生きた水を与える主

《賛美歌》

讃美歌298番
讃美歌404番
讃美歌461番

《聖書箇所》

旧約聖書  詩篇 1篇1-6節 (旧約聖書835ページ)

1:1 いかに幸いなことか
神に逆らう者の計らいに従って歩まず
罪ある者の道にとどまらず
傲慢な者と共に座らず
1:2 主の教えを愛し
その教えを昼も夜も口ずさむ人。
1:3 その人は流れのほとりに植えられた木。ときが巡り来れば実を結び
葉もしおれることがない。その人のすることはすべて、繁栄をもたらす。
1:4 神に逆らう者はそうではない。彼は風に吹き飛ばされるもみ殻。
1:5 神に逆らう者は裁きに堪えず
罪ある者は神に従う人の集いに堪えない。
1:6 神に従う人の道を主は知っていてくださる。神に逆らう者の道は滅びに至る。

新約聖書  ヨハネによる福音書 4章1-15節 (新約聖書168ページ)

◆イエスとサマリアの女
4:1 さて、イエスがヨハネよりも多くの弟子をつくり、洗礼を授けておられるということが、ファリサイ派の人々の耳に入った。イエスはそれを知ると、
4:2 ―洗礼を授けていたのは、イエス御自身ではなく、弟子たちである―
4:3 ユダヤを去り、再びガリラヤへ行かれた。
4:4 しかし、サマリアを通らねばならなかった。
4:5 それで、ヤコブがその子ヨセフに与えた土地の近くにある、シカルというサマリアの町に来られた。
4:6 そこにはヤコブの井戸があった。イエスは旅に疲れて、そのまま井戸のそばに座っておられた。正午ごろのことである。
4:7 サマリアの女が水をくみに来た。イエスは、「水を飲ませてください」と言われた。
4:8 弟子たちは食べ物を買うために町に行っていた。
4:9 すると、サマリアの女は、「ユダヤ人のあなたがサマリアの女のわたしに、どうして水を飲ませてほしいと頼むのですか」と言った。ユダヤ人はサマリア人とは交際しないからである。
4:10 イエスは答えて言われた。「もしあなたが、神の賜物を知っており、また、『水を飲ませてください』と言ったのがだれであるか知っていたならば、あなたの方からその人に頼み、その人はあなたに生きた水を与えたことであろう。」
4:11 女は言った。「主よ、あなたはくむ物をお持ちでないし、井戸は深いのです。どこからその生きた水を手にお入れになるのですか。
4:12 あなたは、わたしたちの父ヤコブよりも偉いのですか。ヤコブがこの井戸をわたしたちに与え、彼自身も、その子供や家畜も、この井戸から水を飲んだのです。」
4:13 イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでもまた渇く。
4:14 しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」
4:15 女は言った。「主よ、渇くことがないように、また、ここにくみに来なくてもいいように、その水をください。」

《説教原稿》

本日はヨハネによる福音書4章の1節から15節をご一緒に読むのですが、この場面は、5節と6節にあるように、シカルというサマリアの町の近くにあるヤコブの井戸での出来事です。

主イエスはこの時、旅をしておられました。3節と4節に、「ユダヤを去り、再びガリラヤへ行かれた。しかし、サマリアを通らねばならなかった」とあります。聖書の後ろにある付録の中に地図があります。旧約新約が合わさっている聖書ですと地図の6に「新約時代のパレスチナ」というのがありますのでご覧いただきたいのですが、ユダヤは、この地図の下の方、死海の西側あたり、エルサレムを中心とする地域です。ガリラヤは上の方、つまり北の方の、ガリラヤ湖のあたりです。ユダヤからガリラヤへ北上していく時に通らなければならないのが、その間にあるサマリアで、この地図の真ん中あたりです。そこに「ゲリジム山」という山が書かれています。その北に「シカル」があります。ユダヤからガリラヤへの旅の丁度半ばに、主イエスはこのシカルというサマリアの町に来られたのです。このシカルの町の近くに、「ヤコブの井戸」と呼ばれる泉があったのです。主イエスは旅に疲れて、その井戸のそばに座っておられた、とあります。そこに、サマリアの女が水を汲みに来ました。旅に疲れ、喉が渇いていた主イエスは彼女に、「水を飲ませてください」と頼んだのです。

井戸というと私たちは、狭い縦穴を思い浮かべます。この「ヤコブの井戸」は、町中の辻にある井戸ではなくて、町の外にある泉であり、「泉」と「井戸」は同じ言葉なのです。

人々は毎日町を出てそこに水を汲みに来たのです。生活のための水はこの泉に来て、水がめに汲んで家まで持ち帰らなければなりませんでした。この泉がシカルの町中からどれくらい離れていたのかは分かりませんが、8節に「弟子たちは食べ物を買うために町に行っていた」とありますし、28節には、「女は、水がめをそこに置いたまま町に行き」ともあります。シカルの町とこの泉との間には一定の距離があったことが分かります。このヤコブの泉のほとりで、そこに水を汲みに来た一人の女性と主イエスとが出会い、そこで語られたのがこの13節と14節のみ言葉だったのです。主イエスが「水を飲ませてください」と願ったことから、主イエスと彼女との間に会話が始まり、二人の出会いが起りました。それは決して、たまたま偶然に起ったことではありません。主イエスは既に彼女のことを知っておられ、彼女を救いへと招くために、主イエスの方から声をかけ、出会って下さったのです。

13節で主イエスは、「この水を飲む者はだれでもまた渇く」とおっしゃいました。人は生きるために水を飲まなければなりません。しかし水はとても重いものですから、一度にそうたくさん汲んで来ることはできません。だからじきになくなり、また泉へ汲みに行かなければならないのです。水道やペットボトルのある生活に慣れている私たちには想像もできないような苦労が、昔の人々の生活にはあったのです。飲んでも暫らくするとまた喉が渇くということのない、一度飲めばもう決して渇かない水を与える、と主イエスはおっしゃったのです。しかもこの水は、一度飲めばその効果が持続するだけではありません。主イエスが与えて下さる水は、その人の内で泉となるのです。つまり新鮮な水が滾々と湧き出る泉が自分の内に出来るのです。その水によっていつも新たに潤され、渇きを癒されるのです。汲めども尽きぬ水が自分自身の中にいつも湧き出るようになるから、もう渇くことがなくなるのです。主イエスのこのお言葉を聞いてこのサマリアの女性は「主よ、渇くことがないように、また、ここにくみに来なくてももいいように、その水をください」と願いました。そういう泉が自分の中にあれば、もう遠くの泉へ水を汲みに行く必要がなくなる、と思ったのです。

この女性が自分から主イエスに水を求めるようになったのは、いくつかの驚きが積み重なったことによってでした。その驚きは主イエスが彼女にもたらしたものです。主イエスの方から「水を飲ませてください」と声をかけられたことは、彼女にとって大きな驚きでした。9節で彼女は、「ユダヤ人のあなたがサマリアの女のわたしに、どうして水を飲ませてほしいと頼むのですか」と言っています。彼女はここで二つのことに驚いたのです。一つは、当時、ラビと呼ばれている律法の教師は、公の場で女性に声をかけることはしませんでした。彼女は、主イエスと弟子たちの一行を、律法の教師が弟子と共に旅をしているのだと思ったのです。律法の教師は、自分が汚れを受けてしまうリスクのあることは一切しません。弟子たちだけが町へ買い物に行っているというのもそういうことだと彼女は思ったのです。そういう律法の教師が、女である自分に親しく声をかけ、水を飲ませてくださいなどと頼むなんて、当時は考えられないことでした。彼女は先ずそのことに驚いたのです。

そして第二の、大きな驚きは、主イエスはユダヤ人であり、自分はサマリア人だということです。9節の後半に「ユダヤ人はサマリア人とは交際しないからである」とあるように、ユダヤ人とサマリア人は当時、お互いに敵意を抱いており、口もきかないような関係でした。それには歴史的ないきさつがありますが、ここではそれには触れません。とにかくユダヤ人がサマリア人にものを頼むなどというのはあり得ないことだったのです。このように主イエスの方から「水を飲ませてください」と声をかけられたことに彼女は極めて驚いたのです。その驚きは彼女の中に主イエスについて一つの思いを芽生えさせたと言えるでしょう。それは、この人は自分が知っている律法の教師たちとは全く違う、という思いです。この人は、男と女を分け隔てする、今日の言葉で言えば差別の思いに捕われていない。またこの人は、ユダヤ人とサマリア人の間の、決して乗り越えることができないと思われる分厚い壁、お互いを隔てて住む世界を違うものとしている障壁をも、事もなげに乗り越えている。こんな人には今まで出会ったことがない。そういう思いを彼女は抱いたのです。彼女は、その主イエスの姿に新鮮な驚きを感じたのです。

そして、その驚きに、主イエスは10節の、「もしあなたが、神の賜物を知っており、また、『水を飲ませてください』と言ったのがだれであるか知っていたならば、あなたの方から“その人”に頼み、その人はあなたに生きた水を与えたことであろう」と答えられました。彼女には主イエスのこの言葉の意味はさっぱり分からなかったでしょう。しかし、「水を飲ませてください」と言った“その人”というのは目の前にいるこの人であり、この人が、私はあなたに生きた水を与える、と言っていることだけは分かったのです。それはいったいどういうことだろうか、水を飲ませてくださいと願っているこの人が私に水を与えるだなんて、そんなことがどうしてあり得るだろうか、と彼女はますます驚き、混乱しました。そしてこう言ったのです。11と12節です。「主よ、あなたはくむ物をお持ちでないし、井戸は深いのです。どこからその生きた水を手にお入れになるのですか。あなたは、わたしたちの父ヤコブよりも偉いのですか。ヤコブがこの井戸をわたしたちに与え、彼自身も、その子供や家畜も、この井戸から水を飲んだのです」。彼女は、主イエスが与えると言っておられる「生きた水」を、泉から湧き出る普通の水として捉えています。だから、あなたは汲む物も持っていないのにどうして私に水を与えることなどできるのですか、と言ったのです。しかしここで彼女は、主イエスの言葉に、泉から汲まれた普通の水を与えることとは違う何かを感じ取ってもいます。「あなたは、わたしたちの父ヤコブよりも偉いのですか」以下の言葉がそれを表しています。サマリア人にとっても、ヤコブはユダヤ人たちと共通の先祖です。その先祖ヤコブが、息子ヨセフを通して、自分たちの先祖であるマナセとエフライムにこの地を与え、ここで生きるようにしてくれたのです。ヤコブがこの井戸を与えてくれたというのは、自分たちが生きていく場としてこの地を与えてくれたことを意味しているのです。そのことを持ち出している彼女の言葉には、あなたも先祖ヤコブと同じように、水を与えるだけでなく、私たちが生きていく場を、言い換えれば私たちに命を与えて下さる方なのですか、という問いが込められています。彼女は、「私がだれであるかをあなたが知っていたなら、あなたの方から私に生きた水を求め、私はそれを与えるだろう」と言われる主イエスの言葉に驚かされながらも、そこに自分たちを本当に生かしてくれる神の力と権威を、おぼろげながら感じ始めているのです。

主イエスはご自分から彼女に語りかけ、出会っていかれました。それが、主イエスに対する驚きをもたらし、主イエスが与える生きた水を求める思いを少しずつ育てていったのです。その上で、あの13節と14節のみ言葉をお語りになったのです。「この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」。それを聞いた彼女は、「主よ、渇くことがないように、また、ここにくみに来なくてももいいように、その水をください」と願いました。このようにして、水を飲ませてくださいと主イエスから求められた彼女が、自分から主イエスに水を求める者へと変えられたのです。

しかし、彼女が求めているのはなお、泉から汲む普通の水です。決して渇かなくなる水があれば、繰り返しこの泉に汲みに来なくてもよくなるから、と言っています。けれどもその彼女の心の中には同時に、よく分かってはいないながらも、普通の水を超えた、自分を本当に生かす「生きた水」「永遠の命に至る水」を求める思いが芽生えてきていると言えるでしょう。「水を飲ませてください」と自分に頼んできたこの方は、実は私たちを本当に生かす水を与えて下さる方なのかもしれない、と彼女は思い始めているのです。「主よ」という呼び掛けがそのことを示しています。主であられる方に、渇くことのない命の水を求める思いを、主イエスご自身が彼女の中に起し、与えて下さったのです。

主イエスは私たちと出会って下さり、語りかけて下さることによって、私たちの中にも、主イエスが与えて下さる生きた水、永遠の命に至る水を求める思いを起し、与えて下さいます。その水は、私たちの渇きを一時癒すだけの、その場しのぎの水ではありません。それは私たちの内で泉となり、永遠の命に至る水が湧き出るような水、主イエス・キリストは私たちの内に、新鮮な水が滾々と湧き出る泉を与えて下さるのです。この泉は、主イエス・キリストご自身です。主イエス・キリストご自身が私たちの内に来て下さり、宿って下さることによって、泉となって下さるのです。それは私たちが主イエスを信じて、主イエスと共に生きる者となること、洗礼を受けてキリストの体である教会の一員とされることによって与えられる恵みです。主イエス・キリストと結び合わされることによって、主イエスが私たちの内で泉となり、生きた水によって私たちの渇きを癒し、潤していって下さるのです。

主イエスは私たちの救いのために、私たちの罪を全て背負って十字架にかかって死んで下さった方です。そして私たちの先駆けとして復活して、永遠の命を生きておられる方です。十字架にかかって死んで、復活して下さった主イエスが与えて下さる水ですから、それは「永遠の命に至る水」、肉体の死を超えて、私たちを、主イエスの復活と永遠の命にあずからせてくれる水です。「その水を私にください」と求めさえすれば、主イエスという涸れることのない泉が私たちの内に宿って下さり、私たちを決して渇くことのない生きた水によって潤して下さり、流れのほとりに植えられた木のように豊かに実を結ばせて下さるのです。

お祈りを致します。

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あの方は栄える

《賛美歌》

讃美歌54番
讃美歌151番
讃美歌238番

《聖書箇所》

旧約聖書  詩篇 6篇7-11節 (旧約聖書838ページ)

6:7 わたしは嘆き疲れました。夜ごと涙は床に溢れ、寝床は漂うほどです。
6:8 苦悩にわたしの目は衰えて行き/わたしを苦しめる者のゆえに/老いてしまいました。
6:9 悪を行う者よ、皆わたしを離れよ。主はわたしの泣く声を聞き
6:10 主はわたしの嘆きを聞き/主はわたしの祈りを受け入れてくださる。
6:11 敵は皆、恥に落とされて恐れおののき/たちまち退いて、恥に落とされる。

新約聖書  ヨハネによる福音書 3章22-30節 (新約聖書168ページ)

3:22 その後、イエスは弟子たちとユダヤ地方に行って、そこに一緒に滞在し、洗礼を授けておられた。
3:23 他方、ヨハネは、サリムの近くのアイノンで洗礼を授けていた。そこは水が豊かであったからである。人々は来て、洗礼を受けていた。
3:24 ヨハネはまだ投獄されていなかったのである。
3:25 ところがヨハネの弟子たちと、あるユダヤ人との間で、清めのことで論争が起こった。
3:26 彼らはヨハネのもとに来て言った。「ラビ、ヨルダン川の向こう側であなたと一緒にいた人、あなたが証しされたあの人が、洗礼を授けています。みんながあの人の方へ行っています。」
3:27 ヨハネは答えて言った。「天から与えられなければ、人は何も受けることができない。
3:28 わたしは、『自分はメシアではない』と言い、『自分はあの方の前に遣わされた者だ』と言ったが、そのことについては、あなたたち自身が証ししてくれる。
3:29 花嫁を迎えるのは花婿だ。花婿の介添え人はそばに立って耳を傾け、花婿の声が聞こえると大いに喜ぶ。だから、わたしは喜びで満たされている。
3:30 あの方は栄え、わたしは衰えねばならない。」

《説  教》

今日のヨハネによる福音書と、他の三つの福音書、いわゆる共観福音書との間にはいろいろな点で違いがあります。本日の箇所の冒頭、22節に、主イエスが洗礼を授けておられたと記されています。しかし共観福音書には、主イエスが洗礼を授けたことは何処にも書かれていません。主イエスご自身が洗礼を授けたと語っているのは共観福音書ではないヨハネ福音書だけなのです。また、主イエスと洗礼者ヨハネが同じ時期に洗礼を授ける活動をしていたとも書かれています。この洗礼者ヨハネのことは既に1章に語られていました。彼は主イエスのことを証しするために神から遣わされた人であり、主イエスがこの世に現れることの備えとして洗礼を授けていました。そして主イエスこそ「世の罪を取り除く神の小羊だ」と記されていました。洗礼者ヨハネと主イエスが同じ時期に活動していたと語られていることも他の三つの福音書、共観福音書とは違っています。例えばマルコ福音書の1章14節では、「ヨハネが捕えられた後(のち)、主イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて…」とあります。共観福音書ではこのように、洗礼者ヨハネが領主ヘロデによって捕えられた後で、主イエスの活動が始まったと語られているので、洗礼者ヨハネと主イエスの活動は重なっていません。しかしヨハネ福音書がこのように洗礼者ヨハネの活動と主イエスの活動が重なっていたことを語り、しかも主イエスも洗礼者ヨハネと同じように洗礼を授けていたと語っていることには、一つの意図があります。本日の箇所は、その意図に基づいて書かれているのです。その意図とは、主イエスと洗礼者ヨハネとを比較して、両者の関係を明確にする、ということです。しかもその関係を、ヨハネ福音書の言葉によって示そうとしているのが本日の箇所なのです。

ここまで聞いて頂いて、お気付きの方もいらっしゃると思いますが、同じヨハネを名乗っても洗礼者ヨハネとヨハネ福音書を書いた福音書記者のヨハネは全くの別の人物ですので、以降は洗礼者ヨハネと洗礼者を付けると長くなるので、単にヨハネと呼ぶ時は洗礼者ヨハネで、ヨハネ福音書記者のヨハネは福音書記者ヨハネと呼びますので、お間違いない様お聞きください。

ヨハネ福音書が書かれたのは、主イエスの十字架と復活、そして教会の誕生から既に五十年以上が経っていた紀元1世紀の終り頃でした。当時のユダヤには、ヨハネの教えを受け継ぐ弟子たちがまだ多く残っていたのです。その人たちはユダヤ人の共同体の中に残ったまま、ヨハネが授けていた悔改めバプテスマ(洗礼)を受けて、神に従う生活を築こうとしていました。その人々の中から、主イエスを「世の罪を取り除く神の小羊」と信じて主イエスの弟子となる、つまりキリスト教会に加わる人々が現れて来たのでした。しかしユダヤ人たちの間には、イエスを救い主メシアと信じる者をユダヤ教会堂から追放する、という迫害が始まっていたのです。ヨハネの弟子たちはそういう状況の中で、ユダヤ人の共同体つまりユダヤ教に留まり続けるのか、主イエスを信じるキリスト教会に連なっていくのか、という決断を突きつけられていたのです。それが、紀元1世紀の終り頃のユダヤ人たちの置かれていた状況なのです。

ヨハネは27節で、「天から与えられなければ、人は何も受けることができない」と言っています。ヨハネのもとに人々が洗礼を受けにやって来たのも、今主イエスのもとにみんなが行っているのも、どちらも天から与えられたこと、神の御心なのだ、とヨハネは言っているのです。神の御心によって人々はヨハネのもとに来て洗礼を受けた、そして今、神の御心によってその人々は主イエスの方へと行っているのです。どうしてそういうことが起るのかが、ヨハネによって28節に語られています。「わたしは『自分はメシアではない』と言い、『自分はあの方の前に遣わされた者だ』と言ったが…」とあります。1章の19節以下に語られていたように、ヨハネは「わたしはメシアではない」つまり救い主ではない、とはっきり語りました。「ではあなたは何なのか」という問いに対して彼は1章23節で、「わたしは荒れ野で叫ぶ声である。『主の道をまっすぐにせよ』と」と答えました。メシア、救い主である主が自分の後に来られる。私はその主の道をまっすぐに整えるために先に遣わされた者だ、ということです。ヨハネの役割は、後から来られるメシアである主イエスのための道を備えることなのです。だからヨハネの働きによって、人々はメシアである主イエスを知り、主イエスのもとに行ってその救いにあずかっていくのです。神の御心によってヨハネのもとに来た人々が、主イエスこそ救い主であられるというヨハネの証しを聞いて主イエスのもとに行き、主イエスを信じて救いにあずかっていく、それが神の御心なのです。

28節の後半には「そのことについては、あなたたち自身が証ししてくれる」とあります。ヨハネの弟子たちが、師であるヨハネの証しを聞いて主イエスのもとへ行き、その救いにあずかることこそが、ヨハネが自分に与えられた使命をしっかりと果たしていることの証しとなるのです。だから、みんなが自分のところにではなく主イエスの方へ行っているという報告は、ヨハネにとってはむしろ当然のこと、喜ぶべきことなのです。

しかし、ここで主イエスが洗礼を授けていたと語られているのは、歴史的には事実ではありません。主イエスは地上のご生涯においては、神の国の福音を宣べ伝え、神のご支配の印としての奇跡を行い、そして十字架の死による救いを成し遂げられたのです。主イエスを信じて受けるキリスト教の洗礼は、復活なさった主イエスのご命令によって、教会の誕生と共に始まったことです。主イエスによる救いにあずかる群れが洗礼によって結集されていったのはヨハネ福音書が書かれた後代です。ですから、地上を歩まれた主イエスがヨハネと同じように洗礼を授けていたわけではないのです。

29節においてヨハネは、主イエスと自分との関係を花婿と花婿の介添え人という譬えで語っています。「花嫁を迎えるのは花婿だ」というのは、婚礼の主役は花婿だということです。その花婿とは主イエスです。自分は花婿の介添え人だとヨハネは言っています。介添え人は「そばに立って耳を傾け、花婿の声が聞こえると大いに喜ぶ」のです。当時の婚礼において、花婿には男性の、花嫁には女性の介添え人がついたようです。今の教会の結婚式でも、花嫁には介添え人がついて、いろいろとお世話をします。しかし花婿には介添え人はいません。特に必要がないからです。当時のユダヤの結婚式だって、おそらく花婿の介添え人には大してすることはなかったのでしょう。「そばに立って耳を傾け、花婿の声が聞こえると大いに喜ぶ」ぐらいしかすることはないのです。介添え人はあくまでも脇役です。花婿、主役である主イエスに対して、自分は介添え人、脇役なのだ、とヨハネは言っているのです。

30節の「あの方は栄え、わたしは衰えねばならない」という言葉もそういうことを意味しています。栄えるべきなのは主役、花婿である主イエスなのであって、介添え人である自分が栄えてはならない、介添え人が花婿より目立ってどうする、介添え人である自分は、むしろ衰えていく、見えなくなっていく、消え去っていくことで、花婿である主イエスの栄光がよりはっきりと表されていくのだ、「みんながあの人の方へ行っています」ということによってまさにそうなるべきである、とヨハネは言っているのです。

さて、ヨハネがこのように自分を花婿の介添え人つまり脇役と位置づけており、「その方は栄え、自分は衰えねばならない」と言っているのを読むと、何だか自分の人生には大した意味がないと言っているようでヨハネが可哀想だと感じてしまうかもしれません。しかしそうではないのです。「介添え人」と訳されている言葉は、直訳すると「友」です。ヨハネは花婿主イエスの友である、と福音書は語っているのです。このことには深い意味があります。15章14-15節には、主イエスのこういうお言葉があるのです。「わたしの命じることを行なうならば、あなたがたはわたしの友である。もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである」。主イエスが弟子たちを友と呼んで下さる、そこに大きな恵みがあることがここに示されています。主イエスの「友」となるとは、独り子なる神、主イエスが父なる神から聞いたことをすべて知らせて下さり、主イエスの命じること、父なる神の御心を行なうことができるようになる、ということです。僕と友の違いもここに示されています。僕はただ命じられたことをその通りにするのであって、主人が何を思い、何のためにこれを命じているのかなどは知る由もありません。しかし友は、主イエスのみ言葉を聞くことによって、父なる神が独り子主イエスによって実現しようとしておられる救いの御心を知らされるのです。そしてその御心を自発的に行なっていくのです。主イエスの友とはそのように、主イエスの言葉を聞いて父なる神の御心を知り、主イエスと共にそれを行なっていく者です。ヨハネもそういう意味で主イエスの友なのだ、ということを、「花婿の介添え人、友」という言葉に込めているのです。花婿の介添え人が「そばに立って耳を傾け、花婿の声が聞こえると大いに喜ぶ。だから、わたしは喜びで満たされている」と語られていることが大切な意味を持ってきます。この喜びは、主イエスの友とされた者の喜びです。ヨハネは、主イエスの語る言葉に耳を傾け、主イエスが父なる神から聞いたこと、父なる神が独り子主イエスによって実現しようとしておられる救いの御心をしっかり聞いたのです。それによって、主イエスこそ来るべき救い主であられることを確信し、喜びに満たされて、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」と証ししたのです。このヨハネの姿に、主イエスの友とされた者はどのように生きるのかが示されています。主イエスの友とは主イエスを証しする人です。弟子たちも主イエスの友とされ、証しする者として立てられていきました。1章の6-8節にこのように語られていました。「神から遣わされた一人の人がいた。その名はヨハネである。彼は証しをするために来た。光について証しをするため、また、すべての人が彼によって信じるようになるためである。彼は光ではなく、光について証しをするために来た」。このように、ヨハネを、主イエスの友とされて、主イエスの証しをするというとても大切な働きをした人として、信仰者たちの先駆けとして描いているのです。ですからここに語られているのは、ヨハネは介添え人、脇役に過ぎない、大して意味のない人だ、ということではありません。むしろヨハネは、主イエスの最初の友とされ、主イエスの言葉を聞いて父なる神の救いの御心を最初に知らされた人であり、その喜びを最初に味わった人であり、その喜びに押し出されて主イエスこそ救い主であることを最初に証しした人だったのです。

ですからこのヨハネこそ、主イエスを信じて生きる私たち信仰者の先頭に立っている人です。私たちも、主イエス・キリストのもとに来るならば、このヨハネのようになることができるのです。主イエス・キリストのもとに来ることによって私たちは、自分が神に背いている罪人であり、本来は裁かれ滅ぼされるしかない者であることを示されます。しかしそのような罪人である私たちを、神が愛して下さって、独り子主イエス・キリストを与えて下さり、その十字架と復活によって罪を赦し、私たちが滅びることなく永遠の命を得るようにして下さったことをも示されます。その神の独り子であり救い主であられる主イエスが、私たちを友として下さり、父なる神の愛の御心を御言葉によって知らせて下さるのです。私たちも主イエスと共にその神の愛の御心に従っていくことができるようにして下さるのです。私たちはヨハネと共に、「あの方は栄える」と喜びをもって語ることができるのです。

お祈りを致します。

<<< 祈  祷 >>>

主イエスは良い羊飼い

《賛美歌》

讃美歌6番
讃美歌243番
讃美歌298番

《聖書箇所》

旧約聖書  詩篇 23篇1~3節

23:1 主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。
23:2 主はわたしを青草の原に休ませ/憩いの水のほとりに伴い
23:3 魂を生き返らせてくださる。主は御名にふさわしく/わたしを正しい道に導かれる。

新約聖書  ヨハネによる福音書 10章7~18節

◆イエスは良い羊飼い
10:7 イエスはまた言われた。「はっきり言っておく。わたしは羊の門である。
10:8 わたしより前に来た者は皆、盗人であり、強盗である。しかし、羊は彼らの言うことを聞かなかった。
10:9 わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる。その人は、門を出入りして牧草を見つける。
10:10 盗人が来るのは、盗んだり、屠ったり、滅ぼしたりするためにほかならない。わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。
10:11 わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。
10:12 羊飼いでなく、自分の羊を持たない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして逃げる。――狼は羊を奪い、また追い散らす。――
10:13 彼は雇い人で、羊のことを心にかけていないからである。
10:14 わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。
10:15 それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである。わたしは羊のために命を捨てる。
10:16 わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊もわたしの声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる。
10:17 わたしは命を、再び受けるために、捨てる。それゆえ、父はわたしを愛してくださる。
10:18 だれもわたしから命を奪い取ることはできない。わたしは自分でそれを捨てる。わたしは命を捨てることもでき、それを再び受けることもできる。これは、わたしが父から受けた掟である。」

《説教原稿》

今日のヨハネ福音書10章は、この前の9章で生まれつき目の見えない人を主イエスが見えるように癒された奇蹟物語の後半でファリサイ派の人々が主イエスを責め、彼らの罪が明らかにされた直後に、一見唐突とも思える書き方で、いきなり、主イエスの「はっきり言っておく。」という御言葉で始まります。しかも、今日の8節には「盗人であり強盗である」という強い表現で、ファリサイ派の人々を非難することから始まります。6節にあるように「彼ら〔ファリサイ派の人々〕はその話が何のことか分からなかった。」ことから、彼らの霊的無知を思い起させます。それによって、今日の譬え話が霊的に理解されなければならないと主イエスは、ここで告げられているのです。

主イエスは、ご自分を羊飼いに譬えられ、羊との羊飼いの関係を用いてご自身について語られます。羊というのは弱い動物で、狼などに襲われたら、自分で自分を守ることが出来ません。又、他の動物に比べて力が弱いというだけでなく、自ら生きていく術を知らないために、羊飼いの保護なしには生きていけません。主イエスは、主により頼んで歩む信仰者を羊に、そして、救い主であるご自身を羊飼いに譬えられたのです。

神の民を羊に、民の指導者を羊飼いに譬えることは、すでに旧約聖書の中に幾つかの例が見られます。その場合、しばしば横暴な偽羊飼いとまことの羊飼いとが対比されます(Ⅰ列22:17、エゼ34章、37:24‐28、ゼカ10:2‐3、11章)。ここで主イエスは偽りに満ちたユダヤ人の宗教指導者たちに対して、自らをまことの良き羊飼いとして啓示されているのです。盗人や強盗にすぎない者と、本当の羊の牧者の姿が印象的に描かれているのです。羊飼いは「自分の羊の名で呼んで連れ出す」と「羊はその声を聞き分ける」のです。何故なら「羊はその声を知っているので」ついて行くのです。盗人や強盗が羊の命を奪うためにやって来るのに対して、羊は主イエスという「門」を通って牧草地に安全に導かれるという意味で、主イエスは「羊の門」なのです。また、羊のことを心にかけない無責任な「雇い人」に対し、羊のために命を捨てる「良い羊飼い」であると宣言されるのです。当時の羊飼いという職業は、実際、狼などの野獣から羊の群れを守るために身を危険にさらしました。

今日の、「良き羊飼いのたとえ」は、主イエスと父なる神との関係、主イエスと信仰者との関係、主イエスの十字架の死の意味にまで及ぶ物語です。主イエスの羊は主イエスが羊飼いであることを知っており、主イエスも羊を知っておられるのです。そして、主イエスの羊はユダヤ民族に限られず、「この囲いに入っていないほかの羊も」含むのです。しかも、この囲いに属さない者たちが主イエスの群れとなるためには、主イエスの死と復活が必要です。そのことを暗示するかのように、「良い羊飼いは羊のために命を捨てる。」と、主イエスの死に言葉が及ぶのです。ユダヤ人たちはすでに主イエスを殺そうという思いを抱いていました(5:18)。しかし、主イエスが命を捨てるのも、それを再び得て復活されるのも、主イエスご自身の権威によるのであり、そして、そのことは父から受けた「掟」であると述べられるのです(18)。

今日のこのヨハネ10章7節から18節では、旧約聖書にしばしば書かれている羊飼いのイメージを用いて、主イエスこそが神の民「羊」が必要とするお方であることを強く指し示しているのです。

ファリサイ派の人々とは、当時のユダヤ教の指導者たちのことで、自分たちにこそ神様の救いが与えられると思っていました。律法を守ることによって救いが得られると信じ、律法の教師として人々を教え、指導していたのです。まさに、羊であるユダヤの民の羊飼いとして振る舞っていたのです。しかし、この人々は、自分たちが律法を厳格に守っていることを誇り、律法を守ることが出来ない隣人を裁くことに熱心でした。

主イエスがこの世に来られたのは、人々に永遠の命を与えるためであり、それについてはヨハネ福音書の随所に書かれていますが、ここ10章の特徴は、永遠の命は、主イエスが己の命を与えることによってなされることを、良き羊飼いに譬えて描いていることです。

ここで命を与えるとは、自分の命を犠牲とするただ一回限りの御業です。この事を中心的なテーマの一つとするヨハネ福音書にあって、この10章は極めて重要な位置を占めているのです。

主イエスは先ず7節で、「はっきり言っておく。わたしは羊の門である」と語ります。主イエスは、ご自身こそ門であると言われるのです。ここで語られているのは、9節に「わたしは門である、わたしを通って入る者は救われる」とあるように、救いにいたる門のことです。羊は、この門を通って出入りすることによって牧草を得ることが出来るのです。主イエスを通してしか救われないことを強調しています。「わたしを通って入る者」とは原語では“わたしによる者”となりますが、これは、主イエスによる絶対的な救いを強調しています。主イエスが唯一の救いに至る者であることが示されているのです。8節では、「わたしより前に来た者は皆、盗人であり、強盗である」と言われます。ここで、「盗人」、「強盗」とされている、「主イエスより前に来た者」というのは、主イエスより時間的に前にいた人々、旧約聖書の預言者たちのことではありません。「前に来た者」とは、前の1節において「門を通らないで他のところを乗り越えて来る者」と言われていた人たちのことです。主イエス・キリストという門を通らない者のことです。まさに主イエスと対立して律法による救いを主張していた、ファリサイ派の人々に目が向けられているのです。9節の「救われる」とは、神の裁きを受けない永遠の命を得ることを意味し、文法的には未来形で書かれ、救いの約束がずっと続くことを指し示しているのです。

10節に記されているように、「盗人が来るのは、盗んだり、屠ったり、滅ぼしたりするためにほかならない」からです。たとえ、彼らが表面的には、羊たちを養っているように見えても、実際は自分自身を養うことにしか関心がないのです。律法による救いを説いていましたが、それは本当に人々の救いを願って教えていたのではありません。むしろ、自分たちが人々から一目置かれ、尊敬されることに気を配っていたのです。そのために、自分たちが守っている律法によって人々は救われるのだと主張していたのです。

このイエスを「門」とする表現にも、旧約聖書のイメージが強く組み込まれています。門から入って救いを見い出すという約束は、詩篇118編(19-20節)の「主に感謝するために正義の城門を開く」と書かれていますし、また、牧草を見つけるという約束は詩篇23編(1-2節)の「私を青草の原に休ませる主なる羊飼い」やエゼキエル書34章(14-15節)の「肥沃な牧草地でイスラエルの民を養う」と書かれています。また、今日の9節の「牧草を見つける」約束は、主イエスご自身による約束、渇きと飢えを終らせる4章(14節)の「サマリアの女への水の賜物」や7章(37-38節)の「主イエスを信じる者は生きた水が川となって流れ出る」といった水となって恵みが与えられる話を連想させます。このように新約聖書は旧約聖書を土台として書かれているのです。

10節では盗人に対置して、主イエスの来臨が語られ、それは羊が「命」を受けるためであると、「命」が強調され、主イエスがこの世に来られた目的が明らかにされるのです。11節から、これまでの「わたしは門である」に代わって、「わたしは良い羊飼い」と言われます。

羊のために命を棄てることが、ここで良い羊飼いの「良い」ということを規定しています。この羊飼いは、羊のために命を捧げるという自己犠牲を行なうと言われるのです。自己犠牲がなく単に牧草を与えて羊に自然の命を与えるのではありません。ここではエゼキエル書34章(1-16節)にある「良き羊飼いとしての父なる神」について語られます。良い羊飼いである神は散らされたところから羊たちを救い出し、彼らを養い、弱いもの、傷ついたもの、失われたものをいたわり、羊のために心を砕くのです。この羊飼いと同一化することによって、主イエスはご自分が神の約束を成就し神の業を行なう者であると語られるのです。羊のために自分の命をも投げ捨てる羊飼いとして、ご自身を語られるのです。良い羊飼いは野獣から自分の羊の群れを守るためには、その命をも投げ出さなければならなかったのです。この「私は命を捨てる」との御言葉はヨハネ福音書独特の雰囲気の中に何回となく(10:15-18、13:37-38、15:13等)使われて、主イエスご自身の十字架の死を暗示しているのです。

ここまでに出てくる「羊飼い」という名詞は、新約聖書では18回も用いられています。今日のヨハネ福音書のこの箇所では、良い羊飼いとして主イエスは、群れのために自分の命を進んで投げ出す用意がある(11、15、17、18節)ばかりでなく、羊の所有者として(12節)、殊更の責任を羊に対して持とうとされているのです。更に、良い羊飼いといして(14節)主イエスは羊を知っており(15、27節)、羊は主イエスを知って(15節)、主イエスに従うのです(27節)。それだけでなく、羊飼いとしての主イエスの働きは信じる教会の人々ばかりでなく、牧場の囲いに属さない異邦人にまで及んでいます。唯一の羊飼いとして、主イエスは彼らを一つの群れにされようとしているのです(16節)。

12節では、羊飼いと雇い人が対置されます。雇い人も羊を養うのですが「良い羊飼い」ではないのです。4節にある「自分の羊」とは、羊飼いがその羊の名を知っていて、その羊を呼ぶと、羊はその声を聞き分けて羊飼いのもとに集まって来るのです。単に所有しているといった関係ではなく、呼べば答え、羊は羊飼いの献身振りを知っているのです。こういった意味から雇い人とは単に羊を所有していないだけではなく、自分の命が羊の命より大切だから、危険が迫ると羊を置き去りにして逃げるのです。この12節では、盗人や強盗といった危険に代わって「狼」の危険について書かれています。ここでは、通常群れで狩りをする動物である狼に単数形が使われていることから14章20節の「世の支配者」といった者が比喩されているとも考えられます。良き羊飼いに飼われている羊は見捨てられることがありません。すべての羊が救われるのです。「雇い人」とは、悪い意味の「羊飼い」として用いられて、羊のそばにいない「日雇い労働者」としての羊飼いのことです。この雇い人はエゼキエル書34章(5-6節、8-10節)の「群れを養わず自分自身を養う悪い牧者」や、またエレミア書23章(1-3節)の「羊の群れを顧みない牧者」などの「悪い羊飼い」の描写とも重なります。旧約聖書の愚かな牧者や雇い人についての描写は羊の安寧を犠牲にしても自分たちの安泰を重視するユダヤ教指導者やファリサイ派の人々の姿を思い起こさせているのです。「狼は羊を奪い、また追い散らす」ことが起こるのは、羊が雇い人に任されているからです。雇い人は羊のことを「心にかけない」からです。彼らは決して「羊飼い」とは呼ばれない「雇い人」なのです。14節からは、二つの譬えの説明がされます。

14節は「わたしが良い羊飼である」という主イエスを象徴する語句が繰り返されます。羊の羊飼いに対する関係は、啓示者である父なる神に対する関係に相当します。それは、「彼は羊たちの名を呼び」、「羊たちはその声を聞く」という関係です。羊飼いの羊に対する関係は、ここでは、羊飼いが羊のために命を捨てるという、主イエスの十字架の死を、人々のための犠牲としての死を指すものとして説明されます。ヨハネ福音書によれば、神に遣わされた主イエスの死は、ご自身の自由意志に基づく犠牲としての命の放棄なのです。

12節にある「この囲い」とは、譬えとしてユダヤ民族を指しています。主イエスに属する「羊」は、イスラエルだけでなく、広く世界に生きているのです。羊の群れと一人の羊飼いとは、主イエスの言葉に聞き従う教会を示しているのです。17節は主イエスの十字架の犠牲死が、ご自身の自由意志であることが強調されています。主イエスは命を受け、そしてまたそれを取られる。主イエスは、神の力を以てご自分の命を自由に扱われるのです。ここでは一貫して「復活する」と言われ、「復活させられる」と受動態ではないのは、主イエスの死は栄光を受けることであり、父なる神への帰還だからなのです。人の姿をとった主イエスの死は、ご自身の意志によるのであり、死に対して絶対に自由な支配力を持っているのです。主イエスの死は、死の力による破滅(カタストロフ)ではなく、むしろ、命を捨て、命を得る、その高い権威は、父なる神の意思に基づいて、再び命を得る全権を、父なる神から与えられているのです。主イエスは死をも支配される御方なのです。

キリストという門を通らないで牧草を得ようとしてしまう所に人間の罪があります。その罪の力から誰も自由になれないのです。信仰に生きている者、教会に属する者こそ、一人一人の名を呼んで下さる羊飼いの声にいつも耳を傾けていなくてはならないのです。

「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる」。主イエスはご自身が門であると共に、「良い羊飼い」であると語られました。

「雇い人」と「良い羊飼い」の違いは、「羊のために命を捨てる」かどうかということです。

罪のために、私たちは滅び死ぬことになるのです。ですから、罪と死の力に襲われる時にも、私たちを見捨てない羊飼いこそが、本当に良い羊飼いであり、私たちの救い主なのです。普段どれだけ、喜びや、楽しみを提供し人生を豊かにしてくれるかということではありません。私たちが罪と死に直面する時に、主イエスは体を張ってその危機と立ち向かい、私たち羊の身代わりとなってくださるのです。主イエスは、羊の身代わりとなって命を捨てられる羊飼いなのです。

主イエスが、ご自身のことを、このような良い羊飼いであると言われるのは、主イエスが十字架において自らの命を投げ出されることで、羊たちを襲う狼と戦われた方だからです。しかし、ただ、身代わりとなって死なれただけではありません。17節に、「わたしは命を再び受けるために、捨てる。それゆえ、父はわたしを愛してくださる。」と言われるように、主が十字架で命を捨てられたのは、それを再び受けるためであったからです。ただ十字架で死なれたのではなく、そこから再び命を受けられて復活されたことによって、死の力に勝利しておられるのです。

主イエスが再び命を得られたように、私たちにもその命が与えられるのです。父なる神との愛の交わりの中にある羊飼いに導かれる時に、私たちは命の恵みを豊かに受けることになるのです。

主イエスは、16節に「この囲いに入っていないほかの羊」とキリストに養われていない群れ、すなわち教会に属していない人々も気にかけておられます。門であるご自身を示して、ここから入るようにと、救いに至る道を示し続けておられるのです。

主イエスの十字架による救いの御業は、キリストの群れの交わりの中にいない者のためにもなされたものであり、主イエスは、そのような人々も救いあげようとしておられるのです。

教会の交わりの中にいない、まだ救われていない方々の中から一人でも多くの方々が、この幸いなるキリストの救いに与れますよう、お祈りを致しましょう。

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本当に必要なもの

《賛美歌》

讃美歌11番讃美歌270番 讃美歌000番

《聖書箇所》

旧約聖書 詩篇 27篇4節 (旧約聖書857ページ)

27:4 ひとつのことを主に願い、それだけを求めよう。命のある限り、主の家に宿り主を仰ぎ望んで喜びを得その宮で朝を迎えることを。

新約聖書 ルカによる福音書 10章38~42節 (新約聖書127ページ)

◆マルタとマリア
10:38 一行が歩いて行くうち、イエスはある村にお入りになった。すると、マルタという女が、イエスを家に迎え入れた。
10:39 彼女にはマリアという姉妹がいた。マリアは主の足もとに座って、その話に聞き入っていた。
10:40 マルタは、いろいろのもてなしのためせわしく立ち働いていたが、そばに近寄って言った。「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください。」
10:41 主はお答えになった。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。
10:42 しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」

《説教原稿》

今日の聖書箇所は、教会での奉仕とは何かといった私たちの疑問に示唆を与えられる大切なお話しです。

マルタとマリアという姉妹は、ルカによる福音書においてはここにしか登場しないのですが、ヨハネによる福音書においては、11章と12章に出てくる、大変重要な登場人物です。ヨハネによる福音書の第11章というのは、有名な「ラザロの復活」の場面ですが、そこで主イエスによって死からよみがえされたラザロの姉妹たちとしてマルタとマリアが登場するのです。つまり、年齢の関係は分かりませんが、マルタとマリアとラザロは兄弟姉妹で、共に暮らしていました。ヨハネ福音書によれば、その場所はベタニアという所です。ベタニアはエルサレムの近くの村で、マルコ福音書によれば、エルサレムに来られた主イエスは、夜はベタニアに泊まっておられたとあります。おそらく主イエスが泊まっておられたのはこのマルタ、マリア、ラザロの家だったのだろうと想像されます。ヨハネやマルコ福音書からそのようなことが分かってくるのですが、今日のルカ福音書は、それらのことを一切語っていません。38節には「ある村」とだけあって、ベタニアという地名すら出て来ないのです。それには理由があります。つまり本日の話がベタニアでのことだとすると、主イエスはもうエルサレムのすぐ近くに来ておられることになります。ルカは9章51節で、それまでガリラヤ地方で活動しておられた主イエスがエルサレムへと向かう決意を固めて出発されたと語っているのです。ルカによれば、十字架の待つエルサレムへの旅は、主イエスと弟子たちにとっては、まだまだ長い道のりなのです。ルカ福音書では、主イエスがエルサレムに入られることは、ずっと後の19章以下から語られ、それまでは、エルサレムへの旅路としては語られていないのです。ルカにとっては、この段階でエルサレム直前のベタニアに来られたとなるともう旅が終わってしまい、全体構想が崩れてしまいます。それでルカはベタニアという地名を出さずに「ある村」とだけ言っていると思われます。では、何故ルカは、この話をこの時点で語ろうとしたのでしょうか。

ここで大事なことは、ルカがこの物語を、この位置で、つまり主イエスのエルサレムへの旅が始まった直後のところで語らなければならないと思ったということです。それはなぜなのか、ルカはどうしてこの話をここで語るのが相応しいと考えたのか、そのことを考えていくことが、本日の箇所を読んでいく上で大事な鍵となるのです。

ルカがこの話を、エルサレムへの旅路の中に置いたということは、38節の「一行が歩いて行くうち、イエスはある村にお入りになった」というところから分かります。主イエスと弟子たちは、旅の途上である村に入ったのです。さて主イエスは旅立つに際して、弟子たちを先に使いの者として派遣なさいました。派遣された弟子たちは後から来られる主イエスのために準備をしたのです。それは単に寝泊まりする場所を準備したということではありません。10章の始めには、主イエスが七十二人の弟子たちを二人ずつ組にして、御自分が行くつもりの町や村に先にお遣わしになったことが語られていました。そこに「ほかに七十二人を」とあるように、先に使いの者として派遣された人々の他にこの人々が遣わされたのです。主イエスに派遣された弟子たちは主イエスと同じことを告げ、行なっていきました。神の国の福音を宣べ伝え、その印として病人を癒したのです。それこそが、後から来られる主イエスのための準備です。弟子たちのそういう準備によって、彼らが派遣された町や村において、神の国が近づいていることを信じ、主イエスと弟子たちを迎え入れる人が出て来ました。そのことが、この「ある村」においても起ったのです。「すると、マルタという女が、イエスを家に迎え入れた」とあります。8節以下には、先ほどの七十二人に対して、「どこかの町に入り、迎え入れられたら、出される物を食べ、その町の病人をいやし、また、『神の国はあなたがたに近づいた』と言いなさい」とありました。主イエスの一行を迎え入れるとは、その人々をもてなし、生活の世話をし、そして自分の家を、神の国の福音がその町で宣べ伝えられるための拠点とする、ということなのです。そして10節以下には、「町に入っても、迎え入れられなければ」という場合のことが語られています。誰も彼らの一行を迎え入れようとしない、主イエスによる神の国の到来の福音を受け入れず、その福音が宣べ伝えられていくために奉仕しようとする者が一人もいない、ということもあり得るのです。そういう現実もある中で、この村においては、マルタという女が主イエスと弟子たちを自分の家に迎え入れたのです。おそらく彼女は、この村に先に遣わされて来た弟子たちの語ることを聞いて、主イエスを迎え入れようと思ったのでしょう。そこには既に、主イエスを信じ、仕えようという彼女の信仰の決意が見られます。ルカは、エルサレムへと向けて、旅路を歩んでおられる主イエスを自分の家に迎え入れ、もてなしをし、主イエスによる神の国の到来を告げる福音を自分も信じ、その福音の伝道のために奉仕する信仰者の姿を描いているのです。

ここにはマルタとマリアという姉妹が登場し、二人の姿が対照的に描かれていきます。そして、「マリアは良い方を選んだ」とあるように、マルタよりもマリアの方が良い、相応しいと主イエスによって褒められたという話に思えます。しかしそれは、マリアこそが信仰者でマルタは信仰者ではない、ということではありません。主イエスを家に迎え入れたのはマルタである、とはっきり書かれています。それは、マルタが主イエスに従い仕える信仰者となったということです。マルタは、主イエスと弟子たちの一行を自分の家に迎え入れるという大いなる信仰の決断をしたのです。その後、「彼女にはマリアという姉妹がいた」と、おそらく妹であるマリアが登場します。マリアも主イエスを信じる者となるわけですが、それは姉であるマルタの信仰の決断が先にあったからだとも言えるでしょう。つまりマリアはマルタによって導かれて信仰者となった、と考えるべきではないでしょうか。

このように同じ信仰者となったマルタとマリアの間に、ある違いが生じました。マリアは主の足もとに座って、その話に聞き入っていたのです。主イエスの足もとに座って話を聞くとは、この時代のユダヤでは男の弟子にのみ許される行為でした。マリアは、そんな大胆な行動をしたと言えますし、また、主イエスの一行が女性差別をしなかった特筆すべき行いを記しているとも言えるでしょう。そのマリアに対してマルタは先程触れたように、大人数の一行のため「いろいろのもてなしのためせわしく立ち働いていた」(40)のです。マルタとマリアの話のポイントは、この対照的な姿にあります。そして私たちはそこから、いろいろなことを読み取ろうとします。と言うよりも、自分たちが感じていることをこの話に読み込もうとします。教会の中で、特にご婦人方の間でよく語られるのは、「私はマリア型」とか「私はマルタ型」というような会話です。その場合の「マリア型」というのは、静かに礼拝を守り、み言葉を聞き、祈るといった信仰生活が自分には合っているし、その方が好ましいと感じているという人です。他方「マルタ型」というのは、それよりもむしろ活発に体を動かしていろいろな奉仕をする、例えば昼食作りとか、男性で言えば会堂の掃除や植木の手入れや力仕事など、また一教会に拘らない多くの教会を跨いだ社会奉仕活動に加わるとか、そういうことに喜びを感じ、充実を覚える、静かに説教を聞いているのはちょっと苦手、みたいなタイプであると言えるでしょう。それは女性だけの話ではなくて、男性も含めて、マルタとマリアのどちらに親近感を覚え、自分に近いものを感じるか、ということを私たちはここからよく考えるのではないでしょうか。そして自分がどちらのタイプかというだけではなく、礼拝中はマリアに徹し、終わったとたんにマルタに変身するのだ、という思いを持っている人もいるでしょう。つまり時と場合によってマルタとマリアを使い分けながら信仰生活を送っている、という思いを持っている人も多いのではないでしょうか。これらのことは、私たちが自分の体験や感覚をこの話に読み込んでいるということです。しかし私たちがしなければならないのは、自分の感覚を聖書に読み込むのではなくて、聖書が語っていることを読み取ることです。マルタとマリアの対照的な姿から私たちは何を読み取ることができるのでしょうか。

マルタが主イエスと弟子たちを家に迎え入れたとは、食事を出すことをはじめいろいろなもてなしをするためです。そういう意味でマルタがしていることは、神の国の福音を宣べ伝えている主イエスと弟子たちに仕え、その歩みを支えるという信仰の行為です。マルタは決して、自分の料理の腕前を披露しようとしているわけではありません。ちゃんともてなさないと恥をかくと思っているのでもありません。彼女がせわしく立ち働いているのは信仰によってです。マルタの姿は、信仰者が主イエスに仕えている姿そのものなのです。そこには、「もてなし」という言葉が使われていますが、この言葉は原文では「diakoni,a:ディアコニア」という言葉です。「奉仕」という意味です。マルタがしているのはこのディアコニア、つまり主イエスに従う信仰者にとって大切な信仰の業としての「奉仕」なのです。ですから、このマルタとマリアの姿は、自分はどちらのタイプだとか、どちらの方が自分の好みに合うなどというように読むべきものではありません。これはどちらも、主イエスに従い仕えていく信仰者が大切にすべきあり方なのです。

しかし、このどちらも大切な信仰のあり方の間で問題が生じました。マルタがマリアのことで主イエスに文句を言ったからです。「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください」。マルタは、主イエスの足もとに座ってその話に聞き入っているマリアに対して、「何も手伝わず、私だけにもてなしを、つまりディアコニアを押し付けている」という不満を抱いたのです。このマルタに対して主イエスはお答えになりました。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない」。主イエスはこのお言葉によってマルタに何を語ろうとしておられるのでしょうか。「あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している」。主イエスはマルタが思いわずらいに陥り、心を乱していると言っておられるのです。もてなし、接待、ディアコニアの業の中で、マルタの心は乱れ、とりみだしてしまっているのです。心が乱れるとどうなるか、自分のしている働き、奉仕を喜んでできなくなるのです。そして、人のことを非難するようになるのです。「自分はこんなにしているのに、あの人は何もしない。手伝おうとしない。そんなことでいいのか」という思いに支配されていくのです。自分のしている奉仕を喜べないことと、人を非難することは表裏一体の関係です。自分に与えられた奉仕を喜んでしている人は、人のことを非難することはありません。人への批判や攻撃は、自分自身が喜んでいないから生じるのです。マルタはそのような思いわずらい、心の乱れに陥ったのです。そのように心が乱れてしまうと、彼女がせっかく主イエスと弟子たちを家に迎え入れるという信仰の決断をし、奉仕している信仰の業が歪んだものになってしまいます。マルタはこの奉仕を、誰かから強制されたのではありません。自分の意志でそれを引き受け、喜びをもってそれを担ったのです。信仰における奉仕、ディアコニアとはそのように、喜んで、自発的に行なうものです。ところが私たちは時として心を乱し、その喜びを見失って、自分だけが何か重荷を背負わされているように感じてしまうことがあります。心を乱しているマルタの姿は、私たちの信仰生活の中でも時として起るそのような事態を表しているのです。

このように心を乱してしまっているマルタに主イエスがお語りになった言葉が42節です。「しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない」。私たちはこの主イエスの言葉を聞く時、これはマルタには気の毒な、酷な言葉ではないか、と思うのではないでしょうか。マルタは今見てきたように、大人数の主イエスの一行を迎え入れ一生懸命奉仕しているのです。信仰の業、ディアコニア:diakoni,aを頑張ってしているのです。しかし同じ主イエスを信じ従っている筈の妹が手伝ってくれない、自分だけが忙しく立ち働いている、という現実の中で心を乱しているのです。そのマルタに対して、これでは「あなたのしている奉仕は本当に必要なことではない。しなくてもいいことだ。マリアのように私の足もとに座って話に聞き入ることの方が大事だ」と言っていることになる。これでは身も蓋もないではないか、と感じるのです。

しかし、主イエスのこのお言葉はそのように冷たい薄情な言葉ではありません。主イエスはここでマルタに、「あなたのしていることは意味がない」などと言っているのではないのです。マルタは主イエスを迎え入れ、奉仕するという信仰に生きている人です。彼女の奉仕ディアコニアは主イエスに従う者たちにとってとても大事なことなのです。意味がないとか必要ないなどということは絶対にないのです。主イエスがマルタに望んでおられるのは、彼女がそのディアコニアを、心乱れ、喜びを失った中で、人を非難するような思いを抱きながらするのではなくて、本当に喜んで、自発的にしていって欲しい、ということです。そして、そうなるために必要なただ一つのことを主イエスは教えて下さっているのです。それが、マリアのように、主イエスの足もとに座って、そのみ言葉に聞き入ることです。主イエスはどのようなみ言葉を語っておられるのでしょうか。それは、主イエスご自身において、神の国が実現しようとしているということです。神様が、その独り子をこの世に遣わし、その御子イエスによって神の国を実現し、そこに私たちを招いて下さるのです。その神の国の実現のために、主イエスは今エルサレムへと、十字架の苦しみと死へと、そして復活と昇天へと、歩んでおられるのです。神様の独り子である主イエスが、私たちと同じようにこの世を歩み、そして私たちの罪を背負って十字架にかかって死んで下さり、それによって、神の国、神様の恵みのご支配は実現するのです。主イエスを信じ、従っていくとは、この主イエスのもとに集い、その足もとに座って主イエスの語られるみ言葉に、神様の恵みのご支配の到来を告げる福音に聞き入ることです。そしてそのみ言葉を本当に聞いた者は、この直前の10章25節からの「善いサマリア人」の物語で強盗にあった旅人を助けるサマリア人に見倣って、「行って、あなたも同じようにしなさい」という主イエスの励まし、勧めを受けるのです。主イエスの愛の業に倣う奉仕、ディアコニアは、この主イエスの励ましの中でこそなされていきます。主イエスによって実現する神の国を告げるみ言葉に聞き入り、それを本当に受け止めることによってこそ、私たちは本当に喜んで、自発的に、奉仕に生きることができるのです。

この「主イエスのみ言葉に聞き入る」ことを失ってしまうと、私たちの奉仕は自己実現や自己主張のための業になります。教会が奉仕を競い合う人々の集まりと化してしまいます。そこには、自分の奉仕への評価や見返りを求める思いが生じます。そうなったらもはや本当に喜んで奉仕しているとは言えません。そして自分の奉仕を本当に喜んでいないところには、自分はこれだけしているのにあの人はなんだ、と人を非難し審く思いが生じるのです。すべきことは、主イエスの足もとに座ってその恵みのみ言葉に聞き入ることなのです。「必要なことはただ一つだけである」という主イエスのお言葉は、そのことをマルタに、そして私たちに教えています。つまりマルタとマリアのこの姿は、先ほど申しましたように、信仰者のタイプの違いではないし、ある時はマリアに、ある時はマルタに徹する、などというものでもないのです。むしろ、マルタのしている奉仕、ディアコニアが本当に生かされ、喜びをもって自発的になされていくためには、マリアのあり方が必要なのです。主イエスはマルタも愛しておられるのです。それゆえに、「必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない」とおっしゃったのです。それはマリアを褒めるための言葉ではなくて、マルタが喜んで奉仕に生きるために本当に必要なことを教えようとされたみ言葉なのです。そして、主イエスの足もとに座ってみ言葉に聞き入っているマリアには、「行って、あなたも同じようにしなさい」という励ましが与えられました。そのようにしてマルタもマリアも共に、主イエスのみ言葉によって養われつつ、自分に与えられている賜物を喜んで自ら献げ、生活の中で具体的に主イエスに仕える者となっていったのです。

お祈りを致します。

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キリストの復活

【聖書箇所】

詩篇 30篇2~13節 (旧約聖書860ページ)

30:2 主よ、あなたをあがめます。あなたは敵を喜ばせることなく/わたしを引き上げてくださいました。
30:3 わたしの神、主よ、叫び求めるわたしを/あなたは癒してくださいました。
30:4 主よ、あなたはわたしの魂を陰府から引き上げ/墓穴に下ることを免れさせ/わたしに命を得させてくださいました。
30:5 主の慈しみに生きる人々よ/主に賛美の歌をうたい/聖なる御名を唱え、感謝をささげよ。
30:6 ひととき、お怒りになっても/命を得させることを御旨としてくださる。泣きながら夜を過ごす人にも/喜びの歌と共に朝を迎えさせてくださる。
30:7 平穏なときには、申しました/「わたしはとこしえに揺らぐことがない」と。
30:8 主よ、あなたが御旨によって/砦の山に立たせてくださったからです。しかし、御顔を隠されると/わたしはたちまち恐怖に陥りました。
30:9 主よ、わたしはあなたを呼びます。主に憐れみを乞います。
30:10 わたしが死んで墓に下ることに/何の益があるでしょう。塵があなたに感謝をささげ/あなたのまことを告げ知らせるでしょうか。
30:11 主よ、耳を傾け、憐れんでください。主よ、わたしの助けとなってください。
30:12 あなたはわたしの嘆きを踊りに変え/粗布を脱がせ、喜びを帯としてくださいました。
30:13 わたしの魂があなたをほめ歌い/沈黙することのないようにしてくださいました。わたしの神、主よ/とこしえにあなたに感謝をささげます。

ヨハネによる福音書 20章1~18節 (新約聖書209ページ)

◆復活する
20:1 週の初めの日、朝早く、まだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓に行った。そして、墓から石が取りのけてあるのを見た。
20:2 そこで、シモン・ペトロのところへ、また、イエスが愛しておられたもう一人の弟子のところへ走って行って彼らに告げた。「主が墓から取り去られました。どこに置かれているのか、わたしたちには分かりません。」
20:3 そこで、ペトロとそのもう一人の弟子は、外に出て墓へ行った。
20:4 二人は一緒に走ったが、もう一人の弟子の方が、ペトロより速く走って、先に墓に着いた。
20:5 身をかがめて中をのぞくと、亜麻布が置いてあった。しかし、彼は中には入らなかった。
20:6 続いて、シモン・ペトロも着いた。彼は墓に入り、亜麻布が置いてあるのを見た。
20:7 イエスの頭を包んでいた覆いは、亜麻布と同じ所には置いてなく、離れた所に丸めてあった。
20:8 それから、先に墓に着いたもう一人の弟子も入って来て、見て、信じた。
20:9 イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかったのである。
20:10 それから、この弟子たちは家に帰って行った。

◆イエス、マグダラのマリアに現れる
20:11 マリアは墓の外に立って泣いていた。泣きながら身をかがめて墓の中を見ると、
20:12 イエスの遺体の置いてあった所に、白い衣を着た二人の天使が見えた。一人は頭の方に、もう一人は足の方に座っていた。
20:13 天使たちが、「婦人よ、なぜ泣いているのか」と言うと、マリアは言った。「わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしには分かりません。」
20:14 こう言いながら後ろを振り向くと、イエスの立っておられるのが見えた。しかし、それがイエスだとは分からなかった。
20:15 イエスは言われた。「婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか。」マリアは、園丁だと思って言った。「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。わたしが、あの方を引き取ります。」
20:16 イエスが、「マリア」と言われると、彼女は振り向いて、ヘブライ語で、「ラボニ」と言った。「先生」という意味である。
20:17 イエスは言われた。「わたしにすがりつくのはよしなさい。まだ父のもとへ上っていないのだから。わたしの兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい。『わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る』と。」
20:18 マグダラのマリアは弟子たちのところへ行って、「わたしは主を見ました」と告げ、また、主から言われたことを伝えた。

《説 教》

今日はイースターです。主イエスが私たちの罪のために十字架に架かって死なれて3日目によみがえった、復活されたことをお祝いする『復活祭』です。それを英語でイースターと言います。

イースター(復活祭)は、キリスト教の三大祭りのイースター(復活祭)、ペンテコステ(聖霊降臨祭)、そしてクリスマス(降誕祭)の中でも最も大切なお祭りです。一番大切なイースターお祝いの日が、新型コロナウィルス感染症の世界的流行から、このように人が集まってはいけない状態で礼拝をお捧げすることとなったのは、ここに人間の思いを越える神の御意志を思わざるをえません。皆様と共におめでとうとお祝いの言葉を交わせないのは残念ですが、共に感謝と願いの祈りを致しましょう。

さて、今日は先ほどお読みした少々長い聖書箇所から主イエスの「復活」について考えてみたいと思います。

 

そのためにヨハネ福音書を少し前まで遡って、主イエスのご受難、十字架の経過を少し振り返って見たいと思います。

ヨハネ福音書17章で主イエスが弟子たちを連れられてゲッセマネで父なる神様に血の滲む祈りを捧げられました。すると、ユダに先導されたユダヤ教の宗教指導者の差し向けた兵士たちや大勢の群衆に主イエスは捕まえられました。そして、ユダヤ教の大祭司カイアファのもとで尋問を受け、続いて、ローマ帝国の総督ピラトから裁判を受けられたことが書かれています。そして、総督ピラトによる裁判によって、主イエスに何の罪をも見いだせなかったものの、ユダヤ群衆から異常な圧力を受けた総督ピラトは自分の意志に反して、主イエスに死刑の判決を下します。

そして主イエスは十字架につけられ、直前の鞭打ちの苦しみや痛みも相まって6時間ほどの短い時間で息を引き取られました。その主イエスの亡骸をアリマタヤのヨセフが引き取り、自分のために準備した新しい墓に主イエスのご遺体を葬り大きな石で墓の入口を塞ぎました。そして、過越祭の終わった三日目の朝に、マグダラのマリアが、その主イエスの墓に行ったところからが、本日の主イエスの復活の聖書箇所です。

 

因みに、新約聖書の中には主イエスが様々な奇蹟を行われる記事があります。中でも主イエスが死んだ人を生き返らせる奇蹟物語は有名で、皆さんもよくご存知ではないでしょうか。なかでも、ルカ福音書7章の「ナインのやもめの息子のよみがえり」、マルコ福音書5章の「会堂長ヤイロの娘のよみがえり」、そして、このヨハネ福音書11章の「ラザロのよみがえり」の3つの死からのよみがえり、奇蹟物語がよく知られています。これらは、主イエスが死人を生き返らせた奇蹟物語ですが、これらは今日の主イエスご自身の「復活」とは、まったく違うのです。

 

マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの四つの福音書には、それぞれ特徴があります。

例えば、マルコ福音書では、主イエスがお生まれになった降誕物語、クリスマスの記事を省略しています。ヨハネ福音書では、その主イエスのご降誕を抽象的な表し方をしています。しかし、この主イエスの「復活物語」を省略する福音書はありません。四福音書すべてが必ず主イエスの復活記事を書いていることからも、聖書にとって主イエスの「復活」が極めて重要な物語であると理解できます。主イエスの復活こそが、キリスト教の中心テーマであり、最も大切な主イエスによる救いへと繋がっているのです。

四福音書すべてに記されている主イエスの復活物語ですが、それらの記事は通常二つの形に分けられます。一つ目は、主イエスのご遺体が墓の中にはないことを記し、間接的に主イエスの復活を物語る「空の墓物語」です。そして、二つ目は、復活の主イエスが弟子たちに御姿を現されたことを記す「顕現物語」です。

今日のヨハネ福音書は、「空の墓物語」の延長線上にマグダラのマリアへの復活の主イエスの「顕現物語」を加えた丁寧で詳細なものとなっています。

 

本日のヨハネ福音書20章をご覧になると、1節に「週の初めの日」とあります。これは、金曜日に十字架に死なれ、葬られた主イエスの復活の日の朝のことで、日曜日です。この日曜日の朝に主イエスの墓を訪れた者として、マタイ・マルコ・ルカ3つの共観福音書が複数の女性たちの名前を挙げているのに対し、このヨハネ福音書はただひとりマグダラのマリアにだけ焦点を当てています。ただ、2節のマリアの言葉が「わたしたち」と複数形となっていることを文字通りに受け取れば、墓を訪れたのは複数の者たちであったと暗示されているとも思われます。

このヨハネ福音書ではマリアが墓へ行った理由は記されていませんが、共観福音書によると、それは過越祭の前の十字架刑のために急いで葬られた主イエスの未完成に終った葬りを完成させるためであったと思われます(マコ16:1)。空の墓を発見したマリアは、2節にあるように、ペトロと主イエスが愛されたもう一人の弟子のところへ、急いで墓が空であることを告げ知らせに行きました。

まだこの段階ではマリアの中で空の墓の事実と復活信仰とは結び付いていないことが文面から分かります。マリアは主イエスが復活されたとはまったく考えてもいませんでした。3節以下に続くペトロともう一人の弟子に関する記事では、主イエスの愛しておられた弟子が大変目立ちます。墓へ先に着いたのもこの主イエスが愛しておられたもう一人の弟子であり、「見て、信じた」と明言されているのも、この主イエスの愛された弟子でした。

7節の「イエスの頭を包んでいた覆いは、亜麻布と同じ所には置いてなく、離れた所に丸めてあった。」と書かれている部分は大変分かり難いと言えましょう。他の聖書箇所にも出て来ますが、復活の栄光の主イエスの体が壁や扉をすり抜けられたりしていることから、復活の主イエスの体は人間としての姿とは大きく異なることが分かります。また、誰かが遺体を包んだ布をわざわざはがして遺体を持ち去ると言うには大変不自然な状況と思われます。先程も触れましたが、8節の「見て、信じた」とは、不思議なことに何を信じたのかよく分かりません。次の9節の「イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかった」という文脈から読み取ると、主イエスの復活を信じたのではなく、マリアの言ったこと、墓が空であることを信じたということになってしまいます。

しかしヨハネ福音書では、この「見て、信じる」という言葉を繰り返し信仰的に使っています(2:23、4:48、6:30、36、40、20:8、25、27、29)。そのことから、その主イエスの愛された弟子をペトロや他の者たちよりも先駆的な者とし、空虚な墓を見るや否や恐らく復活の主イエスを信じたと解釈する方が自然と思われます。この「見て、信じた」とは、主イエスの復活を信じる信仰告白を意味していると思われます。

このように主イエスの復活の様子は、四福音書それぞれの記事によれば、先ず空の墓が発見され、主イエスの亡骸がなくなっていたこと、その次には天使による御告げがあります。これは主イエスの復活は天の上から行われたことを意味します。そして、最後に復活の主イエスの顕現、人々の目に見えるお姿でマグダラのマリアだけでなく弟子たちを始め多くの人々に姿を現されたということが記されています。

マグダラのマリアが再び墓に来て見たものは、「二人の天使」でした。このヨハネ福音書の天使は、マリアに対して主イエスが復活されたとの事実を話してはいません。そして、マリアはこの時点では主イエスの復活を信じられず、誰かが主イエスのご遺体を持ち去ったと考えていました。11節にあるようにマリアは墓の中に主イエスが未だおられるのではないかとのぞき込みました。その時復活の主イエスはマリアの後ろに立っておられました。何と驚いたことにマリアはそのお姿を見たけれど、それが主イエスであるとは気付かなかったとあります。

この不思議な話はルカ福音書24章のエマオ途上の二人の弟子にも起きたと記されています(参照ルカ24:16、31)。マリアが主イエスに気付かなかった理由は記されていません。泣いていたので涙に曇ってよく見えなかったのかもしれません。あるいはまた主イエスが死なれたという事実が余りにも強烈で、主イエスがよみがえって自分の前に姿を現すなどとはまったく思いが及ばなかったのかもしれません。あるいは復活の主イエスの体は栄光の体だったので、まったく別人と思い認識することが出来なかったのかもしれませんが、それにしては園丁だと思ったとあるので、光り輝く栄光の体とも思えません。いずれにせよ、羊がまことの羊飼いの声を知っているように(ヨハ10:3‐4)、主イエスの「マリア」と言われたの呼び掛けにマリアは目を開かれます。これは、主イエスの呼び掛けによって、ただそこに誰か人がいるという認識から、復活の主を信じる信仰へと目覚めていったことを表しています。

マリアは主イエスを見ていたのですが、主イエスがご自身がマリアに呼び掛けられるまでは主イエスを「見て信じて」いなかったのです。信仰の眼をもって主イエスを見てはいなかったのです。

17節に「わたしにすがりつくのはよしなさい」との不思議な言葉があります。なぜ、マリアは主イエスにすがりついてはいけないのでしょうか。

ルカ福音書には、「マグダラのマリア」はよく登場します。7章では主イエスに高価な香油を注いでその御足を涙をもって髪の毛で拭った「罪深い女」として、また8章では、主イエスによって7つの悪霊を追い出していただいた女性だと記されています。多くの苦しみや悩み悲しみ、病を、主イエスによって慰められ、解決され、癒されたのでした。

それ以来、マリアは、主イエスに付き従って旅をするようになりました。主イエスのことを最も慕う女性の一人でした。主イエスが十字架で処刑され、弟子たちも逃げ去っていった中で、主イエスが息を引き取られる最後まで見届けました。そして、日曜日の朝早く、押え切れない気持で、墓へ行ったのです。ペトロともう一人の弟子が、空っぽの墓を見届けて、帰って行った後も、マリアは、その場に留まっていたのです。泣きながら主イエスを探し回ったのです。そして、ついに、自分の後ろに立っておられる主イエスに気づいたのです。マリアが主イエスにすがりつくのは無理もないでしょう。そのマリアに、復活した主イエスは、「わたしにすがりつくのはよしなさい」と言われるのです。どうしてでしょうか。もちろん、主イエスが意地悪を言われる訳ではありません。何か訳がある筈です。

それは、すがりつくほどの思いは分かる。けれども、そのすがりつくような信仰から離れなさいといった主イエスの親心ではないでしょうか。2年前まで学んでいた東京神学大学の講義でも聞いたことがありましたが、神様を信じる信仰には、“サル型”と“ネコ型”があると言われています。サルは自分の子供を運ぶ時、子ザルを母ザルのお腹にしっかりとしがみつかせます。母ザルが自分の手で子ザルを抱えることはありません。子ザルは掴んでいる手を離したら終わりです。従って、サルの子供は必死で母ザルにすがりつくことになります。

一方、ネコの子供は移動する時、母ネコが子ネコをくわえて運びます。子ネコはすがりつこうにも四本足共にブランブランです。力を抜いて、お母さんにお任せなのです。神様を信じる信仰も、サルの子のように自分の力でしがみつく信仰と、ネコの子のように神様にお任せしてしまうお委(ゆだ)ねする信仰とがあると言えます。私たちの信仰は、自分の力で必死にすがりつくような信仰ではなく、神様を信頼し切って、安心して自分のすべてを神様にお委(ゆだ)ねできるような信仰へ変えられなければならないのです。

自分からすがりつく信仰は頑張らなければならない信仰です。一生懸命努力しなければならない信仰です。それでは、疲れます。いつも自分の方からすがりついていなければならない。自分が手を離したら終わりです。信仰のために自分が、頑張らなければならない。善い行いや努力をしていないと、神様に愛してもらえない、見捨てられてしまうのではないだろうか。そんな不安が心の中に大きな場所を占めます。その結果、自分は神様に愛されていないのではないだろうか、見捨てられてしまうのではないだろうか、と不安になっていないでしょうか。教会での奉仕や良い行いが充分にできれば安心できます。しかし、教会での奉仕や自助努力が足りないと思うと落ち込んだり、不安になってしまうのではないでしょうか。頑張らないと神様に愛されないと思う人生になっていないでしょうか。もちろん、何事に対しても努力するのは極めて大切です。しかし、努力の結果で、神様が私たちを愛されるのか、愛されないのかが決まるのではありません。神様の愛とは、そんなものではないのです。

あなたは愛されている存在だ。聖書は、私たちに、そのように語りかけます。たとえ善い行いができなくても、何もできなくても、結果が出せなくても、神様はあなたを一方的に愛してくださっている。その手で、しっかりと掴んでいてくださる。だから、私たちは、“良い子でいなければ”と、りきむ力を抜いて、“神様、感謝します。こんな私ですが、よろしくお願いします。”と、神様を信頼し、お任せする。お委ねする。そこに安心が生まれます。喜びが生まれます。

そんな人生の安心と喜びに気づかせるために、復活した主イエスは、マリアの背後から声をかけられたに違いありません。「イエス様はどこ?」「幸せはどこ?」「救いはどこ?」と、必死に追い求めているマリアに、見えない後ろから声をかけられました。私たちの人生には、見えるところだけでなく、見えないところも大切であることを主イエスは語りかけているのです。

ヨハネ福音書での主イエスの本当の栄光とは十字架で私たちの罪のために死なれたことだけではなく、十字架で死なれても復活されて、天に上げられ、天に存在されていることです。14章3節から4節で、主イエスが弟子たちとの夕食、最後の晩餐の時、弟子たちのところへ再び帰って来ると約束されました。これは、十字架から復活された主イエスが父なる神様の御許ヘ上ってゆかれ、そして再びこの地上に来られることなのです。「復活」とは一度死んだ者が再び息を吹き返すという現象、いわゆる「生き返り」や「蘇生」とは全く違います。「復活」とは主イエスが初めてなさった特別な御業です。

 

主イエスの復活とは、四福音書と第一コリント15章に記されている合計10回に上る顕現物語です。それら一つ一つの記事は、それぞれが独立して多様性を持っています。後代に調和させたとは考えられません。主イエスが復活されたという主要な点においてはすべての記事が一致しています。また、それらの記事の中で多くの人々に現れた状況や、主イエスの十字架を見て逃げ去ってしまった弟子たちが復活の主イエスに出会って大きな変化が起きたことは否定できません。一番弟子のペトロでさえ、主イエスから「鶏がなくまでに、三度わたしを知らないと言うだろう。」と言われ、その場から逃げ去り、十字架の場面にも登場せず、何と本日のヨハネ福音書21章にあるように、ガリラヤ湖の漁師に戻ろうとしている時に、復活の主イエスの出会い偉大な伝道者に変えられました。何が弟子たちを逃げ隠れする者から殉教を恐れず大胆に福音を語る者に変えたのか、弟子たちに勇気と確信を与え、力強い伝道者に変えたのは復活の主イエスご自身が伝道の力を弟子たちに与えられたからに他ならないのです。

また、それまでは、ユダヤ人として土曜日の安息日を守っていた弟子たちが、なぜ日曜日の主の日を守り、また聖餐を祝うようになったのか、1節にあるように、この日が「週の初めの日」になったのか。

これらはみな、主イエス・キリストの復活によってなされたものと考えるべきです。バプテスマ(洗礼)は、キリストと共に葬られ、よみがえったことのしるしです。この主イエスの復活は神様の御業なのです。

 

そして、主イエスがなされたこの復活は私たちにも将来起きる、終末の時にすべての人々に起きる。その終末の時には、生きている人々だけでなく、死んだ人々も復活すると新約聖書は語っているのです。

復活した身体がどんなものなのかについては、聖書では詳しくは語られていません。しかし、主イエスの復活が私たちの救いと密接に結びついていることは、ローマの信徒への手紙4章25節にある様に「イエスは、わたしたちの罪のために死に渡され、わたしたちが義とされるために復活させられたのです。」ということばからも明確に分かります。

私たちの罪を贖うために十字架で死なれた主イエスは復活されて、今も私たちが義とされるため、私たちを罪から救うために生きて働いておられるのです。

 

復活を信じることは、主イエスを信じる信仰、キリスト教信仰の中心なのです(使2:24‐36、3:13‐15、4:2、10、11、33、5:30、10:39、40、13:27‐38、17:3、18、31、26:23)。神様の恵みである主イエス・キリストの復活なくしてキリスト教信仰はないのです。

この復活信仰は、私たちが努力して身に着け、己の知識とするものではありません。マグダラのマリアに主イエスが呼び掛けられたように、主イエスから一方的に与えられるのです。私たちが主イエスの呼び掛けに応える時に与えられる一方的な信仰の恵みなのです。

新約聖書210ページ、ヨハネによる福音書20章27節に復活を疑う弟子のトマスに主イエスは語られました。

20:27 それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」

復活の主イエスは疑い深い弟子のトマスだけでなく、私たち皆に『信じない者ではなく、信じる者になりなさい』と呼び掛けられているのです。

疑うトマスに優しく呼び掛けられる復活の主イエスは、今も生きて私たちを愛して『信じない者ではなく、信じる者になりなさい』と呼び掛け続けられているのです。

お祈りを致しましょう。

 

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・・・ 以  上 ・・・