主イエスの栄光

主日CS合同礼拝説教

齋藤 正 牧師

《賛美歌》

讃美歌6番
讃美歌148番
讃美歌515番

《聖書箇所》

旧約聖書:詩篇 139編23-24節 (旧約聖書980ページ)

139:23 神よ、わたしを究め/わたしの心を知ってください。わたしを試し、悩みを知ってください。
139:24 御覧ください/わたしの内に迷いの道があるかどうかを。どうか、わたしを/とこしえの道に導いてください。

新約聖書:ヨハネによる福音書 1章14-18節 (新約聖書163ページ)

1:14 言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。
1:15 ヨハネは、この方について証しをし、声を張り上げて言った。「『わたしの後から来られる方は、わたしより優れている。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである。」
1:16 わたしたちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた。
1:17 律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである。
1:18 いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。

《説教》『主イエスの栄光』

本日はCS合同礼拝の日ですので、マルコによる福音書連続講解から離れ教会学校カテキズム教本の示す聖書箇所からの説教です。

先ほどお読みしたヨハネによる福音書1章14節に、「言(ことば)は肉となって、わたしたちの間に宿られた」とあります。この言語の「言(げん)」と漢字で書いて「ことば」と読ませるのは、1節に「初めに言(ことば)があった」と言われていたその「言(ことば)」のことです。1節ではさらに、その「言(ことば)」は神と共にあり、自らが神であったと語られています。また3節には、万物はこの「言(ことば)」によって成ったとありました。天地万物を創造したまことの神である言(ことば)、その言(ことば)が、肉となって私たちの間に宿られた、と14節は語っているのです。この「言(ことば)」とは、ギリシャ語で“ロゴス”と言います。新約聖書では、何と330回も使われていて、大変広い意味に用いられて日本語に翻訳するのが難しい言葉です。この聖書に書かれている“ロゴス”を扱うだけでも、神学論文が沢山書けるとさえ言えるでしょう。ただ、ここではっきり言えることは、このヨハネ福音書1章においての“ロゴス”は、創造の前から存在した、創造主でもあられ、永遠の命をもたらす主イエスが歴史的に出現されたことを指し示しているのです。この「言(ことば)“ロゴス”」とは主イエス・キリストのことです。主イエス・キリストは、天地の造り主であり、まことの神である「言(ことば)」なのです。その「言(ことば)」が肉、一人の人間となって、この世を生きて下さったのです。

14節の後半には「わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた」とあります。「言(ことば)」が肉となって、まことの神であるキリストが主イエスという一人の人となって、私たちの間に宿って下さったので、私たちは神の栄光の姿を見ることができたのです。旧約聖書によれば、人間は神の栄光を見ることはできない、なぜなら神の姿を見たら罪ある人間は死んでしまう、とされているからです。その神の栄光の姿を私たちは見ることができた。それは、神が肉となって、つまり主イエスという人となってこの世に来て下さったからです。本日の最後の18節もそれと同じことを語っています。「いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである」とあります。いまだかつて神を見た者はいない、それは神は本来見ることができない方だからです。神ご自身も、その栄光も、人間が直接見ることはできないのです。しかし、父のふところにいる独り子である神、主イエス・キリストが、肉となって、人間としてこの世を生きて下さったことで、人間が神を知り、神のお姿を見ることができるようになったのです。これは、ヨハネ福音書の大切な主題の一つです。14章9節にも主イエスは、「わたしを見た者は、父を見たのだ」とおっしゃいました。父なる神は人間の目で見ることのできない方ですが、主イエス・キリストが人となってこの世に来て下さったことで、私たちも神様を見ることができるようになり、神様と共に生きることができるようになったのです。

しかしそれは、主イエスが人としてこの地上を生きておられた2000年前の話だろう、と思うかもしれません。主イエスと共に生きていた弟子たちは、確かに主イエスを見たことによって神を見ることができたかもしれない、しかし私たちは今、父なる神と同じように主イエスも、この目で見ることができません。従って、私たちは神様を見ることも、神の栄光を見ることもできない、そのように思うかもしれません。しかしそれは違うのです。私たちは今、この地上で、主イエス・キリストを見ることができます。主イエスとお会いすることができます。主イエスによる救いの恵みを受けることができます。主イエスとの交わりに生きる場が、私たちには与えられているのです。それは、主イエス・キリストの体である教会です。教会で私たちは、人となって私たちの間に宿られた「言(ことば)」である主イエスとお会いすることができ、父なる神の独り子としての、恵みと真理とに満ちている主イエスの栄光を見ることができるのです。その教会とは建物のことではありません。洗礼を受け、キリストと結び合わされた者たちの群れが教会であり、その群れが共に集って礼拝をするところに、キリストの体である教会が目に見えるものとなっているのです。礼拝において私たちは、主イエス・キリストと出会い、父なる神の独り子としての、恵みと真理に満ちている栄光を見ることができるのです。まことの神である「言(ことば)」が肉となって私たちの間に宿って下さったという恵みの出来事は、主イエス・キリストが人間としてこの地上を生きておられた間だけのことではなくて、主イエスの十字架の死と復活、そして昇天の後、聖霊が弟子たちに降って地上にキリストの体である教会が誕生した、あのペンテコステの出来事において受け継がれ、その後の教会の歴史において継続されていったのです。肉となってこの世を生きて下さった「言(ことば)」である主イエス・キリストは、教会において、その礼拝において、今も私たちの間に宿って下さり、私たちにご自身の栄光を示し、私たちと共に生きて下さっているのです。

一つの教会が誕生するごとに、神の救いのみ業が、地上においても前進し続け、まさにこの成宗教会も誕生したのです。私たちの成宗教会は、この杉並の地で、「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」という神の救いの出来事を人々に示して来ました。この成宗教会を通して、多くの人々が、「わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた」ということを体験してきました。また16節にあるように、「わたしたちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に更に恵みを受けた」ということを味わってきました。その恵みは、17節にあるように、モーセを通して与えられた律法とは違うものです。自分が頑張って律法を守り、正しい良い行いをすることで救いを得る、のではなく、神の独り子である主イエスが人間となってこの世を生きて下さり、私たちの全ての罪をご自分の身に負って十字架にかかって死んで下さり、神様が私たちの罪を赦して下さり、また主イエスの復活によって私たちにも、復活と永遠の命を約束して下さった、それが「イエス・キリストを通して現れた恵みと真理」です。神様が、独り子の命をすら与えて下さるほどに、罪人である私たちを愛して下さっているという恵みと真理が、主イエス・キリストを通して現されたのです。

しかし、これは教会の礼拝において自動的に起ることではありません。弟子たちが集まっただけで教会が生まれたのではなく、聖霊が降ったことによって教会が誕生したように、“ロゴス”なる神が私たちの内に宿り、働いて下さってこそ、キリストの体である教会が築かれるのです。そのことが起るために、私たちは、主イエス・キリストを常に指し示し、証ししていかなければなりません。それを最初にしたのが、15節に出て来る洗礼者ヨハネでした。15節にこうあります。「ヨハネは、この方について証しをし、声を張り上げて言った。「『わたしの後から来られる方は、わたしより優れている。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである」。洗礼者ヨハネは、自分の後から来られる主イエス・キリストこそが救い主であることを証ししたのです。私たちの教会はこの世にあって、肉となって人となられた主イエス・キリストこそがまことの神であり救い主であることを証しし、宣べ伝えていく群れです。教会がその証しをしっかりとしていくならば、そこに、まことの神である主イエスと出会い、神の栄光を見上げて、その救いにあずかる人々が興されていきます。

今日の14節「言(ことば)は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。」とあるのには、はっきりと目的がありました。それはヨハネ福音書3章21節(新約聖書210ページ)「これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである。」と、私たちが新しく信仰によって生きるべきことを語っているのです。

主イエス・キリストの救いの恵みによって人々が新しく生かされていくのです。しかし教会が、イエス・キリストを指し示すことをしなくなり、キリストを証しすることができなくなるなら、教会はこの世に飲み込まれ、この社会の中で何のインパクトもない、教会で神を見ることも、神の恵みと真理に生かされることも起らない、形骸化したただの人々の交わりの集まりに成り下がってしまうでしょう。

私たちに与えられている救いの伝道という使命をしっかりと果していけるように、聖霊の力づけと導きを祈り求めていきたいものです。

お祈りを致します。

キリストと共に

齋藤 正 牧師

《賛美歌》

讃美歌97番
讃美歌420番
讃美歌522番

《聖書箇所》

旧約聖書:  詩篇89編9-10節

89:9 万軍の神、主よ
誰があなたのような威力を持つでしょう。
主よ、あなたの真実は
あなたを取り囲んでいます。
89:10 あなたは誇り高い海を支配し
波が高く起これば、それを静められます。

新約聖書:  マルコによる福音書4章35-41節

◆突風を静める
4:35 その日の夕方になって、イエスは、「向こう岸に渡ろう」と弟子たちに言われた。
4:36 そこで、弟子たちは群衆を後に残し、イエスを舟に乗せたまま漕ぎ出した。ほかの舟も一緒であった。
4:37 激しい突風が起こり、舟は波をかぶって、水浸しになるほどであった。
4:38 しかし、イエスは艫の方で枕をして眠っておられた。弟子たちはイエスを起こして、「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」と言った。
4:39 イエスは起き上がって、風を叱り、湖に、「黙れ。静まれ」と言われた。すると、風はやみ、すっかり凪になった。
4:40 イエスは言われた。「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか。」
4:41 弟子たちは非常に恐れて、「いったい、この方はどなたなのだろう。風や湖さえも従うではないか」と互いに言った。

《説教》『キリストと共に』

私たちが、「教会に生きる」とは、聖書の御言葉に従って生きることです。私たちを真実の幸福に導き、豊かな人生を全うさせて下さるということを信じ、その御言葉に従う生き方です。御言葉に導かれて過ごすキリスト者の人生、その人生には何が待っており、そこで何を見ることが出来るのか、本日の物語はそのことを明らかにしています。

35節に「その日の夕方になって、イエスは、『向こう岸に渡ろう』と弟子たちに言われた」とあります。

何故、夕方になって、舟を出したのでしょうか。何故、「向こう岸に渡ろう」と言われたのでしょうか。聖書は、その理由を何も語っていません。大切なことは、「主イエスが語り、弟子たちはそれに従った」ということです。そして聖書は、「先立って導かれる主イエス・キリスト」に注目することを求めているのです。

私たちの生活は、「さあ、行こう」というキリストの御言葉と共に始まるのであり、その御言葉を聞き漏らして、「正しい信仰生活は有り得ない」のです。キリスト者の人生において、これが先ず何よりも大切なことです。「さあ行こう」という御言葉によって始まった人生がどんなものであるのか、それを聖書はここに語るのです。

37節に「激しい突風が起こり、舟は波をかぶって、水浸しになるほどであった」とあります。

ガリラヤ地方は、イスラエルでは気候の穏やかな暮らしやすい所です。ガリラヤ湖畔には何箇所もの温泉があり、湖上には何時も小さな遊覧船が巡っています。このガリラヤ湖は、アフリカ地溝帯と呼ばれる地球の裂け目にあり、何と地中海の海面より標高が二百米以上低い海抜マイナス200メートルの陥没地帯です。茨城県の霞ヶ浦と同じくらいの広さの湖の周囲は台地に囲まれ、丁度、巨大な鉢の底のような特異な地形です。東はシリア砂漠、西は地中海が、東西の丘陵地帯の背後にあり、それを越えて来る東からの乾燥した熱風、西からの湿った海風がぶつかり、気流が極めて不安定なところです。そのため、特に午後には強い突風が吹く、と多くの書物に記されています。しかし、始終、突風が吹くわけではありません。ところが、稀に激しい風が、何の前触れもなく、突然、吹き荒れる。これが突風の恐ろしさであり、ガリラヤ湖での舟にとっての最大の危険な点と言ってよいでしょう。

この物語を、「さあ、行こう」という主イエスの御言葉から始まったとお話ししました。その「さあ、行こう」という主イエスの御言葉に従う人生にも、「思いがけない恐ろしい危機に出会うことがある」のだ、と今日の聖書は教えているのです。

私たちはこんな話をする人たちに良く会います。「信仰を持っていながら、何故、苦しみに出会うのだろうか?」「信仰に生きているのに、何故、こんなに悲しいことが続くのだろうか?」。

ここに目を向けているのが新興宗教と呼ばれるものです。「信心すれば不幸がなくなる」と言い、不幸に出会えば「あなたの信心が足りない」と言います。苦しみや悲しみから逃れたいと願う人間共通の心の弱点を巧みに利用していると、言うことが出来るでしょう。

しかし、聖書が語ることは、たとえ私たちがキリストに出会い、御言葉を聞き、それに従ったとしても、「決して苦難はなくならない」と言うことです。

苦しみを喜ぶ者はいません。悲しみや不幸を喜ぶ人もいません。誰でも嫌なことから離れて生きたいと願うでしょう。しかし、この世界で、そのようなことが可能でしょうか。

私たちは、人と人との関わりの中で生きています。その一人一人が暮らす日々の中で、どうして苦しみから離れて過ごすことが出来るでしょうか。傷つけ、傷つけられる生活の繰り返しから、どうして逃れられるでしょう。

生きる苦しさ、人生の不条理は、罪の中に埋没した人間の必然なのです。苦しみとは、神に背を向けて生きる人間自身が、自ら生み出しているものなのです。

個人的な人間感情の問題だけではなく、公害や自然破壊、交通事故なども、結局は生命の尊さを真実に知らない社会が作り出したものであると言えるでしょう。そしてその危機は、ガリラヤ湖の嵐の大波のように、繰り返し繰り返し襲って来るのです。しかもそれは、決して生易しいものではありません。

「舟は波をかぶって、水浸しになるほどであった」。舟が沈みそうになったということです。「舟が沈む」ということは、舟の中に居る者にとって、生きるか死ぬかの命の危機にさらされているということです。

今、私は生きている。今、自分は生きてこの世に存在している。その最も重要かつ基本的なことが、根底から覆されてしまうのです。「私は、いったい何のために生きているのか」「私は、何のために苦しんでいるのか」。この世を生きる苦しさを想い、自分の努力の虚しさと闘っている時、自分の力ではどうにもならない力が支配しているということに気付く時、突然襲う突風は、「なんとか耐えて、生き残ろう」とする者の足下を崩壊させてしまいます。

この物語は、キリスト・イエスに従って行く時にも、危機に出会うことから逃れられないという現実を示し、そしてその現実を見極めた上で、「嵐の中で如何に生きるべきか」を教えているのです。

38節には「イエスは艫(とも)の方で枕をして眠っておられた」とあります。すると「弟子たちはイエスを起こして、『先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか』と言った」と、「理解できない応答」があります。

生まれながらの湖の漁師である弟子たちの方が、ガリラヤの山地で育った主イエスより、泳ぎも達者であり、嵐の中で生き残る術を持っていたと言うべきでしょう。それにも拘らず、弟子たちは、この危機を「主イエスの責任」といった言い方をしているのです。

私たちも、良い時は当たり前、悪い時は「自分だけが苦しんでいる」と考えるのではないでしょうか。幸福な時は自分の努力を誇り、自分の働きを誇示します。しかし、ひとたび不幸に出会うと、周囲に責任を転嫁し、社会が悪い、時代が悪いと不満を言い、挙句の果てには「もう、神を信じられなくなった」とまで言うのです。

この時起きた、「理解できない応答」とは、こういうことなのです。何故、こうなるのでしょうか。

ペトロ、アンデレ、ヤコブ、ヨハネの少なくとも四人は、明らかにガリラヤ湖の漁師でした。湖は親代々の職場であり、幼い時から慣れ親しんだ場所です。そして、舟の操作に関しては練達した専門家でありました。

彼らは、初めは主イエスの指示に従って舟を出したかもしれませんが、湖の上では、何時の間にか、そう「何時の間にか」、自分たちが「主役になっていた」のではないでしょうか。毎日働いていた湖の上。自分の手足のように扱うことの出来る舟。経験と技術に絶対の自信を持っている漁師たちは、湖の上では「キリストを必要としなかった」のではないでしょうか。

弟子たちは、扱いなれた舟を操作し、前へ進むために全力を尽くしたことでしょう。それ故に、それまでは主イエスが眠っていても、誰も文句を言いませんでした。主イエスの力を借りる必要がなかったからです。キリストを不要とする人間の世界が、平穏な湖の上にはあったのです。

しかしながら、ひとたび突風が吹き、大波が襲うと、自分たちのあらゆる努力が、何の効果もないことを思い知らされるのです。

それは圧倒的な力の差でした。小さな波や少しばかりの風であるならば、舟を扱う専門家である弟子たちの技術と体力がそれを乗り越えさせたでありましょう。しかし今や、弟子たちの持つもの全てが、「全く無力である」ということに気付かされたのです。

さらに、この弟子たちの恐れは、「知らなかった者の恐れ」ではなく、「知っている者の恐れ」とも言えるでしょう。漁師であるが故に、突風の恐ろしさ、水中に投げ出された者の運命などは、誰よりもよく知っていた筈です。かえって、無知な人間ほど本当の恐ろしさを知らないものです。

世の中をよく知っている人、十分な社会経験を積んだ人ほど、人生最大の危機において、それまで誇っていた知識や経験がかえって不安と恐れの原因となり、自分を戸惑わせることになるのです。ここに記された「理解できない応答」こそ、キリストを必要としないで生きてきた人々が、危機において示す混乱の姿なのです。

39節には「イエスは起き上がって、風を叱り、湖に、『黙れ。静まれ』と言われた。すると、風はやみ、すっかり凪になった」とあります。

主イエスは人間の恐怖に応えて下さる方なのです。

「風を叱り、湖に『黙れ、静まれ』と言われた」と記されています。当時の人々は、そこに悪霊の働きを見ていたからです。嵐を単なる自然現象として捉えるのではなく、人間を傷つけ恐れさせ、危害を加える悪魔の力を嵐の中に見ていたのです。ペトロたちはその時代の人たちでした。

ここで主イエスは、「その時代の人々に分かるように行われた」ということなのです。単に、「超自然的な力によって嵐を静めた」というだけのことではなく、弟子たちを恐怖から解放するために、彼らを捉える恐れの根源に向って叱るという行動をとられたのです。それは「自然に対する言葉」ではなく、それこそが「悪魔の力に対する御子の宣言」として聞くべきでしよう。主イエス・キリストは、たとえ嵐であれ大波であれ、御自身に従う人々を脅かす力に対して、断固とした態度を取る方であり、私たちを襲う危機は、主イエスによって力を失うのです。

さらに、弟子たちが恐れている間、主イエスは眠っていたと記されていますが、主イエスは、この危機に気付かなかったのでしょうか。弟子たちの恐怖を知らなかったのでしょうか。そんなことは有り得ません。

この危機は、滅びをもたらすようなものではないことを、主イエスは御存知だったのです。湖面を騒がせる嵐も、所詮は、見せ掛けの力に過ぎないことを知っておられたからです。38節の「イエスは艫の方で枕をして眠っておられた」とありますが、「艫」とは、船尾です。当時の覆いのないガリラヤ湖の舟の中で船尾で枕をして眠っていたになら嵐に気付かない筈がありません。大揺れに揺れて水しぶきを浴びていたでしょう。そんな中でも主イエスが眠っておられたとは、嵐の力をもってしても「キリストと共に居る者を滅ぼすことは出来ない」ということを表しているのです。そして真実の平安は、この「キリストの保証のもとにのみある」ということです。

キリスト者は、この物語をしっかりと心に止めなければなりません。主イエスの導きに従って歩み始めたとしても、決して、苦難はなくならないのです。主イエスと共に居ても嵐は襲ってきます。しかしその危機は、主イエスと共に居る者を決して破滅させることは出来ず、ただ主イエスが起き上がるまでの間、私たちを脅かす程度のものに過ぎないのです。

私たちも、あの時、舟を操っていた弟子たちと同じように、自分の力で生きているつもりかもしれません。しかし、たとえ、自分の力で生きているつもりであっても、主イエス・キリストは離れては居らず、私たちが主イエスに気づく時まで「目を閉じておられるに過ぎない」のです。主イエスは、常に私たちを見守り、約束の御国に至るまで、この世の歩みを導かれるのです。

最後の40節と41節には「イエスは言われた。『なぜ怖がるのか。まだ信じないのか。』弟子たちは非常に恐れて、『いったい、この方はどなたなのだろう。風や湖さえも従うではないか』と互いに言った」とあります。

弟子たちの、そして私たち信仰者の歩みは常に嵐に翻弄されています。私たちはその中で動揺し、うろたえ、主イエスを疑い、時に文句を言うようなことを繰り返しています。しかしそのように嵐に翻弄されている危なっかしい弟子たちの舟に、そして「私たちの舟である教会」に、主イエス・キリストが確かに乗り込んでおられます。主イエスは、私たちがどんなに動揺し、うろたえても、神の国を実現する救い主としての歩みを貫いていかれるのです。その歩みは、十字架の死と復活へと向かっていました。主イエスが私たちの全ての罪を背負って十字架にかかって死んで下さり、罪と死の力に勝利して復活して下さり、神の国、神様のご支配が、私たちの救いが実現したのです。「いったいこの方はどなたなのだろう」という問いへの答えは、十字架と復活においてこそ与えられたのです。その主イエスが今、私たちの舟に乗り込み、「共に向こう岸に渡ろう」と語りかけて下さっています。私たちも、代々の信仰者たちに倣って、その主のみ言葉に従い、主イエスが示して下さる向こう岸に向けて旅を続けて行く者でありたいのです。その旅路には様々な苦難が待ち受けているでしょうが、主イエスが共に乗り込んでおられるこの舟が沈み滅んでしまうことは決してないのです。

お祈りを致します。

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弟子たる者

齋藤 正 牧師

《賛美歌》

讃美歌326番
讃美歌352番
讃美歌225番

《聖書箇所》

旧約聖書:詩篇 41篇2節 (旧約聖書874ページ)

41:2 いかに幸いなことでしょう
弱いものに思いやりのある人は。
災いのふりかかるとき
主はその人を逃れさせてくださいます。

新約聖書:マルコによる福音書 3章13-19節 (新約聖書65ページ)

3:13 イエスが山に登って、これと思う人々を呼び寄せられると、彼らはそばに集まって来た。
3:14 そこで、十二人を任命し、使徒と名付けられた。彼らを自分のそばに置くため、また、派遣して宣教させ、
3:15 悪霊を追い出す権能を持たせるためであった。
3:16 こうして十二人を任命された。シモンにはペトロという名を付けられた。
3:17 ゼベダイの子ヤコブとヤコブの兄弟ヨハネ、この二人にはボアネルゲス、すなわち、「雷の子ら」という名を付けられた。
3:18 アンデレ、フィリポ、バルトロマイ、マタイ、トマス、アルファイの子ヤコブ、タダイ、熱心党のシモン、
3:19 それに、イスカリオテのユダ。このユダがイエスを裏切ったのである。

《説教》『弟子たる者』

今日の聖書箇所は、主イエスが十二人の人々を選び出し使徒に任命する物語です。彼らは、主イエスに最も近く仕え、親しく教えを受け、驚くべき御業の数々に立会い、教会の基礎を築きました。

しかし、主イエスにはもっと沢山の弟子たちがいたのです。前回読んだ7節以下には、おびただしい群衆が主イエスに従って来たことが語られていました。本日の聖書箇所に語られているのは、その多くの弟子たち、従って来た人々の中から、「使徒」と呼ばれる特別な弟子たち十二人が主イエスによって選ばれ、任命されたのです。

主イエスがこの十二人を選び出した目的として語られていること、「彼らを自分のそばに置くため、また派遣して宣教させ、悪霊を追い出す権能を持たせるため」というのは、まさに使徒たちの働きの内容です。「使徒」とは「派遣された者」という意味です。主イエスによって派遣され、主イエスの使者としての役目を果すのが使徒です。十二人の弟子たちがそういう務めへと任命されたのです。

しかしながら、そのように重要な人々であるということを意識して聖書を読んで行くと、奇妙なことに気づきます。何故なら、この十二人の弟子たちが大変有名であるにも拘らず、聖書は彼らについて極めて簡単にしか記していません。実際に、どのような生涯を送ったのかといったことについても、聖書は殆ど何も書き残してはいません。更に、この十二人が、教会の歴史の先頭に立つに相応しい人物であるとも語ってはいません。

十二使徒の中でも、最も有名なのはケファとも呼ばれたシモン・ペトロです。使徒に選ばれる前はガリラヤ湖の漁師でした。妻子もあり、弟子の筆頭として、福音書には多くのエピソードも記されていますが、彼の生涯の後半で聖書に登場するのは、使徒言行録12章17節に「そこを出てほかの所へ行った」と曖昧に書かれているだけで、それから先は、辛うじて使徒言行録15章のエルサレム会議に姿を見せるだけで、あとは分かりません。これ以前の彼の様々な行動については、聖書に多く記され、皆さんもよくご存知でしょう。

ゼベダイの子ヨハネも漁師でした。若者であり、十字架にまで付き添った唯一の弟子であり、常に主イエスの傍らにいたのですが、「そこにいた」というだけで、殆どの場合、彼自身は何も発言していません。

ゼベダイの子ヤコブは彼の兄と思われますが、漁師であるということ以外、「雷の子」という気短なあだ名が紹介されているだけで、発言は僅か二回、まともなことは語っていません。

アンデレはペトロの弟とされていますが、ヨハネ福音書でペトロを主イエスに紹介したとだけ記されています。

フィリポも漁師ですが、彼もヨハネ福音書以外姿を見せません。

バルトロマイについては何も分からず、マタイは徴税人であると言う以外何も分かりません。マタイ福音書の著者という説も確認されていません。

トマスは主イエスの甦りが信じられなかったという消極的エピソード以外不明です。

アルフアイの子ヤコブとタダイは名前のみです。

熱心党のシモンも政治結社である熱心党員であるか不明です。

裏切りで有名なイスカリオテのユダでさえ、ナルドの香油物語での発言のほかは、祭司長への密告事件以外、何も記されていません。

ヨハネ福音書を除くと、ペトロ、ヨハネ以外、殆どの人物については、些細なエピソードを除いて何も語られていないのです。これらのことから聖書は、十二人を決して特別扱いしてはいないと言えます。彼らは平凡な人間の集まりであり、人々から尊敬され重んじられていたわけでもなく、もちろん、学問的に優れている者でもありません。むしろ、粗野なガリラヤ湖の漁師たち、人々から嫌われていた徴税人、ローマ帝国に対する憎しみを暴力によって抵抗しようとしている熱心党員、そして最後には主イエスを裏切る「心・弱い人々」であり、要するに、何処にでもいる庶民の集まりに過ぎませんでした。

このような人々を見る時、とても「神の使徒」として選ばれるような必然性は何一つ見出せません。もし、主イエスが彼らを呼び出し、「使徒」という名をお与えにならなかったなら、誰一人として指導者になり得なかったでしょう。この選びが、何故、神の御業の新しい段階と言えるのでしょうか。

この使徒たちの選びの場面を見て、「これが教会の原型・ひな型であった」と言う人もいます。「教会」とは「召された人間の集まり」を指すからです。「教会」(エクレシア)とは、「呼び出す」という動詞から出来たものであり、「呼び出された者の集まり」という意味です。決して、同じ考えの人々が集まった団体というものではなく、目的を同じくする者の集団でもありません。キリストに選ばれ、キリストに召し出され、特別に集められた者のことを聖書はエクレシアと呼んだのであり、それを「教会」と訳しているのです。

「私たちの教会・エクレシア」は、私たちを呼び出された主イエス・キリストの意志・御心が全てなのです。

このように、キリストの召しを受けた全ての人間の原点が、本日の御言葉に示されていると言えるでしょう。そしてこの意味を十分に理解するとき、聖書が語る重要な点が、十二人の名前にではなく、個性にでもなく、「彼らがどのように選ばれ、何をなすべく立てられたのか」という点にあることが分かるのです。

先ず13節から、「イエスが山に登って、これと思う人々を呼び寄せられると、彼らはそばに集まって来た。そこで、十二人を任命し、使徒と名付けられた。」とあります。

十二使徒の任命は、山の上でなされたのです。その選びが「山の上」でなされたということは、何を意味するのでしょうか。ルカによる福音書の並行箇所、6章12節以下を読みますと、主イエスは山に登って、一晩祈り明かされたことが語られています。山は、主イエスの祈りの場所なのです。主イエスが徹夜の祈りをなさった上で、十二使徒を選び出されたことを強調しています。マルコ福音書は、ただ「山に登って」とだけ語っていますが、やはり主イエスの祈りを暗示していると言ってよいでしょう。使徒たちの任命の根本には主イエスの祈りがあると言えるのです。

同じく13節に、「これと思う人々を呼び寄せた」と記されていますが、これは文語訳や口語訳のように「御心に適った者」と訳すべきでしょう。つまり、神に召された者とは、神の御心に適った者であるのです。これは驚くべきことです。何故なら、私たちは誰でも正直に自分の姿を見詰めるならば、到底神の御心に適うような者ではないということを告白せざるを得ません。

そして続いて、十二人を「任命し」と訳されていますが、この「任命する」とは原文では「造る」という言葉です。直訳すれば「十二人を造った」となるのです。このことは私たちが心に刻みつけておくべきことです。「任命する」には、「君➁はこの任務を果す能力と資格があると認められるから、この務めに任命する」というニュアンスがあります。そしてそのように任命された者は、上司が自分を評価してくれたことに感謝して、その期待に応えるように頑張るのです。しかしこの「造った」という言葉は違います。主イエスが十二人の使徒たちを「造った」のです。主イエスご自身が彼らを「使徒」として造り出したのです。彼らが与えられた使命、神の国の福音を宣べ伝える力も、悪霊を追い出す権能も、全て主イエスによって与えられたもの、主イエスが彼らの中に造り上げたものなのです。使徒たち十二人は、ここで主イエスによって新しい者として造られたのです。十二人の使徒の任命とはそういう出来事だったのです。

キリスト者としての私たちの存在は、「キリストが私たちを愛し、選び出して下さった」ということ、ただそれのみに起源を持ち、私たちがキリスト者であり続けるということは、このキリストの愛への生涯をかけた応答なのです。

人間の価値は愛に対する応答で決まります。愛を無視したり、忘れたりする者は、自らの価値を低めるもの以外の何ものでもないと言えるでしょう。神様からのただ恵みによって愛の中に招かれた者は、その無償の愛に応えることに生き甲斐を見出すものです。

続く、14節から、「彼らを自分のそばに置くため、また、派遣して宣教させ、悪霊を追い出す権能を持たせためであった。」とあります。彼らの使命は、主イエスの使者として派遣され、神の国の福音を宣教することとその神の国、神様のご支配の印として、悪霊を追い出す業を行うことです。けれどもここには、それに先立ってもう一つのことが、使徒が立てられた目的として語られています。それは「彼らを自分のそばに置くため」ということです。使徒たちは、遣わされてあちこちへと出かけて行く前に、先ず、主イエスのそばに置かれたのです。主イエスの傍らに常におり、主イエスのみ言葉を間近で聞き、主イエスのなさる癒しのみ業、悪霊追放のみ業を目の前で見たのです。彼らの使徒としての働きはそこから始まったのです。主イエスが弟子たちを引き連れてガリラヤ中を宣教し、悪霊を追い出されたと語られていたのも、彼らをご自分のそばに置いて、主イエスご自身の宣教の言葉を聞かせ、悪霊追放のみ業を見せるためだったのです。そのような準備期間を経て、実際に彼らが宣教へと派遣されて行ったのです。

神の愛は、愛する者に新しい生き方を用意しているのです。

よく「生き甲斐とは何か」「人間らしく生きるとはどういうことか」と問われます。聖書が示す答えはただ一つです。それは「キリストの愛の中を生きる」ということです。何故なら、キリストは私たちに働く場を特別に用意して下さっており、その働く場において、私たちは御心に応える自分の姿を発見することが出来るからです。

キリストの召しとは、全ての召した者にそれぞれ固有の使命を与えられるのです。全ての者が、どのような時にも同じことを行うのではなく、それぞれが置かれた場で個性を活かし、その時と場に相応しい働く場を与えられるのです。

ここで弟子たちに与えられた使命とは何でしょうか。「宣教」とは神の国の到来を伝えることです。「悪霊を追い出す」とは神のご支配の確かさの告知であり、神の国は現実にここにあるということの証明です。

これらは、もともとキリストの御業でありました。主イエスが初めて明らかにされたことでした。とするならば、選ばれた者に与えられた「権能」とは、「キリストの御業を、キリストに代わって、この世で行うことが許された」ということです、k。つまり、「~せよ」と言われ、「その命令に服従することが求められている」ということではなく、この素晴しい務めを「私の代わりに行うことを許す」という、新しい人生の可能性の宣言として受け取ることが出来るのです。

この時、主イエスは彼らを「使徒」と名付けられました。「使徒」(アポストロス)とは、本来、「遣わされた者」という意味であり、遣わした方の権威を代行する者のことです。古代では国家の権威を代表して海外へ赴く艦隊の司令官などを表し、現代的な意味では「大使」「外交官」を意味すると言えるでしょう。

つまり、「選ばれた」「愛された」ということは、感情的な問題ではなく、キリストの代理として立てられたのであり、神の権威を表す者として生きることを、公式に認められたということなのです。

そしてこれが、現在、私たちが受けている使命です。たとえ私たちが、各地を巡ったペトロたちのような伝道者ではないとしても、キリストの権威を現す者、神の国の外交官として、「特別な務めを負っている」ということに変わりはありません。

私たちは、この使命を日々の生活の中で如何に果たしているでしょうか。「何を行っているか」ということではなく、日々の生きる姿によって「何を表しているか」ということが大切なのです。

私たちにはそれぞれ生活があります。しかし、その生活は「私の生活」ではなく、「神の国を表す生活」なのです。

私たちが、日々の生活の中で、キリストと共に生きるならば、共に生きる喜びを表すならば、それこそ、神の国に生きる人間の姿として、世の人々への証しとなるでしょう。

主に召され、神の聖なる選びの中に置かれた時、私たちは、もはや、つまらない人間ではなく、キリストによって立てられた「神の国の大使」として、この世を生きているのです。

神の国に生きる私たちの姿が、私たちのごく近くで共に生きている家族などの親しい人々に自然に伝わっていくのが私たちの伝道です。この素晴らしいキリストの救いを自分自身の生きる姿で伝えて行けますようお祈りを致します。

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聖餐の喜び

《賛美歌》

讃美歌6番
讃美歌352番
讃美歌515番

《聖書箇所》

旧約聖書:詩篇 41篇10-11節 (旧約聖書875ページ)

41:10 わたしの信頼していた仲間
わたしのパンを食べる者が
威張ってわたしを足げにします。
41:11 主よ、どうかわたしを憐れみ
再びわたしを起き上がらせてください。
そうしてくだされば
彼らを見返すことができます。

新約聖書:マタイによる福音書 26章26-30節 (新約聖書53ページ)

26:26 一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えながら言われた。「取って食べなさい。これはわたしの体である。」
26:27 また、杯を取り、感謝の祈りを唱え、彼らに渡して言われた。「皆、この杯から飲みなさい。
26:28 これは、罪が赦されるように、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。
26:29 言っておくが、わたしの父の国であなたがたと共に新たに飲むその日まで、今後ぶどうの実から作ったものを飲むことは決してあるまい。」
26:30 一同は賛美の歌をうたってから、オリーブ山へ出かけた。

《説教》『聖餐の喜び』

今日は、「聖餐」について教会学校の生徒さんとご一緒に考えてみたいと思います。

教会学校の礼拝では「聖餐」が行われていません。教会学校の生徒さんの中には「聖餐」を見たことがない人が居るかも知れません。大人の礼拝でパンと葡萄ジュースが配られてそれを大人たちが飲んで食べているのを見たことがあると思いますが、それが「聖餐」です。

教会学校で「聖餐」が行われていないのは、生徒さんが「洗礼」を受けていないか、洗礼を受けていても幼児洗礼だからです。

パンを食べて、葡萄ジュースを飲む「聖餐」とは、私たちにとって何のために、なぜ行っているのでしょうか。

それには、教会の歴史、古い時代に遡ってみなければなりませんが、今日は時間が少ないので500年前の宗教改革の時代から振り返って見ましょう。

私たちの教会は、宗教改革で生まれ直したプロテスタント教会です。プロテスタント教会では、「洗礼」と「聖餐」だけを聖礼典、神様が行いなさいと定められた正式な儀式とします。聖書の中でイエス様が直接命令なさった儀式はこの二つだけだからです。ただ命令なさっただけでなく、イエス様ご自身がその儀式に直接関わっておられます。

イエス様ご自身がマタイ福音書最後の28章18節から「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。」と命じられているのです。これを主イエス・キリストの「大宣教命令」と呼んでいます。

今日の聖書箇所マタイ福音書26章には「パンを取って食べなさい。杯から飲みなさい」とあります。マタイ福音書28章の「大宣教命令」では「洗礼」を授けなさいとあります。イエス様ご自身が26章で「聖餐」を、28章で「洗礼」をしなさいと命じられているのです。。

「聖餐」は、今日の聖書箇所で記されるようにイエス様ご自身がパンを裂き、杯をとり、弟子たちと分かち合われました。イエス様が弟子たちと最後の晩餐をする場面です。イエス様はこの弟子たちとの最後の晩餐の直ぐ後で捕まえられて十字架に架けられてしまうのです。このイエス様との最後の食事は弟子たちにとっても決して忘れられないものになりました。それは、イエス様がこんなことをなさったからです。まずパンをとってお祈りをしてそれをいくつかに裂いて弟子たちに分けられました。そして弟子たちに裂いたパンをお与えになりながらおっしやいました。「取って食べなさい。これはわたしの体である。」 弟子たちは「これからイエス様の体がこのように裂かれてしまうのか。悲しい。でもイエス様にずっとついていくのだ」と固い覚悟をしていました。続いて、イエス様は葡萄酒が入った杯をとって弟子たちに差し出し、「皆、この杯から飲みなさい。これは、罪が赦されるように、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。」と言われました。「わたしの血によって、あなたたちは罪が赦される。このわたしの約束を信じて生きていきなさい」と言われ、弟子たちは、「イエス様はこれから血を流されるのだ。恐ろしい。でもイエス様のことを守り抜こう」と思ったことでしょう。しかし、イエス様はこの後ゲッセマネと呼ばれる場所でお祈りをしますが、そこで捕まってしまい、そのまま十字架に架けられ死んでしまいます。すると、あれだけイエス様を守ると言っていた弟子たちはてんでんばらばらに逃げ散ってしまいました。イエス様にどこまでもついていきます、イエス様を守り抜きます、と言った筈の弟子たちは、自分の身に危険が迫ると怖くなってしまいました。イエス様は十字架で死んでしまわれました。その十字架の死は私たち人間の罪を赦すためであったのです。そして神様のご栄光をあらわすために死から蘇られ「復活」されました。その十字架の主イエスの裂かれた体と流された血によって私たちの罪が贖われ赦されたのです。復活された主イエスにお会いした弟子たちは、力づけられて新しい生き方をするようになりました。教会をたて、主イエスのことを人々に伝えたのです。

その時から、イエス様がお命じになったように、教会に集まってパンを裂いて一緒に食べ、杯からぶどう酒をみんなで飲み始めたのです。パンを裂き、杯から飲む時、そこに主イエスが居てくださる、と信じるようになったからです。弟子たち、そして教会はこのことをずっと続け、私たちの教会もこれを主イエスの食卓、聖なる晩餐「聖餐」と呼ぶようになりました。今も、私たちは聖餐式でパンを裂き、葡萄ジュースを飲む時、主イエスがそこに居てくださり、主イエスと一つになっているのです。「聖餐」にあずかるとき、十字架にかかってくださった主イエスのことを思い出し、復活なさった主イエスがここにいらして、パンを差し出してくださるのです。杯から飲む時、十字架で流されたあの血を思い出し、復活された主イエスが終わりの日にまた会おうといってくださった約束を思うのです。

「聖餐」は神様から私たちに対しての一方的な恵みです。主イエス・キリストの体と血をいただくということはキリストと一つになることを意味します。私たち罪人は聖餐に与るために清められなくてはなりません。その清めは「洗礼」によって与えられるのであり、主日礼拝の説教において清めが宣言されているのです。罪の赦しなしに「聖餐」はありえません、その赦しはただ神様の一方的な愛として、恵みとしてのみ起こるのです。従って「聖餐」も、神様を信じる信仰において受け取るべきものです。

神様からの一方的な恵みである「聖餐」は単に救われたことの証拠や「洗礼」を受けた証拠ではありません。

「聖餐」とは私たちの信仰と魂に対する食べ物であり栄養なのです。「聖餐」とは私たちに生きる力を与える糧なのです。この「聖餐」がないとクリスチャンは霊的な栄養失調になって、ひどくなると霊的に死んでしまうのです。「聖餐とは、主の体と血にあずかることによって、私たちの魂が永遠の命の希望のうちに養われることを保証するために、私たちの主がこれを制定されたのです」(ジュネーブ信仰問答 問340)。

「聖餐」を通して、聖霊の働きによって私たちは、キリストと一体となり、キリストの命「永遠の命」を頂き、天の父なる神様、子なる主イエス・キリスト、聖霊なる神様との交わりに中に加えられるのです。そしてそのことによって、私たちはキリストの体である教会の肢となるのです。

「聖餐」は信仰において受けるべきものですが、それは決して頭で考えるだけのものではありません。パンを食べ、葡萄酒を飲むことはキリストの肉と血を食すことです。私たちの信仰とは頭の中や心の中だけなのではなく、血と肉を伴うものなのです。ですから「聖餐」によって信じる者の体もつくられ、その人の信仰は人生、生活そのものになるのです。信仰の自覚が深まり、自分自身を生きた聖なる供え物として神様に献げることができるようになります。「聖餐」とは神様からの恵みであり、同時に献身につながる応答でもあるのです。

お祈りを致します。

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本当に必要なこと

《賛美歌》

讃美歌234番A
讃美歌294番
讃美歌90番

《聖書箇所》

旧約聖書:詩篇 27篇4節 (旧約聖書857ページ)

27:4 ひとつのことを主に願い、それだけを求めよう。
命のある限り、主の家に宿り
主を仰ぎ望んで喜びを得
その宮で朝を迎えることを。

新約聖書:ルカによる福音書 10章38~42節 (新約聖書127ページ)

10:38 一行が歩いて行くうち、イエスはある村にお入りになった。すると、マルタという女が、イエスを家に迎え入れた。
10:39 彼女にはマリアという姉妹がいた。マリアは主の足もとに座って、その話に聞き入っていた。
10:40 マルタは、いろいろのもてなしのためせわしく立ち働いていたが、そばに近寄って言った。「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください。」
10:41 主はお答えになった。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。
10:42 しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」

《説教》『本当に必要なこと』

本日は、教会学校との合同礼拝です。本日は「本当に必要なこと」と題して、ルカによる福音書10章から「マルタとマリア」のお話をさせて頂きます。

実は、この聖書箇所は、4月に赴任したものの、新型コロナウィルス感染症のために集会をすべて中止していた4月25日に無観客というか、成宗教会の皆さんのまったくいらっしゃらない無教会員説教でお話しした聖書箇所です。教会ホームページにも掲載されたので、皆様の中には、お読みになった方もいらっしゃるとは思います。この聖書箇所は、教会での奉仕はどうすればよいかという私たちの思いに示唆を与えられる大切なお話しです。

今日のルカ福音書は、38節の「一行が歩いて行くうち、イエスはある村にお入りになった」というところから始まります。主イエスと弟子たちは、旅の途上である村に入ったのです。

ここにはマルタとマリアという姉妹が登場し、二人の姿が対照的に描かれていきます。そして、「マリアは良い方を選んだ」とあるように、マルタよりもマリアの方が良い、相応しいと主イエスによって褒められたという話に思えます。しかしそれは、マリアこそが信仰者でマルタは信仰者ではない、ということではありません。主イエスを家に迎え入れたのはマルタである、とはっきり書かれています。それは、マルタが主イエスに従い仕える信仰者となったということです。マルタは、主イエスと弟子たちの一行を自分の家に迎え入れるという大いなる信仰の決断をしたのです。その後、「彼女にはマリアという姉妹がいた」と、おそらく妹であるマリアが登場します。マリアも主イエスを信じる者となるわけですが、それは姉であるマルタの信仰の決断が先にあったからだとも言えるでしょう。つまりマリアはマルタによって導かれて信仰者となった、と考えるべきではないでしょうか。

このように同じ信仰者となったマルタとマリアの間に、ある違いが生じました。マリアは主の足もとに座って、その話に聞き入っていたのです。主イエスの足もとに座って話を聞くとは、この時代のユダヤでは男の弟子にのみ許される行為でした。マリアは、そんな大胆な行動をしたと言えますし、また、主イエスの一行が女性差別をしなかった特筆すべき行いを記しているとも言えるでしょう。そのマリアに対して姉のマルタは先程触れたように、大人数の一行のため「いろいろのもてなしのためせわしく立ち働いていた」(40)のです。マルタとマリアの話のポイントは、この対照的な姿にあります。そして私たちはそこから、いろいろなことを読み取ろうとします。と言うよりも、自分たちが感じていることをこの話に読み込もうとします。教会の中で、特にご婦人方の間でよく語られるのは、「私はマリア型」とか「私はマルタ型」というような会話ではないでしょうか。「マリア型」というのは、静かに礼拝を守り、み言葉を聞き、祈るといった信仰生活が自分には合っているし、その方が好ましいと感じているという人たちです。一方「マルタ型」というのは、それよりもむしろ活発に体を動かしていろいろな奉仕をする、例えば昼食作りとか、男性で言えば会堂の掃除や植木の手入れや力仕事など、また一教会に拘らない多くの教会を跨いだ社会奉仕活動に加わるとか、そういうことに喜びを感じ、充実を覚える、静かに説教を聞いているのはちょっと苦手、みたいなタイプであると言えるでしょう。それは女性だけの話ではなくて、男性も含めて、マルタとマリアのどちらに親近感を覚え、自分に近いものを感じるか、ということを私たちはここからよく考えるのではないでしょうか。そして自分がどちらのタイプかというだけではなく、礼拝中はマリアに徹し、終わったとたんにマルタに変身するのだ、という思いを持っている人もいるでしょう。つまり時と場合によってマルタとマリアを使い分けながら信仰生活を送っている、という思いを持っている人も多いのではないでしょうか。これらのことは、私たちが自分の体験や感覚をこの話に読み込んでいるということです。しかし私たちがしなければならないのは、自分の感覚を聖書に読み込むのではなくて、聖書が語っていることを読み取ることです。マルタとマリアの対照的な姿から私たちは何を読み取ることができるのでしょうか。

姉のマルタが主イエスと弟子たちを家に迎え入れたとは、食事を出すことをはじめいろいろなもてなしをするためです。マルタがしていることは、神の国の福音を宣べ伝えている主イエスと弟子たちに仕え、その歩みを支えるという信仰の行為です。マルタは決して、自分の料理の腕前を披露しようとしているわけではありません。キチンともてなさないと恥をかくと思っているのでもありません。彼女がせわしく立ち働いているのは信仰によってです。マルタの姿は、信仰者が主イエスに仕えている姿そのものなのです。そこには、「もてなし」という言葉が使われていますが、この言葉は原文では「ディアコニア」という言葉で、「奉仕」という意味です。マルタがしているのはこのディアコニア、主イエスに従う信仰者にとって大切な信仰の業としての「奉仕」なのです。ですから、このマルタとマリアの姿は、自分はどちらのタイプだとか、どちらの方が自分の好みに合うなどというように読むべきものではありません。これはどちらも、主イエスに従い仕えていく信仰者が大切にすべきあり方なのです。

しかし、このどちらも大切な信仰のあり方の間で問題が生じました。姉のマルタがマリアのことで主イエスに文句を言ったからです。「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください」。マルタは、主イエスの足もとに座ってその話に聞き入っているマリアに対して、「何も手伝わず、私だけにもてなしを、つまりディアコニアを押し付けている」という不満を抱いたのです。このマルタに対して主イエスはお答えになりました。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない」。主イエスはこのお言葉によってマルタに何を語ろうとしておられるのでしょうか。「あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している」。主イエスはマルタが思いわずらいに陥り、心を乱していると言っておられるのです。もてなし、接待、ディアコニアの働きの中で、マルタの心は乱れ、とりみだしてしまっているのです。心が乱れるとどうなるか、自分のしている働き、奉仕を喜んでできなくなるのです。そして、人のことを非難するようになるのです。「自分はこんなに奉仕しているのに、あの人は何もしない。手伝おうとしない。そんなことでいいのか」という思いに支配されていくのです。自分のしている奉仕を喜べないことと、人を非難することは表裏一体の関係です。自分に与えられた奉仕を喜んでしている人は、人のことを非難することはありません。人への批判や攻撃は、自分自身が喜んでいないから生じるのです。マルタはそのような思いわずらい、心の乱れに陥ったのです。そのように心が乱れてしまうと、彼女がせっかく主イエスと弟子たちを家に迎え入れるという信仰の決断をし、奉仕している信仰の業が歪んだものになってしまいます。マルタはこの奉仕を、誰かから強制されたのではありません。自分の意志でそれを引き受け、喜びをもってそれを担ったのです。信仰における奉仕、ディアコニアとはそのように、喜んで、自発的に行なうものです。ところが私たちは時として心を乱し、その喜びを見失って、自分だけが何か重荷を背負わされているように感じてしまうことがあります。心を乱しているマルタの姿は、私たちの信仰生活の中でも時として起るそのような事態を表しているのです。

このように心を乱してしまっているマルタに主イエスがお語りになりました。「しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない」。私たちはこの主イエスの言葉を聞く時、これは折角一生懸命奉仕しているマルタには気の毒な言葉ではないか、と思うのではないでしょうか。

しかし、主イエスのこのお言葉はそのように冷たい言葉ではありません。主イエスはここでマルタに、「あなたのしていることは意味がない」などと言っているのではないのです。マルタは主イエスを迎え入れ、奉仕するという信仰に生きている人です。彼女の奉仕ディアコニアは主イエスに従う者たちにとってとても大事なことなのです。意味がないとか必要がないなどということは絶対にないのです。主イエスがマルタに望んでおられるのは、彼女がそのディアコニアを、心乱れ、喜びを失った中で、人を非難するような思いを抱きながらするのではなくて、本当に喜んで、自発的にして欲しい、ということです。そして、喜んで奉仕できるようになるために必要なただ一つのことを主イエスは教えて下さっているのです。それは、マリアのように、主イエスの足もとに座って、そのみ言葉に聞き入ることです。

この「主イエスのみ言葉に聞き入る」ことを忘れてしまうと、私たちの奉仕は教会での自己実現や自己主張のためになります。教会が奉仕を競い合う人々の集まりと化してしまいます。そこには、自分の奉仕への評価や見返りを求める思いが生じます。そうなったらもはや本当に喜んで奉仕しているとは言えません。そして自分の奉仕を本当に喜んでしていないところには、自分はこれだけしているのにあの人はなんだ、と人を非難し審く思いが生じるのです。本当にすべきことは、主イエスの足もとに座ってその恵みのみ言葉に聞き入ることなのです。「必要なことはただ一つだけである」という主イエスのみ言葉は、そのことを姉のマルタに、そして私たちに教えています。つまりマルタとマリアの姉妹の姿は、信仰者のタイプの違いではありません。ある時はマリアに、ある時はマルタに徹する、などというものでもないのです。そうではなく、姉のマルタのしている奉仕、ディアコニアが本当に生かされ、喜びをもって自発的になされていくためには、妹のマリアのみ言葉を聞く姿勢が必要なのです。主イエスは姉のマルタも愛しておられるのです。それゆえに、「必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない」とおっしゃったのです。それは妹のマリアを褒めるための言葉ではなくて、姉のマルタが喜んで奉仕に生きるために本当に必要なことを教えようとされた愛に裏付けされたみ言葉なのです。そして、主イエスの足もとに座ってみ言葉に聞き入っているマリアには、「行って、あなたも同じようにしなさい」という励ましが与えられました。そのようにしてマルタもマリアも共に、主イエスのみ言葉によって養われつつ、自分に与えられている賜物を喜んで自ら献げ、生活の中で具体的に主イエスに仕える者となっていったのです。 お祈りを致します。

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