放蕩息子と孝行息子

聖書:申命記7章6-7節, ルカによる福音書15章11-32節

 教会が告白してきました救い主、主イエスは、多くの例え話を語ってくださいました。ルカ15章の放蕩息子の話はその一つですが、15章にはその前にも、失われた羊の例え話、また無くした銀貨を探す話が収録されています。それらは皆、一つのテーマ、目的をもって語られています。そのテーマは、15章7節で主が語られておられます。「言っておくが、このように悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。」

全世界の教会が代々に言い表している信仰は、人間は皆、神から離れ、神に背を向けている罪人であるということです。しかし、実際には自分の罪を知らない、自分は人ではないと思う人々がおり、確かにこの世の法律から見れば、法を守っている人と、法を犯して犯罪者となる人との間には大きな隔たりと区別があります。しかし、教会が告白している信仰は、人と人との間のことを語る前に、人は神に対して背いたために恵みを受けられない状態を人自らが作り出している、ということなのです。

そこで、そういう人間を(つまり人々の目には互いに、あの人はひどい人だという、この人は素晴らしいと言う、比較をして裁いている訳ですが、実は皆、神に背いている罪人である人間をです)、神さまはどのように思われているのか、ということです。神さまはお姿が見えず、わたしたちの尺度で、推し量ることもできない方です。しかし、そこに主イエスが地上に来られた目的がありました。主イエスはヨハネ福音書でこう言われました。(ヨハネ5:19ー20)「子は、父のなさることを見なければ、自分からは何事もできない。父がなさることは何でも、子もそのとおりにする。父は子を愛して、御自分のなさることをすべて子に示されるからである。」

すなわち、神さまは主イエスをわたしたちの所にお遣わしになり、その言葉と御業によって、神さまの御心、御旨をお知らせくださっているのです。その御心とは、「わたしたちが皆、神さまに背いていたにもかかわらず、神さまはなお私たちを愛していてくださる」という、信じがたいこと。これが神さまの御心なのです。主イエスが人々に今日の例え話を話されたのも、そのために他なりません。ですから、この話を聞いて、自分の親と自分との関係などを思い返すのは筋違いでありましょう。神さまと人間の関係を、この目に見えない、従って多くの人々には想像することもできない関係、むしろ想像なんかしようとも思わなかった関係を描き出すために、主イエスは神を父親に例えておられるのです。

本当に神さまを父親として持っていると考えるなら、父の財産は無限というより他はないはずです。ただ、わたしたちは自分に今与えられているものを数えると、いかにも少ししかない、そして自分がもらえるはずのものも限られている、と思うばかりであります。そこでとにかく漠然と父の財産をいくらあるのかと想像し、将来はもらえると想像するだけで、満足することができればよいのですが、弟息子は、そうおおらかに安らかに思うことができませんでした。それはとにかく父の許を離れたいという希望があるからです。父のことを頭にのしかかった重荷のように感じているので、とにかく父のちの字も感じないような遠くに離れたい、そこで好きなように自分のしたいことをして暮らしたい、と思ったのでした。

夜逃げ、駆け落ち、というのは個人的には昔からあります。出エジプトの物語でも、集団大脱走です。脱出して自由になりたい、ということです。しかし、同じ逃げ去ることに天国と地獄の違いがあります。父の許を逃げ去るということは、エジプトの王の奴隷状態から逃げ去ることだったのでしょうか。それとも、天の父なる神さまから逃げ去ることだったのでしょうか。その答は逃げて自由になった結果を見れば分かるでしょう。弟息子は自由になったと思ったとたん、放蕩の限りを尽くしました。そして何もかも使い果たしてしまいました。

この愚かで思慮の無い若者は神さまを信用できない、不信仰な人々の例えであります。せっかく神に豊かな持ち物で恵まれていたのに、神から離れて全く自由になるというありえない欲望を持った人々です。それは、まるであらゆる生き方の中で最も望ましいものは、父のような神さまの心遣いと御支配の下に生きないことであるかのようです。さて、それに対して神さまはどうなさったでしょうか。神さまである父は、この息子の行く先が必ず失敗であることを知っていました。わたしたちは親としても子としても愚かな者であって、行く末を知ることができませんが、主イエスが話された父は天の父です。

神さまを離れてしまっては立派に生きることができないとご存じでも、息子を引き止めることはなさらなかった。なぜでしょう。罪ある人間は本当に困り果てない限り、万事休すとならない限り、自分の間違いに気がつかない。それほど愚かであることを見ておられたのです。しかし、人間の愚かさ、罪がこの例え話のテーマではありません。そうではなくて、人が自分の愚かさに気付き、心から悔い改めるために立ち帰って来る。それを熱心に待ち望んでおられる天の父のお姿を、主イエスはお知らせくださっているのです。

父よ、わたしはあなたに罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありませんと謝罪を述べる子を赦そうと、今か今かと待っておられる。それが天の父なのだと。そして、息子を見つけると、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻してくださる。それが天の父なのだと。それだけではありません。子のこれまでの罪を赦すだけでなく、喜んで子を新たに支えようとしておられるのです。父は言います。「急いでいちばん良い服を持って来てこの子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい」と。

衣服は、それを身に付ける人の栄誉を表します。同様に指輪は権威を表します。そして、履物は、それを履いている者が、奴隷の子ではなく自由人であるのしるしでありました。奴隷は、はだしであって、自由人だけが靴を履いていたからです。こうして天の父は、わたしたちの罪の記憶を消し去ってくださり、我々から失われてしまっていた賜物を回復してくださるのです。神の憐れみがどのようなものであるかが、こうして示されました。そして、この物語の中で奇跡的に思うことは、この弟という罪人が自分で招いた困窮に苦しんでも、父の家に帰って、悔い改めの告白をするならば、父は赦してくださるという希望を持ったということではないでしょうか。ひどく背いていたと分かったとしても立ち帰るならば、必ず赦してくださるという希望を持たなければ、この人は決して惨めな姿で立ち帰って来ることはできなかったでしょう。罪人が自分を待っていてくださる天の父の憐れみを信じる。それは人間の能力を超えた信仰の賜物です。このことこそが、その人に注がれた恵みの第一歩なのではないでしょうか。

ところが、父親にはもう一人の息子、兄がいたと、主イエスはお語りになりました。いつも父の家に居て、家の仕事に勤しんでいた息子です。この兄は、いつも父の傍に居ながら、父の本当の心、すなわち子供たちに対する豊かな憐れみ、慈しみを、実は理解していませんでした。普段は忠実な者として天の父に仕えているようでも、罪人を憐れんでくださる父の御心は、全く分かっていなかった。放蕩息子が帰って来た時にそのことは実に赤裸々な感情として現れたのです。父は憐れんで、遠くから走り寄って「よくぞ、帰って来た、帰って来てくれた」と言って抱擁なさった。もうこれからは子ではなく奴隷の身分でも良いですから、と謙る弟の言葉に対して、直ちに父の息子としての身分と栄誉を回復させてくださったのです。

それを知った時、兄も喜ぶべきでした。父と共に暮らし、父の悲しみと喜びと痛みと慰めと、すべての根底にある天の父の偉大な善意とを一番理解しているはずではなかったでしょうか。何しろ、いつもそばにいて父に仕えていたのだから。ところがあろうことか、放蕩息子を失って以来悲しんでおられた天の父の喜びを見た時、思わず宴会を開こう、飲んだり食べたり、躍ったり、歌ったり、楽しもうではないか、と呼びかけている父を見た時、何とこの親孝行息子は激しく怒ったのでした。

この孝行息子とは、主イエスの時代のファリサイ派、また律法学者たちの例えでありましょう。しかし、この孝行息子はいつの時代にも、どこの地域にもいるでしょう。神殿にいて、教会にいて、日々神さまの御用に勤しんでいます。一方放蕩息子は非常に多く、神さまから遠ざかって生きることが、何よりの望みであると神さまを忘れて、自分の理想の実現に夢中になっています。ところが放蕩息子が困窮の末に悔い改めた時、孝行息子の怒りは爆発。彼の本心が暴露されてしまうのです。

放蕩息子の立ち帰りこそ、父にとって待ち望んだ喜びの時であったのに。父はしかし、この時、新たな慈しみをお示しになりました。それは、放蕩息子に注がれたのに優るとも劣らない慈しみであります。救い主キリストは、罪人を探し求めて救うために地上にいらしてくださいましたが、ファリサイ派、また律法学者たちは、そのことを快く思わなかったのです。しかしながら、父なる神さまは、この人々に対しても、父の心から離れ去った者、失われた者として、彼らを捜しに、家から出て来られる方なのです。

そして父は何をなさったのでしょうか。表向きの孝行息子の不平不満を聞いてやるほど忍耐してくださったのです。自分はいかに親孝行をして来たか、と神さまに自画自賛を並べるこの傲慢な態度を御覧ください。兄の息子は偉そうに言います。自分は「未だかって一度も背いたことはない」と。弟は父の御前に罪の告白をしました。それに対して兄の告白は「未だかって一度も背いたことはない」です。この傲慢こそ、神の戒めの最大のものに背いている証拠ではないでしょうか。天の父の戒め、それは愛の戒めであります。

申命記でモーセが民に証ししていることは、「あなたがたが神に選ばれたのは、数が多かったからでもなく、力があったからでも、豊かであったからでもない」ということです。むしろ他のどの人々よりも貧弱であったのだと。それでも主は心引かれてあなたがたを選ばれ、御自分の宝とされた、と。それはただ主の愛のゆえにそうされたのだ、と。わたしたちがもしこの方を天の父と呼ぶことが許されるとしたら、本当に謙って、ひれ伏して、喜んで、そう呼ばせていただくより他はありません。そして、この父の思いを知らせていただくならば、隣人を自分のように愛しなさい、という戒めを押しいただいて生きる者とされるでしょう。どうやら、自称親孝行息子はその戒めのことは全く知らなかったようであります。

この兄の方もまた、父をひどく悲しませている親不孝者であったのでした。しかし、父はこの、弟とは真逆のことを行う息子に対しても優しく忍耐強く「子よ」と呼びかけておられます。この天の父の御姿。優しさが深まれば深まる程、その御姿は自分の正しさを主張するあまり、弟を弟と呼ぶのも腹立たしい、父を父と呼ぶのも忌々しくなっていく兄の息子の罪の姿と対照的に際立っています。

これは放蕩息子の物語ではありません。放蕩息子の兄、自称孝行息子の物語でもあります。しかし、イエス・キリストの例え話によって、神さまがお知らせくださっているのは、人間の罪がいかに深いか、ということなのでもないのです。このように神さまを無視して生きようとする放蕩息子に対しても、神さまの傍にいて正しく生きているように見えながら、その心が神さまから遠く遠く離れて傲慢に生きている自称孝行息子に対しても、神さまは忍耐の限りを尽くして、悔い改めを待ち望んでおられる。その豊かな、深い神の愛、慈しみをほめたたえている。

この善い知らせをイエス・キリストはわたしたちにくださいました。そしてキリストはわたしたちが悔い改めて神に立ち帰るために道を開いてくださったのです。最も望ましい生き方を教会は提示致します。それは神がこのような方であることを知り、イエス・キリストを信じて神の子とされ、神を離れず、神の御支配の下に、神の子に対しての子のようなご配慮の下に生きることです。祈ります。

 

主なる父なる神さま

尊き救いの御名を賛美します。あなたはイエス・キリストの御言葉によって、尊き御旨を表してくださいました。わたしたちは真に心狭く、自分の物差しで兄弟姉妹を測り、あなた様の御心さえ、推し量ろうとする愚かで惨めな者です。しかし、このような罪にもかかわらず、あなたの慈しみは深く、御旨は天を超えて高く、正しい者も、正しくない者も、賢い者も、今日の放蕩息子のように後先を考えない愚かな者さえも、救いに入れようと待ち構えておられます。

本当に驚くべき恵みによってわたしたちの教会をも今日まで守り導いてくださいました。わたしたちは過去の方々に与えられた慈しみを思い起こすことで、また新たな道が開かれていることを感謝します。永眠者記念の聖餐礼拝も捧げることができました。来週は今村宣教師ご夫妻をお招きして、伝道礼拝と宣教報告会を計画しております。主よ、今村先生ご夫妻のお働きを祝して下さい。どうか小さな群れに知恵と力をお与えになり、あなたにお仕えし、福音を聞くことの喜び、伝えることの喜びを教えてください。わたしたちは家族、友人を招くことに消極的になりがちな時代、社会におります。しかし、わたしたちが目を使い、耳を使い、手足を使って人々をあなたの恵みにお招きするために、あなたが聖霊によって力をお与え下さいますように祈ります。

そして、どうぞこの教会を東日本連合長老会、また全国連合長老会と共に励まし合い、協力し合って教会を建てる務めへと励ましてください。今、ご高齢やご病気のため、いろいろな事情のため礼拝を守ることのできない方々に特別なお支えを祈ります。

この感謝、願い、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

2017年11月号

日本キリスト教団成宗教会

牧師・校長  並木せつ子

このお便りは、なりむね教会からのメッセージです。キリスト教会は神様の愛について学び、伝えます。子供さんも大人の方も、読んでいただければ幸いです。

勝田令子先生のお話

(これは9月17日にお話しいただいたものです。)

聖書: マルコによる福音書7章24-30節

「イエスさまにすがったお母さん」

勝田令子

 私には一人の男の子がいます。‟子”と言っても、もう50歳ですから大人ですけど、子供って、生まれてから一歳になるまで育てるのは本当に大変です。大変なのに育てられるのは、子供ってとにかく可愛いのです。一日一日、昨日までできなかったことができるようになり、一日一日表情豊かになり、それはお父さんお母さんにとって、とても楽しく素晴らしいことで、‟子供は宝”と思えるのです。

先ほどお読みいただいた聖書、マルコによる福音書の7章24節からは、イエスさまと一人のお母さんのお話です。イエスさまは、イエスさまのことをあまり良く思わない人々や、学者たちとのやりとりに疲れて、一人になりたいとお思いになり、ティルスという港町に行きました。この町にギリシャ人の女の人が住んでいました。イエスさまはユダヤのベツレヘムでお生まれになり、ユダヤ人で、ユダヤの地を愛されました。この女の人はギリシャ人で、シリア、フェニキアの生れ(26節)とあります。ユダヤ人ではなく、異邦人で、ユダヤの人が信じる神さまを信じていない異教徒でした。

そして、この人には小さな娘がおりました。先ほどお話したように、子供って本当に可愛らしいのです。でも、このお母さんはいつも泣いていました。なぜかと言うと、この女の子は、何かよく分からない恐ろしい力、悪霊の力によって、手足をバタバタさせ、大声で叫び続けて、口から泡を吹き、苦しみ続けていたのです。お母さんは困りはて、「私はどうなっても、娘の悪霊だけは取り除いてほしい」と祈り続けていました。

そんな時に、イエスさまがティルスの町にいらしていると聞いたのです。お母さんは、イエスさまが沢山の人の悪霊を追い出したり、病気を治したりしていらっしゃるという噂を聞いていました。そして、お母さんはイエスさまのところに行って、聖書には「来てその足下にひれ伏した」とあります。お母さんは、イエスさまに「娘から悪霊を追い出してください」とひれ伏してお願いしました。

ところが、イエスさまの返事は、「まず、子供たちに十分たべさせなければならない。子供たちのパンを取って、小犬にやってはならない」ということでした。これは例え話で、子どもたちというのはユダヤ人のこと、小犬というのは異邦人のこと、パン屑は恵みのことです。「私はユダヤ人のために神さまから遣わされたのだから、ユダヤ人以外の人のために働く訳には行かないのだ」ということでしょう。お母さんは、イエスさまのお言葉に身も心も粉々になりました。そして、立ち上がれずに、ひれ伏したまま、必死になってすがりつきました。

「主よ、食卓の下の小犬も、子供のパン屑はいただきます。パン屑のように、イエスさまの恵みのひとかけらで十分なのです。どうか助けてください。」

イエスさまは、断られてもイエスさまを信じ、イエスさまを頼るお母さんの信仰がうれしかったのでしょう。「よろしい。家に帰りなさい。悪霊はあなたの娘からもう出て行ってしまった。」お母さんが家に帰ってみると、その子は床の上に寝ており、悪霊は出てしまっていた・・・とあります。イエスさまに拒否されても、なおイエスさまを信じすがったこのお母さんの信仰。私たちも苦しい時こそ、あきらめたり、うらんだりしないで、イエスさまを信じ、一生懸命祈り求めて行きましょう。

11月の御言葉

「神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。」ヨハネによる福音書3章17節

11月の教会学校礼拝

(毎週日曜日、朝9時15分~9時45分)

神様に感謝して祈り、歌います。イエスさまのお話、聖書について学びます。

◎ お話の聖書箇所と担当の先生は次のとおりです。

11月 5日 (日)   ヨハネ3:16-17       お話の担当…   並木せつ子

12日(日)  ガラテヤ3:26-29           並木せつ子

19日(日)  使徒言行録4:10-12          斉藤 紀

26日(日)  ヨハネ(一)4:7-15          興津晴枝

教会・教会学校からお知らせ・お祈り

「知恵と知識の宝はすべて、キリストの内に隠れています。」

(新約聖書、コロサイ人への手紙2章3節)

  • わたしたちが生きるために一番大切なことは、神さまを知ることです。
  • 皆さんの生活のすべてを恵みの道へと導いてくださる神様がおられます。この方を、聖書を通し、イエス様の教会を通して学んでください。
  • 中学生以上の方は、大人の礼拝(毎日曜日10時半~11時半)にもどうぞ。
  • 小学生以下のお子さんも、お家の方と一緒なら、大人の礼拝に参加できます。
  • お友達も誘ってください。成宗教会学校は皆さんのおいでをお待ちしております。
  • 小学生以下のお子さんも、お家の方と一緒なら、大人の礼拝に参加できます。
  • お友達も誘ってください。成宗教会学校は皆さんのおいでをお待ちしております。

成宗教会・行事のお知らせ

  • 10月29日(日)成宗教会バザー会場に教会学校の皆さんの楽しい作品を飾りました。小学生、中学生の皆さんが売り子の体験もしました。雨にも負けず頑張りました!
  • 成宗教会では、毎年、教会学校クリスマス、大人も子どもも参加できるクリスマス祝会とクリスマス・イヴ礼拝に向けて準備を致します。楽しみに参加してください。

人は神を忘れるけれども

永眠者記念礼拝説教

聖書: 創世記4章1-16節, マタイ27章15-26節

 成宗教会は本日の礼拝を、永眠者記念礼拝として守ります。写真の大きさで区別しているのではありませんが、1940年にこの教会が創立されて以来、この教会に仕えて地上の生涯を終えた教職の方々の姿を、私たちは大きな写真によって思い出しております。太平洋戦争の起こる前から始まった集会です。欧米の宗教であると敵視された時代も、戦後のキリスト教ブームの時代も経験しました。そしてまた人々が物質的に豊かになり、心の豊かさを求めなくなり、魂が飢え渇いて行く時代をも経験してきました。

ここに写真によって見ることができる方々は、そういう時代を経験したのでした。そういう激動の時代を生きて、福音に出会った方々。そして福音から遠ざからなかった方々です。教会にとどまり、教会の主であるイエス・キリストを仰いで、生涯を終えた方々です。

福音とは、イエス・キリストがわたしたちの罪の身代わりとなって死んでくださったことです。私たちの身代わりであるということは、わたしたちはもう罪は問われない。罪赦されたということに他なりません。罪人にとってこれより良い知らせがあるでしょうか。イエス・キリストは御復活され、わたしたちのために成し遂げた救いの御業を、全世界の人々に告げ知らせるために、信じる者を世に遣わし、福音を宣べ伝えさせてくださいました。キリストは天に昇り、今もわたしたちの祈りを聞き上げて、主なる父なる神様に私たちを執り成して下さいます。私たちの日々の過ち、小さな罪から大きな罪まで、わたしたちの救いの妨げになるものを、取り除いてくださるのです。

この福音を信じて教会にいるということは、どんなに計り知れない恵みであるであることでしょうか。私たちは、今、先に召された方々と兄弟姉妹とされています。それは主イエスを信じて神の子とされ、主の兄弟姉妹とされているからです。しかし、わたしたちの内には、先に召された方々と血縁の関係、または姻戚関係の子孫もいることでしょう。そのような方々は、特別な恵みを受けている喜ばしい方々です。わたしたちは家族を看取り、見送り、神さまの御許に召されるために、できるだけのことをすることができますが、しかし、わたしたち自身についてはどうなるのか、自分で決めた通りにできるという保証はありません。私たちがそれぞれ、召される日まで歩み、生涯を安らかに全うすることができるのは、一重に家族、隣人、社会の人々の誠実さによって支えられてのことなのです。そのために、わたしたち自身が主の御前に誠実に立ち、人々を執り成して祈り続けることがどんなに必要であることでしょうか。

今日読まれました創世記4章はカインとアベルの物語。彼らはアダムとエバの最初の子らです。最初の人アダムは神に禁止された実を食べた結果、神との隔てない交わりを避けるようになりました。すなわち、罪とは人が神に背を向ける。呼びかけに答えない、ということです。出来れば神を忘れて好きなように暮らしたい、ということであります。

そのような罪に陥った二人は楽園から追放され、苦しんで働き、苦しんで子を産むことになりました。それでも彼らは神から子孫を与えられたと言って感謝しました。神は背いた人を滅ぼさなかったのです。そして彼らは息子たちに教えたのでしょう。カインとアベルは成人してそれぞれ働きの成果、収穫を手にしたとき、神に献げ物をしたのでありました。すなわち収穫感謝の礼拝です。感謝を捧げることは、「わたしたちが受けているものは皆あなたからいただいたものです」と告白するその言葉を形に表すことです。

ところが聖書は、「主はアベルとその献げ物には目を留められたが、カインとその献げ物には目を留められなかった」と語ります。人は見た目でいろいろと評価しますが、神は人の心を見る方です。献げ物を捧げるアベルとカインの心を見ておられたのです。主イエスは礼拝についてヨハネ福音書でこのように語られました。「神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。」(ヨハネ4:24…170上)「霊と真理をもって」とは、「心から」、「真心を込めて」、「誠実の限りを尽くして」、という意味です。また、ヘブライ人への手紙の記者はアベルについて次のように述べました。「信仰によって、アベルはカインより優れたいけにえを神に献げ、その信仰によって正しい者であると証明されました。神が彼の献げ物を認められたからです。アベルは死にましたが、信仰によってまだ語っています。」(ヘブライ11:4…414下)

そうすると、神に目を留められなかったカインの方は、献げ物に問題があったというより(そういうところにも表れたのかもしれませんが)、彼の、神に献げる態度に問題があったと考えなければならないでしょう。形式的にはいかにも整って立派な礼拝を捧げているようであっても、その心を神は問うておられます。すなわち、礼拝者が神を畏れ、喜んで神に従う心をもっているのかどうかです。世に偽りの礼拝というものは後を絶ちません。それは、表向き神を敬っているように見えながら、心の中では神を侮り、何とか宥めすかして、自分の思いどおりに神を動かそうとするのです。

カインの献げ物は正にそのようなものであったのでしょう。ところが、彼は自分の心の罪に気がつかない。従って自分を反省するどころではありません。神に対して激しい怒りを発するのでした。神は不公平だ、自分は不当な扱いを受けている!と。常日頃、真の神を尋ね求めることをせず、まして聞き従おうなどとは夢にも思わず、全く神を無視して生きているのに、何か悪いことが起こると、神などあるものか、神はひどい!と罵詈雑言の数々を並べたてる人々がいます。彼らは自分を顧みず、間違いに気がつかず、悔い改めからは程遠いのであります。

恐ろしいのはその次です。そういう人々は神に対する怒りを、隣人にぶつける。罪もない隣人に猛烈に当たり散らすのです。その結果であるアベルの死は人間が神から離れることの恐ろしい結末を表します。もし、わたしたちにこの世界のことしか希望がないならば、アベルのように悪の犠牲となる人々に慰めは全くないことになるでしょう。

それでも神はカインがしたように、カインを不意に襲って滅ぼすなどということはされませんでした。カインは神を忘れ、神を無視して行動しました。しかし、神はそうではありません。カインを思い、カインの心に語り掛けます。「お前の弟アベルはどこにいるのか。」カインは答えます。「知りません。わたしは弟の番人でしょうか。」恐ろしい居直りであります。まるで「わたしは弟を守るように頼まれたことはない。だから殺そうが何をしようが構わないでしょう」と言わぬばかりです。そう口答えしながらも、彼は気がついて行きます。これは人と人との問題ではない。自分と神との問題なのだと。神が言われたひと言、「お前の弟の血が土の中から叫ぶ」この一言によって、神は彼のしたことを赤裸々に示し、その犯罪の恐ろしさを強調し給うたのです。

神と争って神から離れて生きようとする者の至る不幸な結末がここに示されました。彼は地上を放浪する者となりました。神を信頼せず、神を離れ、神を忘れて勝手に生きたいのですから、自分の都合で生きるより他はありません。聖書は、それでも神はカインが殺されないように守ってくださったと語ります。ひどい犯罪、理不尽な殺人事件などが社会に後を絶ちません。裁判員裁判で裁かれると一般に量刑が重くなる傾向が報告されています。無理もないことで、素人の目にはこんなひどい人が平然と生きているとは許せない、という思いがあるでしょう。

しかし、神の思いは計り知れません。神はカインが犯罪者として打ち殺されないように、しるしをつけられたのでした。神から離れてさまよう人生。従って神の御許に安らう希望を持たない人生。彼のそのものが、神の厳しい裁きであったのでしょう。しかし、重ねて申しますが、神の思いは計りしれません。このような人の子孫にも救いの道が開かれたのです。私たちは今日、マタイ福音書27章を読みました。主イエスを十字架につけようとする人々は一体誰でしょう。私たちは皆、自分はカインのようではない、と思いたいのです。まして、世の人々は、自分は違うと言うことでしょう。

カインは形の上では、立派に献げ物を捧げて礼拝したように見えます。そして自分でもそうした、と信じています。主イエスを十字架につけようとした人々、そのために画策をした人々も同じではなかったでしょうか。彼らは表向き、神を礼拝していました。立派に献げ物を捧げ、人々から尊敬されていました。ところが心は神から遠く離れていました。救い主、メシアを待っている人々の指導者であったのに、実はメシアを待っていなかった。神の恵みが現れる時、自分たちの権威を捨て、神にひれ伏さなければならないことを知っていたからです。神が遠く離れていてくださる方が良い。神が遠くにおられるなら、自分たちが神に成り代わって権威ある支配者として人々の上に君臨出来たからです。

そのためには、今自分たちを属国として支配しているローマ帝国に対しても、お世辞を言い、うまく取り入り、宥めすかして、自分たちの要求を実現するために利用することもやってのける。本当に神を畏れ、神を礼拝することとは程遠い偽善がそこにありました。

ローマ帝国の役人であるポンテオ・ピラトは、この彼らの醜い企てを見抜いていました。彼らはメシア・イエスを十字架に付けるためには、犯罪者、殺人者であるバラバ・イエスを解放することを要求したのです。ここで起こった本末転倒は、人間の罪の深さを証しします。異邦人であるピラトが理不尽だと、できれば阻止したいと思ったこと。異邦人であるピラトの妻が夢によって(当時夢は神の啓示として重んじられた)義しい人と証言したことが、偽善の罪の深さを示しています。

しかし、だれも主イエスの十字架を止めることはできませんでした。弟子たちもできませんでした。だれもが主イエスに罪はないと知りながら妨げることはできなかったのです。それは、だれもが神の差し出された真心を受け止めることができなかった罪を表しています。そして同時に、だれもが阻止できなかった十字架の死こそ、わたしたちの罪を贖う尊い犠牲でありました。私たちはこの主の福音を受け入れて、教会を建てた方々と共に、主の罪の赦し、復活の体に結ばれています。今、わたしたちが永眠者として思い起こしている方々の多くは、戦争の時代、復興の時代、いろいろな時代を生きて、教会にとどまっていました。それは主の霊がわたしたちと共にいらしてくださったからです。

人間は、神の被造物として造られ、神に似たもの、神のかたちとして造られました。善いものとして、祝福されたものなのです。神さまが呼びかけ、人が応える関係、本当に親しく喜ばしい関係に生きるために、人は造られました。しかし、人は神さまから離れてしまいました。神さまのことを忘れてしまいました。神さまに背を向けて生きている結果は、人と比べ、人を妬み、人を憎み、孤独になりました。すべての人と人との善い関係は、本当は神との関係を回復すること無しには築けないのです。なぜなら、人が与えられている持ち物も、能力も、健康もすべては神から与えられているように、人との善い交わりも神から与えられるものだからです。

人は神を忘れ、神を無視して生きていようとも、神は人をお忘れにならず、イエス・キリストを救い主と信じて執り成される者の罪を赦してくださいます。罪人をお忘れにならず、罪から救ってくださる神をほめたたえましょう。祈ります。

 

教会の主イエス・キリストの父なる神さま

尊き御名をほめたたえます。本日は地上での働きを終えて御許に召された成宗教会に連なる永眠者の方々を御前に覚えて、感謝の礼拝を捧げました。私たちは目の前の悩みに日々を過ごして折る、貧しい者でありますが、あなたはここに主に仕えて生涯を全うされた教職の方々、信仰の先輩の兄姉を憶えて、わたしたちを励まし、慰めてくださいました。時代が移り変わり、わたしたちの力も知恵も移り変わりますが、わたしたちはただ代わることのないあなたの慈しみとその御力に信頼して参ります。

真に自分の背きの罪に気づくこと遅く、日日の小さな事にとらわれて思い煩ううちに年月が飛ぶように去っていきます。主よ、どうか私たちに自分に残された時を数える知恵をお与えください。真にご高齢の方々が示してくださった善い歩みを見上げ、信仰の道を歩み、あなたから与えられた務めを家族の中で、職場で、病院や施設においても果たすために、わたしたちをお用いください。それぞれの年代の人々に対して、慰めとなり、励ましとなる生き方を私たちにお与え下さい。

なによりも、主イエス・キリストの良い知らせ、福音によって教会が立てられますように、どうか成宗教会を東日本連合長老会の諸教会と共に伝道する群れとしてください。あなたの御旨は広く深く、全世界に広がっています。どうか主の平和を教会に打ち立て、全国全世界の教会と共に、主イエス・キリストの御支配の下に、世界の平和を実現して下さい。今、東アジアの政情が緊迫していると伝えられます。貧しい人々を顧み、主よ、憐れんでください。戦争の悲惨から人々を救ってください。国々の為政者が主の御支配の下により良い道を選ぶことができますように助けてください。

本日のすべてを感謝し、主の聖餐に与ります。どうか、主の聖霊によって私たちの隣人である家族、友人が福音を聞き、キリストを救い主と告白する日が来ますように。特に召天者の方々のご家族のために、豊かな祝福と顧みをお願い致します。

最後に、2週間後に迫りました、今村宣教師ご夫妻の上に、主の豊かな助けが聖霊によって与えられますように。ご健康とご準備が祝されることを祈ります。

この感謝と願いとを、我らの主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

神の栄光を映し出す

聖書:詩編8篇4-10節, コリントの信徒への手紙二 3章15-18節

 今日はこのようなお天気ですが、日本の秋は観光シーズン、美しい自然に親しむ季節であります。美しい自然に感動する。しかし今日読まれました旧約聖書詩編の編集者は、自然を拝むのではありません。わたしたちは美しい景色に心打たれ、それをお造りになった方を仰ぎ見ているのです。神は世界を、宇宙を良いものとしてお造りになったからです。造られた方は御自分の指の業を御覧になって、その作品を「良い、よくできた」と言われた。そして祝福しておられます。

それにしても、と詩人は驚いています。「その神さまが、すべての造られたものの中で、人間を特に顧みてくださるとは。」空に輝く星々に比べても月に比べても、人間は芥子粒のような小さなもの。取るに足らないもの。その神さまがこんなにちっぽけなわたしたち人間を顧みてくださるとは・・・!?本当にいくら驚いても、驚き足りないことです。人間とはどういう者なのでしょうか。人間とは、弱くもろいもの。また悲惨と貧困とを表すと言われます。人の子という言葉も使われていますが、英語ではモータルと訳されます。モータルとは死すべきもの。壊れやすい、はかないものを表します。そのような人間を、神は御心に留めてくださいます。顧みてくださいます。ここに神の御姿が描かれています。弱い人間に心を配って、絶え間なく、訪れてくださる神のお姿。

私たちがイメージできるとすれば、それはまるで病院か老人ホームでベッドに横たわっている人に「大丈夫?」「お元気?」「いかがですか?」と声を掛けに来る看護師、介護士、ヘルパーみたいに絶えず訪れてくださる神さま。詩人は神さまをそのような方と感じているようです。神は人間を御自分に似せて造られた。神のかたちに造られた、と聖書は告げているのですが、一人一人見れば、何とちっぽけな人間。空を見上げては壮大な星々が気の遠くなるような美しさでわたしたちを圧倒しています。このような天の偉大さと大きさに比べれば、なぜ神は一見、取るに足らない人間に心を用い、愛を抱かれるのだろうか、と思わずにはいられません。ちょうど長身の大人が小さな幼子の話を聞くために、身をかがめるように、神さまは御自分を低くされて、このちっぽけな被造物である人類を心に留めておられる。何いうと驚きでしょうか。

詩人は歌います。「神に僅かに劣るものとして人を造り、なお、栄光と威光を冠としていただかせ」と。神は人を御自分の似姿に造られました。そして人間は他の被造物と比べても、明らかに取るに足らぬものであるのに、神は人間をこの世界で神の創造の御業の冠とされたのですが、最初の人間であるアダムは、神に背きました。その罪のために、全人類は生まれつき腐敗してしまったと聖書は告げています。その結果は悲しいことに、わたしたちの中に本来持っていた神の似姿は、ほとんど全面的に消えうせてしまいました。そして、その結果神に似ている性質がもたらす豊かな賜物は失われてしまい、人間は惨めで恥ずべき貧困に陥ったのです。その豊かな賜物を表す言葉が栄光と威光なのです。

ところで、このような悲惨な人間の救いのために、神の真の子であるキリストが人の子として天から降ってくださいました。すなわち、失われた神の似姿を人間に回復させるため、本来持っていた神の栄光を映し出す性質を人間に回復させるためです。主イエスは人間の代表として地上におられたのです。人間として、限られたいのちの者として、死の苦しみを受け、人間の罪を贖ってくださいました。ゆえに、「栄光と栄誉の冠を授けられた」のを見ています。主イエスは、(ヘブ2:9)「神の恵みによって、すべての人のために死んでくださった方」なのです。そしてキリストは十字架の死から三日目に甦られ神の命によって豊かにされました。

実は、キリストが豊かにされたのも、わたしたちのためであり、キリストの卓越したご性質、また天の父の権威も、キリストの命に結ばれるわたしたちがいただくことができるようになるためです。教会の信仰は、「人類に失われていた神の似姿という性質は、主イエス・キリストによってわたしたちに回復される」と信じます。そのことが世界中に信じられるようになるための道筋は、神の深く隠されたご計画によるもので、大変遠く、長いものでありました。キリストが世に来てくださる何百年も、何千年も前から、人々は神の名を呼んでいました。すなわち、救いを求めていたのです。

本日読まれました新約聖書コリント第二の手紙3章には、旧約の律法とイエス・キリストの福音が対比的に述べられています。わたしたちは社会生活をするために日常的に法を守っております。人が人と共に平安に暮らすためには、公の規則や法律が必要なことは誰もが認めています。律法が国家、地域社会の法律や規則と異なっているのは、それが神によって与えられたというところです。律法の中心はモーセという預言者を通して神が与えられた十戒、十の戒めです。連合長老会の教会では十戒を毎週唱える礼拝が守られているところもあります。律法は、出エジプト記20章に書かれている通り、神に対する4つの戒めと、人々に対する6つの戒めから成り立っています。その内容は、非常に簡潔に言えば、第一には神に対する愛の戒めであり、第二には人々に対する愛の戒めであります。

神がお与えになった律法は本来良いものに違いありません。それを守ることができれば、その人は命を得ることができます。しかし、実際は守れませんでした。守れない人と守れた人がいたということではありません。人は誰も例外なく守れなかったと聖書は語ります。律法によっては、誰も救われなかったのです。特に神に対する戒めはより深刻です。神を信頼する心。神に従う心。神を愛し、敬う心。神に忠実な心について、誰が本当に律法を守ることができたでしょうか。

そういうわけで、律法の役割が明らかになりました。それは人を罪に定める働きです。律法はただ立派に生きるための規則を定めたものにすぎないのであって、人の心を悔い改めさせて良い道に従う者に導くわけではなく、その一方、律法に背くものに対しては永遠の罰を宣告することになります。けれども有り難いことに、律法は一時的のものに過ぎないのです。なぜなら人は律法があり、律法を守ろうとする時に初めて、本当に自分が行いによって正しい者となることができないことを自覚することになるからです。もし律法がなかったら、つまり、神の前にも、人の前にも、して良いことと、悪いことがあることを知らないとしたら、そういう人は罪の自覚は一切なく、神を神とも思わず、人を人とも思わない恐ろしい人であり、救いとは何の関係もないことになるでしょう。

従って、自分は律法を守ることができないという自覚は、神に救いを求めるためには、必要なことではないでしょうか。さて、律法の役割について述べましたが、それに対して、福音の役割は何でしょうか。それは、人間が一切の希望を失っているのを見て、救済の手を差し伸べることであります。福音は、人をキリストの御許に導くことによって、命に至る(救いに至る)道の門を開く務めを行うのです。

先程、律法は一時的なものと申しましたが、福音の務めはそれに対して永遠に続くのです。律法はモーセを通して与えられたのですが、イエス・キリストは来てくださり、モーセの果たした律法の務めに終止符を打たれました。すなわち、人は皆罪を犯して神の似姿、神の栄光を失っていましたが、ただキリストを救い主と信じる信仰によって、罪赦され、神の子イエス・キリストの命に与ることができるのです。先週、読みました使徒言行録8章でもエチオピアの宦官が言い表した信仰は、「私は、聖書の証しする苦難の僕、わたしたちの罪が赦されるために身代わりに苦しんでくださったイエス・キリストは神の子であると信じます」という告白でした。(使徒8:37)

福音の中にあってキリストの栄光は照り輝いています。もちろん、月も星も暗い夜には輝いて見えますが、それらが太陽の光に出会うならば、たちまちその光は薄くなり、影を潜めてしまうでしょう。そのように律法の栄光も、キリストの栄光とは比べものにはならないのです。キリストの栄光は太陽の輝きのように、福音の中にあって輝きわたります。しかしそれはだれにでも見ることのできる輝きではありません。ただ、信仰をもって神を仰ぎ望む人々に、神が人を造り人に与え給うた神の似姿が見えるのであります。それは、人々の力によるのではなく、人々に信仰を与え給う聖霊の働き、主の霊の働きです。聖霊は、父なる神と共に、御子イエス・キリストと共に働いてくださり、信じる者の心や精神を天にまで引き上げようとその威厳ある御力を発揮してくださいます。

キリストの霊の働きは天から降って、わたしたちに命を与えるものです。律法の光は目に光を与えるよりも、むしろ目をくらますものでありますが、キリストの福音の光は神の栄光を輝かせ、その光は人を怖がらせるようなものではなく、それどころか愛すべき、慕うべきものであります。神は福音が隠されることなく、すべての人に親しく現れることを心から喜ばれるでしょう。ですから、わたしたちは自分の弱さにも拘わらず、確信に満ちあふれて、福音がすべての人に親しく現れるために大胆に宣教したいものです。

聖書全体は、常にその唯一の目標であるキリストとの関連において読まなければなりません。そうでなければ正しい方向から全く外れてしまうでしょう。教会もキリストと結ばれて行動するのでなければ、どんな努力も正しい方向から外れて、ただ人間の業を競うだけの貧しいものになるでしょう。コリント二、3章17節を読みます。「ここでいう主とは、“霊”のことですが、主の霊のおられる(キリストの務めのある)ところに自由があります。」神を愛し、隣人を愛し合いなさいという最も大切な律法について言うならば、律法がキリストの霊を受ける時初めて、それは生きたものとなり、命を与えるものとなるのです。なぜなら、キリストこそは、律法の命であり、霊であり給うからです。

それではキリストはどのようにして律法に命を与え給うのでしょうか。それは、主がわたしたちに御自分の聖霊を与え給うことによってなされます。「主の霊のおられる(キリストの務めのある)ところに自由がある」からです。自由とは何でしょうか。それは、第一に罪への隷属からの解放です。そして自由とは第二に神の子とされることの保証なのです。アウグスチヌスの言葉です。「わたしたちは生まれながらにして罪の奴隷であるが、新生の恵みによって自由の身とされた。」聖霊によって新しく生まれること。神の栄光を映し出す者に変えられる希望をアウグスチヌスは語りました。

18節。「わたしたちは皆、顔の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。これは主の霊の働きによることです。」わたしたちは皆と言われます。ひとりのこと、個人のことではありません。キリストに結ばれた人々、キリストの体の教会全体が含まれています。皆が自分の救いにおいて聖霊の御力を経験しています。そして、

これからもそうでありますように。

わたしたちは主イエスによって啓示されたこの方、神をひたすらに仰ぎ見ることによって、栄光から栄光へ神の似姿へと変えられて行くのです。以上のことはただ一瞬にわたしたちになされるようなものではなく、絶えず順を追って成長させられることです。それは絶えず、次第次第に増し加えられて行く恵みです。

本日行われるバザーの行事は、成宗教会の業の中でも、伝統的に力を入れて来たものです。これは教会の名によって行われて来ました。教会の名とは、主イエスのお名前です。もしもこのお名前がなかったら、またこのお名前を忘れたら、人の業になってしまうでしょう。このお名前による働きとなれば、それは主イエスの聖霊の業となるでしょう。わたしたちはひたすら聖霊の神の御名をほめたたえ、福音の業が力強くなされますように祈りましょう。

聖書はキリストを証しする

聖書:ホセア書6章1-3節, コリントの信徒への手紙一15章1-11節

 人が生きるために最も大切なこと、必要なことは神を知ることであります。神とはどなたであるか。神は命を与えられた方です。私たちは神に造られた、神の作品であります。私たちも子どもの頃は特にだれでも作品を作ります。うまく出来たらうれしい。学校で褒められた。いつまでも大事に取って置きたい。しかし、失敗作品もあります。気に入らない。もう見たくもないと思う。そういうのが人間の作品です。

神の作品はどうでしょうか。自分たちの秤で、物差しで神の作品を考えると、神さまも失敗作品をお造りになるのか、と考えるかもしれません。とんでもないことです。神はわたしたちを造られた。皆、良い作品として造られたのです。皆、よくできたと喜んでこの世界に生かしておられるのです。神のこのような喜び、神の愛は、もちろん自然の恵みを通しても感じられるでしょう。収穫の秋が巡って参りました。大地の実りをいただいて有り難いと思うでしょう。でも、大地に感謝することでとどまってしまうのでしょうか。海の産物、山の産物をいただいて、海に感謝する、山に感謝することにとどまってしまうのでしょうか。

しかし私たちの信仰は、すべての実りを与えてくださる神、すべてを造られ、すべてを養われておられる神を捜し求めます。神は、目に見えないお方です。しかし、私たちはイエス・キリストに出会うことによって、神を知ることができるのです。神はイエスさまをおよそ2000年前、パレスチナの地にお遣わしになりました。私たちから見れば西方の地に、そして西洋諸国から見れば、東方の始まるところであります。強大な国の偉大な王者として世に遣わされたのではない。強風に震える木の葉のような国民の中に名もない、貧しい人々の中に遣わされた方です。

実に不思議なことではないでしょうか。私たちの多くは世を去って数十年も経たないうちに忘れられてしまう者に過ぎません。しかしイエスさまのお名前は、2000年経った今も世界中に知られています。もちろん、人気歌手のように熱狂されることもないでしょう。あえて声高に語られることも少ないでしょう。それにもかかわらず、イエスさまのお名前によって捧げられる祈りは、言わず語らず、その声も聞こえないのに、日毎に、夜毎に、全地に満ちて天に上っているのです。それはなぜでしょうか。この方こそ、神を表す方、神の栄光を証しする方、神の愛をわたしたちに知らしめる方だからです。

それでは一体私たちは、どこでどのようにして、イエスさまのことを知ったのでしょう。日本では、プロテスタント教会が伝道を開始したのは、幕末からであります。そしてローマ・カトリック教会が日本に伝道したのは戦国時代、有名なフランシスコ・ザビエルによってであります。しかし、日本が中国の隋の国、唐の国に留学生を派遣していた奈良時代、平安時代には、すでに中国にはキリスト教の一派である景教が伝来しておりましたから、日本にもその影響が伝わっていたのではないか、と考える人々もいるようです。

そこで、イエスさまのことを宣べ伝える人々は、どのようにして宣べ伝えたか、と申しますと、日本の幕末以降のことに限定しても、聖書によって伝道したのです。聖書の翻訳に力を尽くしたのは明治学院の創立にも力のあったヘボン博士であります。聖書を教え、キリストにこそ、神の御心は表されていることを教えて、今日に至っております。

イエスさまはルカ24章で次のように言われました。これは復活されたイエスさまが弟子たちに現れ、説き明かした言葉であります。24章45節。「そしてイエスは聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて、言われた。『次のように書いてある。「メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる」と。エルサレムから始めて、あなたがたはこれらのことの証人となる。」161末。

さて、本日の聖書はコリントの信徒への手紙一の15章であります。ここからイエス・キリストについての証言を聞きましょう。コリント教会へ送られた手紙によって、使徒パウロは多くの勧め、というより、問題の指摘をなして、人々の間違いを正し、悔い改めを求めて来ました。それは第一に非常に具体的な問題、信者の生活についてでありました。パウロは何もこまごまと人々に干渉しているのではありません。教会の外でもめったにないような性生活の乱れ、不道徳が教会の中で見過ごされていたという驚くべき現実があったからです。また他にはキリストを信じる者が教会の外で、言ってみれば八百万の神々を礼拝している人々の間でどのように生活すべきか、という問題。これはわたしたちの時代にも社会にも無視できないことです。そして第三には教会の礼拝を守るということはどういうことかを問いました。これは具体的には聖餐を受ける人々の姿勢を問うているのです。

教会は救いに入れられた人々の共同体です。主イエスがお招きになった人々は、実にいろいろな人々がいます。貧しい人々が多かったそうですが、金持ちもいました。奴隷の身分の人々もいました。老若男女あらゆる人々が一堂に会するということです。教会で問われることはただ一つ。本当にイエスさまを知りたいのか、本当にこの方によって神を知りたいのか、ということだけです。その一点で真剣であるなら、誠実であるなら、わたしたちはイエスさまを知るでしょう。神さまは御自分をこの方を通してわたしたちに示してくださるでありましょう。しかし、この一点が疎かになっていた。いい加減になっていた。分からなくなっていた。それがコリント教会の現状であったと思われます。パウロは言います。

「兄弟たち、わたしがあなたがたに告げ知らせた福音を、ここでもう一度知らせます。これは、あなたがたが受け入れ、生活のよりどころとしている福音にほかなりません。」

彼は教会の人々が以前確かに聞いていた福音を記憶に呼び戻そうとしているのです。あなたがたに告げ知らせた福音。福音とは、復活の教えです。イエスさまは死者の中から復活された。教会の人々はかつてこのことを知らされ、このことを受け入れたはずです。この方を信じるなら、わたしたちもイエスさまの復活の命に与るのです。元気に好きなことをして生きているけれど、だんだん年取れば動けなくなる。動けなくなったら、後は死んでお終い、という人生ではない。神の恵み、神の命に与る希望を誇りにして生きる人生です。

覚えていますか?覚えていればこの福音によって救われます。どうやら、その教会の人々は初めに受け入れた福音があやふやになっていたようです。その結果、生活の様々なところに恥ずかしいほどの問題が起こった。自分のことではなくても教会の他の人々のことを見過ごすしかなかった。それは正に、福音の中心をしっかり理解していなかったからなのです。キリストは死んで復活された。このことを否定する人は、いくらイエスさまは優しい人だった。立派な人格者だった。わたしたちを愛しておられるにちがいないと信じても、その信仰は空しいものになってしまう。このことははっきりと言わなければなりません。

そこでパウロは改めて、福音の中心を告げ知らせます。それは使徒が主から受けたことであって、自分では何一つ発明、発案したことではありません。それはすなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだことであります。キリストは死に給うた。それはわたしたちの罪をぬぐい去るための受難なのです。わたしたちに罪の赦しを得させるために、神の御子であるキリストがわたしたちと等しい者となってくださった。キリストの死はわたしたちの死であります。キリストはわたしたちと共に死に給うた。その目的はわたしたちが彼と共に復活するためである。

実に、キリストはわたしたちの呪いを御自身の上に引き受けられ、私たちのためにその贖いとなり給うた。この教えは聖書からの教えであるとパウロは告げています。聖書、この時代の聖書ですから旧約聖書の教えです。たとえばわたしたちは受難節に読まれるイザヤ53章の苦難の僕について教えられます。イザ53:5-12「彼が刺し貫かれたのはわたしたちの背きのためであり、彼が打ち砕かれたのは、わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって、わたしたちに平和が与えられ、彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた(5節)。…多くの人の過ちを担い、背いた者のために執り成しをしたのはこの人であった(12節b)」1149末。

また詩22篇に「わたしの神よ、わたしの神よ、なぜわたしをお見捨てになるのか」という祈りがあります。イエスさまは十字架の上でこの祈りを祈られました。今日読んでいただいたホセア書もキリストを指し示す預言ではないでしょうか。「さあ、我々は主のもとに帰ろう。主は我々を引き裂かれたが、癒し、我々を撃たれたが、傷を包んでくださる。二日の後、主は我々を生かし、三日目に、立ち上がらせてくださる。我々は御前に生きる。我々は主を知ろう。主を知ることを追い求めよう。主は曙の光のように必ず現れ、降り注ぐ雨のように、大地を潤す春雨のように我々を訪れてくださる。」

教会の信仰は、実に、罪人の救いのために罪人の身代わりとなって贖ってくださる神がおられるという信仰です。4節以下。「葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、ケファに現れ、その後十二人に現れたことです。」パウロがこうして弟子たちの名前や数を挙げるのは、復活が夢や幻、または誰かの発明ではなく、歴史の中に起こった事実であると証言するためです。ご復活の主は、最後に自分にも現れてくださったと証言します。月足らずに生まれたという表現。キリストに在って人は新たに生まれるのです。イエスさまは地上のご生涯に弟子と交わりを持たれました。そしてだんだんに教えて育ててくださって、弟子として生まれさせたのです。

ところがパウロについては違いました。彼は教会の迫害者、徹底的にイエスさまを迫害する者の側に居ました。そしてイエスさまを迫害することが神に反逆することだとは思っても見ませんでした。それどころか、教会をやっつけ、クリスチャンを根絶やしにすることこそ神に仕える奉仕だと信じて疑わなかったのです。このように、人間は自分の間違いに全く気が付くことさえ出来ないことが、私たちにも分かります。しかし、パウロがそうであったように、わたしたち自身もまた、他の人の間違いに気づくことができても、自分の罪に気づくことは非常に困難な者ではないでしょうか。

自分は罪人の中の罪人であった、とパウロは告白しておりますが、それを悟ったのはキリストが彼に現れてくださったからでした。気がつけば神に反逆していた自分、最も罪深い罪人の救いのために、キリストは死んでくださった。この罪人のために復活してくださった。それに気づかない哀れな者のために現れてくださった。そのためにパウロは瞬く間に別人のようになりました。キリストはパウロの罪に死んでくださった。そしてパウロはキリストの復活の命に生まれ変わったのです。十月(とつき)十日(とおか)お母さんのお腹の中に育てられて生まれたクリスチャンが他の弟子たち、使徒たちだとすれば、パウロは全く月足らずで生まれたクリスチャン。一人前だと誇ることもできない、一人前に認められなくても、全く仕方のない者であります。

本当に、誇るべきものは何もない。けれど、自分に誇るべきものが何一つないからこそ、自分のうちに人々が認めたもの、認めずにはいられないものがありました。それはただただ、神の恵み。神の栄光が彼の伝道によって輝いたのであります。ここにパウロをはじめとする使徒たちが宣べ伝えた福音。教会が受け継いで来た福音の著しい特徴があります。すなわち、キリストは死んでくださった。わたしたちの罪のために身代わりの死を死んでくださった。そして神はキリストを復活させてくださった。それは、わたしたちがキリストの死と結ばれて罪に死ぬなら、わたしたちはキリストの復活の命を生きることになるからです。教会は宣べ伝えます。イエス・キリストによって、神は死ぬ者をも生かす方であると。祈ります。

 

主イエス・キリストの父である神さま

恵みと憐れみに満ちた尊き御名をほめたたえます。

わたしたちに新たな主の日を与え給い、小さな集いですがここもまた豊かに祝福を与えられましたので、わたしたちは礼拝を捧げることができました。今日の御言葉を通して、福音の最も中心にあるキリストの死と復活の信仰を教えられました。

わたしたちはこの世に在って生活の糧を得、世の人々と交わり生きておりますが、あなたの尊い福音を受け入れて、真の救いを見上げ、求めて生きる信仰を与えられました。主よ、どうか、このことを片時も忘れることなく、心に来てくださった主なるキリストと御父によって聖霊によって生きる者と、生かされる者と、わたしたちを新たに造りかえてください。わたしたちは無力なものでありながら、あなたの御前に謙ることよりも、自分の業を誇ることに心を用い、その結果、神さまの恵み深さ、慈しみの深さ、罪人をも救おうとされる御心の麗しさを、身をもって証しすることが非常に少ない者でありました。

どうか、わたしたちに悔い改めの心をお与えください。わたしたちは教会に多くの計画をもっており、また個々人の家庭に多くの願いを持つ者です。しかし、わたしたちの願いを清めて、ご栄光のために豊かに用いられるために、わたしたちが貧しく弱い者であることを悟らせてください。わたしたちの活動のすべてが、ただあなたの御力によって支えられ、良い業が成し遂げられるために、わたしたちが感謝をもって献げられますように。

主よ、あなたの御心に適って、どうか今弱り果てている方々を守り、癒し、慰めをお与えください。私たちの活動が私たちの力によってではなく、あなたの目に見えない豊かな顧みによって、支えられていることが証しされますように。そしてイエス・キリストの父なる神の御名がほめたたえられますように。

主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。