大きな喜び

12月の説教

聖書:ルカによる福音書2820

説教者 藤野雄大

*この説教は2019年のクリスマスイブ礼拝でなされたものです。

主にある兄弟姉妹の皆様、クリスマスおめでとうございます。2019年のクリスマスを迎える今宵、皆さまも今年一年間の歩みを振り返られているのではないかと思います。今年も世界中、日本中で様々なことがありました。いい知らせもあれば、悪い知らせもありました。国内のことに目を移せば、今年は台風が猛威を振るった年でした。千葉県や長野県などを中心に、日本全国広範囲に建物の損壊や、貴い人命が失われる事態が起こりました。被害にあわれた方々に、主のお慰めがありますようにお祈り申し上げます。

本日、読まれましたルカによる福音書では、クリスマスの出来事をこのように記しています。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日、ダビデの町で、あなたがたの救い主がお生まれになった。この方こそ、主メシアである。」

民全体、つまり全世界に与えられる大きな喜び、これがクリスマスの意味、主イエス・キリストが世にお生まれになった意味だというのです。世を救うために、メシア、救い主がお生まれになった。天使は、そのように告げたとされています。

しかし、クリスマス、御子イエス・キリストの誕生が示す大きな喜びとは一体どのようなものでありましょうか。もはや悲しみや嘆きもなくなるということなのでしょうか。しかし、人類の歴史を考えてみれば分かりますように、イエス・キリストが誕生した後も、世界には、たくさんの悲しみが存在し続けてきました。数えきれないほどの血が流され、涙が流されてきました。世界を見渡す時、弱い人が虐げられ、無力な人がその日の糧さえなく飢えている現実があります。

あるいは、そこまで大きな話ではなくとも、それぞれの今年一年の出来事を振り返っても、きっと喜びもあれば、悲しみもあったことだと思います。そのような現実を見る時、聖書が語る「大きな喜び」とは一体何なのだろうかと思われるかもしれません。聖書の言葉は現実離れした、ただのおとぎ話なのではないか、そう思われるかもしれません。一体なぜ、イエス・キリストの誕生は、世界全体にとっての大きな喜びなのでしょうか。御子キリストがお生まれになったことは、一体どのような意味で、大きな喜びなのでしょうか。

聖書では、天使たちは、羊飼いにキリストの誕生を告げ知らせたとあります。羊飼いというのは、当時の世界では、蔑まれていた職業だったそうです。羊飼いたちは、朝晩問わず、羊とともに生活し、家ももたず、野宿をしています。そして、自分の土地ではなく、荒れ野を渡り歩く放浪者であり、その生活は不安定でした。つまり天使は、地位や権力のある人ではなく、羊飼いという弱く、貧しい人々に救い主の誕生を告げ知らせたのでした。

さらにイエス・キリストは、神の御子であったにも関わらず、決して超人的な姿でも、また、きらびやかな姿でも表れませんでした。むしろ、羊飼いたちが、実際に見たのは、暖かいベッドではなく、粗末な飼い葉桶に敷かれたわらの上に寝ている小さな赤子でした。それは、何の力も持たない弱く、小さな男の子でした。キリストは、世の人々と全く変わらないお姿でお生まれになったのです。このことは、私たちが、生きていく中で経験しなければならない苦痛や、嘆き、悲しみ、あらゆるものを神の子御自身が、担ってくださることを示しています。

「上から目線」という言葉が、しばしば使われることがあります。傲慢さや尊大さを表現する言葉です。しかし、聖書が示す神の子イエス・キリストの姿は、そのような「上から目線」とは全く異なっていました。神の子キリストは、天高くに留まっているのではなく、私たちが生きるこの現実の世界に来てくださいました。しかも、貧しく、無力な存在として世に来てくださいました。そのご生涯において、嘆く者に希望を与え、泣く者に喜びを与えました。苦しむ者と共に苦しみ、弱く無力な者と共に生きられました。病に苦しむ者を癒され、死の恐怖に脅かされる者に、永遠の命を示されました。そして、最後には、世の人々に代わって、十字架にかけられ苦しみの果てに死なれました。

神の子キリストは、このように死に至るまで、世の人々と共に生きられました。聖書が示す神の子の誕生とは、まさに神様が私たちと同じ所にまで来てくださって、私たち血の苦悩や悲嘆を共に担ってくださることを意味しています。神は、決して、この世界に生きる者をお見捨てになることなく、御自身の御子、主イエスを御遣わしになるほどに愛されておられるのです。これこそが、クリスマスの大きな喜びです。2019年のクリスマスの時、皆様に、御子イエス・キリストご降誕の大きな喜びがありますように心からお祈りいたします。

お祈りいたします。

2019年12月号

「知恵と知識の宝はすべて、キリストの内に隠れています。」

新約聖書、コロサイ2章3節

このお便りは、なりむね教会からのメッセージです。キリスト教会は神様の愛について学び、伝えます。子供さんも大人の方も、読んでいただければ幸いです。


興津晴枝先生のお話

聖書:歴代誌上29:10~13

「国と力と栄光は神様のもの」

  今朝も私たちはイエスさまの教えて下さった{主の祈り}をみんなでとなえましたね。

「6つの祈りもとめ」それが主の祈りです。

  1. み名があがめられますように。
  2. み国が来ますように。
  3. み心がおこなわれますよう
  4. 日ごとの糧をお与え下さい。
  5. 罪のゆるし。
  6. 悪い事からの守り。

そして最後に今日の学びの「国と力と栄光とはすべて神様のものです」としめくくります。じつはこの最後の祈りはイエスさまが教えて下さった「主の祈り」にはなかったのです。

では、なぜ付け加えられたのでしょうか。

それは「主の祈り」を祈ったたくさんの人々の神様への深い信仰によってしめくくりの言葉としてふさわしいと思われたからだそうです。ここでダビデ王の信仰についてお話しします。

ダビデはイスラエルの国の王様でした。人々に敬われ、ほめたたえられ、強い力をもっていて国を治めていました。ダビデは主なる神様に祈りを捧げるための神殿を建てようと思い莫大な寄進をしました。

またその他の部族の長たちも呼び掛けに応じてたくさんの捧げものをしました。ダビデの時代に神殿は建たなかったけれど(息子のソロモン王の時実現)ダビデは自分を選び王として下さったのは神さまであること、自分が手に入れた「国も力も栄」も神様の恵みによって与えられたものであることを知っていました。たとえ、そのいくらかは自分に与えられているとしてもそれはもともとすべて神様のものであり恵みによって与えられたもの。感謝して神様にお返しするのは当然なことと思っていたのでした。これがダビデの信仰でした。

みなさんもよく知っているように世界中には色々な国がありますね。それぞれがその国のルールに従って治められています。でも、もし神様を信じない権力者が自分を神様のように拝ませたりしたらいったいどうなることでしょう。今、その国がどれだけ強く栄えていたとしてもすべてが神様のご計画のうちにあって建てられるのも滅ぼされるのもしらないし、信じようとしないのは本当に愚かな事です。私たちがお祈り出来るのは神様がこの世界のすべてを支配しておられること、天と地にあるすべてのものが神様のお創りになられたものだと認め信じているからです。

神様は愛する一人子のイエスさまを地上につかわして下さいました。私たちの罪をかわりに引き受けて十字架上で死なれ復活されて今は天におられます。イエスさまは私たちが神様へお祈り出来るよう道を造って下さったのです。

主イエス・キリストのお父様である神様を信じてみ名をたたえましょう。

12月の御言葉

「『見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。』この名は、『神は我々と共におられる』という意味である。」

マタイによる福音1章23節

12月の教会学校礼拝

(毎週日曜日、朝9時15分~9時45分)

★ お話の聖書箇所と担当の先生

聖書 お話
12月 1日(日) ルカによる福音書1:57~66 藤野雄大 先生
    8日(日) ヨハネによる福音書1:6~18 興津晴枝 先生
   15日(日) マタイによる福音書1:18~25 焦凝 先生
   22日(日) クリスマス合同礼拝 藤野雄大 先生
   29日(日) ルカによる福音書2:22~35 藤野美樹 先生

お知らせ

11月より、原則として第4週日曜日は、大人と子どもの合同礼拝(朝10時半~)を守ることになりました。合同礼拝の日は、教会学校の礼拝はありませんので10時半に教会にお越しください。

🌸 12月1日からアドヴェント(待降節)に入りました。主イエスのご降誕を喜びの内に共に待ち望みましょう。

🌸 12月22日(日)はクリスマス合同礼拝を守ります。(朝10時半~)

礼拝後、祝会でお昼やお菓子、プレゼントがあります。ぜひご出席ください♫

🌸 1月5日(日)の教会学校礼拝は休会となります。

救いの御子

11月の説教

聖書:ヨハネによる福音書第3章16-21節

説教者 成宗教会 藤野雄大牧師

「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」(ヨハネによる福音書第3章16節)

 

主に在る兄弟姉妹の皆様、本日は、永眠者記念礼拝をささげております。この永眠者記念礼拝とは、この成宗教会で信仰の生涯を走り終え、今は、主の御元にある兄弟姉妹を特別に覚える日です。

この成宗教会では、現在までに、6名の教職者および、80名の教会員が永眠者として記録されています。もちろん、これで全員ということではなく、例えば、そのご生涯の一時でも、成宗教会と関わりを持たれた方を含めれば、もっと多くの方々が、この成宗教会において、主に結ばれて、信仰の歩みをなされたことでしょう。

1940年に初代牧師である有馬先生の開拓伝道によって始められてから、今日に至るまでの約80年間の歴史の中で、これだけの方々が主に結ばれたご生涯を送られたことに驚き、また主の御業に対して感謝を覚えるものです。なぜなら、これらの永眠者の記録は、成宗教会が、この成宗の地で主の福音を宣べ伝えてきたことの証しそのものでもあるからです。

残念ながら、限られた礼拝の時間の中で、ここに記された方々お一人お一人のご生涯を詳しくご紹介することはできません。また、その必要もないでしょう。なぜなら、永眠者記念礼拝とは、天に召された兄弟姉妹「を」礼拝するのではなく、天にある兄弟姉妹「と共に」、地上にある私たちが、主を礼拝するものだからです。それは、天にある兄弟姉妹が生かされ、慰めを受けてきた信仰が、今、私たちを生かし、私たちを導いていることを覚える時でもあると言えるでしょう

今年の永眠者記念礼拝を覚えて、日本基督教団の聖書日課では、ヨハネによる福音書3章16節以下の箇所が示されております。この箇所は、しばしば「小福音書」、小さな福音書と呼ばれることがあります。それは、この箇所が、福音、つまり聖書全体のエッセンス、最も大切なことを教えているという意味です。

16節には、このように記されております。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」

これは驚くべき言葉です。なぜなら、「与えられる」というたった一言の中に、そこに、神の御子、主イエスのご生涯が、余すところなく示されているからです。イエス様がこの世界に生まれ、十字架にかかり、そして復活された、そのご生涯全体が、私たちに与えられたものであったということです。それは、その後に記されておりますように、「独り子を信じるものが、一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」ということになります。

キリスト教における永遠の命というのは、この地上にある、私たちの命が永遠であるということではありません。私たちが、いわゆる不老不死の存在になるということではありません。また仏教でいうような輪廻転生、つまり前世、現世、来世へとよみがえりを繰り返すということでもありません。

ハイデルベルク信仰問答という、私たちの大切な信仰の手引きには、次のように記されています。

 

問58 「永遠の命」という箇条は、あなたにどのような慰めを与えますか。

答え:わたしが今、永遠の喜びの始まりを感じているように、この生涯の後には、目が見もせず、耳が聞きもせず、人の心に思い浮かびもしなかったような完全な祝福を受け、神を永遠にほめたたえるようになる、ということです。

(吉田隆訳『ハイデルベルク信仰問答』より引用)

 

ここには、永遠の命への信仰が、わたしたちの慰めであると記されています。そして、その慰めとは、私たちが、地上にある時には、永遠の喜びの始まりを抱かせ、そして、この生涯の終わりには、私たちが想像もできないほど完全な祝福を与えられ、神のみ元にあって、神をほめたたえるようになることとされています。永遠の命とは、私たちが地上にある時も、また天に召されて後も、わたしたちの喜びであり、慰めそのものであるということです。

これは、すでに主の御元にある信仰の先達たちを、生かし、強めてきた信仰であったと言えるでしょう。彼らは、主イエスの十字架と復活を受け入れることで救いを与えられました。そして、主イエスの御名によって、信仰を告白しました。その信仰によって、新しい命の喜びに生きるものとなったのです。それは、その地上のご生涯においても、彼らを支え導く慰めであり、また主の御元に召された後には、一層大きな、輝かしい祝福になっています。

宗教改革者のカルヴァンは、このヨハネによる福音書の解説の中で、こう語っています。「信仰の正しいまなざしは、キリストを目指し、彼において愛にみちた神の心を見つめることである。そして、その愛の唯一の保証として、キリストの死に立脚することが、確固としたよりどころなのである。」

カルヴァンが語るように、キリスト教の信仰とは、キリストを見つめることだと言えます。さらに言えば、信仰とは、キリストを通して示された神の愛を見つめることだとも言えます。キリストの十字架における死が、私たちに赦しと希望を示してくださいました。成宗教会の信仰の先達たちも、キリストに結ばれて、その生涯を生き、そして終えたのでした。

わたしは、その一人一人のご生涯の詳細を詳しくは存じ上げません。しかし、彼らもまた、一人の人間として、その生涯の中で、喜びもあれば、悩みもあり、苦しみもあったことでしょう。仕事や家庭において、課題を抱えていたこともあったことでしょう。深い悲しみや嘆きの中で涙し、眠れない夜を過ごしたこともあったでしょう。病に苦しみ、肉体の衰えに不安を覚えたこともあったでしょう。嘆きや苦しみ、不安が全く無い人生というのはありえません。

この点においては、信仰者も、世の人々と変わることがありません。しかし、それでも私たちの信仰の先輩方は、キリストを見つめ、キリストを唯一のよりどころとして、その生涯を走りぬきました。そして、今は、神の御元にあって、永遠の平安と慰めの内を生きるものとされました。

このことは、今、地上の生涯を歩む私たちにも大きな慰めであり、また励ましでもあります。私たちも、やがては彼らと同じ、主の御元に召される時がやってきます。それは、誰しも避けることのできない地上における死です。しかし、キリストを信じる者にとって、地上の死は終わりではありません。死は永遠の命の始まりだからです。

この永眠者記念礼拝でも、私たちは、この後に聖餐に与ります。これは、主イエスの十字架において流された血と裂かれた肉を覚え、またその犠牲を分かち与えられることです。そして、主の御元に召された者が、味わう永遠の食卓を先取りするものでもあります。天にある兄弟姉妹を覚え、地上にある我々も、救い主キリストを見つめ、復活の主によって示された永遠の命を確信しつつ、それぞれの生涯を歩んでまいりましょう。

 

お祈りいたします。

2019年11月号

「知恵と知識の宝はすべて、キリストの内に隠れています。」

新約聖書、コロサイ2章3節

このお便りは、なりむね教会からのメッセージです。キリスト教会は神様の愛について学び、伝えます。子供さんも大人の方も、読んでいただければ幸いです。


斉藤紀先生のお話

(10月20日の礼拝で話されたものです。)

聖書:イザヤ書55:8~13

今日のテキストは、旧約聖書のイザヤ書からです。イザヤとは、人の名前です。

ずっとずっと昔紀元前8世紀ころに生まれた人です。ユダ王国の人で、預言者イザヤと言われている人です。

預言者とは、神様に代わって神様の言葉を聞きとって、それを皆に伝える人です。今日のみ言葉は、そのイザヤが書いた旧約聖書のイザヤ書からです。

イザヤ書55章8節には

「私の思いはあなたたちの思いとは異なり、私の道はあなたたちの道と異なると主は言われる」と、あります。これは神様の言葉ですから、私とは神様、あなたたちとは、私たちのことです。つまり、「神様の思いはわたしたちの思いとは違う」とあります。神様の思っていらっしゃることは、私たちが思っていることと違うというわけです。

どうしてでしょうか、それは、私たちは神様ではないからです。神様は、偉大なお方です。神様は、なんでもご存知ですが、私たちは違います。私たちは、たとえば「自分のことだけは自分が一番よく知っている」と思っていますが、違います。私たちのことを一番よく知っておられるのは、神様なのです。ですから、神様を信じて、すべてを神様のみ手におまかせして生きることが大切なのです。

ここで、主の祈りを考えましょう。みなさん言えますよね。

これは、マタイによる福音書6章にのっています。もし忘れたら、聖書を開きマタイ6章を読んでみましょう。

天にまします我らの父よ。
1、願わくは御名(みな)をあがめさせたまえ。
2、御国(みくに)を来たらせたまえ。
3、みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ
4、われらの日用の糧を今日も与えたまえ

お願いは全部で6個あります。私も子どもの頃から教会学校に通っていましたので、この主の祈りだけは、暗記しています。この主の祈りは、中で、神様、願わくはとお願いをしています。

願わくはみなをあがめさせたまえ、とありますが、「願わくは」とは、お願いをします、という意味です。願わくはみ名をあがめさせたまえ、神様を賛美させてくださるようお願いします。

み国を来たらせたまえ、神様のみ国が来ますようにお願いします。

そして3番目に、み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ と続きます。

さっきイザヤ書の中でお話ししましたように、み心とは、天と地とでは違うのです。み心とは、神様が思っていらっしゃること、強い意味では、神様のご意思です。

この主の祈りでは、神様のみ心が、天と同じく、地上の私たちにも届き、神様の救いを待っている人たちが神様の言葉を知り、神様の恵みに感謝をして生きるようにしてくださいとお願いしているのです。

先の続きの文は「われらの日用の糧を今日も与えたまえ」ですが、私の日用の糧をではなく、われらの日用の糧をと、われら、私たちという形になっています。私だけではないのです。私たちなのです。み心が天で行われるように、地でも行われますようには、私だけの願いではなく、私たちの願いであり、神様の思う通りに、み心のままになさってくださいという祈りなのです。

私たちが住むこの地上を、神様のみ心がなすままに、なさってくださいと、お祈りしましょう。

11月の御言葉

「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。」

マタイによる福音18:22節

11月の教会学校礼拝

(毎週日曜日、朝9時15分~9時45分)

★ お話の聖書箇所と担当の先生

聖書 お話
11月 3日(日) マタイによる福音書18:21~35 藤野美樹 先生
   10日(日) ルカによる福音書4:1~13 勝田令子 先生
   17日(日) 歴代誌(上)29:10~13 興津晴枝 先生
   24日(日) 合同礼拝 藤野雄大 先生

お知らせ

11月より、原則として第4週日曜日は、大人と子どもの合同礼拝(朝10時半~)を守ることになりました。合同礼拝の日は、教会学校の礼拝はありませんので10時半に教会にお越しください。

🌸 11月24日(日)は合同礼拝です。(朝10時半~)

🌸 12月22日(日)はクリスマス合同礼拝を守ります。(朝10時半~)

礼拝後、祝会でお昼やお菓子、プレゼントがあります。ぜひご出席ください♫

神の国の訪れ

10月の説教

説教箇所 ルカによる福音書19章11-27節

説教者 成宗教会副牧師 藤野美樹

 本日与えられました御言葉は、「ムナのたとえ」という、主イエスが語られたたとえ話のひとつです。

このたとえ話は、マタイによる福音書25章14節から記されている、タラントンのたとえと良く似ていると言われます。そしてまた、解釈が難しいと言われるたとえ話でもあります。この話には、二つの要素が含まれています。一つが「ムナのたとえ」、もうひとつは、「敵対者たちに対する、王の復讐の物語」です。

まず、この難解なたとえ話しを理解するために、主イエスが、どのような脈絡で、このたとえをお語りになったかということを理解するのは重要なことだと思います。

ルカによる福音書をさかのぼりますと、9:51にはこのように記されています。

「イエスは、天に上げられる時期が近付くと、エルサレムに向かう決意を固められた。」。9:51から、主イエスが、十字架にお架かりになるために、エルサレムへ向けた旅路が始まっていることがわかります。そして、ムナのたとえが語られた直後、19:28で、主は子ろばに乗って、エルサレムへ入城されると記されています。

「イエスはこのように話してから、先に立って進み、エルサレムへ上って行かれた。」

つまり、ムナのたとえ話は、主が十字架に架かるため、エルサレムにとうとう入城される、その直前に語られたたとえ話だということがわかります。

そして、19:1から11節のつながりを読むと分かるように、主は「ムナのたとえ」を、徴税人ザアカイの家で、語られたということも分かります。人々がザアカイの家で、主イエスの話に聞き入っていた時に、「ムナのたとえ」は語られました。

徴税人ザアカイの物語は、今は詳しく説明する時間がありませんが、ザアカイの家で何が起こったかというと、ザアカイは主イエスと出会ったことにより、ザアカイは本当の救いを見ました。それまで一番価値あるものだと思っていた、財産を手放そうと思えるほどの幸いを知ったのです。それは、主イエスというお方と共にいること。主イエスという、真の救い主であり、真の王であるお方との出会いが、ザアカイの人生を変えたのです。主イエスは、その時こうおっしゃいました。

「今日、救いがこの家を訪れた。人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。」

 この出来事を目の当たりにして、ある人々は、徴税人の家にお泊りになる主イエスを批判し、またある人々は、主イエスの言葉に聞き入って、主イエスこそ、私達が待ち望んできたメシア、救い主なのではないか、と期待を膨らませていたのです。当時の人々は、ダビデ王のような、イスラエルの国を立て直してくれる、政治的にも卓越した王様を待ち望んでいました。人々は、主イエスを地上的な王様として期待し、政治的な意味で、自分たちが待ち望んでいる王国が到来すると思っていました。

そのような人々の思いに対して、主は、本当に待ち望むべき真の王とはどのような方か、真の神の国とは何なのか、そして、神の国を待ち望む私たちの姿勢はどのようであるべきか、ということを、本日のたとえ話によって示されたのだと思います。

実際に、このたとえを読んでみたいと思います。

12節「ある立派な家柄の人が、王の位を受けて帰るために、遠い国へ旅立つことになった。」 

この出だしを聞いた時、当時の人々はすぐにピンときただろうと言われます。なぜなら、このたとえの背景に、本当にあった歴史的な出来事があると言われているからです。

それは、紀元前4世紀、ヘロデ王の息子、アルケラオという人の話です。マタイ2:22のクリスマスの物語に、このアルケラオの名前が出てきます。ヨセフとマリアが、ヘロデ王から逃げるため、赤ん坊の主イエスを連れてエジプトへ避難した場面があります。ヘロデが死ぬと、ヨセフの夢に天使が現れて、再びイスラエルに戻るようにお告げがあったのでヨセフたちは戻りましたが、「アルケラオが、父ヘロデの跡をついで、ユダヤを支配していると聞いて、恐れた」とあります。

アルケラオは、ローマの皇帝から、ユダヤを統治するための王権を得る為に、ローマへ旅立ちます。ところが、アルケラオという人は、残虐行為を次々に行う評判の悪い人物でした。なので、ユダヤ人の代表者は、ローマ皇帝に頼んで、アルケラオの任命を妨げようとしました。それでも、結局は、アルケラオは王位を受けることになり、彼に敵対した50人のユダヤ人が殺されてしまったという歴史的な事件があるそうです。

たとえの中の「王」は、恐ろしい王様、アルケラオを彷彿とさせますが、その王は、主イエス御自身にたとえられたのだと、考えることができます。12節で「遠い国へ旅立った王」とあるように、主イエスもまた、これからエルサレムで十字架にお架かりになり、死なれようとしているのです。

そして、14節で「国民は彼を憎んでいたので、後から使者を送り、我々はこの人を王にいただきたくない」と言ったように、主イエスは十字架にお架かりになる時、人々から憎まれ、さげすまれるのです。23:26からの、主が十字架につけられる場面には、主イエスを憎む人々が主を十字架に架けたあと、こう言ったとあります。

「もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救って見るが良い。」

さらに、主は侮辱されて「お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ」。その時、主が架けられている十字架には、「これはユダヤ人の王」という札が掲げてあったと言います。

ルカによる福音書は、主イエスのお誕生の場面でも、この世界には、主のお誕生の時から、人々には主イエスというお方を受け入れる余地がなかったことが記されています。つまり、主イエスのお誕生から、十字架の死、さらに、主の復活、昇天の出来事にいたるまで、主イエスというお方は、いつも人々にとって、期待通りのお方ではなかったという事が出来ます。主イエスは、人々が期待していたこの世の王様のように、政治的に優れ、富と権力に溢れた、王様ではなく、人間の罪の救いのために十字架にお架かりになり、死なれた王であったのです。でも、主イエスの御生涯は、ただ十字架上の死で終わったのではありませんでした。神様は、主イエスを復活させられ、昇天されて、高く天に引き上げられ、主は神様の右に座れられて、「真の王」となられたのです。

主イエスは、人々が期待するようなお方ではなく、もっとも低いところに降られた方でした。主イエスは、この世の王様のように、「金や銀ではなく、十字架上で、御自分の尊い血によって」私たちを罪から救ってくださいました。わたしたちのすべてを御自分のものとして、愛してくださった、ただ一人の「真の王」であられます。

そのような真の王である主に対して、わたしたちがどのように生きるべきか、ということが、13節からの「ムナのたとえ」では語られて行きます。

そこで彼は、十人の僕を呼んで十ムナの金を渡し、『私が帰ってくるまで、これで商売をしなさい』と言った。」

 「わたしが帰ってくるまで」と言われていますが、それは、主イエスの再臨の時、終末の時、ということができます。神の右に座しておられる主イエスが、再び来られる時まで、私達がどのようにして待っているべきか、ということがこの「ムナのたとえ」で語られています。

 王位を受けた王が、旅から帰ってきたとき、1ムナずつ預けられていた僕たちが、王の前に呼ばれました。そして、王が留守にしている間に、それぞれの僕が託されていた1ムナで、どれだけ利益を得たのか、問われます。

最初の僕は、こう言いました。「あなたの1ムナで10ムナ儲けました。」すると王は、「良い僕だ、良くやった。お前はごく小さな事に忠実だったから、10の町の支配権を授けよう。」

次に、二番目の僕がやって来ました。「御主人様、あなたの1ムナで5ムナ稼ぎました。」。すると、王は、「お前は5つの町を治めよ。」と言いました。

そして、3番目の僕は「これがあなたの1ムナです。布に包んでしまっておきました。あなたは預けないものも取り立て、蒔かないものも刈り取られる厳しい方なので、恐ろしかったのです。」。それに対して、王は、「悪い僕だ、その言葉のゆえにお前を裁こう。わたしが預けなかったものも取り立て、蒔かなかったものも刈り取る厳しい人間だということを知っていたのか。ではなぜ、わたしの金を銀行に預けなかったのか。そうしておけば、帰ってきた時、利息付きでそれを受取れたのに。」

そして、この三番目の僕、1ムナを布に包んでしまっておいた僕は、罰をうけます。王は言いました。「その1ムナをこの男から取り上げて、10ムナ持っている者に与えよ。」

 このたとえは、初めに申しましたように、マタイによる福音書の「タラントンのたとえ」とよく似ていますが、違いもあります。違うところはまず、「1タラントン」という単位は、賃金20年分という莫大な額であるのに対して、「1ムナ」というのは、タラントンの60分の一という、小額な金額であるというところです。1ムナという金額は、王にとっては本当に小さな額です。でも、その1ムナであっても、5倍、10倍に増やすことに熱心な王の「貪欲さ」が表れています。

そして、もうひとつは、タラントンのたとえとムナのたとえで違うところは、僕たちが主人から預けられた金額が、ムナのたとえでは、みな1ムナという等しい額だったという点です。つまり、私達には、神様から、同等の責任が与えられている、と理解することができます。でも、たとえの中で、5ムナの利益を得た僕も、10ムナの利益を得た僕も等しく主人から喜ばれたように、私たちは、みな同じ収益を得ることが求められているのではないのです。ただ、私たちに求められているのは、主人である神様、から与えられている財産に対して、たとえそれが私たちには僅かなものに思えたとしても、それぞれがどれだけ、忠実に、献身をしたか、ということが求められているのです。たとえの中の、第三の僕は、僅か一ムナであっても、その一ムナを用いて、主人のために尽力しなかったので、その一ムナさえ取り上げられてしまうのです。

私たちひとりひとりには、このたとえの僕のように、等しく、神の国の財産が託されています。その財産というのは、「みことば」や「信仰」と言うことができると思います。それは、わたしたち自身のものではなく、神様から託されている、主人の財産です。それは、主イエスの十字架と復活という出来事によって、神様が私達に与えてくださった、賜物です。

ともすると、私たちは、自分の信仰が弱いから、とか、賜物はもっていないから、わたしには何もできないのです、と嘆くことがあります。でも、ムナのたとえを聞くとわかるように、私達に預けられた賜物はみな同じです。10人にひとりひとりに、1ムナずつなのです。その1ムナを、主が再び来られる、再臨、終末の時までに、どう生かすか、が求められています。それは、主から託された、信仰生活の一生涯の課題と言えます。

主イエスがザアカイに「今日、救いがこの家を訪れた。」とおっしゃったように、すでに、主はこの世にきてくださり、神の国の支配は始まっています。でも、それと同時に、わたしたちは、その神の国が完成する日に向けて、希望をもって歩む者でもあります。

その信仰生活のなかで、主は、貪欲に、厳しく、私達に求められます。私たちが、神様から託されている賜物を、どれほど熱心に用いているかということ。第三の僕のように布に包んでしまっておくならば、「持っているものまでも取り上げられる」と主はおっしゃいます。でも、わたしたちが、たとえ僅かしか持っていないと思っている賜物でも、それがどうなるか、神様に委ねて、その賜物を精一杯用いて、神様と堅く結びついて、忠実に生きるのなら、私達の1ムナは、計り知れないような豊かなものになることが約束されています。