主よ、栄光はあなたのもの

聖書:歴代誌上29章10-14節, コリント一 3章18-23節

 この教会の礼拝に御言葉を語る務めによって働いて来た私も、あと二回の説教で終わると感慨深く思います。ちょうど主の祈りもあと二回のカテキズムの学びになります。神さまは御自身の御心を御言葉の説教によってわたしたちに教えてくださいます。しかし、御言葉を語る者も、聞く者も、共に罪人であり、様々な限界を持っていることを考えるとき、私たちは真に不思議だと思わずにはいられません。どうして罪ある人間に神の言葉が語れるだろうかと。そしてどうして罪ある人間がそれを神の言葉だと信じることができるのだろうかと。それは語る者も、聞く者も、聖霊の訪れによって、働きによっているからです。

さて、主の祈りは、どのような言葉で終わっているでしょうか。これがカテキズム問63の問であります。その答は、「国と力と栄光は、永遠にあなたのものです」です。わたしたちにできないことをしてくださるのは、神さまなのだ、としみじみと思うときは、どんな時でしょうか。皆さんにもいろいろあると思います。本日読んでいただいた旧約聖書は歴代誌上の29章です。ダビデ王は生涯の終わりが近くなって、神殿を建てるために準備をしました。非常に多くの金銀宝石や鉄や、木材、大理石を神さまに献げました。

しかし、ダビデ王は祈っています。14節。「このような寄進ができるとしても、わたしなど果たして何者でしょう、わたしの民など何者でしょう。すべてはあなたからいただいたもの、わたしたちは御手から受け取って、差し出したにすぎません。」ダビデ王は紀元前10世紀頃、イスラエルの12部族を統一して強い国家とした人であります。この世の権力者と同じように、軍隊を率いて戦い、破竹の勢いで周辺の国々を征服しました。しかし、彼は非常に謙って祈っています。莫大な富を神さまに献げる時にも「すべてはあなたからいただいたもの、わたしたちは御手から受け取って、差し出したにすぎません」と祈りました。

これは本当に驚くべきことだと思いませんか。もちろん、わたしたちはダビデ王のような力もない、実績もない、平凡な人間ですが、それなのに、何かちょっとできると得意になり、自分を偉いもののように考えたくなるものです。「すべてはあなたからいただいたもの」という実感するなら、それだけでわたしたちの世界は一変するのではないでしょうか。

わたしたちが今日も教会に集まっているのは、聖霊の神さまがわたしたちのうちに働いてくださったからです。そうではないでしょうか。聖霊の神さまが呼んでくださらなければ、何かもっと楽なことをしようと思うでしょう。もし、聖霊の神さまが呼んでくださらなければ、何かもっと得なことがあるかもしれないと思うでしょう。ところが、不思議な聖霊のお働きによって、その呼びかけに応える人々が集められています。全国全世界に、この2千年もの間。神さまは、本当に目に見えないお働きによって人をイエス・キリストの教会に招き、御言葉を聞かせてくださいます。わたしたちが罪の奴隷から解放されて、神さまに従う者となるために働いてくださっています。

成宗教会もそのようにして集められ、続いて来ました。本当に目に見える形では小さな群れですが、救い主として世に来られたイエスさまが、目に見える姿でわたしたちのために苦しみを受け、十字架に死んで甦ってくださったこの福音の言葉によって、生きた教会となったのです。天に昇られたイエスさまは、地上に肉体を持っておられたときとは異なって、全世界のそしていつの時代にも生きる信者と共に生きておられます。それは天からわたしたちに注がれる聖霊によって、イエスさまはわたしたちと共に生きておられるからです。

成宗教会のお墓は越生にありますが、その墓標に刻まれている言葉は、「神は我々と共におられる」というマタイ1章23節の言葉です。そうです。わたしたちと共に神さまがおられる、ということは、わたしたちの味方としておられる、ということに他なりません。救い主イエスさまが、神さまとわたしたちの間にあった罪を滅ぼすために犠牲となってくださったからです。身代わりに人間の死を死んでくださり、神さまの命に甦ってくださいました。

週報にお知らせしましたが、先週成宗教会の教会員、市川孝子姉が召天されました。ご子息のご一家は遠く九州にお住まいでしたので、なかなかお見舞いに来られなかった年月を思い、ご子息はお母さんが亡くなった時には、お骨を九州へ持って帰りたいと言っておられました。ところが、急に成宗教会の墓地にと申し出られました。成宗では2015年以後、納骨がなかったので、私も少し驚きましたが、これも神さまの深いご配慮と感謝しました。家族単位で持っていたお墓の世話も始末もできないような少子高齢化の中で、もし本当の家族と言えるとしたら、教会こそ家族なのではないでしょうか。

それは、成宗教会のお墓が一つの家族という意味ではございません。神の家族というのは、イエス・キリストを信じて、罪を赦していただいた人々のことです。この人々は、イエスさまの兄弟姉妹と呼ばれ、またイエスさまが神さまから愛する子、と呼ばれたように、イエスさまに結ばれているからこそ、神の子と呼ばれている。だからわたしたちは神の家族なのです。

このことはとても大きなことであり、とても重要なことです。なぜなら、わたしたちは罪ある人間でありますから、どうしても自分中心にしか考えられない。好きなもの、嫌いなもの、があり、これは人々についても言えるのです。一緒にいるとうれしい人間がいる一方、あの人とは一緒にいたくない、一緒にされたくないということも決して少なくない訳です。しかし、神さまはそうではない。善い方です。そしてわたしたちもまた善良になることを喜ばれます。神さまは、わたしたちが嫌ったり、捨てたり、軽蔑したりするのをご覧になってどう思われるのでしょうか。神さまは正義を愛し、不正をお嫌いになる方ですが、わたしたちの好き嫌い、わたしたちのいろいろな特徴を含めて、わたしたちを招いて神の子としてくださったのです。

そのことを考えるとき、わたしたちは「神は我々と共におられる」とはどういうことなのかに思い当るでしょう。神さまは色々な、本当にいろいろな多様性を持った人々を招いて、「わたしの子どもたち」と呼んでくださいます。そしてイエスさまは御自分の復活の体の教会を建設するために、天から聖霊を送ってくださるのではないでしょうか。

本日は新約聖書のコリントの信徒への手紙一、3章18節から読んでいただきましたが、これは、教会を建設することについての議論の続きです。いろいろな人々、多様性を持った人々を神さまは招いてくださったのですが、だからこそ、教会建設の土台は何かをしっかりと知る必要があるのです。言うまでもないことだと思うのですが、教会の土台はイエス・キリストなのです。ところが言うまでもない、と思っているのに、現実は大変な行き違い、勘違いがどんどん起こります。これはパウロの時代、すなわち、初代教会の時代から、おそらくいつでも、どこでも起こったことだったでしょう。自分がちょっと何かわかったと思うと、たちまち偉そうなことを言う人々は教会の外にも中にもいるからです。コリントの教会では教師について分派が起こりました。あの先生の方がよい、いやこの先生の方がよい。説教のうまい、下手とか。声が良いとか、悪いとか。挙句の果てはスタイルから、年令から、何だかんだと比較してほめたりけなしたり・・・。

ところが、コリント教会でタレントの人気投票もどきのことをされているパウロも、アポロも、ケファすなわちペトロも、その間、何をしていたでしょうか。教会の人々の救いのために労苦していたのです。くだらない議論にうつつを抜かしている間も、その人々をも含めて教会建設のために命がけの戦いをしていました。そしてそれは今の時代に至るまで大きく変わらないのです。使徒たちは迫害の時代を生きて働きました。国家が宗教を認めても、また別の戦いをしなければなりませんでした。戦争も起こりました。飢饉も起こりました。地上の教会の戦いは終わることはありません。だからパウロは厳しい忠告をしています。18~21節。

「だれも自分を欺いてはなりません。もし、あなたがたのだれかが、自分はこの世で知恵のある者だと考えているなら、本当に知恵のあるものとなるために愚かな者になりなさい。この世の知恵は、神の前では愚かなものだからです。『神は、知恵のある者たちを、その悪賢さによって捕えられる』と書いてあり、また、『主は知っておられる、知恵のある者たちの論議がむなしいことを』とも書いてあります。」

私も16世紀のルターやカルヴァンなど宗教改革者の戦いについて聞いたことが大きな慰めになりました。最近では、落合建仁という神学者が連合長老会の機関誌『宣教』に書いたカルヴァンのエピソードに私は深く心打たれました。それはカルヴァンが最初にジュネーブに行った時そこで受けた脅しと迫害でありました。彼は書いているそうです。「わたしを馬鹿にして、挨拶がわりということで、夕方に入口のドアめがけて火縄銃を四十から五十発くらったこともありました。」

信仰者の戦いについて言えば、20年近く入院したまま地上を去った市川孝子姉もまた、忍耐の年月を戦った方でした。それは死んだ方がましだと自ら言うほどの苦難の日々でしたが、不思議にお元気になることがありました。また彼女ほど牧師の問安を喜んで待っていた人はいなかったと思います。讃美歌に「かみによりて いつくしめる こころのまじわり いともたのし」と歌われる主にある交わりの真実を、この方は証ししてくださったのでしたから、どんなに励まされたことでしょう。理不尽なこと、仰天するようなことが起こっても、苦難に生きた人々の忍耐を思い起こすことができるとき、わたしたちは神の家族の交わりをいただいていることを知るのです。そしてこの交わりのただ中に主がおられることも。

これからわたしたちの多くは年を取り、この社会も困難を増すばかりのことが予想されます。しかし、神さまは人を謙らせて、自分を誇ることをやめさせてくださるなら、それは本当に幸いなことです。困難なことが起こり、自分たちには望ましいとは思えないことが起こる時にも、神さまの深い御心を思うならば、わたしたちは実に幸いです。なぜなら、わたしたちは、神さまがわたしたちに善いものをくださろうとしていると信じるために召されているのですから。どうしてパウロは言うのでしょう。「すべてはあなたがたのものです」と。神さまがすべてを支配しておられ、すべてをくださろうとしておられるからではないでしょうか。それが救いです。それがすべてです。

わたしたちはキリストのもの、そしてキリストは神のもの、と言われます。貧しい人も、豊かな人も、弱い人も、強い人も、いろいろな問題を抱えている人も、いない人も、神の知恵、キリストにあって一つとされるなら、全体が神のものとして支配され、善いものに変えられることを信じましょう。そして祈りましょう「主よ、栄光はあなたのもの」と。最後にもう一度、カテキズム問63です。「主の祈りは、どのような言葉で終わっていますか。答は『国と力と栄光は、永遠にあなたのもの』です。この世の権力も支配も栄光もすべて神さまのものであることを信じて、心から神さまをほめたたえて終わるのです。」祈ります。

 

御在天の父なる神さま

あなたは罪人を深く憐れみ、御子の苦難によって、わたしたちの苦境を打ち破ってくださいました。わたしたちの目に受け入れがたい苦難を通して、わたしたちを常に謙らせ、あなたに祈り、隣人と共に祈り、教会の礼拝に集い、あなたのご栄光をほめたたえる者となりますように。

あなたは先週、一人の姉妹をこの群れから天に召されましたが、長い間病気のために教会に集うこともできない苦労の生活の方でした。あなたはしかし、この姉妹を通して多くの働きをなし、ご栄光をたたえる生涯を終えましたことを感謝申し上げます。私たちにも教会の交わりを証しし、御言葉によって養われる生涯をお与えください。

先週はまた、東日本連合長老会の長老研修会を感謝します。長老の務め、執事の務めについて良い学びの時と交わりが与えられましたことを感謝します。どうかすべての問題、課題について心を開き、互いに学び合い、互いの利益となる連合長老会となりますように。

また、新しく東北地方に新しい連合長老会が発足に向かって進んでいます。どうかそのために労苦しておられる先生方を特に顧みてください。

どうか、藤野雄大先生、美樹先生のご赴任に先立つご準備を祝福してください。この先生方と共に心を一つにして祈り、支えていく志が教会の皆さまにあふれますように。私も最後の引き継ぎを行い、問安の一週間を過ごします。どうか教会員、客員、求道者、教会学校のすべての方々の上に、平安と新しい希望をお与えください。

この感謝と願いとを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

神の御名が聖とされますように

聖書:歴代誌上167-13節, ローマの信徒への手紙113336

 新しい年も、寒い寒いと言って過ごしているうちに、早くも2月を迎えました。わたしたちは恵まれて月の初めの聖餐礼拝に招かれましたことを感謝します。私の成宗教会の牧師としての務めも二カ月を切りました。本当のところ、私の願いとしては、17年前、減少していたこの教会の礼拝出席者の数を回復させて、もう少し多くなったら次世代に受け継いでいただこうと思っていたのでした。ですから、「私の願い」という点では、願いは叶わなかったことになります。しかし、主は私の間違いを指摘してくださいました。「本当に願うべきは、果たして自分の願いが叶うことなのか」と問われているのだと思います。

わたしたちは今、日本の人口減少が進んで行く社会に生きています。地方の市町村の過疎化が進んでいるとき、被災地ばかりでなく、一部の地域に人口が集中する一方、立ち行かなく自治体も増えて行くと予測されます。このことは日本キリスト教団の諸教会をはじめ、他教団の教会でも同じことが言えるでしょう。しかし、その時人々はどのように行動するのでしょうか。だれも、「こうすればきっとうまく行く」という方法論を持っているとは思えません。ただ、自治体と教会とは、方法論で比べることはできないのです。

わたしたちの中には、家族や、友人、また隣の人が教会に行っているから、という理由で教会に来た人もいるでしょう。昔はそういうことがよくありました。しかし、教会は地上にだけ立っているものではありません。もし、そうであるならば、人が変り、時代が変り、教会はとっくの昔に廃れてしまっていたはずです。私の学生時代には社会主義、共産主義思想が栄えていました。一方、それ以外の思想は非常に軽蔑されました。私も「キリスト教なんて古いんじゃない」と友人に言われましたが、それから十年も経たないうちに、栄えていた思想が衰退して行ったのは非常に不思議に思われます。

唯物論的な思想が廃れると、一転して、今度は若い人々が怪しげな新興宗教に取り込まれ、それらがキリスト教主義の学校、大学にまでも浸透して、人々を悩ます時代が来ました。その結果、「宗教は怖いもの」という印象がこの社会に植え付けられました。教会はこれらの思想や宗教から見えない攻撃を受け続けて今日に至っています。ですから、わたしたちの教会も、もし地上に立っているだけの教会であったならば、もし人々が集まっているだけの教会であったならば、この時代に、この社会に立って行くのは難しいでありましょう。あれだけ栄え、あれだけ社会を席巻するかに見えたものが、いつの間にか廃れてしまっているのですから。

しかし、わたしたちが今日も守っている礼拝、今日も与ろうとしている聖餐は、この世の流行はやり廃すたりをはるかに超えて、この二千年の間に世界中で行われている教会の営みであります。自己実現の大流行の時代も、人々が自己実現の果てに頼るものを見い出せなくなった時代も、変ることなく守って来た教会の信仰をわたしたちは受け継いで参ります。この信仰はイエス・キリストの体なる教会を形成する信仰に他なりません。

私は自分の願いとしては、こうだった、と先ほど申しました。「多くの人々に伝道したい、多くの人々を教会に招きたい、というわたしの願いは、断然正しいはずだ」と息巻いていたのかもしれません。しかし、主は弟子たちに、そしてわたしたちにも教えてくださいました。「天におられるわたしたちの父よ」と呼びかけなさい、と。そして「あなたの御名が聖とされますように」と祈りなさい、と。これが主の祈りの第一の祈りです。

御名、すなわち神さまのお名前が、崇められますように、とわたしたちは日本語で祈っています。崇めると訳されているこの言葉は、「聖別する、神聖なものとする」という意味です。つまり、単に恐れ多い、とか、尊いとか、大切にする、ということではありません。神さまのお名前は、神さまのご性質、お姿を表すお名前です。神さまは「父なる神さま」であります。また「天地の造り主」であります。また「贖い主」であり、「救い主」であるのです。神さまのお名前は、この方がすべてを造り、すべてを父の心をもって愛し、保ち、すべての罪を贖って救われる方であることを表しています。

では、この方の御名を聖とする、とはどうすることでしょうか。それは、わたしたちのかけがえのない命を創造し、また命を終わらせる神さまを信じ、讃美することに他なりません。わたしたちは、もし自分中心に考え、自分の利害損得にかかわることしか見ていないならば、神さまに心を向けることも讃美することもできないでしょう。しかし、その反対に、わたしたちがこの世界に目を向け、心を向けて、しっかりと見れば見るほど、讃美の思いが深まって行くのです。詩編8篇を読みましょう4-9節です。840頁。

「あなたの天を、あなたの指の業をわたしは仰ぎます。月も、星も、あなたが配置なさったもの。そのあなたが御心に留めてくださるとは、人間は何ものなのでしょう。人の子は何ものなのでしょう、あなたが顧みてくださるとは。神に僅かに劣るものとして人を造り、なお、栄光と威光を冠としていただかせ、御手によってつくられたものをすべて治めるように、その足もとに置かれました。羊も牛も、野の獣も、空の鳥、海の魚、海路うみじを渡るものも。」

このように、天の偉大さと大きさに比べれば、「なぜ神さまは一見して取るに足りない人間に関心を抱かれるのだろうか?」とわたしたちは思わずにはいられないのです。そして改めて人間を思うとき、すべてを造られた主なる神さまが、取るに足りない人間を心に留めることを良しとされたことは、本当に驚くべきことです。そこで遠く広く造られた世界を尋ね求めるならば、わたしたちは神さまの御名をほめたたえずにはいられないでしょう。詩8篇10節。「主よ、わたしたちの主よ、あなたの御名は、いかに力強く全地に満ちていることでしょう」と。

今日読んでいただいた旧約聖書、歴代誌上16章はダビデ王が神さまに捧げた讃美です。8節から読みます。「主に感謝をささげて御名を呼べ。諸国の民に御業を示せ。主に向かって歌い、ほめ歌を歌い、驚くべき御業をことごとく歌え。聖なる御名を誇りとせよ。主を求める人々よ、心に喜びを抱き、主を、主の御力を尋ね求め、常に御顔を求めよ。主の成し遂げられた驚くべき御業と奇跡を、主の口から出る裁きを心に留めよ。主の僕イスラエルの子孫よ、ヤコブの子ら、主に選ばれた人々よ。」

ダビデは少年の頃から神さまだけを頼りに戦って来ました。しかし、彼がこの時このように賛美をささげたのは、激しく長い戦いの年月が終わりに近づいた時でした。神さまはどこまでもご自分を頼って救いを叫び求めていたダビデの祈りに応えてくださったからです。わたしたちにも戦いがあります。それは具体的には、槍を持って自分の命をつけ狙う王の軍隊と、いつ果てるともない戦いをしなければならなかったダビデとは比べものにならないでしょう。しかし、わたしたちの戦いも決して安易なものではないことを、わたしたちは知っております。

なぜなら、わたしたちは人生の先輩、信仰の先輩の方がtを沢山見ているからです。先に生れ、先に労苦し、先に年取って行きますから。明治以来、日本に稀に見る戦争のない時代が続き、戦争で苦しんだ世代も高度経済成長の時代を謳歌しました。戦後の教会に集い、教会を支えた多くの人々はこの世代の人々です。わたしたちは誰もが年を取って行きます。肝心なのはその時です。それからです。わたしたちはダビデ王のようにたくさんの献げ物をして礼拝を捧げ、主なる神さまにこの歌を讃美することができるでしょうか。

大多数のわたしたちには出来そうもありません。わたしたちはますます貧しく、小さく、もろいものになって行くでしょう。しかし、教会に足を運ぶことの大切さ、礼拝を共に捧げることの大切さを証ししてくださったのは、わたしたちより先に弱り、先に小さくなり、もろいものとなったわたしたちの人生と信仰の先輩の方々なのです。

老いて行くわたしたちの最後は大きな意味を持っています。ダビデ王には及ばなくても、わたしたちも多くを見聞きし、多くを体験し、多くの試練を通って来ました。そして今、年を取ることそのものが、誰にとっても大きな試練であります。しかし、よく考えてください。誰にとっても試練である高齢化の中で、生涯の終わりに至るまで神さまの御名をほめたたえる人々がいるのです。「振り返ってみれば、何もかも感謝というより他にはないのです」という言葉。私はこの教会に仕えて、この言葉を数えきれないほど聴きました。真心から生まれる、主をほめたたえる言葉です。それは神さまの御名をほめたたえる人々の命の尊さを表すものでなくて何でしょうか。なぜなら、人間に与えられた命の目的は、神さまをほめたたえることだからです。人間に与えられた使命、神さまの目的が、成宗教会に生涯の最期まで連なっておられる方々において全うされるのを、私たちは見ることができました。そして、これからも見ることができますように。

このように「神の御名が聖とされますように」という祈りはいつでも、どこでも、心から献げられるように、とわたしたちは求められています。私が自分の願いを正しいと思うときにも、特に自分のこの願いは断然叶えられるべきだという思いに捕らわれる時にも、神さまの御心のみが広く、深く、恵みに満ちた救いを実現されることを確信して、心砕かれるのが、この祈りなのではないでしょうか。

恵みに満ちた救いと申しましたが、ダビデ王の時代にはまだ誰も見ることのできなかった救いの業を、神さまはイエス・キリストにおいて成し遂げてくださいました。人間とは、死すべき者、弱い、罪人に過ぎない者ですが、神さまは初めにこれを御自分に似せてお造りになり、神の形としてくださいました。そしてその破れにも拘わらず、罪人の救いのために、御子は謙って地上に降られたのであります。罪人のために苦難を耐え忍び、罪人のために十字架に死んで、罪の贖いを成し遂げてくださいました。こうしてイエスさまは、すべての人のために死んでくださったのです。しかし、そのことによって、すべての人が自動的に救われる訳ではありません。そうではなくて自分が罪ある者と知り、悔い改めてイエスさまの執り成しを受け、神さまに従うならば、その人を救ってくださると、約束されたのであります。

今日読んでいただいた新約聖書、ローマの信徒への手紙11章33節ですが、一つ前の32節から読みましょう。「神はすべての人を不従順の状態に閉じ込められましたが、それは、すべての人を憐れむためだったのです」と書かれています。わたしたちはこんなに心を込めて伝道したのに、信仰を受け入れる人々が少ないと嘆いているでしょうか。私は何度も申しましたように、「辞める前に、少しでも教会員を増やして…」などと、俄かに大きな望みを持ったりするのですが、全体としては、何も考えずに呑気に教会に仕えていたのだ、と思います。それはなぜかと言えば、伝道は神さまのなさることという実感があったからです。どんな困難な時にも、なぜか平安であり、理由もなく楽しかった、と振り返ることができるのは、聖霊の神さまが励ましてくださったからこそ、と感謝します。

あれほど一生懸命努力したのに、全く実を結ばないという出来事もある一方、私自身が蒔いた種ではないところから神さまの救いという思いがけない収穫があったこともあり、むしろこちらの方が多かったので、やはり、恵みによる救いは本当だったと、うれしく証しします。「ああ、神の富と知恵と知識のなんと深いことか。だれが、神の定めを究め尽くし、神の道を理解し尽くせよう。『いったいだれが主の心を知っていたであろうか。だれが主の相談相手であっただろうか。だれがまず主に与えて、その報いを受けるであろうか。』すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向かっているのです。栄光が神に永遠にありますように、アーメン。」

私たちは過去から計り知れない恵みを受けたことを証しし、神さまの御名をほめたたえます。そしてこれから大きな困難に立ち向かう時にも、この恵みの神の御業を思い起こし、主の祈りを共に捧げて、成宗教会に連なり、天地に唯一の教会を告白したいと願います。本日は主の祈りを学びました。「カテキズム問57 主の祈りは何を第一に求めていますか。」そして答は「み名が聖とされますように」です。祈ります。

 

恵み深き天の父なる神さま

尊き御名を讃美します。二月を迎えました。あなたの憐れみと恵みにより、私たちは御前に集められ、み言葉をいただきました。深く感謝申し上げます。どうか私たちに悔い改めの心を新たにさせてください。ただあなたの憐れみと恵みによって罪の赦しをいただいたことを覚え、聖なる御名をたたえる者となりますように。礼拝を去り、一週間の日常の生活に出て行くわたしたちをお支えください。その中でも、いつもあなたを覚え、イエスさまの執り成しによって祈り、謙って従って行く者でありますように。

私たちは自分の生活に追われるように年月を過ごしました。考えること少なく、祈ること少なく、思い煩うことの多い日々を悔いております。どうか主よ、私たちの弱さを覚え、私たちのために信仰の戦いを戦ってください。多くの人々は年を取ることに何の喜びも見出しませんが、私たちは、主に出会い、主と共に生きることこそ喜びであることを証ししたいと願います。どうか私たちを主の御体の肢として活かし用いて、どのような時にも聖なる御名を証しし、ご栄光を現わすものとならせてください。

今、お病気の方々、忙しい日々の労苦を負っておられる方々を覚えます。主の恵みがその方々の上に注がれますように。本日は聖餐に与ります。私たちの救いのためになされた主の御業の全てを感謝して与るものとならせてください。また本日予定されている長老会議の上に御心が成りますように。藤野先生ご夫妻の陪席をいただいて行われるこの会議を、最初から最後までお導きください。すべてのことを感謝し、御手に委ねます。

この感謝と願い、尊き主、イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。