牧師・副牧師から

藤野雄大・藤野美樹

「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。
主はわたしを青草の原に休ませ
憩いの水のほとりに伴い
魂を生き返らせてくださる。」(詩編2313節)

成宗教会のホームページにようこそ。

現代社会は、本当に目まぐるしく、ともすれば心のゆとりを見失いそうになります。多くの人が、心のどこかで疲れを覚え、日々悩みを抱えています。現代人が抱える本当の問題、それは魂の飢えであり、渇きであると言えるでしょう。聖書では、神様は、そのような私たちに憩いを与えてくださり、「魂を生き返らせてくださる」と記されています。

この言葉の通りに、キリスト教会は、2000年間以上変わることなく、礼拝を通して、聖書が示す救いの言葉を聞き続けてきました。そして数えきれない人が、聖書から慰めを受け、希望を与えられてきました。それは、今でも変わることがありません。

聖書の言葉を知りたい。一緒に讃美歌を歌いたい。その他、少しでもキリスト教の礼拝に出てみたいと思われる方は、どうぞご自由にご参加ください。心から歓迎いたします。

 

主の喜びが私たちの内に満ちあふれるように

聖書:詩編84篇5-13節, ヨハネ17章1-13節

 本日は、礼拝の後、新しい牧師先生方をお迎えし、私を送るというので、長老会は歓送迎会を予定してくださいました。私は4月に赴任される藤野雄大先生、美樹先生の歓迎会は当然4月の最初に開くべき、と思いましたが、本当に人手の少ないところ準備してくださることを思い、今日のような形になりました。しかし、これで良かったとも思います。なぜなら、私は、私を見送るだけのために今日の礼拝に出席していただきたいとは思わなかったからです。なぜなら、私は礼拝に向かって皆様をいつもいつもお招きして来たのですから、私のために礼拝にいらしてくださいというつもりは全くなかったからです。

それが、御言葉を語るために遣わされた者の思いです。17年も講壇に立って来たのに、説教準備は一度だって楽だったことはありませんでした。楽ということは祈らなくてもできるということですから。いつでも苦しんで祈って聖霊の助けを求めて準備して参りました。引退したら、さぞ並木先生は楽になるだろうと思っている方もおられるでしょう。ところがそうではございません。私は御言葉を語るのがこんなに苦しいのに、しかし説教のために準備することで、救われていました。それが教会にいる私の務めだったからです。説教者の務めのために、私はありとあらゆることを耐え忍ぶことができたのだと思います。

皆様はどうでしょうか。礼拝に来るのは健康の面で大変な人が増えました。忙しい人も、仕事を理由に礼拝から遠ざかる人々も増えました。しかし、楽に教会に来られる人々だけが礼拝を守っているのでしょうか。そんなことはございません。私は若い時、鬱状態でした。二時間と続けて眠ることができない時もありました。しかし、とにかく教会に向かって足を向けよう、と思いました。100m歩いてダメだったら、家に帰ろうと思いました。教会に着いた途端にダメだったら、それでも良いと思って礼拝に向かいました。途中で引き返すようなことには一度もなりませんでした。礼拝に向かう思いを、主は喜んでくださいます。皆様も苦労して苦労しても礼拝に足を運び、御言葉を聞き続けてください。

本日は詩編84篇5節から読みました。「いかに幸いなことでしょう。あなたの家に住むことができるなら、まして、あなたを賛美することができるなら。いかに幸いなことでしょう。あなたによって勇気を出し、心に広い道を見ている人は。嘆きの谷を通るときも、そこを泉とするでしょう。雨も降り、祝福で覆ってくれるでしょう。彼らはいよいよ力を増して進み、ついにシオンで神にまみえるでしょう。」神さまは礼拝のために集まって来る人々に、シオンでお会いくださいます。そのように、神さまは礼拝のために教会に集まる人々を喜ばれ、聖霊によって共にいらしてくださいます。礼拝で、人々は共に御言葉を聞き、讃美を捧げ、自分たちの告白によって神さまをほめたたえ、互いに顔と顔とを合わせて、慰めと励ましを共にいただくのです。

私が御言葉を語る務めのために、すべてのことを耐え忍ぶことができたように、皆様もあらゆる困難苦難の中で苦労して礼拝を守り、御言葉を聞き続けるならば、わたしたちが生きて行くために通らなければならない道筋で起こるすべてのことを耐え忍ぶことができるでしょう。私はこのことを確信して皆様にお勧め致します。

さて、わたしたちが礼拝で学んで参りました主の祈りですが、本日は最後の祈りの言葉です。主の祈りを祈るわたしたちは「国と力と栄えとは限りなく汝のものなればなり」と祈って、最後にアーメンと唱えます。この「アーメン」とはどういうことでしょうか。わたしたちは、この世の権力も支配も栄光もすべて神さまのものであることを信じて、心から神さまをほめたたえて終わりました。アーメンとは「そのとおり」という意味です。

さて、この祈りを教えてくださった主イエスさまは、十字架の苦難を受ける最後の時が迫っておられたとき、何をなさったでしょうか。その時、弟子たちはイエスさまが去って行かれることを思い、不安と悲しみで胸つぶれる思いでいたのですが、その弟子たちを愛して、最後まで愛し抜かれた主は、彼らに平安を残すために、彼らに分かるように声に出してお祈りをなさいました。「父よ、時が来ました。あなたの子があなたの栄光を現すようになるために、子に栄光を与えてください」と。アウグスティヌスはこの祈りを解き明かして、主イエスは、「あなたがわたしによって全地に知られるように、わたしを復活させてください」と祈られたのだと言っています。

主イエスさまは天の父に祈られました。「あなたは子にすべての人を支配する権能をお与えになりました。そのために、子はあなたから委ねられた人すべてに、永遠の命を与えることができるのです。」人は皆、罪を犯しているために神さまのご支配を喜ばず、神さまに逆らって、却ってこの世の支配を受ける結果になりますが、この世の支配は人を生かすでしょうか。それはじりじりと人を追い詰めて滅びに至らせるのではないでしょうか。神さまはすべての人に永遠の命を与えることがお出来になりますが、神さまはその力を、愛する御子にお与えになりました。イエスさまは永遠の命を与えることができるのです。だからイエスさまは祈りの中で宣言されます。「永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストとを知ることです」と。

わたしたちは、主の祈りを教えられました。わたしたちが「天の父よ」と呼びかけることをお許しくださる神さまがおられる、とわたしたちは教えられました。わたしたちは神さまを見ることができない。わたしたちは神さまを知らなかったのです。しかし、イエスさまは地上に来られ、天の父の御心をお示しくださいました。わたしたちはイエス・キリストを知ることで、天の父なる神さまを知ることになります。

最初の弟子たち、イエスさまが地上に来られた時、一緒にいた弟子たちを、イエスさまは愛されました。そして、地上に来られた目的を果たして、神さまの御許に帰るときが迫りました時、彼らのために声に出して祈られたヨハネ17章の祈りは、後に続く弟子たちにも、その弟子たちの弟子たちのためにも、何十代も後の弟子たちであるわたしたちのためにも、声に出して祈ってくださった祈りでもあります。11節。「わたしは、もはや世にはいません。彼らは世に残りますが、わたしはみもとに参ります。聖なる父よ、わたしに与えてくださった御名によって彼らを守ってください。わたしたちのように、彼らも一つとなるためです。」

父なる神さまと御子イエスさまは心一つであられます。そのように地上に遺されたわたしたちも主に守られ、主に在って一つとなるように、とイエスさまは祈っておられるのです。そのために主は地上に来られました。そのために、わたしたち罪人の重荷を負い、罪人の報いを受け、罪人に代わって十字架の死を死んでくださろうとしておられます。しかし、その目的は、神の永遠の命に復活されることです。そしてイエスさまのご復活の命に、わたしたちも与る希望が与えられているのです。その希望のために、わたしたちはイエスさまを贖い主と信じ告白して、洗礼を受け、キリストの体に結ばれる者となりました。

13節。「しかし、今、わたしは参ります。世にいる間に、これらのことを語るのは、わたしの喜びが彼らの内に満ちあふれるようになるためです。」このように主イエスさまは弟子たちの前で祈られました。この言葉が語られたのは、地上におられる間のことです。地上には多くの不安があり、この世の支配者、すなわちサタンの勢いが増しているようにさえ見えるからです。

しかし、だからこそ、主イエスさまは祈られました。「わたしの喜びが彼らの内に満ちあふれるようになるためです」と。これから十字架の道を進まれるイエスさまは、どんなに苦しまれようとしていたことでしょう。どんなに傷を受け、侮辱され、捨てられようとしていたことでしょう。しかし、主は言われるのです。「わたしの喜びが彼らの内に満ちあふれるように」と。神の御子の内には喜びがあるのです。この世のどんな苦難にも打ち崩されることのない喜びが。それはこの世の苦難にいつも脅され、打ちのめされるわたしたちには、思いも及ばない圧倒的な平安が、御子の内にあるのだ、ということに他なりません。そして御子イエスさまの喜びこそが、天の父の御心そのものでなくて何でしょうか。

ここに、主の祈りの最後のアーメンがあるのではないでしょうか。主の祈りを祈るわたしたちに、何よりもなくてならないものがあります。それは何でしょうか。それは天の父に対する心からの信頼です。そして、このアーメンに表れた心からの信頼は、主の祈りの終わりの言葉にあるだけでなく、初めから終わりまで、神を信じ、神の働きとわざに信頼する者が捧げる共通の思いに他なりません。

最初の弟子たちは、地上のイエスさまに付き従っていた時には、イエスさまの喜び、天の父なる神さまと共にあるゆるぎない喜び、平安が分からなかったでしょう。しかし、主の十字架の苦難と死という大変な悲しみと絶望を体験した彼らだったからこそ、やがて復活の主に出会い、この尽きることのない圧倒的な喜びを宣べ伝える者に変えられて行ったのであります。そして、わたしたちには救いの出来事が届けられました。神さまの備えられた救いのご計画を知らされているわたしたちではないでしょうか。

だから、どんな困難に打ちのめされるばかりの時も、どんな希望も見えて来ないと思われる時にも、主の祈りは祈られて来たように、今もこれからも祈られることが求められているのです。そして不安の風に震える木の葉のような世界の中でも、社会にあっても、神さまお一人が善い方であり、正義を愛し、慈しみを愛して、嵐を鎮めてくださる方であると固く信じて、主の祈りを祈りましょう。主イエスさまは「わたしの喜びが彼らの内に満ちあふれるように」と祈ってくださいました。

だから、神さまが与えてくださるものは、地上の生活を送る私たちにとってなくてはならないものだと確信しましょう。この命も、この生涯も、この家族も私たちに無くてならないものとして与えられています。そして日用の糧も、それから私たちには「いらない」言いたいものや、避けて通りたいものも、何か深い訳があって私たちに与えられていると信じましょう。そしていつの日には、その訳を教えていただきたいと願いながらも、天の父のご配慮を信じて従って参りましょう。

この教会にはかつてヘンデルのメサイアを歌う合唱団に加わっていた方もいらしたと思います。東京神学大学でもメサイアを歌う学生を募集していましたが、アーメンコーラスだけでも大変長く難しかったので、ギヴアップしたことを思い出します。しかし、たとえ歌が上手に歌えなくても、アーメンの言葉は地上を生きる私たちの人生の中でいつも鳴り響いています。初めは、「神さま、ああなりますように。こうなりますように」という真に身勝手な、自分の願いばかりであった私たちの祈りも、次第にアーメンの祈りに変えられて行くでしょう。「主なる神さま、どうかあなたのご計画のとおりにしてください。あなたは、その通り行われる方であることを、わたしたちはよく知っています」と。祈ります。

 

教会の主、イエス・キリストの父なる神さま

尊き御名をほめたたえます。あなたは御子を世に遣わし、わたしたちの罪の贖いのために苦難を負わせられました。この死と復活によって私たちにも主と共に復活の命に与る希望が与えられました。深く感謝申し上げます。どうかこの救いの恵みを信じ、悔い改めて多くの人々が主あなたの子とされるために、主イエスさまの執り成しを受けることができますように。教会に与えられた尊い働きを思い、感謝申し上げます。どうか、成宗教会がこれまでお守りくださった御心に従い、福音伝道の使命を果たすものとしてください。

また私たちの教会は2013年以来、東日本連合長老会と共に助け合って歩むことができ、真に感謝です。この礼拝を以て私は与えられた務めを終えますが、この尊い務めを受け継いでくださる教師、藤野雄大先生、美樹先生を与えられましたことを心から感謝申し上げます。どうぞお二人の先生方のお働きを祝し、成宗教会ばかりでなく、東京神学大学や多くの働きを担う先生方を豊かに支え導いてください。

困難なことが多い中ですが、本当に大切な人の救いを社会に知らせるために、成宗教会を強めてください。共に喜んで教会形成をなすために、長老会を強め、励ましてください。また同じ地域連合長老会に在って、互いに励まし合い、主のご栄光のために喜んで働く教会員の皆さんを励ましてください。また、高齢の教会員を特に励まし、清い手を上げて祈る者となり、生涯の終わりを迎える時まで、あなたに喜ばれる者となりますように。

今週、明日から新年度の歩みが始まります。どうか、特に教会学校の働きを顧みてください。教会総会、イースター、墓前礼拝と多くの行事が続きますが、あなたの恵みのご支配のもとに導かれますように。特に教会形成のために皆が果たすべき役割、奉仕を喜んで担うように、主の聖霊がご支配くださいますように。

わたしたちの内にある多くの困難、悩み、病気その他の問題を御存じのあなたが、すべてのことを通して、私たちに信仰による忍耐と愛と希望を増し加えてください。

言い尽くしません感謝と願いとを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。

アーメン。

主は試練を受けたからこそ

聖書:詩編91篇1-2節, 14-16節, ヘブライ人への手紙2章10-18節

 私が17年間の務めを終える日が近いこの時、後任の先生方をお迎えする準備も進み、平安のうちに成宗教会を辞することができることは、何よりの喜びです。しかし、一方私の心には深い悲しみがあります。それは時代を超えて、また地域を超えて、すべての伝道者が共有している悲しみであります。その悲しみは、人は神さまを無視しているということです。神さまは豊かな世界を創造され、豊かに人々に与えてくださいました。しかし、人は豊かになって神さまを忘れてしまったのです。神さまは与えてくださる方、守ってくださる方、助けてくださる方です。その方を無視して生きている。人は自分の世界に夢中になっている。

先日、私は用事があって表参道に行きました。恐ろしいほど人が溢れていました。インスタグラムの中に入り込んだような風景。最新のファッションで颯爽と行き交う人、人、人です。思えば、その中には借金を抱えている人もいるのだろうと、わたしは思いました。病気を抱えている人もいるのでしょう。様々なトラブルを抱えている人もいるのでしょう。しかし、その活気の中に、その都会の研ぎ澄まされた雰囲気の中に呑み込まれて行く。そしてその中の一部となっているような錯覚が起こります。そしてまるですべてがノープロブラムのような錯覚が起こるのではないでしょうか。

しかし。誰もが真の神さまを無視している世界。神さまを失っている世界。神さまを礼拝しないで、神さまでない何かを拝んでいる世界に助けがあるのでしょうか。救いがあるのでしょうか。一方、私はこの17年間お見舞いに訪れた続けた所がありました。この教会の中にも、そして教会の外にも病気の人々がいます。施設に入居している人々がいます。その中で私が出かけて行ったのは、その人々が成宗の教会員やその家族だったからです。この社会では牧師の問安が理解されていない所もあり、施設によっては出入りするのに苦労することもありましたが、出かけて行って祈ることができました。一人の病人、施設に入居している人と教会からの訪問者が、一時ですが、共にいるとき、そこに生まれるのは神さまを無視しないです。

どんなに慎ましい病室。時には面会室さえない病院もあります。聖餐式を行うことも困難な世俗の場所なのですが、そこで祈るとき、イエスさまのお言葉が思い出されます。「二人、または三人がわたしの名によって集まるとき、わたしもそこにいるのである」とのお言葉が。そして、そのことが本当に実感されることがあります。そこは表参道とは違って、人々が行きたいと思わないところ、目を奪われるものもなく、ワクワクドキドキするものはないところです。しかし、主の御前で言葉を交わすその思いは明るくなり、しみじみと感謝が溢れて来る。そして讃美の歌も歌います。そして心からの願いを祈ります。笑顔で再会を祈って別れる。別れても主が共にいらしてくださると信じて委ねることができます。

今、私の心にある悲しみの理由は、本当に貧しい世界が広がっていることです。それは見た目の貧しさよりも、病気よりも、障害よりも、比べものにならないほどの貧しい世界です。それは、真の神さまを失っている世界。真の神さまを無視している世界。求めようともしない世界。それは目を覆うばかりの貧しさではないでしょうか。人が自分に夢中になっている。人が自分独りで生きられると思っている世界。一人で生きられない人は生きる価値がないと思っている世界は、神さまに激しく逆らっている。だから悲しいのです。

今日読んでいただいた詩編91篇1節と2節。「いと高き神のもとに身を寄せて隠れ、全能の神の陰に宿る人よ、主に申し上げよ『わたしの避けどころ、砦、わたしの神、より頼む方』と。」詩人は神さまがどのような方かを知っています。神さまは善良な人を助けることを喜びとしておられる。だから、神さまに従って悪から離れて生きたい、正しいことをしたいと願っているのに、困難に苦しむ人々は、神さまに全く頼りなさい。そしてそのことを心の奥に隠していないで、人々の前でも神さまに申し上げなさい、と勧めます。「主よ、あなたは『わたしの避けどころ、砦、わたしの神、より頼む方』ですと。」

神さまは何よりもわたしたちの告白を喜んでくださいます。そうではないでしょうか。その告白を聞いた人々が、わたしたちが神さまから助けられるのを確かに見、また聞いて、彼らもまた神さまを信頼するようになることを、神さまは望んでおられるからです。神さまは私たちの告白をお聞きになって、こう言われると詩人は申します。「彼はわたしを慕う者だから彼を災いから逃れさせよう。わたしの名を知るものだから、彼を高く上げよう」と。そのためにはわたしたちは見かけではなく、真実に神さまを愛し、敬い、信頼する者でなければなりません。

また、「彼はわたしの名を知るものだから」と言われるからには、わたしたちは神さまとはどのような方であるかについて、日々学び、知るように努めなければならないと思います。こうした真実の信仰、そして真実の学びが、わたしたちの日常生活で行われた上で、神さまはわたしたちの祈りを待っておられるのです。「彼がわたしを呼び求めるとき、彼に答え、苦難の襲うとき、彼と共にいて助け、彼に名誉を与えよう。」何よりも、わたしたちは神さまに呼び求める必要があるのです。すなわち、わたしたちは神さまを知っているとしても、また神さまを愛していると思っていても、実際、試練に見舞われたときに、わたしたちは神を呼び求めないということが、実際あるのではないでしょうか。わたしたちは突然の悩みに遭った時に、祈りより先にあれこれと思い煩ってしまうとか、または神さまの御心を求めるよりも、自分の願望が先立ってしまうと、試練の時に「助けてください」と、呼び求めることができないのではないでしょうか。真にわたしたちには、信仰者でありながら多くの落とし穴があることに気づいて愕然とするのです。

今日のカテキズムは主の祈りの第六番目の求めについて学びます。その求めは「わたしたちを誘惑に陥らせず、悪よりお救いください」です。誘惑、試みとは何でしょうか。それは、わたしたちを神さまから背かせ、引き離そうとするあらゆる力を意味しています。それは、犯罪のようなものばかりではありません。たとえば人の物を盗むとか、他人の結婚生活を破壊するというような目に見える分かりやすいものばかりではないのです。神さまを忘れ、自分中心に生きることから起こって来るあらゆるものが誘惑となります。東京のブランドの地域の話をしましたが、目を奪われ、心を失った結果、現実の自分が見えなくなり、現実の隣人も見えなくなることは恐ろしいことです。何が善で何が悪かも次第に見失ってしまうでしょう。

そのようなわたしたちの弱さに悪魔は付け入って、神さまから離れさせようと攻め立てる、それが誘惑です。しかし神さまはそのようなわたしたちを救うことを御自分のお心とされました。そして御子イエスさまによってその救いのご計画を実現なさったのです。今日はヘブライ人への手紙2章を読んでいただきました。その10節で、御子が数々の苦しみに遭うことを良しとされ、それによって完全な者とされたと書かれています。完全な者とは、罪人の罪を贖うための務めを行うことが完全にできる者ということなのです。その内容は17節をご覧ください。

「それで、イエスは、神の御前において憐れみ深い、忠実な大祭司となって、民の罪を償うために、すべての点で兄弟たちと同じようにならねばならなかったのです。」ここで、「憐れみ深い」という言葉は、イエスさまが「人々の弱さを自分のものとして引き受けることができる」という意味です。イエスさまは神の子であり、父なる神と一つの心で従っておられますから、罪とは関係のない方なのですが、神さまから離れ去っていたために罪に苦しむわたしたちのために、その罪を引き受けて苦しんでくださいました。18節。「事実、御自身、試練を受けて苦しまれたからこそ、試練を受けている人たちを助けることがおできになるのです。」

天の父なる神さまはこのような方を救い主として、わたしたちにお与えくださいました。

12節から13節にかけての旧約聖書の引用が三つあります。その一つは詩編22:23です。これは、ダビデが出会った試練の時と、そこから救われた時の神への賛美です。そこには、「わたしの兄弟たちに知らせたい」との熱意が歌われています。また第二は、サムエル記下のダビデの感謝の歌です。「わたしの神、大岩、避けどころ、わたしの盾、救いの角、砦の塔。わたしを逃れさせ、わたしに勝利を与え、不法から救ってくださる方」と歌います。そして第三はイザヤ8:17-18「わたしは主を待ち望む。主は御顔をヤコブの家に隠しておられるが、なおわたしは、彼に望みをかける。見よ、わたしと、主がわたしに委ねられた子らは、シオンの山に住まわれる万軍の主が与えられたイスラエルのしるしと奇跡である。」「主がわたしに委ねられた子ら」とはだれでしょうか。それは救い主によって神さまが救いに入れられることを望んでおられる信仰者のことに他なりません。

ダビデによって指し示された救い主、イエスさまは、信じる者を兄弟と呼んで下さり、神の子らと呼んでくださいます。そしてわたしたちに先立って試練を受け、十字架の死にも打ち勝って、神さまの命へとわたしたちを招いてくださいました。18節をもう一度読みましょう。「事実、御自身、試練を受けて苦しまれたからこそ、試練を受けている人たちを助けることがおできになるのです。」キリストのわたしたちへの熱意は天の父と同じ。キリストの神さまへの信頼は、神さまと一つ心。そしてキリストの忍耐、わたしたちが奇跡的に救われることを待ち望む忍耐は、わたしたちばかりでなく、まだ信仰を持つに至らない人々への希望です。ヘブライ人の手紙によって、神さまは御自分がどんなに恵み深い方であるかを証ししていることでしょうか。

私がこの教会で働いたことは本当に僅かな実りでしかありませんが、多くの人々が救いに入れられる日まで、私は伝道者として遣わされた者の悲しみと痛みを忘れることはなく、祈り続けなければならないでしょう。今年度の教会標語を思い出してください。それは週報の表紙に掲げられています。(エフェソの信徒への手紙第3章18-19節)「また、あなたがたがすべての聖なる者たちと共に、キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解し、人の知識をはるかに超えるこの愛を知るようになり、そしてついには、神の満ちあふれる豊かさのすべてにあずかり、それによって満たされるように。」

わたしたちは成宗教会に連なり、この教会を建てるために祈って参りました。先週の主の日の朝に完成したばかりの成宗教会の記念誌が届きました。キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さを理解することが、この小さな群れの歴史を振り返る記念誌の中でも、なされることは本当にうれしいことです。時は移り、人は変りますが、わたしたちはイエス・キリストの変ることのない愛をささやかにでも証しして生き、証しして、次の世代に受け継がれる信仰共同体のために祈りましょう。

今日のカテキズム問62は、「主の祈りは何を第六に求めていますか」でした。そしてそれに対する答は、「わたしたちを誘惑に陥らせず、悪よりお救いください」です。わたしたちを神さまから引き離そうとするあらゆる力から守ってくださるようにと、心から願うのです。祈ります。

 

主なる父なる神さま

主のご苦難に表された、あなたの大きな愛、罪ある者をも悔い改めさせ、立ち帰って救いに入れられることを望まれるその熱意を思い、心からの感謝を捧げます。

本当にあなたに忠実でありたいと思いながら、なすべき善は行わず、なすべきでない悪を行う惨めな者であったことを深く懺悔いたします。この至らなさのために躓いた兄弟姉妹も少なくなかったと思いますが、どうかあなたの慈しみによってその人々を癒してください。皆共にキリストの執り成しをいただいて罪赦され、御言葉に従う礼拝の生活に立ち帰るようにお導きをお願い致します。

今週は東日本連合長老会の行事が二つございます。月曜日の教師歓送迎会、また木曜日の長老・執事研修会の上に、どうぞ聖霊の豊かな恵みが注がれますように。奉仕する先生方、を祝してください。また、その後行われる教会会議があなたの恵みのご支配と導きのうちに行われますように。

成宗教会に務めを与えられ赴任の準備をされている藤野雄大先生、美樹先生の上にあなたの導き、お支えが豊かにございますように。教会の多くの兄姉が高齢になり、礼拝に参加できない状況をあなたはご存知です。どうか主にある交わり、御言葉の糧をすべての人々が分かち合うことができますように道を開いてください。また、教会を建てるために、特に礼拝の奉仕を担っている方々を励ましてください。小さな奉仕でも担うために、必要な健康などを整えてください。主に喜んで捧げることができますように、聖霊の助けをお与えください。何よりも教会の主の恵みによってすべてが備えられ、導かれますように、すべてを、希望を持って待ち望む群れとなりますように。

どうか、教会員一人一人が、家族に対してあなたが与えられた祈りの務めを思い見、救いのために祈り続けることができますように。病床にある方々、悩みにある方々を顧みて、あなたの恵みによって癒し、守り導いてください。

主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

神の御心をたずね求める

聖書:詩編1031012節, 1722節, ルカによる福音書223946

 先週は東日本の講壇交換礼拝が守られ、感謝します。成宗教会には東日本議長の竹前治先生がいらして、力強く福音を語ってくださったと伺っています。また、「議長だというのに、お若い先生だったので驚いた」という声も聞きました。

私も車でしか行ったことがないので、晴天の主の日、雪の心配もなく出かけることができ、感謝でした。病院の礼拝から、成人の礼拝、そして月に一度は病棟を廻ってお見舞いをすることも、清瀬信愛教会の方々とさせていただきましたが、竹前牧師はこの上に教会学校もなさるので、大変たくさんの務めをされていることが分かりました。清瀬信愛教会は大塚啓子先生が病院のチャプレンとして働かれた教会でもあります。目黒原町教会から、私の休暇中に礼拝の奉仕をしてくださいました時、代わりに留守を守ってくださった引退教師の先生にも今回お会いしましたので、本当に成宗教会も私も、いろいろなところで、いろいろな方々にお世話になっていることが思われました。

先週はまた、四月から赴任される藤野雄大先生、美樹先生方も教会にいらして、引き継ぎの話し合いを行うことができました。お伝えすることが沢山ありましたが、お互いに「普通はこんなに綿密な、丁寧な引き継ぎはできないですよね」と語り合いながらも、まだまだ出来てないことがある、ということで、次の日程を立てているところです。すべては東日本連合長老会の交わりの恵みであります。様々な違いがあっても、わたしたちは共に一つの主の体の教会を目指しています。そのために共に主の前に謙って、み言葉に聴き、共に祈り、共に学ぶことの大切さは計り知れません。

共に祈るわたしたちの、共通の祈りとして主の祈りが与えられています。これは、弟子たちに与えられた祈り、そして教会に受け継がれた祈りです。そこで今日はカテキズム問59を学びます。それは「主の祈りは何を第3に求めていますか」という問いです。第3の祈りは、「みこころが天に行われるとおり地にも行われますように」です。「天に行われるように」と祈る、その「天」とは、神さまのおられる所だとわたしたちは知っています。そして、そこには神さまの右に、御子である主イエスさまが座しておられます。

天には交わりがあります。それは、父なる神と御子イエス・キリストの親しい交わりです。そして、それは聖霊という愛の絆で結ばれている麗しい交わりなのです。そして神さまは願いを持っておられます。神さまの願いは何でしょうか。それは、神さまのうちにあるこの美しい交わりへと、わたしたち人間を導き入れることなのです。これが神さまの御心なのです。詩編103篇の預言者はこう宣言します。10節。「主はわたしたちを罪に応じてあしらわれることなく、わたしたちの悪に従って報いられることもない」と。真に神様はご自分をいつくしみふかく憐れみに富む神、と宣言しておられます。

11節。「天が地を超えて高いように、慈しみは主を畏れる人を超えて大きい」と。わたしたちは誰も彼もが神さまに逆らい、過ちを犯し、罪を免れない者なのですが、神さまは主を畏れる人に対しては、ふさわしい報復を加えることをなさらない。その寛大さを以てわたしたちの悪行と戦ってくださいます。なぜなら、神さまの憐れみがどんなに深くても、わたしたちの罪が憐れみの邪魔をするので、その罪が取り除かれなければ、憐れみがわたしたちの所まで届かないからです。12節。神さまは「東が西から遠いほど、わたしたちの背きの罪を遠ざけてくださる」と言われるほど、わたしたちの罪を遠くへと追い払ってくださいます。

神さまはそれほどまでのご決意を持っておられます。それが御心です。今日読まれたルカ福音書22章39節から46節。これはイエスさまが十字架にお掛かりになる直前の出来事を伝えています。イエスさまは受難の時が迫っているときも、いつものように同じ所に出かけられたのです。つまり、主は敵から身を隠すために退かれることはなさらず、却って、敵の前に御自分を曝されたのでした。それは、死に対して、御自分の身を与えられたということです。ここにイエスさまの従順が描かれている。死に対して従順だったのではありません。死に対して進んで命を差し出すこと以外には、天の父の心を満たすことはできないことをイエスさまはご存じだったからです。

わたしたち人間が救われるためには、それを妨げて道を塞いでいる罪を滅ぼさなければなりません。その罪を滅ぼすために、神の子イエスさまは死に渡されようとしていました。

42節。「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください。」神さまは御子イエスさまを既に苦難を受けるための準備的な訓練を与えておられましたが、今やより差し迫った死を目の前に描き出して鋭くイエスさまを撃たれました。そして愛する御子は今までに経験したことのない恐怖に打ちのめされたのであります。

しかし、聖書が伝えるこの祈りの場面ですが、神の子イエスさまが迫り来る死に直面して恐怖に打ちのめされる、という弱さを、「あり得ないことだ」と思う人々は多かったのであります。神さまの御子が死を恐れるなんて・・・と思うので、古代教会以来、神学者もいろいろな解釈をつけて何とか、何があっても動じない敢然とした神さまの強いお姿をイエスさまに反映させようと努めたようです。しかしそのような労苦は間違いであり、必要がないと宗教改革者は断言しました。なぜならキリストがこのように恐れと悲しみを経験されたことを、もしわたしたちが恥と思うなら、わたしたちのための身代わりの犠牲は破壊され、失われてしまうでしょうから。

四世紀の古代教会教父、聖アンブロシウスはその説教の中で、ただ次のように言いました。「わたしは主イエスのために、このお姿に何の弁解の必要も感じないばかりでなく、主イエスの親切と威厳がここよりも讃えられるところは他にないと思う。なぜなら彼はわたしの思いを御自分に取り入れたのでなければ、わたしのためにこれほどのことを成し遂げてはくださらなかったであろうから。真に、主はわたしのために嘆き悲しまれたのであって、御自身のために悲しむ理由は何もなかったのだ。主は永遠の神のご性質とその喜びをしばし脇に置いて、わたしの弱さの苦しみを経験されているのである。」天から降られて人となられたイエスさまは、御自身に人間の外観を取られたのではなく、人間の生きる現実の性質を取られたのだから。故に、主は人の悲しみを経験されなければなりませんでした。さらにその悲しみを克服しなければなりませんでした。

イエスさまは祈りました。「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください。」キリストの十字架の苦しみはすべての面で自発的なものとは言えません。しかし、御父の御心の故にそれは自発的になっているのではないでしょうか。わたしたちも自分の願いがあります。自分のしたい事があります。また自分が避けたいことがあります。是非このことだけは叶えてほしいというものがあるわたしたちです。

しかし、主イエスさまはわたしたちの弱さを持って苦しみもだえ、切に祈られたときに、その祈りはわたしたちの弱さを以て、神さまの御心を求める祈りの格闘をしてくださったのです。わたしたち人間の救いのために、主イエスさまは神さまの御心を願い求め、そしてその苦しみによってわたしたちに救いの道が開かれました。十字架の受難に先立つ格闘、この苦しみの祈りにこそ、わたしたちは学ばなければならないと思うのです。神さまは御自分を頼る人々を憐れんでくださいます。その人々がたとえどんなに罪、咎、過ちに満ちた人生を歩んで来たとしても、ご自分を畏れる人々を憐れみ、天の国の交わり、神さまの喜ばしい交わりの中に招き入れることを望まれます。これが救いであります。これが神さまの御心であります。その御心を知っておられる御子イエスさまは、御使いに力づけられ、立ち上がって十字架ヘと進まれました。

では、神さまを畏れる人々はどこにいるのでしょうか。わたしたちは言いましょう。わたしたちがそうです、と。せめてわたしたちは言いましょう。「わたしたちはそうでありたいです」と。そのためにわたしたちは教会に招かれたのです。そのためにわたしたちはイエスさまを救い主と信じ、悔い改めて洗礼を受けたのです。そのためにわたしたちはイエスさまの罪の赦しに結ばれたのです。

しかし、地上にいる限り、わたしたちは新しい試練に直面します。地上にある限り、わたしたちは自分に望ましいことがあり、自分が避けたいことがあります。わたしたちは主の祈りを祈る前に、この自分の願いをはっきりと見る必要があります。自分に望ましいことは何か。そして自分が避けたいことは何か。しかし、それだけで終わってしまうのでは、主の祈りには届きません。わたしたちは弱い者なので、自分の考えや願いが正しいと思ってしまう。すると、まるで神さまもきっとそうだ、と思うかのように、全然神さまの御心を尋ね求めようともしなくなります。それでは主の祈りには届きません。

主イエスさまは、弟子たちに主の祈りを教えてくださいました。そして、主は御自分が教えられた祈りの通りに生きて、死を迎えてくださいました。それは多くの人々のための死。多くの人々が神さまを畏れるようになるため、多くの人々が神さまを頼るようになるために、多くの人々が神さまの喜ばしい交わりに入れられるために、死んでくださった。だからこそ、神さまは御子イエスさまを復活させられ、天に昇らせてくださったのです。

ここにこそ、神さまの御心がありました。ここにこそ、わたしたちの祈りは向けられなければなりません。わたしたちは主と結ばれて教会にいる者です。わたしたちは神さまにどれほど愛されていることか。どれ程慈しみをいただいていることか。本当に知っているでしょうか。「神の愛がわたしたちの心に注がれている」とパウロは教会の人々に告げ知らせました。ローマ5章5節以下です。「実にキリストは、わたしたちがまだ弱かったころ、定められた時に、不信心な者のために死んでくださった。(中略)わたしたちがまだ罪人であった時、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。」279頁。

この愛が分かることこそ重要です。なぜなら自分を愛し、大切にしてくださる神さまをわたしたちはイエスさまによって知ることができるからです。この神さまを信頼して行く。イエスさまをさえ惜しまなかったほどわたしたちの救いにこだわってくださった主なる神さま、天のお父さまに祈るとき、私たちはその愛の心、慈しみに満ちたご計画が地上で成し遂げられることを祈らずにはいられません。

そして、それはキリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さを理解することですから、わたしたちに関わること、わたしたちの教会に関わることでなくて何でしょうか。これから成宗教会は新しい先生方をお迎えし、新しい時代を迎えようとしています。ここに具体的にああすれば良い、とか、こうすれば良いとか、いろいろと計画が建てられるようになることは喜ばしいことでしょう。しかし何よりも祈るべきことは主の祈りの第三の祈り。「みこころが天に行われるとおり地にも行われますように」です。神さまの御心が天で行われているのと同じように、地上にも完全に行われることを私たちは心から願い、待ち望むのです。自分の思いとちがう思いがけないことが起こるときにも、主の祈りをしっかりと祈るならば、神さまは私たちを愛して良い道を開いてくださると確信することができるでしょう。祈ります。

 

主なる父なる神さま

あなたの尊き御名をほめたたえます。御子イエス・キリストのご受難によってわたしたちに救いの道を開いてくださるほど、わたしたちを大切にしてくださる、計り知れない愛についてみ言葉を聴きました。どうかわたしたち成宗教会に集められた者も、あなたの愛に応える者となりますように。あなたを信頼し、すべてのことの上に御心が成りますように、と祈る者となりますように。そして、同時にあなたの御心を尋ね求め、知る者となりますように。弱いわたしたちは楽を求め、労苦を望まないものですが、イエスさまはわたしたちに代わって労苦を厭わず、あなたの御用を果たしてくださいました。

あなたはわたしたちの弱さをご存知です。どうかわたしたちがあなたの愛、イエスさまの救いに感謝し、いつもあなたに讃美を捧げる礼拝の時をお与えください。あなたの御国の喜び、その麗しさ、その平和、その支え合う心をわたしたちにお知らせ下さい。地上にイエス・キリストの教会をわたしたちは建てるために東日本連合長老会の諸教会と共に、また志を同じくする全国全世界の教会と共に心を合わせ、歩みたいと切に願います。一方、あなたの御心よりも自分の願いを先にする誘惑は常に現れ、教会の脅威となります。どうか、主よ、この教会が、また東日本の地域教会がそのような試みから守られますように。

どんな時にも御心を尋ね求め、あなたの喜びをわたしたちの喜びとさせていただけるように祈ります。

これから4月の着任に向けてご準備くださっている藤野雄大先生、美樹先生の上にあなたの豊かなお支えがございますように。また、成宗教会が長老会と心を一つにして祈り準備することができますように。また止むを得ない事情で礼拝に来られない日々を送っている方々をどうぞ顧みてください。深い慰めと励ましを祈ります。

この感謝、願い、尊き主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

御国が来ますように

聖書:詩編675-8節, ヨハネによる福音書183637

旧約の詩編67篇の詩人は知っていました。神さまが公平な方であることを。公平を行ってくださることを。神さまこそは誠実であられ、真実であられることを。だから彼は祈るのです、神さまのご支配を諸国の人々もこぞって喜ぶようにと。

今日はヨハネの福音書18章。イエスさまは十字架に付けられようとしています。イエスさまを訴え、殺そうとする人々は、神さまの義しさを信じていたでしょうか。喜んでいたでしょうか。公平な神が、彼らにとって有利なことをしてくださるのか、彼らはそうは思わなかったでしょう。彼らは民の指導者。この世の権力者でした。民のような悩みはない。民のような苦しみはない。健康にも、経済にも地位にも恵まれ、却って神の恵みを思わなくなった。まして感謝などしない。そのような人々はイエスさまを理解しないのです。イエスさまが民のために働いている様子が疎ましい。ただの人気取り、としか見えないのです。彼は何をねらっているのか。王になろうとしているのか。人気を博し、民衆を味方につけ、権力に逆らって立とうというのか。それならば、そうならないうちに捕えよう。処罰しよう。それは彼らに好都合な筋書きであったに違いありません。

そう企てる彼らは、自分たちの考えが神さまに逆らっているとは夢にも思いません。むしろ、イエスさまの方が神を冒涜していると決めつけることができました。何の後ろめたさも無く。ついに彼らは時の権力者、彼らの国を支配しているローマ総督ピラトを動かして、イエスさまを尋問させました。「お前が王なのか?」と。イエスさまはお答えになります。「わたしの国は、この世には属していない。もし、わたしの国がこの世に属していれば、わたしがユダヤ人に引き渡されないように、部下が戦ったことだろう。しかし、実際、わたしの国はこの世には属していない。」そうです。イエスさまを亡き者にしようとする人々からは、イエスさまは他の人間と同じように見えるのです。他の人間と同じように、この世の力を持って人間の上に君臨する王になろうとしている、と。

しかし、イエスさまはこの世に属してはいないと仰います。確かにこの時、イエスさまは肉体を持って世に生まれ、私たちと同じように疲れもする、倒れもする、肉体の限界の中を生きておられました。しかし、イエスさまは、たとえ私たちと同じ人間であっても、この世に属していないのです。だからイエスさまはこの世と同じ土俵に上がって、同じ力と力をもって戦ったりしないのです。この世から見ればイエスさまは、何の力もなく、人々の悪意にさらされ、やりたい放題のことをされて、完全な敗北を喫したとしか見えない。それほどまでに、この世の力に対して無力に見えたのでしょう。

しかし、本当にそうでしょうか。「わたしの国は、この世には属していない」と言われました。キリストの王国はこの世に属していないのだから、だからこそ、イエスさまは仰います。「あなたがたも来なさい」と。「わたしの国に来なさい」と。「信じることによって来なさい」と、イエスさまは招いておられるのです。キリストの王国はこの世の力を持っている人々の支配を妨げたりはしません。イエスさまは仰いました。「神の国は近づいた」と(マコ1:3)。イエスさまは、この世の王たちの支配を転覆させるために来られたのではないのです。だから、どこの国の国民であってもどんな民族であっても、「わたしの国に来なさい」と言われているのです。だから、力のある人もない人もキリストの王国を恐れることはない。不安になることはないのです。ただ、「イエスさまの王国は自分たちの支配を脅かすものではないか、自分たちに都合の悪いものではないか」と考える人にとっては、それは恐ろしいもの、不安にさせられるものなのではないでしょうか。

それでは、イエスさまは何のために王国を建てようとしておられるのでしょうか。イエスさまの王国は、神さまのご支配です。イエスさまは仰いました。マコ1:3「悔い改めて福音を信じなさい。」神さまのご支配こそは、人を救うからです。それは旧約の預言者たちが祈り求めていたことです。今日の詩編67篇5節です。「諸国の民が喜び祝い、喜び歌いますように。あなたがすべての民を公平に裁き、この地において諸国の民を導かれることを。」6節。「神よ、すべての民があなたに感謝をささげますように。すべての民が、こぞってあなたに感謝をささげますように。」この祈りは、神さまへの讃美の歌です。神さまがどんなに感謝されるべき方であることかを、私たちに教えているのです。なぜなら、神さまの御支配こそが、人を救うからです。

わたしたちの教会のことを考えましょう。わたしたちの信仰生活のことを振り返りましょう。わたしたちの多くは、信仰は個人的なものと考えていたのではないでしょうか。確かにこの世の法律ではそれが正しいのです。わたしたちの国には信教の自由を保障する憲法があります。もしそれがなかったら、この世の王、この世の支配者によって宗教が決められたり、禁止されたりするでしょう。実際、日本の国でも徳川時代にはキリスト教は禁止されていましたし、明治時代以降も太平洋戦争が終わるまでは、政府の監視、統制を受けた時代がありました。そして、そういう国々は現代でもあることをわたしたちは知っています。

しかし、わたしたちの教会のことを考えるときに、この教会がこの社会の中で、決して社会とは切り離されたもの、関係ないものとしてあったのではないことを思い起こします。教会には多くの人々が出入りし、業者の方や近隣の方との交わりもございます。藤野先生は引き継ぎに当たって私に、「ご近所とのトラブルはありませんか」と尋ねられましたが、私はすぐに「とても良い関係ですよ」と答えることができました。このことは、大変幸いなことであり、またそれは大切なことであります。わたしたちは、自分が救われて幸いだということは、自分だけが救われれば良いということには決してならないからです。

この頃の痛ましい事件は小学生の児童が父親から虐待を受けて死んでしまったということがあり、毎日毎日、報道されるたびに、心が暗くならない人はいないと思います。まして身近に、親しい者の中にこのような不幸があるならば、「ああ、自分でなくて良かった。」「自分は関係ない」と思って平気でいられるでしょうか。昨日の藤原姉の葬儀式でわたしたちは「かみともにいまして」という讃美歌を歌いました。「神のお守り、なが身をはなれざれ」と歌う時、それは「天に召された姉妹がいつも神さまのお守りのうちにありますように」という祈りだけではないと思います。「この讃美歌を歌う私にも神さまのお守りがありますように」そして、「一緒に歌うすべての人にもありますように」という祈りでなくて何でしょうか。葬儀式で人々が集まり、久しぶりに本当に何十年ぶりに会う人もいます。一緒に歌い、一緒に祈り、祝福を分かち合って、また去って行くのです。

いつまた会えるだろうか。もう会うことはないかもしれない、というのがわたしたちの現実でありましょう。しかし、もしわたしたちが互いに祈る祝福が、神さまによって与えられるように祈るのであれば、わたしたちは同じ神さまの恵みの下にあるからこそ、祈るのではないでしょうか。神さまはどのようなお方でしょうか。旧約聖書の宣べ伝えます。詩67篇5節のように、神さまは「すべての民を公平に裁き、この地において諸国の民を導かれる」方だと。神のご支配は愛の支配だと信じていたのです。すなわち、神さまは暴力や人間の力を用いて人々を抑圧するのではない。人を慈しみ、公平に裁くことによって御支配くださる方だと信じていたのです。

そして旧約聖書の人々から見れば、わたしたちは諸国の民、異邦人なのですが、わたしたちはイエス・キリストの福音によって知らされました。神さまはどのような方であるかを。神さまはイエスさまの執り成しによってわたしたちを悔い改めさせ、天の父と呼ぶことをお許しになりました。わたしたちは悔い改め、罪の赦しをいただいて、キリストの体と呼ばれる教会の肢となりました。一部となりました。イエスさまの一部なのですから、イエスさまと同じように、わたしたちもまた「天の父よ」と呼びかけて、神さまから喜んでいただける者となっているのです。ここに一人の信者がいます。昨日葬儀が行われた藤原姉もそうです。今は一族の中でただ一人の信者でしたが、彼女に与えられた祝福は彼女だけにはとどまりません。神さまはイエス・キリストの父と呼ばれる神さまは全世界をお造りになった方。全世界の救いを望んでおられる方に他なりません。

イエスさまはわたしたちの罪のために十字架に掛かり、罪の贖いをしてくださいました。それはすべての人のための罪の贖いだったのですが、現実には自分を罪人のうちに数え、「どうぞこの罪を赦し、汚れを清めてください」とイエスさまのお名前によって祈る者だけが罪赦され、清められたのです。

イエスさまは復活され、天に昇られました。ですからその時からイエスさまをわたしたちが目で見ることができなくなりました。しかし、そのことによって、イエスさまは、挙げられた天から、わたしたちに聖霊を注ぎ、教会と世界に働きかけ、御国の到来を語り伝える務めを教会に与えておられるのです。教会とは、恵みによって救われた人々の群れです。礼拝にみんなで集まることができれば、大勢のクリスチャンがいると、目に見えて実感することができるでしょう。しかし、集まろうとして集まることができない人も、できない時も、教会の主イエス・キリストを思い、心を天に向けて祈ることができる。むしろ祈らずにはいられないならば、その人は何と幸いな人ではないでしょうか。

ここに一人のクリスチャンがいます。ここに一つの祈りがあります。「天におられるわたしたちの父よ」と祈ります。「あなたのお名前があがめられますように」と祈ります。そして「御国が来ますように」と祈ります。一人のクリスチャンが神さまのご支配を祈るとき、それは、決して自分にだけ祈っているのではないのです。一人のクリスチャンの祈る御国は来てくださり、その御支配をその人の周りにいる人々にも及ぼしてくださるでしょう。「あなたがたは地の塩である」と主は言われました。御国のご支配によってわたしたちが塩として用いられる時、わたしたちは御国の平和を持って人々に和らぎを与えないではいられないでしょう。それは私たちの働きではなく、イエスさまが送られる聖霊による御国のご支配の結果なのです。

また、主は言われました。「あなたがたは世の光である」と。イエスさまの霊、父なる神さまの霊がわたしたちに来てくださって、この土の器の中で光となってくださるとき、私たちの内に住まわれた神さまの光、イエスさまの光が周囲を明るくしないでしょうか。それもわたしたちの働きではなく、イエスさまが送られる聖霊による御国のご支配の結果なのです。

わたしたちの生きている限り、地上に悩みは絶えず、残酷な事件がなくなることはないでしょう。神さまの御心に逆らう力が地上を支配しようとしているからです。しかし神さまの愛は、イエスさまのみ言葉に、御業において明らかにされました。神さまの愛のご支配が完全になる世の終わりの日が来るまで、わたしたちは忍耐して祈り続けるのです。「御国が来ますように」と。イエスさまは仰いました。ルカ17章20-21節です「神の国は、見える形では来ない。『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。」今日のカテキズムは問58「主の祈りは何を第二に求めていますか。」その答は、「御国が来ますように」です。悪の力が完全に滅ぼされ、すべてが神さまのご支配のもとに置かれることを心から願い、待ち望みます。祈りましょう。

 

御在天の主なる父なる神さま

尊き御名を讃美します。本日の礼拝、わたしたちは雪になる寒さの中、困難を排して礼拝を守るために集められました。大勢の信者、この教会に連なるすべての者を代表して、あなたが招いてくださいましたので、わたしたちはみ言葉に耳を傾け、罪の赦しを改めて感謝して心に刻み、いただいた恵みを携えて世に出て行こうとしております。どうぞ、御国を求める主イエスの尊い祈りが、わたしたちの祈りとなりますように。主よ、天から聖霊をお送りくださって、今週もわたしたちを照らし、行く道を導いてください。

昨日は厳しい天候が予想される中、あなたは藤原京子姉妹の葬儀式を成宗教会で行うわたしたちを祝福してくださいました。心を込めてお母様を天に旅立たせようと願い続けて来たご子息方を祝福してください。そのご子孫の上に、あなたの愛と慈しみが明らかになりますように祈ります。

成宗教会に最期まで連なろうと努めて来た兄弟姉妹をあなたは豊かに祝し、その方々を用いてあなたの恵み深さ、ご栄光を現わしてくださいました。79年にわたる教会の歴史を振り返り、心からの感謝をささげます。どうか、これからもこの群れに、成宗教会にあなたの慈しみを注いでください。この所を、み言葉が力強く宣べ伝えられ、讃美と祈りが絶えないところとしてください。東日本連合長老会の諸教会と共に助け合い、日本キリスト教団の中で主の体の教会を建てて行くことができますように、新たに赴任される藤野雄大先生、美樹先生と共に主に仕える、長老、信徒の志を励まし、導いてください。

来週は東日本の講壇交換による礼拝が守られます。どうかご奉仕にいらっしゃる清瀬信愛教会の竹前治先生をお迎えして、喜びと感謝の礼拝を捧げることができますようにお導きください。また同じく清瀬信愛教会で奉仕する私の務めをも祝してください。病院で行われる礼拝と問安の奉仕をも御心に適って行われますように。

厳しい寒さの中、健康に不安を抱えている多くの方々を御言葉と御霊によって励ましてください。必要な助けが与えられますように。また、どうか多忙を極めている働く世代の方々をも支えてください。そして、どのような時も主に頼り従う者とならせてください。

この感謝と願いとを、主イエス・キリストの尊きお名前によって祈ります。アーメン。