受難節第2主日礼拝 (2021/2/28 № 3742)

司会:齋藤正
奏楽:ヒムプレーヤ
前奏 新型コロナウィルス感染症流行拡大防止のため自粛します
招詞
讃美 66
主の祈り (ファイル表紙)
使徒信条 (ファイル表紙)
交読詩編 12856節(交読詩編p.148 [赤司会・黒一同]
祈祷
讃美  257
聖書 出エジプト記 3112 (旧約p.96)
説教
「燃える柴の中から」
成宗教会 牧師 齋藤 正
讃美 224
献金 547 齋藤千鶴子
頌栄 543番
祝祷
後奏
受付:齋藤千鶴子

 

受難節第1主日CS合同礼拝 (2021/2/21 № 3741)

司会:齋藤正
奏楽:ヒムプレーヤ
前奏 新型コロナウィルス感染症流行拡大防止のため自粛します
招詞
讃美 191番
主の祈り (ファイル表紙)
使徒信条 (ファイル表紙)
交読詩編 第128篇1-4節(交読詩編p.148) [赤司会・黒一同]
聖書 エレミア書 4章3節 (旧約p.1,180)
マルコによる福音書 4章1-20節 (新約p.66)
説教
「みことばの実り」
成宗教会 牧師 齋藤 正
讃美 515番
献金 547番 齋藤千鶴子
頌栄 543番
祝祷
後奏
受付:齋藤千鶴子

 

正しさとは何か

齋藤 正 牧師

《賛美歌》

讃美歌66番
讃美歌187番
讃美歌354番

《聖書箇所》

旧約聖書:イザヤ書 49章25節 (旧約聖書 1,144ページ)

49:25 主はこう言われる。
捕らわれ人が勇士から取り返され
とりこが暴君から救い出される。
わたしが、あなたと争う者と争い
わたしが、あなたの子らを救う。

新約聖書:マルコによる福音書 3章20-30節 (新約聖書66ページ)

3:20 イエスが家に帰られると、群衆がまた集まって来て、一同は食事をする暇もないほどであった。
3:21 身内の人たちはイエスのことを聞いて取り押さえに来た。「あの男は気が変になっている」と言われていたからである。
3:22 エルサレムから下って来た律法学者たちも、「あの男はベルゼブルに取りつかれている」と言い、また、「悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」と言っていた。
3:23 そこで、イエスは彼らを呼び寄せて、たとえを用いて語られた。「どうして、サタンがサタンを追い出せよう。
3:24 国が内輪で争えば、その国は成り立たない。
3:25 家が内輪で争えば、その家は成り立たない。
3:26 同じように、サタンが内輪もめして争えば、立ち行かず、滅びてしまう。
3:27 また、まず強い人を縛り上げなければ、だれも、その人の家に押し入って、家財道具を奪い取ることはできない。まず縛ってから、その家を略奪するものだ。
3:28 はっきり言っておく。人の子らが犯す罪やどんな冒涜の言葉も、すべて赦される。
3:29 しかし、聖霊を冒涜する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う。」
3:30 イエスがこう言われたのは、「彼は汚れた霊に取りつかれている」と人々が言っていたからである。

《説教》『正しさとは何か』

主イエスの周りには大勢の群衆が集まっていました。「食事をする暇もないほど」と記されていますが、原文では「食事をすることも出来なかった」となっており、時間がないということではなく、押し寄せた群衆によって小さな家が一杯になり、「食事どころではなかった」ということでした。主イエスに興味をもった人々で満ち溢れていたのが、初期のガリラヤ伝道でした。そして、集まって来た人々の期待は、主イエスの超自然的な癒しなどを求めてのことであり、主イエスを正しく理解していなかったということも事実でした。

先週1月31日に、13節以下をご一緒に読んだ時、この弟子たちと主イエスのお姿は教会の原型であることを述べました。教会とは主イエスが中心にあって、弟子たちを含むすべては、付随するものとも言えるのです。もちろん、弟子たちが何もしなかったのではありません。彼らも一生懸命に働いたことでしょう。しかしそれでもなお、中心に立たれるのは主イエス・キリストであり、教会に働く者は、たとえそれが十二使徒であろうと、ただキリストに従っている者に過ぎないのです。

それでは、この時、人々の目に映った主イエスのお姿はどうであったでしょうか。既に繰り返して来たように、主イエスの癒しの御業などに対し、人々が大きな興味と期待を寄せていたことも確かです。自分たちの要求、自分たちの眼に写る身近な幸福への願い、そのような人間の自己中心主義・エゴイズムが彼らの心にあったことに間違いありませんが、ただそれだけとも言えません。

自分の要求を第一とするエゴイズムは、誰にでも有るものであり、現代の私たちも同じでしょう。当時の人々と現代の私たちとは、問題や要求する事柄は違っていても、心の底にある自己中心性は変わっていないでしょう。

それならば、何故、あの時の熱狂が現代にはないのでしょうか。ガリラヤにおいて主イエスに向った爆発的と思える人々の集中には、単なる「物珍しさ」を通り越した「何か」があったと見るべきです。「イエスへの要求」という人間のエゴイズムだけを見るのではなく、かくも人々の心を引き付けた「何か」を、ここに読み取らなければならないのです。

続く21節から、「身内の人たちはイエスのことを聞いて取り押さえに来た。『あの男は気が変になっている』と言われていたからである。エルサレムから下って来た律法学者たちも、『あの男はベルゼブルに取りつかれている』と言い、また『悪霊の頭の力で悪霊を追い出している』と言っていた。」とあります。

主イエスの家族の者たちは「イエスが気が変になった」と思いました。「気が変になった」とは曖昧な表現ですが、正しくは口語訳聖書にあるように「気が狂った」と記されているのです。また、ユダヤ人の宗教的指導者である律法学者たちは、「イエスは悪霊の頭ベルゼブルに取りつかれている」とも非難しました。

しかしながら、主イエスが、病人を癒し、悪霊を追い出しているだけであったならば、家族の人々は「気が狂った」とは思わなかったでしょう。自分たちの家族の一人であるイエスが「どうしてこのような癒しの力を身に付けたのか」と不思議に思ったとしても、「取り押さえに来る」ことはなかった筈です。ナザレからカファルナウムまで約25km、石がごろごろしているガリラヤの山道を丸一日歩かなければなりません。31節を見れば、母マリアまで来ているのであり、大変な思いで駆けつけて来たと思われます。

それ程までしてナザレからやって来たということは、ただごとではない「気が狂った」としか思えない「何かがあった」と考えるべきではないでしょうか。そして弟子たちも、主イエスと同じ姿をとっていたに違いないのです。

何が、「狂った」と言われるほどに異常だったのでしょうか。それは、「何をしているか」ではなく、「どのように生きているか」ということでした。

それは先ず、彼らが平凡な生活を否定したことに見ることが出来るでしょう。ペトロたちはガリラヤ湖での主イエスとの出会い以来、家も職業も捨てたと思われ、御言葉を聞く人々にも自分たちのような在り方を勧めていたため、これ迄の生活を守る堅実な生き方を否定する危険な思想のように受け取られたのかもしれません。

また、主イエスは、多くの人々からバプテスマのヨハネの再来と見られたように、この世の権力を真っ向から否定はしなかったものの、それに従うのではなく、新しい権威、新しい価値観を説いていたと思われます。

祭司や律法学者たちは民衆の指導者であり、尊敬され、大きな権限を持っていました。会堂を中心としたユダヤ人の日常生活は、伝統的な体制に依存していました。そのため主イエスたちは反社会的行動をしていると見做されていたでしょう。加えて、主イエスの周りには当時の社会で軽んじられている人たちばかりが群がっていました。ガリラヤ湖で魚を採っていた漁師たち、軽蔑されていた徴税人、危険思想を持つ熱心党員、それらに加えて、娼婦として軽蔑されていた女性たちや難病に苦しむ人々、苦しい生活を強いられた未亡人たち。主イエスの周りに集まったのはこのような人々でした。

「神の国の到来」という福音を宣べ伝える主イエスの姿勢は、その時代の一般的な人々、特に体制派の人々には受け入れられないものでした。当時の常識的な人生の価値観と共存出来るものではなく、その時代の現実の社会体制の中で生きる者にとって「異質なもの」と見做されたのです。

私たちの周りには時折、「イエスの時代に生まれ、イエスの説教を直接聴いたら、素晴しい信仰者になったであろう」と言う人がいますが、それは大変な思い違いです。主イエスの御言葉を聴く者は、それまで自分が守って来たもの、大切にして来たものを否定する言葉を聴くのです。福音は、それまでの生活の流れを徹底的に変えることを要求しました。

今ここで、聖霊なる神が導かれる教会で、聖書を読んで分からない人は、何処へ行っても分からないでしよう。何故なら、それは聖書が難しいのではなく、心が固いからです。御言葉を拒否してしまっているからです。主イエスの時代の人々と同じように、福音を自分とは異質なものとして聴いているからです。主イエスの家族は、「言うことは分かるが、それほど迄にすることはあるまい。これはもう行き過ぎている」と思ったのです。

私たちはどうでしょうか。自分のこれまでの生活のリズムがある程度保たれ、社会の人々と折り合いをつけられるのであれば、異なる意見に対しても寛容であり得ます。しかし、自分を守る最後の場が否定されれば相手に対して寛容になることは出来ないでしょう。

律法学者たちが主イエスの奇蹟の御業を目の当たりにし、そこで示された偉大な力を見てそれを認めながら、それでもなお、悪霊との結び付きしか考えられないのも、主イエスの家族と同じ状態にあることを示しています。自分の考え、自分の生き方に合わないもの全てを、「まともではない」と決め付けるのです。

主イエスを愛する家族たちも、主イエスを憎む律法学者たちも、主イエスに対する対応が同じであるならば、それは、個人の感情的な問題ではなく、まさに人間の持つ罪の姿と言う以外ありません。福音とは、神様に背を向けた人間の眼には、「狂っている」としか見えないようなことがあるのです。

更に23節から主イエスは、「どうして、サタンがサタンを追い出せよう。国が内輪で争えば、その国は成り立たない。家が内輪で争えば、その家は成り立たない。同じように、サタンが内輪もめして争えば、立ち行かず、滅びてしまう。また、まず強い人を縛り上げなければ、だれも、その人の家に押し入って、家財道具を奪い取ることは出来ない。まず縛ってから、その家を略奪するものだ。」と言われました。

この28節以下は主イエスが「悪霊の頭ベルゼブルに取りつかれている」という批判に対する論駁です。そして27節の「強い人」とは、その悪霊を指しています。悪霊は、その力で人を罪と死の奴隷にし、「家財道具」のように家に閉じ込めているのです。この悪霊である「強い人」の家に押し入り、その支配下にある「家財道具を略奪しよう」とは、「悪霊に縛られている人を解放しよう」としているのです。そのためには、まず「強い人」を縛り上げるほどの強い力が必要であり、「わたしが悪霊を追い出しているのは、わたしが悪霊よりもはるかに強い力を持っていることの証明である」と、主イエスは言われているのです。

主イエスは悪霊との結び付きを完全に否定しています。そして、悪霊に憑かれていることが「気が変になっている」ということと同じであるとするならば、主イエスはここで、御自分の姿こそ「正常である」と言っているのです。そして更に、もし主イエスが正常であるならば、主イエスを「まともではない」と言う人こそ「まともではない」ということになるでしょう。「正しい」とか「まともである」ということは、それが何を基準にして判断されるのか、明らかに示されなければなりません。

主イエスは御自分の正しさをはっきりと宣言されました。そしてそれは、御自分の家族を含めて、多くの人々が「正常ではない」という宣言でもありました。「正しさ」とは「存在の正しさ」です。私たちが、今、どのように生きているかという問題です。どれだけ、世のため、人のため、また教会のために尽くしているかということではなく、どれ程人を愛して来たかということでもありません。「何のためになされるのか」ということが問われているのです。それは、「神様のため、神様に喜ばれるため」に他ならないのです。

この本来のあるべき姿を失った時、人は全て正常ではなくなると言わざるを得ません。かくて、神様に背を向けて生きる全ての人々は「まともではない」のです。信仰を与えられ神の御前に立つということは、この世の信仰のない人々の生き方から見れば異常な姿に見えるでしょう。信仰を与えられ人本来のあるべき姿として、神の国を生きる時に、人は正常な者として自分を新たに発見するのです。与えられた信仰こそが正しく人を生かすのです。

そして、28節から主イエスは、「はっきり言っておく。人の子らが犯す罪やどんな冒涜の言葉も、すべて赦される。しかし、聖霊を冒涜する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う。」と言われました。

この世で人間の犯す全ての罪は赦される、しかし、永遠の罰が定められるのは聖霊を汚す者だけとあります。それは何故でしょうか。

聖霊なる神とは、キリストから遣わされて私たちのところに来られた「助け主」です。聖霊を拒否する者は、聖霊が与えて下さる神様の赦しを拒否する者であり、神様の赦しを拒否する者は最終的な裁きを受けざるを得ないのです。

ですから、全ての人間に、神様の赦し、つまり正常な人間に戻る道が備えられているのです。福音を信ずるならば全ての人間は救われるのであり、滅びる者は、自分から赦しを拒否して破滅への道を進んでいるのです。

私たちが、今、キリストに属する者、キリストの弟子として教会に召されたということは、この神様の救いの御心が、全ての人々に対して向けられている、ということを証しするためなのです。

聖書が告げる主イエス・キリストの喜びは、私たちがこの世に埋没してしまうことではなく、この世の人々と平和に共存してしまうことでもなく、弟子たちのように、周囲の人々とは違う生き方、新しい生き甲斐を持つ人間の姿を示すことなのです。「いったい、どちらが正常なのか。」との問い掛けを、生涯をかけてこの世に向って証ししていくのが、私たちキリスト者なのです。私たちの日々の生活、生きる姿によって、聖霊に助けられてこの証し人となるのです。

お祈りを致します。

<<< 祈  祷 >>>

弟子たる者

齋藤 正 牧師

《賛美歌》

讃美歌326番
讃美歌352番
讃美歌225番

《聖書箇所》

旧約聖書:詩篇 41篇2節 (旧約聖書874ページ)

41:2 いかに幸いなことでしょう
弱いものに思いやりのある人は。
災いのふりかかるとき
主はその人を逃れさせてくださいます。

新約聖書:マルコによる福音書 3章13-19節 (新約聖書65ページ)

3:13 イエスが山に登って、これと思う人々を呼び寄せられると、彼らはそばに集まって来た。
3:14 そこで、十二人を任命し、使徒と名付けられた。彼らを自分のそばに置くため、また、派遣して宣教させ、
3:15 悪霊を追い出す権能を持たせるためであった。
3:16 こうして十二人を任命された。シモンにはペトロという名を付けられた。
3:17 ゼベダイの子ヤコブとヤコブの兄弟ヨハネ、この二人にはボアネルゲス、すなわち、「雷の子ら」という名を付けられた。
3:18 アンデレ、フィリポ、バルトロマイ、マタイ、トマス、アルファイの子ヤコブ、タダイ、熱心党のシモン、
3:19 それに、イスカリオテのユダ。このユダがイエスを裏切ったのである。

《説教》『弟子たる者』

今日の聖書箇所は、主イエスが十二人の人々を選び出し使徒に任命する物語です。彼らは、主イエスに最も近く仕え、親しく教えを受け、驚くべき御業の数々に立会い、教会の基礎を築きました。

しかし、主イエスにはもっと沢山の弟子たちがいたのです。前回読んだ7節以下には、おびただしい群衆が主イエスに従って来たことが語られていました。本日の聖書箇所に語られているのは、その多くの弟子たち、従って来た人々の中から、「使徒」と呼ばれる特別な弟子たち十二人が主イエスによって選ばれ、任命されたのです。

主イエスがこの十二人を選び出した目的として語られていること、「彼らを自分のそばに置くため、また派遣して宣教させ、悪霊を追い出す権能を持たせるため」というのは、まさに使徒たちの働きの内容です。「使徒」とは「派遣された者」という意味です。主イエスによって派遣され、主イエスの使者としての役目を果すのが使徒です。十二人の弟子たちがそういう務めへと任命されたのです。

しかしながら、そのように重要な人々であるということを意識して聖書を読んで行くと、奇妙なことに気づきます。何故なら、この十二人の弟子たちが大変有名であるにも拘らず、聖書は彼らについて極めて簡単にしか記していません。実際に、どのような生涯を送ったのかといったことについても、聖書は殆ど何も書き残してはいません。更に、この十二人が、教会の歴史の先頭に立つに相応しい人物であるとも語ってはいません。

十二使徒の中でも、最も有名なのはケファとも呼ばれたシモン・ペトロです。使徒に選ばれる前はガリラヤ湖の漁師でした。妻子もあり、弟子の筆頭として、福音書には多くのエピソードも記されていますが、彼の生涯の後半で聖書に登場するのは、使徒言行録12章17節に「そこを出てほかの所へ行った」と曖昧に書かれているだけで、それから先は、辛うじて使徒言行録15章のエルサレム会議に姿を見せるだけで、あとは分かりません。これ以前の彼の様々な行動については、聖書に多く記され、皆さんもよくご存知でしょう。

ゼベダイの子ヨハネも漁師でした。若者であり、十字架にまで付き添った唯一の弟子であり、常に主イエスの傍らにいたのですが、「そこにいた」というだけで、殆どの場合、彼自身は何も発言していません。

ゼベダイの子ヤコブは彼の兄と思われますが、漁師であるということ以外、「雷の子」という気短なあだ名が紹介されているだけで、発言は僅か二回、まともなことは語っていません。

アンデレはペトロの弟とされていますが、ヨハネ福音書でペトロを主イエスに紹介したとだけ記されています。

フィリポも漁師ですが、彼もヨハネ福音書以外姿を見せません。

バルトロマイについては何も分からず、マタイは徴税人であると言う以外何も分かりません。マタイ福音書の著者という説も確認されていません。

トマスは主イエスの甦りが信じられなかったという消極的エピソード以外不明です。

アルフアイの子ヤコブとタダイは名前のみです。

熱心党のシモンも政治結社である熱心党員であるか不明です。

裏切りで有名なイスカリオテのユダでさえ、ナルドの香油物語での発言のほかは、祭司長への密告事件以外、何も記されていません。

ヨハネ福音書を除くと、ペトロ、ヨハネ以外、殆どの人物については、些細なエピソードを除いて何も語られていないのです。これらのことから聖書は、十二人を決して特別扱いしてはいないと言えます。彼らは平凡な人間の集まりであり、人々から尊敬され重んじられていたわけでもなく、もちろん、学問的に優れている者でもありません。むしろ、粗野なガリラヤ湖の漁師たち、人々から嫌われていた徴税人、ローマ帝国に対する憎しみを暴力によって抵抗しようとしている熱心党員、そして最後には主イエスを裏切る「心・弱い人々」であり、要するに、何処にでもいる庶民の集まりに過ぎませんでした。

このような人々を見る時、とても「神の使徒」として選ばれるような必然性は何一つ見出せません。もし、主イエスが彼らを呼び出し、「使徒」という名をお与えにならなかったなら、誰一人として指導者になり得なかったでしょう。この選びが、何故、神の御業の新しい段階と言えるのでしょうか。

この使徒たちの選びの場面を見て、「これが教会の原型・ひな型であった」と言う人もいます。「教会」とは「召された人間の集まり」を指すからです。「教会」(エクレシア)とは、「呼び出す」という動詞から出来たものであり、「呼び出された者の集まり」という意味です。決して、同じ考えの人々が集まった団体というものではなく、目的を同じくする者の集団でもありません。キリストに選ばれ、キリストに召し出され、特別に集められた者のことを聖書はエクレシアと呼んだのであり、それを「教会」と訳しているのです。

「私たちの教会・エクレシア」は、私たちを呼び出された主イエス・キリストの意志・御心が全てなのです。

このように、キリストの召しを受けた全ての人間の原点が、本日の御言葉に示されていると言えるでしょう。そしてこの意味を十分に理解するとき、聖書が語る重要な点が、十二人の名前にではなく、個性にでもなく、「彼らがどのように選ばれ、何をなすべく立てられたのか」という点にあることが分かるのです。

先ず13節から、「イエスが山に登って、これと思う人々を呼び寄せられると、彼らはそばに集まって来た。そこで、十二人を任命し、使徒と名付けられた。」とあります。

十二使徒の任命は、山の上でなされたのです。その選びが「山の上」でなされたということは、何を意味するのでしょうか。ルカによる福音書の並行箇所、6章12節以下を読みますと、主イエスは山に登って、一晩祈り明かされたことが語られています。山は、主イエスの祈りの場所なのです。主イエスが徹夜の祈りをなさった上で、十二使徒を選び出されたことを強調しています。マルコ福音書は、ただ「山に登って」とだけ語っていますが、やはり主イエスの祈りを暗示していると言ってよいでしょう。使徒たちの任命の根本には主イエスの祈りがあると言えるのです。

同じく13節に、「これと思う人々を呼び寄せた」と記されていますが、これは文語訳や口語訳のように「御心に適った者」と訳すべきでしょう。つまり、神に召された者とは、神の御心に適った者であるのです。これは驚くべきことです。何故なら、私たちは誰でも正直に自分の姿を見詰めるならば、到底神の御心に適うような者ではないということを告白せざるを得ません。

そして続いて、十二人を「任命し」と訳されていますが、この「任命する」とは原文では「造る」という言葉です。直訳すれば「十二人を造った」となるのです。このことは私たちが心に刻みつけておくべきことです。「任命する」には、「君➁はこの任務を果す能力と資格があると認められるから、この務めに任命する」というニュアンスがあります。そしてそのように任命された者は、上司が自分を評価してくれたことに感謝して、その期待に応えるように頑張るのです。しかしこの「造った」という言葉は違います。主イエスが十二人の使徒たちを「造った」のです。主イエスご自身が彼らを「使徒」として造り出したのです。彼らが与えられた使命、神の国の福音を宣べ伝える力も、悪霊を追い出す権能も、全て主イエスによって与えられたもの、主イエスが彼らの中に造り上げたものなのです。使徒たち十二人は、ここで主イエスによって新しい者として造られたのです。十二人の使徒の任命とはそういう出来事だったのです。

キリスト者としての私たちの存在は、「キリストが私たちを愛し、選び出して下さった」ということ、ただそれのみに起源を持ち、私たちがキリスト者であり続けるということは、このキリストの愛への生涯をかけた応答なのです。

人間の価値は愛に対する応答で決まります。愛を無視したり、忘れたりする者は、自らの価値を低めるもの以外の何ものでもないと言えるでしょう。神様からのただ恵みによって愛の中に招かれた者は、その無償の愛に応えることに生き甲斐を見出すものです。

続く、14節から、「彼らを自分のそばに置くため、また、派遣して宣教させ、悪霊を追い出す権能を持たせためであった。」とあります。彼らの使命は、主イエスの使者として派遣され、神の国の福音を宣教することとその神の国、神様のご支配の印として、悪霊を追い出す業を行うことです。けれどもここには、それに先立ってもう一つのことが、使徒が立てられた目的として語られています。それは「彼らを自分のそばに置くため」ということです。使徒たちは、遣わされてあちこちへと出かけて行く前に、先ず、主イエスのそばに置かれたのです。主イエスの傍らに常におり、主イエスのみ言葉を間近で聞き、主イエスのなさる癒しのみ業、悪霊追放のみ業を目の前で見たのです。彼らの使徒としての働きはそこから始まったのです。主イエスが弟子たちを引き連れてガリラヤ中を宣教し、悪霊を追い出されたと語られていたのも、彼らをご自分のそばに置いて、主イエスご自身の宣教の言葉を聞かせ、悪霊追放のみ業を見せるためだったのです。そのような準備期間を経て、実際に彼らが宣教へと派遣されて行ったのです。

神の愛は、愛する者に新しい生き方を用意しているのです。

よく「生き甲斐とは何か」「人間らしく生きるとはどういうことか」と問われます。聖書が示す答えはただ一つです。それは「キリストの愛の中を生きる」ということです。何故なら、キリストは私たちに働く場を特別に用意して下さっており、その働く場において、私たちは御心に応える自分の姿を発見することが出来るからです。

キリストの召しとは、全ての召した者にそれぞれ固有の使命を与えられるのです。全ての者が、どのような時にも同じことを行うのではなく、それぞれが置かれた場で個性を活かし、その時と場に相応しい働く場を与えられるのです。

ここで弟子たちに与えられた使命とは何でしょうか。「宣教」とは神の国の到来を伝えることです。「悪霊を追い出す」とは神のご支配の確かさの告知であり、神の国は現実にここにあるということの証明です。

これらは、もともとキリストの御業でありました。主イエスが初めて明らかにされたことでした。とするならば、選ばれた者に与えられた「権能」とは、「キリストの御業を、キリストに代わって、この世で行うことが許された」ということです、k。つまり、「~せよ」と言われ、「その命令に服従することが求められている」ということではなく、この素晴しい務めを「私の代わりに行うことを許す」という、新しい人生の可能性の宣言として受け取ることが出来るのです。

この時、主イエスは彼らを「使徒」と名付けられました。「使徒」(アポストロス)とは、本来、「遣わされた者」という意味であり、遣わした方の権威を代行する者のことです。古代では国家の権威を代表して海外へ赴く艦隊の司令官などを表し、現代的な意味では「大使」「外交官」を意味すると言えるでしょう。

つまり、「選ばれた」「愛された」ということは、感情的な問題ではなく、キリストの代理として立てられたのであり、神の権威を表す者として生きることを、公式に認められたということなのです。

そしてこれが、現在、私たちが受けている使命です。たとえ私たちが、各地を巡ったペトロたちのような伝道者ではないとしても、キリストの権威を現す者、神の国の外交官として、「特別な務めを負っている」ということに変わりはありません。

私たちは、この使命を日々の生活の中で如何に果たしているでしょうか。「何を行っているか」ということではなく、日々の生きる姿によって「何を表しているか」ということが大切なのです。

私たちにはそれぞれ生活があります。しかし、その生活は「私の生活」ではなく、「神の国を表す生活」なのです。

私たちが、日々の生活の中で、キリストと共に生きるならば、共に生きる喜びを表すならば、それこそ、神の国に生きる人間の姿として、世の人々への証しとなるでしょう。

主に召され、神の聖なる選びの中に置かれた時、私たちは、もはや、つまらない人間ではなく、キリストによって立てられた「神の国の大使」として、この世を生きているのです。

神の国に生きる私たちの姿が、私たちのごく近くで共に生きている家族などの親しい人々に自然に伝わっていくのが私たちの伝道です。この素晴らしいキリストの救いを自分自身の生きる姿で伝えて行けますようお祈りを致します。

<<< 祈  祷 >>>

主の山に備えあり

齋藤 正 牧師

《賛美歌》

讃美歌23番
讃美歌338番
讃美歌512番

《聖書箇所》

旧約聖書:創世記 22章1-19節 (旧約聖書31ページ)

22:1 これらのことの後で、神はアブラハムを試された。神が、「アブラハムよ」と呼びかけ、彼が、「はい」と答えると、
22:2 神は命じられた。「あなたの息子、あなたの愛する独り子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。わたしが命じる山の一つに登り、彼を焼き尽くす献げ物としてささげなさい。」
22:3 次の朝早く、アブラハムはろばに鞍を置き、献げ物に用いる薪を割り、二人の若者と息子イサクを連れ、神の命じられた所に向かって行った。
22:4 三日目になって、アブラハムが目を凝らすと、遠くにその場所が見えたので、
22:5 アブラハムは若者に言った。「お前たちは、ろばと一緒にここで待っていなさい。わたしと息子はあそこへ行って、礼拝をして、また戻ってくる。」
22:6 アブラハムは、焼き尽くす献げ物に用いる薪を取って、息子イサクに背負わせ、自分は火と刃物を手に持った。二人は一緒に歩いて行った。
22:7 イサクは父アブラハムに、「わたしのお父さん」と呼びかけた。彼が、「ここにいる。わたしの子よ」と答えると、イサクは言った。「火と薪はここにありますが、焼き尽くす献げ物にする小羊はどこにいるのですか。」
22:8 アブラハムは答えた。「わたしの子よ、焼き尽くす献げ物の小羊はきっと神が備えてくださる。」二人は一緒に歩いて行った。
22:9 神が命じられた場所に着くと、アブラハムはそこに祭壇を築き、薪を並べ、息子イサクを縛って祭壇の薪の上に載せた。
22:10 そしてアブラハムは、手を伸ばして刃物を取り、息子を屠ろうとした。
22:11 そのとき、天から主の御使いが、「アブラハム、アブラハム」と呼びかけた。彼が、「はい」と答えると、
22:12 御使いは言った。「その子に手を下すな。何もしてはならない。あなたが神を畏れる者であることが、今、分かったからだ。あなたは、自分の独り子である息子すら、わたしにささげることを惜しまなかった。」
22:13 アブラハムは目を凝らして見回した。すると、後ろの木の茂みに一匹の雄羊が角をとられていた。アブラハムは行ってその雄羊を捕まえ、息子の代わりに焼き尽くす献げ物としてささげた。
22:14 アブラハムはその場所をヤーウェ・イルエ(主は備えてくださる)と名付けた。そこで、人々は今日でも「主の山に、備えあり(イエラエ)」と言っている。
22:15 主の御使いは、再び天からアブラハムに呼びかけた。
22:16 御使いは言った。「わたしは自らにかけて誓う、と主は言われる。あなたがこの事を行い、自分の独り子である息子すら惜しまなかったので、
22:17 あなたを豊かに祝福し、あなたの子孫を天の星のように、海辺の砂のように増やそう。あなたの子孫は敵の城門を勝ち取る。
22:18 地上の諸国民はすべて、あなたの子孫によって祝福を得る。あなたがわたしの声に聞き従ったからである。」
22:19 アブラハムは若者のいるところへ戻り、共にベエル・シェバへ向かった。アブラハムはベエル・シェバに住んだ。

《説教》『主の山に備えあり』

本日の物語は、大変有名な聖書箇所です。旧約聖書で最も難解な箇所の一つとも言われてきました。この物語は謎に満ち、私たちを戸惑わせ、混乱させます。この箇所の説教で、ある牧師は、「私はアブラハムのようには出来ません」という結論で説教を結び、聴衆を唖然とさせたそうです。

この物語は、私たちに何を告げようとしているのでしょうか。確かに、ここに記されているのは、神様のご命令で父アブラハムが息子イサクを殺そうとする場面です。次々と疑問が溢れてきます。なぜ神様はアブラハムに息子イサクを捧げることを求めたのでしょうか。なぜアブラハムは、この神様の求めに素直に従ったのでしょうか。イサクは薪の上に載せられるとき、なぜ逃げなかったのでしょうか。アブラハムは本当に神様が子羊を備えてくださると信じていたのでしょうか。

イサクは、アブラハム100歳、妻のサラ99歳の時に授かった奇跡の一人息子です。彼は、アブラハム召命以来の使命を全うすべき約束の子でした。この頃はもう薪を背負って行ける年頃になっていたようです。

モリヤの山は、後のエルサレム神殿の丘と言われていますので、アブラハムの住んでいたベエル・シェバから直線で約80キロ、「三日の距離」(4)でした。「焼き尽くす献げ物」とは「燔祭」のことであり、犠牲の動物を焼き、その香りを天に届かせる古代世界共通の礼拝形式です。分かり易く言えば、主なる神は、約束の子イサクを「焼き殺せ」と命じられたのです。

アブラハムは神様のご命令を受け止め、イサクを献げるためにモリヤまで旅をし、山上で殺す直前、身代わりの雄羊によりイサクの命が救われました。これが本日の物語です。

これはとても恐ろしい物語であり、しかも目的が「アブラハムへの試み」と記されていることから、信仰のテストとして受け止める時、耐えがたい恐怖をもたらすと言うべきです。

私たちは、聖書を読む時、登場する人物に自分たちを重ね合わせて読むことが多いのではないでしょうか。しかし、この物語は、アブラハムに自分を重ねても、イサクに自分を重ねても、いよいよ混乱するだけです。我が子を神様への捧げものとして自分の手で殺すことなど、想像するだけてゾッとします。逆に自分が父親に殺されることなど考えることもできません。最初にお話しした牧師は、自分とアブラハムを重ね合わせ、混乱し、この聖書の箇所からきちんとメッセージを受け取ることが出来なかったのでしよう。

しかし、聖書を読む時、もう一つ大切な方法があります。それは、聖書をキリストを指し示しているものとして読むことです。聖書の謎をイエス様の十字架の出来事という最も深遠なる謎と重ね合わせる時、私たちは初めてその謎を解く入り口に立つことか出来るのです。

この物語はアブラハムの人生の最後を飾るものです。この出来事以後、聖書ではアブラハムは背後に退き、イサク物語に移って行きます。それでこの物語は、アブラハムの生涯の総決算であり、アブラハム物語の頂点とも言われるのです。

物語は「神はアブラハムを試された」と始まります。神の御前に立つ者が避けることの出来ない神の御業が、ここから始まるのです。

神様の呼びかけに対し、アブラハムは「はい」と答えました。この「はい」との言葉は11節でも繰り返されており、ヘブライ語で「ヒンネーニー」です。これは少年サムエルが、初めて神に呼ばれた時の応答の言葉でもあります。原語では「このわたしを見よ」ということですが、実際には、私たちの聖書のように、「はい」と訳すことが出来ます。しかし多くの学者たちは、この箇所におけるアブラハムの姿勢を重視し、敢えて「私はここにおります」と訳しています(フォンラート、ヴェスターマン、関根正雄他)。口語訳聖書もこの立場を取っていました。

「アブラハムよ」と、主なる神から個別に呼びかけられた人間が、御前に自分を明らかにし、自分の存在のすべてを賭けて御言葉に応えようとしているのです。人格のすべてを賭けた応答、それがこの「ヒンネーニー」という言葉に込められています。そしてアブラハムは、本日の物語の中で、神様に対して、この「ヒンネーニー」の一言以外、まったく口にしません。

神の御言葉、「あなたの息子、あなたの愛する独り子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。わたしが命じる山の一つに登り、彼を焼き尽くす献げ物としてささげなさい」(2)は大変厳しいものでした。「あなたの息子」「あなたの愛する独り子」「イサク」。この三通りに語られた言葉は、献げられるものの大切さを強調しています。アブラハムにとって、イサクは特別な存在でした。アブラハムは、「すべての人の祝福の源となる」という主なる神の約束を受けて旅立って来ました。主の御言葉を信じた彼は、それまでの生活、過去のすべてを捨てました。そして、年老いた日に奇跡的に与えられたイサクは、その約束の「しるし」でありました。何故なら、「すべての人の祝福の源となる」ということは、子供があって初めて可能なことであり、イサクの存在は、彼の生涯の過去及び未来のすべてを意味づけるものであったからです。

ですから、イサクを犠牲にして献げるということ、「殺す」ということは、可愛い子供を失うということにとどまらず、これまで過ごして来た人生のすべての意味を失うことでした。

ヨブ記1章21節に「主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ。」というヨブの告白があります。イサクが、主なる神御自身による、人間の可能性を越えた奇跡的誕生をしたことを考えれば、その通りでしょう。まさしく「主は与え、主は奪う」ということです。しかし、親と子という人の情を考えれば、そのような理屈は受け入れ難いものがあります。この時のアブラハムの心情について聖書は何も記していません。ただ、人間としての苦しみに必死に耐えたであろう、ということは想像に難くありません。

「主は与え、主は奪う」という原理は分かっていても、「どうせ奪うなら、初めから与えられなければよかったのに」という気持ちがわいて来るのではないでしょうか。おおよそ、すべての人間はやがて失う命を生きているに過ぎないのですが、それでも、その死を迎える時期については不満を言うのです。私たちの予想を超えた死に対する怒りであり、「時」を定められる神に対する不満となるのです。死を見つめることは、まさに厳しい限界状況に直面することです。

そのような苦しみ、悲しみを越えて、なお、アブラハムが「向かって行った」ということに注目しなければなりません。壮絶な葛藤があったでしょう。なぜこのような運命に耐えなければならないのか、という疑問が生じたことでしょう。御心を尋ねて見たいという思いもあったでしょう。

アブラハムは危険な荷物は自分で背負い、イサクにはただ薪だけを背負わせました。アブラハムは万感の思いを持って、イサクと共に二人だけで山に登りました。

この時のイサクの質問、「火と薪はここにありますが、焼き尽くす献げ物にする小羊はどこにいるのですか。」との問いかけは何を意味しているのでしょうか。アブラハムの答え、「焼き尽くす献げ物の小羊はきっと神が備えてくださる。」とは、極めて恐ろしい言葉です。

もし、神御自身が犠牲の小羊を用意してくださるであろう、という希望を持ってここまで来たのでしたら、アブラハムは、本当は、イサクを殺す決断をしていなかったのであり、神の御言葉に服従するためにここまで来たのではないと言わなければならないでしょう。

また、もし、これがあきらめの言葉であったならば、そこにあるのは、「どうにもならない」という虚しさだけであり、これほど信仰から遠いものはないでしょう。

それでは、アブラハムは、イサクの問いに対して何を答えているのでしょうか。何も答えていないのです。彼には分からないのです。それ故に、アブラハムの言葉は曖昧であり、どう答えてよいのか分からない苦しさの籠もるものでした。

ただ、彼は「きっと、神が…」と語りました。確かに、分らないことばかりであり、誰にも説明出来ない命令の中に置かれていたのです。イサクに語れることは、それが神の命じられた「神の御心」であるということだけでした。そして、「神が命じられた場所に着くと、アブラハムはそこに祭壇を築き、薪を並べ、息子イサクを縛って祭壇の薪の上に載せた。そしてアブラハムは、手を伸ばして刃物を取り、息子を屠ろうとした。」(9-10)とあります。抵抗する様子もなく縛られ薪の上に寝かされたイサク。まさに、恐るべき瞬間です。

アブラハムは、この試練に耐え得る特別に強い人間であったのでしょうか。彼の生涯を振り返る時、それと正反対な人間であったことを知らされるでしょう。自分の安全のために妻サラを見捨てた弱さ。甥のロトを救うために神に何度も執り成しをした優しさ。そのアブラハムが、なぜ、このような決断をなし得たのでしょうか。

この物語が、信仰の英雄アブラハムの物語ではなく、神の物語であるということを改めて考えなければなりません。人間がぎりぎりまで追い込まれた限界状況の中で神が何をされるのかということです。甘い期待ではなく、自分の尊厳のすべてと、命を委ねた決断の中で、信仰の本質があぶり出されるのです。

このギリギリの場面で、イサクに代えて、「木の茂みに角をとられていた一匹の雄羊」(13)が与えられ、主なる神は、「あなたが神を畏れる者であることが、今、分かった」と言われました。すべてをご存知の主なる神が今まで分からなかったのでしょうか。ここで改めて、この物語の冒頭1節に記されている「試み」ということが問われます。これは、神の信仰テストに合格した、ということなのでしょうか。

ここで明らかになったのは、アブラハムの服従の信仰であり、信仰とは命がけのものである、ということです。

しかし、アブラハムの信仰深さを知るために神はこのような厳しいテストをされたのでしょうか。これはテストではありません。すべてを御存知である神が、敢えてなさったことであり、それがアブラハム自身のためであった、ということなのです。

パウロは、フィリピの信徒への手紙4章19節で、「わたしの神は、御自分の栄光の富に応じて、キリスト・イエスによって、あなたがたに必要なものをすべて満たしてくださいます。」と記しています。私たちが何かをしようと思う時、何かをしなければならない時、その時すでに、神は私たちの決断に先立って働いておられるのです。ということは、アブラハムの決断は、彼の超人的な精神的努力の結果ではなく、彼の卓越した信仰によるものでもなく、主なる神が働きかけ、主なる神御自身が導いたものに他ならない、と言うべきでしょう。

1節の「神はアブラハムを試された」とは、この命令が、彼に可能かどうかを試すテストではなく、アブラハムに「出来る」ということを教える「訓練」であったのです。「主の山に、備えあり(イエラエ)」(14)とは、神の試みと、それに対する「備え」です。試みとは、信仰に生きる者に、神と共に生きる素晴らしさを教え、神の顧みの豊かさを教える恩寵の手段であり、その喜びに生きる信仰の奇跡なのです。

「試み」は「神の備え」があって、初めて意味を持ちます。主は、これだけの備えをした上で、アブラハムを信仰の試練の中で鍛えられたのです。

コリントの信徒への手紙一 10章13節に、「あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。」とあります。

父なる神は、私たちを信仰の豊かさに導き、神と共に生きる世界を実現するために、独り子なる神を十字架に付けられました。アブラハムのために雄羊が用意されていたように、私たちのためには、御子キリストが備えられたのです。

神と共に生きる喜びとは何でしょうか。それは、あなたの罪は赦されたという宣言を聞くことに始まり、神と共に永遠を生きる望みを受けることです。主なる神は、その喜びに私たちを導くために、御子を身代わりの犠牲としてゴルゴタの丘に備えられたのです。

この物語全体を通じて、アブラハムは、ヒンネーニー「私はここにおります」と言う以外、神に対して何も語っていません。御前における沈黙は、不平、不満の沈黙ではなく、絶望の沈黙でもなく、神を信頼し、すべてを委ねた人間の姿を表すものなのです。御言葉に従う以外、行くべき道を知らない人間の姿、それがアブラハムの沈黙でありました。そしてこの沈黙の素晴らしさを教えることが、アブラハムに対する、神の最後の顧みであったのです。

「主の山に備えあり。」私たちが生き、礼拝へと導かれる世界、それが「主の山」であり、備えられた恵みの大きさを味わう場です。今、御言葉によって召し出され、聖霊によって立てられた教会に集まる者は、この恵みの前に沈黙する幸いを得た、と感謝すべきでありましょう。

お祈りを致します。

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