフは兄たちの妬みと憎しみを受けて殺されそうになったのですが、殺されず、エジプトに奴隷として連れて来られました。彼はエジプトの王ファラオの侍従長の家で働いたのですが、その妻がヨセフを誘惑しました。しかし、当時まだ未成年であったと思われる彼は、毅然として主人の妻にこう言ったのです。

39章8節。「しかし、ヨセフ拒んで、主人の妻に言った。『ご存知のように、ご主人はわたしを側に置き、家の中のことには一切気をお使いになりません。財産もすべてわたしの手に委ねてくださいました。この家では、わたしの上に立つ者はいませんから、わたしの意のままにならないものもありません。ただ、あなたは別です。あなたは御主人の妻ですから。わたしは、どうしてそのように大きな悪を働いて、神に罪を犯すことができましょう。』」68下。

ヨセフのこの気高さは驚くべきものです。彼は純真で人を疑うことなく、人に取り入ることのない人で、神さまから受けた夢をそのままに語りました。姦淫が大きな悪であると宣言したことも、自分の経験や知識から出たことではなく、神さまから受けた啓示であったに違いありません。彼はこのような性質のために罪人たちから大変な憎しみを受け、患難苦難を忍ばなければなりませんでしたが、それはすべて神さまの救いのご計画のためであったことが後に分かります。彼は自分を殺すほど憎んでいた兄弟たちを含む家族、父イスラエルを始め一族全員の命を救う者となる、それが神さまのご計画でありました。

このヨセフの物語は、後に地上に送られた救い主イエス・キリストを指し示すものであります。ヨセフは罪深い自分の家族を救いましたが、イエスさまは御自分を憎み、殺そうと謀った人々を含め、すべての罪人の命を救うために、死に至るまでの艱難苦難を忍ばれました。さて、そのお方御自身、姦淫の罪について語られているところが、新約聖書に二か所あります。その一つは、マタイ福音書マタイ5章の山上の説教にあります。27節~28節。「あなたがたも聞いているとおり、『姦淫するな』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである。」

このようにイエスさまは、わたしたちの目には見えない、従って他の人には知られない心の中の罪について指摘しておられます。すると、だれも人の前では誇れることでも、自分の中では誇ることができない罪があることを認めざるを得ないのではないでしょうか。このように、姦淫の罪は、他の罪と同様、たとえ目に見えなくても私たちの心の奥底にまでこびりついたものなのです。

それでは、一体だれが第七戒を守っていることになるでしょうか。人の心を見ておられる方は、だれ一人正しくないことを知っておられます。だからこそ、罪人を救うためにイエスさまはわたしたちの所に来てくださったのです。ヨハネ福音書8章では姦淫の罪に問われた女の人がイエスさまの前に連れて来られた、という出来事が記録されています。連れて来た人々は、「姦淫の女は律法に従って石で打ち殺すべきである」と、イエスさまが答えるかどうか、試すのが目的でした。

姦淫の罪は、神さまから祝福された結婚の秩序を破壊するもので、重大な罪であります。しかしイエスさまは言われました。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まずこの女に対して石を投げなさい」と。すると、だれも石を投げることができませんでした。これはイエスさまの起こされた奇跡の一つではなりでしょうか。イエスさまの前では、なぜか誰も自分を偽って「わたしは罪がない」と思うことができなかったからです。イエスさまが地上に来られた目的は、罪人を救うためでありますから、イエスさまは第七の戒めを破る者に対しても、死罪に当たる罪を犯した者にも、罪の赦しを与えようとしておられます。姦淫の女のように、罪のただ中でイエスさまに出会うならば、本当に自分の罪を認めない訳には行かない。本当に罪の報いとして死ぬか、罪を認めて心から悔い改め、イエスさまから罪の赦しを受けるか、その二つに一つを選ばなければならないでしょう。

今日の新約聖書はコロサイの信徒への手紙3章です。パウロは、コロサイの教会の人々に語りかけます。「さて、あなたがたは、キリストと共に復活させられたのですから、上にある者を求めなさい。そこでは、キリストが神の右の座に着いておられます」と。キリストは復活されたのは、十字架に死んだからこそ、復活されたのでした。ですから、キリストを信じるわたしたちも、キリストと共に罪に死んだからこそ、共に復活させられて、新しい命に生きるものとされたのです。

新しい命は上にあるものを求める生活です。キリストは地上を離れて神さまの右におられます。つまり、神さまと共にすべてを御支配なさる方なのです。わたしたちはこの方の執り成しによって罪赦されてキリストに結ばれ、キリストの体と呼ばれているのですから、ひたすら、イエスさまの執り成しによって、神さまとの正しい関係を求めて生きるのです。それは、神の形として造られた本来の人間の祝福に満ちた関係です。だから「上にあるものに心を留め、地上のものに心を引かれないようにしなさい」と勧められています。

すると、「地上のもの」というところを、何か禁欲的に解釈して、物を持つことを禁止したり、結婚を禁じたり、断食をしたり、そういう目に見える何かをしないといけないかのように考え、勧める人々が力を持つことがあります。また、そういう勧めによって人々の行動を支配しようとする力が働きます。しかし、神さまはこのような偽善をご存じで、決してお見逃しにはなりません。「地上的なもの」とは、5節にその例が示されているとおりで、今日のテーマに関わっています。

「だから、地上的なもの、すなわち、みだらな行い、不潔な行い、情欲、悪い欲望、および貪欲を捨て去りなさい。貪欲は偶像礼拝に他ならない。」姦淫もまた情欲であり貪欲の一例であります。お金をいくら集めても飽き足らないのと同様、立派な美しい配偶者がいるのに、姦淫をする人が後を絶たないのは貪欲の罪、偶像礼拝の罪と重なっているからだと教えられます。

このような罪を罪とも思わない人々に満ちている社会に生きています。しかも殺人は禁じている法律はあっても、姦淫にはほとんど無法状態の世の中であります。脅迫されて罪を犯さざるを得ないという危険は沢山あるのではないでしょうか。しかし、ヨセフ物語でヨセフと共にいらして彼を救った神さまは、わたしたちにイエスさまの助けという現実となって勇気を与えておられます。コロサイ3章3節です。「あなたがたは死んだのであって、あなたがたの命は、キリストと共に神の内に隠されているのです。」あなたがたの命は、キリストと共に神の内に隠されて見えなくても、そこにある!と力強く言われているのです。ですから、わたしたちの命は、見かけはそうは見えなくても、危険から守られています。神さまに従う約束を神さまは受け入れてくださいました。神さまは誠実な方です。神さまにお委ねし、頼り行くわたしたちを、神さまは欺くことは決してありません。

ですから、わたしたちは上にあるもの、すなわち神さまとの正しい関係を求め、共に生きる人々との関係を、神さまの戒めの下で慎ましく喜ばしいものにしていただきましょう。

今日はカテキズム問47を学びました。それは、第七戒は何かということです。そしてその答は「あなたは、姦淫してはならない」です。わたしたちの心とからだは、神さまのものなので、神さまの御前に純潔を守り、神と人との関係を正しく保つことです。祈ります。

 

主イエス・キリストの父なる神さま

尊き御名を讃美致します。一週間の旅路を守られ、導かれて、わたしたちは礼拝を捧げる幸いに招かれました。代々の教会と共に、主の日の礼拝を守り、地上にある主の教会の民と共にあなたを見上げて感謝と讃美を捧げます。あなたは御子イエス・キリストの執り成しによってわたしたちの罪を赦して下さり、天にある、朽ちず、しぼまない命の希望に生きる者と作り変えてくださいます。地上の日々は大きな変化に絶えずさらされ、自然の営みも人の営みも激しく変わって行くように思われます。

その中でわたしたちは、目に見える幸いを追い求めることに忙しい世に在って、あなたの御心を尋ね求める者こそ幸いであることを教えられました。どうか神さまの喜ばれることこそが、わたしたちの喜びとなりますように。あなたの喜ばれないことから遠ざかる知恵をお与えください。わたしたちの教会で計画され、行われることが、福音を宣べ伝えるあなたのご命令に従うものとなりますように。また、わたしたちが礼拝の場を去って、それぞれの生活のある所に出て行くとき、どうか福音をそこにもたらすものとならせてください。

命の神よ、わたしたちはあなたの御許に隠されているわたしたちの命を思い、感謝します。どうか、苦しみの時、悩みの時、わたしたちの命に至る道を指し示してください。地上に与えられる新たな命を祝し、またキリストの執り成しによって生まれる救いの命を祝してください。また、地上を去ってあなたの御国に目覚める命を目指して歩む教会を祝してください。わたしたちの信仰の旅路を今週もお守りください。

この感謝と願いを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。