主イエスの祈り

《賛美歌》

讃美歌7番
讃美歌166番
讃美歌338番

《聖書箇所》

旧約聖書  詩篇 40篇9-10節 (旧約聖書873ページ)

40:9 わたしの神よ、御旨を行うことをわたしは望み/あなたの教えを胸に刻み
40:10 大いなる集会で正しく良い知らせを伝え/決して唇を閉じません。主よ、あなたはそれをご存じです。

新約聖書  ヨハネによる福音書 17章1-13節 (新約聖書202ページ)

17:1 イエスはこれらのことを話してから、天を仰いで言われた。「父よ、時が来ました。あなたの子があなたの栄光を現すようになるために、子に栄光を与えてください。
17:2 あなたは子にすべての人を支配する権能をお与えになりました。そのために、子はあなたからゆだねられた人すべてに、永遠の命を与えることができるのです。
17:3 永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。
17:4 わたしは、行うようにとあなたが与えてくださった業を成し遂げて、地上であなたの栄光を現しました。
17:5 父よ、今、御前でわたしに栄光を与えてください。世界が造られる前に、わたしがみもとで持っていたあの栄光を。
17:6 世から選び出してわたしに与えてくださった人々に、わたしは御名を現しました。彼らはあなたのものでしたが、あなたはわたしに与えてくださいました。彼らは、御言葉を守りました。
17:7 わたしに与えてくださったものはみな、あなたからのものであることを、今、彼らは知っています。
17:8 なぜなら、わたしはあなたから受けた言葉を彼らに伝え、彼らはそれを受け入れて、わたしがみもとから出て来たことを本当に知り、あなたがわたしをお遣わしになったことを信じたからです。
17:9 彼らのためにお願いします。世のためではなく、わたしに与えてくださった人々のためにお願いします。彼らはあなたのものだからです。
17:10 わたしのものはすべてあなたのもの、あなたのものはわたしのものです。わたしは彼らによって栄光を受けました。
17:11 わたしは、もはや世にはいません。彼らは世に残りますが、わたしはみもとに参ります。聖なる父よ、わたしに与えてくださった御名によって彼らを守ってください。わたしたちのように、彼らも一つとなるためです。
17:12 わたしは彼らと一緒にいる間、あなたが与えてくださった御名によって彼らを守りました。わたしが保護したので、滅びの子のほかは、だれも滅びませんでした。聖書が実現するためです。
17:13 しかし、今、わたしはみもとに参ります。世にいる間に、これらのことを語るのは、わたしの喜びが彼らの内に満ちあふれるようになるためです。

《説教》『主イエスの祈り』

今日、与えられた御言葉はヨハネによる福音書17章です。主イエスが弟子たちに教え共に過ごしたガリラヤを出られ、過越祭のエルサレムに入られ、いよいよ十字架の受難を迎えられるのです。ヨハネ福音書には最後の晩餐の明確な場面はありませんが、弟子たちの足を洗われ、沢山の教えとご自身の受難予告をされました。そして、十字架に架けられるために逮捕され、連行される直前にされたのが今日の「主イエスの祈り」です。

聖書の中で主イエスの祈りが記録されている箇所は沢山ありますが、最も有名なのが「主の祈り」でしょう。

このヨハネ福音書17章に記された主イエスの祈りは、聖書に記されている中でも最も長い祈りです。この祈りはその内容から「大祭司の祈り」とも呼ばれています。神の御子である主イエスが父なる神に私たちのためにとりなしてくださっている祈りだからです。主イエスが何を考えられ、何を祈られたのかは興味深いことです。今日のこの主イエスの祈りは、1節から5節の「主イエスご自身のための祈り」と6節以降の「弟子たちのための祈り」の二つに分けられます。先ず1節には、「イエスはこれらのことを話してから、天を仰いで言われた。『父よ、時が来ました。あなたの子があなたの栄光を現すようになるために、子に栄光を与えてください。』とあります。

主イエスは祈られるとき、目を天に向けられました。私たちは祈りの時に、目を閉じ、手を合わせ、頭を垂れてお祈りします。それが祈りの姿勢として教えられているからです。しかし主イエスの祈りの姿勢は、目を開いて、目を天に向けて、声を出して祈られています。手を合わせたとも記されていません。ですからまったく私たちの祈りの姿勢と違います。聖書には祈りの姿勢についてほとんど記されていません。旧約聖書では人々がひれ伏して祈った姿や、主イエスや弟子たちがひざまずいて祈られたことが書かれています。祈りは心でするのですから、決まった姿勢はありません。心から神様に祈るなら、どんな格好であれ、どんな場所であれ、天の神様は聞いてくださる筈です。

主イエスの祈りの第一声は「父よ。」でした。それは子供が父親に話すときの飾らない呼びかけです。そして「時がきました。」と宣言されました。この言葉には主イエスの深い思いが込められています。「時」と訳されている言葉は「ホラ:w[ra」というギリシャ語で時刻、時間を表します。『とうとう時間がきました』、『ついにその時刻になりました』という思いが込められています。今まで宣教の働きを続けられてきた中で、主イエスは「時」ということを常に考えて行動されていました。「わたしの時はまだ来ていません」、「わたしの時はまだ満ちていません」と語られたお方が、「ついにその時になりました」とおっしゃっているのです。それは神様が創造されたこの世界の歴史の中で、「最も大いなる時」です。罪に汚れた世界から私たちを救い出すために、御子が十字架に架かり、贖いをなされる「時」がそこまで来ているのです。

世界の歴史がアダムからはじまり、アダムが罪に陥って以来、この世界は神様が望まれた世界とは違った方向に進んできました。この世界は罪が支配する世界となってしまったのです。その罪に満ちた世界の中に住み、罪に陥っている私たちを神様は憐れまれました。そして罪の世界から私たちを救い出そうとされて贖いの御計画を立てられたのです。ついに、その時が来たのです。人間が受けるべき罪の刑罰を罪の無いキリストが背負って死なれることにより、罪の赦しが与えられる時です。それは主イエスが父なる神のみもとへ帰還する時であり、人の子として栄光をお受けになる時です。ヨハネ福音書では繰り返し主イエスの時がまだ到来していないことが告げられてきました。今まさに主イエスの受難と栄光の時が到来したのです。主イエスは栄光を現して下さるよう父なる神に祈り求めます。主イエスの栄光と十字架は不可分なのです。主イエスの十字架の死を通して永遠の命が私たちにもたらされるのです。この永遠の命を与えられることにおいては父と子の栄光は完全に一致しているのです。父なる神は、御子が永遠の命を与えるための人々を御子に与え、そのすべてのものを支配する権威を与えられたのが、次の2節と3節で、「あなたは子にすべての人を支配する権能をお与えになりました。そのために、子はあなたからゆだねられた人すべてに、永遠の命を与えることができるのです。永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。」とあります。

主イエスはご自身のためには、ただ一つのことだけを父なる神に願っておられます。それは「栄光を与えてください」です。それは、もともと主エスが持っておられた栄光です。三位一体の神として栄光の中に住んでおられたお方が、天での栄光を捨てて父なる神の御心に従って人間イエスとしてこの世に下ってこられました。その目的は父なる神の栄光を現すためであり、私たちを罪のさばきから救い、永遠のいのちを与えるためでした。

イエス・キリストが天の栄光を捨てられるほど人間を愛しておられる、それは私たちの目には不思議なことです。これを理解するためには、皆さんが神様の立場になったときのことを考えてみてはどうでしょうか。

もし皆さんが神様で、全能者だったらどうするでしょうか。最高のおしゃれをし、最高の車に乗り、最高の家に住みます。何でも思いのままです。しかしだんだんとその虚しさに気付くのではないでしょうか。すべてのものを手に入れても、愛が無ければ虚しいものです。全能者であるなら、金も衣食住も、すべてのものを手に入れることができます。そこには感動や喜びは有るのでしょうか。全能者にとって何が喜びとなりえるのでしょうか。その答えは聖書にあります。新約聖書317ページ コリントの信徒への手紙第一13章13節には、「それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。」と記されています。

これは素晴らしい真理のことばです、最も大いなるものは愛だと教えているのです。

全能者には希望も信仰も必要ありません。すべて現実となるからです。残るのは愛だけです。そして事実、神様は聖書を通して、私たち人間を愛していると伝えておられます。新約聖書167ページヨハネによる福音書3章16節に、「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである」とはっきりと示されています。

全能者なる神様は私たちを愛しておられ、そして私たちが神様を愛することを願っておられるのです。

もし私が全能者であるなら、人間が崖から落ちそうになったときに手を差し伸べて助けあげるでしょう。人間が悩み苦しんでいるなら解決しようとするでしょう。しかし、決して自分が身代わりになって死の苦しみを味わおうとは思わないでしょう。自分が造ったもののために苦しむことなどありえないからです。しかし、主イエスはそれをしてくださったのです。ご自分の栄光を捨てて、人となられ、苦しまれ、実に十字架の死の苦しみまでも味わわれました。主イエスは私たちのため大いなる代償を支払ってくださったのです。主イエスの愛は私たちの想像をはるかに超えているのです。そして4節と5節には、「わたしは、行うようにとあなたが与えてくださった業を成し遂げて、地上であなたの栄光を現しました。父よ、今、御前でわたしに栄光を与えてください。世界が造られる前に、わたしがみもとで持っていたあの栄光を。」と祈られました。

地上での主イエスは数々の奇蹟をはじめ、なすべきわざをすべて行われました。語るべきことばをすべて弟子たちに語り終えられました。そして父なる神の御心を示し、ご自身の愛を示されました。この直後、捕えられ、十字架で殺されること、そして三日目によみがえられることもご存知で、その覚悟もできていました。主イエス御自身の御言葉から、十字架の受難はすでに終わったことのように話されています。主イエスの祈りは地上での役目を終えられて父なる神の身元に帰って、栄光の中に留まることでした。それが主イエスが、ご自身のために祈られた唯一のことでした。そして、この後からは、弟子たちのために、私たちのために祈られます。

6節にあるように主イエスは弟子たちを、父なる神によって主イエスに与えられた者と呼ばれます。また、このヨハネ福音書は信仰者をも父なる神によって主イエスに与えられた者たちと呼びます(6:37,39,10:29,17:2,6‐9,24,18:9)。この与えられた者たちに主イエスは父なる神を知らせ、御言葉を与えられました。彼らは主イエスの御言葉を受け入れ、主イエスが神のみもとから遣わされた方であることを信じました(17:8)。6節から10節で主イエスが祈られた「彼ら」とは、弟子たちだけではなく、9節の「わたしに与えてくださった人々」とあるように、キリストを信じる信仰者すべてであり、10節にあるようにその信仰者が主イエスを通して神に栄光を帰するのです。

成すべき御業を成し遂げ、語るべき御言葉をすべて語り終えたと主イエスは言われました。父なる神から受けた使命をすべて終えたという達成感のある言葉です。そして主イエスの働きを通して、弟子たちが主の御言葉を信じ、イエス・キリストが天から来られたことを理解し、そして永遠のいのちを持ち、神様の者となったことを感謝し祈られたのでした。

主イエスはご自分が十字架の贖いを成し終えて天に帰られることを知っておられました。従って、自分のすぐ後に続く福音宣教の働きを弟子たちに託され、そのために主イエスは弟子たちのために11節から13節で祈られました。これから使徒として彼らがどんな困難にも負けず、働いていくためでした。そして弟子たちの福音宣教を通して救われるクリスチャンたちのために同じ内容のことを祈られました。ですから、この主イエスの祈りは私たちのために祈られた祈りでもあるのです。

この主イエスの祈りと願いから、私たちが何を求めて祈ったらいいのか、そしてどのように信仰者として生きていったらよいのかを知ることができます。今、父なる神のみもとへ行かれようとしている主イエスが願われるのは、弟子たちをこの世から連れ出すことではありません。このすぐ後の15節にあるように、彼らがこの世にあって悪い者から守られることなのです。それは主イエスが弟子たちをやむを得ず世に残しておくのではなく、積極的に弟子たちを世に対して派遣しているからなのです。父なる神が御子イエスをこの世に派遣して御業を成し遂げさせたように、弟子たちをこの世に派遣するのが目的なのです。

世に遣わされる弟子たちのために、17節にあるように主イエスはまた彼らの聖別を祈られます。神が聖であるように彼らも聖であることが求められているのです。

クリスチャンたちが神の家族として仲睦まじく集う教会、互いに愛し合い、励まし合い、主にある豊かな恵みを分かち合う教会、そしてその中心にはイエス・キリストがおられ、心からの礼拝を共にささげる教会は、天国に最も近い場所だと言えるでしょう。

しかしながら、実際の教会には多くの問題があることも現実です。教会に集われる人々には、大人もいれば子供もおり、老人もいます。男性も女性もいて、育った環境や性格も趣味も違います。当然、習慣の違いや考え方の違いがあります。

信仰面では、聖書解釈が違ったり、伝道方針が違ったりもするでしょう。仲たがいがあり、躓いたりして、和やかに交わることができないときもあります。

自分の思い描く理想の教会との違いにつまずいてしまう人もいます。教会につまずくくらいなら教会に来ることをやめたいと思う人もいます。そのようなときには、主イエスが「御名によって彼らを守ってください」と祈られたことを思い出しましょう。

私たちは同じ信仰を持って生きています。同じ御霊をいただいています。同じ主イエスを信じています。主イエスを愛するように互いに愛し合おうとするなら多くの問題は必ず解決できる筈です。愛はすべての結びの帯であり、私たちが一つとなるために新しい戒めとして主イエスが与えられたのです。

その愛による執り成しの祈りを、主イエスは今も私たちのために祈ってくださっているのです。

お祈りを致しましょう。

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耐え忍ぶ者は救われる

《賛美歌》

讃美歌546番
讃美歌68番
讃美歌243番

《聖書箇所》

旧約聖書  詩篇 77編5-16節 (旧約聖書912ページ)

77:5 あなたはわたしのまぶたをつかんでおられます。心は騒ぎますが、わたしは語りません。
77:6 いにしえの日々をわたしは思います/とこしえに続く年月を。
77:7 夜、わたしの歌を心に思い続け/わたしの霊は悩んで問いかけます。
77:8 「主はとこしえに突き放し/再び喜び迎えてはくださらないのか。
77:9 主の慈しみは永遠に失われたのであろうか。約束は代々に断たれてしまったのであろうか。
77:10 神は憐れみを忘れ/怒って、同情を閉ざされたのであろうか。」〔セラ
77:11 わたしは言います。「いと高き神の右の御手は変わり/わたしは弱くされてしまった。」
77:12 わたしは主の御業を思い続け/いにしえに、あなたのなさった奇跡を思い続け
77:13 あなたの働きをひとつひとつ口ずさみながら/あなたの御業を思いめぐらします。
77:14 神よ、あなたの聖なる道を思えば/あなたのようにすぐれた神はあるでしょうか。
77:15 あなたは奇跡を行われる神/諸国の民の中に御力を示されました。
77:16 御腕をもって御自分の民を/ヤコブとヨセフの子らを贖われました。

新約聖書  マルコによる福音書 13章1-13節 (新約聖書88ページ)

◆神殿の崩壊を予告する

13:1 イエスが神殿の境内を出て行かれるとき、弟子の一人が言った。「先生、御覧ください。なんとすばらしい石、なんとすばらしい建物でしょう。」
13:2 イエスは言われた。「これらの大きな建物を見ているのか。一つの石もここで崩されずに他の石の上に残ることはない。」

◆終末の徴

13:3 イエスがオリーブ山で神殿の方を向いて座っておられると、ペトロ、ヤコブ、ヨハネ、アンデレが、ひそかに尋ねた。
13:4 「おっしゃってください。そのことはいつ起こるのですか。また、そのことがすべて実現するときには、どんな徴があるのですか。」
13:5 イエスは話し始められた。「人に惑わされないように気をつけなさい。
13:6 わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『わたしがそれだ』と言って、多くの人を惑わすだろう。
13:7 戦争の騒ぎや戦争のうわさを聞いても、慌ててはいけない。そういうことは起こるに決まっているが、まだ世の終わりではない。
13:8 民は民に、国は国に敵対して立ち上がり、方々に地震があり、飢饉が起こる。これらは産みの苦しみの始まりである。
13:9 あなたがたは自分のことに気をつけていなさい。あなたがたは地方法院に引き渡され、会堂で打ちたたかれる。また、わたしのために総督や王の前に立たされて、証しをすることになる。
13:10 しかし、まず、福音があらゆる民に宣べ伝えられねばならない。
13:11 引き渡され、連れて行かれるとき、何を言おうかと取り越し苦労をしてはならない。そのときには、教えられることを話せばよい。実は、話すのはあなたがたではなく、聖霊なのだ。
13:12 兄弟は兄弟を、父は子を死に追いやり、子は親に反抗して殺すだろう。
13:13 また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。」

《説教》『耐え忍ぶ者は救われる』

本日はマルコによる福音書第13章の御言葉が与えられました。私達の信仰生活は「最後まで耐え忍ぶ」歩みであると言うことが出来るでしょう。「最後」というのは、主なる神の救いの御支配が完成する時です。終わりの時、終末とも言われます。

聖書は、はっきりとこの世の最初、創造と、この世の終わり、終末を語ります。聖書の世界観は、すべてのことが繰り返されて行く輪廻転生的なものではなく、創造から終末に向かって一筋に進んで行く直線的なものなのです。

今日のマルコ福音書の13章は、この福音書において主イエスの教えをまとめて語っている最後の部分です。次の14章からは受難の物語に入っていきます。その直前のこの13章は「小黙示録」とも呼ばれます。「小さな黙示録」です。ということは「大きな黙示録」があるわけで、それが新約聖書の最後、「ヨハネの黙示録」です。そのヨハネの黙示録には、この世の終わりに起る様々な苦難に、主イエス・キリストが勝利し、そのご支配が完成し、主に従って生きた信仰者の救い、永遠の命が実現することが語られています。そのヨハネの黙示録と同じように、このマルコ13章にも、この世の終わりのことが語られているのです。しかもここでは主イエスご自身がそれを語っておられます。十字架につけられる直前に、主イエスは最後の教えとして、世の終わりのことをお語りになったのです。

今日は、この終末についてマルコ福音書から読み取っていきたいと思います。

13章始めには、この小黙示録がどのような経緯で語られたのかが示されています。1節に「イエスが神殿の境内を出て行かれるとき」とあります。主イエスは弟子たちと共にエルサレムに来られ、神殿に入り、その境内で人々に教えを語り、また律法学者たちと論争しておられました。そのことが11章以来語られてきたのです。そのような一日が終わり、夕方になって神殿の境内を出て行こうとした時に、弟子の一人が「先生、御覧ください。なんとすばらしい石、なんとすばらしい建物でしょう」と言ったのです。この弟子の言葉は正直な感想でした。当時のエルサレム神殿は、あのヘロデ大王が何十年もの歳月をかけて改築したまことに壮麗なものでした。現在、ユダヤ人が祈っている姿が時々報道されるいわゆる「嘆きの壁」というのは、このエルサレム神殿の僅かに残っている壁の一部です。当時の壁は現在のものよりもずっと高くそびえ立っていたのです。ガリラヤの田舎から出て来て初めてこの神殿を見た弟子たちが、その壮麗さに息を呑み、圧倒されたとしても不思議ではありません。けれども主イエスはこれに対して「これらの大きな建物を見ているのか。一つの石もここで崩されずに他の石の上に残ることはない」とおっしゃいました。この壮麗な神殿が徹底的に破壊される時が来るのだ、と主イエスはおっしゃったのです。実はこの神殿破壊は、主イエスが十字架に架かられて暫らく後の紀元70年に現実となりました。ローマ帝国によって、このエルサレム神殿は徹底的に破壊され、神殿の歴史は終ってしまうのです。そして神殿の中心部分があったと思われる場所には、今は「黄金の岩のドーム」と呼ばれるイスラム教のモスクが建っているのです。

主イエスは、数十年後に起るこの神殿の崩壊を予告なさったわけですが、私たちはこれを、主イエスには予知能力があったとか、時代の流れを見抜く敏感な感覚があった、というようなこととして捉えてしまってはなりません。そこにはもっと深い意味があります。その第一は、主イエスは、神殿の持っている問題性を見つめておられた、ということです。神殿とは、神様がそこでご自分の民と出会って下さり、そこへ行けば神様を礼拝することができる場所です。それはもともとは、イスラエルの民のただ中に主なる神様がいて下さる、神様が民と共に歩んで下さる、という恵みを覚えるための場所でした。ところがその意味が次第に逆転してしまって、神殿があるから、神は我々と共におられるのだ、神殿がある限り、我々には神の守りがあるのだ、と考えられるようになっていったのです。主イエスは先ず「これら大きな建物を見ているのか」と仰っているように、建物に目を向ける弟子の態度を問題にしているのです。目を見張るような神殿が建てられている事実をもって、ここに神がおられると考えていたことは、人間の宗教心が生み出す偶像礼拝であると言っても良いでしょう。そこには、神の居場所を人間が決めて、人間が好き勝手に神を所有するということが起こります。旧約聖書のエレミヤ書7章11節には「神殿を強盗の巣窟にしてる」といった厳しい表現で、神殿があるから大丈夫、というイスラエルの民の安易な思いへの警告が語られています。「我々には主の神殿がある、という虚しい言葉に依り頼んではならない。主に真実に従うことなしに、ただ神殿に依り頼んでもそれは虚しい。そのような神殿を主は滅ぼすだろう」と言われているのです。どのような立派な建物であっても、いや立派な建物であればある程、人間の思いが神に向かうのではなくてその建物に向かっていってしまう、神に信頼し、依り頼むのでなく、立派な建物を見つめてそれによって安心を得ようとする。主イエスはそういう思いを厳しく戒め、壮麗な神殿に頼ることの虚しさを教えておられるのです。これが、主イエスが語られた第一の意味です。

しかしさらにもっと深いことがこのみ言葉には込められています。主イエスは、神殿における礼拝そのものの終わりを見つめておられるのです。神殿は礼拝の場ですが、その礼拝は、動物の犠牲を献げることを中心としていました。動物の命を身代わりとして献げる礼拝によって、神に罪を赦していただき、神の民として歩み続けることができる、それが、イスラエルの民が神殿において行なってきた礼拝でした。しかし、神の独り子であられる主イエスが来られ、まもなくご自分の体を、私たちの罪の赦し、贖いのための完全な犠牲(いけにえ)として、十字架の上で献げて下さろうとしているのです。この主イエスの十字架の死によって、私たちの罪の赦し、贖いは完成し、動物の犠牲による贖いはその意味を失うのです。主イエスが来られたことによって、礼拝は、動物を献げることによってではなく、主イエスによる救いを宣べ伝えるみ言葉を聞き、主イエスとの交わりを与えられることによってこそ成り立つようになったのです。神殿崩壊の予告は、神殿における礼拝の終わり、神殿はもはや礼拝のためには不要となった、ということを語っておられるのです。私たち人間の偶像、神殿は、永遠のものではない、それ故、必ず崩れるものなのです。

3節以下で、弟子のペトロ、ヤコブ、ヨハネ、アンデレが、ひそかに主イエスに尋ねます。「おっしゃってください。そのことはいつ起こるのですか。また、そのことがすべて実現するときには、どんな徴があるのですか」。神殿の崩壊についての話題の後に、弟子たちは世の終わりのことについて尋ねました。弟子たちが語る「そのこと」と言うのは、「神殿の崩壊」のことであると共に、世の終わり、終末のことです。弟子たちは、神殿の崩壊と世の終わりを結びつけたのです。これだけ大きく荘厳な神殿、神が住みたもう家が崩壊するというのであれば、それこそ、その時は世の終わりであるにちがいないという思いをもったのです。大災害や世界大戦のようなものが起こることによって破滅が訪れて、世界は終わるというイメージをもつということは私たちにもあることです。弟子たちは、今、目の前にそびえ立つ、立派な神殿が崩壊するということを聞き、そのような世の終わりがいつ来るのかを知ろうとしたのです。

終末のしるし、終末の時を聞き出そうとした弟子たちに主イエスは話し始められます。「人に惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『わたしがそれだ』と言って、多くの人を惑わすだろう」。多くの偽預言者が登場するというのです。さらに続けて、主イエスは、私たちが世の終わりであると思いがちな事態をお語りになっています。「戦争の騒ぎや戦争のうわさを聞いても、慌ててはいけない。そういうことは起こるに決まっているが、まだ世の終わりではない。民は民に、国は国に敵対して立ち上がり、方々に地震があり、飢饉が起こる」。更に、12節では次のように言われています。「兄弟は兄弟を、父は子を死に追いやり、子は親に反抗して 殺すだろう」。ここで語られていることは、誰しも目を覆いたくなるような事態です。しかし、一方で、ここで語られていることは、私たちが今、現在、直面していることであると言ってよいのではないでしょうか。世界を見渡せば戦争や内戦があります。テロの恐怖も増しています。まさに、国、民の間に争いがあるのです。さらに、「地震」「飢饉」と言われている自然災害も、私たちに身近なことです。ここ最近、地球は災害に見舞われていると言って良いでしょう。日本においても、いくつかの大きな地震が起こりました。世界では、サイクロンや山火事、異常気象等、年々深刻になる環境破壊による災害が生じています。人間の、とどまることを知らない豊かさの追求が、際限なく石油を燃やし、畑にするための土地を求めて熱帯雨林を焼き払うことによって、膨大な二酸化炭素が放出されて、地球温暖化が進んでいるのです。人間の身勝手な行いは、地球に壊滅的なダメージを与えていて、この地球は、後どれだけ私たちが住むことが出来る場所として保たれるかということすら心配される状況ではないでしょうか。又、兄弟、親子の間の殺人事件も、たびたび報道されています。現代人の精神的荒廃を思わずにはいられません。ここで主イエスがお語りになっていることは、これから将来にわたって起こるであろうことと言うよりも、これまでの人間の歴史において、そして、今私たちが生きている現在において起こっていることなのです。主イエスが二千年前に預言されたことが今起こっていると考えることもできます。主イエスは、私たちがどのような時代を生きるかに関わらず直面する世の現実をお語りになっているのです。主イエスは、私たちが、世の終わりと思ってしまうような事態をお語りになった上で、「そういうことは起こるに決まっているが、まだ世の終わりではない」と仰るのです。

9節以下に、「あなたがたは自分のことに気をつけていなさい」とあります。様々な噂が流れ、預言者まがいの者が現れます。しかし、そこで、それらに惑わされるのではなく自分のことに気をつけろと言われるのです。何に気をつけるのでしょうか。それは、自分がしっかりと、主なる神の救いの希望に生かされているか、主なる神の恵みを見失うことなく歩んでいるかということです。

主イエスは、終わりの時がいつ来るのか、その時期を知りたいという弟子たちの願いに答えることを拒まれたのです。弟子たちは、そして私たちも、終わりの時がいつ来るのかを知って、それに応じて自分の計画を立てたいと考えます。

主イエスは11節でこのように約束して下さっています。「引き渡され、連れて行かれるとき、何を言おうかと取り越し苦労をしてはならない。そのときには、教えられることを話せばよい。実は、話すのはあなたがたではなく、聖霊なのだ」。聖霊はこのように働いて下さるのです。私たちは自分の力で、迫害に負けずに信仰を貫き、どんな時でも主イエスを証ししていくなどという力を持っていません。それを私たちにさせて下さるのは聖霊なのです。聖霊は、様々な苦しみの中にいる私たちに、その苦しみを経て世の終わりに実現する神様の救いを見つめさせて下さるのです。その聖霊の働きによって私たちは、苦しみの中で耐え忍んで信仰を守ることができ、そして主イエスを証ししていく言葉を与えられるのです。

キリスト教信仰のゆえに迫害を受けたこと自体が人類の長い歴史上で信仰の証しの機会となっているのです。その厳しい迫害の中でも、主イエス・キリストを証ししていくことによって、10節の、「しかし、まず、福音があらゆる民に宣べ伝えられねばならない」という神の御心が実現していくのです。

祈りつつ、御言葉に立って歩みを続けることこそ、私たちの信仰生活なのです。

世の終わりは既に来ているのです。その現実の中で、私たちは、ただひたすら祈りつつ、御言葉に立つのです。主イエスがお語りになり、十字架と復活によって示して下さった救いの約束の御言葉に立つのです。聖霊の働きに身を委ねつつ、真の平和を作り出す歩みをしていくのです。それは私たちにとって、忍耐を強いるものです。神様の言葉より人の言葉に聞くことが多く、真の御言葉に聞くよりも、様々なものを偶像とし、それを拝むことによって安心しようとするのが私たち人間だからです。

そのような私たちに主イエス・キリストが、「しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる」 と語って下さっているのです。この御言葉に促されて、私たちは、神様がなして下さる救いを見失わずに、この世で、真の救いの御支配を待つ希望に満ちた日々を歩み続ける者となるのです。

お祈りを致します。

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幸いなる人になりなさい

《賛美歌》

讃美歌224番
讃美歌67番
讃美歌502番

《聖書箇所》

新約聖書 : テモテへの手紙二 2章19節

2:19 しかし、神が据えられた堅固な基礎は揺るぎません。そこには、「主は御自分の者たちを知っておられる」と、また「主の名を呼ぶ者は皆、不義から身を引くべきである」と刻まれています。

旧約聖書 : 詩篇 1編1-6節

1:1 いかに幸いなことか/神に逆らう者の計らいに従って歩まず/罪ある者の道にとどまらず/傲慢な者と共に座らず
1:2 主の教えを愛し/その教えを昼も夜も口ずさむ人。
1:3 その人は流れのほとりに植えられた木。ときが巡り来れば実を結び/葉もしおれることがない。その人のすることはすべて、繁栄をもたらす。
1:4 神に逆らう者はそうではない。彼は風に吹き飛ばされるもみ殻。
1:5 神に逆らう者は裁きに堪えず/罪ある者は神に従う人の集いに堪えない。
1:6 神に従う人の道を主は知っていてくださる。神に逆らう者の道は滅びに至る。

《説教》『幸いなる人になりなさい』

詩編はイスラエルの長い歴史を背景にしています。その多くは神殿の礼拝で歌われたものと考えられ、また或るものは、エルサレムへ巡礼する人々の愛唱歌でもありました。そのため、一つ一つの詩の作者ははっきりとは分かりませんし、また、その詩の背景を確定出来ないものが殆どです。時代の流れの中で、人々が苦しみ、嘆き、神様を叫び求め、また神様の栄光を讃美する数々の詩は、信仰者の魂の結晶として貴ばれて来ました。

教会は、初代教会以来、イスラエルの伝統を受け入れ、詩編を礼拝の中で用いて来ました。私たちもまた、礼拝において朗読し、交読している詩編の意味をよく考え、神様を正しく礼拝・讃美する信仰を養うことが大切でしょう。

長い時の流れの中で作り上げられた詩篇は、初め幾つかの独立した詩集として存在していたようです。後に、現在のように5巻に分けてまとめられたことは、各巻の終わりが「頌栄」となっていることからも明らかです。

第1巻は、第1編から第41編、

第2巻は、第42編から第72編まで、

第3巻は、第73編から第89編です。

第4巻は、第90編から第106編まで、

第5巻は、第107編から第150編までです。

そして最後の第150編は、詩篇全体の頌栄ともなっています。

因みに、神の呼称、神の名は、第1巻ではヤーウェですが、第2巻と第3巻ではエロヒームが用いられ、第4巻と第5巻では再びヤーウェが神の名として用いられています。

このように、詩編の成り立ちや構造を見てみると、今日の第1編が特別な意味を持っていることが分かります。第1編は第2編と共に表題がありません。更に、最後の第150編が全体の頌栄となっているとするならば、第1編はそれに対応するものと考えるのが自然でしょう。即ち、この詩篇の初めの部分は、詩篇が現在の形に編集された時、全体の序曲として特に選ばれ、加えられたものと思われるのです。

詩篇1編1節は、「いかに幸いなことか」で始まっています。詩編全体の初めが「幸いなことか」という呼びかけで始まっているということは、神様の御前に立つ者が先ず告げられる御言葉が何であり、自ら口にすべき言葉が何であるかを教えるものと言えます。これは、神様よりの祝福を受け、希望を与えられた自分自身の姿の確認であり、信仰に生きる者としての自分を神様の眼差しの下にある者として見ることなのです。

そしてこの祝福は、マタイによる福音書に記されている有名な「山上の説教」の冒頭に記された主イエスの「祝福の言葉」に対応していることも明らかです。主イエスも、集まった人々に対し、「幸いなる人よ」と呼びかけられました。この意味で詩篇は、主イエスの更に遠い昔に、既に、主イエスの福音を先取りしているとも言えます。

詩編の作者は何を「幸い」と言っているのでしょうか。「幸い」と訳されている言葉は、原語では「真っ直ぐに歩く」「導かれる」という意味であり、それから「幸い」という意味が出て来ました。「幸い」とは、人生の道を真っ直ぐに歩くことであるというのがユダヤ人の考え方なのです。

このように真っ直ぐな人生の道を歩く者と対称的なのが、1節に挙げられている三種類の人間です。それは、「神に逆らう者の計らいに従ってあゆむ者」であり、「罪ある者の道にとどまる者」であり、そして「傲慢な者と共に座る者」とあります。

この三種類の人間は「遠ざかるべき道」と呼べる道を行くのです。これらの人間の先ず第一の者とは、「神に逆らう者」の計らいに従う人間です。「神に逆らう者」とは、ことさらに反逆とは言えなくても、神様を認めない、神様に従わない、神様の御心の外に生きる者をも含めています。従って、彼らは神様の平安に包まれません。その結果、この者は不安の中にあり、不安に基づく自己中心的な想いに囚われて生きることになるのです。神様に背を向ける人生に平安はありません。これが共に歩いてはいけないと言われている第一の人間です。

「遠ざかるべき道」を行く第二の者とは、罪ある者の道にとどまる人間です。「罪」とは元来「的を外す」という意味でした。間違ったものを求める者のことです。的外れの人生。それは神様を知らない、知ろうとしない人間の生きる道です。

「遠ざかるべき道」を行く第三の者とは、傲慢な者と共に座る人間です。傲慢な者とは、自分をあらゆることの中心にし、自分の生き方や考え方に何処までも拘(こだわ)る者、自己中心的に生きる者です。これが的外れの人生を生きる者の典型であるとも言えるでしょう。そして私たちの周囲に最も多いのがこの第三の人間かもしれません。

これらの三種類の人間は、人間の悪の代表的な三つの側面を現わしていると言えるでしょう。そして更に問題なのは、これら三種類の人間が、特に悪しき姿とは思えないことであり、いくらでも私たちの周囲に幾らでも居るということなのです。

神様から離れて生きる者は誰も不安から逃れられません。それどころか、誰もが不安を道連れにして生きていると言えるでしょう。そしてこの不安から逃れるために、様々な策を繰り出すのです。

或る者は豊かさに溺れ享楽的に生き、或る者は仕事へ熱中して、その忙しさの中で不安を忘れようとします。また或る者は趣味で気を紛らわし、また或る者はアルコールの力を借り、なかには法律を犯してまで麻薬などの薬物を求めます。人間が行うすべての行為は、所詮、不安からの逃避でしかないと言えましょう。

当然それらの行為は、不安から解放される道ではなく、その場限りの気紛れでしかないことは、誰でも知っていることです。それは、間違った行為なのです。安らぎのないところへ安らぎを求めているのです。神様に背を向け、自分の思いで不安から免れようとする行いは、神様の御心を考えず、神様の愛を虚しくすることであり、神様なしでも生きて行けると錯覚しているに過ぎないのです。

そこに「真っ直ぐな道はない」と詩篇の作者は語ります。神様の導きを考えず、それを求めず、また、御心を想わず、神様なしで人生を全う出来ると考えるところに「幸い」はないのです。信仰とは、これらの誤りから脱け出ることであり、神様の導きを、「必要欠くべからざるもの」と信じることなのです。

この様に、1節では、「幸いなる人」がしないことが纏められています。続いて、2節では「幸いなる人」のすることが、「主の教えを愛し その教えを昼も夜も口ずさむ人。」と語られています。これが「幸いな人」の姿であり、主の道を真っ直ぐに歩む人のことです。ここにある「主の教え」とは、ユダヤの人々にとって「律法」のことです。元々「教え:トーラー」というヘブライ語が、後にユダヤの「律法」を現わす言葉として使われるようになったのでした。しかし「律法」は、規則・戒律として守るだけのものではなく、「それを愛し、昼も夜も口ずさむ」のですから、詩篇の作者の心は、「律法」それ自身にではなく、「律法」を与え給うた神様の御心である「教え」へ向けられていることは明らかです。

主なる神は、何を目指し、何を実現するために「律法」を与えられたのでしょうか。それは私たちが「真っ直ぐな道」を行くための「道標」であり、的はずれの迷子にならないための「案内地図」であったと言えましょう。

知らない道を歩くためには「案内地図」は不可欠です。登山には計画の時だけでなく登山中にも常に地図が必要です。登山中は、いつも自分が地図上の何処を歩いているのか把握してないといけません。登山が好きな私も、山の中で歩いている道に不安を感じた時、地図に記された「道筋の特徴」で自分の立ち位置を地図上に発見してホッとした経験は何度もあります。この道は正しい道なのかという疑問は、地図を見ることによってしか解消されません。登山者の平安が「正確な地図」にかかっているということは、自明のことであり、人生の道に対しても「人生の地図」といったものが必要なのです。

主なる神は、私たちの救いを願っておられます。私たちが永遠の生命へ到達することを最大の目標にされています。示された「正しい道筋」とは「神の国への道」です。そして、その「神の国への道」のために、それだけではなく、道を誤った者を引き戻して「神の国への道」へ導くために、御子イエスさえ惜しまず十字架につけられたのです。その御心に包まれて「真っ直ぐな道を行くこと」が人間の幸いな姿なのです。

3節には、「その人は流れのほとりに植えられた木。ときが巡り来れば実を結び葉もしおれることがない。その人のすることはすべて、繁栄をもたらす。」とあります。

イエス様のお生まれになったパレスティナにはわが国のような小さな川はまったくと言ってよいほどありません。自然の川は、雨期の時だけ水が流れるワジと呼ばれるもので、雨期が終われば水は干上がり、ただの窪地の溝になってしまいます。そこで、人々は、畑で作物を作るために、数少ないオアシスの泉から水を引く水路を作らねばなりませんでした。そして、水の蒸発を防ぐためと、砂地に水が染み込んでしまわないためにその水路の両側に木を植えました。それでも、夏になりムシーンと呼ばれる厳しい砂漠の熱風が吹くと、木や草はたちまちに枯れてしまいます。パレスティナの夏は一面茶色の岩と砂漠の世界となります。現代ではスプリンクラーや点滴灌漑されている所だけ植物を見ることが出来ますが、古代ではそれが泉からの水路だけでした。一面茶色の熱砂の世界に、水路の両側に植えられたわずかな木だけが緑を保ち続け、実を結ぶことが出来たのです。

詩篇の作者は、それを「たとえ」として用い、神様に養われて生きる幸いを読者に告げました。つまり、人間が示す活力とその結果としての豊かな実りはすべて、天地の主なる神様によって備えられ、造り上げられたものであって、決して自然の中で、おのずからもたらされるものではないのです。

緑の葉はみずみずしく活力に溢れた信仰者の姿を表し、その結果としての与えられた幸福を「誰がそれを与えてくれたのか、それを考えよ」と詩篇の作者は語っているのです。

「流れのほとりの木」が、人工の水路や植樹という仕事に支えられていたように、人間の幸福は、すべて神様が用意して下さり、神様の御計画と御業によるものであることを、人生に正しく位置付けなければなりません。そしてその実りも、「時が巡り来る」と表現されているように、神様の定め、神様の秩序の下での出来事なのです。

4節と5節には、「神に逆らう者はそうではない。彼は風に吹き飛ばされるもみ殼。神に逆らう者は裁きに堪えず罪ある者は神に従う人の集いに堪えない。」とあります。

脱穀した麦をもみ殼と麦粒に分けるのは風の吹く所で行い、風によってもみ殼を吹き飛ばすことは、今日でも行われています。旧約の預言者たちは、それを「神の審きのたとえ」として常に用いて来ました。詩篇の作者も、その「たとえ」によって、神の審きが必ず訪れることを語るのです。

神の審きは、それもまた「神の秩序」の一つです。「時」が来れば実を結ぶ木もあれば、「時」と共に滅ぼされるものもあります。その捨て去られるもみ殼の運命を、みずから選び取る者がいるのです。間違った目標を見ている罪人を、吹き飛ばされるもみ殼にたとえているのです。不安から始まったその道は、価値なきものとして捨てられるもみ殼のように、滅びへ向かうのを必然としているのです。

最後の6節には、「神に従う人の道を主は知っていてくださる。神に逆らう者の道は滅びに至る。」とあります。

ここの「知る」とは、知識や認識という意味ではなく、人の人格的な愛と真実の交わりを表す言葉です。最も深い人格的な関わりを表す言葉と言っても良いでしょう。主なる神は、そのような真実と愛をもって私たちを常に顧み、交わりを保ち続けて下さる、ということなのです。

かつて、エジプトを脱出してシナイの砂漠に逃れた人々が、昼は雲の柱、夜は火の柱で守られたように、主は、御言葉に従う者の人生を守り導かれるのです。エジプトの軍隊に追われた人々を敢えて海の中に道を造ってまで救われたように、私たちをあらゆる危機から救うために、主は、新しい道を創造して下さるのです。

それを歩むのがキリスト者の人生であると言えるでしょう。なぜなら、主イエスは、山上の説教をこの詩編と同じ「幸いなる人よ」という祝福で始めているからです。「幸いなる人よ」という語りかけは、遠い旧約の時代から主イエス・キリストに至るまで、そして私たちの今の時代まで変わることなく続く神様の御心であり、主イエス・キリストにおいて、この詩編の祈りが成就したと言えるのです。

それは、新約聖書277ページ、ローマの信徒への手紙3章21節から24節に、「ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません。 人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。」とあります。

ここに、「ところが今や」と強調されていますが、今や私たちには、その主イエスの十字架の救いの力が、信じる信仰によって与えられているのです。

主イエスは、シカルの町近くのヤコブの井戸で出会ったサマリアの女に、「わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の生命に至る水がわき出る」(ヨハ4:14)と言われました。まさしく、今日の詩篇の水の流れは主イエスによって造られ、私たちは、その枯れることのない「流れのほとりに植えられた木」なのです。もはや砂漠の熱風に生命を奪われることなく、枯れた荒野の中でも緑の葉を茂らせ、豊かな実りを結ぶもの、それこそ、生命の水に守られたキリスト者の姿なのです。私たちを守り、養われる主なる神の恵みの「水の流れ」が、如何に力強くまた確かなものかということを、私たちははっきりと証しすることが出来ます。

主に守られ、導かれる者の幸いを感謝し、希望を持って歩んで行きましょう。

お祈りをいたします。

 

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生きた水を与える主

《賛美歌》

讃美歌298番
讃美歌404番
讃美歌461番

《聖書箇所》

旧約聖書  詩篇 1篇1-6節 (旧約聖書835ページ)

1:1 いかに幸いなことか
神に逆らう者の計らいに従って歩まず
罪ある者の道にとどまらず
傲慢な者と共に座らず
1:2 主の教えを愛し
その教えを昼も夜も口ずさむ人。
1:3 その人は流れのほとりに植えられた木。ときが巡り来れば実を結び
葉もしおれることがない。その人のすることはすべて、繁栄をもたらす。
1:4 神に逆らう者はそうではない。彼は風に吹き飛ばされるもみ殻。
1:5 神に逆らう者は裁きに堪えず
罪ある者は神に従う人の集いに堪えない。
1:6 神に従う人の道を主は知っていてくださる。神に逆らう者の道は滅びに至る。

新約聖書  ヨハネによる福音書 4章1-15節 (新約聖書168ページ)

◆イエスとサマリアの女
4:1 さて、イエスがヨハネよりも多くの弟子をつくり、洗礼を授けておられるということが、ファリサイ派の人々の耳に入った。イエスはそれを知ると、
4:2 ―洗礼を授けていたのは、イエス御自身ではなく、弟子たちである―
4:3 ユダヤを去り、再びガリラヤへ行かれた。
4:4 しかし、サマリアを通らねばならなかった。
4:5 それで、ヤコブがその子ヨセフに与えた土地の近くにある、シカルというサマリアの町に来られた。
4:6 そこにはヤコブの井戸があった。イエスは旅に疲れて、そのまま井戸のそばに座っておられた。正午ごろのことである。
4:7 サマリアの女が水をくみに来た。イエスは、「水を飲ませてください」と言われた。
4:8 弟子たちは食べ物を買うために町に行っていた。
4:9 すると、サマリアの女は、「ユダヤ人のあなたがサマリアの女のわたしに、どうして水を飲ませてほしいと頼むのですか」と言った。ユダヤ人はサマリア人とは交際しないからである。
4:10 イエスは答えて言われた。「もしあなたが、神の賜物を知っており、また、『水を飲ませてください』と言ったのがだれであるか知っていたならば、あなたの方からその人に頼み、その人はあなたに生きた水を与えたことであろう。」
4:11 女は言った。「主よ、あなたはくむ物をお持ちでないし、井戸は深いのです。どこからその生きた水を手にお入れになるのですか。
4:12 あなたは、わたしたちの父ヤコブよりも偉いのですか。ヤコブがこの井戸をわたしたちに与え、彼自身も、その子供や家畜も、この井戸から水を飲んだのです。」
4:13 イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでもまた渇く。
4:14 しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」
4:15 女は言った。「主よ、渇くことがないように、また、ここにくみに来なくてもいいように、その水をください。」

《説教原稿》

本日はヨハネによる福音書4章の1節から15節をご一緒に読むのですが、この場面は、5節と6節にあるように、シカルというサマリアの町の近くにあるヤコブの井戸での出来事です。

主イエスはこの時、旅をしておられました。3節と4節に、「ユダヤを去り、再びガリラヤへ行かれた。しかし、サマリアを通らねばならなかった」とあります。聖書の後ろにある付録の中に地図があります。旧約新約が合わさっている聖書ですと地図の6に「新約時代のパレスチナ」というのがありますのでご覧いただきたいのですが、ユダヤは、この地図の下の方、死海の西側あたり、エルサレムを中心とする地域です。ガリラヤは上の方、つまり北の方の、ガリラヤ湖のあたりです。ユダヤからガリラヤへ北上していく時に通らなければならないのが、その間にあるサマリアで、この地図の真ん中あたりです。そこに「ゲリジム山」という山が書かれています。その北に「シカル」があります。ユダヤからガリラヤへの旅の丁度半ばに、主イエスはこのシカルというサマリアの町に来られたのです。このシカルの町の近くに、「ヤコブの井戸」と呼ばれる泉があったのです。主イエスは旅に疲れて、その井戸のそばに座っておられた、とあります。そこに、サマリアの女が水を汲みに来ました。旅に疲れ、喉が渇いていた主イエスは彼女に、「水を飲ませてください」と頼んだのです。

井戸というと私たちは、狭い縦穴を思い浮かべます。この「ヤコブの井戸」は、町中の辻にある井戸ではなくて、町の外にある泉であり、「泉」と「井戸」は同じ言葉なのです。

人々は毎日町を出てそこに水を汲みに来たのです。生活のための水はこの泉に来て、水がめに汲んで家まで持ち帰らなければなりませんでした。この泉がシカルの町中からどれくらい離れていたのかは分かりませんが、8節に「弟子たちは食べ物を買うために町に行っていた」とありますし、28節には、「女は、水がめをそこに置いたまま町に行き」ともあります。シカルの町とこの泉との間には一定の距離があったことが分かります。このヤコブの泉のほとりで、そこに水を汲みに来た一人の女性と主イエスとが出会い、そこで語られたのがこの13節と14節のみ言葉だったのです。主イエスが「水を飲ませてください」と願ったことから、主イエスと彼女との間に会話が始まり、二人の出会いが起りました。それは決して、たまたま偶然に起ったことではありません。主イエスは既に彼女のことを知っておられ、彼女を救いへと招くために、主イエスの方から声をかけ、出会って下さったのです。

13節で主イエスは、「この水を飲む者はだれでもまた渇く」とおっしゃいました。人は生きるために水を飲まなければなりません。しかし水はとても重いものですから、一度にそうたくさん汲んで来ることはできません。だからじきになくなり、また泉へ汲みに行かなければならないのです。水道やペットボトルのある生活に慣れている私たちには想像もできないような苦労が、昔の人々の生活にはあったのです。飲んでも暫らくするとまた喉が渇くということのない、一度飲めばもう決して渇かない水を与える、と主イエスはおっしゃったのです。しかもこの水は、一度飲めばその効果が持続するだけではありません。主イエスが与えて下さる水は、その人の内で泉となるのです。つまり新鮮な水が滾々と湧き出る泉が自分の内に出来るのです。その水によっていつも新たに潤され、渇きを癒されるのです。汲めども尽きぬ水が自分自身の中にいつも湧き出るようになるから、もう渇くことがなくなるのです。主イエスのこのお言葉を聞いてこのサマリアの女性は「主よ、渇くことがないように、また、ここにくみに来なくてももいいように、その水をください」と願いました。そういう泉が自分の中にあれば、もう遠くの泉へ水を汲みに行く必要がなくなる、と思ったのです。

この女性が自分から主イエスに水を求めるようになったのは、いくつかの驚きが積み重なったことによってでした。その驚きは主イエスが彼女にもたらしたものです。主イエスの方から「水を飲ませてください」と声をかけられたことは、彼女にとって大きな驚きでした。9節で彼女は、「ユダヤ人のあなたがサマリアの女のわたしに、どうして水を飲ませてほしいと頼むのですか」と言っています。彼女はここで二つのことに驚いたのです。一つは、当時、ラビと呼ばれている律法の教師は、公の場で女性に声をかけることはしませんでした。彼女は、主イエスと弟子たちの一行を、律法の教師が弟子と共に旅をしているのだと思ったのです。律法の教師は、自分が汚れを受けてしまうリスクのあることは一切しません。弟子たちだけが町へ買い物に行っているというのもそういうことだと彼女は思ったのです。そういう律法の教師が、女である自分に親しく声をかけ、水を飲ませてくださいなどと頼むなんて、当時は考えられないことでした。彼女は先ずそのことに驚いたのです。

そして第二の、大きな驚きは、主イエスはユダヤ人であり、自分はサマリア人だということです。9節の後半に「ユダヤ人はサマリア人とは交際しないからである」とあるように、ユダヤ人とサマリア人は当時、お互いに敵意を抱いており、口もきかないような関係でした。それには歴史的ないきさつがありますが、ここではそれには触れません。とにかくユダヤ人がサマリア人にものを頼むなどというのはあり得ないことだったのです。このように主イエスの方から「水を飲ませてください」と声をかけられたことに彼女は極めて驚いたのです。その驚きは彼女の中に主イエスについて一つの思いを芽生えさせたと言えるでしょう。それは、この人は自分が知っている律法の教師たちとは全く違う、という思いです。この人は、男と女を分け隔てする、今日の言葉で言えば差別の思いに捕われていない。またこの人は、ユダヤ人とサマリア人の間の、決して乗り越えることができないと思われる分厚い壁、お互いを隔てて住む世界を違うものとしている障壁をも、事もなげに乗り越えている。こんな人には今まで出会ったことがない。そういう思いを彼女は抱いたのです。彼女は、その主イエスの姿に新鮮な驚きを感じたのです。

そして、その驚きに、主イエスは10節の、「もしあなたが、神の賜物を知っており、また、『水を飲ませてください』と言ったのがだれであるか知っていたならば、あなたの方から“その人”に頼み、その人はあなたに生きた水を与えたことであろう」と答えられました。彼女には主イエスのこの言葉の意味はさっぱり分からなかったでしょう。しかし、「水を飲ませてください」と言った“その人”というのは目の前にいるこの人であり、この人が、私はあなたに生きた水を与える、と言っていることだけは分かったのです。それはいったいどういうことだろうか、水を飲ませてくださいと願っているこの人が私に水を与えるだなんて、そんなことがどうしてあり得るだろうか、と彼女はますます驚き、混乱しました。そしてこう言ったのです。11と12節です。「主よ、あなたはくむ物をお持ちでないし、井戸は深いのです。どこからその生きた水を手にお入れになるのですか。あなたは、わたしたちの父ヤコブよりも偉いのですか。ヤコブがこの井戸をわたしたちに与え、彼自身も、その子供や家畜も、この井戸から水を飲んだのです」。彼女は、主イエスが与えると言っておられる「生きた水」を、泉から湧き出る普通の水として捉えています。だから、あなたは汲む物も持っていないのにどうして私に水を与えることなどできるのですか、と言ったのです。しかしここで彼女は、主イエスの言葉に、泉から汲まれた普通の水を与えることとは違う何かを感じ取ってもいます。「あなたは、わたしたちの父ヤコブよりも偉いのですか」以下の言葉がそれを表しています。サマリア人にとっても、ヤコブはユダヤ人たちと共通の先祖です。その先祖ヤコブが、息子ヨセフを通して、自分たちの先祖であるマナセとエフライムにこの地を与え、ここで生きるようにしてくれたのです。ヤコブがこの井戸を与えてくれたというのは、自分たちが生きていく場としてこの地を与えてくれたことを意味しているのです。そのことを持ち出している彼女の言葉には、あなたも先祖ヤコブと同じように、水を与えるだけでなく、私たちが生きていく場を、言い換えれば私たちに命を与えて下さる方なのですか、という問いが込められています。彼女は、「私がだれであるかをあなたが知っていたなら、あなたの方から私に生きた水を求め、私はそれを与えるだろう」と言われる主イエスの言葉に驚かされながらも、そこに自分たちを本当に生かしてくれる神の力と権威を、おぼろげながら感じ始めているのです。

主イエスはご自分から彼女に語りかけ、出会っていかれました。それが、主イエスに対する驚きをもたらし、主イエスが与える生きた水を求める思いを少しずつ育てていったのです。その上で、あの13節と14節のみ言葉をお語りになったのです。「この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」。それを聞いた彼女は、「主よ、渇くことがないように、また、ここにくみに来なくてももいいように、その水をください」と願いました。このようにして、水を飲ませてくださいと主イエスから求められた彼女が、自分から主イエスに水を求める者へと変えられたのです。

しかし、彼女が求めているのはなお、泉から汲む普通の水です。決して渇かなくなる水があれば、繰り返しこの泉に汲みに来なくてもよくなるから、と言っています。けれどもその彼女の心の中には同時に、よく分かってはいないながらも、普通の水を超えた、自分を本当に生かす「生きた水」「永遠の命に至る水」を求める思いが芽生えてきていると言えるでしょう。「水を飲ませてください」と自分に頼んできたこの方は、実は私たちを本当に生かす水を与えて下さる方なのかもしれない、と彼女は思い始めているのです。「主よ」という呼び掛けがそのことを示しています。主であられる方に、渇くことのない命の水を求める思いを、主イエスご自身が彼女の中に起し、与えて下さったのです。

主イエスは私たちと出会って下さり、語りかけて下さることによって、私たちの中にも、主イエスが与えて下さる生きた水、永遠の命に至る水を求める思いを起し、与えて下さいます。その水は、私たちの渇きを一時癒すだけの、その場しのぎの水ではありません。それは私たちの内で泉となり、永遠の命に至る水が湧き出るような水、主イエス・キリストは私たちの内に、新鮮な水が滾々と湧き出る泉を与えて下さるのです。この泉は、主イエス・キリストご自身です。主イエス・キリストご自身が私たちの内に来て下さり、宿って下さることによって、泉となって下さるのです。それは私たちが主イエスを信じて、主イエスと共に生きる者となること、洗礼を受けてキリストの体である教会の一員とされることによって与えられる恵みです。主イエス・キリストと結び合わされることによって、主イエスが私たちの内で泉となり、生きた水によって私たちの渇きを癒し、潤していって下さるのです。

主イエスは私たちの救いのために、私たちの罪を全て背負って十字架にかかって死んで下さった方です。そして私たちの先駆けとして復活して、永遠の命を生きておられる方です。十字架にかかって死んで、復活して下さった主イエスが与えて下さる水ですから、それは「永遠の命に至る水」、肉体の死を超えて、私たちを、主イエスの復活と永遠の命にあずからせてくれる水です。「その水を私にください」と求めさえすれば、主イエスという涸れることのない泉が私たちの内に宿って下さり、私たちを決して渇くことのない生きた水によって潤して下さり、流れのほとりに植えられた木のように豊かに実を結ばせて下さるのです。

お祈りを致します。

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あの方は栄える

《賛美歌》

讃美歌54番
讃美歌151番
讃美歌238番

《聖書箇所》

旧約聖書  詩篇 6篇7-11節 (旧約聖書838ページ)

6:7 わたしは嘆き疲れました。夜ごと涙は床に溢れ、寝床は漂うほどです。
6:8 苦悩にわたしの目は衰えて行き/わたしを苦しめる者のゆえに/老いてしまいました。
6:9 悪を行う者よ、皆わたしを離れよ。主はわたしの泣く声を聞き
6:10 主はわたしの嘆きを聞き/主はわたしの祈りを受け入れてくださる。
6:11 敵は皆、恥に落とされて恐れおののき/たちまち退いて、恥に落とされる。

新約聖書  ヨハネによる福音書 3章22-30節 (新約聖書168ページ)

3:22 その後、イエスは弟子たちとユダヤ地方に行って、そこに一緒に滞在し、洗礼を授けておられた。
3:23 他方、ヨハネは、サリムの近くのアイノンで洗礼を授けていた。そこは水が豊かであったからである。人々は来て、洗礼を受けていた。
3:24 ヨハネはまだ投獄されていなかったのである。
3:25 ところがヨハネの弟子たちと、あるユダヤ人との間で、清めのことで論争が起こった。
3:26 彼らはヨハネのもとに来て言った。「ラビ、ヨルダン川の向こう側であなたと一緒にいた人、あなたが証しされたあの人が、洗礼を授けています。みんながあの人の方へ行っています。」
3:27 ヨハネは答えて言った。「天から与えられなければ、人は何も受けることができない。
3:28 わたしは、『自分はメシアではない』と言い、『自分はあの方の前に遣わされた者だ』と言ったが、そのことについては、あなたたち自身が証ししてくれる。
3:29 花嫁を迎えるのは花婿だ。花婿の介添え人はそばに立って耳を傾け、花婿の声が聞こえると大いに喜ぶ。だから、わたしは喜びで満たされている。
3:30 あの方は栄え、わたしは衰えねばならない。」

《説  教》

今日のヨハネによる福音書と、他の三つの福音書、いわゆる共観福音書との間にはいろいろな点で違いがあります。本日の箇所の冒頭、22節に、主イエスが洗礼を授けておられたと記されています。しかし共観福音書には、主イエスが洗礼を授けたことは何処にも書かれていません。主イエスご自身が洗礼を授けたと語っているのは共観福音書ではないヨハネ福音書だけなのです。また、主イエスと洗礼者ヨハネが同じ時期に洗礼を授ける活動をしていたとも書かれています。この洗礼者ヨハネのことは既に1章に語られていました。彼は主イエスのことを証しするために神から遣わされた人であり、主イエスがこの世に現れることの備えとして洗礼を授けていました。そして主イエスこそ「世の罪を取り除く神の小羊だ」と記されていました。洗礼者ヨハネと主イエスが同じ時期に活動していたと語られていることも他の三つの福音書、共観福音書とは違っています。例えばマルコ福音書の1章14節では、「ヨハネが捕えられた後(のち)、主イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて…」とあります。共観福音書ではこのように、洗礼者ヨハネが領主ヘロデによって捕えられた後で、主イエスの活動が始まったと語られているので、洗礼者ヨハネと主イエスの活動は重なっていません。しかしヨハネ福音書がこのように洗礼者ヨハネの活動と主イエスの活動が重なっていたことを語り、しかも主イエスも洗礼者ヨハネと同じように洗礼を授けていたと語っていることには、一つの意図があります。本日の箇所は、その意図に基づいて書かれているのです。その意図とは、主イエスと洗礼者ヨハネとを比較して、両者の関係を明確にする、ということです。しかもその関係を、ヨハネ福音書の言葉によって示そうとしているのが本日の箇所なのです。

ここまで聞いて頂いて、お気付きの方もいらっしゃると思いますが、同じヨハネを名乗っても洗礼者ヨハネとヨハネ福音書を書いた福音書記者のヨハネは全くの別の人物ですので、以降は洗礼者ヨハネと洗礼者を付けると長くなるので、単にヨハネと呼ぶ時は洗礼者ヨハネで、ヨハネ福音書記者のヨハネは福音書記者ヨハネと呼びますので、お間違いない様お聞きください。

ヨハネ福音書が書かれたのは、主イエスの十字架と復活、そして教会の誕生から既に五十年以上が経っていた紀元1世紀の終り頃でした。当時のユダヤには、ヨハネの教えを受け継ぐ弟子たちがまだ多く残っていたのです。その人たちはユダヤ人の共同体の中に残ったまま、ヨハネが授けていた悔改めバプテスマ(洗礼)を受けて、神に従う生活を築こうとしていました。その人々の中から、主イエスを「世の罪を取り除く神の小羊」と信じて主イエスの弟子となる、つまりキリスト教会に加わる人々が現れて来たのでした。しかしユダヤ人たちの間には、イエスを救い主メシアと信じる者をユダヤ教会堂から追放する、という迫害が始まっていたのです。ヨハネの弟子たちはそういう状況の中で、ユダヤ人の共同体つまりユダヤ教に留まり続けるのか、主イエスを信じるキリスト教会に連なっていくのか、という決断を突きつけられていたのです。それが、紀元1世紀の終り頃のユダヤ人たちの置かれていた状況なのです。

ヨハネは27節で、「天から与えられなければ、人は何も受けることができない」と言っています。ヨハネのもとに人々が洗礼を受けにやって来たのも、今主イエスのもとにみんなが行っているのも、どちらも天から与えられたこと、神の御心なのだ、とヨハネは言っているのです。神の御心によって人々はヨハネのもとに来て洗礼を受けた、そして今、神の御心によってその人々は主イエスの方へと行っているのです。どうしてそういうことが起るのかが、ヨハネによって28節に語られています。「わたしは『自分はメシアではない』と言い、『自分はあの方の前に遣わされた者だ』と言ったが…」とあります。1章の19節以下に語られていたように、ヨハネは「わたしはメシアではない」つまり救い主ではない、とはっきり語りました。「ではあなたは何なのか」という問いに対して彼は1章23節で、「わたしは荒れ野で叫ぶ声である。『主の道をまっすぐにせよ』と」と答えました。メシア、救い主である主が自分の後に来られる。私はその主の道をまっすぐに整えるために先に遣わされた者だ、ということです。ヨハネの役割は、後から来られるメシアである主イエスのための道を備えることなのです。だからヨハネの働きによって、人々はメシアである主イエスを知り、主イエスのもとに行ってその救いにあずかっていくのです。神の御心によってヨハネのもとに来た人々が、主イエスこそ救い主であられるというヨハネの証しを聞いて主イエスのもとに行き、主イエスを信じて救いにあずかっていく、それが神の御心なのです。

28節の後半には「そのことについては、あなたたち自身が証ししてくれる」とあります。ヨハネの弟子たちが、師であるヨハネの証しを聞いて主イエスのもとへ行き、その救いにあずかることこそが、ヨハネが自分に与えられた使命をしっかりと果たしていることの証しとなるのです。だから、みんなが自分のところにではなく主イエスの方へ行っているという報告は、ヨハネにとってはむしろ当然のこと、喜ぶべきことなのです。

しかし、ここで主イエスが洗礼を授けていたと語られているのは、歴史的には事実ではありません。主イエスは地上のご生涯においては、神の国の福音を宣べ伝え、神のご支配の印としての奇跡を行い、そして十字架の死による救いを成し遂げられたのです。主イエスを信じて受けるキリスト教の洗礼は、復活なさった主イエスのご命令によって、教会の誕生と共に始まったことです。主イエスによる救いにあずかる群れが洗礼によって結集されていったのはヨハネ福音書が書かれた後代です。ですから、地上を歩まれた主イエスがヨハネと同じように洗礼を授けていたわけではないのです。

29節においてヨハネは、主イエスと自分との関係を花婿と花婿の介添え人という譬えで語っています。「花嫁を迎えるのは花婿だ」というのは、婚礼の主役は花婿だということです。その花婿とは主イエスです。自分は花婿の介添え人だとヨハネは言っています。介添え人は「そばに立って耳を傾け、花婿の声が聞こえると大いに喜ぶ」のです。当時の婚礼において、花婿には男性の、花嫁には女性の介添え人がついたようです。今の教会の結婚式でも、花嫁には介添え人がついて、いろいろとお世話をします。しかし花婿には介添え人はいません。特に必要がないからです。当時のユダヤの結婚式だって、おそらく花婿の介添え人には大してすることはなかったのでしょう。「そばに立って耳を傾け、花婿の声が聞こえると大いに喜ぶ」ぐらいしかすることはないのです。介添え人はあくまでも脇役です。花婿、主役である主イエスに対して、自分は介添え人、脇役なのだ、とヨハネは言っているのです。

30節の「あの方は栄え、わたしは衰えねばならない」という言葉もそういうことを意味しています。栄えるべきなのは主役、花婿である主イエスなのであって、介添え人である自分が栄えてはならない、介添え人が花婿より目立ってどうする、介添え人である自分は、むしろ衰えていく、見えなくなっていく、消え去っていくことで、花婿である主イエスの栄光がよりはっきりと表されていくのだ、「みんながあの人の方へ行っています」ということによってまさにそうなるべきである、とヨハネは言っているのです。

さて、ヨハネがこのように自分を花婿の介添え人つまり脇役と位置づけており、「その方は栄え、自分は衰えねばならない」と言っているのを読むと、何だか自分の人生には大した意味がないと言っているようでヨハネが可哀想だと感じてしまうかもしれません。しかしそうではないのです。「介添え人」と訳されている言葉は、直訳すると「友」です。ヨハネは花婿主イエスの友である、と福音書は語っているのです。このことには深い意味があります。15章14-15節には、主イエスのこういうお言葉があるのです。「わたしの命じることを行なうならば、あなたがたはわたしの友である。もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである」。主イエスが弟子たちを友と呼んで下さる、そこに大きな恵みがあることがここに示されています。主イエスの「友」となるとは、独り子なる神、主イエスが父なる神から聞いたことをすべて知らせて下さり、主イエスの命じること、父なる神の御心を行なうことができるようになる、ということです。僕と友の違いもここに示されています。僕はただ命じられたことをその通りにするのであって、主人が何を思い、何のためにこれを命じているのかなどは知る由もありません。しかし友は、主イエスのみ言葉を聞くことによって、父なる神が独り子主イエスによって実現しようとしておられる救いの御心を知らされるのです。そしてその御心を自発的に行なっていくのです。主イエスの友とはそのように、主イエスの言葉を聞いて父なる神の御心を知り、主イエスと共にそれを行なっていく者です。ヨハネもそういう意味で主イエスの友なのだ、ということを、「花婿の介添え人、友」という言葉に込めているのです。花婿の介添え人が「そばに立って耳を傾け、花婿の声が聞こえると大いに喜ぶ。だから、わたしは喜びで満たされている」と語られていることが大切な意味を持ってきます。この喜びは、主イエスの友とされた者の喜びです。ヨハネは、主イエスの語る言葉に耳を傾け、主イエスが父なる神から聞いたこと、父なる神が独り子主イエスによって実現しようとしておられる救いの御心をしっかり聞いたのです。それによって、主イエスこそ来るべき救い主であられることを確信し、喜びに満たされて、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」と証ししたのです。このヨハネの姿に、主イエスの友とされた者はどのように生きるのかが示されています。主イエスの友とは主イエスを証しする人です。弟子たちも主イエスの友とされ、証しする者として立てられていきました。1章の6-8節にこのように語られていました。「神から遣わされた一人の人がいた。その名はヨハネである。彼は証しをするために来た。光について証しをするため、また、すべての人が彼によって信じるようになるためである。彼は光ではなく、光について証しをするために来た」。このように、ヨハネを、主イエスの友とされて、主イエスの証しをするというとても大切な働きをした人として、信仰者たちの先駆けとして描いているのです。ですからここに語られているのは、ヨハネは介添え人、脇役に過ぎない、大して意味のない人だ、ということではありません。むしろヨハネは、主イエスの最初の友とされ、主イエスの言葉を聞いて父なる神の救いの御心を最初に知らされた人であり、その喜びを最初に味わった人であり、その喜びに押し出されて主イエスこそ救い主であることを最初に証しした人だったのです。

ですからこのヨハネこそ、主イエスを信じて生きる私たち信仰者の先頭に立っている人です。私たちも、主イエス・キリストのもとに来るならば、このヨハネのようになることができるのです。主イエス・キリストのもとに来ることによって私たちは、自分が神に背いている罪人であり、本来は裁かれ滅ぼされるしかない者であることを示されます。しかしそのような罪人である私たちを、神が愛して下さって、独り子主イエス・キリストを与えて下さり、その十字架と復活によって罪を赦し、私たちが滅びることなく永遠の命を得るようにして下さったことをも示されます。その神の独り子であり救い主であられる主イエスが、私たちを友として下さり、父なる神の愛の御心を御言葉によって知らせて下さるのです。私たちも主イエスと共にその神の愛の御心に従っていくことができるようにして下さるのです。私たちはヨハネと共に、「あの方は栄える」と喜びをもって語ることができるのです。

お祈りを致します。

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