聖霊の賜物

ペンテコステ礼拝

齋藤 正 牧師

《賛美歌》

讃美歌56番
讃美歌352番
讃美歌502番

《聖書箇所》

旧約聖書:詩篇 122篇1-9節 (旧約聖書969ページ)

122:1 主の家に行こう、と人々が言ったとき/わたしはうれしかった。
122:2 エルサレムよ、あなたの城門の中に/わたしたちの足は立っている。
122:3 エルサレム、都として建てられた町。そこに、すべては結び合い
122:4 そこに、すべての部族、主の部族は上って来る。主の御名に感謝をささげるのはイスラエルの定め。
122:5 そこにこそ、裁きの王座が/ダビデの家の王座が据えられている。
122:6 エルサレムの平和を求めよう。「あなたを愛する人々に平安があるように。
122:7 あなたの城壁のうちに平和があるように。あなたの城郭のうちに平安があるように。」
122:8 わたしは言おう、わたしの兄弟、友のために。「あなたのうちに平和があるように。」
122:9 わたしは願おう/わたしたちの神、主の家のために。「あなたに幸いがあるように。」

新約聖書:マルコによる福音書 3章20-30節 (新約聖書66ページ)

◆ベルゼブル論争

3:20 イエスが家に帰られると、群衆がまた集まって来て、一同は食事をする暇もないほどであった。
3:21 身内の人たちはイエスのことを聞いて取り押さえに来た。「あの男は気が変になっている」と言われていたからである。
3:22 エルサレムから下って来た律法学者たちも、「あの男はベルゼブルに取りつかれている」と言い、また、「悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」と言っていた。
3:23 そこで、イエスは彼らを呼び寄せて、たとえを用いて語られた。「どうして、サタンがサタンを追い出せよう。
3:24 国が内輪で争えば、その国は成り立たない。
3:25 家が内輪で争えば、その家は成り立たない。
3:26 同じように、サタンが内輪もめして争えば、立ち行かず、滅びてしまう。
3:27 また、まず強い人を縛り上げなければ、だれも、その人の家に押し入って、家財道具を奪い取ることはできない。まず縛ってから、その家を略奪するものだ。
3:28 はっきり言っておく。人の子らが犯す罪やどんな冒涜の言葉も、すべて赦される。
3:29 しかし、聖霊を冒涜する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う。」
3:30 イエスがこう言われたのは、「彼は汚れた霊に取りつかれている」と人々が言っていたからである。

《説教》『聖霊の賜物』

主イエスの周りには大勢の群衆が集まっていました。「一同は食事をする暇もない」と記されていますが、原文では「食事をすることも出来なかった」となっており、時間がないということではなく、押し寄せた群衆によって小さな家が一杯になり、「食事どころではなかった」ということだと思われます。主イエス・キリストの行くところ、主イエスに興味をもった人々で満ち溢れていたのが、初期のガリラヤ伝道でした。

また、ここに「一同」という言葉があります。原文は、そのまま「彼ら」です。この言葉を、日本の神学者で日本キリスト教会の指導的な牧師であり、カルヴァンの『キリスト教綱要』の翻訳者の渡辺信夫は「彼に属するものたち」と説明しています。聖書は弟子たちのことを「彼に属する者」即ち「キリストに属する者」と語り、人々の中心にいるのはキリストお一人であり、たとえ十二使徒であろうと、私たちの教会で言えば、牧師でも信徒でも、ただ等しくキリストに属している者に過ぎないと語っています。

この時、集まって来たユダヤ民衆は、主イエスに癒しの奇蹟などの超自然的な力を期待していただけに過ぎず、自分たちの眼に見える身近な幸福への願いを叶えて貰おうと集まって来ただけと言えましょう。

自分の要求を第一とする自己中心主義は、誰にでも有るものであり、現代の私たちも同じです。

21節から22節には、「身内の人たちはイエスのことを聞いて取り押さえに来た。『あの男は気が変になっている』と言われていたからである。エルサレムから下って来た律法学者たちも、『あの男はベルゼブルに取りつかれている』と言い、また『悪霊の頭の力で悪霊を追い出している』と言っていた。」と記されています。

主イエスが、病人を癒し、悪霊を追い出しているだけならば、家族の人々は「気が変になった」とは思わなかったでしょう。この時代、病気の治療と悪霊の追放を行う治療師や祈祷師は多くいました。ですから、自分たちの家族の一人が「神がかった力を身に付けた」と思ったとしても、「取り押さえに来る」ことはなかった筈です。ナザレからカファルナウムまで25Km余りで、石がごろごろしているガリラヤの山地です。歩けば丸一日かかります。31節を見れば、母マリアまで大変な思いで駆けつけて来たと思われます。何が、「狂った」と言われるほどに異常だったのでしょうか。

それは主イエスと弟子たち一行がそれまでの平凡な生活を捨てたことにあります。ペトロたちはガリラヤ湖での主イエスとの出会い以来、家も漁師の職業も捨て、主イエスに従いました。それは、これ迄の生活を守る堅実な生き方を否定する危険な思想のように受け取られても仕方ありません。

当時、主イエスは、多くの人々からバプテスマのヨハネの再来と見られました。それは、支配権力を認めず、新しい権威、新しい価値観を説いていたからです。ユダヤ民衆の指導者であった祭司や律法学者たちは民衆から尊敬され、大きな権限を持っていました。会堂・シナゴーグを中心としたユダヤ民衆の日常生活は、この伝統的な支配体制に依存していました。

しかし、主イエスの周りには、そんな伝統的社会で軽んじられていた人々が多く集まっていました。無学な漁師たち、イスラエル民衆から軽蔑されていた徴税人、危険思想を持つ熱心党員、更に、娼婦として蔑視されていた女性たちや難病に苦しむ人々、苦しい生活を強いられている未亡人たちなど、主イエスの周りに集まっていたのは伝統的な社会からはみ出した人々でした。そのため、主イエスと弟子たちは反社会的行動をしている革命家とも見做されたでしょう。

「神の国の到来」という福音を宣べ伝える主イエスの姿勢は、その時代の人々の生き方と全く異質に見えるものでした。それは、常識的な人生の価値観と共存出来るものではなく、現実の伝統的な社会体制の中を生きる者にとって「異質なもの」でした。

私たちの教会でも時折、「私がイエスの時代に生まれ、イエスの説教を直接聴いたら、もっと素晴しい信仰者になった」と言う人がいますが、それは、どうでしょうか。主イエスの御言葉を聴かされる者は、自分が過去に守って来た大切なものを否定する言葉を聴くのです。福音は、それまでの生活の流れを徹底的に変えることを要求します。主イエスの家族は、明らかに「過激だ、行き過ぎだ」と思ったのです。

「気が狂った」とは、「正常な人間の世界の中にあるものとは認められない」ということです。主イエスが過去の生活の全てを捨てて、神の御計画に従うということは「昨日までの生活と異なる毎日を生きるか」ということなのです。律法学者たちが主イエスがなされた数々の奇蹟の御業を見て、そこに偉大な力を認めながら、それでもなお、それが悪霊との結び付きとしか言えないのも、主イエスの家族と同じです。自分の考え、自分の生き方に合わないもの全てを、「まともではない」と決め付けているのです。

主イエスを愛する家族たちも、主イエスを憎む律法学者たちも、主イエスに対する対応が同じであるならば、それは、個人の感情的な問題ではなく、まさに人間の持つ罪の本質的な姿と言う以外ありません。

福音とは、神様に背を向けた人間の眼には、「狂っている」としか見えないようなことがあるのです。

更に23節から27節で主イエスは、「どうして、サタンがサタンを追い出せよう。国が内輪で争えば、その国は成り立たない。家が内輪で争えば、その家は成り立たない。同じように、サタンが内輪もめして争えば、立ち行かず、滅びてしまう。また、まず強い人を縛り上げなければ、だれも、その人の家に押し入って、家財道具を奪い取ることは出来ない。まず縛ってから、その家を略奪するものだ。」と言われました。

サタンがサタンに対して反抗しては、サタンではありません。国でも家でも、内輪の争いが起ったら、存続は不可能です。これは、「悪霊の頭ベルゼブルに取りつかれている」という主イエスへの批判に対するの論駁で、27節の「強い人」とは、その悪霊を指しています。悪霊は、その力で人々を「罪と死の奴隷」にし、まるで「家財道具」のようにその「家」自分自身の中に閉じ込めているのです。悪霊である「強い人」の家に押し入り、その支配下にある「家財道具を奪い取る」とは、「悪霊に縛られている人を解放する」ことです。そのためには、まず「強い人」を縛り上げる強い力が必要であると言われているのです。

主イエスは御自分の正しさを行いを持って現わされました。「正しさ」とは、私たちが、今、どのように生きているかという「存在の正しさ」です。「存在の正しさ」とは、世のため、人々のため、教会のために、どれだけ尽くして来たかということではありません。どれ程人を愛して来たかということでもありません。

その全ては、「何のためになされて来たのか」ということに尽きるのです。

28節から29節にかけて、主イエスは大変理解し難いことを言われました。「はっきり言っておく。人の子らが犯す罪やどんな冒涜の言葉も、すべて赦される。しかし、聖霊を冒涜する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う。」と「聖霊」に拘ったことを言われました。

この世で人間の犯す全ての罪は赦される、しかし、聖霊を汚す者だけは永遠の罰に定められるとあります。それは何故でしょうか。

聖霊なる神とは、キリストから遣わされて私たちのところに来られた「助け主」です。神様の赦しを伝達されるのは聖霊です。聖霊を拒否する者は、聖霊を通して与えられる神の赦しを拒否する者であり、神の赦しを拒否する者は最終的な裁き「滅び」を受けざるを得ないのです。言い方を替えれば、福音を信ずるならば全ての人間は救われるのであり、滅びる者は、自分から赦しを拒否して破滅への道を進んでいくのです。

私たちは、キリストに属する者、キリストの弟子として聖霊を通して教会に集められ召された者であり、聖霊の導きを受けキリストの救いの御心が、全ての人々に対して向けられている、ということを証しする者です。

私たちは、永遠の神の御国に向かう新しい生き方に変えられた者として、聖霊に導かれ、世の人々の前、とりわけ愛する家族・友人に、愛なる神の救いの御心を伝える者となるのです。

今日の、この聖霊降臨日、豊かな力ある聖霊に導かれていることを深く覚え、聖餐の恵みに与りましょう。

お祈りを致しましょう。

キリストの復活

イースター礼拝

齋藤 正 牧師

《賛美歌》

讃美歌338番
讃美歌420番
讃美歌512番

《聖書箇所》

旧約聖書:詩篇 118篇13-29節 (旧約聖書957ページ)

118:13 激しく攻められて倒れそうになったわたしを/主は助けてくださった。
118:14 主はわたしの砦、わたしの歌。主はわたしの救いとなってくださった。
118:15 御救いを喜び歌う声が主に従う人の天幕に響く。主の右の手は御力を示す。
118:16 主の右の手は高く上がり/主の右の手は御力を示す。
118:17 死ぬことなく、生き長らえて/主の御業を語り伝えよう。
118:18 主はわたしを厳しく懲らしめられたが/死に渡すことはなさらなかった。
118:19 正義の城門を開け/わたしは入って主に感謝しよう。
118:20 これは主の城門/主に従う人々はここを入る。
118:21 わたしはあなたに感謝をささげる/あなたは答え、救いを与えてくださった。
118:22 家を建てる者の退けた石が/隅の親石となった。
118:23 これは主の御業/わたしたちの目には驚くべきこと。
118:24 今日こそ主の御業の日。今日を喜び祝い、喜び躍ろう。
118:25 どうか主よ、わたしたちに救いを。どうか主よ、わたしたちに栄えを。
118:26 祝福あれ、主の御名によって来る人に。わたしたちは主の家からあなたたちを祝福する。
118:27 主こそ神、わたしたちに光をお与えになる方。祭壇の角のところまで/祭りのいけにえを綱でひいて行け。
118:28 あなたはわたしの神、あなたに感謝をささげる。わたしの神よ、あなたをあがめる。
118:29 恵み深い主に感謝せよ。慈しみはとこしえに。

新約聖書:マルコによる福音書 16章1-8節 (新約聖書97ページ)

16:1 安息日が終わると、マグダラのマリア、ヤコブの母マリア、サロメは、イエスに油を塗りに行くために香料を買った。
16:2 そして、週の初めの日の朝ごく早く、日が出るとすぐ墓に行った。
16:3 彼女たちは、「だれが墓の入り口からあの石を転がしてくれるでしょうか」と話し合っていた。
16:4 ところが、目を上げて見ると、石は既にわきへ転がしてあった。石は非常に大きかったのである。
16:5 墓の中に入ると、白い長い衣を着た若者が右手に座っているのが見えたので、婦人たちはひどく驚いた。
16:6 若者は言った。「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。御覧なさい。お納めした場所である。
16:7 さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる』と。」
16:8 婦人たちは墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである。

《説教》『キリストの復活』

今日は、私たちキリスト者が待望するイースター、「キリストの復活」を祈念する日です。私たちの信仰の中心は主イエス・キリストの十字架の救いと復活です。それ以外はないと言っても良いでしょう。

キリスト者の信仰の中心は、主イエス・キリストが十字架の上で殺され、三日目に死より復活されたという事実にあります。使徒パウロは、コリントの信徒への手紙15章14節から17節で、「キリストが復活しなかったのなら、わたしたちの宣教は無駄であるし、あなた方の信仰も無駄です。・・・そして、キリストが復活しなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお罪の中にあることになります。」と、ハッキリと記しています。私たちを救われる神の愛は、御子キリストを復活させることによって、救いの御計画を実現させました。

キリストの復活は、単なる生物的な肉体の死の否定ではなく、神の力の偉大さを示すことでもありません。復活という死からの甦りは、罪の赦しの宣言であり、永遠の生命を与えるとの神の約束の実現であり、神と共に生きる人間の最終的な希望そのものです。

聖書は、この驚くべき神のなされた出来事を、二千年の時を超えて告げており、それによって始まる新しい時代の希望を語り続けて来ました。だからこそ、私たちは日々、主イエス・キリスト復活の日の朝の驚きに心新たに立ち戻らなければなりません。

ユダヤの暦では、日没が一日の区切りです。現在の暦で言えば、金曜日の日没で安息日が始まり、土曜日の日没で安息日が終わります。その安息日では、仕事はすべて禁じられ、礼拝のために会堂・シナゴーグへ行く以外には、外出さえ禁じられていました。その安息日を避けるために主イエスは金曜日に十字架にかけられ、夕方近く、午後三時頃に十字架上で息を引き取られました。十字架から降ろされた主イエスの亡骸を日没と共に始まる安息日の前に大急ぎで日没前に墓へ納めました。そして、日没と共に、現代の暦で土曜日の安息日が始まりました。主イエスに最後の奉仕をしようとしていた女性たちにとって、この安息日ほど長い一日はなかったでしょう。

更に象徴的なこととして、安息日という戒めのために、シナゴーグでの礼拝に行く以外は外出さえ許されない日でした。安息日を守ることは、確かに重要な律法の定めであり、神と共に生きる者にとって、信仰の確かさを確認する日でした。安息日とは、本来、そういう日であり、決して休養の日ではなく、神に近づくことしか許されない日でした。神が与えて下さった「安息日の定め」のために、神が与えてくださった御子イエスから引き離され、「イエスに奉仕する志を持ちながら」近づくことが許されなかったこの安息日の土曜日、一日は、古い時代の信仰の姿そのものであり、福音を待つ人間を象徴する日であったとも言えるでしょう。

彼女たちには、主イエスへの献身的な愛があったとは言え、希望がありませんでした。彼女たちが周囲の目を忍んでまで行おうとしていたことは、あくまでも「遺体の処置」であり、「死者を葬る作業」に過ぎませんでした。生と死とは、越えることの出来ない大きな淵で遮られており、彼女たちには、ただ別れを告げるため、肉体を土に帰すためだけの作業でしかありませんでした。それは、「あきらめ」とも言える作業でした。

今日の16章1節から2節に「安息日が終わると、マグダラのマリア、ヤコブの母マリア、サロメは、イエスに油を塗りに行くために香料を買った。そして、週の初めの日の朝ごく早く、日が出るとすぐ墓に行った。」と記されています。

ペトロをはじめ、ずっと主イエスの従って来た弟子たちでさえ、逃げ去ったにもかかわらず、彼女たちは、最後まで十字架の下に留まっていました。そして、悲惨な最期を遂げられた主イエスのために、周囲の人々の冷たい眼差しにも拘わらず、「せめて最後の奉仕だけでも…」と考えていたのです。日没と共に安息日が終わり、ようやく開いた店で葬りのための香料を買い求めました。しかし、日没で夜となり、墓へ行くことも出来ず、日曜日の夜明けを待たなければなりませんでした。

彼女たちは、週の初めの日曜日の朝、夜の明けるのを待ちかねて空が白み始めるとすぐに、夜明けの墓場に急ぎました。このとき主イエスを埋葬した墓は、ユダヤ議会の議員でもあるアリマタヤのヨセフが、本来、自分のために用意した墓でした。現在でもイスラエルに残っている多くの墓のように、岩壁に掘られた横穴式のものであり、中は広く、何人もの人が入れる部屋が二つ以上あった筈です。そして入り口は、巨大な円盤状の石を、溝にそって転がして閉めるようになっていました。

二人のマリアとサロメは、夜が明けるか明けないかという時に家を飛び出して来ましたが墓の前まで来て、「だれが墓の入り口からあの石を転がしてくれるでしょうか」と、女性の力では墓を開けることが出来ないと相談をしているのです。これは実に象徴的な「呟き」と言うべきでしょう。

婦人たちは、他のことを一切考えず、ただ主イエスの葬りのことだけを思いつめて、この場に急いだのです。確かに周りの視線も意識せず、深い考えもない行動と言えるかも知れませんが、「福音の知らせに真っ先に与ったのは彼女たちであった」のです。一向に腰を上げない人より、その「ひたむきさ」において、はるかに勝っていたと言えるでしょう。

4節には、「ところが、目を上げて見ると、石は既にわきへ転がしてあった。石は非常に大きかったのである。」とあります。ここに、「目を上げて見る」とあります、これが大切です。「目を上げる」とは、「自分の心を見つめる」ことから「神を仰ぎ見る」ことへの変化を意味します。自分ではどうにもならないことにこだわり、その思いに留まり続けるのではなく、問題は問題として意識しながら、まず何よりも「神に目を向ける」ことが必要なのです。「石は既にわきへ転がしてあった」。これが、自分に何が出来るのかを深く考えることなく、ただ主イエスに仕えることしか考えなかった彼女たちに対する「神の答」でした。私たちの力に余ることは、神御自身が力を貸して下さるのです。主のもとへ急ぐ人間の前に、神御自身が道を開かれるのです。

しかも、主イエスの甦りは「更に早かった」と告げられています。5節には、「墓の中に入ると、白い長い衣を着た若者が右手に座っているのが見えたので、婦人たちはひどく驚いた」と記されています。墓の中には婦人たちを待っている神の御使いが既にそこに居られたのです。主なる神は、誰よりも早く来た人よりも、「もっと早く」から待っておられたのです。それ故に、この日の夜明けを誰よりも待ち望んでいたのは、実は、神御自身であったのです。

御子を世に送り、御子キリストの御業によって救いの御計画を実現される父なる神の御心は、この朝にすべてを用意されておられたのです。6節の「あの方は復活なさって、ここにはおられない。」これが、この時の女性たちを含めて「復活を信じられないすべての人間」に対する主なる神の回答です。

復活を信じない人は沢山います。コリントの信徒への手紙でパウロが述べているように、初代教会の時代から、「死人の甦り」を嘲笑う人々はすでに数多くいました。「復活など昔の人の幼稚な迷信だ」と言う人もいます。「現代の人間に復活など語っても無駄だ」と言う人もいます。しかし、遠い二千年の昔でも、死者の甦りは「あり得ないこと」でした。現代と同じように、復活は人間の常識の外にあり、弟子たちでさえ誰一人として信じていなかったのです。復活を否定することは、主イエスを墓の中に永遠に閉じ込めてしまうことです。主イエス・キリストの復活は、議論の対象ではなく、まして、私たちの熟慮の結果その是非を判断するというようなものではありません。

私たちは、神が御心のままに為されたキリストの御業の後に従うだけであり、キリストが復活して、死を征服されたという真実を信じることから、信仰は始まるのです。

さらに、復活の主イエスのメッセージが、「ガリラヤへ行け」という命令に結び付けられていることにも注目しなければなりません。ガリラヤとは、福音の出発に相応しいと、神御自身が選ばれたところであり、弟子たちが召されたところです。復活の福音もまた「ガリラヤから始めなければならない」という神の御計画は初めから少しも変わっていないのです。「ガリラヤに行け」という命令は、伝道しなさいという命令です。単に、主イエスに再会するためにガリラヤに行くのではなく、神の救いの御業のため「働く場」へと行くことです。復活の主イエスが、私たちの働きの場にも先立って行かれているのです。主イエスの復活は、私たちに、虚しく待つ時を求めるのではなく、付き従う者へ新しい希望と勇気を与えるのです。

これが「週の初めの日」に起こった出来事であり、人間の歴史を変える歩みがこの日に始まったのです。

「週の初めの日」とは、天地創造の初めの日であり、神が全世界に秩序をお与えになった日です。

主イエス・キリストの復活こそ、「新しい創造の日」です。主なる神の信頼を裏切り、創造の秩序を損なって来た人間の罪が、ここに赦され、再び、神を神とし、造られた者が神の眼差しの前で生きることを喜べる「本来の姿」が回復されたのです。

ユダヤ教から分かれたキリスト教会は、礼拝の日を、ユダヤ教の土曜日の安息日から「週の初めの日」「日曜日」に変えました。キリスト者とは、この新しい世界に生かされていることを告白する者であり、「週の初めの日」主日礼拝を固く守っているのです。

今朝のあの女性たちと同じように、私たちもまた深く考えずに行いをなしている者です。自分で解決できない色々な問題を抱えて集まって来ていると言えるかもしれません。今ここで、「目を上げて見よう」ではありませんか。主なる神が、主イエス・キリストの十字架と、復活の御業によって、「救い」を備えて下さっているのです。

既に墓の入口を塞ぐ石は取り除かれ、「救いの道」は開かれています。その開かれた「救いの道」は、死に勝利された、主イエス・キリストと共に歩む世界なのです。

私たちが愛するお一人でも多くの方々を、主イエス・キリストの「救い」の世界へとお誘いいたしましょう。

お祈りを致します。

主イエス・キリスト

主日礼拝

齋藤 正 牧師

《賛美歌》

讃美歌321番
讃美歌142番
讃美歌448番

《聖書箇所》

旧約聖書:詩篇 10篇1-7節 (旧約聖書841ページ)

10:1 主よ、なぜ遠く離れて立ち/苦難の時に隠れておられるのか。
10:2 貧しい人が神に逆らう傲慢な者に責め立てられて/その策略に陥ろうとしているのに。
10:3 神に逆らう者は自分の欲望を誇る。貪欲であり、主をたたえながら、侮っている。
10:4 神に逆らう者は高慢で神を求めず/何事も神を無視してたくらむ。
10:5 あなたの裁きは彼にとってはあまりにも高い。彼の道はどのようなときにも力をもち/自分に反対する者に自分を誇示し
10:6 「わたしは揺らぐことなく、代々に幸せで/災いに遭うことはない」と心に思う。
10:7 口に呪い、詐欺、搾取を満たし/舌に災いと悪を隠す。

新約聖書:マルコによる福音書 12章35-40節 (新約聖書87ページ)

◆ダビデの子についての問答

12:35 イエスは神殿の境内で教えていたとき、こう言われた。「どうして律法学者たちは、『メシアはダビデの子だ』と言うのか。
12:36 ダビデ自身が聖霊を受けて言っている。『主は、わたしの主にお告げになった。「わたしの右の座に着きなさい。わたしがあなたの敵を/あなたの足もとに屈服させるときまで」と。』
12:37 このようにダビデ自身がメシアを主と呼んでいるのに、どうしてメシアがダビデの子なのか。」大勢の群衆は、イエスの教えに喜んで耳を傾けた。

◆律法学者を非難する

12:38 イエスは教えの中でこう言われた。「律法学者に気をつけなさい。彼らは、長い衣をまとって歩き回ることや、広場で挨拶されること、
12:39 会堂では上席、宴会では上座に座ることを望み、
12:40 また、やもめの家を食い物にし、見せかけの長い祈りをする。このような者たちは、人一倍厳しい裁きを受けることになる。」

《説教》『主イエス・キリスト』

本日のマルコによる福音書第12章35節以下には、エルサレム神殿の境内で人々を教えておられた主イエスが、律法学者たちの「メシアはダビデの子だ」という発言に対して疑問を投げかけているところから始まっています。十字架に向かってエルサレムに来られた主イエスが、祭司長、律法学者、長老たちと論争された場面です。これまでの論争では、主イエスに反対するためや陥れるために相手が問いかけて来ることが多かったのですが、ここでは主イエスの方から問いかけておられるのです。主イエスが人々に、「どうして律法学者たちは、『メシアはダビデの子だ』と言うのか」と突然問うことはかなり唐突な感じがします。多分、これが語られる前に既に主イエスと律法学者たちの間にこのことをめぐる議論があったのでしょう。

ここで「メシア」と訳されている言葉は、ギリシャ語では「クリストス」つまり「キリスト」です。口語訳聖書では「律法学者たちは、どうしてキリストをダビデの子だと言うのか」となっています。「キリスト」という言葉は、旧約聖書のヘブライ語「メシア」という言葉がギリシャ語に訳されたものです。「メシア」とは、ヘブライ語のマーシャ(油を注ぐ)という動詞から派生した名詞で、「油注がれた者」という意味の言葉です。旧約聖書では、神によって王や祭司の務めに任命されることの印として油が注がれました。メシア、キリストは神によって立てられ、任命された者でしたが、時代を経て「メシア」は神が遣わして下さる「救い主」を意味する言葉に変化していきました。主イエスの時代、メシア、キリストと言えばそれは「救い主」という意味に変わっていたのです。

主イエスの問い掛けは、律法学者たちが「キリスト、救い主はダビデの子である」と言っていることについてでした。ダビデはイスラエル王国の土台を築いた最も偉大な王です。イスラエルの王位は、ダビデ王の子孫に代々受け継がれてきたのです。救い主キリストはこのダビデの子であるというのは、ダビデ王の子孫として生まれるということです。律法学者たちはそのように人々に教えていたのです。それは彼らが根拠なしに勝手に言っていたのではありません。旧約聖書の多くの箇所に、救い主メシアはダビデの子として生まれる、ということが預言されいるのです。その代表的な聖書箇所がイザヤ書第11章1-10節です。ここには、平和の王としての救い主の到来が予告されています。救い主がエッサイの株から生え出ると語られています。エッサイはダビデ王の父の名前です。ですからこれは、ダビデの家系から、ダビデ王に匹敵する平和の王、救い主が現れて、人々に全き平和を与えて下さるという預言なのです。こう言った箇所が他にも沢山あります。ダビデ王の子孫として救い主メシアが生まれることは、旧約聖書に親しんでいる人々にとっては常識だったのです。

主なる神は、一つの民族イスラエルを選ばれ、イスラエルを通して、御自分が「唯一の神でである」ことを明らかにされました。アブラハムを通しての神の選びと救いの啓示とイスラエル民族を通しての信仰の進展、これが旧約聖書が語ることです。

それ以来、イスラエルは、長い歴史の中で苦しみに耐えつつ、真実の神が約束して下さった祝福の成就を待ち続けました。「救い主・メシア」とは、神の祝福の約束を実現される方でした。ですから、「救い主・メシアを待つ」ということは、民族に委ねられた希望であり、正しい信仰として、預言者たちが語り続けて来たことでした。

しかし、その神の祝福の内容が、何時の間にか、人間の要求と入れ替わってしまったのてす。神は、確かにイスラエルに栄光を約束して下さいました。ところが、イスラエル民族は、それを現実の「悲惨からの解放」として考えてしまいました。小さな民族イスラエルが神によって示され住みついた場所は、東のメソポタミアと西のエジプトを結ぶ、地政学的に人類の歴史上極めて重要な地域でした。小さなイスラエル民族は周辺の大国に度々支配され、長い歴史の中を生き抜いてきたのですが、独立した民族・国家として誇りを持っていたのは、ダビデ王の時代だけであったと言えましょう。ダビデ王の時代以外は、まさに混乱と屈辱の歴史でした。エジプト、アッシリア、バビロニア、ペルシャ、ギリシア、そして新約の時代にはローマに支配されていました。

「他民族による支配」という苦しみの中で、神の祝福の約束を「隷属状態からの脱出」と考えるようになってしまったことは、人間の弱さから見れば、当然のことと言えるかもしれません。現実の苦しみの中で、その苦しみからの解放を求めるあまり、「自分たちの願い」を、何時の間にか、「神の約束」と置き換えてしまったのです。

しかし、本当の危険とは、苦難に出会ったことで、神の御言葉を聞かなくなってしまうことから生じるのです。目前の苦しみの解決が何よりも大切なことになり、その解決のためにのみ、目先の幸いを与える神を求めるようになってしまうのです。主イエスの時代、イスラエルの人々が、「救い主・メシア」を「ダビデの子」と言ったのは、かつてのダビデ王の時代を再現しようとする意味でした。

聖書に基づいてイスラエルの民を指導する律法学者たちが、「救い主」を「ダビデの再来」と教えるとき、それは、神が示してくださった救いの約束を、「昔のダビデ王国の再来」といった人間的な栄枯盛衰に矮小化してしまったのです。主イエスの怒りは、このような人間の勝手な姿に対してであり、永遠なる神から離れて、人間の世界に信仰を引き下げたことを鋭く指摘しているのです。

39節から主イエスは「律法学者に気をつけなさい。彼らは、長い衣をまとって歩き回ることや、広場で挨拶されること、会堂では上席、宴会では上座に座ることを望み、また、やもめの家を食い物にし、見せかけの長い祈りをする。このような者たちは、人一倍厳しい裁きを受けることになる。」と言われました。

この律法学者の姿は、世間の人々から尊敬され、重んじられることを求めているのです。「長い衣をまとって歩き回ること」とありますが、長い衣は彼らが律法学者であることを示す、いわゆる「ステイタス・シンボル」です。その衣をまとっていると、人々が尊敬して頭を下げるのです。「広場で挨拶されること」ともあります、町の広場は様々な市民生活が営まれる場で、集まる多くの人々の間で、特別な人として尊敬され、みんなに「先生」と呼ばれて挨拶されることをのぞんでおり、逆に自分のことを「先生」と呼ばない人には「失礼だ」と怒ったりするでしょう。「会堂の上席」というのは、ユダヤ人たちの礼拝の場であるシナゴーグと呼ばれる会堂にある聖書を納めた箱の前の席のことです。その席は一般の人々の席に向かい合っており、礼拝を司る人の席です。私たちのこの礼拝堂で言えば、講壇の上の、説教者と司式者の席と思えばよいでしょう。会堂だけでなく宴会の場でも、彼らは上座を求めています。これは、必ずしも彼らの個人的な名誉欲だけによるのではありませんでした。彼らは、自分たちが神様のみ言葉である律法を研究し、それに従う生活をし、人々にもその律法に従う生活を教えている立場にいることを常に意識しているのです。その彼らが尊敬され、尊重されるというのは、本来は、神様のみ言葉が尊ばれ、大事にされるということです。神様のみ言葉を大事にするなら、それを教えている人を大事にするのは自然であり当然のことです。しかしそのように基本的にはみ言葉への尊重のゆえに尊敬を受けていた律法学者たちでしたが、いつのまにか、自分たちを尊敬し、重んじることを求めるようになってしまったのです。自分個人に対する尊敬を要求するようになってしまったのは、彼らが名誉欲に捕われていることを示しているのです。律法学者は、自分たちが人よりも尊ばれ、重んじられ、名誉ある者とされることをいつも求めていました。神様のみ言葉である律法も、祈りも、つまり信仰も、そのための道具になってしまったのです。

主イエスはそのような彼らを批判して、「このような者たちは、人一倍厳しい裁きを受けることになる」とおっしゃいました。律法学者は自分たちが一般の人より高い尊敬を受けることを求めている、それなら、神の裁きにおいても、より高い、人一倍厳しい裁きを受けるのが当然だろう、と言っておられるのです。これは彼らが人よりも高い地位を求めていることへの皮肉なのです。

神との約束に生きることを忘れた律法学者には、人の眼を意識することしか残された道はないのです。この姿の何処に、神が律法学者たちに与えられた栄光の務めがあるでしょうか。そして、律法学者たちが示す惨めさは、民衆が何を見て生きているかという、すべての人間の惨めさをも象徴しているでしょう。

現代の私たちもまた、この過ちを繰り返しているのではないでしょうか。私たちもまた、生きる苦しみの中にあります。人として出会わなければらない、さまざまな悩みを担っています。そしてその重荷に、心のすべてを奪われていることはないでしょうか。日々の生活の中で、主なる神が、御子キリストを通して約束して下さる永遠の生命が、どれ程の魅力をもって見詰められているでしょうか。あらゆる重荷に耐え、そしてその苦しみに勝利する力こそが、真実の信仰である筈です。

主なる神を世界の主として告白し、神が遣わされた御子イエス・キリストを唯一の救い主と信じることこそ、人間の罪が造り出す、自分自身の惨めな姿から解放されることなのです。

それは、この世で消えることのない生きる喜びを知る時であり、生涯をかけて求めるものが何であるかを正しく見詰める時なのです。父なる神が、御子キリストを通して用意して下さったものが、どれほど素晴しいものであるかを、私たちは、その時、知ることが出来るのです。

お祈りを致しましょう。

教会はキリストの体

主日礼拝

齋藤 正 牧師

《賛美歌》

讃美歌138番
讃美歌380番
讃美歌444番

《聖書箇所》

旧約聖書:詩篇 8篇7節 (旧約聖書840ページ)

8:7 御手によって造られたものをすべて治めるように/その足もとに置かれました。

新約聖書:エフェソの信徒への手紙 1章22-23節 (新約聖書353ページ)

1:22 神はまた、すべてのものをキリストの足もとに従わせ、キリストをすべてのものの上にある頭として教会にお与えになりました。
1:23 教会はキリストの体であり、すべてにおいてすべてを満たしている方の満ちておられる場です。

《説教》『教会はキリストの体』

今日は教会学校との合同礼拝の日で、いつものマルコによる福音書から離れ、教会学校の教案からエフェソの信徒への手紙1章の「教会はキリストの体」からです。

皆様は、お子さんやお孫さんから「教会ってなあに?」って聞かれたら何と答えますか。屋根に十字架のついた建物を思い浮かべ、今、ご一緒に礼拝しているこの建物を思い描くかもしれませんね。

最初にハッキリ言うと、教会というのは「建物」のことではありません。教会とは、私たちキリスト者、世界中の主イエス・キリストを信じるすべての人々のことです。神様によって呼び集められ、イエス様に結び合わされている私たち全員のことです。私たち一人ひとりが教会なのです。どんなに立派な教会の建物を建てたとしてもそれだけでは教会にはならないのです。また反対に、集まっている建物や部屋がたとえどんなに小さくても、ちょっと古くても、そこに神様によって呼び集められた人たちが居るなら、それが教会なのです。

教会とは、神様を信じるすべての人たちのことです。この成宗教会だけでなく、世界中の教会を一つに合わせて大きな大きな教会なのです。

今日の、エフェソの信徒への手紙は使徒パウロが書いたものです。1章はその書き出しで「神様が教会のために万物に対する主権をすでにキリストに与えた」という大胆な発言(22)で始まっています。22節の「すべてのもの」とは、キリストの主権に立ちはだかる悪魔の力をも含む神様によって造られた被造物すべてを意味しています。悪魔でさえも、キリス卜の主権に服しキリストの支配に従うものとされています。

何故、このような全世界のすべてが従うと言った大胆な、大きな話で始まっているのでしょうか。

それは、ここでは、神様の存在を疑い、神様のなされる御業を疑っている人々に対して、神様がパウロを通して私たち人間にとって最も大切なことが、ここに語られているのです。神様を疑っている人々に対して、神様がすべての人間の救いを完成させるという最高のご計画を行われることを、その疑っている人々に向かってパウロが話を始めているのです。すべてのもの主であるキリストがすでにその救いを始められたから、世界のいかなる者も、この神様の救いのご計画を挫折させることはできないと言っているのです。

20節から22節で「神は、この力をキリストに働かせて、キリストを死者の中から復活させ、天において御自分の右の座に着かせ、すべての支配、権威、勢力、主権の上に置き、今の世ばかりでなく、来るべき世にも唱えられるあらゆる名の上に置かれました。神はまた、すべてのものをキリストの足もとに従わせ、キリストをすべてのものの上にある頭として教会にお与えになりました。」とあります。パウロはエフェソ教会の信仰者たちを始めとするすべての信仰者に働いている「神の力」を、彼らが感じて知ることを願いながら、その「神の力」を説明しているのです。その際に、主イエス・キリストを「復活」させた絶大な「神の力」が信仰者つまり「教会」を通して働いているのだと語っているのです。

パウロは「神の力」を主イエス・キリストにおいて、そして、教会において見ているのです。

神様は主イエスを復活させ、ご自分の右の座に着かせ、足元に従わせ、そして頭として教会にお与えになりました。教会の頭として与えられた主イエス・キリストは、私たちの教会を保ち、そして治めておられるのです。そのことを私たちが知る、知らないに関わりなく、「神の力」が現実に、現在只今教会に働いているので、主イエス・キリストが教会の頭、主であるのです。そして、同時に「世界の主」であられるのです。これが、パウロの信仰告白と証しです。

また23節で「教会はキリストの体であり、すべてにおいてすべてを満たしている方の満ちておられる場です。」とあります。この「すべてを満たしている方の満ちておられる場」である教会に「満ちておられる方」とは聖霊です。聖霊が教会に満ち満ちておられるのです。聖書の中には「教会」を現す比喩、表現がたくさんあります。少し先の5章では教会が「キリストの花嫁」という表現でも記されています。「教会はキリストのからだ」であると表現されたり、「キリストはからだである教会のかしら」であると複雑な表現がされています。「体なる教会」は、「かしらであるキリスト」の聖さと栄光に与るものである、キリストの聖さが教会に反映されるのであるとされています。この、「かしらとからだの結合」と同じく、「キリストと教会の結合」は命あるものが持つ生命的な関係、生き物の体全体が健全な時に生命があって、生きているのと同じ関係なのです。その関係を形作る「命」は復活の主イエス御自身であり、教会は復活の主イエス・キリストご自身である聖霊によって、神様が満ち満ちるのです(エペ1:23、4:10、コロ2:9‐10)。この生命的な関係があるからこそ、「からだなる教会」は日々成長し、完成へと向かうことが保証されているのです。そして、からだの一つひとつの手足であり器官であるであるキリスト者たちによって教会が建てられ、生命を持つのです。その生命ある教会の建てられた目的とは、聖書の御言葉に記された神の御旨に従う務めを通して、目標である「万人の救い」に到達することです。その目標達成にために「体なる教会」には、信仰の一致と信仰の成長への努力が求められているのです(エペ4:11‐16、ロマ12:4‐8、Ⅰコリ12:27‐31)。

本日の箇所にある「キリストの体」という表現は、主イエス・キリストご自身が、今もこの地上を、この時間の中を歩んでおられる、それがキリストの体としての教会であるということです。

私たちの目に見える教会は人間の集まりです。それも、この世にあっては罪人の集まりでしかないのです。しかし、教会は罪人の塊で終わっているのではありません。教会には私たちの目には見えない聖霊が今、この時も働いているのです。キリストが天にあげられ私たちに派遣すると約束してくださった聖霊が「キリストの体」を形作って、日々私たちに働きかけてくださっているのです。「キリストの体」としての教会には、聖霊である神様が満ちておられるのです。教会は主イエス・キリストが生きておられるところ、聖霊の共同体であるということです。この主イエス・キリストを頭、主とする私たちの交わりが神様の御自身の現臨、今生きて働いておられる場とされていることを、私たちは常に思い起こし、また共にこのことを証ししなければならないのです。

お一人でも多くの方々、とりわけ皆様の愛するご家族の方々が、今もここに死の力に打ち勝って「教会のかしら」として生きて働いておられ、聖霊として臨在される「主イエス・キリストの救い」に入れられますよう、お祈りいたしましょう。

御心の中を生きよ

主日礼拝説教

齋藤 正 牧師

《賛美歌》

讃美歌11番
讃美歌120番
讃美歌205番

《聖書箇所》

旧約聖書:詩篇 5篇12節 (旧約聖書838ページ)

5:12 あなたを避けどころとする者は皆、喜び祝い
とこしえに喜び歌います。
御名を愛する者はあなたに守られ
あなたによって喜び誇ります。

新約聖書:マルコによる福音書 10章13-16節 (新約聖書81ページ)

10:13 イエスに触れていただくために、人々が子供たちを連れて来た。弟子たちはこの人々を叱った。
10:14 しかし、イエスはこれを見て憤り、弟子たちに言われた。「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。
10:15 はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」
10:16 そして、子供たちを抱き上げ、手を置いて祝福された。

《説教》『御心の中を生きよ』

今日の、マルコによる福音書が語るところは、主イエスの十字架の待つエルサレムへの旅の途上です。

ガリラヤにおける活動も終わり、神が定められた十字架の時が近づいたことを悟られた主イエスは、弟子たちを連れ、エルサレムへ向けて足を速められていました。マルコは、その旅の途中で起きたこのエピソードを語るのです。

主イエスに敵対する人々の憎しみを含んだ行動は一層強まり、十字架の苦難が必然となったこの段階で、主イエスのもとに子供を連れて来るということは、周囲の人々の眼を意識するならば、この親たちにとって大胆な行為であったと言えるでしょう。ところが、そんな思いでやって来た人々を、弟子たちは「叱った」というのです。

これは、いったい何を意味しているのでしょうか。子供を連れて来た親たちに向かって「うるさい」と言って叱りつけたのでしょうか。聖書から具体的なことはよく分かりません。

これまで、主イエスが御言葉を語るときには、大人に混じって常に子供たちも集っていたと思われます。例えば、使徒言行録9章36節以下では、主イエスは傍にいた子供を抱き上げて説教の材料にしていますし、マタイ福音書14章21節で「五つのパンの奇跡」を行った時、そこに「子供がいた」ことが記されています。そして、初代の教会では、「家族全員、即ち子供連れで礼拝に出席する」ことが原則になっていました。「子供はうるさいから」と言って排除する考え方は、初めから聖書にはありません。むしろ「子供が共に居る方が正常な姿である」と言うべきでしょう。

それでは、何故、弟子たちは人々を叱ったのでしょうか。彼らは、「主イエスのために」集まって来た人々を押し止めたとも考えられています。

ある人は、この頃の「イエスの疲れ」を指摘します。また、次から次に主イエスに「あまりにも多くのことが求められている」とも言われ、追い迫る律法学者たちの憎しみの中で「大きな緊張を余儀なくされていた」ことも示唆されています。

これまでの長い旅と、その途中で繰り返されて来た反対者たちとの論争。そして今、十字架のエルサレムへ向かう主イエスの決然とした姿勢。このような状況の中で、弟子たちが主イエスを「しばらく、そっとしておいてあげたい」と考えたとしても少しも不思議はないでしょう。お傍に仕える弟子としての責任からこのように判断したとしても、それは当然の心遣いであったと見ることも出来ます。弟子たちは、恐らく、そう考えて子供連れて来た親たちを叱ったと思われます。

しかしながら、ここで主イエスはこれを見て憤り、弟子たちに言われました。「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。」

イエスの憤りは大変珍しいことです。聖書の中で「イエスの憤り」が記されているところはほんの僅かであり、エルサレム神殿における「宮潔め」以外、直ちに思い起こすのも困難なほどです。しかも、「憤る」と訳されている言葉「avganakte,w (アガナクテオー)」が主イエスに用いられているのはここだけです。

さらにまた、弟子たちに語られた「来させなさい」「妨げてはならない」とは、いずれも、はっきりとした命令文であり、彼らのとった態度を「たしなめる」という程度のものもではなく、彼らの判断をはっきりと否定されています。子供たちを追い出そうとする弟子たちに対し、「追い出さなくても良い」とおっしゃっておられるのではなく、むしろ、追い出そうとしている弟子たちに対して、イエスは「激しく怒っておられる」のです。何故、主は、これ程までに怒られるのでしょうか。弟子たちの姿の何処に、これほどの主イエスの憤りを買うものがあったのでしょうか。

それは、「主イエスのもとに近づこうとする人を妨げた」からなのです。主の御前に出る人を妨害することは、主の最も嫌われることでした。たとえそれが、如何に主イエスのためであったとしても、なお、主の御許に近づく人々を止めてはならないのです。十字架へ向かう主イエスからすれば、神の御前に出る機会を奪うサタンの業以外の何ものでもありませんでした。主イエスの憤りの背後には、弟子たちに追い出された人々への強い愛があることを見なければなりません。

さらに、ここに連れて来られた子供と親の姿の中に、「人間本来のあるべき姿」も見なければなりません。家庭は、主の御心を表すべく造られて行くのです。

家庭が御心によるものであるならば、その家庭に生み出されてきたものは、「全て神の意志の下にある」と考えるのが当然です。よく、子供は夫婦の愛の結晶であると言われますが、それに間違いはありません。しかし、結婚に対する神の導きを信じる者は、その結婚の実りのひとつである子供の誕生も、当然、神よりの賜物と受けとめるべきなのです。

子供についての親のエゴイズムは、常にこの信仰から離れた所から生じるのです。旧約以来、結婚への招きは「子供を与える」という約束と結び付けられており、信仰者の家庭に産まれた子供たちは、産まれた瞬間から「神の国に所属している」と考えるべきです。それ故に、子供を主の御前に連れて行くことは親の義務であり、責任であると言えるでしょう。御心に応える正しい家庭生活はそこから始まります。神の国とは、このような生活を送る者の国であり、主イエスの祝福を受けなくては「家庭の祝福はありえない」ということこそ、信仰に生きる者の家庭なのです。

主イエスは、私たち小さな者の幸福のために、何時・如何なる時も御心を傾けて下さり、妨げる者を叱りつけてまで顧みて下さるのです。

主イエスは15節で、「子供のように神の国を受け入れる人」と言われました。「子供のように」とはどういうことでしょうか。子供のように純真な、汚れを知らない、ということでしょうか。そうではありません。子供は純真であり、汚れを知らないという考え方は聖書にはありません。今日、子供たちの間で起っている陰湿ないじめの問題一つを取っても、子供には罪や汚れがないというのは大人の勝手な願望に過ぎないことが分かります。子供は子供なりに罪を持っているのです。

主イエスが「神の国はこのような者たちのものである」とおっしゃったのも、決して子供を理想化して言っておられるのではありません。ここには「はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない」とあります。「子供のように神の国を受け入れる」というのは、積極的な行為として語られているのではなくて、与えられたものをただ受ける、という受動的なことなのです。ここに出て来る子供たちは、親たちに連れて来られた者です。子供たちは、自分の意志で主イエスのもとに来たのではありません。子供たち自身が自分で主イエスの祝福を求めているのではないし、主イエスが宣べ伝えておられる神の国を自ら受け入れ、それを信じて来ているのではないのです。子供たちは、親に連れて来られるままに主イエスのもとに来たのです。そして主イエスが受け入れ、祝福して下さるなら彼らは祝福を受けるし、そうでないなら祝福を受けずに帰ることになるのです。子供たちは主イエスの祝福を全く受動的に、ただ受けるのみです。自分は良い行いをしています、これだけの正しさ、立派さを持っています、これだけのものを神様にお捧げし、奉仕しています、だから祝福して下さいなどと要求してもいません。主イエスはそのような子供たちを喜んで迎え入れて下さり、彼らを抱き上げ、手を置いて祝福して下さるのです。親たちは、主イエスに触れてもらって祝福をいただこうとして子供たちを連れて来たのです。それは神社で七五三のお祝いをするのと変わらない思いだったでしょう。主イエスは、子供たち一人一人をご自分の腕に抱き上げて下さった、それぞれの全身を、それぞれの人生の全体を、み手の内に置いて、祝福して下さったのです。

ここで子供とは、与えられたものを素直に受け入れる見本とも言える存在なのです。主イエスは、子供が親にすがりつくように、人は神に「すがりついて」生きるべきだとおっしゃっているのです。一切の自己主張、自己満足を排し、ただ神の庇護の下に生きる道を求める者、それこそが神の国に生きる人間の姿なのです。そして、そのような生き方を実現したのが御子イエスの生涯でした。

家族そろって主イエスの祝福を求めて来た人々を、何故、叱り退けるのか。神の喜びは何処にあると考えているのか。全ての人々を招く御心を妨げることが、いったい誰に許されるのか。誰に出来るのか。主イエスの憤りは、ここにあったのです。それは、御前に出る私たちを、他の何者にも代えがたく思って下さるキリストの愛そのものでした。その愛が、今も私たちに注がれているのです。私たちも、ただひたすらに主の御心の中を生きて行きましょう。

主イエス・キリストの眼差しが、私たちを神の国の民とされようと今も見詰め続けて下さっていることを感謝すべきでしょう。ここにこそ、神の子としての平安があるのです。

お祈りを致します。