起き上がりなさい

《賛美歌》

讃美歌66番
讃美歌365番
讃美歌225番

《聖書箇所》

旧約聖書  ネヘミヤ記 13章17-18節 (旧約聖書761ページ)

13:17 わたしはユダの貴族を責め、こう言った。「なんという悪事を働いているのか。安息日を汚しているではないか。
13:18 あなたたちの先祖がそのようにしたからこそ、神はわたしたちとこの都の上に、あれほどの不幸をもたらされたのではなかったか。あなたたちは安息日を汚すことによって、またしてもイスラエルに対する神の怒りを招こうとしている。」

新約聖書  ヨハネによる福音書 5章1-18節 (新約聖書171ページ)

5:1 その後、ユダヤ人の祭りがあったので、イエスはエルサレムに上られた。
5:2 エルサレムには羊の門の傍らに、ヘブライ語で「ベトザタ」と呼ばれる池があり、そこには五つの回廊があった。
5:3 この回廊には、病気の人、目の見えない人、足の不自由な人、体の麻痺した人などが、大勢横たわっていた。
5:3 (†底本に節が欠落 異本訳<5:3b-4>)彼らは、水が動くのを待っていた。それは、主の使いがときどき池に降りて来て、水が動くことがあり、水が動いたとき、真っ先に水に入る者は、どんな病気にかかっていても、いやされたからである。
5:5 さて、そこに三十八年も病気で苦しんでいる人がいた。
5:6 イエスは、その人が横たわっているのを見、また、もう長い間病気であるのを知って、「良くなりたいか」と言われた。
5:7 病人は答えた。「主よ、水が動くとき、わたしを池の中に入れてくれる人がいないのです。わたしが行くうちに、ほかの人が先に降りて行くのです。」
5:8 イエスは言われた。「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい。」
5:9 すると、その人はすぐに良くなって、床を担いで歩きだした。その日は安息日であった。
5:10 そこで、ユダヤ人たちは病気をいやしていただいた人に言った。「今日は安息日だ。だから床を担ぐことは、律法で許されていない。」
5:11 しかし、その人は、「わたしをいやしてくださった方が、『床を担いで歩きなさい』と言われたのです」と答えた。
5:12 彼らは、「お前に『床を担いで歩きなさい』と言ったのはだれだ」と尋ねた。
5:13 しかし、病気をいやしていただいた人は、それがだれであるか知らなかった。イエスは、群衆がそこにいる間に、立ち去られたからである。
5:14 その後、イエスは、神殿の境内でこの人に出会って言われた。「あなたは良くなったのだ。もう、罪を犯してはいけない。さもないと、もっと悪いことが起こるかもしれない。」
5:15 この人は立ち去って、自分をいやしたのはイエスだと、ユダヤ人たちに知らせた。
5:16 そのために、ユダヤ人たちはイエスを迫害し始めた。イエスが、安息日にこのようなことをしておられたからである。
5:17 イエスはお答えになった。「わたしの父は今もなお働いておられる。だから、わたしも働くのだ。」
5:18 このために、ユダヤ人たちは、ますますイエスを殺そうとねらうようになった。イエスが安息日を破るだけでなく、神を御自分の父と呼んで、御自身を神と等しい者とされたからである。

《説教》『起き上がりなさい』

今日、この礼拝のために与えられた御言葉は、2000年前のエルサレムの町のベトザタ池の畔での主イエスの癒しです。

2000年前の主イエスが歩かれたユダヤの都エルサレムの町は、周囲をぐるりと城壁で囲まれていました。

そのエルサレムの北東の城壁に「羊の門」と名付けられた門があり、その近くにベトザタと言う名の池があったと伝えて語られていました。ヨハネ福音書だけにその名が残されている、このベトザタの池が本当にあったのか、長い間、その存在が疑われていましたが、近代になってエルサレムの町の発掘調査が行われ、ついにこの池の跡が発見されたのです。

2000年前の主イエスの時代、このベトサダの池は隣り合う二つの池、北の池と南の池からなっていた様です。その二つの池をぐるりと囲む様に、屋根のついた四棟の回廊が建っており、その回廊には、沢山の病人たちが横たわっていたとヨハネ福音書は語っています。病気の人、目の見えない人、足の不自由な人、体の麻痺した人などが横たわる、病人だけが集まる所で、当時のユダヤ人にとっては近づき難い穢れた場所でした。この時は、ユダヤ人の祭りがあったので主イエスがエルサレムに上られたと1節に記されています。そして、主イエスはこのユダヤ人の近付かない穢れた場所をお訪ねになりました。

病人達がこの池に集まっていた理由を記す文章が、ここにはありませんが、よく見ると3節の終わりのところに十字架の様なマーク(♰)が印刷されています。そのマーク(♰)の後には4節がなく、すぐに5節となっています。これは、従来本文とされてきたこの箇所の文章が、元々はなかったものであり、後から誰かが加えた文章であるとされて削除されたことを表す印なのです。

そして、後に加筆されたと判断された3節後半から4節は、このヨハネによる福音書の一番最後212ページに付け足されています。そこにはこう書いてあります。

「彼らは、水が動くのを待っていた。それは、主の使いがときどき池に降りて来て、水が動くことがあり、水が動いたとき、真っ先に水に入る者は、どんな病気にかかっていても、いやされたからである」(3b-4)

何かの拍子に水面が動いたとき、人々はそれを天使が池に降りて来た証拠だと考えました。そのときに真っ先に池の水に入ったものはどんな病気でも癒されると信じられていたのです。この殆ど迷信の様な言い伝えだけが、当時の、この世から見捨てられた人々の望みをかすかに繋ぐものだったのです。

つまり、ベトザタの池に集まっていた多くの病人は水が動くときを待って、真っ先に池に入って、自分の病気を治してもらおうと集まっていたのです。

ここに集まる人々は「めったに起こらないその瞬間を逃してはならない、その瞬間が来たら、真っ先に飛び込もう」と考えて集まっていた人々でした。

「水が動いたとき、真っ先に水に入る者」だけ、つまり一番最初の一人しか癒されないのです。水が動いたらそこには何が起きるでしょうか。激しい競争が起きます。夜もおちおち眠れない、神経をピリピリとがらせた、不安な毎日が続きます。先に池に降りて行く者を憎み、呪い、妬む生活が続きます。池の水面が少し動くだけで、池の周りは修羅場と化したのです。

この様に、人と人の激しい競争から、憎しみや妬みに捉えられ、自分だけが先にならなければ幸福を得られないとベトザタ池の周りの人々は思っていました。この姿は私達の現実の姿とも似ています。

我先に池に入ろうと待ち構えている病人の中に38年間もの長い間、病気に苦しめられ、殆ど寝たきり状態だった一人の男が居ました。この男は、病気のために素早く動くことも出来ず、池の畔で横たわっているだけで、当然人より先に池に降りることも出来ずに38年間居たのでした。

つまり、この男は、仮に20歳位で病気を患っていたとしたら、この時は既に58歳にもなって、当時の人間の寿命から考えると、老人と言ってよい年齢です。

彼は、治る見込みもなく、家族からも見捨てられ、財産なども持っていなかったでしょう。ここには、同じ様な境遇の人々が沢山いた筈です。そして、この男を含め池の周囲の人々は皆孤独でした。なぜかと言えば、あの、いつ起こるとも知れない水の動きを巡って、お互いにライバル関係にあったからです。

ライバル関係ですから、勿論お互い慰め合いや励ましあい、会話や笑い、楽しみ喜びなど一切ない、それこそ魂の荒れ野とも言うべきところであったのです。

この病人ばかりの回廊に人々は決して近づこうともしません。周辺はユダヤの祭りで多くの人々が祝い騒いでいました。このような病人たちで穢れていると人々が思う場所、魂の荒れ野に主イエスだけがわざわざ訪ねられたのでした。

主イエスはその病人を憐れに思い「良くなりたいか」と声をかけられたのでした。私達は、この人が「はい、そうです。良くなりたいのです」と当然答えるだろうと考えます。ところが、この男の答えは「主よ。水が動くとき、わたしを池の中に入れてくれる人がいないのです。わたしが行くうちに、ほかの人が先に降りて行くのです。」でした。彼は、一緒に池の畔に横たわっているライバルを責めることしかしていません。他人への非難と自分の現実への不満の中でしか生きることが出来なくなって、心が歪み、魂がすさんでしまっていたのです。自己本位のこの男に、主イエスは、「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい」と言われました。これは主イエスにしか言えない言葉です。それは、主イエスこそがこの人の病と、その苦しみを代わって背負って下さる方だからです。主イエスはこの人を憐れに思われました。憐れまれて、肉体の病、憎しみと呪いにまみれた人生全体、それらすべてをご自分のものとして引き受け、担って下さったのです。「私が十字架の上であなたの惨めさ、あなたの病、あなたの苦しい思いをすべて代わりに担うから、あなたは起き上がりなさい」と仰って下さったのです。

この「起き上がりなさい(evgei,rw)」という言葉は主イエスが2章19節で「三日で神殿を立て直してみせる」とおっしゃった時の「建て直す」と同じ言葉です。その主イエスの「建て直す」は、2章22節の「復活される」という言葉とも同じです。主イエスが後に十字架の死から復活される、そのことを語るのと同じ言葉で、「起き上がりなさい」と言われているのです。そこに込められているのは、「私があなたのすべての悩みと苦しみ、いや死の力に打ち勝って復活するから、あなたは私の復活の光の中で立ち上がりなさい。その光の中に留まり続けなさい」、という主イエスの思いです。「起き上がりなさい」というみ言葉は、主イエスの十字架と復活による救いの恵みに彼をあずからせるためのみ言葉だったのです。

私たちもまた、この復活の光の中に置かれるとき、たとえこの男の様に完全な肉体の癒しが与えられなくとも、神様に向かって立ち続けることができるのです。主イエスの「起き上がりなさい」という御言葉のもとで、神を信じる信仰によって、希望を持って生きて行くことができるのです。

床を担いで歩き出したこの男に備えられた道は、主イエスの御言葉に立ち続け、歩み続ける道、主の救いに感謝し、その恵みを証しする道でした。自分を立ち上がらせた力が、何というお方のどの様な力であるかを正しくわきまえ、その恵みの中に留まって歩み続けることであった筈です。しかし、この男は、その道に踏みとどまることが出来なかったのでした。ヨハネ福音書が語るこのベトザタ池の癒しの奇蹟の出来事は更に複雑になって行きます。

この男は主イエスの癒しに与りながら、神の恵みの中に留まり続けることが出来ませんでした。

キッカケとなったのは、安息日に床を担いで歩いているところをユダヤ人たちに見咎められたことでした。それは律法と呼ばれるユダヤ人が守る神の掟を破っていることを意味していました。ユダヤ人たちは、38年間の長い苦しみから解放されたこの男の恵みを共に喜んだのではありませんでした。それどころか、「今日は安息日だから床を担ぐことは律法では許されない」と、「ユダヤの神の前に相応しくない」と、この人を責め立てたのです。

当時のユダヤ教では、神がモーセを通してイスラエルの民に与えた十の戒め、十戒をもとに600以上もの細かな規定が定められ、その中には安息日には何をしていいか、何をしてはいけないかが、細かく定められていました。安息日には何歩以上歩いてはいけない、一度使った炭ならば再び火を起こしても良いが、新しい炭で火は起こしてはならない、など、守らねばならない細かい規定が沢山ありました。病気を癒されたこの男が床を担いで喜んで歩き回っていたのは、この細かな規定に違反していたのです。それを責められたこの男は、「わたしをいやしてくださった方が、『床を担いで歩きなさい』と言われたのです」と答えました。この男は、ユダヤ人たちに責められて、自分では主イエスの恵みの大きさが分かっていながら、周囲の人々の批判に会い主イエスの救いを見失ってしまったのです。

責めるユダヤ人たちは「お前に『床を担いで歩きなさい』と言ったのはだれだ」と尋ねました。しかし、その答えは驚くべきもので、そこには、「病気をいやしていただいた人は、それがだれであるか知らなかった」とあります。考えられないことです。人生で最高の恵みを受けた筈なのに、その癒しを行って下さった方に名前さえ聞こうとしなかったのです。自分が癒されればそれで良い、誰が救って下さり、その方と自分は今どういう関係に招かれているのか、そういった事はこの人にとっては問題ではなかったのです。

ユダヤ人たちは、この男から聞き出した話によって、主イエスを迫害し始めます。そして何と、彼らは益々はっきりと主イエスを殺そうと狙うようになった、というのです。

その理由は、主イエスが安息日の律法を破り、この男に床を担がせただけではなく、全能の神を「私の父」と呼び、「御自身を神と等しい者とされたからである」といった理由からでした。

この男は、主イエスから受けた忘れてはならない筈の癒しを、「安息日には床を担ぐことは律法で許されていない」と咎めるユダヤ人たちの言葉に、その恵みを忘れてしまいます。

主イエスのお陰で今の私たちがあるのに、池で救われたこの男の様に、主イエスの光の中に立つことを忘れてしまう事や、今自分に与えられている恵みを恵みと思わずに当然の事として過ごしている事が、私たちの歩みにおいても多いのではないでしょうか。

ユダヤ人たちは神の御子を迫害するという罪を犯しながら、自分達は神に奉仕している敬虔な信仰者だと信じていました。また、病を癒されたこの男も、自分が癒され、楽になる事だけに留まり、自分を癒して下さった方との出会いと、この方との新しい関係に入って歩む事が出来ずに罪の中に留まってしまいました。

あろうことか、さらに、この男はユダヤ人たちの主イエスに対する殺意をあおり、結果として主イエスを十字架刑に送ることに加担してしまいました。

ベトザタの池の畔で、主イエスはこの男に出会って下さり、愛を持って救い上げて下さいました。

その後、神殿の境内で主イエスはこの男に再び出会って、「あなたは良くなったのだ。もう、罪を犯してはいけない。さもないと、もっと悪いことが起こるかもしれない」と言われました。それはその男の病気が罪の結果であると言っているのではありません。ここで問題となっている罪とは、主イエスに癒されたにも拘わらず、主イエスを自らの救い主として受け入れられなかったことです。

その男に再び出会ってくださった主イエスの御言葉は、「あなたは良くなったのだ。癒されたのだ。罪を赦されているのだ。礼拝に生きる者、ただ神の恵みのみによって赦され生かされている者なのだ。救われる前の苦しみを忘れることなく私の光の中にいなさい」と繰り返し語りかけてくださり、新しく目覚めさせようとして下さっているのです。

時間的には後になった、主イエスの十字架の贖いの死は、ベトザタの池で病を癒された、この男のためでもあったのです。この男を病から癒されただけではなく、罪からの救いを与えるために繰り返し会ってくださり、招いてくださっているのです。この男が主イエスを信じて救われたとは、ここの聖書箇所には書かれていませんが、この男も、この後でキリストの十字架の御業で救われたと信じたいものです。

主イエスは今日のこの礼拝においても私達に出会い「良くなりたいか」と声をかけてくださり、従う私たちに、「あなたは良くなったのだ。私の光の中を歩きなさい」と導いて下さっているのです。

主イエスは、私達に「起き上がりなさい」と声をかけられた時の事を、私達に思い起こさせ、主イエスの復活の光の中に留まる様にと、今日も出会って御言葉を与えて下さり、信仰に生きる希望を与えて下さいます。

お祈りを致しましょう。

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主イエスの祈り

《賛美歌》

讃美歌7番
讃美歌166番
讃美歌338番

《聖書箇所》

旧約聖書  詩篇 40篇9-10節 (旧約聖書873ページ)

40:9 わたしの神よ、御旨を行うことをわたしは望み/あなたの教えを胸に刻み
40:10 大いなる集会で正しく良い知らせを伝え/決して唇を閉じません。主よ、あなたはそれをご存じです。

新約聖書  ヨハネによる福音書 17章1-13節 (新約聖書202ページ)

17:1 イエスはこれらのことを話してから、天を仰いで言われた。「父よ、時が来ました。あなたの子があなたの栄光を現すようになるために、子に栄光を与えてください。
17:2 あなたは子にすべての人を支配する権能をお与えになりました。そのために、子はあなたからゆだねられた人すべてに、永遠の命を与えることができるのです。
17:3 永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。
17:4 わたしは、行うようにとあなたが与えてくださった業を成し遂げて、地上であなたの栄光を現しました。
17:5 父よ、今、御前でわたしに栄光を与えてください。世界が造られる前に、わたしがみもとで持っていたあの栄光を。
17:6 世から選び出してわたしに与えてくださった人々に、わたしは御名を現しました。彼らはあなたのものでしたが、あなたはわたしに与えてくださいました。彼らは、御言葉を守りました。
17:7 わたしに与えてくださったものはみな、あなたからのものであることを、今、彼らは知っています。
17:8 なぜなら、わたしはあなたから受けた言葉を彼らに伝え、彼らはそれを受け入れて、わたしがみもとから出て来たことを本当に知り、あなたがわたしをお遣わしになったことを信じたからです。
17:9 彼らのためにお願いします。世のためではなく、わたしに与えてくださった人々のためにお願いします。彼らはあなたのものだからです。
17:10 わたしのものはすべてあなたのもの、あなたのものはわたしのものです。わたしは彼らによって栄光を受けました。
17:11 わたしは、もはや世にはいません。彼らは世に残りますが、わたしはみもとに参ります。聖なる父よ、わたしに与えてくださった御名によって彼らを守ってください。わたしたちのように、彼らも一つとなるためです。
17:12 わたしは彼らと一緒にいる間、あなたが与えてくださった御名によって彼らを守りました。わたしが保護したので、滅びの子のほかは、だれも滅びませんでした。聖書が実現するためです。
17:13 しかし、今、わたしはみもとに参ります。世にいる間に、これらのことを語るのは、わたしの喜びが彼らの内に満ちあふれるようになるためです。

《説教》『主イエスの祈り』

今日、与えられた御言葉はヨハネによる福音書17章です。主イエスが弟子たちに教え共に過ごしたガリラヤを出られ、過越祭のエルサレムに入られ、いよいよ十字架の受難を迎えられるのです。ヨハネ福音書には最後の晩餐の明確な場面はありませんが、弟子たちの足を洗われ、沢山の教えとご自身の受難予告をされました。そして、十字架に架けられるために逮捕され、連行される直前にされたのが今日の「主イエスの祈り」です。

聖書の中で主イエスの祈りが記録されている箇所は沢山ありますが、最も有名なのが「主の祈り」でしょう。

このヨハネ福音書17章に記された主イエスの祈りは、聖書に記されている中でも最も長い祈りです。この祈りはその内容から「大祭司の祈り」とも呼ばれています。神の御子である主イエスが父なる神に私たちのためにとりなしてくださっている祈りだからです。主イエスが何を考えられ、何を祈られたのかは興味深いことです。今日のこの主イエスの祈りは、1節から5節の「主イエスご自身のための祈り」と6節以降の「弟子たちのための祈り」の二つに分けられます。先ず1節には、「イエスはこれらのことを話してから、天を仰いで言われた。『父よ、時が来ました。あなたの子があなたの栄光を現すようになるために、子に栄光を与えてください。』とあります。

主イエスは祈られるとき、目を天に向けられました。私たちは祈りの時に、目を閉じ、手を合わせ、頭を垂れてお祈りします。それが祈りの姿勢として教えられているからです。しかし主イエスの祈りの姿勢は、目を開いて、目を天に向けて、声を出して祈られています。手を合わせたとも記されていません。ですからまったく私たちの祈りの姿勢と違います。聖書には祈りの姿勢についてほとんど記されていません。旧約聖書では人々がひれ伏して祈った姿や、主イエスや弟子たちがひざまずいて祈られたことが書かれています。祈りは心でするのですから、決まった姿勢はありません。心から神様に祈るなら、どんな格好であれ、どんな場所であれ、天の神様は聞いてくださる筈です。

主イエスの祈りの第一声は「父よ。」でした。それは子供が父親に話すときの飾らない呼びかけです。そして「時がきました。」と宣言されました。この言葉には主イエスの深い思いが込められています。「時」と訳されている言葉は「ホラ:w[ra」というギリシャ語で時刻、時間を表します。『とうとう時間がきました』、『ついにその時刻になりました』という思いが込められています。今まで宣教の働きを続けられてきた中で、主イエスは「時」ということを常に考えて行動されていました。「わたしの時はまだ来ていません」、「わたしの時はまだ満ちていません」と語られたお方が、「ついにその時になりました」とおっしゃっているのです。それは神様が創造されたこの世界の歴史の中で、「最も大いなる時」です。罪に汚れた世界から私たちを救い出すために、御子が十字架に架かり、贖いをなされる「時」がそこまで来ているのです。

世界の歴史がアダムからはじまり、アダムが罪に陥って以来、この世界は神様が望まれた世界とは違った方向に進んできました。この世界は罪が支配する世界となってしまったのです。その罪に満ちた世界の中に住み、罪に陥っている私たちを神様は憐れまれました。そして罪の世界から私たちを救い出そうとされて贖いの御計画を立てられたのです。ついに、その時が来たのです。人間が受けるべき罪の刑罰を罪の無いキリストが背負って死なれることにより、罪の赦しが与えられる時です。それは主イエスが父なる神のみもとへ帰還する時であり、人の子として栄光をお受けになる時です。ヨハネ福音書では繰り返し主イエスの時がまだ到来していないことが告げられてきました。今まさに主イエスの受難と栄光の時が到来したのです。主イエスは栄光を現して下さるよう父なる神に祈り求めます。主イエスの栄光と十字架は不可分なのです。主イエスの十字架の死を通して永遠の命が私たちにもたらされるのです。この永遠の命を与えられることにおいては父と子の栄光は完全に一致しているのです。父なる神は、御子が永遠の命を与えるための人々を御子に与え、そのすべてのものを支配する権威を与えられたのが、次の2節と3節で、「あなたは子にすべての人を支配する権能をお与えになりました。そのために、子はあなたからゆだねられた人すべてに、永遠の命を与えることができるのです。永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。」とあります。

主イエスはご自身のためには、ただ一つのことだけを父なる神に願っておられます。それは「栄光を与えてください」です。それは、もともと主エスが持っておられた栄光です。三位一体の神として栄光の中に住んでおられたお方が、天での栄光を捨てて父なる神の御心に従って人間イエスとしてこの世に下ってこられました。その目的は父なる神の栄光を現すためであり、私たちを罪のさばきから救い、永遠のいのちを与えるためでした。

イエス・キリストが天の栄光を捨てられるほど人間を愛しておられる、それは私たちの目には不思議なことです。これを理解するためには、皆さんが神様の立場になったときのことを考えてみてはどうでしょうか。

もし皆さんが神様で、全能者だったらどうするでしょうか。最高のおしゃれをし、最高の車に乗り、最高の家に住みます。何でも思いのままです。しかしだんだんとその虚しさに気付くのではないでしょうか。すべてのものを手に入れても、愛が無ければ虚しいものです。全能者であるなら、金も衣食住も、すべてのものを手に入れることができます。そこには感動や喜びは有るのでしょうか。全能者にとって何が喜びとなりえるのでしょうか。その答えは聖書にあります。新約聖書317ページ コリントの信徒への手紙第一13章13節には、「それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。」と記されています。

これは素晴らしい真理のことばです、最も大いなるものは愛だと教えているのです。

全能者には希望も信仰も必要ありません。すべて現実となるからです。残るのは愛だけです。そして事実、神様は聖書を通して、私たち人間を愛していると伝えておられます。新約聖書167ページヨハネによる福音書3章16節に、「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである」とはっきりと示されています。

全能者なる神様は私たちを愛しておられ、そして私たちが神様を愛することを願っておられるのです。

もし私が全能者であるなら、人間が崖から落ちそうになったときに手を差し伸べて助けあげるでしょう。人間が悩み苦しんでいるなら解決しようとするでしょう。しかし、決して自分が身代わりになって死の苦しみを味わおうとは思わないでしょう。自分が造ったもののために苦しむことなどありえないからです。しかし、主イエスはそれをしてくださったのです。ご自分の栄光を捨てて、人となられ、苦しまれ、実に十字架の死の苦しみまでも味わわれました。主イエスは私たちのため大いなる代償を支払ってくださったのです。主イエスの愛は私たちの想像をはるかに超えているのです。そして4節と5節には、「わたしは、行うようにとあなたが与えてくださった業を成し遂げて、地上であなたの栄光を現しました。父よ、今、御前でわたしに栄光を与えてください。世界が造られる前に、わたしがみもとで持っていたあの栄光を。」と祈られました。

地上での主イエスは数々の奇蹟をはじめ、なすべきわざをすべて行われました。語るべきことばをすべて弟子たちに語り終えられました。そして父なる神の御心を示し、ご自身の愛を示されました。この直後、捕えられ、十字架で殺されること、そして三日目によみがえられることもご存知で、その覚悟もできていました。主イエス御自身の御言葉から、十字架の受難はすでに終わったことのように話されています。主イエスの祈りは地上での役目を終えられて父なる神の身元に帰って、栄光の中に留まることでした。それが主イエスが、ご自身のために祈られた唯一のことでした。そして、この後からは、弟子たちのために、私たちのために祈られます。

6節にあるように主イエスは弟子たちを、父なる神によって主イエスに与えられた者と呼ばれます。また、このヨハネ福音書は信仰者をも父なる神によって主イエスに与えられた者たちと呼びます(6:37,39,10:29,17:2,6‐9,24,18:9)。この与えられた者たちに主イエスは父なる神を知らせ、御言葉を与えられました。彼らは主イエスの御言葉を受け入れ、主イエスが神のみもとから遣わされた方であることを信じました(17:8)。6節から10節で主イエスが祈られた「彼ら」とは、弟子たちだけではなく、9節の「わたしに与えてくださった人々」とあるように、キリストを信じる信仰者すべてであり、10節にあるようにその信仰者が主イエスを通して神に栄光を帰するのです。

成すべき御業を成し遂げ、語るべき御言葉をすべて語り終えたと主イエスは言われました。父なる神から受けた使命をすべて終えたという達成感のある言葉です。そして主イエスの働きを通して、弟子たちが主の御言葉を信じ、イエス・キリストが天から来られたことを理解し、そして永遠のいのちを持ち、神様の者となったことを感謝し祈られたのでした。

主イエスはご自分が十字架の贖いを成し終えて天に帰られることを知っておられました。従って、自分のすぐ後に続く福音宣教の働きを弟子たちに託され、そのために主イエスは弟子たちのために11節から13節で祈られました。これから使徒として彼らがどんな困難にも負けず、働いていくためでした。そして弟子たちの福音宣教を通して救われるクリスチャンたちのために同じ内容のことを祈られました。ですから、この主イエスの祈りは私たちのために祈られた祈りでもあるのです。

この主イエスの祈りと願いから、私たちが何を求めて祈ったらいいのか、そしてどのように信仰者として生きていったらよいのかを知ることができます。今、父なる神のみもとへ行かれようとしている主イエスが願われるのは、弟子たちをこの世から連れ出すことではありません。このすぐ後の15節にあるように、彼らがこの世にあって悪い者から守られることなのです。それは主イエスが弟子たちをやむを得ず世に残しておくのではなく、積極的に弟子たちを世に対して派遣しているからなのです。父なる神が御子イエスをこの世に派遣して御業を成し遂げさせたように、弟子たちをこの世に派遣するのが目的なのです。

世に遣わされる弟子たちのために、17節にあるように主イエスはまた彼らの聖別を祈られます。神が聖であるように彼らも聖であることが求められているのです。

クリスチャンたちが神の家族として仲睦まじく集う教会、互いに愛し合い、励まし合い、主にある豊かな恵みを分かち合う教会、そしてその中心にはイエス・キリストがおられ、心からの礼拝を共にささげる教会は、天国に最も近い場所だと言えるでしょう。

しかしながら、実際の教会には多くの問題があることも現実です。教会に集われる人々には、大人もいれば子供もおり、老人もいます。男性も女性もいて、育った環境や性格も趣味も違います。当然、習慣の違いや考え方の違いがあります。

信仰面では、聖書解釈が違ったり、伝道方針が違ったりもするでしょう。仲たがいがあり、躓いたりして、和やかに交わることができないときもあります。

自分の思い描く理想の教会との違いにつまずいてしまう人もいます。教会につまずくくらいなら教会に来ることをやめたいと思う人もいます。そのようなときには、主イエスが「御名によって彼らを守ってください」と祈られたことを思い出しましょう。

私たちは同じ信仰を持って生きています。同じ御霊をいただいています。同じ主イエスを信じています。主イエスを愛するように互いに愛し合おうとするなら多くの問題は必ず解決できる筈です。愛はすべての結びの帯であり、私たちが一つとなるために新しい戒めとして主イエスが与えられたのです。

その愛による執り成しの祈りを、主イエスは今も私たちのために祈ってくださっているのです。

お祈りを致しましょう。

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耐え忍ぶ者は救われる

《賛美歌》

讃美歌546番
讃美歌68番
讃美歌243番

《聖書箇所》

旧約聖書  詩篇 77編5-16節 (旧約聖書912ページ)

77:5 あなたはわたしのまぶたをつかんでおられます。心は騒ぎますが、わたしは語りません。
77:6 いにしえの日々をわたしは思います/とこしえに続く年月を。
77:7 夜、わたしの歌を心に思い続け/わたしの霊は悩んで問いかけます。
77:8 「主はとこしえに突き放し/再び喜び迎えてはくださらないのか。
77:9 主の慈しみは永遠に失われたのであろうか。約束は代々に断たれてしまったのであろうか。
77:10 神は憐れみを忘れ/怒って、同情を閉ざされたのであろうか。」〔セラ
77:11 わたしは言います。「いと高き神の右の御手は変わり/わたしは弱くされてしまった。」
77:12 わたしは主の御業を思い続け/いにしえに、あなたのなさった奇跡を思い続け
77:13 あなたの働きをひとつひとつ口ずさみながら/あなたの御業を思いめぐらします。
77:14 神よ、あなたの聖なる道を思えば/あなたのようにすぐれた神はあるでしょうか。
77:15 あなたは奇跡を行われる神/諸国の民の中に御力を示されました。
77:16 御腕をもって御自分の民を/ヤコブとヨセフの子らを贖われました。

新約聖書  マルコによる福音書 13章1-13節 (新約聖書88ページ)

◆神殿の崩壊を予告する

13:1 イエスが神殿の境内を出て行かれるとき、弟子の一人が言った。「先生、御覧ください。なんとすばらしい石、なんとすばらしい建物でしょう。」
13:2 イエスは言われた。「これらの大きな建物を見ているのか。一つの石もここで崩されずに他の石の上に残ることはない。」

◆終末の徴

13:3 イエスがオリーブ山で神殿の方を向いて座っておられると、ペトロ、ヤコブ、ヨハネ、アンデレが、ひそかに尋ねた。
13:4 「おっしゃってください。そのことはいつ起こるのですか。また、そのことがすべて実現するときには、どんな徴があるのですか。」
13:5 イエスは話し始められた。「人に惑わされないように気をつけなさい。
13:6 わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『わたしがそれだ』と言って、多くの人を惑わすだろう。
13:7 戦争の騒ぎや戦争のうわさを聞いても、慌ててはいけない。そういうことは起こるに決まっているが、まだ世の終わりではない。
13:8 民は民に、国は国に敵対して立ち上がり、方々に地震があり、飢饉が起こる。これらは産みの苦しみの始まりである。
13:9 あなたがたは自分のことに気をつけていなさい。あなたがたは地方法院に引き渡され、会堂で打ちたたかれる。また、わたしのために総督や王の前に立たされて、証しをすることになる。
13:10 しかし、まず、福音があらゆる民に宣べ伝えられねばならない。
13:11 引き渡され、連れて行かれるとき、何を言おうかと取り越し苦労をしてはならない。そのときには、教えられることを話せばよい。実は、話すのはあなたがたではなく、聖霊なのだ。
13:12 兄弟は兄弟を、父は子を死に追いやり、子は親に反抗して殺すだろう。
13:13 また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。」

《説教》『耐え忍ぶ者は救われる』

本日はマルコによる福音書第13章の御言葉が与えられました。私達の信仰生活は「最後まで耐え忍ぶ」歩みであると言うことが出来るでしょう。「最後」というのは、主なる神の救いの御支配が完成する時です。終わりの時、終末とも言われます。

聖書は、はっきりとこの世の最初、創造と、この世の終わり、終末を語ります。聖書の世界観は、すべてのことが繰り返されて行く輪廻転生的なものではなく、創造から終末に向かって一筋に進んで行く直線的なものなのです。

今日のマルコ福音書の13章は、この福音書において主イエスの教えをまとめて語っている最後の部分です。次の14章からは受難の物語に入っていきます。その直前のこの13章は「小黙示録」とも呼ばれます。「小さな黙示録」です。ということは「大きな黙示録」があるわけで、それが新約聖書の最後、「ヨハネの黙示録」です。そのヨハネの黙示録には、この世の終わりに起る様々な苦難に、主イエス・キリストが勝利し、そのご支配が完成し、主に従って生きた信仰者の救い、永遠の命が実現することが語られています。そのヨハネの黙示録と同じように、このマルコ13章にも、この世の終わりのことが語られているのです。しかもここでは主イエスご自身がそれを語っておられます。十字架につけられる直前に、主イエスは最後の教えとして、世の終わりのことをお語りになったのです。

今日は、この終末についてマルコ福音書から読み取っていきたいと思います。

13章始めには、この小黙示録がどのような経緯で語られたのかが示されています。1節に「イエスが神殿の境内を出て行かれるとき」とあります。主イエスは弟子たちと共にエルサレムに来られ、神殿に入り、その境内で人々に教えを語り、また律法学者たちと論争しておられました。そのことが11章以来語られてきたのです。そのような一日が終わり、夕方になって神殿の境内を出て行こうとした時に、弟子の一人が「先生、御覧ください。なんとすばらしい石、なんとすばらしい建物でしょう」と言ったのです。この弟子の言葉は正直な感想でした。当時のエルサレム神殿は、あのヘロデ大王が何十年もの歳月をかけて改築したまことに壮麗なものでした。現在、ユダヤ人が祈っている姿が時々報道されるいわゆる「嘆きの壁」というのは、このエルサレム神殿の僅かに残っている壁の一部です。当時の壁は現在のものよりもずっと高くそびえ立っていたのです。ガリラヤの田舎から出て来て初めてこの神殿を見た弟子たちが、その壮麗さに息を呑み、圧倒されたとしても不思議ではありません。けれども主イエスはこれに対して「これらの大きな建物を見ているのか。一つの石もここで崩されずに他の石の上に残ることはない」とおっしゃいました。この壮麗な神殿が徹底的に破壊される時が来るのだ、と主イエスはおっしゃったのです。実はこの神殿破壊は、主イエスが十字架に架かられて暫らく後の紀元70年に現実となりました。ローマ帝国によって、このエルサレム神殿は徹底的に破壊され、神殿の歴史は終ってしまうのです。そして神殿の中心部分があったと思われる場所には、今は「黄金の岩のドーム」と呼ばれるイスラム教のモスクが建っているのです。

主イエスは、数十年後に起るこの神殿の崩壊を予告なさったわけですが、私たちはこれを、主イエスには予知能力があったとか、時代の流れを見抜く敏感な感覚があった、というようなこととして捉えてしまってはなりません。そこにはもっと深い意味があります。その第一は、主イエスは、神殿の持っている問題性を見つめておられた、ということです。神殿とは、神様がそこでご自分の民と出会って下さり、そこへ行けば神様を礼拝することができる場所です。それはもともとは、イスラエルの民のただ中に主なる神様がいて下さる、神様が民と共に歩んで下さる、という恵みを覚えるための場所でした。ところがその意味が次第に逆転してしまって、神殿があるから、神は我々と共におられるのだ、神殿がある限り、我々には神の守りがあるのだ、と考えられるようになっていったのです。主イエスは先ず「これら大きな建物を見ているのか」と仰っているように、建物に目を向ける弟子の態度を問題にしているのです。目を見張るような神殿が建てられている事実をもって、ここに神がおられると考えていたことは、人間の宗教心が生み出す偶像礼拝であると言っても良いでしょう。そこには、神の居場所を人間が決めて、人間が好き勝手に神を所有するということが起こります。旧約聖書のエレミヤ書7章11節には「神殿を強盗の巣窟にしてる」といった厳しい表現で、神殿があるから大丈夫、というイスラエルの民の安易な思いへの警告が語られています。「我々には主の神殿がある、という虚しい言葉に依り頼んではならない。主に真実に従うことなしに、ただ神殿に依り頼んでもそれは虚しい。そのような神殿を主は滅ぼすだろう」と言われているのです。どのような立派な建物であっても、いや立派な建物であればある程、人間の思いが神に向かうのではなくてその建物に向かっていってしまう、神に信頼し、依り頼むのでなく、立派な建物を見つめてそれによって安心を得ようとする。主イエスはそういう思いを厳しく戒め、壮麗な神殿に頼ることの虚しさを教えておられるのです。これが、主イエスが語られた第一の意味です。

しかしさらにもっと深いことがこのみ言葉には込められています。主イエスは、神殿における礼拝そのものの終わりを見つめておられるのです。神殿は礼拝の場ですが、その礼拝は、動物の犠牲を献げることを中心としていました。動物の命を身代わりとして献げる礼拝によって、神に罪を赦していただき、神の民として歩み続けることができる、それが、イスラエルの民が神殿において行なってきた礼拝でした。しかし、神の独り子であられる主イエスが来られ、まもなくご自分の体を、私たちの罪の赦し、贖いのための完全な犠牲(いけにえ)として、十字架の上で献げて下さろうとしているのです。この主イエスの十字架の死によって、私たちの罪の赦し、贖いは完成し、動物の犠牲による贖いはその意味を失うのです。主イエスが来られたことによって、礼拝は、動物を献げることによってではなく、主イエスによる救いを宣べ伝えるみ言葉を聞き、主イエスとの交わりを与えられることによってこそ成り立つようになったのです。神殿崩壊の予告は、神殿における礼拝の終わり、神殿はもはや礼拝のためには不要となった、ということを語っておられるのです。私たち人間の偶像、神殿は、永遠のものではない、それ故、必ず崩れるものなのです。

3節以下で、弟子のペトロ、ヤコブ、ヨハネ、アンデレが、ひそかに主イエスに尋ねます。「おっしゃってください。そのことはいつ起こるのですか。また、そのことがすべて実現するときには、どんな徴があるのですか」。神殿の崩壊についての話題の後に、弟子たちは世の終わりのことについて尋ねました。弟子たちが語る「そのこと」と言うのは、「神殿の崩壊」のことであると共に、世の終わり、終末のことです。弟子たちは、神殿の崩壊と世の終わりを結びつけたのです。これだけ大きく荘厳な神殿、神が住みたもう家が崩壊するというのであれば、それこそ、その時は世の終わりであるにちがいないという思いをもったのです。大災害や世界大戦のようなものが起こることによって破滅が訪れて、世界は終わるというイメージをもつということは私たちにもあることです。弟子たちは、今、目の前にそびえ立つ、立派な神殿が崩壊するということを聞き、そのような世の終わりがいつ来るのかを知ろうとしたのです。

終末のしるし、終末の時を聞き出そうとした弟子たちに主イエスは話し始められます。「人に惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『わたしがそれだ』と言って、多くの人を惑わすだろう」。多くの偽預言者が登場するというのです。さらに続けて、主イエスは、私たちが世の終わりであると思いがちな事態をお語りになっています。「戦争の騒ぎや戦争のうわさを聞いても、慌ててはいけない。そういうことは起こるに決まっているが、まだ世の終わりではない。民は民に、国は国に敵対して立ち上がり、方々に地震があり、飢饉が起こる」。更に、12節では次のように言われています。「兄弟は兄弟を、父は子を死に追いやり、子は親に反抗して 殺すだろう」。ここで語られていることは、誰しも目を覆いたくなるような事態です。しかし、一方で、ここで語られていることは、私たちが今、現在、直面していることであると言ってよいのではないでしょうか。世界を見渡せば戦争や内戦があります。テロの恐怖も増しています。まさに、国、民の間に争いがあるのです。さらに、「地震」「飢饉」と言われている自然災害も、私たちに身近なことです。ここ最近、地球は災害に見舞われていると言って良いでしょう。日本においても、いくつかの大きな地震が起こりました。世界では、サイクロンや山火事、異常気象等、年々深刻になる環境破壊による災害が生じています。人間の、とどまることを知らない豊かさの追求が、際限なく石油を燃やし、畑にするための土地を求めて熱帯雨林を焼き払うことによって、膨大な二酸化炭素が放出されて、地球温暖化が進んでいるのです。人間の身勝手な行いは、地球に壊滅的なダメージを与えていて、この地球は、後どれだけ私たちが住むことが出来る場所として保たれるかということすら心配される状況ではないでしょうか。又、兄弟、親子の間の殺人事件も、たびたび報道されています。現代人の精神的荒廃を思わずにはいられません。ここで主イエスがお語りになっていることは、これから将来にわたって起こるであろうことと言うよりも、これまでの人間の歴史において、そして、今私たちが生きている現在において起こっていることなのです。主イエスが二千年前に預言されたことが今起こっていると考えることもできます。主イエスは、私たちがどのような時代を生きるかに関わらず直面する世の現実をお語りになっているのです。主イエスは、私たちが、世の終わりと思ってしまうような事態をお語りになった上で、「そういうことは起こるに決まっているが、まだ世の終わりではない」と仰るのです。

9節以下に、「あなたがたは自分のことに気をつけていなさい」とあります。様々な噂が流れ、預言者まがいの者が現れます。しかし、そこで、それらに惑わされるのではなく自分のことに気をつけろと言われるのです。何に気をつけるのでしょうか。それは、自分がしっかりと、主なる神の救いの希望に生かされているか、主なる神の恵みを見失うことなく歩んでいるかということです。

主イエスは、終わりの時がいつ来るのか、その時期を知りたいという弟子たちの願いに答えることを拒まれたのです。弟子たちは、そして私たちも、終わりの時がいつ来るのかを知って、それに応じて自分の計画を立てたいと考えます。

主イエスは11節でこのように約束して下さっています。「引き渡され、連れて行かれるとき、何を言おうかと取り越し苦労をしてはならない。そのときには、教えられることを話せばよい。実は、話すのはあなたがたではなく、聖霊なのだ」。聖霊はこのように働いて下さるのです。私たちは自分の力で、迫害に負けずに信仰を貫き、どんな時でも主イエスを証ししていくなどという力を持っていません。それを私たちにさせて下さるのは聖霊なのです。聖霊は、様々な苦しみの中にいる私たちに、その苦しみを経て世の終わりに実現する神様の救いを見つめさせて下さるのです。その聖霊の働きによって私たちは、苦しみの中で耐え忍んで信仰を守ることができ、そして主イエスを証ししていく言葉を与えられるのです。

キリスト教信仰のゆえに迫害を受けたこと自体が人類の長い歴史上で信仰の証しの機会となっているのです。その厳しい迫害の中でも、主イエス・キリストを証ししていくことによって、10節の、「しかし、まず、福音があらゆる民に宣べ伝えられねばならない」という神の御心が実現していくのです。

祈りつつ、御言葉に立って歩みを続けることこそ、私たちの信仰生活なのです。

世の終わりは既に来ているのです。その現実の中で、私たちは、ただひたすら祈りつつ、御言葉に立つのです。主イエスがお語りになり、十字架と復活によって示して下さった救いの約束の御言葉に立つのです。聖霊の働きに身を委ねつつ、真の平和を作り出す歩みをしていくのです。それは私たちにとって、忍耐を強いるものです。神様の言葉より人の言葉に聞くことが多く、真の御言葉に聞くよりも、様々なものを偶像とし、それを拝むことによって安心しようとするのが私たち人間だからです。

そのような私たちに主イエス・キリストが、「しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる」 と語って下さっているのです。この御言葉に促されて、私たちは、神様がなして下さる救いを見失わずに、この世で、真の救いの御支配を待つ希望に満ちた日々を歩み続ける者となるのです。

お祈りを致します。

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高慢な者は低くされる

《賛美歌》

讃美歌8番
讃美歌138番
讃美歌448番

《聖書箇所》

旧約聖書  箴言 30篇11-14節 (旧約聖書1,031ページ)

30:11 父を呪い、母を祝福しない世代
30:12 自分を清いものと見なし/自分の汚物を洗い落とさぬ世代
30:13 目つきは高慢で、まなざしの驕った世代
30:14 歯は剣、牙は刃物の世代/それは貧しい人を食らい尽くして土地を奪い/乏しい人を食らい尽くして命を奪う。

新約聖書  ルカによる福音書 18章9-14節 (新約聖書144ページ)

18:9 自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対しても、イエスは次のたとえを話された。
18:10 「二人の人が祈るために神殿に上った。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人だった。
18:11 ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。『神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。
18:12 わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。』
18:13 ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』
18:14 言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」

《説教》『高慢な者は低くされる』

皆さん、今日は教会学校との合同礼拝です。私は、この成宗教会に4月に赴任しましたが、新型コロナウィルス感染症の流行で、4月と5月の2ヶ月間は集会自粛で主日礼拝はお休み状態で、やっと6月から主日礼拝を再開しました。

この教会学校合同礼拝も私には初めてで、教会学校CSもずっと休んでいたので、CS生徒さんとは、ほぼ初顔合わせです。

そんな中での説教となりました。今日の聖書箇所の要点は18章9節にあります、「自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々」に対してイエス様がたとえ話としてお話しになりました。

結論としてイエス様がおっしゃったのは最後の14節の「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」ということです。聖書記者のルカはイエス様のお語りになったこの結論の意味をよりはっきりさせようとして、「高ぶる者」とは、「自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々」のことだ、という説明を、たとえ話の前に置いたのです。

イエス様がこのたとえによって問題としておられるのは、「自分」のことをどのように見るかということ、つまり「自己評価」の問題なのです。自分を高くする、高く評価することと、低くする、低く評価することとが、ファリサイ派の人と徴税人の祈りの違いによってあざやかに描き出されているのです。

ここでファリサイ派とは、イエス様の時代のユダヤで、神様の掟、律法を特に厳格に守り、正しく生活を送っていた人々であって、その点で一般の人々とは違う、と自他共に自分は正しいと認めていた人々のことです。このファリサイ派の人々こそ、神様のみ前に出て祈るのに最も相応しいと誰もが思っていたのです。

それに対して徴税人とは、その正反対で、神の民であるユダヤ人でありながら、異邦人であるローマに納める税金をユダヤ人から徴収し、それによって私腹を肥しているとんでもない裏切り者であり、当時のユダヤ人にとっては仇とも言える罪人の代表でした。

この二人の祈りはまことに対照的と言えるものでした。

このファリサイ派の人は神様に感謝の祈りをささげています。その感謝の祈りの内容は、11節にあるように心の中で『ほかの人たちのように奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないこと』ということでした。この世には様々な悪人たちがいるが、自分はそういう悪人達とは違う、特に、すぐそばにいるあの徴税人のようにユダヤ人の誰からも嫌われている罪人とは全く違う生き方ができていることを、このファリサイ派の人は神様に感謝しているのです。

そして、このファリサイ派の人はさらに、自分が神様をどのように信仰しているか、そしてどのように奉仕をしているかを12節から語ります。『わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています』と心の中で祈ります。当時の一般のユダヤ人に求められていたのは、年に何度かの断食でしたから、ここで彼のいう週に二度というのは、普通のユダヤの人々よりもはるかに多く断食をしているということです。また『全収入の十分の一を献げている』というのも、やはりユダヤ人の律法により作物や生まれた家畜の十分の一を献げることが定められていましたが、『全収入の十分の一』というのは、はるかに徹底した献げ方です。

このように、このファリサイ派の人は他の一般的なユダヤの人々が真似をすることができないような素晴らしい信仰的行いをしていると、祈っているのです。

もう一方の徴税人の祈りは13節の、『神様、罪人のわたしを憐れんでください』の一言だけでした。しかもこの徴税人は「遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら」祈ったのです。「遠くに立って」というのは、先のファリサイ派の人はおそらく神殿の正面のごく近い所で祈ったのだと思われるのに対して、徴税人は神殿の正面から遠く離れた隅の方で、祈ったということです。彼は神殿の隅っこの方で、しかも「目を天に上げようともせず」に祈ったのです。目を、つまり顔を天に上げて祈ることがユダヤ人の普通の祈りの姿で、祈りの姿勢なのです。ファリサイ派の人はまさにまっすぐに天を仰いで祈ったことでしょう。しかしこの徴税人は顔を上げることができない、神様に顔向けできない思いで祈ったのです。また「胸を打ちながら」というのは、嘆き悲しみや悔いを表すしぐさです。徴税人は、自分が神様にとうてい顔向けできない罪人であることを嘆き悲しみつつ、「神様、罪人のわたしを憐れんでください」と祈ったのです。

このファリサイ派の人と徴税人の二人の対照的な祈りの言葉を語った上でイエス様は、「言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない」とおっしゃいました。「義とされる」というのは、「義なる者、正しい者と見なされる」ということです。人を義であると認めることができるのは神様のみです。あの徴税人が神様によって正しい者とみなされて家に帰ったのです。彼の祈りは聞き届けられたのです。

祈り願った罪の赦しが与えられ、神様との関係が回復されたのです。一言で言えば彼は救われたのです。

それに対して、ファリサイ派の人は義とされませんでした、神様によって義なる者と見なされなかったのです。人々の目から見たら、このファリサイ派の人こそ正しい人、義である人と思われていたでしょうし、自分自身でもそう思っていたのですが、神様は彼を正しい者と認めて下さらなかったのです。

つづいて14節でイエス様は、「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」という御言葉でその理由を示しています。自分を高く評価する者は神様によって低くしか評価されなく、一方で自分自身を低く評価するへりくだった者は神様によって高く評価される、ということをイエス様は語っています。

ファリサイ派の人は、自分は周囲の罪人たちとは違い、神様にしっかり仕えている正しい者だ、と自分自身を高く評価したのです。しかし神様はそのファリサイ派の人を低く評価され、罪人と宣告されました。

それに対して徴税人は自分自身を低く評価しました。自分は神様のみ前に出るに値しない罪人だ、と評価したのです。そういう彼を神様は高く評価して下さり、罪を赦して義と認めて下さったのです。

ここに語られているのは、自分自身が信仰深く神様に仕えていることを自分が高く評価するのでなく、むしろ自分の罪を認め、ヘリ下って神様の赦しを求める者を、神様はそういう謙遜な者をこそ高く評価して下さるのです。

しかし、ここまででは、余りに簡単で中途半端ではないでしょうか。もう一度、この二人の祈りの言葉を思い出してみましょう。

ファリサイ派の人は神様に感謝していますが、その感謝は「ほかの人たち」との比較です。「奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者」たちがいる、そういう人々に対して自分の優位性を誇っています。加えて、そばにいる「徴税人のような者でもない」と、彼の感謝は、それら他の人々と自分とを見比べて自分が優れているとの感謝です。自分はどんな信仰生活をし、どのように神様に仕え、どれだけ献金をしているか。その思いは、自分自身にばかり向けられている人間としての思いではないでしょうか。神様の思いには至っていないのです。

それに対して徴税人の祈りは、神様のみに向けられていると言えます。13節にあるように、徴税人が「罪人のわたしを」と言っているのは、周囲にいる他の人々と自分とを見比べてはいません。徴税人は目の前で祈っているファリサイ派の人のように立派な信仰生活は送れません、罪を犯してばかりで、自分は駄目な人間です、などと祈っているのではないのです。徴税人は、ただひたすら神様のみに向かい合っているのです。罪の赦しを神様に願い求めて祈っているのです。まさに神様に向かい、神様に向けられた祈りです。

神様は徴税人のその祈りに応えて下さり、彼を義として下さったのです。彼が義とされて家に帰ることができたのは、自分を低くする謙遜な祈りをしたからだけではありません。

神様のみを見つめ、本当に神様に向かって祈ったことに、神様が応えて下さったのです。

一方のファリサイ派の人も、自分を人と比較して高慢に思い上がった祈りをしたからかえって低くされてしまっただけではありません。ファリサイ派の人は、神様に向かっていないと言えるんではないでしょうか。他の人々と自分を見比べて、自分の正しさや立派さを確認して喜び、その喜びを独り言のように祈っているのに過ぎないのです。そこには神様に対するへりくだった思いがありません。神様との交わりが成り立っていないと思われます。

つまりこの二人の違いは、神様の前に立っているか、それとも他の人と自分とを見比べて自分の思いの上に立っているか、ということです。

このことが、「自分を高く評価するか低く評価するか」という違いを生んでいるのです。自分を他の人と比較する中で私たちが求めるのは、自分を少しでも高く評価することです。他の人からも高く評価されたいし、自分でも自分自身を高く評価したいのです。それは様々な仕方でなされます。

このファリサイ派の人の祈りの言葉はまことに高慢な鼻持ちならないものですが、しかしある意味で無邪気な、単純なあり方だとも言えます。私たちも、徴税人だった筈の自分自身がいつのまにかファリサイ派の人のようになってしまうことがよくあるのではないでしょうか。

大切なことは、神様のみ前に本当に立つということです。神様のみ前に本当に立ったなら、私たちはもはや人と自分とを見比べていることなどできません。神様のみ前では、「あの人よりは自分の方がましだ」と自己弁護をすることも、「あの人がこうだったから」と人のせいにすることや、話を人のことにすり替えることもできません。神様は私たち一人ひとりに対して、「人はどうであれ、あなたは、私を信じ従うのか、それとも拒むのか」と問われるのです。その神様の問いの前に立つ時、私たちは誰もが、この徴税人と同じように、遠くに立ち、目を天に上げることもできず、胸を打ちながら「神様、罪人のわたしをおゆるしください」と祈り願うしかないのです。

神様の前に砕かれ、ヘリ下るしかないのです。

それでは、お祈りをいたします。

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あなたはキリストの手紙

《賛美歌》

讃美歌461番
讃美歌515番
讃美歌525番

《聖書箇所》

旧約聖書  エレミア書 31章31-34節 (旧約聖書1,237ページ)

31:31 見よ、わたしがイスラエルの家、ユダの家と新しい契約を結ぶ日が来る、と主は言われる。
31:32 この契約は、かつてわたしが彼らの先祖の手を取ってエジプトの地から導き出したときに結んだものではない。わたしが彼らの主人であったにもかかわらず、彼らはこの契約を破った、と主は言われる。
31:33 しかし、来るべき日に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこれである、と主は言われる。すなわち、わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。
31:34 そのとき、人々は隣人どうし、兄弟どうし、「主を知れ」と言って教えることはない。彼らはすべて、小さい者も大きい者もわたしを知るからである、と主は言われる。わたしは彼らの悪を赦し、再び彼らの罪に心を留めることはない。

新約聖書  コリントの信徒への手紙 二 3章1-6節 (新約聖書327ページ)

3:1 わたしたちは、またもや自分を推薦し始めているのでしょうか。それとも、ある人々のように、あなたがたへの推薦状、あるいはあなたがたからの推薦状が、わたしたちに必要なのでしょうか。
3:2 わたしたちの推薦状は、あなたがた自身です。それは、わたしたちの心に書かれており、すべての人々から知られ、読まれています。
3:3 あなたがたは、キリストがわたしたちを用いてお書きになった手紙として公にされています。墨ではなく生ける神の霊によって、石の板ではなく人の心の板に、書きつけられた手紙です。
3:4 わたしたちは、キリストによってこのような確信を神の前で抱いています。
3:5 もちろん、独りで何かできるなどと思う資格が、自分にあるということではありません。わたしたちの資格は神から与えられたものです。
3:6 神はわたしたちに、新しい契約に仕える資格、文字ではなく霊に仕える資格を与えてくださいました。文字は殺しますが、霊は生かします。

《説教》『あなたはキリストの手紙』

コリントの町は古代ギリシアの都市でしたが、ローマ帝国に反抗したために、紀元前146年にローマ軍によって徹底的に破壊され、その場所は廃墟になっていました。しかし約100年後、ユリウス・カエサルによってローマ帝国の植民都市として再建され、主イエスの時代にはローマ帝国のアカイア州の総督府が置かれるようになりました。古代地中海世界の多くの主要都市と同じように、そこにはかなりのユダヤ人が住んでいました。パウロはいつものようにこれらの人々の間で宣教を始めたのでした。

コリントの信徒への手紙第二では、コリント教会共同体の内部生活やパウロとの関係について多く取り上げられているので、他のどの手紙よりもパウロ自身について多くを知ることができます。コリントの教会は罪を犯すことがない聖人の集まりではなく、救いにあずかり、信仰について考える過程の只中にある、罪人の集まりであったと言えましょう。パウロは紀元55年前後にコリント教会の混乱を収めるためコリントの信徒への手紙第一を執筆しました。その手紙で、コリント教会の混乱が収まったかどうかは明確には分かりませんが、パウロは再びコリント教会に問題が起きたとの情報をエフェソで得て、解決のためコリントに赴きましたが、結果は不調に終りました。エフェソに帰ったパウロは2章4節にあるように「涙ながらに」コリント教会に書簡を書き、弟子のテトスに託しました。

エフェソでの働きを終り、パウロはトロアスに移動しました。トロアスは伝道有望地でしたが、パウロはコリント教会の成行きを案じてマケドニヤへ渡り、そこで、コリントから帰ったテトスに会い、コリント教会の悔い改めを聞きました。この朗報に接してマケドニヤから書いたのが、このコリントの信徒への手紙第二でした。つまり、第一コリント執筆後1~2年後の紀元56年から57年頃に、この手紙は書かれたと思われます。

今日の3章1節から、パウロは、「新しい契約」に仕える使徒として任じられた証拠を自分は持っていると論じ始めます。パウロは「わたしたちは、またもや自分を推薦し始めているのでしょうか。」と書き始めています。ここに「またもや」という言葉が使われていますが、この手紙によると、パウロはコリント教会の人々から自己推薦をしていると誤解して受け取られていたようです。

この時代には、推薦状がしきりに書かれていました。ここで、「ある人々のように、あなたがたへの推薦状、あるいはあなたがたからの推薦状が、私たちに必要なのでしょうか。」とあるように、コリントの教会にも推薦状が送られていたようですし、またコリントの教会の人も誰かを推薦し推薦状を書いていたということが分かります。このように、コリントの教会では、来会者を判断するために推薦状を受け取ることが当たり前になっていたようです。

パウロが言わんとしているのは、「自分には誇れることはない、むしろ弱さばかりある。しかし、神様が、そのような宣べ伝えるに相応しくない自分を、宣べ伝える者として召して下さったから、今あなた方に宣べ伝えているのです。」ということです。パウロが弱さを誇るのは、自分は自己推薦できる者ではなく、そして他者から推薦されるに相応しくないことを示したいからです。パウロは自分を自己推薦するのではなく、ただ神様が推薦してくださっているということを、コリントの人々に伝えたかったのでした。ここで、パウロはこの神様の推薦があることを明らかにしようと試みます。それが2節の、「わたしたちの推薦状は、あなたがた自身です。」というこの不思議な言葉です。これは、読む人にとっては意外な言葉です。推薦状とは、他者か、または自分が書いた書類である筈です。しかし、パウロは書類ではなく、人が自分の推薦状であると言うのです。そして、それがコリントの人々であると言っています。「自分は、あなたがたに対して、イエス・キリストの福音を宣べ伝えた。それをあなたがたが受け入れた。そしてあなたがたは救われて、主イエスを信じるようになって、信仰生活を送っている。それがわたしの推薦状になっている」と言っているのです。パウロは、人に信仰を与え、その人を信仰者として生み出してくださるのは、神様であると確信していました。信仰者もまた「信仰は父なる神が与えてくださる」ということ、すべては神様の働きであるということを知るようになります。だから、「あなたがたは神から与えられた私の推薦状なのだ」とコリントの人々に訴えるのです。

この後半で「それは、わたしたちの心に書かれており、すべての人々から知られ、読まれています。」とあります。「パウロの推薦状は、コリントの人々自身である」ということが「パウロの心に書かれており」、その事柄は、すべての人々に知られているということなのです。そして3節には、「あなたがたは、キリストがわたしたちを用いてお書きになった手紙として公にされています。墨ではなく生ける神の霊によって、石の板ではなく人の心の板に、書きつけられた手紙です。」と、今度は、「あなたがたはキリストの手紙」であるということを語り始めます。パウロがまだ推薦状のことを語りたいのならば、ここを「手紙」とは書かずに「キリストがわたしたちを用いてお書きになった“推薦状”」と書いたのではないでしょうか。ここでは、「推薦状」と書かずに「手紙」と言い換えているのです。ここからは自分の推薦の話ではなくて、コリントの人々に対して、あなたたちは「キリストによって書かれた手紙である」ということを伝えたかったからなのです。

どういう意味でキリストの手紙なのでしょうか。それは、ここに「キリストがわたしたちを用いてお書きになった」と書かれていることから、この手紙は、主イエスご自身によって書かれた手紙であり、その内容は主イエスが仰りたいことであるということが分かります。

主イエスが人々にお伝えになりたいことというのは、「喜びの知らせ」すなわち「福音」です。主イエスによって罪を贖われ、罪を赦され、復活を信じることができ、永遠の命を与えられることを信じることができる。そして本当に父なる神が、どうしようもない私たちを見捨てず愛してくださって死ですべてを終わりになさらず、復活し新しい命が与えられて、神の国に入らせ、そして父なる神の家に住まわせてくださることを約束して下さっているということをお伝えになりたいのです。そのお伝えになりたいことを主イエスは、手紙として書いているのです。その救いと愛と希望の喜びの知らせを、主イエスは私たちに書き記しておられるのです。

どのようにして、私たちに書き記されているのか、それは信仰によってです。ここに「墨によってではなく、神の霊によって、書きつけられた」とあります。私たちは、その喜びの知らせを信じる信仰を与えられた時に同時に神の霊、聖霊を与えられます。信仰を与えられたその時に私たちは、聖霊なる神によって、その喜びの知らせを刻まれるのです。パウロは永遠に消えることのない神の霊によって、信仰と喜びの知らせが刻まれているということを伝えたかったのです。

どこにそれが刻まれるのか、それは後半に「石の板ではなく、心の板に、書きつけられている」とあります。石の板ということで、私たちが思い出すのは、モーセが神様から与えられた十戒が記された石の板、すなわち律法ではないでしょうか。パウロは、石の板である律法ではなくて、主イエスに与えられている喜びの知らせである福音が私たちの心に書きつけられているのだと言っているのです。私たちは律法によって、自分たちの罪を知りますが、律法によってでは、救われませせん。律法によって私たちが自覚させられる罪を、主イエスが十字架の死の犠牲によって代わりに背負って、贖ってくださって、救ってくださったのです。その救いの喜びの知らせ、「福音」が私たちの心に刻まれるということを、パウロは4節で強調しているのです。

パウロは、この救いの喜びの知らせ、福音に確信を持っていました。

そして、パウロは続く5節で神様に与えられた「資格」について語ります。「もちろん、独りで何かできるなどと思う資格が、自分にあるということではありません。わたしたちの資格は神から与えられたものです。」

パウロがここで述べている「資格」というのは、伝道者としての資格のことです。そのような伝道者としての「資格」は、自分にはないということを、ここで述べています。「独りでなにかできると思う」と書いていますが、ここは原文に沿って訳すと、「わたしたち自身は、何か考えたり主張したりするには相応しい者ではない」ということです。

これは、パウロのコリントの教会に対しての忠告であり、願いでもあったのでしょう。または彼らに御言葉を語ることの権利や資格は「そもそも自分にない」というへりくだりとも言えましょう。

ここでは、パウロが自分だけのことを言っているのではないことに気付かされます。

「わたしたちには、その資格がない」と「わたしたち」と言っているのです。つまり、パウロにだけ伝道者としての資格がないのではなく、誰一人として、伝道者になる資格を持ち合わせていないと言っているのです。

私たちは本来、神様の救いに与る資格や神の子とされる資格も資質もありません。しかし、その資格もただ主イエスによって、ふさわしく無い自分が赦され、救いに与る資格が与えられ、神の子とされる資格が与えられたのです。それは最後の6節を読むと分かります。「神はわたしたちに、新しい契約に仕える資格、文字ではなく霊に仕える資格を与えてくださいました。文字は殺しますが、霊は生かします。」とあります。

ここの「新しい契約」とは、主イエスが十字架上で流された血によって結ばれた契約のことです。神様と人との契約です。創世記のアダムとエバ以来失われた神様との関係を主イエスがその犠牲によって修復して下さったことにより神様の前に立つことができ、神様と共に生きることができ、神様とつながって永遠の命に与ることができるようになるという、神様の一方的な約束です。そして、この「新しい契約」というのは、主イエスがお生まれになる600年も昔の時代に預言者エレミヤを通して神様から与えられた約束でした。それは、先程お読み頂いた旧約聖書エレミア書に書かれていた言葉です。

ここの「霊に仕える」というのは、聖霊なる神にすべてを委ねるということです。パウロは、ここで「文字に仕えるのではなく、聖霊なる神に仕える」と言っています。

ところが、ユダヤ人たちは、「神の民」とされているということや「新しい契約」をいつの間にか忘れ、律法に書かれている掟を守れる者が「神の民」であり、「神の民にふさわしい者である」と考えるようになっていました。そして、律法を、絶対視するようになり、文字に書かれた律法の「行い」に違反する者を裁く者になっていました。

パウロは、そのような「文字」に仕えるのではなく、「聖霊」に仕えると言っています。また聖霊に仕える資格を神様から与えられたと言っているのです。「文字に仕える」というのは、文字で書かれた律法の「行い」に従い、自分自身を評価し、また他者をも評価し裁くことです。そして、その律法と自らの「行い」で自分を変えたり、その律法の力と自分の力とで他者をも変えようとすることです。「霊に仕える」とは、ただ一方的な愛ゆえに赦し選び救いだしてくださった神様の霊によって、自分自身を判断し、他者を見ること、そして、自分の力で自分を変えようとせず聖霊なる神によって変えられること、また隣人も同様に聖霊なる神によって変えられていくことです。

今、私たちは礼拝に集い、神様の前に立つ資格を与えられています。本当は、私たちは誰一人として神様の前に立つことのできる資格を有していません。私たちの中で、生まれながらに穢れ無く、聖なる者、義なる者は居るでしょうか。一人も居ません。誰一人として神の御前に本来は立ち得ないのです。

そんな私たちが、神様の前に立ち、御言葉を聞くことができるのは、神様の一方的な赦しがあり、義なる者として、認めてくださっているからなのです。

罪ある者、穢れある者が、ここに居ることができるのは、4節でパウロが「キリストによってこのような確信を神の前で抱いています」と言っているように、それは一方的な神様の愛である「キリストによって」なのです。主イエスによってということです。私たちは、神様の前に立つことが赦されています。神の子であることが赦されています。それはただ主イエス・キリストの十字架の犠牲によってのみで与えられているのです。その結果、私たちには、聖霊なる神に仕える資格が与えられています。この素晴らしい神様の愛を一人でも多くの人たちに伝え、共に豊かな愛の中を生きようではありませんか。

特に自分が大切であると思う人にこそ、この素晴らしい豊かな神様の愛を伝え、その愛の中に居て欲しいと思うのが私たちの素直な気持ちではないでしょうか。ですから私たち自身が「キリストの手紙」となり、すべてを神様に委ね、自分の生きる姿こそが福音を伝えるものとなりますよう祈りつつ歩んでまいりましょう。

お祈りを致します。

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