本当に必要なこと

《賛美歌》

讃美歌234番A
讃美歌294番
讃美歌90番

《聖書箇所》

旧約聖書:詩篇 27篇4節 (旧約聖書857ページ)

27:4 ひとつのことを主に願い、それだけを求めよう。
命のある限り、主の家に宿り
主を仰ぎ望んで喜びを得
その宮で朝を迎えることを。

新約聖書:ルカによる福音書 10章38~42節 (新約聖書127ページ)

10:38 一行が歩いて行くうち、イエスはある村にお入りになった。すると、マルタという女が、イエスを家に迎え入れた。
10:39 彼女にはマリアという姉妹がいた。マリアは主の足もとに座って、その話に聞き入っていた。
10:40 マルタは、いろいろのもてなしのためせわしく立ち働いていたが、そばに近寄って言った。「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください。」
10:41 主はお答えになった。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。
10:42 しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」

《説教》『本当に必要なこと』

本日は、教会学校との合同礼拝です。本日は「本当に必要なこと」と題して、ルカによる福音書10章から「マルタとマリア」のお話をさせて頂きます。

実は、この聖書箇所は、4月に赴任したものの、新型コロナウィルス感染症のために集会をすべて中止していた4月25日に無観客というか、成宗教会の皆さんのまったくいらっしゃらない無教会員説教でお話しした聖書箇所です。教会ホームページにも掲載されたので、皆様の中には、お読みになった方もいらっしゃるとは思います。この聖書箇所は、教会での奉仕はどうすればよいかという私たちの思いに示唆を与えられる大切なお話しです。

今日のルカ福音書は、38節の「一行が歩いて行くうち、イエスはある村にお入りになった」というところから始まります。主イエスと弟子たちは、旅の途上である村に入ったのです。

ここにはマルタとマリアという姉妹が登場し、二人の姿が対照的に描かれていきます。そして、「マリアは良い方を選んだ」とあるように、マルタよりもマリアの方が良い、相応しいと主イエスによって褒められたという話に思えます。しかしそれは、マリアこそが信仰者でマルタは信仰者ではない、ということではありません。主イエスを家に迎え入れたのはマルタである、とはっきり書かれています。それは、マルタが主イエスに従い仕える信仰者となったということです。マルタは、主イエスと弟子たちの一行を自分の家に迎え入れるという大いなる信仰の決断をしたのです。その後、「彼女にはマリアという姉妹がいた」と、おそらく妹であるマリアが登場します。マリアも主イエスを信じる者となるわけですが、それは姉であるマルタの信仰の決断が先にあったからだとも言えるでしょう。つまりマリアはマルタによって導かれて信仰者となった、と考えるべきではないでしょうか。

このように同じ信仰者となったマルタとマリアの間に、ある違いが生じました。マリアは主の足もとに座って、その話に聞き入っていたのです。主イエスの足もとに座って話を聞くとは、この時代のユダヤでは男の弟子にのみ許される行為でした。マリアは、そんな大胆な行動をしたと言えますし、また、主イエスの一行が女性差別をしなかった特筆すべき行いを記しているとも言えるでしょう。そのマリアに対して姉のマルタは先程触れたように、大人数の一行のため「いろいろのもてなしのためせわしく立ち働いていた」(40)のです。マルタとマリアの話のポイントは、この対照的な姿にあります。そして私たちはそこから、いろいろなことを読み取ろうとします。と言うよりも、自分たちが感じていることをこの話に読み込もうとします。教会の中で、特にご婦人方の間でよく語られるのは、「私はマリア型」とか「私はマルタ型」というような会話ではないでしょうか。「マリア型」というのは、静かに礼拝を守り、み言葉を聞き、祈るといった信仰生活が自分には合っているし、その方が好ましいと感じているという人たちです。一方「マルタ型」というのは、それよりもむしろ活発に体を動かしていろいろな奉仕をする、例えば昼食作りとか、男性で言えば会堂の掃除や植木の手入れや力仕事など、また一教会に拘らない多くの教会を跨いだ社会奉仕活動に加わるとか、そういうことに喜びを感じ、充実を覚える、静かに説教を聞いているのはちょっと苦手、みたいなタイプであると言えるでしょう。それは女性だけの話ではなくて、男性も含めて、マルタとマリアのどちらに親近感を覚え、自分に近いものを感じるか、ということを私たちはここからよく考えるのではないでしょうか。そして自分がどちらのタイプかというだけではなく、礼拝中はマリアに徹し、終わったとたんにマルタに変身するのだ、という思いを持っている人もいるでしょう。つまり時と場合によってマルタとマリアを使い分けながら信仰生活を送っている、という思いを持っている人も多いのではないでしょうか。これらのことは、私たちが自分の体験や感覚をこの話に読み込んでいるということです。しかし私たちがしなければならないのは、自分の感覚を聖書に読み込むのではなくて、聖書が語っていることを読み取ることです。マルタとマリアの対照的な姿から私たちは何を読み取ることができるのでしょうか。

姉のマルタが主イエスと弟子たちを家に迎え入れたとは、食事を出すことをはじめいろいろなもてなしをするためです。マルタがしていることは、神の国の福音を宣べ伝えている主イエスと弟子たちに仕え、その歩みを支えるという信仰の行為です。マルタは決して、自分の料理の腕前を披露しようとしているわけではありません。キチンともてなさないと恥をかくと思っているのでもありません。彼女がせわしく立ち働いているのは信仰によってです。マルタの姿は、信仰者が主イエスに仕えている姿そのものなのです。そこには、「もてなし」という言葉が使われていますが、この言葉は原文では「ディアコニア」という言葉で、「奉仕」という意味です。マルタがしているのはこのディアコニア、主イエスに従う信仰者にとって大切な信仰の業としての「奉仕」なのです。ですから、このマルタとマリアの姿は、自分はどちらのタイプだとか、どちらの方が自分の好みに合うなどというように読むべきものではありません。これはどちらも、主イエスに従い仕えていく信仰者が大切にすべきあり方なのです。

しかし、このどちらも大切な信仰のあり方の間で問題が生じました。姉のマルタがマリアのことで主イエスに文句を言ったからです。「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください」。マルタは、主イエスの足もとに座ってその話に聞き入っているマリアに対して、「何も手伝わず、私だけにもてなしを、つまりディアコニアを押し付けている」という不満を抱いたのです。このマルタに対して主イエスはお答えになりました。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない」。主イエスはこのお言葉によってマルタに何を語ろうとしておられるのでしょうか。「あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している」。主イエスはマルタが思いわずらいに陥り、心を乱していると言っておられるのです。もてなし、接待、ディアコニアの働きの中で、マルタの心は乱れ、とりみだしてしまっているのです。心が乱れるとどうなるか、自分のしている働き、奉仕を喜んでできなくなるのです。そして、人のことを非難するようになるのです。「自分はこんなに奉仕しているのに、あの人は何もしない。手伝おうとしない。そんなことでいいのか」という思いに支配されていくのです。自分のしている奉仕を喜べないことと、人を非難することは表裏一体の関係です。自分に与えられた奉仕を喜んでしている人は、人のことを非難することはありません。人への批判や攻撃は、自分自身が喜んでいないから生じるのです。マルタはそのような思いわずらい、心の乱れに陥ったのです。そのように心が乱れてしまうと、彼女がせっかく主イエスと弟子たちを家に迎え入れるという信仰の決断をし、奉仕している信仰の業が歪んだものになってしまいます。マルタはこの奉仕を、誰かから強制されたのではありません。自分の意志でそれを引き受け、喜びをもってそれを担ったのです。信仰における奉仕、ディアコニアとはそのように、喜んで、自発的に行なうものです。ところが私たちは時として心を乱し、その喜びを見失って、自分だけが何か重荷を背負わされているように感じてしまうことがあります。心を乱しているマルタの姿は、私たちの信仰生活の中でも時として起るそのような事態を表しているのです。

このように心を乱してしまっているマルタに主イエスがお語りになりました。「しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない」。私たちはこの主イエスの言葉を聞く時、これは折角一生懸命奉仕しているマルタには気の毒な言葉ではないか、と思うのではないでしょうか。

しかし、主イエスのこのお言葉はそのように冷たい言葉ではありません。主イエスはここでマルタに、「あなたのしていることは意味がない」などと言っているのではないのです。マルタは主イエスを迎え入れ、奉仕するという信仰に生きている人です。彼女の奉仕ディアコニアは主イエスに従う者たちにとってとても大事なことなのです。意味がないとか必要がないなどということは絶対にないのです。主イエスがマルタに望んでおられるのは、彼女がそのディアコニアを、心乱れ、喜びを失った中で、人を非難するような思いを抱きながらするのではなくて、本当に喜んで、自発的にして欲しい、ということです。そして、喜んで奉仕できるようになるために必要なただ一つのことを主イエスは教えて下さっているのです。それは、マリアのように、主イエスの足もとに座って、そのみ言葉に聞き入ることです。

この「主イエスのみ言葉に聞き入る」ことを忘れてしまうと、私たちの奉仕は教会での自己実現や自己主張のためになります。教会が奉仕を競い合う人々の集まりと化してしまいます。そこには、自分の奉仕への評価や見返りを求める思いが生じます。そうなったらもはや本当に喜んで奉仕しているとは言えません。そして自分の奉仕を本当に喜んでしていないところには、自分はこれだけしているのにあの人はなんだ、と人を非難し審く思いが生じるのです。本当にすべきことは、主イエスの足もとに座ってその恵みのみ言葉に聞き入ることなのです。「必要なことはただ一つだけである」という主イエスのみ言葉は、そのことを姉のマルタに、そして私たちに教えています。つまりマルタとマリアの姉妹の姿は、信仰者のタイプの違いではありません。ある時はマリアに、ある時はマルタに徹する、などというものでもないのです。そうではなく、姉のマルタのしている奉仕、ディアコニアが本当に生かされ、喜びをもって自発的になされていくためには、妹のマリアのみ言葉を聞く姿勢が必要なのです。主イエスは姉のマルタも愛しておられるのです。それゆえに、「必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない」とおっしゃったのです。それは妹のマリアを褒めるための言葉ではなくて、姉のマルタが喜んで奉仕に生きるために本当に必要なことを教えようとされた愛に裏付けされたみ言葉なのです。そして、主イエスの足もとに座ってみ言葉に聞き入っているマリアには、「行って、あなたも同じようにしなさい」という励ましが与えられました。そのようにしてマルタもマリアも共に、主イエスのみ言葉によって養われつつ、自分に与えられている賜物を喜んで自ら献げ、生活の中で具体的に主イエスに仕える者となっていったのです。 お祈りを致します。

<<< 祈  祷 >>>

その男はあなただ

《賛美歌》

讃美歌187番
讃美歌286番
讃美歌517番

《聖書箇所》

新約聖書:使徒言行録 2章29~30節 (新約聖書216ページ)

2:29 兄弟たち、先祖ダビデについては、彼は死んで葬られ、その墓は今でもわたしたちのところにあると、はっきり言えます。
2:30 ダビデは預言者だったので、彼から生まれる子孫の一人をその王座に着かせると、神がはっきり誓ってくださったことを知っていました。

旧約聖書:サムエル記 下 12章1~17節 (旧約聖書496ページ)

12:1 主はナタンをダビデのもとに遣わされた。ナタンは来て、次のように語った。「二人の男がある町にいた。一人は豊かで、一人は貧しかった。
12:2 豊かな男は非常に多くの羊や牛を持っていた。
12:3 貧しい男は自分で買った一匹の雌の小羊のほかに/何一つ持っていなかった。彼はその小羊を養い/小羊は彼のもとで育ち、息子たちと一緒にいて/彼の皿から食べ、彼の椀から飲み/彼のふところで眠り、彼にとっては娘のようだった。
12:4 ある日、豊かな男に一人の客があった。彼は訪れて来た旅人をもてなすのに/自分の羊や牛を惜しみ/貧しい男の小羊を取り上げて/自分の客に振る舞った。」
12:5 ダビデはその男に激怒し、ナタンに言った。「主は生きておられる。そんなことをした男は死罪だ。
12:6 小羊の償いに四倍の価を払うべきだ。そんな無慈悲なことをしたのだから。」
12:7 ナタンはダビデに向かって言った。「その男はあなただ。イスラエルの神、主はこう言われる。『あなたに油を注いでイスラエルの王としたのはわたしである。わたしがあなたをサウルの手から救い出し、
12:8 あなたの主君であった者の家をあなたに与え、その妻たちをあなたのふところに置き、イスラエルとユダの家をあなたに与えたのだ。不足なら、何であれ加えたであろう。
12:9 なぜ主の言葉を侮り、わたしの意に背くことをしたのか。あなたはヘト人ウリヤを剣にかけ、その妻を奪って自分の妻とした。ウリヤをアンモン人の剣で殺したのはあなただ。
12:10 それゆえ、剣はとこしえにあなたの家から去らないであろう。あなたがわたしを侮り、ヘト人ウリヤの妻を奪って自分の妻としたからだ。』
12:11 主はこう言われる。『見よ、わたしはあなたの家の者の中からあなたに対して悪を働く者を起こそう。あなたの目の前で妻たちを取り上げ、あなたの隣人に与える。彼はこの太陽の下であなたの妻たちと床を共にするであろう。
12:12 あなたは隠れて行ったが、わたしはこれを全イスラエルの前で、太陽の下で行う。』」
12:13 ダビデはナタンに言った。「わたしは主に罪を犯した。」ナタンはダビデに言った。「その主があなたの罪を取り除かれる。あなたは死の罰を免れる。
12:14 しかし、このようなことをして主を甚だしく軽んじたのだから、生まれてくるあなたの子は必ず死ぬ。」
12:15 ナタンは自分の家に帰って行った。主はウリヤの妻が産んだダビデの子を打たれ、その子は弱っていった。
12:16 ダビデはその子のために神に願い求め、断食した。彼は引きこもり、地面に横たわって夜を過ごした。
12:17 王家の長老たちはその傍らに立って、王を地面から起き上がらせようとしたが、ダビデはそれを望まず、彼らと共に食事をとろうともしなかった。

《説教》『その男はあなただ』

今日は、チョッと私事から話を始めます。私が東京神学大学修士2年の卒業に修士論文作成の真っ最中の2017年に周りの心配をどこ吹く風とイスラエル旅行に行ったのですが、そのエルサレムではてっきり注目すべきはイエス様の関係する遺跡と思いきや、何とダビデ王関係の遺跡ばかりが重視されていることでした。旧約聖書に関係する遺跡ばかりで、新約聖書関係の遺跡は殆ど注目されていませんでした。まあ、考えてみれば、イスラエルはユダヤ教徒の国ですから、当然と言えば当然だったわけですけれど…。

その旧約聖書が語るとおり、ダビデ王は政治的にも軍事的にも大変優れた才能を持ち、人間的にも人を惹きつける魅力を持って、更に、篤い信仰者であり、アブラハム以来イスラエル民族に伝えられてきた神の御言葉をこの世に実現する者とも見られていました。従って、彼の王国は、後の時代の人々には神の約束の「眼に見えるしるし」として映り、来るべき救い主・メシアは、ダビデ王との「新しい約束」として働かれると信じられていました。後世のイスラエルの人々は、自分たちを「ダビデの子孫」と名乗ることよって、神の祝福の下にあることを確かめました。主イエスもまた、多くの人々から「ダビデの子」と呼ばれたことは福音書の記すとおりです。

イスラエル王国のダビデ王は、イスラエル史上最大の人物であるだけでなく、雲の上の存在であった信仰の祖アブラハムと、イスラエル民族をエジプトから救い出したモーセに次ぐ信仰者とも見なされた人物でした。

しかしながら、そのダビデもまた、私たちと同じ人間でした。「同じである」ということは、ダビデもまた、罪を背負って生きた人間であり、神の顧みの下でしか生きることができなかったと言えましょう。ダビデが犯した過ちと、下された神の裁きは、罪に捉えられて生きる人間そのものの姿であり、彼が神から受けた恵みは、憐れみがなければ立ち上がることもできない私たちの姿そのものであると言えるでしょう。ダビデの生涯における、代表的な醜いこの事件は、まさに人間の弱さを示すと共に、神の赦しの御心の大きさを示すものとして、伝えられてきたのです。いわゆる、バト・シェバ事件と呼ばれるこの物語は、11章から始まっています。ある日の夕方、ダビデが王宮の屋上を散歩している時に美しい女性が水浴びしているのを偶然見かけたのが発端でした。彼女は、ダビデ王旗下のイスラエル軍の将軍であるヘト人ウリヤの妻バト・シェバでした。

その頃、イスラエルは東の強敵アンモンと戦っており、ヨアブを総司令官とする遠征軍は、アンモンの都ラバを包囲中でした。ラバとは現在のヨルダンの首都アンマンのことです。ラバの城は要害堅固な丘の上にあり、切り立った崖に城壁を巡らしていました。イスラエル軍は、城を包囲したものの攻め倦み、苦戦を強いられていました。ヘト人ウリヤが総司令官ヨアブに従う将軍の一人として、ラバの前線にいた時に、この事件は起こったのでした。時は紀元前千年の頃、今から約三千年昔でした。遠い昔、古代世界の王がどれ程の権力を持っていたか、想像することは容易でしょう。専制君主たる王は国民の生死を自由にする権力を持ち、戦争で得た民は奴隷として売り払うことが一般的でした。現代的な人権思想や倫理的見方は全くない時代であり、権力だけがすべての時代でした。ダビデはバト・シェバを見初めたのですが、彼女の夫は自分の将軍の一人であるウリヤです。そこで彼は悪知恵を働かせ、ウリヤを激戦の続く最前線へ送り、戦死させるよう総指令官ヨアブに命じました。ダビデの意を受けたヨアブはウリヤに最も危険な前線への攻撃を命じ、ウリヤは戦死してしまいます。そして、ウリヤの死後、未亡人となったバト・シェバを、ダビデは堂々と迎え妻とした、というのです。絶大な権力を手にし、国民から圧倒的な支持を得ていたダビデにとって、自分の目に留まった女性を妻の一人とするのは当然のことと考えられたのでした。ダビデの息子で次の王ソロモンは、妻六百人、妾三百人と記されていることからも、この時代のことが想像できます。「何と卑劣な」と私たちは思いますが、当時の権力者にとって普通のことであったでしょう。エジプトにおけるアブラハム物語にも「美しい妻を持った男の危険」ということが述べられています。古代の専制君主たちは皆、このように自分の欲望を権力によって満たし、だれもそれを不思議に思いませんでした。また、将軍ウリヤの戦死も、軍人として当然な最期と思われたことでしょう。ダビデは実に上手くやったのです。

しかし、人間の生きる姿は、その時代や、その時代の人々の価値観だけで計られるものではありません。「皆、そうしているではないか」「私だけではない」「私だけが特別に責められることはない」という時代ごとの弁明が、通用しない世界があるのです。11章27節には、「ダビデのしたことは主の御心に適わなかった」と記されています。口語訳では、更に厳しく「この事は主を怒らせた」と訳されています。「主なる神が御怒りになった」。これが決定的な問題なのです。たとえ、その時代の人々がどう評価しようとも、その時代の王権が如何に絶大でも、「主が御怒りになった」ということが、時代を越え人間の行動を、最終的かつ決定的に評価するのです。

このことは同時に、人間の罪、人間の悪は、神の怒りによって初めて明らかになることを示しているのです。人間、特に権力者はあらゆる知恵を用いて、その時代の人々を欺き、巧みに批判の目を逸らし、自分の心を欺いてでも、自分の行為の正当性を認めさせようとします。それは、神なき世界で、自分が神として君臨しようとすることと言えます。そして人間とは、ダビデほどの人物であっても、なおこのように神の怒りを受けるという事実は、欲望の前における人間の弱さに終わらず、すべての人間が、神の怒りの対象である罪から逃れることができないという現実を明らかにしているでしょう。

主は預言者ナタンをダビデのもとに遣わされました。ナタンは来て、次のような譬えを語りました。「二人の男がある町にいた。一人は豊かで、一人は貧しかった。豊かな男は非常に多くの羊や牛を持っていた。貧しい男は自分で買った一匹の雌の小羊のほかに何一つ持っていなかった。彼はその小羊を養い、小羊は彼のもとで育ち、息子たちと一緒にいて、彼の皿から食べ、彼の椀から飲み、彼のふところで眠り、彼にとっては娘のようだった。ある日、豊かな男に一人の客があった。彼は訪れて来た旅人をもてなすのに、自分の羊や牛を惜しみ、貧しい男の小羊を取り上げて、自分の客に振る舞った。」(1-4)。預言者ナタンが語ったことは単純明快でした。正義の王と言われていたダビデがその豊かな男のやり方を怒ったのは極めて当然でした。「何と欲の深い男か。このような人間がいるとはとても考えられない」と思ったダビデは、激怒して直ちにその不正な男に対する判決を下して、ナタンに告げました。「主は生きておられる。そんなことをした男は死罪だ。子羊の償いに四倍の値を払うべきだ。そんな無慈悲なことをしたのだから。」(5-6)。これほど厳しく罰するのは当然であり、誰一人として反対する者のない判決であると、ダビデは考えた筈です。当時の国王は、最高裁判官でもありました。それゆえにダビデは、国を治める者として、不正を怒り、正義の判決を下したのでした。

今私たちは、このナタンの譬え話が、バト・シェバをウリヤから奪ったダビデ自身のことを語っていることに既に気付いています。ナタンに告げたダビデの判決は正しいのですが、その判決を受けなければならぬ罪人、不正な男が、ダビデ自身だということも明白です。ただ皮肉なことは、これほど明白な、また弁明の余地のないほどの罪が「自分のことである」ということに、ダビデがまったく気付かなかったということです。

ナタンに指摘され直ぐに、5節で「主は生きておられる」と叫んだダビデほどの人物が、なぜ、自分の過ちに気付かないのでしょうか。不思議なのはここです。そして聖書は、この物語を通して、「これが人間の罪なのだ」と告げているのです。罪の特徴とは、第三者的立場に立てば誰にでも分かることが、自分のことになると、全く分からないところにあるのです。更に、ダビデの罪とは、「ウリヤ殺害とバト・シェバとの不義」というだけのことではなく、むしろその背後にある、彼自身の生き方にあるのです。

ダビデは、ナタンから「不正な男」の話を聞いた時、「主は生きておられる」と叫びました。それは、主なる神が、常にすべてを眼差しの下に置かれている全世界の支配者であることの告白です。すべての者は主なる神の眼差しから離れては有り得ない、という信仰告白です。ダビデは、その不正な男を、王である自分が赦さないだけではなく「神がお赦しにはならない」と断言したのです。

「主は生きておられる」。この言葉は、旧約聖書全体を貫く偉大な信仰告白であり、繰り返し預言者によって用いられている表現です。ダビデの信仰が神の義に支えられていたことを、この言葉は示しています。しかし、バト・シェバを見初め、ウリヤを最前線の激戦地へ送った時、その時でも彼は、「主は生きておられる」と心の中で叫んだでしょうか。ウリヤ戦死の報告を受けた時、ダビデは神の眼差しを意識していたでしょうか。主なる神への信仰、主なる神への服従は、その時、どうなっていたのでしょうか。「主は生きておられる」と叫び続けたでしょうか。一時的にせよ神から離れたダビデの姿が、そこにあったのです。神の眼差しを忘れて生きる人間が、そこにいたのです。それゆえに、ダビデが犯した最大の罪とは、バト・シェバを巡る彼自身の行動と言うより、その行動を起こさせ、それを可能にした、「神からの離反」そのものと言わざるをえません。ナタンはダビデに向かって言い放ちます。「その男はあなただ。」(7)。この言葉は、神から離れて生きていることを自覚しない、すべての人間への警告です。都合のよい時だけ主の御名を呼ぶ人間がそこにいる、「それはあなただ」という指摘です。そしてその指摘と共に、ナタンは、主の御言葉をダビデに伝えるのです。ナタンを通して7節から12節で語られる神の怒りは、単なる不正行為の指摘ではなく、ダビデヘの恵みを思い出させることから始まっています。このことは、神の怒りがダビデの行為の根本にある「神からの離反」そのものに向けられていることを、明らかに示していると言えます。神の恵みが基盤にあるだけに、裁きも厳しいのです。人間の罪に対する神の裁きは、7節でナタンが直ちにダビデに答えたように素早く、徹底的なのです。

私たちは、これを読む時、神の御前に立たされる自分の生きざまを問わずにはいられないでしょう。私たちは、日々の生活の中のどこで、「主は生きておられる」と叫んでいるでしょうか。悪魔の誘いは、美しいバト・シェバの姿の中にあるのではなく、「主は生きておられる」ということを忘れさせるところにあるのです。

続く13節から14節での、ダビデの悔い改めの素早さと素直さに驚かされますが、それ以上に、ナタンを通して告げられる神の赦しの寛大さに驚かされます。神はこれほどまでに悔い改める者に甘いのかと思わされます。主なる神は、悔い改める者を拒まれる方ではなく、しかも、その怒りが早いのと同じように赦しも早く、その怒りが徹底しているのと同じほど、赦しもまた桁外れなのです。

なぜなら、その不正に対して、ダビデが「死刑にせよ」と叫んだのに対して、主なる神は、「死の罰は免れる」と言われているからです。神の御心は、罪を犯した者の滅びにあるのではなく、悔い改めを待つことにありました。アダムとエバの赦しを請う言葉を待つエデンの園の神の御心を思うべきです。正義の神は、ただ一言の悔い改めを喜ぶ愛の神でもあるのです。

ナタンがダビデに告げた「その男はあなただ」という言葉を、私たちは、自分自身の罪を指摘する神の怒りの御言葉として聞くと共に、怒りを越えて罪を赦す神の御言葉として響くのです。この大きな恵みを預言者ナタンは、「その男はあなただ」と私たちに告げているのです。

ダビデの罪は、バト・シェバの産んだ最初の子を失うという痛みを代償とすることで赦されました。

それでは、私たちの罪の赦しには何の代償が必要なのでしょうか。

それこそが、時を越えた主イエス・キリストの十字架の御業です。その十字架の御業はダビデの赦しのためでもあり、今ここに、私たちのためであることも明らかです。ダビデの様に素直に罪を悔い改め、主イエス・キリストの十字架の御救いを感謝し続ける者でありたいものです。

お祈りをいたしましょう。

<<< 祈  祷 >>>

主イエスの恵み“カリス”

《賛美歌》

讃美歌20番
讃美歌183番
讃美歌546番

《聖書箇所》

旧約聖書:申命記 4章20節 (旧約聖書287ページ)

4:20 しかし主はあなたたちを選び出し、鉄の炉であるエジプトから導き出し、今日のように御自分の嗣業の民とされた。

新約聖書:エフェソの信徒への手紙 2章1-10節 (新約聖書353ページ)

2:1 さて、あなたがたは、以前は自分の過ちと罪のために死んでいたのです。
2:2 この世を支配する者、かの空中に勢力を持つ者、すなわち、不従順な者たちの内に今も働く霊に従い、過ちと罪を犯して歩んでいました。
2:3 わたしたちも皆、こういう者たちの中にいて、以前は肉の欲望の赴くままに生活し、肉や心の欲するままに行動していたのであり、ほかの人々と同じように、生まれながら神の怒りを受けるべき者でした。
2:4 しかし、憐れみ豊かな神は、わたしたちをこの上なく愛してくださり、その愛によって、
2:5 罪のために死んでいたわたしたちをキリストと共に生かし、――あなたがたの救われたのは恵みによるのです――
2:6 キリスト・イエスによって共に復活させ、共に天の王座に着かせてくださいました。
2:7 こうして、神は、キリスト・イエスにおいてわたしたちにお示しになった慈しみにより、その限りなく豊かな恵みを、来るべき世に現そうとされたのです。
2:8 事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。
2:9 行いによるのではありません。それは、だれも誇ることがないためなのです。
2:10 なぜなら、わたしたちは神に造られたものであり、しかも、神が前もって準備してくださった善い業のために、キリスト・イエスにおいて造られたからです。わたしたちは、その善い業を行って歩むのです。

《説教》『主イエスの恵み“カリス”』

本日の聖書箇所は、エフェソの教会の兄弟姉妹たちの現実の姿を描き出すことから始まります。それは、この手紙を書いたパウロ自身の現実でもあり、現在の私たちの現実でもあります。その現実とは、私たちは洗礼を受けて教会に加わる前には、「自分の過ちと罪のために死んでいた」という現実です。と、言ってもその現実を明らかにするパウロの言葉は、エフェソの教会の兄弟姉妹たちを非難する言葉ではありません。ここにある、「死んでいた」という表現は、以前のあなたがたは、こうであったと責めたてる言葉というよりも、今は、過ちと罪を赦されて、そこから解き放たれて、自由にされていることの喜びを共にする言葉として理解することができます。死んでいたに等しい人間が、生きるようになったことへの不思議さと感謝の言葉から始まっていると言えましょう。それは、先週ご一緒にお読みした放蕩息子が父のもとに戻って受け入れられたことの喜びに通じます。

私も、あなたも、以前は自分の過ちと罪のために死んだようになっていた。世界を支配する神に背き、罪と過ちを犯して歩んできた。神の怒りを真っ先に受けるにふさわしい者であった。しかし、そのような私たちが、今やキリストと共に生かされているという恵みを語り始めるのです。この恵みがどれほどすばらしいものかが、後半部分の7節以下には鳴り響きます。

さて、2節の「この世を支配する者」や、「かの空中に勢力を持つ者」とは、すぐ後の「不従順な者たち」のことです。「内に今も働く霊」とは悪魔のことと思われます。「この世を支配する者」は原文では「このコスモスのアイオーン」という言葉です。「コスモス」とは「宇宙」と訳される言葉で、「アイオーン」は、当時のアレキサンドリヤなどでは神として祭られていたこともあることから、「偶像の神」と解釈できます。そして、「かの空中に勢力を持つ者」とは、悪魔・サタンと考えられます。サタンは人間を遥かに超える力を持っています。主イエスがこの世に来られた明白な目的は、まさに「悪魔の働きを滅ぼすため」にほかならなかったと言われます(Ⅰヨハ3:8)。主イエスご自身も、公の生涯のはじめに荒れ野でサタンの誘惑に遭われ、サタンを退けられました。サタンは大変巧妙で、パウロはサタンのことを「光の天使を装うのです」(Ⅱコリ11:14)と指摘しているほどです。サタンは、善人を装い、時には天使を装って私たちに近づき、私たちを肉の欲望のままに生きる者として、神様から私たちを遠ざけることを企みます。

使徒パウロは、人間が偶像崇拝に陥り、サタンの支配にとらわれていく現実をしっかりと見つめます。私たちも自分は、サタンや偶像礼拝と無縁だ、自分は教会生活をしっかりと守り、信仰に堅く立っていると、自分勝手に思い込んでいるんではないでしょうか。パウロが語るサタンとは、残忍で恐ろしい姿かたちをいつもとっているわけではありません。私たちが、神以外のものをより大切にし、自分が良いと思っているところに心惹かれていくとき、すでにサタンの誘惑に陥っているのです。パウロは、3節では、ユダヤ人として信仰を受けている人たちや信仰を得ていない不信仰者を含むすべての人々は、生まれながらの本来の姿なら、神の怒りにあう者であり、神の怒りから逃れられないと言っています。自分が善かれと思って行うことが、「肉の欲望の赴くままに生活する」ことです。そのような罪の現実の最大の問題は、自分の思いのままに生きる時、私たちはキリストと共に生きている、キリストによって生かされていることを忘れてしまうことです。

神様は、そのような私たちを、それでもなお深く憐み愛してくださり、その愛によって、罪のために死んでいた私たちをキリストと共に生かし、キリストと共に復活させ、共に天の王座に着かせてくださいましたとパウロは記します。本来なら、神を忘れて、神様とは別な方向を向いている私たちを、神の御前に連れ戻してくださるのです。4節の「愛」とは、神ご自身の愛のことです。この愛は、人間をサタンの誘惑から解き放ち、サタンの支配を粉みじんに打ち砕くような厳しく、激しい決然とした愛です。神が愛する独り子を世界に遣わし、それによって私たちを新たに生まれさせ、生き方を変えてくださった愛です。神様が私たち人間を愛するゆえに、御子をすら惜しまなかった徹底した愛です。この徹底した愛にこそ、はじめからの神の目的があります。5節と6節は、私たちの予想に反するような恵みが語られています。神様がくださる恵みです。「生まれながら神の怒りを受けるべき者」を新生させてくださる神の目的は、5節の「キリストと共に生かし」てくださることであり、6節にある「共に復活させ、共に天の王座に着かせ」るためなのです。その神の豊かな愛は、ここにある「憐れみの豊かさ」であり、「わたしたちをこの上なく愛してくだ」さったからです。

新しく生まれる「新生」とは、霊的に死んでいた者に対する神の一方的な賜物、恵みです。神様は、何のとりえもない私たちを、信仰ゆえに憐み、ただひたすら一方的な恵みによって、私たちを罪の支配から救い出してくださるのです。キリスト者は、いつの時代にもこの一点だけで、共通の経験をしている者です。「あなたがたの救われたのは恵みによるのです」とありますが、これは、すでに与えられた救い、つまりイエス・キリストによる罪の赦しと罪の支配への勝利を示しています。この箇所は、教会における洗礼を指しています。コロサイの信徒への手紙2章12節には、「洗礼によって、キリストと共に葬られ、また、キリストを死者の中から復活させた神の力を信じて、キリストと共に復活させられたのです」と、洗礼についてハッキリと記されています。今日のエフェソ書では、洗礼について明記はありませんが、パウロの言葉遣いは明らかに洗礼を指しています。5節の「罪のために死んでいたわたしたちをキリストと共に生かし」とあります。この「共に生かし」とは、こことコロサイの信徒への手紙2章13節にだけ出て来る言葉です。この「生かす」とは「命をつくる」という言葉です。「キリストの救い」とは、単なる罪の赦しだけではなく、キリストにある新しい命を私たちに与えて下さるのです。この「キリストと共に生かす」とは、「新しく生まれ」てキリストと結び付けられ、キリストに起ったこと「復活と天の王座へ座ること」が、神の力によって私たちにも起こることを示しています。イエス・キリストの生命に与って、それと一体となることです。この「愛による救い」の文章は8節にまで続きますが、感極まったパウロはここで「あなたがたの救われたのは恵みによるのです」と、5節と8節で繰り返し歓呼しています。霊的に死んでいた状態から新しく生きる「新生」とは私たちに対する神の一方的な恵みなのです。

そして、この「救われた」という動詞は完了形で、イエス・キリストの十字架の御業で「すでに救われている」と言っているのです。「あなたがたの救われたのは恵みによるのです」と、ここに「恵み(カリス)」という言葉が出てきます。今日の短い聖書箇所だけでも3回も登場しています。神の救いが、人間に対する神の愛による一方的な賜物・恵みであることを表している言葉です。

成宗教会の皆さんの中にはお気付きの方もいらっしゃいますが、成宗教会のメールアドレスは「ナリムネ・カリス」です。「カリス」に決まった経緯を私は聞かされていませんが、並木先生時代に開設されたメールアドレスが、この「恵み(カリス)」であることに今日は不思議な神の導きを感じずにはおられません。

6節の「共に復活させ、共に天の王座に着かせ」るとは、やがて来る未来の終りの日のことよりも、現在既に起こった出来事を指します。神の救いは霊的な死からのよみがえり・復活ばかりか、何と、神の子たる身分への天への招きでもあるのです。「共に復活させ、共に天の王座に着かせ」と2回も続いて語られる「共に」という言葉は、一つの言葉としては存在していません。この「共に」という言葉は「復活させる」「着かせる・座らせる」という動詞の接頭語です。分かり易く日本語の意味を加えると「キリスト・イエスと一緒に復活させ、天の王座にキリスト・イエスと一緒に着かせてくださいました」となります。霊的に生き返る「新生」とは、天におられる復活の主イエス・キリストと共に新しく生きるということなのです。

7節では、「その限りなく豊かな恵みを、来るべき世に現そうとされたのです。」と、私たちの救いの目的をさらに明らかにします。この「来るべき世」とは、終末に続く新天新地を含む無限の将来・永遠を指し示しています。1章4節に「天地創造の前に、神様はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。」とありました。私たちの「選び」は過去から続くものでしたが、その「恵み(カリス)」は、現在の私たちに永遠の将来まで一方的に与えられるのです。

8節の「あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました」とあります。「恵み(カリス)」は、漠然とした「恵み(カリス)」ではありませせん。前の7節の「キリスト・イエスにおいてわたしたちにお示しになった慈しみにより、その限りなく豊かな恵み(カリス)」であり、「キリスト・イエスの十字架による慈しみ」のことです。キリストの出来事のすべてが「恵み(カリス)」です。しかもその恵みの出来事は一方的に与えられました。

しかし、その恵みとは、私たちの応答を問うことなしに、ばらまかれるのではありません。「恵みにより、信仰によって救われた」とあります。ここは、正確には「信仰による恵みで・・・」と訳すことができます。人はイエス・キリストを自分の救い主として受け入れる信仰を通して、その恵みを受けることが出来るのです。「このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です」。神の救いとは、神様からたまたま頂いた賜物ではなくて、受け取る私たちの悔い改めを前提として信仰という管を通して神のご意思によって与えられる「恵み(カリス)」と言った方が適当でしょう。

9節の、「行いによるのではありません。」とは、前の8節の「自らの力によるのではなく、神の賜物です。」の言い換え、繰り返しです。どんな形でも人の力や功績、努力が顔を出す余地はなく、「わたしたちは、人が義とされるのは律法の行いによるのではなく、信仰によると考えるから」(ロマ3:28)なのです。

10節では、「なぜなら」と、前節までの内容を繰り返して説明を重ねます。私たちは神の作品なのだから、神の救いが人間の行い、善行や業績によることはあり得ないのです。私たち人間は「神が前もって準備してくださった善い業のため」に神によって造られた作品なのです。

キリストの救いとは、救われる私たちの善行という努力や働きがまったく必要ない神の一方的な愛の「恵み(カリス)」なのです。

「恵み(カリス)」は、信仰によってのみ神様から頂くことができるものです。神様は主イエスを救い主として信じる者に溢れるばかりに「恵み(カリス)」を注がれるのであって、善行の報酬として与えられるものではありません。「恵み(カリス)」をいただく手段は信仰のみです。しかも、実に、その信仰そのものも神の賜物なのです(エフェ2:8)。

私たちは、主なる神によって創造された、神の作品です。ゆえに、私たちは、自分を誇ることができません。私たちが誇ることができる唯一の出来事は、神の御子イエス・キリストによる救いという出来事のみです。誇るならば、主を誇れという言葉通りに、信仰者の誇りとは、信仰を持つ自分ではなくて、私たちが信仰の対象としている神の御子イエス・キリストの十字架と復活の出来事、「恵み(カリス)」の出来事に他なりません。神の作品として「恵み(カリス)」を感謝し続けて生きる者となりましょう。

お祈りをいたします。

<<< 祈  祷 >>>

 

「放蕩息子」のたとえ

《賛美歌》

讃美歌247番
讃美歌257番
讃美歌267番

《聖書箇所》

旧約聖書:イザヤ書 55章7節 (旧約聖書1,153ページ)

55:7 神に逆らう者はその道を離れ/悪を行う者はそのたくらみを捨てよ。主に立ち帰るならば、主は憐れんでくださる。わたしたちの神に立ち帰るならば/豊かに赦してくださる。

新約聖書:ルカによる福音書 15章11-32節 (新約聖書139ページ)

15:11 また、イエスは言われた。「ある人に息子が二人いた。
15:12 弟の方が父親に、『お父さん、わたしが頂くことになっている財産の分け前をください』と言った。それで、父親は財産を二人に分けてやった。
15:13 何日もたたないうちに、下の息子は全部を金に換えて、遠い国に旅立ち、そこで放蕩の限りを尽くして、財産を無駄使いしてしまった。
15:14 何もかも使い果たしたとき、その地方にひどい飢饉が起こって、彼は食べるにも困り始めた。
15:15 それで、その地方に住むある人のところに身を寄せたところ、その人は彼を畑にやって豚の世話をさせた。
15:16 彼は豚の食べるいなご豆を食べてでも腹を満たしたかったが、食べ物をくれる人はだれもいなかった。
15:17 そこで、彼は我に返って言った。『父のところでは、あんなに大勢の雇い人に、有り余るほどパンがあるのに、わたしはここで飢え死にしそうだ。
15:18 ここをたち、父のところに行って言おう。「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。
15:19 もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください」と。』
15:20 そして、彼はそこをたち、父親のもとに行った。ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。
15:21 息子は言った。『お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。』
15:22 しかし、父親は僕たちに言った。『急いでいちばん良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい。
15:23 それから、肥えた子牛を連れて来て屠りなさい。食べて祝おう。
15:24 この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ。』そして、祝宴を始めた。
15:25 ところで、兄の方は畑にいたが、家の近くに来ると、音楽や踊りのざわめきが聞こえてきた。
15:26 そこで、僕の一人を呼んで、これはいったい何事かと尋ねた。
15:27 僕は言った。『弟さんが帰って来られました。無事な姿で迎えたというので、お父上が肥えた子牛を屠られたのです。』
15:28 兄は怒って家に入ろうとはせず、父親が出て来てなだめた。
15:29 しかし、兄は父親に言った。『このとおり、わたしは何年もお父さんに仕えています。言いつけに背いたことは一度もありません。それなのに、わたしが友達と宴会をするために、子山羊一匹すらくれなかったではありませんか。
15:30 ところが、あなたのあの息子が、娼婦どもと一緒にあなたの身上を食いつぶして帰って来ると、肥えた子牛を屠っておやりになる。』
15:31 すると、父親は言った。『子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ。
15:32 だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか。』」

《説教》『「放蕩息子」のたとえ』

今日、示された聖書箇所はあの有名な『放蕩息子』のお話です。このイエス様ご自身による有名な“放蕩息子のたとえ話”は聖書の中でも『福音書中の真珠』と言われるほどに絶賛されている物語で、皆さんも何度も読み、お聞きになった筈です。今日は、この『放蕩息子のたとえ話』について再び考えてみたいと思います。

始めの11節にあるように『息子が二人いた』ことから、このたとえ話は「二人の息子のたとえ話」とも呼ばれていて、前半は弟の話で、後半は兄の話になっています。

二人の息子の年齢などははっきりとは分かりませんが、弟は10代後半から20代の年齢の独身の若者と考えられるます。続く12節で、弟が父親に、『お父さん、わたしが頂くことになっている財産の分け前をください』と言いだすと、父親は財産を二人に分けてやったのでした。この時代、父親が元気なのに「財産の分け前」を請求するのは異例の事と言えます。旧約聖書p.313の申命記21章16~17節に「長子権について」の記述がありますが、その通りにすると、兄の取り分2に対し弟に1の割合、この場合二人兄弟らしいので、弟は兄の半分の財産を分けてもらったことになります。しかし、後半の話から考えると父親は全ての財産を兄弟2人に分け与えてしまったのではなく、ここでは弟にだけ分け与え、兄には財産を分ける約束をしただけか、または、分け与えても父親が財産管理をしていた様に思われます。そして、13節には、「何日もたたないうちに、下の息子は全部を金に換えて、遠い国に旅立ち、そこで放蕩の限りを尽くして、財産を無駄使いしてしまった。」とあります。弟は折角譲ってもらった財産をすべて金に換えて家を出てしまいました。この「遠い国」とは父親なき世界、息子に対する父親の支配の及ばない国といった意味で、異邦人の地と考えられます。それはこの後の15節に出て来る家畜の「豚」がユダヤ人が汚れた動物として忌み嫌って、飼う事など決してなかったことからも「遠い国」が「異邦人の地」であると容易に想像できます。その異邦人の国で、弟は父親の目もなく、まったく自由気侭に遊び廻ったのでした。

しかし弟のそんな放蕩生活が当然長続きする筈もありませんでした。結果は14節に「何もかも使い果たしたとき、その地方にひどい飢饉が起こって、彼は食べるにも困り始めた。」とあります。弟は親から貰った財産を使い尽くした時、遊びや金が縁で出来た友人達は、誰も彼を助けようとしなかったのでした。そんな時にひどい飢饉が起こるとは、勿論予期出来なかったことです。そして、15節、「その地方に住むある人のところに身を寄せたところ、その人は彼を畑にやって豚の世話をさせた。」とあります。この『その地方に住むある人』とは、先程お話した様に明らかにユダヤ人ではない異邦人で、そのある人がユダヤ人の忌み嫌う『豚』の世話をさせたのでした。『豚』は、旧約聖書の時代からユダヤ人に最も忌み嫌われた不浄の動物で食べることはおろか、飼うこともしない動物でした。この様に、弟はユダヤ人の良家の子息が決してしない仕事であった『忌み嫌う動物である豚の世話』に従事する羽目になってしまった、つまり極端に落ちぶれてしまったわけです。ちなみに、現代のユダヤ人も『豚』は口にしないそうです。16節には、「彼は豚の食べるいなご豆を食べてでも腹を満たしたかったが、食べ物をくれる人はだれもいなかった。」とあります。この『いなご豆』とは、俗称「ヨハネのパン」とも呼ばれる豆で、貧しい人々は食用にする事もあったらしいのですが、ここでの強調点はそれが『豚の餌』である『豚の食べるいなご豆』だったという点です。現代に例えれば「ドック・フード」や「キャット・フード」などまだましで、忌み嫌う動物である『豚の餌』すらも食べたいと思うほどに空腹で、自分が「豚以下」であるという惨めさと、誰ひとりとして「助けてくれる人のいない孤独」を表しているのです。17節の初めに『我に返って』とあります。この時に弟の「悔い改め」が始まったと言えるのです。『我に返って』とは自分自身のその救い難い状態に目覚めると共に、彼の帰るべきところは『父のところ』だと気付いたのです。故郷の父の家は、『あんなに大勢の雇い人に、有り余るほどパンがある』と記されている様に、豊かに潤っていたのでした。そして、彼は18節から19節で、「ここをたち、父のところに行って言おう。『お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください』と。」悔改めます。ここの、『父のところに行って言おう』以降は、明確な『罪』の告白です。この罪の告白は、自分が価値のない者であると認める「へりくだりの言葉」でもあるのです。そしてその言葉は、『あなたの子』として父親に甘えるのではなく、『雇い人のひとり』として父のために働こうと決意する「へりくだり」へと明らかに繋がっているのです。

弟の「悔い改め」に到るまでの前半部分を受ける形で、中盤が始まります。この20節から24節は「父の愛のたとえ」とも「待っている父のたとえ」とも呼ばれる部分です。父の深い愛を示していると言える聖書箇所です。20節で、弟は父のもとに帰る決意を実行に移すべく『彼はそこをたち、父のもとに行った』のでした。このたとえ話で、お分かり頂けるように「悔い改め」とは、神のみもとに立ち返ることなのです。20節の『ところが』からは、彼の父親への「悔い改めの告白」に先行する、この父親の大きな愛と赦しの心が描かれていると言えます。この父親の行動は、息子への赦しと交わりの完全な回復です。同じく20節にある『憐れに思い』とは、このたとえ話の非常に重要なキーワードです。この『憐れに思い』が父親の深い愛を現わすキーワードになっているのです。続く21節で、「息子は言った。『お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。』」と告白します。

ここで彼は用意した父親に対する「悔い改め」の言葉を言いますが、用意した『雇い人の一人にしてください。』という最後の「申し入れの言葉」というか、予め用意していた言葉の最後までは、父親は言わせませんでした。大きな父親の愛が悔い改めた過去の罪を赦し責めなかったのです。そして、22節で、「父親は僕たちに言った。『急いでいちばん良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい。』」と言います。ここで、父親は、“自分勝手に出て行った放蕩息子”として責めるのではなく、愛する自分の子として扱っています。ここで父親の指示した『いちばん良い服』を着せることは、その社会的地位、家族としての地位を回復させることを現わしています。そして、『手に指輪をはめてやり』は、当時は印章にも用いる指輪であり、当時の権威を表すものと言えます。そして、『履物』は、当時は奴隷や僕は履物を履かなかったことから、身分の回復であると言えます。

そして、息子の帰還を喜ぶ父親は祝宴を開く決心をする23節へと移ります。ここでは、父親の喜びが、この後の24節にある「祝宴」という言葉によって表現されていると言えます。この『肥えた子牛を屠る』とは特別なもてなし用に飼育された子牛のことで、父親の開いた祝宴の盛大さ・大切さを物語っているのです。そして、父親自身によるこの『祝宴』の開催理由の説明がされています。『死んでいたのが生き返り』とは、勿論本当に死んだのではなく、象徴的な意味で、“霊的に死んでいた”と言えば分りやすいでしょう。そして『死んでいたのが生き返り』は、それぞれ次の『いなくなっていたのに見つかったから』と対句をなしていると言えましょう。

弟が家を出て放蕩して失敗する前半部分、悔い改めて父親のもとに戻ってくる中盤部分を受けて、この最後の25節から32節は兄のたとえ話となります。24節までの弟のたとえ話では、父なる神が、悔い改めて父なる神のみもとに帰って来る罪人を喜び迎えて下さることを語っていることは明らかと言えましょう。続く25節以降で兄が登場し、彼の気持ちが語られるのはどうしてでしょうか。そこにも、父なる神の御心を知るための大切な教えが語られているのです。

ここで、『畑』にいた兄が帰ってきますが、何かの手違いなのか、喜び過ぎた父親がうっかり忘れたのか、働き者の兄には、弟が戻って来たので、父親が祝宴を開くとの知らせが届けられませんでした。少々奇妙な話ですが、その明確な理由はここでは語られていません。そして、知らされていなかった兄は祝宴が開かれている理由が分らずに、家の外に僕のひとりを呼び出して、何事が起きているのか聞いたのでした。すると、「僕は言った。『弟さんが帰って来られました。無事な姿で迎えたというので、お父上が肥えた子牛を屠られたのです。』」とあります。兄に家の外に呼ばれた僕が祝宴の理由を『[あなたの]弟さん』が帰還したことを告げ、『[あなたの]おとうさん』が開いた喜びの祝宴ですと説明しました。兄はここで始めて弟が帰って来たことを知ることとなりました。すると、父親は兄に事前に説明してなかったことを思い出したのか『父親が出て来てなだめた』とあります。この父親の姿は、先程、弟を出迎えた父親の姿と同様に、兄にも丁寧に、愛情深く対応していると言えます。そして、兄が自分の思いを訴える場面です。

ここでは、兄の父親に対する不満と批判の言葉が綿々と連ねられています。この兄の言葉には父親への感謝と尊敬の念が欠けていることは明らかです。また、言葉だけの問題かもしれませんが、弟が父親に21節にある様に「お父さん」と呼びかけるのに対し、兄はその「お父さん」という呼びかけの言葉を発していません。兄は形の上では父親のそばにいて父親を大いに助けていたのでしょうが、父親を敬ったり、大切にしたりはしていなかったとも考えられます。兄は、ここで父親に対して、『長年父親に厳格に仕えたのに、何もくれなかった』と大いに不満と批判をしています。そして、弟に関しては『娼婦どもと一緒に父親の身上を食いつぶした』と断罪と軽蔑の言葉を向け罵(ののし)っています。兄にとっては、父親との大切な絆は、愛に基づく信頼ではなく、『仕えること』と『言いつけを守ること』でしかなかったのだと言えます。ここで使われている『仕える』とは「奴隷として仕える」という意味の言葉です。つまり、兄は自分の父親に対して「息子」の様にではなく「僕」のように忠実に父親に仕えてきたと訴えているのです。この兄は『何年もの間、自分は親の「奴隷」だった』とでも言うかの様に訴えているのです。また、ここで、兄が貰えなかった『子山羊1匹』とは、弟のために屠った『肥えた子牛』に比べはるかに安いものなのに、父親はそれすら自分にくれなかったではないか、と父親をなじっているわけです。この兄の心の動きは、弟を「私の弟」と親しく呼ばずに『あなたのあの息子』と他人行儀に呼んでいることからも推し量る事ができます。そして、31節以下です。

この冒頭で、父親は兄に「子よ」と呼びかけています。父親にとっては兄もまた当然「子」であって、決して「奴隷や僕」ではありません。この父親は、「父よ」と呼び掛けなかった兄をとがめずに『お前はいつもわたしと一緒にいる』ことの幸いに気付かせようと話し掛けているのです。そして、更に全財産を兄にやるつもりだとまで告げているのです。父親は兄を愛してこの様に、重ねて説得するのですが、兄には父親の愛がまったく分ってないと言えます。続く最後の32節で父親の言う『お前のあの弟』は、30節の『あなたのあの息子』と対照的に「弟は私の息子であると同時に、おまえの大切な弟なんだよ!」と言う父親の気持ちを込めた言葉と言えます。そして、その大切な弟が帰って来たことを喜ぼうという大きな愛が教えられ、兄に語られているのです。

この物語のテーマは、人の罪を赦して、温かく迎えてくださる、父なる神の愛です。

創造者である父なる神に創られた『被造物』でありながら、その被造物であることすら忘れた「罪人」である我々人間が『悔い改め』て、神のみもとに立ち返るのを、父なる神は待ち望んでおられるのです。この『放蕩息子のたとえ話』にある様に、迷える子羊である人間は、父なる神の救いを必要としているのです。

しかし、「福音書中の真珠」とまで称賛されているこの物語にはしっかりと「兄の話」が語られていることを私たちは忘れてはなりません。弟として父なる神の愛をしっかりと受けた筈の私たちクリスチャンは、救われて月日を重ね、ややもすると「兄」となってしまってはいないでしょうか。キリスト・イエスの十字架の救いに与かり洗礼を受けた我々クリスチャンは、ついつい「兄クリスチャン」になって、「弟クリスチャン」を見下し、裁いてしまってはいないでしょうか。

「放蕩息子」であり「弟」であった私たちが神様に救われて喜んでいるうちは幸いですが、年月が経って行くに従って「兄」となってしまうのではなく、益々ヘリ下って、御子に似たものに砕かれます様、祈り求めましょう。

<<< 祈  祷 >>>

 

神の力、神の知恵

教会学校との合同礼拝

《賛美歌》

讃美歌344番
讃美歌54番
讃美歌354番

《聖書箇所》

旧約聖書  イザヤ書 29篇13-14節 (旧約聖書1,105ページ)

29:13 主は言われた。「この民は、口でわたしに近づき/唇でわたしを敬うが/心はわたしから遠く離れている。彼らがわたしを畏れ敬うとしても/それは人間の戒めを覚え込んだからだ。
29:14 それゆえ、見よ、わたしは再び/驚くべき業を重ねて、この民を驚かす。賢者の知恵は滅び/聡明な者の分別は隠される。」

新約聖書  コリントの信徒への手紙 第一 1章18-25節 (新約聖書300ページ)

1:18 十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。
1:19 それは、こう書いてあるからです。「わたしは知恵ある者の知恵を滅ぼし、/賢い者の賢さを意味のないものにする。」
1:20 知恵のある人はどこにいる。学者はどこにいる。この世の論客はどこにいる。神は世の知恵を愚かなものにされたではないか。
1:21 世は自分の知恵で神を知ることができませんでした。それは神の知恵にかなっています。そこで神は、宣教という愚かな手段によって信じる者を救おうと、お考えになったのです。
1:22 ユダヤ人はしるしを求め、ギリシア人は知恵を探しますが、
1:23 わたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています。すなわち、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものですが、
1:24 ユダヤ人であろうがギリシア人であろうが、召された者には、神の力、神の知恵であるキリストを宣べ伝えているのです。
1:25 神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。

《説教》『神の力、神の知恵』

今日、私たちに与えられた聖書の言葉は、現在は廃墟になっていますが、2000年前は地中海東西交易の拠点として大変に繁栄したギリシャのコリントと呼ばれる町につくられたばかりの教会へ、使徒パウロが書き送ったキリスト信仰の基本をしたためた手紙です。

最初に、「十字架の言葉」とありますが、それは、イエス・キリストの十字架の死による罪人の贖い、つまり「福音」そのものを現わしている言葉です。

「十字架の言葉」である「福音」とは、この世を罪から救う神の力ですとパウロは語ります。そして、その「十字架の言葉」は「滅んでいく者にとっては愚かなものでも、救われる者には神の力」であると続きます。

その「福音」とは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えることですが、それは「ユダヤ人にはつまずかせるもの」でしかなく、「異邦人には愚かなもの」でしかないとパウロは嘆いているのです。

つまりユダヤ人にとっても、また、ここで異邦人といわれているギリシャ人たちにとっても、イエス・キリストの十字架を愚かなこととして、その救いを受け入れることが出来なかったと言っているのです。

そのユダヤ人も異邦人も救いを受け入れられない理由とは、まずユダヤ人たちは、しるしを求めるが故に、十字架につけられたキリストを受け入れられないのです。しるしとは奇蹟といった、目に見える証拠です。イエスが救い主キリストである具体的で目に見える証拠を示せ、と求めているのです。ユダヤ人は、自分たちが神様に選ばれた神の民であるという誇りと自負、「神に対するエリート意識」を強く持っていました。ユダヤ人たちにとって、イエスが、救い主キリストであるしるしとは、自分たちが守り引き継いで来たユダヤ教の伝統を尊重し、律法を守ることが必要な上に、ダビデ王のように、この世にあってのユダヤの民を守り導く力強い指導者でなければなりませんでした。犯罪人として十字架に架けられ死刑となったイエスは力ない無力な敗北者でしかなかったのでした。

そして、一方のギリシャ人は、この時代の地中海文明のローマ帝国の中にあっての学問や知識の中核をなしていました。この時代の地中海の共通語はギリシャ語であり、古代ギリシャには多くの哲学や思想が生まれ、地中海文明をリードしていたと言えましょう。そのギリシャ人にとって、重罪人として十字架刑で死んだイエスに何の魅力も感じなかったのでした。山上の説教に見られる、イエスの教えだけなら、知恵を求める彼らにとって少しは魅力的に映ったかも知れません。しかし、奴隷など身分の低い者を見せしめのために苦しめさせる極めて残酷な十字架刑で処刑されたイエスは、ギリシャ人にとっては愚かな一塊の犯罪者・死刑囚でしかなかったのです。

つまり、十字架のイエスは、ユダヤ人にとっては「つまづかせるもの」であり、ギリシャ人にとっては「愚かなもの」でしかなかったのでした。

一方、私たち現代人も、ギリシャ人のように知恵を求めています。聖書の中にキリストの合理的な教えを見い出し、人生の指針にしようと聖書を読む人々は多いと言えます。その様に聖書を読む人々は「聖書はキリストの教えの溢れる人生の指針である」と言い、しかし「イエスの奇蹟をはじめ、疑問も色々ある。特に自分たち人間にとっての十字架の救いが強調されているが、自分は何も罪を犯してないので救いの必要は感じない。その上、特にイエスの復活は到底信じられないし、その必要も感じない」と言うでしょう。特に私自身の経験を踏まえて、「自分は罪など犯したことがない」と言い切る人々は日本人には極めて多いと言えるでしょう。ずっと以前に奉仕していた某教会に熱心に長いこと通われていた姉妹が「私は決して罪など犯したことがない」と声高に言われていたのが、今でも思い出されます。

十字架につけられ殺され、まして復活したキリストなど、合理性を重んじる現代的な考えでは、まったく愚かなものであり、信じるに値しないと思われてしまいます。

そして、私たちは目に見える証拠、ユダヤ人のようにしるしをも求めます。信じる信仰の決断の前には、明確なしるし、証拠が欲しいと思ってしまいます。そのしるし・証拠とは、自分が納得できる理由や根拠のことです。納得できなければ信じることは出来ないのです。それはある意味では当然のこととも言えるでしょう。当たり前のことですが、納得できないのに信じるのでは信仰にはなり得ません。とりわけ現代人は科学的な根拠や奇蹟の理解できる裏付けを求めます。私たちは、証拠の示せないもの、科学的な裏付けのないもの、理論化・数式化できないもの信じないようにと教育されて来たのです。

ところが、この証拠、しるしを求めるとは、実は人が自分の思いに適っていることを求める、ということなのです。人が納得できるしるしとは、人間が神様を信じる姿勢ではなく、人間の側から神を判断し、信ずべき神か、そうではない神か、を人間が決める。人間が神に優先して判断する、人間が神の支配者となることを意味し、信仰には最も相応しくない姿勢なのです。

そんな人間の考えではなく、神様は十字架につけられたイエス・キリストの愚かさによって、信じる者を救おうと考えられたのです。神様が、私達罪人を救うために、徹底的に愚かになって下さったのが、イエス・キリストの十字架の御業だったと言われているのです。

ここにある「宣教の愚かさ」とは、イエス・キリストの汚らわしくも恥ずべき十字架の死が、如何にして、本当にこの世に救いをもたらすかを語っているのです。神様はそのように愚かになってまで、罪人である私たちを救おうとして下さっているのです。

私たちは、自分がより高く、立派になり、知恵ある者となって神の救いを得る、という方がずっと好ましいと思っているのではないでしょうか。それは誰もが持っている、いや持てと教えられてきた誇りや向上心からそうなると言えましょう。それは、いくら意識しても取り切れない無意識の中に深く根差しているのです。

聖書が言いたいのは、私たちは十字架につけられて死ななければならなかった罪人であり、その罪からは自分の力で救いを得ることは出来ないのだ、と言うことです。その私たちの、自分ではどうすることもできない罪を、神様の独り子イエス・キリストが全て担って十字架に架かって死んで下さった。そこに神様による赦しの恵み、救いがある、と教えているのです。

この救いは、自分の努力など人の力では得られません。神様が一方的に私たちを選び出し、召して下さった時にのみ、救いに与れるのです。

愚かで見栄えのしない十字架につけられたキリストこそ、私たちのために神様が遣わして下さった救い主だと信じることが出来るのは、神様が私たちを信じる者へと召して下さり、聖霊を遣わして下さったからなのです。この神様の招きを私たちの間で実現して下さるのが、聖霊の働きなのです。私たちが、十字架の言葉を信じ、十字架につけられたキリストこそ私たちに救いを与える神の力、神の知恵であることを受け入れるとき、そこに聖霊が働いて下さっているのです。

十字架につけられたキリストを宣べ伝える「宣教の愚かさ」によって、信じて救いに与る者を神様は聖霊によって召し集め、その群れを、この世に教会としてくださいました。

愚かと言われながらも御言葉を宣べ伝える私たちが、この先も更に悔改め、益々砕かれて、如何に愚かと言われようが、十字架のキリストを宣べ伝え、教会に仕える者、人々に仕える僕、となることが出来ますように、聖霊の導きをお祈りを致しましょう。

<<< 祈  祷 >>>