2020年3月号

「知恵と知識の宝はすべて、キリストの内に隠れています。」

新約聖書、コロサイ2章3節

このお便りは、なりむね教会からのメッセージです。キリスト教会は神様の愛について学び、伝えます。子供さんも大人の方も、読んでいただければ幸いです。


焦 凝先生のお話

(2019年12月15日になされたものです。)

聖書:マタイによる福音書1章18-25節

先ほど読んだ聖書の中では、ヨセフが悩みを抱えていたところ、神様が天使を通して、ヨセフに話かけてきました。このようの場面は旧約聖書にもしばしばありました。皆さんもご一緒に考えてみてください。ノアが方舟を作る前に、世の中の人たちが堕落して悩んだ時も、アブラハムが子供を授けられなかった時も、モーセがイスラエルの人を連れて荒野の大地で迷っていた時も、神様が天使を使って、または直線にその悩みの人に話かけていた。

人間が、悩むとき、困難なとき、神様が人にこうしてほしいとのときにこのような場面が聖書の中で何回も出てきます。

聖書の構成として、旧約聖書と新約聖書があります。今日の聖書箇所は新約聖書の内容になります。新約の最初では、4つの福音書があります。福音という言葉は、「福」と「音」の2文字で構成されています。その「音」を聞くと幸せになるという意味があります。

ここでいう「音」というのは、つまり神様が私たちに語られたメッセージということです。

このメッセージの内容は、イエスキリストが世に来られたことは私たち人間を罪から救ってこられることです。メッセージの内容について、皆さんは教会学校に来て、何回も耳にしたことがあるかと思います。

神様は聖書の中に登場するえらい人たちだけではなく、聖書を通して、牧師先生や教会学校の先生たちを通して、私たちのような普通の人たちにもお話をかけています。

それは、私たちのような普通の人間も聖書の中に登場するえらい人たちと同じように悩んで、答えを見つからないからです。

では、私たち人間はどのような時で悩んだり、困ったりするでしょうか。例えば、テストで点数がクラスの友達より悪く、親に叱られるから点数を見せられないとき、兄弟とケンガにして相手にムカ付いたとき、家族が病気で亡くなった悲しいとき、などなど悩みの種類が様々であります。

悩みの根本的な理由を考えるときに、私たち人間の先祖であるアダムとエバが罪を犯していたから、私たち人間が、神様が一番最初に神様の様式で設計して作られた時のような完全な人間でなくなっていたことが悩みの原点だと思います。そこで神様が私のために救済措置を用意していました。

イエス様が今日の聖書箇所の物語の後でお生まれになりますが、イエス様ご自身こそが、神様が私たちに用意した救済措置でした。

たとえ私たちがどんなに小さい人間でも、神様は私たちのことを忘れてはいません。今日の箇所では天使がイエス様のことを、後に世の人からインマヌエルと言われることを預言しています。インマヌエルという言葉は、「神様が我々と共にいる」という意味です。

イエス様が世に来られることは、つまり神様が私たちを見捨てていない、忘れていないこと、私たちと共にいることを証明したことになります。

私は、深センという町で初めてインマヌエルという言葉を初めて知りました。仕事の出張で深センに訪れていたとき、その日曜日に深センの町にある教会で礼拝をしました。その教会の中で中国語のインマヌエル「以马内利」を書いていました。また、その教会の方に話かけられ、別れの時に、私の肩を叩いて、「インマヌエル」と言われました。

深センは中国の中で四大都市の一つと知られています。中国近代の経済発展の中で、最も成長スピードが速く、裕福な町として知られています。皆さんのおうちの家電製品が深センで造られたかもしれません。そんな裕福な町の人でも、いいえ、この裕福な町の人こそ、悩みが多いのです。

皆さんも大きくなったら、悩みが増えると思います。悩むときに、私たちが悪いわけでもなく、神様が悪いでもなく、悪魔が悪いです。皆様が悩むときに、神様が直接話しかけるかどうかは私にはわかりません。でも、神様の言葉が直接聞こえなくても、神様は私たちのことを忘れてはいません。イエス様による御救い、インマヌエルという神様の福音は確かなことであるからです。このことを、ぜひ覚えていてください。

3月の御言葉

イエスは、「人間にはできないことも、神にはできる」と言われた。

ルカによる福音書18章27節

3月の教会学校礼拝

(毎週日曜日、朝9時15分~9時45分)

新型コロナウイルス拡大防止のため、教会学校の礼拝は、当面の間、お休みすることになりました。9時15分からの礼拝は、4月19日から再開する予定です(大人の礼拝は3月中もあります)。皆さんも、しっかりと予防をして、元気で過ごせるように気を付けてください。神様の御守りがありますようにお祈りしています。

お知らせ

🌸4月12日(日)はイースターのため大人との合同礼拝となります。この日は10時半からの礼拝にご出席ください。

🌸藤野雄大先生、藤野美樹先生は、仙台に転任するため、成宗教会を辞任することになりました。短い間でしたが、教会学校の皆さんと出会えたことに感謝しています。4月からは齋藤正先生が成宗教会に来ます。これからも成宗教会の教会学校をよろしくお願いします。

思い出す

2月の説教

聖書:ヨハネによる福音書2章13-25節

説教者 藤野雄大

「イエスが死者の中から復活された時、弟子たちはイエスがこう言われたのを思い出し、聖書とイエスの語られた言葉とを信じた。」(ヨハネによる福音書2章22節)

 

本日与えられました新約聖書の箇所は、ヨハネによる福音書の2章13~25節までの箇所です。この内、22節までの部分は、新共同訳聖書では「神殿から商人を追い出す」という表題が与えられています。主イエスが、エルサレムの神殿から商人たちを追い出すという、いわゆる「宮清め」と言われる出来事が記された箇所です。この出来事は、全ての福音書に記されているものですが、特に、ヨハネによる福音書では、神殿で売られていた牛や羊、鳩などの家畜と、両替商の描写、またイエス様が縄で鞭を造られたことなど大変細かい所まで書き記されているのが印象的です。

神殿で商売をしていた人々を突然に追い出す。主イエスは、なぜ、このようなふるまいをなさったのでしょうか。この宮清めの箇所を始めて読むとき、主イエスの激しい怒りに戸惑いを覚える方もおられるかもしれません。主イエスが、お怒りになったのは、神聖な神殿の中までも、入り込んできて金儲けをしている商人たちの強欲さに対してである。そのように理解されることもあります。しかし、ユダヤ教の律法からすると、このような神殿における商売は、全く合法のものでした。なぜなら、これらは神殿における祭儀に必要なものだったからです。たとえば家畜の取引についてですが、律法の教えに従って、参拝者は、神殿に参拝する際に、家畜をいけにえとしてささげられることが定められていました。

本来であれば、自分の所有する家畜を捧げることになっていましたが、多くの人がエルサレムの町だけではなく、イスラエル全土から、長い旅をして神殿にやってきます。そのため、長い旅の中で、家畜を連れてくるというのは、不便極まりないことでした。そこで、神殿において、いけにえとしてささげるための家畜を売る者たちが求められたのです。

一方、両替商というのも、また律法の規定に従って存在していました。現在の日本の紙幣などにも、福沢諭吉などの偉大な歴史上の人物が記されておりますが、当時、イスラエルを支配していたローマ帝国では、最高権力者である皇帝の顔がコインに記されていました。そして、皇帝は、ローマ帝国内では、しばしば神に等しい存在として理解されていました。そのようなコインを神殿にささげることは、神は唯一であると信じるユダヤ人とっては、偶像崇拝であり、律法にも背くことと理解されました。そのため、ローマ帝国で一般に通用していた硬貨を、ユダヤ教の律法に適った特別な硬貨に両替する商人が、神殿に必要とされたと言われています。

要するに、当時、神殿に家畜を売る人や、両替商がいることは合法的であり、当たり前の光景であったということです。宮清めの出来事を読むときに、私たちは、イエス様が、強欲な商人たちが、神殿に入り込み、勝手に商売をしていることをお怒りになったと考えがちです。ところが実際には、彼らの商売は、むしろ神殿での祭儀に欠かせないものであり、強欲とは言えないものだったのです。

しかし、そうだとすれば、なぜ主イエスは、これほど激しい怒りを向けられたのでしょうか。ヨハネによる福音書は、主イエスが、家畜を鞭で追い払い、両替人の金をまきちらし、台を倒したとありますが、それは非常に乱暴なことのように思えます。そして、それは私たちと同様に、いや私たちが感じる以上に、当時、神殿にいたユダヤ人やイエス様の弟子たちを驚かせ、戸惑わせたことでしょう。なぜなら、彼らは、当時のユダヤ人として、神殿における両替や家畜の売買を日常的な光景として認識していたからです。そのため、18節に記されているように、ユダヤ人たちはイエス様の行動に対して憤慨します。そして、より重要なのは、一般のユダヤ人だけでなく、弟子たちにとっても、主イエスの行動の意味は理解を超えたものだったということです。

ヨハネによる福音書は、この宮清めの出来事を、弟子たちの証言、弟子たちの回想とたくみに結び合わせています。それは、17節で、主イエスの言葉を受け、弟子たちは「あなた家を思う熱意がわたしを食い尽くす」と聖書に書いてあるのを思い出し、さらに、22節では、「イエスが死者の中から復活された時、弟子たちはイエスがこう言われたのを思い出し、聖書とイエスの語られた言葉とを信じた」と記されております。

この内、17節の言葉は、少し分かりづらいですが、この言葉は、主イエスが商人たちを追い出された時に、弟子たちが「ただちに」聖書の言葉を思い出したというのではなく、主イエスの復活の後に、弟子たちが改めて思い出したということだそうです。そして、22節の箇所では、はっきりと、この時ではなく、主イエスが復活された時、はじめて、この出来事を思い出したと記されています。

つまり、弟子たちは、主イエスの復活の出来事を経験することで、はじめて、この時、主イエスが語られた「三日で神殿を立て直して見せる」という言葉の本当の意味を理解したということになります。神殿とは、人間が作った建物ではなく、真の神である御自身の体そのものを指していたのだということを、弟子たちは、復活の出来事を通してはじめて悟ったというのです。

宗教改革者のカルヴァンは、この17節、あるいは22節の解説の中で、次のように語っています。「神のわざの理由は、必ずしもすぐに明らかになるものではなく、そののち時が経つにつれて、神はわたしたちに、その意味を明らかにするものである。」さらに、このようにも語ります。「弟子たちは、キリストがそれを言った時には、何も理解しなかった。しかし、そののち宙に消え忘れ去られたと見えたこの教えが、時が来てその実りを結んだのである。だから、キリストのおこないや言葉の内に、差し当たって理解できないことが多くあるとしても、そのために絶望して、すべてをあきらめ、即座に理解できないものをなおざりにしてはならない。」

 

ここでカルヴァンが語っているのは、一言で言えば、信仰の成長ということができるでしょう。聖書の言葉は、私たちが読んですぐに理解できることばかりではありません。いや、むしろすぐに理解できることの方が少ないものです。しかし主イエスの教えは、その時、理解できなくても、私たちの心に種となって残ります。そして、時が来た時、はじめてその言葉は、花開くことになります。その時、私たちは、聖書の言葉の意味をより深く悟り、それによって、信仰が一層成長するということが起きるのです。

弟子たちは、主イエスが神殿から商人たちを追い出された時、その意味を悟ることはできませんでした。また、その時に主イエスが語られた、神殿を「三日で建て直してみせる」という言葉の意味も理解することはできませんでした。しかし、主イエスの復活の出来事を通して、弟子たちは、かつて主イエスが語られた言葉の本当の意味を正しく理解するに至ったのでした。

このことは、私たちの信仰生活にも当てはまるのではないでしょうか。私たちの信仰の歩みの中でも、様々な予測もできない出来事、理解を超えた出来事に直面します。そのような出来事に直面する時、私たちは戸惑い、信仰が動揺させられることも起こり得ます。なぜ神はこのようなことを私になさるのだろうか。そのように問わざるを得ない時もあるでしょう。

しかし、今は理解できなくても、やがて、そのことの意味が明らかになる時がやってきます。その時、私たちは、弟子たちと同じように、聖書に記された主イエスの教えを思い出し、一層信仰が増し加えられ、神を賛美することになります。どのようなことが起きようとも、聖書の言葉を信頼し、神の御心を信じて、信仰生活を送りたいと願います。

祈りましょう。

2020年2月号

「知恵と知識の宝はすべて、キリストの内に隠れています。」

新約聖書、コロサイ2章3節

このお便りは、なりむね教会からのメッセージです。キリスト教会は神様の愛について学び、伝えます。子供さんも大人の方も、読んでいただければ幸いです。


山口智代子先生のお話

(2020年1月19日になされたものです。)

聖書:マタイによる福音書25章14-30節

今日のお話は、イエス様が話された例え話についてです。イエス様は、神さまがどういう方か、そして神の国はどういうところであるかを教える為にいろいろな例え話をされました。

今日のタラントンの例え話もそのひとつです。

ある家の主人が旅行に出かけることになりました。この主人は、自分がいない間、3人の僕に自分の財産を預けました。最初の1人には5タラントン、もう1人には、2タラントン、そして3人目の僕には、1タラントンを預けました。

タラントンはお金の単位です。タラントンとデナリというお金が使われていました。当時、1日のお給料が1デナリでした。1タラントンと6000デナリは同じです。1タラントンは、週に1日休んだとしても、約20年分のお給料になります。1タラントンでも相当な金額になります。そんな大金を預けるのですから、この主人は僕のことをすごく信頼していました。

5タラントン預かった僕と2タラントン預かった僕は、主人の信頼に応えようとしました。

5タラントン預かった僕は、それで商売を始めました。そして倍の10タラントンにしました。2タラントン預かった僕も、同じように商売をして、財産を倍の4タラントンにしました。ところが、1タラントン預かった僕は、出かけて行って、地面に穴を掘って、そのお金を埋めてしまいました。それで商売して失敗したらご主人に怒られるかもしれないと思ったのです。この僕は、自分に預けられた1タラントンを増やそうとしませんでした。この僕は、自分には少ししか預けてもらえなかったことにがっかりしたのかもしれません。5タラントン預かった僕と2タラントン預かった僕は、主人の信頼に応えようと一生懸命働きました。

だいぶ日が経って、ご主人が帰ってきました。5タラントン預かった僕と2タラントン預かった僕は、喜んでご主人の前に出て、預かったお金と儲けたお金を差し出しました。2人が預けられたお金を一生懸命に働いて増やしたことをとても喜びました。

1タラントン預かった僕は、埋めておいた1タラントンを差し出して、こう言いました。「あなたは蒔かないとこらから刈り取り、散らさない所からかき集められる厳しい方だと知っていましたので、恐ろしくなり、出かけて行ってあなたのタラントンを地の中に隠しておきました。ご覧ください。これがあなたのお金です。」

その僕は、主人のことが怖くて、もし失敗したら怒られると思って、何もしなかったのです。結局は主人を信頼していなかったのです。

すると主人は厳しくその僕を叱りました。銀行に預けておけば利息がもらえたのに、それさえもしないお前は怠け者だと言って、その僕を外に追い出してしまいました。

主人はこの1タラントンを預けられた僕が単にそれで商売をしてお金を増やしてほしかったわけではないのです。たとえ商売をして失敗して、その1タラントンをなくしてしまったとしても、主人はこんなに怒ったりしなかったと思います。何も努力しなかったことに対して叱ったのです。主人はお金を増やすことを重視してはいなくて、それを活用してほしかったのです。1タラントンの僕も自分が預かったものを何とかしてふやそうとしていたならば、主人は3人の僕に対して、区別なく、同じように褒め、そして喜んだでしょう。

私達も神さまからこの命を預かっていますし、命と一緒にいろいろな能力も預かっています。自分は何タラントン預かっていますか。そう聞かれたら、大抵の人は1タラントンだと答えると思います。他のお友達には多くのものが与えられているように思いがちです。他の人をうらやましく思ってしまうこともあります。でも、私達の目から見れば違うようでも、神さまからみれば、同じタラントンを私達に預けているのです。その為、預けられているタラントンを他の人と比べるべきではないのです。

私達の世の中では、5タラントンの僕が一番偉くて、2タラントンの僕がその次であるということになってしまっています。でも、自分が持っているものを一生懸命に活用したらそれで良いと神さまはおっしゃって下さいます。5タラントンでも2タラントンでも差はないのです。神さまは、私達一人一人が持っている特別な賜物をご存知です。私達一人一人に相応しいタラントンを預けて下さっています。きっと、応援して下さっています。私達は、神様から預けられたものを 感謝して頭を使って生かしたらそれで良いのです。神さまは、そのことを喜んで、「よくやった。良い忠実な僕だ」と褒めてくださいます。

2月の御言葉

「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。」

ヨハネによる福音15章1節

2月の教会学校礼拝

(毎週日曜日、朝9時15分~9時45分)

★ お話の聖書箇所と担当の先生

聖書 お話
2月  2日(日) ルカ15章11~24節 藤野雄大 先生
    9日(日) ヨハネ15章1~24節 斉藤 紀 先生
   16日(日) ルカ10章25~37節 興津晴枝 先生
   23日(日) 大人と合同礼拝 藤野雄大 先生

お知らせ

🌸2月23日(日)は大人との合同礼拝となります。この日は10時半から礼拝が始まりますので、ご注意ください。

主に望みを置く

1月の説教

聖書:イザヤ書40章25-31節

説教者:藤野雄大

「主に望みを置く人は、新たな力を得、鷲のように翼を貼って上る。走っても弱ることなく、歩いても疲れない。」(イザヤ書40章31節)

 

新年あけましておめでとうございます。2020年も、皆様とともに礼拝をささげることができますことを感謝いたします。さて、本日も主の御言葉を聴きましょう。本日は、旧約聖書イザヤ書の御言葉が示されました。

旧約聖書の預言者たちは、イエス・キリストに直接出会うことはありませんでした。しかし、彼らはまだ見ぬキリストの到来について、神から預言を与えられました。本日、お読みした預言者イザヤもまた、主イエスの到来と、救いの実現をあらかじめ預言しております。それは、まだ実現していない救いの約束、神の救いの御業への信頼に裏付けられたものでした。

イザヤは、今日の御言葉において、私たちに何に望みを置くのか、何を信頼すべきなのかということをはっきりと問います。そして、どのような時であっても、ただ神にのみ望みを置くこと、神のみを信頼することをイザヤは告げています。

このイザヤの言葉は、逆に言えば、イザヤが生きていた当時の人々が、主に望みを置くことを忘れていたから、神に対する信頼を失いつつあったという状況を示していると言えましょう。事実、イザヤ書が成立したのは、南北イスラエルが滅亡し、いわゆるバビロン捕囚と呼ばれる、多くの人々が捕虜となって連行された時代でした。

それは、イスラエルの歴史にとって、最も困難な時代でした。この中にあって神への信頼が動揺させられるという事態が起きたのです。それはイザヤ書40章の27節にも表れています。「ヤコブよ、なぜ言うのか。イスラエルよ、なぜ断言するのか。わたしの道は主に隠されている、と。わたしの裁きは神に忘れられた、と。」

この言葉から、イスラエルの民が、国を失うという未曾有の苦難の中で、神を疑い、神に不平を訴える光景をイメージできます。そのような中でイザヤは、今一度、民に真の神をより頼むこと、信頼し続けることの大切さを説いています。「あなたは知らないのか、聞いたことはないのか。主は、とこしえにいます神、地の果てに及ぶすべてのものの造り主。倦むことなく、疲れることなく、その英知は究めがたい。疲れたものに力を与え、勢いを失っている者に大きな力を与える。」(イザヤ書40章28-29節)

神だけが、真の神だけが、人に力を与えることが出来る方である。人間の力に頼るのではなく、神の力に信頼することでしか、この困難を乗り越えることはできない。イザヤの預言は、経験したことのない苦難を前にして、自らの限界、無力さに打ちひしがれていた人々に慰めを与えるものだったでしょう。

イザヤは、こう続けます。「若者も倦み、疲れ、勇士もつまづき倒れようが、主に望みをおく人は新たな力を得、鷲のように翼を張って上る。走っても弱ることなく、歩いても疲れない。」(イザヤ書40章30-31節)

人は、有限な存在です。人間の力には必ず限界があります。若者も疲れを覚え、屈強な勇者でさえ、力を失うという、イザヤの言葉は、時代を超えた真理であると言えましょう。それゆえに、神ではなく、人、あるいは人が作り出すものに信頼を置こうとすることは、むなしいことだとイザヤは訴えます。どんなに栄えているように見えても、力があるように見えても、人間的なものは過ぎ去ります。人間的、この世的な力に信頼を置く者は必ず失望に終わるということです。

このイザヤの言葉は、イスラエルの民だけでなく、我々日本の教会もまた聞くべきものだと思います。プロテスタント教会の伝道が開始されてから160年余りの間に、日本各地で伝道が進められ、教会が建てられてきました。しかし、今日に至るまで、キリスト者は、日本にあってはごく少数の群れに留まってきました。さらに、高齢化の影響などにより、どんどん教勢は低下しています。あと数年のうちに、日本の教会数は激減するという事態を迎える危険性が、しばしば指摘されています。

このような状況の中で、それぞれの教会において、あるいは教区や教団の取り組みとして、さまざまな伝道の努力がなされていると思います。それは、確かに貴いことです。しかし、人の力によってではなく、神の力によって教会は建てられているということを忘れてはならないと思います。教会は、常に神に望みを置くべきであります。たとえ、どのような苦難に直面しようとも、ただ「主に望みを置く」ということを忘れてはならないと思います。

教会の歴史は、常に順風満帆であったわけではありません。むしろ、いつの時代も、教会は、それぞれの時代特有の危機に直面してきたのだとも言えます。しかし、教会は、その都度、神に望みを置くことから立ち上がる力を得てきました。

私たちプロテスタント教会の直接のルーツである宗教改革者たちも、腐敗と堕落の蔓延する中で、ただ神に望みを置き、神の御言葉に強められて、教会の霊的な再建を推進しました。その結果、彼らは教会から破門され、迫害を受けることもありました。しかし、彼らが、そのような地上の権力を恐れなかったのは、ただ主に望みを置いていたからでした。

また私たちの住む日本に派遣されてきた宣教師たちも同様でした。我が国に派遣され、伝道の働きをなした宣教師たちは、もちろん母国の教会から支援を受けておりました。しかし、慣れ親しんだ母国を離れて、異国の地で伝道し、教会を建てることの困難は、容易に想像することができます。そのような困難を乗り越えて、日本に教会を建て上げることができたのは、彼らが、究極的には主に望みを置いていたからでした。

教会が望みを置くのは、この世的な力でも、人間的な知恵でもありません。主に望みを置く時、教会は、困難を乗り越える力を与えられます。成宗教会の現状もまた、人間的な目で見た時、決して楽観的なものではないかもしれません。しかし、2020年の始まりの時、新しい気持ちで、主に望みを置いて歩みを進めたいと願います。

祈りましょう。

2020年1月号

「知恵と知識の宝はすべて、キリストの内に隠れています。」

新約聖書、コロサイ2章3節

このお便りは、なりむね教会からのメッセージです。キリスト教会は神様の愛について学び、伝えます。子供さんも大人の方も、読んでいただければ幸いです。


勝田令子先生のお話

(2019年11月10日になされたものです。)

聖書:ルカによる福音書4:1-13

「わたしたちを誘惑におちいらせず、悪からお救いください」

 皆さんは、普段1日に3回お食事をしていますね。でも、胃やお腹を壊して、回復するために食事を止めることがあります。食事をやめることを断食といいます。食事を休んで、胃やお腹をやすませてあげて、回復するのを待つのです。

先ほど、興津先生にお読みいただいたルカによる福音書4章には、イエス様が「荒れ野の中を霊によって引き回され、40日間、悪魔から誘惑を受けられた。その間、何も食べず、その期間が終わると空腹を覚えられた」とあります。身体の悪いところを回復させるための断食は、せいぜい2~3日です。40日もの間、何も食べなかったら、どんなにお腹がすいていらしたでしょう。その間、イエス様は、ずっと父なる神にお祈りをなさいました。それは、悪い誘いをしかけて来る悪魔に勝つためでした。そのイエス様に「神の子なら、この石にパンになるように命じたらどうだ」と悪魔が言ったと書かれています。そこは、荒れ野です。周りは、石がごろごろしていたでしょう。「神の子なら、この石がパンになるように命じたらどうだ、イエス様ならきっと出来る。」そう言って誘います。けれども、イエス様は、どんなにお腹がすいていても、悪魔の言う通りにはなさいませんでした。イエス様は、「『人はパンだけで生きるものではない』と書いてある」(4節)とお答えになりました。どんなに美味しい物をたくさん食べても、それだけでは生きてはいけないということを、ここでイエス様が教えてくださいました。

次に悪魔は、イエス様を高いところに連れて行き、世界中の国を見せて言いました。「この国々の一切の権力と繁栄を与えよう。それは私に任されていて、これと思う人に与えることが出来るからだ。だから、もしわたしを拝むなら、みんなあなたのものになる。」しかし、イエス様は、「『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と書いてある」とお答えになりました。私たちが礼拝するのは、主なる神様だけだと聖書に書いてあると言って断られたのです。悪魔を拝むということは、悪魔の言うことを何でも聞いてしまうということです。どんなに言うことを聞いても、悪魔は、神様のように、私たちを守ってくれることはありません。

最後に、悪魔は、イエス様をエルサレムの神殿の高い屋根の端に立たせます。そして「神の子なら、ここから飛び降りたらどうだ。というのは、こう書いてあるからだ。『神はあなたの為に天使たちに命じて、あなたをしっかり守らせる』」と言います。この最後の誘いも、イエス様は「あなたの神である主を試してはならない」と、はっきりお断りになりました。悪魔は、私たちにも、いろいろな時に、いろいろな方法で、誘ってくるはずです。私たちは、悪魔の誘いを断ることの出来る強い心、悪魔と戦って勝つだけの力も持っていません。でも、私たちが、こうして教会に来て神様のお話しを聞き、神様を礼拝する時、そして「我らを試みに合わせず、悪より救い出したまえ」とイエス様が教えてくださった祈りをささげる時、悪魔は、もう私たちを自分の方に連れて行くことは出来ません。父なる神様、聖霊なる神様と共にイエス様が私たちを守っていてくださるからです。

1月の御言葉

「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」

ルカによる福音18章14節

1月の教会学校礼拝

(毎週日曜日、朝9時15分~9時45分)

★ お話の聖書箇所と担当の先生

 

聖書 お話
1月  5日(日) 休会
   12日(日) マタイ14:13~21 興津晴枝 先生
   19日(日) マタイ29:14~30 山口智代子 先生
   26日(日) 大人と合同礼拝 藤野雄大 先生

お知らせ

11月より、原則として第4週日曜日は、大人と子どもの合同礼拝(朝10時半~)を守ることになりました。合同礼拝の日は、教会学校の礼拝はありませんので10時半に教会にお越しください。

🌸クリスマス合同礼拝、イブ礼拝では、教会学校の子どもたちがハンドベルや、聖書朗読、キャンドル点灯の奉仕を務めてくれました。神様の恵み豊かな楽しいクリスマスを迎えることができました。

🌸1月から教会学校校長を務めている藤野美樹副牧師が出産に備えて、2か月ほどの間、礼拝をお休みしています。ピアノ奏楽のお手伝いをしてくれる方、お申し出いただければ助かります。

🌸1月の合同礼拝は26日(日)となります。この日は10時半からとなりますので、ご注意ください。