主イエスの恵み“カリス”

《賛美歌》

讃美歌20番
讃美歌183番
讃美歌546番

《聖書箇所》

旧約聖書:申命記 4章20節 (旧約聖書287ページ)

4:20 しかし主はあなたたちを選び出し、鉄の炉であるエジプトから導き出し、今日のように御自分の嗣業の民とされた。

新約聖書:エフェソの信徒への手紙 2章1-10節 (新約聖書353ページ)

2:1 さて、あなたがたは、以前は自分の過ちと罪のために死んでいたのです。
2:2 この世を支配する者、かの空中に勢力を持つ者、すなわち、不従順な者たちの内に今も働く霊に従い、過ちと罪を犯して歩んでいました。
2:3 わたしたちも皆、こういう者たちの中にいて、以前は肉の欲望の赴くままに生活し、肉や心の欲するままに行動していたのであり、ほかの人々と同じように、生まれながら神の怒りを受けるべき者でした。
2:4 しかし、憐れみ豊かな神は、わたしたちをこの上なく愛してくださり、その愛によって、
2:5 罪のために死んでいたわたしたちをキリストと共に生かし、――あなたがたの救われたのは恵みによるのです――
2:6 キリスト・イエスによって共に復活させ、共に天の王座に着かせてくださいました。
2:7 こうして、神は、キリスト・イエスにおいてわたしたちにお示しになった慈しみにより、その限りなく豊かな恵みを、来るべき世に現そうとされたのです。
2:8 事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。
2:9 行いによるのではありません。それは、だれも誇ることがないためなのです。
2:10 なぜなら、わたしたちは神に造られたものであり、しかも、神が前もって準備してくださった善い業のために、キリスト・イエスにおいて造られたからです。わたしたちは、その善い業を行って歩むのです。

《説教》『主イエスの恵み“カリス”』

本日の聖書箇所は、エフェソの教会の兄弟姉妹たちの現実の姿を描き出すことから始まります。それは、この手紙を書いたパウロ自身の現実でもあり、現在の私たちの現実でもあります。その現実とは、私たちは洗礼を受けて教会に加わる前には、「自分の過ちと罪のために死んでいた」という現実です。と、言ってもその現実を明らかにするパウロの言葉は、エフェソの教会の兄弟姉妹たちを非難する言葉ではありません。ここにある、「死んでいた」という表現は、以前のあなたがたは、こうであったと責めたてる言葉というよりも、今は、過ちと罪を赦されて、そこから解き放たれて、自由にされていることの喜びを共にする言葉として理解することができます。死んでいたに等しい人間が、生きるようになったことへの不思議さと感謝の言葉から始まっていると言えましょう。それは、先週ご一緒にお読みした放蕩息子が父のもとに戻って受け入れられたことの喜びに通じます。

私も、あなたも、以前は自分の過ちと罪のために死んだようになっていた。世界を支配する神に背き、罪と過ちを犯して歩んできた。神の怒りを真っ先に受けるにふさわしい者であった。しかし、そのような私たちが、今やキリストと共に生かされているという恵みを語り始めるのです。この恵みがどれほどすばらしいものかが、後半部分の7節以下には鳴り響きます。

さて、2節の「この世を支配する者」や、「かの空中に勢力を持つ者」とは、すぐ後の「不従順な者たち」のことです。「内に今も働く霊」とは悪魔のことと思われます。「この世を支配する者」は原文では「このコスモスのアイオーン」という言葉です。「コスモス」とは「宇宙」と訳される言葉で、「アイオーン」は、当時のアレキサンドリヤなどでは神として祭られていたこともあることから、「偶像の神」と解釈できます。そして、「かの空中に勢力を持つ者」とは、悪魔・サタンと考えられます。サタンは人間を遥かに超える力を持っています。主イエスがこの世に来られた明白な目的は、まさに「悪魔の働きを滅ぼすため」にほかならなかったと言われます(Ⅰヨハ3:8)。主イエスご自身も、公の生涯のはじめに荒れ野でサタンの誘惑に遭われ、サタンを退けられました。サタンは大変巧妙で、パウロはサタンのことを「光の天使を装うのです」(Ⅱコリ11:14)と指摘しているほどです。サタンは、善人を装い、時には天使を装って私たちに近づき、私たちを肉の欲望のままに生きる者として、神様から私たちを遠ざけることを企みます。

使徒パウロは、人間が偶像崇拝に陥り、サタンの支配にとらわれていく現実をしっかりと見つめます。私たちも自分は、サタンや偶像礼拝と無縁だ、自分は教会生活をしっかりと守り、信仰に堅く立っていると、自分勝手に思い込んでいるんではないでしょうか。パウロが語るサタンとは、残忍で恐ろしい姿かたちをいつもとっているわけではありません。私たちが、神以外のものをより大切にし、自分が良いと思っているところに心惹かれていくとき、すでにサタンの誘惑に陥っているのです。パウロは、3節では、ユダヤ人として信仰を受けている人たちや信仰を得ていない不信仰者を含むすべての人々は、生まれながらの本来の姿なら、神の怒りにあう者であり、神の怒りから逃れられないと言っています。自分が善かれと思って行うことが、「肉の欲望の赴くままに生活する」ことです。そのような罪の現実の最大の問題は、自分の思いのままに生きる時、私たちはキリストと共に生きている、キリストによって生かされていることを忘れてしまうことです。

神様は、そのような私たちを、それでもなお深く憐み愛してくださり、その愛によって、罪のために死んでいた私たちをキリストと共に生かし、キリストと共に復活させ、共に天の王座に着かせてくださいましたとパウロは記します。本来なら、神を忘れて、神様とは別な方向を向いている私たちを、神の御前に連れ戻してくださるのです。4節の「愛」とは、神ご自身の愛のことです。この愛は、人間をサタンの誘惑から解き放ち、サタンの支配を粉みじんに打ち砕くような厳しく、激しい決然とした愛です。神が愛する独り子を世界に遣わし、それによって私たちを新たに生まれさせ、生き方を変えてくださった愛です。神様が私たち人間を愛するゆえに、御子をすら惜しまなかった徹底した愛です。この徹底した愛にこそ、はじめからの神の目的があります。5節と6節は、私たちの予想に反するような恵みが語られています。神様がくださる恵みです。「生まれながら神の怒りを受けるべき者」を新生させてくださる神の目的は、5節の「キリストと共に生かし」てくださることであり、6節にある「共に復活させ、共に天の王座に着かせ」るためなのです。その神の豊かな愛は、ここにある「憐れみの豊かさ」であり、「わたしたちをこの上なく愛してくだ」さったからです。

新しく生まれる「新生」とは、霊的に死んでいた者に対する神の一方的な賜物、恵みです。神様は、何のとりえもない私たちを、信仰ゆえに憐み、ただひたすら一方的な恵みによって、私たちを罪の支配から救い出してくださるのです。キリスト者は、いつの時代にもこの一点だけで、共通の経験をしている者です。「あなたがたの救われたのは恵みによるのです」とありますが、これは、すでに与えられた救い、つまりイエス・キリストによる罪の赦しと罪の支配への勝利を示しています。この箇所は、教会における洗礼を指しています。コロサイの信徒への手紙2章12節には、「洗礼によって、キリストと共に葬られ、また、キリストを死者の中から復活させた神の力を信じて、キリストと共に復活させられたのです」と、洗礼についてハッキリと記されています。今日のエフェソ書では、洗礼について明記はありませんが、パウロの言葉遣いは明らかに洗礼を指しています。5節の「罪のために死んでいたわたしたちをキリストと共に生かし」とあります。この「共に生かし」とは、こことコロサイの信徒への手紙2章13節にだけ出て来る言葉です。この「生かす」とは「命をつくる」という言葉です。「キリストの救い」とは、単なる罪の赦しだけではなく、キリストにある新しい命を私たちに与えて下さるのです。この「キリストと共に生かす」とは、「新しく生まれ」てキリストと結び付けられ、キリストに起ったこと「復活と天の王座へ座ること」が、神の力によって私たちにも起こることを示しています。イエス・キリストの生命に与って、それと一体となることです。この「愛による救い」の文章は8節にまで続きますが、感極まったパウロはここで「あなたがたの救われたのは恵みによるのです」と、5節と8節で繰り返し歓呼しています。霊的に死んでいた状態から新しく生きる「新生」とは私たちに対する神の一方的な恵みなのです。

そして、この「救われた」という動詞は完了形で、イエス・キリストの十字架の御業で「すでに救われている」と言っているのです。「あなたがたの救われたのは恵みによるのです」と、ここに「恵み(カリス)」という言葉が出てきます。今日の短い聖書箇所だけでも3回も登場しています。神の救いが、人間に対する神の愛による一方的な賜物・恵みであることを表している言葉です。

成宗教会の皆さんの中にはお気付きの方もいらっしゃいますが、成宗教会のメールアドレスは「ナリムネ・カリス」です。「カリス」に決まった経緯を私は聞かされていませんが、並木先生時代に開設されたメールアドレスが、この「恵み(カリス)」であることに今日は不思議な神の導きを感じずにはおられません。

6節の「共に復活させ、共に天の王座に着かせ」るとは、やがて来る未来の終りの日のことよりも、現在既に起こった出来事を指します。神の救いは霊的な死からのよみがえり・復活ばかりか、何と、神の子たる身分への天への招きでもあるのです。「共に復活させ、共に天の王座に着かせ」と2回も続いて語られる「共に」という言葉は、一つの言葉としては存在していません。この「共に」という言葉は「復活させる」「着かせる・座らせる」という動詞の接頭語です。分かり易く日本語の意味を加えると「キリスト・イエスと一緒に復活させ、天の王座にキリスト・イエスと一緒に着かせてくださいました」となります。霊的に生き返る「新生」とは、天におられる復活の主イエス・キリストと共に新しく生きるということなのです。

7節では、「その限りなく豊かな恵みを、来るべき世に現そうとされたのです。」と、私たちの救いの目的をさらに明らかにします。この「来るべき世」とは、終末に続く新天新地を含む無限の将来・永遠を指し示しています。1章4節に「天地創造の前に、神様はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。」とありました。私たちの「選び」は過去から続くものでしたが、その「恵み(カリス)」は、現在の私たちに永遠の将来まで一方的に与えられるのです。

8節の「あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました」とあります。「恵み(カリス)」は、漠然とした「恵み(カリス)」ではありませせん。前の7節の「キリスト・イエスにおいてわたしたちにお示しになった慈しみにより、その限りなく豊かな恵み(カリス)」であり、「キリスト・イエスの十字架による慈しみ」のことです。キリストの出来事のすべてが「恵み(カリス)」です。しかもその恵みの出来事は一方的に与えられました。

しかし、その恵みとは、私たちの応答を問うことなしに、ばらまかれるのではありません。「恵みにより、信仰によって救われた」とあります。ここは、正確には「信仰による恵みで・・・」と訳すことができます。人はイエス・キリストを自分の救い主として受け入れる信仰を通して、その恵みを受けることが出来るのです。「このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です」。神の救いとは、神様からたまたま頂いた賜物ではなくて、受け取る私たちの悔い改めを前提として信仰という管を通して神のご意思によって与えられる「恵み(カリス)」と言った方が適当でしょう。

9節の、「行いによるのではありません。」とは、前の8節の「自らの力によるのではなく、神の賜物です。」の言い換え、繰り返しです。どんな形でも人の力や功績、努力が顔を出す余地はなく、「わたしたちは、人が義とされるのは律法の行いによるのではなく、信仰によると考えるから」(ロマ3:28)なのです。

10節では、「なぜなら」と、前節までの内容を繰り返して説明を重ねます。私たちは神の作品なのだから、神の救いが人間の行い、善行や業績によることはあり得ないのです。私たち人間は「神が前もって準備してくださった善い業のため」に神によって造られた作品なのです。

キリストの救いとは、救われる私たちの善行という努力や働きがまったく必要ない神の一方的な愛の「恵み(カリス)」なのです。

「恵み(カリス)」は、信仰によってのみ神様から頂くことができるものです。神様は主イエスを救い主として信じる者に溢れるばかりに「恵み(カリス)」を注がれるのであって、善行の報酬として与えられるものではありません。「恵み(カリス)」をいただく手段は信仰のみです。しかも、実に、その信仰そのものも神の賜物なのです(エフェ2:8)。

私たちは、主なる神によって創造された、神の作品です。ゆえに、私たちは、自分を誇ることができません。私たちが誇ることができる唯一の出来事は、神の御子イエス・キリストによる救いという出来事のみです。誇るならば、主を誇れという言葉通りに、信仰者の誇りとは、信仰を持つ自分ではなくて、私たちが信仰の対象としている神の御子イエス・キリストの十字架と復活の出来事、「恵み(カリス)」の出来事に他なりません。神の作品として「恵み(カリス)」を感謝し続けて生きる者となりましょう。

お祈りをいたします。

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私の軛(くびき)を負いなさい

《賛美歌》

讃美歌9番
讃美歌352番
讃美歌312番

《聖書箇所》

旧約聖書 申命記 1章29b~31節 (旧約聖書280ページ)

1:29b 「うろたえてはならない。彼らを恐れてはならない。
1:30 あなたたちに先立って進まれる神、主御自身が、エジプトで、あなたたちの目の前でなさったと同じように、あなたたちのために戦われる。

新約聖書 マタイによる福音書 11章28~30節 (新約聖書21ページ)

11:28 疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。
11:29 わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。
11:30 わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」

《説 教》

今日、示された新約聖書の御言葉は、教会では度々「招きの言葉」・「招詞」としても大変良く用いられる御言葉で、キリスト者にとっては、諳んじて覚えられているほど馴染み深い聖書箇所と言えるでしょう。

本日のこの聖書箇所の少し前の11章20節から振り返って見ましょう。主イエスは、ガリラヤで伝道を始められてから沢山の奇蹟をされましたが、ここには、悔い改めなかったガリラヤの町を主イエスが叱り始められたとあります。それらの町の人々は、主イエスに癒しや悪霊からの解放を求めました。しかしながら、ティルスとシドンの人々は主イエスの御言葉に耳を傾けても悔い改めることをしませんでした。主イエスは、これらのガリラヤの町は旧約聖書に引用されている「ソドム」や「ゴモラ」などより重い罰に値すると言われたのでした。これらのガリラヤの町は、神の御子主イエスの御言葉を直接聞くことができ、すぐにも、悔い改めて主に聞き従えるという有利な立場にありながら、旧約聖書に出て来る町「ソドム」や「ゴモラ」と同じように、主イエスの御言葉に応答しなかったからなのです。ガリラヤの地で伝道を開始された主イエスの御言葉には力がありました、その最初の御言葉は4章17節にある、「悔い改めよ。天の国は近づいた」です。この御言葉を聞き信じた人々は、最も大切なこととして、主イエス様ご自身が言われた「わたしの軛を負いなさい」という御言葉に聞き従ったのです。今日の御言葉の直前の25節以下で主イエスは、「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。そうです、父よ、これは御心に適うことでした。」と言われています。自らを「知恵のある者や賢い者」として高ぶる者には神の国の真理は隠され、幼子のように素直に心を開き信頼する者に、神の国の真理は明らかにされると主イエスは語られたのです。

人間にとって神様を信じる信仰という霊的な行為は、人間の常識とは別のものであることを主イエスは語られたのです。主イエスが「父」と呼ぶ神様が、御子である主イエスを通してご自身を現したのであり、主イエスは神様のひとり子として父なる神様と特別で密接な関係にあることを話されたのが、主イエスの伝道の御言葉でした(2:15、3:17、4:3、6、8:29)。御子イエスが父なる神様を人々に知らせなければ、人は父なる神様を知ることは出来ない、人は主イエスを通してしか神様を知ることが出来ないことを語られたのです。

28節で、主イエスは、「疲れた者」と呼びかけておられます。この「疲れた者」とは、当時の律法学者やファリサイ派の人々によって、律法の重荷を負わされていた民衆です。毎日毎日さまざまな掟によって縛り付けられていたユダヤの人々のことでした。

律法とは、ユダヤの人々が生きて行くこと、日々の生活を神様の恵みと喜び、感謝しながら過ごす中にあるもので、本来人々に知恵を与えるものでした。しかし、当時のユダヤ教の祭司や律法学者、ファリサイ派の人々は多くの律法の規定を作り出してしまい、かえって律法を重荷にしてしまったのでした。そして、この「疲れた者」に対する聖書の御言葉と主イエスの約束は、今ここに生きている私達に向けられた御言葉でもあるのです。

私たちの人生にはさまざまな労苦があります。重い重い、重荷があります。私達を疲れさせるものが沢山あります。疲れ果ててしまっている私達に対して、主イエスは、「疲れた者」と呼びかけておられるのです。

これは私達疲れ果てた者に対する主イエスの呼び掛け・招きです。ここで主イエスが私達に与えようとされている「安息」とは一体どんなものでしょうか。また、それは本当に必要なものであるということを、私達が充分に理解しているでしょうか。世の中には、重荷を負っている人は沢山居ますが、その重荷は、主イエスによってのみ軽くして頂けるものなのでしょうか。本当にそうなのか、どうしたらそうなるのか、ということだけでなく、その内容を私達がどれだけ知っているのでしょうか。例えば、世の中の多くの人々は酒を飲むことによって、重荷をおろそうとしています。もしかすると、キリスト者でありながら、キリストのところへ行って重荷をおろすより、一杯やったほうが気が晴れると、心の奥底の何処かで思っている人も居るのではないでしょうか。私なども、長いサラリーマン生活の中で、ついつい深酒をしてしまったこともありました。こんな一例に限らず、私達は「重荷を負っている者こそ、この私達なのだ。」と思っています。それほど重荷は何処にでもあるのです。そして、何と自分が重荷を負っていることは当然分かり切っているのですが、その「重荷の正体」を実は何も分かっていないのではないでしょうか。「重荷の正体」とは、いったい何なのでしょうか。今日、私達に示された28節の御言葉を読んで気付かされるのは、実は私達が重荷だ、重荷だと思っていたものを、主イエス様が「そうだ、それがお前の重荷だ。」と簡単に受け入れて下さっているのではないということです。

そうではなく、私達が「これは苦しく悲しい、大変な重荷だ」と考えるよりも、ずっと深い思いで、本当の重荷とは何か、私達を苦しめている本当の重荷とは何であるかを主イエスは見抜いておられるのです。

私達を、疲れ果てさせて、絶望の淵にまで追い込んでいるものは、いったい何であり、どんな重荷なのでしょうか。それを本当に取り除いてしまう道はどこにあるのでしょうか。その重荷を取り除くことに関連する御言葉として29節には「そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。」と主イエス様は仰っています。口語訳聖書では、主イエス様は「そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられるであろう。」と若干違った訳になっていますが、29節のこの日本語に訳されている「得られる」と「与えられる」との言葉は元来「見出す」という言葉です。

苦しく重い「重荷」を放り出したり、下ろしたりするのではないのです。そうではなく「安らぎを見出す」と主イエスは言われたのです。私達は人生において、苦しい時や悲しい時に、得てして「ああ、休みたい、ここで荷を下ろして休みたい。」と思います。しかし、主イエスは言われました。重荷とは放り出したり、下ろしたり出来るものではない、また、主イエスによって与えられる「安らぎ」とは、その重荷を負った者に、重荷を負ったままで与えられるものなのだと、言われているのです。この主イエスの与えられる「安らぎの約束」は、その前にある2つの御言葉を前提としています。その二つの御言葉は「わたしの軛を負いなさい」と「わたしから学びなさい」の2つです。そうすれば主イエスは重荷を負ったまま「休ませてあげよう」と言われているのです。「安らぎ」を与えられるのは、主イエスの軛を負って、主イエスに学ぶときであると、はっきりと言っておられるのです。主イエスは「その重荷を下しなさい」とか「わたしが重荷を下ろしてあげよう」と言われているのでは決してないのです。実に、この人生の重荷は下ろすことも、外すことも出来ないのです。言ってしまえば「重荷は死ななければ下ろせない」のです。この下ろせない重荷を軽く担えるようにして下さるのが、主イエスが言われた「わたしの軛」なのです。

現代社会、それも都会に生きる私達にとってまったく馴染みのない、「軛」とは何でしょうか。「軛」とは、通常2頭の牛などの家畜の首の間に渡され、運搬や農耕の作業時に家畜の力を使うために装着された道具です。2頭の家畜の間に渡して鋤を引かせて畑の畝起こしをしていたと言われれば想像することができるでしょう。日本の田畑は土が柔らかく通常1頭の家畜で鋤起こししていましたが、荒れ地で固い土が多かったパレスティナでは左右2頭の家畜に渡した「軛」が使われていたのです。この軛は、家畜を傷めないために1頭づつのオーダーメードで作られていました。この軛は家畜にかかる負担を下げて、皮膚が剥けたりしないよう上手く作られないといけませんが、公生涯前の若きイエス様はこの軛制作の匠でもありました。そのイエス様の経験が、「軛」という御言葉に現れているのです。また、そればかりではなく、当時のユダヤ人は、元来家畜が重荷を負う時に用いられた道具である「軛」という言葉を比喩的に『掟』を意味するものとして用いました。当時のユダヤ人の世界では、重荷を背負いながら、生きていく時の最も優れた生き方として、掟である律法、例えて「軛」によって生きることが求められていたのです。その「掟」である「軛」を主イエスは「軛なんかいらん」「軛は外してしまえ」と仰ったのではないのです。「わたしの軛を与えよう」すなわち「わたしの新しい掟を与える」と仰っているのです。この主イエスの新しい掟である「軛」は、明らかに主イエスによる、新しい教えであり、新しい律法であり、新しい約束なのです。主イエスの「新しい掟」とは、『山上の説教』に代表される福音です。主イエスの「新しい掟」である福音とは律法を廃止するためではなく、“律法を完成させるため”に主イエス様が与えられた「軛」なのであると、『山上の説教』で高らかに宣言されています。

私達は、この世に生きるとき、人生の重荷が、軽重の差は別としても、間違いなく厳然と存在するのです。

その人生の重荷のために、「安らぎ」を得られるのは、死ぬ時しかないとさえ考える人もいます。ここに自殺の誘惑が生じているとも言えましょう。もちろん、この「安らぎ」を自ら命を絶つこと、自殺することによって得られると考えることは、大変悲しいことです。そんな、不幸な現実から主イエスは私達を救い出して下さるのです。それは、私達の担いきれない重荷を主イエスが担って下さるから私達は生きることが出来るのです。自分に与えられた重い命、重い人生を軽々と担って生きられる、そんな生きる道があるのだと、主イエスは言われているのです。「わたしの軛を負いながら、生きなさい」と言われているのです。

それでは、「主イエスの軛」はなぜ軽いのでしょうか。それには2つの理由があります。その一つは、「軛」とは、2頭の家畜をつないで2頭の首に掛けられ重荷を引くものです。2頭の家畜が軛で一つとなって重荷を引くのです。その軛が軽くなるためには、あなたが自分の首に掛けた一方の軛、そのもう一方は主イエスご自身が担ってくださるのだ。だから主イエスの軛は軽いのだ。大変分かり易い話です。もう一つは、私達が生きる際の重荷をすべて主イエス様に委ねることが、この聖書箇所で許され約束されているから、重荷はすべて神様にお委ねする。私達の重荷を主イエス様が背負って下さるというのです。

昔は作者不詳と言われていましたが、現在は作者の分かった有名な詩があります。私の大好きな詩です。お読みします。

ある夜、わたしは夢を見た。
わたしは、主とともに、なぎさを歩いていた。
暗い夜空に、これまでのわたしの人生が映し出された。
どの光景にも、砂の上にふたりのあしあとが残されていた。
一つはわたしのあしあと、もう一つは主のあしあとであった。
これまでの人生の最後の光景が映し出されたとき、
わたしは、砂の上のあしあとに目を留めた。
そこには一つのあしあとしかなかった。
わたしの人生でいちばんつらく、悲しい時だった。
このことがいつもわたしの心を乱していたので、
わたしはその悩みについて主にお尋ねした。
「主よ。わたしがあなたに従うと決心したとき、
あなたは、すべての道において、わたしとともに歩み、
わたしと語り合ってくださると約束されました。
それなのに、わたしの人生のいちばんつらい時、
ひとりのあしあとしかなかったのです。
いちばんあなたを必要としたときに、
あなたが、なぜ、わたしを捨てられたのか、
わたしにはわかりません。」
主はささやかれた。
「わたしの大切な子よ。
わたしは、あなたを愛している。あなたを決して捨てたりはしない。
まして、苦しみや試みの時に。
あしあとがひとつだったとき、
わたしはあなたを背負って歩いていた。」

30節にある「わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」と約束されている理由は、まさに主イエスご自身が、私たちの苦しみや試みの時に、主イエスが私たちを背負って歩いて下さるからです。

あの『山上の説教』の中で主イエスが力強く言われておられる「思い悩むな」と約束は、私たちの生きるための労苦のすべてを、主イエスが共に担って下さり、背負って歩まれるからなのです。

また、「私に学びなさい」とは、父なる神様の御心をすべて従順に受け入れられたことを主イエスに学ぶということです。人生のすべてにおいて、神様に聞き従うすべを主イエスに倣って学ぶのです。それは、自分のすべてを神様に委ねてしまうことでもあります。そして、その結果、主イエスが、あなたに代わって人生の重荷を背負って下さるのです。従って、あなたは軽くなった人生の重荷を喜びをもって担うことが出来るのです。

今日の、この28節から30節のたった3節の間には、「わたしは」「わたしに」「わたしの」と、合計6回も主イエスの「わたし」が出て来ます。ここには、「わたしを通らなければ誰も・・・できない」を強調して、父なる神様へのとりなしをされる主イエスの重要な役割が述べられているのです。しかも、29節の「わたしは柔和で謙遜な者だから」とあるように、主イエスは神の柔和と謙遜そのものです。私達にとっては、倣うべき見本なのです。

主イエスは神と等しい者であることを好まず、ご自分を無にして、僕の身分になり、私達に仕える者となって下さり、2頭立ての軛の一方を、共に担って下さるだけでなく、時として疲れ切った私たちを背負って歩かれるのです。しかも、「疲れた者」である私達のふらつく歩みに合わせてゆっくりと、また背の高いイエス様は私達の背丈に合わせてかがむように軛の一方を担って下さるのです。

神様と等しい者でありながら、私達に仕える者となられた主イエスは、「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。」と、この苦しみ悲しむ私達を優しく招いておられるのです。

主イエスのご生涯は、ただ私達のために“安らぎ”を与えるためのものでした。そして、主イエスが私達の人生を、ただ重く、苦しく喘ぎながら生きるのではなく、軽やかに神の恵みの中に生きる人生に変えて下さったのです。私達もまた、主イエスに倣って、柔和と謙遜に生きることが出来るのです。主イエスの掟が軽いことを知っているからこそ、主イエスと共に「軛」を負いつつ柔和で、謙遜に生きることが出来るのです。主イエスから、人に仕えることの軽やかさを教えられるのです。

それでは、お祈りを致します。

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あなたは宝の民

成宗教会副牧師 藤野美樹

聖書:ヨハネによる福音書 15:12~17、申命記7:6~11

私たち夫婦が、この成宗教会に赴任して、2ヶ月が経とうとしております。雄大牧師と、成宗教会に赴任してまだ二ヶ月か、もう二年経ったような気がするね、と言っていました。というのも、この二ヶ月は、いろいろなことがぎっしりつまった二ヶ月間でありました。並木牧師から引き継ぎ、受難節、イースター礼拝、定期総会、納骨式、墓前礼拝、そして、ひとりの姉妹の信仰告白式を行うことができました。家族のようにホットする雰囲気の教会の方々にいろいろ教えていただきながら、牧会をすることができており、とても感謝しております。

二ヶ月前、成宗教会にどんな方々がいらっしゃるのかも知りませんでした。でも、今では毎週お会いして、ともに礼拝を守り、祈り合っております。二ヶ月前には想像もつかないことでした。この成宗教会に赴任したことに、神様の不思議なお導きを感じずにはいられません。

教会というところには、さまざまな人たちが集まっています。年齢も仕事も境遇も教会へ通うきっかけも、それぞれ違う方々が週一回集まり、ともに神様のまえにひれふして、礼拝を捧げています。そう考えますと、教会とはとても不思議なところに思えます。

教会とは、一体何でしょうか。

本日読みました、申命記ではこう語られています。

「あなたは、あなたの神、主の聖なる民である。あなたの神、主は地の面にいるすべての民のなかからあなたを選び、御自分の宝の民とされた。」

教会とは、「聖なる民」の集まりだと言われているのです。ここで言われている「聖なる」というのは、道徳的に清く正しいという意味ではありません。「聖なる民」というのは、「主なる神様のために聖別された」人々、という意味です。私たちは、それぞれ、神様との関係の中で、召し出され、招かれて、いま教会にいるということです。そして、神様は私たちのことを「宝の民」と呼んで、宝のように価値のある者としてくださっています。

しかし、私たちがそのようにして神様から選ばれ、「宝の民」と呼ばれるのは、なぜでしょうか。私たち、教会に集う者たちは、この地上の誰よりも優れているから、選ばれたのでしょうか。7節ではこう語られています。

「主が心引かれてあなたたちを選ばれたのは、あなたたちが他のどの民よりも数が多かったからではない。あなたたちは他のどの民よりも貧弱であった。ただ、あなたに対する主の愛のゆえに」。

つまり、私たちが選ばれ理由は、私たちの能力、素質によるのではなく、ひとえに「神様の愛」によるのです。神の選びは、人間の側の価値ではなく、むしろ資格のないような者に向けられているのです。それは、この世の価値観とは正反対です。「宝の民」と呼ばれる私たちは、優れたものであるどころか、神様から見たら貧弱な存在です。しかし、神様は私たちを選んで、「神様の宝の民」としてくださいました。

このように、教会というのは、ただ神様の愛によって選ばれた者の集いなのです。

本日お読みしました、もうひとつの聖書のみことば、ヨハネによる福音書にも、この「選び」ということが語られています。15章16節で主はこうおっしゃいます。

「あなたがたがわたしを選んだのではない、わたしがあなたがたを選んだ。」

主イエスは、はっきりと仰います。主が私たちを選んでくださいました。私たちの側には主の選びにふさわしい理由は何もないのです。主イエスが私たちを探しに来てくださったから、私たちは主イエスを知ることができたのです。主の無償の愛が私たちには注がれているのです。

13~15節では、さらに、その主の愛について語られています。

「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。」 

 主イエスは、私たちを「友」と呼んでくださっています。「友」とは、何でも打ち明けたり、共有したりできる間柄です。長く続く友情というのは、利害関係によって成り立つものではなく、利害に関わらず、何でも打ち明けたり、指摘し合ったりできる間柄ではないでしょうか。主イエスは、無償の愛を注いで、私たちの本当の「友」になってくださいました。

主イエスは友である私たちのために、十字架の死によってご自分の命を捧げられました。主の十字架の死によって、私たちの罪は帳消しにされました。それほどまでに、私たちを愛してくださったからです。主が私たち人間のために命を捨てられ、罪を赦してくださったことを思う時、そこには人間の友人関係以上の、もはや私たちには想像できない、深い愛を感じるのではないでしょうか。

主は、私たちとの関係性を僕と主人にたとえておられます。僕つまり奴隷は、主人のことをよく知らず、愛されているかいないかもわからず、ただ主人から命令されたことだけをするのです。でも、私たちと神様の関係は異なります。友となってくださる神様は、私たちにはっきりと、その愛を知らせ、すべてを打ち明けてくださっています。

カルヴァンは15節の注解で、このように言います。「わたしたちは福音のうちに、いわば開かれたキリストの心を所有しており、かれの愛を疑わず、容易に把握できるようにされているのである。わたしたちは、わたしたちの救いの確実性を求めて、雲の上はるかに高く登ったり、深淵の奥底に深く沈み入ろうとする必要はない。福音のうちに含まれているこの愛のあかしだけで満足しよう。」と言っています。

私たちは、福音のみことば、聖書、つまり主イエス・キリストを通して、神様の愛を知らされています。ですから、すこしも神様の愛を疑わず、救いに預かることができるのです。

主が、私たち人間のために、罪を贖うために、この世に降りてきてくさって、十字架の死と復活によって、大きな愛を示してくださいました。ですから、私たちのほうが、がんばって登って行く必要もないし、神様の愛がわからない、難しい、と深淵でもがき苦しむ必要もないというのです。

教会というのは、そのとてつもなく大きな、神様の無償の愛を受けるために選ばれた者が集まるところです。

成宗教会は、今から約80年前、この成田の地で開拓伝道された有馬牧師の家庭集会から始まりました。現在に至るまで、成宗教会は滞ることなく礼拝をずっと守り続け、永遠に変わることのない福音をのべ伝えて来ました。そしてこれからも、福音をのべ伝えて行きます。

教会員の数が減り、伝道が困難なこの時代です。日本の教会はずっと、多くの信仰者が与えられるように祈り続けてきました。それでも、クリスチャンの人口は減っており、もともと1パーセントと言われていましたが、もう1パーセントを切ってしまいました。

アメリカ留学中には、いろいろな国の生徒がいました。アメリカや韓国、中国、エチオピア、ナイジェリア、どの学生も口を揃えて、日本のクリスチャンは少ないと聞いているけれど、伝道が進むように祈っているよ、と言ってくれました。

でも、考えてみると、伝道が困難なこの日本のなかで、私たちはクリスチャンとして生きております。その少ない1パーセントのなかに入れられているのです。神様が私たちを選んでくださったのです。この成宗教会が成田の地で開拓伝道を始めて、約80年間の伝道の業によって、いまここに私たちは呼び集められました。これは、「実り」であると言えるのではないでしょうか。主はおっしゃいます。

「あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである」。

ここでは、主イエス・キリストにつながって、祈り求めるのなら、父なる神様は必ず実りを与えてくださると言われています。15章のはじめには、ぶどうの木のたとえが語られています。ぶどうの木は、枝が幹にしっかりとつながって養分がたっぷり行き渡り、しっかりと剪定されれば、おいしい実が実ります。

教会は、このぶどうの木のようなものです。父なる神様によって剪定された、つまり選ばれた枝である私たちは、主イエス・キリストという養分たっぷりの幹につながっていれば、必ず豊かな実を結ぶことができるのです。

私たちは、教会に集い、礼拝で福音のめぐみに生かされています。それは、教会が今までなしてきた、大きな実りということができるのではないでしょうか。そして、そのぶどうの実は、だれかに食べられて無くなってしまうものではなくて、これからも残るものです。私たち、ひとりひとりのうちに永遠の命の御言葉として残ると同時に、教会がこれからも実りを生み出していくという意味においても、永遠に残っていくものです。

そのとき、教会に、神様の無償の愛により任命され、選ばれた私たちには、求められていることがあります。しかも、主はそのことを繰り返し、何度も何度もおっしゃっておられます。それは、この神様の愛にとどまりつつ、「互いに愛し合う」ということです。神様から受けている大きな愛を、互いに持ちながら、互いに愛し合いつつ、全員で協力して、教会を立てていく必要があるのです。

神の栄光を現わす

聖書:申命記324852節, ペトロの手紙一 4711

 本日の礼拝、11月最初の主の日の礼拝を、わたしたちは永眠者記念聖餐礼拝として捧げるために、こうして教会に集められました。思えば、わたしたちは何と豊かにされていることでしょうか。世界中では人々が自分の住むところを失うほどの戦争や社会不安に襲われている地域があります。アメリカでは中米から何千人という人々が合衆国を目指して移動を始めたというニュースが流れ、本当に行き場を失う人々がいるのだ。またそれを迎え入れるかどうか、という問題に直面している人々がいるのだ、ということに驚きます。

人口減少社会の日本がある一方、世界は人口爆発です。わたしたちの社会も明日が予測できない方向へと向かっているのですが、今日という日、わたしたちは成宗教会に集められ、たくさんの写真を前にしています。あわただしい日々の中で、また明日の思い煩いが押し寄せる日々の中で、わたしたちはこれらの写真の方々を思い出して礼拝を守ります。何と豊かなことでしょうか。わたしたちは何がなくても、今日、教会と共にいらした方々を思い起こしたい、そして神さまに感謝したいという思いに満たされているからです。

本日は旧約聖書の申命記32章を読んでいただきました。これは、預言者モーセの最期についての神さまのお言葉です。モーセという人は、神さまの命令に従った人でした。彼は何か偉い人になりたかったわけでは決してありませんでした。しかし、神さまは彼をお選びになってイスラエルの人々を救い出す仕事をお与えになったのです。彼はそのために多くの困難に直面しなければなりませんでした。有名なのは、エジプト王ファラオが頑なで、どうしてもイスラエルの人々を奴隷解放しませんでしたので、彼はその罰として次々とエジプトに災いをもたらすように神さまから命じられたことです。また、モーセが杖を持って手を海に差し伸べると海が真っ二つに分かれ、乾いた地が現れたので、イスラエルの人々はそこを歩いて渡って、襲いかかるファラオの追手から救われたのでした。

しかし、モーセの直面した最もつらい試練は、敵の王様の頑固さではありません。何と味方であるはずのイスラエルの人々の頑なさでありました。モーセが苦労し、神さまに従ってすべてを耐え忍んだのは、イスラエルの人々を救うためではなかったでしょうか。ところが彼らは感謝するどころか、不平不満の塊で、モーセに激しく反抗したのでした。その時にただ一度だけ、モーセは神さまの命令通りにしなかった、ということなのです。神さまはモーセが「イスラエルの人々の中で私に背き、イスラエルの人々の間でわたしの聖なることを示さなかった」と言われました。モーセは、ただ一度の罪のために、イスラエルに約束された土地に入ることができなかったのだと言われています。

モーセは本当に神さまに忠実でしたが、完全に神様に従うことができませんでした。彼は神さまが救おうとしてくださる神の民のあまりの不信仰、あまりの恩知らずに驚き、あきれ、ついに怒ってしまったからです。それでも、モーセはイスラエルの人々の罪を一生懸命に神さまに執り成して、その生涯を終えたのですが、神さまはモーセに言われました。「イスラエルの人々の間でわたしの聖なることを示さなかった」と。神さまが聖なる方であるとはどういうことなのでしょうか。

新約聖書はペトロの手紙の一、4章7節から読んでいただきました。その一つ前の6節から見ましょう。6節。「死んだ者にも福音が告げ知らされたのは、彼らが人間の見方からすれば、肉において裁かれて死んだようでも、神との関係で、霊において生きるようになるためです。」死んだ者にも福音が告げ知らされたと語られています。このことはキリストが十字架にお掛かりになり、死んで葬られ、陰府に下られたときに、死んで陰府にいた人々にも福音を宣べ伝えてくださったのだと解釈する人々がいますが、それは確かではありません。ただ、イエスさまの福音が死者を生かす力あるものであるからには、福音がこの地上で生きている人々に限定されて宣べ伝えられるということは考えられないでしょう。

わたしたちの親しい人々が既に地上から去って行きました。その中には、キリストを知らない人々、キリストを信じるに至らなかった人々が多くいます。キリスト教人口が1パーセントと言われるこの国では、当然の現実です。また、教会はこの救いを宣べ伝える使命をイエスさまからいただいているのですが、罪ある人間が十分に宣べ伝えることができているとは決して言えない。イエスさまのことが十分に分かってもらえないうちに親しい者は地上を去って行くでしょう。福音を聞く者も、語る者も共に罪あるわたしたちです。このことを神さまは御存じです。

ですから、たとえわたしたちが、またわたしたちの愛する者、親しい者がイエスさまをこの地上で救い主として受け入れないまま世を去ったとしても、それだからイエス・キリストの罪の赦しは無駄になるのか、無意味になるのか、と言えば、決してそういうことではありません。なぜなら、キリストの恵みの御業は、生きている者たちにばかりでなく、死んだ者たちにまで及ぶにちがいないのですから。だからこそ、わたしたちが「あの人は救われない」とか「あの人は駄目だ。この人は・・・」と批判したりすることは空しいこと、無意味なことではないでしょうか。

御覧ください。ここに飾られた写真の方々、教師として奉仕した方々も、信徒として教会に結ばれていた方々も、地上を去っても霊においてキリストと結ばれて生きる者とされています。では、わたしたちが今地上にあって為すべきことは何でしょうか。モーセに言われた主の御言葉を思い出しましょう。地上に生きているうちになすべきことは、神さまが聖なる方であることを表すことです。モーセにさえ完全にはできなかったこのことを、成し遂げられたのは、イエス・キリストでした。この方は、神さまがわたしたちの罪を赦して下さり、神さまの命に生きる者となるために、わたしたちのために執り成しをして下さったのです。すなわち、イエスさまは十字架にかかり、すべての人の罪の身代わりとなって死んでくださいました。この救いを信じて告白した教会の人々が、新しいイスラエル、神の民です。そのわたしたちは何をして生きればよいのか。すなわち何をしてこの救いの神さまが聖なる方であることを表したらよいのでしょうか。今日のペトロの手紙は勧めています。

「万物の終わりが迫っています。だから、思慮深くふるまい、身を慎んで、よく祈りなさい」と。教会では自分たちの求めるべき幸福は神の国の宝を受け継ぐことである、と教えられます。そうはいうものの、わたしたちは特に近年は長寿国に生きていますので、何となく自分も長生きできると思っていますから、神の国のことを思うよりも、専ら考えるのは地上のことです。たとえて言うならば、地上を去る時は必ず迫って来るのに、まるで夢の中でウトウトしているように生きている訳です。しかし、聖書は、それは愚かなことであると警告します。

そうは言っても、ペトロの手紙の時代以来、2千年もの間、世の終わりは来ないではないか、と言う人も多いでしょう。確かに今日明日と過ぎて行くこの世の流れによって、時の長さを測る限り、時間は長いと感じられるのではないでしょうか。しかし、わたしたちの目を上げて、神さまの永遠を思うことができるとするならば、数百年をもって数えられる多くの歳月も、一時間あるいは一分間と思われるようになるのです。そして終わりが近いということに、わたしたちは動揺しません。なぜなら信じる者には、永遠の命を約束されているからです。

そこで勧められています。「思慮深くふるまい、身を慎んでいなさい」と。イエスさまもマタイ24章で教えておられます。42節です。「目を覚ましていなさい。いつの日、自分の主が帰ってこられるのか、あなたがたには分からないからである」と。

そして祈りなさいと勧められています。クリスチャンが生活の中で実践しなければならないことは祈りです。なぜなら、わたしたちの力はすべて主の御力によって与えられる力であって、わたしたち自身の力ではありませんから。それならば、わたしたちが祈らないでいることは、本当に弱くなるばかりということです。だから、「わたしたちを主の御力によって強くしてくださいと、主なる神様に求めなさい」と勧められているのです。

さて、主なる神さまに願い求めるべき、わたしたちの生活は、「何よりもまず、心を込めて愛し合う」生活であります。だから、このためにこそわたしたちは祈らなければなりません。なぜならば、「愛は多くの罪を覆うからです。」人々が互いに愛し合う時には、多くの事がらを互いに赦し合うようになります。わたしたちのうちに愛が支配するとき、それは、特別な恵みをわたしたちにもたらします。それは、忘却という恵みです。不愉快な扱いを受けたこと、傷つけられた思いをいつの間にか忘れてしまうというということよりも大きな恵みはないのではないでしょうか。忘却によって、心に残っていた多くの悪い事を、悪い思い出を葬り去ることができる。これは特別な恵みです。だから、わたしたちが愛のうちに互いを赦し合い、助け合う以上に良いことはありません。人は誰もが多くの罪という名のシミがあり、しわがあり、傷があるのですが、神さまがキリストによってわたしたちを赦してくださいました。だからこそ、わたしたちは何よりも互いに赦し合うことが必要なのです。

そして更に勧められています。「不平を言わずにもてなし合いなさい。あなたがたはそれぞれ、賜物を授かっているのですから、神の様々な恵みの善い管理者として、その賜物を生かして互いに仕えなさい」と。わたしたちは自分のものと思っているものも、すべて主から与えられている賜物であります。だから、人に何かを与えるとしても、何一つ自分のものを与えるわけではなく、ただ、主がわたしたちの手の中へ入れてくださったものを、他の人々にも分配しているにすぎないのです。ですから自分に与えられた恵みの善い管理者になりなさい、と教えられます。もしあなたが物やお金や、才能を多く与えられているならば、主は、あなたが多く他の人々に分配し、共に豊かになるようにと与えてくださったと知るべきであります。神さまがすべての人に同じ賜物を平等に与えてくださらない理由がそこにあるのです。神さまの御旨は、わたしたちが互いの不足を補い合い、助け合って生きるようになることなのですから。

「語る者は、神の言葉を語るにふさわしく語りなさい。奉仕をする人は、神がお与えになった力に応じて奉仕しなさい。それは、すべてのことにおいて、イエス・キリストを通して、神が栄光をお受けになるためです。栄光と力とが、世々限りなく神にありますように。」キリストに救われて、今を生きるわたしたちが、神さまに求められていることがここに示されています。それは神が栄光を受けるために、わたしたちが与えられたものすべてを用いて、神の栄光を現わすものになることです。

モーセのような忠実な神の僕であっても赦されず、裁かれた罪を、イエス・キリストは取り除いて下さった。この恵み深い神の計り知れない救いのご計画を思い、感謝が溢れます。成宗教会は創立78年になります。主に結ばれていることを証しして下さった兄弟姉妹を、そして教職の方々を通して、教会の主は今、わたしたちに恵みを注いでおられます。不思議な主の御力によって、この方々は地上を去った今も、主と共に在って励ましを送ってくださっています。いつまでも思い出されるのは善いこと、懐かしいことばかりなのです。ここに神の御名がほめたたえられずにはいられない教会があります。わたしたちもまた後に続いて、神の栄光を輝かせるものとなりましょう。地上を生きるこの時を生かし、わたしたちに与えられている賜物を生かして。 祈ります。

 

教会の主イエス・キリストの父なる神さま

尊き御名を讃美します。今日わたしたちは御前に喜び集い、永眠者記念礼拝を捧げ、聖餐の恵みに与ることを感謝します。わたしたちは小さな群れですが、あなたは恵みを豊かに注いで、今日まで守り導いてくださいました。今、わたしたちは、雨の日も風の日も成宗教会に在って共に教会の主に結ばれ、主にお仕えした永眠者の方々を覚え、感謝を捧げます。地上で思い出すわたしたち以上に、天でその名が覚えられていることを信じ、またわたしたちも後に続きたいと切に願います。すべてが主の栄光を現わすために用いられ、天上にも地上にもあなたの喜びが溢れますように。

今日、礼拝にあなたに依って招かれたご遺族の上に、あなたの豊かな顧みがありますように。地上であなたを愛していた兄弟姉妹のご家族がご子孫が、あなたの恵みを受け、主イエス・キリストを知る者となりますように。

成宗教会を今日まで守り導いて下さった大きな恵みを改めて思い、感謝申し上げます。わたしたちは、牧師の退任に伴う後任の人事を進めるために、連合長老会と学びを共にしております。どうか東日本の諸教会と共に歩み、教会の業を整えて行くことができますようにお助けください。この地に変らないあなたの恵み、福音を宣べ伝える教会として、成宗教会を建設してください。今日の長老会の上に恵みのご支配を祈ります。

本日は主の聖餐に与ることを感謝します。どうかわたしたちを、主の死に結ばれ主の命に生きる者として、悔い改めと感謝を捧げて聖餐に与ることを得させてください。本日礼拝に参加できなかった方々も顧みてください。病気の方、悩みにある方々に癒しの賜物をお与えください。

すべてを感謝し、御手に委ねます。イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

互いに真実を語りなさい

聖書:申命記191519節, ペトロの手紙一 3814

 わたしたちは神の民に与えられた戒めを学んでいます。それは昔、旧約聖書に記されている神の民イスラエルに与えられましたが、今に至るまで、「神を愛し人を愛するとは、どういうことなのか」を教える神の言葉となっています。そして、「これを守る者は命を得る」と教えられているにも拘わらず、戒めを守ることができない人間の罪の現実をも指し示している。それが 十戒 であります。人は自分の力で戒めを守り、自分の力で命を得ることができない。すなわち、救いを得るに至らないのであります。

では、どうしたらよいのでしょうか。人は自分で救いを獲得することはできないけれども、神は人に救いの道を開いてくださいました。それはすなわち、ただ神の恵みによる救いです。神は御子を救い主、キリストとして世に遣わしてくださいました。人の力でできなかった罪の贖いを、真の神の子は、真の人の子として全人類の身代わりになって贖ってくださいました。そのことを信じた者は悔い改め、主の犠牲の死に結ばれた者となりました。主の死に結ばれたわたしたちは、主のご復活の命に結ばれて、教会の生きた肢とされたのです。教会とは、主イエスのご命令によって教えを宣べ伝える唯一の真の使徒的教会であると信じられています。

わたしたちは、自分の力で、聖書に与えられた十戒を守ることができない者でありますが、しかし、他方、キリストによって救いに招かれた喜ばしい者として、どのように生きたらよいかという課題が与えられているのです。それこそが、救われた者の感謝の生活であります。感謝の生活とはどのようなものであるか、という問いなのです。わたしたちクリスチャンは全世界の主の民であり、年齢、性別が違うだけでなく、様々な時代、様々な地域、様々な民族の特徴を持った主の民であります。「甲の肉は乙の毒」というほど、違いの方が際立って見えます。だから昔の戒めは今に通用しないと思っても不思議がないほどの多様性があるのです。

しかしながら、キリスト教徒の教会はいつの時代にも十戒を教え、十戒を学び、これを救われた者の感謝の生活の柱として来ました。わたしたちは、今までに第八戒まで学びました。今日は第九の戒めです。それは「あなたは、隣人について、偽証してはならない」です。今日は旧約聖書申命記19章を読みましたが、これはイスラエル共同体の中でどうしたら公平、公正な裁判が可能となるかを論じているのです。十戒の第九の戒めを見ると、隣人について偽証してはならない、というのですから、確かに裁判に関わっている戒めですから、日常とは違う裁判の被告人のために、あるいは原告のために、証人として立つ場合などが頭に浮かぶのではないでしょうか。19章15-19節をもう一度読みます。

「いかなる犯罪であれ、およそ人の犯す罪について、一人の証人によって立証されることはない。二人ないし三人の証人の証言によって、その事は立証されねばならない。不法な証人が立って、相手の不正を証言するときは、係争中の両者は主の前に出、そのとき任に就いている祭司と裁判人の前に出ねばならない。裁判人は詳しく調査し、もしその証人が偽証人であり、同胞に対して偽証したということになれば、彼が同胞に対してたくらんだ事を彼自身に報い、あなたの中から悪を取り除かねばならない。」

「あなたは」と申命記が呼びかけているのは、裁判人に対してではありません。むしろ、裁判人を立てている信仰共同体に対して、祭司を立て、訴える者、訴えられる者を立て、証人を立てているこの信仰共同体全体に向かって、「あなたは、責任を持ちなさい」と命じられているのです。もし誰かを殺そうとして嘘の罪でその人を訴えた者がいるとしたら、その偽りの証人となった者は人を無実の罪で殺そうとしたのですから、その悪い企みの報いとして殺されなければならない、ということになります。昔の石打の刑というのも、わたしたちの目にはいかにも残虐な行為と思われますが、一人の死刑執行人が犯罪人を死なせるのではなく、みんなの責任でその人を死なせるという強い決意が共同体に迫られているのです。

このように裁判において偽証することは、共に生きる社会の中で無実の人の名誉を傷つけるだけでなく、誤った裁判を行う事になりますから、社会的な公正を破壊し、共同体を崩壊させる深刻な原因となります。ですから、強い決意をもって悪を取り除かなければならないと命じられているのです。申命記が書かれた時代は、そんなに古くはないと思われていますが、それでもも二千数百年は経過していると考えられますので、裁判の公平、公正さがこのように訴えられていることは、信仰者でなくても驚くべきことではないかと思います。わたしたちは神によって与えられていると信じるのですから、神の公平、公正を命じ給うその熱意を褒め称えずにはいられません。

申命記で取り上げられたものは公正な裁判のための偽証の禁止であります。しかし、そういう公の裁判でのことが守られるためには、ごく身近な人と人との関係の中で偽りが取り除かれなければなりません。ですから、偽証してはならないということは、家族、隣人、教会、地域社会について命じられている戒めです。今日の新約聖書は、ペトロの手紙一、3章です。8節。「終わりに、皆心を一つに、同情し合い、兄弟を愛し、憐れみ深く、謙虚になりなさい。」わたしたちはそれぞれの個性あふれる人間であり、異なった様々な意見を持つ自由が与えられているのですが、ところが度を超すと、些細なことでも自分と相手が違うと気に入らないと思い、受け入れられないとなり、嫌悪感を持つことは大きな問題であります。

だからこそ、一人一人、喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣くような心遣いが勧められています。心を一つにするとはそういうことであります。そして兄弟を愛し、と言われていますのは、天の神さまを「天にまします我らの父」と呼び奉るわたしたちだからこそ、共に神の子とされた兄弟姉妹を愛する愛が与えられているのです。また、「憐れみ深く」と言われているのは、神さまが慈愛に満ちた方であるからです。神さまが憐れみ深い方であるからこそ、兄弟姉妹を救い、その人たちの悲惨さを少しでも和らげ、またその人たちの弱さを支えるようにと、教えているのです。

これらの勧めを実行するために無くてはならないものは何でしょうか。それは謙虚であることです。人と人との心がバラバラになる大きな原因の一つは、傲慢であり気位の高さであります。自分を人より一段と高い者とするならば、そのために隣人たちを低く見るようになり、非常に問題です。そんなことがあってはならないのですが、実際はこの世の価値観が、基準が教会の中にもどんどんと入って来ます。わたしたちはこの世の価値に全く影響されないということはほとんど不可能です。何かの職業に就くためには勉強して試験をパスしなければなりません。また病気になると仕事をすることが難しいので、健康を保持しなければなりません。また家とか何かを買うためには、たくさんのお金が必要です。このようなことが沢山あり、わたしたちは苦労して来たし、またこれからもこの世の価値に関わりなく生きることはできません。

しかし、成宗教会の78年にわたる歴史を振り返ったとき、貧しい時代を生きた人々の言葉が思い起こされます。食べる物が乏しかった頃、牧師先生が畑で作ったホウレン草を分けてくださった、とか。コーヒーを入れてくださった、とか。売らなければならなかった石鹸をママ先生が買ってくださった、とか、本当に小さなことに対する感謝を忘れないでいる方々がいるのです。私の仕えた教会の17年では、そんな感謝は一つも生まれませんでした。感謝というのは、自分が貧しいからこそ生まれるものだと思います。

一方、今の時代にも貧しさはあります。それは健康の貧しさ、特に年を取っていろいろできないことが増える。病気にもかかる、ということで、わたしたちは貧しくなります。すると本当に小さな事にも感謝が生れます。なかなか礼拝が守れなくなった方の所に伺うと、それは喜ばしい出来事になります。何を話すか、世間話では終わりません。このわざわざ出かけて行くこと。わざわざ迎えるために待っていること。その両方がイエスさまの教会を思っているからです。教会の主が会わせてくださる交わりです。すると感謝が生れます。両方とも、主の御前に謙虚にならないではいられないからです。9節。

「悪をもって悪に、侮辱をもって侮辱に報いてはなりません。かえって祝福を祈りなさい。祝福を受け継ぐためにあなたがたは召されたのです。」わたしたちは神さまの慈しみを受けて生きているのですから、兄弟姉妹にも慈しみをもって交わるのですが、そのためには多くのことに耐え、また多くのことを支えていかなければなりません。時には思いがけなく意地悪な人々がいてわたしたちは腹立たしくなるのですが、その悪口、侮辱にも忍耐するように勧められています。それではやられっ放しで良くないと世の人々は思うことですが、わたしたちは悪に悪をもって立ち向かわないことが、神さまに仕える者の広い心であると教えられます。それは神さまが良い人々ばかりでなく、悪い人々の上にも雨を降らせ、太陽の恵みを注いでくださる広いお心の持ち主だからです。

だから祝福を祈りなさいと勧められます。祝福は他人の繁栄を祈ることです。わたしたちは、侮辱されてもそれに報復しないだけでなく、善を為すことによって悪を乗り越えなければならないと教えられています。そしてそれは、相手の利益のためではありません。わたしたちがクリスチャンとされたのは、神さまの祝福を受け継ぐためだからです。だからこそ、悪に悪をもって報いては、神さまの祝福を断ってしまうことになるのです。10節。

「命を愛し、幸せな日々を過ごしたい人は、舌を制して、悪を言わず、唇を閉じて、偽りを語らず、悪から遠ざかり、善を行い、平和を願って、これを追い求めよ。」神さまは残酷な人や、裏切る人々を祝福することを欲してはおられません。そうではなく、善良な人々と善い行いのある人々に臨み給うことを欲しておられるのです。だからこそわたしたちは人の悪口を言ったり、人を侮辱したりすることのないようにしなさいと命じられています。また表裏のある人間、人をだます人間とならないように、舌が犯す罪、悪徳から身を守らなくてはなりません。更に、積極的に努めるべきことは、人を傷つけないこと、だれにも害を与えないこと、そして、すべての人に善くするように配慮を怠らないことです。

平和を願い、追い求めよと力強く勧められています。平和はただ争いが無く何もしなくても良い状態ではありません。ボーっとして居たら平和はわたしたちからいつの間にか逃げて行くかもしれません。ですから常に平和を追いかけて探し出さなければならない。平和とはそのように心配りすべきものであることを教えています。12節。「主の目は正しい者に注がれ、主の耳は彼らの祈りに傾けられる。主の顔は悪事を働く者に対して向けられる。」わたしたちは困難に直面するとき、まるで主は自分をお忘れになったかのように動揺することが多い者です。しかし、主は適切な時期に我々を救うために、わたしたちを見ておられます。主なる神様はわたしたちの保証人で保護者なのです。

ですから主の喜んでくださることを行っている時にも思いがけない困難、苦難に遭うことがあっても、どのような時にも人を恐れず、神さまだけを恐れて、わたしたちは互いに真実を語る者となりましょう。どんな時にも神を畏れて他人に悪を為すことなく、間違いにも不正にも耐えることが勧められています。カテキズム問49 第九戒は何ですか。その答は、「あなたは、隣人について、偽証してはならない」です。偽りや嘘や悪口を語って人を悲しませたり、困らせたりしてはいけないということです。わたしたちはイエスさまによって真実を語る者とされているからです。祈ります。

 

御在天の主なる父なる神さま

尊き御名を褒め称えます。今日の礼拝、わたしたちを一週間の旅路から、御前に引き返し、感謝と讃美を捧げる者とさせていただきました。

今日の御言葉の糧を感謝します。第九戒は偽証を禁じる戒めでした。偽証に先立つ小さな嘘、隣人に対する悪意、高慢な心をわたしたちから取り去ってください。あなたの前に低くされ、あなたの恵みを知る者とさせられたことを感謝します。互いに主のものとされ、イエスさまの生きた御体の肢とされたわたしたち、助け合って良い実を結ぶことができますように切に祈ります。今日の礼拝後に行われるバザーの行事をどうかあなたの恵みの下においてください。あなたの祝福を受け継ぐものにふさわしく、この働きを通して兄弟姉妹を祝福し、またバザーを機会に教会を訪れる地域の方々にあなたの祝福をお与えください。どうか思いがけない困難をも乗り越え、怪我無く事故無く行われますよう、最後まで御手の内にお導きください。

また、今週のわたしたちの歩みも御言葉に従うものとなりますように。来週は永眠者記念の聖餐礼拝を守ります。またどうぞ、あなたの豊かな顧みがそれぞれの生活の上に注がれますように。牧師後任の人事に伴う準備をあなたの御手によってお導きください。また東日本連合長老会の働き、日本基督教団の将来に向かう取り組みの上に御心を行ってください。わたしたちの限りある力が豊かに用いられ、あなたのご栄光を現わすために勤しむ者となりますように。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。