2019年7月号

「知恵と知識の宝はすべて、キリストの内に隠れています。」

新約聖書、コロサイ2章3節

このお便りは、なりむね教会からのメッセージです。キリスト教会は神様の愛について学び、伝えます。子供さんも大人の方も、読んでいただければ幸いです。


山口智代子先生のお話

(4月14日の礼拝で話されたものです。)

聖書:マタイによる福音書27:45~61

今日のお話は、十字架にかけられて、苦しまれて、死なれるイエス様の姿が描かれています。悲しくて辛い場面です。

イエス様は、捕らえられて、大祭司の屋敷の中庭へ連れていかれます。弟子は皆逃げてしまいました。ペトロだけが、大祭司の家の中庭で遠くからイエス様が裁判にかけられている様子を見ていました。すると、その屋敷の女中が、ペトロに近づいてきて「あなたもガリラヤのイエスと一緒にいた」と言いました。ペトロは、「何を言っているのかわからない」と言いました。また別の女中が「この人はナザレのイエスと一緒にいました」と言いました。そこでペトロは再び「そんな人は知らない」と否定しました。そこにいた人々が近寄って来て「おまえもあの連中の仲間だ」と言いました。それに対してまた「そんな人は知らない」と言いました。

イエス様の仲間だと言うと自分も捕らえられて殺されてしまうかもしれません。ペトロも私たちと同じように弱い人間でした。

イエス様はその何時間か前にペトロに「鶏が鳴く前にあなたは三度わたしを知らないと言うだろう」とおっしゃっていました。イエス様はペトロがこうなってしまうことをご存知だったのです。それでもイエス様はペトロを愛しておられたのです。

イエス様は死刑を宣告されて、ゴルゴダの丘という所で十字架にかけられています。金曜日の午後のことでした。イエス様は何も悪いことはしていないのに十字架の刑になってしまいました。お昼の時間なのに真っ暗でした。十字架に磔はりつけになっているのですから、とっても痛いし苦しいです。あと何時間も苦しんで死ぬまで磔はりつけになっていなければいけません。昼の12時に、あたりは暗くなりました。それが3時まで続きました。3時頃イエス様は大声で叫ばれました。「わが神よ、わが神よ、なぜわたしをお見捨てになったのですか」

イエス様は神様の御子なのにこの言葉は、イエス様にふさわしくないと思ってしまうと思うのですが、イエス様はお祈りをされているのです。私たちは、本当に辛い時や苦しい時は、お祈りができなくなることがあります。仲のいいお友達が急に亡くなってしまったことがありましたが、そのような時はお祈りすることが出来ませんでした。「神様、どうしてですか?」と思ったりしました。

イエス様は、身近にいた弟子達に裏切られ、見捨てられました。人に裏切られ見捨てられるのはつらいことですが、神様が支えて下さるという希望があるから立ち上がれます。でも、神様に見捨てられたら、誰も立ち上がることはできません。

イエス様は、神様に見捨てられるほど苦しい時に、神様を呼ばれて祈られたのです。絶望のの中にあっても、神様に信頼をおき、神様に従われたのです。イエス様は私たちの罪のために十字架におかかりになりました。私たちが見捨てられる代わりにイエス様が見捨てられました。本当は私たちが神様から見捨てられるはずだったのが、イエス様が私たちに代わって下さったのです。

何の罪もないイエス様が、私たちのために神様に見捨てられる。このことで、イエス様が神様の御子であることが明らかになりました。この十字架の死によって、人間の罪を赦して下さったからです。神の御子のイエス様が、私たちを救うために、私たちに代わって、神に見捨てられ、神様の裁きを受けて下さったので、私たちは罪赦されて救われました。聖書の箇所に「しかし、イエスは再び大声で叫び、息を引き取られた。そのとき、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂け、地震がおこり、岩が裂け、墓が開いて、眠りについていた多くの聖なる者たちの体が生き返った」 とあります。

この一部始終を見ておいた百人隊長たちは、「本当に、この人は神の子だった」といいました。私たちも「この方は本当に神の子です」と告白する礼拝を毎週日曜日にお捧げしていきます。皆さんも頑張って、出来るだけ礼拝に出席して下さい。

7月の御言葉

「わたしは主に望みをおき、わたしの魂は望みをおき、御言葉を待ち望みます。」

詩編130篇5節

7月の教会学校礼拝

(毎週日曜日、朝9時15分~9時45分)

★ お話の聖書箇所と担当の先生

聖書 お話
7月7日(日) 出エジプト記16:13~21 藤野美樹先生
  14日(日) マタイによる福音書15:10~20 藤野雄大先生
  21日(日) ルカによる福音書12:13~21 焦凝先生
  28日(日) 詩編130:1~8 興津晴枝先生

成宗教会学校からお知らせ

  • 8月18日(日)は「夏休み一日教会学校」です。大人と子供の合同礼拝をしたあと、バーべキューやスイカわり、ゲームなど楽しいプログラムを計画しています。ぜひお友達を誘って、ご参加ください!

時間 10:30~16:00  場所 成宗教会  参加費 500円

  • 礼拝でのお話は小学校高学年~中学生にもわかりやすく語られます。礼拝後の活動は幼少~小学生向きですが、何歳でも楽しく参加することができます。中高生の皆さんは、大人の礼拝にもご参加をおすすめいたします。礼拝時間は10時半~11時半です。親子連れの方も、どうぞいらしてください。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

唯一無二

6月の説教

聖書箇所 使徒言行録4章5-12節

説教者 成宗教会牧師 藤野雄大

 

「ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです」(使徒言行録4章12節)

主にある兄弟姉妹の皆様、本日もまた主の御言葉を聴きましょう。

本日は、使徒言行録4章の御言葉が示されました。ここでは、12使徒のペトロとヨハネがユダヤ教の議員、長老、律法学者たちによって、取り調べを受けた時のことが記されています。6節には、「お前たちは何の権威によって、だれの名によってああいうことをしたのか。」と記されております。

「ああいうこと」というのは、病人を主イエスの名によって癒したことを指します。これは3章のところで記されている、足の不自由な男を癒したことでした。3章16節にありますように、イエスの名によって、ペトロたちは、この人を強め、癒しました。

ユダヤ教の議員や律法学者たちは、これを問題視しました。なぜなら、イエスの御名によって人が癒されることを認めるならば、自分たちが死刑の判決を下し、十字架につけて殺してしまったイエスこそが、特別な力を持った存在、さらに言えば神の御子であったということを認めることになるからです。

そこで、彼らは、ペトロ達を尋問することで、ペトロ達を押さえつけようとします。ペトロたちを脅すことで、イエス・キリストの復活を宣べ伝え、主イエスの御名によって、人々を癒そうとすることを妨害しようとしたのです。

これに対して、ペトロは、彼らの圧力に恐れることなく実に堂々と弁明しています。8節にも「聖霊に満たされて言った」と記されておりますように、ペトロを強めたのは聖霊なる神でありました。聖霊が、ペトロに勇気を与え、証しすべきこと、語るべきことをお示しになったのです。

それでは、ペトロは聖霊に満たされてどのようなことを語ったのでしょうか。10節には次のように記されています。「あなたがたもイスラエルの民全体も知っていただきたい。この人が良くなって、皆さんの前に立っているのは、あなたがたが十字架につけて殺し、神が死者の中から復活させられたあのナザレの人、イエス・キリストの名によるものです。」

この10節の言葉にも表れているように、ペトロは、恐れることなく堂々と語ります。律法学者や長老たちのみならず、イスラエルの民全体に向けて、あなたがたが十字架につけて殺してしまい、神が死者の中から復活させられたキリストこそが、救い主であると宣言します。ペトロのこの変化は、驚くべきことです。なぜなら私たちは、聖書を読むとき、ペトロの信仰が、これまでとても弱々しいものであったことを知るからです。

例えば、イエス・キリストが十字架にかけられる夜、ペトロは、主イエスの弟子であることを指摘されました。その時、ペトロは、巻き込まれるのを恐れて、「私はイエスという人を知らない」と、三度も主イエスのことを否定したのです。そして、恐れてガリラヤに逃げ帰ってしまったのでした。

そのペトロが、今ここで、かつて関わりを否定した主イエスの御名によって癒しを行っています。さらに、取り調べの最中にも、その主イエスを、あなたがたは十字架につけて殺してしまったではないかと、有力者たちに、物おじすることなく、はっきりと批判しているのです。それはイスラエルの宗教的指導者たちを、怒らせ、命の危険を生じさせる危険性のある行為でした。しかし、それにも関わらず、ペトロは、主イエスの御名によって、癒しを行い。またその名による救いを大胆に語ったのでした。それは、まぎれもなく聖霊の神の御導きに他なりません。なぜなら、誰も、聖霊による以外に、イエスをキリスト、救い主であると告白することはできないからです。

こうして、聖霊によって促されたペトロは、12節において、はっきりと主イエスの名による救いを証言します。「ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです。」この言葉は、ペトロの偉大な信仰告白であると言えるでしょう。聖霊によって、導かれたものが語る真実の言葉であると言えます。

思えば、キリスト教とは、このキリストの名に対する信頼に基づくものであると言えましょう。たとえば、わたしたちは、お祈りする時、最後に決まって、「主イエス・キリストの御名によって祈ります」と締めくくります。これは、お決まりの定型句のように考えてはいけないものです。そこには、信仰的な意味が込められているのです。それは、ただキリストに依り頼むという徹底した救いの確信です。今日の箇所で、ペトロが証したように、私たちには、この名前以外に救いは与えられていないからです。

父なる神に祈る時、私たちは、自分自身の名によって祈るのではありません。また、天使や偉大な聖人の名によるのでもありません。ただイエス・キリストの名、イエス・キリストの権威によって、わたしたちは父なる神に祈ることができます。主イエス・キリストによって、私たちの祈りを聞き届けてください。私たちの祈りには、そのようなキリストへの徹底した信頼が込められているのです。

当たり前のことと思われるかもしれません。しかし、信仰者であっても、しばしばキリストを忘れ、キリスト以外に救いを求めてしまうことがあります。『ハイデルベルグ信仰問答』の問い29、30でも、その危険性に対して警告しています。

問29 なぜ神の御子は、「イエス」すなわち「救済者」と呼ばれるのですか。

答 それは、この方がわたしたちをわたしたちの罪から救ってくださるからであり、

唯一の救いをほかの誰かに求めたり、ましては見出すことなどできないからです。

問30 それでは、自分の幸福や救いを聖人や自分自身やほかのどこかに求めている人々は、唯一の救済者イエスを信じていると言えますか。

答え:いいえ。たとえ彼らがこの方を誇っていたとしても、その行いにおいて、彼らは唯一の救済者また救い主であられるイエスを否定しているのです。なぜなら、イエスが完全な救い主ではないとするか、そうでなければ、この救い主を真実な信仰をもって受け入れ、自分の救いに必要なことすべてをこの方のうちに持たねばならないか、どちらかだからです。(吉田隆訳『ハイデルベルク信仰問答』、信教出版社、2002年、pp.31-32)

ここには、はっきりとキリストが唯一無二の救いであることが示されています。ここで大切なことは、キリスト「のみ」が救いであるということです。キリストによってのみ救われるのであって、キリスト「も」、また別の神も救いであるということではないのです。

このハイデルベルグ信仰問答の言葉は、ペトロの信仰の告白と同じように、日本で生きるキリスト教徒へ重要な課題をなげかけることになります。

なぜなら、この日本の宗教的観念では、このようなキリスト「のみ」の信仰は、しばしば受け入れがたいものとされるからです。たとえば、こういうことを言う人がいます。「たしかにキリスト教もいいものです。でも、結局は、どの神様を信じていても同じでしょう。キリストだって、お釈迦様だって、神社の神さまだって、どれもみな結局は同じでしょう。」

このような考え方をする方も、日本では少なくないように思います。そして、ハイデルベルグ信仰問答が警告しているように、私たち信仰者もまた、気を付けていないと、キリスト「のみ」の信仰から、キリスト「も」、他のもの「も」という信仰に陥ってしまう危険性を持っています。しかし、このキリスト「も」という信仰は、結局のところ、キリストを信じているとは言えない。そのことを、『ハイデルベルグ信仰問答』ははっきりと教えています。

このことは、「キリスト者」、「クリスチャン」という言葉にもよく表れています。この言葉は、わたしたちが何者であるかを良く言い表しています。キリスト者とは、そしてキリスト教とは、ただキリストにのみ、自らの救いの確信を置き、また望みを置くことです。救いの一部ではなく、救いに必要なことがすべてキリストにあると確信することです。

それは、キリストだけが、罪の赦しのために十字架にかかり、また死者の中から復活されたということによっています。キリストだけが、わたしたちの罪を許すことのできるお方であり、また永遠の命を与えてくださるということです。

主イエスの御名により頼むというのは、その犠牲に感謝し、その恵みの内を生きるということを意味します。ただ主が示してくださった救いを信じ、そこに唯一無二の慰めを見出しつつ、信仰の歩みを進めたいと思います。

祈りましょう。

2019年6月号

「知恵と知識の宝はすべて、キリストの内に隠れています。」

新約聖書、コロサイ2章3節

このお便りは、なりむね教会からのメッセージです。キリスト教会は神様の愛について学び、伝えます。子供さんも大人の方も、読んでいただければ幸いです。


斉藤紀先生のお話

(5月19日の礼拝で話されたものです。)

聖書:申命記4章15-19節

旧約聖書に、出エジプト記という項目があります。昔昔、エジプトで奴隷になって働かされていたイスラエルの人たちを、モーセが率いてカナンの地まで連れてゆく物語です。苦労してエジプトを脱出、そしてシナイ山で、モーセは神様との約束を石に刻みました。これが有名な十戒です。モーセがシナイ山にこもり、パンも水も口にしないでひたすら神様と会話をして、石に刻んだと言われています。全部で10項目あります。第1番めが「あなたは私のほかに何者をも神としてはならない」 2番めが「あなたは自分のために刻んだ像を作ってはならない(神様でないものをつくって拝んではならない)」です。今日の勉強の箇所は、この十戒の2番目、偶像を作ってはならないというところです。自分のために、どんな形の像も作って拝んではならないと、今日の聖書箇所にあります。神様は目に見えない方です。神様の形を作って、拝むというのは、いけないことなんです。なぜかというと、神様の形を木とか、石膏とか、そうだ、高価な高いもので作ればお金がたくさんかかったのだから心がこもるかなと思って、金で作ってもいけません。木は燃やせば灰になります。灰の中には神様はいらっしゃいません。石膏も同じです。壊せば白い粉になってそれだけです。白い粉の中には神様は存在しません。金もそうです。溶かしても、金です。金は1000℃ちょっとくらいで溶けますけれど、融けて塊になっても神様は現れません。どうしてでしょうか。金の中に神様はいらっしゃらないからです。要するに、木にしろ、石膏にしろ、金にしろ、それは神様ではないのです。

神様ではないものを神様として拝むことは、いけないことなのです。イスラエルの人たちは、神様によって自由を与えられ、奴隷から解放されました。でも、それには守られなければならないことがあったのです。それが十戒です。モーセがシナイ山に登って、神様と対話をしているときに、なかなか下りてこないので、ふもとで待っていた人たちは不安になって、金で子牛を作って拝んだりしましたがこれを知った神様はたいそうお怒りになりました。人間は大変弱いものですから、神様が目に見えないので不安になって、金の偶像を

作ってしまったのかも知れません。でも、まことの神様は天にいらっしゃいます。天にあって、私たちを愛し、恵みを下さり、そして正しい方向に導いて下さっているのです。このことを忘れないでください。

私はこの十戒が刻まれた石を見たいと思っているのですが、まだ発見されていません。十戒の石版は石ですから、どこかで土に埋もれているのではないかと思っています。モーセの時代は、はっきりとは分からないのですが、紀元前12-3世紀ではないかと言われています。

この石版は、契約の箱という箱に収められ、エルサレムの神殿に安置されていた時代もあったのですが、よその国の王様が攻め入ってきて、神殿を壊したころから、行方が分からなくなりました。コピー機のような便利なものが無い時代ですから、私はきっとこの石版の複

製品が何枚かあるのではないかと思っています。そのうちきっと土の中から掘り出される日が来ると期待しています。なぜかというと、この石版よりもっともっと古いものが、近代になって土の中から出てきているのです。ですから、モーセの十戒の石版もそのうちに発見されるかもしれませんね。

6月の御言葉

「愛する人たち、自分で復しゅうせず、神の怒りに任せなさい。「『復しゅうはわたしのすること、わたしが報復する』と主は言われる」と書いてあります。」

ローマの信徒への手紙12:19

6月の教会学校礼拝

(毎週日曜日、朝9時15分~9時45分)

◎ お話の聖書箇所と担当の先生

聖書 お話
6月2日(日) マタイ12:1-8 藤野美樹先生
  9日(日) 使徒言行録2:1-13 勝田令子先生
  16日(日) 箴言23:22-25 藤野雄大先生
  23日(日) ローマの信徒への手紙12:19-21 興津晴枝先生
  30日(日) 創世記2:18-25 藤野美樹先生

成宗教会学校からお知らせ

 

  • 6月9日はペンテコステ・花の日礼拝です。教会のお誕生日です。
  • 礼拝でのお話は小学校高学年~中学生にもわかりやすく語られます。礼拝後の活動は幼少~小学生向きですが、何歳でも楽しく参加することができます。中高生の皆さんは、大人の礼拝にもご参加をおすすめいたします。礼拝時間は10時半~11時半です。親子連れの方も、どうぞいらしてください。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

あなたは宝の民

成宗教会副牧師 藤野美樹

聖書:ヨハネによる福音書 15:12~17、申命記7:6~11

私たち夫婦が、この成宗教会に赴任して、2ヶ月が経とうとしております。雄大牧師と、成宗教会に赴任してまだ二ヶ月か、もう二年経ったような気がするね、と言っていました。というのも、この二ヶ月は、いろいろなことがぎっしりつまった二ヶ月間でありました。並木牧師から引き継ぎ、受難節、イースター礼拝、定期総会、納骨式、墓前礼拝、そして、ひとりの姉妹の信仰告白式を行うことができました。家族のようにホットする雰囲気の教会の方々にいろいろ教えていただきながら、牧会をすることができており、とても感謝しております。

二ヶ月前、成宗教会にどんな方々がいらっしゃるのかも知りませんでした。でも、今では毎週お会いして、ともに礼拝を守り、祈り合っております。二ヶ月前には想像もつかないことでした。この成宗教会に赴任したことに、神様の不思議なお導きを感じずにはいられません。

教会というところには、さまざまな人たちが集まっています。年齢も仕事も境遇も教会へ通うきっかけも、それぞれ違う方々が週一回集まり、ともに神様のまえにひれふして、礼拝を捧げています。そう考えますと、教会とはとても不思議なところに思えます。

教会とは、一体何でしょうか。

本日読みました、申命記ではこう語られています。

「あなたは、あなたの神、主の聖なる民である。あなたの神、主は地の面にいるすべての民のなかからあなたを選び、御自分の宝の民とされた。」

教会とは、「聖なる民」の集まりだと言われているのです。ここで言われている「聖なる」というのは、道徳的に清く正しいという意味ではありません。「聖なる民」というのは、「主なる神様のために聖別された」人々、という意味です。私たちは、それぞれ、神様との関係の中で、召し出され、招かれて、いま教会にいるということです。そして、神様は私たちのことを「宝の民」と呼んで、宝のように価値のある者としてくださっています。

しかし、私たちがそのようにして神様から選ばれ、「宝の民」と呼ばれるのは、なぜでしょうか。私たち、教会に集う者たちは、この地上の誰よりも優れているから、選ばれたのでしょうか。7節ではこう語られています。

「主が心引かれてあなたたちを選ばれたのは、あなたたちが他のどの民よりも数が多かったからではない。あなたたちは他のどの民よりも貧弱であった。ただ、あなたに対する主の愛のゆえに」。

つまり、私たちが選ばれ理由は、私たちの能力、素質によるのではなく、ひとえに「神様の愛」によるのです。神の選びは、人間の側の価値ではなく、むしろ資格のないような者に向けられているのです。それは、この世の価値観とは正反対です。「宝の民」と呼ばれる私たちは、優れたものであるどころか、神様から見たら貧弱な存在です。しかし、神様は私たちを選んで、「神様の宝の民」としてくださいました。

このように、教会というのは、ただ神様の愛によって選ばれた者の集いなのです。

本日お読みしました、もうひとつの聖書のみことば、ヨハネによる福音書にも、この「選び」ということが語られています。15章16節で主はこうおっしゃいます。

「あなたがたがわたしを選んだのではない、わたしがあなたがたを選んだ。」

主イエスは、はっきりと仰います。主が私たちを選んでくださいました。私たちの側には主の選びにふさわしい理由は何もないのです。主イエスが私たちを探しに来てくださったから、私たちは主イエスを知ることができたのです。主の無償の愛が私たちには注がれているのです。

13~15節では、さらに、その主の愛について語られています。

「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。」 

 主イエスは、私たちを「友」と呼んでくださっています。「友」とは、何でも打ち明けたり、共有したりできる間柄です。長く続く友情というのは、利害関係によって成り立つものではなく、利害に関わらず、何でも打ち明けたり、指摘し合ったりできる間柄ではないでしょうか。主イエスは、無償の愛を注いで、私たちの本当の「友」になってくださいました。

主イエスは友である私たちのために、十字架の死によってご自分の命を捧げられました。主の十字架の死によって、私たちの罪は帳消しにされました。それほどまでに、私たちを愛してくださったからです。主が私たち人間のために命を捨てられ、罪を赦してくださったことを思う時、そこには人間の友人関係以上の、もはや私たちには想像できない、深い愛を感じるのではないでしょうか。

主は、私たちとの関係性を僕と主人にたとえておられます。僕つまり奴隷は、主人のことをよく知らず、愛されているかいないかもわからず、ただ主人から命令されたことだけをするのです。でも、私たちと神様の関係は異なります。友となってくださる神様は、私たちにはっきりと、その愛を知らせ、すべてを打ち明けてくださっています。

カルヴァンは15節の注解で、このように言います。「わたしたちは福音のうちに、いわば開かれたキリストの心を所有しており、かれの愛を疑わず、容易に把握できるようにされているのである。わたしたちは、わたしたちの救いの確実性を求めて、雲の上はるかに高く登ったり、深淵の奥底に深く沈み入ろうとする必要はない。福音のうちに含まれているこの愛のあかしだけで満足しよう。」と言っています。

私たちは、福音のみことば、聖書、つまり主イエス・キリストを通して、神様の愛を知らされています。ですから、すこしも神様の愛を疑わず、救いに預かることができるのです。

主が、私たち人間のために、罪を贖うために、この世に降りてきてくさって、十字架の死と復活によって、大きな愛を示してくださいました。ですから、私たちのほうが、がんばって登って行く必要もないし、神様の愛がわからない、難しい、と深淵でもがき苦しむ必要もないというのです。

教会というのは、そのとてつもなく大きな、神様の無償の愛を受けるために選ばれた者が集まるところです。

成宗教会は、今から約80年前、この成田の地で開拓伝道された有馬牧師の家庭集会から始まりました。現在に至るまで、成宗教会は滞ることなく礼拝をずっと守り続け、永遠に変わることのない福音をのべ伝えて来ました。そしてこれからも、福音をのべ伝えて行きます。

教会員の数が減り、伝道が困難なこの時代です。日本の教会はずっと、多くの信仰者が与えられるように祈り続けてきました。それでも、クリスチャンの人口は減っており、もともと1パーセントと言われていましたが、もう1パーセントを切ってしまいました。

アメリカ留学中には、いろいろな国の生徒がいました。アメリカや韓国、中国、エチオピア、ナイジェリア、どの学生も口を揃えて、日本のクリスチャンは少ないと聞いているけれど、伝道が進むように祈っているよ、と言ってくれました。

でも、考えてみると、伝道が困難なこの日本のなかで、私たちはクリスチャンとして生きております。その少ない1パーセントのなかに入れられているのです。神様が私たちを選んでくださったのです。この成宗教会が成田の地で開拓伝道を始めて、約80年間の伝道の業によって、いまここに私たちは呼び集められました。これは、「実り」であると言えるのではないでしょうか。主はおっしゃいます。

「あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである」。

ここでは、主イエス・キリストにつながって、祈り求めるのなら、父なる神様は必ず実りを与えてくださると言われています。15章のはじめには、ぶどうの木のたとえが語られています。ぶどうの木は、枝が幹にしっかりとつながって養分がたっぷり行き渡り、しっかりと剪定されれば、おいしい実が実ります。

教会は、このぶどうの木のようなものです。父なる神様によって剪定された、つまり選ばれた枝である私たちは、主イエス・キリストという養分たっぷりの幹につながっていれば、必ず豊かな実を結ぶことができるのです。

私たちは、教会に集い、礼拝で福音のめぐみに生かされています。それは、教会が今までなしてきた、大きな実りということができるのではないでしょうか。そして、そのぶどうの実は、だれかに食べられて無くなってしまうものではなくて、これからも残るものです。私たち、ひとりひとりのうちに永遠の命の御言葉として残ると同時に、教会がこれからも実りを生み出していくという意味においても、永遠に残っていくものです。

そのとき、教会に、神様の無償の愛により任命され、選ばれた私たちには、求められていることがあります。しかも、主はそのことを繰り返し、何度も何度もおっしゃっておられます。それは、この神様の愛にとどまりつつ、「互いに愛し合う」ということです。神様から受けている大きな愛を、互いに持ちながら、互いに愛し合いつつ、全員で協力して、教会を立てていく必要があるのです。

2019年5月号

「知恵と知識の宝はすべて、キリストの内に隠れています。」

新約聖書、コロサイ2章3節

このお便りは、なりむね教会からのメッセージです。キリスト教会は神様の愛について学び、伝えます。子供さんも大人の方も、読んでいただければ幸いです。


興津春枝先生のお話

(これは4月28日の礼拝で話されたものです。)

聖書 出エジプト記20章1~21節

「神様からの恵みの言葉 十戒」

「十戒」とはなんですか。について学びましょう。

教会で私たちが大切にしている三つのことがあります。

1. 主の祈り こう祈りなさいとイエスさまが教えて下さいました。

2. 使徒信条 ~を信じます。という信仰告白です。

3. 十戒   神様がモーセを通してシナイ山でイスラエルの民」にお与えになった十のご命令のこと。

イエスさまがお生まれになるずっと昔のことで旧約聖書の時代のことなので、今の私たちにはもう関係ない、あんまり重要なことではないのでは。それに「~してはならない」という言葉が十もあってとても厳しくて守ることなど出来ないと思うかも知れませんね。神様を信じることは窮屈で自由がなくなるということなのですか?疑問がわいてきます。

ではなぜ、神様はイスラエルの民に「十戒」をお与えになったのでしょうか。

400年もの間にエジプトで増え続けたイスラエル人の力を恐れ嫌っていたファラオ(王)は民を奴隷として重労働で酷使し苦しめました。民は神様に助けを求めます。その苦しみ嘆く声を聴かれた神様に選びだされたのがモーセです。ファラオの元へ行って民をエジプトから脱出させることを承知させるようにとのご命令。自分のいうことなど信じてもらえないしなど思いつく限りの言い訳でハイと言わないモーセ。神様は言われました。「おまえには私がついている」。ついにモーセは行って神様のお力で数々の奇跡をおこします(ナイル川ノ水を血に変えるなどなど)が、ファラオの頑固な心は変わりません。ついに神様はあらゆる災害をエジプトの上に起こします。ファラオは自分の長子(一番上の男の子)が死んで

しまい、とうとう叫んだのです「今すぐ、出て行け!」モーセと民は昼は雲の柱、夜は火の柱となっての神様の導きで砂漠の道を進み「葦の海」までやってきて野宿をしていました。そこへまた心変わりをしたファラオの軍勢がすぐ後ろまで追ってきたのです。追いつかれた民を神は「葦の海の軌跡」によって救われました。海の水が真二つに左右に分かれてできた道を民は逃げ進みました。そのあとを追ったエジプト軍は元に戻った波によって溺れ死んでしまったのです。その後3か月、神様のお守りによって水も食べ物もあたえられた民はシナイ山の麓に。その山の上で神様はモーセを待っておられ、「十戒」があたえられたのです。

ご自分が救い出しご自分の民になさろうとしている民は決して良い民だったからではありません。せっかくエジプトでの奴隷の生活から自由になったのにまたその自由を失わないようにとのただ神様の恵みによるのでした。民は神様の御心にしたがって生きてゆくための「道しるべ」として「十戒」をあたえられました。神様の恵みに応える生活ができるように。本当の自由とは神様から離れない生活です。神様から離れて好き勝手に自己中心的な生活をしてしまう私たちにも、

「十戒」は大切です。完全に守ろうとしても不可能だけれど、守りたいと願い神様により頼んで祈る時、私たちの信仰は深められると信じます。いつも神様から離れないで毎日を過ごしていきましょう。

5月の御言葉

「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じよう重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』」

マタイ22章37節-39

5月の教会学校礼拝

(毎週日曜日、朝9時15分~9時45分)

神様に感謝して祈り、歌います。イエスさまのお話、聖書について学びます。

🌸 お話の聖書箇所と担当の先生は次のとおりです。

5月5日(日)マタイ22:37-39  お話:藤野美樹先生

12日(日)マタイ4:8-10   お話:藤野雄大先生

19日(日)申命記4:15-19  お話:斉藤紀先生

26日(日)マタイ5:33-37   お話:興津晴枝先生


成宗教会学校からお知らせ

🌸 ゴールデンウイークはあっという間でしたね。楽しい思い出はできましたか?教会にきていろいろお話を聞くのを楽しみにしています!新しいクラスにも慣れて、元気に学校に通えるようお祈りいたします。

🌸 6月9日㈰はペンテコステ・花の日礼拝です。

🌸 礼拝でのお話は小学校~中高生にもわかりやすく語られます。教会学校礼拝後には、絵本や工作、ゲームなど、お茶を飲みながら15分ほど楽しい時間を持っています。中高生の皆さんは、大人の礼拝にもご参加をおすすめいたします。大人の礼拝は10時半~11時半です。親子連れの方も、どうぞいらしてください。