安息日(日曜日)は何のため

主日CS合同礼拝

齋藤 正 牧師

《賛美歌》

讃美歌11番
讃美歌205番
讃美歌361番

《聖書箇所》

旧約聖書:申命記 5章12-15節 (旧約聖書289ページ)

5:12 安息日を守ってこれを聖別せよ。あなたの神、主が命じられたとおりに。
5:13 六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、
5:14 七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、牛、ろばなどすべての家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である。そうすれば、あなたの男女の奴隷もあなたと同じように休むことができる。
5:15 あなたはかつてエジプトの国で奴隷であったが、あなたの神、主が力ある御手と御腕を伸ばしてあなたを導き出されたことを思い起こさねばならない。そのために、あなたの神、主は安息日を守るよう命じられたのである。

新約聖書:マルコによる福音書 2章27-28節 (新約聖書65ページ)

2:27 そして更に言われた。「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。
2:28 だから、人の子は安息日の主でもある。」

《説教》『安息日(日曜日)は何のため』

今日は、月に一度の教会学校との合同礼拝です。そこでマルコによる福音書の連続講解説教から離れて、旧約聖書申命記の「十戒」から安息日についてお話しましょう。安息日とは、私たちの日曜日のことです。

1週間が七日の周期で繰り返されることは古代バビロニアから始まったといわれていますが、七曜日は古代ローマによって作られました。古代ローマでは5つの惑星と太陽と月を距離の遠い順に土星、木星、火星、太陽、金星、水星、月としました。最初の日は土星で土曜、2日目は太陽で日曜、3日目は月で月曜となり、以降火星、水星、木星、金星となって、土曜日から始まり7日間で繰り返される曜日が出来ました。そして、ローマの宗教上の理由で週の初めは日曜となりました。後程、もう少し詳しくお話しますが、ローマがキリスト教を国教にしてからはキリストが復活したことを記念する日曜日を安息日の休日と決められました。

話を今日の聖書箇所に戻しますが、司式長老にお読み頂いた申命記5章は神様がイスラエルの民にモーセを通して与えられた十の戒め「十戒」の4番目にあたるところです。

エジプトで奴隷とされ苦しめられていたイスラエルの民を、神様が解放して下さり、約束の地への旅を導いて下さり、その途上で、イスラエルの民をご自分の民として下さったのです。その約束・契約と共に与えられたのが十戒でした。十戒とは、神様に救われ、神の民とされたイスラエルの人々がどのように生きるべきかを語られているみ言葉です。それは、神の独り子イエス・キリストによる救いにあずかり、新しい神の民とされて生きている私たちにも与えられているみ言葉です。新しいイスラエルであるキリスト教会も、十戒を、救われた者としてどう生きるかを教える道標として大切にしているのです。

旧約時代の人々が守っていた安息日は、先程お話したように週の初めの土曜日でした。旧約聖書のみを聖書としているユダヤ教の人々は今も土曜日を安息日として守っています。しかしキリスト教会では、安息日は日曜日になり、日曜日を週の初めの日としました。それは、この日に主イエス・キリストが復活なさったからです。主イエスが復活なさった日を、教会は「主の日」と呼び、その日に礼拝を守りました。それが、使徒言行録にも記されている最初の教会の姿でした。そのようにして、安息日は初代キリスト教会によって、土曜日から日曜日へと移されたのです。そして古代のキリスト教会が守っていた安息日が後に、ローマ帝国がキリスト教を国教に定めたことに伴って国家の暦に取り入れられ、ヨーロッパの社会全体に日曜日が休日ということが定着したのです。その暦が明治以降日本に取り入れられ、私たちも現在、日曜日は休日という社会を生きているのです。私たちはこの歴史を正しく知っておかなければなりません。教会が日曜日に礼拝をしているのは日曜日が休日だからではないのです。教会が日曜日に礼拝を守っていたから、日曜日が後から休日になったのです。礼拝は時間に余裕のあるお休みの日だからするものではないのです。教会が主イエス・キリストの復活を記念する日曜日の礼拝を、様々な妨げの中で戦い取り、守り抜いてきた結果、社会全体がそういうリズムで動くようになっていったのです。そうなるまでにはおよそ三百年の時がかかり、その間多くの殉教者の血が流されました。私たちが今、休日である日曜日にこうして礼拝を守ることができているのは、信仰の先輩たちによって戦い取られたことなのだということを忘れてはなりません。

私たちにとって安息日とは日曜日、主の日ですが、14節にある、その日を「守ってこれを聖別する」とはどのようなことなのでしょうか。「聖別する」という言葉は、馴染みのない日本語です。口語訳聖書ではここは、「安息日を覚えてこれを聖とせよ」となっていました。「聖とする」、聖なるものとするというのがここの意味です。聖なるものとは、一般のものから区別されたものです。それは、神様が、これは私のものだとおっしゃって他のものから区別なさることです。聖書において「聖なるもの」とは、神様がご自分のものとされるもの、神のものです。神様がこの日をご自分のものとして他の日とは区別しておられるのであり、その神様に従って人間も、この日が神様のものとしてこの日を用いていく、ということなのです。14節に、この日には「いかなる仕事もしてはならない」と命じられていることはその為だからです。「仕事をしてはならない」というのは、人間が自分のための営みをやめて、神様のために、この日を用いなさいということです。

私たちは、働くことはいいことだ、と考えています。働くことこそ大切、働くのは当然、と考えが染み付いてます。もっと言えば、休むことはいけないことだ、とも考えてしまいます。そのような私たちに、聖書のみ言葉は、「安息日をおぼえて、これを聖とせよ」と語りかけています。何故神様は、休む時を大切にしなさい、と言われるのでしょうか。

天地創造の始め、神様は、6日間かけてこの世界をお創りになられ、また最後に人間をお創りになられました。そして、7日目にお休みになられました。神様も働きます。そして神様も休まれるのです。ですから私たちも働きますが、その働きをやめて、休むことも大切にするように、教えられているのです。

その休む時に、私たちには、するべきことがあるのです。昔、イスラエルの民は、神様がエジプトでの奴隷生活から救い出してくださったことを、忘れないようにするため安息日に、そのことを思い起こして、神様を礼拝したのです。神様に「わたしたちを解放してくださって、ありがとうございます」と感謝したのです。

その礼拝が、今日の私たちに続いているのです。日曜日に、働くことや学校に行くことをやめて教会で礼拝を献げる、それは、神様がこの私を罪から解放してくださり、いつも共にいてくださることを思い起こし、感謝することです。

私たちには、いろいろな苦しいことや、解決の難しい問題が沢山あります。それは、私たちが神様に背いた罪に縛られていて、それが原因となっているのです。そこから私たちを解放するために、神様は、ご自分の独り子、イエス様をお遣わしくださいました。そのイエス様を罪の罰である十字架にかけてくださって、私たちが、その罪の罰を受けることがないように、解放してくださいました。

しかし、申命記の第四の戒めが教えているのはそれだけではありません。私たちは、神様が与えて下さっている解放、自由、安息を、私たちの周囲の人々にも分け与えていく者となることへと招かれているのです。14節に、「七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、牛、ろばなどすべての家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である。そうすれば、あなたの男女の奴隷もあなたと同じように休むことができる」とあります。

安息日に仕事を休むのは、共に生きている私たちと関わりのある人々、家族や会社の仲間、あるいは、何らかの形でお世話をしている今この国に暮らしている外国人など私たちの周囲にいる様々な人々に思いを向け、それらの人々が休むことができるように、安息にあずかることができるように配慮することを、この戒めは求めているのです。私たちはこの社会において、様々な人々と関わりを持って生きています。その中で私たちが、主イエス・キリストによって与えられた解放、自由、まことの安息にあずかって生きる者となるならば、その安息は私たちの周囲の人々にも必ず及んでいくし、またそうでなくてはならないのです。

私たちはしばしば、自由とは自分の好きなことができることで、人の気持ちなど考えずに歩むことができることだと勘違いしてしまいます。しかしそれは本当の自由ではなくて、罪の奴隷、自分の思いや欲望の奴隷になっている姿です。本当に自由な者、解放され、安息を得ている者とは、周囲の人々にも解放と自由を与えることができ、その自由を人々と共に喜び祝うことができる者です。その本当の解放、自由とは、主イエス・キリストの十字架と復活によって与えられた罪の赦しと、神の子としての新しい命にあずかって生きる所にこそ与えられます。主イエスの復活の日であるこの主の日が、礼拝の日として日曜日に与えられています。私たちはこの日に神様を礼拝し、主イエスによる救いのみ言葉を聞くことで、まことの安息日となり、その主にある安息は周囲の人々にも伝わっていくでしょう。私たちの安息日である主の日は、人々と共に解放と自由を祝う喜びの日となるのです。お祈りを致しましょう。

愛するということ

主日礼拝

齋藤 正 牧師

《賛美歌》

讃美歌320番
讃美歌164番
讃美歌495番

《聖書箇所》

旧約聖書:申命記 7章6-8節 (旧約聖書292ページ)

7:6 あなたは、あなたの神、主の聖なる民である。あなたの神、主は地の面にいるすべての民の中からあなたを選び、御自分の宝の民とされた。
7:7 主が心引かれてあなたたちを選ばれたのは、あなたたちが他のどの民よりも数が多かったからではない。あなたたちは他のどの民よりも貧弱であった。
7:8 ただ、あなたに対する主の愛のゆえに、あなたたちの先祖に誓われた誓いを守られたゆえに、主は力ある御手をもってあなたたちを導き出し、エジプトの王、ファラオが支配する奴隷の家から救い出されたのである。

新約聖書:マルコによる福音書 12章28-34節 (新約聖書87ページ)

12:28 彼らの議論を聞いていた一人の律法学者が進み出、イエスが立派にお答えになったのを見て、尋ねた。「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか。」
12:29 イエスはお答えになった。「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。
12:30 心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』
12:31 第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる掟はほかにない。」
12:32 律法学者はイエスに言った。「先生、おっしゃるとおりです。『神は唯一である。ほかに神はない』とおっしゃったのは、本当です。
12:33 そして、『心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして神を愛し、また隣人を自分のように愛する』ということは、どんな焼き尽くす献げ物やいけにえよりも優れています。」
12:34 イエスは律法学者が適切な答えをしたのを見て、「あなたは、神の国から遠くない」と言われた。もはや、あえて質問する者はなかった。

《説教》『愛するということ』

本日与えられたマルコによる福音書第12章冒頭の28節に「彼らの議論を聞いていた一人の律法学者が進み出、イエスが立派にお答えになったのを見て、尋ねた」とあります。ここで「彼らの議論」と言われているのは、先々週の3月20日の礼拝でご一緒に読んだ、18節以下の、主イエスとサドカイ派の人々の復活をめぐる議論です。復活をめぐって当時、ファリサイ派とサドカイ派が対立していました。サドカイ派は復活はないと言っていたのに対して、ファリサイ派は復活を信じていました。本日の律法学者はファリサイ派です。ファリサイ派が目指しているのは、ローマ帝国に支配されているユダヤの民が、律法を守って生活し、神の民としての誇りと自負をもって生きることです。そのためにファリサイ派は民衆の中で律法を教え、生活の指導をする律法学者となりました。この律法学者は、復活などないとするサドカイ派の人々に対して、主イエスが聖書に基づいてはっきりと死者の復活を語られたのを聞いて、立派な答えだと思い、主イエスが自分たちと同じことを教えているという親近感を抱いたのです。それで彼は、一つの問いを主イエスに投げかけようとして進み出たのです。

この律法学者が主イエスに問い掛けた問題は、サドカイ派の質問のように作り上げられた罠ではなく、実際に彼が悩んでいた課題、「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか。」という質問でした。

古くから存在した旧約聖書には「~せよ」という積極的な戒めが248ヶ条、「~すべからず」という消極的な戒めが365ヶ条、合計613ヶ条あると言われて来ました。

律法学者たちは、聖書に記された数多くの律法を基本に、更に多くの戒めを造り上げて行きました。新しい問題が起こる度毎に、それに対する新しい戒めを付け加えたので、紀元5世紀の頃には、60巻、250万語の書物になっていたと言われています。まさに民衆にとって、律法学者は知恵の宝庫であり、律法学者なしには律法の下で生活し、律法を守ることが出来ませんでした。

その律法学者にも、どうしても解決出来ない問題があったというのです。あらゆる事柄を、聖書の御言葉によって解決してくれる律法学者に、「分からないことがある」とは、一般民衆にとって不思議なことでもありました。

その不思議な難問とは、何と、「沢山の戒めの中で、どれが一番大切か」ということでありました。次々に新しい戒めを造り加えて来た結果、あまりにも戒めが多くなり過ぎて、「最も根本的なものは何か」ということが分からなくなってしまったというのです。これは、真面目な律法学者にとって、笑い事ではない真剣な問題と言えます。

29節で主イエスは、「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』」と告げられました。申命記6章4節と5節に、「“聞け”、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」とあります。この箇所は「聞け」、へブル語でシェマーという言葉で始まるために、この戒めそのものも「シェマー」と呼ばれていました。

主イエスは、それを律法学者に指摘したのです。端的に言えば、「もつとも基本的なものに帰れ」ということです。イスラエルの民であるならば、この御言葉を知らない者は居ません。

主イエスは、「このような当たり前のことを、どうして分からないのか」と言われているのです。律法学者でさえ、何故分からなくなってしまったのか。それは、この御言葉全体を貫く根本的な精神を見失ったからに他なりません。

この「聞け」という言葉の重みです。「聞け」と命じられていることは、人間が本来「聞く者」として存在していることを示しています。「聞く」ことを怠ったとき、私たちは、「本来の自己」を見失って行くのです。

「聞け」と言われたとき、「語るべき者は誰か」ということがはっきりと意識されなければなりません。

神が語り、人は聞く。これがすべての根本であり、出発点でなければならないのです。私たちが「本来の道」を見失うのは、「神に聞くことを怠ったから」と言うべきです。人は、語ることに多く、聞くことに少ないのです。

「私が・・」「私の家族が・・」「私の会社が・・」「私の国が・・」。「私」が心を埋め尽くしているのであり、自分自身の立場のみを守ろうとするところから、「あらゆる問題が発生している」と言うべきです。

「神は、何と言われているのか」ということを、生活の中の何処で意識しているでしょうか。御言葉に耳を傾け、御言葉に立ち戻ることこそ、行くべき道を見出す第一歩なのです。

そして、「聞く」こととは、当然、「従うこと」を意味します。「参考にするために聞く」のではありません。「語られたとおり生きるために、聞く」のです。正しく聞く者は、正しく従う者です。それが信仰というものです。

「あなたの神である主を愛しなさい」と言われていますが、「愛する」という言葉が神に対して用いられる場合、「従う」という意味であることはもちろんのことです。「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし」、全人格を献げて従うのです。

ヨハネの手紙 第一 には、「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣しになりました。ここに愛があります。」と記されています。

主イエスが指摘されたシェマーが語る「唯一の主」とは、このことです。「他に神はない」というだけのことではなく、「これ程までに私たちを愛しておられる方が他にあるか」ということです。私たちが「他に神はいないと認める」のではなく、神御自身が、「わたしは、あなただけを愛した」と宣言されているのです。

「私は、あなたを愛している」。これが、常に聞かなければならない御言葉であり、神に愛されているということに気づいた者は、当然、その愛に相応しい生き方をするでしょう。それ故に、第二の戒めが語られるのです。31節で、主イエスは、「第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』」と言われ、その上、『この二つにまさる掟はほかにない。』」とまで言われました。

「自分を愛する」とは、「自分を大切にする」ことです。自分の身体、自分の魂、自分の価値を大切にすることです。何が、それほど自分を大切にさせるのでしょうか。それが「愛」なのです。「神に愛されている」という自覚が、自分の本当の価値を目覚めさせるのです。いささか通俗的な例ですが、皆さんは恋に破れた人がどれ程捨て鉢になるかをよく知っているでしょう。「愛されていない」と思ったとき、人は自分を大切にする気持を反動的に失います。愛の喪失は、あらゆるものの価値を消滅させるような錯覚を与えることがあるのです。「愛」は、それほどの大きな影響力を持つものなのです。

そして、隣人を愛することは、好きになるとか一緒にいて楽しいということではなくて、相手を赦すことです。赦すことこそ愛することだと言うことができます。「自分自身を愛するように」隣人を愛しなさいと教えられているのです。「自分を愛するように」とは「自分を赦しているように」と言い換えることもできます。私たちは、自分のことは基本的に赦しているのではないでしょうか。それなのに人に対しては「赦せない」という思いを持ってしまうのです。

また、「自分を愛する」とは、「神の愛を知ることに他ならない」とも言えるでしょう。「神が愛して下さった私自身の発見」です。「神が私をどれほど愛しておられるか」という自覚の程度に応じて、私たちは自分自身を見つめるのです。

そしてその神の愛が、「御子を十字架につけてもなお厭わぬ」という程の神の愛が、「今、目の前にいる人々にも向けられている」なら、その人々を軽んじることが出来るでしょうか。

神の愛に感謝する者は、「神が愛する者を愛する」ことに応答する。それが、神の愛への応答です。隣人への愛は、神の愛への感謝の表れに他なりません。

ここまで来ると、この二つの戒めは、結局、「一つである」ことが明らかでしょう。「私は神に愛されている」。これがあらゆる事柄の根本であり、私たちが聞くべき「根本的な御言葉」なのです。

律法学者は、主イエスが語られた「愛の交わり」に生きることと、神を愛することと隣人を愛することは分かち難く結び付いていることが、律法全体の中心であることをしっかり理解したのです。しかも彼はそれを直ちに、旧約聖書、ホセア書第6章6節の、「わたしが喜ぶのは愛であっていけにえではなく、神を知ることであって焼き尽くす献げ物ではない」と結びつけました。主イエスがお語りになったことを直ちにこの別の箇所と結びつけることができたということは、彼自身が聖書についての深い知識を持ち、また鋭い信仰的感性を持っていることを示していると言えるでしょう。主イエスはこの彼の言葉を聞いて「あなたは神の国から遠くない」と言われました。

主イエスは「そこまでよく分かっているあなたはもう神の国に到達している」とは言われませんでした。あなたは「遠くない」、神の国はあなたの近くにある、あなたはいい線まで来ている、しかしまだそこに到達してはいない、と言われたのです。主イエスの言葉をしっかり受け止め、逆らったり揚げ足を取ったりしないこの律法学者になお欠けていること、彼がなお神の国に入ることができないでいる原因は何なのでしょうか。

律法学者の目の前にはキリストがいる、キリストが彼に語りかけているのです。そのキリストを信じ、キリストに従って共に歩み、キリストにこそ依り頼むこと、それだけが律法学者に欠けているのです。後それだけが出来れば、神の国に到達することができる、と主イエスは言っておられるのです。

キリスト者にとってもっとも大切なことは、「御言葉を聞くこと」です。「何をしようか」と自分で考えるのではなく、神の御心を聞くのです。「私はお前を愛している」という神の御言葉を聞くのであり、「私は独りぼっちではない」ということを知らされるのです。すべてはそこから始まります。

神の愛によって愛された者同士が共に歩む神の国の交わりを、私たちは、今日も生きるのです。

お祈りを致します。

つまずき

主日礼拝説教

齋藤 正 牧師

《賛美歌》

讃美歌122番
讃美歌448番
讃美歌502番

《聖書箇所》

旧約聖書:申命記 18章15節 (旧約聖書309ページ)

18:15 あなたの神、主はあなたの中から、あなたの同胞の中から、わたしのような預言者を立てられる。あなたたちは彼に聞き従わねばならない。

新約聖書:マルコによる福音書 6章1-6節a (新約聖書71ページ)

6:1 イエスはそこを去って故郷にお帰りになったが、弟子たちも従った。
6:2 安息日になったので、イエスは会堂で教え始められた。多くの人々はそれを聞いて、驚いて言った。「この人は、このようなことをどこから得たのだろう。この人が授かった知恵と、その手で行われるこのような奇跡はいったい何か。
6:3 この人は、大工ではないか。マリアの息子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。姉妹たちは、ここで我々と一緒に住んでいるではないか。」このように、人々はイエスにつまずいた。
6:4 イエスは、「預言者が敬われないのは、自分の故郷、親戚や家族の間だけである」と言われた。
6:5 そこでは、ごくわずかの病人に手を置いていやされただけで、そのほかは何も奇跡を行うことがおできにならなかった。
6:6 そして、人々の不信仰に驚かれた。

《説教》『つまずき』

先週のマルコによる福音書5章36節で、主イエスは「恐れることはない、ただ信じなさい」とおっしゃいました。会堂長ヤイロはそのみ言葉を聞いて、主イエスと共に歩き続けたのです。いやむしろ、主イエスが歩き続けるので、よろめきながらその後について行ったというべきでしょう。主イエスの後について行くことは信仰を持って生きることを象徴しています。信仰に生きるとは、確信を持って堂々と力強く生きるということばかりではないのです。恐れを抱きつつ、絶望をかかえつつ、しかし主イエスが「恐れることはない、ただ信じなさい」と言って先頭に立って歩いていかれる、その主イエスに引きずられるようによたよたとついていく、信仰を持って生きるとはそういうことでもあるのです。むしろ私たちにおいてはそういうことの方が多いのではないでしょうか。

本日からの6章には、主イエスがご自分の故郷にお帰りになり、安息日に会堂で教え始められたこと、しかし故郷の人々は主イエスの教えを受け入れず、つまずいたことが語られています。最後のところに「人々の不信仰に驚かれた」とあります。主イエスの故郷の人々は、主イエスが驚くほどの不信仰に陥ったのです。

主イエスが公生涯に入られるまでナザレで暮らしておられたことはよく知られていますが、そこでの生活については聖書には殆ど記されていません。ナザレでの主イエスの姿を記すのは、マルコ福音書ではここだけですが、弟子たちもいない伝道の最初の時期、ルカ福音書によれば、初めてナザレで説教した時、町の人々は憤慨し「イエスを崖から突き落とそうとした」(ルカ4:28-29)とさえ記されています。ナザレは主イエスにとって、決して「心温まる故郷」ではありませんでした。

今日はそのナザレに、ペトロたちを連れて帰って来た話です。自分を崖から突き落とそうとした人々、気狂い扱いにした人々、自分を追い出した人々、その人々に神の御言葉を語るために、主イエスは故郷のナザレに再び来られたのです。

ナザレの人々はどうであったでしょうか。主イエスをお迎えするために用意して待っている町ではありませんでしたし、会堂に集まった人々も、主イエスの説教を聞きたくて来たわけでもありませんでした。

律法に忠実なユダヤ人は、安息日に会堂以外の場所へ行くのを禁じられており、必ず、全員集まるのが原則でした。また、会堂の集会は、説教者が決まっているわけではなく、管理者である会堂長、先週登場したヤイロも会堂長でしたが、会堂長がその都度申し出た人を説教者として奉仕することを許可していました。そのため、誰が説教者であるかは、集会が始まるまで分からないこともあったと言われています。

ですから、この日、町の人々は、「思いもかけない場所でイエスの説教を聞くことになった」のです。

2節から3節に、「安息日になったので、イエスは会堂で教え始められた。多くの人々はそれを聞いて、驚いて言った。『この人は、このようなことをどこから得たのだろう。この人が授かった知恵と、その手で行われるこのような奇跡はいったい何か。この人は、大工ではないか。マリアの息子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。姉妹たちは、ここで我々と一緒に住んでいるではないか。」このように、人々はイエスにつまずいた。イエスは「預言者が敬われないのは、自分の故郷、親戚や家族の間だけである』と言われた。」とあります。

これが主イエスの御言葉に接したナザレの人々の反応でした。町の人々は「驚いた」と記されています。何に驚いたのでしょうか。あまりにも素晴しい説教に驚いたのでしょうか。それとも、自分たちに対して示された神の恵みの大きさに驚いたのでしょうか。

「驚いた」と訳されている言葉は、普通に用いられる「驚く」「びっくりする」という程度の言葉ではなく、「雷に打たれたような驚き」に用いられるものであり、大変な驚きを意味します。ここを岩波訳聖書では、「仰天した」と訳しています。彼らは何を感じたのでしょうか。

また、2節から3節にかけて三回も用いられている「この人」という言葉は、多少、軽蔑の響きのある言葉です。岩波訳聖書では「こいつ」と訳しています。下品な訳かもしれませんが、こちらの方が正確と思われます。

さらに、「どこから得たのだろう」とあるのは、意味から言えば、「どこから仕入れて来たのか」ということであり、決して、「何時の間にこんなに勉強したのか」というような「褒め言葉」ではありません。はっきり言えば、「こいつは、何処からこんな知恵を仕入れて来たのかと言って驚いた」ということであり、感心したのではなく、それどころか、「とんでもないことだ」という非難を込めた驚きでした。

ここで、主イエスが何を語られたのかは、記されていませんが、容易に想像することが出来ます。旧約聖書以来の預言の成就を語り、「神が定められた『時』、『救いの時』がやって来た」ということを告げたのです。

その福音の御言葉を聴きながら、人々は何故このような反応を示したのでしょうか。

「この人は大工ではないか」。これが彼らの呟きでした。ナザレの家はみな土や石で造られており、日本のように木材の豊富な土地ではありませんので、家を作る大工という職業はなく、家具や道具を作る職人であったと考えられます。しかしながら、間違っていけないのは、「職人であった」ということがこの時の人々の軽蔑の原因ではないということです。律法は全ての人に手に職を持って働くことを勧めています。ですから、当時の律法学者の多くは職業を持ち、働いていました。これは天幕造りという職を持っていたパウロの例からも明らかでしょう。主イエスの大工という仕事も認められることはあっても軽蔑される仕事ではありません。ここでは、職業云々ではなく、家族の名前が挙げられていることから、「それほどよく知っていた」ということであり、ナザレの人々は、主イエスのことも家族のこともよく知っていました。「私たちはみな、同じ仲間ではないか」と言っているのです。

私たちは、ここを読み、「身近な人は小さな欠点まで知っているので、まともに話を聞こうとしなかった」と理解しようとするでしょうが、それは完全な思い違いです。確かに、私たちにもそのような経験があります。

たとえば、私たちにとって、一番難しいのは家庭伝道ではないでしょうか。家族には日常生活の全てが知られています。朝寝坊はする、忘れ物は多く、そそっかしくて失敗ばかりし、ちょいちょい喧嘩もして破れ多い姿をさらしています。何を言っても、「偉そうなことを言う前に、生活態度を変えて欲しい」と言われ、そこで悔し紛れに、「預言者、故郷に容れられず」などと、いい加減なことを言うのがオチです。

私たちは、このような失敗を何度も繰り返していますが、それを主イエスに当てはめられるのでしょうか。

神の御子は、たとえ人となられても、私たちと同じ「人間としての弱さをさらけ出して生きた」と考えるのは大間違いです。視点を完全に変えなければなりません。むしろ、ナザレの人々に主イエスの生活態度を積極的に批判し得る者は「一人もいなかった」と考えるべきです。

彼らの驚きの理由はただひとつ、3節に記されているように、「我々と一緒に住んでいるではないか」ということ、即ち、「私たちと同じ町の人間ではないか」ということであり、「よく知っている仲間だ」ということです。そして問題は、まさにここにあるのです。

「同じ仲間」なら、何故いけないのでしょう。「同じ町の者」ということが、何故彼らにとって躓きになったのでしょうか。「躓いた」とは、動物が罠にかかるという意味の言葉に基づくものであり、この場合、人を神から遠ざける「障害物になった」という意味です。「何が」人を神から遠ざける障害になったのでしょうか。

彼らは、決してまともに聞かなかったり、初めから馬鹿にしていたのではありません。町の人々は、主イエスの説教から、明らかに自分たちとは違うもの、異質なものを感じ取っていたに違いありません。ですから、「授かった知恵」とか「奇跡」ということがここに語られているのです。今、彼らは「知恵」とか「奇跡」と表現できる「何か」に出会っているのです。人間の知恵、人間の力、社会での常識、それらを超える「何か」を感じたことは確かであり、これはまさに、衝撃的瞬間であった筈です。

かつて、ガリラヤ湖のほとりで漁師をしていたペトロは、一晩中漁をしても魚が獲れずがっかりしていた時に、主イエスの指示に従って網を入れたところ、舟が沈みそうになるほど沢山の魚が獲れ、御前にひれ伏しました。その時のペトロの言葉は「私は罪深い者です」という告白でした。これは、自分を遥かに超える方と出会ったとの自覚でした。「私は何と小さな者か」「私は何と愚かな者か」という自己認識は、常に、自分を超える方との出会いにおいて起こるのです。ガリラヤ湖で起こったことも、ナザレの会堂で起こったことも、同じものであった筈です。

しかしナザレの会堂では、その驚きが逆の方向に進んでしまいました。確かに、主イエスの説教は神の御心を説き明かす福音の宣言でした。人々のこれまでの生き方に対して、全く異質なことが語られていました。彼らはそれをはっきりと聴き取ったのです。ですから、表面的な知恵や、単純な奇跡そのものを問題にしているのではありません。

彼らは、主イエスと出会い、あのペトロが仰ぎ見た主イエスを、「不快に感じた」のです。ここが最大の問題点です。主イエスが語られた福音を、自分たちが仰ぎ見て、そこへ向う「高み」として受け止めたのではありませんでした。あまりにも異質なものに対する憤りであったとさえ言うことが出来るでしょう。

誰もが進歩を求め向上することを願います。より良いものへと変わって行くことを願います。しかしながら、その向上心は共通であっても、進歩に遅れてしまった者は、「自分も共にそこへ行こう」と考えるより、自分より進んでいる者を引き降ろすことに熱心になるのです。

私たちの心の中には、自分を超える者への恐れと不安が何時もあるのです。そしてその不安が、自分の現在の立場を守るために「新しいものへ進む」ことを拒むのです。ある人はそれを弱者の防禦本能と呼び、ある人はそれを「罪がもたらす人間の惨めさそのもの」と言っています。

主イエスの御言葉を聞いたナザレの人々が、他の町の人々と比べて特別に信仰が弱かったということではありません。むしろ、同じ時代の全ての人々のように、救いの実現を望んでいたことでしょう。ただその宣言が、自分たちと「同じ仲間」によってもたらされたことに我慢できなかったのです。

主イエスを「自分たちと同じ仲間」として見た時に働く、「自分たちと同じ立場に留まらせよう」とする意識が、そこにあるのです。主イエスが、御自分を「神の子キリスト」とお示しになった時、人々は、主イエスに「ナザレの大工」として留まることを要求しているのです。

もちろん、主イエスも、ナザレの人々を「御自分と同じ仲間」として見ていました。ただその見方がまったく違いました。

主イエスは、「みんな同じ仲間だから、父なる神のところに一緒に行こう」と語っておられるのに、ナザレの人々は、「お前は私たちの仲間だから、私たちのところに留まっていればよい。そんな偉そうなことを言うな」と嘲笑ったのです。

6節で主イエスは「人々の不信仰に驚かれた。」とあります。

不信仰とは、神の御言葉を自分の世界、自分のレベルへ引き下げてしまうことです。自分が御言葉によって変わるのではなく、御言葉を自分たちと同じレベルに引き下げ、自分たちの生活に合わせて「変えてしまおうとすること」、それが不信仰というものの本質です。

5節にある主イエスの「何も奇跡を行うことが出来なかった」とは、力を発揮出来なかったというのではなく、信仰なき者に対する主イエスの拒否です。自分から恩寵に心を開こうとしない者に対する裁きです。

キリストが私たちにかけてくださる「あなたがたは私の家族なのだ」と言う御言葉こそ、私たちが聞く新しい希望です。「私と同じだ」というのは、主イエス御自身が十字架の苦しみと復活を通して、初めて私たちに与えられた信仰の恵みです。私たちが気付かぬ間に、罪に支配されてしまうこの世界を、神の家に変え、「神の家族」を取り戻そうとする主イエス・キリストの御心を想わなければなりません。

「あなたがたは私の家族なのだ」。背を向ける人々にさえ、このように語り続けられる主イエスの御心を感謝して受け止める時、私たちは自分一人の思いから抜け出して、自分の大切に思う人、愛する人を主イエスと共に歩む「神の国」への道、「救い」へと誘えるのです。

お祈りを致しましょう。

<<< 祈  祷 >>>

安息日の主

齋藤 正 牧師

《賛美歌》

讃美歌239番
讃美歌497番
讃美歌67番

《聖書箇所》

旧約聖書:申命記 5章12-14節 (旧約聖書289ページ)

5:12  安息日を守ってこれを聖別せよ。あなたの神、主が命じられたとおりに。
5:13  六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、
5:14  七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、牛、ろばなどすべての家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である。そうすれば、あなたの男女の奴隷もあなたと同じように休むことができる。

新約聖書:マルコによる福音書 2章23-28節 (新約聖書64ページ)

2:23 ある安息日に、イエスが麦畑を通って行かれると、弟子たちは歩きながら麦の穂を摘み始めた。 2:24 ファリサイ派の人々がイエスに、「御覧なさい。なぜ、彼らは安息日にしてはならないことをするのか」と言った。
2:25 イエスは言われた。「ダビデが、自分も供の者たちも、食べ物がなくて空腹だったときに何をしたか、一度も読んだことがないのか。
2:26 アビアタルが大祭司であったとき、ダビデは神の家に入り、祭司のほかにはだれも食べてはならない供えのパンを食べ、一緒にいた者たちにも与えたではないか。」
2:27 そして更に言われた。「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。
2:28 だから、人の子は安息日の主でもある。」

《説教》 『安息日の主』

明けましておめでとうございます。今年もこうして皆様と共に聖書に耳を傾ける新しい年を迎えられたことを感謝します。今年は引き続きマルコによる福音書を連続してご一緒に読み進めて行きたいと思いますので、宜しくお願いいたします。

本日は「安息日」に関するお話ですが、「安息日」とは聖書で定められている最も重要な規定です。それがどのような意味で定められた日であるかを、先ず確認することが大切です。

ヘブライ語で“シャッバット”と呼ばれる「安息日」とは「休む」という意味です。そのことから、誰でも安息日と言えば、「休みの日」と考えるのが当然かもしれません。しかし、キリスト者であるならば、この「休む」ということが何から始まり、何を意味しているかを、聖書から考えてみたいものです。

この「安息日」とは、先ず第一に、「神様が祝福し、聖別された日」です。それは旧約聖書2ページ、創世記2章1~3節にあるように、「天地万物は完成された。第七の日に、神は御自分の仕事を完成され、第七の日に、神は御自分の仕事を離れ、安息なさった。この日に神はすべての創造の仕事を離れ、安息なさったので、第七の日を神は祝福し、聖別された。」と、創造の御業の最期に祝福し、聖別された日でした。

第二には、「神様との契約のしるしの日」であり、生命をかけて守らなければならない「聖なる日」「最も厳かな日」です。それは、旧約聖書146ページ、出エジプト記31章13~16節にあるように、「あなたは、イスラエルの人々に告げてこう言いなさい。あなたたちは、わたしの安息日を守らねばならない。それは、代々にわたってわたしとあなたたちとの間のしるしであり、わたしがあなたたちを聖別する主であることを知るためのものである。安息日を守りなさい。それは、あなたたちにとって聖なる日である。それを汚す者は必ず死刑に処せられる。だれでもこの日に仕事をする者は、民の中から断たれる。六日の間は仕事をすることができるが、七日目は、主の聖なる、最も厳かな安息日である。だれでも安息日に仕事をする者は必ず死刑に処せられる。イスラエルの人々は安息日を守り、それを代々にわたって永遠の契約としなさい。」と、死をもってしても守るべき日でした。

第三には、出エジプト、「神様の救出を想い起こす日」です。旧約聖書289ページ、申命記5章15節には、「あなたはかつてエジプトの国で奴隷であったが、あなたの神、主が力ある御手と御腕を伸ばしてあなたを導き出されたことを思い起こさねばならない。そのために、あなたの神、主は安息日を守るよう命じられたのである。」とあります。

これら三つが、「安息日の制定」です。神の民イスラエルは、この安息日を厳守することで、周囲の諸民族の中に埋没しがちな弱小民族でありながら、自分たちの独自性とアイデンティティを維持し続けて来ました。

安息日は確かに「休みの日」です。如何なる仕事もしてはならず、それを汚す者、即ち仕事をする者は死刑に処せられると定められた厳粛な日です。同時に一週間に一回の休日でもありました。しかし、その「休み」とは、人間が身体の疲れを癒すことに第一の目的があるのではなく、ましてや、天地創造された「神様の休養」にお付き合いをする日でもありません。

天地創造の第七の日に「神はその日を聖別された」と記されています。「聖」と訳されているヘブル語の“コーデシュ”は、元来「分ける」「分離する」という意味で、信仰の問題に用いられる場合、神と人間との分離を示し、神に属するものと人間に属するものとの区別を表しました。「聖なるもの」とは「神にのみ属するもの」であり、「神によって特別に選ばれたもの」「特別により分けられたもの」を意味するのです。天地創造の第七の日を「神がその日を聖別された」ということは、その日を「特別な日として定められた」ということです。「特別な日」とは「神の創造を覚える日」であり、「神の契約の記念日」であり、「人間を奴隷の苦しみから救い出された神」への信仰を新たにする日なのです。主なる神の恵みを思い、「神の民・しもべ」としての姿を明らかにし、礼拝を献げる日であり、『その礼拝を守るため』に仕事を休むのです。

「仕事を休む」とは、「主のために休む」のであり、主なる神の御心に応える時、結果的に、一週間の労働で疲れた身体を休めることになるのです。三千年以上の昔から一週間に一度仕事を休んでいたのは、イスラエル民族をおいて他にありませんでした。六日間の労働で疲れた身体に安らぎを与え、社会生活の中で荒んだ心に神様を仰ぐ喜びを呼び戻すことが、安息日を定められた神の御心でした。安息日とは、私たち人間を見詰められる神の御心、愛の満ち溢れる日なのです。

本日の、マルコ福音書2章23節には、「ある安息日に、イエスが麦畑を通って行かれると、弟子たちは歩きながら麦の穂を摘み始めた」とあります。実にのどかな光景で、都会生活では味わえない農村風景が本日の舞台です。時は安息日とあります。弟子たちは何故「麦の穂を摘み始めた」のでしょうか。よく、面白半分で、何気なく道端の木の枝を折ったり、草をむしったりすることがあります。しかし>
この時の弟子たちは、マタイ福音書12章1節によると、「空腹になったので」と理由が記されています。そしてこれは、イスラエルでは認められていることでした。律法にはこのように定められています。旧約聖書317ページ、申命記23章25~26節に、「隣人のぶどう畑に入るときは、思う存分満足するまでぶどうを食べてもよいが、籠に入れてはならない。隣人の麦畑に入るときは、手で穂を摘んでもよい>が、その麦畑で鎌を使ってはならない。」と、あります。これは、「家に持って帰るほど取ってはならないが、そこで食べるのはよい」ということです。おおよそ、一人の人が腹一杯食べたとしても、どれほどの損害になるのか。まして、そのようなことをする人はよほどの空腹であり、その空腹を癒すことが出来ることを喜ぶべきではないのか。これが律法というものの本来の精神です。律法は神から与えられた戒めであり、人間が正しく生きるための道しるべです。神が教えて下さった人間の正しい生き方とは、疲れた者を慰め、飢えた者を満たすことにあります。貧しい者が苦しむことなく、互いの助け合いによって日々の生活を喜ぶことが出来る生き方なのです。

では、ファリサイ派の人々は何を非難したのでしょうか。24節にあるように、「安息日にしてはならないことをした」というのがその理由でした。「安息日にしてはならないこと」とは、先程の出エジプト記31章14節以下に記されている通り「仕事」です。既に見て来たとおり、律法は安息日に仕事をすることを固く禁じていました。そこで神の御民として直ちに問題にせざるを得ないのは、それでは「仕事とは何か」という定義です。「してよい事」と「してはいけない事」の境目を明らかにしなければ、律法に従う生活を遵守することが出来ません。そこで律法学者たちは、律法の内容を事細かに定義して行きました。紀元二百年頃に編纂された権威ある口伝律法集ミシュナーには、伝承されて来た膨大な規定が残され、安息日に関する規定だけでも、何と24章にもわたって記されています。

ファリサイ派が律法を何よりも大切なものとして受け入れ、御言葉を重んじたということ自体は誤りではありません。律法は神より与えられたものであり、御心そのものと考えられていました。しかしながら、律法を見る彼らの眼が、律法本来の精神から離れ、「それをどのように守るか」ということのみに向けられたことが問題なのです。安息日は「聖なる日」であり大切な日です。しかしファリサイ派の眼は、「安息」即ち「休む」ということへ重点的に向けられていました。律法の専門家として、「安息日には仕事を休まなければならない」と教え、このことに「神の民イスラエルの基本的な姿が示されなければならない」と説いたのです。本来の目的と付随的な結果とが入れ替わってしまったと言えるでしょう。

このような理解に立つファリサイ派によれば、この時の主イエスの弟子たちの行為は「安息日に禁じられている四つの罪」を犯していることになります。麦の穂を摘むことは「刈り入れの罪」、穂から実を取ることは「籾殻を取り分ける罪」、手でもんで食べることは「臼で引く罪」、そしてこれらを合わせて「食事の準備をした罪」ということです。

25節から26節で主イエスは、「ダビデが、自分も供の者たちも、食べ物がなくて空腹だったときに何をしたか、一度も読んだことがないのか。アビアタルが大祭司であったとき、ダビデは神の家に入り、祭司のほかにはだれも食べてはならない供えのパンを食べ、一緒にいた者たちにも与えたではないか。」と言われました。

これは旧約聖書サムエル記上の21章1節以下に記されていることです。昔、サウルに追われ逃れたダビデがノブの聖所に立ち寄った時、祭司アヒメレクは、空腹で逃亡中のダビデに、祭司以外の者が食べてはならない「祭壇から下げてきた聖別された供え物のパン」を与えました。これは非常の場合、「例外はあり得る」という有名な故事であり、規定上は違反であったとしても律法の精神はそこにあるという実例です。

安息日に麦の穂を摘んだ弟子たちを責めるファリサイ派の人たちに、主イエスは「形を守ること」ではなく、「御心に従うこと」に重要な視点があることを告げたのです。ファリサイ派の立場から言えば弟子たちの行為は明白に律法違反でした。しかしそれは、父なる神がどのような眼差しで空腹な者を御覧になっているかということは、全く考えられていません。空腹に苦しむ者に、「安息日だから空腹のままで我慢せよ」と主なる神が言われるでしょうか。そもそも、聖書の何処にも「安息日に食事をしてはならない」などとは書かれていません。むしろ、安息日こそ、人間が最も大切にしなければならない日なのです。愛し合い、助け合い、支え合って生きる人間の姿を喜ばれるのが御心であり、そのように生きる人々との交わりの日を望まれるのが主なる神です。

弟子たちが麦の穂を摘んだことの背景に、この神の御心を見なければなりません。神が定められた安息日に、御子キリストと共に歩み、神によって許された食物を採る、この姿こそ、恵みの中にある人間の姿そのものと言えるでしょう。

さらに重要なことは、ファリサイ派の人々が安息日を論じるに当って、「礼拝」について全く触れていないということです。もし、主イエスの弟子たちがこの日、神を讃美することを怠っていたならば、この非難は正当であったでしょう。礼拝を怠ることは、どんな理由があったとしても正しい弁明にはなりません。何故なら、安息日こそが礼拝をするための日であり、仕事を休むことは礼拝を守ることから生じる恩寵の結果であったからです。そのことから見ても、ファリサイ派が、安息日の意味を「礼拝」よりも「仕事を休む」ことの方に重点を移してしまったことは明らかでしょう。

現代でも、この意味でのファリサイ主義は横行しています。日曜日は仕事を休む日であり、遊ぶ日、休息の日、家族慰安の日という考えが支配しています。「日曜日に何故家族サービスをしないのか」と言われて後ろめたい思いをする人もあるでしょう。「何故、せっかくの休みに教会へ行かなければならないのか」と言われて反論出来ない奇妙なクリスチャンも少なくありません。熱心なファリサイ派も不熱心な現代のクリスチャンも、主なる神が居られることを忘れている姿では、全く同じだと言わざるを得ません。

そして27節から28節で更に、「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。だから、人の子は安息日の主でもある。」と言われました。

「人のための安息日」とは、人が自由に行動して良いということではなく、人間が「正しい人間であるための日」という意味で理解すべきです。「イエス・キリストは主である」という告白を、他の六日間よりも純粋に、真心から告白できる日が現代の安息日、即ち「聖日」の意味なのです。

本日の物語では、ファリサイ派の人々の律法理解がいかに本末転倒になっているかがよく分かります。しかしこれは決して他人事ではありません。私たちは、神様が安息日を与えて下さった意味を本当にしっかりとわきまえているでしょうか。私たちがもし、教会に集うことで、神様からの安息をいただくのではなく、有意義な働きや意味ある奉仕をすることを第一とし、自分が役に立つ者となることを追い求め、その結果信仰に生きることは疲れることだと思い、自分より多くの奉仕をしている人には心苦しさを感じ、自分より奉仕をしていないと思う人を裁いたりしているならば、ファリサイ派の人々と同じ本末転倒に陥っていると言わなければならないのです。

このことをわきまえるなら、私たちの安息日である主の日、日曜日に教会の礼拝に集い、神様を礼拝しつつ神様に仕えて生きる信仰の生活において、自分が有意義な働きや意味ある奉仕をすることを目的としてはならないことが分かります。礼拝を守って信仰者として生きることは、私たちが良いことをし、役に立つ人になるためではなくて、神様が、独り子主イエス・キリストによって与えて下さる救いにあずかり、まことの安息、休みを与えられるためなのです。しかもそれは私たちの自己満足や誇りを満たすことによる安息ではありません。むしろ神様は私たちを、そのような自己満足や誇りを満たすことを求める思いから解放して下さるのです。主イエス・キリストは、そういう疲れから私たちを解放し、まことの安息を与えて下さるのです。神様の独り子である主イエス・キリストが、何の役にも立たないどころか、神様に迷惑をかけてばかりいる罪人である私たちのために十字架にかかって死んで下さり、罪を赦し、神様の子として生きる新しい命を与えて下さったのです。私たちは、有意義な働きも意味ある奉仕も何もなしに、ただ神様の恵みによって安息を与えられ、明日へと歩み続ける力を、今日も礼拝によって与えられるのです。

お祈りを致しましょう。

<<<祈 祷>>>

・・・以 上・・・

主イエスの恵み“カリス”

《賛美歌》

讃美歌20番
讃美歌183番
讃美歌546番

《聖書箇所》

旧約聖書:申命記 4章20節 (旧約聖書287ページ)

4:20 しかし主はあなたたちを選び出し、鉄の炉であるエジプトから導き出し、今日のように御自分の嗣業の民とされた。

新約聖書:エフェソの信徒への手紙 2章1-10節 (新約聖書353ページ)

2:1 さて、あなたがたは、以前は自分の過ちと罪のために死んでいたのです。
2:2 この世を支配する者、かの空中に勢力を持つ者、すなわち、不従順な者たちの内に今も働く霊に従い、過ちと罪を犯して歩んでいました。
2:3 わたしたちも皆、こういう者たちの中にいて、以前は肉の欲望の赴くままに生活し、肉や心の欲するままに行動していたのであり、ほかの人々と同じように、生まれながら神の怒りを受けるべき者でした。
2:4 しかし、憐れみ豊かな神は、わたしたちをこの上なく愛してくださり、その愛によって、
2:5 罪のために死んでいたわたしたちをキリストと共に生かし、――あなたがたの救われたのは恵みによるのです――
2:6 キリスト・イエスによって共に復活させ、共に天の王座に着かせてくださいました。
2:7 こうして、神は、キリスト・イエスにおいてわたしたちにお示しになった慈しみにより、その限りなく豊かな恵みを、来るべき世に現そうとされたのです。
2:8 事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。
2:9 行いによるのではありません。それは、だれも誇ることがないためなのです。
2:10 なぜなら、わたしたちは神に造られたものであり、しかも、神が前もって準備してくださった善い業のために、キリスト・イエスにおいて造られたからです。わたしたちは、その善い業を行って歩むのです。

《説教》『主イエスの恵み“カリス”』

本日の聖書箇所は、エフェソの教会の兄弟姉妹たちの現実の姿を描き出すことから始まります。それは、この手紙を書いたパウロ自身の現実でもあり、現在の私たちの現実でもあります。その現実とは、私たちは洗礼を受けて教会に加わる前には、「自分の過ちと罪のために死んでいた」という現実です。と、言ってもその現実を明らかにするパウロの言葉は、エフェソの教会の兄弟姉妹たちを非難する言葉ではありません。ここにある、「死んでいた」という表現は、以前のあなたがたは、こうであったと責めたてる言葉というよりも、今は、過ちと罪を赦されて、そこから解き放たれて、自由にされていることの喜びを共にする言葉として理解することができます。死んでいたに等しい人間が、生きるようになったことへの不思議さと感謝の言葉から始まっていると言えましょう。それは、先週ご一緒にお読みした放蕩息子が父のもとに戻って受け入れられたことの喜びに通じます。

私も、あなたも、以前は自分の過ちと罪のために死んだようになっていた。世界を支配する神に背き、罪と過ちを犯して歩んできた。神の怒りを真っ先に受けるにふさわしい者であった。しかし、そのような私たちが、今やキリストと共に生かされているという恵みを語り始めるのです。この恵みがどれほどすばらしいものかが、後半部分の7節以下には鳴り響きます。

さて、2節の「この世を支配する者」や、「かの空中に勢力を持つ者」とは、すぐ後の「不従順な者たち」のことです。「内に今も働く霊」とは悪魔のことと思われます。「この世を支配する者」は原文では「このコスモスのアイオーン」という言葉です。「コスモス」とは「宇宙」と訳される言葉で、「アイオーン」は、当時のアレキサンドリヤなどでは神として祭られていたこともあることから、「偶像の神」と解釈できます。そして、「かの空中に勢力を持つ者」とは、悪魔・サタンと考えられます。サタンは人間を遥かに超える力を持っています。主イエスがこの世に来られた明白な目的は、まさに「悪魔の働きを滅ぼすため」にほかならなかったと言われます(Ⅰヨハ3:8)。主イエスご自身も、公の生涯のはじめに荒れ野でサタンの誘惑に遭われ、サタンを退けられました。サタンは大変巧妙で、パウロはサタンのことを「光の天使を装うのです」(Ⅱコリ11:14)と指摘しているほどです。サタンは、善人を装い、時には天使を装って私たちに近づき、私たちを肉の欲望のままに生きる者として、神様から私たちを遠ざけることを企みます。

使徒パウロは、人間が偶像崇拝に陥り、サタンの支配にとらわれていく現実をしっかりと見つめます。私たちも自分は、サタンや偶像礼拝と無縁だ、自分は教会生活をしっかりと守り、信仰に堅く立っていると、自分勝手に思い込んでいるんではないでしょうか。パウロが語るサタンとは、残忍で恐ろしい姿かたちをいつもとっているわけではありません。私たちが、神以外のものをより大切にし、自分が良いと思っているところに心惹かれていくとき、すでにサタンの誘惑に陥っているのです。パウロは、3節では、ユダヤ人として信仰を受けている人たちや信仰を得ていない不信仰者を含むすべての人々は、生まれながらの本来の姿なら、神の怒りにあう者であり、神の怒りから逃れられないと言っています。自分が善かれと思って行うことが、「肉の欲望の赴くままに生活する」ことです。そのような罪の現実の最大の問題は、自分の思いのままに生きる時、私たちはキリストと共に生きている、キリストによって生かされていることを忘れてしまうことです。

神様は、そのような私たちを、それでもなお深く憐み愛してくださり、その愛によって、罪のために死んでいた私たちをキリストと共に生かし、キリストと共に復活させ、共に天の王座に着かせてくださいましたとパウロは記します。本来なら、神を忘れて、神様とは別な方向を向いている私たちを、神の御前に連れ戻してくださるのです。4節の「愛」とは、神ご自身の愛のことです。この愛は、人間をサタンの誘惑から解き放ち、サタンの支配を粉みじんに打ち砕くような厳しく、激しい決然とした愛です。神が愛する独り子を世界に遣わし、それによって私たちを新たに生まれさせ、生き方を変えてくださった愛です。神様が私たち人間を愛するゆえに、御子をすら惜しまなかった徹底した愛です。この徹底した愛にこそ、はじめからの神の目的があります。5節と6節は、私たちの予想に反するような恵みが語られています。神様がくださる恵みです。「生まれながら神の怒りを受けるべき者」を新生させてくださる神の目的は、5節の「キリストと共に生かし」てくださることであり、6節にある「共に復活させ、共に天の王座に着かせ」るためなのです。その神の豊かな愛は、ここにある「憐れみの豊かさ」であり、「わたしたちをこの上なく愛してくだ」さったからです。

新しく生まれる「新生」とは、霊的に死んでいた者に対する神の一方的な賜物、恵みです。神様は、何のとりえもない私たちを、信仰ゆえに憐み、ただひたすら一方的な恵みによって、私たちを罪の支配から救い出してくださるのです。キリスト者は、いつの時代にもこの一点だけで、共通の経験をしている者です。「あなたがたの救われたのは恵みによるのです」とありますが、これは、すでに与えられた救い、つまりイエス・キリストによる罪の赦しと罪の支配への勝利を示しています。この箇所は、教会における洗礼を指しています。コロサイの信徒への手紙2章12節には、「洗礼によって、キリストと共に葬られ、また、キリストを死者の中から復活させた神の力を信じて、キリストと共に復活させられたのです」と、洗礼についてハッキリと記されています。今日のエフェソ書では、洗礼について明記はありませんが、パウロの言葉遣いは明らかに洗礼を指しています。5節の「罪のために死んでいたわたしたちをキリストと共に生かし」とあります。この「共に生かし」とは、こことコロサイの信徒への手紙2章13節にだけ出て来る言葉です。この「生かす」とは「命をつくる」という言葉です。「キリストの救い」とは、単なる罪の赦しだけではなく、キリストにある新しい命を私たちに与えて下さるのです。この「キリストと共に生かす」とは、「新しく生まれ」てキリストと結び付けられ、キリストに起ったこと「復活と天の王座へ座ること」が、神の力によって私たちにも起こることを示しています。イエス・キリストの生命に与って、それと一体となることです。この「愛による救い」の文章は8節にまで続きますが、感極まったパウロはここで「あなたがたの救われたのは恵みによるのです」と、5節と8節で繰り返し歓呼しています。霊的に死んでいた状態から新しく生きる「新生」とは私たちに対する神の一方的な恵みなのです。

そして、この「救われた」という動詞は完了形で、イエス・キリストの十字架の御業で「すでに救われている」と言っているのです。「あなたがたの救われたのは恵みによるのです」と、ここに「恵み(カリス)」という言葉が出てきます。今日の短い聖書箇所だけでも3回も登場しています。神の救いが、人間に対する神の愛による一方的な賜物・恵みであることを表している言葉です。

成宗教会の皆さんの中にはお気付きの方もいらっしゃいますが、成宗教会のメールアドレスは「ナリムネ・カリス」です。「カリス」に決まった経緯を私は聞かされていませんが、並木先生時代に開設されたメールアドレスが、この「恵み(カリス)」であることに今日は不思議な神の導きを感じずにはおられません。

6節の「共に復活させ、共に天の王座に着かせ」るとは、やがて来る未来の終りの日のことよりも、現在既に起こった出来事を指します。神の救いは霊的な死からのよみがえり・復活ばかりか、何と、神の子たる身分への天への招きでもあるのです。「共に復活させ、共に天の王座に着かせ」と2回も続いて語られる「共に」という言葉は、一つの言葉としては存在していません。この「共に」という言葉は「復活させる」「着かせる・座らせる」という動詞の接頭語です。分かり易く日本語の意味を加えると「キリスト・イエスと一緒に復活させ、天の王座にキリスト・イエスと一緒に着かせてくださいました」となります。霊的に生き返る「新生」とは、天におられる復活の主イエス・キリストと共に新しく生きるということなのです。

7節では、「その限りなく豊かな恵みを、来るべき世に現そうとされたのです。」と、私たちの救いの目的をさらに明らかにします。この「来るべき世」とは、終末に続く新天新地を含む無限の将来・永遠を指し示しています。1章4節に「天地創造の前に、神様はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。」とありました。私たちの「選び」は過去から続くものでしたが、その「恵み(カリス)」は、現在の私たちに永遠の将来まで一方的に与えられるのです。

8節の「あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました」とあります。「恵み(カリス)」は、漠然とした「恵み(カリス)」ではありませせん。前の7節の「キリスト・イエスにおいてわたしたちにお示しになった慈しみにより、その限りなく豊かな恵み(カリス)」であり、「キリスト・イエスの十字架による慈しみ」のことです。キリストの出来事のすべてが「恵み(カリス)」です。しかもその恵みの出来事は一方的に与えられました。

しかし、その恵みとは、私たちの応答を問うことなしに、ばらまかれるのではありません。「恵みにより、信仰によって救われた」とあります。ここは、正確には「信仰による恵みで・・・」と訳すことができます。人はイエス・キリストを自分の救い主として受け入れる信仰を通して、その恵みを受けることが出来るのです。「このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です」。神の救いとは、神様からたまたま頂いた賜物ではなくて、受け取る私たちの悔い改めを前提として信仰という管を通して神のご意思によって与えられる「恵み(カリス)」と言った方が適当でしょう。

9節の、「行いによるのではありません。」とは、前の8節の「自らの力によるのではなく、神の賜物です。」の言い換え、繰り返しです。どんな形でも人の力や功績、努力が顔を出す余地はなく、「わたしたちは、人が義とされるのは律法の行いによるのではなく、信仰によると考えるから」(ロマ3:28)なのです。

10節では、「なぜなら」と、前節までの内容を繰り返して説明を重ねます。私たちは神の作品なのだから、神の救いが人間の行い、善行や業績によることはあり得ないのです。私たち人間は「神が前もって準備してくださった善い業のため」に神によって造られた作品なのです。

キリストの救いとは、救われる私たちの善行という努力や働きがまったく必要ない神の一方的な愛の「恵み(カリス)」なのです。

「恵み(カリス)」は、信仰によってのみ神様から頂くことができるものです。神様は主イエスを救い主として信じる者に溢れるばかりに「恵み(カリス)」を注がれるのであって、善行の報酬として与えられるものではありません。「恵み(カリス)」をいただく手段は信仰のみです。しかも、実に、その信仰そのものも神の賜物なのです(エフェ2:8)。

私たちは、主なる神によって創造された、神の作品です。ゆえに、私たちは、自分を誇ることができません。私たちが誇ることができる唯一の出来事は、神の御子イエス・キリストによる救いという出来事のみです。誇るならば、主を誇れという言葉通りに、信仰者の誇りとは、信仰を持つ自分ではなくて、私たちが信仰の対象としている神の御子イエス・キリストの十字架と復活の出来事、「恵み(カリス)」の出来事に他なりません。神の作品として「恵み(カリス)」を感謝し続けて生きる者となりましょう。

お祈りをいたします。

<<< 祈  祷 >>>