2017年10月号

日本キリスト教団成宗教会

牧師・校長  並木せつ子

このお便りは、なりむね教会からのメッセージです。キリスト教会は神様の愛について学び、伝えます。子供さんも大人の方も、読んでいただければ幸いです。

萩原総子先生のお話

(これは4月9日にお話しいただいたものです。)

聖書:マタイ27章11-26節

「受難」

萩原総子

 受難とは苦しみを受けるという意味です。誰が苦しみを受けたのでしょうか?イエスさまですね。イエスさまは神さまの独り子です。父である神様の教えを正しく皆に伝えるために、この世にお生まれになったのです。だからイエスさまは神さまのことを沢山お話してくださいました。お話だけではありません。いつも祈りをもって病気を癒してくださり、困っている人、悲しんでいる人を励まし、慰めて下さり、皆がまちがった方に行かないよう、正しい道に導いて下さっていました。そのイエスさまが十字架刑という残酷な刑を受けました。その裁判の様子がマタイによる福音書27章11節から26節に書かれています。

祭司長や律法学者たちは、自分が誰よりも正しく偉いと思われたい。そのことばかり考えていて、神さまの本当の心、教えを考えなくなっていました。イエスさまに「それは間違っている」と言われたこと。イエスさまを慕い、お話を聞くために多くの人々が集まるようになったことが悔しくて、がまんできなくなり、ついに殺そうと皆で相談したのです。その頃ユダヤはローマ帝国という大きな力の強い国に支配されていました。死刑という刑はそのローマから来たピラトという偉い役人が決めることになっていました。そこで何としても死刑をピラトから言い渡してもらおうと、祭司長たちはイエスさまが「ユダヤ人の王と言っている」などと、死刑になりそうな悪いことをいろいろ言いました。こんな時私たちなら、少しでも罰を軽くしてもらおうと「絶対そんなことはしていません」「そんなことを言っていません」と必死になって言い逃れしようとしますね。

イエスさまはどうなさったのでしょう。イエスさまは自分の刑を逃れようとか、軽くしてもらおうとか、考えておられませんでした。12節にあるように、「訴えられている間、これには何もお答えにならなかった。」どうして何も言われなかったのでしょうか。それはどんなに苦しくても、辛くても、神様の御心にどこまでも従うため十字架に向かって行こうと決意されていたのです。この裁判の少し前、イエスさまはゲッセマネの園という所で一人になりお祈りされています。「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに。」わたしの願っているようではなく、神さまのお考えのままになさって下さい、と神さまの御心を受け入れる覚悟をしておられたのです。

ピラトは23節「いったいどんな悪事を働いたというのか」と死刑にしなければならない理由は何も見つけられないと思っていながら、群衆の激しい「十字架につけろ」という叫びに負けて、これ以上言っても無駄だし、騒ぎが大きくなっても困ると思い、「わたしには責任がない。お前たちの問題だ」と十字架刑を言い渡してしまいました。

 私たちもイエスさまが教えてくださった大切な神さまの御心を無視したり、祭司長や律法学者たちと同じように、人のことをうらやましく思ったり、かっこよく思われたくて威張ってみたり、ピラトのように強い声に負けて人を悪いと決めつけたりしてしまうことがあります。そんな私たちのためにイエスさまが代わりに十字架に掛かって、神さまに私たちの罪を償ってくださったのです。イエスさまが受けてくださった十字架の苦しみの意味を思い感謝して過ごしましょう。

10月の御言葉

「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。」ヨハネによる福音書15章5節ab

10月の教会学校礼拝

(毎週日曜日、朝9時15分~9時45分)

神様に感謝して祈り、歌います。イエスさまのお話、聖書について学びます。

◎ お話の聖書箇所と担当の先生は次のとおりです。

10月1日 (日)   マルコ14:3-9       お話の担当…  並木せつ子

8日(日)  ヨハネ15:1-10             並木せつ子

15日(日)  ルカ18:1-8              萩原総子

22日(日)  マルコ12:28-34           興津晴枝

29日(日)  イザヤ42:5-6            山口智代子

                                                                  

教会・教会学校からお知らせ・お祈り

「知恵と知識の宝はすべて、キリストの内に隠れています。」

(新約聖書、コロサイ人への手紙2章3節)

教会・教会学校からお知らせ・お祈り

  • わたしたちが生きるために一番大切なことは、神さまを知ることです。
  • 皆さんの生活のすべてを恵みの道へと導いてくださる神様がおられます。この方を、聖書を通し、イエス様の教会を通して学んでください。
  • 中学生以上の方は、大人の礼拝(毎日曜日10時半~11時半)にもどうぞ。
  • 小学生以下のお子さんも、お家の方と一緒なら、大人の礼拝に参加できます。
  • お友達も誘ってください。成宗教会学校は皆さんのおいでをお待ちしております。

成宗教会・行事のお知らせ

  • 10月29日(日)成宗教会バザー・・・午後1時~3時。子供コーナ―もできますので、皆さんのお手伝い、ご参加、ご奉仕宜しくお願いいたします。

成宗教会では、毎年、教会学校クリスマス、大人も子どもも参加できるクリスマス祝会とクリスマス・イヴ礼拝に向けて準備を致します。楽しみに参加してください。

 

いつでも救ってくださる神様

聖書:コヘレト3:1-13, マタイ20:1-16

東京神学大学修士課程2年 齋藤 正

 

今日与えられましたマタイによる福音書全体を見る時、そこに見えてくるのは、物語としての記事と5大説教と呼ばれる説教が交互して書かれていることです。この今日の聖書箇所は、少し前の19章16節から22節にかけて書かれている記事、つまり金持ちの青年がイエス様に対して「先生、永遠の命を得るには、どんな善いことをすればよいのでしょうか。」(マタ19:16)と尋ねたのに対して、この青年が財産を持っているが故にイエス様から遠ざかった物語に続いています。

この23節から24節で、イエス様は弟子たちに「はっきり言っておく。金持ちが天の国に入るのは難しい。重ねて言うが、金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」(マタ19:23-24)と「らくだが針の穴を通る方がまだ易しい」との有名は譬えの言葉を言われます。

つまり、ここは「どうしたら天の国に入れるか」とのテーマに対するイエス様ご自身が話されたたとえ話の一つです。イエス様は続いて弟子たちに19章28節から30節にあるように「はっきり言っておく。新しい世界になり、人の子が栄光の座に座るとき、あなたがたも、わたしに従って来たのだから、十二の座に座ってイスラエルの十二部族を治めることになる。わたしの名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、子供、畑を捨てた者は皆、その百倍もの報いを受け、永遠の命を受け継ぐ。しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる。」と、お話しになりました。この最後の「しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる。」と弟子たちにも理解できない難しい譬えをお話しになりました。

今日の説教のテーマは、先程お読み頂いた20章1節のイエス様ご自身の「天の国は次のようにたとえられる。」と仰ったことからも分かりますが、「天の国」とはどんなところで、どうしたら行けるのかをイエス様がたとえをもって話されたことです。この『天の国』という言葉は、マタイによる福音書に特有の言葉で、マタイ福音書だけで32回も登場します。また、イエス様ご自身が「天の国」という言葉をしばしば使われておられます。またこの「天の国」という言葉は、マタイによる福音書以外の他の福音書の中では“神の国”と記されています。

ここで、「天の国」と言っても、単純にいわゆる“天国”のことを言っているのではありません。勿論、死後の世界、私たちが地上の生涯を終えて召されるところの死後の世界のことを言っているのでもありません。むしろ、私たちが生きている間の世界です。「天の国」と言うとき、それは地上の世界とは次元を異にする世界、価値観を異にする世界を表していると言えます。神様の御言葉を聴き、神様に従うことで、私たちは、目には見えない「天の国」を、この地上で生きることが出来るのです。つまり、「天の国」とは、信仰による価値観、人生観を持って生きるということなのです。イエス様は、この「天の国」を、様々な譬えで語りました。今日の聖書箇所では、イエス様ご自身の御言葉によって「ぶどう園」(1節)に譬えられているのです。

このイエス様ご自身による「ぶどう園」の譬え話の背後には、イエス様のおられた当時のパレスティナの厳しい労働事情があると言えましょう。仕事を探し求めても容易には得られない環境がありました。多くの労働者は毎朝、その日の働き場所を求めて決められた広場に集まって来ますが、働き場所を見つけることはなかなか困難でした。現代の日本でも、そしてこの世界の労働事情も決して良好であると言えませんが、この譬えのイエス様時代の背景もまた厳しいものでした。働きたくても働く場所がなくて、毎朝職を求めて広場に立たなければならない人も少なくなったのです。

こうした状況の中で本日の譬え話しに出てくる「ある家の主人」は自分から働き人を求めて、広場を訪ねます。詩編第104編22節以下にもありますが「太陽が輝き昇ると…。人は仕事に出かけ、夕べになるまで働く。」とあり、当時の1日の労働時間は、朝の6時頃から夕方の6時頃までほぼ12時間にも及んでいました。そのために、この「ある家の主人」は、朝早く殆ど夜明けの5時か6時前には家を出て、日雇いの労働者が仕事を求めて集まって来る広場に出掛けます。そして、そこに集まっている人々に呼びかけ、2節にありますように、この主人は「一日につき一デナリオン」の約束で、労働者をぶどう園に送りました。1日につき1デナリオンという賃金は当時の平均的な賃金でした。「ある家の主人」はそれだけの賃金の約束をして、労働者を雇いました。広場でその日の仕事を求めていた人々は喜んでぶどう園に働きに行きました。

8節にはこうあります。「夕方になって、ぶどう園の主人は監督に、『労働者たちを呼んで、最後に来た者から始めて、最初に来た者まで順に賃金を払ってやりなさい』と言った。」そして、順序が逆とも思われますが、「最後に来た者」から「最初に来た者」までに順番に賃金を支払いました。ここで、人々が驚いたことは、その賃金の額でした。支払われる賃金は、最初に来て12時間にも及ぶ労働をした者にも、最後に来て1時間ばかりしか働かなかった者にも、等しく1デナリオンの賃金が支払われました。

12節にありますが、長時間働いた労働者にとっては不満でした。「最後に来たこの連中は、一時間しか働きませんでした。まる一日、暑い中を辛抱して働いたわたしたちと、この連中とを同じ扱いにするとは。』」と、この不満は当然のようにも思えます。この不満は二つの根拠を持っています。一つは労働時間の違いが無視されているということです。1時間の労働時間と10時間の労働を同じに扱うのは不当ではないか。また、この不満のもう1つの根拠は、労働の厳しさの差が考慮されていないということにありました。自分たちは日が照りつける厳しい暑さの日中に辛抱しながら一生懸命働いたのに、あの連中は夕方涼しくなってからやって来て、暑さ知らずに働いたのではないか。

すると、13節、14節にあるように「ある家の主人」は言います。「友よ、あなたに不当なことはしていない。あなたはわたしと一デナリオンの約束をしたではないか。自分の分を受け取って帰りなさい。わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。」、その理由は先ず第一に、この主人は少しも契約違反をしていないということです。他人のことをとやかく言わないで、自分の分を受け取ってさっさと帰りなさい、ということです。それは確かに契約違反ではありません。支払いの仕方は主人の「自由」であるのです。

しかし、だからと言って不平等な扱いをしても良い理由にはならないでしょう。そのように、最初から働いた人は考えました。恐らく、普通であれば私たちもそのように考えるのではないでしょうか。人の目は自分自身と他の人を比べて眺めます。そして、そこに不平等を見つけ出し、他人が厚遇され、自分が不当に扱われていると思って、不満を抱きます。あるいは、他人が不遇であっても、自分に良い扱いがなされているのを見たら、不満は抱かないかもしれません。このようにして、私たちは心の底に潜んでいる自分の利益、自己追求の「」が示されていくのです。ここで「人間の罪」を良く知っているこの「ある家の主人」は、神様に譬えられているのです。

その神様は人間の心の底にあるものを見抜いておられます。不平不満を言っている人々に対して15節にあるように「それとも、わたしの気前のよさをねたむのか。」と問い返しているのです。人を雇う場合に、この様な報酬は私たちの常識では考えられません。なぜ、この主人は敢えてそのようなことをしたのでしょうか。この譬えを最後まで考えていきますと、そこにはこの主人の憐れみの深い思いから出ている行動なのだということが見えてきます。労賃は労働時間に比例して支払われるのが私たちの常識です。ここでは常識的に労働が評価されるのではなく、神の憐れみの心が基準となる世界といえるのではないでしょうか。その我々の常識で計れない、それが「天の国」なのです。これは信仰による基準であり、そこからこの世の常識や価値観とは違った、新しい考え方が始まると言えましょう。

15節には「自分のものを自分のしたいようにしては、いけないか。それとも、わたしの気前のよさをねたむのか。」とあります。もちろん、この主人の自由は個々人との契約に反していない限り、自由で、神様の憐れみの自由(いさお)が示されているのです。それは恵みの自由でもあります。神様は憐れみにおいて自由な方です。神様は私たちを自由に憐れんで下さり、自由に恵みを与えて下さるのです。

この主人は自分のとった処置がご自身の「自由」であり「正当」であると主張します。その理由は14節にあるように「わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。」という言葉に示されています。1デナリオンは当時の日雇いの労働者の1日分の平均の賃金です。主なる神様は「わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。」と宣言なさるのです。1時間の労働には1単位の賃金、十時間の労働にはその十倍という形式的な平等を求めるのでありません。人は目に見える平等、形式的な平等というものを求めます。人の思いは互いを見比べて自分の利益、幸福を追求し、他者を妬みます。しかし、神様の目、神様の御心は違いました。

私たち一人ひとりもまた、神様のぶどう園に雇われている者といえましょう。広場に立っている私たちに神様は声を掛けて、神様のぶどう園へと招きに来てくださるのです。この物語はぶどう園に雇い入れられ、働いて、その賃金をもらう、という設定になっています。神様のぶどう園に雇われて働くとは、信仰を持って生きるということです。雇われて働くのは、賃金という報酬を得るためです。一日につき一デナリオンという雇用契約を結んで働く、それは、一デナリオンという報酬を求めてのことです。それが約束されているから、希望をもって働くのです。

イエス様に従い、神様を信じて生きるとはそういうことだとこのたとえ話は語っているのです。信仰には、報いが与えられるのです。その報いは勿論お金ではありません。一デナリオンは神様の救いです。この物語は、イエス様ご自身による「天の国」へ入るための譬えです。16節の「後にいる者を先に、先にいる者を後に」という言葉は、神様の恵みを表しています。神様は、「自分のものを自分のしたいようにする」その自由なみ心によって、そういう順序を越えて救いのみ業をなさるのです。時に私たちの理解を超えることがあります。それによって、私たちは不平不満を覚える時ことがあります。人間の思いと神様の思い、この両者の間には大きな隔たりがあります。

人の価値は、神様のためにどれだけ働いたかで、神様から評価されるものではありません。もう少し砕(くだ)いて言えば、私たちの人生は、どれだけのことを熱心に行い、結果を出したかで価値の決まるものではなく、また肯定されたり否定されたりするものではない、とうことなのです。この世は、行いと働き、その結果で、人を評価するけれど、人の本来の値打ちは、そんなことで決まらない。人生は、その働きに関わらず、等しく1デナリオンをいただくことのできる世界なのです。それが神様に認められる人の価値です。

私たちの中には幼児洗礼を受けて中学生で信仰告白した若い日からのクリスチャンもいますし、それと大きく異なって定年を迎えて洗礼を受けた晩生のクリスチャンも居ます。いや、もっと遅い方々もおられます。「ある家の主人」である神様は言います。「私は5時から働いた者たちにも『同じように』してやりたい」と。分け隔てなく、同じ恵みを与えたい。時間に比例して、働けば働いただけ増えていく歩合制ではなく、天の国とは、例え働きは少なくても、同じ救いの恵みが与えられる場所であり、それを今その通り与えたい。それがこの言葉に示された、神様の思いなのです。

ここで私たちは、考えたいのです。どうしてこの話が腑に落ちないのか。どうしてこの話が不公平に感じてしまうのか。それは私たちが朝6時から雇われている労働者である、働きの多い労働者とは私のことである、と思い込んでいるからではないでしょうか。実に、私たちは夕方5時に雇われた働きの少ない労働者であり、主人のために大きな貢献など出来ないどころか、この主人の愛する一人子を十字架に架けた罪人でしかないのです。それは自分が朝から働いた長時間労働をしたと思う高慢から出て来る罪なのです。

16節にあるように、「このように、(神の国では)後にいる者が先になり、先にいる者が後になる。」とイエス様は仰っているのです。この譬えは、神様が人をその働きに応じて扱うのでなく、分不相応に良くして下さること、神様の恵みの世界を明らかにしているのです。後から来て過分の報酬を受けた労働者ばかりでなく、朝早くから働いた者たちも主人の好意によって雇われ、賃金が約束されたのです。そういった意味で豊かな神様の恵みが与えられているのです。しかし、より多く働いた者と思う私たちはこの恵みを忘れ、自分の判断に基づいて報酬を要求してしまいます、そのような者は先の者でありながら後になるという経験をすることになるのではないでしょうか。

神様の思い、愛の思いは御子キリストの十字架において示されています。この十字架の出来事こそ、私たちへの自由な憐れみです。神様は自由なご意志によって独り子イエス様をこの世に遣わされました。その十字架の苦しみと死によって私たちの罪を赦して下さったのです。自分のことを、夕方5時に雇われた者なのではないかと感じた時、つまり、自分には誇るべき“働き”がないとへりくだる時にこの経験をするのです。信仰は年功序列ではありません。人の価値は、人生における働きと結果で決まるのではありません。人生とは自分の力ではなく、神の恵みの中に生かされてくるのです。

これが、老年になって信じる人のたとえならば、それは、老年になるまで福音に接する機会がなかった人たちを神様が憐れんでのことです。福音に接しなかったのですから、それまでには希望もなく、さまよいながらの人生を送っていたのです。神なしの人生はとても辛いものです。神様は、誰にも雇われなくて、ひもじい思いをしていたその人々をかわいそうに思っていたのです。このように、5時に雇われた人は、だれも雇う人がいない、とてもかわいそうな人たちであると、この主人は考えたのでした。

逆にいって、この世の物差しは、あまりにも不公平です。しかし、この主人は、この賃金を働いたことに対する報酬として払っていません。むしろ、労働者へのプレゼントのように払っています。この主人は、もともと利益を得るような動き方をしていないからです。

実は、この賃金は、永遠のいのちのプレゼント、つまり賜物です。新約聖書282ページローマの信徒への手紙6章23節をお読みします。6:23「 罪が支払う報酬は死です。しかし、神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスによる永遠の命なのです。」

神様は、幼い時から神様を信じた人にも、老年になってから神様を信じた人にも、等しく永遠のいのちを与えられます。主人である神様は、「私が他の人に与える気前のよさをねたむな」と言っています。これは、天における報いが、他のクリスチャンと自分を比べるようなものではないことです。私たちが天国に入ったら、だれがー番いい地位についていて、だれが低い地位についているか比べ合いをすることはありません。今日の聖書箇所は人間の側から見れば、実に不公平な取り扱いかも知れませんが、神様の側から見れば実に理にかなったことなのです。このように、神は、惜しみなく恵みとしての報いを与えて下さる方なのです。そして、この神様の救いにはお一人お一人に適ったときがあるのです。その神様の救いの時も神様が自由に決められているのです。

最後に、本日お読み頂いた旧約聖書1036ページ、コヘレトの言葉3章1節から13節のうち、11節前半だけをお読み致します。3:11「神はすべてを時宜にかなうように造り、また、永遠を思う心を人に与えられる。」

お祈りを致します。

 

神の愛に生かされるために

聖書:申命記7章6-8節, ヨハネの手紙一 4章7-12節

 わたしたちの誰にとっても、未知の体験があります。それは年を取ることです。年を取るとどうなるか、それは自分が予想できないことです。懐かしいF兄が生前言われた言葉を思い出します。「若い時は目が覚めると疲れも取れて爽快だったのだが、この頃は目が覚めると体のあちこちが痛い」と。聞いた時には分からなかったのですが、こちらも年を取って、なるほど本当だ」と実感します。そういう意味でも、年を取ることは日々新しい発見だと思います。

成宗教会に務めて16年になりますが、私が初めて体験したのは老人ホームの訪問でした。自分の親が入居しない限り、だれでも老人ホームは身近なものではないでしょう。しかし、この十年、二十年の間に大きな変化を感じています。所得の高い人、低い人によって、入る所は違うにしても、多くの人々が「もう最後まで自宅に住みたい」と希望するのは難しいと考えているのではないかと思うのです。自立して独り暮らしということも年齢的に限界があるからです。

私は教会の方々、そして私の母も、でしたが、介護施設に入居したことで、施設を訪れる機会が非常に多くありました。老人ホームは、十数年前は、介護の様子にいろいろな問題を感じることもありましたが、最近はどこの施設でもかなりサービスが改善されたように見えます。わたしの伺うところは限られた範囲ではありますが、人手の非常に限られる中で、職員の皆さんが一生懸命入居者に対応して下さっていることが感じられます。震災がありました。大雨が降ったり、いろいろな災害が起こるたびに、私たちは、家族が施設に入居していたからこそ、危険から守られたのですし、わたしたちも安心して自分たちの務めや働きに専念できると実感し、改めてそのことを感謝しています。

しかし、長い間、そのような施設に住んでおられる教会員をお訪ねするうちに、気が付いたことがあります。それは至れりつくせりの老人ホームにも足りないものがあるということです。何が足りないか。入居している人々に神様についての話がないのです。やがて最期を迎える人々に、わたしたちが頼るべき方をお示しすることない。この命を与え、この命を養い守ってくださった方をお知らせすることがない。なぜ、わたしたちは造られたのか。なぜ、わたしたちは生かされているのか。それはわたしたちが神様に、わたしたちを造られた方に愛されているからではありませんか。弱り行く人々に(それはわたしたちのことでもあります)、健やかである時も、病気である時も、年老いた時も、変わらない神の愛を指し示すこと。これが老人ホームにはないのです。

もちろん、そのことを直接的に、間接的に指し示しているキリスト教の施設はあります。けれども数的には圧倒的に多数の老人ホームが、このことに対応できないのです。無理もないことだと思います。入居して来る人々の中には様々な宗教の人々がいる。けれども、熱心に信仰を持っている人々は非常に少ないように見えるのだから、どこかの宗教に偏ることはできないという訳です。そこで一番中立的な態度は宗教色をなるべく出さないように、ということになります。本当の神様を求めることはしないという態度を基本とするのです。

当然の結果は、神について、救いについて公に話をすることはタブーなのです。クリスマスになるとクリスマス会をしていただくことはうれしいのですが、それはイエス・キリストを曖昧にしたクリスマス会であります。秋ともなると、秋祭りのイベントがありましたが、何のお祭りなのかは分かりません。老人ホームに入居すると、すべての日常生活のお世話をしていただけるので、有り難いことだと思います。しかし、最期の時が近づいても、最期さえ曖昧にしながら、お別れを演出せざるを得ないのが実情であります。

神はどなたであるかを知らない。神は万物を創られた方であることを知らない、ということ。知らないままに生きて年取って行くということ。それは高齢の世代の人々にとって深刻なことであります。けれども実は深刻なのは高齢の世代ばかりでは決してないと思います。どの世代の人々にとっても非常に深刻な問題なのですが、高齢者とちがうのは取りあえず時間が迫っているようには感じないことです。「自分はどこから来て、どこに行くのか』とか、『自分の生きる目的は何か』とか真剣に考えることなく生きている。真剣に神を求める必要に気が付かないで生きている。あるいは気が付かないふりをして目の前にある生活に仕事に気晴らしに没頭している。そして深刻な問いを先送りにして済ませようとしているのが実情ではないでしょうか。

それで、突然降ってわいたような悲劇に社会が呆然となります。高齢者、障害者をまるで生きる価値がない者であるとして、この世界から強制排除しようとする狂気の考えが引き起こす恐ろしい犯罪、深刻な悲劇です。このような犯罪行為はごく一部の人々のものであるかもしれませんが、この悲劇、この希望の無さは社会全体のものです。神を知らない世界。神がどのようなお方かを知らない社会の悲劇なのです。だからこそ今、教会は福音を高く掲げなければならないと思います。何よりもまず、教会は福音を高く掲げることを怠ってきたことを悔い改めなければなりません。

教会は宣べ伝えます。すべてを創られた唯一の神。わたしたちにとって、価値あるものも、取るに足りないと見えるものも、美しいユリから虫に至るまで。わたしたちには益となるものも、わたしたちの敵と思われるものも。すべてを造られ、人間を神のかたちに造られたことを。次の言葉はコリントの信徒への手紙一、8章5節以下の聖句です。「現に多くの神々、多くの主がいると思われているように、たとえ天や地に神々と呼ばれるものがいても、わたしたちにとっては、唯一の神、父である神がおられ、万物はこの神から出、わたしたちはこの神に帰って行くのです。」(309上)唯一の神が造られた以上、すべてのものに本来、統一があり、ハーモニー、そして平和があるはずではありませんか。わたしたちは皆良いものとして存在させられた、それが教会の信仰です。

さて、それでは世界に唯一の神がおられることをわたしたちはどうしたら知ることができるのでしょうか。神は目に見えないお方です。それで昔の人々は、自然の美しさに感動した時、星や太陽や、あるいは山を拝むのではなく、それらを造られ方、美しい調和をもって配置された方がおられるに違いないと思ったことでしょう。そこから万物の造り主を思うことも出来たと思います。しかし、神は人の目に見ることもできない御自身のご性質を、イエス・キリストを通して知ることができるようにしてくださいました。聖書はそのことを証ししています。すなわち、神はわたしたち人間が「神はどなたであるか」を知ることができるために、キリストを人間の姿でわたしたちの世界にお遣わしになったのです。

今日はヨハネの手紙一4章によって、そのことを学びましょう。7節にこの書簡を送ったヨハネは次のように言います。「愛する者たち、互いに愛し合いましょう。愛は神から出る者で、愛する者は皆、神から生まれ、神を知っているからです。」ヨハネの手紙には、

ヨハネ福音書と同様に、「互いに愛し合う」愛の勧めが繰り返し語られます。この愛は、自分に親切にしてくれる人々に自分も恩返しをする(それはもちろん大事なことですが)とか、自分を愛してくれる人々を愛するということで済んでしまう愛ではありません。「互いに愛し合う」とヨハネが言う時、彼はすべてのキリスト教徒に対して共通に公平に語っているのです。なぜでしょうか。ここは大切なところです。

わたしたちが生きるために一番大切なことは、神を知ることでありますが、その真の神を知る知識をわたしたちが得るならば、それは必ずわたしたちの内に神への愛を生み出さずにはいられないからです。つまり、神がどのような方か分かれば分かるほど、ますます神を愛さずにはいられなくなるに違いないというのです。逆に言えば、「愛することのない者は神を知りません。神は愛だからです」とヨハネは語ります。神は愛の源でありますから、この愛情は神の知識の達するところには、どこにでも、どこまでも広がって行くのです。

そして神はどなたであるかを本当に知る、この真の知識こそが、わたしたちを造り変えて新しい被造物とさせるのです。ヨハネ福音書には、ニコデモという人がイエス様に教えを受けた話が語られています。ヨハネ3:3-5「イエスは答えて言われた。『はっきり言っておく。人は新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。』ニコデモは言った。『年を取った者がどうして生まれることができましょう。もう一度母の胎内に入って生まれることができるでしょうか。』イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。」167頁上。

わたしたちの多くは、特に何も成功しなかった人ではなく、名誉ある仕事をした人ともなるとそうでしょうが、自分の罪については分からないのです。わたしたちはこのように、神から離れ、しかも、神からすべてをいただいているという事実を認めない罪人でありますが、水と霊とによって新たに生まれる希望、神の国に招き入れられる希望についてイエス様は教えられました。この救いを実現するためにイエス・キリストは地上に遣わされたのです。9節「神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。」

わたしたちが生きるようになるために、神はその独り子を死にさらしてまでわたしたちを愛されたのです。ここに神の愛がはっきりと明らかにされました。その愛がどんなに大きいかは、神の御子の十字架の贖いによってわたしたちに示されたのです。10節。「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。」ヨハネの言葉によって、わたしたちは罪人であって、神に敵対する者であったことが語られます。それなのに、御自分の敵となっている人間のために、神はわたしたちに御子を賜ったというのです。これほど不思議なことがあるでしょうか。これこそ、神のわたしたちに対する愛の証しなのです。ローマ5:6「実にキリストは、わたしたちがまだ弱かったころ、定められた時に、不信心なもののために死んでくださった。」279下

不信心な者の救いのために御子をも惜しまなかった神。その愛をわたしたちは測り知ることができません。しかし、それでは神に気に入られようとする者たちが、いろいろ巧みな言動によって神に愛されようと近づいても、神はそういう人間の企てに一切左右されないのです。ただ純粋に御自身のご好意によって人を愛し慈しんでくださったのです。キリストが来られたのは、わたしたちの罪を償ういけにえとなるために他なりません。わたしたちは皆罪によって救いの道を閉ざされている者でしたが、神が御子の死によって和解され(宥められ)恩恵によって、わたしたちを受け入れてくださった時、その時にわたしたちの内に、御子と結ばれた新しい生(新しい命)が始まりました。ですから、わたしたちは、神に愛されていると確信できるためには、必ずその前にキリストの許に赴かなければなりません。ただキリストの働きによって、わたしたちは罪赦され、正しい者とされるのですから。

だからこそ、わたしたちは礼拝に集められ、主イエス・キリストによってわたしたちを救いに招いてくださった神の愛をほめたたえるのです。そして聖餐に与って、わたしたちのために犠牲となってくださったことを思い起こし、救いを確信する者となりましょう。「いまだかつて神を見た者はいません。わたしたちが互いに愛し合うならば、神はわたしたちの内にとどまってくださり、神の愛がわたしたちの内で全うされているのです。」教会に受け継がれた信仰を告白し、洗礼を受けて教会の中に入る者は、キリストの体のうちに生きる者とされます。神は聖霊を送ってわたしたちの内に住まわせ、聖霊によってわたしたちの心を新たに造り直して、隣人を愛する者としてくださるでしょう。わたしたちはこの希望に生きるのです。祈ります。

 

教会の主イエス・キリストの父なる神さま

御子イエス・キリストを遣わされ、わたしたちの罪を赦して救いの道を開いてくださった、あなたの愛に感謝し、御名をほめたたえます。どうか、全国全世界の人々があなたの深い慈しみを知ることができますように。多くの困難に苦しみ、生きるに生きられないで苦しんでいる人々にこの良い知らせが届きますように。また人生の終わりに近づきながら、あなたの真に慈しみ深い御心を知ることがなく、自分をうやむやにし、人からもうやむやにされて生きるに生きられず、死ぬに死ねない思いでいる多くの高齢者の方々に、この良い知らせが届きますように。主よ、今苦しんでいる多くの高齢者、多くの子供たちが施設で暮らしています。そしてこれらの人々のお世話をする人々も、その苦しみを知りながら、どうすることもできず、苦しんでいると思います。

主よ、どうかわたしたちがわたしたちの救いだけで満足することがありませんように、あなたを知る知識が増し加わり、あなたの愛もわたしたちの心に増し加わりますように。どうぞ和解の使者として、救い主として世にいらしたキリストの恵みに応えて、わたしたちもまた、あなたの御心を宣べ伝える者となりますように。主よ、あなたが愛し、救おうと招いておられる方々の内、だれよりもまずわたしたちの身近な隣人に、親しい者たちに善き知らせを告げる者としてください。

10月に入りました。わたしたちに多くの行事計画をお与え下さり、真に感謝です。良い業は皆あなたの聖霊によっていただくものです。どうかわたしたちの内にある計画を良き業として造り上げてください。すべての人々が祈りをもって参加し、主の御名が崇められますように。イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

神は命を与えられた

聖書:創世記1章26-31節, 使徒言行録17章22-27節

 この夏、名古屋の動物園のサルが話題になりました。その鳴き声がおやじの叫び声そっくりというので、檻の前は人だかりが出来ました。忍耐強く待って聞くことができた人々は皆、「ほんとだ、そっくり」などと楽しそうに笑っていました。学校では人間はサルから進化したと教えられることが多いので、ああ、こんなにもサルに親近感もっているのかなあ、とわたしは思いました。

しかし、動物に親しみをもつことから大変な非難と人種差別が起こることもあります。随分前ですが、オーストラリアの動物愛護団体が、クジラを獲る日本の調査捕鯨船を攻撃する事件が話題となっていました。その頃、オーストラリアを観光している若い日本人女性たちに現地のマスコミがインタビューして、「クジラを殺す日本人は残酷だから、日本人を殺しても構わないと思いませんか?」と尋ねる場面を、わたしはテレビで見たことがあります。

生き物の命を尊ぶ、大変親近感を抱く。しかしその一方で、生き物を食物としている人間を生き物以下に見做すという転倒した考えはどこから来るのでしょうか。わたしたちの社会ばかりでなく世界中に、真の神を畏れない、真の神を知らない人々がいるからではないでしょうか。進化論的にサルは人間の祖先であると教えられても、わたしたちが感じることはせいぜい、サルに親近感を持つくらいですが、一方で牛を殺して食べているのに、クジラを食べるとは残忍非道な人間だという人々に親しみを持つという訳には行きません。

わたしたちが地上で平和に生きて幸せになるために、最も大切なことは神がおられることを知ることです。神とはどなたかを知ることが必要です。なぜなら、神はすべてのものをお造りになったからです。すべてのものを創造された方、何もない所からすべてのものを創造され、存在させられた方であります。そしてお創りになったすべてのものを良しとされた。祝福されたということは非常に重要なことです。さらに神は最後に人間を創造されました。「御自分にかたどって人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう」と言われました。

人間は神のかたちに造られたのです。紀元前5~4世紀のギリシャ哲学者たちは人間のことをマイクロコスモス(小宇宙)と呼び始めたと言われます。人間は小宇宙。宗教改革者は述べています。「人間においては、神の栄光が輝いている。他のすべての被造物よりもいっそう輝いて、無数の奇跡に満たされている」と。神のかたちであることは、人間が動物と区別されたあるしるしを神から受けたことを意味します。もちろん、人間は他の動物と共通するものを多く持っていますが、ただ一つ、神との特別な関係のゆえに、動物よりはるかに優れているのです。その特別な関係とは何でしょうか。それは、人間は神と交わりを持つために造られているということです。そして人間は地上の生き物を治める権威を神から与えられているのです。

わたしたちに、このような信仰を与えられることは、大変な恵みであります。それは神の呼びかけを聞き、神に応える命を生きることだからです。そしてどのような時も、この命を造られた神が造り主としての責任を果たしてくださると信頼することだからです。このことは、サルは人間の先祖だなどと教えられるのとは決定的な違いを私たちにもたらします。なぜなら、わたしたちが求めているのは、サルとの関係ではないからです。またクジラとわたしたちとどっちが値打ちがあるかなどということではないからです。わたしたちが求めているのは、自分が日々、どうやって生きるか、ということです。

わたしがある教会の信者であった頃、児童養護施設に務めている教会員がいました。その人は何とかして施設に暮らす子供たちに教会学校の楽しさを体験してもらおうと、子供たちを連れて来ました。その子供たちを、教会学校の先生たちも生徒もその親たちも大変歓迎しました。家に連れて行って美味しいものをご馳走したり、贈り物をしたりしていたと思います。しかし、ある子はあまりうれしそうではありませんでした。なぜでしょう。そこには、自分にはいないお父さん、お母さんに囲まれている子共だち、いつも自分の家族を守っている教会の大人がいたからです。それを見て、彼女はいっそう寂しくなっていたのでした。自分にはない家族が一緒にいる。お父さん、お母さんがいる。どうして自分にはいないのだろう。この疑問にだれが答えられるでしょうか。

今、高齢化、少子化が深刻になっているというのに、このような辛い思いをしている子供たちがますます多くなっている社会の現実があります。今、私たちが生きるためには、私たちが人を活かすためには、「神とはどなたであるか」を知らなければなりません。なぜなら、わたしたちの命は神から与えられたものだからです。すべてのものをお創りになった神は、あなたをも、わたしをもお造りになって、良しとされた、祝福された、そうして世に私たちは送り出されたのです。これは、厳しい現実を生きるために教会が持っている、そして真剣に社会に提供しなければならない大切なメッセージです。神が命を与えられたということを知り、このことを信じ、日毎に夜毎に思い起こし心に刻む者は、どのような時にも生きる道を、この命を与えられた方に見い出すでしょう。

今日、選ばれた新約聖書は使徒パウロが、アテネのアレパオパゴスの丘(今も観光名所になっていて、行かれた方もいらっしゃると思います)の多くのアテネ人や在留外国人を前に演説した時のものです。「パウロは、アレオバゴスの真ん中に立って言った。『アテネの皆さん、あらゆる点においてあなたがたが信仰のあつい方であることを、わたしは認めます。』」どんなものでも神として礼拝していれば、信仰だ、と考える人々は多いかもしれません。しかし、真の神を求めている人々にとっては、そうはとても考えられません。パウロはアテネではありとあらゆるものが偶像となり、拝まれているのを見て憤慨していました。現代人はこういう憤慨を、狭量だと思う傾向にあります。何を信じようと信じまいと自分の自由だ、という訳です。それは、言ってみれば、何かを信じてその結果生きようが、死のうが自分の勝手だ、構わないでくれ!と言っているのと同じなのですが。

こういうのが、自由という言葉の難しさであります。「人は生きる権利がある」ということは信仰の有る無しに関係なく万人に受け入れられています。しかし、では「死ぬ権利がある」とか、「滅びる権利がある」「自由がある」とは言えるのでしょうか。とにかく死にかけた人がいたら、みんなでよってたかって助けようとする、それがわたしたちの考えによれば、救いはここにある、ということのしるしであります。ですから神様もわたしたちを世に遣わしておられるのです。それなのに、「真の神を知らないで、訳の分からないものを礼拝しているとは、何と惨めなことか」とパウロは憤慨したのです。しかも、彼は名前のない神の祭壇まで見つけました。

名前に分からない神を礼拝する、ということがどういうことかお分かりでしょうか。それは、たくさんの神々を拝む人々の気持ちです。彼らは、神がおられることは信じている。しかし、どういう神なのかはよく分からない。分からないけれども、ある程度以上の力はもっているとなると、宥めの供え物をして祟られないようにしよう、という気持ちになります。あっちの神にも、こっちに神にもお参りして拝んだけれども、それだけではまだ不安なのです。まだ、知らない神がおられるかもしれない。としたら、その神を拝まないと祟りが起こるかもしれないということになるのでしょう。そこから見えてくるのは、神々を拝んでいても不安は消えない。いつ、どこから思いがけない祟りが来るかしれない。それを避けるためにどの神を頼れば良いのか分からない、ということなのではないでしょうか。多神教の悩みは深いのです。

どこの国、どこの地方にも地元の神々という信仰はありました。しかし、人がもし地元を離れたら、その神の勢力圏を離れることになります。また国同士、地域同士に争いがあった時にはどこに救いを求めたらよいのでしょうか。そして実際には、人々は昔から国同士別々に生きていて、交わりもなく鎖国状態で暮らしていたのではありません。聖書の時代にも、実に多くの人々が地域を移動し、他国の人々が移り住み、自分たちも他国に出かけて行くという商業貿易、交易、交流がありました。まして戦争や、飢饉が起こった時は、土地を追われ、奴隷にされ、また移民政策により、人々が移動を余儀なくされていたのです。21世紀を生きる私たちは、世界的に動乱の時代に入って来ていると感じていますが、そのような現実はむしろ、今も昔も変わりないと考えるべきではないかと思います。

さて今日の聖書を見ますと、使徒パウロは、アテネ人は少なくとも神はいないと思ってはいないのだ、と理解していました。そこで、よく分からないままでも礼拝を捧げているアテネ人の気持ちを、信仰心として受け入れることから話を始めました。23節。「道を歩きながら、あなたがたが拝むいろいろなものを見ていると、『知られざる神に』と刻まれている祭壇さえ見つけたからです。それで、あなたがたが知らずに拝んでいるもの、それをわたしは知らせましょう。」こう言って彼は、唯一の神、天地創造の神を宣べ伝えました。

「世界とその中の万物とを造られた神が、その方です。この神は天地の主ですから、手で造った神殿などにはお住みになりません。また、何か足りないことでもあるかのように、人の手によって仕えてもらう必要もありません。すべての人に命と息と、その他すべてのものを与えてくださるのは、この神だからです。」ここに、わたしたちを活かすただ一つの神信仰があります。それは第一に、わたしたちが拝む神はどんな方であるかをはっきりと理解することです。神は万物の造り主。そして人間を御自分にかたどって造られた。これが教会の信仰です。次に神はどのように拝まれ敬意が払われるべきか、ということです。

この方に礼拝を捧げるために、人々は神殿や礼拝堂を建て、そしてそれを神の家と呼びます。しかし、神がそこにだけ住んでおられると考えることは愚かなことであり、人間の造ったものに神を閉じ込めようとすることになります。それは恐ろしい罪ではないでしょうか。しかし、この時代の人々は、神殿で壮大な儀式を献げ、動物、収穫物、金品を捧げ礼拝しました。ギリシャの神々の神殿では、人々は競技会や踊りや、今でいうイヴェントのような華やかなものを捧げることで満足していたようです。

しかし、真に礼拝については、イエスキリストは次のように話されました。ヨハネ4:24「神は霊である。だから、だから、礼拝する者は、霊と真理とをもって礼拝しなければならない。」このお言葉を言い換えれば、霊と真心をもって礼拝するのでなければ、人の目に見える儀式がどんなに豪華でも盛大でも、神は礼拝としてお認めにならないということになるでしょう。

人間は地上の生活に浸り切って楽しみたいとばかり思うならば、自分の欲望に対応し、満足させてくれるような神をもちたい。その結果、本末転倒というべきことが起こります。すなわち、神がすべてをお創りになったことが無視され、偽りとされる一方、神がお創りになったものが神のように崇められ、追い求められるのです。その悲しむべき、痛ましい結果は、本来祝福であるはずのものが転落して、呪われたものになるという警告を、私たちは受けているのではないでしょうか。

神を正しく認める第一歩は、世界の造られたものの中にではなく上に、神を見ることであり、神と神のお創りになったものをはっきりと区別することに始まります。そして私たちの能力を過信して、自分の限られた力によって神を測るようなことをしないこと、また私たちの感覚によって神を心に描くことをしないことが肝心であります。

神は、わたしたちが礼拝のために集まり、神の民としてキリストの体として目に見える形をとることを喜ばれます。しかし神御自身、神殿に縛られているはずがない方であります。と同時に神を礼拝する私たちに対しても、目に見える特定の場所に縛り付けたり、特定の形に縛り付けたりなさることはお考えにならないのであります。むしろ重要なのは、御自分の民を救うために、御自分のところまで引き上げるために神が何をなさったかを知ることです。神はご自分の民を御自分のところまで引き上げるために、救うために、むしろわたしたちのところにお降りになられてくださった。わたしたちは御子イエス・キリストによって、神がこのようなお方であることを教えられたのです。

今日は、なぜ神さまを知ることが最も大切なのですか、という問いを学びました。その答は、私たちの命は神さまによって与えられたものだからということです。命の源を知ることによって、わたしたちの命がどのようなものであるか、わたしたちに思い及ばなかったほど、尊く大切なものであることを教えられました。祈ります。

 

御在天の主なる父なる神さま

あなたの尊い御名を賛美します。私たちは本日も主の日の礼拝に招かれ、恵みに満ちたあなたの御心を教えられました。私たちは右も左もわきまえず、たださまようばかりの者でありましたが、あなたはキリストの贖いの十字架によって教会を建て、信じる者を救いに結んでくださいました。今日まで教会が受け継いで来た信仰の告白を、御言葉を通して今も後の世にも、私たちに知らせてくださることを感謝します。

今年は宗教改革から500年という時を迎えて、全世界が教会建設の志を新たにしていると思います。どうか激動の時代に生きる世界の教会と共に、日本の諸教会も奮い立って福音を宣べ伝えるために、聖霊の主よ、教会の上に降ってください。東日本連合長老会を通して、私たちは主の交わりによって励まし合い、助け合って行く者となりますように。小さな群れ、力弱い者たちの上に主の慈しみ、主の御力が注がれることを信じます。今、苦しんでいる者を特に顧みてください。また遠くにいて礼拝を守れない方々を慰めてください。この感謝と願い、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

神とはどなたか

聖書:出エジプト記3章11-15節, マタイによる福音書6章25-34節

 成宗教会は、8月の末に夏休み一日教会学校を開きました。今年は、教会は全く初めてという方々がお子さんを連れて参加され、大変にぎやかでした。そして私たちは、その人々に初めてのキリスト教に出会っていただく、という喜ばしい体験をしたのです。ペトロの手紙という名前の文書がありますが、その中にこういう勧めの言葉があります。(ペトロの手紙一、3章15節)「心の中でキリストを主とあがめなさい。あなたがたの抱いている希望について説明を要求する人には、いつでも弁明できるように備えていなさい。」私たちはどうでしょうか。「キリスト教って何?」とか、「どういう宗教?」とか、聞かれた時、私たちはどう答えたら良いのでしょうか。

そこで、私たちは聖書の御言葉によって私たちの信仰について学びたいと思います。私たちの信仰と言ったのは、私たちが個々人で思い思いに信じている信仰ではありません。「わたしの信仰はこうだ」とか、「あの人の信仰はああだ」とか、ユニークな考えを持っていることではありません。私たちの信仰というのは、主イエス・キリストの弟子たち、使徒たちによって教会の伝道が開始された時以来、代々受け継いで来た信仰の内容を意味します。皆さんの中には洗礼準備や信仰告白の準備をするときに、『ハイデルベルク信仰問答』によって教えられたという方々がおられると思います。それは、宗教改革の時代に編纂されたものですが、教会がキリストの体の共同体を建てるために、何を信じて来たか、ということを教えるものなのです。それは、カテキズム(信仰問答)という形式を取ります。すなわち、毎週ひとつの問と答えを学ぶことによって、教会の信仰、私たちの信仰の共通の土台について学んでいくのです。そして、私たちがキリスト教信仰を持つということは、教会の受け継いできた信仰を知り、その同じ信仰を自分も告白し、洗礼を受けて同じ信仰共同体である教会の一員となる、ということに他なりません。

そういうわけで、本日は第一のカテキズム問を取り上げます。それは「わたしたちが生きるために最も大切なことは何ですか」という問いです。もしこの問を教会の外で聞いてみたら、いろいろな答が返って来るでしょう。家族が大切とか、友達とか、仕事とかいう答が返って来るかもしれません。しかし、家族がある人もない人も悩む。友達がある人もない人も悩む。仕事がある人もない人も、悩みは尽きません。今日の聖書、マタイ福音書からキリストの言葉を聞きましょう。

25節。「だから,言っておく。自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと,また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり,体は衣服よりも大切ではないか。」経済的に貧しい人々にとっては衣食住の問題は切実なものです。家族に何とか十分な食事を食べさせるために、着るものを与えるために、必死で働かなければなりません。住まいはもっと深刻で家賃が払えなければ住むこともできないのです。では主イエスは生活のための労苦を、心遣いを一切してはならないと言われたのでしょうか。そんなはずはありません。私たちの多くは、多少の差はあれ、皆不足しているものがあり、不自由なところがあり、それを何とか補おうと、改善しようと、心を用いるのであります。まして家族のためであり、友人のためであるならば、補い合うために気を遣い、心遣いをするのはむしろ喜ばしいことではないでしょうか。

しかし、ではゆとりのある人々は思い悩むことがないのか、といえば、決してそうではないでしょう。それが問題なのです。衣食住に限らず、自分が手に入れたいものがある。それをどうやって自分の思いどおりにするか、求め出したらその願望、欲望はとどまるところがないのです。そこに多くの心配が生れます。思い煩いが生れます。そして、自分のことだけしか考えなくても済む立場の人は、実際にはほとんどいないので、大部分の人々に心配事は尽きません。

自分が手に入れたいもの、というと自分勝手なように聞こえますが、そうでないことも沢山あります。安全や安心な社会を守る務めの人もそうです。健康や衛生を守る務めの人もそうです。出来る限りのことを自分の力でしよう、と努力します。しかし、自分の力しか頼ることができないなら。どんなに自信のある人々でも、どんなに万全を期す能力のある人でも、最後は思い煩いに押しつぶされてしまわないでしょうか。

私たちが生きるために一番大切なものが、家族だとしたら、友人だとしたら、あるいは仕事だとしたら、私たちは一番大切なものを守るために、思い悩み、思い煩いに押しつぶされてしまうのではないでしょうか。まして、世の多くの人々の本音が、実は生きるために一番必要なものはお金であるというなら、それを守るためには家族も友人も何もかも敵に見えるほどの思い煩いに取りつかれることでしょう。

どうやら、生きるために一番必要なものと思っている人々も仕事もお金も、一番必要なものではない。これさえあれば幸せに生きられるというものではないことが分かります。イエス様は「命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切」と仰いました。そしてこの命はどこから来たのか。この体はだれが与えられたのか、と問われるのです。私たちははっきりと答えられるでしょうか。この命は神が造られたもの。この体は神が与えてくださったものと。これが教会の信仰です。

主は言われました。「空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、借り入れもせず,倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか。」主は天の父と仰って、神を私たちに紹介して下さいました。神とはどなたか?神は私たちを造られた方。空も鳥もすべてのものをお造りになった方です。そしてキリストを世に遣わして、神の言葉によって、私たちに御自身をお示しになりました。神は鳥も花も小さな生き物も、ご自分のお造りになったすべてを養ってくださる、と主は言われます。神は造られたものを愛し、慈しんでくださる。ご自分の造られたものが生きるために何を必要としているか神は御存じなのだ、と主は教えてくださいました。

一方、異邦人は何を食べようか、何を飲もうか、何を着ようか、と求めて思い煩うと主は言われます。なぜなら異邦人は、造り主である神を知らないからです。彼らは神がどんな方であるか知らないのです。全然神はいないと思ってはいないとしても、造り主が造られたものを愛し、慈しんでくださるとは夢にも思わない。造りっ放しで放置して、「後は自己責任。自分で何とかしなさい」ということだと思うか、あるいは「神は天で昼寝をしているのだ」と思う。さあ、そういう考えでは、いても立ってもいられないでしょう。

それでは、もう一度、最初の問いに戻りましょう。それは、「わたしたちが生きるために最も大切なことは何ですか」という問いです。教会の信仰は、神は天地を造られて、すべてを愛し、養い導いておられる方であると信じます。この信仰を受け入れる時、私たちは初めて極端な思い煩いに走ることから解放されるのではないでしょうか。この私たちを愛してくださる神は、私たちに必要なものをご存知です。また人間を愛しておられるけれども鳥や花はどうでもよいと放置される方でもないのです。今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草も、ユーカリのように何百年の樹齢を保つ植物も、その命を美しく装ってくださいます。

このことを教えてくださり、すべての思い煩いから自由にしてくださるためにキリストを地上に遣わしてくださった神は、私たちに良くしてくださらないはずがありましょうか。生きるために一番大切なことは何でしょうか。それは神を知ることであります。神とはどなたであるかを知ることであります。神の愛を知ることであります。この方を知って、この方を信頼するかどうか、ここに私たちの生きるか死ぬかがかかっているのです。

私たちは日々多くの心配事に襲われると言っても過言ではありません。私たちはこの体をもって生きているのですから、日々物理的な必要を満たして生きていきます。体に限界があり、若い時は日々成長するように、年を取れば日々衰えることは免れません。しかし、その限界の中で神はわたしたちを活かすことを良しとされました。私が母から教えられた植物があります。ミセバヤという名前の植物ですが、新芽の時から美しく、花も美しく、紅葉も美しく、枯れても美しい。私たちは、多くの試練に遭ってどうしたらよいか途方に暮れることがあっても、キリストによって天の父を知り、この方に信頼する人生を生きましょう。日々選び取って生きましょう。

「だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな」という主の御言葉は、だから何もしなくてよいということではありません。怠惰に安閑としていても養っていただけるということでは決してないのです。今日読んでいただいた旧約聖書出エジプト記は、モーセが神の命令に従ってに帰って行くときに、主から与えられた言葉です。モーセは神の与えられた使命を行う自信が全くありません。彼は思い煩いで押しつぶされそうになって、できることなら、この使命から逃れたいと思うのでした。しかし、神はモーセに言われました。「わたしは必ずあなたと共にいる。このことこそ、わたしがあなたを遣わすしるしである。あなたが民をエジプトから導き出したとき、あなたたちはこの山で神に仕える。」

神はわたしたちに生きる使命をお与えになって、そのまま放置なさる方ではありません。必ずあなたと共にいる、と励まされるのです。だから大船に乗ったつもりで何もしないでいればよいというのではありません。私たちは与えられた知恵と力を用いて常に最善のことを語り、行う事を目指すべきであります。何よりもまず、私たちはこの神を知ることを求めましょう。マタイ6章33節。「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。」

神の国と神の義、それは「神はどなたであるか?」という問いと切り離して考えることができません。それは、神はわたしたちを造られた方、慈しみ深く守られる方であると信じることから始まります。私たちの必要を満たしてくださる神を仰ぎ求め、他のものに目をそらさない者はだれでも、衣食住についての心遣いは適度にしか持たないでも済むことでしょう。しかし、その反対に必要なすべてを満たしてくださる方に目を注がないで、あれこれと思い煩い、他に助けを求めて駈けずり回るような生き方は偶像礼拝に他なりません。たとえひとたび神の国に招かれた者でも、そのような状態に陥ったならば、その惨めさは測りしれないでしょう。しかし、申命記の御言葉をお聞きください。4:29「しかしあなたたちは、その所からあなたの神、主を尋ね求めなければならない。心を尽くし、魂を尽くして求めるならば、あなたは神に出会うであろう。」287下。

成宗教会に永くとどまって、神に従う者として証しをしてくださる方々がおられることは、何よりも力強い励ましであり、教会の誇りであることを思います。その方々は神の国と神の義を求めることを知っておられ、「神とはどなたか」を知ることが何よりも大切であることを証ししておられるからです。先週、私は100歳になられるF姉をお訪ねし、聖餐式を守りました。礼拝に出席することができなくなっておられるF姉は聖餐を受けられることを何よりも喜び、待ち望んでおられ、「罪深い者だから聖餐を受けなければなりません」と言われました。社会的に見れば、また信仰者としても本当に立派な方ですが、この方がこのように仰った時、私は、この方が何より望んでおられることはキリストの罪の赦しと永遠の命に結ばれることなのだと知らされたのでした。教会の信仰は、生きるために一番大切なことは、神を知ることであると告白します。祈ります。

 

恵み深き天の父よ、

本日もまた私たちに礼拝を与えてくださり、罪の赦しの御言葉を聴くことができました。深く感謝いたします。

私たちは礼拝のみ言葉をとおして、この二千年の教会の歴史に受け継がれた信仰を学ぶことを始めたいと思います。どうか、力弱い私たちを励ましてみ言葉を豊かに聴くことができますようにしてください。そして主の体に教会に連なり、この教会を建てて行くことができますよう、御心を示し、道を開いてください。

東日本連合長老会に加盟して、歩み始めてから、多くの学び、教えを受けましたことを感謝します。全国連合長老会、また改革長老教会協議会の活動を通して、教会を形成するために小さな教会をも共に歩ませていただくことを感謝します。人口減少社会に転じようとする今、地方の教会の抱える困難は、私たちの困難をはるかに超えるものではないかと心配します。どうぞ、同じ信仰に立つすべての教会、教派を用いてくださる主が、この社会を憐れみ、慈しんで福音を伝え続けることができますよう、道を開いてください。

あなたを知り、あなたの御心を尋ね求める者に、主の憐れみは尽きないことを信じます。どうか、この群れに、従う心を与え、すべての思い煩いを超えて、与えられた使命を果たすために、私たちすべての弱い者、貧しい者、主に頼る者を活かし用いてください。

教会学校、音楽会の行事を祝していただき感謝です。10月にはバザーの行事を予定しております。東日本の教会修養会、婦人会の委員会なども予定されています。ピアノ・オルガン教室も守り導かれて感謝です。どうぞ、私たちを励まして健康を支えて下さり、主の恵みをたたえる活動として私たちが奉仕することができるよう、お導きください。

礼拝に参加できないでいる方々も主に結ばれて、あなたの恵み深さを証しする生活ができますよう。疲れている方々、悩みにある方々、病気治療中の方々を顧みてください。カンボジアから帰国された今村宣教師ご夫妻に、主の備えられた休みが与えられますように。また、仕事で旅をする方々を顧みてください。

この感謝、願い、我らの尊き主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。