毒麦とは

主日礼拝

齋藤 正 牧師

《賛美歌》

讃美歌67番
讃美歌320番
讃美歌338番

《聖書箇所》

旧約聖書:創世記 18章16-33節  (旧約聖書24ページ)

◆ソドムのための執り成し
18:16 その人たちはそこを立って、ソドムを見下ろす所まで来た。アブラハムも、彼らを見送るために一緒に行った。
18:17 主は言われた。「わたしが行おうとしていることをアブラハムに隠す必要があろうか。
18:18 アブラハムは大きな強い国民になり、世界のすべての国民は彼によって祝福に入る。
18:19 わたしがアブラハムを選んだのは、彼が息子たちとその子孫に、主の道を守り、主に従って正義を行うよう命じて、主がアブラハムに約束したことを成就するためである。」
18:20 主は言われた。「ソドムとゴモラの罪は非常に重い、と訴える叫びが実に大きい。
18:21 わたしは降って行き、彼らの行跡が、果たして、わたしに届いた叫びのとおりかどうか見て確かめよう。」
18:22 その人たちは、更にソドムの方へ向かったが、アブラハムはなお、主の御前にいた。
18:23 アブラハムは進み出て言った。「まことにあなたは、正しい者を悪い者と一緒に滅ぼされるのですか。
18:24 あの町に正しい者が五十人いるとしても、それでも滅ぼし、その五十人の正しい者のために、町をお赦しにはならないのですか。
18:25 正しい者を悪い者と一緒に殺し、正しい者を悪い者と同じ目に遭わせるようなことを、あなたがなさるはずはございません。全くありえないことです。全世界を裁くお方は、正義を行われるべきではありませんか。」
18:26 主は言われた。「もしソドムの町に正しい者が五十人いるならば、その者たちのために、町全部を赦そう。」
18:27 アブラハムは答えた。「塵あくたにすぎないわたしですが、あえて、わが主に申し上げます。
18:28 もしかすると、五十人の正しい者に五人足りないかもしれません。それでもあなたは、五人足りないために、町のすべてを滅ぼされますか。」主は言われた。「もし、四十五人いれば滅ぼさない。」
18:29 アブラハムは重ねて言った。「もしかすると、四十人しかいないかもしれません。」主は言われた。「その四十人のためにわたしはそれをしない。」
18:30 アブラハムは言った。「主よ、どうかお怒りにならずに、もう少し言わせてください。もしかすると、そこには三十人しかいないかもしれません。」主は言われた。「もし三十人いるならわたしはそれをしない。」
18:31 アブラハムは言った。「あえて、わが主に申し上げます。もしかすると、二十人しかいないかもしれません。」主は言われた。「その二十人のためにわたしは滅ぼさない。」
18:32 アブラハムは言った。「主よ、どうかお怒りにならずに、もう一度だけ言わせてください。もしかすると、十人しかいないかもしれません。」主は言われた。「その十人のためにわたしは滅ぼさない。」
18:33 主はアブラハムと語り終えると、去って行かれた。アブラハムも自分の住まいに帰った。

新約聖書:マタイによる福音書 13章24-30節  (新約聖書25ページ)


◆「毒麦」のたとえ
13:24 イエスは、別のたとえを持ち出して言われた。「天の国は次のようにたとえられる。ある人が良い種を畑に蒔いた。
13:25 人々が眠っている間に、敵が来て、麦の中に毒麦を蒔いて行った。
13:26 芽が出て、実ってみると、毒麦も現れた。
13:27 僕たちが主人のところに来て言った。『だんなさま、畑には良い種をお蒔きになったではありませんか。どこから毒麦が入ったのでしょう。』
13:28 主人は、『敵の仕業だ』と言った。そこで、僕たちが、『では、行って抜き集めておきましょうか』と言うと、
13:29 主人は言った。『いや、毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかもしれない。
13:30 刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい。刈り入れの時、「まず毒麦を集め、焼くために束にし、麦の方は集めて倉に入れなさい」と、刈り取る者に言いつけよう。』」

《説教》『毒麦とは』

ご一緒に読み続けて来ましたマタイによる福音書の13章からは、主イエスが語られた「神の国」のたとえ話が続いていました。先週まで見てきた「種を蒔く人のたとえ」では、「神の言葉を聞く人の心」が四つの土地によって表されていました。今日の「毒麦のたとえ」は、その続きです。

今日は、神の国がこの世界でどのように広がっていくのか、そして、なぜこの世には悪が残されているのかという、私たちの多くが抱く疑問に主イエスご自身がお答えになられます。

先ず、24節「天の国は次のようにたとえられる。ある人が良い種を畑に蒔いた。」、良い種を蒔く「ある人」とは、主イエスご自身であると、この先の37節で説明されています。主イエスは良いものしか蒔かれません。神がお造りになった世界は、創世記1章で何度も「見よ、それは極めて良かった。」と言われています。

主イエスが人々に与えられるものは、新約聖書にちりばめられている「福音」「愛」「真理」「命」「希望」など、良いものです。そして、主イエスは今日も御言葉を私たちの心に蒔いてくださいます。教会もまた、主イエスによって蒔かれた良い種です。

ところが25節「人々が眠っている間に、敵が来て、麦の中に毒麦を蒔いて行った。」と、ここで初めて敵が登場します。後の38節での主イエスの説明では、敵とは悪魔のことです。悪魔は、神がお造りになったものを壊し、神の働きを妨げます。

では、悪魔が蒔いた毒麦とは何でしょうか。当時の「毒麦:ziza,nion:ジザニオン」とは、穂の出る前には麦とほとんど見分けがつきません。ところが実る頃になると違いが明らかになるイネ科の植物(雑草)です。

悪魔は、「少しだけならいい。」「これくらいなら問題ない。」「みんなやっているから大丈夫。」という形で私たちに近づいてきます。悪魔は最初から悪そうには見えないことが多いのです。

エデンの園でも蛇は、「決して死ぬことはない」と言って誘惑しました。悪はいつも正しい姿によく似て登場してきます。だからこそ見分けることが難しいのです。後の37節で主イエスは「毒麦」を「悪い者の子ら」と説明されます。しかし、これは単純に「あの人が麦、この人は毒麦」という意味ではありません。主イエスは、そのように「麦」と「毒麦」に人間を分けて、裁くためにこの話をされたのではありません。そうではなく、悪魔の働きによって神に逆らうものがこの世界に存在しているのだ、ということを教えられているのです。

毒麦とは、神に従うように見えながら、実際には神に背を向けて生きている人のことを言われているのです。

例えば、口では信仰を語りながら、心は神の思いから遠く離れていたり、教会に来ていながら、神よりも自分を第一にしてしまう。さらに、憎しみ、妬み、高慢、偽り、分裂、これらも悪魔が蒔く毒麦です。

私たちはすぐに「あの人が毒麦だ。」と思いたくなりますが、主イエスは「まず、自分自身の心を見つめなさい」と言われているのです。私たちの心にも罪があります。だから誰も自分を誇ることはできません。

僕たちが主人に「毒麦を抜き集めましょうか。」と迫りました。当然ながら、悪は早く取り除くべきだとの思いからの問い掛けです。しかし主人は「いや、毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかもしれない。」と、言われます。ここに神の深い忍耐があるのです。神は急いで裁かれません。神は忍耐をもって待っておられます。これは神の憐れみです。

先程ご一緒にお読みした創世記18章で、神はソドムとゴモラを裁こうとされました。しかしアブラハムは神の前に立ち、「もし五十人の正しい人がいたら滅ぼされますか。」と願いました。さらに、四十五人、四十人、三十人、二十人、十人、と繰り返し執り成しました。すると神は、「十人いれば滅ぼさない。」と言われました。ここに神の御心があります。

神は裁きを急がれません。一人でも多く救われることを願われます。新約聖書ペトロの手紙第二3章9節で、主は「一人も滅びないで、皆が悔い改めるように」忍耐しておられると教えています。毒麦をすぐ抜かないのは、神が悪を認めているからではありません。毒麦にも「救い」の機会を与えておられるからです。

主イエスは毒麦を焼くだけではなく、罪人を救うために来られたのです。主イエスが裁くためだけに来られたなら、私たちは誰一人救われないでしょう。私たちは皆、元来は神に逆らう罪人でした。しかし主イエスは、毒麦を探すためではなく、罪人を救うために来られ、十字架の上で、私たちの罪をすべて負われました。本来なら私たちが受けるべき裁きを、主イエスが代わって受けてくださいました。罪人であっても、悔い改めて主イエスを信じるなら、赦されるのです。

言ってみれば、神は毒麦を麦へと造り変えることさえできるお方です。それが福音です。パウロもかつては教会を迫害していた罪人でした。しかし主イエスは彼を使徒へと変えられました。ザアカイも、徴税人マタイも、十字架の犯罪人も、皆、救われました。

主人は「刈り入れまで、両方とも育つままにしておけ。」と言われました。放ったらかしておけと言われたのではありません。

収穫の日まで待ちなさいと言われのです。神は最後には必ず裁かれます。神の裁きは決して間違いません。人には、外側しか見えません。しかし神は人の心をご覧になります。従って私たちは、人を裁く者になる必要はありません。裁きは神に委ねればよいのです。

今日の「毒麦のたとえ」は「『神の深い愛』を教えている」のです。私たちは「あの人は毒麦だ」と決めつけてはいけません。神は「毒麦」の裁きを急がれません。悔い改める時を与えてくださっています。

アブラハムがソドムのために執り成したように、その何倍もの愛をもって、主イエスは十字架で私たちのために執り成してくださいました。私たちは皆、神の恵みによって生かされている者です。

だからこそ、自分を誇ることなく、神の忍耐に感謝し、日々御言葉に養われ、良い実を結ぶ者として歩んで行かなければなりません。やがて収穫の日「終わりの時」が来ます。その日に主から、「良い忠実な僕だ。」と言っていただけるよう、主イエス・キリストを見上げながら歩み続けたいと思います。

お祈りを致しましょう。