ペンテコステ礼拝
齋藤 正 牧師
《賛美歌》
讃美歌56番
讃美歌352番
讃美歌502番
《聖書箇所》
旧約聖書:詩篇 122篇1-9節 (旧約聖書969ページ)
122:1 主の家に行こう、と人々が言ったとき/わたしはうれしかった。
122:2 エルサレムよ、あなたの城門の中に/わたしたちの足は立っている。
122:3 エルサレム、都として建てられた町。そこに、すべては結び合い
122:4 そこに、すべての部族、主の部族は上って来る。主の御名に感謝をささげるのはイスラエルの定め。
122:5 そこにこそ、裁きの王座が/ダビデの家の王座が据えられている。
122:6 エルサレムの平和を求めよう。「あなたを愛する人々に平安があるように。
122:7 あなたの城壁のうちに平和があるように。あなたの城郭のうちに平安があるように。」
122:8 わたしは言おう、わたしの兄弟、友のために。「あなたのうちに平和があるように。」
122:9 わたしは願おう/わたしたちの神、主の家のために。「あなたに幸いがあるように。」
新約聖書:マルコによる福音書 3章20-30節 (新約聖書66ページ)
◆ベルゼブル論争
3:20 イエスが家に帰られると、群衆がまた集まって来て、一同は食事をする暇もないほどであった。
3:21 身内の人たちはイエスのことを聞いて取り押さえに来た。「あの男は気が変になっている」と言われていたからである。
3:22 エルサレムから下って来た律法学者たちも、「あの男はベルゼブルに取りつかれている」と言い、また、「悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」と言っていた。
3:23 そこで、イエスは彼らを呼び寄せて、たとえを用いて語られた。「どうして、サタンがサタンを追い出せよう。
3:24 国が内輪で争えば、その国は成り立たない。
3:25 家が内輪で争えば、その家は成り立たない。
3:26 同じように、サタンが内輪もめして争えば、立ち行かず、滅びてしまう。
3:27 また、まず強い人を縛り上げなければ、だれも、その人の家に押し入って、家財道具を奪い取ることはできない。まず縛ってから、その家を略奪するものだ。
3:28 はっきり言っておく。人の子らが犯す罪やどんな冒涜の言葉も、すべて赦される。
3:29 しかし、聖霊を冒涜する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う。」
3:30 イエスがこう言われたのは、「彼は汚れた霊に取りつかれている」と人々が言っていたからである。
《説教》『聖霊の賜物』
主イエスの周りには大勢の群衆が集まっていました。「一同は食事をする暇もない」と記されていますが、原文では「食事をすることも出来なかった」となっており、時間がないということではなく、押し寄せた群衆によって小さな家が一杯になり、「食事どころではなかった」ということだと思われます。主イエス・キリストの行くところ、主イエスに興味をもった人々で満ち溢れていたのが、初期のガリラヤ伝道でした。
また、ここに「一同」という言葉があります。原文は、そのまま「彼ら」です。この言葉を、日本の神学者で日本キリスト教会の指導的な牧師であり、カルヴァンの『キリスト教綱要』の翻訳者の渡辺信夫は「彼に属するものたち」と説明しています。聖書は弟子たちのことを「彼に属する者」即ち「キリストに属する者」と語り、人々の中心にいるのはキリストお一人であり、たとえ十二使徒であろうと、私たちの教会で言えば、牧師でも信徒でも、ただ等しくキリストに属している者に過ぎないと語っています。
この時、集まって来たユダヤ民衆は、主イエスに癒しの奇蹟などの超自然的な力を期待していただけに過ぎず、自分たちの眼に見える身近な幸福への願いを叶えて貰おうと集まって来ただけと言えましょう。
自分の要求を第一とする自己中心主義は、誰にでも有るものであり、現代の私たちも同じです。
21節から22節には、「身内の人たちはイエスのことを聞いて取り押さえに来た。『あの男は気が変になっている』と言われていたからである。エルサレムから下って来た律法学者たちも、『あの男はベルゼブルに取りつかれている』と言い、また『悪霊の頭の力で悪霊を追い出している』と言っていた。」と記されています。
主イエスが、病人を癒し、悪霊を追い出しているだけならば、家族の人々は「気が変になった」とは思わなかったでしょう。この時代、病気の治療と悪霊の追放を行う治療師や祈祷師は多くいました。ですから、自分たちの家族の一人が「神がかった力を身に付けた」と思ったとしても、「取り押さえに来る」ことはなかった筈です。ナザレからカファルナウムまで25Km余りで、石がごろごろしているガリラヤの山地です。歩けば丸一日かかります。31節を見れば、母マリアまで大変な思いで駆けつけて来たと思われます。何が、「狂った」と言われるほどに異常だったのでしょうか。
それは主イエスと弟子たち一行がそれまでの平凡な生活を捨てたことにあります。ペトロたちはガリラヤ湖での主イエスとの出会い以来、家も漁師の職業も捨て、主イエスに従いました。それは、これ迄の生活を守る堅実な生き方を否定する危険な思想のように受け取られても仕方ありません。
当時、主イエスは、多くの人々からバプテスマのヨハネの再来と見られました。それは、支配権力を認めず、新しい権威、新しい価値観を説いていたからです。ユダヤ民衆の指導者であった祭司や律法学者たちは民衆から尊敬され、大きな権限を持っていました。会堂・シナゴーグを中心としたユダヤ民衆の日常生活は、この伝統的な支配体制に依存していました。
しかし、主イエスの周りには、そんな伝統的社会で軽んじられていた人々が多く集まっていました。無学な漁師たち、イスラエル民衆から軽蔑されていた徴税人、危険思想を持つ熱心党員、更に、娼婦として蔑視されていた女性たちや難病に苦しむ人々、苦しい生活を強いられている未亡人たちなど、主イエスの周りに集まっていたのは伝統的な社会からはみ出した人々でした。そのため、主イエスと弟子たちは反社会的行動をしている革命家とも見做されたでしょう。
「神の国の到来」という福音を宣べ伝える主イエスの姿勢は、その時代の人々の生き方と全く異質に見えるものでした。それは、常識的な人生の価値観と共存出来るものではなく、現実の伝統的な社会体制の中を生きる者にとって「異質なもの」でした。
私たちの教会でも時折、「私がイエスの時代に生まれ、イエスの説教を直接聴いたら、もっと素晴しい信仰者になった」と言う人がいますが、それは、どうでしょうか。主イエスの御言葉を聴かされる者は、自分が過去に守って来た大切なものを否定する言葉を聴くのです。福音は、それまでの生活の流れを徹底的に変えることを要求します。主イエスの家族は、明らかに「過激だ、行き過ぎだ」と思ったのです。
「気が狂った」とは、「正常な人間の世界の中にあるものとは認められない」ということです。主イエスが過去の生活の全てを捨てて、神の御計画に従うということは「昨日までの生活と異なる毎日を生きるか」ということなのです。律法学者たちが主イエスがなされた数々の奇蹟の御業を見て、そこに偉大な力を認めながら、それでもなお、それが悪霊との結び付きとしか言えないのも、主イエスの家族と同じです。自分の考え、自分の生き方に合わないもの全てを、「まともではない」と決め付けているのです。
主イエスを愛する家族たちも、主イエスを憎む律法学者たちも、主イエスに対する対応が同じであるならば、それは、個人の感情的な問題ではなく、まさに人間の持つ罪の本質的な姿と言う以外ありません。
福音とは、神様に背を向けた人間の眼には、「狂っている」としか見えないようなことがあるのです。
更に23節から27節で主イエスは、「どうして、サタンがサタンを追い出せよう。国が内輪で争えば、その国は成り立たない。家が内輪で争えば、その家は成り立たない。同じように、サタンが内輪もめして争えば、立ち行かず、滅びてしまう。また、まず強い人を縛り上げなければ、だれも、その人の家に押し入って、家財道具を奪い取ることは出来ない。まず縛ってから、その家を略奪するものだ。」と言われました。
サタンがサタンに対して反抗しては、サタンではありません。国でも家でも、内輪の争いが起ったら、存続は不可能です。これは、「悪霊の頭ベルゼブルに取りつかれている」という主イエスへの批判に対するの論駁で、27節の「強い人」とは、その悪霊を指しています。悪霊は、その力で人々を「罪と死の奴隷」にし、まるで「家財道具」のようにその「家」自分自身の中に閉じ込めているのです。悪霊である「強い人」の家に押し入り、その支配下にある「家財道具を奪い取る」とは、「悪霊に縛られている人を解放する」ことです。そのためには、まず「強い人」を縛り上げる強い力が必要であると言われているのです。
主イエスは御自分の正しさを行いを持って現わされました。「正しさ」とは、私たちが、今、どのように生きているかという「存在の正しさ」です。「存在の正しさ」とは、世のため、人々のため、教会のために、どれだけ尽くして来たかということではありません。どれ程人を愛して来たかということでもありません。
その全ては、「何のためになされて来たのか」ということに尽きるのです。
28節から29節にかけて、主イエスは大変理解し難いことを言われました。「はっきり言っておく。人の子らが犯す罪やどんな冒涜の言葉も、すべて赦される。しかし、聖霊を冒涜する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う。」と「聖霊」に拘ったことを言われました。
この世で人間の犯す全ての罪は赦される、しかし、聖霊を汚す者だけは永遠の罰に定められるとあります。それは何故でしょうか。
聖霊なる神とは、キリストから遣わされて私たちのところに来られた「助け主」です。神様の赦しを伝達されるのは聖霊です。聖霊を拒否する者は、聖霊を通して与えられる神の赦しを拒否する者であり、神の赦しを拒否する者は最終的な裁き「滅び」を受けざるを得ないのです。言い方を替えれば、福音を信ずるならば全ての人間は救われるのであり、滅びる者は、自分から赦しを拒否して破滅への道を進んでいくのです。
私たちは、キリストに属する者、キリストの弟子として聖霊を通して教会に集められ召された者であり、聖霊の導きを受けキリストの救いの御心が、全ての人々に対して向けられている、ということを証しする者です。
私たちは、永遠の神の御国に向かう新しい生き方に変えられた者として、聖霊に導かれ、世の人々の前、とりわけ愛する家族・友人に、愛なる神の救いの御心を伝える者となるのです。
今日の、この聖霊降臨日、豊かな力ある聖霊に導かれていることを深く覚え、聖餐の恵みに与りましょう。
お祈りを致しましょう。