2019年10月号

「知恵と知識の宝はすべて、キリストの内に隠れています。」

新約聖書、コロサイ2章3節

このお便りは、なりむね教会からのメッセージです。キリスト教会は神様の愛について学び、伝えます。子供さんも大人の方も、読んでいただければ幸いです。


勝田令子先生のお話

(6月19日の礼拝で話されたものです。)

聖書:使徒言行録2:1-13

 今日は何の日か、皆さんはご存知ですか?そう、花の日ですね。神様は、この世に沢山の植物をお与え下さいました。四季折々、いろいろな花が咲きますね。私も花が好きで、花を見ていると、疲れた時も心が休まり、こんな花をお与え下さった神様に、心から感謝いたします。

もう一つ、今日はペンテコステです。ペンテコステって、何のことなのでしょう?先程お読みいただいた聖書、使徒言行録二章一節には、「五旬祭の日が来て」とあります。五旬祭というのは、ユダヤの三大祝祭日の一つです。普段はエルサレムに来ることの出来ないユダヤ地方以外に住むユダヤ人も、この日にはエルサレムにやって来ます。ユダヤ人だけでなく、いろいろな国の人が沢山集まる日がこの五旬祭でした。五旬祭は、過越祭から数えて50日目に当たります。そこで、ギリシャ語で50番目を意味するペンテコステと呼ばれるようになりました。この五旬祭の日に、イエス様を信じる人達は一つ所に集まっていました。イースターの日に復活されたイエス様は、地上での40日間の生活を終えられ天に上られました。残された弟子達はどんな感じだったのでしょう?よみがえって下さったイエス様が、天に上られてしまってこれから自分達はどうしたら良いのだろうと不安になり、みんなで一ヶ所に集まり、祈り続けていたのでしょう。

すると、使徒言行録二章二節「突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。」とあります。ちょっと想像してみてください。凄い風が吹いてきて、その風が響き、炎のような舌がお弟子さん一人一人の上にとどまったのです。すごい光景ですね。四節「すると、一同は聖霊に満たされ、霊が語らせるままに、他の国の言葉で話し出した。」とあります。聖霊である神様が、集まっていた一人一人の上に降ります。舌というのは聖霊です。この出来事は、イエス様によって予告されていました。炎のような聖霊が一人一人の上に降りると、不思議なことに、そこにいた人々は、それぞれ違う言葉で話し出したのです。それまで聞いたことのない言葉でイエス様の弟子達が話し出したので、周りの人々は驚きました。七節には、「話しをしているこの人達は、皆ガリラヤ人ではないか」と言っています。勉強もしていないガリラヤの人々が、突然外国の言葉をすらすらと話し出したので、周りにいた人達は驚いてしまいました。神様はこのことによって、世界中の人々に、イエス様が救い主であることが広まるようになされたのです。その後、弟子達によって、多くの国々にイエス様の教えが伝えられ、世界中に教会が建てられ、現在23億人もの人々が、イエス様を救い主として信じています。ペンテコステというのは、イースター、クリスマスと共にこの世に初めて教会が建てられた大切な日です。神様は、今も、私達に聖霊を送って下さり、私達を守り、導いてくださっています。神様の守りを感謝し、イエス様の救いを信じて、これからも、教会に来ましょうね。

10月の御言葉

「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。」

マタイによる福音書6:33

10月の教会学校礼拝

(毎週日曜日、朝9時15分~9時45分)

★ お話の聖書箇所と担当の先生

聖書 お話
10月 6日(日) 出エジプト記3:14~15 藤野美樹 先生
   13日(日) マタイによる福音書6:33 藤野雄大 先生
   20日(日) イザ書55:8~13 斉藤紀 先生
   27日(日) 列王記(上)17:8~16 興津晴枝 先生

成宗教会学校からのお知らせ

  • 11月24日(日)より、毎月原則第4週の日曜日に、「大人と子どもの合同礼拝」を守ることになりました。
  • 時間は大人の礼拝の時間、10時半からです。第四週日曜日には、いつものような教会学校の礼拝はありませんので、ご注意ください。
  • 子どもだけでなく、ご家族もご一緒に、ぜひ合同礼拝にご参加ください。お待ちしています!

束縛を解かれる

9月の説教

説教箇所 ルカによる福音書第13章10-17節

説教者 成宗教会牧師 藤野雄大

 

「この女は、アブラハムの娘なのに、18年もの間、サタンに縛られていたのだ。安息日であっても、その束縛から解いてやるべきではなかったのか」(16節)

本日の聖書日課では、新約聖書の箇所としてルカによる福音書13章10節以下が与えられています。これは、ルカによる福音書独自の記事であり、イエス様が安息日に、腰の曲がった女性を癒したことが記されております。

安息日にイエス様が、会堂、ユダヤ教のシナゴーグで教えておられた時のことでした。そこに18年間も、病の霊に取りつかれている女性がいたと聖書には記されております。これは「弱さの霊」とも訳すことができる言葉だそうです。この女性が具体的に何の病気であったのか、その病名を特定することは困難ですし、またあまり意味のあることではないでしょう。

大切なのは、その病気が、弱さの霊が原因であり、また16節にも、「この女はアブラハムの娘なのに、18年間もの間サタンに縛られていたのだ」と記されていますように、霊的な力によるものであったということです。この女性は、そのような霊的な力によって苦しめられ、18年間もの長い間、それに縛られていたのでした。

この女性を見た主イエスは、女性を呼び寄せ、その病をいやされました。それは真に奇跡的な癒しの業でした。イエス様の癒しの物語を読むとき、私たちは、ともするとその奇跡としか言いようのない癒しの御業に注目しがちです。しかし、他の福音書とも共通することですが、ルカによる福音書では、そのような奇跡そのものよりも、むしろ、その奇跡を通して、イエス様が語られた教えに注目するように、読む者をうながしています。今日の聖書箇所でも、それは言えます。この不思議な癒しを通して、イエス様は、安息日とはいかにあるべきか、安息日の本当の意味とは何かということを教えてくださっているのです。

そのことは、その直後の14節以下で、ただちに会堂長と安息日の規定に関する議論が展開されていることにも表れています。シナゴーグでは、しばしば安息日というものが、どうあるべきか、安息日の過ごし方について話されることがあったようです。そして、会堂長、つまりシナゴーグの責任者であれば、安息日の規定についても詳しかったのでしょう。

安息日には、あらゆる労働をやめ、休まなければならないというのは、ユダヤ教の基本的な教えです。これは、当時だけでなく、今でもイスラエルでは厳格に守られています。昨年の夏にイスラエルに行ったとき、私も、それを始めて経験しました。ユダヤ教の安息日は、金曜日の日没から始まって、土曜の日没まで続きますが、この金曜日の夕方になると、ユダヤ教徒の店は、軒並みしまってしまいます。そして、静まり返った町の中で開いているのは、ユダヤ教徒以外の人のお店だけになってしまいます。私たちも、夕方には観光客向けの中華料理のお店に入った思い出があります。

このようにユダヤ教の規定では、安息日には緊急性のあること以外は、働いてはいけないとされています。そのため、イエス様が、安息日に癒したことに腹を立てた会堂長は、群衆に向かって、14節にあるような言葉を語ったのです。「働くべき日は六日ある。その間に来て治してもらうがよい。安息日はいけない。」(14節)

この会堂長の判断は、ユダヤ教の規定に適ったものでした。ユダヤ教の安息日規定にも、例外はあって、緊急の病であれば、安息日にも治療することは許されていました。しかし、この女性は、18年間ずっとこの状態であったわけですから、緊急性は低い、だから、安息日以外の日に治してもらうべきだ。こう会堂長は主張したのです。そして、このような会堂長の主張は、ユダヤ教の規定に従えば、真にもっともな判断でした。しかし、それに対して、イエス様は、安息日の本質、安息日の本来の意味は一体何なのかということを示されます。

会堂長たちが厳格に守っていた安息日の規定は、確かに旧約聖書の律法、つまり神の言葉から出たものです。しかし、神様が、安息日を定められたのは、一体何のためであるのか。それは、細かな規則によって、人を縛り付けるためのものでしょうか。何もしないということを強制するためのものでしょうか。

安息日の本来の意味は、全く逆のものです。安息日とは、本来、神様が与えてくださった解放の日です。神様の恵みに生かされる日です。主イエスは、それを、反対者たちの矛盾を突きながらお示しになりました。15―16節には、「しかし、主は彼らに答えていわれた。『偽善者たちよ、あなたたちは誰でも、安息日にも牛やろばを飼い葉桶から解いて、水を飲ませに引いて行くではないか。この女はアブラハムの娘なのに、18年もの間サタンに縛られていたのだ。安息日であっても、その束縛から解いてやるべきではなかったのか。』」と記されています。

ここでは、「縛られている」ことと「解放される」ことの対比がなされています。イエス様に反対した人たちは、自分の家畜を安息日に世話することは忘れませんでした。そうしなければ、暑さの中で、家畜が水も飲めず、食べ物も食べられず死んでしまうからです。そのように、彼らは、自分たちの家畜が、たった一日であっても、縛り付けられたままにしておくことはしません。ところが、同じアブラハムの娘、同胞である女性が、18年間も、病に縛り付けられている状況は、全く放置していたのです。そして、「安息日以外の日に、また癒しにもらいに来たらいいではないか」と言うのです。つまり、彼らは、自分の家畜を大切にすることは知っているのに、自分の同胞を大切にすることには、徹底的に無関心であるということです。主イエスは、その矛盾を指摘されました。

そして、その女性が、18年間も苦しんできたのだから、その束縛から一日も早く解放してあげるべきではないかと言われたのです。

新共同訳聖書では、「安息日であっても、束縛から解いてやるべきではないか」と訳されていますが、この言葉は、「安息日だからこそ、束縛を解いてやるべきではないか」とも訳することができるようです。そのように理解する方が、安息日と束縛からの解放の間により強い結び付きが生まれます。

そもそも安息日というのは、本来、解放の日です。ただ仕事を休むというだけではなく、束縛されている者、苦しんでいる者が、神の愛によって解放され、救われる日です。

イエス様のお言葉を聴いて、反対者たちは恥じ入り、一方、群衆は、イエス様の行いを見て喜んだと記されています。それは、イエス様の言葉が正しいものとされたことを意味しています。主イエスの教えを通して、自分たちの犯している矛盾や過ちを突きつけられたことを示しています。

今日の聖書の箇所は、私たちに安息日の本当の意味を教えてくれます。そして、この箇所は、同時に、一つの問を私たちに突きつけるものでもあります。その問いとは、束縛されていたもの、歪んでいたものは、その女性だけだったのだろうかという問いです。確かに、イエス様によって癒され、18年間の束縛から解放されたのは一人の女性でした。しかし、会堂長たちもまた、束縛され、歪んでいたことが、聖書には表れています。彼らは、安息日の規定という複雑怪奇な教えに束縛され、その本来の意味、つまり神による解放という本当に大切なことを見失っていました。その結果、本来は神様が良いものとして与えてくださった安息日そのものを歪めてしまったのです。

しかし、これは何も、彼らだけに限ったことではありません。私たちは、ともすれば何かに囚われて、本来の意味を見失ってしまうことがあります。ありがちな例え話ですが、例えば、子どもにベッドを与えたとします。ベッドは、本来、人に安眠を与えてくれる良いものです。ところが、子どもはどんどん大きく成長していきます。そして、ついにベッドからはみ出るぐらい大きくなりました。その時、まともな判断であれば、新しい、子どもの背丈にあったベッドを買い与えるということになるでしょう。しかし、そのベッドに囚われてしまった親は、逆に、ベッドに合わせて子どもの足を切り落とすのです。

もちろん、これはあくまでたとえ話であって、その愚かさを笑うことはたやすいことです。しかし、実際には、私たちは、さまざまなことに縛られて、同じような過ちをしていることに気づかされることがあります。むしろ、この世界で起きる問題の多くは、わたしたちが何かに囚われて、本質を見失った結果と言っても良いかもしれません。そして、何かに囚われる時、本来良いもの、良い意図をもって始まったことであっても、形骸化し、腐敗し、歪められていくことになります。

この私たちの持つ歪み、それを聖書では人間の罪であると語っています。聖書が語る罪というのは、単に悪いことをするという意味ではありません。聖書における罪とは、私たちが、神様から離れていることであり、そして神様から離れているがゆえに、まっすぐ、正しく生きることができず、歪んだ生き方しかできないことを指します。

今日の話でも、それは表れていました。安息日は、まぎれもなく神様が定めてくださったものであり、本来、とても良いものです。しかし、人間が持つ罪ゆえに、その本来、良いものである安息日もまた歪められてしまうのです。その結果、安息日は、安息の日ではなく、人を束縛する日となってしまうのです。

そのような束縛から、私たちを解放してくださるのは、ただ主イエス・キリストしかいません。今日の聖書箇所で、腰のまがった女性をいやしてくださったように、私たちを罪から解放し、真の自由を示してくださるのは、主イエスのほかにいません。

安息日に、主イエスによって癒された女性は、腰がまっすぐになり、神を賛美したと、聖書には記されています。また、その主イエスの行いを見た群衆は、喜んだとあります。これこそが、安息日の本来の姿です。主によって罪の束縛を解かれた者が、賛美し、喜ぶ、これこそが本当の安息の日なのです。

私たちもまた、毎週日曜日に主日礼拝、つまり安息の日を守っています。こうして、主の日に集められ、主を賛美し、主を喜んでいます。もし主が、私たちを礼拝へと招き寄せてくださらなかったならば、長年にわたって束縛されていた女性のように、私たちも今もなお罪に縛られていたでしょう。まっすぐに立つことができず、苦しめられていたでしょう。しかし、主は、この女性と同じように、私たちをも招き寄せ、手を置いて癒してくださいました。主の安息の日に、主の御言葉を通して、私たちも罪から解き放たれ、自由にされるのです。

この主イエスが回復してくださった安息日の本来の意味を心に留めましょう。そして、私たちも、主によって解放されたことを賛美し、また喜びたいと思います。

祈りましょう。

2019年9月号

「知恵と知識の宝はすべて、キリストの内に隠れています。」

新約聖書、コロサイ2章3節

このお便りは、なりむね教会からのメッセージです。キリスト教会は神様の愛について学び、伝えます。子供さんも大人の方も、読んでいただければ幸いです。

焦凝先生のお話

(7月21日の礼拝で話されたものです。)

聖書:ルカによる福音書12:13-21

 今までは十戒を教会学校で皆さんと勉強してきました。今日は最後の箇所、第十戒を勉強します。
十戒は人間のために神様からモーセに授かった戒めです。しかし、私たち罪のある人間にとっては、これらの戒めを守ることが難しいことです。でも、神さまは私達が恵みの内に生きてほしいから、その故に神さまは私たちに神様の戒めを守ってほしいということです。
しかし、この最後の戒めでも私たちにとっては、どれだけ難しいことなのか、焦先生もよくわかります。「他人の物や財産を欲しがってはいけない。」。ここでいう財産は、低学年の子どもにとっては、あまり持っていないから関係がないと思うかもしれませんが、私たちの持っているおもちゃについて考えるとわかるかもしれません。
焦先生がまだ1、2年生のころトランスフォーマ―という遊びが大流行していました。アニメと共に、トランスフォーマーのおもちゃがBANDAIという日本のメーカーで作られました。しかし、当時は日本で製造したものが中国に輸入されると値段が高くなります。誕生日のプレゼントはいつもトランスフォーマーで、学校のテストでいい成績が取れたら、ご褒美ももちろんトランスフォーマーでした。どれも模倣品つまり偽物でした。一人の友達のお父さんがアメリカから出張帰りで、友達に当時最も人気のあるコンボというキャラクターのおもちゃを買ってきました。その友達は家に来る友達に触って欲しくなくて、箱入れの状態で高いタンスの上に置いていたことをはっきり記憶しています。その時の焦先生はきっととっても欲しがったでしょう。

皆さんもこの気持ちはあったでしょうか。実はいっぱい持っているけど、むしろいっぱい持っていたけど、どうしても他のだれかが持っているものがいい、その人が持ったものが欲しい。この気持ちは貪欲といいます。十戒の最後で皆さんに警告するものはつまり貪欲についてです。

皆さんが、学年が上がって来ることによって、小遣いも親から配られます。小遣いをたくさんもらっているお友達が羨ましいでしょうか。もらっているけど足りないと思ったときから、今日の聖書で出てくる遺産を分けるとおおきなくらを作ってすぐ死んだお金持ちと変わらないことになります。つまり貪欲のひとです。

小遣いに関して、定額のおうちか、家事手伝い分で支給するおうちがあるででしょうか?みなさんは小遣いを自分のもの、あるいは親のものと思っているでしょうか?小遣いは私達の金銭感覚を養うためのものと考えている親が多いと思います。しかし、私達がてっきり自分のものだと思ってしまうことが多いのではないでしょうか。

この世の中の財産は神さまが私達に与えたものですが、私達は私たちの財産は自分の能力や努力で出来たものと思ってしまうことが多いのではないでしょうか。一番大事にしないといけないことは、神さまから私達が豊かにいただいていることを認めること、恵みの大切さを意識することです。つまり神さまのご存在と私たちに多く与えてくださることを認めることです。
ここにいる皆さんはいずれ大人になると思います。その時にお給料をもらう優秀なサラリーマンになるかもしれません。また経営者になってお金持ちになるかもしれません。そうなったときに、今日の説教の貪欲についての教えを忘れないでほしいです。私たちがもっているお給料、資産や不動産はどんなに少なくても多くても、神さまからいただいていることを忘れないでほしいです。
私たちの人生は色々あると思います。多くもらう時もあり、貧しいときもあります。どんな時でも貪欲に陥らずに、神さまから恵みをもらっていることを忘れずに感謝することが今日の教えです。

9月の御言葉

「あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものを御存じなのだ。」

マタイによる福音書6章8節

9月の教会学校礼拝

(毎週日曜日、朝9時15分~9時45分)

★ お話の聖書箇所と担当の先生

聖書 お話
9月 1日(日) 詩編116:12~19 藤野美樹 先生
   8日(日) サムエル記上 3:1~18 山口智代子 先生
  15日(日) サムエル記上1:10~28 藤野雄大 先生
  22日(日) マタイ6:5~13 興津晴枝 先生
  29日(日) イザヤ書63:16 藤野美樹 先生

成宗教会学校からお知らせ

みなさん、夏休みは楽しく過ごせましたか。教会学校の礼拝も9月からまた始まっています。礼拝時間は9時15分からです。小さいお子様から高校生まで、ぜひいらしてください。

主は近くにおられる

8月の説教

説教箇所 フィリピの信徒への手紙4章1-7

説教者 成宗教会牧師 藤野雄大

「あなたがたの広い心がすべての人に知られるようにしなさい。主はすぐ近くにおられます。」(5節)

主にある兄弟姉妹の皆様、今日もまた、共に主の御言葉を聞きましょう。

本日の礼拝では、「フィリピの信徒への手紙」第4章の箇所が与えられています。これは、使徒パウロがフィリピという今日のギリシャにあった町の信徒に対して送った手紙です。

また「フィリピの信徒への手紙」は、別名「喜びの手紙」と呼ばれることがあります。それは、この手紙の中で、パウロが、繰り返し「喜び」という言葉を用いているからです。今日の聖書箇所である4章は、そのフィリピの信徒への手紙の1番最後の章になりますが、その3節には、次のように記されております。「だから、わたしが愛し、慕っている兄弟たち、わたしの喜びであり、冠である愛する人たち、このように主によってしっかりと立ちなさい。」さらに4節にも、「主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい」と記されております。

このように喜びということが強調されている手紙ではありますが、それはなぜでしょうか。それほどフィリピの信徒たちが、喜んでいたからでしょうか。喜びに満ちた信仰生活を送っていたからでしょうか。残念ながら、多くの人は、そうではないと考えられています。喜びなさいとパウロが命じるのは、実際には、フィリピの教会が、喜びとは、ほど遠い状態であったからでした。

フィリピの教会から喜びを奪っていたものとは、教会内にあった不和や対立であったと考えられています。それは、今日の聖書箇所にも表れています。「わたしはエボディアに勧め、またシンティケに勧めます。主において同じ思いを抱きなさい。」(2節)

ここでは、エボディアとシンティケという二人の人の名前が登場します。パウロの手紙には、しばしば実在の人物の名前が登場します。それは、パウロが、ただ深遠な神学書を書くことを目的にしていたのではなく、現実の教会のために、つまり実在する教会とそこに集う人々を想いながら、手紙を書き送ったからです。そのため、このエボディアとシンティケというのも実在の人物であったと考えられています。おそらくフィリピの教会に属する人で、フィリピの教会に対して、とくに重要な働きを担っていた人だったと考えられます。

興味深いことに、この二人の名前は、ともに女性の名前だとされています。今日でも、教会は、男性よりも女性の数が多いところです。それは、日本の教会ばかりではなく、世界的傾向といってもよいと思います。そのため、教会の実際の働きには、女性の力が必要不可欠です。それは、この成宗教会もそうでありますし、聖書の時代の教会も同様であったわけです。

おそらく、エボディアもシンティケもフィリピの教会を献身的に支えていた女性であったと考えられます。そして理由は、はっきりとは記されていませんが、この時、二人の間には、何らかの行き違いや対立が生じていました。些細な事が原因であったかもしれませんし、あるいは重要な信仰上、教会運営の意見の対立であったかもしれません。一つ確かなことは、二人の対立の結果、フィリピの教会から喜びが失われ、悲しみが生じており、またそれが遠方にいたパウロの耳にも達していたということでした。

これは教会の現実の姿を伝えていると言えます。悲しむべきことに、教会にもしばしば対立が生じることがあります。伝道や教会の方針を巡る意見の対立を巡って、あるいは、もっと個人的な問題、たとえば気の合う、合わないと言ったことでも対立が生じることがあります。このような対立が生じるのは、究極的には、私たちが、主イエスを信じ、主イエスによって罪許されても、なお罪を犯しうる存在であるからです。人間の弱さであり、また愚かさであると言えましょう。残念ながら、それはどのような教会でも起きうることです。そして、この時のフィリピの教会でも、まさにそのような対立が生じていたのでした。

それでは、そのような教会に使徒パウロはなんと語ったのでしょうか。一体、どうすれば、対立がある教会に、喜びが再び回復されると教えているのでしょうか。それは、先に引用しました2節の「主において同じ思いを抱きなさい」というパウロの言葉に表れています。

そして、続く3節以下で、当事者のエボディアとシンティケだけでなく、他の人々にも、この二人のことを支えてあげるように言います。

つまり、パウロは、二人の問題を他人事として無関心でいるのではなく、二人のために祈り、理解してくださいと願っています。それはなぜかと言うと、二人とも、他の協力者とともに、福音のためにパウロとともに戦っていたからだとパウロは言います。エボディアもシンティケも、今は対立していますが、ともに主イエスを熱心に信じる人でした。そして、福音伝道のために力を惜しまず働いていた人だったのです。このことを思い出させた後、パウロは次のように語りました。「主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい。」(4節)

キリスト者の喜びというのは、主イエス・キリストにおいて、もたらされるものであるとパウロは語ります。ここにキリスト者の喜びの根本があります。教会は、主イエスを離れて、存在することはありません。また教会で語られる喜びというのは、世間的、この世的な喜びではありません。教会の喜びとは、常に主イエスから生じるものです。この世的、人間的な喜びというのは、やがては消え去るものですが、主における喜びというのは、変わることがないものです。

エボディアもシンティケも、パウロの他の協力者たちも、またフィリピの信徒たちも、主イエスを知り、主イエスを信じることで救われました。ここに、すべてのキリスト者の一致の基礎がありますし、また喜びがあります。

パウロは、この喜びと教会の一致の基礎を今一度強調いたします。「あなたがたの広い心がすべての人に知られるようになさい。主はすぐ近くにおられます。どんなことにも思い煩うのはやめなさい。」(5節)

パウロは言います。「主はすぐ近くにおられます」と。そして、そうだからこそ広い心で、互いを受け入れ合い、あれこれと思い煩うことはやめさない。パウロは、そのように勧めます。

ここでパウロが言う「主がすぐ近くにおられる」というのが、空間的に近いということか、時間的に近いということかは、はっきりとは分かりません。主は、わたしたちの側近くにおられるのか、あるいは主は、まもなく私たちの所にやってこられるという意味なのかは判然とはしません。

結論的に言えば、おそらく両方の意味が込められているのでしょう。主が近くにおられるということは、パウロの差し迫った終末的希望への信仰と密接に結びついているからです。

古代教会の有名な説教者であったクリュソストムスは、今日の聖書箇所について、「『主がすぐ近くにおられる』ここに慰めがある。」と語りました。

私たちには、思い煩いがあります。思い通りにはいかない現実があります。心配事があり、悩みがあります。それは、一人一人の信仰生活にもありますし、また教会の中にもあります。しかし、パウロが語ったように、主は近くにおられます。これこそが、信仰者にとって唯一にして、究極の慰めです。

「主は近くにおられる」ということを礼拝の中で、もっとも端的に表しているものが、聖餐式であると言えます。聖餐式を通して、主の御体と御血に与る時、私たちは、「主が近くにおられる」という恵みをはっきりと味わい知ることになるからです。そして、主が親しく臨在される聖餐式は、同時に教会が主に在って一つであることを示します。教会の一致の基礎でもあるのです。

この聖餐式の直前に「平和の挨拶」というものを行う教会があります。これは、聖餐式の前に、互いに「主の平和がありますように」と挨拶を交わすことです。自らの罪を悔い改め、お互いに対立があれば、まず仲直りしてから主の聖餐に与るというものです。主において一つである教会において、互いの罪を赦しあい、主において喜び合うことの大切さを象徴したものと言えます。

先ほども申しましたが、教会では、さまざまな対立が起こり得ます。フィリピの教会がそうであったように、日本の教会でも起こり得ます。小さな群れの中であっても、さまざまないさかいや対立、意見の相違は見られることです。しかし、使徒パウロは、そのような私たちに向けてこう語ります。人間的な目で見るのをやめなさい。この世的なものを求めるのはやめなさい。そうではなく、ただ主において喜びなさい。いつも喜んでいなさい。そして、主に在って一つとなりなさい。なぜなら、主はすぐ近くにおられるからですと。

この御言葉を心に留めて、今日もまた、主の聖餐に与りましょう。そして、そこからもたらされる喜びに生きるものとなりましょう。

お祈りをいたします。

安心していきなさい

7月の説教

聖書箇所 ルカによる福音書7章36-50節

説教者 成宗教会牧師 藤野雄大

「イエスは女に、『あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい』と言われた。」(ルカによる福音書7章50節)

主に在る兄弟姉妹の皆様、本日も、主の御言葉を共に聴きましょう。

本日示されました新約聖書の箇所は、ルカによる福音書7章36-50節です。今日の箇所では、ファリサイ派のシモンという人の家にイエス様が招かれた時のことが記されております。イエス様たちが、シモンの家にいると、そこに一人の「罪深い女」といわれる人がやってきて、主イエスの足を涙でぬらし、髪の毛でぬぐい、さらに接吻して香油を塗ったのでした。

この罪深い女というのが、誰であったのか、その名前をなんといったのか、それは、記されていません。例えば、伝統的な教会の理解では、この罪深い女を、他の福音書に描かれる、主イエスの頭に香油を注いだとされる女、あるいはベタニアのマリアと同じ人物であるとされてきました。確かにマルコによる福音書14章では、重い皮膚病を患うシモンという人の家に主イエスが招かれた時に、主イエスの頭に香油を注いだ女の人がいたという類似した記事が記されています。

もしかしたら似たような出来事が、何度かあったのかもしれません。あるいは同一の出来事が、それぞれの福音書に異なる形で載せられたと考えることもできるかもしれません。しかし、この女性が誰であったのか、それをはっきりと断定することは、今日の私たちにはできません。ただその女性が罪深い女であったとだけ、私たちは知ることができます。そして、その罪とは、売春、あるいは性的不品行を指すものであったと言われています。確かなことは、その女性が、罪深い存在であること、当時のユダヤ教の道徳や宗教的慣習に反する行いをしていることが、町の人々には広く知られていたということです。

そのことは、ファリサイ派のシモンの言葉にも表れています。「イエスを招待したファリサイ派の人はこれを見て、『この人がもし預言者なら、自分に触れている女がだれで、どんな人か分かるはずだ。罪深い女なのに』と思った。」(39節)。

このシモンの言葉には、彼の二つの思いが表れていると言えます。一つは、この罪深い女に対する批判あるいは怒りです。シモンは、この女性がユダヤ教の基準からすれば、罪を犯していることを知っています。ファリサイ派であったシモンは、ユダヤ教の教えを守ることに熱心であり、自分を正しい人間であると考えています。ですから、そのような罪深い人々と関わりを持つことなどありえないことでした。それが、突然、自分の許しも得ずに、この罪深い女が勝手に自分の家に入り込んできたのです。そして、主イエスの足に香油を塗ったのです。それは、客である主イエスに対しても、また家の主人であるシモンに対しても、無礼なことでありました。シモンの面目をつぶすことになるからです。

しかし、一方で、シモンは、この女性を無理に追い出したりはしません。むしろ彼は、一歩引いて、主イエスであればこの事態をどのように対処するのか、事態を伺っています。「預言者ならば、この女がどのような人であるか分かるはずだ」。そのシモンの言葉には、主イエスの期待あるいは主イエスを試すような彼の気持ちが込められています。

この言葉が示すように、シモンは、ファリサイ派でしたが、同時に、主イエスのことを真っ向から敵対視していたわけではなかったでしょう。むしろ、自分の家に招いて、食事を共にしようとしています。ユダヤ社会において、食事を一緒にするということは、その人を自分の仲間であるとみなすことです。ですから、シモンは、むしろ主イエスに対して、一定の興味や関心をもっていたといえます。もしかしたら主イエスは、真の預言者であるかもしれない。そのように思っているわけです。そこで、彼は、この罪深い女にイエス様が気づくかどうかを試そうとします。

そのシモンの思惑に対して、主イエスは、シモンの想像をはるかに超えた言葉を語られます。41節から42節に記されている主イエスのシモンに対する問いかけに注目しましょう。「イエスはお話しになった。『ある金貸しから、二人の人が金を借りていた。一人は5百デナリオン、もう一人は50デナリオンである。二人には返す金がなかったので、金貸しは両方の借金を帳消しにしてやった。二人のうちどちらが多くその金貸しを愛するだろうか。』」

この主イエスの問いかけには、主が、その女性がどのような人であったかをご存知であることが暗示されています。ご自分の足を拭った女性が、神に対して大きな負債を負っていること、つまり、これまで深い罪を犯してきたこと、また罪の赦しを心から願っていることをご存知でした。そのことを言い当てることによって、ここで主イエスは、真の預言者であることを示されたのです。

さらに、主イエスは、その後で、愛と赦しの関係を語られます。「だから、言っておく。この人が多くの罪を赦されたことは、わたしに示した愛の大きさで分かる。赦されることの少ない者は、愛することも少ない。」(47節)

赦されることの少ない者は、愛することも少ない。どれだけ自分が罪深いものであるか、自分の罪の深さを知る者は、罪からの赦しを心から願います。そして、罪から赦された喜びを、主イエスへの愛によって表現しようとします。

おそらく、この罪深い女は、この出来事以前に、どこかで主イエスの教えに触れたことがあったのでしょう。直接、主イエスの教えを聞いたのかもしれませんし、あるいは人づてに主イエスのことを知ったのかもしれません。そして、主イエスが、自分の罪を赦してくださる方であることに望みをかけていたからこそ、今日のような大胆な行動にでたのでしょう。

他人の家に勝手に入り込んで、そこにいる客の足を涙で濡らし、髪の毛で拭い、接吻して、香油を塗るというのは、よくよく考えてみれば、非常識とも言える光景です。しかし、その非常識さの中に、この女性がどれほど自分の罪深さを痛感し、またそこからの赦しを、解放を願っているかが示されています。

一方、ファリサイ派のシモンは、たしかに主イエスにある種の好意を持っていましたが、自分の罪の赦しをねがっての行動ではありませんでした。世間で話題になっている人だから、有名な先生だから、主イエスを招いたのであって、自分のすべてを主の前にさらけ出す気持ちはありませんでした。それが、シモンと罪深い女の決定的な違いでした。

この二人の違いを示された後、主イエスは「あなたの罪は赦された」と女性に宣言されます。預言者として、その女性の正体を見抜かれただけでなく、罪の赦しを宣言されたのです。罪の赦し、それはただ神様以外にはできないことです。それを主はここではっきりと宣言されます。この言葉には、主イエスに自らを委ね、心から悔い改めるものは、主イエスによって救われるということが示されています。

古代教会では、今日の箇所は、しばしばユダヤ教とキリスト教の違いを示すものとして理解されてきました。すなわちファリサイ派のシモンは、ユダヤ教を象徴し、罪深い女性はキリスト教会を象徴するものと考えたのです。主イエスは、最初、シモンの家、つまりユダヤ人の間に来られますが、彼らは主イエスを受け入れません。主イエスを心から受け入れ、愛したのは、罪深い女であったのです。

この古代教会の解釈は、今日の聖書学では受け入れられないものかもしれません。しかし、一方で、感心させられるのは、それでもなお古代教会の聖書の読み方には、一定の真理が込められているということです。それは、教会というものが、この罪深い女と同じように、罪に呻き、また主イエスに罪を赦された者の集いであるということです。今日の聖書箇所は、読む者全てに、自分がシモンなのか、罪深い女性なのかを突きつけます。

自らをシモンであると考える人、つまり自分の罪を認めない人に、主イエスを本当に受け入れることはできません。そして、主イエスを受け入れ入れないがゆえに、赦されることもなく、また真の愛を知ることもできません。しかし、自らの罪を認め、心から悔い改めるならば、その時、主イエスを救い主と受け入れることになります。

宗教改革者のマルティン・ルターは言いました。「キリスト者よ、大胆に罪を犯せ。しかし、大胆に祈り、大胆に悔い改めよ」と。ルターが言う「大胆に罪を犯せ」というのは、わざと罪を犯せ、わざと悪いことをしろというものではありません。罪とは、そのような単純なものではないからです。ルター自身も、長い間、自分自身の罪に悩み苦しんだといいます。罪とは、自分自身の生き方を変えられないという嘆きです。罪とは、生き方そのものに関わるものです。

今日の聖書箇所に登場した罪深い女が、一体どのような罪を犯したのか、具体的には知ることはできません。しかし、いずれにしても、それは彼女が、望んで、故意に犯した罪ではなかったはずです。むしろ、彼女は、そのように生きていく他なかったのです。自分では望まないけれども、他にどうすることもできない。それまでの生き方を変えたくても変えることができない。それこそが、人間の本当の罪であり、また悲惨です。本当の罪とは、私たちをこのように責めさいなむものです。しかし、その苦しみと嘆きの後に、罪深い女は、やがて主イエスを見出したのでした。それは、自らの罪を、自らの人生を変えてくださる方でした。

主イエスは、この罪深い女に、最後にこう言われました。「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。」(50節)あなたの信仰こそがあなたを救う。主イエスへの信仰によってだけ救われる。主イエスを信じることによって、全く新しい生き方をするようになるということです。

主イエスによって罪が赦され、この女性は全く新しい人生を歩むようになりました。しかし、それはこの女性だけではありません。ルターもそうですし、また私たち教会に集う者全てがそうです。「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。」この主イエスの言葉は、今も、自らの罪に呻き、主イエスに依り頼む全ての者に向けられているのです。この御言葉に支えられて、平安の内を生きたいと思います。

祈りましょう。