受難節第4主日礼拝 (2021/3/21 № 3745)

司会:齋藤 正
奏楽:ヒムプレーヤ
前奏  新型コロナウィルス感染症流行拡大防止のため自粛します
招詞
讃美 97
主の祈り (ファイル表紙)
使徒信条 (ファイル表紙)
交読詩編 13014節(交読詩編p.149 [赤司会・黒一同]
祈祷
讃美 420
聖書 詩篇 89910 (旧約 p.926)
マルコによる福音書 43541 (新約 p.68)
説教
「キリストと共に」
成宗教会 牧師 齋藤 正
讃美 522
献金 547 齋藤千鶴子
頌栄 543番
祝祷
後奏
受付:齋藤千鶴子

 

神の国

齋藤 正 牧師

《賛美歌》

讃美歌7番
讃美歌195番
讃美歌502番

《聖書箇所》

旧約聖書:ヨエル書 4章13-15節 (旧約聖書1,426ページ)

4:13 鎌を入れよ、刈り入れの時は熟した。来て踏みつぶせ/酒ぶねは満ち、搾り場は溢れている。彼らの悪は大きい。
4:14 裁きの谷には、おびただしい群衆がいる。主の日が裁きの谷に近づく。
4:15 太陽も月も暗くなり、星もその光を失う。

新約聖書:マルコによる福音書 4章26-34節 (新約聖書68ページ)

◆「成長する種」のたとえ

4:26 また、イエスは言われた。「神の国は次のようなものである。人が土に種を蒔いて、
4:27 夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。
4:28 土はひとりでに実を結ばせるのであり、まず茎、次に穂、そしてその穂には豊かな実ができる。
4:29 実が熟すと、早速、鎌を入れる。収穫の時が来たからである。」

◆「からし種」のたとえ

4:30 更に、イエスは言われた。「神の国を何にたとえようか。どのようなたとえで示そうか。
4:31 それは、からし種のようなものである。土に蒔くときには、地上のどんな種よりも小さいが、
4:32 蒔くと、成長してどんな野菜よりも大きくなり、葉の陰に空の鳥が巣を作れるほど大きな枝を張る。」

◆たとえを用いて語る

4:33 イエスは、人々の聞く力に応じて、このように多くのたとえで御言葉を語られた。
4:34 たとえを用いずに語ることはなかったが、御自分の弟子たちにはひそかにすべてを説明された。

《説教》『神の国』

マルコによる福音書を連続して、ご一緒に読んで来ました。本日は4章26節以下をご一緒に読むのですが、ここには、主イエスがお語りになった二つの譬え話が記されています。小見出しの表現で言えば、「成長する種」の譬えと、「からし種」の譬えです。そしてこれらが、4章の始めから語られてきた一連の譬え話の締めくくりとなっています。主イエスはこのような譬え話を用いて人々に教えを語られたのでした。主イエスの語られた教えは、守るべき戒律や宗教的な教訓話ではありませんでした。主イエスは「神の国」を告げ広めておられたのでした。「神の国」とは、神様のご支配ということです。神様の独り子である主イエスがこの世に来られたことによって、神様のご支配が実現しようとしている、その神の国について主イエスは譬え話によってお語りになったのです。本日の箇所の二つの譬え話にはそのことがはっきりと示されています。「成長する種」の譬えは「神の国は次のようなものである」と語り始められています。「からし種」の譬えも、「神の国を何にたとえようか。どのようなたとえで示そうか」と始まっています。私たちがこれらの譬え話から読み取るべきことは、主イエスによって実現する神の国のことなのです。

しかし、ここに示されているのは、「神の国とはこのような素晴らしい所だ」といった話ではありません。神の国ってどんな所だろうか、という興味でこれらの譬え話を読んでも、肩すかしです。私たちは「神の国」を、死んだら行くであろう「天国」と重ね合わせて理解してしまうことがあるかもしれません。死んだ後行く天国とはどんなところだろうか、それを知ろうとしてこの話を読んでも、まったく満足な答えは得られません。主イエスはそういうことを語ってはおられないからです。主イエスは「神の国」を、そういう素晴らしい所があるから、あなたがたもそこへ行けるように頑張りなさいとか、まして、死んだらそこへ行くことができる、などと語っておられるのではありません。主イエスが語っておられるのは、神の国はもうあなたがたのところに来ている、あなたがたの間で今まさに実現しようとしている、ということなのです。1章15節の「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」という主イエスの言葉がそれを示しています。どこかにある神の国を求めなさいとか、今いる所が神の国になるように努力しなさいと言うのではないのです。あなたがたが生きているその現実、あなたがたの人生そのものにおいて、神の国、神のご支配が今や実現しようとしているのだ、神様があなたがたの日々の生活を、恵みをもって支配して下さる、その神のご支配が既に始まっているのだ、と語っておられるのです。

その神の国、神のご支配は、誰の目にもはっきりと見えるものとはなっていません。私たちの生きているこの現実、この人生において神の恵みのご支配が実現しようとしていることは、私たちの目にははっきりとは見えないのです。それは隠された事実、秘密にされている事柄なのです。2月21日に「みことばの実り」と題してお話しした4章11節には「神の国の秘密」という表現がなされていました。神の国は「秘密」と表現されるような、隠された事柄なのです。その隠された神の国を、それが全く見えない現実の中で、なお神様のご支配を「信じて生きる信仰」へと私たちを招くための話なのです。

26節から、「人が土に種を蒔いて、夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。土はひとりでに実を結ばせるのであり、まず茎、次に穂、そしてその穂には豊かな実ができる」とあります。種は蒔かれると土に埋もれてその姿は見えなくなります。隠されてしまうのです。しかし隠されていても、土の中で人知れず根を張り、成長していくのです。そしてやがて芽を出し、伸びていきます。その成長は私たちが夜昼、寝起きしているうちに進んでいきます。勿論農夫はその作物の成長のために水をやり、雑草を刈り、肥料をやりと手を尽くします。しかしそれらは作物の成長のための環境を整えるということです。水を吸収し、養分を取り入れて成長していくこと自体は、作物そのものの持っている力であって、それは人間の理解を超えた、また人間の力の及ばないことです。そのように作物は、28節にあるように「ひとりでに」実を結ぶのです。作物が「ひとりでに」実を結ぶのも、作物をそのようにお造りになり、力を与えた方がおられるからです。つまりこの「ひとりでに」という言葉は、人間の理解を超えた、人間の力の及ばない所で、神様が作物を成長させ、実を実らせて下さっているのだ、ということを語っているのです。神の国もそれと同じです。主イエスがこの世に来られたことによって、神の国の種が、あなたがたのところに既に蒔かれている。その神の国の種は、今は隠されているけれども、着実に成長を始めている。人間の理解を超えた、人の力の及ばないところで、神様がそれを育て、実を結ばせようとしておられる。その収穫の時が今や近づいているのだ。「成長する種のたとえ」はそういうことを語っているのです。

このことは、先週ご一緒にお読みしました4章21節からの「ともし火」の譬えにおいて語られていたことと通じるものです。ともし火は升の下や寝台の下に置くためのものではない、燭台の上に置くものだ、というあの譬えは、「隠れているもので、あらわにならないものはなく、秘められたもので、公にならないものはない」という言葉と結び合わされて、今は隠されているともし火が、将来必ずあらわになり、全ての人を照らすようになる、という約束を語っていました。そのともし火が、神の国、神のご支配です。今は隠されている神の国が、神様ご自身の働きによって、いつか必ずあらわになるのです。そのことが、本日の「成長する種」の譬えにおいては、種はひとりでに育って行って、ついに収穫の時が来る、という譬えによって言い表されているのです。神様はそのように神の国を育て、完成して下さる、だからそこに希望を置いて、収穫の時を待ち望みつつ生きるようにとこれらの譬え話は教えているのです。

続く30節以下の、「からし種」の譬えも同じことを語っています。この譬え話のポイントは、蒔かれる時には地上のどんな種よりも小さなからし種が、成長するとどんな野菜よりも大きくなる、ということです。砂粒のようなからし種が、五メートルぐらいの大きな木のように成長し、その葉陰に鳥が巣を作れるほど大きな枝を張るようになるのです。これも「神の国」の譬えです。神の国、神のご支配は、今は隠されており、目に見えないので、多くの人々はそれに見向きもしません。今は目にも止まらないような小さな小さな種である神の国が、最終的には素晴らしい木へと成長するのだ、ということを主イエスはこの譬えによって語っておられるのです。

先程もお話ししましたが、マルコは主イエス・キリストの宣教の第一声を「神の国は近づいた」という御言葉の中に見ていました。この「近づいた」という言葉は、確かに「近づく」という意味ですが、さらに具体的には、「来た」という意味もあります。「神の国」の実現は、神の御計画の必然であり、御子キリストの到来と共に「始まった」と述べられているのです。新約聖書128ページ、ルカによる福音書11章20節には、「わたしが神の指で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ。」と記されています。ここは、口語訳聖書では、「来ているのだ」という言葉の前に、「既に」という言葉を加えており、また岩波訳では「まさに」という表現で実現性を特に強調しています。

「神の国は、まさに、今、来ているのだ」。これが最も正確な翻訳と言うべきでしょう。「神の国」は、歴史の遥か彼方に実現を期待する希望ではありません。現実に、この世界に成就した神の御業であるのです。「神の国」とは、私たちがこの世界に建設する何らかの特定な社会ではなく、主イエス・キリストの御業が行われる場のことです。御子キリストの到来、即ちクリスマスこそ、「神の国の始まり」であったということなのです。

このように、私たちは、「神の国」の始まりを見ながら、なお、その完成を望んで生きているのです。ここに、キリスト者の緊張感があると言えるでしょう。私たちの生きる姿は、「既に」と「未だ」という「二つの一見矛盾した時間の中」を過ごしていかなければならないのです。

「既に、神の国の中を生きている」と言う時、「今のこの時」を軽んじることは出来ません。「未だに完成していない」と言う時、「今の生きていること」がすべての終わりになる終末であるとは言えません。

私たちは全て、今、自分が置かれている時をはっきりと見詰め、「来るべき時のために、今日を生きる」という姿勢を明らかにしなければなりません。このような生き方を、難しい言葉ですが、「信仰的実存」と呼ぶのです。このように、私たちは、「既に」と「未だ」という「二つの時」の緊張状態の中にあるのです。従って、この「既に」と「未だ」の緊張感を正しく捉えられない時に、キリスト者としての考えや生活に乱れが生じると言えましょう。

主イエス・キリストは、このような「二つの時の間」を生きる私たちを顧み、恵みに恵みを増し加え、約束の確かさを明確にして下さるのです。

「神の国」の実現は、私たちの力ではなく、努力によってでもなく、神の御心によって進むのです。私たちの心の中に蒔かれた福音の種は主イエス・キリストが正しく成長させて下さるのです。

御子イエスは、この世において極めて軽んじられた生涯を送られました。誕生はベツレヘムの宿屋の家畜小屋であり、御使いの知らせがなければ、誰も訪れることもなく、誰からも祝福されない誕生でした。ナザレの村で育ち、村の人々から特別な注目を受けることもない平凡な大工でした。そして、福音を語り始めると、変人として村から追い出されたのです。その後、ガリラヤ各地を巡り、福音の宣教に携わった時も、周囲に居たのは漁師や徴税人、病人など、恵まれない人々でした。そして、生涯の最後に待っていたのは、最も恥ずべき十字架でした。

この世の誰もが、目もくれないような、主イエス・キリスト。

地上において全く軽んじられる扱いを受けた、主イエス・キリスト。

全ての人々から嘲られ、見捨てられた、主イエス・キリスト。

人間の眼から見れば、この十字架のキリストに「神の国」を見ることは、とても出来ないでしょう。その誕生から十字架までの惨めさが、神としての栄光を隠してしまっているからです。

しかしそれにも拘らず、神の御業は、そのどん底の惨めさから始まったのです。私たちの眼には、この世での力やこの世での姿が強く逞しい方が魅力的に映るかもしれません。しかし、「神の国」は、この十字架の主イエス・キリスト以外からは始まらないのです。ナザレの主イエスに、全ての希望がかかっているのです。

神の国、神のご支配は、このようにして、主イエス・キリストの十字架の死と復活を通して、人間の力や思いをはるかに超えた神様の力によって、まさに主の熱意によって前進し、実現し続けているのです。弟子たちは、この神の国の前進に巻き込まれ、その中で、自らの罪と弱さとそれによる挫折を思い知らされると同時に、主イエスの十字架の死と復活による罪の赦しと、新しい命の恵みをも豊かに味わい、体験させられていったのです。そのようにして弟子たちは、神の国、神のご支配を本当に知り、信じる者となりました。主イエスによって到来した神の国、神のご支配は、からし種一粒のような小さな小さなものでしたが、大きく成長したことは歴史が示しています。私たちも、からし種の様な小さな信仰が、三十倍、六十倍、百倍の実を結ぶのだということを心から信じる者となり、主イエス・キリストに遣わされて、この神の国の福音を宣べ伝える者とされていくのです。

神の国は今、この成宗教会と私たちをも巻き込んで前進し続けています。私たち一人一人の日々の生活が、人生が、神の国の成長の中に置かれているのです。神の国の列車が、私たちを乗せて既に走り出していることを信仰の目を通して見つめ、終着駅での豊かな収穫を待ち望みながら、「時の旅人」として信仰の歩みを続けていきたいものです。

お祈りを致します。

<<< 祈  祷 >>>

受難節第4主日礼拝 (2021/3/14 № 3744)

司会:齋藤 正
奏楽:ヒムプレーヤ
前奏  新型コロナウィルス感染症流行拡大防止のため自粛します
招詞
讃美 7
主の祈り (ファイル表紙)
使徒信条 (ファイル表紙)
交読詩編 12948節(交読詩編p.149 [赤司会・黒一同]
祈祷
讃美 195
聖書 ヨエル書 4章13-15節 (旧約 p.1,426)
マルコによる福音書 4章26-34節 (新約 p.68)
説教
「神の国」
成宗教会 牧師 齋藤 正
讃美 502
献金 547 齋藤千鶴子
頌栄 543番
祝祷
後奏
受付:齋藤千鶴子

 

福音に生きる

齋藤 正 牧師

《賛美歌》

讃美歌68番
讃美歌500番
讃美歌517番

《聖書箇所》

旧約聖書: サムエル記 下 22篇29節 (旧約聖書519ページ)

22:29 主よ、あなたはわたしのともし火
主はわたしの闇を照らしてくださる。

新約聖書: マルコによる福音書 4章21~25節 (新約聖書67ページ)

◆「ともし火」と「秤」のたとえ

4:21 また、イエスは言われた。「ともし火を持って来るのは、升の下や寝台の下に置くためだろうか。燭台の上に置くためではないか。
4:22 隠れているもので、あらわにならないものはなく、秘められたもので、公にならないものはない。
4:23 聞く耳のある者は聞きなさい。」
4:24 また、彼らに言われた。「何を聞いているかに注意しなさい。あなたがたは自分の量る秤で量り与えられ、更にたくさん与えられる。
4:25 持っている人は更に与えられ、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。」

《説教》『福音に生きる』

本日は新型コロナウィルス感染症の「緊急事態宣言」が終了することを祈っての長老会メンバーでの主日礼拝です。ご一緒に連続して読んで参りましたマルコによる福音書の本日の4章には、主イエスがお語りになったいくつかの譬え話が並べられています。先々週2月21日には、「種を蒔く人のたとえ」とその説明、そして、譬え話を用いて語ることの意味あるいは目的が「みことばの実り」と題して語られました。そこで、主イエスは譬え話によって「神の国の秘密」をお語りになりました。神の国とは、神様のご支配という意味です。主イエスは1章15節で「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言って伝道を始められました。主イエスがこの世に来られたことによって、神の国、神様のご支配が今や実現しようとしている、それは言い換えれば救いが実現しようとしている、ということです。しかしその神の国の福音は、同時に「秘密」でもあります。「秘密」というのは「隠されていること」ということです。神様のご支配の実現という救いは、隠されており、誰の目にもはっきりと見えるものにはなっていないのです。「神の国は近づいた」という主イエスのお言葉はそのことを言い表しています。神の国は、近づいているけれどもまだ完全とはなっていないのです。ですから、神の国の福音とは「信じること」しかないものなのです。その神の国の秘密を、身近で具体的な事柄を用いて、体験させ、信じさせてくれるのが、主イエスの語られた譬え話なのです。ですからそれは神の国についての説明ではなくて、ある意味「謎掛け」のような話です。隠された神の国が謎掛けによって示されているのです。譬え話を読む私たちは、その謎を解かなければなりません。本日の箇所に語られている譬え話も、謎のような話です。その謎をご一緒に解いていきましょう。

始めの21節で、主イエスは、「ともし火を持って来るのは、升の下や寝台の下に置くためだろうか。燭台の上に置くためではないか」と言われました。この「ともし火」をろうそくの火と考えてしまうとイメージが掴み難くなります。このともし火は、水指しのようなものに油を入れ、芯を油に浸して火を灯すランプ、アラジンのランプのようなものと言ったら分かり易いでしょう。それなら、升の下や寝台の下にも置けないことはないわけです。しかしランプをそんな所に置くために持って来る者はいません。ランプは燭台の上など高い所、よく見える所に置いて、光が部屋中を照らすようにするものです。これはまことに尤もな話ですが、これがどのような意味で神の国の秘密を語っているのでしょうか。

続く22節の、「隠れているもので、あらわにならないものはなく、秘められたもので、公にならないものはない」という言葉は、主イエスの教えと言うよりも、当時一般に語られていた諺だろうと思われます。この言葉は、「悪事はいつまでも隠しておけるものではなく、必ず露見する」と言い換えると皆様なるほどと納得されるのではないでしょうか。私たちには誰にでも、自分の心の中に秘め、隠している罪があります。人に知られたくない、知られてはならないと思っている罪、それは人間の目からは死ぬまで隠しおおせるかもしれません。しかし私たちは最後に、神様の前に立たなければならないのです。人間の目はごまかすことができても、神様は、私たちの心の中の秘めた思いまで全てご存知です。神様の裁きの前では、隠していることが全て明るみに出されるのです。神様を信じて生きるとは、この様に、自分の隠しているどんなことも全て知っておられ、それを裁かれる神様がおられることを覚えて生きることです。22節の言葉は、この様に理解されることが多いでしょう。そのこと自体は信仰における大事な教えですが、しかしここで語っているのはそういうことだけではありません。主イエスは確かに当時の諺を用いておられますが、それを、ともし火のたとえと結びつけることによって、全く新しい意味を込めておられるのです。

この譬えは、燭台の上に置かれ、あらわにされるべきともし火が、升の下や寝台の下に置かれて隠され、その光が多くの人に見えなくなっているという現実を語られているのです。神の国が隠されている、という現実です。神の国、神様のご支配、救いは、主イエス・キリストがこの世に来られたことによって決定的に近づき、実現しようとしているのです。しかし主イエスは、誰が見てもこの方こそ神様の独り子であり、救い主、まことの王であられると分かるようなお姿でこの世に来られたのではありませんでした。ベツレヘムの馬小屋で生まれ、ナザレの村の大工の子として育って来られた主イエスは、人の目を引く王族の様な立派な姿ではなかったのです。だからその主イエスが神の国の福音を宣べ伝え始め、癒しの奇跡などを行うようになったのを見て、身内の者たちは「気が変になった」と思ったのです。主イエスが神様の独り子であり、救い主であられることは、隠されていたのです。主イエスによって到来している神の国というともし火は、升の下、寝台の下に置かれ、隠されていたのです。今は隠されていて、誰の目にも明かにはなっていないけれども、いつかそれがあらわになり、公になり、全ての人々が主イエス・キリストにおける神の国のともし火に照らされる時が来るのです。22節はその約束を語っています。ともし火のたとえは、主イエスによって到来した神の国、救いは今は隠されているけれども、将来必ずあらわになる、その時を信じて、希望を持って待ち望みつつ、今のこの時の、神の国が隠されている現実の中を、忍耐しつつ歩むようにと教えているのです。

主イエスによってもたらされた神の国のともし火は隠されている、そのことが最もはっきりと現れているのが、主イエスの十字架の死です。升の下に置かれたともし火がじきに消えてしまうように、主イエスの光は人間の罪の力によってかき消されてしまったのです。しかし、父なる神様は、その主イエスを復活させて下さり、もはや死ぬことのない永遠の命に生きるともし火を新たにともして下さいました。そのともし火のもとに集められ、それによって照らされている群れが教会です。しかしながら、このともし火も、誰の目にも明らかに見えているものではありません。教会はいつの時代にも、このともし火を見ることができない、見ようとしない、多数の人々に取り囲まれています。福音書が書かれた初代の教会も、今日の私たちも同じです。主イエス・キリストこそ神の子、救い主であられ、主イエスの十字架と復活により、神様のご支配が、私たちの救いが実現しているということは、信仰によってのみ知ることが出来るのです。

神様のみ言葉を、聞く耳をもって聞くことが、ともし火を見つめて生きるためには必要です。主イエスはさらに24節で、「み言葉を聞く」ことに関する教えを語られました。「何を聞いているかに注意しなさい」とあります。み言葉を、ただ漫然と聞くのではなく、注意深く聞くことが求められています。しかしそれは、居眠りをせずに、一言も聞き漏らさないように、というだけのことではありません。ここに、「あなたがたは自分の量る秤で量り与えられ」るとあります。み言葉を聞くことが、ある秤をもって何かを量ることに譬えられているのです。私たちは、およそ人の話を聞く時に、いつもそれを自分の秤で量っていると言えるでしょう。自分の秤で量って、これは価値があると思うと、その話を一生懸命に聞くのです。逆に、自分の秤に照らして、これはあまり価値がない、と思うと、心に止めずに聞き流すのです。現代は、膨大な量の情報が洪水のように溢れている時代です。その中で、情報を選択して、聞くべき言葉と聞かなくてもよい言葉とをしっかり見分けることは必要です。そのための秤を自分の中に持っていないと、情報の洪水に押し流されてしまいます。しかしそれは同時に、自分がどのような秤によって情報を量っているかが問われているということでもあります。秤が不適切だと、必要な情報を見逃し、役に立たない情報に振り回されてしまうことも起るのです。そのように、世の中の情報を量る秤は大切です。ここで、私たちにとって本当に大切なのは、神のみ言葉を聞く時に、どのような秤を持っているかです。神のみ言葉を聞く時には、この世の情報を量るのとは違う秤が必要です。私たちが自分の考えによってみ言葉の価値を判断してこれは必要だとかこれはいらないなどと判定するのではなくて、神様が与えて下さる恵みのみ言葉をできればすべて汲み取っていくことができるような、大きな秤が必要なのです。「あなたがたは自分の量る秤で量り与えられ」というのはそういうことを語っています。重さを量る秤は、嵩を量る升に置き換えられます、例えば、お米を沢山量れるような大きな升を持っていれば、そこにみ言葉の恵みが豊かに大量に注がれるのです。そして「更にたくさん与えられる」とも語られています。神様はそのように大きな升でみ言葉の恵みを受けようとしている者に、更におまけをどんどん与えて下さるのです。しかし逆に、神のみ言葉を自分の思いによって評価し、判断し、自分に役に立つと思われるものだけを聞こうとしている人は、自分の思いや考えという小さな秤しか持っていないことになります。どういう秤を持っているかによって、神様から頂くことができるみ言葉の恵みが全く違ってしまうのです。25節の「持っている人は更に与えられ、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる」というみ言葉はそういうことを語っているのです。「持っている人」とは、お金持ちのことではありません。み言葉をいただくための大きな器を持っている人です。「持っていない人」とは、貧しい人ではなくて、み言葉を聞く器の小さい人です。自分の思いや考えというちっぽけな器によって受け取っていたのでは、隠されている神様のともし火を見ることができません。この世の現実の暗さ、闇の圧倒的な力に目を塞がれて、神のみ言葉など、信仰など、何の役にも立たない、何の力もない、と感じられ、結局、与えられている恵みをも失ってしまうことが起るのです。しかしそれは、み言葉に力がないからではなくて、その人の、み言葉を受け取る器が、み言葉を量る秤がちっぽけなものだったからなのです。

私たちは、どのような秤で、神様のみ言葉を量っているでしょうか。その秤の大きさはどれくらいでしょうか。そして量る量をより大きくするためには何が必要なのでしょうか。勘違いをしてはならないのは、その秤の大きさは、私たちの理解力の大きさではありませんし、頭が良いとか悪いとかでもありません。またそれは私たちの信仰心の深さや熱心さでもありません。「自分の量る秤で量り与えられる」とは、み言葉をどう聞くのか、それは悔い改めにかかっているのです。自分が神様に背き逆らっている罪を認め、神様のみもとに立ち帰って赦しを願うことです。み言葉は、そういう悔い改めの思いをもって聞く時にこそ、恵みの力を発揮するのです。

キリストに従い、キリストと共に生き、キリストのために死ぬ。その中に、生涯のすべてを傾け尽くす喜びが用意されているのです。25節には「持っている人は更に与えられ、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。」とあります。

悔い改めることなしにみ言葉を聞いても、その恵みの力は伝わって来ないのです。なぜなら悔い改めなければ、自分の思いや考えによってみ言葉を量り、評価し、自分の思いに合うことだけを聞き、そうでないことには耳を塞いでいるからです。自分が主人になって神様のみ言葉を選択しているのです。悔い改めるとは、そのように自分が主人となってみ言葉を評価、判断することをやめて、神様こそが自分の主であるとの信仰を与えられ、神のみ言葉によって自分の思いや感覚、考えを変えられていくことを受け入れることです。そのような秤をもってみ言葉を聞く時にこそ、み言葉の恵みは豊かに与えられていくのです。「聞く耳のある者」とは、この悔い改めの思いをもってみ言葉を聞く人です。その人には、人間の思いや力によっては及びもつかない神様の恵みの世界が開かれ、示されていくのです。そこには、主イエス・キリストの十字架と復活によって実現している神の国のともし火が見えてきます。今は隠されているけれども、いつか必ずあらわになり、全世界を照らすことになる、神様の恵みのご支配がはっきりと見えてくるのです。

私たちは、苦しみ悲しみが多い、罪が支配するこの世の闇の中で、世の光であり、希望のともし火である主イエス・キリストの放つ光に照らし出されているのです。家族や友人など周りの人々に、このキリストの光を届ける者になっていくのです。

お祈りを致します。

<<< 祈  祷 >>>

受難節第3主日礼拝 (2021/3/7 № 3743)

司会:齋藤 正
奏楽:ヒムプレーヤ
前奏  新型コロナウィルス感染症流行拡大防止のため自粛中です
招詞
讃美 68
主の祈り (ファイル表紙)
使徒信条 (ファイル表紙)
交読詩編 12913節(交読詩編p.149 [赤司会・黒一同]
祈祷
讃美 500
聖書 箴言 31章18節 (旧約 p.1,033)
マルコによる福音書 4章21-25節 (新約 p.67)
説教
「福音に生きる」
成宗教会 牧師 齋藤 正
讃美 517
献金 547 齋藤千鶴子
頌栄 543番
祝祷
後奏
受付:齋藤千鶴子